JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.05.09
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カテゴリ: JINさんの農園
「壽光院」を後にして、「浦賀奉行所 跡地公園」の西側の角 まで戻る。
案内柱の下には、狭い水路と2段積みの石垣も確認できた。



正面に 「横須賀風物百選 浦賀奉行所跡」碑



右に向かって歩き「浦賀奉行所 跡地公園」入口に廻り込む。



「浦賀奉行所跡」の看板の横には、大きな案内板が設置されていた。



浦賀奉行所跡【市民文化遺産 令和3年(2021)1月25日指定】 」案内板。

大切に保存する必要のあるものを市民文化資産として指定しています」 と。



浦賀奉行所とは
浦賀への移転理由は「下田は港の出入口に岩礁があって、船の入出港の妨げになっている」という
船乗りたちからの声を聞き、より安全な湊を調査した結果、浦賀ということになった。」と
記されています。
しかし、この理由は下田に奉行所が置かれてから100年以上経過しているため、これが移転の
本当の理由とは思えません。
江戸幕府が開かれて100年が過ぎ、平和な時代が続いたため、農業を中心とした生産力があがり、
全国各地から江戸へさまざまな物資が入ってくるようになりました。その98 %以上が船で運搬
されており、江戸の物価の安定を図るために江戸での在庫量を把握する必要に迫られていたため、
検査をほぼ完ぺきにできる場所を探した結果、すでに湊として整備されていた浦賀が選ばれた
のです。
浦賀奉行所では、船の積み荷と乗組員の検査をする「船改め」を行う「船番所」が開設され、
江戸を往来するすべての船は浦賀で検査を受けることが義務付けられました。この「船改め」は
「廻船問屋」と呼ばれた105軒の問屋に委託され、「入り鉄砲に出女」の検査はもちろん、生活
必需品11品目については、3カ月ごとに集計された数字が江戸町奉行へ報告されました。
その他の業務としては、現在の税務署・裁判所・警察署・海上保安庁などの仕事を行って
いました。浦賀奉行所が開設されて100年を過ぎたころから、江戸近海に異国船が来航する
ようになると、江戸を異国船から守る最前線の基地の役目も持つようになりました。
嘉永6年(1853) 6月、浦賀に来航したペリー艦隊は、日本が近代に進む第一歩としてよく知られて
いますが、浦賀奉行所にとっては、文政元年(1818) 5月に来航したイギリス船から数えて7度目の
異国船でした。このペリー来航時には、中島三郎助や香山栄左衛門をはじめとした浦賀奉行所の
役人たちが大きく活躍し、交渉の結果、アメリカ大統領の親書を久里浜で受け取ることに
なりました。
ペリー浦賀来航後の安政6年(1859) 6月、神奈川奉行所が開設されると、異国船関係の仕事は
移されましたが、浦賀奉行所は、慶応4年(1868)閏4月、新政府に接収されるまで続き、さらに、
「船改め」の業務だけは、明治5年(1872) 3月まで続けられました。
浦賀奉行所の業務は、長官である奉行( 1、2人)・与カ(部課長クラス)が10騎~ 18騎(馬に乗る
ことが許されたので)・同心(係長クラス) 50人~ 100人で行っていました。与カ・同心は
ほとんど転勤がなく奉行所の表門前から海岸に向けた場所に役宅(官舎)が建ち並び、ここに
暮らしていました。」



浦賀奉行所跡地全景(発掘調査) 」。



「浦賀奉行所模型(浦賀コミュニティーセンター分館所蔵)」。



石橋と掘割
浦賀奉行所の表門の前の掘割(お堀)に架けられていた石橋が、役宅の通りより少し北に寄って
いるのは、奉行所が敵に攻められても直線で侵入できないような配慮がされていたためです。
町家(商家)から役宅に入るところがカギの手に曲がっているのも江戸時代のままです。
掘割は江戸時代後期の改装にともない、表門とその脇の三方に低いながらも石垣が積まれて
出来ています。
焚出所
浦賀奉行所内に併設されていましたが、この焚出所だけは浦賀奉行所の表門を通らす出入りする
ことが許されていた建物です。
異国船が来航するようになると奉行所から番船(警備船)が出て、異国船周辺で警備にあたりました。
この番船を動かすのは、浦賀周辺の村の漁師の役目でした。
奉行所の役人とともに異国船が退去するまで、漁師と奉行所の役人へご飯の炊きだしをする場所が
焚出所、炊きだしは浦賀の町人に与えられた仕事でした。その時に使用したかまど跡が令和元年
(2019年)の発児調査で出土しました。
平成30年(2018)~令和元年(2019)の発掘調査から
浦賀奉行所の間取り図面は、19世紀に入るころから幕末期にかけて数点残っており、奉行所の
建物がどのように変わっていったのか知ることができます。
今回の発掘調査もこれらの間取り図面に基づいて行われた結果、奉行所の業務の一つである裁判が
行われた「お白州に白い砂が敷かれている層が見つかりました。
また、奉行所の屋根が瓦ぶきであったことを示す軒丸瓦をはじめ、瓦の破片が多数発掘されました。
その他にも礎石や古銭や陶器類など、生活を支えていた道具類が見つかっています。
江戸時代に江戸という大きな町を支える役割をした、浦賀奉行所の存在が実感できる現場がここに
あります。」



「浦賀奉行所絵図」をネットから。
現在、「陸軍桟橋」と呼ばれる場所に、「船番所」が開設されていたという(今は、解説板が
設置されるのみ)。「船番所」とは浦賀奉行所の出先機関で、江戸湾に出入りする船舶の
すべてを検査した現場であった。

BTG『大陸西遊記』~日本 神奈川県 横須賀市~

さらに周辺道路を北に進む。




左上には先ほど訪ねた「大六天神社」の石鳥居が見えた。
は東西86m、南北75mほどの大きさ で、現在でも周囲を囲んでいた堀の跡の石垣と
伊豆石の石橋が残っていた。

そして、この「浦賀奉行所跡」には、2017~8年までは住友重機械工業(株)のコンクリート造りの
社宅があったとのこと。ビックリ!!



