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そして『ミュージアムショップ・MuseumShop』を訪ねた。ステンドグラスタワー「幸せをよぶシンフォニー彫刻」のジグソーパズルも。お菓子やGUIDEBOOKも。これも販売品のようであった。『徳持耕一郎KOICHIRO TOKUMOCHI鉄筋彫刻Iron SculptureLine Drawing in The Air』建築現場で使われる「鉄筋」を溶接し、わずか数ミリの線だけで楽器を演奏するジャズメンや動物などを立体的に表現するアーティスト。『後ろ向きのソプラノ』。『アルトマンG2』。『フルーティング Fluting』ミニ彫刻作品。そして「スーベニールショップ・Souvenir Shop」へ。 ミニ絵画。エレベーターホールにあった『田窪恭治「オベリスク」1985』。この作品は、美術館の中ではなくて、入口・出口付近に展示されていた。『フェルナン・レジェ(フランス) Fernand Léger (French) 花束をもつ女 Woman with Bouquet』。「フェルナン・レジェ(フランス)Fernand Léger (French)1881–1955花束をもつ女Woman with Bouquet1952モザイクmosaic太い輪郭線と単純な形態、明快な色彩を特色とする、石によるモザイクです。正面性が強調されています。This stone mosaic is characterized by thick outlines, a simple form and clear coloring, emphasizing its frontality.」 そして天候の回復した入口を再び見る。彫刻の森美術館の入り口、八角堂のレリーフは『建畠大夢(たてはた たいむ) 働く人々』近づいて。そして、入口を振り返りながら、駐車場に向かい、旅友との集合場所の『箱根強羅公園』に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.27
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『流 政之 Masayuki Nagare(Japanese) 風の刻印 Wind's Impression』。白花崗岩 393×310×137 cm。「流 政之Masayuki Nagare(Japanese)1923–2018風の刻印Wind's Impression1979花崗岩granite作者は、原石をたたき割ったそのままのような表面を「ワレハダ(割れ肌)」と呼び、簡潔な形の彫刻を制作しました。The artist refers the texture obtained by splitting rough stone as'warehada' (cracked surface), and utilizes it to create sculptures with simple forms.」 『イガエル・トゥマルキン(イスラエル)Igael Tumarkin (Israeli) 私の7本の知恵の柱 箱根へのオマージュ My Seven Pillars of Wisdom as a Homage to the Mountains of Japan』。「イガエル・トゥマルキン(イスラエル)Igael Tumarkin (Israeli)1933–2021私の7本の知恵の柱 箱根へのオマージュMy Seven Pillars of Wisdom as a Homage to the Mountains of Japan1992鋼鉄forged steel題名は、旧約聖書「箴言」第9章第1節「知恵は家を建て、その七本の柱を刻んで立てた」に由来し、天と地を結ぶことを表しています。The title references the "Seven Pillars of Wisdom" mentioned in Proverbs, Chapter 9, Verse 1 of the Old Testament, and the work expresses the linking of Heaven and Earth.」 『伊藤 隆道Takamichi Ito(Japanese)1939–16本の回転する曲がった棒Sixteen Turning Sticks』「伊藤 隆道Takamichi Ito(Japanese)1939–16本の回転する曲がった棒Sixteen Turning Sticks196ステンレス・スチール、鉄、モーター、塗料stainless steel, iron, motor, paint整列した集団が美しい、光と動きをテーマにした作品です。動くものを見る時、人は立ち止まる習性を利用しています。Based on the theme of light and movement, this carefully aligned group of poles is quite beautiful. The work exploits people's tendency to stop and look whenthey see something moving.」 『1.マッチンスキー=デニングホフ(ドイツ) Matschinsky-Denninghoff (German) 2.マルティン・マッチンスキー Martin Matschinsky 3.ブリジット・マイヤー=デニングホフ Brigitte Meier-Denninghoff シュトルム(暴風) Sturm (Storm)』ズームして。巨大なステンレス製の彫刻作品『シュトルム』。「シュトルム」は暴風、騒動、突撃などを意味するドイツ語。デニングホフはムーアらに師事し舞台美術も手がけた女性彫刻家。マッチンスキーは舞台俳優でしたがデニングホフと出会って彫刻家に転身した と。「マッチンスキー=デニングホフ(ドイツ)Matschinsky-Denninghoff (German)マルティン・マッチンスキーMartin Matschinsky1921–2020ブリジット・マイヤー=デニングホフBrigitte Meier-Denninghoff1923–2011シュトルム(暴風Sturm (Storm)1980ステンレス・スティールstainless steelシュトルムはドイツ語で嵐の意味。大きくうねる幹は、自然のもつ力強さを表わしています。夫婦による共同制作です。The German word, “Sturm” means “storm.” The powerfully bent trunk expressesthe power of nature in this work produced jointly by the husband and wife team.」 『箱根彫刻の森美術館』の屋外作品展示を全て?巡り、入口付近まで戻り再び『岡本太郎 樹人』を。青空を背景に。『井上武吉 My sky hole 84』。『カール・ミレス 人とペガサス』。『ポケっと』。2021年4月、彫刻の森美術館に体験型作品を中心に休憩できるエリア「ポケっと。」がオープン。美術館入ってすぐに目に飛び込んでくる大きなブールデル作品の壁面裏側に、地形の高低差でできた秘密基地のような空間が広がる。そこにはからだを使ったり写真を撮ったり、風が奏でる音に耳をすませ、こどもからオトナまでが体感しながら楽しめる色彩に溢れた作品を展示。さらに、このエリアの特徴でもある芝生面にも色どり豊かなソファを設置し、来館者にくつろぎの時間を提供する。頭上に広がる青空や箱根の眺望を、アートに包まれたポケットでぽけ~っとお過ごしください と。円形広場の右奥に設置されたブロンズの人物群像で。古代ギリシャ・ローマを思わせる装いの男女が、それぞれ異なる方向へ視線を向けながら円形に配置され、静かな緊張感と物語性を生み出していた。周囲を包む箱根の豊かな緑が彫刻の重厚な質感を引き立て、自然と芸術が調和した彫刻の森美術館ならではの風景を楽しむことができたのであった。近づいて。左から『エミール-アントワーヌ・ブールデル(フランス) 自由ー大』『同 雄弁ー大』『同 力ー大』『同 勝利ー大』この作品は『???』実は、観光客の女性の傘が風に飛ばされ、入口上部の木に引掛ってしまったのです。この傘の結末は?現在でも人気の『常設展示作品』か?「屋外展示場」を後にして「出口」の地下道を進む。 エスカレーターを上がる。そして『マルチホール常設展示』を訪ねた。「彫刻の森美術館のコレクションの中から、不思議な雰囲気を持った作品3点を紹介します。それらは巨人像と大きな樹、そして形容が難しいオブジェです。この不思議な森へ入り込んだかのような空間で、少しの間、足を止めて作品に向き合うと、作品の新しい見え方や感じ方、さらには思いもよらない発見があるかもしれません。This section introduces three works from the collection of the Hakone Open-Air Museumthat all possess a strange feeling. These are: a figure of a giant man, a huge tree, and a series of three objects that are difficult to describe.Together they create a mysterious forest. You may feel as if you have entereda mysterious forest, but if you stop and confront the works, they may find new ways of looking at them and make unexpected discoveries.」 『マッタ(ロベルト・セバスチャン・マッタ・エチャウレン)(チリ/フランス) エラメン(われら熱愛ス)』近づいて。「エラメン(われら熱愛ス)1985–86ブロンズマッタ(ロベルト・セバスチャン・マッタ・エチャウレン)(チリ/フランス)1911–2002人の意識の成長を、大地から育つ1本の樹にたとえています。それは、多くの芸術家との交流によって成長した作者自身の姿ともいえます。溢れるように広がる枝葉は複数のパーツを重ねて表現され、樹の割れ目からは蛙を飲み込もうと狙う蛇が垂れ下がり、その蛇は別の蛙の口から出てきています。[1995年に世界文化賞を受賞]Matta(Roberto Sebastian Matta Echaurren)(Chilean / French)1911–2002Eramen (Our Passionate Love)1985–86bronzeThis work likens the development of human consciousness to a single tree growingin the ground. It can also be said to represent the artist himself, illustrating the way in which he developed through his interactions with numerous other artists.The spread of the branches and leaves has been expressed through the combination of numerous different parts, while the snake, that can be seen hanging down from a crack in the trunk, about to devour a frog, is itself emerging from the mouth of another frog.Received the Praemium Imperiale Award in 1995.」 部屋の壁にはステンドグラスが。左。右。『トニー・クラッグ(イギリス) アトモス』「アトモス1991鋼鉄トニー・クラッグ(イギリス1949–壺を伏せたような形に管がついていて、実験器具や蒸留器のようにも見えます。作品名は「大気」を意味する英語 atmosphere を、形は大気を浄化する装置を思わせます。製作者は、自然界にも機能本位の世界にも存在しないオブジェを作り出そうとしています。[2007年に世界文化賞を受賞]Tony Cragg (British)1949–Atmos1991ironThese jar-like objects, with tubes emerging from their surfaces, resemble some kind oflaboratory or distillery equipment. The title of the work, Atmos, is an abbreviation ofthe word atmosphere, and these vessels represent devices for purifying the atmosphere. Through his work, the artist aims to create objects that do not exist in either natureor a world that focuses on function.Received the Praemium Imperiale Award in 2007.」 『ジョナサン・ボロフスキー(アメリカ) 心臓をもった男』。高さ3m75cm。緑色の身体の無表情な男の像です。胸の鮮やかな赤いランプが点滅し、規則的な音が聞こえてきます。 この音は、作者ボロフスキーの心拍音で、生命のエネルギーを表わしています。 ボロフスキーは、夢やおとぎ話から得たイメージを展開させて、独特の世界を作りあげている作家です。この作品では、〈巨人〉や〈赤いルビー〉といったボロフスキーの夢に登場するモティーフが組み合わされています。「心臓をもった男1995ガラス繊維、塗料、電灯、コンピュータージョナサン・ボロフスキー(アメリカ)1942–胸の赤いランプが点滅し、規則的な音が聞こえてきます。この音は作者の心拍音で、生命のエネルギーを表しています。この作品では、作家の夢に登場するモティーフが組み合わされています。作家の夢日記には、「赤いルビーをみつける夢をみた 2457977」と記されています。その「赤いルビー」は、緑の巨人に命を与えました。Jonathan Borofsky (American)1942–Man with a Heart1995fiberglass, paint, light, computerA red light flashes in the figure's chest in time with a regular, rhythmic beat. This is the sound of the artist's own heartbeat and represents the energy of life. The work consists of a combination of a variety of motifs that the artist sawin dreams. Dream number 2457977 in the artist's dream diary describes howhe discovered a red ruby, and it is this red ruby that imbues the giant green manwith life.」 胸の赤いランプが点滅し、規則的な音が聞こえて来たのであった。「ショッピングモール」に向かってエスカレーターにて上がる。 エスカレーター横にも作品が並ぶ。詳細は不明。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.26
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様々な植物が。花期になると一斉に開花。『Antony Gormley (British) 密着 III Close III』。「Antony Gormley (British)1950–密着 IIIClose III1993鉄iron作家の体を鉄で型取りしました。地球の自転と公転がもたらす遠心力や重力のため、地面に張りついています。[2013年に世界文化賞を受賞]The artist recreated his body in iron. The rotation and orbital revolution of the Earth produces centrifugal force and gravity, binding it to the ground.Received the Praemium Imperiale Award in 2013.」 廻り込んで。アントニー・ゴームリーは、自分自身の身体を型取った彫刻を数多く制作することで知られる現代彫刻家。この『密着 III』は、鉄で鋳造した自身の身体が大地に吸い付くように横たわり、人間と地球との深いつながりを表現しているのだと。移動して。一見すると静かな人体像ですが、その背景には「人間は地球の重力や宇宙の運動の中で生かされている存在である」という壮大なテーマが込められて。鑑賞者は作品を通して、自らの身体と大地、そして宇宙との関係に思いを巡らせることができるのだ と。『カール・ミレス(スウェーデン-アメリカ)Carl Milles (Swedish / American) 神の手 The Hand of God』.「カール・ミレス(スウェーデン-アメリカ)Carl Milles (Swedish / American)1875–1955神の手The Hand of God1954ブロンズbronze《宇宙》とも名づけられ、宗教と天文学を基底に、真理の探究を渇望する人間を表現しています。Also entitled The Universe, this work is based on religion and astronomy, depictinga person with a yearning to explore the truth.ネットから。『バリー・フラナガン(イギリス) Barry Flanagan (British)ボクシングをする二匹のうさぎ The Boxing Ones』。「バリー・フラナガン(イギリス)Barry Flanagan (British)1941–2009ボクシングをする二匹のうさぎThe Boxing Ones1985ブロンズbronze神話の中にトリックスターとして現れる、自由で生命力にあふれる野うさぎが、キリスト教の十字架の上で戯れています。In mythology the hare is depicted as being a trickster. In this work, the hares appear unrestrained and full of vitality as they play together on top of a Christian cross.」 近づいて。『セザール(セザール・バルダッチーニ)(フランス)César (César Baldaccini) (French)ヴィルタヌーズの勝利 Victory of Villetaneuse』石の女性像は、人類最初の人物彫刻ですが単純な形の中に種族の反映のもととなる母体としても女性の肉体的な特徴を強調した芸術性は今世紀の芸術家にも影響を与えています。「セザール(セザール・バルダッチーニ)(フランス)César (César Baldaccini) (French)1921–1998ヴィルタヌーズの勝利Victory of Villetaneuse1965ブロンズbronzeネジやボルトなどの屑鉄を組み合わせた人体像です。「ヴィルタヌーズ」とは作家のスタジオがある地名です。[1996年に世界文化賞を受賞]A human figure created from nuts, bolts and other scrap iron.Villetaneuse is the name of the area where César had his studio.Received the Praemium Imperiale Award in 1996.」 そして大きなウッドデッキ上には・・。目玉焼きのベンチが。移動して。『Sunny Side Upクライン ダイサム アーキテクツ2006 Klein Dytham architecture 2006』。移動して。ウッドデッキ上には連絡橋が。『ケネス・アーミテージ(イギリス) Kenneth Armitage (British)両腕 Both Arms』『ケネス・アーミテージ(イギリスKenneth Armitage (British)1916–2002両腕Both Arms1969–70ブロンズbronze作者独特のユーモアをもって、人体の一部分が実際より大きく拡大され、生命力に満ちたたくましい作品です。The artist expresses his unique humor by enlarging parts of the human anatomy to create powerful works, brimming with vitality.作者は人体の一部を誇張して大きく表現する独特のユーモアによって、生命力あふれる力強い作品を生み出しています。』『ウジェーヌ・ドデーニュ(フランス)Eugène Dodeigne (French)オーロラ Aurore』。「ウジェーヌ・ドデーニュ(フランス)Eugène Dodeigne (French)1923–2015オーロラAurore1981石(ソワニー石)stone (Soignies stone)石の塊に切り込みを入れ、中に閉じ込められた生命を解放するかのように、荒々しい形を作り出しています。In this rough-hewn sculpture, the artist has cut deeply into the lump of stone as if to release the life-force trapped within.」 『三木 富雄 Tomio Miki (Japanese)耳1、2、3 Ear 1, 2, 3』。「三木 富雄Tomio Miki (Japanese)1937–1978耳1、2、3Ear 1, 2, 31970–75アルミニウムaluminum「私が耳を選んだのではない。耳に選ばれたのだ」と語る作家は、強迫的な観念に突き動かされるように左耳を繰り返し制作しました。"I did not choose the ear, the ear chose me," so said the artist. Driven by a kind of obsession, he repeatedly created left ears.」 ズームして。3つ並んだ《耳》。その断ち切られた耳からは、「聞く」というコミュニケーションを断たれた孤独感がうかがえます。 三木が初めて耳を発表したのは、1963年に開催された最後の読売アンデパンダン展で、アルミニウムに鋳造された耳5点からなる作品でした。その後も、ほとんど左耳ばかりを制作しています。三木は「なぜ耳ばかり作るのか」という問いに、「私が耳を選んだのではない、耳が私を選んだのだ」と答えています。 三木の《耳》は、実物大のものから3メートルにおよぶものまであります。『ジュリアーノ・ヴァンジ(イタリア)Giuliano Vangi (Italian) 偉大なる物語 A Grand Story』。真っ白な大理石の塊から、様々な人間の姿が浮かび上がっています。作者のジュリアーノ・ヴァンジによれば、この作品は、人間の存在とその意味、とりわけ、男の人生を表わしています。目の前で、膝をかかえているのは、洞窟にかがむ古代の男。男の背後には、記憶のなかの女性の顔が、風のようなシルエットを見せています。向かって左へと進み、作品の周りを時計まわりに見て見ましょう。若いオリーヴの木が、青々とした葉を茂らせています。その横には、人生の入り口が開いていますが、先に行くにつれ、だんだん狭くなっているのがわかります。これは、人生の苦労を表わしています。飛び石をつたって、左側にまわる。樫の古木が大きく枝を伸ばし、愛し合うカップルの顔を豊かな葉でやさしく撫でています。人間と自然が共に生きることの大切さを表わしているのでしょう。その先には、顔をあげる男の姿があります。苦難にあっても、現代の男は、希望をもって前進してゆくのです。イタリアの巨匠―ヴァンジは、苦しみに満ちた閉塞した社会の中でも、なお存在してゆく人間の威厳やその孤独を表現してきた作家です。作品に登場するのは、みな平凡な人間ですが、不安、苦悩、心配、おごり、悪徳とともにありながら、なお存在する人間の威厳、それゆえの美しさを訴えかけてきます。「ジュリアーノ・ヴァンジ(イタリア)Giuliano Vangi (Italian)1931–2024偉大なる物語A Grand Story2004大理石(カラーラ産)marble (Carrara)人生の物語が時の流れと共に、時計回りに刻まれています。様々な葛藤を抱えながらも生きる人間の姿を表わしています。[2002年に世界文化賞を受賞]The story of humankind has been carved into a block of stone chronologicallyin a clockwise direction. It expresses the way that people persevere despitevarious hardships.Received the Praemium Imperiale Award in 2002.」 『森のアトリエ』に向かって進んだ。そして引き返して作品を追う。『柳原義達 道東の四季・秋』見上げて。『船越保武 道東の四季・春 』。『木内 克 エーゲ海に捧ぐ』。『水井 康雄 五合目標』『高村光太郎 みちのく』。『峯 孝 プリマヴェラ 』。『ジョージ・リッキー 2本の垂直線、箱根』。『有田暁子 足跡』この足跡は何だろう。有田は、制作時に次の言葉を残している。「この足跡のパターンは、かつてこの空間で展開されたある人々の行動の過程を表わしたものである。私たちにとって本来その全てが無であった筈の人々の行動が、それをもたらした認識・思考・意志の過程が、時の流れを越えて今なお空間を支配し、私たちに強力に働きかけてくる」。誰のどんな生の痕跡なのかは、わからない。けれど、知らず知らずの内に人々はこの足跡を辿り、振り返ってみる。見る人にそんな働きかけをする作品である。『後藤 良二 Ryoji Goto (Japanese) 交叉する空間構造 Intersecting Space Construction』「後藤 良二Ryoji Goto (Japanese)1951–交叉する空間構造Intersecting Space Construction1978素材FRP(繊維強化プラスチック)、鉄、塗料FRP, iron, paint金網の格子にヒントを得た、人間の連帯を謳歌し群舞しているようなエネルギーに満ちた作品です。Taking a hint from a wire mesh, the artist created this work depicting people dancing together in praise of their connections and it overflows with energy.」 黒い男性像と赤い女性像が、それぞれ72体、手と足をつなぎあい連なっています。両手を左右に大きく広げる姿は、踊っているようにも見えます。作者の後藤良二は、具象と抽象、有機的な形態と幾何学的な形態などの対照的な表現形式をひとつにする方法を探していたといいます。そうしたなか、ある日何気なく見た金網の格子に、人のつながりがオーバーラップして見えたことが、この作品が生まれるきっかけとなりました。人間の姿を幾何学的に組み合わせることで、個々の人間の情念や感情を消し去ったこの作品は、人間の連帯が生み出す若々しいエネルギーを謳いあげています。近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.25
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『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British)原子の形 Atom Piece (Working Model for Nuclear Energy) 』手前右:『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) ふたつに分けられた横たわる像・カット Two Piece Reclining Figure: Cut左奥:『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) 大きな糸つむぎの形 Large Spindle Piece』手前に『 ヘンリー・ムーア ふたつに分けられた横たわる像:ポイント Two Piece Reclining Figure: Points』。『ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)ふたつに分けられた横たわる像:カット Two Piece Reclining Figure:cut』。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986ふたつに分けられた横たわる像:ポインツTwo Piece Reclining Figure: Points1969–70ブロンズbronze見る角度によってひとつの形が他方を隠し、変化に富んだ多様な形が次々と現れてきます。Depending on the angle from which it is viewed, one form becomes hidden behind the other, a rich variety of forms appearing in succession as the viewer moves.」 『ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British) 横たわる像 Reclining Figure』。ズームして。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986横たわる像Reclining Figure1969–70ブロンズbronzeムーアは、横たわる人体のポーズについて「最も自由で、かつ安定している」と語っています。Speaking of reclining figures Moore said that they are "free and stable at the same time."」 『ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)ふたつに分けられた横たわる像・ポイント Two Piece Reclining Figure: Point』。ステンドグラスの塔(幸せをよぶシンフォニー彫刻)中央には金色の球体と周囲の青い装飾が。作品の一部としてデザインされたもので、・金色の球体:太陽や生命の源を象徴・周囲の青い輪:光の広がりや宇宙・生命のエネルギーをイメージした装飾下から見上げると、ステンドグラスを通した光と一体となって「生命・光・希望」を表現するように構成されていた。『伊本 淳 輝く太陽』を再び。『ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)ファミリー・グループ Family Group』。ズームして。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986ファミリー・グループFamily Group1948–49ブロンズbronze男性像を制作したことがほとんどなかったムーア。作品の構想中に娘が生まれ、母と子に父親が加わりました。Moore produced very few male sculptures; however, while planning this workhis daughter was born and he added a father figure to those of the mother and child.」 奥:『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) ふたつに分けられた横たわる像:カット Two Piece Reclining Figure: Cut』。手前:『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) 大きな糸つむぎの形 Large Spindle Piece』『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) 大きな糸つむぎの形 Large Spindle Piece』。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986大きな糸つむぎの形Large Spindle Piece1968–74ブロンズbronze高さ16センチのひな型(マケット)を最初に作り、次に86センチの原型、最終的には333センチの作品となりました。Moore first made a 16 cm high maquette, then an 86 cm working model, beforefinally producing a 333 cm work.」 『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) ふたつに分けられた横たわる像:カット Two Piece Reclining Figure: Cut』。『ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British) ふたつに分けられた横たわる像 No.1 Two Piece Reclining Figure No.1』。移動して。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986ふたつに分けられた横たわる像 No.1Two Piece Reclining Figure No.11959ブロンズbronze人体の形をふたつに分けることで、見る人の意識が人物像から離れ、より風景に溶け込むことを意図しています。By splitting the work into two, the intention is that the viewer's consciousness will bedistracted from the human form, allowing it to meld with the scenery.」 『ミクロネシア連邦ヤップ島の石貨』。「ミクロネシア連邦ヤップ島の石貨手のひらに乗るものから3mを超すものまであり、大きな石貨は動かさずに所有者の名義だけを変更します。材料のパラオブ石(石灰岩)は、約450km離れたパラオ共和国よりカヌーで運ばれ、貨幣の価値は搬送における困難さや歴史の古さに基づいています。この石貨は高松宮家の庭園に長年設置され、「幸福の石」として親しまれていました。高松宮妃殿下が2004年に亡くなられた後、賜ったものです。Rai Stone from Yap Island in the Federated States of MicronesiaOnce a form of money, Yap stones came in a variety of sizes, from those that fit in the palm of the hand to those over 3 meters tall. Due to their size, large stoneswere not moved; instead ownership was recorded. Carved from a crystalline limestone not found locally, they were transported by canoe from Palau, their monetary value deriving from their historical age and the difficulty of transport.This Rai Stone was displayed in the garden of Prince Takamatsu where it was knownas the "Stone of Happiness." It was donated to the museum after the princess passed away in 2004.」 再び手前:『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) 大きな糸つむぎの形 Large Spindle Piece』奥: 『ヘンリー・ムーア(イギリス)ふたつに分けられた横たわる像:カット』奥」再び「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986大きな糸つむぎの形Large Spindle Piece1968–74ブロンズbronze高さ16センチのひな型(マケット)を最初に作り、次に86センチの原型、最終的には333センチになりました。Moore first made a 16 cm high maquette, then an 86 cm working model,before finally producing a 333 cm work.」 『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British)母と子:台座 Mother and Child: Block Seat』。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986母と子:台座Mother and Child: Block Seat1983–84ブロンズbronze小さな生命を愛おしむ母親の姿を抽象的に表現しています。〈母と子〉はムーアにとって重要な主題のひとつです。An abstract expression of the love of a mother for her child. The “Mother and Child” motif was an important theme in Moore's work.」 『ふたつの形 1968 バーバラ・ヘップワース 』 イギリス 1903-1975ヘップワースは、『ふたつの形』について「ひとつの生物が他の生物のそばにいる時の、両者の優しい関係を表わしている」と語る。抽象的な形の構成であるが、この作品には寄り添うように立つふたりの人間のような風情がある。柔らかな曲線で縁取られたふたつの形の間には、程よい緊張感と優しい空気が流れている。上部に穿たれた穴は後ろまで突き抜けて、風景の中に溶け込む。穴は彩色され、窪みそれ自体よりももっと奥深い海や空を想像させる と。『猪熊 弦一郎 Genichiro Inokuma (Japanese) 音の世界 The World of the Sounds』。「猪熊 弦一郎Genichiro Inokuma (Japanese)1902–1993音の世界The World of the Sounds1979モザイク(ガラスタイル)glass tile鳥や動物などを題材に、それらが浮遊する澄んだ色彩と明快なリズムをもった抽象絵画を制作しました。Initially using birds and animals for his subjects, the artist later employed clear, floating colors to create abstract paintings and murals with well-defined rhythms.」 近づいて。『ニキ・ド・サン・ファール(フランス)Niki de Saint Phalle (French) ミス・ブラック・パワー Miss Black Power』。ズームして。「ニキ・ド・サン・ファール(フランス)Niki de Saint Phalle (French)1930–2002ミス・ブラック・パワーMiss Black Power1968ポリエステル樹脂、塗料polyester resin, paint妊娠した友人の、日ごとに大きくなっていくお腹に発想を得ました。生命の源として、全ての女性を讃えています。(2000年に世界文化賞を受賞)The artist got the idea for this work after seeing a pregnant friend whose stomachgrew bigger every day. It exalts women's role as the source of life.Received the Praemium Imperiale Award in 2000.」 」『アントワーヌ・ポンセ(フランス) Antoine Poncet (French) 伸びていくフーガ Fugue Fusante』。ズームして。「アントワーヌ・ポンセ(フランス)Antoine Poncet (French)1928–2022伸びていくフーガFugue Fusante1982–83白大理石(カラーラ産)white marble (Carrara)フーガ(遁走曲)のように、反復する旋律が軽やかに立ち上っていくような、詩情をもつ作品です。Possessing poetic sentiment, the repeating melody rises, fugue-like, towards the sky」 田窪恭治「サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂 箱根ヴァージョン」2012 フランスはノルマンディー地方のサン・マルタン・ド・ミューと言う小さな村の廃墟となった16世紀のサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂を、田窪が一家でフランスに移住し、作品として再生した。箱根ヴァージョンは、実物の礼拝堂と同じ大きさや同じ素材の床面を使ってイメージを再現したものである と。「田窪 恭治(日本)Kyoji Takubo (Japan)1949年~サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂 箱根ヴァージョンLa Chapelle de Saint Vigor de Mieux, version Hakone2012年耐候性鋼(コルテン)、鋳物(CORQ)、花崗岩anti-weathering steel (COR-TEN), casting (CORQ), granite協力:新日鐵住金株式会社、株式会社サカコーCourtesy of Nippon Steel & Sumitomo Metal Corporation, Sakako Corporationフランス・ノルマンディー地方のサン・マルタン・ド・ミューという小さな村で廃墟となっていた16世紀のサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂を、田窪が一家でフランスに移住し、1989~1999年にかけて作品として再生した(通称「林檎の礼拝堂」)。再生プロジェクトの資金は企業と個人の寄付によって調達され、フジサンケイグループも全面的に支援した。現地は林檎の産地であることから、礼拝堂の内壁には林檎の絵が描かれ、色ガラスの屋根からは光が色の帯となって降り注いでいる。この箱根ヴァージョンは、実物の礼拝堂と同じ大きさで、同じ素材の床面を使ってイメージを再現した「姉妹版」といえる。La Chapelle de Saint Vigor de Mieux in the small Normandy village of Saint Martin deMieux was a ruined 16th century chapel before Takubo moved to France with his familyand set about transforming the building into a work of art, now known affectionately as La Chapelle des Pommiers, meaning the Chapel of Apple Trees.Takubo began the project in 1989 and completed it in 1999. Funding for the reconstruction work was supplied through corporate and individual donations, including significant support from the Fujisankei Communications Group.Normandy is known for producing apples and that is why the chapel, which is bathed in light shining through colored glass roof tiles, has pictures of the fruit paintedon its walls.This work could be called a "sister version" of the chapel in Normandy. It represents an image of the chapel of the same size and uses the same floor materials as the actual chapel.」 写真キャプションサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂 外観/内部La Chapelle de Saint Vigor de Mieux – Exterior / Interior。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.24
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次に訪ねたのが「The Hakone Open-Air Museum Café」前にあった『ロバート・マンゴールド(アメリカ)Robert Mangold (American) 風の歌 V Windsong V』。「ロバート・マンゴールド(アメリカ)Robert Mangold (American)1930–風の歌 VWindsong V1989ステンレス・スティール、塗料stainless steel, paint六色に塗り分けられた48枚の翼が、風を受けて回転しながら球体を形成します。多様な自然を表現しています。The forty-eight vanes have been painted in six colors and when these rotatewith the wind, they create a spherical form. This work expresses the diversity of nature.」 そしてこちらは『森の足湯』。「森の足湯」では、箱根の森の美しい景色を一望でき、鳥のさえずりや沢の流れ、風の音を感じながらゆったりとおくつろぎいただけます。敷地内の源泉を利用した「足湯」に加え、手軽に温泉を楽しめる「手湯(てゆ)」や、車椅子の方にも配慮した席を新たにご用意しています。さらに、勾配のあるランドスケープを見直し、段差を解消することで、隣接するカフェや多目的に利用できる休憩スペース「丸太広場キトキ」とともに、誰もが一層くつろげるエリアとして生まれ変わりました。また、国内外から厳選した15種類の石をダイナミックに使用し、色や模様、表情の異なる石の質感を体感できます。彫刻の代表的な素材のひとつである石の迫力や魅力を身近に感じられるデザインとなっています。■⾜湯概要リニューアルオープン:2024年7月27日(土)源泉名 :⼆ノ平温泉泉質 :ナトリウムー塩化物温泉(無⾊透明無臭)⾜湯全⻑ :約28m利⽤⼈数 : 39名設計 :トラフ建築設計事務所 | 園⽥慎⼆建築設計事務所『森の足湯』案内ボード。温泉の成分について公式サイトより■源泉名 二の平温泉 台帳番号 宮城野 第28号■泉質 ナトリューム塩化物・炭酸水素塩・硫酸塩温 低張性 アルカリ性 高温泉■泉温 源泉 64.2℃ (地下の状態により64℃から75℃程度まで変化します)■成分 pH 8.5 無色透明、無味、無臭■飲用不可 県条例により飲用は禁止されています。「森の足湯Foot-Bath MORI NO ASHIYU森の足湯は、敷地内から湧き出る源泉を使用した、箱根の自然を感じながらくつろげる足湯スペースです。彫刻を素材のような原石を並べ、彫刻と箱根の山々を調和させています。野外美術館ならではのアートと自然の融合をゆっくりとお楽しみください。This foot-bath is where you can relax while experiencing the natural beauty of Hakone, using hot spring water from our own premises of the museum. It is harmonized bystones resembling like sculptures, harmonizing with the various sculptures and the mountains of Hakone. We hope you all enjoy this unique atmosphere of fusionof the art and the nature with the time to relax.石材一覧No. 石材名 英名 種類 産地① ニューインペリアルレッド New Imperial Red 花崗岩 インド② セルペジャンテ ベージュ Serpeggiante Beige 大理石 イタリア③ ブラウンファンタジー Brown Fantasy 花崗岩 インド④ オリーブグリーン Olive Green 花崗岩 南アフリカ⑤ ホワイトサンドストーン White Sandstone 砂岩 インド⑥ ブラックマリナーチェ Black Marinace 花崗岩 ブラジル⑦ ロッソガズビーラ Rosso Guazubira 花崗岩 イタリア⑧ ルナパール Luna Pearl 花崗岩 イタリア⑨ 暁サラサ Akatsuki Sarasa 大理石 日本⑩ レッドサンドストーン Red Sandstone 砂岩 インド⑪ グリーンウェーブ Green Wave 大理石 ノルウェー⑫ ジャッロサンタセシリア Giallo S. Cecilia 花崗岩 ブラジル⑬ ビアンコスペリオーレ Bianco Superiore 大理石 イタリア⑭ ジュライエロー Jura Yellow 石灰岩 ドイツ ⑮ ジンバブエ Zimbabwe 花崗岩 ジンバブエ『ガブリエル・ロアール 幸せをよぶシンフォニー彫刻 1975年』この塔のなかには、外からは想像もつかない華やかな夢の世界が広がっています。どうぞ、階段をあがり、塔のなかにお入りください。ふくろう、鳥、魔法使いの姿もあれば、踊ったり、音楽を奏でたり、パントマイムをしたり・・・、700色のガラスのかけらが外からの光を受け、子供たちの夢の世界を万華鏡のように映し出しています。螺旋階段を登れば、屋上から数々の作品を見おろすことができます。作者のガブリエル・ロアールは、フランスを代表するステンドグラス作家です。鎚でたたいて形をつくったガラスは、通常のステンドグラスの5倍の厚みをもち、外の光を複雑に屈折しながら透過させ、幻想的な輝きを放ちます。『伊藤 隆道(日本) Takamichi Ito (Japanese) 廻る曲線のリング Moving Rings』近づいて、ズームして。「伊藤 隆道(日本)Takamichi Ito (Japanese)1939–廻る曲線のリング👈️リンクMoving Rings1975ステンレス・スティール、鉄、モーター、塗料stainless steel, iron, motor, paint「光と動き」がテーマとなっています。たなびく雲のような形は、モーターで回転する機械に有機性をもたらし、詩的な空想を呼び起こします。Created on the theme "light and movement" this work consists of oblong forms, resembling clouds, that are rotated by a motor, transforming the mechanical into the organic and evoking poetic visions.」 高さ18m、内径は8m。この写真の中央にある金色と黒色の立体モニュメントは、ガブリエル・ロアール自身がデザインした「幸せをよぶシンフォニー彫刻」のシンボル。写真を見ると、・金色の大きな鳥のような形(右側)・黒い翼のように広がる部分・金色の球体(左側)から構成されています。これらは写実的な表現ではなく、ロアール独特の幻想的な造形です。それぞれの象徴・鳥 ・平和 ・自由 ・天へ向かう希望 ・幸福を運ぶ存在・金色の球 ・太陽 ・光 ・生命 ・宇宙・黒い翼状の部分 ・大地 ・樹木 ・炎 ・自然のエネルギーこれらが一体となり、「光が生命を生み、幸福が空へ広がっていく」というイメージを表現しています。ステンドグラスとの関係この塔の正式名称は「幸せをよぶシンフォニー彫刻」。内部には約480枚のステンドグラスが四季や子どもの夢の世界を描き、塔全体が「光の交響曲(シンフォニー)」として構成されています。中央のモニュメントは、その"序章"あるいは"象徴"として、外観に生命感を与える役割を担っています。正面中央の飾りは、「生の歓びを奏でるニンフ」井本 淳氏作。「ガブリエル・ロアール(フランス)Gabriel Loire (French)1904–1996伊本 淳(日本)Atsushi Imoto (Japanese)1915–1984幸せをよぶシンフォニー彫刻Symphonic Sculpture1975スパルビデュア・グラス、エポキシ樹脂、鉄sculptured-glass, epoxy resin, iron(上から/From the Top))耀く太陽Shining Sun1975FRP(繊維強化プラスティック)、金箔、塗料、鉄glass fiber, gold leaf, paint, iron生の歓びを奏でるニンフA Nymph Playing the Joy of Life1975ブロンズbronze480枚のステンドグラスによるパネルで壁面が構成され、色ガラスの光だけで空間そのものを造形した作品。ステンドグラスの技法のうち、ダル・ド・ヴェールという厚さ2〜3cmの板ガラスを使用する技法がとられている。ガラスをたたいて割れ模様を入れ、そこに差し込む光が屈折することで、独特のきらびやかさが出ている。ロアールは、このガラスを「スカルプチャード・グラス」と呼んだ。作品の構図は、ロアールの子供時代の世界が散文詩的に映し出されている。その情景は、東南西北の方角に合わせて春夏秋冬の場面が四分割されて、螺旋階段を昇り降りしながら四季を巡る。塔の外側には、伊本淳による、ロアールの詩調に合わせたレリーフ彫刻3点が螺旋状に設置されている。With walls consisting of panels, each made up of 480 sheets of stained glass,this workcreates a unique space, filled with light that has passed through the colored glass.Of the various forms of stained glass, this work uses the 'dalle de verre' (slab of glass) technique, employing sheets of glass 2 to 3 centimeters thick. The artist, Gabriel Loire,struck the glass to create patterns of cracks, the light being refracted throughthese to produce an unparalleled, glittering beauty that he refers to as 'sculptured glass'.The composition of this work presents the world as it was when Loire was a child, expressing it in the form of a prose poem. The scene is divided into four sections, facing east, south, west and north anddepicting the four seasons, spring, summer, autumn and winter, allowing visitors toenjoy the changing seasons as they climb and descend the spiral staircase inside.Three relief statues by Atsushi Imoto, which harmonize with the tone of Loire's poetry, are attached in a spiral around the exterior of the tower.」 黒い螺旋階段を一歩ずつ上るたび、色鮮やかなステンドグラスが光を受けて表情を変え、まるで光の渦の中を歩いているような幻想的な世界が広がるのであった。四季を映す色彩と光が美しく溶け合い、心を優しく包み込む至福の空間であった。見上げる先いっぱいに広がるステンドグラスは、赤や金、緑、白の光が幾重にも重なり合い、まるで天空を彩る光の絵巻のよう。刻々と変化する輝きが空間全体を包み込み、見る人を幻想的で詩情あふれる世界へと誘うのであった。青を基調に、緑や紫、赤の彩りが光の粒となって広がり、まるで宝石をちりばめた天空を見上げているよう。螺旋を描くステンドグラスが光と色彩を織りなし、静寂の中に生命の息吹と幻想的な美しさを感じさせるのであった。青や金、朱色の光が繊細な模様となって重なり合い、まるで物語の一場面を描く壮麗な絵巻を見上げているよう。光がガラスを透して優しく降り注ぎ、色彩と祈りが響き合う幻想的な空間が心を深く魅了するのであった。黄金色の光を放つ太陽を中心に、色とりどりのステンドグラスが放射状に広がり、生命の輝きが空間いっぱいに満ちあふれていた。見上げるたびに光が表情を変え、まるで大自然の息吹と希望の光に優しく包まれるような感動を覚えるのであった。琥珀色や黄金色を基調とした温かな光が幾重にも重なり、生命の樹を思わせる模様が優しく浮かび上がる。やわらかな光彩が空間を包み込み、自然のぬくもりと穏やかな安らぎを感じさせる、美しく詩情あふれる光景。黄金色を基調に、赤や青、白の光がリズミカルに散りばめられ、まるで生命の鼓動が色彩となって躍動しているよう。幾何学模様が織りなす光の世界は、見るたびに新たな発見をもたらし、心を豊かな感動で満たしてくれるのであった。鮮やかな赤や黄金色の光に包まれた少女の表情は、見る人に優しい微笑みを届けてくれるよう。色彩豊かなステンドグラスが生命の輝きと喜びを映し出し、温もりと希望に満ちた幻想的な世界へと静かに誘ってくれた。塔の頂上から望む箱根の山々は、深い緑と立ちのぼる雲や霧が織りなす幻想的な風景に包まれて。眼下に広がる彫刻の森と雄大な自然が美しく調和し、まるで一枚の風景画の中に身を置いているかのような感動を味わいながら。雨上がりの箱根の山々を、白い霧がゆっくりと包み込み、深い緑との美しいコントラストが幻想的な風景を描き出していた。刻々と姿を変える雲と山並みは、大自然が織りなす一瞬の芸術であり、静寂の中に心洗われる感動を与えてくれた。『緑陰広場』を見下ろして。塔の頂上から見下ろす芝生広場には、緑の中に彫刻がゆったりと点在し、自然と芸術が見事に調和した美しい景観が広がっていた。木々の緑と青空の光に包まれた静かな空間は、訪れる人に穏やかな時間と心安らぐひとときを届けてくれるのであった。屋上から螺旋階段を見下ろすと、足元には色鮮やかなステンドグラスが優雅な曲線を描き、光の世界へと誘う。一歩ずつ階段を下るたびに色彩が移ろい、まるで光の渦の中を旅するような幻想的なひとときを味わいながら。螺旋階段の優美な曲線が色鮮やかなステンドグラスと溶け合い、足元から光の芸術が広がりる。一歩ずつ歩みを進めるたびに光と色彩が表情を変え、まるで虹色の渦に包まれながら夢の世界を巡るような幻想的な美しさに心奪われるのであった。見下ろす螺旋階段の先には、色鮮やかなステンドグラスが光の帯となってどこまでも続き、まるで虹色の銀河へ吸い込まれていくような幻想的な眺めが広がる。光と色彩が織りなす美しい世界は、訪れる人の心に深い感動と静かな余韻を残すのであった。穏やかな弧を描くステンドグラスに、青や緑、金色の光が美しく溶け合い、まるで四季の彩りが天空へと続く大きな虹を描いているよう。見上げるたびに光が優しく表情を変え、幻想的な世界へと心を誘う、息をのむような美しさが広がる。柔らかな弧を描くステンドグラスに、黄金色や緑、青の光が幾重にも重なり、まるで四季の彩りが天空を優雅に流れていくように。繊細な光のきらめきが空間全体を包み込み、静けさの中に温もりと希望を感じさせる幻想的な美しさが広がるのであった。鮮やかな青や赤、黄金色の光が美しい調べを奏でるように広がり、一枚一枚のガラスが生命の輝きを映し出していた。色彩豊かな光のハーモニーは見る人の心を優しく包み込み、夢と希望に満ちた幻想的な世界へと誘ってくれるがごとくに。塔の中心を見上げると、螺旋階段が天空へと優雅に伸び、その周囲を色鮮やかなステンドグラスが光の大渦のように包み込んでいた。光と色彩が織りなす壮大な空間は、まるで天へと続くシンフォニーの中に身を置いているような感動を与えてくれるのであった。螺旋階段が天へ向かって優雅な曲線を描き、その周囲を色とりどりのステンドグラスが光の大空間として包み込んでいた。見上げるたびに色彩が美しく移ろい、光と芸術が織りなす壮麗なシンフォニーの中へ吸い込まれるような感動に満たされて。塔の中心から天へ向かって伸びる優雅な螺旋階段を、色鮮やかなステンドグラスが万華鏡のように包み込む。青や紫、赤、黄金色の光が美しく響き合い、まるで光のシンフォニーの中を天空へ旅するような、息をのむ感動的な光景が広がっていたのであった。天へと続く螺旋階段が力強く伸び、その周囲を色鮮やかなステンドグラスが光の大空間として包み込んでいた。降り注ぐ光は刻々と表情を変え、芸術と光、そして人々の営みがひとつに溶け合う、幻想的で心震える美しさを生み出していたのであった。 塔の下部には『井本 淳 愛のお告げを奏でるニンフ』。『ジャン・アルフ Jean-Alf 大きな種 Giant Seed』。再び「幸せをよぶシンフォニー彫刻」の頂部の作品『伊本 淳 耀く太陽 Shining Sun』を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.23
