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今年の京都は7月から猛暑でした。京都の夏の夜のイベントとの中でもやはり終わってしまいましたが「祇園祭り」と8月15日の「五山の送り火」になりますね。 この時期に私が見たくなる作品に「壮烈新選組 幕末の動乱」があります。コンチキチンコンチキチンの音が聞こえる最中、池田屋の二階に集まっているところへ新撰組近藤勇が乗り込み、壮絶な斬り合いとなる。近藤が話には聞いていた但馬織之助にここで初めて会います。近藤に斬られ逃げる時、織之助ということが分かった時の近藤の一瞬見せる表情が印象に残ります。画像は、そのシーンとは全く関係ないのですが、祇園祭と送り火大文字と織之助を合わせて見ました。 また*大好き大川橋蔵ファン広場*掲示板には、私の好きな「下鴨神社の糺の森の光の祭」の舞殿に「おしどり囃子」の菊次が舞っていて、阿倍保名も舞い降りているかも・・・という連想を画像にしてみました。まだご覧になっていない方は覗いてみてください。〈1669〉暑い8月、イベント、映画もあついものが です。下記をクリックしてください。 葵新吾"大好き大川橋蔵ファン広場"掲示板橋蔵さまと夕やみの京都らしいイベントで一瞬の涼を得られると嬉しいです。
2018年08月12日
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次の作品「花笠若衆」に行く前に、佐伯監督が、コンビをきびしい目で鋭くとらえ、これからに期待をもって論じていましたので読んでみてください。ファンの中には、読んでいってそんなことないわよ、と憤慨される方もいらっしゃるかもしれませんが・・・これは監督さんが当時のお二人を演技から見てのアドバイスです。佐伯清監督が「花笠若衆」を取るにあたって、どのようにひばりさんと橋蔵さまを撮っていこうか、どんな面を伸ばしていこうか・・等をくみ取っていただければと思います。(いつものように、私なりのニュアンスと見解、要約で書いていきますので、そのところご了承ください)佐伯監督が、初めてひばりさんと橋蔵さまと一緒に仕事をしたのは「大江戸喧嘩纒」のときでした。初の仕事がコンビ作品であったことは、「花笠若衆」を撮るうえに大いに幸いしたということです。佐伯監督はひばりさんとは時代劇も現代劇もと随分取っていらっしゃいますが、橋蔵さまとは、残念ながら少なく2本だけのように思います。ひばりさんや橋蔵さまの個々の役者としての魅力や癖や人となりに接すると同時に、1+1=2の魅力ともいえるひばりさんと橋蔵さまのコンビの、息の合った演技への呼吸のしどころ、かみ合いのやりとりにも、新鮮な感覚で接することができたようです。ひばりさんは理屈から割り出すというより、感覚的なもので近づいて処理する方の女優さんで、その器用さだけで勝負することは長い将来を考えると大変に危険なものを感じる。ひばりさん自身もっとも深く反省しているところで、次なる段階に飛躍しようと悩んでいる時だと言っています。(省略) そして、「最近ひばりちゃんを見ていて、つくづく感じたことは、必ずしも美貌の女優ではないはずなのに、時々とても綺麗に見える時があり、見惚れることです。瞬間的なもので、口には表せないが、中でも黙って何かを考え込んでいる時の顔は、印象的なほど美しい顔をしているのです」 今度の「花笠若衆」の中でも、この新発見のひばりさんの魅力を十分に生かそうと考えたようです。 橋蔵さんの方は、大変な美男子だと思うし、表情も大変上手な人です。しかし、時代劇俳優に共通した鈍重さがないということは、また、逆に、短所になる事が往々にしてあり、もう少しこのところの勉強を期待したいと前々から思っているのです。橋蔵さんとの仕事は少ないが、作品はスクリーンで見ているし、監督の縁りあいの雑談で、何かと話題にのぼってくるので、よく研究しているつもりです。彼は、この頃だいぶ芝居が落ち着いてきて、頼もしい俳優になってきました。彼はよく考える人だから、自分の欠点を十分に感じて知っているでしょう。家に帰っても必ず台本を読んで、それも声に出して読みながらリハーサルをすると聞きますが、そうした彼なりの懸命な努力と、不断の反省が、着々と俳優としての実をみのらせているのだろうと、裏ながら、その目に見える成長を楽しみにしている俳優の一人です。そこで、彼が、もう少し伸びて、小さくかたまらないように、大らかな芝居をのぞみたいのです」佐伯監督が橋蔵さまと接した経験から見ると、大変細かく動き過ぎる印象があったようです。今度「花笠若衆」で一緒に仕事をしてみて、だいぶそれが直りつつあるのを感じたそうです。監督は「その調子、その調子」と心の中で橋蔵さまに励ましの言葉をなげながら、毎日楽しみに監督の椅子から眺めていたそうです。橋蔵さまの人知れずの努力が目に見えて現われているのが嬉しく、橋蔵さまのような俳優さんにはおくせず、どしどし欠点を指摘して、もっともっと立派になってもらおうと、高い理想の上に立って、厳しい忠告をあえてするのだといっています。それも、「橋蔵さんの普段の性格の暗さとは反対のものを、どこまで押えて行けるかで、その成長が決められるのではないかと考えます。つまり、性格の暗さが、芝居の重さになるようにと思うのです」橋蔵さまも映画の仕事にようやくなれたころ、今までに築いた人気の上に立って、不足の面を伸ばしていってほしいと期待しています。そして、ひばりさんにも共通することですが、二人とも何となく色気が出て来たので、これは大切にしていきたいと言っておられます。「現代劇にアピールするような個性・・橋蔵さんには感覚がスピーディであるということ、ひばりちゃんには現代の大衆にアピールする民衆性を持っているということは、各々にとって、まだまだ俳優として伸びる余地がある事を物語り、役柄の発展を保証しているものともいえるでしょう。二人とも揃って呑みこみが大変早いということもこのコンビの特徴と言えるでしょう。しかし、監督にとっては大変やり易い俳優さんには違いないのですが、ともすると、それが、重さに欠けて、感覚のみの軽い芝居になりかねない欠点を持ってしまい、観客の心に食い込んで行く迫力のようなものが足らない、何か物足りない不満足感を味わわせる難があるとも言えます。これは、二人のこれからの課題でしょう」ひばりさんの男役は、太い声がそのまま十分に生かされ、そう無理もなく扮することができると言えます。お姫様役はひばりさんの持ち役とされてはいますが、庶民すぎるひばりさんだけに、男役の方が、ひばりさんだけにしかない面白い魅力がだせるようです。「花笠若衆」でも、その点を十分に考えてお姫様になった時マイナスにならないようにと神経をかたむけたようです。たいていの俳優さんは「本番ですよ」とカメラがまわり始めると急に意識して萎縮した芝居になるものですが、ひばりさんはカメラがまわりだしても無心な芝居をどこまでも続けているのには感心しているとのことです。橋蔵さんは、長い間歌舞伎の世界でたたかれ、古典的芝居の教養を受けてきた人ですから、そういうものを生かした芝居が、橋蔵さんの見せどころではないか。そうした意味では、「花笠若衆」での殿様役は、十分に橋蔵さまの魅力が見られることと思います。橋蔵さまが一番美しいのは、”その笑顔”だと佐伯監督は言っています。それも十分に生かされるように作品の中に生かして行こうとつとめているそうです。恋を譲って悲しさを味わう場面では、ひばりさんの美しさは”思案気な沈黙の顔”にあるのでひばりさんの一番美しい顔をカメラにおさめたいと考えているようです。 「ひばりちゃんも橋蔵さんも個性の強い俳優だから各々の性格、持ち味にあったものはいいけれど、次回にはそろそろ冒険をいどんだほうがいいのではないか、と思います」 ひばりさんには、ママがいていつも影になり表になって、よき代弁者になっているし、理解と愛情といたわりの心で見守ってくれているからいいのですが、橋蔵さんには、そうしたい意味のアドバイザーがいないことが、やりきれないほどの心細さでしょう。(この時には、マキノ光雄さんは亡くなられてしまっていたし、福島通人さんはひばりさんの問題もあり新芸プロを辞めてしまった時ですから、橋蔵さまは本当に一人ぼっちという感じでしたでしょう)現今の若い人のように割り切った戦後派にはなれず、大胆にもなりきれず、今大変騒がれている日活の俳優の石原裕次郎に見受けられるような人柄には、とうてい似ても似つかぬひばりさんと橋蔵さまです。裕次郎の魅力である、押しの一手というものの迫力は、凡そ二人には持ち合わせぬものですし、知らないことでも知っているような顔をするある種の逞しさも、凡そ二人には縁遠い。「知らんことは知らん」というよりほかにないといったタイプの二人なのです。しかし、ひばりちゃんや橋蔵さんが扮する芝居は古くさいヤクザもので、裕次郎のはモダンなヤクザもので、やはり義理人情にひっかけて描いたものです。いうなれば共通したテーマであり、ただ表現が違うだけではないか。しかも、両方ともに、内容はどんなに無残であろうとも大変明るく描いているということも共通点です。やはり、人気の源泉は、時代劇、現代劇を問わず同じものだとつくづく考えたものです。そうした勘所をはっきりと身に持ちこなしているひばりちゃんと橋蔵さんが、その人気の上に立って、益々検討されることを監督の一人としてのぞみます。」と締めくくっています。次回は「花笠若衆」を掲載していきます。
2018年07月27日
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4月9日、産湯をつかう橋蔵さまに、桜の花びらが絶え間なくふりかかったという・・・生誕日。去年は、橋蔵さまからファンの皆様とシャンペンで乾杯しました。今年は、どのようにしましょうか・・と橋蔵さまと一生懸命考えていましたら、橋蔵さまが手作りのケーキで、私たちを招いてくださるということになりました。「嬉しいですね!!」橋蔵さまが、これまでファンでいる私達を迎えてくださっています・・・「ありがとうございます、橋蔵さま」出来上がりました。橋蔵さまの手作りケーキ一緒にいただきましょう。 私は、春らしくスイートピー・・・優美、そして優しい思い出の花言葉の花束を送ります。 葵新吾*大川橋蔵大好きファン広場*掲示板の方でも簡単な画像を載せています。➡ 橋蔵さま、生誕89周年
2018年04月09日
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「緋ざくら大名」に入って行く前に、前回書きました「任侠東海道」と「花吹雪鉄火纒」を掛け持ちで撮影をやっていた1957年12月頃の、二つの映画雑誌に同じようなことが書かれていましたので、一部抜粋、引用しながら、私なりの解釈と表現と私心をまじえての文章でまとめ掲載いたします。(その点ご了承くださいませ) ファンというものは賢明であり、人気俳優の本質も鋭く察知するし、芸についても鋭い見方を怠らないものです。こういうファンが激増していた頃、橋蔵さまは、この流れにうまく溶け込んでいたと言えるでしょう。 Aさんはこう語っています。 「橋蔵は時代劇人気スターに成り得べくして生まれて来た人であるからであろう。最大の賛辞と言えばそれまでであるが、冷静に橋蔵の魅力を分析するならば、最大の賛辞でも何でもない」 甘さがある これは、衆目の事実で、見得などを切るシーンになると、十分なものがありま す。目と声に、女形のよ うな甘いお色気が溢れ、たまらない魅力を形作るの です。所作が品よく美しい やはり歌舞伎出身の雰囲気があるからです。時代劇の所作は約束事が多いのです が、橋蔵さまの所作はピタリとあっています。感がよく、その演技は映画的演技に終始している 橋蔵さまの演技は、デビュー以来、映画演技のリズムとハーモニーをよく知って います。これは天賦の才でしょう。苦渋の影が見当たらず、いつも綺麗な印象を 与えてソツがないのです。殺陣が上手く美しい 時代劇の魅力の大きな位置をしめるものは殺陣。殺陣というものは、本来リアル なものではなく、どちらかと言えば時代劇の夢であり約束事でしょう。時代劇の夢に溢れた東映京都撮影所はこの殺陣を非常に大事にしました。他社では見られない充実ぶりです。 橋蔵さまの殺陣は・・決まるところでチャンと決まり、次にスムーズに入っていきます。リズミカルな殺陣というべきでしょう。これらはすべて天賦の才であるのです。しかしそれに満足している橋蔵さまではありません。 その殺陣ですが、1957年後期頃から、橋蔵さまが「最近立回りがとっても上達した」という声が聞こえてきました。 若さま侍で見せる逆一文字崩しの殺陣などは鮮やかにきわだつものがありますね。橋蔵さまは「女形出身だから、線の細さが心配です」と言っていたのですが、この頃には、その線の弱さが消え、豪快さの内に、美しい流れの入った橋蔵さま独自の立回りを身につけてきました。 それは、自然に時の流れが上手くさせたのではないのです。 「ぼくは立回りが大好き」と言っているように、暇さえあれば”剣会”の人達を相手に、練習をやっていた熱心さにありました。