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■ 信仰をする人達の陥りやすい欠点がある。 それは、経済生活に失敗すると「まあ、今は損しても、心の勉強をしたからいいじゃないか」と安易に逃避してしまうことである。例えば「あの人は信仰に熱心だからと思って金を貸したが、結局返してもらえなかった」というような時、後になって、人に金を貨す時は社会の慣習と法律の定めるところに従って、貸借関係は明確にして置かなければならないということに気づく。 また、交通事故などあると「大難が小難ですんでよかった。信仰していなければ死ぬところだった。信仰のお蔭だ」といって、事故を起こさないようにするにはどうすればいいかという、当然前もって注意しなければならいことを勉強せず、いつも問題が起ってしまってから、後手後手に物事を考えることが欠点である。それは「信仰していれば何事も良くなる」というまちがった他力信仰の欠点である。 釈尊は「苦しみの原因は無明にある」といわれた。「無明」とは「知るべきことを知らない」即ち「智慧がない」ということである。いくら神仏を念じていても、自動車の運転法を知らなかったら、ただ信じているというだけでは自動車は動かない。経済には経済の法則がある。いくら信仰していても、経済、経営の法則を知らなければ失敗するに決まっている。 だから、正しい信仰即ち正法を信ずる人達は、前向きに積極的に、人生に必要な諸問題については、どしどし勉強して実践して行くのである。即ち自力で勉強することは勉強し、実践することは実践して、その上で天地創造の神を信ずることである。 正法を信ずる人達は常に前向きで明るく積極的である。他力信仰のまちがった信仰をしている人達は、逃避的で暗く消極的である。正法誌1981年7月 第35号より■ プチコメント今回の言葉は、何にでも頼りたがる僕自身にとっては、とても耳の痛い言葉です。信仰の話はともかくとして、何か悪い事があって、間一髪避けた場合、ああ~、運が良かった、と思ってしまう事はよくあると思います。また、この程度でよかった、と思ってしまう自分自身があります。まあ、あれと引き換えにしたとすれば、まあ、いいか~なんて、楽天的に物事をすり替えて割り切ってしまう、悪い癖の自分自身もあります。実際に、何かで間一髪で助かった場合、「何々のお陰で」と考えてしまう人も多いのではないでしょうか。僕自身もそうですが。もちろん、本当に「何かのお陰」もあるのでしょうが・・・・しかし冷静に考えれば、病気から奇跡の生還を果たすよりも、最初から病気にならないのがいいし、事故に会うよりも、会わないほうがいいですが・・・しかし、最初からその場面に出くわさないほうが、良いに決まっています。何も災いが起こらないほうが、よっぽど「何々のお陰で」といえるでしょう。運のバロメーターを見る場合、運の悪い順に1 事故にあう → 凄く運が悪い まともに、心がその事故に縁のある波動と引き合ってしまった2 事故に間一髪で避けた → 助けられたが、 その場面に引き寄せられてしまう心の波動があるから、要注意3 事故の場面に出くわした → 明日はわが身かもしれない その場所に出くわさなければならないのは、 運気が、あるいは心の波動が落ちているから、 引き寄せられやすくなっている・・・これまた注意4 日常そのような場面とは、全く無関係な状態。 → 事故に縁のある波動と、心が引き合っていないから、 その人にとっては、平和で安心な環境が延々と続く これは、理想ですね。 この状態を維持したいものです。一例ではありますが、日頃、上記のどの場面に出くわしやすいかで、今の自分の運気を察する事が出来ると思います。これは、常日頃の感情面での心の思い方によって、作用されるといってもよいでしょう。考え方、言動が立派でも、心の中の感情に乱れがあったら、事故や、不幸を引き寄せてしまいます。これは、生きていくうえでの重要なポイントです。穏やかな心の波動を出しながら、常に安らい心で、日常の事柄に対して、現実的に考え、客観的に見つめていきたいものです。守るのは、自分自身の心と、その奥に繋がっている世界の導きの世界。外側にいる神様はいくら拝んでも、守ってくれないでしょう。もしよい方に変わったとしたら、その事をキッカケとして、その人の心がきれいになったからでしょうね。死後世界地図(日本編)
2008.02.14