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『胸像と4人の男の顔 Bust of a Woman and Four Male Heads』。「胸像と4人の男の顔 1972年7月23日グワッシュ、紙若さを象徴する豊満な女性、欲望を隠そうとしない小男。背景には、死の影を漂わす童謡した男。その傍らの老人はおそらくピカソ自身である。90歳を超えて、愛した女性、人間の本能、そして死と直面していた。Bust of a Woman and Four Male HeadsJuly 23, 1972gouache on paperA voluptuous woman, symbolizing youth, and a small man who makes no attempt tohide his lust. In the background is a distraught man emitting an aura of death. The old man to the side is probably Picasso himself. He was over 90 years old,and confronted by the woman he loves, human instinct, and death.」 『アルカンのサルバド Portrait of the Painter Salvado』左腕をズームして。「アルルカンのサルバド原画(1923年):パブロ・ピカソ制作:ロジェ・マレルヴ・ナティエルジュマイユ原画は《新古典主義》の時代に描かれたもので、道化研究家アルルカンの衣装をつけたカタルーニャ地方の画家ジャシント・サルバドがモデルになっている。ピカソはこの頃よく、サーカスの道化を主題にして描いていた。道化はその仮面の下に悲しみや孤独を抱える存在で、生きることの本質がそこにあると思えたからである。Portrait of the Painter Salvadooriginal painting (1923): Pablo Picassogemmail: Roger Malherbe-NavarreThis work was painted during Picasso's Neoclassical period. The model, identified as a Harlequin, is Catalonian painter Salvador. During this period, Picasso often depicted circus clowns in his work. He chose to depict clowns because, although they are comic characters, they carry sadness and loneliness beneath their masks, and therefore express the essence of the human condition.」 「ピカソのフルネームピカソの洗礼名(フルネーム)は、当時のマラガ地方の慣例に従って、赤ん坊に聖人や縁者にちなんだ沢山の名前がついた。その上、スペイン人には姓がふたつあって、第1の姓は父方から受け継ぎ、第2の姓は母方から受け継ぐことになっている。パブロ = 祖父で父方の叔父ディエゴ = 父方の祖父と叔父ホセ = 父(ホセ・ルイス・ブラスコ)フランシスコ・デ・パウラ = 母方の祖父フアン・ネポムセノ = 男性の名づけ親、従兄マリア・デ・ロス・レメディオス = 女性の名づけ親、従姉クリスピン・クリスピニアノ = ピカソが生まれた10月25日に当たる殉職した手袋職人の守護聖人デ・ラ・サンティシマ・トリニダード = 三位一体ルイス = 父の名字ピカソ = 母の名字(マリア・ピカソ・ロペス)Picasso's full nameIn accordance with the customs of the Málaga province of Spain where he was born, Picasso was baptized with a long string of names, derived from the names of relatives and saints. Furthermore, Spanish people have two surnames: the first comes from the father while the second comes from the mother.Pablo: patron saint (Saint Paul)Diego: paternal grandfather (Diego Ruiz Blasco)José: father (José Ruiz Blasco)Francisco de Paula: maternal grandfather (Francisco de Paula Picasso)Juan Nepomuceno: godfather and cousin (Nepomuceno Blasco Navarro)María de los Remedios: grandmother and cousin (María de los Remedios Alarcón Herrera)Crispín Crispiniano: patron saint of shoemakers whose feast day falls on Picasso's birthday (Oct. 25)de la Santísima Trinidad: the Holy TrinityRuiz: father's surnamePicasso: mother's surname (María Picasso y López)」 『ピエロのポール Paul as Pierrot』。「ピエロのポール原画(1929年):パブロ・ピカソ制作:ロジェ・マレルブ・ナヴァルジュマイユピエロに扮装したポールは、最初の妻オルガ・コクローヴァとの間に生まれた長男で、《新古典主義》の時代に描かれた油彩が原画となっている。常に新しいものに興味を示すピカソは、20世紀に考案されたガラスと色彩と光を用いるジュマイユを、表現手段として採用した。Paul as Pierrotoriginal painting (1929): Pablo Picassogemmail: Roger Malherbe-NavarrePaul was the son of Picasso with his first wife Olga Khokhlova. This work is thought to be based on a painting from the neoclassical period. Picasso was always interested in new techniques, and this work uses the technique of gemmail, which was developedin the 20th century, harnessing glass, color and light.」 「ジュマイユジェマイユは、フランス語の「ジェム(宝石。ここでは色ガラスを指す)」と「エマイユ(七宝)」のふたつを合成した言葉。透明な板ガラスに下絵を描き、色ガラス片を積み重ねて色の濃淡を調節する。この重ね合わせによって絵画の絵具と同じような色調が得られる。そして作品を無色透明なエナメルに浸してから、窯で焼き固める。作品の背後から照明をあてることで、光が透けて輝き、色に溶け込むジェマイユ特有の透明感と立体感が生み出される。Gemmail (plural gemmaux)The word gemmail is a combination of the French words, gemme, meaning gem (in this case colored glass) and émail, meaning enamel. First a design is drawn ona sheet of transparent glass, then fragments of colored glass are built up on top of this, the number of layers of glass determining the intensity of the final colors. By superimposing colors in this way it is possible to achieve a greater range of colors as can be found with the artist's palette. Once the work is satisfied, it is submergedin colorless enamel and fired in a kiln, the enamel serving to bind the pieces of glass together. When light is applied from behind, it shines through the picture to create a feeling of transparency and illusion of three-dimensionality that is uniqueto the medium.」 まだまだ鑑賞したい作品があったが、旅友との待ち合わせの時間もあり、ここまでとした。そして出口へと向かう。出口のステンドグラスを内側から。右側下部。右側上部。左側上部。左側下部。外に出て、ステンドグラスを振り返って。「PICASSO館」を見下ろして。 「PICASSO」館正面。 「歩く花」を「picasso館」を背景に。 『フェルナン・レジェ(フランス)Fernand Léger (French)歩く花 Walking Flower』。「フェルナン・レジェ(フランス)Fernand Léger (French)1881–1955歩く花Walking Flower1952ブロンズ、塗料bronze, paint花びらが頭や手足となり、太陽に向かって力強く行進するかのような、力とエネルギーに満ちた作品です。The flower's petals form the head, arms and legs as it appears to march boldly towardsthe sun. It is a work filled with power and energy.」 正面から。花びらを頭、腕、脚に見立てており、太陽に向かって誇らしげに歩みを進めるような躍動感あるデザイン。鮮やかな色彩とロボットのように力強く行進する姿が特徴。再び「PICASSO」、 『エミリオ・グレコ 腰かける女No.2』自然な姿勢で腰掛け、片腕を腰に添えた落ち着いたポーズから、静けさと生命感が同時に伝わって来る。筋肉を誇張せず、なめらかな曲線で人体の美しさを表現しているのがグレコならではの魅力。『 エミリオ・グレコ(イタリア)Emilio Greco (Italian)水浴びをする女 No.6 Large Bather No.6』。「 エミリオ・グレコ(イタリア)Emilio Greco (Italian)1913–1995水浴びをする女 No.6Large Bather No.61962–64ブロンズbronzeグレコの作品の特徴は、憂いを含んだ端正で優美な女性像にあります。量感を感じさせながらも伸びやかで躍動感に満ちています。Greco's works are typically elegant sculptures of women possessing an air of melancholy, which despite projecting a feeling of mass, appear relaxed and full of vigor.」 ズームして。『うずくまる女 No.4 Large Squatting Figure No.4エミリオ・グレコ(イタリア) Emilio Greco (Italian)』「エミリオ・グレコ(イタリア)Emilio Greco (Italian)1913–1995うずくまる女 No.4Large Squatting Figure No.41973ブロンズbronze現代の女性をモデルとしていますが、その彫刻的な技術の巧みさと描線は、イタリア美術の伝統を感じさせます。Although featuring a contemporary woman as a model, the sculptural technique andskillful lines are redolent of Italian traditional sculpture.」 「PICASSO館」を後にして進む。 「平和のためのパイプ ピーター・ローガン作(イギリス)」。 ズームして。そして『草間彌生 われは南瓜』。黒い南瓜のオブジェを中央に据え、その周囲に草間彌生を象徴する黄色い水玉模様が広がる屋外展示。草間彌生は幼い頃から南瓜を好んでおり、「ユーモラスで、たくましく、どこか人間味のある存在」として繰り返し作品に取り上げていまる。南瓜は草間芸術を代表するモチーフの一つで、水玉模様(ドット)とともに、生命力や無限性、自然とのつながりを象徴している。この作品では、黒い南瓜と黄色い水玉の床面との対比によって、南瓜がまるで大地から生命力を放ちながら現れたかのような印象を与えている と。『うつろひ 宮脇愛子』。「うつろひ Utsurohi」は、10本のワイヤーで空間に素描するように線を描いた作品。ワイヤーはしなやかにたわみながら風にふるえ、光に輝き、瞬間瞬間の移りゆく時や風景を記憶に留めるための媒体となっていた。「カフェ&丸太広場 キトキ」へ。 広大な彫刻庭園内の一角にある同施設の1階はカフェ、2階はギャラリーとなっていたが、室内で休憩できるスペースが不足していたため、2階に休憩と展示を両立するスペースが求められた。彫刻の森美術館では、屋外展示の彫刻には基本的に触れることが出来ない。そこで、触れたくなる、また山に囲まれた環境ならではの素材として、箱根山で伐採された杉の丸太材と、360mm角の集成材を土台として井桁状に並べ、階段室を境に分断された細長い空間に一体感を与える提案とした。空間全体にグリッドを設定し、橋のように架け渡した丸太材は、ベンチとしてもテーブルとしても使え、お弁当を食べたりくつろいだり、来館者の憩いの場となる。ゴムチップマットのエリアでは靴を脱いで、角材を背もたれに寄りかかったり、またはローテーブルとして囲んだりもできる。 ごく単純なルールで出来た空間は、使い方を限定せず、訪れた人それぞれが能動的に使い方を発見できる余白に満ちた場所となっていた。1F:カフェ/ショップ2F:フリスペース/ギャララリー ・草間彌生《南瓜》(2017年) YAYOIKUSAMA Pumpkin1F:カフェ/ショップ階段下に「草間彌生《南瓜》(2017年)YAYOIKUSAMA Pumpkin」案内板。 階段を上る。「丸太広場 キトキ丸太広場キトキは箱根の木を使ったフリースペースです。木のぬくもりを感じながらゆっくりおくつろぎください。」 赤い水玉(ドット)で壁一面が覆われ、中央には巨大なカボチャのオブジェが展示されていた。草間彌生ならではの「無限の水玉」の世界を体感できる空間で、多くの来館者が写真撮影を楽しむ人気スポットであった。丸太広場「キトキ」木のベンチやテーブルが並ぶ休憩スペース「キトキ」は木の温もりを感じられる交流空間草間彌生作品を背景に休憩や記念撮影が楽しめるのであった。草間彌生と水玉草間彌生は幼少期から幻視体験の中で見えた無数の水玉を作品化してきた。水玉は「自己と宇宙の一体化」や「無限」を象徴するモチーフで、カボチャと並ぶ草間芸術の代表的なテーマである。廻り込んで。「丸太広場 キトキ」。 天井からも巨大なカボチャのオブジェが吊り下げられていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.22
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さらにPICASSOのセラミック作品を追う。「牡牛と闘牛士Bulls and Bullfighters」 近づいて。近づいて。近づいて。近づいて。「四角い顔Square Faces」 「四角い顔Square Faces「顔」ピカソは、自我の投影ともいえる「顔」を量産し、陶芸において数々の顔を描いた。晩年にかけてはいっそう戯画的傾向を強めた。ユーモラスな顔からは、無心に造形を楽しむピカソの童心が伝わってくる。"Face"Picasso produced large quantities of faces that can be seen as representing himself. These were used to decorate his ceramic works. In his later years,his work became increasingly decorative. The humorous faces are able to glimpse Picasso's childlike spirit of enjoyment as he devoted himself to his creativity.16の展示作品一覧」 「静物Still Lifes」 「模様のある花瓶1947年頃Vase with Decorc.1947ceramic」 「静物1956年3月10日セラミック花瓶とりんごを並置させ、単純化したフォルムと調和した色合いで、物のもつ重厚さを表現している。ピカソは、テーブル上の水差しや花瓶など日常的な情景をとらえ、静謐な威厳あるものとして存在の本質に迫っている。Still LifeMarch 10, 1956ceramicThis still life, with its simple forms and balanced colors, shows a vase andan apple side-by-side, stressing the weighty nature of objects. Picasso takes everyday items such as jugs and vases on a table to considerthe true nature of existence by portraying them as objects of serenity and majesty.首飾りをつけたヴィーナス1947年3月18日セラミック伝統的な陶器の形状を、最小限の手を加え、鳥や人物像などに再構成した。その多くは使用するためのものではなく、陶器の彫刻である。「陶芸は自由気ままにできる彫刻だ」とピカソは語っている。Venus with NecklaceMarch 18, 1947ceramicPicasso would sometimes take traditional ceramic forms and with a minimum of alteration, turn it into a bird or person, etc. The majority of these were not meant to be practical, but rather were created as ceramic sculptures. He is quoted as saying, “Pottery is form ofsculpture that can be created freely.”」 「人物Human Figures」。 「顔」。 「顔1957年頃セラミックFace1.1957ceramic」。 『水浴者』。「水浴者1961年頃セラミック薄い粘土板から人型を切り取り、それを垂直に折って絵を描いている。平面の組み合わせを中心に構成された立体作品であり、絵画と彫刻の関連性を示している。Batherc. 1961ceramicThis work, which is built around a combination of flat surfaces, depicts a figure that has been cut out from a thin slab of clay before being bentvertically. The work demonstrates the links between painting and sculpture.」 「ゆかいな顔Amusing Faces」 『二つの顔 Two Faces』。「二つの顔セラミック皿や水差し、食器などは職人による成形がすでに行われており、そこにピカソが絵付けをしていく。陶芸既成概念を次々と破っていったピカソの直感が完成作品に表われている。Two FacesceramicPicasso would take plates, jugs and tableware that had been created by a potter, then apply paintings to them. Picasso's intuitional ability tosubvert preconceived ideas of pottery is revealed in the completed works.」 左:女 1961年頃 セラミック Woman c.1961 ceramic右:二つの顔の花器 1952年8月24日 ブロンズ Pot with Two Faces August 24,1952 bronze左:顔 セラミック Face ceramic「三人の人物1948年1月14日セラミックThree PersonsJanuary 14,1948ceramic」 近づいて。「顔1965年6月21日セラミックFacesJune 21.1965ceramic」近づいて。近づいて。「フランコの夢と嘘1936年にスペイン内戦が勃発。この2枚組の版画は、反乱軍の指導者であったフランシスコ・フランコ将軍への批判であり、スペイン政府救援のために自筆の詩を添えて販売された。物語は画面の右上から左へと進み、フランコは醜悪で滑稽な怪物の姿で描かれ、非現実的でグロテスクな行為の主人公として告発されている。最後の4場面は1937年4月のゲルニカ空爆のあとに描かれた。The Dream and Lie of FrancoThe Spanish Civil War broke out in 1936. This set of two prints wasproduced as a critique of General Francisco Franco, the leader of therebellion, and sold, together with a poem written in his own handwriting, to aid the Spanish government. The narrative proceeds left from the upper right with Franco depicted as a ridiculous monster accused of advancing unrealistic and grotesque acts. The last four scenes were produced after the bombing of Guernica in April 1937.」 『フランコの夢と嘘 第1葉The Dream and Lie of Franco First Sheet』。「フランコの夢と嘘第1葉1937年1月8日エッチング、アクアティント、紙The Dream and Lie of FrancoFirst SheetJanuary 8, 193etchching, aquatint, paper」 『フランコの夢と嘘 第2葉 The Dream and Lie of Franco Second Sheet』。「フランコの夢と嘘第2葉1937年1月8–9日、6月7日エッチング、アクアティント、紙The Dream and Lie of FrancoSecond SheetJanuary 8–9, June 7, 1937etching, aquatint, paper」 「男の顔 Men's Faces」を振り返って。 『男の顔 Men's Faces』。ズームして。「男の顔原画(1967年7月31日):パブロ・ピカソ制作:ジャクリーヌ・ド・ラ・ボーム=デュルバックタピスリーピカソの水彩画(原画)に基づき、許可を得て制作された。タピスリー作家のジャクリーヌ・デ・ボーム=デュルバック(1920–90)によって2枚が織られたうちの2枚目。1枚目は作家蔵。Head of a Manoriginal painting (July 31, 1967): Pablo Picassotapestry: Jacqueline de La Baume-DürrbachReproduced with permission from one of Picasso's watercolors. Two works were produced by Jacqueline de la Baume Dürrbach (1920–90). This is the second. The first is part of the artist's collection.」 『腕を組む男 Man with Arms Crossed』に近づいて。『腕を組む男 Man with Arms Crossed』。 「腕を組む男 1964年12月31日細砂、キャンバス83歳のピカソはますます精力的であった。1964年の大晦日、この作品のほかに大作を2点。ほとんどが描かれ、前日には5点の油彩を制作している。速く簡潔で力強い筆致と余白のバランスが効果を生んでいる。Man with Arms CrossedDecember 31, 1964oil on canvasAt the age of 83, Picasso had become increasingly industrious. On New Year's Eve, 1964, he produced this and five other large paintings, while the previous day he hadcreated four oil paintings. The bold brushstrokes of that extremely prolific final periodreveal the artist's deep passion in his later years.」 『座る男 Seated Man』。「座る男1960年12月26日鉛筆、紙ピカソは線描を得意とし、この素描は、人体の正面と側面を一緒に描くという造形上の処理を力強い線で表している。Seated ManDecember 26, 1960pencil on paperPicasso excelled at line drawings and in this sketch he uses strong lines to createa figurative depiction of a seated figure, combining the frontal and side views.」 『画家とモデルArtist and Models』左:『156シリーズ No.150』右:『ジャクリーヌの顔』『156シリーズ No.150』。「156シリーズ No.1501971年6月7日–10月6日アクアティント、ドライポイント、紙《156シリーズ》は、ピカソが88歳から91歳を亡くなるまでの3年間に制作した156点の銅版画である。ピカソが長年にわたり繰り返し描いた《画家とモデル》のテーマが複雑に展開する。本作品では、豊満な裸婦の姿態を見つめる画家の表情に寂しさがただよう。156 Latest Prints, 1968–72 No.150June 7 – October 6, 1971aquatint, drypoint, paperThe "156 Series" is a set of 156 copperplate engravings Picasso produced over thethree years from the age of 88 until his death at 91. The series represents the complex development of the recurring theme of the "painter and model" that he explored throughout his life. In this work, an expression of loneliness is apparent on the face of the artist as he gazes at the voluptuous nude figure of the woman.」 『ジャクリーヌの顔 Head of Jacqueline』。「ジャクリーヌの顔1956年1月22日セラミック自画像を含め、身近にいる人物の肖像をたくさん描いた。横顔の美しいジャクリーヌと結婚したのは、ピカソが80歳の時。モデルのジャクリーヌはピカソの2度目の妻で、晩年の10数年間を共に暮らし、その死をみとった。Head of JacquelineJanuary 22, 1956ceramicPicasso painted numerous portraits of those closest to him, including self-portraits. When Picasso married Jacqueline Roque, known for the beauty of her profile, he wasalready 80 years old. The model, Jacqueline, was Picasso's second wife.The couple lived together for well over a decade in Picasso's later years, and she remained with him until his death.」 『冠をかぶる女 Crowned Head』。「冠をかぶる女1965年1月16日油彩、キャンバス1961年にジャクリーヌ・ロックと結婚し、ムージャンに近い別荘「ノートル・ダム・ド・ヴィ」に定住する。以降、あたかも追憶の絵日記のように制作の流れはとどまらず、表現は大胆になっていく。この作品は、キュビスム以来の特徴であるダブル・イメージを利用したピカソらしい人物描写である。Crowned HeadJanuary 16, 1965oil on canvasPicasso married Jacqueline Roque in 1961 and began living in the cottageNotre-Dame-de-Vie, near to Mougins. After moving to the cottage, Picasso continued to draw and paint as if writing a daily journal, becoming increasingly bold in his methods of expression. This work is a typical Picasso portrait that makes use ofthe double-image technique that typified his work from the Cubist phase onwards.」 『画家とモデル The Artist and His Model』。「画家とモデル1963年3月5日–9月20日油彩、キャンバスThe Artist and His ModelMarch 5 – September 20, 1963oil on canvas絵筆とパレットを持ちキャンバスに向かう画家はピカソ自身であり、モデルは最後の妻ジャクリーヌである。そこには創作への強い思いと、モデルへの愛が込められている。描くことは愛することとともに自らが生きている証であった。The Artist and His ModelMarch 5 – September 20, 1963oil on canvasThe artist standing in front of the canvas, holding a brush and palette, is Picassohimself, and the model is his second wife, Jacqueline. The work displays his strong feelings towards creativity and his love for the model. For him, to paint and to love were both ways of proving his existence.」 『パレット Palette』。「パレット1961年6月3日陶板PaletteJune 3, 1961ceramic board」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.21
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この日は7月19日(日)、車で10分ほどの場所にある大学の農園で開花しているヒマワリ・向日葵を愛でに行って来ました。夏の朝の陽光をいっぱいに浴びたヒマワリ畑の壮大な広がりが印象的。青空と緑、そして一面の黄色が見事な調和を見せていた。見渡す限り続くヒマワリの黄色い絨毯。その一輪一輪が太陽の光を受けて輝き、夏の生命力と自然の豊かさを力強く語りかけてくれる光景なのであった。緑豊かな木立を背景に、無数のヒマワリが夏の日差しを浴びて咲き競う。自然が描いた鮮やかな黄色のキャンバスに、思わず時を忘れて見入ってしまうのであった。ズームして。青空を背景に、一斉に咲き揃ったヒマワリたち。どこまでも続く黄色の波は、訪れる人の心まで明るく照らし、夏ならではの感動を届けてくれたのであった。一輪一輪が個性豊かな表情を見せながら、仲間とともに咲き競うヒマワリ。自然が織りなす鮮やかな黄色のハーモニーが、夏の喜びを奏でて。咲き誇る花も、静かに頭を垂れ始めた花も、それぞれが夏という季節を精いっぱい生きている。その姿に、自然の営みの尊さが溢れて。背筋を伸ばし、太陽を見つめるヒマワリの姿は実に堂々としている。その凛とした美しさは、「前を向いて生きよう」という静かな励ましを。それぞれが少しずつ異なる方向を向きながらも、力強く咲くヒマワリ。その個性豊かな姿が調和し、自然だけが描ける美しい風景をつくり出しているのであった。花に近寄って。大きく広げた黄金色の花びらと、無数の小花が集まる花芯。その精巧な造形美に近づくほど、自然が創り出した芸術作品であることを実感させられるのであった。真夏の陽光を浴びて咲く一輪のヒマワリ。その黄金色の花びらは、まるで太陽の光をそのまま映し出したかのように輝き、生命の力強さを静かに語りかけてくるのであった。一輪のヒマワリにそっと近づくと、放射状に広がる花びらと緻密な花芯が織りなす見事な造形美に目を奪われる。自然が生み出した芸術作品そのものであった。一輪のヒマワリに宿る生命の輝き。幾何学模様のように整然と並ぶ花芯と、伸びやかな花びらが織りなす姿は、自然が描いた見事な芸術作品である。一輪一輪が堂々と咲きながら、互いに美しさを競い合うヒマワリたち。果てしなく続く黄色の花の海は、夏だけが見せてくれる贅沢な風景であった。太陽に向かって力強く咲くヒマワリが一面を埋め尽くす。その圧倒的なスケールと鮮やかな彩りは、自然が創り上げた壮麗な夏の絵巻そのもの。一輪一輪が堂々と咲きながら、互いに美しさを競い合うヒマワリたち。果てしなく続く黄色の花の海は、夏だけが見せてくれる贅沢な風景。そして移動して、サルスベリ・百日紅とのコラボを。紅色のサルスベリが優雅に咲き、その向こうには黄金色のヒマワリが一面に広がる。夏を代表する二つの花が織りなす競演は、まるで季節が奏でる華やかな開花の約束。黄金色のヒマワリの海の向こうに、紅色のサルスベリがまるで舞台の主役のように浮かび上がっていら。そして、その間から一本だけ背高く咲くヒマワリが、まるで二つの花を結ぶ案内役のようにも。再び戻って。黄金色の花々が果てしなく続く景色は、まるで大地に敷き詰められた夏色の絨毯。一輪一輪が光を受けて輝き、見る人の心・そし9て後期高齢者の私に元気と希望を届けてくれるのであった。そして後ろ姿を。太陽を見つめるヒマワリたちの後ろ姿。華やかな花は見えなくても、その伸びやかな茎と力強く支える姿には、飾らない美しさと健気な生命力が感じられるのであった。表情豊かな花の陰には、しっかりと大地に根を張り、花を支える茎と葉がある。後ろ姿を眺めることで、華やかさだけではないヒマワリの本当の美しさに気づかされるのであった。ヒマワリにぐっと近づいたことで、花芯の精巧な造形と花びらの繊細な美しさが際立っていた。二輪が寄り添う姿も印象的で、まるで語り合っているようにも見えて。黄金色の花びらをいっぱいに広げたヒマワリ。その中心に刻まれた緻密な模様は、自然が長い歳月をかけて育んだ精巧な美しさを物語っている。そしてヒマワリの花の奥には富士山の姿が。一面のヒマワリの先に、かすかに浮かぶ富士山。その控えめな姿が、黄金色の花畑をいっそう引き立て、日本ならではの夏景色を演出していたのであった。富士山にズームして。夏の陽光に輝くヒマワリ畑。その遥か彼方には、薄い雲をまとった富士山が静かにそびえ立つ。力強さと穏やかさが響き合う、これぞ美しい日本の夏景色。最後に目を向けたのは、一輪のヒマワリで忙しく蜜を集めるミツバチ。その小さな命の営みが、夏の花畑に生命の豊かさと自然の尊さを静かに伝えていた。我が趣味の養蜂のミツバチ嬢もここまで訪花しているかも知れないのであった。黄金色のヒマワリの花芯に静かに降り立ち、夢中で蜜を集めるその姿には、懸命に生きる命の輝きがあった。広大な花畑の美しさも、一輪の花の精巧さも、この小さな命があってこそ次の季節へと受け継がれていく。自然とは、それぞれが役割を果たしながら支え合う、大きな生命のつながりなのである。ヒマワリへ舞い降りようとする一匹のミツバチ。その小さな羽ばたきには、花から花へ命をつなぐ自然の営みと、懸命に生きる力強さが凝縮されていた。蜜を求めて飛び交うミツバチと、それを優しく迎えるヒマワリ。互いに支え合いながら命をつないでいく自然の姿が、まさに眼前で凝縮されているのであった。ミツバチの体には黄色い花粉がびっしりと付着し、ヒマワリからヒマワリへ命をつなぐ、まさに働き者の姿そのもの。花芯に顔を寄せ、夢中で蜜を集めるミツバチ。後脚に実った花粉団子は、懸命に働いた証であり、自然から授かった小さな宝物なのであった。いつまでもヒマワリの花そしてミツバチをカメラで追いかけていたい時間、空間なのであった。入口には「生物資源生産実習センター」👈️リンク と。日本大学生物資源科学部の「生物資源生産実習センター(附属農場)」は、神奈川県藤沢市亀井野1866に所在し、乳牛、豚、鶏などの飼育や栽培実習、食肉加工などを行う教育・研究施設 。入口の花壇の花も地味に感じられたのであった。 ・・・おわり・・・
2026.07.20
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そして「PICASSO館」に到着。「PICASSO館」は、20世紀を代表するスペインの芸術家パブロ・ピカソの作品を専門に紹介するために、1984年に開館した。以来、マヤ・ピカソから購入した陶芸作品188点を中心とした319点のピカソ・コレクションを順次公開している。 「PICASSO館」入口。「PICASSO」。パブロ・ピカソは、91歳で生涯を閉じるまで、人間として、芸術家として劇的な人生を歩みました。1881年、スペイン、アダルシア地方の地中海をのぞむ町マラガに生まれたピカソは、幼少より画才を見せ、画家で教師をしていた父親の薫陶の下に、やがて父親を越えるほどの素描力を見せました。14歳でバルセロナへ移った彼は、翌年美術学校へ入学します。1900年にパリへ出ると、トゥールーズ=ロートレック[1864-1901]の影響を受けてアカデミックな表現を捨て、本格的に画家としての道を歩み始めます。その人生は起伏に富んだもので、生涯に幾人かの女性が相次いで登場しますが、彼女たちは創作活動のインスピレーションとなり、ひいてはピカソの作風の変化するきっかけともなりました。ピカソは、キュビスムのように理知的に対象を分析したリズム感あふれる作品を描いたかと思うと、古典主義的なしっとりとした作品を描き、愛情とユーモアあふれる作品を生み出す一方で、激しい怒りの叫びが聞こえるような作品を制作しています。異なる時期や様式のピカソの作品を見比べると、あまりに変化に富んでいるので、まったく別の人間が描いたかのように見えます。しかし、どの作品もピカソの人生を反映しており、彼の現実を見つめる一貫した意志や姿勢が感じられます。現在ピカソの作品を専門に収蔵している美術館は、生誕地のマラガや青年期を過ごしたバルセロナ、人生の大半を過ごしたパリ、古城をアトリエとして使っていたアンティーブ、南仏の陶芸の町ヴァロリスなどにあり、それぞれに特徴を持っています。1984年に開館した彫刻の森美術館のピカソ館は、ピカソの娘であるマヤ・ピカソ[1935-2022]から購入した陶芸作品188点がコレクションの中心となっています。鮮やかな色彩、遊び心にあふれた作品の数々は親しみやすく、見る者を豊かな楽しい気分にさせてくれます。その他、彫刻、絵画、タピスリー、ジェマイユ、金のオブジェ、銀製コンポートなど、多彩な作品が展示してあります。好奇心、探求心の旺盛なピカソは、様々な造形に挑戦し、独自の表現を開拓してきました。第1次世界大戦、スペイン戦争、第2次世界大戦など激変の20世紀を、ピカソは驚異的な創造カとエネルギーを持って生き抜き、その業績は生前すでに圧倒的な評価を受け、20世紀美術の最高峰としてそびえることになりました。『ピカソの肖像 Portrait of Picasso パブロ・ガルガリヨ Pablo Gargallo』。「パブロ・ガルガリヨ1881–1934年スペインピカソの肖像1913年ブロンズピカソと同年に生まれ友人であったガルガリヨは、伝統的な鋳造による制作を行っていたが、キュビスムに接してからは、透かし彫りを取り入れた多面的な形状の作品を作るようになった。この肖像はピカソの身長(約163cm)にあわせて展示した。Pablo Gargallo1881–1934SpanishPortrait of Picasso1913BronzeA friend who was born in the same year as Picasso, Gargallo was a sculptor who initially specialized in traditional casting techniques. After coming into contact with Cubism, he began producing sculptures using openwork and multiple planes. This portrait is displayed at the same height as Picasso himself, 163 centimeters.」 PICASOの創作風景をビデオで紹介。「このピカソ館は、1984年(昭和59年)7月7日、産経新聞創刊50周年、ニッポン放送開局30周年、フジテレビジョン開局25周年を記念して創設されました。The Picasso Pavilion opened on July 7, 1984.It was founded in commemoration ofthe 50th anniversary of The Sankei Shimbun Newspaper,the 30th anniversary of Nippon Broadcasting System, Inc., andthe 25th anniversary of Fuji Television Network, Inc.」 「ピカソの原動力」。 正面から。「ピカソの原動力PICASSO'S DRIVING FORCEピカソは、創作を引き起こす原動力となり作品を構成する重要なモチーフに、自分自身を重ねあわせ、度々、作品に登場させます。あるときは半獣半人の怪物ミノタウロスに、またあるときはモデルを描く画家として、そこに描かれているのは、愛と悲しみ、暴力と死、そして生きる歓びです。このような同一視は、湧き起こる感情をおさえ込む手段であり、心のうちをかたちにする方法であったと言えるでしょう。今回の展示では、コレクションを20のテーマに分け、創作モチーフからピカソ像を読み解く機会になりますと幸いです。PICASSO'S DRIVING FORCEPicasso often appeared in his own works, his method of overlaying the main motifin the composition with an image of himself being one of the driving forces behind his creativity. In one work he may depict himself as a Minotaur, a half-animal, half-human monster, while in another he could be the artist painting the model. His works express love and pathos, violence and death, or the joy of life, and this way of identifying with his subjects provided him with a means of expressing the emotions that welled up within as well as a method of manifesting whathe held in his heart.In this exhibition, the collection has been divided according to 20 themes, and wehope that these will provide the viewer with an opportunity to discover Picasso'simages of himself within his creative motifs.」 「私が歩んできた道をすべて地図に記し線で結んだとしたら、それはミノタウロスを表わすかもしれない。―― パブロ・ピカソIf all the ways I have beenalong were marked on a mapand joined up with a line,it might represent a minotaur.— Pablo Picasso」 「ミノトーロマシー」原版画(1935年):パブロ・ピカソ制作(1982年):イヴェット・コキール=プランスタピスリー 318x 450cmTapestry made by Yvette Cauquil-Prince after a work by Pablo Picasso「1930年代、ピカソの作品にはミノタウロスという牛頭人身のギリシャ神話の怪獣が登場する。人間的な弱さや愛情、ユーモアと、野獣の凶さや肉欲、残虐さを合わせ持つミノタウロスの多様な性格にピカソは共感を抱き、魅了された。自らの内にある獣性をミノタウロスに重ねて見ていたのであろう。彼の版画作品の中でも最高傑作である《ミノトーロマシー》は、1935年、ヨーロッパが第2次世界大戦へと向かう不穏な空気の中で描かれた。ミノタウロスは、愛らしい少女が差し出す蝋燭(ろうそく)の光を前に恐れたように立ちすくんでいる。中央には腹を裂かれ苦しむ馬と、馬の背に横たわる美しい女闘牛士。左手には逃げ出す髭(ひげ)の男、上方の窓にはふたりの女性が鳩と寄り添い様子を見守っている。いろいろな解釈を許す作品であるが、それらの題材は、2年後の大作《ゲルニカ》(1937年、ソフィア王芸術センター、マドリード)の悲劇に先駆ける象徴性を持ち、不吉な雰囲気を感じさせる。このタピスリーは《ミノトーロマシー》の原版画をもとにして糸の選択から仕上げまでタビスリー作家のイヴェット・コキール=プランス[1928-2005]が制作した。」 「女の顔Women’s Faces」 『女の顔1905年エッチング』『女の顔1905年エッチング1904年、モンマルトルの「洗濯船」と呼ばれる木造長屋に住んだピカソは、近くにある「ラベン・アジル」というキャバレーの常連となった。本作品の女性は、この店の主人フレデリックジュラール(愛称フレデ爺さん)の愛人であるマルゴ(Margot)になっている。』 『女の横顔 Woman in Profile』「女の横顔1956年頃セラミック一息に描いた無駄のない簡素な描写と、陶の粗い肌合いがあいまって、プリミティブ芸術を想起させるような素朴で、かつ端正な力強い女性像を想起させるような、素朴で、かつ崇高な女性を表現している。ピカソはあらゆるものをキャンパスがわりにして、陶板の破片までも芸術作品に仕立てあげた。Woman in Profilec. 1956ceramicThis modest portrait, drawn rapidly and unpretentiously, combines with the rough texture of the pottery to create a simple, yet sublime image of a woman, reminiscentof primitive art. Picasso even used all kinds of material as he was turning even this shard of pottery into a work of art.」 『イタリアの女 Italian Woman』。「イタリアの女1918–19年エッチン1917年、ピカソはイタリアのローマ、ナポリ、ポンペイ、フィレンツェ、ミラノの遺跡や美術館を巡り、その風土に魅せられた。画風もおおらかなものへと変化し、この頃から豊満な人物像が現れてくる。Italian Woman1918–19etchingIn 1917, Picasso toured historical sights and art galleries in the Italian cities of Rome, Napoli, Pompeii, Florence, and Milan and was struck by the culture and customs of Italy. The trip also softened his artistic style, and from around this period he beganto produce works featuring voluptuous women.」 『顔 Face』「顔1928年リトグラフ、モデルは当時19歳のマリ=テレーズ・ワルテルであろう。妻オルガ・コクローヴァと不仲になったピカソにとって、彼の名を知らなかった無邪気な娘は心の安らぎとなり、彼女を描いた多くの美しい絵画が生まれた。Face1928lithograph, paperThis work was likely modeled by Marie-Thérèse Walter, who was then just 19. As his marriage deteriorated, Picasso sought comfort from the young womanwho did not know his status as a painter, and she began to feature in many beautiful works.」 『二人のサルタンバンク Two Harlequins』。「二人のサルタンバンク1905年ドライポイント、紙ピカソがサルタンバンク(サーカス芸人)を描く時に選んだのは、彼らの華やかな舞台ではなく、幼い子どものいる家族や仲間たちと休憩したり、馬の世話をしたりする姿であった。現実の社会と人々へのまなざしは、ピカソ芸術の原点にあった。Two Harlequins1905drypoint, paperWhen Picasso drew the Saltimbanques (circus performers), he chose not to depict them on a flamboyant stage, but rather to show them with their families, including young children, relaxing with friends, or looking after their horses.The study of the real world and its people formed the foundation of Picasso's art.」 『フルート奏者と子ども Flute Player and Child』。「フルート奏者と子ども1971年9月1日鉛筆、紙子どもと大人との対比が晩年のピカソ作品の典型的な主題となった。大人は若さと活力を取り戻そうとし、子どもはそれに付き従う。子どもは、老いと死への抵抗を試み続けるこの芸術家の心強い味方で、両者は互いに助け合う存在であった。Flute Player and ChildSeptember 1, 1971pencil on paperIn Picasso's later years, he often depicted children alongside adults. The child follows the adult as the adult hopes the child can help them recapture some of their youthful vigor. Children provide a measure of support as the old painter fights against aging and death, with both generations assisting each other.」 「子供 Children」。近づいて。 『子供 Child』。「子供1956年頃セラミックピカソは、子供がとらえる世界に強い関心を持ち、子供のまなざしに自らも同化しようとした。本作品は、デフォルメされた子供と背景の色彩を大きく分け、さらに全体を六つに分割するという、絵画と彫刻の要素を同時に組み合わせた実験であった。Childc. 1956ceramicPicasso had a deep interest in how children see the world, and often tried to look atthings from a child's viewpoint. This is an experimental work in which he divided the composition between the deformed image of a child and a colorful background,while splitting the overall work into six sections, simultaneously combining elements of painting and sculpture.」 『クロードの顔 Claude』「クロードの顔1958年7月21日陶板ピカソは生涯を通じて子供という主題に取り組んだ。特定の個人を表わすことなく幼年時代を描いた作品とならんで、彼自身の息子や娘たちニ、パウロ、マヤ、クロード、パロマを描いた作品もあり、子供の世界は重要な主題であった。ClaudeJuly 21, 1958ceramic boardThroughout his artistic life, one of Picasso's most important themes was childhood. Some of his works focus on children generally without depicting specific individuals, and others show his own children, Paul, Maya, Claude and Paloma.」「ミノタウロスMinotaur」 パブロ・ピカソにとって「ミノタウロス(牛の頭と人間の体を持つ神話の怪物)」は、1930年代に彼自身を投影した重要な分身(オルターエゴ)でした。彼はミノタウロスを、野蛮な欲望、男性の暴力性、そして人間の本能的な感情の象徴として多くの絵画や版画に描きました。『ミノタウロマキア』(Minotauromachy, 1935年): 彼のミノタウロスをテーマにした作品の中で最も有名で複雑な銅版画です。盲目の怪物が少女に導かれる様子や、力と無垢の対比が描かれています。「イヴェット・コキール=プランス1928–2005年ベルギー1959年、パリにタピスリーのアトリエを開く。以後、ブラック、シャガール、工ルンストといった20世紀の主要な芸術家たちと共に仕事をする。またピカソの全面的な信頼も得て、ビカノの存命中に数多くのタピスリー制作を実現させた。実寸大に引き仲ばした写真を下絵として使い、1m²を織るのに2週間〜2ヶ月ほどかかり、この作品は10ヶ月間をかけて完成された。Yvette Cauquil-Prince1928–2005BelgiumYvette Cauquil-Prince opened a tapestry studio in Paris in 1959 where she worked with many of the major artists of the 20th century such as Braque, Chagall and Ernst. She also won Picasso's complete trust, and while he was still alive, she produced numerous tapestries for him. Working from actual size photographs, it would take herbetween 2 weeks and 2 months to weave a 1m² section. This work took her10 months to complete.」「イヴェット・コキール=プランス」。 「ミノトーロマシ原版画(1935年):パブロ・ピカソ制作(1982年):イヴェット・コキール=プランスタピストリーピカソは、ギリシャ神話の半獣半人ミノタウロスを好んで題材にした。残忍で好色なこの怪物は、悪や暴力、死を象徴する。自らの内にある獣性をミノタウロスに重ねたのであろう。画面中央の女闘士に残虐を行うミノタウロスの、一部始終を照らし出す少女――「真実と潔白さは、悪と暴力を打ち破る」ことが主題となっている。Minotauromachyoriginal print (1935): Pablo Picassotapestry (1982): Yvette Cauquil-PrincePicasso liked to use the Minotaur, a half-man, half-bull that appears in Greek mythology, as a motif in his work. A brutal, lustful monster symbolizing evil, violence and death, he overlaid it with the bestiality that existed within himself. In this work, the Minotaur can be seen ravishing a woman fighter in the center of the work while the wholescene is illuminated by a young girl, the theme being truth and innocence defeating evil and violence.」 『ミノトーロマシー Minotauromachy』。「キュビスムの表現cubism」 『イタリアの女 Italian Woman』。「イタリアの女1917年水彩、紙1917年、ピカソはジャン・コクトーとともにローマを訪れた。この時の古代ローマの彫刻や遺跡、ルネサンスの巨匠たちとの出会いが後の《新古典主義》の表現へと結実する。本作は、解体された対象を再構成しつつ点描を加えて、明るい光のなかに佇む女性を描いている。Italian Woman1917watercolor on paperIn 1917, Picasso visited Rome with Jean Cocteau. His encounter with the sculpture and ruins of ancient Rome, as well as the work of the great masters of the Renaissance, later bore fruit in his Neoclassicism. In this work, the subject has been deconstructed, reconstructed and rendered with pointillist touches to create the image of a woman standing in bright light.」 【本文にわいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています。】とのことでアップできません。「10コマ目死んだペガサスを食べるフランコ」 「動物 Animals」。 移動して。「鳥 Birds」。 近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.20