ネット ​👈️リンク で調べて見ました。 当時の社宅の写真 がありました。
1号棟~3号棟 まであったようです。
どの様な経緯で



黒船に最初に乗り込んだ男 中島三郎助
浦賀奉行与力・中島三郎助は、浦賀を代表する人物で、嘉永6年(1853)、ペリー来航の際、最初に
黒船(使節団)との折衝にあたるなど敏腕をみせ、翌年、日本最初の様式軍艦・鳳凰丸を建造
しました。
三郎助は、文武に優れ、「大衆帰本塚」の碑文を書き、俳号は「木鶏(もっけい)」と称し、
人々から敬慕されていました。
明治維新では、幕臣としての意思を貫き、函館の千代ヶ岡台場で2人の息子と共に戦死しました。
享年49歳、父子の墓は東林寺。
函館中島村に「中島三郎助父子最後の地」の碑があります。
浦賀行政センター市民協議事業・浦賀探訪くらぶ」



中央に「 中島三郎助 」、右に恒太郎(長男)、左に英次郎(次男)。



中に入ってあそんでよいです。 自転車・バイク 進入禁止 」と。



ズームして。



「浦賀奉行所 跡地公園
」。



石橋(浦賀奉行所跡)
浦賀奉行所表門の前のお堀に架けられていた石橋が、役宅(官舎)の通りより少し北に寄っている
のは、奉行所が敵に攻められても直線で侵入できないように配慮されていたためで、同様に、
町家(商家)から役宅に入るところのカギの手に曲がっているのも江戸時代のままです。
お堀は江戸時代後期の改装にともなって表門とその脇の三方に低いながらも石垣が積まれて
できています。
             浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」



石橋の内側(横須賀市教育委員会提供) 」。



これは、石垣の石それとも石橋の石であったのか?



浦賀奉行所跡 」を囲むように、住宅が所狭しと。



浦賀奉行所跡 」を後にして、海に向かって進む。



「川間町内会 屋台格納庫」。



川間町内会の屋台格納庫から出された山車をネットから。



その先にあったのが「 川間町内会館 」。

浦賀の鏝絵(1) ~西叶神社・川間町内会館 | potatoihatove IIのスケッチブログ

「川間町内会館」の1階入口。





川間 (地名の由来)
西浦賀五丁目から六丁目にかけてのこのあたりを川間と言います。
「川間」は、一般には、名の示す通り川と川の間にある土地とされています。
この地域については、現在の平作川周辺が埋め立てられていなかったころの、昔の大きな
平作川と、浦賀湾が現在の田中の方までずっと入江になって川のように見えた、その両者の間の
地であることに由来すると言われています。
この川間の少し奥まった山際の地に、江戸時代の中頃から明治になるまで約150年間、
浦賀奉行所がありました。
奉行所の奥の山際には、川間の鎮守で、江戸時代の創建である榊神社大禄天があります。
      浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」



切妻壁には見事な「 鏝絵(こてえ) 」が。
松竹梅に鶴亀
玄関上妻壁に松の大木の左右に鶴亀を配し、さらに梅・竹を添えた目出度い図柄で、レリーフ状に
表す彩色作品。左隅に「石梅作」の銘があり、石川梅尾の作であることが分かる。
昭和34年(1959年)に会館新築の際、町内繁昌を祝って作られたものと。



中央をズームして。
松竹梅 」。



亀(右)

川間町内会館 | MIULIFE(Enjoy三浦半島)

鶴(左)

鏝絵細工を探す旅 ~ 石川梅尾が遺した川間町内会館の「鶴亀」と「鳳凰」(神奈川県横須賀市) | 職人の遺した仕事

石梅作 」と。「石梅」とは石川梅尾の略である。
昭和34(1959)年の会館竣工時に、地元・川間の左官職人石川梅尾(1908-1988年)が制作したと。
梅尾は鏝絵名人と称された「三浦の善吉」こと石川善吉(1855-1945年)の13番目の末っ子として
生まれ、善吉について修業したのだと。

2階の切妻壁にも見事な「 鏝絵(こてえ) 」が。
鳳凰
二階切妻壁に鳳凰が双翼を大きく広げて飛翔する姿形を、立体的要素を強調した勇健な造形で
壁面一杯に作り出している。白漆喰仕上げ。この左下にも梅文の銘があり、「石梅作」である。

そして次の目的地の「 上町稲荷 」に向かった。
途中、崖崩れの現場が。ブルーシートで覆われ道路沿いには30個以上の土嚢が置かれていたが
復旧工事が行われている様子はなかった。
道路の反対側には、現在でも居住されている?民家があった。



坂の途中から、西浦賀5丁目の住宅街を見る。



振り返って、崖崩れ現場を。



この後に、道に迷ったが、なんとか引き返して、「 上町稲荷 」の入口に辿り着いた。



石段の上に朱の鳥居が現れた。



扁額「上町稲荷」。







狐様(左)



そして鳥居の下から「 上町稲荷 」の 社殿 を。



近づいて。



境内の「 疱瘡守護妙正道祖神 ? 弘化四・・」と刻まれた石碑。



社殿間から朱の鳥居を振り返って。



そして石段を下り次の目的地の「鎮西八郎為朝神社」に向かって進む。


                                ・・・​ もどる ​・・・




                  ・・・​ つづく ​・・・









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Last updated  2024.05.09 15:15:44
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