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■ 霊能があるというだけでその人を信じてはならない ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(園頭先生のお話より)昭和48年3月、高橋信次先生に帰依した時に、「霊能があるというだけでその人を信じてはならない。正しく法の説けない霊能者を信じてはならない。いうこととやることの違う人を信じてはならない」と教えられたのであった。 だから私は、その人がどんなすばらしい霊能力があったとしても、それだけでその人を信ずるということは絶対にしない。いろいろな霊能力は示しても、正しく神理を説く力のない人は、信じないことにしている。この世もあの世も、その人がどれだけ心を大きくして調和させたかによって、その人の値打ちが決まるのであるから、神理も知らずに.霊能力者のいいなりになるということは、それは信仰ではないのです、自主性を持たずに自分の自由な心で判断するということをせずに盲信し盲従するその心は、地獄界へ通ずる危険な心なのです。 これからいろいろな心霊現象が起ってくるでしょうし、また霊能力者が現われてくるでしょう。多くの人の前で実演をする人も出てくるでしょう。それはそういうこともある、ということを知れば、それで充分であり、それ以外の何ものでもないので、そういうものを信仰の対象としてはならないのです。 現在の日本には、町に村に、いろいろな霊媒信仰をする人達がたくさんありますが、そういう信仰にとどまって、当てごとをしてもらって、いわれた通りに行動するというようなことに、終ってしまったのではいけないのであります。 日本人のほとんどは他力信仰です、他力本願です。自分が自分の運命の主人公であることを忘れて、自分の気ままに怒ったり泣いたり笑ったりしていて、「そうして運命をよくして下さい」と祈ったり拝んだりしています。腹が立たなくなりますようにと一生祈ってみても、自分が腹を立てるという行為をやめなかったら、腹が立つということはなくならないはずです。 他力信仰は、他に対する責任転嫁になります。自分の悪いことを人の責任にしたり、世の中のせいにしてしまいます。家の中を散らかし放しにして置いて、 「神さま、どうぞ家の中をきれいにして下さい」と祈ってみても家の中はきれいにならないでしょう。自分で自分の心の中に悪や煩悩執着をつくり出しておいて、いくら神さまに祈ってみても、それで悪や煩悩執着がなくなるということはないでしよう。 世の中をよくするのでも、誰かがよくするだろうといって、一人一人が悪いことをしていたのでは、いつまでたっても世の中はよくならないでしよう。世界を平和にする道も、廻り道のようですが、やはり一人一人が平和な心を持つこと以外に、平和が実現することはないのです。~正法誌 第35号 1981年7月号より抜粋~==============================================● プチコメント昨年末に、問題となった「○世界」も、この事に当てはまるでしょうね。ここで被害を作った人達は、論外です。そのようにして、多くの人を惑わした罪は、計り知れないものがあると思います。反省も出来ない人達です。それは神の名を利用した、心無い人達です。振り込み詐欺と一緒です。しかし、視点を変えて、被害にあった人達にも、落ち度はなかったか?運勢を良くしたいならば、自分の心を明るくすればよいのです。お金は、かからない世界なのです。お金が欲しいのは、神様でなく、する側の人達なのです。もちろん、本当に真心を持って祈ってくれる人も沢山いるでしょう。その人達になどにも、生活があります。当然ながら、それに対する報酬はなければいけないでしょう。ですから、常識の範囲で「お礼」をするのは、人間として当然なことでしょう。しかし、それを騙しに使う人もいるという事を、知る必要があります。それは別として、相談する側にも、運勢は人に作ってもらう、神様に作ってもらうという、発想がある限りは、このような騙しの世界は、延々と続いてしまうでしょう。運勢を良くするための方法は、いろいろな人から学んだほうが良いのはもちろんです。しかし、最終的には、運勢を作るのは、あくまでも自分の、その時々、その瞬間の、心の波動の出し方にある、という事を良く知る必要があると思います。それは、自分の心の中に「神性」があるからです。ですから、自分の心を見つめ、信ずることです。それが運勢を高める最短だといえるでしょう。==============================================【心と波動の世界・総合版】関連ページが一つにまとめられています。http://sefuti.seesaa.net/自分を浄化する方法
2008.01.11
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