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『浮かぶ彫刻3 マルタ・パン』近づいて。木立に囲まれた池を舞台に、大小の朱色のかたちが周囲の景色と響きあっています。ゆるやかなカーブを描く大きな形の中央には穴が開いていますね。小さい形は、そこからくり貫かれたもので、まるで赤ん坊のように母なる大きな形から生まれてきました。小さい方は、風がふくと水の上を滑るように動きます。大きい方から離れたり、近づいたり、まるで池の鯉や自然との対話を楽しんでいるかのようです。大きい方も、時折その場で向きを変えながら様々な表情を見せます。ハンガリーで生まれ、その後パリを拠点に活躍してきたマルタ・パンは、環境芸術の先駆けとして知られる女流彫刻家です。ポリエステル樹脂やステンレスなどの現代的な素材を用いた作品は、作品が置かれる周囲の要素を取り込みながら、おおらかで心地よい自由な空間を生み出しています。移動して。『ハコネ Hakoneアリシア・ペナルバ(アルゼンチン-フランス)Alicia Penalba (Argentine / French)』「アリシア・ペナルバ(アルゼンチン-フランス)Alicia Penalba (Argentine / French)1918–1982ハコネHakone1968–69ポリエステル、鍍金polyester, plating原生植物的な様相と建築的な様相が交差しつつリズムを高め、何か呪術的な要素もあり、力強い作品となっています。In this powerful work, aspects of primeval plant life and architecture intersect,heightening the rhythm, while it also seems to contain some elements of magic.」 『イサム・ノグチ(アメリカ)Isamu Noguchi (American)1904–1988オクテトラOctetra1973セメント、塗料Cement, paint題名は、ギリシャ語の8=オクトと4=テトラを組み合わせました。さわって遊べるプレイスカルプチャー(遊具彫刻)です。The title of this sculpture derives from a combination of the Greek words "októ" for eight and "tetra" for four. This work is a play sculpture that visitors can touchand play in.』アメリカの彫刻家イサム・ノグチは、日常の遊び場にアートを持ち込み、こどもたちに夢を与えるために数多くのプレイスカルプチャー(遊べる彫刻)を制作しました。《オクテトラ》は、イサム・ノグチが制作したプレイスカルチャーで最も知られたものです。ギリシャ語の8=オクトと4=テトラを組み合わせて《オクテトラ》と名付けられたこの作品は、六角形の面4つと三角形の面4つをあわせた八面体の彫刻で、中に入って登ったり、くぐったりすることができます。作品案内板。振り返って。この作品は『ソファー / ポケっと。Sofa / PockeT.2021』『松原成夫Shigeo Matsubara1944–2012宇宙的色彩空間Cosmical Color Space1968鉄、塗料Iron, paint12色の正方形の連続がリズムとハーモニーを生み出して、見る人を色彩の小宇宙へと引き込むようです。A series of twelve different colored squares create rhythm and harmony,engaging the viewer with a microcosmos of color.』移動して。松原は、「物体を並列させることで空間がつながり、屋外の自然と融合して秩序のある宇宙空間が生まれる」と語ります。この作品では同じ大きさの正方形を1列に並べ、赤、黄、緑、青と虹色に移り変わる色をつけました。12色の変化がリズムとハーモニーを生み出して、まるで音でも聞こえてきそうな色彩の小宇宙を作っています。正方形の枠の連続が作り出している空間は開放的で、見る人を思わず作品の中へと引き込んでいくようです。子供たちだけでなく、大人までが枠をくぐり抜けてみたくなるこの作品は、人々の気持ちを和ませる環境彫刻として、また作家の造形の意図を越えて、遊具造形としての役割も果たしています。『風の奏でる音楽 Music by Wind 松本秋則 Akinori Matsumoto1951–1987ステンレス・スティール、アルミニウム(クロームメッキ)Stainless steel, chrome-plated aluminiumたくさんのパイプが風に揺れて生み出す音は、自然が奏でるリズムです。音楽好きの作者によるサウンド・オブジェです。Nature plays a rhythm when the wind blows the many pipes in this sculpture to generate sounds. The artist who created this sound object is a lover of music.』風が吹くと頭上よりずっと高いところから、カランカランという素朴な音が聞こえてきます。見上げると、周りの木立と背を並べるようにして、たくさんのパイプが風に揺れています。風に揺れて生み出される音は、自然が奏でるリズム。長さに違いのあるアルミニウム製のパイプは、音に高低があり、音楽を生み出します。例えば微風の時は、まるで風のささやきのような優しい音楽を奏でます。独学で美術・音楽などを学びました。「私は音楽が好き。でもピアノやギターなどの既成の楽器を演奏することはできない。そんな私が音楽活動をするにはどうしたら良いかと試行錯誤した結果、生み出されたのがサウンド・オブジェたち」と語ります。1992年から1年半アジア7 カ国で少数民族の芸能を研究。近年は竹を素材にしたサウンド・オブジェを制作し、アジアの芸能をヒントにした影絵仕立てのサウンド・インスタレーションで発表を続けています。『ポケつと』。2021年4月、彫刻の森美術館に体験型作品を中心に休憩できるエリア「ポケっと。」がオープンしました。振り返って。池に浮かぶ『浮かぶ彫刻3 マルタ・パン』見る。吊り橋。『狛犬 長野隆業』。『十一面観音像 木喰明満』『西行 松村外次郎』。『托鉢 矢崎 虎夫』。廻り込んで。『太陽の輝き カール・ミレス』『能姿の空間(弱法師)矢崎 虎夫』廻り込んで。『エヴァ Eva フランチェスコ・メッシーナ(イタリア) Francesco Messina (Italian)』。「フランチェスコ・メッシーナ(イタリア)Francesco Messina (Italian)1900–1995エヴァEva1949ブロンズbronze原罪を噛み締めるかのように、憂い気に佇む像です。作者は対象に深く迫り、モデルの内面を透過するほどに心理を描写しています。This figure projects a melancholy mood as she reflects on the original sin. The artist closes in on the subject, creating a psychological portrayal that expresses the model's inner consciousness.」 『パヴィリオン彫刻 Pavilion Sculpture マックス・ビル(スイス)Max Bill (Swiss)』。「マックス・ビル(スイス)Max Bill (Swiss)1908–1994パヴィリオン彫刻Pavilion Sculpture1969白花崗岩white granite12個の石を立方体の構造にそって積み上げた、東屋のような作品です。数学的な計算に基づいて制作されました。【1993年に世界文化賞を受賞】Twelve stone blocks have been stacked to create a cube resembling a pavilion.It has been constructed according to mathematical principles.Received the Praemium Imperiale Award in 1993.」 『若い女 Young Woman 佐藤 忠良 Churyo Sato (Japanese)』。「佐藤 忠良Churyo Sato (Japanese)1912–2011若い女Young Woman1971ブロンズbronze腰にあてた右手、降ろした左手、傾けた首。どの部分にも動きを重視する作者の意図を、感じ取ることができます。With her right hand on her hip, her left hand hanging down and her head tilted toone side, we can feel the intention of the artist to attach importance to the movement of every part of the figure.」 「星の庭 迷路」。 「星の庭Garden of Stars迷路 / labyrinth」 迷路 / labyrinth。「ネットの森」を背景に。 『「ハイッ」「Hey !」 山本 信 Shin Yamamoto (Japanese)』。「山本 信Shin Yamamoto (Japanese)「ハイッ」「Hey !」1992素材陶土タイル、陶板、FRP(繊維強化プラスチック)、鉄ceramic tile, ceramic plate, FRP, ironサーカス芸人が会心の技を決めた瞬間です。その掛け声が題名になり、カラフルな形態からは楽しい印象が伝わってきます。Capturing the moment when two circus clowns succeed in performing a trick,their cry as they do so provides the work's title, their colorful forms creatinga delightful image.」 この構造物の中にある『おくりもの:未知のポケット2 堀内紀子』を訪ねた。子供たちに大人気の「ネットの森」が、彫刻の森美術館の2017年の夏休みに新しくなって帰ってきた。大断面集成材を積み上げた木造ドーム。この角材を組んだ櫓は「設計:手塚貴晴+手塚由比構造設計:今川憲法英協力:チャールズ・マッカーダム/インタープレイ・デザイン・アンド・ マニュファクチャリング Designed by Takaharu Tezuka + Yui TezukaStructural design by Norihide ImagawaCooperated with Charles MacAdam / Interplay Design & Manufacturing Inc.」 「ネットの森ご利用にあたってネットの森は子供のための作品です。遊べるのは小学生までです。大人の方は、ネットの中に入ったり、ボールに乗ったりできません。」 大断面集成材を積み上げた木造ドームの中に、カラフルな手編みのネットがいくつもつなぎ合わされた巨大なハンモックの造形が組みこまれた「ネットの森」は、造形作家・堀内紀子と建築家・手塚貴晴+手塚由比によるコラボレーションから生まれました。「ネットの森」ならではの色鮮やかなネット作品と木組みの造形美は見逃せません。 テント幕の下にこのようにネットが張られる子供専用の遊具。『ジョアン・ミロ(スペイン) Joan Miró (Spanish)人物 Figure』。「ジョアン・ミロ(スペイン)Joan Miró (Spanish)1893–1983人物Figure1972合成樹脂、着色synthetic resin, paintミロによる彫刻は、ひとつの色や形、1本の線などが彼のイメージを呼び起こして生成されました。Miró's sculptures were created using one color, one shape, or a single line, etc., to evoke the image he had in his mind.」 そして「ピカソ館」に向かって進む。 前庭にも。『山野を歩くファン・ゴッホVan Gogh Walking Through the Fieldsオシップ・ザッキン(ロシア―フランス)Ossip Zadkine (Russian / French)』「オシップ・ザッキン(ロシア―フランス)Ossip Zadkine (Russian / French)1890–1967山野を歩くファン・ゴッホVan Gogh Walking Through the Fields1956ブロンズbronze作者はキュビスムの影響を受けた後に、理知的な形態の探求よりも劇的な表現を求めました。Influenced by cubism, the artist decided to pursue dramatic forms of expression rather than idealized forms.」 近づいて。ガクアジサイ。『預言者―大 Great Prophet パブロ・ガルガリヨ(スペイン)Pablo Gargallo (Spanish)』「パブロ・ガルガリヨ(スペイン)Pablo Gargallo (Spanish)1881–1934預言者―大Great Prophet1933ブロンズbronze聖書に「荒野で叫ぶ者」と記された洗礼者ヨハネの像です。ガルガリヨはピカソのキュビスムに接して、彫刻を面の集合として構築する、透かし彫りのような手法を生み出しました。This is a statue of the biblical figure of John the Baptist, whose coming had been prophesied as "A voice of one calling in the wilderness." Influenced by Picasso's Cubism, Gargallo constructed sculptures consisting of a collection of planes, creating a technique similar to openwork.」 『宮脇愛子 うつろひ Utsurohi』。『うつろひ Utsurohi』は、10本のワイヤーで空間に素描するように線を描いた作品。ワイヤーはしなやかにたわみながら風にふるえ、光に輝き、瞬間瞬間の移りゆく時や風景を記憶に留めるための媒体となっていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.19
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引き返して。『極 多田 美波』。1979年に開催された「第1回ヘンリー・ムーア大賞展」にて大賞を受賞したステンレススティール製の著名な彫刻作品。ステンレスの鏡面仕上げにより周囲の風景や光を映り込ませ、見る角度や時間帯によって表情を変える空間芸術として知られている。『ライナー・クリスター(ドイツ)Rainer Kriester (German) 大きな手 Big Hand 』。「ライナー・クリスター(ドイツ)Rainer Kriester (German)1935–2002大きな手Big Hand1973アルミニウムaluminum地面から突き出ている「大きな手」は、不安や悲嘆、抑圧や抵抗といった重いテーマが、単純化された形で表現されています。This Big Hand, that rises up out of the ground, expresses the weighty themes of anxiety, sadness, oppression and defiance through its simplified form.」 『サンティアゴ・デ・サンティアゴ・エルナンデス(スペイン)抱擁 EmbraceSantiago de Santiago Hernández (Spanish) 』ズームして。「サンティアゴ・デ・サンティアゴ・エルナンデス(スペイン)Santiago de Santiago Hernández (Spanish)1925–2023抱擁Embrace1986ブロンズbronze流麗な女性像を得意とし、中でも男女の愛をうたいあげた作品に、人間の本質と愛への共感が表現されています。This artist excels in the creation of elegant statues of women; in particular his works depicting men and women expressing their love convey the true essence ofhumanity and love.」 アジサイ(紫陽花)も美しく。『女 Woman 朝倉 響子 Kyoko Asakura (Japanese)』。深い緑に映える美しいシルエット。「朝倉 響子Kyoko Asakura (Japanese)1925–2016女Woman1970ブロンズbronze作者は、現代的な女性像を多く制作し、そのポーズやしぐさは女性の感情が表われる瞬間を鋭くとらえています。The artist produced numerous works depicting contemporary women, her keen eyecapturing the moment when a pose or movement expressed a woman's emotions.」 近づいて。『海辺の人々 Group in Front of the Seaフランシスコ・スニガ(コスタリカ)Francisco Zúñiga (Costa Rican)』「フランシスコ・スニガ(コスタリカ)Francisco Zúñiga (Costa Rican)1912–1998海辺の人々Group in Front of the Sea1984ブロンズbronzeメスティーソ(スペイン人と先住民の混血)の群像です。生きることのたくましさと哀愁、作者自身のルーツへの洞察がうかがわれます。This work features a group of mestizos (people of mixed Spanish and indigenousAmerican heritage). It expresses their strength and the pathos of their lives while simultaneously offering an insight into the artist's roots.」 近づいて。帰路に反対側から。『住まい The Dwellingオシップ・ザッキン(ロシア-フランス) Ossip Zadkine (Russian / French)』複雑な形に見えるが、2つの頭部や手がはっきり分かりウェーブした髪を持つ方が女性。人物が複雑に絡み合って家族を形成している。住まいとは建物のことではなく、人間の作る営みのことなのだろうか。帰路に反対側から。「オシップ・ザッキン(ロシア-フランス)Ossip Zadkine (Russian / French)1890–1967住まいThe Dwelling1963–66ブロンズbronzeウェーブした髪の女性と背後から支えている男性が、ひとつの集合体を作り上げ、家族の絆を表わしています。The woman with wavy hair is supported from behind by a man, the two combining to produce a single aggregate form, representing familial ties.」 『鶏を抱く女 Girl with Rooster 本郷 新 Shin Hongo (Japanese)』。「本郷 新Shin Hongo (Japanese)1905–1980鶏を抱く女Girl with Rooster1962ブロンズbronze作者が小学生の頃、家の近くで暴れる鶏をしっかりと胸に抱きながら歩く少女と出会った記憶をもとに制作されました。When the artist was still in elementary school he met a young girl near his housewho was clutching a struggling chicken to her chest, and this work was created based on that memory.」 『休息する女 Woman at Rest アギュスタン・カルデナス(キューバ-フランス)Agustín Cárdenas (Cuban / French)』「アギュスタン・カルデナス(キューバ-フランス)Agustín Cárdenas (Cuban / French)1927–2001休息する女Woman at Rest1976大理石marbleすべての面が優しい丸みを持ち、ゆったりと体を伸ばして脚を組む姿は、女性の豊かな胸や腰を想起させます。Every surface of this work presents gentle curves, evocative of the full breasts andhips of a woman relaxing with her legs crossed, leisurely stretching her body.」 『マント Mantle 佐藤 忠良 Churyo Sato (Japanese)』。「佐藤 忠良Churyo Sato (Japanese)1912–2011マントMantle196ブロンズbronze長女のマント姿を見て、作者も子供時代にマントで冬をすごした記憶がよみがえり、制作に至りました。Seeing his eldest daughter wearing a mantle, the artist remembered having worn one himself in winter when he was a child and decided to produce this work.」 『球体をもった球 Sphere within a Sphereアルナルド・ポモドーロ(イタリア) Arnaldo Pomodoro (Italian)』。ズームして。「アルナルド・ポモドーロ(イタリア)Arnaldo Pomodoro (Italian)1926–2025球体をもった球体Sphere within a Sphere1978–80ブロンズbronze磨かれた表面と蝕まれた内部が対照的で、発達した機械文明が地球という生命体を脅かしているようにも見えます。[1990年に世界文化賞を受賞]The striking contrast between the polished exterior and the eroded interior of this work seems to represent the threat that industrial civilization poses to the world. Received the Praemium Imperiale Award in 1990.」 帰路に反対側から。ズームして。『海 The Sea 高田 博厚 Hiroatsu Takata (Japanese)』。「高田 博厚Hiroatsu Takata (Japanese)1900–1987海The Sea1962ブロンズbronze渡仏時に作者の母が、去りゆく汽車に向かって膝に手が届くくらい深々とお辞儀をしたといいます。それが最後の別れとなりました。When the artist left home to travel to France, his mother bowed towards the trainas it left the station, bending so low that her hands touched her knees. That was their final parting.」 近づいて。『my sky hole 84 HAKONE 井上武吉』ズームして。『将軍の孫 Grandson of the General北村 西望 Seibo Kitamura (Japanese)』「北村 西望Seibo Kitamura (Japanese)1884–1987将軍の孫Grandson of the General1918ブロンズbronze軍人の銅像を制作中に、作家の子供が資料の軍靴で遊んでいる時、父と視線が合い、思わず敬礼したといいます。The artist says that while working on a statue of a soldier, his son was playing with the military boots from the uniform he had borrowed for reference. When their eyes met, his son suddenly gave him a salute.」 近づいて。『断絶 伊本淳』ズームして。移動して。『白い仮面をつけた頭像 White Masked Headライナー・クリスター(ドイツ) Rainer Kriester (German)』。「ライナー・クリスター(ドイツ)Rainer Kriester (German)1935–2002白い仮面をつけた頭像White Masked Head1981–82石灰岩(ポルトガル産)limestone (Portugal)仮面で覆われ、目をふさがれ、何かを叫んでいる頭像からは、現代の不安や恐怖に耐えている様子がうかがわれます。The head is covered in a mask, hiding the eyes, but the mouth appears tobe crying out, allowing us to feel the fear and unease endured by peoplewithin contemporary society.」 吊り橋を渡る。右下の池の水面にはオレンジ色の作品が。吊り橋の左下の小さな広場にはベンチも。『アルバ Sunrise 新谷 琇紀 Yuki Shintani (Japanese)』。「新谷 琇紀Yuki Shintani (Japanese)1937–2006アルバSunrise1972ブロンズbronze題名はイタリア語で「暁」の意味です。眠りからさめた女性の甘美流麗な動きに、これから始まることへの期待感が表れています。This work depicts the delightful elegance of a woman who has just awoken from sleep and expresses an anticipation of new beginnings.」 『ベアトリーチェ Beatrice フランチェスコ・メッシーナ(イタリア) Francesco Messina (Italian)』「フランチェスコ・メッシーナ(イタリア)Francesco Messina (Italian)1900–1995ベアトリーチェBeatrice1983ブロンズbronzeギリシャ彫刻の流れを汲む地中海・イタリア的な造形で、若々しい生命感が繊細に表現された、少女の立像です。A statue of a girl, the vitality of youth delicately expressed in the Italian style thatoriginally derived from ancient Greek sculpture.」 そしてさらに階段を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.18
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「円形広場」の先に立つ「エミール=アントワーヌ・ブールデル」作の4体の像を見る。 「「力」「勝利」「自由」「雄弁」は、アルゼンチン共和国を独立へと導いたアルヴェアル将軍(1788–1852)の功績をたたえる記念碑の一部として制作されました。ブエノスアイレスの広場では、高くそびえる騎馬像の四隅に置かれています。ブールデルは、アルカイック期のギリシャ彫刻やロマネスク彫刻の素朴な剛健さにひかれ、建築物のような堅牢さを持った造形を目指しました。“Force,” “Victory,” “Liberty,” and “Eloquence” were created as part of a memorialcelebrating the achievements of General Alvear (1788–1852), who led Argentina to independence.They stand at the four corners of a monument in Buenos Aires, surrounding a statue ofAlvear on horseback that is set atop a tall plinth.Bourdelle was attracted to the simple, sturdy forms of both archaic Greek andRomanesque sculpture and aimed for durable, architectural forms.」 廻り込んで。『勝利(Victory)-大見かけの特徴・若々しい女性像。・一歩前へ踏み出すような躍動感のある姿勢です。・風を受けるように衣が流れ、力強さの中にも優雅さが感じられます。・未来を見据えるような表情が印象的です。持ち物・長い剣を手にしています。剣は勇気と武勇、そして勝利の象徴です。表現する意味勝利とは戦いに勝つことだけでなく、困難を乗り越えて得られる栄光や希望を象徴しています。華やかさよりも、勝利を手にした者の気高さと静かな威厳が表現されています。顔をズームして。帰路時には天気が回復して。「エミール=アントワーヌ・ブールデル(フランス)Émile-Antoine Bourdelle (French)1861–1929勝利-大Victory (large version)1918–22ブロンズbronze」 『力(Force)-大見かけの特徴・堂々と立つ男性像。・太い腕や胸板、たくましい脚など、力強い筋肉が際立っています。・全身に緊張感がみなぎり、重心を低く構えた安定した姿勢です。・量感豊かな肉体表現が、揺るぎない力を感じさせます。持ち物・棍棒(メイス)を手にしています。棍棒は武勇や権威、不屈の力を象徴しています。表現する意味 肉体的な強さだけでなく、国家や社会を支える精神力や不屈の意志を表現しています。 重厚な造形は、建築物のような安定感を生み出し、ブールデルが理想とした力強い彫刻美を 示しています。帰路時には天気も回復して。『自由(Liberty)-大見かけの特徴・堂々と立つ女性像。・身体全体が上へ伸びるような軽やかな姿勢。・衣服のひだが柔らかく流れ、開放感を感じさせます。・穏やかな表情の中にも、揺るぎない意志と気高さが表れています。持ち物・ぶどうの枝(Vine stock/葡萄の蔓・枝)を掲げています。枝が輪状に見えるため、月桂冠のようにも見えますが、豊穣や生命力、平和を象徴するぶどうの枝とされています。表現する意味自由とは単なる束縛からの解放ではなく、人間の尊厳や平和、そして豊かな未来への願いを象徴しています。穏やかで気品ある姿は、精神の高貴さや希望を静かに表現しています。顔をズームして。帰路時には天気も回復して。「エミール=アントワーヌ・ブールデル(フランス)Émile-Antoine Bourdelle (French)1861–1929自由-大Liberty (large version)1918–22ブロンズbronze」。 『雄弁-大 Eloquence (large version)』。見かけの特徴・堂々と立つ男性像。・落ち着いた姿勢で、静かな存在感を漂わせています。・衣服は簡潔にまとめられ、力強い身体の量感が際立っています。・穏やかな表情の中に、知性と威厳が感じられます。持ち物・巻物(フィラクテリー)を手にしています。巻物は知識や言葉、学問を象徴しています。表現する意味 雄弁とは、人を導く知性や説得力を意味します。武力ではなく、言葉や理性によって社会を 築くことの大切さを表現しています。静かな姿勢の中に、人間の知恵と品格が 込められています。「エミール=アントワーヌ・ブールデル(フランス)Émile-Antoine Bourdelle (French)1861–1929雄弁-大Eloquence (large version)1918–22ブロンズbronze」 帰路時には天気も回復して。左:自由ー大、右:雄弁―大。左:力ー大、右:勝利ー大。左から自由ー大、雄弁―大、力ー大、勝利ー大。帰路時には天気も回復して。左から力ー大、勝利ー大、自由ー大、雄弁ー大。『日時計』。日時計設計製作 日時計作家 小原輝子 2009年6月「日時計(ひどけい)太陽は私たちに「時」を教えてくれました太陽は見かけ上、東から西に動きます。地面に棒を立てると、規則正しい動きで影が出来ます。大昔の人びとは、影を記録して日時計をつくり、時を知る道具としました。この日時計はここの経度・緯度を測定し精密に設計してあります。時刻盤面の影は「地方真太陽時」を示しています。 彫刻の森美術館の地方真太陽時と日本標準時には違いがあります。日本標準時を知るには、日時計の影から「時差表グラフ」の時差を引いてください。 ◆ 計算例 6月10日 時の記念日の時差は約17分です。 日時計の影が午前11時の場合の日本標準時は、11時 − 17分 = 10時43分です。◆地球儀について 地球儀は地軸と平行に取り付けてあります。 地球儀にあたっている太陽の光は、今地球に当たっている太陽の光と同じです。 この地球儀の頂点は彫刻の森美術館です。 あなたは、地球の頂点に立っているのです。 設置:2009年6月 日時計作家 小原輝子」 『追憶 Recollections ジュリアーノ・ヴァンジ(イタリア)Giuliano Vangi (Italian)』。近づいて。「ジュリアーノ・ヴァンジ(イタリア)Giuliano Vangi (Italian)1931–2024追憶Recollections2004花崗岩(スウェーデン産、ブラジル産)granite (Sweden, Brazil)作者幼少時の、黒地に花柄の服を着ていた優しい祖母の記憶を形にしました。自らの手を像に加えています。【2002年に世界文化賞を受賞】This work embodies the artist's childhood memories of his grandmother, who wore a dress with a floral pattern on a black background. He has added his own hands to the statue. Received the Praemium Imperiale Award in 2002.」『横たわる像:アーチ状の足 Reclining Figure: Arch Legヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British)』。「人体を抽象化し、自然の大地や風景と一体化させたモニュメンタルなブロンズ彫刻。広い大地の上に、堂々と横たわる褐色の彫刻。一見、抽象彫刻のようですが、横から眺めてみれば、丸みを帯びた有機的な形態は、横たわる人間の姿のように見えます。イギリスに生まれたヘンリー・ムーアは、20世紀を代表する彫刻家の一人です。「彫刻の基本は人体である」と考えていたムーアにとって、「横たわる像」は、生涯を通じて追求した重要なモティーフのひとつです。背筋を伸ばした胴体と、弧を描く長い脚は、見る位置により変化に富んだ新しい形を生み出していきます。「私にとって、その最良の背景となって彫刻を完成してくれるのは、自然である。」広大な自然のもと太陽の光を受けて、堂々と横たわるこの作品は、現代に生きる人間の生命の神秘を浮かび上がらせます。」 「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986横たわる像:アーチ状の足Reclining Figure: Arch Leg1969–70ブロンズbronze「彫刻の背景として空以上にふさわしいものはない」と、野外作品についてムーアは語っています。Speaking of outdoor sculpture, Moore said:“There is no background to sculpture better than the sky.”」 帰路に。『アルボレサンス Arborescence ジャン・デュビュッフェ(フランス)Jean Dubuffet (French)』ズームして。「ジャン・デュビュッフェ(フランス)Jean Dubuffet (French)1901–1985アルボレサンスArborescence1971エポキシ樹脂、塗料epoxy resin, paint題名はフランス語で「高木性、樹木状」を意味します。あらゆる形態が無限につながる、終わりのない作品です。The title of this work, Arborescence, means "resembling a tree in growth or appearance," and this work represents the fact that all forms are linked endlessly.」 『関係項―A Relatum—A リ・ウファン(韓国)Lee Ufan (Korean)』。「リ・ウファン(韓国)Lee Ufan (Korean)1936–関係項―ARelatum—A1979鉄、石iron, stone大きな石が空から落ちてきて、鉄板を切り取ってしまったかのようです。自然物と工業製品との出会いを表現しています。【2001年に世界文化賞を受賞】It appears that a large rock fell out of the sky and cut away a section of the steel plate.The work expresses the meeting of natural and manufactured objects.Received the Praemium Imperiale Award in 2001.」振り返って。『常陸宮正仁殿下同妃華子殿下お手植石楠花(しゃくなげ)「太陽」』。「平成18年5月10日 ご来館常陸宮正仁殿下同妃華子殿下お手植石楠花(しゃくなげ)「太陽」On the occasion of their visit to our museum, T.I.H. Prince and Princess Hitachi planted this rhododendron—a breed called "Taiyo"—by hand.May 10, 2006」 『空間力学 No.22 Spatial Dynamics No.22ニコラ・シェフェール(ハンガリー-フランス) Nicolas Schöffer (Hungarian / French)』ハンガリー出身のフランスの芸術家ニコラ・シェフェールによって制作されたキネティック・アート(動く美術)の彫刻作品です。風を受けると流線型のフォルムが生き生きと動き出すのが特徴 と。「ニコラ・シェフェール(ハンガリー-フランス)Nicolas Schöffer (Hungarian / French)1912–1992空間力学 No.22Spatial Dynamics No.221954–80ステンレス・スティールstainless steel磨かれた金属が光を取り込んで空や緑を映し、周囲の空間や環境も、作品を構成する要素として扱っています。The polished metal captures the light, reflecting the sky and greenery, the surrounding space and environment becoming elementsin the composition of the work.」 帰路に。『終りのない対話 Never-Ending Dialogue 新宮 晋Susumu Shingu (Japanese)』。「オレンジ色に塗った骨組みのうえに、白いキャンヴァスをはったふたつの帆。風の流れを綿密に計算した流線型の形態は、どんな風も逃すことはありません。ふたつの帆は、向きを変えながら時にうなずきあい、時に豪快に舞いながら終わることのない対話を繰り広げます。伊藤隆道より2歳年上の新宮晋もまた、日本における「動く彫刻」を代表する作家です。伊藤が、電気モーターで作品を動かすのに対し、新宮は、風や水の流れなど、自然のリズムをとらえることで、動きを生み出します。風と一体になり、生き生きと動き出すふたつの帆は、目には見えない風のリズムを見る者に伝えます。」 帰路に。ズームして。「新宮 晋Susumu Shingu (Japanese)1937–1978鉄、アルミニウム、キャンヴァス、塗料iron, aluminum, canvas, paintふたつの帆が風を受けて、対話するように動きます。目には見えない自然のリズムを、しなやかに表現しています。The two sails catch the wind and move, as if sharing a conversation, while elegantly expressing the invisible rhythms of nature.」 『フィギュール I Figure I ハンス・エッシュバッハー(スイス)Hans Aeschbacher (Swiss)』.帰路に。「ハンス・エッシュバッハー(スイス)Hans Aeschbacher (Swiss)1906–1980フィギュール IFigure I1969花崗岩granite直立柱を幾何学的に構築した、〈形態〉連作のひとつです。作者は肖像彫刻から、徐々に抽象的な形へ移行しました。One of a series of "figures" that employ vertical columns to create geometricalstructures. During his career, the artist gradually moved away from portraitsculpture to produce abstract shapes.」 美しい芝生の庭園が拡がっていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.17
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さらに「彫刻の森美術館 本館ギャラリー」内の2F展示品を追いかける。『ヨブ Job 山本 稚彦 Wakahiko Yamamoto』詳細はこちらより「ヨブは聖書に登場する人物である。人が一般的に幸福になるためのあらゆるもの、つまりお金と家族、自身の健康に至るまでの一切を神から奪われ、それでも神と自我の絶対的な関係性を信じた。作家は1901年、高名な彫刻家である山本瑞雲の子として東京に生まれる。瑞雲は高村光雲の一番弟子であり、幼い頃から高村光太郎にも目に掛けられ彫刻家としてこれ以上望めない環境で育った。第二次世界大戦後は旧ソビエトに抑留されるが、多くが壮絶な強制労働で命を落とす中、家具の木彫工とされていたことは重宝的で、幸運であった。その後ローマに渡るが、「いままで身についた古いものをいっさい白紙に返そうと思って行った」と語っている。同時代のヘンリー・ムーアらの活躍のなか独自の芸術を模索し、行き着いたのが本作であった。「向こうで売れた最初の作品」であったが、帰国後も独自の芸術について葛藤は続いた。持つことと持たざること、恵まれることと恵まれないことの本質的で流動的な機微について、本作と作家の人生は含蓄を讃えながら私たちを揺さぶり続ける。 「山本 稚彦Wakahiko YamamotoJapanese1901–1993ヨブJob1967」 『リミニとウルビーノの間の谷、1964年6月Valley between Rimini and Urbino, June 1964ベン・ニコルソン Ben Nicholson』。詳細はこちらより「作家の表現があまりに澄んでいて静かなためか、20世紀の代表とされながらも同時代に生きたピカソやブラック、モンドリアンの知名度が圧倒的なことは作家の評価に必ずしも本質的な影を落とすものではない。それは単純な概念の抽象画ではない。実体の本質を突き詰めた結果、原形をほとんど留めないだけであって、自然との対話を追及した具現であり、詩情の抽出、再結晶化に他ならない。作家の現す詩情とは、自然が発する視覚化されない潜在的な“波”である。その波は往々にして本作に見られるように、円と矩形に慎重に置き換えられ、構成はミリ単位で効果を追求されている。モンドリアンの影響を最も強く受けたとされているが、ピカソやブラックとも交流がありキュビスムとの接点もまた作家独自の作風の醸成に寄与しているようだ。「幾何学的な形体は数学的に処理されるのではない」という考え方は、冷たい抽象と区別される作家の、作風に通う微かで清潔な熱の気配の証明でもある。」 「ベン・ニコルソンBen Nicholsonイギリス British1894–1982リミニとウルビーノの間の谷、1964年6月Valley between Rimini and Urbino, June 19641964」 『無題 Untitled アルマン(アルマン・フェルナンデス)Arman (Armand Fernandez)』。モノが集合すること(集積)で本来の製品に意図された目的が変質(破壊)され、工業化された社会や時代における都市環境を反映しています。The aggregation of things (accumulation) alters (destroys) the intended purpose ofthe original product, reflecting the urban environment in industrialized society andthe era.詳細はこちら「「ブラシ・シリーズ」と呼ばれる連作のひとつ。キャンバスを走った無数の刷毛たちは一斉に静止し、生々しくその姿を見せつけ続けている。作家は「集積と破壊」をテーマにし、写実主義(レアリスム)の発展としてヌーヴォー・レアリスムを台頭した。モノが集合すること(集積)で本来モノのプロダクトに意図された目的が変質(破壊)し、深層的なメッセージを生み出す効果を独自に追求。大量消費社会の豊かさを大衆が享受しはじめることで生じる盲目的な側面を、美術家ならではのエスプリで鮮やかに浮かび上がらせた。その時代性はさらに深まり、モノによる豊かさが横溢(おういつ)する現代、作品はより一層鮮やかさを増している。」 「アルマン(アルマン・フェルナンデス)Arman (Armand Fernandezフランス-アメリカ French / American1928–2005無題Untitled1987」 『天をつく柱 II Sky Shaft II アルナルド・ポモドーロ Arnaldo Pomodoro』。アルナルド・ポモドーロの代表作「天をつく柱 II (Sky Shaft II)」は、1978年から1980年にかけて制作されたブロンズ彫刻。亀裂や歯車のような内部機構がむき出しになった独自のデザインで、機械的な力強さと神秘的な雰囲気を併せ持つ作品 と。ズームして。・H262.5×W58×D50cm「アルナルド・ポモドーロArnaldo Pomodoroイタリア Italian1926–2025【1990年に世界文化賞を受賞】天をつく柱 IISky Shaft II1978–1980」 『白い物体 White Object 蟻田 哲 Akira Arita』。「蟻田 哲Akira Arita1947-白い物体White Object1989」 『SPACE PLAN(態) SPACE PLAN 水本 修二 Shuji Mizumoto』。詳細はこちら「作者は、空間や場所との関わりを軸に彫刻を制作してきた。初期は過度な加工を控えた構成が目立ったが、次第に鋼板の溶断や曲げ加工といった積極的な働きかけを通じ、物質へのアプローチを深めていった。「空間設計」という名を冠した本作は、平面作品でありながら、作者が追求し続けてきた空間構成の延長線上にある。3点一組で構成され、それぞれに異なる幾何学的な図象が描かれているばかりでなく、真鍮やアルミなど異なる素材が組み込まれている。また、あえて額縁を用いず、アクリル板とボルトで紙を固定する手法からは、多様な素材の調和によって空間を構築しようとする作者の強い意志が感じられる。」 移動して。「水本 修二Shuji MizumotoJapanese1941–2014SPACE PLAN(態)SPACE PLAN1993–1996」 『歩く女 II Walking Woman II スティーヴン・デ・ステブラー Stephen de Staebler』。ズームして。「スティーヴン・デ・ステブラーStephen de Staeblerアメリカ American1933–2011歩く女 IIWalking Woman II1990」 『オレンジ色を強調した現象 Phenomena Insistence of Orange ポール・ジェンキンス Paul Jenkins』。詳細はこちら「本作にもあるように、タイトルに「現象」という言葉が用いられるのが特徴的である。キャンバスに流し込まれた絵の具はそれぞれヴェールのような色面を形成し、そのおおらかなコンポジション、グラデーション、テンポが高難度の芸術論とは裏腹に直感だけで深みのあるメタファーを感じさせる。 作家は抽象表現主義の画家、自己の芸術を「砕けたプリズム」と隠喩しているが、それを理解するには「見ることにおいて、光のうちに形を見いだしたということが重要であり、それが固有の現象になっている」という本人の言葉が最大の手がかりだろう。つまり作家が表現する「現象」とは光の変換であり、自分というプリズムへその光を通し色面へと分解、色面は個別の目的(個々の作品ごと)によりさらに変換を繰り返す。その過程で「光のうちの形」として自己相似性を見いだしている。」 「ポール・ジェンキンスPaul Jenkinsアメリカ American1923–2012オレンジ色を強調した現象Phenomena Insistence of Orange1977」 『デュドネの二人の裸婦、ダンス no.2 シリーズTwo Nude Women in Dieudonné, from the "Dance No. 2 Series"ヤン・メイヤー Jan Meyer』。詳細はこちら「作者の画風は、一般に「熱い抽象」と称される叙情的抽象の系譜に位置づけられる。写実性よりも目に見えない主観や内なる感情を重視し、それを即興的な筆致に託すスタイルである。20世紀の抽象芸術には、幾何学的で厳格な構成を重んじる「冷たい抽象」という対照的な潮流があり、両者はしばしば二項対立として捉えられがちである。しかし作者はその双方に深い関心を寄せ、理性と感性の間にある独自の均衡を模索し続けた。 本作においても、画面にはパレットナイフによる重厚な絵具の層が塗り重ねられ、自由な筆致の中から二人の裸婦が鮮やかに浮かび上がっている。タイトルの「デュドネ」とは、作者が1960年から晩年まで創作の拠点とした、パリ郊外にある安住の村の名である。」 「ヤン・メイヤーJan Meyerオランダ Dutch1927–1995デュドネの二人の裸婦、ダンス no.2 シリーズTwo Nude Women in Dieudonné, from the "Dance No. 2 Series"1980」 『小浜の窓 Obama Window アンソニー・カロ Anthony Caro』。詳細はこちら「作者が福井県小浜市に滞在して手がけた、<小浜シリーズ>の1点である。5日間の滞在という限られた時間で、地元の職人のもとで和紙特有の性質を学び、マンホールの蓋や敷居などに濡れた紙を押し当て、次々とその型を写し取っていった。それらは帰国後にイギリスのアトリエに輸送され、1年余りの時間を経て44点からなる一連の作品群となった。本作は、窓枠を模した構造の中に、屋根瓦の質感を写し取った和紙を配している。窓越しに眺める瓦屋根の光景をそのまま定着させたような構図は、日本の障子や襖をも連想させる。滞在した古式ゆかしい旅館での記憶が、和紙という素材を通して鮮やかに結実した作品である。」 「アンソニー・カロAnthony Caroイギリス British1924–2013【1992年に世界文化賞を受賞】小浜の窓Obama Window1990–1992」 2Fの展示室の光景を振り返って。1F展示室に戻って。『Astrolabium no.1-時空の振動Astrolabium no.1 – Space-Temporal Vibrations長谷 京治 Kyoji Nagatani』。金色の細いリングが天体の軌道を思わせるように配置され、その中心に木のような有機物を包み込むような金属のフォルムが浮かんでいます。静止しているようでありながら、今にもゆっくりと回転し始めそうな緊張感があります。「Astrolabium(アストロラビウム)」とは、中世から用いられた天体観測器「アストロラーベ」に由来する名称。副題の「時空の振動」は、時間と空間が互いに影響し合い、宇宙全体が絶えず変化している様子を表現しています。中央の木質部分は自然(生命)を、周囲の金属リングは宇宙・軌道・時間を象徴しているように見えます。見る角度によってリングが重なったり離れたりし、作品の印象が大きく変わるため、「時間」と「空間」の変化を体感できる構成になっています。床面に設置された円錐台。この部分は、・床に固定されたアンカー(支点)・そこから極細のワイヤーが作品本体へ張られている・ワイヤーの張力によって、空中の造形全体を安定させているという役割を果たしています。この支点自体も、長谷京治は単なる金具としてではなく、作品の一部としてデザインしています。尖った円錐形は、・方位を示すコンパスの針・天体観測器(アストロラーベ)の中心軸・宇宙空間における座標の原点などを連想させます。「長谷 京治Kyoji NagataniJapanese1950–Astrolabium no.1-時空の振動Astrolabium no.1 – Space-Temporal Vibrations2019」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.16
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さらに「彫刻の森美術館 本館ギャラリー」内の展示品を追いかける。『ファイヤー Fire アレクサンダー・リーバーマン Alexander Liberman 』。サイズ:294×214×61cm材質:アルミニウム、塗料(aluminum, paint)「アレクサンダー・リーバーマンAlexander LibermanウクライナーアメリカUkrainian / American1912–1999ファイヤーFire1963」1F展示室を振り返って。中2F展示室へ。『東洋の幻想 Fantasy for the Orient アリク・カヴァリエレ Alik Cavaliere』.「アリク・カヴァリエレAlik Cavaliereイタリア Italian1926–1998東洋の幻想Fantasy for the Orient1972」 『きもの Kimono Alexander Archipenko』。「Alexander ArchipenkoウクライナーアメリカUkrainian / American1887–1964きものKimono1961」 「本館ギャラリー」の外の小庭にあったのが『my sky hole 94-6 森のラビラント 井上 武吉』。空を切り取るようなダイナミックな造形が特徴。井上武吉が追求してきた「空を覗く」というテーマ(my sky hole)を体現する代表的なインスタレーションとして、館内でも必見のパブリックアート と。 「井上 武吉Bukichi Inoue (Japanese)1930–1997my sky hole 94-6 森のラビラントmy sky hole 94-6 labyrinth of forest1994花崗岩、木(樅)granite, wood (fir wood)「マイ・スカイ・ホール」とは自分だけの空間であり、この作品は石と樹に囲われたシェルターのような構成となっています。my sky hole takes the form of a kind of shelter, surrounded by rocks and trees, that presents the viewer with a personal space.」 『変形された大きなアヤメ 下田 治』。「下田 治Osamu ShimodaJapanese1924–2000変形された大きなアヤメMetamorphosed Big Iris1987」 2F展示室へ。『脳髄 The Brain リー・グッドマン Lea Goodman』。アメリカの彫刻家リー・グッドマン(Lea Goodman)によって1971年に制作された彫刻作品。箱根の彫刻の森美術館が所蔵する作品であり、ステンレススチールを用いて脳の複雑な構造を立体的に表現したユニークな造形が特徴。サイズは64×64×64cm。「リー・グッドマンLea Goodmanイギリス British1936–脳髄The Brain1971」1936年イギリスに生まれ、本格的に彫刻に取り組むのは30代からとかなり遅め、ステンレスでの制作を追求する。作家が彫刻に転向し刹那的に強く輝いた瞬間と、当館が「第2回現代国際彫刻展」のために出品を募った時期の重なりは必然とも、偶然とも言える。作品を構成するステンレス板の切れ端は、脈打つような継ぎ目とともに内側に動きのある内容をつくっており、痛々しいまでに存在を主張している。またステンレスという素材感からは振り絞るような自己肯定が伝わってくる。多感でナイーブ、まるで10代の剥き出しの神経を感じさせるような造形感覚は稀有であり、数多いる出品者の中で別作品だがコンクール賞を受賞している。当館コレクションのユニークさを象徴するような作品だが、「第2回現代国際彫刻展」招待部門の作家が27名だったことと、本展「Unique collection」の作品数が27点であること、この事実は必然とも、偶然とも言えるかもしれない と。 『コンポジション 1983 Composition 1983 セザール・ドメラ César Domela』。「セザール・ドメラCésar Domelaオランダ Dutch1900–1992コンポジション 1983Composition 19831983」 セザール・ドメラは デ・ステイル運動の主要メンバーとして知られるオランダのアーティスト。ドメラは1900年にアムステルダムで、ルター派の元牧師でオランダ議会の有力な無政府社会主義者であったフェルディナンド・ドメラ・ニューウェンホイスの末っ子として生まれました。1919年からスイスのアスコナで 独学で学び、キュビズムの影響を強く受けた構成主義的な作風を身につけました。初期の作品は風景画や静物画で、人物は幾何学的な形態に還元されたものでした。1923年にベルリンに移ったドメラは、ジョージ・グロスやジョン・ハートフィールドらが所属していたドイツ表現主義のグループ「November Group」のメンバーと親交を深め、この頃に 垂直と水平の線と面で構成された主題のない絵画を初めて描きました。その後1924年に初個展を開催し、1925年にオランダの前衛美術運動De Stijl(デ・ステイル)の最年少メンバーとなり、ピエト・モンドリアンやテオ・ファン・ドゥースブルフらと密接に仕事をするようになりました。第二次世界大戦後は主にレリーフを制作し、その多くはデン・ハーグ美術館に収蔵されています。彼の作品は成功を収め、1936年にはニューヨーク近代美術館で開催された「キュビズムと抽象芸術」展に出品されました。ドメラは1992年に亡くなりました。死後、彼の膨大な私物や作品のアーカイブはオランダ美術史研究所に遺贈されました と。『コンポジション 1960 Composition 1960 セザール・ドメラ César Domela』。「セザール・ドメラCésar Domelaオランダ Dutch1900–1992コンポジション 1960Composition 19601960」 『コンポジション 1967 Composition 1967 セザール・ドメラ César Domela』。「セザール・ドメラCésar Domelaオランダ Dutch1900–1992コンポジション 1967Composition 19671967」 『擬似 Pseudo 重村 三雄 Mitsuo Shigemura』.「重村 三雄Mitsuo ShigemuraJapanese1929–2012擬似Pseudo1976」 作者は、人体や身の回りのものを直接型取りしたFRP(繊維強化プラスチック)に、金属色の塗装を施す独自の手法「カタメタージュ」で知られる彫刻家である。その制作工程は極めて緻密であり、顔の皺や毛穴、衣服の襞(ひだ)に至るまで克明に再現される。しかし、仕上げに施されるいぶし銀の塗装が、その徹底した写実性からあえて生々しさを剥ぎ取り、現実感を喪失させている。この視覚的な違和感こそが、ユーモアと風刺を孕んだ作者特有の物語性を引き立てている。 作者は人物像を制作する際、しばしば知人をモデルに型取りを行なった。本作のモデルは、人形劇『ひょっこりひょうたん島』の人形制作などで知られる劇人形作家・片岡昌氏である。左から近づいて。中央。右。移動して。『漂う祠(ほこら) Tabernacle Floating ピーター・ブリザード Peter Blizzard』。鋼鉄、粘板岩、アルミニウムを組み合わせた抽象的な造形で、自然と人工物の融合を表現。「ピーター・ブリザードPeter Blizzardオーストラリア Australian1940–2010漂う祠(ほこら)Tabernacle Floating2003」 『10.12.75 ザオ・ウーキー Zao Wou-Ki』。「ザオ・ウーキーZao Wou-Ki中国-フランス Chinese / French1921–2013【1994年に世界文化賞を受賞】10.12.751975」 彼の多くの作品は制作された「年月日」がタイトルとなっており、本作は1975年12月10日に完成したことを示している。ザオ・ウーキーの作品の特徴は、西洋と東洋の美意識が折衷されている点にあるといえます。彼のアーティストとしてのキャリア初期では、中国伝統の書画や水墨画を中心に学びましたが、西洋で抽象画家として活動し始めてもなお初期の作風が残っています。東洋の文化の拠点である中国の伝統的な絵画における墨の濃淡と余白を用いた美意識、そしてシンプルでありながらも豊かさを感じさせる宇宙観は、多くの西洋人を魅了しました。西洋画では数学的な考えを用いた透視図法で空間を描いていたため、感覚で奥行きをもたせた東洋の表現技法は新鮮に映ったことでしょう。加えてザオ・ウーキーは、パリ移住後にパウル・クレーらとの交流によって西洋的な抽象主義を作品に取り入れました。それゆえ、彼の作品には精神・技法ともに東洋と西洋の美意識が融合した独特の世界観が見受けられます。『青い影―未完の季節 No.13Blue Shadow – Unfinished Seasons No.13田淵 安一 Yasukazu Tabuchi』「田淵 安一Yasukazu TabuchiJapanese1921–2009青い影―未完の季節 No.13Blue Shadow – Unfinished Seasons No.131979」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.15