(立回りのある時は早くスタジオ入りして鏡の前で素振りをしていたということをある俳優さんが言っていたことがあります)橋蔵さまは、何事によらず熱心でした。 馬に乗る役があれば、早朝からスタジオ裏の馬場へ通って、猛練習をして、たちまちマスターしてしまいました。(1959年以降の作品での馬上姿は素晴らしいものですね) 役どころも、橋蔵さまには悪に強くて、情にもろい、粋で鯔背な江戸っ子をやらせれば、洒落た江戸っ子橋蔵の本質に相通ずるものがあります。 (時代劇スターで橋蔵さまのように歯切れよく流麗に江戸弁を使えるスター役者はいません) 「大川橋蔵には色気がある」と橋蔵さまはデビュー当時からいわれていました。若いスターには色気がなければ伸びていかない、と映画界の先輩達が口を揃えて言うことだそうです。 では、橋蔵さまの色気とはどんなものなのでしょう。 原健策さんが橋蔵さまのお色気についてこのように言っています。「橋蔵君のお色気は、彼が女形をやっていたから身についているのだろう、という 人がいますが、そうではないと思う。 何故なら、女形出身の人は他にもいるが、その人達がみんな、あのようなお色気 を持っているだろうか。持っていません。 だから橋蔵君のお色気は、彼独特のものなのです。 女性的なものではなく、明るさと若さをミックスした一種の雰囲気でしょう。 品の良さも巧まずして身に備わった利点です。演技の面にも、しっかりした 基礎をもっています。やはり六代目の薫陶よろしきを得たものでしょう」と。 デビュー作の「笛吹若武者」当時は、まだ映画界入りする決心もつかず、新スターとしては未知数のものでしたが、舞台と決別し映画一本で生きる決心をした「若さま侍捕物帖」では、新スター大川橋蔵としての片鱗を見せてきました。主演ものにどんどん出演したこともあるでしょうが、人気の裏づけは、「新人らしからぬ堅実な演技」と「独特なムード」であったと思う、とBさんは言っています。橋蔵さまには、映画界では新人といっても、舞台生活二十一年、厳しい指導の下に培われた演技の基礎がありました。六代目の遺訓「役者らしくなるな、役者になれ」・・これは、橋蔵さまの演技に対する信念です。 「任侠清水港」での、橋蔵さまの追分の三五郎と錦之助さんの森の石松のオールスター作品で初顔合わせで火花を散らす熱演でしたね。「水戸黄門」の橋蔵さまの格さんは好評でしたね。町人姿の格さんの演技・・町人らしい身のこなしにも侍としての信念を持っていなければなりませし、立回りでは完全な格之進になるわけです。細かい部分に橋蔵さまの計算された演技がみられました。「はやぶさ奉行」では、千恵蔵御大の金さんを相手に、小気味のよい活躍をした怪盗みずみの好演技はスタッフを感激させたといいます。 俳優としての価値は、「役になりきるかどうか」で、「何をさせても、同じような演技」では、俳優の価値はありません。橋蔵さまの演技は、作品によって、役によって、的確に表現され、橋蔵さま本来の魅力をいかんなく発揮してきていました。 そして、橋蔵さまは、これからの希望として、当時こんな風に言っていました。 「軽いコメディをやりたいですね。ぼくは多分に三枚目的な要素があると自負して いるんですよ。しかし三枚目というのは、ぼくらが考えている以上に難しいと思 います。ドタバタでない、風刺のきいた喜劇好きでねぇ。だけどまだまだ演技が 未熟ですから、もっと自分の演技に自信が持てるようになったら、ぜひやってみ たいですねぇ。それにもう一つ、世話物もやってみたい。だけど、これも難しい からなぁ。いまや何でもかんでもやってみたいって、凄く欲張りの心境なんです よ。自分がやったことがない分野で、いろいろと経験することが、将来へのよい 試練になると思います。やってみて初めてわかるんですよ。あそこが悪い、 ここが悪い・・で、冷汗をかいてばかり。とにかく、勉強勉強ですよ」 橋蔵さまの性格の茶目っ気がある所を活用して、時代劇として久しく途絶えている本格的ユーモア時代劇を目指してもよいし、まだまだ努力次第では役柄は大きくなっていく。今までの役柄は天賦の才であった。これからの役柄が努力の所産でしょう。「橋蔵の演技系統は、明朗で苦渋の影が少しも見当たらない。ファンならずとも今後もこのような明るいものに精進してもらいたい。橋蔵ものの確立を目指してもらいたい」とAさんは書いています。 デビューした当時ちょっと神経質そうな美青年だと思われた橋蔵さまも、一作毎に精神的にも大きくなり、この頃には、ふくよかになっています。橋蔵さまも映画に出演することが楽しい時期に入った頃でしたでしょう。それは、橋蔵さまのあの素敵な人懐こいスマイルが語っていたと思います。次回は「緋ざくら大名」に まいります。 葵新吾*大好き大川橋蔵ファン広場*掲示板の方には、「二本掛持ちの橋蔵さまにインタビュー」を掲載しましたので、よろしかったら読んでみてください。 刺青を書いてもらっている時の画像つけました。二本掛持ちの橋蔵さまにインタビュー
2018年03月29日
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夜空を焦がす炎と橋蔵さまの鉄火纒 花のお江戸にぱっと咲いた直参纒の心意気を描いた作品「花吹雪鉄火纒」の、あの場面の撮影はどのように・・と気になるところがありました。一番気になるところはやはり、クライマックスシーンである大々的な火事場シーンでしょう。普通はオープンセットでやるのですが、わざわざロケーションに変えたのだそうです。油を一手に買い占めて値上がりによって儲けようと、山崎屋が自分の油倉庫にも火をつけるというところです。映画で見ているのには迫力がありカッコいい火事場ですが、あれだけの火事の場面を撮るには、大変な努力がありました。あの場面の取材から、私なりに要約編集して書いていきますね。作品を見ていて、火事場の場面の見方、思いが今までと違うようになるかもしれません。ロケの現場は、保津川の下流である桂川にかかった大きな橋のところの川原でした。だだっ広い河原に約二百坪位の倉庫のセットが建っています。河野監督やスタッフは勢揃いしてこれから撮る火事のシーンに備え慎重に準備を進めています。他のシーンと違い、火をつければ撮り直しはききません。それだけにぶっつけ本番なのですから、スタッフも俳優さん達も慎重を期すのです。(やり直しの聞かないシーン、監督と綿密な打合せ風景と、に組の若い衆がスタンバイしているところ) 河野監督は、「火事と喧嘩は江戸の華ですから、ましてや、鉄火纒と銘打ったからには、ちゃちな火事場はとれません。何分見せ場ですから、本格的な火事をお見せします」と意気込みを語っておりました。まわりを見回すと、ここが川原とは思えないような建物と装置です。火をつける前に敷地二百坪に造った倉庫について装置部の方に聞きました。毎日30人が7日間かかって建てたもので、カラー映画なので廃材は使用できないため材料は全部新品、材料費だけで約150万円かかっているということでした。そして、現場は電気の配線がなく、嵯峨変電所から川を越えて線をもってきたため、河原に建てた電柱一本に10万円もかかったということです。そこへもって、夜の火事ですから、照明が必要です。20K3台、10K38台、5K9台、2K15台、変圧器100K3台、大小のライトがずらりとあります。これだけ経費をかけてのものが、一瞬でなくなってしまうのです。作品にかける監督さん達の意気込みはすごいものです。それでは、撮影現場を除くことにいたしましょうか。(作品で見ている方々は、火事場、そして橋蔵さまはじめ出演者達の動きや景色は頭にありますでしょうから、そこから逆にあそこはこういう風にとっていたのか、現場ではこんな状態だったのかと思いめぐらしながら、読んでいってくださると嬉しいです)いくら広い川原といっても風の向きでは飛び火するとも限りませんから、消防車が3台、地元の消防団も総出で、万全の備えをして待っています。川原は文字通り吹きっさらしですから、冷たい風に顔や体が凍るようです。11月半ば、底冷えがする京都はすっかり冬の気配、ましてや太秦、風が身に沁みます。火事場に群がる野次馬になる人達が寒さに耐えかね「早く火をつけてほしい」と催促?したいような寒さだったということです。日が落ちるのをまって撮影開始となる予定です。午後6時半、完全に日が沈んで暗くなりました。その時「今夜はとっても冷えますねぇ」と威勢よく飛び込んで来た火消し装束の鯔背な若い衆・・よく見れば橋蔵さまです。橋蔵さまは「松田組と掛け持ちでしてネ。(この時橋蔵さまは「任侠東海道」の撮影との掛け持ちでした) ぼくは子供の時から火事は大好きでしてネ、サイレンを聞くとすぐ飛び出しちゃって、よく叱られたもんですよ。今でも大好きですよ。だから今夜は大張切というところです」と、江戸っ子らしい元気のよいところを見せていたそうです。に組の頭政五郎、纒持ち清三、喜助の顔ぶれも揃い、いよいよ撮影開始になります。「装置さんいいですか、照明さんいいですか、NGききませんからたのんまっせ」と、助監督さんが必死の形相で準備OKを確かめます。そのあと、河野監督が出てきて、もう一度橋蔵さま達と細かい打ち合わせをして、「じゃ、いいですネ、火をつけてください。はいっ」河野監督の合図で石油を倉庫にかけ火を点けました。ざわめいていた現場は、一瞬シーンと静まり返ります。一同かたずをのみ見守っていると、倉庫の一角から赤い火がボーっと立つと黒々とした倉庫が浮かび上がりました。・・・「スタート」・・ワーッという怒声が入り混じり、もの凄い火事場の幕が切って落とされました。燃え上がる倉庫、ワイワイ騒ぐ中、に組が纒を先頭に駆けつけてきます。ここまでで、倉庫は三分の一は燃え、不気味な音をたてながら炎を天高く上げています。 映画の画像からは 油倉庫ですから、普通の燃え方ではいけません。リアルにするために石油缶10缶用意し、どんどんかけていくのですから火の勢いは本物の火事以上です。「はい、カット」という訳にはいかないのですから、スピーディーに撮影が進められていきます。折からの東風に乗って勢いよく燃えて行きます。間髪を入れず出演者に指示を与え撮影を勧めて行きます。この時、現場付近も大変なことに・・・思いがけない騒ぎと、夜空を焦がす火事を本物の火事と思って駆けつけた人達で、いつの間にやら黒山の人だかりです。 撮影と分かったため、今度はスターの顔を見ようとひしめき合い、交通整理のために来ていたお巡りさんも、これには悲鳴をあげる状態でした。に組が勢いのある火口が取れず戸惑っています。長次がその時、用水桶に近寄ると、水をかぶって倉庫に入っていくところになります。 映画の画像からは 橋蔵さまが一杯二杯と続けざまに用水桶の水をかぶります。それを見ていた記者さん達は「寒いだろうなぁ」と嘆声をもらしました。オーバーの襟を立てても身震いしている今夜の寒さですから、頭から冷たい水をかぶる橋蔵さまには同情しました。橋蔵さまは、後日その時の事を「やったのは夜で、川原に立っているのさえ寒いくらいなのに、頭から全身水をかけられて見なさい・・震えが止まらなくて弱っちゃったよ。あの時だけは、本当に火事ん中へ飛び込みたいような心境だった」と言っていました。橋蔵さま(長次)は全身濡れねずみになるや火の粉が舞う中へ飛び込んでいきました。「危ないなぁ、大丈夫かな」見ている人達一同がそう思いました。 相手が火事ですから、何時どんな異変が起きるやもしれませんから。計算通り燃えてくれればよいのですが風の向きでどうなるかわかりません。次に、徳大寺さんの清三が纒を肩にして火口を撮るために梯子をかけ上がりますが、凄い炎に押されて梯子から転げ落ちるところが終わると「はい、カット、火を消してください」河野監督が待機していた消防署と消防団に声をかけました。相当はなれていてもジリジリとやかれるようですから、その中で活躍している俳優さんは大変なものだったでしょう。徳大寺さんが、「凄いですよ、焼き殺されるところでしたよ」と。橋蔵さまも「凄い熱さだよねぇ、すっかり乾いちゃったよ」と、刺子の袖を引っ張ってびっくりしていました。「やっぱり、元をかけただけあって立派な火事だなぁ」と満足しているのは河野監督です。この後がひと仕事、と河野監督が言いいました。「橋蔵くんに屋根に上がってもらうんですよ。何分、燃えさかる火の中で、纒を振るところなんですがね、この調子だと、危険率は高いし、といって吹替えは出来ませんのでね」台本片手に深刻な面持ちでいますと、「大丈夫ですよ、心配ありません。まぁ、まかしといてください」と、当の橋蔵さまは胸を叩いて大見得を切っていました。準備に手間取っている間に時間は午前二時になってしまいましたが、熱心な見物人は寒い中頑張っています。 「じゃ、やります」と声がかかり、倉庫に再び火の手が上がります。シーンとしている真夜中を破るように、ゴオーという音と共に炎が屋根をなめるようにはい回ります。 いよいよ、橋蔵さまの纒を振る見せ場のシーンを撮るのですが、最初は、万一を考慮して、人形を立てて撮影することになりました。夜空を焦がすようにして舞う火の粉の中に、人形と纏がくっきりと浮かびあがりました。先ほどから強くなり始めた風が次第に勢いを増して、炎が荒れ狂い効果満点です。ところが「ゴオーッ」という異様な音と共に人形の足元から火柱が吹き出し、あっという間に火に包まれてしまったのです。ものの1分もなかったでしょう。哀れや、身代わりの人形は一握りの灰に化してしまっていました。 「・・危ないとこだったなぁ」・・地上で見ていた橋蔵さまは、思わず首をすくめました。河野監督も「人形でよかった」と思わず溜息をつきました。(テストをせずに、本番になっていたらどうなっていたのでしょう・・・考えたくはありません・・・でも、テストをしてよかった一大悲劇が起こらなくて・・)撮影は朝の6時頃までかかったようでした。無事に終わって本当によかったですね。(橋蔵さまは体がしなやかですから纒振り本当に素晴らしいです) 橋蔵さまは振った纒について、「装置部で作ったものですが、本物そっくりに作ってあるので結構重い。足場のしっかりしたところでなら難なく触れるのですが、屋根へ上がると足場が悪いから苦労します。この間の倉庫の火事では、芝居どころか必死でした」と後日言っていました。
