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あまりに的を得てしまったので自分でも驚愕である。【自ブログ17日の日記から引用】> 人は一人では生きられない。>この言葉の意味を理解できなければ、盲信の危険性は理解できないだろう。> 自らの絶対性を盲信することは他者の排斥につながる。>だがそれは他者からの排斥を呼び込むことになることを自覚しなければならないの>である。 命のための会議場は既に廃墟だ。上の警句も彼には届かなかったようである。理解はできないだろうと思ってはいたものの、なんというか・・・他の二人の共同発起人すら書き込まない状況で、いまだに妄想を書き続ける管理人氏の姿に哀れさを感じてしまうのは日本人ゆえの感性なのだろうか? あのブログの末路こそが盲信者の共通の末路であるとするならば、それを反面教師とすることだけが、我々の彼にしてあげられる唯一つの供養だろう。 合掌。
May 25, 2005
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イラク戦争に関する海外の法学者の見解は「当該紛争は国際法上違法」が大半だそうである。欧州諸国だけでなく米国の法学者も同様の見解であるらしい。そのような見解があることはある意味当然だし、どのような判断が下されることになるかにも興味はある。個人的にはおそらく「米国の暴走」という結論になるのではないかと考えているが、しかしそういった今後出るであろう結論を元にあるいは出たあとの結論を元にしてでもであるが、我が自衛隊のイラク派遣を中止すべしという論調に対しては私は否定的である。現状では反対(撤退支持)論者は自衛隊の派遣を米国への追従政策の一環と見なし、それ故に否定しているようだ。だがイラクへの自衛隊派遣を米国へのおべんちゃらとしか見られないような狭隘な視野では、複雑化した国際情勢を語ることは出来ない。本稿では自衛隊のイラク復興支援について、日本にとっての意義、他陣営からの意義を考えてみたい。1 日本の思惑とその成果 日本国としての「自衛隊派遣」への思惑は何であろうか。国内で多くの賛否両論の衝突を生み出しながら、けして少なくはない費用と人命の危険(加えて言うなら政権存続の危険すら存在した)を考慮してさえもこれを実行するからには、当然何らかの目的があるはずである。 多くの主義の方々は忘れ去っているのかも知れないが、三十数年前のオイルショックを思い出してほしい。今ほどにモータリゼーションが進まず、燃料を使用しなかったはずのあの時代においてすら、石油価格の異常な高騰は日本経済や国民生活に大きな影響を及ぼした。(世界的にもである)今この現在、日本が最も輸入先として依存しているのは当時と変わらぬ中東地域である。ここが不安定であるということは、日本のエネルギー政策に重大な影響を及ぼすことは明白すぎて語るまでもない。日本のエネルギー政策上から中東地域が早期に安定することが必要だから、自衛隊を派遣しているのだ。 しかし中東を安定させるだけならば日本以外の他国軍やイラク自らの手によらせた方が、時間こそかかるが費用や安全の面では良いのではないかという考えもあるだろう。だがそれは大きな間違いである。ただ安定するだけでは日本の国益にならないのだ。 中東地域の人々はたいへん誇り高い民族からなっている。人的支援ではなく財政的支援に絞ればという意見、それがそもそもの間違いで彼らを徹底的に愚弄した物言いだ。なぜイラク派遣自衛隊が他国の派遣軍に比して高い「親近感」を持たれ、中には佐藤1佐のように「仲間・友人」とまで呼ばれ「嫁を世話しようか」(佐藤1佐は日本に愛する家族がいると断られたそうだが)と持ちかけられる扱いを受けているかを考えてほしい。 イラクに限らず中東地域の人々はその宗教的背景から「金持ちは貧乏人に金を恵んで当たり前」的思想がある。実際現在のイラクは戦争によって荒廃し財政的に苦しい状況にあるので、財政的に余裕がある国が資金援助を行ってもさほどに感謝するわけではない。実例を挙げれば湾岸戦争時に多額の戦費を供出し、同じイスラム圏のクウェートに対する復興に財政的支援を怠らなかった日本がどのように評価されたか。「クウェート解放に感謝する」という新聞広告に日本は紹介されたか?答えは否である。だが海上自衛隊掃海艇がペルシャ湾に派遣され機雷除去作業を実施したのち、すかさずその感謝広告の各国の国旗の中に「日の丸」が加えられた事実をどう考えるか。中東の人々はともに汗と血を流す仲間には感謝と親愛の情を惜しまない。だが安全な場所から金だけを恵む人々には一応の謝辞を示すものの、そこでおしまいだ。 自衛隊が「仲間」として扱われ、他の外国の軍組織と一線を画しているのはそういう理由だ。自衛隊は復興支援において、地元住民を雇用し「彼らに技術指導をしながらともに汗を流す」支援を行っている。イラク国民はその「ともに汗を流す」姿勢を見て「自衛隊=日本は敵ではなく仲間」と(すくなくともサマワでは)考え、実際にそう扱われているのである。 イラクとの外交関係上の利益を考えてみれば、こういった事実の好影響は明白だ。 日本という国に対する信頼感を(一地域とはいえ)持った国家が、その自らの国家が安定したあとにこれをどう扱うだろうか。いずれイラクが国連や多国籍軍の手を放れて、完全に独立した民主国家として新たな歴史を歩み出すことは間違いない。このときともに汗を流し、民生の安定に寄与し、国民の間でも「仲間」として扱われた自衛隊を派遣した日本に対して信頼感を持たないことがあろうか?いやない。彼らは間違いなく極東の石油輸入大国に対して、他の欧米諸国とは違った扱いをするだろう。(いまですらそうだ)日本が外交の方針として行っている「信頼醸成」を達成するために国を代表して派遣された自衛隊は極めて重要なファクターなのだ。