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『アートホール マンズールーム』の見学を終え、屋外展示に戻る。『フランソワ=ザビエ、クロード・ラランヌ嘆きの天使』特殊な水還元装置で目から涙が途絶えず流れ、泉となっている作品。水面に映った自分の姿に恋をして水仙の花に生まれ変わったという、ギリシャ神話の青年ナルシスのように、水面に頬をよせる天使。水面の恋人は言葉を返すこともなく、流れ落ちる涙は、水面に映る自分の顔をかき消してしまう。しかし、かなわぬ恋を嘆きながらも、その顔はどこか微笑んでいるようにも見える。作者のラランヌ夫妻は、動物の形をした家具など様々な分野の作品を、共同で生み出してきた。動物や昆虫、植物を題材にしたその作品は、愛らしくも不思議であり、見る者を空想の世界に誘う。ズームして。水面に横たわる巨大な天使の顔が、静かな水鏡に溶け込むように配置されていた。緑豊かな髪は自然と一体となり、眠りと夢、そして届かぬ想いを象徴しているかのように。見る角度によっては、穏やかな微笑みを浮かべているようにも、深い悲しみに沈んでいるようにも見えた。静寂の中で涙を流し続けながらも、幻想の世界へと見る者を優しく誘う、詩情あふれる作品。フランソワ=ザビエ・ラランス、クロード・ラランヌFrançois-Xavier and Claude Lalanneフランソワ=ザビエ・ラランヌ(フランス)François-Xavier Lalanne (French)1927–2008クロード・ラランヌ(フランス)Claude Lalanne (French)1925–2019嘆きの天使The Weeper1986トラニ石Trani stone水面に映った自分の姿に恋をして水仙の花に生まれ変わったという、ギリシャ神話の青年ナルシスのように水面に頬をよせる天使。かなわぬ恋に涙は途絶えることはありませんが、その顔はどこか微笑んでいるようにも見えます。見る者を空想の世界に誘う作品です。Like the young man, Narcissus, from Greek mythology who fell in love with his ownreflection in the water and was reborn as a flower of the same name, this angel restsits cheek next to the surface of the water. Despite shedding endless tears ofunrequited love, a smile seems to play on its lips, the work inviting the viewer intoa world of fantasy.移動して。頭部の後方から。水面に天使の顔が映っていたが・・・。その奥にあったのが『マリソール 三つの人像』。ベネズエラ出身のアメリカの彫刻家、マリソール・エスコバル(Marisol Escobar)によって1968年に制作された野外彫刻作品。鮮やかな原色(赤、青、黄色など)が目を引くポップで奇妙な立体造形。「マリソール(マリソール・エスコバル)(ヴェネズエラ-アメリカ)Marisol (Marisol Escobar) (Venezuelan / American)1930–2016三つの人像Three Figures1968鉄、ステンレス・スチール、塗料iron, stainless steel, paint箱につけられた顔は、作者自身から型取りされたもの。自分は誰なのかと、作者は問いかけています。The faces attached to the sides of these boxes are casts of the artist's own face. In this work she questions her personal identity.」 移動して。「箱につけられた顔は、作者自身から型取りされたもの。自分は誰なのかと、作者は問いかけています。」と。 霧雨の降る中、振り返って。芝生の中あったのが『my sky hole 79 天をのぞく穴 井上武吉』。「井上 武吉Bukichi Inoue (Japanese)1930–1997my sky hole 79 天をのぞく穴my sky hole 79 peephole on the sky1979強化ガラス、鉄、ステンレス・スチール、ゴム、コンクリートtempered glass, iron, stainless steel, rubber, concrete鑑賞者の体験を作品としています。地下の小部屋にある穴から空を眺めていると、地球の鼓動が感じられるようです。This is a participation work. By observing the sky through a hole in the ceiling of a small underground room, the viewer is able to feel the pulse of the earth.《独りだけの旅》Solitary journey入口In↓《天をのぞく穴》my sky holeここに坐って上部の穴をのぞくSit here and look up through the hole↓出口Out《旅の終り》Journey's end」と。 鑑賞者は黒い鉄の箱に入り階段で地下へ。小部屋の天井に開いた小さな穴から空を見上げた後、ガラスの箱から地上へ出ます。暗く落ち込んだところから、明るい世界へ出て行く。自分と向き合うための装置のような作品。地下通路の壁はゴム製のひだのような形状で産道を想起させ、母親の胎内を通って生まれ変わる旅とも言えるであった。「天をのぞく穴」が右側に。 「《天をのぞく穴》my sky holeここに坐って上部の穴をのぞくSit here and look up through the hole」 そして出口Out《旅の終り》Journey's end へ。そして「円形広場」を観る。 石段の上にあったのが先程訪ねた「ART HALL」、そして『ジャコモ・マンズー(イタリア) 衣を脱ぐー女』を再び。 そして「円形広場」の中央付近にあったのが『MY sky hole 84 井上武吉』。 「井上 武吉Bukichi Inoue (Japanese)1930–1997my sky hole 841984ステンレス・スチールstainless steel《マイ・スカイ・ホール》とは作者の入る穴を意味します。副題を「命」と名づけられた本作は、球体の中に万物が閉じ込められています。my sky hole is a series of works containing a peephole to view the sky.In this work, which has the subtitle, "Life," the hole pierces the center of a reflective sphere that "contains the whole of creation."」傘を差し、写真を撮る高齢者の姿が作品の中央に。その後、屋外展示場を全て回った後に、再びこの場所に戻って。天候も回復し青空、白い雲も映って。中央の穴を覗いて。左側に穴。周囲の景色や空を360度映し込むステンレス鏡面仕上げの球体に穴が開いており、「自分自身を取り巻く空間や天に続く青空」を体感できるアート作品。見る人が必ず中心になる、まさに自分だけの「穴」。そして『人とペガサス カール・ミレス』。ズームして。「はるか天空を駆けぬけてゆくのは、天馬ペガサスと、コリントスの英雄ベレロフォンです。怪物キマイラ退治への道を急ぐベレロフォンは、思い切りからだを伸ばし、さらに高く飛ぼうとしているかのようです。曲芸のような姿勢をとるふたつの彫刻は、厳密な力学的計算のもと、高く伸びた台座の上に絶妙なバランスで取り付けられています。まるで重さを感じさせない軽やかな姿は、重いブロンズで出来ているとは思えません。ギリシャ神話をテーマにしたこの作品は、スウェーデン出身の彫刻家カール・ミレスによるものです。世紀末のパリで、一時ロダンの助手を務めていたミレスは、その後、豊かな想像力を駆使し、自由奔放な動きをはらむ独自の作風を確立しました。彫刻の森美術館には、他にも神の手の上で男性が天空を仰ぎ見る《神の手》や、イルカに乗った人物を表す噴水彫刻《太陽の輝き》などのミレスの作品が展示されています。」 「カール・ミレス(スウェーデン-アメリカ)Carl Milles (Swedish / American)1875–1955人とペガサスMan and Pegasus1949ブロンズbronzeギリシャ神話の英雄ベレロフォンが天馬ペガサスに乗って、怪物キマイラの退治に向かう勇壮な場面を表わしています。Based on the story of the Greek hero Bellerophon, who rode the winged horse, Pegasus, as he set out to vanquish the monster Chimera. It presents a soul-stirring image.」 これも天候が回復した帰路に。移動しズームして。ブロンズ 380×207×100 cm『人とペガサス』は、ギリシャ神話の英雄ベレロフォンが天馬ペガサスに乗って、怪物キマイラの退治に向かう場面である。そそり立つ台座の上で人もペガサスも思いきり体を伸ばし、さらに高く飛翔しようとする。《神の手》は、《宇宙》とも名づけられ、ミレス晩年の代表作である。天空を背景にシルエットとして見るように作られ、宗教と天文学を基底とし、宇宙の真理への探求を渇望する人間を表現している。ミレスの彫刻には美術の諸様式が混合しており、ギリシャ・アルカイック期やゴシック、あるいはバロック的な要素が盛り込まれている。生涯を通じて、人間の存在について哲学的な考察を試みた。また、想像力豊かな構図、自由奔放な動きを得意とする彼の作品は、 空を背景にした野外に映える。『バルザック記念像 オーギュスト・ロダン』。「19世紀のフランスの文豪バルザックを表わすこの像は、オーギュスト・ロダンが制作したものです。人間の生命や激情を、動きのある肉体に表現したロダンは、近代彫刻への道を開きました。バルザックは、偽善的な社会に生きる人間の苦悩を容赦なく書き表わした作家です。像の制作を依頼されたロダンは、バルザックの精神を表現しようと、肖像写真をもとに試行錯誤を重ねます。そして、ガウンをまとい、夜中に書斎を歩き廻りながら小説の構想にふける姿にたどりついたのです。作品を、横からもご覧ください。巨大な体は、後ろに反り返り、深くえぐれた目で、遠く宙をにらんでいるのがよくわかります。ガウンをまとうことで、よけいな細部が覆い隠され苦悩する内面と強い生命力が感じられます。あまりに革新的なこの作品は、当時は理解されず、雪だるまなどといわれ、注文主の文芸家協会から引き取りを拒否されます。この像が、パリで公開されたのは、ロダンが亡くなって22年後のことでした。」 『エミール=アントワーヌ・ブールデル 弓を引くへラクレスー大』「1909年 ブロンズ、248×240×90cm『ギリシャ神話の英雄ヘラクレスが怪鳥を今まさに射止めようとする瞬間を表現したもの。1893年にロダンのアトリエに入ったブールデルは、その後約15年間ロダンの助手を務めた。彼はロダンを敬愛したが、ロダンのロマンティシズム、写実性から次第に離れ、建築物の様な堅牢さをもった《新たな現実としての彫刻》の創造を目指すようになる。作品の主題を神話に求め、造形的にはギリシャ彫刻とロマネスク彫刻の両者を自分の作品の中に融合しようと試みた。」 「エミール=アントワーヌ・ブールデル(フランス)Émile-Antoine Bourdelle (French)1861–1929弓を引くヘラクレス―大Hercules the Archer (large version)1909ブロンズbronzeギリシャ神話の英雄ヘラクレスが、ステュンファロス湖畔の怪鳥を今まさに射止めようとする瞬間を表現した作品です。This work depicts the moment that this hero of Greek mythology draws his bow todrive away the man-eating birds that haunted Lake Stymphalia.」 そして次に訪ねたのが「本館ギャラリー」。館内に入る。「新しい切り口から見る、彫刻の森コレクションの個性👈️リンクUnique CollectionExploring the Unique Character of the Hakone Open-Air Museum's Collectionfrom a New Perspective2026.1.31(土)〜「彫刻の森美術館 本館ギャラリー今、私たちが向き合っている現代という時代は、様々な分野で「多様性」が深まっています。美術においてもその傾向は顕著で、彫刻や絵画という分類にも当てはまらない表現が隆盛となっています。本展は、その兆しの一部を当館コレクションから見出す試みです。既存の表現枠を超えて新しい表現領域を切り拓く。生き生きとした可能性にあふれる作品群はそれぞれに豊かな個性を湛えながら、全体で新しい彫刻の森コレクションの個性をも体感させてくれます。あわせてアートホールで開催しているアカデミックな「名作展」を鑑賞いただくことで、主流とは異なる新しい美意識との出会いをお楽しみいただけることでしょう。Today we are confronted with a growing demand for diversity in a variety of fields andthis is particularly pronounced in art world where works defying the traditionalclassifications of “sculpture” or “painting” are flourishing. In this exhibition we willlook at some of these emerging trends through works from the museum's collectionthat surpass existing boundaries to pioneer new fields of expression. Brimmingwith potential, each of these vibrant works possesses a rich individuality whilecollectively they offer visitors glimpse of the progressive character of the museum’scollection. We hope that you will also take the time to visit the academic “Masterpieces Exhibition” that is being held concurrently in the Art Hall, highlighting the contrastthat exists between these new aesthetic sensibilities and mainstream art.」まずは1Fの見学へ。『安楽椅子 山縣 壽夫』・素材・技法:ブロンズ・作品サイズ(cm):87.0×39.0×110.0「山縣 壽夫Hisao YamagataJapanese1932–安楽椅子Portorona1976」 壁には巨大な壁画が。『魔女の宴 Witches Sabbat』。ネットから。「湿った空気感は作家の冷静な目によって異素材・文字・形態へ置き換えられ、その中にゴヤの名前も現れます。It is based on Francisco de Goya's " Witch's Sabbath"(c.1821-23). The dark and damp atmosphere of the subject matter is replaced by different materials, characters, andforms by the artist's calm eyes, and Goya's name also appears in it.」 「イガエル・トゥマルキンIgael Tumarkinイスラエル Israeli1933–2021魔女の宴Witches Sabbat1988」 『疑問符 Interrogation』。ロベール・クーチュリエ(Robert Couturier)の『疑問符(Interrogation)』は、1971年に制作されたブロンズ彫刻作品。人間の身体の繊細なラインと、空間に問いかけるようなポーズが特徴的な作品です。・制作年: 1971年・サイズ: 高さ86cm × 幅32cm × 奥行27cm・素材: ブロンズ作者のロベール・クーチュリエ(1905〜2008年)は、フランスを代表する彫刻家の一人。ロダンやマイヨールといった伝統的な具象彫刻の系譜を受け継ぎつつ、独自の詩的で細長いフォルムを探求したことで知られています。この『疑問符』においても、極限までシェイプされた人体表現を通じて、内省的な思索や問いかけが表現されています。「ロベール・クーチュリエRobert Couturierフランス French1905–2008疑問符Interrogation1971」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.14
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「彫刻の森美術館 名作コレクション」の作品をさらに鑑賞。 「アメデオ・モディリアーニ1884–1920Italianイタリア」の作品。 『頭部Head』「頭部Headc.1911–12ブロンズbronzeブランクーシから石の直彫りを指導され、アフリカの部族彫刻の力強さに影響を受けた頭部やカリアティード(女人像柱)を制作した。もともと石に彫られたこの作品は、柱になった古代の神のように超然としている。Brâncuși taught Modigliani the technique of direct carving. He created sculptures of heads and caryatids (sculpted female figures used as columns in architecture).He was strongly influenced by African tribal sculptures. This work was originally created in stone and has a transcendental atmosphere, like ancient goddesses who became pillars.」 「Alberto Giacomettiアルベルト・ジャコメッティ1901–1966Swissスイス」の作品。 『腕のない細い女Slim Woman without Arms』H60 × W8 ×D20 cm「腕のない細い女Slim Woman without Arms1958ブロンズbronzeモデルとの間には、作家にとって越えがたいと感じられる距離があり、その距離に隔てられるとモデルは痩せ細って見える。目に「見えるもの」の正確な再現を追求した結果、指の跡も生々しい突き詰めた人間表現となった。Between Giacometti and his model was a distance that he felt difficult to overcome.Blocked by the distance, his model looks thin. As a result of attempting to accurately recreate what he saw, Giacometti's work became a deep analysis of the human form and still shows the fresh-looking marks of the artist's fingers.」 「Kiyubey Kiyomizu清水九兵衛1922–2006Japanese日本」の作品。 『AFFINITYの継続Development of AFFINITY』。「AFFINITYの継続Development of AFFINITY1976アルミニウムaluminum「Affinity」とは「親和」の意味。平面と曲面や、床に這う形と壁に沿う形など、なじみ合う関係が作品を構成している。京都の町の屋根瓦の連なりに果てしない広がりを見出し、そのゆったりとした曲面の形状に惹かれたという。Affinity means a similarity of characteristics. This work is composed of relationshipsof affinity, such as flat and curved surfaces, and forms crawling on the floor andforms along the wall. The artist found an endless expanse in the rows of roof tilesof the city of Kyoto and commented that he was fascinated by the gently-curved shapes of the tiles.」 展示室の情景を。「Fumio Asakura朝倉 文夫1883-1964Japanese日本」の作品。『よく獲たりWinning』H51 × W52.5 × D29.5cm。『よく獲たりWinning1946ブロンズ(bronze)』朝倉文夫は、徹底して自然主義的写実を貫き、日本の彫塑界をリードした彫刻家であるとともに、無類の愛猫家としても知られています。10数体の猫と暮らしながら、数十体にのぼる猫の作品を残しています。1964年東京オリンピック開催記念〈猫百態展〉を目前に他界しましたが、これらの猫作品は、現在も時代を超えて多くの鑑賞者を魅了しています。この「よく獲たり」も猫が鼠を捕らえた瞬間の様子が、朝倉の鋭い観察眼と卓抜した造形技術によって見事に表現されています。柔らかで生き生きとした猫の姿態だけでなく、その作品名からも猫に注ぐ朝倉の溢れる愛情が感じられます。『眠りSleep』しなやかな体で丸くなって眠る猫の愛らしい一瞬を、徹底した写実主義で見事に表現しています。H13 × W37.5 ×D35cm。「眠りSleep1945ブロンズbronze」 『のびStretch』「のびStretch1947ブロンズbronze肖像彫刻の名手といわれ、その観察眼と造形力は動物彫刻にも発揮された。これらの猫像は、猫好きであった朝倉のそばで、気ままに過ごしていた中での一瞬をそのまま写し取られたかのようである。Regarded to be a master of portrait sculpture, Asakura's superior skills of observationand his ability to express a 3-dimensional form are also obvious in his sculptures of animals. These sculptures of cats show how Asakura has captured particular momentswhen his cats have been relaxing close by him.」 「美術運動の流れ(Timeline of Art Movements)」 美術運動の流れ(Timeline of Art Movements)は、20世紀を中心とした近現代美術の主要な流派や運動の誕生・発展・相互の影響を年代順に示した年表です。未来派、キュビスム、ダダ、シュルレアリスム、抽象表現主義、ポップ・アート、ミニマリズムなどがどのようにつながり発展したかを一目で理解できます。また、世界的な出来事や本展出品作家の活動時期も併せて示され、作品を歴史的背景の中で鑑賞できるよう工夫されていた。「Masanichi Yamamoto山本 正道1941–Japanese」の作品。 『古代への夢Dream of Ancient Times」。 移動して。 「古代への夢Dream of Ancient Times1980ブロンズbronz「南イタリアの乾いた大地、そこに深く根を下ろすオリーヴの樹、石を積み上げて作った貧しい家、そしてロバ・・・。この何か時間が静止してしまったかのような世界を造形化してみた」と作家は語っている。The dry earth of southern Italy, olive trees with roots reaching down deep into thatearth, a humble house made from stones piled up, and a donkey. According to the artist, he wanted to give form to this landscape where it seems as though timestands still.」 「Minami Tada多田 美波1924–2014Japanese」の作品。 『空閑'93Space '93』「空閑'93Space '931993ステンレス・スチールstainless steel多田は、建築や野外空間と結びついて生まれる美に取り組んだ。鏡面に映る周囲の風景が変容し、作品と人と環境の新しい関係が生まれる。無駄のない形態と光の反射を用いて、光と造形の世界を新たな世界を作り出した。Tada's art integrated architecture with outside spaces. The surrounding scenery reflected in the mirror finish of this piece is transformed and a new relationship with humans and the environment is born. The sleek form and reflecting light are used tocreate a new world of light and form」 「Cornelis Zitmanコルネリス・ジットマン1926–2016Dutchオランダ」の作品。 『午睡Siesta』。「午睡Siesta1982ブロンズbronze横たわる像と枕のかたちをした台座が一体化し、漆黒の肌の肉感と柔らかなふとんの質感がみごとに統合されている。再定住したベネズエラの先住民、とくに女性の姿の形態を強調して表現した。The recumbent figure and the base of the sculpture formed in the shape of a cushioncombine together as one, while the roundness of the jet-black body and the softness of the cushion complement each other beautifully. This work by Zitman emphasizesthe physical attributes of the Indigenous people, especially the women of Venezuela, where he relocated to from his home country of the Netherlands.」 「Tomotaka Yasui保井 智貴1974–Japanese」の作品。 『untitled2004』。『untitled2004漆、麻布、螺鈿、岩絵具、膠、スペクトラライト、大理石、鉄、etc.urushi, linen, mother of pearl, iwa-enogu (mineral pigment), glue, spectrolite, marble, iron, etc.私の制作活動は、世の中に浮遊する形の無い空気感を捉え、それらが何で、何処から来ているかを考える行為である。とある閑静な住宅街に、昭和初期に建てられた趣きのある洋風家屋があった。通るたびに植栽された四季折々の植物たちがその家を彩る様を眺めていた。何年か経った頃に、縁あって私はそこで展示をすることになる。建物の外観と同様に室内もレトロなデザインと漆喰の調和が美しく、郷愁と哀愁が入り混じり歴史が息づく空間であった。少しずつ変化する町の中で、いつまでも変わらないその家があることで、町の風景の記憶が蘇ってくるように感じた。そこには座像が似合うと感じた。私が制作した中で唯一の座像であるこの人物像は、とある街に佇む洋風家屋が背景となっている。My creative activity is the act of capturing the formless atmosphere floatingin the world and considering what it is and where it comes from.In a quiet residential area, there was a quaint Western-style house built in the early Showa period. Every time I passed the house, I observed the various plantsgrowing there that added seasonal color to the house. Some years later, by a fortunate chance, I was able to exhibit my works there. The same as the exterior of the building, the interior was a beautiful harmony of retro design and plaster, a space where history comes alive with a mixture of nostalgia and melancholy. As the town changes little by little, the presence of that forever unchanged house seemed to bring back memories of the town's former landscape. I felt that a seated figure would fit in well there. This Western-style house, located in a certain town, provided the backdrop for this seated figure, the only seated figure I have ever created.』『tictac2007』「tictac2007漆、麻布、螺鈿、岩絵具、膠、黒曜石、大理石、etc.urushi, linen, mother of pearl, iwa-enogu (mineral pigment), glue, obsidian, marble, etc.異国の地で、民族衣装を着たある少女が佇んでいた。その少女の目は、遠くを見つめていた。あどけなさの中に、何かを背負っているような厳しい表情をしていた。時を経てある少女をモデルとして制作した。遠くを見つめる表情に国籍や文化も異なる二人の少女の気配が時間を超えて重なった。保井 智貴In a land far away, a young girl in traditional clothing was standing with a composedappearance. She was staring into the distance. But amidst her childlike innocence, her expression seemed somewhat strained, as if she was carrying some kind of burden.Some time later, I created a work with a certain young girl as the model. The same atmosphere overlaps in the expressions of the two girls of different nationalities andcultures, as they gaze off into the distance, transcending time.Tomotaka Yasui」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.13
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次にアートホール「彫刻の森美術館 名作コレクション」を訪ねた。「彫刻の森美術館 名作コレクション」。「彫刻の森美術館Hakone Open-AirMasterpiece Collection名作コレクション彫刻の森美術館は、日本で初めての野外美術館として1969年に開館しました。これまでに収集された作品は、2,000点余りにおよびます。今回👈️リンクは、そのコレクションの中から近・現代を代表する作家であるメダルド・ロッソやコンスタンティン・ブランクーシ、アルベルト・ジャコメッティ、荻原守衛、清水九兵衛などの彫刻を紹介します。20世紀彫刻の展望をみる機会になりますと幸いです。The Hakone Open-Air Museum opened in 1969 as Japan's first open-air art museum.More than 2,000 works have been acquired so far for the collection.In this exhibition, we introduce sculptures from the collection by leading modern and contemporary artists such as Medardo Rosso, Constantin Brâncuși, Alberto Giacometti, Morie Ogiwara, and Kyubei Kiyomizu.We hope this will provide an opportunity to gain a perspective of sculpture in the twentieth century.」 「Medardo Rossoメダルド・ロッソ1858–1928Italian / Frenchイタリア―フランス」 『病院の病める男』。メダルド・ロッソの代表作『病院の病める男』(1889年制作)は、彼が困窮によりパリの病院に入院した際の体験をもとに制作した彫刻です。光と影が織りなす微細な表情や、周囲の空間と彫刻が一体化するような独自の作風を示しています。・制作年: 1889年・技法・材質: ワックス、石膏 または ブロンズ・制作背景: 窮乏生活の中でパリのラボリジェール病院に入院した際、同室の患者や自身の 内面的な印象を捉えて制作されました。・作風の特徴: 彫刻の輪郭をあいまいにし、表面の凹凸に当たる光の反射によって、 人間の感情や周囲の空間(大気)を表現する「印象主義彫刻」の 先駆的な作品です。「病院の病める男Sick Man in Hospital1889ブロンズbronzeこの作品は、窮乏によって体を壊し、ひと月ほど病院で過ごした時の観察をもとに作られた。眠っている老人と肘掛椅子と床とが織りなす空間と物体の結合が、小さな塊の中から現れる様は密な素描のようである。This work is the result of Rosso's observations when he spent about one month in hospital after he became ill due to poverty. The fusion of space and material created by an old sleeping man, the armchair and the floor seem like a delicately depicted sketch appearing from a small solid mass.」「Constantin Brâncușiコンスタンティン・ブランクーシ1876–1957Romanian / Frenchルーマニア―フランス」 『接吻 The Kiss』。石膏、27×25×16cm抽象彫刻の先駆となった、男女が抱擁し口づけを交わす姿をひとつの塊で表現した名作。ブランクーシの『接吻』は、写実的な表現から脱却し、石や石膏といった素材そのものの「本質」を引き出す手法で制作されています。二人の人間が互いに溶け合うような究極の愛と精神性が、極めてシンプルかつ力強いフォルムで表現されています。「接吻The Kiss1908石膏plaster「接吻」を主題にした石彫は6点あり、その第1作(1907–08年、クライヨーヴァ美術館、ルーマニア)から型取られた石膏像。抱き合う男女の姿は、四角いかたまりに還元され、ふたつにしてひとつという愛の形の核心を衝いている。Brâncuși's stone sculpture The Kiss has six versions. This piece was created from a plaster cast taken from the first work (1907–1908, Craiova Museum, Romania). The image of a man and woman embracing is reduced to a simple and solid square shape. It gets to the core of what love is, which is two entities being one.」 「Jacques Lipchitzジャック・リプシッツ1891–1973Lithuanian / Frenchリトアニア―フランス」 『出会い The Meeting』。・サイズ: 81 × 57 × 37.5 cm・パリで活動していたリプシッツが、ピカソやブラックらが切り拓いたキュビスムの 絵画的空間を立体彫刻として表現しようと試みた初期の代表作。「出会いThe Meeting1913鉛leadキュビスムや部族芸術の影響を受けた。左右対称のゆるぎない構図と形態の単純化が、堂々とした存在感を生んでいる。男女の出会いの一回性、運命性に形を与えた作品である。Lipchitz was influenced by cubism and tribal art. The solid and symmetrical concept ofthe sculpture together with its simplified form give birth to the strong sense of presence of this work. It is a masterpiece that gives form to the once-in-a-lifetimeand pre-destined meeting of a man and a woman.」 『空間の中の唯一つの連続する形 Unique Forms of Continuity in Space』。・作者: ウンベルト・ボッチョーニ(Umberto Boccioni)・制作年: 1913年「空間の中の唯一つの連続する形Unique Forms of Continuity in Space1913ブロンズbronzeうねるような姿が疾走する人体の躍動感を伝え、残像に形を与えることで時間の経過を表わした。運動や周囲の空間との関係、時間の感覚などを同時に表現する、「未来派」彫刻の頂点である。The surging silhouette of the running human form conveys a sense of energy,with the passing of time expressed by giving form to the afterimage. This piece is the simultaneous expression of movement in relation to the surroundingspace and a sense of time.」 「Henri Laurensアンリ・ローランス1885–1954Frenchフランス」 『布を持つ女-大 Large Standing Woman with Drape』フランスの彫刻家アンリ・ローランス(Henri Laurens)が1928年に制作したブロンズ彫刻。高さ226cmの堂々たる佇まいでありながら、優しく柔らかなフォルムが特徴の作品。「布を持つ女-大Large Standing Woman with Drape1928ブロンズbronzeキュビスムを彫刻に適用したのち、女性や神話の擬人像のモチーフを扱うようになり、丸みや量感のある自然主義的な形を追求した。片足に重心を傾けたコントラポストのポーズと布の襞が、海や水のイメージを醸し出している。After applying cubism to his sculpture, Laurens then began to work with female and anthropomorphic motifs in mythology, pursuing naturalistic forms that were rounded and voluminous. The contrapposto pose, with the weight slightly on one leg, and the folds of the fabric create an image of the sea or water.」 「CharlesDespiauシャルル・デスピオ1874–1946Frenchフランス」 『アッシア Assia』。シャルル・デスピオ(1874–1946)はオーギュスト・ロダンに見出されたフランスの彫刻家 で、代表作『アッシア』は1937年に制作されたブロンズの女性彫刻。日本の近代彫刻にも多大な影響を与えた作家。移動して。「アッシアAssia1937ブロンズbronze穏やかで自制的な印象を抱かせる古典性と、憂愁を内に秘めた現代的感性が融合する静謐な人間像を追求した。アッシアというモデルは、作家が探し求めていた要素(美・古典性・現代性)を完璧に兼ね備えていたという。Despiau aspired to statues that were tranquil and composed in a calm, classical stylewith an impression of self-restraint, together with a modern sensitivity hiding a feelingof melancholy. The model, whose name was Assia, is said to have perfectly embodied the elements of beauty, classicism and modernity that Despiau had been searching for.」「Morie Ogiwara荻原 守衛1879–1910Japanese日本」 「坑夫 Miner」。 近づいて。移動して。「坑夫Miner1907ブロンズbronze網を引くイタリア人がモデル。奔放な肉付けの緊張感と生命力にあふれた造形は、オーギュスト・ロダン(1840–1917)の影響を示し、当時の日本の彫刻界に多くの刺激を与え、日本近代彫刻の先達となった。Modeled on an Italian man pulling on a net. Full of life, this piece also expressesa feeling of tension within the freely modeled muscular form, and showsthe influence of Auguste Rodin (1840–1917). At the time, this work greatly stimulated the Japanese world of sculpture and was a pathbreaker in Japanesemodern sculpture.」 「原の城(頭B)Hara Castle: Head of a Warrior (Work B)」 作者:舟越 保武 Yasutake Funakoshi。「原の城(頭B)Hara Castle: Head of a Warrior (Work B)1964ブロンズbronze題名は1637年に起こった島原の乱で拠点となった城の名前。反乱軍はほぼ全員が殺害され、討ち死にしたキリシタン武士を「雨あがりの月の夜に、青白い光を浴びて亡霊のように立ち上がる姿」として表した。The title is taken from the name of the castle that served as the base of the Shimabara Rebellion in 1637. Almost all of the rebels were killed, and the Christian samurai who died in battle were represented as a figure rising like a ghost in the pale light of a moonlit night after the rain.」 「Giacomo Ballaジャコモ・バッラ1871–1958Italianイタリア」 「バレリーナ・ティク・タクBallerina of Bal Tic Tac1920–22真鍮、クロームメッキbrass, chrome platingスカートの裾がひるがえる様子や手足の動きなど、軌跡を線で描くことで速度と運動をとらえている。「バル・ティク・タク」は、1921年にローマで開かれた未来派スタイルのダンスホールで、バッラが内装を手掛けた。Balla depicted the trajectory of movement with simple lines to express speed and motion, as in how the skirts of the ballerinas seem to be fluttering as well as the movement of their arms and legs. Bal Tic Tac was a dance hall of the Futurist stylethat opened in 1921 in Rome, and Balla designed the interior décor.」 5つの作品が並ぶ。正面から。『バル・ティク・タクのバレリーナ/エカルテBallerina of Bal Tic Tac/Ecarte』『同上/パ・ド・ドゥ Pas de Deux』。『同上/火の踊り Dance of Fire』。『同上/蛇の踊り Snake Dance』。『同上/デュエット Duet』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.12
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次に訪ねたのが「マンズールーム Manzu Room」。「マンズールーム Manzu Room」では、イタリアの彫刻家ジャコモ・マンズーの「死の扉」習作12点を常設展示していた。ドアには彼のサインが。『婦人像 ジャコモ・マンズー(イタリア)』。とてもスレンダーな女性像。「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italy)1908–1991婦人像Donna1968ブロンズbronze」 「フラッシュ撮影はできません。」 と。「マンズーの「死の扉」。「マンズーの「死の扉」ヴァティカンのサン・ピエトロ寺院は、ルネサンス盛期の巨匠たちが、その信仰と芸術の粋を注ぎつくした精華であった。それらの傑作の数々に伍して、現代イタリア彫刻界の巨匠ジャコモ・マンズーの手になる「死の扉」が、少しの遜色もみせていないのは、真に偉観というべきである。1952年、ヴァティカンは、大寺院正面を飾る扉の制作を、マンズーに正式に依頼したが、完成までに実に17年の歳月を費す労作となった。その間、マンズーの創作欲を支えたのが、親友ジュゼッペ・デ・ルカ枢機卿、当時ヴェネツィアの総大司教だったジュゼッペ・ロンカリ枢機卿(のちの教皇ヨハネ23世)の示した友情と理解であった。しかし、1963年6月、マンズーが「扉」の最後の仕上げに精魂を傾けていたとき、ヨハネ23世が逝去した。マンズーは、意中にあった「水中の死」を「教皇ヨハネ23世の死」と代え、父とも仰いだ教皇にたむけたのであった。そして1年後の1964年6月28日、「扉」は新教皇パウロ6世によって除幕された。当初、ヴァティカンから与えられたテーマ「教会の聖人と殉教者たちの勝利」を称えるばかりでなく、名もなき庶民の信仰と、愛と、死をうたいあげた「死の扉」として――。「暴虐による死」にこめられた痛烈な戦争批判からも明らかなように、これは、まさしく20世紀的な宗教芸術の記念碑であった。貧しい靴直しの職人を父にもち、幼い頃から木彫師、左官屋のもとへ奉公にやらされた職人マンズーは、こうして、イタリア彫刻の栄光を継ぐ真の巨匠の列に加わったのである。」 「1961-1964 サンピエトロ大聖堂 死の扉」をネットから。この扉は、教皇や枢機卿の葬儀の際に棺が運び出される扉として用いられるため、「死の扉」と呼ばれています。しかし、その主題は単なる死ではなく、キリスト教における「死から永遠の命への希望」を表しているのだ と。■全体の構成左右二枚の扉に様々なレリーフが配置されていた。上から下へ向かって、・大きな宗教場面・麦束や枝葉(生命の象徴)・小さな場面(さまざまな死)・最下部の小さな生き物 という構成。■左上 聖母マリアの死(聖母被昇天)左上の大きな場面では、天使に抱え上げられるように、衣を大きくなびかせながら天へ向かう聖母マリアが表現されている。身体は地上にありますが、衣だけが天へ引き寄せられていくような独特の造形で、「肉体の死は終わりではなく、天へ迎えられる始まり」という希望が表されている と。マンズーらしい非常に柔らかな衣の表現が印象的である と。■右上 十字架刑右上は、十字架に架けられたキリスト。その下には聖母マリア、マグダラのマリアが悲しみに暮れています。人類最大の「死」でありながら、その死が復活につながるという、この扉全体の中心思想になっている と。■中央の植物左右中央には、左:木の枝葉、右:麦の束が表されている。これは豊かな実り、新しい命、復活を意味します。特に麦は、一粒の麦は地に落ちて死ななければ実を結ばないというヨハネ福音書の言葉を思わせる象徴です。■下部の八つの小さなレリーフここには、人間のさまざまな「死」が描かれています。マンズーは、宗教上の人物だけではなく、あらゆる人の死をテーマにしました。・左上左 暴力による死 苦しむ人物が描かれています。・左上右 死者を悼む人物 静かな悲しみを表現しています。・左下左 逆さになった人物 事故や処刑など、突然の死を暗示すると考えられています。・左下右 祈る女性 亡くなった人への祈りです。右側四場面も、戦争 苦悩 老い 病など、人間が迎えるさまざまな最期を象徴しています。マンズーは、死は王だけでも聖人だけでもなく、すべての人に訪れるということを表しています。最下部の小動物一番下には・小鳥・ネズミ・カエル・小動物のような小さな生き物が並んでいます。これらは、生命の循環や自然界を象徴すると同時に、人間だけでなく、すべての生命が神の創造の中にあることを暗示しています。この扉は「死」をテーマとしていますが、見る人に恐怖を与える作品ではありません。むしろ、キリストの十字架、聖母の被昇天、麦束や植物の象徴、そして名もなき人々のさまざまな最期を通して、死は人生の終着点ではなく、永遠の命への入口であるというキリスト教の希望を静かに語りかけています と。ジャコモ・マンズーの自筆のメッセージ。「彫刻の森美術館における私の作品の特別展示室開設にあたり、いく久しく時の流れにもすたれざらんことを念じつつ、館長並びにご来館の皆様に御礼申し上げます。 1974年5月21日 ジャコモ・マンズー」 『ヴァティカン、サン・ピエトロ大聖堂の「死の扉」(習作)ジャコモ・マンズー(イタリア) 』「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991ヴァティカン、サン・ピエトロ大聖堂の「死の扉」(習作)La Porta della Morte di Basilica di San Pietro in Vaticano (bozzetto)1962」 白壁上に作品が並ぶ。『聖母の死(習作) ジャコモ・マンズー(イタリア)』「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991聖母の死(習作)Morte di Maria (bozzetto)1962」 次の展示作品へ。『アベルの死(習作)ジャコモ・マンズー(イタリア)』。1963年に制作されたブロンズ彫刻。旧約聖書で兄カインによって殺害されたアベルの最期を題材としており、ヴァチカン・サン・ピエトロ大聖堂の「死の扉」の制作過程で作られた貴重な習作の一つ。「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991アベルの死(習作)Morte di Abele (bozzetto)1963」 『聖ヨセフの死(習作)Giacomo Manzù (Italian)』。「聖ヨセフの死」は、ヴァチカン宮殿サン・ピエトロ大聖堂の「死の扉」に彫刻された10の浮彫レリーフの一つ。このブロンズ作品は「幸福な死の守護者」である聖ヨセフの穏やかな最期を描いています。「Giacomo Manzù (Italian)1908–1991聖ヨセフの死(習作)Morte di Giuseppe (bozzetto)1963」 『暴虐による死(習作) ジャコモ・マンズー(イタリア)』。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂にある記念碑的なブロンズ扉『死の扉』(1964年完成)の制作過程で生まれた、非常に重要な習作(エチュード)として知られています。「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991暴虐による死(習作)Morte per Violenza (bozzetto)1963」 『教皇ヨハネ23世の死(習作)教皇ヨハネ23世の死(習作)』「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991教皇聖ヨハネ23区世の死(習作)Morte di Giovanni XXIII (bozzetto)1963」 『キリストの死(習作) ジャコモ・マンズー(イタリア)』「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991キリストの死(習作)Morte di Cristo (bozzetto)1962」 『聖ステファヌスの死(習作) ジャコモ・マンズー(イタリア)』。 「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991聖ステファヌスの死(習作)Morte di Stefano (bozzetto)1963」 『教皇グレゴリウス7世の死(習作) ジャコモ・マンズー(イタリア)』。「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991教皇グレゴリウス7世の死(習作)Morte di Gregorio VII (bozzetto)1961」 『空中の死(習作) ジャコモ・マンズー(イタリア)』。「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991空中の死(習作)Morte nello Spazio (bozzetto)1963」 『地上の死(習作) ジャコモ・マンズー(イタリア)』。「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù 1908–1991地上の死(習作)Morte sulla Terra (bozzetto)」 背景いっぱいにあるのは、ヴァティカン・サン・ピエトロ大聖堂の正面写真。中央の白い展示ケースには、「ルガンブワ枢機卿とヨハネ23世(習作)」の浮彫(レリーフ)が展示されていた。『ルガンブワ枢機卿とヨハネ23世(習作) ジャコモ・マンズー(イタリア)』。「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991ルガンブワ枢機卿とヨハネ23世(習作)Cardinale Rugambwa e Giovanni XXIII (bozzetto)1962」 ジャコモ・マンズーのサイン入り写真。『インゲの胸像』越しに展示品を見る。廻り込んで。『ジャコモ・マンズー インゲの胸像』。部屋の中央には、本展示室開設に際し、マンズー自信が寄贈した 1971年作のブロンズ像『インゲの胸像』 が設置されていた。インゲはマンズーの妻である。マンズーは「インゲと出会わなければ今の私はない」と語ったといわれている。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.11
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この日は6月21日(日)、4月以降4回目の箱根仙石原にある仙石高原ビラで、元同僚3人との親睦会に向かう。箱根強羅公園で合流することになり、私は単独で箱根に愛車で向かう。合流する前に、「箱根彫刻の森美術館」を久しぶりに訪ねたのであった。以下、ウィキペディアより。箱根 彫刻の森美術館(はこね ちょうこくのもりびじゅつかん、英語表記:THE HAKONE OPEN-AIR MUSEUM)は、神奈川県足柄下郡箱根町二ノ平および木賀にある、野外彫刻を中心とした美術館である。特定公益増進法人である公益財団法人彫刻の森芸術文化財団とフジサンケイグループが、姉妹施設の美ヶ原高原美術館とともに運営している。歴史・1969年(昭和44年)9月6日:開館(設計担当は彫刻家である井上武吉、 初代館長はフジサンケイグループ議長の鹿内信隆)。・1972年(昭和47年)3月15日:箱根登山鉄道(現:小田急箱根)二ノ平駅が彫刻の森駅に改称。・パビリオン [ネットの森]で、2010年度グッドデザイン賞受賞。彫刻の森美術館と マルマン株式会社が共同開発した図案スケッチブックが、2015年度グッドデザイン賞を受賞。・2012年(平成24年)7月5日:ファッションデザイナーの森英恵が館長に就任。・2019年(令和元年)7月27日:開館50周年記念事業としてピカソ館の全面リニューアルを行い、 一般公開された。・2023年(令和5年)7月1日:フジサンケイグループ代表の日枝久が館長に就任。主な彫刻・ヘンリー・ムーア・マルタ・パン「浮かぶ彫刻」・佐藤忠良・パブロ・ピカソ 館内にはピカソの彫刻に関する展示物を展示する専門の展示室「ピカソ館」がある。・ジャコモ・マンズー ・館内には「死の扉」(サン・ピエトロ大聖堂)習作などのマンズーの彫刻に関する 展示物を展示する専門の展示室「マンズールーム」がある。・水井康雄 「5合目標」・ガブリエル・ロワール「幸せをよぶシンフォニー彫刻」 ・1975年6月1日に完成した、展望塔を兼ねた全高18mの作品。 内部は480枚のステンドグラスが設置されている。・後藤良二 「交叉する空間構造」 ・多数の人体像から成る作品。夕刊フジのテレビCMに「オレンジ色の憎い奴」の キャッチコピーと共に使用された。入口にあったこの噴水も作品であると。 駐車場に車を駐め、入場券売り場に向かった。2000円でチケットを購入。突然雨が降り出して来た。「彫刻の森美術館 GUIDE MAP」👈️リンク。 近づいて。さらに、現在地に近づいて。駐車場入口の円い池の中の作品は『生命の響き 新宮 晋』👈️リンク。正面の八角形の建物のレリーフは『働く人々 建畠大夢』。 帰路時に近づいて。廻り込んで。展示場所に向かってエスカレータを下る。さらに。観光客の人の姿は少なかった。正面にプレートが。「公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団 フジサンケイグループ」と。 その先にあった作品は『網目の球体 フランソワ・モルレ』・素材と構造: ステンレス・スティール製の細い格子状の網を組み合わせ、幾何学的な球体を 作り出しています。・錯視とリズム: 見る角度や背景(空や緑)によってフォーカスポイントが次々と変化し、 背景と形態の境界があいまいになる不思議な錯視を体験できます。・受賞歴: この作品のシリーズは、1992年に開催された第5回「ヘンリー・ムーア大賞展」で 優秀賞を受賞しました。近づいて。「入館口 Entrance」へと。 「わが国の現代彫刻が近年、活況を呈するとともに広く認識され始めたことは、喜ばしい限りです。現代の彫刻家たちは、生活空間、都市空間をより豊かにすべく果敢に創造精神を燃やしています。私どもフジ・サンケイグループが、彫刻の野外美術館を、ここ箱根の景勝の地に創設しましたのは、こうした状況を踏まえて、環境芸術としての現代彫刻の振興を計り、わが国の芸術文化に新たな活力を注入したいとの希いからであります。近代彫刻の優品が、多彩を誇る現代彫刻の数々が、箱根の山に集い、自然の美しさ猛々しさと融け合い、対決するわけです。皆様方も、箱根の山の風光を満喫しながら、彫刻と自然との対話に加わっていただきたいのです。そこにこそ、新しい造型の時代の、野外美術館でしか味わえぬ楽しさがあると申せましょう。本日、こうして開館を迎えられましたのも、美術界はもとより各界の方々のご支援の賜であります。ゆくゆくは東西の彫刻界の懸け橋、世界の彫刻家の理想郷に育てていきたいと存じます。どうか当美術館の行く手を暖かく、また厳しく見守ってくださるようお願い申し上げます。昭和44年8月1日 彫刻の森美術館 初代館長 鹿内 信隆」 地下道を案内に従い進む。「彫刻の森美術館 ピカソ館 ⇒」 正面が地下道出口。そして地下道を出て、振り返る。「屋外展示場」作品配置図(1/2)。「屋外展示場」作品配置図(2/2)。この2枚の作品配置図を自宅で印刷して、持ち込んで、これを見ながらチェックしながら「屋外展示場」の見学を始めたのであった。 左側にあったのが『樹人 岡本太郎』。「FRP(繊維強化プラスチック)、塗料 360×280×310 cm1929年の渡仏後、岡本は次第に純粋抽象の世界から離れ、シュルレアリスムに出会う。1940年帰国。戦後はいち早く対極主義を唱え、理論面でも日本の前衛芸術をリードしてきた。1970年、大阪万博のシンボル《太陽の塔》(万博記念公園)を制作。有名な「芸術は爆発だ」という彼の言葉は、コミュニケーションや理解も拒絶し、効果や結果、また歴史的、文化的、時間的な枠をも超えて、無目的に膨張し続けるという自己の芸術感が表されたものである。この《樹人》も、自由奔放に増殖し続けていくような、ダイナミックな生命力にあふれている」と。見上げて。帰路時の写真。近づいて。「岡本 太郎Taro Okamoto (Japanese)1911–1996樹人Tree Man1971FRP(繊維強化プラスチック)、塗料FRP, paint生命力や生き生きとした表現を求め、自由奔放に膨張し続けるという作者の芸術観が表れています。Creating a dynamic expression of life, this work sums up the artist's outlook on art, which he believed should be free to expand at will.」 『戦士 マリノ・マリーニ(イタリア)』。近づいて。「マリノ・マリーニ(イタリア)Marino Marini (Italian)1901–1980戦士The Warrior1959–60ブロンズbronze力尽き倒れかかった馬と騎士は、両者の区別がつかないほどひとつの塊と化しています。その悲劇的な姿は絶望を表わしています。Expending the last vestiges of their strength, both rider and horse fall to the groundwhere they merge to create a single mass. This tragic form manifests an imageof despair.」 右側にあったのが『とらわれのアクション アリスティド・マイヨール(フランス)』。近づいて。「ブロンズ 213×104×95 cm👈️リンクピエール・ボナール[1867-1947]やエドゥアール・ヴュイヤール[1868−1940]らと共にナビ派の画家として活躍していたマイヨールが彫刻に転じたのは、40歳を過ぎてからのことだった。彼の作る女性像は、鋭く突起した部分がなく、満たされた丸みのある形の連続である。この作品は、長く獄中生活を送った社会主義者ルイ・オーギュスト・ブランキ[1805-1881]の記念像として作られた。後ろ手に縛られ身をよじったポーズは、マイヨールの作品にしては珍しくダイナミックな動きをはらむ。豊満な女性の体に男性的な顔を備え、そのボリュームは見る者を圧倒する。」と。 「アリスティド・マイヨール(フランス)Aristide Maillol (French)1861–1944とらわれのアクションAction Enchained1906ブロンズbronzeフランスの社会主義者ルイ・オーギュスト・ブランキの記念像です。長い獄中生活を送った革命家の、自由への切望を表現しています。Created as a memorial to the French socialist activist, Louis Auguste Blanqui, a revolutionary who spent many years in prison, this statue represents a yearning for freedom.」 再び「Museum Journey Compass 屋外展示場を自由に旅する Web 3D Map」。 近づいて。さらに「現在地」を。 アートホール・マンズールーム前にあったのが『衣を脱ぐー大 ジャコモ・マンズー(イタリア)』近づいて。「「衣を脱ぐー大」は、現代イタリア彫刻の三大巨匠の一人、ジャコモ・マンズー(Giacomo Manzù, 1908-1991)の代表的な彫刻作品です。1960年代以降のマンズーが好んで制作した世俗的な主題の一つ。・作風の魅力:古代ローマやルネサンスの古典彫刻から影響を受けており、簡潔かつ直線的 ながらも人間味にあふれる力強い造形が特徴です。衣服のひだなどの複雑な構成を巧みに 表現しています。・制作年代:1967年(昭和42年)に制作された大作」 「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991衣を脱ぐー大Grand Striptease1967ブロンズbronze伸びやかな均整のとれた姿勢で表わされた女性の身体と、衣服を脱ぐところから発散される魅惑を限りなくとらえた作品です。Depicting a woman about to remove her clothes, this work captures the endlessfascination of the female form through unconstrained and well-proportioned lines.」 ・・・つづく・・・