2018年03月11日
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大川橋蔵という歌舞伎役者を映画界に導く段取りが着々と進められていました。東映のマキノ光雄専務と新芸術プロの福島通人さんが、美空ひばりさんの相手役に歌舞伎畑の若手俳優を探し始めたのは「ひよどり草紙」の企画が立てられた時からだったようです。橋蔵さまの映画デビューは1955年12月でしたが、これは3、4年間に及ぶ映画界入りへの説得がやっと実ったからでした。当時、映画界は新人スターを血眼になってさがしていました。しかし、時代劇は約束ごとが多いため、直ぐに起用できる歌舞伎界やそのほかの舞台から引き抜こうと探していました。そこへ、若手歌舞伎スターのホープで六代目尾上菊五郎丈の養子大川橋蔵さまに目がとまり、早速映画界入りの話が持ち上がったのです。東映のマキノ光雄専務と新芸術プロの福島通人さんが、美空ひばりさんの相手役に歌舞伎畑の若手俳優を探し始め「ひよどり草紙」の企画が立てられた時からのようです。菊五郎劇団の若手として活躍していた橋蔵さまに白羽の矢をたてました。誠実さと美貌と才気で、六代目から由緒ある大川橋蔵の名を与えられた人。それだけに、苦労に耐え努力のひとであり、歌舞伎界でも評判の良い青年でした。 しかし、橋蔵さまはご自分の置かれた重大な立場に慎重な態度をとり、なかなかOKしませんでした。橋蔵さまに映画の話を持っていきましたが、難しい歌舞伎界で特に菊五郎劇団に所属し、六代目未亡人の養子という環境にいたこともあり、劇団内部の問題、家庭の問題、松竹との関係など複雑な状況が絡んでいました。 こうしているうちに、中村錦之助、東千代之介、市川雷蔵、伏見扇太郎といった舞台からのスターが誕生したので、橋蔵さまをめぐっての引き抜きも一時中断になりました。 そのため、「ひよどり草紙」は先に映画界に入った錦之助さんと雷蔵さんという案が出て、錦之助さんに決まりました。橋蔵さまでの第一回のひばりさんとの共演企画の夢は実現できませんでした。 引きぬきを一時中断しましたが、素質のある橋蔵さまを、目の肥えた映画界の人が、そのままにしておくことはありませんでした。しばらく経った頃、この話が持ち上がったのです。橋蔵さまにその決心をさせた一人が、新芸プロの福島通人社長でした。美空ひばりさんや錦之助さんのマネージャーをしていた人なので、橋蔵さまも結局新芸プロに入ることになりました。1955年の夏ごろ「青葉の笛」の映画化の案がでて、ひばりさんの相手役として、橋蔵さまはどうかとマキノ専務に持ちかけたところ大賛成の言葉をもらいました。映画界入りに難航に難航を重ねた橋蔵さまを必ず映画界に引っ張ることに決めたのですから、それからが大変だったようです。日参する人達の熱心さに橋蔵さまも、一大決心をして遂に重い腰をあげることになったのでした。 画像はその頃1955年東横ホールでの「伊勢音頭恋寝刃」の舞台より油屋お紺の橋蔵さまです。橋蔵さまは出演中の舞台を終えてからかけつけて来たそうです。印象は折り目正しい謙虚な好青年で、芸への情熱に燃え、歌舞伎俳優の映画進出の話へとすすんだようです。 「映画に出演して見たいとお考えですか」*「出てみたいとは思っております。ただ、劇団の事情やその他いろいろの周囲の 関係もあり、しばらく考えさせてください」 「歌舞伎俳優の映画出演に関して、一般的にはどうお考えですか」*「なかなか難しい問題です。友右衛門さんのような上手い方でも不成功と思われ ることもありますし、折角の舞台の人気を映画出演によって持続できない場合 も考えられますし・・」 「しかし、企画に慎重を期して、適切な売り出し方法を考えれば、実力のある人 なら失敗は考えられません。錦ちゃんの場合などその例でしょう」こんなところでその日は分かれたようです。福島さんは永年の経験からの勘で「これは成功する」と思ったそうです。 錦之助さんも新芸プロに所属していたのですが、新芸プロを去ることになっていたので、錦之助さんに変わる新鮮味のある新人がほしかったので、ぜひひばりさんとの「青葉の笛」の企画を実現させたかったと言っています。その後、二、三度橋蔵さんのもとへ行き折衝の結果、応諾を得て、話は本格的に進行していきました。永続的に映画出演するという事でなく、たとえ一、二回出てみるという事さえ歌舞伎俳優という殻から抜け出る上に、相当な犠牲を払わねばなりません。私は錦之助君とはおおよそ対照的な橋蔵君の映画進出後における在り方についてまで、この時閃いたものがありました」 北条秀司氏に「笛吹若武者」のあらすじを作っていただく承諾を得てから、約一ヵ月かかって完成した本を持って、演舞場公演中の橋蔵さまを楽屋におとずれました。「橋蔵さん、やっと出来ましたよ。綺麗な映画を作ります。大川社長も大変乗り 気ですし、頑張ってやってください」橋蔵さまも具体的になった話に期待と不安の入り混じった表情だったということです。こうして、記念すべき大川橋蔵初出演が実現したのです。 さて、デビューとなり、ここで考えられたことは、第一に将来は時代劇のトップスターとなるような地位と素質の橋蔵さまなので、最初から作品的にも興行的にも成功させることでした。そこで、内容も女形の役者だった橋蔵さまに向くように公卿の役に決め、相手役には錦之助さん、千代之介さんの売り出しにも成功したひばりさんを決めたのでした。1955年秋近く、橋蔵さまとひばりさんの第一回の打合せが、福島社長、ひばりさんのお母さんも同席し、簡単な会食をしながらありました。雰囲気は非常に明るく、日頃初対面の人とはあまり話をしないというひばりさんも、この時ばかりは朗らかに会話も弾み、大変和やかな光景だったと伝えられています。11月中頃からの映画撮影のため、橋蔵さまは11月の菊五郎劇団の舞台はお休みしました。こうして出来上がった作品「笛吹若武者」はあわただしい年の瀬12月4日に公開されるという悪条件を跳ね返し、見事に成功を納めました。こうして、わずか2年ちょっとでトップスターの座に着いたのです。
2018年02月10日
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1957年、出演作品も「はやぶさ奉行」で第30作品目になり、映画界へ入って二年が経ったころになりました。橋蔵さまはやっと映画というものが分かってきたと言っていました。六代目尾上菊五郎丈の養子になり、尾上梅幸さん、尾上九朗右衛門さんを義兄に、菊五郎劇団の若手女形として人気を博していた橋蔵さまに、映画界から最初の白羽の矢が立てられました。時代劇の若手スターとして迎えるというのです。ところが、橋蔵さまは乗り気でないため、第二の矢が中村錦之助さんに放たれ、錦之助さんが一足先に映画入りをしたのです。橋蔵さまは、映画入りをするまでには、悩み苦しみよくよく考え抜いてのことでした。ですから、第一回出演の「笛吹若武者」だけで舞台に帰ろうとしていました。今までにない新しい型の時代劇俳優をスクリーンで見てファンになった人達が放っておくはずがありません。そして、舞台にはない映画の魅力を感じた橋蔵さまの心もゆらぎました。 大川橋蔵という名は二代目で、歌舞伎の世界では由緒ある家柄です。ましてや、名優尾上菊五郎丈の養子となった橋蔵さまでしたから、輝かしい未来があることは確かな事でした。しかし、橋蔵さまは踏み切りました。映画入りして失敗した場合でも歌舞伎の舞台には帰らない。そういう覚悟と決意でのぞんだ映画界。第二作市川右太衛門さん主演の「旗本退屈男・謎の決闘状」に急遽出ることになり、全国に名を知られるように東映は持っていきました。そして第三作の「若さま侍捕物帖」が大人気で、デビュー間もなくして人気をつかみ、シリーズものにしていきます。「橋蔵さんという俳優のために今まで書いてきたような気がする」と、原作者城昌幸さんが言っていたように、江戸っ子の伝法侍で若さまというのが江戸育ちの橋蔵さまによって再現されたのでした。 二十年の舞台経験ですから、長唄、常磐津、義太夫、三味線は必須科目でお得意のもの、そこに、笛は堅田流の名手(歌舞伎役者のお勉強の場のたぬきの会・カッパの会などでは笛を担当なさってる写真などが)、日本舞踊は藤間勘之丞という名取りですから、火の打ちどころがありません。女形でしたが、スポーツで鍛えた体はキリリと締まっていて、時代劇の美剣士を演ずるには文句ない橋蔵さまでした。 橋蔵さまは、顔が小さいのと、目が小さいので、押しだしが聞かないのが嫌なところといっていました。特に歌舞伎の舞台では、全体に大柄の方が舞台映えがします。ですが、スクリーンでは顔が小さく、目、唇も小さい橋蔵さまの顔は、化粧でメリハリをつけると、この世にこれほどの美しい男はいないであろうというほどの輝きを生んだのです。それがクローズアップになると効果が断然表れるのです。本来の美貌に加えて、このメーキャップでファンの心をつかんだのです。 1950年、歌舞伎時代、三越青年歌舞伎第二回の公演では、橋蔵さまは「傾城三度笠」では女形ではなく亀屋忠兵衛の役をやり、もう一つの演目「鏡山旧錦絵」では、錦之助さんと橋蔵さまが一日替わりで15日間、召使お初と腰元小枝の役を演じました。錦之助さんと橋蔵さまとの共演は戦前の子役時代からありましたが、ライバル関係が始まったと言われるのはこの時からでしょう。同じ役を一日交替で演じるというのですから熾烈なものだったと思います。この年は、六代目が亡くなられて一年後で、橋蔵さまは菊五郎劇団にあって成長著しい若手の一人になっていました。女形でいうと劇団のナンバースリー、梅幸、七代目福助の次の座を占めていたのです。下記の画像は「鏡山旧錦絵」の腰元小枝です。この時の錦之助さんと同じ映画会社でまたライバルとして競争?していくことになりますが、「好敵手?とんでもない、好先輩です」と話す橋蔵さまでした。映画「笛吹若武者」の話が出た頃には、橋蔵さまの身辺では、橋蔵さまに次の名跡を襲名をさせることが内定していたといいます。橋蔵さまが歌舞伎の世界にいたならば、歌舞伎界は違ったのではないかと思う気持ちもありますが、それでは映画スター大川橋蔵は生まれていなかったかもしれませんし、その話を聞きました時にはファンとしても複雑な気持ちになりました、橋蔵さまは本当に映画スターで満足なのであろうかと。しかし、橋蔵さまは、歌舞伎を忘れてはいなかったのです。映画作品を通して、歌舞伎で養った技量を見せてくれていましたし、テレビに行ってからは、舞台の楽しさ、歌舞伎舞踊の素晴らしさを見せてくださいました。役者大川橋蔵は、歌舞伎時代に培われた芸域の広さを、映画、テレビ、舞台で私達に見せてくださっていたのです。 次回は、橋蔵さまの第一作品にいきつくまでを簡単に書いていきます。
2018年02月07日