これに対してNGOでは同様のことが出来ないのか、という意見もあるだろう。彼の地が危険であるとかそういう要素を度外視しても「これだけでは不足である」と言わねばならない。(なお、NGO以外の例えば外務省等との契約による民間の派遣については、以前災害派遣について述べたような理由で、自己完結能力を持つ自衛隊の派遣の方が全体的なコストパフォーマンスが高いとだけ付記しておく) ここで考えてほしい最重要の要素は、NGOは善意の民間人であって「日本国の代表」ではないということだ。イラクに対する同等の支援を行えると仮定した場合でも、それらの民間支援は国家としての日本にとっての信頼醸成、すなわち「成果」にはなり得ない。NGOに属する個人あるいは組織自体への謝意は得られても、それは日本に対する利得には直結しないということである。 よって日本としてはNGOと平行した自衛隊派遣を行うことはあっても、一定の成果を上げたと判断するまで自衛隊を撤収させることはありえない。(自衛隊の撤収も、外務省その他の支援の道筋がたってからになるだろう) ボランティアの支援は支援することによる救済が目的であり、国家として行う支援はその結果としてもたらされる信頼関係等が目的なのである。これらは同様な利益を受益国たるイラクに対しては与えるが、その反面の日本にとっての利益で見るならば全く同列に考えることができない似て非なるものなのである。これらの関係に軽重を問う発想自体が既に間違っていることが理解してもらえたであろうか。 さて最後にイラク以外の国家との外交関係での利益を考えてみよう。中東地域においての反米的思想の広がりは様々な要素からも否定できないものになっている。この場合「主義の方々」の言う米国追従だけを目的としたイラク派遣ならば日本にとって何らプラスにならないが、自衛隊がそういう活動・扱いをされていないことは既に前述したとおりである。 まず考えるべきは日本として外すことの出来ない同盟国の米国に対しての面であるが、米国の行った戦争に対して直接的な戦力を派遣こそしないものの、その戦後復興の段階で自衛隊を派遣したことは、米国に対して「憲法による制限の枠内であれば、日本は米国にとって頼りになる同盟国である」ということを明示的に示したことは大きい。実際にブッシュ政権はけして親日ではないのだが、自国の政策を支持する同盟国をないがしろにすることは出来ず、逆に様々な面で日本に対して譲歩する遠因となっていることは疑いようのない事実である。(輸入牛肉問題などを見てほしい) またより大きな国際関係で見れば、国連において常任理事国入りすることへの布石としての側面は見逃してはならない。自衛以外の戦闘を一切禁じ、戦災国イラクのインフラの復興に対して金銭的なものだけでなく人的な貢献を行う日本は、平和的国家としての一定以上の評価を勝ち取っていることは忘れてはならない。2 米国の思惑とその成果 米軍の発想からすれば、自衛隊のように重武装を持たずにかつ米軍に対する戦闘的な支援を期待できず、逆にガードすることを要求される存在は本来ならば迷惑・不用な存在のはずである。にもかかわらず米国は自衛隊による復興支援派遣に対して高い評価を与えている。このことからも考えれば米軍は自衛隊の価値を軍事面でのパートナー、増援としての存在価値ではなく別のものに求めていることが推測できる。 では彼らは自衛隊=日本に対して何を求めているのだろうか。米国は今回のイラク戦争が国際的合意の元に行われた戦争ではないことを認識している。それゆえ米国は少しでも多くの賛同者を必要としているのである。 この点において日本は極めて重要な価値を持つ。終戦後平和憲法を堅持することで一切の戦争を否定し、米国との同盟を堅持することで戦後60年で世界有数の経済大国となった日本は、現在のイラクから見れば「今後数十年の到達目標」となるものだ。またイラク以外の国家からは、日本が復興に協力することが新生イラクの安定性に対する保証となり(これは巧くいってないようだが)米国の行った不法な戦争行為は結果として「民主的体制」を作り上げるのに寄与したという状況証拠となりうる。 具体的な戦力としてカウントできないとはいえ、外交的戦力(?)としての日本は国際社会ではそれなり以上の価値を有する国家となっているのである。3 イラクの思惑とその成果 受益国たるイラクの場合、その思惑は最も単純である。イラクでは反米的思想が広がりつつあり、米国をはじめとする多国籍軍が力で押さえようとしても押さえきれない状態になりつつあるのもまた事実だ。しかしその意義はどうあれ、既に起こって終わってしまったイラク戦争による荒廃は何としてでも復帰させなくては、かつての中東一の先進国としてのプライドが許さない。だが「侵略してきた多国籍軍」に対して媚びを売れるほどにはイラク人のプライドは安くはない。これがフランス人あたりならしっかり支援をもらって腹の内で舌を出すくらいの芸があったのだろうが、良い意味で純真なイラク人にはそこまでは無理である。 そこに同じく米国に対する敗戦の歴史を持つ極東の経済大国が、経済力を背景に自衛隊を派遣してきたわけである。自衛隊が基礎固めをしたあとにその巨大な経済力がもたらすものを考えれば、自衛隊に対する反政府勢力のアクションを州をあげて阻止するのはある意味当然である。自衛隊で終わる日本の支援ではない、彼らの思惑はそこにある。 現在イラクを巡る支援の情勢は、少なくともこの3面からの考察を必要とする。子供のように「憲法が」というのは簡単だ。だが戦災に苦しんでいるイラク国民は日本国憲法の庇護を受けて安穏と日々を送っているわけではない。国際社会における様々な利害得失を勘案できる冷めた外交的視点の下で、日本の国益に基づいて対象国にも益がある行動が取れる視野の広さが今は求められているのである。
May 23, 2005
