JINさんの陽蜂農遠日記

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を中心とした備忘録を兼ねた14年間にわたる毎日のブログ(雑記帳)です。

書き込んでいただける方は、写真下の『コメントを書く』から気楽に、ご感想、ご意見

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2024.11.27
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カテゴリ: JINさんの農園
次に訪ねたのが「 徳常院(とくじょういん) 」。
徳常院 龍珠山 は、本町3丁目にある 曹洞宗の寺院 本尊は虚空蔵菩薩
元和元年(1615)の創建で、開山は至明宗順(元和4年・1618没)ないし至明良順。
開基は不詳。江戸時代には一町田町(浜町)・宝安寺の末寺だった と。



徳常院 」案内図。
御幸の浜まで100m 曹洞宗の 寺。
小田原市本町3丁目13−11。



この石仏の名は?



右側のあった「 稲荷社 」。



江湖會(ごうこえ) 」とあったが、他は解読不能。
江湖會 」とは、禅宗で、修学参禅の僧を集めて夏安居(げあんご・僧が、夏 (げ) の期間、
外出せずに一所にこもって修行をすること。夏籠もり。)を行うこと と。



近づいて。







徳常院 本堂
宗派 曹洞宗
山号 :龍珠山
院号  : 徳常院
寺号-
本尊 : 虚空蔵菩薩像



扁額は山号の「 龍珠山 」。



本堂 内陣
本尊の虚空蔵菩薩像は弘法大師空海が彫刻したと伝えられるもので、銅造、像高六寸七分、

信仰の対象となっています。
以前は毎年旧暦7月16日の夜中に漁業関係者が船を浮かべて108本の松明を掲げ海岸で
施餓鬼を修行し海で無くなった人達の供養を行っていました と。



ズームして。



境内にあった「 三界萬霊塔 」。



近づいて。



観音像



お顔をズームして。







墓地入口からは、この後に訪ねた「 妙泉寺 」の本堂が見えた。



北側の建屋の 階段を上がった先の火灯窓を持つお堂に 「延命地蔵尊」と記された扁額 が。

徳常院 の「 延命地蔵堂 大仏殿(2F) 」に向かって進む。



徳常院(曹洞宗)の大仏
江戸駒込ハ百屋お七の恋人、吉祥寺の寺小姓吉三郎(てらこしようきちさぶろう)がお七の菩提を
とむらう為に作った大きな地蔵尊という伝説ガあるので、吉三地蔵なる別称を持つ銅製の
地蔵尊像てある。
この尊像は、もと籀根芦ノ湖畔の賽の河原に安置されていたもので、像背名によれば江戸増上寺
塔頭にいた心誉常念が正徳3年(1713)神田鍋町の鋳物師太田駿河守に作らせ世の平穏を祈った
ものであったが、明治2年(1869)の廃仏毀釈で箱根権現が従来の神仏混合形態から神社と寺が
分かれることになり金剛王院は廃止されたので、その管理の本地蔵尊は古物商に売渡された。
これを東京の業者が買い、馬車てこの海岸に運び、海路輸送をしようとした処、お賽銭を上げ、
見る間に4斗樽に一杯になったと言われる。そこて、当寺の世話人や町の有志が65両て商人から
尊像を買取り、当寺に安置したものである。大正12年(1923)の関東大震災の時、本尊は火災に
あったが損傷なく、戦時の金属回収もまぬがれた。
なお、本像が賽の河原に安置されていた当時の写真が、昭和16年(1941)、米国の古書店て
発見され新聞紙面を賑わしたことがあった。」



徳常院の大仏殿に安置されている 大仏(地蔵菩薩像) は、像の背中の銘によると、
江戸・増上寺の塔中にいた心誉常念が、正徳3年(1713)に神田鍋町の鋳物師・太田駿河守
(太田正義)に作らせたもの。
銅製で、高さ8尺(約2.4m)、胸幅5尺(約1.5m)。重さ約800貫(3トン) とのこと。



  • 江戸駒込の八百屋お七の恋人、吉祥寺の寺小姓・吉三郎がお七の菩提を弔うために       作ったという伝説から、吉三地蔵の別称があった。
  • もともと、箱根・芦の湖畔の、箱根権現の別当・金剛王院境内の賽の河原に安置されていた。
  • 『風土記稿』巻29 元箱根(下)賽ノ河原○地蔵堂△銅仏の項には「正徳元年(1711)七月、  願主常念と刻す」とあり、この大仏のことと思われるが、造立年が若干食い違っている。
  • 明治2年(1869)の廃仏毀釈で金剛王院が廃止されることになり、大仏は古物商に売り     渡された。これを東京の業者が買い取って運搬する途中に、小田原の町の有志(山田又市ら)  が65両で買取り、徳常院に安置された。
  • はじめ境内南側に露座のまま安置されていたが、その後お堂に移された。           1980年当時、小田原市の文化財に指定されている。


お顔をズームして。



そして「徳常院」を後にし、海岸方向に向かうと「 坂口丸 」と書かれた案内板の民家の前には
石仏 が。



馬頭観音像 」と。
小田原市本町3丁目9−16 坂口丸。



近づいて。 赤子を抱いていた が。



その先にあったのが「 海への扉 」への入口。



海への扉 」の先に相模湾。



引き返して、次に訪ねたのが「 妙経寺(みょうきょうじ) 」。
妙経寺は、 日蓮宗の寺院 山号は、青陽山 。鏡信一刀流西原銕兵衛相久の墓がある。
旧本山は京都妙満寺、 什師禹師寮法縁(じしうしりょうほうえん)
什師禹師寮法縁は、日蓮宗の宗派のひとつ  と。
小田原市本町4丁目6−5。