2026.07.10
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この日は7月6日(月)、9:30~平塚で仕事の社内打ち合わせに愛車で向かう。2時間ほどで会議は終了、帰路に市内鵠沼にある「はす池・蓮池」を訪ねた。「第1はす池」の近くの空き地に車を駐め、カメラ片手に散策開始。「第1はす池」ここに咲いているのは「舞妃蓮(まいひれん)」 ズームして。舞妃蓮(まいひれん)は、昭和41年にアメリカの「王子蓮」と日本の「大賀蓮」を交配して作られた品種と。黄色がかった白地に淡いピンク色の覆輪が入る美しい花を咲かせていた。昭和43年、花弁の開閉する姿が女性の舞う姿に似ていることから名付けられたのだ と。御坊市の阪本祐二氏が、アメリカの黄花ハス(王子蓮)と日本の大賀蓮を交配して作り出した、御坊市生まれの蓮。「淡き紅 風に舞い立つ 舞妃蓮 水面映して 夏は静けし」・・・詠み人知らず そして「エピローグ(epilogue)・終章」に向かう蓮花を追う。盛りを過ぎ、花托(かたく)が大きく姿を現し、花びらがゆるやかに開いて「終章(エピローグ)」へと向かう美しさを感じさせてくれた。満開の華やかさとは異なり、静かな余韻や円熟した気品が漂っているのであった。満開の美しさだけが花の魅力ではない。舞妃蓮は歳月を重ねたような落ち着きを漂わせ、静かに命を未来へ託す姿に、人生の円熟を見る思いがするのであったが・・・。花びらが静かに役目を終え、黄金色の花托が主役となる。華やかな開花の先にあるのは、終焉ではなく実りへの道。舞妃蓮は最後の一瞬まで、気高く、そして美しく夏を語り続けているのであった。展望台には巨大なカメラを持ったカメラマンの姿が。そして再び花の「クライマックス」を追う。一輪ごとに異なる表情を見せる舞妃蓮。純白に淡い紅をにじませた花びらは、清楚さと華やかさを兼ね備え、見るたびに心が洗われるような美しさを感じさせるのであった。 舞妃蓮は、やわらかな陽光をまとい、淡い桃色の花びらを優雅に広げる。その気品ある姿は、静かに舞う天女を思わせ、見る人の心に安らぎと清らかな感動を届けてくれるのであった。そして徒歩で数分の北側にある「第二はす池・蓮池」を訪ねた。「第二はす池・蓮池」に咲くのは「誠蓮(まことはす)」と。 「誠蓮(まことはす)」は、紅蓮系の八重咲きハス。花弁数が120枚を超える華やかなピンク色の花を咲かせ、鑑賞用としてはもちろん、食用レンコンを収穫できる大変珍しい品種 と。観賞と食用の両方を楽しむことができるのだと。美しく清楚な開花前の蕾を。「誠蓮(まことはす)」は、誰の作品なのであろうか?この誠蓮の花は、開花の直前、幾重にも重なる花弁を大切に抱きしめるような姿が印象的。満開とは異なる、「これから咲く期待」と「内に秘めた華やかさ」が感じられるのであった。少し花弁が開き、黄金色の花托が姿を現し始めて。「秘めた美」から「華やぎの始まり」へ移る、最も心惹かれる瞬間なのであった。人生が円熟へ向かうように、誠蓮もまた静かに花開く。焦ることなく、一枚ずつ花びらを広げる姿は、本当の美しさは時とともに育まれることを、後期高齢者に教えてくれるのであった。誠蓮がほぼ満開を迎え、黄金色の花托が堂々と姿を現していた。濃桃色の幾重もの花びらが器のように花托を包み込み、豪華さと気品が見事に調和した瞬間。幾重にも重なる桃色の花びらが大きく開き、黄金色の花托を優雅に抱く誠蓮。満開のその姿は、夏の陽光を受けて気高く輝き、私の心を豊かな感動で満たしてくれるのであった。誠蓮が盛花を過ぎ、実りへと歩み始めた姿。黄金色の花托が高く立ち、花びらにはわずかな傷みが見られた。しかし、その姿には衰えではなく、生命を次代へつなぐ気高い美しさが宿っていると感じる瞬間。花びらがすべて散り、花托だけが静かに残る「蓮花の最終章」。しかし、それは決して終わりではない。花は種子を育み、新たな命へとつながる「希望のプロローグ」でもあるのだ。その姿には、侘び寂びにも通じる深い趣が感じられるのであった。花は散り、彩りは去る。しかし、命は終わらない。静かに立つ花托は、実りを育み、未来へと希望をつないでゆく。蓮が見せる最後の姿は、最も深く、最も尊い美しさである。実りを抱く花托の傍らで、新たな蕾が静かに目覚めの時を待つ。終章と序章が一つの景色の中で出会い、蓮は永遠に巡る命の物語をそっと紡いでいるのであった。そして最後に池の横に咲いていた「半夏生」を。半夏生の白く染まる葉を眺めながら、我が人生に思いを馳せた。若き日の情熱はやがて穏やかな緑へと戻り、派手さはなくとも、歳月を重ねた者だけが持つ深い味わいが静かに宿っているように思えたのであった。そして、「こうありたい」と。 多くの蓮の花の姿を観ながら、我が人生に思いを馳せる自分がいたのであった。固く閉じた蕾は夢に胸を膨らませた若き日。朝日に向かって咲き始める花は、希望に満ちた青春。満開の華やぎは、仕事や家庭に懸命に生きた壮年の日々。そして今、花びらを静かに散らしながら実りを育む花托に、人生の本当の豊かさを見る思いがした。人は華やかさのために生きるのではなく、歩んできた歳月を次へと受け継ぐために生きているのかもしれない。蓮は何も語らない。しかし、その一輪一輪が、人生の意味を静かに教えてくれているようだった。蓮は命の巡りを、半夏生は人生の移ろいを語る。どちらも華やかさだけでなく、その先にある静かな美しさを教えてくれる。私もまた、日々、自然の営みに触れ、そして学びながら、自分らしい人生の季節を一歩一歩感謝の心を忘れずに、穏やかに、そして心豊かに自分らしく歩んでいきたい!!・・・そんな少々欲張りな願いを抱いている後期高齢者なのである。 ・・・完・・・
2026.07.09
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「3D等高線図で確認された堀」展示を訪ねた。 「3D等高線図で確認された堀等高線図とは地図の表現方法の一つで、3次元の曲線を2次元で表したものです。一般的な等高線図は真上から見たものなので、他の角度から見ると対象物がどのようになっているか知ることができません。ところが3D等高線図だと、自分の好きな角度から対象物を見ることができます。平成29年(2017)に大庭城の簡易的な3D等高線図を国土地理院の協力のもと作成しました。これを見ると、普段樹木でかくれてしまい、目にすることのできない堀や平場を確認することができます。お城の調査は発掘調査が大きな役割を担うことになりますが、このような3D等高線図を補助的に使うことで、より多くの情報を得ることができます。」 「大庭城址」を「北東から」。 「東から」。 「南東から」。「北から」。 「真上から」。 「南から」。 「北西から」。 「西から」。 「南西から」。 「大庭城のその後大庭城は永正9年(1512)に伊勢宗瑞(北条早雲)により落城しましたが、その後はどのようになったのでしょうか。大庭城を落とした伊勢宗瑞は、その後勢力を東に伸ばし、永正9年ないしは翌年の永正10年に玉縄城(鎌倉市)を築きます。この城が伊勢氏の東相模における重要拠点となり、大庭城は廃城したものと思われます。定かではありません。なお「小田原衆所領役帳」には福島左衛門尉という人物が知行していたことが記されています。玉縄城主・北条綱成の旧姓は福島であり、北条氏の旗台では玉縄城主と血縁上近い人物が大庭一帯を治めていたことが分かります。小田原衆所領役帳北条氏康(伊勢宗瑞の孫)が作成させた一族や家臣の役高を記した台帳。福島左衛門尉は玉縄城主福島綱成に属し、大庭で180貫文を知行していたことが記されている。別名「小田原北条家所領役帳」「北条分限帳」とも呼ばれている。」 「福島伊賀守墓碑小田原市風祭の萬松院に所在し、墓碑には「相州大庭城主」の文字が刻まれています。福島伊賀守の法名は「道水」で、福島左衛門尉の法名は(道水)と似ていることから、二人を同一人物とみる研究者もいます。」写真右側(赤線部拡大)墓碑の刻字には、「相州大庭城主」と。福島伊賀守(勝広・道瑞)の墓碑に関する詳細な情報は以下の通り。・場所:萬松院(神奈川県小田原市風祭411)・死去:慶長15年(1610年)2月4日・戒名:実相院殿光翁道瑞居士・主な事績:川越夜戦での単身突破の伝令が名高く、小田原城落城後は剃髪して「道瑞」と 名乗り、晩年は小田原の板橋で暮らしたと伝わります。「子供用パネル大庭城落城!戦国時代、北条早雲という武将が、小田原周辺をおさめていました。最初、上杉氏と北条氏は仲良くやっていましたが、上杉氏の力が弱まると、同盟をやぶって攻めてくるようになりました。大庭城は永正9年(1512)に、北条早雲によって落城してしまいます。」 展示室の天井隅には凧が飾られていた。「神奈川県 引地川 藤沢市」 平成四年五月 全国ふるさと凧サミット愛媛県五十崎町 寄贈」 5.神奈川の城館コーナー。「5.神奈川県の城館神奈川県には江戸時代の御殿・陣屋や、鎌倉時代・室町時代の館を含めると、350を超す城館が存在したと考えられています。しかし残念ながら昭和以降の開発の波にのまれ、ほとんどの城館はその姿を偲ぶことができません。これは神奈川県だけではなく、全国的な傾向でもあります。藤沢ではこれまでに長後で鎌倉時代の館跡や江戸時代の藤沢御殿の一部が発掘されています。また戦国時代の城としては、二伝寺砦(渡内)・高谷砦(別名:村岡城、高谷)・御幣山砦(藤が岡)などが存在していた記録がありますが、これらは発掘される前に区画整理により破壊されています。その点で大庭城は公園として市民の方々の憩いの場として活用されているとともに、当時の面影が残る数少ない城といえるでしょう。今後このような貴重な歴史遺産をどのように保存・活用するかが課題となります。」 「二伝寺砦👈️リンク二伝寺は渡内に所在していた砦です。玉縄城の南西に位置し、玉縄城南西防衛上の要地だったようです。二伝寺砦には堀切や土塁が存在せず、平場を造成し、北側を大手とする構造であり、高谷砦と連動して南からの攻撃に備えることができた砦だと考えられています。現在二伝寺周辺は昭和40年代から始まった村岡地区の区画整理やその後の宅地造成により、旧地形が消失している場所は二伝寺周辺のみです。」 以前に訪ねたときの「二伝寺砦」の写真。大庭城・高谷砦・二伝寺砦は、村岡から渡内にかけての台地上で互いに連携しながら防衛網を形成していたと考えられている。特に二伝寺砦は、・玉縄城の南西方向を守る前線拠点・堀や土塁を持たない比較的小規模な砦・高谷砦と連携して敵の侵入を監視する施設であったと推定されている。また、パネルの最後にあるように、二伝寺砦は宅地造成によって旧地形がほぼ失われており、現地で遺構を確認することは難しくなっています。大庭城が比較的良好な状態で残っていることの貴重さを示す説明でもあります。 「高谷砦(村岡城)👈️リンク高谷砦は別名村岡城ともいい、高谷に所在していた砦です。二伝寺砦の南約350mの場所に所在していたとされますが、昭和40年代の圃場整備により砦跡周辺は削平されてしまい、現在では砦に関連する遺構を確認することができません。『鎌倉市史』によれば、砦はH字形をし、砦の北東「三日月の井」周辺(現在の村岡城址公園内)に建物が存在していた可能性を指摘しています。」 以前に訪ねた「村岡城址」碑の写真。「額 元帥伯爵東郷平八郎書村岡城の地位は古来武相交通の要衝に在り昔従五位下村岡五郎平良文公及びその後裔五代の居城なり蓋しその築城は今を距ること約一千年前に属す良文公は関東八平氏の始祖にして天慶二年鎮守府将軍陸奥守に任ぜられ多くの荘園を有し威を関東に振るひたり天慶の乱起るに及び藤原秀郷平貞盛と共に将門を征討し大に軍功を立てたり其の後裔に秩父平氏の一族澁谷庄司重國あり其の孫實重は薩州東郷氏の祖なり昭和六年村岡城祉を史蹟として縣廳より指定せらるる同七年村岡村の有志相謀り鎌倉同人會の賛助を得城址に碑を建て以て後昆に傳ふと云爾 海軍中将東郷吉太郎撰書 昭和七年十月三日」「高谷砦」は別名は「村岡城」 現在の藤沢市高谷付近に存在したと考えられる・二伝寺砦から南へ約350mの位置・二伝寺砦・大庭城と連携して防衛網を形成していた可能性が高い・昭和40年代の圃場整備によって地形が改変され、遺構はほぼ消失・『鎌倉市史』には「H字形の砦」と記録されている特に興味深いのは、現在の村岡城址公園付近が高谷砦の中心部と考えられている点です。大庭城・二伝寺砦・高谷砦を地図上で結ぶと、藤沢南東部から鎌倉方面へ向かう交通路や谷戸を監視できる配置となり、戦国時代の地域防衛ネットワークの一端をうかがうことができるのだ と。城址碑脇の「三日月井跡」。裏面には「ここより東百五十㍍の処に三日月井あり 村岡城内で用水として使われ又村岡城五代城主鎌倉権五郎平影正産湯井としても知られています後世になって近在の人々が眼病を治しにこの井で眼を洗いに多くの人が訪れたようです。」「玉縄城と藤沢所在の砦位置図」。 「大塚烽火台(のろしだい)『新編相模国風土記稿』の柄沢村の項に烽火台の記述があり、これが大塚烽火台と考えられています。大塚の地名は現在の藤が岡3丁目付近に「大塚山」や「大塚下」の地名が残ることから、『日本城郭大系』では現在の藤が岡中学校付近に烽火台が存在していた可能性を指摘しています。この一帯は昭和30年代の区画整理により、大規模な削平がおこなわれており、旧地形は残っていません。」 烽火台とは、戦国時代に煙や火を使って情報を伝達した通信施設です。敵の来襲や異変を発見すると、昼は煙、夜は火を上げて周辺の城や砦へ知らせました。この説明によると、・江戸時代の地誌『新編相模国風土記稿』に柄沢村の烽火台の記録がある。・「大塚山」「大塚下」という地名が現在も藤が岡3丁目周辺に残っている。・そのため、藤が岡中学校付近に烽火台があった可能性が高い。・しかし昭和30年代の区画整理で地形が大きく改変され、遺構は残っていない と。「御幣山砦(おんべやまとりで)👈️リンク御幣山砦は藤が岡1丁目あたりに所在したと考えられている砦です。『新編相模国風土記稿』には大谷公嘉という人物が砦を守備していたと記されています。この砦は永禄12年(1569)の武田信玄による小田原攻めの際と、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に攻められ、2度落城しています。御幣山砦一帯は昭和30年代の区画整理とその後の開発により、現在は城郭に関連する遺構を目にすることはできません。」 御幣山砦の位置図。今は藤が岡と呼ばれている藤沢駅北東の丘陵一帯が、かつて御幣山と呼ばれていた。地名としての御幣山はすでに失われ、御幣山自治会や藤が岡北麓の御幣公園などに、僅かに名を残すのみである と。神奈川県内の主な城👈️リンク。「祝大庭城跡が藤沢市指定史跡に指定されました!令和3年(2021)12月1日に大庭城跡は藤沢市指定史跡として指定されました。大庭城に初めて発掘調査が行われたのは昭和42年(1967)です。この時は城館に関する遺構・遺物は見つからず、翌年に行われた第2次調査で大庭城と関連のある遺構・遺物が初めて確認されました。それから約50年、第25次調査までの間に様々な発見がありました。これからも新たな発見があることでしょう。」大庭城は現在、公園として市民に親しまれているが、その地下には弥生時代から戦国時代に至る長い歴史が眠っており、藤沢市を代表する歴史遺産の一つと言えるのだ。「謝辞本パネル展を開催するにあたり、以下の皆様からご協力をいただきました。心より御礼申し上げます。佐久大権守 中川様伊勢原市教育委員会 小田原市文化財課 小田原城総合管理事務所相模原市教育委員会 大慈寺」 引用参考文献・梅原正吉 1959『藤沢市史 考古編』白川弘文館・井上光貞 『日本の歴史④ 平安京と貴族』中央公論社・牛澤秀爾 2018『神奈川県秦野市西大竹遺跡群 藤沢市指定史跡関連の発掘調査 その2 調査報告書』・柴田龍司 1968『大庭城址発掘調査概報』藤沢市西部開発事業局・香川元太郎 2019『よみがえる日本の城』学研プラス・加藤理文ほか 1991『大庭城址公園内発掘調査報告書 第23次調査報告書』玉川文化財研究所・黒田基樹 2004『北条氏と大庭城館跡』大庭城館跡発掘調査文化財講演会資料・黒田基樹 『戦国大名北条氏』戎光祥出版・黒田基樹 『日本の城郭大全 第6巻 千葉・神奈川』新人物往来社・藤木久志 1980『戦争の日本史6 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館・佐久大権守ほか 2017『小田原北条氏の外交』八木書店・下山治久 1999『北条早雲と東国百年戦争』有隣堂・新人物往来社 1972『藤沢市史 通史編』・神田千里 2015『一向一揆と石山合戦』吉川弘文館・中川真(ほか)2020『藤沢市文化財調査報告書 第10集 藤沢市指定史跡関連調査』・栗山一夫 1979『藤沢の武士と城館』名著出版・藤沢郷土研究会 2019『藤沢歴史探訪40選』・藤沢市教育委員会 2008『大地に刻まれた藤沢の歴史Ⅰ-旧石器時代~』・藤沢市教育委員会 2009『大地に刻まれた藤沢の歴史Ⅱ-奈良時代~』・藤沢市教育委員会 2011『大地に刻まれた藤沢の歴史Ⅲ-近世時代~』・藤沢市教育委員会 2013『藤沢の文化財』・藤沢市教育委員会 2015『大地に刻まれた藤沢の歴史Ⅳ-近代~』・郷土歴史課 2018『調査報告 平成30年大庭城展イベントについて』 藤沢市文化財調査報告書 第54集・郷土歴史課 2019『藤沢市指定史跡シンポジウム 上杉の城館~その特色と 役割をかんがえる~』藤沢市文化財調査報告書 第55集「指定重要文化財等指定書(史蹟)名称 大庭城跡当該史蹟の特徴 大庭城は扇谷上杉氏時代の城館と考えられており、この時代の城郭は湘南地域では 現存するもので唯ーのものである。築城した人物や時期については判明していないが、 扇谷上杉氏の歴代当主と非常に血縁が強い朝昌という人物が大庭城を守備していたことが 文献から確認されている。なお永正9年(1512年)に北条早雲により落城した後は廃城と なったと考えられる。 大庭城は関東の戦国史を考える上で貴重な遺跡であり、過去の発掘調査の結果、 掘立柱建物群や、土塁や堤が見つかっているほか、令和2年度から令和3年度にかけ おこなわれた第25次調査では、主郭西側斜面から帯曲輪の存在が確認された。 県内で発掘調査の成果から帯曲輸が確認されたものは大庭城が初めてとなる。藤沢市指定史跡に指定する。 2021年(令和3年)12月1日 藤沢市教育委員会」 「大庭自然探偵団」ポスター。大庭自然探偵団は、神奈川県藤沢市の大庭・遠藤エリアを中心に活動している市民の自然観察グループ。NPO法人「藤沢サンクチュアリ」などと連携し、地域の豊かな自然や生き物と触れ合う活動を行っています。 近づいて。主な特徴と活動内容は以下の通り。・定期的な自然観察会: 奇数月に遠藤地区、偶数月に大庭地区で毎月第2日曜日に開催されています。団員でなくても 誰でも無料で気軽に参加でき、途中参加や途中退席も自由です。・野鳥や昆虫の観察: 引地川親水公園や遠藤笹窪谷公園などを散策し、季節ごとの野鳥、昆虫、 植物、野草などを観察します。・情報発信: 高橋和也氏らが中心となり、公式サイト「ふじさわ自然通信」で観察会の予定 や、 藤沢市内で見られた動植物の記録・写真を日々更新しています。また、藤沢市が主催する 環境講座などの講師を務めることもあります。気軽に参加できる地域の自然観察コミュニティ として、初心者から愛好家まで親しまれている団体です と。最後に頂いたパンフレットを。以下、パンフレットから抜粋。「大庭城址公園内に残る主な遺構」 ■土塁■等高線で確認できる堀跡■発掘調査で見つかった堀跡「大庭城址公園は憩いの場として広く親しまれていますが、公園内にはここがかつてお城であった頃の名残が良好に保存されています。ここでは5カ所の地点を紹介しますが、この他にもたくさんの土塁や堀が存在しています。公園内にある小さな窪地や高まりも、もしかしたら大庭城の遺構かもしれません。※公園内には立入を制限しているロープがありますが、危険ですのでその外には絶対に 出ないでください。」 「①土塁 この場所は大庭城跡の中でも最も残りの良い土塁で、最大約4mの高さがあります。 これだけの規模の土塁が残る城は神奈川県内にはほとんどありません。 (写真内注記:赤い線が約4m) ②堀跡 番号の位置から東を見ると、大庭城に築かれた堀と土塁を見ることができます。 現在、堀はほとんどが埋まっていますが、相当深い堀であったと考えられます。 ③館址広場 昭和40年代の発掘でこの場所からは4棟の掘立柱建物跡が見つかりました。 現在はこのうち2棟の規模を石柱で表示しています。 ※石柱と実際に建物跡が見つかった位置は異なります。 ④南入口からの道 公園になる以前から存在していた道ですが、平成30年の発掘でこの道の一部区間が 埋まりかけた堀跡を利用して造られていたことが判明しました。」 「大庭城跡の発掘調査■昭和40年代の調査地点■昭和59年の調査地点■平成30年の調査地点■令和3年の調査地点」 「大庭城跡の発掘調査大庭城跡は区画整理事業に伴い昭和43年(1968年)に初めて発掘調査が行われました。その結果、多くの掘立柱建物や掘跡など様々な遺構や遺物が確認されました。その後、城址公園整備や法面整形などでも調査が行われ、令和3年(2021年)の調査では、人工的に平らな場所(平場)を造成した帯曲輪も確認されました。この調査成果がきっかけとなり、大庭城跡は令和3年12月1日に藤沢市指定史跡となりました。これまでの発掘調査は中央の平らな場所と西斜面にとどまり、本丸大庭城の正面である東斜面は現在のところ調査されていません。今後調査が進むことで大庭城がどのような解明に期待がかかります。」 下部「大庭城主郭部分の斜面模式図」 パンフレット表紙「藤沢市 大庭城址公園」。 「公園の概要大庭城址公園は、藤沢駅から北西に約4km、市の中心を南北に流れれて相模湾にそそぐ引地川沿いの大庭の地にあります。この地は古くから人々に大庭城山と呼ばれ、城址としての歴史性とともに緑の山として親しまれてきました。大庭城址公園はその特性を生かして昭和60年3月に供用を開始した広さ約12.6haの総合公園です。主な施設としては、大芝生広場、チビッ子冒険広場、休息広場、館址広場、花の広場等があり、フジ棚のバーゴラや複合遊具、四阿等も 設置されています。園内にはウメやツツジ、バラ、アジサイなどの花木の他、ソメイヨ シノを中心とした300本以上のサクラが植栽されており、お花見の時期には大変賑わいます。」 「大庭城址公園管理事務所」内の展示室にて「大庭城」の歴史そして発掘調査の成果等について多くを学び、帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.07.08
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「大庭城址公園管理事務所」内の展示室の見学を続ける。 次に訪ねたのが「3.大庭城を掘る」。近づいて。「3.大庭城を掘る!大庭城址公園の中を注意深く歩くと、地面が不自然にへこんでいる場所や、逆に盛り上がっている場所があります。それらの多くが大庭城に関連する防御施設の名残です。地面がへこんでいる場所は当時の堀(ほり)が埋まりきらずに残っているもので、土が盛り上がっている場所は土の壁である土塁(どるい)の名残です。大庭城はこれまでに複数回発掘調査がおこなわれており、特に昭和40年代の調査では、様々な中世城郭に関連する遺構・遺物が確認されています。発掘調査では、文献からではおぼろ気にしかその姿を見ることのできなかったお城の実像を、現代に蘇らせることができます。大庭城は扇谷上杉氏が使用した状態を現在に伝える数少ない城郭であるとともに、当時の遺構が良好に残っているということで、城郭の研究者から近年非常に高い評価を受けているお城の一つです。」 「発掘で確認された大庭城関連の遺構」 近づいて。ーーーーーー発掘調査で確認された堀ーーーーーー等高線から存在が確認できる堀発掘調査によって、大庭城では20を超える堀の存在が確認されている。図を見ると、城の中心部である館跡を取り囲むように複数の堀と土塁が配置されており、大庭城が単なる居館ではなく、高度な防御機能を備えた本格的な中世城郭であったことが分かる。石垣や天守はなくとも、まさに「土の城」の実像を伝える貴重な資料なのである。「子供用パネル大庭城の建物大庭城址公園の一番南にある「館址広場」を掘ったところ、4棟の建物が見つかりました。建物はとてもりっぱなものであったことから、ここに城主が住んでいたものと考えられています。またここからは、焼けたお米が見つかっています。」 「1~4号 掘立柱建物」配置図。 1号掘立柱建物(北東から)。 2号掘立柱建物(東から)。3号掘立柱建物(南から)。○炭化米が出土した柱穴。3号掘立柱建物の柱穴から出土した炭化米(左上)とその電子顕微鏡写真(右上・右下)。4号掘立柱建物(南から)。「大庭城の館跡大庭城址公園の最南端の「館址広場」は昭和43年(1968)から昭和45年(1970)にかけて3回発掘調査がおこなわれました。その結果、4棟の掘立柱建物跡・土塁などの遺構や、かわらけ・瀬戸製品などの食器が出土しました。掘立柱建物は合計4棟確認されており、この内2号掘立柱建物を除く3棟は、建物の規模も大きく、また4周に庇(ひさし)が付いていました。このような庇付きの建物は相応の身分の人物が使用していたと考えられており、ここが大庭城の中心的な場所(主郭)であったと考えられています。また、3号掘立柱建物の柱穴からは炭化した米が出土しています。この米を平成28年(2016)に化学分析にかけた結果、15世紀の中頃から16世紀初頭の時期に籾殻が付いた状態で燃えたことが判明しました。土塁は館を囲むような形で築かれており、昭和40年代の調査では南側を除く三方の土塁が、平成30年(2018)の調査では改めて西側の土塁が、令和2年(2020)の調査では新たに南側の土塁が確認されています。このように土塁は館址広場を囲むように築かれており、この場所がいかに重要であったか知ることができます。」 「子供用パネル大庭城の堀大庭城にはたくさんの堀がほられています.この堀は「ローム層」という、オレンジ色の土までほられています。なぜローム層まで掘り下げているのでしょうか?じつはローム層はすべりやすい土なので、お城を守るのにとてもむいているのです。」 堀・土塁 配置案内図。「8号堀周辺の現状(南から)」 「8号堀(東から)」。 「1号堀(南から)」「5号堀(南から)」。 「6号堀(東から)」「9号堀(西から)」「12号堀(西から)」。「22号堀(南から)」。 「第25次調査の成果大庭城跡西側斜面の法面整形にともない、令和2年(2020年)12月14日から令和3年(2021年)4月27日の期間で第25次調査が行われました。等高線の状況から当初の予定として、堀が2本確認されるものと考えていましたが、実際に発掘すると2本の堀のほか、斜面を盛土して造られた**帯曲輪(おびぐるわ)**が存在していたことが確認されました。この調査により大庭城の西側斜面には複雑な防御施設が存在していたことがわかりました。」 中央に「23次調査」時の「22号堀」。「帯曲輪(西から)」。 帯曲輪とは、山城や丘城の斜面の途中に帯状に設けられた平坦地で、・敵の侵入を妨げる・兵士の移動路となる・防御拠点となるという役割を持っていました。調査前は「堀が2本あるだけ」と考えられていましたが、実際には・2本の堀・帯曲輪・急斜面が組み合わされており、大庭城の西側が多重防御になっていたことが判明しました。24号堀(北から)。25号堀(南西から)。「4.台地に刻まれた城山の歴史」展示。「4.台地に刻まれた城山の歴史大庭城が築かれた城山台地上では、戦国時代のお城以外にも様々な時代の遺跡が確認されています。現在のところ、城山で人々の生活が確認されるのは弥生時代になってからと考えられています。弥生時代の遺跡は、1984年におこなわれた公園整備の調査で、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が確認されています。台地での人々の活動が活発になるのは、古墳時代になってからとなります。古墳時代は、大きく前期・中期・後期と分けられますが、中期の遺跡は市内全域でもあまり確認されていません。ところが、城山台地上ではすべての時期の遺構・遺物が確認されています。また奈良時代・平安時代の遺跡も台地の北西側の調査地点で確認されているほか、遺物だけですが、鎌倉時代の資料も出土しています。方形周溝墓弥生時代から古墳時代前期にかけて造られた墓のことです。墓穴の四周を溝で区画した形をしていますが、時には区画溝の中に骨を壺に入れて埋葬することもあります。」 「子供用パネル城山台地の歴史大庭城がある場所は「城山台地」とよばれていますが、ここにはお城ができる前から人が住んでいたことがわかっています。この公園を造った時の発掘では、古墳時代や奈良時代の家やお墓などがみつかっています。」 「公園整備に伴う発掘調査遺構配置図」。 SI:竪穴住居 SD:方形周溝墓「SD05〔古墳時代前期〕(西から)」。 「発掘状況-1」。 「発掘状況-2」。個別に。「SD04〔古墳時代前期〕(南から)」 「SD04 遺物出土状況」 「SI30〔古墳時代前期〕(東から)」 「SI30 遺物出土状況」。 「SI08 遺物出土状況」。「SI08〔古墳時代前期〕(北から)」 「SI22〔古墳時代前期〕(南から)」 「SI07〔奈良時代〕(南から)」「SI19〔奈良時代〕(南から)」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.07
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「大庭城址公園管理事務所」まで戻り、館内の展示品を観る。独り占めの展示コーナー入口。「藤沢市 西部開発事業区域現況模型縮尺 水平=1:3000 垂直=1:2000」 「開発前の大庭地区1970(昭和45)年頃縮尺 水平=1:3000 縮尺=1:2000」 移動して。「大庭城址」に近づいて。 廻り込んで。青緑の部分は沼や水田地帯だったのであろうか!?扇谷上杉氏の家紋竹に二羽飛び雀扇谷上杉氏は藤原北家勧修寺流藤原氏の流れで、鎌倉の扇谷に住したことから扇谷上杉氏と呼ばれるようになった。勧修寺流藤原重房は、丹波国何鹿郡上杉庄を領し、そこを名字の地とした。この重房が鎌倉幕府六代将軍として京都から宗尊親王が迎えられた時、親王に従って鎌倉に下向したのが上杉氏の始まりである。その子頼重の女清子が足利貞氏に嫁して、尊氏・直義を生んだことで、足利氏と密接な関係を持つようになった。頼重には重顕・顕成・憲房らの子がいたが、長子重顕は「元弘の動乱(1333)」に尊氏・直義兄弟に従って活躍した。重顕の家督を継いだ朝定は、室町幕府の引付頭人として主に京都にあった。嫡子朝顕も京都八条に住み、幕府に仕えてその子孫は八条上杉氏といわれた。朝定の養子の顕定は、鎌倉扇谷に住んで鎌倉公方に仕え、扇谷上杉氏の祖となったのであるそして大庭城(神奈川県藤沢市)は、15世紀末に扇谷上杉氏によって築かれた中世の山城(市指定史跡)。相模国東部における上杉氏の重要な拠点でしたが、1512年に北条早雲(伊勢宗瑞)によって攻め落とされました。歴史の概要築城・改修:文明年間(1469〜1487年)に扇谷上杉氏の家宰である太田道灌が改修し、扇谷上杉朝昌(ともまさ)らが在城したとされています。落城とその後:永正9年(1512年)、扇谷上杉氏の城主・朝良の時代に北条早雲の攻撃を受け落城しました。その後、北条氏によって利用・改修されましたが、玉縄城(鎌倉市)の築城に伴い重要性が薄れ廃城となりました と。1.はじめに大庭城跡は、舌状台地の先端部に立地しており、東側には引地川、西側には小糸川が流れる天然の要害です。現在でも公園内には、往事を偲ばせる土塁や堀の痕跡を目にすることができます。大庭城の知名度は、残念ながら高いものとは言えませんが、近年の研究で関東でも数少ない、小田原北条氏以前の姿を残した非常に重要なお城であることが分かってきました。ここでは、これまでに分かっている大庭城について解説したいと思います。「子供用パネルようこそ大庭城へ!今日は大庭城址公園にあそびにきてくれて、ありがとうございます!ここには昔「大庭城」というお城がありました。ほかにも色々な時代の遺跡が、この公園ではみつかっています。いったい、ここはどのような場所だったのでしょうか?下の2人(?)がご案内します。(イラスト部分)上杉朝昌(うえすぎともまさ)「いっしょに大庭城の歴史をべんきょうしようぞ♪」享徳3年(1455年)から勃発した享徳の乱の初期には相国寺鹿苑院の喝食だったが、後に何らかの理由で還俗して扇谷上杉氏の領国支配の一翼を担い、相模七沢城に入った。七沢城は相模中郡の、また後年守備した大庭城は相模東郡の要衝であることから、扇谷上杉氏の両郡支配を実質的に担う立場にあったと考えられる。すぱ郎「よろしくね~」」 大庭城址公園の空撮写真中央から下部が現在判明している「大庭城址」。 「大庭城および扇谷上杉氏関連略年表年号////////西暦///////////////////////主な出来事享徳元年/////1452//////この頃までに、扇谷上杉氏が大庭御厨を所領とする。寛正六年/////1465//////伊勢神宮、大庭御厨からの年貢未進を扇谷上杉氏の家臣、//////////////////////////太田道灌に訴える。文明元年/////1469//////伊勢神宮の荒木田氏経、大庭御厨代官の出口氏・室田氏により、/////////////////////////年貢が横領された旨を、太田道灌に訴える。長享二年/////1488//////扇谷上杉朝昌、山内上杉氏との合戦に敗れ、守備していた/////////////////////////七沢要害(厚木市)を放棄し、大庭城へ移る。明応八年/////1499/////『玉隠和尚語録』に大庭に城郭が存在していた記述がある。永正九年/////1512//// /伊勢宗瑞(北条早雲)、扇谷上杉方の城を攻撃し、岡崎城////////////////////////(伊勢原市・平塚市)や大庭城が落城。永禄二年/////1559//////玉縄北条氏の一族と考えられる福島左衛門が玉縄衆として、//////////////////////////180貫文で大庭を知行。(『小田原衆所領役帳』より)」 「伝承の中の大庭城「大庭城」の名前が文献上初めて登場するのは、天保12年(1841)、昌平坂学問所で編纂された『新編相模国風土記稿』です。この中で地元の伝承として、大庭城は平安時代後期に活躍した大庭三郎景親の居館跡を扇谷上杉氏の家宰である太田道灌が城郭として改修したものの、永正9年(1512)、伊勢宗瑞(通称:北条早雲)により落城したとあります。現在伝わる大庭城のイメージは、『新編相模国風土記稿』の記事を見ても分かるように、すでに江戸時代の後半には出来上がっていたようです。ただし、当時の資料を見ると必ずしもこの伝承が正しいわけではないことが分かります。なお大庭城に関連する伝承は、大庭城の南側に鎮座する舟地蔵や築山、稲荷神社などに残されています。」 この解説板で興味深いのは、・江戸時代にはすでに「大庭三郎景親の館跡を太田道灌が城に改修した」という伝承が 成立していたこと・しかし近年の研究では、その伝承をそのまま史実とは見なしていないこと・大庭城の歴史を考える上で、伝承と史料を区別して捉える必要があることを示している点。つまり、大庭城は単なる「景親の館跡」ではなく、近年の発掘や研究によって、扇谷上杉氏の重要な城郭として再評価されている中世城郭なのです。「新編相模国風土記稿 大庭城蹟「(前略)土人傳て大庭三郎景親の居城なり。後太田道灌暫時居城とし、北條氏の頃はその旗下某在城せりと云う。(中略)修理大夫朝良の時、永正九年北條早雲に攻落さる。是より北條氏の持城となる。」意訳「(前略)大庭の住民には、大庭城は大庭景親の居城であり、後に太田道灌が城に改修して、しばらくの間居城としていた。そして小田原北条氏の頃は配下の某氏が在城していた。」という伝承がある。(中略)上杉朝良の代にあたる永正九年(1512)に北条早雲に攻め落とされた。これ以降、大庭城は北条氏の城となった。」」 このパネルは、前の「伝承の中の大庭城」で紹介されていた『新編相模国風土記稿』の記事の原文を示したもの。ここで注目すべき点は、・大庭城を大庭景親の居城とする伝承・太田道灌が城郭として改修したという伝承・永正9年(1512)に北条早雲(伊勢宗瑞)によって落城したという伝承が、江戸時代に記録されていたこと。しかし近年の研究では、・太田道灌が実際に大庭城を改修したことを示す同時代史料は確認されていない・大庭景親の館と中世城郭の大庭城を直接結び付ける証拠も十分ではないと考えられており、現在では「伝承」と「史実」を区別して扱っているのだ。「子供用パネル大庭城はいつのお城?大庭城は、今から約500年くらい前の戦国時代につくられたお城です。このころのお城がそのまま残っているのは、とてもめずらしいのです。大庭城はナゾの多いお城です。でも最近いろいろな歴史の先生たちが調べて、新しいことがわかってきました。(写真の説明)こんな大きな堀があったことがわかっています!」 「大庭景親」。石橋山の合戦で敗れた頼朝が隠れる伏木の上にまたがる大庭景親。ネットから。 「大庭景親大庭景親(おおばかげちか)は大庭御厨を所領とする武士で、当初源氏に仕えていましたが、平治の乱(1159)以降は平氏に接近し、平清盛の信任を得ました。源頼朝が治承4年(1180)に旗揚げした際、景親は平氏方の総大将として源頼朝と戦い、石橋山の合戦で勝利を得ます。しかし安房国(千葉県南部)に逃れた頼朝が徐々に勢力を拡大し、鎌倉に入ると景親は対抗しきれずに京都へ逃亡を図ります。しかし途中で行き先を塞がれてしまったため、やむなく頼朝に降伏しますが、許されず、片瀬川の河原で斬首されてしまいます。」この解説板は、大庭城の伝承に登場する 大庭三郎景親 の人物紹介。大庭景親 は現在の藤沢市大庭を本拠とした豪族で、1180年の 石橋山の戦い では平氏方として挙兵直後の 源頼朝を破った。その後、頼朝が勢力を盛り返して鎌倉に入ると景親は敗れ、最終的に片瀬川付近で処刑されたと伝えられている。大庭城の伝承では、この大庭景親の居館跡が後に城郭化されたとも語られていますが、この展示パネルでも説明されているように、現在の研究では伝承と史実は分けて考えられているのだ。「舟地蔵大庭城の南に鎮座しています。大庭城を攻める際に合戦の犠牲となった老婆を祀っているとの伝承があります。伝承の詳細は、現地にある説明板をご覧ください。」 「築山築山(つきやま)は大庭城の南に位置する丘陵です。この山は伊勢宗瑞(いせそうずい)が大庭城を攻めた際、なかなか矢が届かなかったので一夜にして築いたという伝承があります。」 「舟地蔵」の南、熊野神社(大庭神社舊蹟)の北側の○が「築山(つきやま)」と考えられているようだ。 模型にも手前に「築山」の場所が示されていた。。 「大庭城の実像大庭城が築城された室町時代の記録に『玉隠和尚語録(ぎょくいんおしょうごろく)』というものがあります。この中で、玉隠和尚が明応8年(1499)に扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)という人物の三十三回忌の法要をおこなった際の言葉が記載されていますが、それを見ると大庭城と大庭景親の館跡は別の場所にあること、大庭城の城主は扇谷上杉朝昌(おうぎがやつうえすぎともまさ)という人物であったことが分かります。扇谷上杉氏は、享徳元年(1452)頃までには、大庭御厨(おおばみくりや)を支配していたことが知られており、関連する古文書が伊勢神宮などに残されています。」 「大庭御厨(おおばみくりや)」の推定範囲と、平安時代から中世前期にかけての地名を示した地図 。凡例赤色の線→ (推定)大庭御厨の範囲橙色の線→ 現在の市境白いラベル□→ 文献に登場する平安時代~中世前期の地名地図からわかること大庭御厨は伊勢神宮の荘園で、その範囲は現在の藤沢市西部から茅ヶ崎市北部、寒川町の一部にまで及ぶ広大なものであった。地図には、・大庭郷・羽鳥郷・石川郷・長後郷・渋谷郷・高座郡・田村郷・稲荷村・遠藤郷・村岡郷・善行郷・打戻郷などの古い地名が記されています。大庭城との関係地図の中央付近に「大庭郷」があり、その中心部に大庭城がある。つまり大庭城は、大庭御厨という広大な伊勢神宮領を支配するための重要拠点として築かれた城であったことが分かる。現代の地名で見ると、推定範囲はおおよそ、・東:境川・西:小出川・南:相模湾・北:寒川町付近に囲まれた地域です。現在の行政区分では、・藤沢市の大部分・茅ヶ崎市北部・寒川町南部を含む広大な地域になるのだ。現在の私の住居は「大庭郷」に含まれていたことが解かるのであった。 「子供用パネル大庭城はだれのお城?大庭城がいつ築城されたかは、まだあまり分かっていません。ただ上杉氏という一族が築いたのではないかと考えられています。ちなみにこの一人に上杉朝昌(うえすぎともまさ)という人がいたことが当時の記録に残っています。」 幟「湘南の名城 大庭城」。 扇谷上杉氏の家紋「竹に二羽飛び雀」 「扇谷上杉氏と朝昌上杉氏は鎌倉時代後期、初代・重房が丹波国上杉荘を領したことに始まります。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の外戚であったことから、幕府内に大きな影響力を持つようになり、一族は様々に分家して勢力をのばします。扇谷上杉氏は、顕定が鎌倉の扇ヶ谷に居を構えたことに由来します。応永23年(1416)に起きた上杉禅秀の乱では、扇谷上杉氏は鎌倉公方や関東管領である山内上杉氏と協力し、上杉氏の有力氏族であった犬懸上杉氏を滅ぼします。その後、山内上杉氏のもとで力をつけた扇谷上杉氏は相模国守護職に就任します。この相模国守護職は朝興の代まで、嫡流に継承されることになります。朝昌は『玉隠和尚語録』に出てくる持朝の子であり、父・持朝、兄・顕房と定正、甥・政真、子・朝良、孫・朝興が相模国守護職に就任しています。このように扇谷上杉氏の中でも嫡流と血縁上最も近しい関係であることから、相模国の重要拠点である大庭城の守備を任されていたものと考えられます。」 「扇谷上杉氏略系図」。 「扇谷上杉屋敷跡の碑鎌倉市扇ガ谷に建つ扇谷上杉屋敷の碑。関東管領は上杉氏だと山内上杉氏と犬懸(いぬかけ)上杉氏のみが就任できたので、石碑にあるような扇谷上杉氏が管領に就任したという事実はありません。」 ネットから「扇谷上杉管領屋敷迹内大臣藤原高藤十三代ノ裔ニ重房アリ。宗尊親王ニ從ヒテ鎌倉ニ下リ、食邑ヲ丹波國上杉荘ニ賜リテ、始メテ上杉氏ヲ稱セルガ、其曽孫憲顯、管領基氏ノ執事ト為リテヨリ一族勢力ヲ關東ニ占ム。門葉數家、重房五世ノ孫、顯定扇谷家ヲ創ム。文明ノ交、扇谷家六代ノ主、定正、賢臣太田道灌ヲ用ヒテ家聲ヲ揚クルヤ、世ニ宗家山内ト共ニ兩上杉又ハ兩管領ト稱ス。此ノ地即チ其ノ邸址ナリ。大正十一年三月建 鎌倉町青年團」 説明【藤原高藤(たかとう)より数えて、十三代の子孫に藤原重房(しげふさ)という人がおり、鎌倉6代将軍となった宗尊親王(むねたかしんのう)に従って、鎌倉に行きました。そして、京都の上杉に領地をもらったので、名前を上杉としました。その3代後の上杉憲顕(のりあき)は、将軍基氏(もとうじ)の高官となり、一族の勢力は関東に広がりました。さらに重房から5代後の顕定(あきさだ)は、扇谷家を起こしました。文明(1469‐1487)頃、扇谷家の6代目の定正(さだまさ)は、太田道灌を用いて勢力を拡大しました。世間の人々は、山内(やまのうち)家と共に、両上杉または両管領(かんれい)と言いました。この場所がその屋敷の跡です。】「子供用パネル上杉氏ってどんな一族?上杉氏は今から約750年前の鎌倉時代に京都から鎌倉に来た一族です。室町幕府の将軍である足利氏の家来として活躍し、関東で2番目の地位をきずきます。」 上杉氏の家紋「竹に二羽飛び雀」※家紋とは、家をあらわすマークのことです。ちなみにスパ郎は、この雀がモデルになっています。「悲劇の武将 太田道灌『新編相模国風土記稿』の中で、大庭景親の館をお城として改築したとされる太田道灌とはどのような人物だったのでしょうか。扇谷上杉氏定正の時、家宰・相模国守護代として活躍したのが太田道真・道灌親子です。特に道灌は、文明8年(1476)に起きた長尾景春の乱の際には、破竹の勢いで長尾氏の諸勢力を破り、相模国北西部における扇谷上杉氏の地位を確たるものとします。しかし文明18年(1486)7月26日、太田道灌は突如として扇谷上杉定正により相模国糟屋館で暗殺されてしまいます。この時、道灌が叫んだ「当方滅亡!」の言葉は有名です。扇谷上杉氏の勢力は道灌の死後衰退し、当時新興勢力であった伊勢氏(2代後の時に「北条」と改姓)により次々と拠点を落とされ、天文15年(1546)、河越城の戦いで当主・朝定が討ち死にすることで実質的な滅亡を迎えることになります。」「長尾景春の乱山内上杉氏の家宰である長尾景春が起こした乱。父・景信が死去した際、主人の山内上杉氏が家督相続を認めたものの、家宰の職は相続させなかった。これに不満を感じた景春が反乱を起こし、山内上杉氏と扇谷上杉氏の領国は大混乱となった。」 「太田道灌」像。 近づいて。ネットから。「太田道灌の首塚伊勢原市の大慈寺近くにある太田道灌の首が埋葬されたとの伝承が残る塚。この他に同市の洞昌院には荼毘に付した胴を埋葬したと伝わる塚があり、鎌倉市の英勝寺にも道灌の首塚があります。」 ネットから。太田道灌は文明18年(1486)7月26日、現在の伊勢原市上粕屋にあった糟屋館で主君の扇谷上杉定正によって謀殺されたと伝えられています。 「北条早雲像(堀内天嶺模写図)[原本所蔵 小田原城総合管理事務所]」。【初代】北条早雲(伊勢宗瑞)👈️リンク をネットから。「2.「土の城」と「石の城」」展示コーナー。 「2.「土の城」と「石の城」お城と言って多くの方々がイメージするものが、天守閣(てんしゅかく)と石垣を持つものだと思います。大庭城にも天守閣と石垣は存在していたのでしょうか。実は関東地方では、戦国時代のお城は、**土塁(どるい)と空堀(からぼり)で構成された「土の城」**で、大庭城もその例に洩れません。石垣と天守閣を持つ「石の城」は江戸時代になってから登場するものです。なおこの管理棟付近にある石垣について、当時のものかとのお問い合わせがよくありますが、これは公園整備の際に積まれたものであり、大庭城とは関係ありません。」 「子供用パネル大庭城はどんなお城?城というと「天守閣」や「石垣」というイメージがありますよね。でもあれは江戸時代になってからのお城です。大庭城は地面を掘って造った「堀」と、そこで出た土をカベのようにつみ上げた「土塁」というもので、お城を守っていました。公園の中には堀や土塁がまだ残っています。」 「「土の城」と関東ローム層神奈川県内の「土の城」と切っても切れない関係にあるのが、関東ローム層(赤土)です。藤沢周辺では、地上から1mほど掘り下げると、黒土からローム層へと変化します。この土の特徴として、非常に滑りやすい点が挙げられます。土の城は、堀をローム層まで掘り下げ、その際に出た残土を突き固めて土塁(土の壁)とします。堀はローム層に掘り込まれているため、一度落ちたら登ることが容易ではありません。これらの堀は当初水が無い空堀でしたが、北条氏の時代になると、堀内部に小さな区画を設けた「障子堀」が登場します。見た目が障子の桟のように見えるためこのような名称がつきました。堀の中に小さな区画を設けることで、雨水などが溜まり、より一層身動きが取れないような工夫がしてあります。」 「大庭城の斜面平成30年(2018)に館址広場の西斜面を発掘した際、確認された大庭城の切岸。斜面を急角度に削り出し、ローム層を露出させています。」 「山中城の障子堀[静岡県三島市]」。 ネットから。「数の少ない「石の城」東日本で天守閣と石垣を持つ本格的な「石の城」が神奈川県に築かれたのは、天正18年(1590)に 豊臣秀吉 により築かれた 石垣山城 です。ただし、これ以前にも津久井城(相模原市)や八王子城(八王子市)など部分的ではありますが、石垣を持つ城はありました。関東地方には1000を超える戦国時代のお城や館がありますが、その中で石垣を持つお城は16城のみです(2020年現在)。いかに少ないかが分かるのではないでしょうか。」 「津久井城の石垣津久井城は鎌倉時代に地元の豪族である筑井氏により築城されたと伝わっています。城の全体は土の城ですが、部分的に石垣を採用しています。石垣山城が築城されるまでは、神奈川県内で唯一石垣を持つ城です。」 ネットから。「石垣山城の石垣天正18年(1590)に豊臣秀吉により築城された、東日本の城で初めて天守閣を持ったとされています。後世に改修されていないので、戦国時代の石の城を知るためには欠かせない重要な城です。」 ネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.06
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県道43号線・藤沢厚木線に出て右折。そして次に訪ねたのが県道43号線の舟地蔵交差点角に立つ「舟地蔵」。 「藤沢市指定重要文化財 史跡 大庭の舟地蔵伝承地 平成31年2月1日指定この地蔵尊は、台座が舟型となっていることから、「舟地蔵」と呼ばれている。永正9年(1512)の夏、北条早雲(伊勢宗瑞)は鎌倉の扇谷上杉氏の居城であった大庭城を攻めたが、北条軍と大庭城の間には引地川がつくった大きな沼があり、なかなか攻め入ることができなかった。やがて、北条軍は、近くに住むボタ餅売りの老婆から、沼に引地川の水を取り入れている取入口の堰を止めて、下流の堰を開けば水が干上がることを聞き出したうえ、口ふさぎとして老婆を切り殺した。かくして、北条軍はようやく沼を越えて、大庭城を攻め落とすことができた、と伝わる。この舟地蔵は、殺されたあわれな老婆を供養するために、土地の人々がのちに城の近くに建てたという言い伝えがある。舟地蔵が建てられた時期は後世(江戸時代)に降り、その後この地区の開発により、何回かの移転を経て現在地に落ち着いた。この周辺が上杉・北条両軍の激戦の地であったこと、また引地川の水が昔より周辺を潤していたことを今に伝える史跡である。 藤沢市教育委員会」 「お参り頂いている皆様へ日頃から舟地蔵にお参り頂き、また数々のお供物やお賽銭を頂戴し感謝申し上げます。そのお供物についてお願いがございます。以前より食べ物や飲み物がカラス等により荒らされ、苦情が寄せられております。大変恐縮ですが、今後は食べ物、飲み物等のお供えはお控え頂きますようにお願い申し上げます。」 「舟地蔵」を正面から。 近づいて。ふくよかな地蔵尊。この地蔵の一番の特徴は、その台座が舟の形になっているところである。珍しい形ではあるが、稀なものではなく、おそらく“無事に三途の川を渡れるように”という意味合いで作成されたものではないかと考えられているのだと。藤沢市のホームページには舟地蔵伝説👈️リンクの紹介と、その検証された内容が書かれています。「北条軍がこの城を攻撃した際、城の前面と左右に広がる田のあたりは一面の沼地であった。攻略しかねた北条軍の武将達は、軍議を重ねたが、いたずらに対陣の日が過ぎていった。ある日、城の対岸の稲荷(小字名)でボタ餅を売っていた老婆に北条方の武将の一人がどうしたらいいものかと相談したところ、「わけはありません。堤を切れば水は干上がります」と堰(せき)の場所まで簡単に教えてくれた。喜んだ武将は、大事がもれるのを恐れ、老婆を斬り殺し、その夜のうちに堰を壊したので、満々と城の周囲に湛(たた)えられていた水は、すっかり引いてしまった。北条勢の正面からの総攻撃により、さしもの大庭城も落城してしまった。哀れな老婆の死を悼んだ土地の人々が城跡のそばに地蔵様を建てて祀(まつ)ったのが、舟地蔵である。地蔵様は、左手に宝珠をもっているが、土地の人々は、これは宝珠ではなくボタ餅だと言っている。また、堰のあったと言われる現在の柏山稲荷の付近は、大庭城の搦手(からめて)で、一旦有事の際には堰を閉じれば大庭の耕地は一面の湖と化し、大庭城をして難攻不落の名城とする使命を有した要害で、重臣の吉田将監(しょうげん)に守らせたと言われ、ショキヤシキ(将監屋敷)の地名が残されている。ほかに、大庭城の南、小糸川を隔てた台地には、「築山(つきやま)」という地名が残され、城をせめあぐねた北条勢が、大庭城に近付くために築いた山であると言われる。また、老婆がボタ餅を売っていた場所は、大庭城址の対岸にある「だんごくび」というところであるという。」 建立時期は江戸中期だという。地蔵尊は城の近くに建立されたというが、開発により何度か移転した後、現在地に落ち着いたとのこと。そしてこの県道43号線・藤沢厚木線の交差点名は・・・。「舟地蔵(Funajizo)」。 「引地川」に合流する「小糸川」を見る。「小糸川」は、藤沢市遠藤地区の永山橋付近に端を発し、大庭遊水地南側の城下橋上流で二級河川引地川に合流している。「舟地蔵」交差点の北側から、この後に訪ねた「舟地蔵公園」を見る。 「舟地蔵」交差点の手前、東側の広場・多目的ゾーンは「大庭遊水池」となっているのだ。この辺り一帯は、舟地蔵伝説にも書かれていたように、昔から引地川の流れが洪水時に川道から氾濫するいわゆる氾濫原で、しばしば洪水被害を蒙って来た。とくに建設の契機に至った大きな洪水は、昭和51年(1976)9月の集中豪雨であった。この豪雨によって、引地川周辺市街地の浸水面積45ha、353戸が浸水被害を受けた。さらに流域の都市化に伴いさらに大きな洪水被害を及ぼす恐れがあり、洪水対策として昭和55年(1980)から大庭遊水地の整備に着手し、平成5年(1993)3月に完成したものであった。この結果、平成10年(1998)8月、1時間当たり56mmの降雨があったが、浸水被害は2戸にとどまったという。遊水地の最大貯留量は約26.5万立方米。 といってもピンと来ない。東京ドームの容量は124万m3であるから、その2割程度ということになる。意外に小さいようであるが、遊水地は一時的に流水量を調整するものであるから十分なのであろうか!? 「大庭遊水地の機能大雨の時、遊水地は洪水を溜めて、水害から人々の暮らしを守ります。"遊水地"とは、河川堤防の一部区問を低くしておき、そこからあふれた洪水を溜め、地域への水害の被害を軽減させるためにつくられた池のことです。遊水地は普段、公園・スポーツ広場・緑地などに利用ができ、都市生活における人々の潤いの場としての活用もできるのが大きな利点です。引地川の大庭遊水地は神奈川県の総合治水対策の一環として昭和58年から着手され、平成5年に治水機能が完成しました。施設概要 位置 藤沢市大庭地内面積 1 1 .5ha (湛水面積10.3ha)洪水調節量 50m3/sec貯水容量 284,000m3貯水池H. W. L TP7.70m洪水調節方式 越流堤による自然越流方式遊水地施設越流堤 堤長 150m周囲堤 堤頂高 T. P8.60m 堤幅 4.0m 法勾配 3割自然排水樋管 1 .50mX1.50m」 この場所は、大庭城があった頃は、大きな沼地となっていたようであった。 「舟地蔵」交差点を渡り、「大庭城址」を振り返る。城山の標高は40.9mであると。 「舟地蔵公園」案内板。舟地蔵公園は、緑の入口、花の入口、街角の入口など5か所の入口がある自然豊かな公園。広場にはメタセコイアがシンボルツリーとして植えられており、周りには花壇が整備されている。遊具や多目的広場は子供たちで賑わい、草花鑑賞やウォーキングなど多くの方々に利用されています。また、舟地蔵公園はフジロード(引地川・フジ史跡ロード)に指定されています。近づいて。「藤沢市立 舟地蔵公園」 と刻まれた石碑。園内「出会いの広場」中央のメタセコイアの巨木。晩秋になれば(以前の写真)。緑豊かな「芝生広場」を見る。「おおば 古今東西」。 「おおば 古今東西 — 湘南大庭地区の歴史 ー相模野台地の南端部、引地川流域の低地、南部の湘南砂丘から成り、台地上の広大な野原が大庭の地名の由来とされます。かつては相模国高座郡に属していました。石川の南鍛冶山遺跡から奈良~平安時代の大集落跡が発掘され、延長5年(927)の『延喜式』に大庭神社、承平年間(931~38)の『和名抄』に大庭郷の名が見えます。大庭景親は当地の有力武士で、治承4年(1180)の石橋山の合戦で、平家方の総大将として源頼朝を破りました。大庭氏らが地盤とした大庭御厨は、12世紀初め~15世紀半ばに存続した広大な伊勢神宮領で、その範囲は現在の藤沢市南半部から茅ヶ崎市全域に及びました。御厨の名となった当地は大庭本郷と呼ばれ、城南に残る城の地名は在地武士の居館跡、小糸・台谷・城の神明社は伊勢神宮の所領経営の拠点だったと考えられます。大庭城は、15世紀末の扇谷上杉氏の居城で、永正9年(1512)北条早雲に攻め落とされました。現在城址公園に土塁や空堀が残り、落城にまつわる舟地蔵の伝説も伝わっています。江戸時代の大庭村は、折戸・稲荷・台・谷・入・小糸の6集落から成り、天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』に家数171軒と記録されています。明治34年(1901)からの県下初の耕地整理で、引地川流域の水田が整然とした姿に変わり、昭和42年(1967)に始まった市の西部開発事業による宅地造成で旧観が一変。昭和50年(1975)以降に湘南ライフタウンへの入居者で人口も急増しました。 平成20年(2008)3月 藤沢市教育委員会」 「大庭御厨」👈️リンク の範囲。その広大な範囲は、現在の神奈川県藤沢市から茅ヶ崎市にかけての一帯に及び、伊勢神宮の記録『天養記』などにより以下の四至(境界)が示されています。・東の境界:俣野川(現在の境川)・西の境界:神郷(現在の寒川神社周辺の社領)・南の境界:相模湾(海)・北の境界:大牧崎(現在の藤沢市亀井野・円行・湘南台駅周辺の丘陵地帯) 現在地はここ。「街区案内図」。 詳細の番地まで細かく記載されて。個人情報満載!!。防災用マップ。南北が逆転しているマップ。「指定避難所」の位置が示されていた。「舟地蔵」交差点まで戻る。 「舟地蔵」交差点は、「小糸川」に架かる橋の上に。 橋の名は「大庭橋」。 「大庭城址公園管理事務所」に向かって進む。旧家の門は立派な「薬医門」であっただろうか。 薬医門の特徴この門には次の特徴が見られます。・屋根が大きく前方へ張り出している・切妻屋根・正面に主柱が2本立つ・その後方に控柱(ひかえばしら)がある構造・屋根を4本の柱で支える形式・武家屋敷や寺院、旧家でよく用いられる薬医門は鎌倉時代から発達した門形式で、名称の由来には諸説ありますが、もともと医師の家に多かったためとも言われているのだ。この門は、・銅板葺き(緑青が出た屋根)・白壁・黒い木部・手入れの行き届いた庭木が調和しており、旧家や格式ある邸宅にふさわしい落ち着いた雰囲気を感じたのであった。その先、月極駐車場の奥の隅にあった「小社」。この小社の屋根は、前の門とは異なり、「切妻造(きりづまづくり)」を基本とした「反り屋根(むくり・反り付き)」。 巨大な休耕田か?そして「大庭城址公園管理事務所」まで戻る。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・少し脱線しますが、ブログを書いている時、参照ページの和暦と西暦の読み替えをして理解を深めたい場合がよくあるのです。その覚え方について先日テレビでやっていましたので紹介させていただきます。一部は私の追加もありますが。・明治○○年=〇〇+67+1800⇔明治30年=30+67+1800=1897年・大正○○年=〇〇+11+1900⇔大正10年=10+11+1900=1921年・昭和□□年=□□+25+1900⇔昭和25年=25+25+1900=1950年・平成△△年=△△+88+1900⇔平成15年=15+88+1900=2003年・令和●●年=●●+18+2000⇔令和 8年= 8+18+2000=2026年■和暦⇒西暦 下記の数字をたす・➕️ 西暦⇒和暦 下記の数字をひく・➖️■67、11、25、88、18の覚え方【みな(67)でいい(11)ふたご(25)のはは(88)をいわ(18)う】 と。 また令和の18はれいわ(018)であるとも。←覚えやすい!! もちろん、それぞれ元年は1とする と。なかなか、覚えるのが難しそうですが。読者の皆様、もっと覚えやすい方法があれば書き込みをお願いいたします。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.05
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そして広場の右側奥、石の標柱が並ぶ場所に到着。「堀立柱建物址(ほったてばしらたてものし)大庭城は、台地上を東西に横断する三本の空堀によって、一の郭、二の郭、三の郭、四の郭にわかれています。ここは、最南の郭にあたり、北縁の空堀によって、北側の郭と区画されています。周囲には、土塁の跡が部分的に見られ、東斜面には腰郭、西斜面には二段の空堀や帯状の腰郭が残っています。この石柱は、昭和43年の発掘調査で確認された高床建築の柱穴の配列(堀立柱建物址)を示したもので、実際の柱穴は現地表下50cmに保存されており、これは原位置ではありません。このほかにもいくつかの遺構が発見されていますが、この郭が大庭城のなかで、どのような役割をはたしたかは、今後の全面的な発掘調査をまたなければわかりません。」 「柱位置表示石」をカメラで追う。現在地は下図の「本郭」内部 と。ズームして。実際の柱穴は現地表下50cmに保存されているとのこと。「現地表下(げんちひょうか)」とは、現在実際に地面がある表面(現況地表)から見て、垂直方向に下がった地下の深さを指す専門用語であるようだ。4棟の建物跡であろうか?実際に見つかった場所は現在の復元跡よりも東寄り(写真の黄線辺り。南向きに撮影)。建物跡は4棟発見されたが、向きや柱間にバラつきがあるので、それぞれ違う時代に建てられた可能性もある。 と。移動して。建物想像図をネットで探したが!??振り返って。かつては、このあたりにも大庭景親がいたのであろうか。4号組立柱建物(南から)の発掘調査時の写真。3号掘立柱建物の柱穴から出土した炭化米(左上)とその電子顕微鏡写真(右上・右下)。「井戸跡」と考えられている と。 なんの説明板もなかったが・・・??その先に四阿(あずまや)。平坦な本郭・館址広場の外れが前方に見えて来た。右手にあった石碑。「大庭城蹟」碑。「此地大庭景親ノ居城ト云フ、後上杉定正修メテ、居城セシガ、永正九年子朝良ノ時、北条早雲ニ政略サレ、是ヨリ北条氏ノ持城トナッタ。廃城ノ年代未詳空塹ノ蹟等、当代城郭ノ制ヲ見ルニ足ルモノガアル。昭和七年九月 神奈川縣」現代文では【ここは大庭景親(おおば かげちか)の居城であったと伝えられています。後に上杉定正(うえすぎ さだまさ)が修築して居城としましたが、1512年(永正9年)、その子である朝良(ともよし)の代に北条早雲(ほうじょう そううん)に攻略され、それ以降は北条氏の支城となりました。廃城となった時期は詳しく分かっていませんが、空堀(からぼり)などの跡が残っており、当時の城づくりの様子を知る上で十分な遺構を留めています。】「大庭景親」の文字をズームして。 その横にあったのが石灯籠の屋根のような部分。石碑の裏側には文字等はなかった。比較的新しい?「南口出口 県道厚木線・舟地蔵公園方面」案内板。 「大庭城蹟」碑を振り返って。さらに進むと、急な下りの「丸太階段(まるただんかい)」が現れた。 「丸太階段(まるただんかい)」から枯れ葉の積もる坂をさらに下る。そして再び丸太階段が。右手にはアルミフェンス。右手にあったのが「小さな社」。石段の上には石鳥居もあった。平成元年二月吉日と刻まれていた。さらに下って。ズームして。神社の名前は??稲荷神社であっただろうか。フエンスがあるため社の前には行けなかった。さらに坂道を下る(ピンボケ)。前方に「南口出口」が現れた(ピンボケ)。「大庭城址公園の概要この大庭城山は、古くは縄文時代、弥生時代、古墳時代から奈良・平安時代まで、引きつづいて人々の生活舞台となり、中世の山城跡としても広く知られています。藤沢では、大庭城山のこのような歴史性と、豊かな自然に留意し、これを市民の財産として残すために、公園とする計画をすすめました。この公園は、西部開発事業の協力を得て、3.8haが提供され、その後、面積を11.8haにひろげ、昭和53年度に総合公園として都市計画決定し、事業認可されたものです。 藤沢市役所公園課 TEL.0466-25-1111」 ひたすら下って来た「南口出口」を道路側から振り返って。「大庭城址公園」と。「「址」「蹟」「跡」」の違いは?「址」「蹟」「跡」は、いずれも「建物や過去の出来事のあと」を意味しますが、現在は原則として「跡」を使うのが一般的です。厳密な意味の違いと使い分けは以下の通りです。1. 跡(あと)最も一般的に使われる漢字です。建物がなくなった場所(例:城跡)だけでなく、足あとや通った道筋など、広く「何かが存在したしるし」全般を指します。現代の常用漢字であるため、公的な表記や案内板の多くはこちらに統一されています。2. 址(あと / し)建物や城などの「土台」「基礎」があった場所を強調する漢字です。・使われ方: お城や寺院などの跡を「城址(じょうし)」「廃寺址」と表記する際に 使われます。・現状: 常用外漢字のため、行政や学校教育では「跡」への書き換えが進んでいます。3. 蹟(あと / せき)偉人の業績や歴史的な出来事が残した「足あと」や「事績」を指す漢字です。・使われ方: 「史蹟」「旧蹟」「事蹟」など、歴史的な価値や記録を強調したい場合に 使われます。・現状: 「蹟」も常用外漢字であり、文化財保護法などの公的な指定用語を除いて、 一般的には「跡」と書かれることが多くなっています。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.04