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興禅氏の原文 招かれざる客はご退場いただいております。私興禅が管理者としてシャットアウトしているのは、当掲示板のテーマから大きく逸脱している思想を持つ方の書き込みです。特に、「創氏改名」などという恥知らずなハンドルネームの人の書き込みは、絶対に認めません。 また、ここに書き込みができることを当然の権利だなどと勘違いしないことです。薄ら寒い自己主張は自分のホームページでしていただくようお願い申し上げます。【日本語翻訳文】 招かれざる客はなかったことにしております。私興禅が管理者としてシャットアウトしているのは、私が答えることができない理詰めの質問を持つ方の書き込みです。特に、職業が「自衛官」「警察官」などという恥知らずな方や筋道だった資料を準備して質問をする人の書き込みは、回答できないので絶対に認めません。 また、ここに書き込みができることを当然の権利だなどと掲示板の表看板だけで勘違いしないことです。薄っぺらい私達の自己主張を論破することは自分のホームページでしていただくようお願い申し上げます。
May 22, 2005
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最近、興善氏にかまけすぎて少し偏った日記になっていたなぁと少し反省しようとしたものの、彼と彼の掲示板はいわゆる「主義者の方々」の主張の宝庫であり、言ってみれば「主義者のデパート」状態で他のブログを見なくても題材に事欠かないという不精者の私にはなかなかに見捨てられない場所なためにどうしても利用してしまう。そういったことから、掲示板の他の共同発起人が興善氏のことを「忘れたい」「見捨てたい」「無かったことにする」などとなっても、私は興善氏が活動を続ける限り題材にし続けてあげるのでどうか安心してほしい。【以下本文】 さて憲法改正反対派(長いので以後文字数の都合上「護憲派」と言う)には「憲法改正が徴兵につながるから反対する」という意見が多く見られる。(興善氏のような「反対のための反対派」はむしろ少数だ)彼らは自民党の改憲案が通った場合「徴兵制の復活」があり得ると判断しているようだが、この彼らの根拠について考察してみよう。 なお前提条件としてご理解いただきたいのは、私は常々表明しているとおり「徴兵反対派」であるということだ。その理由については「命のための会議場」でまだ消されていなければ簡単にまとめたものを見ることが出来る。それを見ていただいた上で不明点など御質問いただければ、可能な限りお答えしたいと思う。 本記事を書くきっかけになったのはピレネー山脈氏の質問の中にあった「徴兵は憲法違反ではない」という一文である。(念のため言えばピレネー山脈氏は私と同じで徴兵には反対のようである。これは氏の質問の中に出てきた一センテンスであり、氏の主義・主張を表したものではないと考える)この質問をきっかけに私自身憲法及び各種法令を確認してみたのだが、確かにこれを明確に禁じている項目は見つけられなかったのである。 だが、ある先輩とこの話を職場の休憩時間に煙草を吸いながらしていたところ「職業選択の自由に引っかかる可能性はあるよね」との示唆をいただいた。確かに強制的に兵役を課す「徴兵」において、職業の自由は保障されているとは言えまい。しかし同様に憲法においては「自由と権利は国民が不断の努力で維持する」といった旨の記述もある。この不断の努力に「国を守ること」が含まれるかどうか、そこの「憲法解釈」の幅によっては一概に否定できない可能性も考慮せねば結論は出ないのではないか、云々。・・・残念ながら短い休憩時間ではその程度の話しかできなかったわけではあるが。 この二つの事柄から考えるに、現行憲法では「徴兵制は明示的に禁止されてはいない」と言えるだろう。もう一歩踏み込んだ場合でも「職業選択の自由と、第3章冒頭部の記述の解釈如何によっては禁止されている、あるいはされていないどちらでも取ることが出来る。」と言えるのではないだろうか。この事柄に限らず、例えば自衛隊の是非についても解釈論で賛否が分かれているのが現実である。果たして一国一億三千万の人間の命運を預かる(やや大げさか?)最高法規が、単なる個人の考えに基づく憲法解釈で自由自在にその意味を変えてもいいものだろうか。これは例えば真実の意味での独裁者が政権を握ったならば、憲法改正という高いハードルを越えることなく徴兵を行い戦争を仕掛けることができるという危険性を孕んでいるということだ。憲法がそれを抑えうる安全弁だという主張を「主義の方々」がするのならば、その憲法を恣意的に歪められる現行の曖昧な状態を保つことが果たして正しい姿勢なのか?失礼な言い方をすれば興善氏を始めとする「命のための会議場」の共同発起人は、彼らが政権を取ったならば「自由に思うように憲法を解釈する」ために改憲に反対しているのではあるまいかとすら思える。 人間全てが性善説の具現化の存在ならば、そもそもの法などというものは必要ではない。だが前エントリーでも書いたことの繰り返しだが、それが事実ではありえないことの証明はいくらでも転がっている。彼らの悪用を少しでも妨げるために、憲法をもっと明示的な表現に改め、そして1945年ではない21世紀現代の日本と世界に誇れるものとすることが必要なのだ。【以下駄文】 興善氏のブログは惨憺たる状態だ。他者の言説に耳を傾けない行為は、彼らが蛇蝎のごとく忌み嫌う自民党ですら行わない行為である。彼らが行っている現状の行為は、単なる自己保身と自己弁護を動機とした最も蔑むべき「言論弾圧」に他ならない。恥すら知らないのであれば「命のための会議場」をあのままにして晒しておくが良い。彼ら自らが立てた「掲示板のルール」に最も反している存在だけが焼け跡に咲く毒草のように寂しく花をつけ続けることだろう。滅び去った彼らの建前の理想をここに掲げ、レクイエムとする。【墓碑銘】自らを自らの言葉で律せない愚か者たちの会議場、ここに眠る。>掲示板「命のための会議場」について> 意味のない意見交換・議論を行うのではなく、互いの意見を学び、対話を推進したいと考えております。「反戦・平和」を中心に意見交換をしてみませんか?> 但し、当掲示板では匿名の陰に隠れた荒らし行為や嫌がらせを厳に排除したいと思います。よって、下記のルールをご理解いただいた上で、マナーを遵守した書き込みをお願い申し上げます。>ルール>1.参加者は反戦・平和に興味のある方とさせていただきます。>2.意見交換の際、相手を尊重する事をお願いします。>3.不適切な資料要求をすることがないようにお願いします。>4.その他、公序良俗に反することのなきようお願い申し上げます。>5.管理者側で不適切と判断した書き込みは削除いたします。また、管理者側で問題があると判断した方の書き込みを一切拒否することがあります。