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ちょうど橋蔵さまの映画作品がもうすぐ30本近くになるあたりでの演技の魅力どこにあったのでしょうか。若さま侍は橋蔵さまの演技というものをはっきりと示していました。江戸っ子で歯切れがよくて、鯔背で積極的に行動をする・・橋蔵さまにぴったりの役といえました。原作者の城昌幸先生が「まるで橋蔵くんに演じてもらうために、小説を書いてきたみたいだ」とおっしゃったことが思い出されます。橋蔵さまは、二枚目の歌舞伎出身で、印象に残るのは、歌舞伎の、あの独特の美しい様式的なスタイルです。・・「見得を切る」・・決めのポーズが一つ一つ美しく決まり、他の人にはない橋蔵さまの魅力を出しています。 よく橋蔵さまと錦之助さんが比較されました。同じ歌舞伎出身の錦之助さんの演技は、橋蔵さまに比べると、早い時期からありのまま表現しようという写実的で、描写的に見ていて現実を見せられるのです。橋蔵さまの演技はそれに比べ、見ている人に夢を与えるのです。この年代には、橋蔵さまの作品には錦之助さんのようなものはまだありませんでした。どちらが良いというのではなく、このお二人の二枚目スターとしての歩み方の違いがはっきりと出ていたわけです。容姿が美しい橋蔵さまの演技傾向は、やはり美しい立役の本道になります。 橋蔵さまの演技で忘れてはならないことは、時代劇で大切な”殺陣”のことです。橋蔵さまの殺陣は、歌舞伎で女形をやっていた人とは思えないような鮮やかさとスピード感があります。殺陣も美しく型が綺麗です。舞っているように流れが綺麗な中に、ちょっと立ち止まり!見得を切る”仕草です。時代劇スターとしては大変な強味になるものでした。橋蔵さまの殺陣は、他の俳優達が真似ようとしてもあれだけ流麗な殺陣は絶対に出来るものではないでしょう。後に、椿三十郎の影響で、綺麗な殺陣は写実的でないととなり、橋蔵さまの殺陣も変わってきました。力強さと鋭さが加わり、決めの部分には、橋蔵さまの見得のきり方があって素晴らしいものでした。夢がある時代劇にはそれなりの殺陣があるものです。みんなが同じでは面白味がありません。 芝居の世界では、良い役者の素養は「一声、二顔、三姿」と言われます。 つまり、1番大事なのは「声」で、2番目に「顔」、3番目が「姿」という意味ですね。声が良いこと、よく通ること、セリフが自然で抑揚があること。 所作や立ち振る舞いが綺麗で魅力的であること。美男子であること。 一番には、発声や台詞まわし、声質などの口跡が最も重要だと言っているのです。これは映画俳優、テレビ俳優にも言えること。まさに、橋蔵さまは役者の要素を備えていました。どちらかと言うと低い声なのですが、セリフもしっかりととおり、声音に甘さとセクシーな魅力があり、役柄によって使い分けの上手いことは橋蔵さまの素晴らしいところでした。橋蔵さまは、美しい容姿と共に、大変神経の細かいよく気のつく人ですから、私達に、日に日に成長を見せてくださいました。1957年ごろ、橋蔵さまは気をつけて見ている人の映画があったのです。それは、デビューした日活スター石原裕次郎さんです。当時、「東の裕次郎、西の橋蔵」といわれ、雑誌も色々な面の二人の比較をして取り上げ、映画スターの投票でも争っていたときでした。時代劇と現代劇とその当時分野は違いましたが、橋蔵さまは裕次郎さんに魅せられたのです。「石原裕次郎さんて、ほんとに素敵だと思うね。例えば、雑誌の写真ひとつを見てもね、なんか動きがあってポーズが美しい。飛んでても、跳ねていても、ポーズが綺麗なんだな。動きの中の美しさというのかな、ほんとに見事だよ」と、橋蔵さまは、ある雑誌のインタビューで賛辞を送っています。様式的な型の美しい演技が魅力の大川橋蔵さまが、こういうことを注目し出したことは、橋蔵さまの演技に新しい魅力が生みだされるのではと楽しみが出て来たと取りざたされました。次回は、第30作品目の「はやぶさ奉行」とまいります。
2018年01月19日
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「鮮血の人魚」では、海辺でのシーンを撮るために、5日間の和歌浦でのロケがおこなわれました。雑賀崎からの眺望は絶景のところです。そのロケの様子を少し、私なりの解釈で要約してお伝えしましょう。作品のあそこの場面のところではと、ちょっと一息いれ、ロケ現場の様子をイメージしてみてください。第1日目雲一つない青空に夏の暑い太陽が照りつけます。ランチボートで、第一陣が宿から雑賀崎に向いました。深田監督が麦わら帽子をかぶり、岩から岩へと場所選定に飛び回ります。午前の撮影が始まりました。まずは、岩場に発つ千原しのぶさんのおさいのロングショット・・恋しい若さまが敵地に乗り込んだのを追ってきて、若さまが危ないところを目撃するところです。テスト2回で本番になりました。次は、作品の最初の場面、人魚島から逃げた裏切り者を進藤英太郎さんの了巴が「裏切り者はこうするのだ」といい短銃で撃つところです。裏切り者が小舟でつれてこられ小舟が舟着場につく方向が悪く2回テスト、でokがでました。 橋蔵さまの出番でない箇所の撮影が進んでいるところへ、遅れてロケ現場へ橋蔵さまがついた時の様子を少しお話しします。 舟着場の方で、「わあーっ」と歓声が上がって見物の人達がいっせいに移動しました。遅れてついた橋蔵さまがファンに囲まれて立ち往生しています。(得意の一文字崩しで追い払うわけにもいきません)とにかく凄いファンの人数です。陸路をはるばる駆けつけてきた人、船でやって来る人達で、お昼頃にはロケ現場は身動きもできない状態です。橋蔵さま、千原さんの顔が揃うとあちこちで「キャーッ」「ワーッ」、進行係の静止もどこへやら。黒地に金粉をぼかした豪華な着物、白柄の両刀をさした橋蔵さまが悪党一味と立回りを開始すると、ファンの興奮は最高潮。岩という岩にはびっしりの人達。ちょっと移動するにもファン整理にひと苦労です。ついには、交通課のお巡りさんが5人もやってきて整理をする騒ぎになりました。 深田監督も「これでは仕事ができない」と、この騒ぎには音をあげていたようです。この後、橋蔵さまは少しお休み。人魚が泳ぐシーンの撮影です。人魚の衣装をつけるための更衣室のようなものを急遽造りました。深田監督の注文通りに人魚の衣装で泳ぐのは大変だったようです。午後からは、今度は浪早崎に向います。お昼頃から、浪が荒くなり、定員過剰気味だったランチボートは凄い横揺れで、橋蔵さま、千原さんも冷や冷やものでした。無事に浪早崎に到着。狭い入り江で、その奥はそぎたった断崖で囲まれた袋小路のような場所です。背景になる袋谷にはピッタリの場所。何ということでしょう・・午前中のファン達から逃れたと思いきや、小舟で続々と狭いロケ現場に乗りこんできて、また騒がしくなりました。 ここでは、進藤さんの了巴が袋谷の方へ逃げるのを橋蔵さまの若さまが追いかけ、あとから来た侍達が若さまを追い詰めると、いがいや「引け」と言う声がするやいなや行ってしまうという場面です。了巴を逃がすまいと一太刀あびせる若さま。了巴が逃げます。その時、進藤さんがあまり勢いよく走ったので、砂に足がめり込んでガックリしたとたんに袴がビリッと大きく破けてしまいました。早速、衣装部さんがかけつけ応急処置をするという一コマがありまして・・・撮影開始です。「了巴、もはや最後じゃ」という若さまに、「それはそのままお前に言えることだ」といって了巴が上からスルスルと落ちて来たロープのブランコに乗って上がって行くところです。見ていると、空中を進藤さんの了巴が鮮やかに引き上げられていき、若さまにはどうにもならないというところです。進藤さんが乗ったブランコは高さが約30mの高さがあり、宙吊りになった進藤さんがうっかり手を離せば大変、高笑いをしながら登っていくシーンですが、顔面蒼白、必死にしがみついていて、ブランコから降りるなり「すっかり冷汗をかいてしまいました」と。これで、第一日目は、無事終了いたしました。第2日目も天気はピーカン。今日午前中は、大詰めの大立回りの撮影です。浪早崎の断崖の撮影場所に行くのには、やっと一人が通れるくらいの山道を撮影部の人達が重いカメラを担いで登って行きます。頂上から見渡せば絶景の場所ですが、一歩誤れば30mもある下の岸壁に叩きつけられる危険な場所で大立回りをやろうというのですから、撮る方も、演る方もこの上なく慎重をきします。了巴と青山玄蕃がうつぼ姫を人質に脱出を図ろうとしていると火薬の爆発が聞こえその方に気を取られた時、若さまが玄蕃の阪東蓑助さんを背後から一刀の下に斬ります、「あっ」と言って倒れる蓑助さんの手元から赤いものが流れて白い砂を染めているのが見えたようです。OKですの声とともに立ち上がった蓑助さんの左の手のひらは真っ赤、倒れた時に握っていた短銃の引きがねが手のひらを裂いてしまったのです。傷は相当深く応急処置をして医師のところへ。本番だったため、OKの声がかかるまで痛みをこらえていたのです。 その後、本番は了巴がおさいに撃たれ、了巴が撃たれながらもおさいを短銃で撃つた時、若さまが了巴を斬ります。おさい役の千原さんは、この場でOKで、夜行で京都に帰って行きました。了巴役の進藤さんは深田監督より、空中ブランコの仕上げをするということで、もう一度吊られるということになりました。午後からは、了巴を追い詰める若さまを、罠にかけ爆破により生き埋めにしようとする場面の撮影です。岩石を積み上げ、若さまに投げ落とそうとする危険な仕掛けを作りあげています。落下してくる岩石、それをよける橋蔵さま、どちらかのタイミングがちょっとでも外れたら、効果はありませんし、危険なことになってしまいます。橋蔵さまが、さかんに歩き回って足場を調べています。うっかり転んで、上から岩が・・ではたまりませんから慎重です。準備OK、緊張が走ります。「あっ」と上を見上げて、奥の洞穴に飛び込む橋蔵さま。谷をふさぐように岩石が砂塵と共に落ちてきます。どのようになっているのか先が見えません。砂煙がやっとおさまると、橋蔵さまの元気な姿が洞穴の中に見えました。現場にいましたら息詰まる一瞬でした。何事もなくてよかったですね。葵新吾*大好き大川橋蔵ファン広場*掲示板の方に、 「鮮血の人魚」は京都市街を見渡せる花山天文台付近でのロケを最後にクランク・アップしました。その時のロケ風景の画像を1枚載せていますので、よかったら、下のところをクリックして寄り道してください。 1497
2018年01月15日
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あけましておめでとうございます幸せいっぱいの一年でありますように、お祈りいたします橋蔵さまの作品をできる限り紹介していけるようにいたしますので、皆様今年もどうぞよろしくお願いいたします。お正月らしく「若さま侍捕物帖」から皆で”おめでとう”のところからのもの表題にしました。サイド自由欄には”若さま”がの剣で・・・邪気を払って今年も私達を守ってくださいますでしょう。下記は、私からみなさまへの年賀状になります。「海賊八幡船」の鹿門様に扮装した橋蔵さまが”宝船”に乗って福を沢山持ってきてくださっています。新吾*大好き大川橋蔵ファン広場*掲示板の方も、表題画像に違った若さまが、サブ画像には「おしどり囃子」からの菊次さん、そして年賀状は、アレンジした橋蔵さまの獅子舞姿となって、皆様をお待ちいたしています。よろしかったら覗いてみてください・・ここをクリックしてネ 1470橋蔵さまに元気をもらって、2018年(平成30年)への船出。今年もよろしくお願いいたします。
2018年01月01日
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“美しき大川橋蔵”私の想い出 (優美*大川橋蔵の時代劇) にお越しいただいた皆様、この一年もありがとうございました。「若さま侍捕物帖・鮮血の人魚」が年をまたいてしまいますが、橋蔵さまの作品紹介もやっと30作品目に入ろうとしています。橋蔵さまを作品ごとに見つめなおし、毎日橋蔵さまを何かで見つめて過ごしてまいりました。来年は、サイドページの画像も多くあげて行く予定で進めています。今日は大晦日、「緋ざくら大名」の千代三郎様に扮した橋蔵さま、橋の欄干に持たれながら、美味しそうにお蕎麦を食べていらっしゃいます。私達も一緒にお蕎麦を食べて新しい年を迎える準備をいたしましょう。葵新吾*大好き大川橋蔵ファン広場*掲示板の方では、「若君千両傘」の城太郎様に扮した橋蔵さまが屋台でお蕎麦を食べています。(よろしかったら覗いてみてください) 1466来年も、心を込めて橋蔵さまについて書いていきますので、よろしくお願いいたします。
2017年12月31日