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この日は6月14日(日)、6月6日(土)に参加した歴史講演会「大庭城ーその役割と衝撃の真実」で学んだことをブログにアップしましたが、今まで持っていた大庭城に関する知識が、現実のかなり異なっていたことに気がついたのであった。よってこの日は、それを自分の目で確認するために「大庭城址」へ向かったのであった。自宅から車で20分強で、「大庭城址公園 駐車場」に到着。30台程停められる広さの無料駐車場。「大庭城址公園 」位置図をネットから。大庭城址公園は、藤沢駅から北西に約4km、市の中心を南北に流れて相模湾にそそぐ引地川沿いの大庭の地にあります。駐車場から石段を上がった場所には、「大庭城址公園管理事務所」があった。ここには、大庭城に関する資料が展示されていた。入館は無料で大庭城のパンフレットも置いてあった。大庭城のジオラマもあるので、当時の城郭の様子が分かるのであった。「大庭城址公園管理事務所」内の「大庭城に関する資料展示」は帰路に立ち寄ることとし「大庭城址公園」向かって進む。 「大庭城址公園管理事務所」を振り返って。新緑の美しい石垣に囲まれた石畳の坂道を登って行った。この石垣は、この公園の造成時に作ったもので、「大庭城」時代のものではないと、先日の講演会で学んだのであった。 坂道の横には様々な花が。「ガクアジサイ」。 こちらは「キンシバイ(金糸梅)」。 近づいて。キンシバイ は、オトギリソウ科オトギリソウ属の半常緑小低木。中国原産で、和名は中国名の「金糸梅」に由来し、これは5枚の花弁を梅に、長く突き出た雄蕊を金の糸に喩えたものである と。さらに坂を上って行った。前方に、「大庭城址公園」の建物が見えて来た。 「文化財ハイキングコース案内板大庭の歴史を訪ねて藤沢市の西にある新しいまち・湘南ライフタウン。稲荷台地に沿って流れる引地川の両岸には田園風景が一眼に広がり、季節の移ろいもひときわ美しいところです。大庭地区は、中世の城、大庭城が存在した所として知られ、かって縄文・弥生時代から人々が集落を営んでいた所でもありました。平安時代後期(12世紀頃)には、桓武平氏の流れをくむ鎌倉権五郎景政が、大庭を中心とした広大な所領を開発し、伊勢神宮に寄進しました。この土地が大庭御厨(おおばみくりや)です。大庭城は、鎌倉権五郎景政の子孫が後に大庭姓を名のり、源平合戦で有名な大庭三郎景親が居城したのが始まりといわれ、室聞時代中頃(15世紀後半)には扇谷上杉氏の執事、太田道灌が本格的な築城を行ったと伝えられています。扇谷上杉氏の守る大庭城は、永正9年(1512)、北条早雲に攻められて落城し、その後は北条氏の支配下に入りました。大庭橋協の舟地蔵は、この時の落城にまつわる悲しい伝説があります。やがて、北条氏は豊臣秀吉に滅ばされ、廃城となったようです。現在は、城址としての歴史性や緑を生かした大庭城址公園ができ、市民のいこいの場として親しまれています。また、裏門・ニ番構・駒寄などの地名が、大庭城の名ごりとして、いまも使われています。大庭城址周辺コースの文化財① 宗賢院(そうけんいん)② 市指定・台谷戸稲荷の森(だいやといなりのもり)③ 熊野神社(旧大庭神社跡)(くまのじんじゃ きゅうおおばじんじゃあと)④ 舟地蔵(ふなじぞう)⑤ 大庭城址公園(おおばじょうしこうえん)⑥ 熊野神社と市杵島神社(くまのじんじゃ と いちきしまじんじゃ)⑦ 市指定 寛文12年庚申塔(ししてい かんぶん12ねん こうしんとう)⑧ ーーーーーー⑨ 佐波神社(さばじんじゃ) 今までは、ここで間違えていたのであった。左へと進む「竪穴式住居跡広場」の方向も、「大庭城址」と考えていたが、これまでの調査で、この方向は、「大庭城址」ではなく、「館址広場」方向が「大庭城址」であることを先日の講演会で学んだのであった。 「館址広場」ではなく「大庭城址・館址広場」としてくれてば、真っ直ぐ進むと「大庭城址」の方向と理解できるのではと我儘にも。 こちらが「原始・古代の集落この台地上には、縄文・弥生・古墳・奈良・平安時代など各時代の遺物が広く散布しており、大庭城が築かれる以前から、人々の生活舞台となっていました。これまで数回におよぶ部分的な発掘調査でも、縄文時代の集石遺構をはじめ、弥生時代後期から古墳時代にかけての竪穴住居や方形周溝墓、さらに奈良・平安時代の竪穴住居などが、豊富な生活用具(土器・石器・鉄製品・装飾具等)をともなって、数多く発見されています。これらの貴重な資料は、特に弥生時代以降の人々が、東側の引地川や西側の小糸川流域に水田を開き、この地に大規模な集落生活を営んでいたことをもの語っています。」 「藤沢市 大庭城址公園」の案内図この案内板の後ろの道を進むと「大庭城址」と思い込み、「藤棚・パーゴラ」の方向に進んでいたのであった。以前に訪ねた時の「パーゴラ」の写真を。パーゴラ(pergola)・住宅の軒先や庭に設ける、つる性の植物を絡ませる木材などで組んだ棚であることを知ったのはこの時なのであった。 公園の概要大庭城址公園は、藤沢駅から北西に約4km、市の中心を南北に流れて相模湾にそそぐ引地川沿いの大庭の地にあります。この地は古くから人々に大庭城山と呼ばれ、城址としての歴史性とともに、緑の山として親しまれてきました。大庭城址公園はその特性を生かして昭和60年3月に供用を開始した広さ約12.6haの総合公園です。主な施設としては、大芝生広場、チビッ子冒険広場、休息広場、館址広場、花の広場等があり、フジ棚のパーゴラや複合遊具、四阿等も設置されています.園内にはウメやツツジ、バラ、アジサイなどの花木の他、ソメイヨシノを中心とした300本以上のサクラが植栽されており、お花見の時期には大変賑わいます。この日はもちろん真っ直ぐに進む。「ソメイヨシノ」の大木が並ぶ「大芝生広場」。 4月になれば。「大庭城址公園」案内図。 「大芝生広場」には、家族団らん用のテントが一つ、独り占め。 正面のロータリー風路地に向かって進む。「大庭城址」碑。 裏面には「大庭城址公園開園記念昭和60年4月11日寄贈 藤沢市城南5-4-3 端山進吉」と。 パブリックアート。楽し気にくつろぐ母子像。廻り込んで。「自然」作者:熊坂 兌子(くまさか・なおこ)。そして右に進むと、「大庭城址」案内板が左手に。 「大庭城址大庭城は、平安時代の末期(12世紀末)、大庭荘(おおばのしょう)を本拠としておこった関東平氏の雄、大庭氏の拠点であったと伝えられますが、明らかな記録はなく、室町時代中頃(15世紀後半)になって、扇谷上杉定正の執事太田道灌が、本格的な築城を行ったとされています。その後、上杉朝良のとき、北条早雲によって攻略され、以後、小田原北条氏の支配下に置かれました。そして、天正15年(1590)、小田原北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、大庭城は、廃城となったようです。現在残されている土塁・空堀などの城址の構えには、小田原北条時代の改修があったものと考えられますが、雄大でかつ綿密に設計されていたことは、築山、裏門、ニ番構、駒寄などの地名からもしのばれます。」 その先にあったのが「からぼり」碑。これは、開園時に設置されたものであろう。そして「空堀」・「薬研堀」。先日の講習会で戴いた資料によると「3号堀」か? 右側奥にあったのが「チビッコ冒険広場」。ズームして。2013年にリニューアルした遊具広場。小学生でも楽しめそうなちょっとかわった遊具に人気があると。さらに「大庭城本丸?・館跡」方向に向かって進む。「南口出口」案内板を見ながら。南口入口・出口があることも講演会で知ったのであった。 さらに「南口出口」に向かって。 右手にあった案内には左:花の広場直進:館址広場 と。ここにも「からぼり」碑が。 ここが堀(1号堀~2号堀)を渡るための橋の跡が検出された場所。木製の橋を掛けておき、敵が攻めてきた際には焼いてしまうことで進軍を阻んだのではないかと推測されているのだ と。この1号堀はだいぶ土が埋まってしまったためか、かなり浅めの堀。長い年月が経過してしまうと、どうしてもこういったなだらかな傾斜になってしまうのであろう。。 ・・・つづく・・・
2026.07.03
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さらに「大庭城-その役割と衝撃の真実」の講演会の受講を続ける。「幻の大庭城を巡る大庭城は「土塁」と「堀」を駆使した防御施設!?今も多くの謎が残される「大庭城」。その跡地には「大庭城址公園」(藤沢市大庭字城山5230-1)がある。「城」と言えば天守閣のある「建物」や領主の「住まい」をイメージしがちだが、本来の意味は土塁(防御用の土塁)や堀で守られている防御施設のことを言う。大庭城の役目は、いざ敵が攻めてきた際の避難場所であり、城主は別の場所に住んでいたと考えられている。大庭城関連では最も信憑性のある史料『玉隠和尚語録』(明応8〈1499〉年)にも、「大庭城と大庭氏の居城は別」という記述がある。しかし、使うかどうかわからない場所としてはあまりにも規模が大きいため、人が住んでいたとする説もあるとか。そこで、秋晴れの大庭城址公園を訪ね、年代・城主用途…すべてが謎だらけのお城「大庭城」の当時の姿を探ってみた。(案内:藤沢市教育委員会 生涯学習課 博物館準備担当・宇都さん)■石垣は無かった!入口から広場に続く石垣は、公園建築の際に作られたもので城とは無関係。大庭城が建てられたとされる室町時代の城は土で作られたものが殆ど。特に関東は戦国時代でも石垣が組まれた城はまれだった。地盤がしっかりしていた上、関東ローム層の土は滑りやすく、石垣よりも土で防御した方が優れていたことなどが理由と考えられる。(写真説明)・入口から続く坂を登りきった右手に土塁と堀。堀を掘った時の土をそのまま積み上げて 土塁にしたようだ。・チビッコ冒険広場に向かう途中、広い範囲がなだらかにへこんでいるが、実はここも堀の跡。 現在これだけ大規模であったら遺構が残っている城跡は珍しいらしい。■築山(つきやま)伝説舟地蔵公園の南にある台地。室町後期の武将・北条早雲が大庭城攻撃の足掛かりとして一晩で築き上げた山だという伝承が残っているが、弥生以降時代の生活遺跡が見つかっていることから、残念ながら後世の創作のようだ。■堀と土塁の役割堀堀は水を引かない空堀(からぼり)であった可能性が高い。数十メートルある重い具足を付けて武器を持った兵士達にとっては、それだけでかなり厄介な障壁だった。土塁花の広場北にある土塁と挟まれた堀。両端からのでこぼこ構造が分かりやすい。土塁に登ってすなどで攻撃されると容易には登れなかっただろう。■館を守る最後の橋堀を渡るための橋の跡が検出された場所。木製の橋を掛けておき、敵が攻めてきた際に抜いてしまうことで進軍を阻んだのではないかと推測されている。■大庭城本丸?館跡実際に見つかった場所は現在の復元跡よりも東寄り(写真黄線辺り)南向きに堀跡。建物は4棟発見されたが、向きや柱間にバラつきがあるので、それぞれ違う時代に建てられた可能性もある。■舟地蔵伝説👈️リンク永正9(1512)年、大庭へ侵攻して来た北条早雲は、舟を取り囲む湿地帯に苦戦していた。そこで、地元の“ボタ餅うり”の老婆に引地川の堰(せき)を切って水を干上がらせる方法を聞き、口封じのために切り殺してしまった。舟地蔵は、老婦の供養のため北条軍(又は土地の人間)が建てたと言われている。「館址広場で確認された掘立柱建物群(宇都2018より)」掘立柱建物群の跡を見る。近づいて。柱の位置には石が置かれていた。実際の柱穴は現地表下50cmに保存されており、これは原位置ではありません と。このほかにもいくつかの遺構が発見されていますが、この郭が大庭城のなかで、どのような役割をはたしたかは、今後の全面的な発掘調査を待たなければわかりません。掘立柱建物址(ほったてばしらたてものし)大庭城は、台地上を東西に横断する三本の空堀(からぼり)によって、一の郭(くるわ)、二の郭、三の郭、四の郭にわかれています。ここは、最南の郭にあたり、北縁の空堀によって、北側の郭と区画されています。周囲には、土塁(どるい)の跡が部分的に見られ、東斜面には腰郭(こしぐるわ)、西斜面には二段の空堀や帯状の腰郭が残っています。平成29年(2017)には燃えて炭化した米も発見され、分析の結果15世紀中頃〜16世紀初頭に燃えて炭化したことが判明。永正9年(1512年)の北条早雲の攻撃時に焼かれてしまった兵糧米かとも推測されています と。大庭城の案内の隣には『空堀』が存在している。「からぼり」碑。 「空堀」。3郭東隅にある「大庭城址」碑。 「此地大庭景親ノ居城ト云、後上杉定正修メテ、居城セシカ、永正元年九月子朝良ノ時、北条早雲ニ攻略サレ、是ヨリ北条氏ノ持城トナッタ。廃城ノ年代未詳、空塹ノ蹟等、当代城郭ノ制ヲ見ルニ足ルモノカアル。昭和七年九月 神奈川県」と刻まれている と。 7.まとめ・この10数年で大庭城のイメージは大きく変貌。 ①大庭城はただの山城ではなく、扇谷上杉氏の相模国支配における最重要拠点の一つ ②大庭城跡は藤沢だけでなく、神奈川を代表する城館の1つ。 ③国指定に値する価値がある城館跡。(とある研究者からの評価) EX)県内の国指定は小田原城と石垣山城のみ・まだ不明な点 ①築城・廃城年代の詳細 ②水の手(井戸)や儀礼痕跡(かわらけの一括廃棄など)の未発見 ③城正面にあたる東側斜面の構造 ④大庭城の範囲【参考文献】・宇都洋平 2018『神奈川県藤沢市 大庭城跡ー1968年~ 1971年の城郭に関連する発掘調査 の記録』藤沢市教育委員会・宇都洋平ほか 2021「神奈川県藤沢市 大庭城跡Ⅱー第24次・第25次発掘調査報告書ー 藤沢市教育委員会・黒田基樹2004「扇谷上杉氏と太田道灌』岩田書院・杉山 博ほか1972『藤沢市史 第四巻 通史編』藤沢市・貴 達人ほか1981『茅ヶ崎市史 4 通史編』茅ヶ崎市・湯山学1979「藤沢の武士と城ー扇谷上杉氏と大庭城ー』名著出版・郷土歴史課 2019「く開催報告〉平成30年度大庭城関連イベントについて」 『藤沢市文化財・調査報告書 第54集』藤沢市教育委員会そして「大庭城-その役割と衝撃の真実」の受講が終了し、多くのことを学び終えて1階に下りる。1階プロムナードでは10:40になり「第2回 いきいき応援フェアー」の開会式が始まっていた。藤沢市長・鈴木恒夫氏の開会挨拶もあった。藤沢市役所を出て振り返る。現在藤沢市の人口は5月1日現在・443,910人、世帯数207,606世帯 と。6月10日付け「広報 ふじさわ」 アート展覧会開催中麻生知子と武内明子の個展と「ワタリドリ計画」展を開催中。・130点以上の作品展示、絵本原画や日常をテーマにした作品を紹介。期間は6月13日から8月23日、無料、SNSて公開制作も実施 と。私と親しい方の奥様の作品展示会です。是非、ご鑑賞を!!場所はJR辻堂駅前の「ココテラス湘南」の6F・「アートスペース」です。 「藤沢市役所 分庁舎」前にある「藤沢メダカ池」に立ち寄る。 「藤沢メダカ池と水辺の植物実業家・故池田恵三郎氏(1895~1975年)は、1957年初夏、愛孫 博紀氏(現当主)にせがまれ、はす池から湧き出る湿田・小川で何万年も生き抜いたメダカを集め、観賞用の庭池に放ちました。その「はす池メダカ」を恵三郎氏の長男故池田正博氏(1925 ~2013年)が大切に守ったメダカたちが「藤沢メダカ」のルーツです。池の周りには、藤沢で少なくなってきた湿性植物も植えました。」 「藤沢メダカ日本のメダカは一種でしたが、近年、北日本にすむキタノメダカ、西日本にすむミナミメダカの二種にわけられました。「藤沢メダカ」はミナミメダカのうち、古くから藤沢にすんでいたグループです。」 「藤沢メダカ池」メダカの姿を探したが・・・?? 池の周りの広場には様々なアジサイの花が。紫のガクアジサイ。ズームして。半夏生(はんげしょう)。水辺に群生する白の斑がたいへん美しい涼しげな植物。「半夏生」の名は、夏至から11日目を半夏生(ハンゲショウ)と呼び、その頃に花を付けることから名付けられたそうです。葉っぱの半分ほどが真っ白な白粉を塗ったような様子から「半化粧」とも呼ばれます。開花と同時に花穂のすぐ下の葉が白く変わります。白くなる面積は個体差がありますが、半分くらい~9割ほどで、葉っぱ全体が真っ白くなることはありません。花が終わる頃には葉っぱは緑に戻ります。なんとも不思議で神秘的です。半夏生は虫媒花であるため、葉を白くして虫に花のありかを知らせるためではないかと言われているそうです。全国各地に群生地や名所があり、京都祇園の両足院、鎌倉の鎌倉中央公園、淡路島の淡路島国営明石海峡公園など、見ごろの時期にはたくさんの人で賑わいます とネットから。そして、「明月院ブルー」と呼ばれている色のアジサイの花をカメラで追う。咲き始めの花は、淡い乳白色の花びらの先にかすかな、やがて時を重ねるにつれ、その青は深みを増し、空の青とも海の青とも異なる、どこか神秘的な藍色へと変わっていく。丸く寄り添う無数の花びらは、一つひとつが小さな星のようでありながら、全体としては青い月を思わせる優雅な姿を形づくっている。柔らかな緑の葉に抱かれたその花姿は、梅雨の曇り空の下でも不思議なほど明るく、見る者の心を静かに潤してくれる。青をまとい、まるで朝霧の中から月明かりがにじみ出るような優しい色合いを見せる。一輪に目を向ければ繊細な美しさがあり、群れて咲けば青のグラデーションが織りなす幻想的な景色となる。淡青から群青へ、そして紫を帯びた深い青へと移ろう色彩は、まるで日本人が愛してやまない梅雨の情景そのもの。カメラのレンズ越しに見つめると、その青は単なる色ではなく、雨に洗われた空気の透明感や、静寂に包まれた古寺の佇まい、そして過ぎゆく季節への名残までも映し込んでいるように感じられるのであった。そしてこれが、以前に撮った「明月院ブルー」と呼ばれているアジサイの花。青の記憶を胸に、今日の「学びの散策」を終えて帰路へと。 ・・・もどる・・・ ・・・FIN・・・
2026.07.02
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この日は6月6日(土)、我が藤沢市主催の「第2回いきいきシニア応援フェア」に参加。豊かなセカンドライフのヒントがここにある!人生の後半戦をもっと楽しく、いきいきと過ごすヒントが見つかるイベント「第2回いきいきシニア応援フェア」 を開催します。ボランティア、地域活動、健康など幅広い活動内容の15団体の参加が予定されております。また、午前と午後に「豊かなセカンドライフのヒント」となる4つの講演会、各種無料相談、体験もあります と。「人生100年時代、思った以上に長いセカンドライフを豊かに過ごすため、自分にあったライフプランを考えてみませんか?生活する上で気になることを解決し、「学ぶ・遊ぶ・趣味を広げて頭の体操を!」、「身体をもっと動かして、心と身体をイキイキと!」、「ボランティア・就労で時間を有効に!」をキーワードに活動のヒントを見つけるイベントを開催します。」 と。裏面。そしてこの日の「講演会」に参加したのであった。 「【講演会】5階会議室・1階サテライト9 : 20 ~ 10 : 30「大庭城ーその役割と衝撃の真実」 講師 郷土歴史課学芸員謎の多い大庭城ですが、最新の発掘調査成果を含め、これまでの研究成果からその真実に迫ります。」 参加人数は25名程度?であっただろうか。講師は藤沢市郷土歴史家 宇都洋平氏。写真はネットから。大庭城址公園の航空写真と宇都洋平氏。大庭城は、12世紀関東平氏の雄、大庭氏の拠を15世紀になって太田道灌が本格的に築造し、その後小田原北条氏が改修したと伝えられています。太田道灌は関東管領上杉家に仕え江戸城を築造したことでも知られています。周辺に、駒寄、裏門、二番構(にばんがまえ)などの地名が残っているところからも当時の雄大な城が偲ばれます。今は周囲の景観も一変してしまいましたが、引地川、小糸川に挟まれた小高い大庭城址から、当時の新田「大庭御厨」を展望すれば気分はタイムスリップ!大庭城址公園は、指定管理者「公益財団法人藤沢市まちづくり協会・藤沢市緑化事業協同組合グループ」が維持管理をしています と。「大庭城址公園 イラストマップ」 「大庭城址公園」の航空写真。写真上方向が北側である。イラストマップを回転して航空写真と同じ方向に。大庭城址公園は、藤沢駅から北西に約4km、市の中心を南北に流れて相模湾にそそぐ引地川沿いの大庭の地にあります。この地は古くから人々に大庭城山と呼ばれ、城址としての歴史性とともに、緑の山として親しまれてきました。大庭城址公園はその特性を生かして昭和60年3月に供用を開始した広さ約12.6haの総合公園です。主な施設としては、大芝生広場、チビッ子冒険広場、休息広場、館址広場、花の広場等があり、フジ棚のパーゴラや複合遊具、四阿等も設置されています。園内にはウメやツツジ、バラ、アジサイなどの花木の他、ソメイヨシノを中心とした300本以上のサクラが植栽されており、お花見の時期には大変賑わいます と。説明入りのマップをネットから。このマップの説明は後ほどに。当日、配布された資料を順次写真でアップいたします。「大庭城ーその役割と衝撃の真実ー1 .「石の城」と「土の城」・石の城:石垣と天守閣・土の城:土塁と堀 →関東において本格的な「石の城」の登場は、天正18年(1590)の石垣山城 石の城「熊本城」。熊本城(別名:銀杏城)は、加藤清正が1607年(江戸時代)に完成させた「石垣の城」。敵を寄せ付けない急勾配の「扇の勾配」や、時代ごとの積み方が並ぶ「二様の石垣」など、日本屈指の石垣技術が有名。2016年の熊本地震から復興が進められています。講師は、熊本城、松山城、姫路城、松山城、亀山城の写真を紹介。「大庭城 イメージ図」 大庭城は熊本城や小田原城のような石垣の城ではない。丘陵地を削って平坦な曲輪(くるわ)を造り、その周囲に深い空堀や急斜面を設けて守りを固めた「土の城」である。図を見ると、本郭・二郭・三郭・四郭が複雑な空堀で区切られ、敵の侵入を防ぐ工夫が随所に見られる。大庭城は石の城ではなく土の城である。石垣の代わりに土塁と切岸、空堀を巧みに組み合わせ、自然の丘陵そのものを巨大な要塞へと変えていた。中世武士の知恵と土木技術の高さを実感させる城である。土の城「山中城」。山中城は、戦国時代末期の永禄年間(1558〜1570年)に、小田原に本拠を置いた後北条氏(北条氏康)によって築かれたとされています。 堀・土塁の構造。土塁は、土を盛って固めて敵の侵入や攻撃を防ぐ施設ある。「土の城」は、主に平安時代末期から戦国時代にかけて(12世紀〜16世紀末)に日本各地で築かれた城の形態。天守閣や総石垣を持たず、土塁(土の壁)や堀、切岸などを巧みに組み合わせて防御力を高めたのが特徴。土塁は堀を彫った時や曲輪を掘り出す時に出る土砂を利用して造られる。「曲輪」のイメージ図。山城を築城する際には、斜面を平たく削って余った土を土塁として積み上げたり、曲輪を造成する時には周囲を削り込み、直角に近い切岸に仕上げるという工夫が見られた。 『土の城は簡単に攻略できるのか…?土の城を歩いている時、こんなふうに思ったことがある人はたくさんいるのでは?「この堀、簡単に越えられるけど……こんなのでホントに敵を防げたのかな?」と! 山中城で出会う土づくりの空堀の多くが、フチは丸いし傾斜はゆるい、何よりあまり深くもない、という姿。こう思ってしまうのも当たり前なのです。一見するとしっかりと残っている遺構でも、そもそも土の構造物であるゆえに、使われなくなってから雨ざらしで400〜500年も経っているのです。崩れたり埋まったりしていて、現役だった時の姿とはかなり違っていると思わねばなりません。堀の形、気候、廃城後の土地の使われ方などによって差はあれど、だいたいどの堀も最低で人の背丈ほどは埋まってしまっている(!)といいます。特にV字型の薬研堀は、底が狭いから埋まるのも早くなります。この情報だけでも、足元にあるダラ〜ンとした堀が急に恐ろしく見えてきませんか? そう。土の城の堀をナメてはイカンのです。しかも、堀のフチの部分だってもっとググッと立ち上がっていて、そのぶん角度も今よりずっと急で切り立っていたのです。そして、その両フチに高低差があることも多いといいます。低い方の城外側のフチに立って向こう側のフチが数mも高ければどうでしょう。同じ堀幅でも迫力と防衛力が全く違ってきますよね。甲冑をつけていたらもちろん、平服でも飛び越えられるシロモノではないでしょう。実戦の場合はなおさら。堀の向こうに柵や盾などが並び、その後ろには弓や槍を構えた兵たちがこちらをにらんでいるのですから。さらに、堀の土には草など生えておらず、しっかり突き固められているゆえに、底に落ちてしまったら最期、とっかかりもなく、はい上がることなど不可能です。関東ロームなどの粘土質の土ならなおさら、ツルツルすべって蟻地獄のような苦しみを味わうことになってしまいます。そこに上から城兵たちによる攻撃が加わることを想像すると……ムリムリ!。とネットから。』2.現在に伝わる大庭城のイメージ①もとは大庭景親の館。平安時代には一帯は、大庭御厨(おおばみくりや)と称して広大な神宮(伊勢神宮)の寄進型荘園だった地(範囲は現在の藤沢市南半部から茅ヶ崎市全域)。御厨とは、「御」(神の)+「厨」(台所)で神宮への神饌を調進する場所でした。もともとは、相模国鎌倉を領有した平景正(たいらのかげまさ/鎌倉景正)が開発し、神宮に寄進した御厨でしたが、天養元年(1144年)9月、源義朝(みなもとのよしとも=頼朝、義経の父)の大庭御厨濫行事件(大庭御厨乱入事件)など、徐々に源氏の支配下に移りますが、鎌倉時代には相模国最大の御厨に発展しています。大庭城は、神宮に荘園(御厨)を寄進した平景正(鎌倉景正)が大庭氏を名乗って大庭景宗(おおば かげむね)が築城(大庭城は、大庭御厨が消滅した後の築城です)。「大庭の舘(たて)」とも呼ばれ、景親らの軍事拠点として重要な役割を果たしたと想定される。大庭景親(おおば かげちか)👈️リンクは、2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』において、國村隼さんが演じた相模国の有力豪族。平家方の武将として源頼朝の挙兵を阻み、石橋山の戦いで頼朝軍を撃破するなど、初期の頼朝最大の強敵として圧倒的な存在感を放ちました。石橋山の戦いで源頼朝に勝ったものの、一族のほとんどは筑前(現在の福岡県)に渡ってしまうが景親は最後まで抵抗し、捕らえられ斬首される。その後兄の大庭景義の子である大庭景兼(小次郎景兼)が和田合戦にまきこまれ大庭氏は滅亡したとされていたが、現在では、筑後(現在の福岡)に逃れたという説が有力とされている。大庭氏の子孫および一族の存続を示す具体的な記録の一つとして、相模国の大庭三郎景連が備後の新庄本郷に地頭として任命され、建保元年(1213年)、当地で築城した事例がみえる。のち大場氏と称した。②室町時代、太田道灌が城として改修。230年ほど経った戦国時代・室町時代中頃(15世紀後半)には、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が大々的に改修、築城したとされている と。太田道灌は、戦法にことのほか長じていたといわれる。その1つは築城術で、その方法は、曲輪式築城法と呼ばれ、江戸時代の兵法家から「道灌かがり」と呼ばれたものである。平城と独立した曲輪を核に、曲輪と曲輪の間に深い濠をめぐらす縄張りで、近世城郭の祖型となったものである。室町時代の記録を見る と大庭城と大庭景親の居館は別々の場所であることが記されている。大庭城は扇谷上杉氏 の相模国東部における拠点として機能し ていたと考えられる。③伊勢宗瑞々(北条早雲)により攻め落とされる。築城と役割: 15世紀後半、扇谷上杉氏の相模国東部における重要拠点(大庭御厨の中心)として 機能していた。早雲による攻略: 永正9年(1512年)、小田原を拠点に勢力を拡大していた伊勢宗瑞 (北条早雲)が上杉朝長を攻め、この城を落城させた。その後、早雲自身の 支配下で改修されたと伝えられている。大庭城について『新編相模国土記稿 大庭城蹟』より『新編相模国風土記稿』は、江戸幕府の昌平坂学問所地誌調所によって編纂された相模国の地誌。・編纂開始:文政7年(1824年)成立・完成:天保12年(1841年)「(前略)土人傳て大庭三郎景親の居城なり。後太田道灌暫時居城とし、北條氏の頃はその旗下某在城せりと云う。(中略)修理大夫朝良の時、永正九年北条早雲により攻略さる。是より北倏氏の持城となる。」・現代語訳「地元住民が伝えるには大庭三郎景親の居城である。のちに太田道灌がしばらくの間居城とし、小田原北条氏の頃は名前が分からないが、その配下が在城していた。(中略)扇谷上杉朝良の時、永正九年に伊勢宗瑞(北条早雲)により攻略された。これより以降は小田原北条氏の持城となった。」 大庭城 戦国時代 考証 西保総生 2019「歴史群像155」より扇ヶ谷上杉氏が山之内上杉氏との抗争時に築き、最終的には伊勢宗瑞(北条早雲)が攻略したとされる。 関東に多い台地の先端部を利用する城だが、 横堀を重ねた厳重な守りが特徴。3.文献と考古学から再認識される大庭城・大庭城研究の画期:湯山 学『藤沢の武士と城ー扇谷上杉氏と大庭城』 →これによりこれまでの伝承と史実が整理される。湯山 学『藤沢の武士と城ー扇谷上杉氏と大庭城』。武士が城を築いて割拠した争乱のころの藤沢を、はじめて室町時代を中心に実証的に描く労作。学習のため、この本をネットで購入しました。文献に記録された大庭城。①『玉隠和尚語録』:大庭城が機能していた時と同時代の資料『玉隠和尚語録(ぎょくいんおしょうごろく)』は、室町時代の建長寺の僧侶・玉隠が記した文献。大庭城(現在の神奈川県藤沢市)の歴史や大庭氏の居城に関する記述が残されており、大庭城の実像を知る上で最も重要な史料の一つとされています。・大庭氏の居館との区別: 1499年に記された記録の中で、「大庭城」と「源平合戦で有名な 大庭三郎景親の居館(大庭氏の居城)」は別のものであることが言及されています。 「(前略)一人〔朝昌〕大庭堅其塁、大庭氏館此去不遠(後略)」 実際の景親の居館は、大庭城から少し南の場所、現「芙蓉カントリー倶楽部」北側近く 「宗賢院」👈️リンク 付近にあったと推測されているとのこと。・上杉持朝の子息の記述: 明応8年(1499年)9月6日の父・持朝の33回忌法語が記録されており、 その中で持朝には7人の男子があり、 そのうちの1人が大庭城を守っていたことが記されています。・史料の所在: 現在、『玉隠和尚語録』は東京大学史料編纂所所蔵の写本と、鹿王院所蔵の 写本の 2本が知られています。「玉隠和尚語録 謄写本」(室町時代、原本所蔵:東京大学史料編纂所、複製)②「豆相記』:江戸時代初期成立(1600年前後)、「(前略)扇谷築城於相州大場而居之、後移河越城云々(後略)」「扇谷(扇谷上杉氏)が相模国の大場(大庭:現在の神奈川県藤沢市)に城を築いて 居城としたが、後に河越城(川越城:現在の埼玉県川越市)へと移ったと伝えられている」 という意味 と。③「諸国城主記』(江戸時代・19世紀写)「(前略)永正九年北條早雲、小田原の城を打取、大庭の城を責落とす云」とあると。 永正9年(1512年)、北条早雲(伊勢宗瑞) が扇谷上杉氏の拠る「大庭城(神奈川県藤沢市)」 を攻め落とした と。 ④『浅羽本上杉氏系図』(17世紀中葉(江戸時代初期) 扇谷上杉朝興(朝昌の孫 扇谷上杉の嫡流の養子となる)に「大庭又五郎」の注記が あることを指摘。大庭城に在城していた と。さらに発掘調査詳細報告書・大庭城跡 ー1968年~ 1971年の城郭に関連する発掘調査の記録ー 2018 藤沢市教育委員会・大庭城跡Ⅱ ー第24次・第25次発掘調査報告ー 2021 藤沢市教育委員会により、大庭城の研究が進み大きな研究成果が生まれた と。4.大庭「城」という名称と城主当時は「〇〇要害」や「〇〇陣」という名称が多い。・「要害」と「陣」の違い 要害:時間的にやや長く使用する防御施設。 陣:一時的に使用する防御施設。 →「称名寺造方同陣勘定状」では「大庭陣」。よって大庭陣か大庭要害。 当時は「大庭城」とは呼ばれていない。 ・大庭城の城主で確実なのは扇谷朝昌のみ。息子の朝寧も息子・朝興の仮名から大庭城に在城か。 →長享二年(1488)の七沢要害陥落以降は浅昌・朝寧親子が城主の可能性。大庭城は、主に以下の大庭氏、扇谷上杉氏、後北条氏が拠点として治めました。■大庭氏(平安末期〜室町時代) ・大庭景宗:築城者とされる。 ・大庭景親:平安時代末期の武将。城周辺一帯(大庭御厨)を本拠地とし、源頼朝と戦った (石橋山の戦いなど)。■扇谷上杉氏(室町時代末期〜戦国時代初期) ・太田道灌:扇谷上杉氏の家宰。大庭城を大規模に改修し、相模国東部における重要拠点とした。 ・扇谷上杉朝昌:相模国守護職にあった上杉氏の一門で城主を務めた。 ・上杉朝良:のちの城主。北条早雲(伊勢宗瑞)の侵攻に対し籠城戦を展開した。■後北条氏(戦国時代〜安土桃山時代) ・北条早雲(伊勢宗瑞): 永正9年(1512年)に大庭城を攻略・改修し、自身の勢力下においた。 その後、玉縄城(鎌倉市)が築かれると役割を譲った。 大庭城については、発掘調査や史料研究の結果、「誰が城主だったのか」が時代によって 異なり、必ずしも全てが確定しているわけではありません。 しかし、現在の研究で考えられている歴代城主は次のようになります と。・・時代・・・・・・・・・・城主・支配者・・・・・・・・・・備考平安末期~鎌倉初期・・大庭景親(大庭氏)・・・古くから「大庭景親の居城」と伝えられてきた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ただし現在残る城郭遺構は戦国時代のもので、・・・・・・・・・・・・・・・・・・。・・・・景親時代の城と同一かは不明。室町時代後期・・・・・太田道灌が築城・改修・・大庭氏ゆかりの地に、本格的な城郭として・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・整備したと伝わる。15世紀末・・・・・・上杉定正・・・・・・・・・扇谷上杉氏の相模国支配の拠点。16世紀初頭・・・・・上杉朝良・・・・・・・・・定正の子。大庭城を居城としたと伝えられる。1512年以降・・・・・北条早雲(後北条氏)・・・ 永正9年(1512)に攻略。以後は後北条氏の・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・持城となる。戦国時代中期・・・・・後北条氏・・・・・・・・東相模支配の拠点として利用されたが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・後に玉縄城の整備により重要性が低下。1590年頃・・・・・・・廃城・・・・・・・・ ・豊臣秀吉の小田原攻め後に廃城になったと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・考えられる。扇谷上杉氏略系図戦国時代に入り、大庭城は扇谷上杉氏の拠点となった。上杉定正:上杉定正(嘉吉3年(1443)又は、文安3年(1446)~明応3年(1494))は、 扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の当主で、相模国守護。 上杉氏は、藤原氏北家勧修寺流の流れを汲む貴族の出で、重房の代に鎌倉へ下り 丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉町付近)を得て武士となり、 足利氏に仕えました。 扇谷上杉氏は、室町幕府を開いた足利尊氏の母方の叔父・重房を祖とし、鎌倉の 扇谷に屋敷を構えたことから扇谷上杉氏の家名が興りました。上杉朝良:定正の子。大庭城を居城としたと伝えられる。北条早雲が1512年に大庭城を攻め落とした際の城主は、扇谷上杉氏の上杉朝良(うえすぎ ともよし)です。当時は周囲の沼地を利用した堅固な城でしたが、早雲に攻略された後は後北条氏の支配下となりました。 「大庭城と扇谷上杉氏関連年表・年号・・・・西暦・・・・・・・・・・・・・・主な出来事享徳元年・・1452・・・・・・・この頃までに、扇谷上杉氏が大庭御厨を所領とする。寛正六年・・1465・・・・・・・伊勢神宮、大庭御厨からの年貢未進を扇谷上杉氏の家臣・・・・・・・・・・・・・・・ 太田道灌に訴える。・文明元年・・1469・・・・・・・伊勢神宮の荒木田氏経、大庭御厨代官の出口氏・室田氏により //////////////////////////////////年貢が横領された旨を、太田道灌に訴える。長享二年・・1488・・・・・・・扇谷上杉朝昌、山内上杉氏との合戦に敗れ、守備していた//////////////////////////////////七沢要害(厚木市)を放棄し、大庭城へ移る。明応八年・・1499・・・・・・・『玉隠和尚語録』に大庭に城郭が存在していた記述がある。永正九年・・1512 ・・・・・・ 伊勢宗瑞(北条早雲)、扇谷上杉方の城を攻撃し、岡崎城・・・・・・・・・・・・・・・ (伊勢原市・平塚市)や大庭城が落城。永禄二年・・1559・・・・・・・玉縄北条氏の一族と考えられる福島左衛門が玉縄衆として・・・・・・・・・・・・・・・ 180貫文で大庭を知行。(『小田原衆所領役帳』より)4.大庭「城」という名称と城主 ・当時は「○○要害」や「○○陣」という名称が多い。・「要害」と「陣」の違い →称名寺造方同陣勘定状」では「大庭陣」。よって大庭要害か大庭陣。・大庭城主で確実なのは扇谷朝昌のみ。息子の朝寧も息子・朝興の仮名から大城庭に 在城か。 →長享二年(1488)の七沢要害陥落以降は朝昌・朝寧親子が城主の可能性。5 .大庭城の役割・相模国における扇谷上杉氏の所領 中郡・東郡:直接支配地 →支配拠点は糟屋館(伊勢原市)。北の備えは七沢要害(厚木市)。守護代は真田要害 (平塚市)か。 西郡:大森氏 御浦郡:三浦氏 奥三保:内藤氏「扇谷上杉氏の支配範囲と拠点(イメージ)」。 6.発掘調査で確認された大庭城の防御施設①堀令和8年4月現在、発掘調査で確認された堀は25本。竪堀(等高線に垂直に走る堀):7本 [箱堀:3本 薬研堀: 3本 不明: 1本〕横堀(等高線に平行に走る堀):7本 [箱堀:3本 薬研堀: 3本 不明: 1本〕区画の堀: 6本〔箱堀: 3本 薬研堀: 3本〕→堀が2種類あるのは時期差と考えられ、少なくとも大庭城は1回以上改修工事が 行われたと考えられる。大庭城跡で検出された堀(宇都ほか2021より) 太線黒色ーーー発掘調査で確認された堀 太線灰色ーーー等高線から存在が確認できる堀「薬研堀」と「箱堀」の図。 「薬研堀」:薬をすりつぶす器具「薬研(やげん)」のように断面がV字形をした堀の形状「箱堀」:凹型にくり抜いた物を意味する。堀の底に平面状の部分があるのが特徴で、 底から見たときに両サイドの壁が高い。これが「薬研」。江戸時代の医家が使っていた伝統的な道具「薬研」。生薬(漢方薬)やスパイスなどを、すり潰して粉末にするための伝統的な道具。舟形のくぼみを持った台(薬研)と、車輪状の押し回し器(薬研車)で構成されており、前後に動かして材料を細かく砕きます。 再び「堀」の位置、形状の解る「大庭城 イメージ図」を。 発掘調査でみつかった大庭城の防御施設②馬出状遺構・8号堀を中心とした周辺の堀で構成される。 →馬出は戦国時代後期に多用される防御施設。大庭城は戦国前期の城館であること から、仮に小田原北条氏時代の改変がなければ、北条や武田に先んじて扇谷上衫氏が 馬出を造ったことになる。「大庭城跡調査地点(宇都ほか2021より)」。 ・・・つづく・・・
2026.07.01
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さらに「大清水境川アジサイロード」を「境川」の下流方向に向かって歩く。しばらくは「キャプション(caption)」なしでアジサイの美しさをお楽しみ下さい。「キャプション(caption)」とは、写真やイラスト、動画などの視覚的な素材に添えられる「説明文」や「タイトル」のことです。 そしてここにも学校の正門があった。「藤沢市立大清水中学校」。 そして下流側には「鷹匠橋(たかじょうばし)」が現れた。 欄干には半透明ガラスにスミレとチョウを描いた洒落たステンドガラスの如き絵が飾られていた。廻り込んで橋上から近づいて。上流側を見る。下流側に見えたのが国道1号・藤沢バイパスの「境川大橋」 構造種別:1径間鈑桁 河口からの距離:6.4km 橋の長さ:36m 有効幅員:16m 完成:1961年(S36)右奥手前の一部が見えた建物が「藤沢市民病院」。「鷹匠橋」の欄干には同テーマ・スミレの花?の造形作品も。近づいて。「鷹匠橋」。徳川時代に将軍が鷹狩りをする目的で、藤沢御殿が造られた。現在の藤沢市民病院の側であった。その関係で、藤沢の辺りには鷹匠も住んでいたと。市民病院北東の境川にかかる橋は、『鷹匠橋』と名付けられているのだ。歴史を感じさせる橋名。藤沢市内にはもう一つの「鷹匠橋」がある。こちらは「伏見稲荷大社」に向かって進むと引地川に架かる橋であり「大場鷹匠橋」と呼ばれているのである。よって正確には「鷹匠橋」はこの橋のみなのであるが。 ・構造種別:1径間PC桁 ・河口からの距離:6.5km ・ 橋の長さ:33.5m ・有効幅員:11m ・ 完成:1990年(H2)下を流れる川は横浜市との市境になっている「境川」。「鷹匠橋」から「境川」の上流側を見る。境川に架かる鷹匠橋(たかじょうばし)の名前の由来は、江戸時代にこの一帯が徳川将軍家の鷹狩り(たかがり)の場所であったことに関係すると考えられているのだ。・鷹匠とは 「鷹匠」とは、将軍や大名の鷹狩りに用いる鷹を飼育・訓練し、狩りを補佐する専門職。・藤沢御殿との関係 現在の藤沢市民病院付近には、江戸時代に徳川将軍家の休泊施設である「藤沢御殿」が ありました。藤沢周辺は広い田畑や湿地が広がり、鷹狩りに適した場所だったため、将軍が 訪れて鷹狩りを行ったと伝えられています。これに伴い、鷹匠たちもこの地域に居住・活動 していたとされます。・鷹匠橋の命名 鷹匠橋は、境川の左岸の大鋸(だいぎり)地区と右岸の白旗地区を結ぶ橋ですが、 その橋名は、この地域に残る鷹狩りや鷹匠の歴史を記念したものと考えられています。 境川の橋を紹介した資料でも、「御殿橋付近に徳川将軍家の御殿や陣屋があり、鷹狩りの場 であったことが橋名の由来らしい」と記されています。現地を歩くと鷹匠橋のすぐ下流には御殿橋があり、「御殿」という名称自体が藤沢御殿の存在を今に伝えている。また周辺には「陣屋橋」「陣屋小路」など、江戸幕府ゆかりの地名も残っているのだ。下流側を見る。藤沢バイパスの先に大きな建物が現れた。「藤沢市民病院」をズームして。 「聖園女学院高等・中学校」をズームして。今年の2月にこの児童養護施設「聖園子供の家」に、米大リーグ・ロサンゼルス・ドジャースの山本由伸投手がサプライズ訪問したのだと。敷地を同じくする聖園女学院中学校・高等学校の生徒たちにとっても、地元でのビッグなニュースとして話題になっていたのであった。そして車に戻り帰路に。民家の庭先の「ガクアジサイ」。淡い紫が美しかった。そして帰路の道路沿いのアジサイ。八重咲きのピンクのガクアジサイ。緑のアジサイ。こちらも「アナベル」という品種でもう少しすると白いきれいな花色になるらしい。こちらは、既に純白のアジサイ。鎌倉・明月院の「明月院ブルー」に似て。民家の横の畑の道路沿いにも。「カシワバアジサイ」も。 カシワに似た形の5~7つに深く裂けた葉、円錐形の花房が特徴的なのが、カシワバアジサイ。花だけではなく、秋の紅葉も美しく、長期間観賞できるアジサイなのだ。そしてこの日に訪ねた近くの「わいわい市」にあった変わったアジサイ。今年も早朝約2時間のアジサイ鑑賞なのであった。このブログを書きながら、ふと『日本人がアジサイを特別に愛する理由は、単に花が美しいからだけではなく、日本の風土や感性、さらには人生観とも深く結びついているのでは』と。1. 梅雨を彩る花だから桜が春を代表する花なら、アジサイは梅雨を代表する花。雨の日が続く梅雨は、どうしても気分が沈みがちです。しかしアジサイは雨に濡れるほど美しさを増すのだ。・雨粒をまとった花・しっとりとした色彩・曇り空に映える青や紫日本人は古くから、「雨を恨むのではなく、雨の中の美しさを見つける」という感性を育んで来たのであろう。アジサイはその象徴ともいえる花!!。2. 色が変化する花だからアジサイは土壌の性質によって、・青・紫・ピンク・赤紫へと色を変える。さらに開花から散るまでの間にも色が移ろいます。この姿は、「諸行無常(すべては移り変わる)」という日本人の美意識に重なるのだ。桜が「散る美しさ」なら、アジサイは「移ろう美しさ」を表しているのだ。3. 派手すぎず、奥ゆかしいバラ(薔薇)やラン(蘭)のような華やかさではなく、・柔らかな青・淡い紫・優しい桃色といった控えめな色彩が特徴。日本人が好む・わび・さび・奥ゆかしさにも通じている。4. 寺社との相性が良い鎌倉や箱根などの寺院では、アジサイがよく植えられている。例えば、・明月院・長谷寺・箱根神社 周辺などでは、苔や石段、古木とアジサイが調和し、日本的な景観を作り出している。静寂な空間に咲くアジサイは、日本人の心を落ち着かせてくれる花。5. 身近な花だからアジサイは特別な庭園だけでなく、・民家の庭先・学校・公園・川沿い・線路沿いなど、どこでも見られます。豪華な花ではないが、「毎年必ず会える花」として人々の暮らしに寄り添っているのだ。日本人の心との共通点アジサイを愛する理由を一言で表すなら、「変わりゆくものの美しさを感じる心」にあるのでは!?。雨に打たれても咲き続け、日ごとに色を変え、やがて静かに季節を去っていく――。その姿は、日本人が古くから大切にしてきた「もののあわれ」の世界そのもの。まさにアジサイは、日本の風土と日本人の心が育てた花と言えるのだ とも。最後に日本人の心・『紫陽花・花手水』の写真をネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・おしまい・・・
2026.06.30
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この日は6月4日(木)、5時半過ぎに目が覚め起床。雨が降っていなかったので、車で10分ほどの場所にある「大清水境川アジサイロード」に再び向かう。藤沢市大鋸を流れる境川の両岸に植栽されているアジサイ。大清水橋から鷹匠橋までの約400メートルは、「大清水境川アジサイロード」と呼ばれている。地域住民が自宅の庭などで育てたアジサイを植栽したもので、毎年、アジサイ祭が開催されている。早朝なので、交通量はほとんど無いので道路脇に車を駐め散策開始。振り返って「大清水橋」を見る。 「大清水橋」橋銘板。右手の上流側に見えたのが「横須賀水道路境川水管橋」海老名市社家の相模川から有馬浄水場経由で田浦配水池へ送水される有馬系統の導水管であると。以前は半原系統の導水管(φ500)も敷設されていたが、需要減少、水質悪化、施設老朽化などに伴い2007年(H19)に取水が停止され、2015年(H27)に系統と共に撤去されたのだと。 構造種別:1径間三弦トラス(1個のトラス構造で上弦材1本と下弦材2本の三角形構造) 河口からの距離:7.1km 橋の長さ:約57m 水管径:φ1000 完成:不明「大清水橋」から下流側を見る。正面に「藤沢市民病院」の建物の姿が。「藤沢市民病院」は昨年度と同様、新型コロナウイルス感染症対策の医療提供体制「神奈川モデル」の高度医療機関として重症患者の入院治療を中心に診療を行っているのだ。同時に中等症患者を受け入れる重点医療機関の協力病院として、コロナ陽性の中等症患者の入院治療も行っているのだ。そしてアジサイの「七変化」を楽しみながら進む。「アジサイは咲き始めは白っぽく、開花が進むにつれ、淡い色から濃い色へ濃淡や色が変化していくため、別名「七変化」とも呼ばれます。一般的に、土壌の酸度によっても花の色が変わり、酸性だと青寄り、アルカリ性だと赤寄りの色になります。日本は元々酸性土壌なので、赤色品種のアジサイでも庭に植えると、次第に赤紫色に変化。鉢植えでも、根酸(根から分泌される酸)の影響で土が次第に酸性になり、同様のことが起こります。色鮮やかな赤色を維持するには、土に石灰をまいて、土をアルカリ性に傾ける方法があります。なお、青紫色のアジサイに石灰をまいてもきれいな赤色にはなりません。青紫色のアジサイは酸性の土壌で鮮やかな色が出る、日本の風土に合った花木と言えます。」とネットから。色の「七変化」をカメラで追う。アジサイ(紫陽花)の別名には、こんなものがあるのだと。 ●七変化(しちへんげ):七変化とは、咲き始めてから時間が経つにつれ、色を変えこと からついた別名 ●四片・四葩(よひら):「花びら(正確にはガク)が四片あること」からつけられた名前 ●手毬花(てまりばな):丸く集まった装飾花の形から ●オタクサ :この名は、シーボルトの美しき恋心から生まれた名前。 1823年、長崎に渡来したドイツ人医師シーボルト。 植物研究にも情熱を注ぎ、とりわけ紫陽花に夢中になった。 ●刺繍花(ししゅうばな):手毬花と同じく、刺繍に見立てる。 刺繍から連想するのは、西洋紫陽花ではなく山紫陽 ●八仙花(はっせんか):「七変化」と同じ。さまざまな色合いに変化することから 名づけられた名前「アジサイ」の語源ははっきりしないが、最古の和歌集『万葉集』では「味狭藍」「安治佐為」、平安時代の辞典『和名類聚抄』では「阿豆佐為」の字をあてて書かれている。もっとも有力とされているのは、「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」がなまったものとする説である。そのほか、「味」は評価を、「狭藍」は花の色を示すという谷川士清の説、「集まって咲くもの」とする山本章夫の説(『万葉古今動植物正名』)、「厚咲き」が転じたものであるという貝原益軒の説がある。日本語で漢字表記に用いられる「紫陽花」は、唐の詩人白居易が別の花、おそらくライラックに付けた名で、平安時代の学者源順がこの漢字をあてたことから誤って広まったといわれている。とウィキペディアから。そしてこちらは「ガクアジサイ」。ガクアジサイとアジサイ(一般的に知られるセイヨウアジサイ)の最大の違いは「花の咲き方」。日本の在来種である「ガクアジサイ」は中央に小さな花が密集し、その周りを大きな花(装飾花)が額縁のように囲みます。一方、一般的な「アジサイ」は全体が手毬のように丸く咲くのです。・花(装飾花と両性花) 周りの花びらに見える部分は「装飾花(ガク)」で虫を惹きつけるための看板の 役割があり、中心の粒々が本来の小さな花「両性花」です。・花の色 土壌の酸度(pH)によって花の色が変わります。酸性なら青、アルカリ性なら赤〜ピンク系に なりやすい性質ある。・葉 濃い緑色で卵形をしており、表面にツヤ(光沢)があり縁にギザギザがあります。 触ると少しひんやりとした質感があります。・育てやすさ 一般的なアジサイに比べて日光や乾燥に比較的強く、育てやすいのが魅力。・花言葉 「謙虚」「控えめ」 再び「大清水橋」を振り返って。 「境川」の下流方向に進むと左手にあったのが「神奈川県立藤沢清流高等学校」の正門。 神奈川県立藤沢清流高等学校は、神奈川県立大清水高等学校と神奈川県立藤沢高等学校が統合し、2010年(平成22年)に創立・開校したのだ。そして、ここは、神奈川県藤沢市大鋸1450なのである。境川の左岸であるので、横浜市戸塚区と考えてしまうが、この場所から境川の上流へ400mほどの場所・西部水再生センターから南側の左岸が横浜市戸塚区から藤沢市に変わるのだ。そして昨日・6月28日のタウンニュースによると『県立高校改革実施計画に基づき、2027年4月に再編統合を予定している県立藤沢清流高校(大鋸)と県立深沢高校(鎌倉市手広)の統合後の新学校名を「藤沢東高校」とする、県立の高等学校等の設置に関する条例の一部改正案が、神奈川県議会6月定例会に提出された。7月13日(月)に同議会の承認を得て、正式に決定する。現在の藤沢清流高校の敷地や校舎が、同校に活用される。』と。「女子サッカー部 県大会優勝」、「関東大会出場 女子サッカー部」と。 再びアジサイ、ガクアジサイをカメラで追う。「関東大会出場 陸上競技部」 「平成16年度藤沢市まちづくり賞 受賞ここは、大清水小、中、高等学校がひまわりの苗1200本を植え、境川を美しく彩りました。その活動が、「第23回藤沢市緑と花いっぱい推進活動」において「まちづくり賞」を受賞しました。」 昔の「大清水高等学校」があった時の受賞なのである。 暫くは、キャプション(caption)なしで。再び、色の「七変化」をカメラで追う。 ・・・つづく・・・
2026.06.29
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ブログアップのタイミングが大きく遅れてしまいましたが、この日は5月31日(日)、5月になって2回目の満月を楽しむことができたのであった。1回目の満月は詳細な時間は5月2日(土)、午前2時23分とのことであった。我が部屋からの5月の最初の満月のカメラ撮影は5月1日(金)19:30。詳細の満月の7時間前の写真なのである。アメリカ先住民の伝統では「フラワームーン」と呼ばれているとのこと。アメリカの先住民族(ネイティブアメリカン)が、農業や季節を把握するために各月の満月に付けた名称の一つであると。アメリカの先住民族が、野山に多くの花が咲き誇る季節であることにちなんで名付けたとされている。日本では「花月」とも呼ばれ、春から初夏へのエネルギーを象徴しているのだ。2026年の満月 呼び方。こちらにも。「月の満ち欠け」月の満ち欠けは、「太陽・地球・月の位置関係の変化」と「月が太陽の光を反射していること」の2つが主な仕組みです。月は自ら光る星ではなく、太陽の光を反射して輝いています。常に半分が太陽に照らされて明るく、半分が影になっています。月が地球の周りを公転(約29.5日周期)するにつれて、地球から見える「太陽に照らされている部分」の角度や割合が変わるため、形が変わって見えるのです。主な月の状態と位置関係は以下の通りです。・新月(しんげつ): 太陽・月・地球がほぼ一直線に並ぶとき。地球からは月の影の部分しか 見えないため、肉眼では見えません。・三日月(みかづき): 新月から数えて3日目頃。月が少し東へ移動し、右側が細く光って 見えます。・上弦の月(じょうげんのつき): 新月から約1週間後。月の右半分が輝く半月になります。・満月(まんげつ): 地球を挟んで月と太陽が一直線に並ぶとき。月が太陽の光を正面から 受けるため、丸く全体が輝いて見えます。・下弦の月(かげんのつき): 満月から約1週間後。今度は左半分が輝く半月になります 同じ月に満月が2回起こる理由は、月の満ち欠けの周期(約29.5日)が暦の1ヶ月の日数(30日または31日)よりも短いため。このズレが積み重なることで、約2〜3年に1度の頻度で同じ月に2回の満月が発生するのだと。すなわち、詳しいメカニズムは■月の満ち欠けの周期: 月が新月から満月を経て、再び新月になるまでのサイクルは 約29.5日です。■暦の長さとのズレ: 2月を除く暦の月は30日または31日あるため、1ヶ月の「1日」や 「2日」に最初の満月がくると、その月の終わり(30日や31日)に 2回目の満月が巡ってくることがあります。このように1ヶ月に2回満月がある場合、2回目の満月は「ブルームーン」と呼ばれることがある。実際に月が青く見えるわけではなく、英語の慣用句「once in a blue moon(極めて稀なこと)」に由来しており、「めったに見られない幸運な現象」として知られているのだと。2026年5月の満月スケジュール回数・・・・日付・・・・満月の瞬間 ・・・・・・・・ 特徴・別名1回目・・・ 5月2日(土) 02:23・・・・フラワームーン(小ぶりな満月)2回目 ・・ 5月31日(日) 17:45・・・・ブルームーン、マイクロムーン(今年最も遠い満月)2026年 新月と満月早見表我が部屋の前の、専業農家のガラス温室に映り込む満月の光・月光。ガラス屋根をズームして。天空の満月と、地上の温室に宿った月。二つの月が静かに向かい合い、ガラスの屋根には銀色の光が揺れていた。夜の静寂だけが、その美しさを見守っていたのであった。そして2回目の満月を撮影。時間は5月31日(日)20時前。月はこの日5月31日(日)17時45分に満月の瞬間を迎え、翌日6月1日(月)13時33分に遠地点(地球から最も遠ざかる点)を通過したのだと。そして5月31日(日)の満月はマイクロムーン(最小満月)。ズームして。2026年 月の地心距離の変化と満月 地球から最も遠い満月(2026年5月31日)。月の公転起動。地球の周りを公転する月の軌道は楕円形で、月の軌道は太陽や地球などの重力を受けて変化しています。このため、満月や新月のときの地球と月の距離は毎回異なります。月と地球との距離は平均して38万4400kmほどですが、最も近づく時の距離はおよそ35.6万km、最も遠い時の距離はおよそ40.7万km。ちなみに地球と月が最も離れて小さく見える月を「マイクロムーン」や「ミニマムーン(ミニマムムーン)」と呼びますがスーパームーンは遠いときの「マイクロムーン(約40.7万km)」に比べて約14%大きく、30%ほど明るく見えることもあります。2026年満月の距離のちがい約5万kmの距離差。地球1周が約4万kmであるから地球1周+1/4周の距離差。そして円の見かけの直径は 距離に反比例 します。距離が2倍になると、見かけの大きさは1/2になります。距離が3倍になると、見かけの大きさは1/3 になるのです。よって40.6/35.7=1.137よって見かけの直径は1/1.137=0.88よってこの日のマイクロムーンの直径はスーパームーンの88%であるのです。よって光っている面積は0.88✕0.88=0.77→77%に見えるのです。こちらが解りやすかったか!?2026年以降のスーパームーンは2026年12月24日(火)、2027年1月22日(金)です。晴れていたら、ぜひ夜空に浮かぶ今年最大の満月をゆっくり眺めてみましょう。 ・・・完・・・
2026.06.28
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「境内案内」を再び。 「龍神水」。龍神水は、箱根神社と九頭龍神社の信仰に結び付いた霊水。九頭の龍の口から清水が流れ出ていた。これは九頭龍大神(くずりゅうおおかみ)を象徴しており、芦ノ湖の守護神である九頭龍大神の御神徳を表しているのであった。 何とか9頭の龍を入れて。こちらも9頭を。九頭の龍の意味九頭龍神社の御祭神は「九頭龍大神」。九という数字は古来、最大・完全を意味するめでたい数とされ、九つの頭を持つ龍は強大な神威を表している。九体の龍が一列に並び、それぞれの口から水が流れ出ているのであった。ズームして。「九頭龍神甘露の霊水箱根神社の龍神水境内より湧き出ずるこの霊水は箱根大神の鎮座す箱根山を源とし権現御手洗の池と称え奉り九頭龍神が御守護り給う芦の湖を湧き満たす龍神甘露の霊水である故に掌にうけて口を漱げば一切の不浄を洗い清め家の神棚に供へて用ふれば家内清浄縁起の養生となる。」 「九頭竜大神の成就水盤誓願符に起請文を記し龍神水に溶し流して誓願成就!」 誓願符を流す成就水盤。成就盤の右手に龍神水があった。「成就水盤」碑。「安産杉」を見る。 「安産杉の由来樹齢千年を超えるこの大杉は「安産杉」と呼ばれる御神木です。安産杉は昔から幸運の霊妙杉として崇められてきたもので、古来この大樹の根幹は健全なる毋胎の象徴とみなされて 子孫繁栄を祈る子授け 安産の杉と信仰され 武家や庶民の間で安産祈願は安産杉と 盛んにお参りが行われるようになりました。鎌倉幕府を開いた源頼朝は当神社をたいへん崇敬し 毎年「ニ所詣」(箱根伊豆ニ所権現の参拝)を続けておりました鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』には 養和二年(一一八二)八月十一日夜 夫人の北条政子が産気づくと頼朝は奉幤使を当神社に派遣し安産祈願を行なったことが記されており 翌日に頼家(二代将軍)が無事誕生したことを伝えています。また建久三年(一一九二)八月九日 頼朝は当神社に神馬を奉献して政子の安産祈願を行ない 實朝(三代将軍)が無事誕生したことも記されています。どちらも当神社での安産祈願の折には 安産杉へのお参りが必ず行われています」 安産杉を見上げて。下部の幹の中心部が空洞化した安産杉。近づいて。そして参道石段を下る。左手奥にあったのが「武道場」の建物。「居合道全国選抜八段戦演武者芳名」が記されていた。 「居合道全国選抜八段戦箱根大会居合道界最高峰の大会である「居合道全国選抜八段戦箱根大会」は、曽我神社社例祭を奉祝して毎年五月二十八日に開催されています。この大会では、居合道「範士」並びに「教士」の称号を与えられた八段剣士の中より、卓越した技量と人格を備える九名が全国から選抜され、箱根大神、曽我兄弟二柱神の大前に演武を奉納し居合道の技を競います。更に全国から参集した初段から現最高位範士九段に至る二百余名の剣士も御神前に演武を奉納します。曽我神社の御祭神、曽我十郎祐成命・五郎時致命兄弟二柱神は、鎌倉時代の建久四年(一一九三)五月二十八日、富士の裾野で見事大願成就を成し遂げられました。曽我神社はその佳日が例祭日となっています。本大会は、御祭神の大願成就より八百年後(平成五年)に斎行された曽我兄弟八百年大祭を奉祝記念して開催されてより、「武士の鑑」と仰がれた曽我兄弟の御事績と御遺徳を顕彰して毎年盛大に行われています。大会参加選手の演武奉納を証す芳名板が道場壁面に掲掛されていますのでご覧下さい。」 「矢立のスギ・杉」。箱根神社の「矢立の杉(やたてすぎ)」は、本殿へ続く石段(第4鳥居前)にそびえる樹齢約1200年の御神木。古くから武将が戦勝祈願として矢を奉納したと伝えられ、勝負事や心願成就のパワースポットとして親しまれています。【矢立の杉の概要】規模: 樹高35m、胸高周囲6m由緒: 坂上田村麻呂や源頼義が戦勝祈願に矢を立てて奉納したと伝わるご利益: 勝運守護、心願成就 「神奈川県かながわ名木100選箱根神社の矢立のスギ平安時代に、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷平定に、また陸奥守源頼義が安倍氏追討に際して、このスギに表矢を献納したと伝えられている。樹高 35m、胸高周囲6.0m樹齢 約1200年(伝承)。スギは、本州から九州に広く分布する常緑高木で神社などに植えられるほか、造林樹種として多く用いられる。樹高60m、胸高周囲15m、樹齢約3000年に達するものもあると言われている。」 そして参道の石段を芦ノ湖湖岸まで下る。「九頭龍神社 本宮」。 移動して。箱根の中でも‟インスタ映え”スポットとしても人気の箱根神社の水中鳥居。この日も外国人観光客も含め多くの人が訪れていた。この水中鳥居は、今上陛下の立太子礼と日本の独立した際、講和条約締結を記念して1952年(昭和27年)今から67年前に建てられました。また、この鳥居には「平和」と書かれた額が湖に向かって掲げられており、陸からは見えないためなかなか見ることができないのですがこれは、1964年(昭和39年)、箱根大神(ハコネノオオカミ)御鎮座1200年と東京オリンピック開催を奉祝記念し、「平和」の扁額が掲げられました。筆で書かれた講和条約の全権特命大使として調印した吉田茂元首相の真筆になるもので、それ以来「平和の鳥居」と親しまれています。“箱根成川美術館”から見られる芦ノ湖に浮かぶ平和の鳥居その向こうには富士山の光景は箱根を象徴する景色としても有名です。(鳥居の‟平和“の文字は芦ノ湖遊覧船や箱根観光船に乗船するとみることができます。) 芦ノ湖畔に立つ朱塗りの大鳥居を目指して、インバウンドを含む多くの参拝者や観光客が湖岸に沿って50m程の列を作っていた。近年、湖上に立つ、湖上に浮かぶ鳥居を背景に記念撮影をする人が増え、休日や観光シーズンにはこのような長い行列が見られるのだ と。「箱根神社 九頭龍神社 参拝のご案内(箱根神社・九頭龍神社までの所要時間は約5分です)ようこそ おいで下さいました。この芦ノ湖畔に建つ箱根神社の水中鳥居は「平和の鳥居」と呼ばれ、正参道入口に位置しています。皆様には、箱根大神さま九頭龍さまの大きな御加護を戴かれますよう、御神前での参拝をご案内申し上げます。参拝順路は、この鳥居を背にして真直ぐ石段を昇ると、正面に箱根神社の御本殿がございます。御神前ではお賽銭を志納し、心静かに感謝と祈りを捧げてお参り致しましょう。神社での拝礼作法は「二拝二拍手一拝」です。箱根神社での参拝に続いて、すぐ右隣の九頭龍神社新宮にもお参りいただき、二社参りで大きな御神徳をお受け下さい。」 「ご協力をお願いします Please cooperate(英語) 攜手合作(中国語)記念撮影は3分以内でご協力をお願いします Please take a commemorative photo within 3 minutes(英語) 請在3分鐘内 拍攝紀念照(中国語)これは箱根神社の「平和の鳥居」前に設置された案内板。近年、「平和の鳥居」は国内外から多くの観光客が訪れる人気撮影スポットとなっており、長い行列ができるため、記念撮影は3分以内でお願いします と。3分→1分で良いのでは?とも・・・・・!!「平和の鳥居」に近づいて。「平和の鳥居の由来鳥居画額の題宇は前宰相吉田茂氏の墨蹟であります。氏は曩に平和条約を締結して太平の基を開かれその偉勲は炳として日星の如く輝き一世の欽仰するところであります。今茲箱根神社に鎮座千二百世界平和祈願祭に当り適オリンピック東京大会開催に際し特に平和の二字を して奉献せられたものであります。額は湖上正面大鳥居に掲げこの平和鳥居を新日本発揚の記念にして永く後生に伝えるものであります。 1964年10月25日 箱根神社宮司脇山時孝」 人の列がなければ(ネットから)。鳥居画額「平和」もネットから。ズームして(ネットから)。ネットからの美しい写真。そして駐車場に向かって引き返す。「宝物殿」と「狛犬」。 「宝物殿」に近づいて。箱根神社宝物殿は、神社伝来の彫刻・絵画・古文書・刀剣・祭具等を収蔵展示する博物館施設。主な収蔵品には、平安時代の男神坐像・女神坐像(重文)、万巻上人坐像(重文)をはじめ、鎌倉時代の箱根権現縁起(重文)や湯釜・浴堂釜(重文)、また、北条早雲、織田信長、豊臣秀吉等の戦国武将の書状など、箱根神社の歴史と文化を伝える貴重な史料が伝えられているとのこと。「斎館(さいかん)」。「斎館」とは、神職が神事(祭り)を奉仕する前に、心身を清めてこもる(参籠する)ための建物や部屋を指すのだ。 そしてこの日の最後に「大涌谷」を訪ねた。 「息吹のデッキ」。谷の方へ約11m突き出す「息吹のデッキ」が新たに造られた。息吹のデッキはガラス張りで、足もとには蒸気で真っ黒に立ち枯れた木々を見ることもできるのであった。 「早雲山駅」~「大涌谷駅」を結ぶ「箱根ロープウェイ」も見えた。 大涌谷の噴煙の向こうに見える特徴的なとがった山は、冠ヶ岳(かんむりがたけ)。標高は 1409 m で、約3000年前の噴火でできた溶岩ドーム。「早雲山駅」~「大涌谷駅」傾斜こう長:1512m 高低差:281m片道:2000円/大人往復:3000円/大人 と高価。前回は、相模湾に浮かぶ江の島の姿が確認できたが、この日は??ズームして。くろたまごモニュメント(北)。実兄&義兄を。この日も「黒たまご」を購入。1個食べると寿命が7年伸びると言われているのだ。早速、1つを食べて、7年長生きをお願いしました。駐車場はこの日も満車で渋滞発生。そして駐車場からの富士山の勇姿を。そして仙石原にあるこの日の宿・卒業会社の健康保険組合の保養所に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.06.27