May 22, 2005
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今回の日記タイトルにはかなりの割合で「個人的嫌悪感・侮蔑感」が含まれている。しかしながら内容は常にも増してまじめなものであるし、かつタイトルが内容に無関係なわけでもない。なので「higeも大人げないなぁ」と軽く笑ってすませてもらえれば幸いである。 ここ2回ほどの記事で取り上げていたところの興善氏のブログにおいて、とうとう共同発起人で管理人たる氏にトラックバックまでも削除されてしまった。私だけならまだしも、信楽提督氏に対してまで「絶縁宣言」と取らざるをえない発言も書き込まれており、これらから類推するに当該掲示板等で興善氏個人の「回答能力」を上回る書き込みをした相手には「意味がない、出ていけ」としているようだ。盲信ここに極まれりでただ哀れと言うしかない。 私の場合、当該掲示板において少なくとも共同発起人の一人のピレネー山脈氏とは有意義な意見交換が期待できそうであったのだが、こうなってしまってはその継続は望むべくもないようだ。私としては大変残念であるが当該掲示板における発言を断念することになる可能性が極めて高い。(おそらく発言しても削除されるだろう。それはまさしく無駄なことである)ただ、しばらくはピレネー山脈氏とのやりとりの件もあり一方的に手を引くことは同氏に対し礼を失することにもなるので、該当する発言についてはこちらに場を移して日記記事として書くことになるだろう。(ピレネー山脈氏がここで返答してくれるかは全く定かではないのだが) ということで、興善氏ご当人からも「妄言は自分のところで吐け」と取れる温かいお言葉をいただいたので、今後は研究・検証の題材として氏の思想を扱い、それを元に私の意見を書き足して行くスタンスに移行することにする。【以下本文】 興善氏は当該掲示板において「自衛隊及び警察は武装しているが故に信頼できない」と発言している。これは裏を返せば興善氏が信頼し理想とする政府は「武装した公権力を保有していない」ということなのであろう。よってここでは思い切って興善氏の信頼を得るために、自衛隊・警察に限らず国家に属するもの全てが武装を放棄した、氏の理想国家を想像して述べてみよう。 おそらく間違いなく興善氏は深く考えることも無く、ただ自らの思想への盲信をもって「反対のための反対」を叫んでいるはずなので、当然それらが及ぼす多くの影響などは考察していないはずである。ならば彼に成り代わってこの場でその致命的問題点を明らかにし、ここを読んでくれている諸氏に呈示してみたいと思う。 一般的な認識では国家は国民の各種権利を保証し国民を保護するための存在である。そして国家がそれらのための行為を行う根拠・正当性を確保するとともに、これを行使する権力がどういうものであるかを規定するためにいわゆる憲法等が存在する。そしてその「憲法等」を国民に守らせるための実力を行使する機関としての「警察」(この場合の警察にはいわゆる国境警備隊や徴税機関などを含むだろう)があり、外敵から守るためには「軍隊」が存在しているわけである。一部の国家においては警察と軍隊の区分が曖昧なのは、上記の2つの目的、すなわち実力を行使することについて内向け・外向けを兼務させているからだ。(これについての問題点は近いうちに別記事で書こうと思う) マックス・ウェーバー(ドイツの社会学者)はその著書の中で、実力行使機関が存在しない状況では国家の概念は消滅し、無政府状態に近い事態が出現すると書いている。(マックス・ウェーバー著「職業としての政治」より)実力行使機関を持たない国家は当然実力を持って法を遵守させること、すなわち秩序維持を行えず、秩序が維持できないためどんなに崇高な理念を持った法といえどもいかなる実効性も持ち得ないと言うことである。 日本国憲法において国民の自由・権利は明示的に「憲法が保証する」と書かれている。しかしその実行部分は実力行使機関たる警察や自衛隊(日本以外では軍隊)がこれを代行し担っている。逆を言えば「憲法以外が国民全体にこれを保証することはない」のである。万一憲法が効力を発揮できない場合、我々が一般的に普遍のものと誤解している各種の「自由・権利」を得ることが出来るのは、自らが実力を持って他者にこれを保証・強要できる、すなわち何らかの武力を保有するものだけになることは想像に難くない。(これは法という概念が確立する前の原始的な社会などにも見られる状態である)実際に21世紀の現代においても、このような状態(法が効果を発揮できない状態)に陥ってしまった国家・地域(例えばアフリカの内戦地域のような状況が想像しやすいだろうか?)では、犯罪者、犯罪者集団、武装集団といったより強力・強大な武力を有する集団がエリアを支配する形を取り始め、暴力的犯罪(強盗・強姦・誘拐)等が多発することになっているのは各種報道などでもよく知られているところである。 暴力が民衆を支配し、法・秩序よりも物理的力、善よりも悪が優位に立つ世界。