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私がこの世に生を受けた日とともに橋蔵さまを忘れない12月7日。そんなこんなで思い出した記事がありました。橋蔵さまがテレビで銭形平次を撮っていた時の事柄からのお話をちょっといたしましょう。ある映画雑誌で当時追悼の記事として載っていたもので、私が心にずっと残っている記事が二つあります。当時読んだ方も多くいたかと思いますが、数十年経ち、こんにち落ち着いたところで橋蔵さまをあらためて思い返すのに紹介したいと思います。先ずは、長谷川一夫さんの銭形平次で数本助監督をやり大映の監督をしていて、1978年頃から橋蔵さまの銭形平次の監督をされたY.Kさんの文章からです。そしてこれが実現していれば、橋蔵さまも、長谷川一夫さんも嬉しかったでしょうと・・今思っても残念でたまらないこともありした。(内容は要約、省略して私なりに編集させていただいていることご了承ください) (出逢いと別れ)橋蔵さまの平次の監督をすることになり、橋蔵さんと初対面の時、「面白い作品を作ってください。よろしくお願いします」と言われ、Kさんなりの平次と取り組んだようです。橋蔵さんは、先輩である長谷川一夫さんの平次のイメージを相当強く意識しておられました。しかし、Kさんが監督をしだして最終回までの6年間は、円熟しきった橋蔵平次であったと思う、と言っています。甘さに加え爽やかさが橋蔵さんの魅力、そこに五十代という年輪と芝居の風格が橋蔵平次を完成させたのではないでしょうか。橋蔵さんは、日常生活でも規則正しく几帳面で、スタッフに対しての思いやりも良かったし、細々としたところによく気がつく方でした。時代劇をこよなく愛し、会話も芸事一辺倒でした。1982年頃にこんなことがあったということです。京都東映に長谷川一夫さんが来られた時にKさんはお会いしたそうです。その時、長谷川さんが「平次をやってんのやて、一度出てみたいなあ」とおっしゃって、やる気十分で長谷川さんはストーリーまで考えていたとのことです。 長谷川さんがこう話したということです。それは「ある事件で十手を返上した目明しが真犯人を追求してゆく姿の中で、平次との友情が生まれ、犯人逮捕の際に富ちゃん(橋蔵さんのこと)が、「兄(あに)さん!」といって十手をワテに渡すの」この話を聞いた橋蔵さんも「あにさん!」と言うところが流石長谷川さんらしいですね、とい言っていました。Kさんが老目明し十手返上と言ったところ「老」はいややで、と長谷川さんは言いかえしたようです。その後やっと脚本が出来たとき、長谷川さんの体調が悪くなり(1983年初め病に倒られました)、新旧平次の共演は実現することが出来なく、当時橋蔵さんもすごく残念がっていました。(実現していたら凄いことだったのに、本当に残念至極です・・・長谷川さんが1984年4月に逝かれて、橋蔵さまを待っていて・・二人の平次が天国を守っているかも・・それこそ、橋蔵さまが長谷川さんを「あにさん」と呼んで仲良くやっているでしょう) 大川橋蔵の銭形平次が始まったのが1966年、それから18年、888回を最後に終止符を打ちました。その長期にわたる持続は、なんといっても、橋蔵さまの役者としての努力と精進、そしてお茶の間で暖かく声援を送ってくださった視聴者があったからだと思います。病床にいても、恒例の舞台のこと、決まっていた次の仕事のことを考え「早く良くなりたい」「仕事がしたい」と言い続け倒れ帰らぬ人となられた橋蔵さまの心の思いを考えると、無念この上もなかったことでしょう。最終回のサブタイトルは「さらば、我らの平次よ永遠に」でした・・・余りにも題名通りになってしまい悲しいことです。最終回ラストシーン「銭形平次の名は、みんなの心の中で生き続けるのね。今でもこれからもいつまでも」(平次、お静、八五郎が旅に出るところの場面で美空ひばりさんが言セリフですね) そして、橋蔵さまのお礼の言葉が流れました。・・番組が終わる寂しさを感じました。それから少したって橋蔵さまが、まさか・・私達に、橋蔵さまご自身のお別れの言葉となってしまいました。平次は大川橋蔵さまそのもの・・橋蔵平次の中に橋蔵さまの人柄がぎっしりと詰まっています。毎週水曜日20時に橋蔵平次に会うと「ほっこり」して、救われる思いがしたものです。 物書きのS.Uさんの文章からです。(内容は要約、省略して私なりに編集させていただいていることご了承ください) (大川橋蔵の急死に・・)「銭形平次」一筋に打ち込んできた大川橋蔵の、ホッとした心の隙間に、憎い病魔が忍び込んだとしか思えない、と言っておられます。橋蔵さまはこんなことを言っていらっしゃったそうです。「テレビじゃ平次だけしかお目にかけられない。ですからね、年に三回の東京、大阪、名古屋での公演では、目いっぱい、大川橋蔵は、こういうことも出来るんですよってことを、お見せする公演が楽しみでねえ」と。S.Uさんはこう言っています。女形や日舞、55歳といやぁ役者はこれからが正念場。もともとが歌舞伎出身、それも名人六世尾上菊五郎の養子にむかえられたほどの丹羽富成さんだ。二枚目の典型的なスターには違いないが・・・二枚目を全生涯を傾けて守った、という人もいるが、その見方は甘い。例えば、平次にしたって、のほほんと気楽に演じてきたわけではない。橋蔵さまは心中をこう語っていました。「何回も、この辺で辞めようと思ったことがありますが、ファンに励まされここまで来られたんです。せっかく、長谷川一夫先生から譲っていただいた役ですから、大切に自分なりの工夫をこらし、いろいろと橋蔵風に仕立てたつもりです」 東映が時代劇打ち切りの線を出す頃には、「バラケツ勝負」「幕末残酷物語」にも挑戦しています。東映側からは、「若さま侍捕物帖」や「新吾十番勝負」のような作品ものの要求が多かった。銭形平次は、男っぷりがよく、気っぷがよく、頭の回転がよく、人情に厚いとくれば、江戸っ子の人気者になるのは当たり前。東京で生まれ育った橋蔵にはピッタリで、小気味よい橋蔵平次が誕生した。特にラストの犯人を追い詰めての啖呵の切れ味は、胸がスカッとする歯切れのよさだった。(画像はテレビ放送一年目1966年の橋蔵平次親分です) 最後にこう言っています。「沓掛時次郎」など作品が追悼放送になったが、その中で、「人間の命は一つ、大事にしなくちゃいけねえ」というセリフが何回も出てきて、ドキッとさせられた。大川橋蔵がもうこの世にいないなんて信じられない。多くの人の胸に永遠に残るスターである。テレビ長編ドラマ「沓掛時次郎」のラスト、雪の中消えてゆく橋蔵さまのあの姿がずっーと私の心に焼きついています。私も、このブログ”美しき大川橋蔵”私の想い出と掲示板「大好き大川橋蔵ファン広場」で永遠に残る時代劇スター大川橋蔵の作品を書き続けられるうちは紹介していくようにいたします。 次回掲載は、若さま侍捕物帖シリーズ「鮮血の人魚」、橋蔵さま主演では初のカラー作品となります
2017年12月07日
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”ノビ”のある立回り「殺陣の基本ができていて、姿が美しく、研究家なのだから、一作品ごとに上手くならないのがおかしいのかもしれない。最初の頃は、さすがの彼も苦手だったやくざ剣法でも、橋蔵さん独特の粋な殺陣を完成していった。今後も上達につれてどれだけの傑作を残すかと期待している。」と足立さんは言っています。橋蔵さまは1957年の後半ごろから、殺陣がすごく上手くなってきたと言われていました。どこがどのように変わってきたのでしょうか。足立伶二郎さんがこのように言っています。「映画に入ったころの出演映画の立回りでは、歌舞伎で重んぜられる約束ごとが、どうしても画面に出てしまうのが目に付いたものです。歌舞伎の世界では、その「約束ごと」が厳しくしつけられるのですから、それが尾を引いて映画にもあらわれてしまうのは自然な当たり前のことです。 ところが最近は、映画的な立回りを身につけて、”ノビ”が出てきました。”ノビ”というのは「殺陣」には欠くことのできない条件です。つまり”ノビ”というのは立回りの時の凄さであり、若さであり、身に迫る感です。この”ノビ”は立回りにはちょっとやそっとの修練では出て来ないものなのです。これを、橋蔵さんは、短い期間に立派に見につけ、今ではスクリーンでも”ノビ”のある、あざやかな「殺陣」を演じております。さらに、立回りは台本の内容、主人公の性格、カメラの位置、撮影の場所などに応じて変わらなければならないもので、決して立回りは型にはまってはいけないのです。これが殺陣の難しさなのですが、橋蔵さんは、そうしたことも実によく考えて演っています。私の意見や希望もよく汲み取った上で、さらに橋蔵さん自身の個性を十分に生かして立回りを演ります。橋蔵さんが、人一倍仕事熱心で、研究に情熱をそそいだからでしょう。そして、橋蔵さんが、何よりも立が好きだからでしょう。」こうして殺陣が上手くなってきたと周囲からも認められてきた橋蔵さまが、次の次の作品では、初めての股旅やくざものでも、”ノビ”のある立回りを見せてくださったのです。どうでしたか、殺陣師足立伶二郎さんからみた映画デビュー当時の橋蔵さまの殺陣の感じ、お分かりになっていただけましたでしょうか。こういうように努力を積み重ねて、舞踊のように綺麗に立ち回る間に、スッと立つポーズ、歌舞伎で言う"見得"を、入れるようになってきます。そして、そこに力強さが加わっていき立回りに鋭い"キレ"も見られるようになっていくのです。次回は若さま侍捕物帖に参ります。若さまの立回りにも変化がみえてきます。
2017年06月24日
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殺陣師:足立伶二郎さんが橋蔵さんの殺陣について書いたものからの抜粋し、私流に書いてみました。いよいよ、若さまに秘剣が出来た時の話です。 若さま侍の秘剣「神道流一文字崩し」の完成 会社側も本格的に売り出す態勢をととのえ、若さま侍捕物帖がシリーズものとして制作されるようになりました。この役柄は橋蔵さまには正に適役で、足立さんも張り切って殺陣の新手をあみだそうと研究をしていました。「地獄の皿屋敷」「へらんめえ活人剣」では、スマートな立回りを画面いっぱいに描き出すことに成功しました。 若さま侍第三作の「魔の死美人屋敷」のクランク・イン前のある日、橋蔵さまが足立さんの部屋を訪れたそうです。旗本退屈男には”諸羽流正眼崩し”机竜之介には”音なしの構え”源氏九郎には”揚羽の蝶”と独特な剣の構えがあります。「若さま侍も剣では奥義に達した腕前であるから、必ず秘剣があるに違いない。ですから、その秘剣の冴えを見せて見たい。」という話になりました。足立さんも前からそう感じていたので、いろいろ型を考え出しましたが、橋蔵さんにピッタリするものが出来ないでいたのです。「若さま侍も剣では奥義に達した腕前であるから、必ず秘剣があるに違いない。ですから、その秘剣の冴えを見せて見たい。」という話になりました。足立さんも前からそう感じていたので、いろいろ型を考え出しましたが、橋蔵さんにピッタリするものが出来ないでいたのです。「橋蔵さまはやさ型であるから、このやさ型から発する非常に強いもの、それを基本において考えなくてはならない」・・考え続けた末、剣道の最高峰藩士を招くことにしました。剣道を知らない足立さんですから、大先生に注文をつけるのは照れくさいので、映画の殺陣のキーポイントである「如何に人を美しく斬るか」ということだけ念頭において考えていただくようお願いしたのだそうです。橋蔵さまに会われた藩士は、いち早く橋蔵さまの特徴を見てとり、しばらく黙って考えてから、本身をとって、本身が自然に鞘から抜け出る早業で構えたそうです。それは、まるで刃が額に鉢巻のようにかかった華麗な型・・これが”一文字崩し”だったのです。これは、自分の背丈を非常に高く見せて敵を迷わすことが出来ます。橋蔵さまは、その豪快さと美しさを兼ね備えた”一文字崩し”に文句なく惚れこんでしまいました。足立さんも、範士になるとその人に相応しい型をすぐに選び出すことができるものだと感心させられました。この型は、剣道にも使わない秘剣の部類のものなので、真の型を覚えるのは難しい。五度、六度と範士の構えを見ているうちに、橋蔵さまもその型の要をのみこみました。このようにして若さま侍の秘剣”一文字崩し”が誕生したのです。ただし、この”一文字崩し”は頭上に刀を横一文字に開くわけです。これを映画にそのままもってくると、アップにした時、刀が顔の邪魔になり、ロングに引くと下半身が淋しくなってしまいます。そこで、足立さんがいささか手を入れて、映画にある「神道流一文字崩し」という型が出来上がりました。画像は、第五作「深夜の死美人」撮影時からのスナップショットですので見ずらいかもしれませんが、"一文字崩し"3ポーズです。 この秘剣が出来上がった当時、殺陣のベテランたちも、一体どこへ打ちかかってくるのか分からず、まごまごするという笑い話さえおこったそうです。足立さんにとっても忘れられない型のひとつになっています。足立さんはこう言っています。「橋蔵ならばこそ、あれほどの評判をとったのだと思う。素踊りの扇子の構えにも似た、簡素のなかの華麗さは、舞踊で鍛えた線の美しさが、おおいに役立っている」と。橋蔵さまの刀を抜く動作の美しさは日本映画の中でも五指のうちにはいるほどです。美しく抜きはなった刀が、今度は目にもとまらぬ早さでピタリときまる。スピーディーな動きと抜く瞬間のゆったりとした雰囲気が巧妙につながり独特な味をもっているのです。橋蔵さまは東映剣会の研究会に顔を出しては、他の人達の立回りをじつによくみていました。「見て覚えよ」という六代目の教訓をよく守って、どんな型をも見逃さず、ちょっと面白いものがあると、自分にふさわしいものにアレンジして、次の作品に取り入れていくという、研究家の橋蔵さまです。
2017年06月21日