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そしてこの日の最後に訪ねたのが「箱根神社」。「一の鳥居」下を通過。「二の鳥居」下を通過。 参道に立つ「三の鳥居」を車窓から見る。 「箱根神社 参拝者第2駐車場」に車を駐め、参拝のスタート。 左手に「お札所」。 「第四鳥居」。本殿へと続く正参道(90段の石段)の入口に建つ重要な鳥居。「箱根神社Hakone-jinja Shrine「駒ヶ岳の溶岩流の末端崖に建てられた神社」険しい地形の箱根では、山岳信仰が盛んとなり、山岳修行僧が多く往来していました。天平宝字元年(757年)にその一人である万巻上人が来山し、その後に勅願を得て創建されたのが箱根神社です。治承4年(1180年)の小田原石橋山の戦いで敗れた源頼朝をかくまって助けたことから、鎌倉時代以降は武家の信仰を集めて勢力を拡大しました。箱根火山の後期中央火口丘とよばれる山体は約4万年前以降の火山活動で形成されたもので、駒ヶ岳はその内の一つで、箱根神社はその山麓に位置しています。駒ヶ岳は約2万7千年前から活動を始めた成層火山で、地形をよく観察すると山頂付近から何枚もの「溶岩流」が流れ出たことがわかります。神社の本殿へ登る階段のある急斜面は、この溶岩流の末端崖で、本殿などの建物は溶岩流の上に建っています。後期中央火口丘の地形駒ヶ岳から南方面の地形を示した地図と写真。溶岩流がいくつも重なってできていることがわかります。(写真)駒ヶ岳から見える南西方向の眺め」富士黒土層(ふじくろつちそう)赤茶色の関東ローム層のなかにみられる黒色の地層で、約1万年前~5千年前の富士山の噴火活動が穏やかだった時期に形成されたと考えられています。溶岩流の姿山頂や火山麓の火口から溶岩が流れ下り、そのまま空気で冷えて固まることによってこのような形になります。溶岩の表面や側面は空気や地面に触れて冷えて固まりますが、中心部は熱いのでドロドロのまま流れ下るためにクレバスなどが形成されます。流れ下った中央部は口側が相対的に高まり、溶岩堤防という地形をつくります。駒ヶ岳でもこの溶岩流などの地形を観察することができます。(図中の主な用語)・溶岩の流れる方向・溶岩堤防・クレバス・末端崖箱根神社境内案内案内図には次の施設が描かれていました。・御本殿・九頭龍神社新宮・宝物殿・万巻上人奥津城・駐車場・芦ノ湖箱根神社は、約2万7千年前に活動した駒ヶ岳の溶岩流の上に建てられています。本殿へ続く急な石段は溶岩流の末端崖にあたり、神社の立地そのものが箱根火山の成り立ちを物語る貴重なジオサイトなのです。左側には「宝物特別企画展関東総鎮守― 鎌倉幕府将軍の箱根信仰 ―特別公開*国重要文化財「箱根権現緑起」*宝刀「徴塵丸(みじんまる)の太刀」「薄緑丸(うすみどりまる)の太刀」*「源頼朝」「石橋山合戦図」「源頼朝公行列図」など鎌倉幕府将軍の信仰に関する 数々の錦絵と古典籍」 境内案内。本殿へと続く正参道。溶岩流の末端崖の上に造られた90段の石段を上る。石段の途中、左側にあったのが「曽我神社」。 「曽我神社の由来一、御祭神 曽我十郎祐成(すけなり)之命 曽我五郎時到(ときむね)之命 一、例祭日 五月二十八日一、由緒 曽我神社は元来箱根権現の稚児であった曽我五郎の霊を慰めるため「勝名荒神 (しょうみょうこうじん)」として祭祀されたが、その後箱根権現に心願成就を祈念して 見事仇討本懐を遂げた曽我兄弟の孝心を称えて、江戸初期の正保4年(1647)小田原城主 稲葉美濃守正則が当地に石造の社殿を造営し、本社をを建立した。 爾来祥月命日の五月二十八日に故実による傘焼の儀などの神事が行われ、今日に至るまで 心願成就の守護神として崇敬されている。 曽我兄弟は幼名を兄十郎は一萬、弟五郎は筥王と称した。安元二年(一一七六)一萬が五歳、 筥王が三歳の時、実父河津三郎祐泰が工藤祐経に討たれるという不幸に遭遇した。 母満江御前は兄弟の身に危険の及ぶことを恐れ曽我太郎祐信(相模国曽我城主)と再婚し、 兄弟も曽我姓を名乗るという数奇な運命をたどった。兄一萬は成人元服し名を十郎祐成と 改めて曽我家を継ぎ、弟筥王は実父の菩提を弔うべく箱根権現別当行実僧正の下に預けられ 稚子となったが、孝心やみがたく杉の木を相手に秘かに武術にはげんだ。文治二年 (一一八六)正月、十三歳に成長した筥王は源頼朝の箱根権現参拝(二所詣)に 和田義盛等と共に幕僚として参列した仇工藤祐経を眼のあたりに見て復讐の念に燃え 隙を窺うも遂に果せず、却って祐経から赤木柄の短刀を与えられ諭される始末であった。 建久元年(一一九〇)十七歳になった筥王は出家を嫌い無断で箱根山をおり、元服して 五郎時致と名乗り兄十郎祐成と共に仇討を決意した。 建久四年五月初旬心願成就のため 箱根権現に参拝した兄弟はその折、別当行実僧正より神刀微塵丸、薄緑丸を授けられ 袂別した。 折から富士の裾野で大巻狩中の頼朝に従った工藤祐経を襲い、五月二十八日奇しくも 与えられた赤木柄の短刀でとどめを刺し本懐をとげた。が、しかし兄弟は壮烈な最期をとげた。 本社が建立された江戸時代は武士道が奨励され、赤穂義士の主君仇討と共に兄弟の孝心、 忠節は武士の鑑と仰がれて神社に祀られると共に多くの文芸や物語に語り継がれ、今日 尚その誠烈な気風をしたう多くの人々に尊崇されている。 一、御祭神に関する宝物(箱根神社宝物殿陳列) (一)曽我兄弟像 (二)赤木柄の短刀 (三)微塵丸の太刀 (四)薄緑丸の太刀 (五)曽我兄弟縁起 (六)曽我十番切 (七)その他絵額◯点」 「曽我神社」を正面から。正面に「曽我兄弟八百年祭の碑」。 「曽我兄弟八百年祭の碑鎌倉時代 建久四年(一一九三)五月ニ十八日曽我兄弟が父親の仇討本懐を遂げ 殉難してから八百年 今茲に兄弟の戚徳を偲び 平成の大御代に甦りを念って 式年大祭を奉仕し 御本殿造営等幾多の記念奉賛事業を奉修したまた曽我物語を出版し箱根 小田原とその周辺に記念行事を盛んに行い武道場に於ては初の居合道全国選抜八段戦と弓道大会を催し 文武両道を興隆して 以て御神徳の宣揚につとめたこの間 七九〇年祭を契機に奉賛会を組織して拝殿の建立と境内整備等の記念事業を奉修しかつまた武道場を建設して青少年教化の道場とした 寄託された氏子崇敬者各位の御芳志に感謝しつつ弥栄を祈念する 平成五癸酉年 祥月命日 宮司敬白」 「神輿舎」。さらに石段を上ると正面に「箱根神社」の「御本殿」が姿を現した。 左手に「神楽殿」その奥に「社務所」。 「神楽殿」に近づいて。振り返ると「宝物殿・脇参道」への案内板が。 シャクナゲ(石楠花)の花であっただろうか?「おみくじ掛け(結び所)」。苔むした狛犬(右)を「神門」を背景に。近づいて狛犬(右)。狛犬(左)。後方に「社務所」が見えた。「神門」。 朱塗りの神門は、俗界と神域を分かつ結界の門であり、ここをくぐると箱根大神を祀る本殿の静寂な聖域へと足を踏み入れることになるのであった。そして「拝殿」。朱塗りの社殿と背後の深い森が美しく調和し、古くから関東総鎮守として崇敬を集めてきた神域の厳かな空気が漂っていたのであった。 拝殿正面の向拝(こうはい)上部に取り付けられている見事な龍の彫刻。・中央に角を持つ龍の頭・長い胴体が左右にうねる・周囲を青い波が取り巻く・金・緑・朱・青の極彩色で彩られていた「神門」横の「札所」。 「絵馬掛(えまかけ)所」を見る。 その右に「九頭龍神社新宮(くずりゅうじんじゃ しんぐう)」への入口の門。「絵馬掛(えまかけ)所」に近寄って。「箱根九頭龍神社」の龍の「絵馬」。 箱根神社の「神馬(しんめ)」を描いた絵馬。杉並木に囲まれた石段を進む神馬の姿は、古くから続く神事の厳かさを感じさせ、開運厄除の願いが込められているようであった。そして「九頭龍神社新宮」へ。正面から。 近づいて。扁額「九頭龍神社」。 九頭龍神社由緒九頭龍神社(本宮)・鎮座地 芦ノ湖畔九頭龍の森鎮座・御祭神 九頭龍大神・月次祭 毎月十三日・新年祭 一月十三日・例祭 五月十三日・湖尻龍神祭 八月四日九頭龍神社(新宮)・鎮座地 箱根神社境内鎮座・御祭神 九頭龍大神・月次祭 毎月十三日・新年祭 一月十五日・例祭 四月二十九日・湖水祭 七月三十一日【由緒】当神社は、古来、「箱根権現御手洗の池」と称された「芦ノ湖」の守護神・九頭龍大神をお祀りする神社です。御祭神の九頭龍大神は、昔から人々に「九頭龍さま」と崇められ、商売繁盛・金運守護・心願成就・良縁成就等に特に御神徳の高い龍神様として信仰されています。九頭龍神社は、芦ノ湖畔九頭龍大神誕生の聖地に鎮座する「九頭龍神社(本宮)」と、後年、湖水祭斎場の聖地たる箱根神社御社殿横に建立鎮祭された「九頭龍神社(新宮)」の二ヶ所に祀られています。九頭龍神社(本宮)では、毎月十三日に月次祭が執り行われ、毎年六月十三日に例祭が斎行されています。お祭りでは、御本殿での祭典に続いて芦ノ湖畔の祭場で、祭典でお供えされた神饌の内、米・酒・鯣・卵の四品が、各々九度に分けて湖中の九頭龍大神に献供される「湖水神事」が執り行われます。湖水神事は、奈良時代の昔、箱根大神の神力を得た万巻上人が、里人に害を及ぼしていた九頭の毒龍を調伏し、芦ノ湖の守護神・九頭龍大神としてお祀りしたことに由来します。爾来、連綿として龍神湖水の祭りは継承され、毎年七月三十一日の夕刻には、箱根神社例大祭の宵宮祭として九頭龍大神を祀る年間最大の龍神祭「湖祭」が斎行されています。湖水祭は、粨根神社境内の九頭龍神社(新宮)で「庭上の儀」が斎行され、続いて唐櫃に納めて捧持する「御供」を中心に御列が整えられて湖畔に進みます。桟橋から御供を乗せた御供船と、伴走する楽船、御伴船が芦ノ湖に漕ぎ出し「湖上の儀」が始まります。三艘の船は元箱根湾を巡行した後、平和島居前の湖上で見送る楽船と御伴船を残して、宮司一人が乗る御供船だけが湖心の祭場へ向かいます。湖心に着き浄闇の中、宮司口伝で継承される神秘の湖水神事が厳粛に斎行されると、祭祀の恙無き奉修を祝福する大花火が芦ノ湖上を鮮やかに彩ります。「湖水祭」は往古より箱根神社固有の特殊神事として継承されており、新調のお櫃に納めて御神前にお供えする特殊神饌の御供(三升三合三勺の赤飯)は、精進潔斎した神職が忌籠り、清らかに炊き上げて献供しています。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー関東総鎮守として箱根山に鎮座す「箱根大神」の生み出だされる生命の根源たる水の力を、芦ノ湖の守護神として司ってこられたのが「九頭龍神」です。九頭龍神の誕生逸話こそ、箱根大神の御神徳なくして九頭龍神の御神威の発揚はないと言われる所以です。皆様には、箱根神社と九頭龍神社の「両社参り」、更には箱根神社の奥宮である箱根元宮への「三社参り」で、箱根大神と九頭龍神のいっそう大きな御加護をいただかれますよう祈念申し上げます。尚、三社へのお参りは、ご自身のご都合のよろしい日にそれぞれのお時間の中で、真心込めてお参りいただくのが一番よろしいものと存じます。九頭龍神社新宮の拝殿天井に描かれた「雲龍図(うんりゅうず)」。ズームして。・墨一色を基調とした力強い水墨画風・大きく口を開いた龍・鋭い角と長い髭・全身をうねらせながら円を描く構図・周囲に渦巻く雲や水気を表現した筆致墨の濃淡だけで表現された龍は、今にも雲間から飛び出してきそうな迫力を湛え、芦ノ湖を守護する九頭龍大神の神威を感じさせるのであった。鋭い眼光と力強くうねる姿に、しばし見入ってしまったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.26
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そして箱根関所の見学を終え、隣接する「箱根関所資料館」を訪ねた。江戸時代の関所に関する古文書や出土品、復元工事の資料などが展示されており、箱根関所の歴史をより深く学ぶことができたのであった。正面の看板には「箱根関所資料館」と掲げられていた。建物は関所建築の雰囲気に合わせた和風意匠で、・黒い暖簾・白壁と黒格子・切妻屋根・木製の看板によって江戸時代の関所町を思わせる落ち着いた外観になっていた。入口左側には、関所役人をイメージした等身大人形が置かれ、我々を迎えてくれたのであった。右側には・図録・絵葉書・箱根関所関連書籍・土産品 などを販売するショップがあった。「箱根関所資料館」内は写真撮影禁止であったので、以下の写真はネットから。資料館入口方向を振り返った画像であろう。【展示テーマ】 1.箱根関所の移り変わり👈️リンク 2.全国の関所👈️リンク 3.箱根関所の役割👈️リンク 4. 箱根関所の女改め👈️リンク 5.箱根関所の役人たち👈️リンク 6.関所破りと薮入り👈️リンク 7. さまざまな通行手形👈️リンク 8.要害山と守り村👈️リンク 9.箱根関所の四季👈️リンク10.箱根宿と箱根関所👈️リンク11.甦った箱根関所👈️リンク12.大名行列と江戸の旅👈️リンク13.箱根関所の武器・武具たち👈️リンク「日本遺産「箱根八里」👈️リンク旅人たちの足跡残る悠久の石畳道箱根八里で辿る遥かな江戸の旅路箱根旧街道「箱根八里」は、江戸時代初めに徳川幕府が整備した東海道の一部で標高約10mの小田原宿から標高846mの箱根峠を登り、標高約25mの三島宿まで下る8里(約32km)をいい、東海道第一の難所とされていました。箱根八里には江戸時代に整備された石畳や一里塚、樹齢350年を超える杉並木などが点在し、一部が国の史蹟に指定されています。また、それらを結ぶ道沿いには往時の面影が色濃く残ることから平成30年日本遺産に認定されました。ここでは箱根八里のうち、「東坂」と呼ばれた箱根峠から小田原宿までの間に残る見どころの一部を紹介します。」 ①箱根関跡【国史蹟】②箱根旧街道の杉並木【国史蹟】③芦の湖と箱根神社④甘酒茶屋⑤西海子坂(さいかちざか)【国史蹟】⑥畑宿一里塚【国史蹟】⑦寄木細工⑧畑宿の集落江戸時代の箱根。箱根の歴史と温泉、旧街道、史跡についての記録と説明が含まれていた。・江戸時代の箱根の歴史と用水について解説。・仙石原関所や箱根八里などの主要街道とその歴史的意義を解説。・箱根の温泉地や宿場、史跡、石碑の現存状況について紹介。「お玉の話元禄15年(1702年)のことです。伊豆国大瀬村(静岡)生まれのお玉という女の子は、江戸(東京)に住むおじさんの家で奉公(家事手伝い)していました。しばらくして、お玉は伊豆の実家が恋しくなってしまい、ついに帰ろうと決心し、おじさんの家を抜け出しました。箱根の関所の近くまできましたが、お玉は奉公先を飛び出してきたものだから、通行手形をもっていません。仕方がないのでお玉は厳重な関所の警備を避けて脇の山を越えて抜けようとしましたが、箱根の関所は芦ノ湖から山の上までずっと柵が巡らせてあり、その柵を乗り越えようとして、からまってしまったところを村人に見つかってしまい、関所破りの罪で捕まってしまいました。捕まったお玉は、箱根関所の獄屋に入れられ、裁判を経て処刑されてしまいました。2月に捕まったお玉は、4月に処刑されるまで、約2カ月の間、獄屋に入れられていました。関所破りは、江戸時代の刑罰の中では親殺しなどと共にもっとも重い罪だったので、お玉も死罪を逃れることは出来ませんでした。本来関所破りは磔という刑が定められていますが、お玉の場合、同じ死罪ながらひとつ刑が軽くなり、獄門(さらし首)とされたようです。箱根八里は坂の名前がいくつもついています。お玉が捕まったとされる付近には「於玉坂」という坂の名前がつきました。また、付近にある「なずなが池」は、「お玉が追手を逃れてこの池に身を投げた」とか、処刑された「お玉の首を洗った」などという言い伝えが生まれ、いつしかその名も「お玉が池」と呼ばれるようになりました。」「お玉ヶ池」碑をネットから。 そして「箱根関所資料館」を後にして、「箱根関所」方向に引き返す。再び富士山頂の勇姿を。「京口御門」に向かって進む。 左手に「足軽番所」。 屋根材の現地耐久暴露試験が実施されていた。「これは、4つの工法を用いた屋根の模型になります。同じ環境に置いた場合、どの程度長期的維持が図られるのか、また腐朽の進行程度を確認するために暴露試験を行っています。屋根材はすべて杉材(木の赤身部分の手割板、厚さ9mm)を使用し、竹釘を打ち込み固定しています。Cの無処理材は約15年程度で表層の劣化が進行しました。どの工法が健全な形で長期的な維持が図られるのか?長い時間をかけて調査を行っています。試験区分A 杉板材(真空過熱による炭酸亜鉛含浸処理)B 杉板材(真空過熱による炭酸亜鉛含浸処理)と差込銅板の併用C 杉板材(無処理)D 杉板材(無処理)と差込銅板の併用【注】① 木材の炭酸亜鉛含浸処理の採用について木の温もりを保ちつつ、防腐性や防蟻性を備えた高耐久性含浸木材処理であり、蟻が木材を 食べ物として認識しないため、蟻害の多い、箱根関所復元施設では効果が期待できます。 また、環境にもよりますが、無処理材の約5倍程度の耐久性が期待できます。② 差込銅板の採用について腐朽を抑え耐用年数を数十年より長くすることを目的として、重要文化財でも採用 されている工法です。木材の重なり合う部分に銅板を差し込んでいます。カビや藻類による腐食から木材を守る効果があるとともに、雨水に溶け出した銅のイオン成分が、屋根材に付着して保護する効果もあり、20~30年の耐用年数以上に長くなることが期待されます。」 復元工事では文化財建築に用いられる伝統的な杉板葺きを採用していますが、・炭酸亜鉛含浸処理・差込銅板・両者の併用・無処理の4種類を同条件で比較し、長期耐久性を検証していたのであった。A 杉板材(真空過熱による炭酸亜鉛含浸処理)B 杉板材(真空過熱による炭酸亜鉛含浸処理)と差込銅板の併用C 杉板材(無処理)D 杉板材(無処理)と差込銅板の併用この花は ヤマボウシ(山法師)??「箱根関所」を後にして、旧東海道・県道75号線を「箱根関所南」交差点まで歩く。交差点角の「駅伝広場」にあった「襷(TASUKI)」碑。毎年、正月の2日(往路)、3日(復路)で行なわれる『箱根駅伝』の芦ノ湖ゴール直前にある箱根関所南交差点。『箱根駅伝』テレビ中継で、国道1号の箱根神社鳥居を抜けて最後のコーナーを回ると、ゴールテープの張られた芦ノ湖の湖畔(駅伝碑)。その最後のコーナー部分に設けられた広場がここ駅伝広場。駅伝広場の中央には、平成15年5月に設置された「襷-TASUKI-」のモニュメントが。 5区の往路でゴールするランナーをイメージした石碑の裏側には、箱根駅伝の歴史と第5区(小田原-箱根間)の難コースぶり(コースmapと高低差)が刻まれていた。「箱根駅伝の由来東京・箱根間往復大学駅伝競走、いわゆる箱根駅伝は、1920年(大正9年)に慶大、早大、明大、東京高師の4校が参加し、第1回大会が開催されました。その後、昭和、平成と襷が引き継がれ、数々の名勝負、感動シーンを生み、全国の駅伝ファンを魅了するとともに、学生ランナーにとっての憧れの舞台となっています。この箱根駅伝は、ストックホルム五輪のマラソン選手で、「マラソンの父」とも呼ばれる 金栗四三 氏の「二世紀に通用するマラソンランナーを育てたい」という熱い思いから誕生したもので、その思いを引き継いだ数多くの名ランナーが、箱根から世界の舞台へと羽ばたいています。」 「第5区「山登り」といわれる区間です。標高差約800mを駆け上がる箱根駅伝一の難コース。大半が急な上り坂で曲がりくねった道が続きます。それゆえ選手のコース取りやペース配分が難しく、予断を許さないスリルに富んだ区間です。」 「第6区箱根駅伝の折り返し区間です。スタートして少し上ると、あとは長い下り坂。ランナーの脚にかかる負担は平地の何倍にもなるそうです。ここでオーバーペースになると、下りなのに残りの距離が、選手にとって恨めしく思える区間です。」 旅館「川口屋」の先にあった案内パネル。「箱根宿の成立一六一八年(元和四年)徳川幕府によって宿場が開かれた。時の松平政綱が命を受けて山野を拓き、伊豆国三島宿(幕府の代官支配地)と相模国小田原宿(小田原城府地)から各五十戸づつ移住願いし、約六百人為的に箱根宿を創設し、まちを二つの系統に依って支配していた。現在も箱根宿主要部は、字三島町・字小田原町と名付けられている。尚、箱根宿成立に寄与された先人たちの不動の祖霊として現在、九家が実在し、歴史・伝統等を伝承して行く重責を担い道標を築き努めている。 箱根字三島町 祖嗣 川口屋(中央の古文書引用)一六一八年頃当宿場無高、五穀野菜無御座候霧深キ激寒ニテ田畑無御座候湖水三面、八九月頃鱒、三四月頃赤腹中候、山川ニ而、山生魚取申候」「箱根駅伝東京箱根間往復大学駅伝競争(現在二百十七・九km)は大正九年(第一回大会)に四校で争われました。以来、第二次世界大戦により、五回中断されましたが、昭和、平成と三世代に渡り、シード権の獲得校と予選を通過した大学、二十校(二百名)のみが毎年一月二日・三日の決戦に挑み、母校の名誉と栄光のために、勇気と汗と苦しみ、孤独感を一身に背負い、熾烈な戦いをしております。また箱根を制した者が陸の王者となり得ているのです。 箱根芦ノ湖折返し地点 川口屋」 石柱・「東京箱根間往復大学駅伝競走 往路ゴール」 廻り込んで「復路スタート」を。 今年、第102回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)は2日、往路(東京・大手町の読売新聞東京本社前~箱根・芦ノ湖駐車場入り口)が行われ、青山学院大が5区で大逆転を演じ、3年連続8度目の往路優勝を果たした。タイムは5時間18分8秒で往路新記録を樹立。青山学院大・黒田選手は1時間07分16秒で区間新の快走。 従来の記録を1分55秒も更新する驚異的なタイムで駆け抜けたのであった。また「シン・山の神」として大きな話題を呼んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.25
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そして「上の間(かみのま)大番所の建物の中で、上の間と呼ばれる部屋です。この部屋は、箱根関所の中でも最も格式が高く、通常は伴頭、横目が座り、大名や家老などの接待の間としても使われました。また、鉄砲や弓も置かれ、旅人を威嚇していました。」Kaminoma (Drawing Room)This room is called "Kaminoma". The Kaminoma is the highest grade room in the Hakone Sekisho, where the Bangashira and the Yokome usually worked.Sometimes the Kaminoma was used as a reception room for the daimyo, feudal lord, and the karo, chief retainer of the daimyo. Guns and bows were displayedin order to oppress passersby. 図面内の表記・長持・六曲一双屏風・鉄砲・状箱・弩瓢(どひょう)・燭台・火鉢・伴頭・硯箱・文机・横目・弓・矢櫃・靱(うつぼ)・槍「上の間」。 箱根関所の大番所にある「上の間(かみのま)」を復元した展示。説明板にあったとおり、関所内で最も格式の高い部屋で、伴頭(ばんがしら)や横目(よこめ)が執務し、大名や家老を迎える応接の場でもありました。左側の鉄砲 左には多数の火縄銃(ひなわじゅう)が整然と立て掛けられていた。 これらは関所の武装を示すもので、実際の警備用であると同時に、関所の権威を旅人に示す 役割を果たしていた。鉄砲の下には黒漆塗りの銃箱が置かれていた。中央の弓 部屋の中央には多数の和弓が並べられていた。 ・長大な弓が一列に整然と立てられている ・弓弦は外され保管されているように見える ・武具庫としての性格を強く感じさせる 配置。背後の屏風 六曲一双屏風(ろっきょくいっそうびょうぶ)が置かれていた。 墨絵風の山水画が描かれており、武具が並ぶ厳粛な空間に格式を与えていた。 大名や家老を迎える応接間としての性格を示しています。右側の役人 白色のシルエット人形は、先ほどの説明板にあったように、 ・顔立ち ・体格 ・衣服の色 が不明であるため、あえて白色で表現されています。 机に向かって文書を扱う姿から、伴頭または横目の執務風景を再現したものと思われます。背後の長持 右奥には家紋入りの長持(ながもち)が積まれています。 長持は衣類・書類・備品などを収納する大型の箱で、格式の高い部屋らしい調度品。 これは箱根関所が単なる事務所ではなく、江戸幕府の威信を背負った警備・取締り施設で あったことを示していた。 旅人がこの部屋を目にしたとき、 「ここは幕府の関所であり、規則に従わなければならない」 という緊張感を自然に感じるように設えられていたのでしょう。 まさに「権威を見せる部屋」であったことが、この復元展示からよく伝わって来たのであった。「伴頭(ばんがしら)」 「伴頭(ばんがしら)箱根関所役人の中で最上級の武士である番頭です。関所の日常業務や審理運営を統括していました。BangashiraBangashira was a samurai who was dispatched from the Odawara Domain and was the highest-ranking among the officials working at Hakone Sekisho. He assumed fullresponsibility for the daily operations and management ofthe checkpoint.」 「横目(よこめ)伴頭に次ぐ地位で、関所業務の正常で円滑な遂行について監視する役ところです。江戸時代後期に新設、常置された役職です。」 「京口御門」を振り返って。 「足軽番所大番所・上番休息所の次に大きな建物で、大番所・上番休息所の向かい側、江戸口御門の脇にあります。昼間は足軽が控えていたり、夜は足軽が寝ていた場所です。建物内には足軽のための部屋や休息所、不審な武士などを留め置く「揚屋(あがりや)」、関所破りをした罪人などを一時的に拘置する獄屋(牢屋)などがあります。屋根は大番所と同様に杉板を薄く割って重ねた「栩葺(とちぶき)」で、外壁は壁板を「渋墨(しぶすみ)」で黒く塗られています。特に、「獄屋」は格子で囲まれており、とても頑丈に造られています。」 移動して。「足軽番所」の左側隅に「獄屋」関所破りをした罪人などを一時的に拘置する獄屋(牢屋)などがあります。屋根は大番所と同様に杉板を薄く割って重ねた「栩葺(とちぶき)」で、外壁は壁板を「渋墨(しぶすみ)」で黒く塗られています。特に、「獄屋」は格子で囲まれており、とても頑丈に造られています。「獄屋(ごくや)」 「獄屋(ごくや)足軽番所に付属する獄屋です。関所破りなどの罪人を留め置くところで、とても頑丈に造られていました。」「獄屋(ごくや)」は、「足軽番所」という建物内に設けられていた。獄屋自体の明確な畳数や平米数の記録は公開されていませんが、獄屋がある足軽番所全体の広さは 約15×9m(平屋建て)であると。「和釘(復元)"Wakugi" (Japanese traditional nails)関所の復元に使用した釘(くぎ)で、江戸時代に使用されていたものと同様の作りとなっています。この釘は断面が角ばっていることと、巻頭(まきがしら)と呼ばれる頭の形に特徴があるものです。この釘を打ち込むと表面に釘の頭が突出せず、平に仕上がります。The nails used to restore the Checkpoint are the same as those used in the Edo period.These nails are characterized by the angular cross section and by the shape of a nailhead called "Makigashira" or "Rolled-head".When they are driven in, the nail head does not protrude from the surface but lays flat.」この展示は、箱根関所の復元工事で実際に使用された 和釘(わくぎ) を紹介しています。現代の洋釘は丸い鉄線を機械で作りますが、和釘は鍛冶職人が鉄を叩いて作ります。そのため、・断面が四角形または長方形・先端が鋭い・頭部が「巻頭(まきがしら)」になっているという特徴があります。なぜ和釘を使うのか箱根関所は江戸時代の建築を忠実に復元しているため、・柱や梁の仕口・板壁・屋根下地などに、できる限り当時と同じ工法・材料が採用されました。和釘は木の繊維を切り裂くように入るため保持力が強く、さらに頭が目立たないので、建物の外観を美しく仕上げることができます。 「金輪継ぎ(かなわつぎ)関所の建物には、「金輪継ぎ」という日本古来の建築工法が使われています。これは、つなぎ合わせる材木を手できざみ組み合わせ、くさびを打ち込んでとめるという大変強固な継ぎ方です。建物の柱と梁など骨組みの部分は、この「金輪継ぎ」となっており、足軽番所の軒下などで見ることができます。」 右側の図の説明上段 つなぎ合わせる材木に切り込みを入れます中段 はめ込み組み合わせます下段 楔(くさび)を打ち込み、はずれないように固定しますネットから。「休息所」の光景。 「休息所(きゅうそくしょ)足軽番所の休息所と呼ばれる部屋です。身の回りの日用品などを置き、夜に休むところでした。この奥の部屋は下番居所と呼ばれ雑用をする下番が控えていました。Kyusokusho (Rest Area)This room was a rest area for foot soldiers within the foot soldiers' quarters. Here was where the soldiers kept personal items and rested at night. At the rear of the rest area was the Shimoban Kyosho, a place where workers called shimoban waited to be called on to perform routine tasks.」 「足軽(あしがる)伴頭などの下で施設の営繕や御門の開閉、遠見番所での監視など多くの業務にあたっていました。AshigaruAshigaru were tasked with various duties, including serving as gatekeeper sat the Kyoto side gate and Edo side gate and guarding Hakone Sekisho from the elevated lookout post 24 hours a day.」 畳敷きの部屋で、勤務の合間を過ごす足軽たちが表現されています。・左手前の足軽は横を向き、仲間の様子を見ています。・中央奥の足軽は囲炉裏端で一服しているように見えます。・右手前の足軽は振り返り、仲間との会話に加わろうとしているようです。・奥には二人が向かい合い、談笑している姿も見えます。厳しい警備任務の合間の、ほっとした時間を切り取った場面なのでしょう。左手前の足軽は、仲間たちの会話に耳を傾けているようです。右手前の足軽は振り返りながら微笑んでいるように見え、緊張感のある関所勤務の中にも、仲間同士の親しさが感じられます。奥では二人の足軽が向かい合って座り、勤務の情報交換や雑談をしているようです。移動して様々な角度から。移動して様々な角度から。白いシルエット人形でありながら、足軽たちの視線や姿勢からは、囲炉裏を囲んで語り合う江戸時代の詰所の空気がよく伝わってきます。まるで夜勤の合間に交代の時刻を待っているような、静かな緊張感と親しみやすさが同居した光景なのであった。・中央の四角い設備は かまど。・上に載っている丸い容器は 釜(かま)。・右側の人形は、かまどの火を管理したり炊事を行ったりする足軽の様子を再現しています。・土間は土足で作業する場所で、炊事・雑用・警備用品の保管などに使われました。・説明板にある 六尺棒(ろくしゃくぼう) は長さ約1.8mの棒で、罪人の捕縛に用いられた 捕物道具です。 廻り込んで。米を炊いているのであろうか。「土間(どま)足軽番所の土間です。炊事などを行っていました。ここには日用品のほか、六尺棒などの捕物具が置かれていました。Doma (Room with Earthen Floor)This is an earthen-floored room located in the foot soldiers' quarters.It was used for cooking and similar activities. Tools used for apprehending criminals,such as rokushakubo long staffs measuring about 1.8 meters in length, were also stored here.」 「遠見番所」を見上げて。 「井戸」。江戸口・京口の千人溜にそれぞれ1ヶ所ずつ、関所構内に2ヶ所、井戸があり、関所の役人たちが利用していたものです。近づいて。「井戸Well箱根関所絵図には描かれていなかった場所から遺構調査によって井戸が発掘されました。この井戸は山水を蓄え涸れることなく一定の水位を保っています。A well was excavated during a survey of remnants of ancient structures from a location that was not illustrated in the Hakone Checkpoint Picture Map. This well is full of mountain spring water, has never dried up, and maintains a certain level of water after its resurrection.」 「足軽番所雪隠」。雪隠とは、便所のこと。足軽が利用するためのもので、旅人は利用できませんでした。 「遠見番所」を下から見上げて。「遠見番所」に上る江戸時代の石段を見る。 「石段Stone steps遠見番所に上がるこの階段には、発掘調査によって出土した江戸時代の踏み石がそのまま使われ、急な傾斜も当時を再現しています。いにしえの役人が行き来した石段を登ると芦ノ湖の対岸まで見渡せます。(下から数え17段目より上は当時の踏み石です)These steps leading up to the tomibansho make use of the stepping stones fromthe Edo era, which were discovered during an excavation project, and the steepinclination reflects what it was like at the time.From the top of the flight of steps that the officials regularly used to come and goin the ancient times, you can look across the sweep of Lake Ashi to the opposite shore.(Stone steps from the 17th step, counting from the bottom, all the way to the top, are from the Edo era.)」 「遠見番所」。 箱根関所で唯一の二階建ての建物。四方に開かれた大きな窓から二名の足軽が昼夜を問わず交代で、芦ノ湖や街道沿いを見張っていたのだ と。 江戸期の芦ノ湖は船の通行は禁止であった、遠見番所は芦ノ湖を監視する番屋でもあった。「箱根関所」の大番所・上番休息所を見下ろす。 芦ノ湖の観光海賊船と富士山の勇姿も見えた。この高札は箱根関所に掲げられていた「定(さだめ)」の一部を復元したもの・御制札場。江戸口御門から関所に入って、すぐ右手に「御制札場」という小さな屋根のついた掲示板のような施設があった。ここに掲げられた札には、正徳元年(1711)に幕府道中奉行が箱根関所に出した、五項目の取り調べ内容が記載されていた。板葺(いたぶき)の屋根や渋墨が塗りこまれており、威厳を感じさせる建物。「定一、関所を通る旅人は、笠・頭巾を取り、顔かたちを確認する。一、乗物に乗った旅人は、乗物の扉を開き、中を確認する。一、関より外へ出る女(江戸方面から関西方面へ向かう女性:出女)は詳細に証文と照合する 検査を行う。一、傷ついた人、死人、不審者は、証文を持っていなければ通さない。一、公家の通行や、大名行列に際しては、事前に関所に通達があった場合は、通関の検査は 行わない。ただし、一行の中に不審な者がまぎれていた場合は、検査を行う。」 と。「江戸口御門」京口御門の対面側にあった。高麗門という形式の門で、その高さは6.1mで、大番所・上番休息所をしのいでいます。屋根や外観は「栩葺」、「渋墨塗り」です。江戸方面から来た場合には、この門から中が箱根関所の構内で、西へ向う旅人はこの門の前で身支度を整え、関所の中へと入りました。 再び「遠見番所」を見上げて。 「江戸口御門」にも「箱根関所」案内板があった。 再び「箱根関所 案内図」。 「江戸口千人溜」を振り返って(写真はネットから)。江戸口御門の外にあり、旅人たちが関所改めを待つ待機場として利用された広場。 「矢場」(写真はネットから)。弓や鉄砲の練習場で、江戸口御門の外の湖側にあった。そして「箱根関所資料館」に向かって歩を進める。 「御番所茶屋」手前横の藤棚そしてその先に芦ノ湖の湖面。藤の花を見上げて。「芦ノ湖」。 海賊船「ビクトリー」。 「箱根関所散策マップWalking map江戸幕府が設けた全国5 0数カ所の関所の中で、箱根関所は、江戸時代第一の街道である東海道を監視するために設けられた関所でした。東海道の旅人は箱根関所を通り、特に江戸方面から京都方面に行く女性の旅人「出女」には、念入りな取り調べが行われたと言われています。箱根関所周辺には、今も、当時の石畳や杉並木が残され、車が行き交う国道1号と、時には交差し、あるいはすぐ横に沿うようにして、江戸時代の街道の風情を色濃く伝えています。地図中の主な表示芦ノ湖・芦ノ湖(Lake Ashi):湖面の高さ724m、周囲21km、最大水深40m)・遊覧船乗り場(Sightseeing boat)関所周辺・箱根関所資料館・箱根関所跡港・箱根町港・箱根駅伝ミュージアム・箱根駅伝往路ゴール/復路スタート地点散策ポイント・箱根やすらぎの森・杉並木公園・杉並木の石畳・森のふれあい館街道・峠・箱根旧街道(Hakone Old Tokaido)・箱根峠・玉ノ浦峠・外輪山展望歩道(Gaikanzan Observation Trail)・芦ノ湖西岸歩道(Ashinoko West Bank Trail)所要時間箱根関所 → 杉並木の石畳 約20分杉並木の石畳 → 森のふれあい館 約25分箱根関所 → 箱根峠 約55分箱根峠 → 玉ノ浦峠 約85分玉ノ浦峠 → 湖尻峠方面 約100分」「ミヤコワスレ(都忘れ)」か?近づいて。「箱根関所資料館」に向かって、湖岸に沿って遊歩道を進む。富士山山頂の勇姿を。「恩賜箱根公園駐車場側」にあった「箱根御関所」案内板。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.24
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そして「箱根関所」へ。江戸時代交通史の重要な史跡、箱根関所。当時の匠の技や道具を使い、およそ140年の時を経て、再び芦ノ湖畔にその姿をあらわしました。渋墨塗りで黒く塗られた威厳溢れる佇まいは、江戸時代さながらに通る者を緊張させます。前面に芦ノ湖を望み、背後に屏風山が控える眺望豊かな立地は、まさに箱根・芦ノ湖の旅の玄関口。今も昔も箱根の旅はここ箱根関所を越えていきます と。 「関所通り」を「京口御門」に向かって進む。 「京口御門」が前方に現れた。「京口御門」。江戸口御門の対面側にあります。高麗門という形式の門で、その高さは6.1mで、大番所・上番休息所をしのいでいます。屋根は外観は「栩葺(とちぶき)」「渋墨塗り(しぶすみぬり)」です。京都方面から来た旅人は、この門から中が箱根関所の構内で、旅人はこの門の前で身支度を整え、関所の中へと入りました。 フォトスポット「箱根関所」。 「箱根関所」案内板。 「箱根関所(国指定史跡 箱根関跡)箱根関所が、江戸幕府によって、山と湖に挟まれた交通の要衝であるこの地に設置されたのは、元和5年(1619)のことと伝えられています。箱根関所は、江戸幕府が江戸防衛のために、全国に設置した53ヶ所の関所のうち、東海道の新居(静岡県)、中山道の碓氷(群馬県)、木曽福島(長野県)と並んで規模も大きく、特に重要な関所と考えられていたようです。この関所の配置は、箱根山中の東海道の中で、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区画し、江戸口・京口両御門を構え、大番所と足軽番所が向き合うものとなっています。一般的に関所では、「入り鉄砲に出女」を取り調べたと言われていますが、この箱根関所では、江戸方面からの「出女」に対する厳しい取調べを行っていました。江戸時代を通じて機能を果たしてきた関所ですが、設置から250年後の明治2年(1869)、新政府により関所制度が廃止され、その役割を終えました。箱根関所の跡地は、大正11年(1922)、「箱根関跡」として国の史跡に指定されました。昭和40年(1965)には番所の建物が建設され、その後、昭和58年(1983)、江川太郎左衛門家(静岡県伊豆の国市)から、慶応元年(1865)に完成した箱根関所の大規模修理についての克明な資料『相州箱根御関所御修復出来形帳』が発見され、資料の解析や跡地の発掘調査を経て、平成19年(2007)春、国土交通省、文化庁、神奈川県の補助を受けた復元整備を終え、箱根関所は往時の姿によみがえりました。 平成19年(2007) 箱根町教育委員会」 案内図をトリミング。「京口御門」を正面から。 箱根関所は、元和4年(1618)ごろには、既に設置されていたものとされています。江戸幕府は、東海道の本道として整備して、箱根峠寄りに人工の町である「箱根宿」を設置して、元箱根側の芦ノ湖畔に箱根関所を設置しました。平成19年(2007)に、関所が復元され公開されています。東海道の江戸寄りを「江戸口御門」、京寄りを「京口御門」と称し、屋敷門に比べて簡素な造りとなっています。この門は、切妻屋根コケラ葺、両袖小棟板塀付。「京口御門」。箱根関所の京都側の門。江戸口御門と同じく、「明け六つ」(日の出)から「暮六つ」(日の入り)の間だけ開いていました。江戸時代260年にわたって機能してきた箱根関所は、明治2年にその役目を終え、取り壊されていましたが、平成16年に復元されたました。往時の姿を忠実に復元された建物は木目もわからないほどに真っ黒に塗られています。この、黒い塗装は渋墨塗といって、柿渋と松木を焼いた煤(松煙)を混ぜたもので、防虫・防腐効果がある他、建物の化粧として用いられています。日本古来の伝統技術でした。箱根関所の建て位置は、湖畔に面しているので、風雨によりこの渋墨塗が薄れてきますので、定期的に補修が行なわれています。「渋墨(しぶすみ)関所の建物は渋墨で黒く塗っています。この渋墨とは、柿渋と松を焼いた「すす」を混ぜたもので、防腐効果とあわせ建物の化粧として用いたものです。この黒い部分に触れると黒い「すす」が付着しますのでご注意ください。※ 特に濡れていると付着しやすいので注意してください。」 チケット・500円。箱根関所通行手形。箱根関所通行手形の内部には箱根関所見学案内絵図。こちらも箱根関所見学案内絵図(ネットから)。京口御門を入って直ぐ左側にあったのが「「厩(うまや)」。 「箱根関所の厩(うまや)江戸時代、箱根関所に建てられていた厩には5頭の馬をつなぐことができるようになっていました。しかし、実際には2頭しかおらず、空いた場所には関所の廻りにめぐらした木柵の予備や外掃除の道具、火を消す道具などが納められていました。厩は納屋と兼用だったようです。」 「シルエット展示関所内に展示している役人などの人形は、当時の記録から役職や人数、名前などは判明していますが身体的特徴や衣服の色などは明らかではありません。また馬も毛並みの色などは特定することはできないため、あえて淡い色で全体をシルエットのようにして、史実と異なったイメージを与えにくい「シルエット展示方法」にしています。」 奥にあったのが「上番所下雪隠」。 近づいて。便所のこと。関所役人が使用するためのもので、旅人は利用できませんでした。「上番所下雪隠」の内部を見る。「ひかりつけ👈️リンクHikaritsuke石の凹凸に合わせ木材が削られ、建物の土台と石垣がぴったり取り付いているのがわかりますか?この加工技術を「ひかりつけ」と呼びます。ひかりつけを行うには、石垣上部に石灰を撒き木材を乗せ、密着具合を確認しながら木材を削っていきます。木材全体にまんべんなく石灰が付くまで、何度も確認しながら作業を続け完成します。矢印の先、建物土台と石垣上部の合わせ目をご覧ください」 「ひかりつけ」の作業の写真をネットから。湯殿。「湯殿(ゆどの)大番所・上番休息所の建物の中で、湯殿と呼ばれる部屋です。湯殿ですが、風呂桶が置かれていたわけではなく、たらいに湯を汲んで、湯浴みをしていました。」「勝手板の間(かっていたのま)」。 「勝手板の間(かっていたのま)大番所・上番休息所の建物の中で、勝手板の間と呼ばれる部屋です。この部屋には囲炉裏が置かれ、関所役人の食事や休息に使われていました。」 図面内の表記・三つ道具置(Mitsudoguotate)・戸棚(Todana)・行燈(Andon)・岡持(Okamochi)・火鉢(Hibachi)・番士(Banshi)・自在鉤(Jizaikagi)・鍋(Nabe)・囲炉裏(Irori)・中間(Chugen)・炭箱(Sumibako)・鉄瓶(Tetsubin)・炭壺(Sumitsubo)・煙草盆(Tabakobon)・七輪(Shichirin)左:番士(ばんし) 箱根関所における「番士(ばんし)」とは、旅人の手形(通行証)の確認や所持品の 検査など、関所の実務を直接担当していた役人のことです。江戸時代の箱根関所に おける番士の主な役割や体制は以下の通りです。主な役割手形の改め: 旅人が差し出した 「通行手形(現代のパスポートに相当)」が本物かどうかを確認し、目的地などを 記録していました。取り締まり: 幕府の治安維持のため、「入り鉄炮(江戸へ持ち込まれる 武器)」と「出女(江戸から国元へ帰る大名の妻など)」の監視・取り締まりを厳重に 行っていました。送迎と手配: 大名や幕府役人の通行時の送迎手配なども担っていました。右:中間(ちゅうげん) 箱根関所における「中間(ちゅうげん)」とは、関所の役人に仕えた使用人(武家奉公人)の ことです。足軽などの下で、関所役人の身の回りの世話や、関所で使われていた馬の世話 などの雑務を担当していました。箱根関所の役職と構成箱根関所は小田原藩が警備を任されて おり、主に以下のような身分や役職の人々で構成されていました。役人・番士:証文(手形) の改め(確認)や記録などを行う足軽:関所の門番や警備を担当中間:役人の身の回りの お世話や馬の世話などを担当定番人:地元(近辺の農民)から雇用され、警備や庶務を補佐。移動して。「土間」と「下番(しもばん)」。 「土間大番所・上番休息所の建物の中で土間とよばれる場所です。ここには、竈が据えられていたほか、箒や提灯、蓑・菅笠などさまざまなものが置かれていました。また、この土間が建物と外との主な出入りの場所でした。」 図面内の主な表記・大釜・団扇(うちわ)・水甕(みずがめ)・柄杓(ひしゃく)・水汲桶・番傘・高張提灯箱・弓張提灯箱・龕灯・松明・菅笠・蓑「下番(しもばん)関所役人の食事の支度をはじめ、かまどや囲炉裏の火の番などさまざまな雑用をしていました。」 「シルエット展示関所内に展示している役人などの人形は、当時の記録から役職や人数、名前などは判明していますが身体的特徴や衣服の色などは明らかではありません。また馬も毛並みの色などは特定することはできないため、あえて淡い色で全体をシルエットのようにして、史実と異なったイメージを与えにくい「シルエット展示方法」にしています。「大番所 上番休息所関所の一番主要な建物です。二棟が継がれている建物で、街道側が大番所、湖側が上番休息所と呼ばれています。共に栩葺(とちぶき)と言われるうすく割いた杉板を重ねた屋根を持ち、また外観は、渋墨で塗られた黒い建物です。近づいて。「大番所 上番休息所」。 廻り込んで。手前に立てられている6本の長い棒は、槍(やり)や長柄武器の展示左:鑓建(やりたて)右:長柄建(ながえたて)関所に配備された鑓や長柄という武器が建てられ、関所を通る旅人を威嚇していました。「人見女」。 「人見女(ひとみおんな)定番人同様、関所周辺に住んでおり、小田原藩から小禄が与えられていました。関所唯一の女性役人で「出女」の改めを専門に行っていました。HitomionnaHitomionna was the only female official at Hakone Sekisho. Her job was to conduct body searches on all women traveling from Edo (now Tokyo) to Kyoto.」 廻り込んで。江戸時代、関所では特に・入り鉄砲・出女を厳しく取り締まりました。このうち「出女」とは、江戸から無断で出ようとする女性のことです。大名の妻子は江戸に住まわされる「参勤交代」の制度のもとで、事実上の人質として扱われていました。そのため、大名家の女性が無断で国元へ逃げ帰ることを幕府は警戒していました。女性旅人が関所を通過する際には、人見女が・通行手形の確認・本人照合・身体検査(人相改め)を行い、「出女」ではないことを確認しました。箱根関所は全国でも特に重要な関所であり、人見女はその中でも重要な職務を担っていたことになります。箱根関所の役人詰所(大番所・上番休息所)を再現した展示。①畳敷きの広間 木壁に囲まれた和室で、江戸時代の役所・番所の室内を再現しています。②シルエット人形 白色の人形が3体置かれています。先ほどの説明板にあった「シルエット展示」の方針に 基づき、身体的特徴や衣服の色が不明なため、あえて淡色で表現されています。③役人の業務風景 ・左:箱や帳面を扱う役人 ・中央:書類(通行手形や文書)を確認する役人 ・右:机で記録・事務を行う役人 箱根関所での 旅人の通行手形の確認、記録、取調べ などの業務を表現していた。④展示パネル 各人形の前に役職名と説明が書かれたパネルが置かれており、関所勤務の役人の役割を紹介。⑤背景の武具 壁際には槍などの長柄武器が見え、関所が単なる事務所ではなく、警備・取り締まりを担う 施設であったことを示していた。「面番所大番所・上番休息所の建物の中で、面番所(めんばんしょ)と呼ばれていた部屋です。関所役人や定番人(じょうばんにん)が詰めており、部屋の前の縁側では、「出女」の取調べが行われていました。面番所の内部には、関所役人用に、机を始め硯箱、煙草盆、火鉢などが一人ずつの側に置かれており、奥の壁際には様々な記録を収めた木箱がありました。また、鴨居には槍や刀が掛けられていました。」 左の人物 :札には 定番人(じょうばんにん) 。関所に常駐し、通行人の取り調べや監視を担当した役人です。机の前に座り、実務を行っている様子が表現されています。番士(ばんし)旅人の改めをはじめ、関所施設の維持管理など実務を担う役どころです。箱根関所には常時三名の番士が勤務していました。中央の人物 :通行手形(旅券)を確認している場面。 関所では旅人が提示した通行手形を確認し、身元や通行の正当性を調べました。右の人物 :書類の記録や事務作業をしている役人です。 関所では通行者の確認だけでなく、各種記録・報告業務も重要な仕事でした。「横目(よこめ)番頭に次ぐ地位で、関所業務の正常で円滑な遂行について監視する役どころです。江戸時代後期に新設、常置された役職です。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.23
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この日は5月20日(水)、卒業した会社の健康保険組合の温泉保養所が箱根・仙石原にあり何回となく利用したが、今年の8月末にて閉鎖されるとのことで、今春既に2回訪ねたがこの日は、実兄、義兄と共に3人で訪ねることに。自宅を9時に出発し、実兄、義兄を乗せ、我が軽自動車で西湘バイパス~アネスト岩田ターンパイク箱根(箱根ターンパイク)を利用して最初に大観山展望台を訪ねた。時間は10:11。自宅から1時間10分ほどで到着。大観山展望台からの富士山の勇姿を。前回は4月15日(水)から1か月以上経過し、山頂附近の積雪量もかなり少なくなっていた。ズームして。さらに。これが、前回の4月21日(木)の朝の富士山の積雪状況。「日本景勝百選地 箱根大観山 標高1011M」と。 芦ノ湖とのコラボ。標高は芦ノ湖:723m箱根大観山:1,011m富士山:3,776mそしてこちらは標高:1,356mの駒ヶ岳山頂。「箱根町港」方向をズームして。 再び富士山頂付近をズームして。「箱根のぶらんこ」越しに富士山を。一応幸せのブランコということで2人まで乗れるらしいですが、2人で110Kgまでと書いてあったので、大人のカップルには厳しくないか?!と 。箱根のぶらんこ「箱根のぶらんこ」は、大切な人と一緒にこの大観山で素敵な思い出を作ってしい、という願いから作られた「二人乗りブランコ」です。毎年一組のカップルがこの場所で挙式し、ブランコの前に愛を誓う「幸せのブランコ」であり、前に小田原産のヒノキを使った「地産地消の木製ブランコ」でもあります。雄大な富士山と芦ノ湖を背景に思い出の一枚を残してください。」 歩道橋を渡り「アネスト岩田スカイラウンジ」に向かって進む。この場所からの眺望写真には山々の名前が記入されていた。南アルプスの山々そして愛鷹山も。 駒ヶ岳方向。二子山そして丹沢山地方向。そして「アネスト岩田スカイラウンジ」を訪ねた。館内図。フードコートからのこの日の眺望。「小田原・箱根・伊豆エリアガイド 足を伸ばして想い出をもう一ついつでもどこでもターンパイクアネスト岩田 ターンパイク箱根箱根・湯河原Hakone / Yugawara緑豊かなリゾート「天下の険」と称された箱根。歴史を残す「箱根関所」や芦ノ湖、大涌谷、仙石原など温泉地として有名。湯河原温泉は古くから多くの文豪・画家などが逗留し、創作の筆を執った場所。また、万葉集にも詠まれている歴史のある温泉です。箱根・湯河原は様々な観光地やレジャー施設等も点在し、年間国内外から多くの観光客が訪れています。中伊豆Naka Izu癒しの温泉郷伊豆半島の中央・中伊豆工リア。8 0 7年に弘法大師が開いたとされる伊豆最古の温泉「修禅寺温泉」や演歌にも歌われる天城、「浄蓮の滝」などがあります。また、わさびやみかんの名産地としても広く知られており、お土産としてはもちろん、収穫体験なども楽しめます。東伊豆・南伊豆Higashi Izu / Minami Izu海と自然を満喫日本一の早咲きで有名な河津の桜や、数々の温泉地、花火大会、海水浴などで賑わう東伊豆。マリンスポーツのほか、季節の花々やハイキングなども楽しめる南伊豆。レジャーはもちろん、日本屈指の絶景スポット・獲れたて新鮮な海鮮グルメも魅力です。」アネスト岩田ターンバイク箱根四季折々の楽しみが、あなたの旅の思い出づくりのお手伝いをします。アネスト岩田ターンバイク箱根は、本線小田原料金所から終点の大観山まで約14km。標高1 , 011mまで、大自然・景色の美しさ、数々の歴史的スポットが点在する清々しい道のりが続きます。標高差があるため、桜ゃあじさいをはじめとした四季の草花は段階的に咲き誇り、訪れる人々を楽しませてくれます。 館内の土産物店「星の国」。この日も「湘南ゴールド」が販売されていた。 「湘南ゴールド」は、神奈川県が12年かけて開発した黄色い小ぶりの柑橘で、3月から4月上旬が旬です。レモンのような見た目ですが、糖度12度前後と甘く、爽やかな香りとバランスの良い酸味が特徴。皮がむきやすく、そのまま食べるのはもちろん、加工品にも人気 と。「青梅」1袋 500円と。1kgはなさそうであった。 「アネスト岩田スカイラウンジ」を振り返って。 そして「大観山展望台」を後にして、箱根港に到着。時間は10:41日本の伝統文化を散りばめた「クイーン芦ノ湖」が出航。富士山の勇姿が箱根港からも。ズームして。標高1,101mの「三国山」の後方に富士山の姿が。箱根外輪山のピークの1つで、芦ノ湖の西側に位置する山。かつては駿河、相模、伊豆の三国の境にあったために名付けられたが、現在は静岡県と神奈川県の境のみとなっている。箱根スカイラインが近くを通るが、外輪山の縦走路は展望が良く、付近はブナの大木もあり新緑時期や紅葉期は特に美しいのだ。 「箱根町港」の旅客ターミナル建物。 芦ノ湖の桟橋(箱根海賊船の乗り場)。箱根海賊船の時刻表・特別船室案内。写真の左側は特別船室(ファーストクラス)の案内、右側は海賊船の出航時刻表。湖岸近くには大きな石碑があった。「パウル・シュミット(1872 - 1935)の碑」。 「Paul Schmidt」。「パウル・シュミット(1872 - 1935)の碑パウル・シュミットは1895年、24才の時に来日したドイツ人てす。40年間箱根に暮らし、ドイツのライカカメラを扱うエルンスト・ライツ社の代理店を営み活躍、母国から功労賞を受けました。箱根をこよなく愛し、芦ノ湖の湖畔に「赤門」と呼はれた最初の別荘を建てました。内外人に箱根の美を紹介した先駆者てあり、また大変な親日家で、日本通としてドイツ大使代々の相談役でもありました。恵まれない方々に匿名で金品を贈るなど、その優しい人柄は箱根の人々から大変親しまれました。1935年、出張先の上海て死亡。享年63才でした。その遺徳を偲び、永く顕彰するために、この碑を建立しました。建立: 1936年5月 箱根DMO (一般財団法人箱根町観光協会)」箱根駅伝ミュージアムからすぐ近くの芦ノ湖湖畔にも箱根駅伝記念碑があった。箱根町港の湖畔に建つ「箱根駅伝栄光の碑 若き力を讃えて」。ちなみに、この記念碑の高さは214.7cm、すなわち建立当時(平成6年)の箱根駅伝総距離の10万分の1に相当する と。箱根駅伝栄光の碑「若き力を讃えて」の台座の側面には歴代優勝校の名前が刻まれていた。「東京箱根間往復大学駅伝競走優勝の記録(1/2)」。 「東京箱根間往復大学駅伝競走優勝の記録(2/2)」。ズームして。既に今年「2026年 令和8年 第102回 優勝校 青山学院大学」と刻まれていた。 前方に「平和を願う碑」。「私たちは、人々の幸せと世界の平和に貢献できる町づくりを目指す」という内容が刻まれていた。その後ろにあったのが「駅伝を讃えて」と書かれた石碑。箱根駅伝の60回大会を記念して建てられた詩碑。勝承夫の詩が刻んであった。「駅伝を讃えて 若い豹は春の象徴 君たちが走ると 東海に春がよみがえる 富士はおおらかに微笑み 相模の海は夢多い調べをおく 君たちは意志と力の群像 君たちは青春の花々 赤や海老茶や紫が入りみだれて 春のさきがけのテープを織りなす 君たちは光のようにはつらつと走り 町々を 並木を 野を 山を 呼びさます 春のつばさ 東京箱根間大学駅伝 二日間のレースは 二つないスポーツの交響楽 自然の美とスポーツの美の 明るく展ける新春のフィルム よろこびと涙を わかち合う二百二十キロ若い日の楽しい感激よ 勝 承夫 」 石碑の裏側。「東京箱根往復大学駅伝競走第六十回大会を記念して、この詩碑を建立する昭和五十九年 新春」と。 「東京箱根間大学駅伝競走記念碑」。 裏側には「私たちは、人々の幸せと世界の平和に貢献できる町づくりを目指すことを目的に町制施行五十五周年を記 念してこの碑をここに設置します。平成二十三年九月三十日 箱根町長」と。 そして次の訪問場所「箱根関所」に向かって「国道1号」を進む。左に大きなホテルがあった。 「箱根ホテル」と。そしてその先にあったのが、大きな土産物店。 「箱根関所 旅物語館」。足柄下郡箱根町 箱根10。 ・・・つづく・・・
2026.06.22