つい十数年前、このような設定のコミックが日本で大流行したのを覚えておられる方も多いだろう。議員を目指す興善氏が何かの間違いで権力を握ってしまったとき極めて短期間でそのコミックが現実のものとなる。それが【新世紀破壊王伝説 興善の拳】だ。しかしよく似たコミックの世界とは異なりその世界では強力な救世主は現れない。・・・なぜなら武器(力)を持つだけで信頼されない世界なのだから。 話が逸れてしまったが、そろそろ結論に移ろう。これは最悪の想像かも知れない。(興善氏が政権をとるのが最悪だというわけではない。それに極めて近くはあるが)しかし性善説が絶対の真理でもない限り、力あるものは相対的に力のないものを支配するであろうことは想像に難くない。それは歴史の中にいくらでも実例を探すことが出来るし、現代の世界を見てもいくらでも例が挙げられることからも明らかだ。 ある思想、特に政治的思想を他者に発するのならば、せめてそれが現実になったときどのような波及効果がありうるか、どういった問題がありそれをどう解決するかを考察し、それに対するビジョンを持つことが必要だ。 それも出来ない人間が未来や思想を語ることは、まさしく世界を破壊するに等しい愚行なのだということを理解する必要があるだろう。
May 19, 2005
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主義・主張・思想に目が眩むあまり、自らの行動すら振り返られなくなるということがある。特に自分が正しいと確信しているときに人はそういう状態になる。目が眩む=一時的に視覚が麻痺する=盲人状態、という連想からかこういう状態を一般に盲信と言うのだろう。 さて先日、私は盲信は「社会にとって危険」であるというエントリーを書いた。だが言葉が足りなかったようだ。盲信は「盲信する個人」に対しても危険を招くのである。 今日はその盲信から自己矛盾を犯してしまった人について述べ、なぜ「盲信は「盲信する個人」に対しても危険を招く」のかを相も変わらぬ長文で語ってみたいと思う。どうか見捨てずにおつきあいいただきたいと思う。【以下本文】(日本国憲法より)第九章 改正第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。 日本国憲法において憲法改正は上記の条文で規定されており、これを満たすことが出来るならば何ら違法性がないのは明白だ。また同様に改正について考えることについても、なんら違法性が無いことは言うまでもない。憲法解釈の曖昧さ以前の「条項の有無」という問題だから疑義を挟む余地はあるまい。更に書き加えるならば、日本においては思想・信条の自由が保証されており、その思想・信条を具体的な行動に移さない限り何ら違法性を帯びるものではない。また仮に行動に移してもそれが各種法に触れることがなければ全く問題ないのは衆知の通りである。(ただし自衛官は自衛隊法において政治結社・政党活動等への関与は禁止されている。理由は言うまでもない) だが盲信に捕らわれてしまった人にとっては憲法に明確にうたわれている「憲法改正」すらも違法に映るようである。以下は昨日も取り上げさせていただいたブログ「沙羅双樹」管理人興禅氏の「命のための会議場」におけるご当人の発言からの引用である。【引用】>しかもあなたは改憲論者のようですね、私の護憲の主張に難癖をつけてくるということは。自衛官であるならば憲法及び自衛隊法の定めるところにより日本国憲法を遵守しなければなりません。 この文だけ見れば特におかしなところはない。(難癖という語句については問わないことにしよう)ちなみに私が現職自衛官であることは既に諸所で明言しており、これについて何かを言われることは別に気にならない。また自衛官でなくとも「日本国民ならば日本国憲法を遵守する」ことは当然であり、そこもおかしくはない。改憲論者といきなり決めつけられているが、私は現行憲法は21世紀の現代には合致しないと考えており、そういう意味での改憲は賛成であり、改憲論者といわれても何もおかしくはないし不都合にも感じない。だが・・・これに続く次の文で興禅氏の論はいきなり破綻するのである。【引用】>それができないあなたは自衛官としては不適格です。威勢のいいことを述べる前に、自らの恥を知りなさい。 自衛官が不適格と判定されるのは各種法を守れなかった場合、犯罪を犯した場合、自衛隊内の規則に違反した場合などである。(いずれも自衛隊法に明記されている)では今回の件はこれに該当するのだろうか。文脈を見る限りの氏の論法はこうである。(なおカッコ内は私からの反論である)1.護憲に対して反対意見を述べる↓(特に問題はなし)2.これは憲法を遵守していない↓(護憲、すなわち憲法改正反対に対して意見を述べることが↓憲法違反であると興禅氏は考えているようである。だが憲法↓の何条を遵守していないのか示されていないし、そもそも憲↓法改正は違法ではないことは既に述べた。同様に自衛隊法の↓政治的活動の禁止についても既に述べており、本件は該当し↓ない)3.よって自衛官として不適格である↓(上記のカッコ内の理由から、本件からは不適格と判断でき↓る法的根拠は一切存在しない。)↓(氏自身の言葉を借りるなら「何の根拠もないことですね。↓こういうのを誹謗・中傷というのですよ。」と言うこともできる)4.恥を知りなさい (以上の理由によりそもそも「恥」になるようなことは一切行っていない。) 順を追ってみれば第2項で大きく論理が破綻していることがわかるだろう。第3項、第4項は上記第2項の誤謬による論理の破綻が大きく広がったものであるから、第2項の誤りを正せば普通はなくなるので、本稿で深く追求する必要はない。(私個人に向けられたもので、氏の思考法を類推するには影響がないからでもある)では上記第2項のような論理の破綻は何を原因としているのだろうか。その答えは簡単である。