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若さま侍捕物帖「鮮血の晴着」で"神道流一文字崩し"という剣法が出来上がりお目見えしましたので、橋蔵さまの流麗な立回り、そして橋蔵さまの殺陣について、覗いてみました。舞を舞っているような立回り、体が後ろにそるようなかたちでも、橋蔵さまは腰が入っているので平気で斬りまくります。若さま侍捕物帖「鮮血の人魚」のあたりでは、橋蔵さまはとても殺陣が上手くなっていきます。いろんな役をやる中で橋蔵さまはご自分の殺陣の上手さを極めていくのです。立回りも、時代の流れによって少しずつ観客の欲するものが変わってきます。橋蔵さまの立回りはスピーディで綺麗だが、力強さがないと言われたこともありました。でも、1961年頃から、綺麗な立回りにキレと力強さが入ってきました。「月形半平太」「美男の顔役」「まぼろし天狗」等。そして、テレビでの「荒木又右衛門」「鯉名の銀平」と。橋蔵さまは殺陣、立回りにおいても、年代にそってキレのある流麗な凄みのある殺陣を見せてくれていたのです。だから、橋蔵さまの立回りは見ていて飽きないのです。あれだけの立回りをできる役者は他にはいません。 ◆時代劇を続けていくためには日本舞踊が何よりの基本です。(時代劇をやる人は男優も女優も日本舞踊を習うよう必ずいわれたものです。)時代劇には歌舞伎の芝居と同じように、一つの型が必要だということです。サッと刀を抜いた時、一つの動作から次の動さへうつる瞬間に決め手となる型があり、その型が美しくなければその人の美しさも映えません。橋蔵さまは日本舞踊の稽古はかかさなかった方です。好きと言うのもありましたけれどね。橋蔵さまは立ち姿の美しさを動きの美しさと共に重視した方です。天下一品と定評のある橋蔵さまの立ち姿の秘密・・・真似のできないほどの厳しい芸道の精進にあったのでしょう。 最初に感じた橋蔵さんの殺陣 東映の殺陣師・足立伶二郎さんからみた「大川橋蔵の殺陣について」(1958年(昭和33年)雑誌に書いてありました。・・・デビューから若さま侍の秘剣一文字崩しが出来るあたりのことを書いたものがありますので、少しですが抜粋し、私流に書いてみます。橋蔵さまの殺陣の魅力が少しでも皆様にお分かりいただけたらと思っています。 「大川橋蔵の殺陣は素晴らしくうまい。どんな角度からみても、寸分の乱れも見せぬその構えは、惚れ惚れすることがある。橋蔵さんはデビュー作「笛吹若武者」で初めて立回りを演じた。」足立伶二郎さんは、この映画の颯爽たる若武者ぶりは魅力的だったと言っています。殺陣の打合せで、初めて素顔の橋蔵さまにあった時、強烈な個性を持つ人ではないが、親しみやすい好青年だと思ったようです。しかし、体つきが華奢で、どちらかと言うと女性的な雰囲気を持つこの人が、どこまで立回りを演じきれるだろうかと気にかかっていたようでした。「「笛吹若武者」では、この物語にあらわれる立回りの殺陣が悩みの種となっていた。大きな時代の波に押し流されひっそりと夕顔のように咲き、散った敦盛の哀れなまでの美しさを剣に表現できれば」と思っていたようです。 二日いろいろ考えて、やっとひとつのイメージを作り上げて、早速その日から稽古を始めることにしました。敦盛のメーキャップをした橋蔵さまは初対面とは違い、静観にさえみえるりりしい若武者ぶりでした。メーキャップをすれば変わるぐらいのことは知っている足立さんですが、こうも変わる俳優さんも珍しい、と思ったということです。「これはなかなかいけるな」と嬉しくなってきたそうです。「からみの人を相手に立回りの型をしめすと、じっと食い入るように見つめていて、ときどきそこをもう一度お願いしますと繰り返させては、型の要になるところを的確につかもうとしている。一通り手本を見せてから、やらせてみて驚いた。うまいのだ。腰はぐっと入っているし、間は確かだし、それに決め手がはっきりしていて初心者とは思えない。」◆ただ、欠点もいくつかある・・・と足立さんは言っています。だが、それがまた橋蔵さんの魅力になっていくのでした。「女形出身のせいか、すこし腰をふる難点がある。が、それが一種の色気ともなって不思議な魅力をただよわしている。剣を使う時、ちょっと流し目をくれるため、その瞬間だけ間が抜けるので立回りの時、気になってしかたがない。長い間の舞台生活で身についた癖だけに、何度注意してもなおらない。」しかし、これも女性ファンにとっては魅力の一つになり、独特のスタイルを作りあげてしまったのでした。「笛吹若武者」の敦盛はデビュー作品としては抜群のできで、剣のさばきも気品と憂愁がみなぎっていました。橋蔵さまが足立さんの新弟子として入門早々天才的であったことは、考えてみればそれほど驚くことではなかったのです。「歌舞伎界の天才児六代目菊五郎にその才能を認められ、養子となったほどの人でから、芸道に対する精進もまた一倍だったと思う。ことに六代目は、日舞に才能を見せてた人である。その人のひざ元で鍛え上げられた橋蔵さんも義父ゆずり、若手中一番の踊り手だったようだ。日舞は、リズムと間と型、この三つが重大な要素となっている。」この三つの要素をマスターした橋蔵さまですから、同じ要素を持つ殺陣に優れていたことは当たり前のことなのかも知れません。
2017年06月18日
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「大江戸喧嘩纒」の撮影が終わり、1957年新春1月は橋蔵さまの周辺もあわただしかった時でした。1月6日から13日まで、東京浅草国際劇場に於いて、「花吹雪おしどり絵巻」の公演がありました。同じプロダクションであり”トミイ・マミイ”として大人気のお二人の顔合わせでの公演がやっと実現したのでした。 橋蔵さま初めての国際劇場出演でしたが、国際劇場が松竹の劇場であるため、橋蔵さまの出演は難航しました。新芸プロの社長がマキノ光雄さんの仲介で大川東映社長に数回交渉をしてやっと実現した舞台だったようです。花の美空ひばり・剣の大川橋蔵の大顔合わせで、「花吹雪おしどり絵巻」全10景・・時代劇、歌、日本舞踊、ダンス、と盛りだくさんでファンは大喜びだったでしょう。橋蔵さまは、「勢獅子」を踊り、映画と同じように白覆面でのふり袖捕物帳「若衆変化」川島源次郎の若侍、やくざ姿で立回りを見せました。 そして、ひばりさんとのダンス・・白い背広に黒のズボンでロックアンドロールを踊りました。初日にはまだ覚えていなかったようで、ちょっと間違えたりしてひばりさんの方を見ながら踊っていたのが、また可愛くて素敵だったとファンの声。そして、歌も披露しました。 (トミイ大丈夫?)(大丈夫、大丈夫。上手いもんだろう)そう言えば、国際劇場に出演中に、橋蔵さまは初めてのレコーディングをしました。以前から、映画俳優として芸の幅を広げなければいけないと思い、歌の勉強もと、数か月前からビクターの吉田正さんについて勉強をしていたようです。そして、この公演中に、平凡で募集した詩に吉田正さんの曲で「泣きとうござんす」の吹き込みをいたしました。長脇差に三度笠のやくざが故郷を偲びつつ旅から旅の情景を歌ったものです。レコードは3月中旬ごろに発売になりました。(それでは皆さんに、歌声を初披露しますか。美声に聞き惚れないで)のちに、吉田先生がこの時の事を話されていたことがありましたが、「もう少し練習時間があったならば」という事を・・。私は今でもこの歌を聞いていますが、橋蔵さまの声は良い声で、素直な歌い方で優しい感じなのですが、馴れていないので声が出しきれていない、と思うのが本当のところ・・橋蔵さまが優しい声だということは分かっていますが、レコードからの歌は鼻歌的歌い方です。当時の橋蔵の扮装のお姿、素顔のお顔からも、ちょっと優しすぎてしまう歌い方でした。小さい子が歌う時心配で見守るという感じ、お分かりになりますか。そんな気持ちになってしまいます。マイクを通した声が本当の声の高さだそうです。そうすると、橋蔵さまの声は、映画の中で聞く声より少し高い声なのです。ですから、それ以上の高い声を要するところは余り得意ではないはず。高い音程から低い音程に変わるところでは低いところが出にくくなっているなぁと思います。初めての「泣きとうござんす」は吉田先生が橋蔵さまの持っている優しさをちゃんと分かって、やくざらしからぬメロディーになっています。あとに数曲吹き込んだ歌の時にも言えることですが・聞いていて優しい感じが出ていていいのですが、「橋蔵さま、大丈夫・・?」と思うような気持ちになってしまいます。(個人差がありますから、ここは私の意見として聞き流してくださいね。)この時の吹き込みでは、小唄調の声の出し方は全くありません。のちに出した「橋蔵大いに唄う」では、声は出ているのですが、小唄調の発生の仕方が多々見受けられます。(テイチクからの8曲入りを出すときは、橋蔵さまご自身もどうしようかと躊躇ったみたいですが、説得されて出したようです)。橋蔵さまは、歌手ではありませんから、ファンへのサービスでだと考えればいいのですが、ちょっと厳しいことを言わせていただきました。「お空の橋蔵さま、怒らないでください㋧」地方巡業の時は必ず歌謡ショーとして歌っていましたから、ご本人は真剣であったと思います。私は毎日橋蔵さまのその歌を全部聞いていますよ。橋蔵さまには明るい調子の歌が合っていますね。橋蔵さまは「銭形平次」のスタッフの方たちと飲みに行ってカラオケでなかなか歌わないのですが、マイクを持ったら朝まで放さなかったというのは有名でしたから、ファンの方はお聞き及びでしょう。そう言えば、1981年~1984年に吉村真理さんが司会の「悪友親友」だったかしら、橋蔵さま出演なさった時だったと思います。橋蔵さま、面白いことをおっしゃっていました。「仕事をおえてタクシーに乗っていた時、ラジオのジョッキーでやっていた。聞いていたら、”幻のレコード盤をお聞かせします、幻のレコード盤をお聞かせします”とやっている。誰が歌うのかなと思っていたら、大川橋蔵さん・・。えっ!!昔の歌がねぇ、流れてきたの。(シートにちゃんと座っていたのが)座っていてだんだん恥ずかしくなって小さくなってしまった」と話していたのを思い出しました。”そのうちにまた歌の方”もといわれた時の橋蔵さまの答え、「ボクが歌ったらね、プロの人が困るんじゃないかな」・・・その時の表情、あの凛々しい橋蔵さまからは想像ができない、聞いていて見ていて私も笑ってしまいました。その時の”幻のレコード盤”と言われたのが「泣きとうござんす」でした。公演の毎日が超満員で、今日一日となった1月13日千秋楽夜の部、ひばりさんに大変な事件が起きたのです・・塩酸事件です。舞台そでに近いところで、ひばりさんの他に3人巻き込まれ火傷を負いました。ひばりさんはドーランを塗っていたということもあり、急いで楽屋に行き軽かったようです。橋蔵さまはスタンバイしていなかったのですが、付き人がそでにスタンバイしていました。一番ひどかったのは、巻き込まれた一人・・橋蔵さまの付き人をしていた西村さんでした。全治2週間失明の恐れがある火傷でしたが、「鮮血の晴着」の撮影の時には、橋蔵さまに付いてお世話が出来るまで全快しました(元気に橋蔵様に付き添っている写真を見た時は安心しました)・・よかったです。観客には、何が起こっていたのかは分からなかったようでした。ですから、騒ぎにはならず、フィナーレは橋蔵さま一人が務めるという、少し寂しい結果として幕を閉じました。本当でしたら、大成功橋蔵さまとひばりさんが手を取りあっての有終の美で終わるはずの舞台公演でしたのに・・・。そういううこともあり、このお二人の国際劇場での顔合わせ公演はすごいことでありながら、あまり語られないものになっていますね。(本当でしたら、千秋楽もこのようなフィナーレで終わるはずでした)ひばりさんはもとより、西村さんの負傷にも心をつかい、西村さんのことをプロダクションの人にくれぐれもお願いをして気にしながらも、橋蔵さまは次の「修羅時鳥」の撮影のため、京都へ飛んだのです。笠原マネージャー時代から付き人をしていた西村さんがずっと橋蔵さまと共に歩んでくださったことができ本当に良かったです。一方、橋蔵さまは京都に戻る汽車の中で扉に右手の指が挟まれケガをしたようですよ。次回は作品「修羅時鳥」に参ります。
2017年05月01日