妙経寺 」。



門前の大きな石碑。



題目碑「南無妙法蓮華経」



掲示板。



日蓮宗 青陽山 妙経寺 」。



日本の探検家たち
郡司成忠(ぐんじしげただ・ 1860 ~ 1924 )
~明治時代中期に北千島に赴き探検と拓殖を成し遂げた海軍大尉~
晩年の住処・終焉の地:御幸の浜 妙経寺境内(小田原市本町4丁目)
郡司成忠は万延元(1860)年、幕臣幸田成延(しげのぶ)の次男として江戸(上野)三枚橋で誕生。
小説家の幸田露伴、音楽家の幸田延、安藤幸の実兄である。明治4 (1871)年郡司家の養子11歳)と
なり、翌年海軍兵学寮に入学。明治12年に海軍兵学校(本科)を卒業し海軍少尉補となり、19年に
海軍大尉まで昇進した。
その後、北千島の国防と拓殖の必要性を痛感し、明治26(1893)年、自ら予備役となり開拓団
「報效義会」を結成。会員を率いて日本領最北端の北千島占守(シュムシュ)島に渡り、北千島の
国防と探検と拓殖を行なった。当初は海難事故や越冬体制の不備もあり31名の犠牲者を出したが、
明治29年より漁業、猟業、農業の事業拡大が順調に進められた。「男女合わせて217名が北千島
(主に占守島)に移住し拓殖事業を行った」と記録されている。
明治37 (1904)年、日露戦争勃発により会員らと共に海を隔てた露領カムチャッカ半島に進出した
成忠は、現地の義勇兵と衝突し、ロシアの捕虜となる。成忠はカムチャッカ監禁中
であったが、露領における漁業権の取得を力説した密書を外国船長に託すことができ、密書は
ポーツマスで露国代表と講和談判中の日本全権小村寿太郎に送達された。この事がポーツマス
講和条約に露領漁業権設定の条項を入れる原動力になったと伝えられている。
明治38 (1905 )年、日露戦争終結後解放されて帰国した成忠は、露領沿海州水産組合の組合長に
推され、日本の漁業権益保護確立に尽力し、露領沿海州と千島周辺海域における我が国の
漁業発展の基礎を築いた。
大正10(1921)年、成忠は療養のため家族と共に小田原市御幸の浜「妙経寺」境内に借家し、
晩年3ヵ年を過ごした。大正13年8月15日病没(享年65歳)。小田原で荼毘に付された後、東京池上
本門寺に葬られた。没後に昇叙があり、従六位勲五等双光旭日章を授与された。
尚、成忠の五男秀麿と六男清麿は小田原中学校を卒業している。[文責: 十字町ヒストリア]」。



海軍大尉 郡司成忠君
小説家 幸田露伴の実兄  と。



北千島の国防と拓殖の必要性を痛感し、明治26(1893)年、自ら予備役となり開拓団
「報效義会」を結成。会員を率いて 日本領最北端の北千島占守(シュムシュ)島に渡り、北千島の
国防と探検と拓殖を行なった。
大正10(1921)年、成忠は療養のため家族と共に 小田原市御幸の浜「妙経寺」境内に借家 し、
晩年3ヵ年を過ごした と。



豊田 穣 北洋の開拓者 郡司成忠大尉の挑戦 」。
「最後に一言、現代の青少年よ、夢を抱き、強烈な気概を持って、気宇雄大な生き方に
挑戦してみようではないか・・・・。
平成五年十ニ月 豊田穣」と。



明治26年3月20日、郡司大尉率いる報効義会の隅田川出航セレモニーを描いた錦絵
(画・小国政、明治26年)。



無縁墓石が並ぶ。



無縁法界塚 」と。



無縁法界塚 」碑。
無縁法界とは仏教用語で、仏の慈悲は無差別平等に与えられるということ。



妙経寺の 本堂
妙経寺は、日蓮宗(旧顕本法華宗)の寺院。
大乗院日浄上人によって神奈川県足柄上郡大井町(金子村)に開山された。
現在は、神奈川県小田原市本町4丁目にある。
開山当時は、真言宗寺院であったが、永正(1504~1521)のはじめ、七里法華開教の祖、
京都妙満寺十六世日泰が宗祖旧跡拝礼のため関本村に一泊したことにより、真言宗の僧が
名を「日浄」〔永正16年(1519)9月8日寂〕と改め、一宇建立のため北条早雲に出願、
許され「青陽山大乗院妙経寺」となった。
明和8年(1771)火災で全焼、仮堂が再建されるが安永5年(1776)再び焼失した。
大正12年関東大震災(1923)でまたも被災した。関東大震災当時、妙経寺で晩年を過ごして
いた北洋の開拓者「郡司 成忠(小説家の幸田露伴は弟、初代南極探検隊隊長の白瀬矗は郡司の
結成した開拓事業団「報效義会」の会員)墓所は池上本門寺」の手記にも被災したことが
記されている。その後現在の伽藍を整備した とネットから。


名称 :  青陽山 大乗院 妙経寺(せいようざん だいじょういん みょうきょうじ)
開山 : 文亀(1501~1504)年間



正面に唐破風屋根。



「日蓮宗 妙経寺」。



扁額「 青陽山 」。



立派な墓地「大慈風」と。



「小澤家墓誌」。



題目塔「南無妙法蓮華経」が並ぶ。




                                  ・・・もどる・・・



                   ・・・つづく・・・








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Last updated  2024.11.27 00:00:26
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