「盲信」である。 興禅氏は自称護憲派(なぜ自称なのかは後述する)であり、「憲法に反する行為=違憲」であると考えている。氏が護憲派を名乗るのは自由だし、憲法に反する行為が違憲であることという部分は問題ない。 ただし、氏には上記に記したような憲法に関する根本的な理解・知識不足と、自分は絶対間違っていないという根拠無き盲信があり、そこから「自称護憲派である自分に対する反対意見=違憲=自衛官として不適格」と論理が飛躍したわけである。こういった理解不足・思いこみは興禅氏の意見の多くにみられる特徴でもある。彼にとっては「自民党による憲法改正」は内容如何にかかわらず間違った行為であり(この点についてはAl Kazart氏が興禅氏の発言を引用してそうとしか取れないことを説明し、ピレネー山脈氏、G.N.氏ともにその発言がそう取れるという点では反論をしていない。またこのコメントに対する興禅氏自身の説明はない)、それ故今回の改憲自体を単に「自民党だから」という理由だけで否定するわけである。興禅氏は色々細かく理由を書いてはいるが、それらはたった一言で要約できてしまうわけだ。 この点において「命のための会議場」の共同発起人の一人であるG.N.氏の発言にある「憲法の1~8条削除といった改憲ならば賛成できる」という部分は、今回の改憲案への彼の反対が自らの思想・信条に基づいたものであり、そのスタンスを堅持しているのとは大きく異なっている。(彼は侵略戦争と天皇制をまず否定するスタンスを一貫しているように私からは見える)もちろんG.N.氏の思想・信条は私のものとは一部大きく異なっており、現状では個人として賛意を示す気にはなれないが、それでもG.N.氏の主張は論理的には首尾一貫しており、そういった点では理解できる一見解となっていることは間違いない。 話が少しそれた。元に戻そう。私は興禅氏が「自称」護憲派であると書いた。氏にしてみれば「とんでもない。自分は明確に憲法を護ろうとしている」と言いたいところだろうが、残念ながらそれは氏自身の発言が否定しているのである。【引用】>しかもあなたは改憲論者のようですね、私の護憲の主張に難癖をつけてくるということは。自衛官であるならば憲法及び自衛隊法の定めるところにより日本国憲法を遵守しなければなりません。それができないあなたは自衛官としては不適格です。威勢のいいことを述べる前に、自らの恥を知りなさい。 再び同じ引用である。本質的な意味では護憲と法の遵守はイコールではないが、本稿においては興禅氏の自己矛盾を明らかにするためにあえて氏の定義を用いることをご了承願いたい。また上記引用中では氏は私に対してこの意見を述べているため、文中に「自衛官」「自衛隊法」という記述部分があるが、日本国憲法の遵守は日本国民にとって共通普遍の義務であることを考えた上で、感情的な語句を除いて氏の論理の純粋なエッセンスを取り出し整理すれば以下のようになるだろう。「私の護憲の主張に反対する人は改憲論者です。」 ↑護憲に反対する=改憲賛成であるという認識は一概に間違ってはいない。「そして日本国民であるならば日本国憲法を遵守しなければなりません。」 ↑自衛官を日本国民と読みかえ(憲法遵守については前述)、かつ自衛官にのみ関係する自衛隊法の記述を削除した。「改憲賛成論者は違法です。」 ↑氏の発言、「あなたは改憲論者である」「自衛官として不適格である」の双方の条件を満たすように考えればこうなる。(後半部にある「威勢の~」以降の部分は私個人に対する氏の個人的意見であるのでここでは割愛する)こうして氏の主張・思考過程の根底で「護憲=憲法(法)の遵守」という図式が成り立っていることがわかる。さて、ここで「命のための会議場」の設置場所となっている興禅氏のブログ「沙羅双樹」の記事を見ていただきたい。 http://plaza.rakuten.co.jp/kouzen/ 氏は日本の国内法において原則として行っては「ならない」とされている「法の遡及摘要」を是とし、これを公言した上で現行法を事故の主観で解釈し昭和天皇の過去の行為を追求(最新の記事では「裁く」と記述)しようとしている。〔日本国憲法より抜粋 遡及処罰、二重処罰等の禁止〕第39条 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。 氏は憲法(大日本帝国憲法あるいは日本国憲法の双方)に規定のない罪で天皇を裁くと公言している。日本では個人が個人を裁くことは法的に許されていない。〔日本国憲法より抜粋 司法権の機関と裁判官の職務上の独立〕第76条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。 上記の例から見る限り興禅氏自身が憲法を遵守する姿勢がないのが読みとれる。そして氏自身の論理で行けば、それは「護憲ではない」ということにほかならない、彼自身はその矛盾に気づいてもいないようであるが。こういった興禅氏の論理の破綻、ダブルスタンダードは私以外の論者からも数多く指摘されているが、氏自身からの論理だった説明・釈明・解説はされていない。 なぜできないのか。それは興禅氏がそれを間違ったことだと認識していないからである。それこそが「盲信」に他ならない。そしてそれは本稿で引用し解説した氏の「命のための会議場」における発言からも明らかになったところである。 そろそろまとめに入ろうと思う。私は本稿の冒頭で「盲信は「盲信する個人」に対しても危険」と書いた。では興禅氏にとってこの盲信はいかなる危険を及ぼすだろうか。氏が盲信に頼った論述スタイルを続けた場合、それは氏と本来は趣旨を同じくする他者にも刃を向ける可能性がある。(実際G.N.氏は「命のための会議場」において自衛隊の存在意義を否定しておらず、現行法上での防衛出動を行うべきである旨の発言を行っている。これは武器を持つだけで信頼しないという興禅氏のスタンスとは全く異なっている)こういった姿勢が長く続けば、いつか意見の衝突から興禅氏が同じ共同発起人の中ですら孤立してしまう可能性すら否定できない。 人は一人では生きられない。この言葉の意味を理解できなければ、盲信の危険性は理解できないだろう。 自らの絶対性を盲信することは他者の排斥につながる。だがそれは他者からの排斥を呼び込むことになることを自覚しなければならないのである。