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大江戸喧嘩纒の撮影の時のちょっとしたお話を少しいたします。クライマックスシーンは、(5)で書いた火事場シーンだということはお分かりだと思います。火事場の場面は撮り直しがききません。どよめく群衆を蹴散らすようにめ組の纒が入ってくるところからの撮影がはじまりました。屋根にかけられた梯子を纒をかかえたひばりさんがのぼり纒を振り始めます。(このようなところはカットされていましたね)煙りと火がひばりさんの身辺を包み、ひばりさんの身体がぐらりと傾いて、危ない、と思ったところへ橋蔵さんがかけつけ、しっかりと橋蔵さんに抱きついたひばりさんがにっこり笑って・・・ここで観客がほっとするという段取りです。お二人は立て続けに5回も共演していますし、互いにマミイ・トミイと呼び合うほどの名コンビですから、火事場の真ん中でにっこりと微笑みあう呼吸もぴったり一致して、「チエッ、火事よりヨッポド熱いや」とスタッフ達をなげかせたというエピソードがありましたとさ。それはそうですよ・・ひばりさんの橋蔵さまを見つめる目、橋蔵さまがそれを受け止める目、そしてお二人が微笑む。私達だって撮影現場でこのようなお二人が見つめ合いにっこりほほ笑むのを見ていたら、きっと熱くてたまらなかったでしょう。 (6)で書いた半次が臨終の場面でのことです。たった今息を引きとったばかりの半次役の星十郎さんの目がパチパチと動くので、監督から「固くならないで楽な気持ちで目をつぶっていてくれ、君はもう死んでいるんだから」と注意されると、星さんが「ひばりちゃんと橋蔵さんが、さっきからあまり仲がよさそうにくっついているので、つい気になっちゃって、死んじゃいられませんや」と答えたので、一同大爆笑。和やかな雰囲気のうちに、湿っぽいお通夜シーンの撮影が行われたという何とも愉快なお話でした。 (3)と(5)で書いたところに出て来た梯子のぼりと纒ふりですが、鳶もの映画の花形は何といっても纒持ちですね。燃えさかる炎の中で火の粉を浴びながら、鮮やかな白い纒を高くふる姿こそ、男の中の男の魅力があります。火消の鳶の世界が今までに数十回となく映画化されてきたのも、スターの男らしい魅力が十二分に発揮されるからだそうです。皆様も知っているところでは、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫、中村錦之助、市川雷蔵、と人気スターは誰でも一回以上纒を振っているということです。この纒、制作ものでもある程度の重さがありますので、たやすい技ではないのです。纏が重く自由に上げ下ろしができないですし、うまくパラリとひろがってくれないと期待している結果がありません。下手に振り回せば頬を纒で打たれる恐れもあります。梯子をのぼるときも、纒を担いで登るときは両手を使わず纒を肩に担いで登らないとカッコよくありませんし、梯子を駆けあがるときも機敏でないとかっこがつきませんね。というわけで、橋蔵さまもこの時が初めての経験なので、暇があるときは纏ふりの練習に夢中という状況でした。踊りの素養がありますので、一応形は整うのですが、どうかすると纏に振り回されそうになり「うわーっ、目がまわる」と、橋蔵さまはこぼしていたそうです。しかし、九段の梯子のぼりのところの場面になると、見事にトントントンと手を使わずに屋根に上がり、多くのスタッフ達を感心させました。褒められた橋蔵さまは、照れくさそうに頭に手をやったそうです。橋蔵さまは、運動神経がよく、走るのも速いし、ジャンプも高いし、殺陣も、乗馬も、泳ぎも何でも出来る人なのだから出来ないことはない・・・いや、完璧にこなすには、何事も練習です。実は、橋蔵さまは撮影が終わって帰宅後、宿の階段を利用して、毎夜密かに練習に練習を重ねていたことを知る人は少なかったようです。(宿の人は橋蔵さまが階段を上り下り??何をしているのかと思ったでしょうね) 何事も日々精進ですね。この時の纒の練習、梯子のぼりの練習の成果が、この年の12月封切になった「花吹雪鉄火纒」で立派で素晴らしい纒持ちぶりを見せてくださいました。この作品での梯子のぼり、火事場の屋根の上での纒振り素晴らしいです。そしてこれぞ纒振りと見せつけたのは、ラストの裃姿で片肌抜いての素晴らしい動きながらの長い時間の纒振り。橋蔵さまだから、腰が入っていて力強い綺麗な纒ふりになっています。 youtubeに「火消し若衆」という歌に「大江戸喧嘩纒」の動画を使っているので、雰囲気を少し味わってください。そして、橋蔵さまとひばりさんの火事場の屋根の上でのお二人の甘いラブシーンでのお二人の目の使いかたと、橋蔵さまのカッコいい梯子ののぼりかた、ご覧ください。(この動画が削除された場合は、ゴメンナサイ🙇)
2017年04月28日
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今日は橋蔵さまの生誕日、88年です。 橋蔵さま、毎日素敵なお姿を見て幸せな日々を過ごさせていただいております、あの姿、この表情・・綺麗な殺陣と力強い立回り、美しい優美な所作・・すべてが今見ても素晴らしい橋蔵さま。沢山の時代劇の夢をありがとうございます。 桜の花びらが舞散る産湯につかった橋蔵さまは、桜の花のように優雅で気品があり、精神の美を持っている方・・内面の美しさは、橋蔵さまが幼い時から積み重ねてきたものなのですね。当時北白川にあったご自宅の橋蔵さま自慢のホームバー・・・天のお宅でも皆様をご招待して、あの素敵な笑顔でもてなしていらっしゃるのでしょうか。今日は橋蔵さまに私達とシャンパンでまずは乾杯をお願いいたしましょう。”橋蔵さま、おめでとうございます” (橋蔵さまとグラスを合わせているのはあなたかしら?? このように橋蔵さまに見つめられて大丈夫) また明日から、橋蔵さまの作品を見つめながら、ブログ書いていきます。優しく見守っていただけるとうれしいな。
2017年04月09日
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あけましておめでとうございます幸せいっぱいの一年でありますように、お祈りいたします大川橋蔵さまと共に、今年も作品を紹介してまいりますので、皆さまお付き合いの程よろしくお願いいたします。華麗・優美・流麗。さそっそう・粋・鯔背、これらの言葉がぴったり合う二枚目スター大川橋蔵さま。仕事の合間に書いていきますので、どこまで作品を紹介できるか・・な。私も橋蔵さまを何回も確認することは、心により深く刻むことが出来るので、楽しみにして書いていきますね。
2017年01月01日
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橋蔵さま第10作品目「復讐侠艶録」は、今書きますと年をまたいでしまいますので、区切りよく新年早々から始めることにいたしますので、少しの間お待ちくださいませ。門松の飾りを見ますともうすぐ・・今年もあと2日となりました。9月12日にこのブログを立ち上げましたが、どうなることかとちょっと不安でした。でも、皆さまのお蔭をもちましてどうにか自信がつきました。小さい時から夢を与えてくださった大川橋蔵さま、その橋蔵さまに関することを私が残せるものは何か、何か残したい、そうすることが橋蔵さまへの恩返しと思っています。橋蔵さまの33回忌のこの年に、やはりブログに作品を残して行くことが・・と決心した次第です。まだ始まったばかり、これから・・・です。サイドの画像もいろいろ工夫していきたいと思っています。"美しき大川橋蔵"私の想い出にいらしてくれた皆さま、今年は有難うございました。来年もよろしくお願いいたします。 橋蔵さまと共に、皆さまがおいでくださるのをお待ちいたしております。(追)そうそう、サイドコーナーでもお知らせしていた、橋蔵さまファンにはうれしいこと・・・テレビ放送がアップになりましたのでお知らせします。 BS日テレ 2017年1月10日(火) 19:00~20:54 伝説のスター 師弟物語 ~遠藤実×森晶子 ・ 大川橋蔵×京本政樹・・・人生を変えた3つの教え~◆銀幕のスターとして一世を風靡した大川橋蔵。大川といえば、国民的人気時代劇「銭形平次」の平次親分役で世間を魅了。時代劇のことは右も左も分からない若き日の京本政樹は、「銭形平次」のレギュラー出演が決まると大川に可愛がられ、時代劇の所作からメイクまで、手取り足取り教わった。そこには、大川の俳優人生としてのただならぬ思いがこめられていたことを、実際に京都の撮影所を訪れ、当時のスタッフから明かされる。さらに14年間にわたり「銭形平次」の妻役を演じた香山美子が、大川に教えられた演技の極意を振り返る。京本さんからの話は、前からのファンの方はよく知っていることが話されるのかもしれませんが、橋蔵さまに関して新しい発見もあるのではないかしら。新しくファンになった方にはすべてが興味あることですね。そしてこの番組を見て橋蔵さまっていいなと思う方ができるといいですね。
2016年12月30日
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12月7日は橋蔵さま三十三回忌、苦しみのない極楽浄土にいかれます。いにしえの橋蔵さまをもっともっと思い出すことでご恩返し。 笑顔が素敵なのは当然なのですが、このような雰囲気の橋蔵さま・・・たまらないでしょう私の好きな写真です。(ご自宅の庭にて) 12月になると必ず見たくなるものがあります。それは、「鯉名の銀平 雪の渡り鳥」1983年5月放送になった長編ドラマです。1984年にお亡くなりになっているから、その後見るたびに、このドラマが私の胸をしめつけるのです。それが最後のキャストが流れる時の映像にあります。お市と卯之吉のため、親分の敵打ちのために帆立一家を斬りお縄になるために去って行く銀平。お市と卯之吉に無言の別れをして雪の中を去って行く。この場面、私は橋蔵さまの希望の映像だと思うのです。椿は橋蔵さまの大好きな花・・・雪がかぶった椿と橋蔵さまの銀平・・・哀愁が・・絵になりますね。銀平が去って行くシーンの表情を見ていると、橋蔵さまのメッセージが入っているように感じてしまうのです。いつも目が潤んで胸がつまってしまう私です。(実際はこの場面キャスト名がずらっと流れるので見ずらいので、私なりに編集いたしました。) 橋蔵さまと12月、これも忘れられない催し物でした。1967年から1982年の東京歌舞伎座「恒例大川橋蔵特別公演」がありました。芝居、歌舞伎演目の舞踊と俳優の大川橋蔵と歌舞伎役者の大川橋蔵がぎっしり詰まった内容でした。(特に歌舞伎役の大川橋蔵を見せつけ唸らせました。)歌舞伎座公演の時は、神田明神での「平次まつり」も恒例でした。平次親分のにこやかな笑顔が集まった人達を和ませていました。
2016年12月07日
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江戸三国志・第一部、疾風篇、完結迅雷篇と長かったので、第9作品目の「若さま侍捕物帖」に行く前に、ここで一息つきたいと思います。ファンの方は橋蔵さまが忙しい中、毎年「橋蔵まつり」を催していたこと覚えていらっしゃいますか。その第一回が、デビューしてまもなくあったのです。その時の事に少し触れてみたいと思います。(私が掲示板の方に書いたのをご存知の方も、再度思い出していただければ幸いです。)1956年映画の撮影が詰まっている時間を割いて、開催されました。江戸三国志・完結迅雷篇が封切られた1956年6月8日の2日後の6月10日、所属している新芸プロ主催の第一回「橋蔵まつり」が国際スタジアム(旧両国国技館)で開催されたのです。この後、毎年1回から2回開催されてきました。そしてこの時、是非"後援会"をとの要望が強くあり、この年の9月に"大川橋蔵後援会"が発足することになりました。大川橋蔵ファンが待ち望んでいた、スクリーンを飛び出した橋蔵さまに会うことができるのですから大変。早朝4時頃には待っている人達が、9時にはスタジアムを二巻にし、約2万人に近い女性ファンが押しかけ、警官の出動もでたほどでした。美空ひばりさん、雪村いづみさん、星美智子さん、浦里はるみさんが応援出演して橋蔵さまを祝福してくださいました。楽屋では、花柳啓之先生も来ていて確認のお稽古。同じプロのひばりさんは、一生懸命橋蔵さまのために動いてくださっていました。 「若さま侍」の橋蔵さまが颯爽と登場した時は割れんばかりの喝采が・・殺陣などを披露しました。これだけでも橋蔵さまに魅せられているファン。そこへ極め付けの舞踊「藤娘」です。これには歌舞伎時代を見ていた方も初めて見た方も、その美しさにうっとり。長唄囃子連中は菊五郎劇団の方達、息も合い橋蔵さまは晴れの舞台を飾りました。橋蔵さま、映画に来てから初めてファンにお披露目した舞台での舞姿でした。ファンはここから、橋蔵さまの多彩な面を映画、舞台で見ていくことができたのです。ここで一言、橋蔵さまの命日も近いので橋蔵さまは映画俳優になりましたが、大川橋蔵は歌舞伎役者として生きましたね。そのことは「大川橋蔵特別公演」に、必ず歌舞伎での舞踊が入っていたことで分かります。六代目から学んできたことを忠実に守り、映画俳優になっても歌舞伎を忘れなかったのです。そして、藤間勘之丞として、舞踊家としての道も歩んでいたのです。橋蔵ファンは幸せでしたね。デビューから三年経った頃の雑誌のインタビューで、橋蔵さまはこのようにおっしゃっていました。「橋蔵まつり」は年に1回~2回開くようになりましたが、ひばりちゃんの応援を得て開催した「第一回橋蔵まつり」のことは忘れられません。ファンの皆様のお蔭と感激の涙に人知れずくれたものです。「藤娘」を踊ったり、ぼくの十八番「若さま侍」の殺陣をやったり、とにかく華やかな「橋蔵まつり」で、未だにその日のことをはっきりとぼくの脳裏に焼き付いているのです。俳優として映画をはなれ、個人のお祭りみたいなこういう実演で、大勢のファンの方が集まってくださると言うのは、俳優冥利につきるものといつも心にしております。歌舞伎の世界から映画に入ったぼくのことですから、舞台というものがそれがどこの小屋であろうとやはり懐かしく、いまでも実演というと心おどるものがあるぼくです。デビューしてから間もない「橋蔵まつり」で、いまその頃の顔を見ますと、やはりいろんな意味で心労するものが今より多かったからでしょうか。