May 17, 2005
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唐突だが、某所において「あなたは自民党支持者か」のような内容の質問(?)を受けた。それに対して私は「自民党が現在のところ政策全体のバランスを考えてベターであるが故に支持しているが、これは盲信を意味しない。」旨の回答をした。 私個人の考えではあるが、各党の個々の政策を個別に見るならば現行の自民党の政策より優れた政策は確かに存在している。しかしそれらは予算的裏付けを欠いていたり、国際情勢への姿勢が曖昧だったり、個々の政策が起こす波及的影響についての考察や対策が不足だったり、あるいは甚だしいものでは自党の政策が相互に内部矛盾を起こしていたりと、全体的バランスを考慮すれば実行不可能な政策だったりするのである。確かに社民党や民主党の年金政策や税制案などは、一国民の立場から見れば自民党案よりも優れているかのように見える。しかしそれは年金財源の具体的数字が明確でなかったり、減税による国家財政への影響軽減策が示されなかったりという、表面には見えない欠点が散在しているということだ。 彼らが私の考えを納得するかしないかまでは関知するところではないが、彼ら自身、今の日本に特定思想を盲信する人間が存在すると考えているのだろうか?(彼ら自身を除いてだが) 私は本ブログで「否定するなら否定する前に否定するものを学べ」「代替案の無い否定は意味がなく否定のための否定に過ぎない」とこれを自らを含めた多くの人への戒めとして幾度か語ってきたつもりだった。しかしここに来て「否定するのだから否定するものなど学ぶ必要はない」「代替案など示さない、なぜなら否定のために否定するのだから」とあからさまに公言する論者がついに現れてしまった。http://plaza.rakuten.co.jp/kouzen/ 当該ブログは幾度か本ブログでも話題としてきたところでもある。このブログの管理人の思想・思考法について今回私がこの場で語るのは避けよう。本ブログを読んでくれた方が自ら目を通し、自ら判断してもらいたいと思う。特に当該ブログにおける「命の掲示板」について、当該ブログ管理人ほかその趣旨に基づいて意見を延べている論者達の発言を確認していただきたい。(かくいう私もその中に含まれる)掲示板発起人達の意見に反対の論を述べる論者達と、掲示板発起人としてこの掲示板の趣旨を形作ったはずの論者達、果たしてどちらがその趣旨を体現しているかを見てほしい。そこの部分への理解がこのあと少し述べさせていただく私の意見へのカギとなるだろう。 この世界における最も危険な考えは何だろうか?軍国主義、共産主義、帝国主義、社会主義、資本主義、現実主義、理想主義、あるいは主体思想・・・ここを読む方それぞれの主義によって幾つもの言葉が思い浮かぶかも知れない。 だが主義主張思想を問わず普遍的に危険な概念が存在する。思想の左右、時代、地理、あらゆる要素にかかわらずあらゆる負の要素を発散するもの、それは「盲信」である。自らが唱えたあるいは誰かの唱えた論に賛同しこれを盲信してしまうこと、これに勝る危険な思想はない。 盲信してしまったものは他者の反論をただ否定するだけでよい。なぜなら「正しいもの」を否定をする人間は「間違っている」からだ。間違っている人間の論など学ぶ必要はなく、そもそも間違っているのだから否定する手間すら無用であり、よってそれについて考える必要など全くない。盲信したその思想を同じ思想を共有する仲間との間で純度を高めるだけでよいのである。 そして盲信派がその社会の多数派を占めたあるいは権力を得たとき、盲信していない人はどう扱われただろうか。オウム真理教の教義を盲信した教徒達は、彼らの聖域においてその教義に疑義を挟んだ人間をどうしたか?太平洋戦争中に戦争の勝利を疑った国民は、何と呼ばれてどう扱われたか?文化大革命はなにをしたのか?スターリンの粛正は?十字軍は? 我々は幾多の歴史上の事実からそれを学ぶことが出来るのである。 かつて歴史の中で共産主義という思想が一群の国家を形成していた時代があった。共産主義絶対という思想の統制のもとその国家群の辿った歴史の流れは、どこの歴史書にも記されている。 テロ宗教集団として日本国内はおろか世界に衝撃を与えたオウム真理教も、その全盛時に相当の権勢を誇っていた。だが教祖と教義を絶対視し、盲信の果てに彼らが行き着いた先がどこだったのかを我々は知っている。 盲信は進歩を見過ごし改善を否定しその場に留まることで思考を停止する安楽を提供するものだ。真の進歩、革新は、相対する複数の思想・概念を統廃合した混沌のエッセンスの中にこそ含まれているのではないか?単純に相手の論を否定する否定のための否定、それを可能にする盲信は、社会の進歩をその場に引き留める鉄鎖であることを私たちは強く自覚しなければならないのである。
May 16, 2005