少し痩せていたようですが、それが人一倍懐かしいのも、やはり「橋蔵まつり」が盛大に僕の前途を祝福してくれたからといってよいでしょう。その「橋蔵まつり」で「若さま侍」の一コマを上演するということで依頼されたシナリオライターが当日面白い光景を目にした事をはなしていました。彼が打ち合わせで初めて会った時の、橋蔵さまに対する第一印象はちょっと僕は驚いた。あまりにも役者らしくないからである。この人が、丁髷をつけて剣をとると、あの颯爽たる大川橋蔵になるのかと思うと、何だか不思議な気がした。素顔の橋蔵君はそんな第一印象だった。前日に立稽古を簡単にしていたが、当日も開演前に稽古をするというので、彼が国際スタジアムに出かけた時に見た光景でのことでした。もの凄い人垣がスタジアム前の広場に群がり、行列は両国橋の近くまであったそうです。祝って各社の人気スターがゲスト出演するため会場前の広場にスターの自家用車が止まるたびに、〇〇よ、〇〇だわと、橋蔵ファンが車のまわりへ殺到し、大変な騒ぎようだったようです。ここから、物事が起こるのでした。この騒ぎの最中に、誠に妙なことが起こったのだ、といっています。彼だけが気がついたことで、他の人は誰も気がつかないし全然知らなかったようだった、といいます。橋蔵ファンの人達がゲストスターが到着のたび取り囲んで熱狂している時、当日出演者の控室になっていた国際スタジアムの前の旅館から何と橋蔵君が出て来たのです。そして、橋蔵君は大騒ぎをしているファンのひと浪を平然とした態度で「ちょっとすみません」とか言いながら巧みに掻き分けて、スタジアムの事務所の方へ歩いて行ったのです。ところが、その周りにいた誰一人気がつかなかないのです。自分たちが身に来ている当の橋蔵君がすぐ傍らを通っているのに気がつかないのです。まさかそんなところを歩いているとは思わなかったのでしょう。橋蔵君は、ゲストスターが自分のファンにもみくちゃにされている間に、悠々と事務所に入ってしまったのです。橋蔵くんが、ファンの心理の盲点を突いたような光景を目撃して、本当に変な気がしました。もし、ファンの一人が気がついたらどんな騒ぎになっていたのでしょう。恐らく橋蔵君は一瞬のうちにファンの攻撃を受け、クタクタにされてしまったに相違ありません。どうして、あんなに大勢の人達が、一人も橋蔵さまの通ったことを知らなかったのでしょう。彼にはそれがよく分かったそうです。橋蔵君は背広を着て道を歩いていると、いかにも当たり前なサラリーマン風の青年なのだ。強烈な個性を感じさせない代わりに、我々の身辺によくいるような、親しみやすい好青年である。だから、ファンもうっかりしていたのだろう。橋蔵君の魅力はこの辺にあるのではないか。余分な話になりますが映画、舞台の橋蔵さまは端整な顔立ちでお化粧映えします。ご自分の魅力を知っています。映画スター大川橋蔵は素敵ですが素顔の橋蔵さまを知らない人は近寄りがたいと思います。優しい人懐こいそして明るい素顔の橋蔵さまを知るとたまりません。撮影の合間にファンに接する時、集いでの時等の橋蔵さまを知ると、スターとしてだけではなく素顔の橋蔵さまの魅力にもファンは魅かれていったのです。その良さが、映画の中にも見られるのですよ。私は、役の上の橋蔵さまに今でも映像で魅せられているのは当然ですが、橋蔵さまを想い出すのは、後援会のお手伝いをしたりして直にお話をしたりしていた時の素顔の橋蔵さまが、大きな財産になっています。だからこそ、作品にもっと深く入り込んで、一コマ一コマから橋蔵さまの良さを探っていこうとする気持ちが多いのではないかと思います。
2016年12月01日
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「笛吹若武者」「謎の挑戦状」いかがでしたでしょうか。橋蔵さまが東映の作品に出演する年代に、ちょうど老若男女が映画館に是非でも行きたいという作品を手掛ける時代、東映黄金娯楽時代劇の到来が来たのです。早くから東映が目をつけていた橋蔵さまですが、20年いた歌舞伎の世界、若手として人気があがっている時ですから、将来を考えた時新しい世界に飛び込むことは難しい判断だったと思います。それに、錦之助さんや雷蔵さんからすると映画デビューするには年齢が遅かったですもの。もう少し早く映画界に来ていたら橋蔵さまはどのようになっていたのかな?・・と時々考えてみることもあります。歌舞伎界におられたら、一生こんな素敵な方を見ることは出来なかったかも・・と思うと、映画界に来てくれたことは本当に有難うと感謝でいっぱいです。私は当時まだ、小学生になったばかりで、映画館にも連れて行ってもらえませんでしたが、橋蔵さまが映画に出られるまでの東映の若手のものと言えば、子供にも受ける痛快活劇的なものが多かったように思えます。錦之助さん、千代之介さんで、笛吹童子・里見八犬伝・紅孔雀・三日月童子なのシリーズものが流行っていた時代でした。そういえば、美空ひばりさん主演の1954年封切の「ひよどり草紙」という映画ご存知でしょうか。相手役の最初の候補者は大川橋蔵さまだったのですよ。なかなか難しい歌舞伎の世界、六代目菊五郎の養子ということもあり、劇団内部事情、家庭の事情、松竹さんとの関係と、複雑な環境にあった橋蔵さまであったため、この映画でのひばりさんとの共演企画は出来なかったようです。それで、次の候補に錦之助さん、雷蔵さんとあがって、錦之助さんになったようです。 この作品に橋蔵さまが出ていたら、何かがもう少し変わっていたのではと思えてなりません。「謎の挑戦状」の作品を書いたシナリオライター比佐芳武さんも橋蔵さまを映画界にとマキノ光雄氏に提案したひとりでした。東横ホールで公演した橋蔵さまの舞台写真を新聞でパッと見た瞬間に、「これはモノになるぞ」と思い、「大川橋蔵、これはいいですよ」とマキノ光雄さんに進言した一人です。第一回の「笛吹若武者」のスチールを見て、自分のカンは狂っていなかったという自信をもったと言っています。そこで比佐さんは自分の書いた「謎の決闘状」でつむじ風の半次という役を振って見たということです。女形出身なので、粋のよい半次をどうこなすか楽しみで期待していたのだと。いささかの心配もあったようでしたが、初日の撮影を見たところ、舞台臭はあったにしろ、そのキマリの良さは半次を演じてピッタリで成功であったと言っています。そして、比佐氏は撮影が進むにつれ橋蔵さまに幾つか新しい発見をしたそうです。同じ半次の役でありながらカメラ馴れするに従って、最初の舞台臭の芝居から日を追って映画的な演技になってきたということ。こんなに早く、長く身に沁みついた舞台の演技の殻を脱皮し、映画の演技を掴んだ、ということは、驚異であり、カンの良さと素質を物語るものだと感心したと言っています。(この件に関しては、他の人も同じようなことを言っています。今まで歌舞伎界から映画に来た人たちは皆その癖がなかなかとるのに苦労している様子が、作品を見ていてもわかる。だが、大川橋蔵さまも苦労はしたであろうが、作品からはそれが見受けられないと言っ ています。)その中で、ムシリのヅラがよく似あうやくざ役に、非常に独特の性質を発見したこと。橋蔵さまの個性を生かした股旅映画を書いて見たいと思ったのです。ムシリが似合う、お色気は十分だし、やくざの姿、土足裾取り(仁義を切る)、のスタイルも綺麗だ。ということで、1957年に「喧嘩道中」を書いています。橋蔵さまというと、「若さま」「新吾」がという方が多いのですが、比佐さんのおっしゃる「やくざ姿」・・・私も格好よく素敵、橋蔵さまを語るとき外すことは出来ません。専務のマキノ光雄さんから、橋蔵さまは東映入社当時に言われたそうです。「一度や二度は失敗してもかまわない。お前が失敗しようがつたなかろ うが主演主演で撮っていって、スターに仕立ててから、会社が儲けさ せてもらう。何も最初からお前の身体で会社が儲けようという気持ち は毛頭ない」と。橋蔵さまがのちに話しています。「それで楽な気持ちでやれ自信が持てたのと、時代劇ファンが若くて新 しいスターが出てくるのを待っていたという、ちょうどよい時期だっ たのが良かったのではないか」、と。そして、橋蔵さまが挑んだ若さま、橋蔵さまご自身もこんな急速に人気が出るとは思っていなかったでしょうね。はっきり言って、新人時代劇俳優として勉強、研究がこれから沢山あるのですから・・・ね、橋蔵さま。熱心で勉強家ですから、俳優になってからは、時間があれば剣会の人達と練習し、乗馬も必須であると習い始めます。その上達ぶりが一作品ごとに見えてきます。 そしてまず、びっくりすることは、第三作品「若さま侍捕物帖」からの橋蔵さまの声です。3か月で俳優としての発声に変えたのです・・・とても清々しくて、ほれぼれする声、になっているのです。橋蔵さまの人気も出てきていたので、新芸プロ福山社長はここらで橋蔵さまの人気を高めるために、シリーズ物を何か撮ろうではないか、とマキノ光雄氏と相談の結果、歌舞伎での特色を生かし、しかもその経験を十分活用できる役で、シリーズ物として可能な捕物帖ということから、城昌幸氏原作の「若さま侍」に目をつけました。岡田制作部長が書いています。クランクイン2日目頃、所内でおいと役の星美智子さんに出会った時に、「橋蔵さんてとても素晴らしいわね」と言ってきたそうです。「そんなにいいかね」とからかうと星さんはむきになって橋蔵さまのことをほめちぎったと。映画会における子役からの大ベテランの星さんをも感心させる大川橋蔵という男はなかなかの人物だなと思った、と言っています。なんともいえない気品のある美丈夫ぶりに「これでスターの地位は決まったな」と思ったということです。彗星のごとく現れ、一躍スターの座についたのです。橋蔵さまがその時言っています。「真冬のさなか、徹夜ロケで立回りをやりましたが、ほとんど辛いとは 思いませんでした。映画に慣れはじめると同時に、その面白さも分か りかけたのでしょう。なんとかこの道でやっていけそうな気がしてき ました。」若さま侍捕物帖における江戸の小粋な殿様の役は、橋蔵さまにうってつけで、2作連続撮影封切になります。さあ、橋蔵さまの意思も固まってきたところで、 次回は「若さま侍捕物帖」シリーズ一作目「前篇 地獄の皿屋敷」に入りたいと思います。
2016年09月18日
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私の大好きな時代劇スター大川橋蔵さまの作品を通して、いろいろと語っていきたいと思っています。私は、関東も北の方の田舎で育ちました。当時は、田舎にかかる映画は、東京に比べると大分遅くになっていました。八歳の小学生の夏休み叔母に連れられ、町の映画館の前を通った時、あるポスターに目が釘付けになりました。刀をかまえた立姿がとても格好いいのです。当時の娯楽といえば一つは映画でした。中に入ったら画面に映っていた男の人に惹きつけられました。「旅笠道中」の草間の半次郎が両腕を懐に入れ街道を歩いている場面でした。歩く姿がいい、そして画面いっぱいに映しだされた顔、「素敵」と思いました。私は、虜になってしまいました。まだ小学低学年なのに。こうなっては、途中から館内に入り見たわけですから、どうしても最初から見なければ気がおさまりません。当時は入れ替えなしの時ですから、何回見ていてもいいわけです。それからが大変。学校帰り映画館の前で確認をしたり、通りにかかっているポスター看板を毎日確認したり・・学校も大切ですが、こちらも大切。当時は二週間に一回は変わっていましたから。ポスターを遠くから見ても、美しい大川橋蔵さまは、さっと見つけられるのです。そんなこんなで、書店で平凡、明星、近代映画、映画ファンと雑誌を立ち読みしていましたが、それでは物足りず後援会に入りました。高校生までは田舎での生活、よーし、東京の大学に行ったら橋蔵さまの近くに行けるかも、と受験勉強も当時橋蔵さまはテレビの「銭形平次」をやっておられましたから、私は「銭形平次」を見ながら勉強していました。受験も東京の宿は、テレビがないところはいやといって、明日受験という時も、水曜日「銭形平次」を見ていました。さあ、後援会に入っていましたが、出来ることなら近くで・・と、歌舞伎座裏にあった東京の後援会事務所を訪ね、事務をされている方とお話をしていましたら、手伝ってほしいと言われ、この上もない言葉をいただきすぐにOKしました。後援会のイベント手伝い、劇場での大川橋蔵特別公演の手伝いと、時間が許す限りは参加させていただきました。後援会の集いの時などは始まる前の打合せで橋蔵さまに直にお会いできるので最高でした。本当に楽しい日々でした。橋蔵さまがお亡くなりになって、三十二年経ちました。ファンも年を重ねておりますので、作品を通して大川橋蔵さまをファンの立場から残していけたらと思い、ブログを書くことにいたしました。このサイトは、非営利で運営しておりますので、画像・写真掲載等に関して、関係者皆様の温かいご理解を切にお願い申し上げます。
2016年09月12日
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