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個人的諸事情で更新の間隔が非常にあいてしまった。拙文をわざわざ読みに来てくれていた方には大変ご迷惑をおかけしてしまった事をまずお詫び申し上げたい。また少しずつ思うところを書き述べていくので、呆れることなく見ていただければ幸いである。 さて、文芸春秋から「日本の論点2005」という本が出ている。昨年秋に出た本なのだが、税別2667円と少しお高く私は購入をためらっていた。が、GWちょっといろいろなことで妙な時間が空いてしまい、それをつぶすためにもこの本を遅ればせながら購入したのだが「ああ、もっと早く買っておくべきだった」と非常に後悔した。相反する思想についての小論文をこれだけまとめて読むことのできる書籍は少ない。思想の左右に関わらず読むべき本であろう。 少し話がそれたが、この本の中で中川秀直氏が本稿の表題に使わせていただいた言葉を述べておられる。http://www.nakagawahidenao.jp/ ←中川秀直氏の公式ページこの方は自民党の代議士なのだが、氏の書かれた小論文の一文が実に現代の問題点を端的に表していると私は考えたのである。ご本人は政治の面に関してこのことを語っておられるが、これは政治の面だけに限ったものではないのではという視点から、以下該当部分を引用させていただき少し述べてみることとする。(前略) 五五年体制下、どちらかというと野党は、現実認識に欠け、理想論ばかりを主張する「すべき論」に偏り、かたや与党の本流の政治家たちは、逆に現実認識の枠内で可能な施策のみを行う「できる論」に偏るきらいがありました。前者を”書生的”というなら後者は”官僚的”です。 しかし既に五五年体制が崩壊し、与野党の政権交代の可能性が出てきたいま、そういうやり方は通用しません。まして、一部メディアや政党、評論家に見られる部分批判だけの「だめだ論」は論外です。今強く求められているのは、理想の国家像をかたちづくるビジョンと、その理想を実現させるリアリズムを持つ政治家なのです。その資質には、将来を見通し、時代の精神を先取りしていく「すべき論」と、冷徹な現実認識に基づいて実現可能なことを行う「できる論」の間に身を置き、その緊張関係のなかで、あらゆるチャンスを逃さず戦略的に突破を図る力と、強い精神力が不可欠です。(後略) 出典『日本の論点2005』理想の政治家は「すべき論」と「できる論」の緊張関係のはざまで屹立する 中川秀直 より(氏の論はこのあと自らの理想とする政治家や小泉政権、政治思想等について述べている) この「できる」「すべき」「だめだ」の3論は均等にそのバランスを取れば非常に素晴らしい効果を発揮する。最も理想的な形は、ある事柄をダメであると認識し、こうすべきだという理想の下に、できる範囲からその理想を追うというスタイルであろう。(中川氏は部分批判の「だめだ論」を論外と否定されているが、全体を見た「だめだ論」が改革へのきっかけ、熱意の源として作用することを否定してはいない。) では現代日本においてはこの3論のバランスはどうだろうか。まず日本の状態を見てみれば、言論の自由は保障され、収入もまぁまぁ、しかし長引く不況は確実にその影を落とし、効率重視の社会は一部軋みを上げ始めている。海外に目を転じれば多くの国と安定した外交関係を維持してはいるものの、近隣諸国の一部には不安な動きが見られるとともに米国は孤立主義を深める傾向にあり、アジア地域の長期安定に関しては不安定要素が多いのが実情である。この様々な状況の中で、多くの人が多くの事象に「だめだ」「すべき」「できる」を思索している。 本来我が国のような民主主義社会において、万が一の政府の暴走や各種社会問題に対して何らかの安全弁として働くのは、国民個々の問題意識である。誰か個人あるいは特定の集団の持った問題意識が、より多くの国民の共感を呼びその結果として選挙等を通じて民意を反映させるのである。(村山政権発足の時代を思い描いてもらいたい) しかし、いわゆる左派的思考が中川氏の述べている「だめだ論」「すべき論」に偏りすぎたあまり、日本における本来最大の政治勢力たる「浮動票層」の共感を呼ぶことが不可能になってしまったのである。 また現実主義路線重視のいわゆる過去の政権与党的思考も、中川氏の述べたように時代遅れなものとして否定され始めている。それは一般国民が各種メディアから得た様々な情報を元に、今だけでなく未来をどうにかしなければという問題意識を持ち始めた証左でもある。 情報の入手手段が限定され一般国民の情報源が大手マスコミに偏っていた時代、新聞という勢力、TVという勢力は極めて大きな力を持っていた。それは発信する情報を恣意的に選別することで一般国民の思想の方向性を制御しえた。 だが大手マスコミ間での意見の差異(朝日vs読売(又は産経))の明確化や、ネットの普及による情報入手手段の多様化がその時代に終わりを告げつつある。一般国民はあちこちにちりばめられた情報の断片を元に、自ら真実を推測しその推測を裏付けるべく更なる情報を求めた。大声で語ることが許されない雰囲気のあった様々な思想すらもネットの匿名性の庇護のもとで語ることが出来るようになった。その結果、未来に対する改善・向上を求める人々は青臭い書生論にそっぽを向き、同じように目先の事柄に傾注しすぎた政府・行政にも疑問の目を向けている。 現在の問題点を把握し、あるべき理想の未来をビジョンとして描き、そのビジョンに向け現実的に前進する。 理想を語りそれを実現しようとするものは、現実を冷徹な目で認識しなければならない。現実を理想に合わせた尺度で批判することは簡単である。それこそ部分批判の「だめだ論」を小児的に語るだけですむ。だがそれでは誰の共感も得ることはできないのである。 同様に現実という尺度で理想を推し量りそれを批判することも無意味だ。批判すべきはその理想ではなく実現手段を持たない、あるいは考えようとすらしない批判家・夢想家なのである。 現実を理想という山の頂に押し上げる、その道筋と計画を示せる能力・識見がこれからの時代には必要になるだろう。混迷する日本社会を新たなる発展に導くことが出来る、その能力を持った堅固な意思の持ち主の登場が待たれてならないのは果たして私だけであろうか。
May 9, 2005
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