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この日は5月13日(水)、我が趣味に養蜂の畑に、今年もキジ(雉)の夫婦!?が訪ねて来ました。この日はスマホ(IPHONE14)で撮影しました。赤い顔の雄のキジの後ろに茶色のメスの姿が。毎年、5月中旬になると、毎朝、我が菜園に遊びに?来るのです。雄のキジを追いかけて。オスのキジは、金属光沢を帯びた緑色の頭部、赤い顔、長い尾羽が美しく、日本の野鳥の中でもひときわ存在感があるのです。春から初夏にかけては「ケーン、ケーン」👈️リンク と甲高く鳴いて見せるのです。そして、翼を打ち鳴らす「母衣打ち(ほろうち)」👈️リンク も見せてくれるのです。畑の土の上を悠然と歩む雄のキジ。陽光を浴びた羽は、まるで絹織物のような光沢を帯び、首筋は青から緑へと微妙に色を変える。赤く彩られた顔は精悍で、遠くを見据える姿には野生の誇りが感じられるのです。灰青色の胴に銅色の羽根が散りばめられ、長く美しい尾羽は一本の筆で引いたように後方へ伸びる。その姿は、まるで日本画から抜け出してきたかのように。耕された我が菜園の中を静かに歩く姿は、訪問者というよりも、この土地の主のような風格を漂わせているのです。キジは雑食で、およそ食べられる物なら何でも食べるようです。 主に草の葉や花、種子などを食べるようですが、昆虫や小動物なども好んで食べるのです。昆虫、ミミズ、クモ、ネズミ、ヘビ、トカゲも食べるのだとネットから。この時期、雑草の新芽等も好んで食べているようです。美味そうな雑草の新芽を探していたのでしょうか?長芋の栽培場所を訪ねていました。ズームして。・真紅の肉垂(にくすい)・金色に輝く虹彩・瑠璃色から紫色へ変化する首の羽毛・緑金色に輝く胸の羽が見事!!。まさに日本の国鳥にふさわしい華やかさ。1947年に日本鳥類学会が日本の国鳥に選定。キジが選ばれた理由は以下の通りと、ネットから。・日本固有種:日本列島にのみ生息する固有種であること。・文化的な結びつき:『古事記』や『日本書紀』、『桃太郎』などの民話に古くから登場し、 人々に親しまれていること。・象徴的な姿:オスの羽色が美しく勇敢で、メスは母性愛が強いとされていること。そしてこのツガイ(番い)のキジは、数年前にデジカメで撮影したものです。雌(メス)のキジです。雄のような鮮やかな緑や赤はありませんが、その美しさはむしろ繊細な自然の色彩に。・頭部は淡い黄褐色から薄茶色・首から胸にかけては細かな黒褐色の波模様・背中には栗色・黄土色・黒色が複雑に織り込まれた羽模様・尾羽は枯草に溶け込むような淡褐色と黒褐色の縞模様・全身は草原や畑の土と見事に調和する保護色近くで見ると、一枚一枚の羽に描かれた繊細な模様は、まるで職人が描いた友禅染めや西陣織の文様の如くに。これが5月16日(土)早朝の写真です。雄のキジの後ろ姿を。畑の高みに静かに立つ一羽の雄キジ。朝の光を受けた背中は、銀灰色の羽毛に覆われ、その上に栗色と黒色の細やかな模様が散りばめられている。首筋には紫から緑へと移ろう金属光沢が残り、振り向いた横顔の赤い肉垂れがひときわ鮮やかに映えるのであった。長く伸びた尾羽は、幾筋もの縞模様をまといながら地面へと流れ、まるで名工が描いた筆の一閃のように。背を向けていても、その姿には野生の誇りが漂う。静かに佇むだけで、周囲の景色を引き締める風格があるかのごとくに。ズームして。鮮やかな紅色の顔を掲げ、雄キジが凛々しく立つ。首筋は紫紺から瑠璃色へと移ろい、光の加減によって青にも緑にも見える。その羽はまるで磨き上げられた宝石のような輝きを放っていた。肩羽には銀色の縁取りを施したような精緻な鱗模様が重なり、その間から栗色の羽がのぞく。自然が一羽の鳥に与えたとは思えないほど緻密で豪華な装いなのいであった。白銀色の胴体は柔らかな光を受けて輝き、全体として気品と力強さを兼ね備えた姿を見せていたのだ。さらにズームして。昨年と同じキジであろうか?ネットで調べて見ると、「キジの平均寿命は約10〜15年です。渡り鳥ではなく、ほぼ一年中同じ場所に定住する「留鳥(りゅうちょう)」に分類されます。行動範囲はそれほど広くなく、縄張りを持ちながら生涯を同じ地域で過ごす習性があります。」と。よって雄は同じキジ君!!?さらにズームしたがピンボケ!!残念!!キジ(オス)の顔の周りにある赤い部分は「肉垂(にくすい)」と呼ばれる と。羽毛が生えておらず、皮膚が露出してコブやヒダのようになっている部分と。また、この肉垂はニワトリなどの「とさか」と同じく、毛細血管が非常に多く集まっている器官。特に春の繁殖期になると大きく鮮やかに肥大し、メスへのアピールや縄張りを主張するために使われているのだ と。こちらを向いてくれたので慌てて。ズームして。やっとピントが合った写真を!!顔の表情真紅の顔は細かな粒状の肉垂(にくすい)で覆われ、まるで珊瑚(さんご)を散りばめたかのように。その中央で、淡い黄色の虹彩が鋭く光る。野生の鳥ならではの警戒心と力強さが宿り、一瞬たりとも周囲を見逃さないという緊張感が伝わって来るのであったが。首元の美しさ首から胸にかけては、深い瑠璃色と紫紺色が溶け合っていた。一枚一枚の羽が光を受けるたびに、・青・紫・緑へと色を変え、まるで宝石のラピスラズリや孔雀石を重ねたような輝きを見せて。羽模様拡大すると羽は単なる一色ではなく、小さな鱗を幾重にも重ねたような構造を。その繊細な重なりが光を反射し、金属を磨いたような光沢を生み出しているのであった。これも数年前の写真。親子の写真と思っていたが、ネットからは違うようだ。以下、ネットから。「キジは鳥類の中で非常に珍しい縄張りを持った1羽のオスが複数のメスを囲うのが特徴で、繁殖期にはオスが派手な求愛行動を行います。キジの繁殖における主な特徴は以下の通りです。オスの役割:大きな声で鳴き、翼を激しく羽ばたかせて「母衣打ち(ほろうち)」という音を 立てて自分の存在をアピールします。テリトリーに入ってきたメスと交尾しますが、 子育てには一切参加しません。メスの役割:巣作り、抱卵、ヒナの育成などすべての育児を単独で行います。 敵から卵やヒナを守る母性が非常に強いのが特徴です。見た目の違い:オスは緑や赤の鮮やかな目立つ体色をしていますが、メスは枯草に同化する 地味な保護色をしています。」 と。なるほど、この時期の子供だと体が大きすぎることが解ったのであった。羨ましい!?雄のキジの姿なのであった。これも、何年か前の母と子の姿を。3羽の子供を連れて散歩中であったか?本当に子連れでの夫婦のキジの姿は見ることが出来ないのであろうか??そして雄のキジの「母衣打ち(ほろうち)」の写真をネットから。両翼が高速で振り下ろされ羽が残像となって扇状に広がり赤い顔が緊張感に満ち口を開いて鳴いている様子が。まさに「ケーン!」と鳴いた直後、「ドドドドッ!」と翼を打ち鳴らしている瞬間。この翼を打つ音が武士が背負った「母衣(ほろ)」という袋状の装具が風を受けて膨らむ様子に似ていることから、「母衣打ち」と呼ばれていると。戦国武将の「母衣」 一例。「母衣(ほろ)は、日本の武士の道具の1つ。矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、後には旗指物の一種ともなった。ホロは「幌」「保侶(保呂)」「母蘆」「袰」とも書く」と。 そして昔、このキジが我が菜園で鳴きましたが、いつもの鳴き声と異なる鳴き方だったので、アレ!?と思っていたら、直後に外にいても判る地震・震度4の揺れがありました。地震予知能力が間違いなくありそうですが!!ネットAIに訊ねてみました。その回答は『キジには、人間が感じ取れない微小な振動(初期微動・P波)を素早く察知する能力があります。古くから「キジが鳴くと地震がくる」という言い伝えがありますが、これは厳密には地震を「予知」しているのではなく、人間よりも数秒早く揺れに反応しているためと考えられています。なぜキジは地震に敏感なのか?足裏の感覚細胞: キジの足の裏には、ごくわずかな震動に反応するヘルブスト小体という 感覚細胞が発達しています。P波への反応: 地震の際に最初に届くカタカタという小さな揺れ(P波)を鋭く感じ取り、 人間が大きな揺れ(S波)を感じる前に「ケーン」と鳴いて騒ぐことが多い ようです。地上生活: 基本的に地面の上で生活しているため、樹上の鳥などに比べて地面の異変に 気づきやすいという特性もあります。』と。さてさて、真相はいかに!?そして最後にキジの漢字「雉」について。「雉(キジ)」は、鳥を表す「隹(ふるとり)」と、音を表し「まっすぐに飛ぶ」という意味も併せ持つ「矢」を組み合わせた形声文字(会意兼形声文字)です。「雉」の漢字の成り立ちやポイントは以下の通りです。・隹(ふるとり):短い尾の鳥の姿から、「とり」や「鳥類」を意味します。・矢(や):音符(発音を表す部分)として働くとともに、キジが直線的に素早く飛ぶ・ 走る様子を表現しています。これらが合わさることで、「矢のようにまっすぐ飛ぶ(走る)鳥」としてキジを表す漢字が成り立ちました とAIから。 今日は、キジの生態等・・・について多くを学ぶことが出来たのです。これからも好奇心を忘れないで生きて行こうと考えている後期高齢者なのです。とは言え、「雉も鳴かずば撃たれまい」👈️リンク は忘れずに!! ・・・完・・・
2026.06.21
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この日は5月28日(木)、現役時代に大変お世話になった、平塚にある元協力会社の社長を訪ねた。そして帰路に、茅ヶ崎にお住まいの先輩宅に立ち寄り、玄関前の梅の木にたわわに実った青梅を先輩に採ってもらい2kg以上戴いたのであった。そして帰宅途中にスーパーに立ち寄り、氷砂糖とホワイトリカーを購入し帰宅。戴いた大粒の青梅。青梅を水洗いし、傷つけないようにフォーク&竹串の先でヘタ(なり口)を取り除いた。妻が手伝ってくれました。そして熱湯消毒し乾燥させた保存瓶に、キッチンペーパーで青梅の水分を1粒ずつ完全に拭き取り少しずつ丁寧に入れる。購入した「氷砂糖」・1kg。そして青梅と氷砂糖を交互に入れた。横から見る。そして今年は「ブランデーベースリキュール 35%」を購入。ブランデー特有の高級感あふれる味と香りが際立ち、よりグレードの高い果実酒づくりに最適とのこと。因みに、酒税法により、アルコール度数20度未満のお酒で漬けることは禁じられているのです。国税庁のルール(自家醸造のQ&A)では、この行為は「酒類の製造」とみなされる と。しかし、一定の条件(消費者が自分で飲むことなど)を満たした場合にのみ特例として許可されているとのこと。そのため、無免許での製造でも安全性が保たれるよう、腐敗や新たなアルコール発酵が起きにくい20度以上のお酒を使うことが絶対条件とネットから。ただし、この自家醸造の梅酒を販売することは禁止されているとのこと。「おいしい果実酒 つくりましょう ブランデーベースリキュール」と。 ブランデーは果実酒を蒸留して造られる「蒸留酒」そのもの。一方ブランデーリキュールは、ブランデーに果汁や糖分、香料などを加えて飲みやすく調整した「混成酒」と、ネットから。「ブランデーベースリキュール 35%」を入れて、瓶の上から。1.8Lを静かに注ぎ入れ、しっかりと蓋を閉めたのであった。今年は2本の梅酒を作りました。横から見る。そして台所の床下にある 直射日光の当たらない涼しい場所の冷暗ボックス・床下収納庫に入れる。現在、1週間に1回程度、瓶をゆっくり回して氷砂糖を溶かしています。3か月程の9月上旬になれば飲めるようになるようですが、私1年以上熟成させ、色が十分琥珀色に深まり、コクと深みが増した味わいに変化してから楽しんでいます。昨年仕込んだ梅酒です。梅の実を取り出すタイミングは、仕込んでから1年後が目安としています。1年経つと梅のエキスは十分に抽出されており、それ以上漬けておくと実から苦味や渋みが出てくることがあるからです。ただし、半年程度で取り出す方もいれば、2年以上漬けたままにする方もいるようです。好みや梅の状態を見ながら判断するとよいでしょう。我が家は梅の「甘露煮」を楽しんでいます。 それでは、今日も床下収納庫の梅酒瓶を掻き回しに行って来ます。 ・・・完・・・
2026.06.20
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そして、品川駅で知人に会う約束があるので、残念ながらこの日の見学はこれまでとし、展示室を後にする。江戸東京博物館リニューアル記念特別展「大江戸礼賛」👈️リンク ポスター。会期:2026年4月25日(土)-2026年5月24日(日)会場:1階特別展示室江戸時代中頃に、人口100万を擁する大都市へと成長した江戸。人々は「花の御江戸」「大江戸」などと称して、その繁栄を寿ぎました。江戸に暮らした武士や町人たちは、この地の何を誇り、自慢としたのでしょうか。泰平の世における武家の道具、相撲・歌舞伎・吉原の賑わい、流行を生んだ出版文化、頻発する火災に立ち向かった火消、趣味や学問を介した文化人たちの交遊――。選りすぐりの逸品と初出品資料を軸に、都市「大江戸」の魅力に迫ります。「江戸東京博物館リニュール念特別展、大江戸礼賛」と。 上記ポスターの原画は以下2作。「東都両国はし夏景色」。 「東都名所 高輪二十六夜待遊興之図」。 上部パネル「江戸東京たてもの園へようこそ東あふれる緑の中にたたずむなつかしい建物が、江戸・東京の歴史と文化を伝えています。江戸時代の農家から昭和初期の看板建築まで、30棟の建物が移築されています。」下部パネル復元建造物のご紹介江戸東京たてもの園の園内案内図と、復元建造物の紹介が掲載されていた。 「墨田区観光情報コーナーSUMIDA CITY TOURIST INFORMATION・左側ポスター すみだ五彩の芸術祭 縦書き部分 すべての人が真ん中 そんな芸術祭がやってくる 下部 2026年9月スタート・中央モニター 屏風・右側ポスター すみだ 上部英語 AUTHENTIC TOKYO SUMIDA」 「地球の歩き方 2023-24GLOBE-TROTTER TRAVEL GUIDEBOOKwww.arukikata.co.jpすみだの歩き方Sumida, Tokyo」 旅行ガイドブック『地球の歩き方』の地域版で、東京都墨田区を特集した冊子。「電子版はこちら→地球の歩き方 2024〜25GLOBE-TROTTER TRAVEL GUIDEBOOKwww.arukikata.co.jpすみだの歩き方葛飾北斎Sumida, Tokyo」 表紙の図柄は、墨田区ゆかりの浮世絵師 葛飾北斎の代表作である神奈川沖浪裏(『富嶽三十六景』の一図)をモチーフにしている。そして「江戸東京博物館」の北口から外に出る。 「言問橋の欄干と縁石」 腐食が進んでいたが・・・。「言問橋の欄干と縁石言問橋は、1928年(昭和3)に完成した、いわゆる震災復興大橋梁のひとつである。1945年(昭和20)3月10日未明の東京大空襲の際、浅草方面から向島方面へ避難しようとする人びとと、その反対側に渡ろうとする人びとが橋上で交錯し、身動きがとれない状態となった。人だけでなく、荷車やリヤカーも通行を妨げた。そこへ火が燃え移り、橋上はたちまち火炎に包まれた。橋上で逃げるすべもなく、多くの市民が焼死した。1992年(平成4)の言問橋の改修工事にあたって、当時の欄干と縁石が撤去されることになったため、東京大空襲の被災資料として、その一部を当園に譲っていただいた。Railing and Curbstone of Kototoibashi BridgeKototoibashi Bridge, completed in 1928, is one of the so-called Great Kanto Earthquake reconstruction bridges. During the Tokyo air raids in the early hours of March 10, 1945,people attempting to evacuate from the Asakusa area toward Mukojima collided withthose trying to cross to the other side. Carts and rickshaws also obstructed passage, and people were trapped on the bridge. Fire then spread, and the bridge was instantly engulfed in flames. With no escape route on the bridge, many perished in the fire.During the 1992 renovation of Kototoibashi Bridge, the original railings and curbstones were scheduled for removal. Parts of these were donated to our museum as materials documenting the damage from the Tokyo air raids.」 「徳川家康像 山下恒雄作」👈️リンク 東京都墨田区横綱1丁目4−12。平成5年3月、江戸東京博物館が両国の地に落成すると、江戸消防記念会の会員に、徳川家康像建立気運が一気に盛り上がり、ついに平成6年4月、東京都で初となる徳川家康公銅像が落成。贔屓(ひき=中国における伝説上の生物/亀趺・きふ)の背に、鷹狩の勇姿で江戸城を望む鷹狩り姿を表した像で、鍛金作家・山下恒雄(やましたつねお=東京藝術大学名誉教授)の制作。あえて亀趺の上に乗る姿なのは、亀趺に乗ることで、運河が巡る江戸の町を従える姿を表現しているのだと推測できます。台座が15段なのは、幕府の将軍職が15代続いたことに因んだもの。像の高さは3.7m。(台座からの高さ7.76m)、重量30トン。鷹狩の勇姿をズームして。「徳川家康公銅像建立由来鷹狩の勇姿で江戸城を望んでいる徳川家康公が始めて、草深い江戸の地に天正十八年(1590年)に、豊臣秀吉の命により国替えとなった。そして、関ヶ原の戦い後慶長八年(1603年)征夷大将軍となり江戸に幕府を開き天下普請を大名に命じ、本格的な都市づくりの大事業を行い、政治の中心地として明治に至るまでの永き亘って現在の東京の基礎となったことは周知の事実である。社団法人 江戸消防記念会では、このような、江戸開府の大事業を成し遂げた徳川家康公の偉業を称え、顕彰すべく銅像建立の計画を練っていたところ、平成五年三月、江戸消防記念会が両国の地に落成の運びとなるや徳川家康公銅像建立気運が一気に盛り上がり記念会創立以来の名誉ある事業であることから、これを積極的に推進し、東京都をはじめ関係諸機関に格別のご協力をいただきまして、江戸消防記念会が主体となって平成六年四月銅像を建立、東京都に寄贈したものである。」 「江戸東京博物館」を左手に見ながら、両国駅に向かう。 江戸東京博物館前の広場に並ぶ赤いフレームは、まるで時間の回廊のよう。歩くたびに空や建物の見え方が変わり、来館者を江戸と東京の歴史世界へ誘う印象的なアート空間となっていた。江戸東京博物館(両国)の正面外観を振り返って。ズームして。1. 巨大な高床式構造写真右側の白い建物が江戸東京博物館本体。設計者は 菊竹清訓氏 。建物は日本の伝統的な「高床倉庫」や校倉造を現代的に解釈したもので、地上約25mの高さに展示空間が持ち上げられていた。巨大なコンクリート柱が建物全体を支えており、その迫力は博物館の象徴となっていた。2. 大階段正面の幅広い階段は来館者を迎えるメインアプローチ。開館中は多くの来館者がこの階段を上り、エントランスホールへ向かうのだ。3. 赤いフレームのアート左側に並ぶ赤い門型フレームは近年設置された演出空間。フレーム内部には江戸や東京をイメージしたデザインが描かれ、連続する額縁のように見えることから、来館者を「歴史の世界」へ導くゲートの役割を果たしていた。4. 江戸東京博物館らしいスケール感写真左下の人物と比較すると、柱・階段・建物がいかに巨大であるかがよく分かった。この圧倒的なスケールは、徳川家康による江戸開府から現代東京までの歴史を扱う博物館にふさわしい「都市そのものを展示する器」として設計されたもの と。そして「JR両国駅」まで戻る。「全勝 昭和五十三年十一月場所 横綱 若乃花幹士関」 。若乃花幹士・四股名 下山 勝則→朝ノ花 勝則→若三杉 幹士→若三杉 壽人→若乃花 幹士・本名 下山 勝則・愛称 カンボ、美剣士、五月人形・生年月日 1953年4月3日[1]・没年月日 2022年7月16日(69歳没)・出身 青森県南津軽郡大鰐町[1]・身長 186cm・体重 136kg・BMI 39.31・所属部屋 二子山部屋・得意技 左四つ、上手投げ、外掛け・成績 最高位 第56代横綱 生涯戦歴 656勝323敗85休(88場所) 幕内戦歴 512勝234敗70休(55場所) 優勝 幕内最高優勝4回 賞 殊勲賞2回 技能賞4回データ 初土俵 1968年7月場所 入幕 1973年11月場所 引退 1983年1月場所 引退後 年寄・間垣備考 金星3個(北の湖3個)JR両国駅構内にある「両国ステーションギャラリー」入口江戸東京博物館見学を終えて駅へ戻った際に出会う、両国駅ならではの「鉄道遺産の入口」。JR両国駅構内には、旧3番線ホームへ続く「両国ステーションギャラリー」が設けられている。赤いカーペットとレンガ風の柱が並ぶ通路には展示パネルが掲げられ、かつての臨時ホームの面影を残しながら文化発信の場として活用されているのであった。移動して。ペットボトルのキャップを並べて作ったモザイクアート。・力士が化粧まわしを締めて立っている姿・背景には土俵や相撲部屋を思わせる建物・下部に大きく「両国」の文字・緑色の部分は木々や公園の景観・青色の部分は空や屋根が描かれているようであった。両国ステーションギャラリー内に設置されているストリートピアノ。ピアノの左側には、「ステーションギャラリーは 17:00 でクローズします。あらかじめご了承ください。」と。 旧3番線ホームへ続く歴史ある空間で、鉄道写真に囲まれながら自由に演奏できる。駅の文化発信拠点らしい温かみのある風景であった。「両国ステーションギャラリー」内部の回廊を、中央から正面に向かって。この通路は、かつてのJR両国駅3番線臨時ホームへ続く通路。大相撲開催時には全国各地からの団体列車が発着し、多くの観客がこの付近を行き交った。現在は「両国ステーションギャラリー」として保存活用され、・鉄道史・両国駅の歴史・相撲関連展示・地域文化展示などが行われているのであった。「両国駅歴史展」両国ステーションギャラリーの回廊は、赤いカーペットが一直線に伸び、左右にはレンガ風の柱と展示パネルが並ぶ。駅構内とは思えない落ち着いた空間で、かつて臨時ホームへ向かった旅人たちの足音が聞こえてくるようであった。 そしてJR両国駅のホームから見えた「ちゃんこ 江戸沢 両国総本店」の巨大な看板。・建物正面に横綱のしめ縄(注連縄)を模した立体看板・周囲に相撲を連想させる白い綱状装飾・上部には店名の「ちゃんこ 江戸沢」の大きな文字・「総本店」の文字が入り、両国が相撲の街であることを強く印象づけていた そしてホームから東京都墨田区にある「東京スカイツリー」・634m高も見えた。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.06.19
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T3 産業革命と東京 急速な産業発展を遂げた東京首都東京では、明治新政府による「富国強兵」「殖産興業」政策のもと、産業が大きく伸展していきました。また、上野で開催された「内国勧業博覧会」は国内外の技術が出会う場となり、民間産業の発展に大きく寄与することとなりました。明治中期から後期にかけて、重工業が急速に伸長しましたが、一方で工場の騒音や労働者の劣悪な労働環境などさまざまな問題が起こりました。このコーナーでは、そのような東京の産業発展の様相について紹介します。 商工業の都市■多摩と自由民権運動Tama and the Freedom and People's Rights Movement1893年(明治26)まで神奈川県に属していた三多摩(北・南・西多摩の3郡)では、明治10年代、豪農を中心に自由民権運動がさかんとなった。In the three Tama counties (North, South, and West), which belonged toKanagawa Prefecture until 1893, the Freedom and People's Rights Movement waspopular in the 1870s and 80s, especially among wealthy farmers. 三多摩の民権結社数(明治10年代)・南多摩郡 25・西多摩郡 20・北多摩郡 9ーーーーーーーー計 54「五日市憲法草案」の起草西多摩の五日市町(現・あきる野市)も自由民権運動が活発であった地域で、その展開の中で1881年(明治14)、「五日市憲法草案」が作成された。1880年(明治13)・五日市で自由民権運動が活発となる。・(4月)「五日市学芸講談会」が発足し、憲法や法律に関する学習会・討論会が開かれる。・(11月)第2回全国親睦同盟大会で憲法の起草が議論され、翌年に各結社が草案を持ち寄る ことが決議される。1881年(明治14)・五日市で千葉卓三郎によって「日本帝国憲法」(五日市憲法草案)が作成される。・(10月)国会開設の勅諭が出され、各結社の憲法草案は顧顧されずに終わる。1968年(昭和43)・(8月)深沢家屋敷跡土蔵(現・あきる野市深沢)より、「五日市憲法草案」が発見される。深沢家屋敷跡土蔵1968年(昭和43)、「五日市憲法草案」とともに、200点を超える明治時代の書籍が発見された。政治や法律関係の本が3割を超え、憲法草案の起草にあたり参考にされたと考えられている。 「五日市憲法草案(複製)」・千葉卓三郎/起草。日本帝国憲法第一篇 国帝 第三章 国帝ノ権利国帝ノ身体ハ神璽ニシテ侵ス可ラス又責任トスル所ナシ万機ノ政事ニ関シ国帝若シ国民ニ対シテ過失アレハ執政大臣独リ其責ニ任ス国帝ハ立法行政司法ノ三部ヲ総轄ス国帝ハ執政官ヲ任意ニ除任免黜シ又元老院ノ議官及裁判官ヲ任ス但シ終身官ハ法律ニ定メタル場合ヲ除くクノ外ハ之ヲ任スルコトヲ得ス国帝ハ海陸軍ヲ総督シ武官ヲ廃除〔シ〕軍隊ヲ整備シテ便宜ニ之ヲ派遣スルコトヲ得但シ其昇級免黜退老ハ法律ヲ以テ定メタル例規ニ準シ国帝之ヲ決ス国帝ハ軍隊ニ号令シ敢テ国憲ニ悖戻スル所業ヲ助ケシムルコトヲ得ス且ツ戦争ナキ時ニ際シ臨時ニ兵隊ヲ国中ニ備ヒ置カント欲セハ元老院民撰議員ノ承諾ナクシテハ決シテ之ヲ行フ可ラサル者トス国帝ハ鋳銭ノ権ヲ有ス貨幣条例ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム但シ通貨ヲ製造改造シ又己レノ肖像ヲ銭貸ニ鋳セシムルコトヲ得国帝ハ爵位貴号ヲ賜与シ且法律ニ依準シテ諸種ノ勲綬栄章ヲ授ケス法律ヲ以テ限定スル所ノ恩賜金ヲ与フルコトヲ得但シ国庫ヨリシテ之ニ禄ヲ賜ヒ賞ヲ給セラルヽハ国会ノ可決ヲ経ルニ非サレハ勅命ヲ実行ス可ラス国帝ハ何レノ義務ヲモ負フコトナキ外国ノ勲級ヲ受クルコトヲ得又国帝ノ承認アレハ皇族モ之ヲ受クルヲ得但シ何レノ場合ヲ論セス帝臣ハ国帝ノ許允ヲ経スシテ外国ノ勲級爵位官職ヲ受クルコトヲ得ス日本人〔民〕ハ外国貴族ノ称号ヲ受クルコトヲ得ス国帝ハ特命ヲ以テ既定宣告ノ刑事裁判ヲ破毀シ何レノ裁判庁ニモ之ヲ移シテ覆審セシムルノ権アリ国帝ハ裁判官ノ断案ニ因リ処決セラレタル罪人ノ刑罰ヲ軽減赦免ノ恩典ヲ行フコトヲ得ルノ権ヲ有ス凡ソ重罪ノ刑〔ニ〕処セラレ終身其公権ヲ剥奪セラレタル者ニ対シ法律ニ定メタル所ニ由リ国会ノ議事ニ諮詢シ其可決ヲ得テ大赦特赦及赦罪復権ノ敕裁ヲ為スコトヲ得国帝ハ全国ノ審判ヲ督責シ及之ヲ看守シ其決行ヲ充分ナラシメ又公罪ヲ犯ス者アルトキハ国帝ノ名称ヲ以テ之ヲ追捕シ求刑シ所断ス法司ヲ訴告スル者アルトキハ国帝之ヲ聴キ仍ホ参議院ノ意見ヲ問フテ後ニ之ヲ停職スルコトヲ得国帝ハ国会ヲ催促徴喚シ及之ヲ集開終閉シ又之ヲ延期ス国帝ハ国益ノ為ニ須要トスル時ハ会期ノ暇時ニ於テ臨時ニ国会ヲ招集スルコトヲ得国帝ハ法律ノ議案ヲ国会ニ出シ及其他自ラ適宜ト思量スル起議ヲ国会ニ下附ス国帝ハ国会ニ議セス特権ヲ以テ決シ外国トノ諸般ノ国約ヲ為ス但シ国家ノ鞏保ト国民ニ密附(ママ)ノ関係(通商貿易ノ条約)ヲナスコトニ基ヒスル者又ハ国財ヲ費シ若クハ国彊所属地ノ局部ヲ譲与変改スルノ条約及其修正ハ国会ノ承諾ヲ得ルニ非レハ其効力ヲ有セス国帝ハ開戦ヲ宣シ和議ヲ講シ及其他ノ交際修好同盟等ノ条約ヲ準定ス但シ即時ニ之ヲ国会ノ両院ニ通知ス可シ且国家ノ利益安寧ト相密接スト思量スル所ノ者モ同ク之ヲ国会ノ両院ニ通照ス国帝ハ外国事務ヲ総摂ス外国派遣ノ使節諸公使及領事ヲ任免ス国帝ハ国会ヨリ上奏シタル起議ヲ允否ス国帝ハ国会ノ定案及判決ヲ勅許制可シ之ニ鈴(ママ)印シ及ヒ総テ立法全権ニ属スル所ノ職務ニ就キ最終ノ裁決ヲ為シ之ニ法律ノ力ヲ与ヘテ公布ス可シ国帝ハ外国ノ兵隊ノ日本ニ入ルコトヲ許スコト又太子ノ為メニ王位ヲ辞スルコトトノ二条ニ就テハ特別ノ法律ニ依リ国会ノ承認ヲ受ケサレハ其効力ヲ有セス国帝ハ国安ノ為ニ須要スル時機ニ於テハ同時又別々ニ国会ノ両院ヲ停止解散スルノ権ヲ有ス但シ該解散ノ布告ト同時ニ四十日内ニ新議員ヲ選挙シ及二ヵ月内ニ該議院ノ召集ヲ命ス可シネットから。「日本帝国憲法 大一篇 国帝 第三章 国帝ノ権利」 「五日市憲法草案(複製)Draft of a constitution by the people of Itsukaichi (replica)1881年(明治14)千葉卓三郎/起草あきる野市中央図書館 原資料保管 深沢家文書 憲法論議が全国で高まる中、1880年(明治13)11月、国会期成同盟は翌年の大会に憲法草案を持ち寄って研究することを決議した。五日市の民権家たちと活動を共にしていた千葉卓三郎が、学習運動の成果を憲法草案という形にまとめ上げた。全文204力条のうち、特に国民の権利には36力条を費やしており、きめ細かい人権保障に特徴がある。 「National Industrial ExhibitionThe first National Industrial Exhibition was held at the Ueno Park in 1877for the purpose of promoting new industries. Over 84,000 items were on display, and approximately 450,000 people visited the exhibition. The second National Industrial Exhibition was held four years later, also at the Ueno Park. These exhibitions were modeled after the World Expositions. The third NationalIndustrial Exhibition held in 1890, a Panorama Hall, which had become popularin cities overseas, was established in the Ueno Park for the first time in Japan.The fourth and the fifth National Industrial Exhibitions were held in Kyoto (1895) andOsaka (1903), respectively. 内国勧業博覧会1877年(明治10)、国内の殖産興業を推進する目的で上野公園において第1回内国勧業博覧会が開催された。出品点数は8万4千点、観覧会数は45万人にも及んだ。その4年後、同じく上野公園で、第2回内国勧業博覧会が開催された。博覧会では、1876年(明治9)のパリ万国博覧会と同様の展示構成が用いられた。1890年(明治23)の第3回内国勧業博覧会では、当時欧米の都市で隆盛を見せていたパノラマ館が初めて、上野公園の一角に設置された。内国勧業博覧会はその後、第4回が京都(1895年)で、そして第5回が大阪(1903年)で開かれた。」 「内国勧業博覧会場巡覧てびき 全Guidebook for National industrial exhibition1877年(明治10)10月中山東一郎/輯 」 これは、1877年(明治10)に上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会の来場者向け案内書です。当時の博覧会場は・美術館・農業館・工業館・動植物展示・各府県の出品物などが並んでいたのだ と 。写真中央の折り込み図は、内国勧業博覧会場全図で、上野公園内に設けられた各展示館や出入口、主要施設の配置を鳥瞰的に示している と。 「第一回内国勧業博覧会鳳紋賞メダルHoomon (Phoenix Design) Medal from the First National Industrial Exhibition1877年(明治10)」この「鳳紋賞メダル」は、1877年(明治10)に上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会で、優秀な出品者に授与された賞牌(しょうはい)。・「鳳紋」とは、鳳凰(ほうおう)の文様をあしらったもの・博覧会で優秀と認められた工芸品・機械・農産物などの出品者に授与・現在の博覧会や万国博覧会の「金賞」「銀賞」に相当第1回内国勧業博覧会は、日本の近代産業育成を目的として政府が開催した大規模博覧会で、全国から多数の出品が集まった と。 「東京勧業場開業式之図」。 ネットから。「東京勧業場開業式之図The Inauguration Ceremony of Tokyo Industrial Promotion Center1889年(明治12)3月小林清親/画木曾直次郎/版永楽町(現在の千代田区丸の内)にあった「最初の勧業場」の様子。勧業場は、「勧工場」や「勧商場」とも呼ばれ、第1回内国勧業博覧会で売れ残った品を、陳列・販売するために設けられた。勧業場の設立は、1877年(明治10)に計画され、運営方針が定められた。百貨店のルーツともいえるが、産業の振興を目的とした点に特徴がある。」「商工業の都市東京の産業発展は、政府の政策である「富国強兵」や「殖産興業」と連動して実現した。新産業や軍事部門を担う巨大な官営工場が設立され、「上からの近代化」が行われた。しかし、明治初期の民間産業は、職人層の手仕事による日常品や洋服・帽子など新たな雑貨品生産が主軸であった。一方、東京では催し物を通じた産業振興も行われ、1877年(明治10)以降、3回にわたる「内国勧業博覧会」が上野で開かれた。銀座などの繁華街には、常設の商品陳列所の「勧工場」も設けられた。産業発展の様相は、戦争をきっかけに一変する。日清・日露戦争の二つの戦争を境に、東京の産業も飛躍的に成長した。しかし同時に、工場の騒音や排煙など、さまざまな都市問題を引き起こすことにもなった。」 「明治10年代の東京〈殖産興業〉〈富国強兵〉の様相Tokyo in the 1870s and 80s: Aspects of <Encouragement of New Industry> and<Rich Nation, Strong Army>東京には官庁や軍事施設が集中し、その整備のため官営工場がつくられ、工業化が進展した。一方、輸出向けの綿紡績や製糸などの在来産業の振興や奨励も行われた。」地図中の主な施設官庁・軍事施設・東京砲兵工廠(兵器、金属製品)・近衛師団司令部・陸軍参謀本部・海軍省・皇居官営工場・軍需工場・千住製絨所(ラシャ生産)・深川工作分局(セメント、煉瓦)・赤羽工作分局(製銃制作)・品川工作分局(ガラス)・石川島造船所産業振興施設・第一回・第二回 内国勧業博覧会・内藤新宿試験場(農業研究、品種改良)・三田育種場(農業栽培、農具貸与)その他・板橋火薬製造所・目黒火薬製造所左側の絵画① 千住ラシャ製絨所(「千住ラシャ製絨所」)② 上野駅(「上野ステーション」)③ 浅草文庫(「浅草文庫図」)④ 近衛兵営(「竹橋」)⑤ 綾瀬橋から陸軍参謀本部(「水彩画原図」)右側の絵画⑥ 京橋勧工場(「京橋勧工場之図」)⑦ 浅野セメント工場(右)(「深川海景」)⑧ 海軍省(右)と諸官舎(左)(「海軍省遠景」)⑨ 工部省修船所(「石川海景」)⑩ 鉄道(「高輪海辺」) 「諸工職業競 諸車製造之図(しょこうしょくぎょうくらべ しょしゃせいぞうのず)」。 「諸工職業競 諸車製造之図(しょこうしょくぎょうくらべ しょしゃせいぞうのず)Competition of Various Professions: Vehicle Manufacturers1879年(明治12)静斎年一/画木曾直次良/版人力車は旧福岡藩士の和泉要助(1829–1900)らによって発明された。1870年(明治3)に東京府の許可を得て、製造と営業が開始された。製造業者の秋葉大助(1843–1894)は人力車にさらなる改良を加え、販売を拡げた。銀座に構えた店は街のシンボルとなった。当初は素朴な箱形であった車体も、乗降の利便性を高める工夫が施され、完成された形と進化をした。」 「殖産事業と官営事業」?? 次のようなテーマの解説板か?・明治政府の「殖産興業」政策・富国強兵を支える官営工場の設立・製糸場・造船所・兵器工場などの整備・官営事業から民間への払い下げ・東京の工業化と近代化の進展「ガワーベル電話機」。 「ガワーベル電話機Gower-Bell telephone明治中~後期グラハム・ベルによる電話の発明から14年後の明治23年、日本初の電話サービスが東京-横浜間で開始した。ガワーベル電話機は開始当初に使用されたもので、送話機を開発したイギリス人のガワーと、ベルの名から名付けられた。中央のボタンで電話局を呼び出して通話を行う仕組みだった。」 「東京の民間工場にみる産業構造の変化Changes in Industrial Structure in Tokyo's Private Factories東京の産業構造は時代とともに変化しました。工場統計調査によれば、東京では当初、食料品・衣服などの生活関連産業が中心でしたが、次第に機械や金属などの工業製品が増加していきました。」 ・工場数と業種別比率と就業者数と就業者の業種別比率を説明。この展示は、明治前半の東京が「職人の町」から「近代工業都市」へと変貌していく過程を、工場数と従業者数の推移で示したものです。特に1890年代以降、日清戦争前後から工場数・従業者数が急増していることが大きな特徴です。「産業の発展と労働者の生活東京の産業は日清・日露の二つの戦争を契機に発展した。いわゆる「産業革命」である。1894~1895年(明治27~28)の日清戦争後には、綿紡績や織布生産などの繊維業が伸びをみせ、東京の産業構成の主要な位置を占めるようになった。さらに1904~1905年(明治37~38)の日露戦争後には、重化学工業が急速に伸長した。1889年(明治22)の東京における民間産業の労働者数は、繊維業を中心に約1万人であったが、20年後の1909年には繊維・機械・金属業を中心に約8万5千人を超え、さらに陸・海軍の工廠などの重工業に、女工は繊維業などに多く雇用されていた。当時の労働者の生活環境では、長時間労働や低賃金などの問題が取り上げられている。さらに女工の場合は、寄宿舎で生活することが多かった。工場での衛生問題や待遇の改善、値上げを賃金の値上げを要求する声のもとで、1897年(明治30)に労働組合期成会がつくられた。」 「交通・通信の発達Development of Transportation and Communication明治後期には鉄道などの交通、電話などの通信手段が急速に発達し、人々や物資の移動、情報の伝達が速くなり、その量も急増していった。In the late Meiji period, railroads and other forms of transportation and telephonesand other means of communication developed rapidly. The movement of people and goods, as well as the transmission of information, became faster, and their volumeincreased as well.」 図版キャプション左上新橋停車場 構内(『風俗画報』241号 1901年)上中央両国橋と隅田川(『東京風景』1911年)中央新橋停車場(『おもかげ』)右中央八重洲町電話交換局(『東京風景』1902年)左下銀座通りの市電(『東京風景』1911年)中下東京中央郵便局(『東京風景』1911年)右下日本橋(『東京風景』1911年)「石版印刷機」。石版印刷(リトグラフ)は1798年にドイツで発明された技術で、・水と油が混ざらない性質を利用する・石灰石の版に絵や文字を描く・凹版や凸版のように版を彫る必要がない・細かな絵や写真の印刷に向くという特徴があった。日本では幕末に導入され、明治時代には新聞、雑誌、地図、ポスター、教科書などの印刷に広く利用された。「石版印刷機」👈️リンクLithographic Printing Press昭和初期東京小西六本店/製造石版印刷とは、水と油が反発する性質を応用した印刷方法で、日本には幕末に機器類が輸入され、明治前期には国産化が始まるなど普及が進んだ。版に凹凸を刻むことなく印刷できるこの技術は、現在のオフセット印刷などの基礎となった。」「明治期の東京のさまざまな工場Various Factories in Tokyo during the Meiji Era東京の産業は、明治時代後期に飛躍的に発展した。隅田川沿いなどに大きな工場が建てられ、人々の暮らしとともに景観も大きく変化した。Tokyo's industry developed dramatically in the late Meiji era. Large factories were builtalong the Sumidagawa River and other areas, and the landscape changed drasticallyalong with people's lives.」 工場の所在地① 札幌麦酒本所区中ノ郷瓦町(現・墨田区吾妻橋)② 浅野セメント深川区深川清住町(現・江東区清澄)③ 鐘淵紡績南葛飾郡隅田村(現・墨田区堤通)④ 東京電燈 浅草発電所浅草区西元町(現・台東区蔵前)⑤ 芝浦製作所芝区金杉新浜町(現・港区芝浦)⑥ 石川島造船所京橋区佃島(現・中央区佃)展示写真のキャプション① 札幌麦酒「札幌麦酒」② 浅野セメント深川区深川清住町(現・江東区清澄)③ 鐘淵紡績南葛飾郡隅田村(現・墨田区堤通)④ 東京電燈 浅草発電所浅草区西元町(現・台東区蔵前)⑤ 芝浦製作所芝区金杉新浜町(現・港区芝浦)⑥ 石川島造船所京橋区佃島(現・中央区佃)「全国水平社 十四回大会」ポスター。全国の被圧迫部落大衆団結せよ!「全国水平社創立大会則・決議(複製)Regulations and resolution of the society (replica)1922年(大正11)3月京都市立崇仁小学校資料所蔵」 「全国水平社創立大会綱領・宣言(複製)Manifesto and statement of principles promulgated at the inaugural meeting of the Suiheisha, the organization dedicated to the liberation of outcastes (replica)1922年(大正11)3月京都市立崇仁小学校資料所蔵1922年3月3日、京都の岡崎公会堂で全国水平社創立大会が開かれ、「綱領・宣言」とともに採択された。宣言は主として被差別方言が起草した。水平運動の姿勢と目標を明らかにするとともに、部落民が自らに誇りをもち、部落解放運動に立ち上がることをうたった。日本の人権史上、高く評価されている。その裏面に「則」と「決議」がある。」 綱領一、特殊部落民は部落民自身の行動によって絶對の解放を期す一、吾々特殊部落民は絶對に經濟の自由と職業の自由を社會に要求し以て獲得を期す一、吾等は人間性の原理に覚醒し人類最高の完成に向って突進す宣言(冒頭)全国に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ。長い間虐(いじ)められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによつてなされた吾等(われら)の為(た)めの運動が、何等(なんら)の有難(ありがた)い効果を齎(もた)らさなかつた事実は、夫等(それら)のすべてが吾々(われわれ)によつて、又(また)他の人々によつて毎(つね)に人間を冒涜(ぼうとく)されてゐた罰であつたのだ。そしてこれ等の人間を勦(いたわ)るかの如(ごと)き運動は、かえつて多くの兄弟を堕落させた事を想(おも)へば、此際(このさい)吾等の中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集団運動を起(おこ)せるは、寧(むし)ろ必然である。兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であつた。陋劣(ろうれつ)なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であつたのだ。ケモノの皮剥(は)ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥(はぎ)取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖(あたたか)い人間の心臓を引(ひき)裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾(つば)まで吐きかけられた呪はれの夜の悪夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸(か)れずにあつた。そうだ、そして吾々は、この血を享(う)けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印(らくいん)を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠(けいかん)を祝福される時が来たのだ。吾々がエタであることを誇り得る時が来たのだ。吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦(きょうだ)なる行為によつて、祖先を辱(はずか)しめ、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間を勦(いた)はる事が何(な)んであるかをよく知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求礼讃(がんぐらいさん)するものである。水平社は、かくして生(うま)れた。人の世に熱あれ、人間に光あれ。大正十一年三月 水平社」 「部落解放運動のあゆみ部落解放運動とは、被差別部落の住民に対する差別をなくし、基本的人権の確立を通して、人間としての解放を求める運動である。差別のない社会を実現するためには、部落民自らが立ち上がらなければならないとして、1922年(大正11)、京都の岡崎公会堂で全国水平社の創立大会が開催された。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という熱烈な呼びかけによる創立宣言は、我が国で最初の「人権宣言」というべきものであった。以後、全国に波及した運動は、東京でも活発に繰り広げられ、東京水平社が創立した。部落解放を求める人々の熱い思いは、戦後、部落解放委員会、さらに部落解放同盟へと受け継がれていった。1965年(昭和40)、内閣総理大臣の諮問機関である「同和対策審議会」の答申は、同和問題の解決を国の責務であるとともに国民的課題として位置づけ、その基本方針を示した。政府、自治体、部落解放同盟はじめ全国部落解放運動連合会、全日本同和会などの運動団体により、差別解消への努力は現在もなお続けられている。」 「『風俗画報 第116号』より芝浦製作所の図Illustration of Shibaura Works from Fūzoku gahō, No.1161896年(明治29)6月10日東陽堂/発行」 芝浦製作所は田中久重が創業した田中製造所を源流とする企業で、合併などを経て後に東芝となった。描かれているのは金属加工・機械製造を行っていた同社の工場群である。展示図の内容左の挿絵は『風俗画報』に掲載された芝浦製作所の工場風景。上段・大きな煙突から黒煙が上がる工場群・赤レンガや洋風建築の工場棟・東京湾岸に広がる大規模工場下段・工作機械が並ぶ工場内部・ベルト伝動による機械設備・多数の職工が機械加工を行う様子が描かれていた。この頃の芝浦製作所は、・蒸気機関・ボイラー・工作機械・発電設備などを製造しており、日本の重工業化を支えた代表的企業であった。そして「銀座煉瓦街」の復元模型へ。 ・中央をまっすぐ伸びる広い大通りが銀座通り・両側に並ぶ洋風の煉瓦建築・人力車や馬車が行き交う・街路樹が整然と植えられている・歩道と車道が分離された近代的都市計画が再現されていた。1872年(明治5)2月、銀座一帯は大火災(銀座大火)に見舞われた。その復興事業として明治政府は、・不燃化・西洋化・近代都市建設を目指し、イギリス人建築家トーマス・ジェームズ・ウォートルスの設計によって煉瓦街を建設した。模型で見える特徴左右の建物・2階建て・3階建ての洋風煉瓦造・1階は店舗・2階は住居や事務所道路・幅員約27メートル・当時の東京では破格の広さ・街路樹が並ぶ交通・人力車・荷車・馬車が東京の主要交通機関であった。銀座煉瓦街のその後煉瓦建築は建設費が高く、・木造へ改築される建物が増加・1923年の関東大震災で多くが失われることになった。しかし、・近代的な都市計画・銀座を商業中心地とする発想・西洋風の街並みは現在の銀座へ受け継がれている。移動して。明治初期、銀座大火後に整備された「銀座煉瓦街」の模型。広い道路と整然と並ぶ煉瓦建築、人力車が行き交う光景から、近代都市東京の出発点となった銀座の姿がうかがえるのであった。この絵は、「銀座煉瓦街の街路風景解説図」 。この図は、「銀座煉瓦街」の拡大部分で、明治20年代頃の銀座通りを行き交う人々や乗り物、店舗の種類を解説した模式図。中央に描かれている大きな建物は、日報社(東京日日新聞)・現在の毎日新聞の前身にあたる新聞社で、当時の銀座を代表する近代的な建物の一つ。日報社(東京日日新聞)をズームして。描かれているのは、明治20年代頃の銀座通りの日常です。建物そのものよりも、そこで暮らし働く人々に焦点を当てていた。街並み中央には広い銀座通りが伸び、その両側に二階建て・三階建ての洋風煉瓦建築が並んでいた。・銀行・新聞社・書店・洋服店・時計店などの近代的な店舗が軒を連ねている。1872年(明治5)の銀座大火後、政府は銀座を防火都市として再建し、日本初の本格的な西洋式商業街を造った。この図はその成果を表している。交通の様子道路にはさまざまな乗り物が行き交う。・人力車・二人引き人力車・荷馬車・荷車・牛馬の引く運搬車当時の東京では人力車が最も重要な交通機関であった。特に銀座は人力車が絶えず往来する東京随一の繁華街であった。働く人々街路にはさまざまな職業の人々が描かれている。・人力車夫・新聞売り・露店商・飴売り・洋傘修理・ガス燈点夫・巡査・商店の小僧近代都市を支える多様な職業が見られたのであった。女性たち女性も多く描かれています。・深川芸妓・浅草芸者・商家の女中・買い物客和服姿の女性が多く、建物は西洋風でも生活様式はまだ江戸時代の延長線上にあったことが分かるのであった。「銀座煉瓦街」模型の街並み中央を南北に走る広い大通りが銀座通り。道路の両側には、1872年(明治5)の大火後に建設された二階建て・三階建ての洋風煉瓦建築が整然と並んでいる。建物の一階は店舗、二階は事務所や住居として使われていた。道路が碁盤目状に交差し、近代都市として計画的に整備された様子が分かる。道路交通手前の道路には軌道が敷かれている。・鉄道馬車(てつどうばしゃ)・馬が客車を引いてレール上を走る公共交通機関。・路面電車登場以前の東京の重要な交通手段。また道路上には・人力車・荷車・馬車・徒歩の買い物客 が行き交っていた。建物の特徴左右の建物には共通して・ベランダ風のアーケード・石造風の柱・洋風の窓・瓦屋根 が見られた。これは英国人建築家のトーマス・ウォートルスの設計思想を反映したもの。ズームして。「銀座煉瓦街復元年代:明治10年代後半(1882~86) 縮尺:1/25銀座煉瓦街は、1872年(明治5)2月の銀座から築地一帯を焼き尽くす大火の後、近代国家にふさわしい街づくりとして、明治新政府によって計画、建設されたものである。計画の中心は、新橋ステーションから築地居留地や諸官庁を結ぶ銀座地域に、不燃家屋(煉瓦造り)を建設し、道路を拡張・改良しようとするものであった。大火の後、英国人トーマス=J=ウォートルスが設計を担当、建設には大蔵省建築局があたり、翌年には、西洋を模した街区が姿をあらわした。煉瓦街の各家屋は、はじめ買取りであったが、その後、賃貸契約になった後も、高額な家賃のために空き家が目立った。やがてウィンドウディスプレイなどの近代商法が根づいたり、思想をリードする新聞社・雑誌社が次々に集まったことも手伝って、文明開化を象徴する街としてにぎわった。」 ① 鉄道馬車馬が客車を引いてレール上を走っている。蒸気機関車や電車が市街地を走る前の公共交通機関。明治15年(1882)頃から新橋~日本橋~上野方面で運行された。レールがあるため馬の負担が少なく、多くの乗客を運べた。② 人力車写真中央下には人力車が見えます。当時の東京の代表的な乗り物。鉄道馬車と人力車が同じ道路を走っていたことが分かります。③ 転倒事故右側では、・荷車または人力車が横転、・人が倒れている・囲に人だかりができている様子が再現されている。銀座は東京一の繁華街だったため、交通事故や騒ぎも珍しくなかった と。④ 見物人歩道には多くの見物人が集まり、・騒ぎを見ている人・駆け寄る人・指差す人などが細かく表現されていた。日報社(東京日日新聞)。当時の写真。移動して。同方向からの在りし日の写真をネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.18
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『實測東京全圖』をベースに、文明開化期の主要施設の位置を重ねて表示した案内図。表示されている施設を見ると、・第一国立銀行・東京株式取引所・朝野新聞・郵便局・海軍省・外務省・工部大学校・書籍館・ニコライ堂・女子師範学校・東京師範学校・鹿鳴館(博物館と表示)・鍛兵場・陸軍士官学校など、明治10~20年代の東京を代表する施設が網羅されていた。体験展示 / Hands-on ExhibitくらべてみようLet's Compare!江戸のあかり「行灯(あんどん)」Lighting of the Edo era “Lantern”明治のあかり「石油ランプ」Lighting of the Meiji era “Oil lamp”昭和初期のあかり「電灯」Lighting of early Showa era “Electric light”この展示は、江戸・明治・昭和初期の代表的な照明を実際に比較し、・江戸時代の 行灯(菜種油などを燃料とした灯り)・明治時代の 石油ランプ・昭和初期の 白熱電球による電灯の明るさや光の色の違いを体験できるコーナー。右から江戸、明治、昭和初期。江戸のあかり「行灯(あんどん)」。「江戸のあかり 行灯」。 「江戸のあかり 行灯」 「行灯」は庶民の住まいで使われていた照明器具です。 以下のような特徴・構造と仕組み: 木枠に和紙を貼り、中に置いた灯明皿の油(菜種油や魚油など)に浸した 灯芯に火を灯して使われました。・和紙の役割: 和紙を貼ることで風よけになり、さらに光を拡散させて室内全体を柔らかく 照らす効果がありました。・明るさ: その明るさは現代の豆電球程度(約1〜2ルクス)と非常にわずかなものでしたが、 江戸の人々は手元の明かりだけで食事や裁縫をこなしていました。・日常の手間: 油や芯の補充が頻繁に必要で、裸火のため火災への注意も欠かせない道具でした。「明治の灯り 石油ランプ」 「明治の灯り 石油ランプ👈️リンク」「昭和初期のあかり 電灯」。 「電灯」をズームして。 「昭和初期のあかり 「電灯」とは、白熱電球を用いた照明器具です。日本の電灯普及率は1935年(昭和10)に89%となり、東京市内では一般家庭のすべてに普及していました。天井から照らすあかりに切り替わったことで、より広範囲に安定した光を供給することができるようになりました。」 「文明開化」。 「ニコライ堂 神田駿河台の丘の上に建つニコライ堂は、今はビルの谷間に沈んでいますが、かつては東京のいたるところから望むことができました。「東京ハリストス復活大聖堂」という正式な名称がありますが、東京の人々には、明治期の日本・ロシアの交流に尽くした宣教師ニコライにちなむくニコライ堂>という名で親しまれています。関東大震災によって、ドームと鐘楼が崩れましたが、ドームなどは岡田信一郎の設計によって再興され、現在に至っています。」 「ニコライ堂 Nikorai-do毎時7分、27分、47分に作動します 」👈️リンクニコライ堂(東京復活大聖堂)は、東京都千代田区神田駿河台にあります。JR「御茶ノ水駅」から歩いてすぐの場所にあり、明治時代に建立された歴史あるビザンチン様式の教会堂です。東京・神田駿河台に建つ正教会の大聖堂、ニコライ堂(正式名称:東京復活大聖堂)の模型。建物の概要・正式名称:東京復活大聖堂・通称:ニコライ堂・完成:1891年(明治24年)・宗派:日本ハリストス正教会(日本正教会)・設計:ロシア人建築家 ミハイル・シチュールポフ を中心に設計・創建者:ニコライ・カサートキン(日本正教会の伝道者)模型で注目したい点① 大きな銅板葺きのドーム中央の丸い大ドームはロシア正教会建築の特徴です。ビザンチン様式とロシア様式が融合した優美な姿で、明治時代の東京ではひときわ目立つ建築でした。② 鐘楼(しょうろう)右側の高い塔は鐘楼です。複数の鐘が吊られ、礼拝や祭礼の時に鳴らされました。③ 白と灰色の外壁レンガ造りの建物の表面をモルタルで仕上げた重厚な外観です。明治初期の日本人には極めて異国的な建築として映りました。歴史・1891年(明治24)完成・建設費の多くは日本全国の信徒の寄付による・1923年の 関東大震災 で大きな被害を受ける・1929年(昭和4)に修復・再建博物館展示との関係明治維新後、東京には鹿鳴館・第一国立銀行・東京株式取引所など西洋風建築が次々と建てられましたが、ニコライ堂はそれらとは異なるロシア正教会建築として独特の存在感を放っていました。完成当時は駿河台の高台にそびえ立ち、「東京名物」の一つとして浮世絵や写真にもたびたび描かれています。ニコライ堂 の付属施設(神学校・司祭館・事務棟)を再現した部分。「ニコライ堂(現在の呼称・明治20年代頃〈1891~96〉)縮尺 1/25神田駿河台の丘の上に建つニコライ堂は、今はビルの谷間に沈んでいるが、かつては東京のいたるところから望むことができた。「東京ハリストス復活大聖堂」という正式な名称があるが、東京の人々には、明治期の日本・ロシアの交流に尽くした宣教師ニコライにちなんでニコライ堂という名で親しまれている。ミハイル=シチュールポフが原案を担当し、ジョサイア=コンドルが設計、長沼繁輔が施工、1891年(明治24)に竣工した。建物はビザンチン様式の広がりをもとめ、東西情緒あふれた優雅さ、独特の音響の首とともに、よく文学や絵画の題材となった。関東大震災によってドームと鐘楼が崩れたが、ドームなどは岡田信一郎によって再興され、現在にいたる。」 ニコライ堂から撮影したパノラマ写真をネットから。移動して。「T2ー開花の背景」。 「T2-1 庶民の日常文明開化の一方で、庶民の衣食住は江戸の面影が色濃く残っていました。たとえば、学校教育の場面においては近代的教育がすぐに整備されたわけではなく、寺子屋から派生した私立小学校も多く存在しました。このコーナーでは、そのような過渡期にあった庶民の暮らしを描いたフランス人画家ビゴーの版画や、近代教育制度の成立に関する資料、当時の学校で使用されていた教科書などを展示します。」 「庶民の日常文明開化の華やかさの一方で、下町の路地裏には、江戸時代とはさほど変わらない生活を営む庶民の暮らしがあった。明治維新を経て、時代は大きく変革していたにもかかわらず、人々の暮らしぶりはつつましく、互いに助け合いながら生計を立てていた。しかし、1892年(明治25)に松原岩五郎が著した『最暗黒の東京』にみられるように、過密で貧困、そして不衛生な環境のなかで生活する人々と地域が形成されていた。こうしたスラムでは貧困が深刻な問題となり、東京に資本や人口が集中するにつれ、より重大な都市問題となっていった。明治から大正にかけて、日本人の平均寿命は男女ともに42歳から44歳程度であった。東京でも幕末開港以来のコレラが猛威をふるい、痘瘡(天然痘)とともに大流行を繰り返し、多数の患者や死亡者を出した。それらは「貧民病」とも呼ばれ、とりわけ不衛生なスラムに住む下層民ほど感染の度合いが高かった。」 「人力車」 「人力車明治後期(1898~1912)The pulled rickshaw was invented in Tokyo in the early Meiji era, and it was exportedand spread to the Asian countries and the Middle East.人力車は、1870年(明治3)、和泉要助ら3名が東京府の許可を得て製造・営業を始めたのが始まりと言われる。翌年末には東京府内の人力車総数が1万を超えるなど、驚くべき急速な広まりを見せた。さらに東京で製造された人力車は、近隣諸国やインド、中東まで輸出されるようになった。」 「■明治の子供たちChildren of Meiji米国ビーボディー・エセックス博物館 モース・コレクション/所蔵」「籐表下駄(とうおもてげた)Rattan-Surface Geta Clogs明治~大正期(1868~1926年)日本を訪れたモースは、下駄や草履などの履物に関心を抱いた。その手記には、ある家族の下駄箱の写生図とともに、「家族は少数ながら、おのおのたくさんの履物を所有している」との一文がある。文明開化の陰で、下町の路地裏には、江戸時代とさほど変わらない庶民の暮らしがあった。」 この「モース」とは、アメリカの動物学者・考古学者であるエドワード・S・モースのこと。1877年(明治10)に来日し、大森貝塚の発見で知られますが、日本人の日常生活にも強い関心を持ち、下駄・草履・箸・住宅などを詳細なスケッチとともに記録した。この展示の「籐表下駄」は、足を乗せる部分に籐(とう)を細かく編み込んだ下駄で、・通気性が良い・汗でべたつきにくい・夏に履きやすいという特徴があった。文明開化で洋靴が普及し始めた時代でも、こうした下駄は庶民の日常履きとして広く使われ続けていたのであった。「たばこ入Cigarette Case刻みたばこを入れるたばこ入れは、江戸時代から男性の実用品・装飾品として用いられており、時も場所も選ばずに一服の楽しみのためのさまざまな種類が作られた。明治に入ると廃刀令により職を失った刀装具の職人たちが流入し、喫煙技術がさらに進み、その機能性と装飾性は完成の域に達した。輸出向け工芸品への人気にも着目され、輸出品としても求められるようになった。麻の葉模様刺繍腰差したばこ入れTobacco Pouch with Hemp Leaf Embroidery Pattern明治~大正期(1868~1912年)中国染付椀文意匠文織懐中たばこ入れTobacco Pouch with Chinese Underglaze Blue Pattern明治~大正期(1868~1926年)金唐革かぶせ籐製一つ提げたばこ入れRattan Work Tobacco Pouch Covered with Gilded Leather, with Netsuke明治~大正期(1868~1926年)」 「路地裏の生活下町の棟割長屋や木賃宿には、職人や小商人、没落した士族、日雇い人足、井戸掘人足などが暮らしていた。彼らは、布団や行灯などの生活用具を損料屋から借り受け、その日暮らしの生活を営んでいた。江戸以来定住み続けている人に加え、明治10年代後半からの。深刻な不況のなかで土地を失い地方から出てきた農民も多くいた。当時、人力車が市内での交通に多く利用されていたが、人力車夫は元手がいらず、現金収入の得られる新職業として人々の間で人気があった。一方、幕末の開国以降、多くの欧米人が東京に来訪するようになり、それぞれ見聞記を著した。彼らの関心は江戸以来の名所や史跡のほか、人々の暮らしそのものにも向けられた。彼らにとって、政府主導で西洋化が推し進められるなか、暮らしを残す路地裏の庶民の生活は興味深く大森貝塚を発表したE.S.モースの著書『日本その日その日』のように、その暮らしの情景が細密に描き出されたものもある。」 路地裏の生活の特徴・明治になっても下町の路地裏では江戸時代と大きく変わらない生活が続いていた。・棟割長屋や木賃宿には職人・小商人・日雇い労働者などが暮らしていた。・布団や行灯などの生活用品を「損料屋(そんりょうや)」から借りる人も多かった。・明治10年代後半の不況で地方から流入した農民も多かった。・人力車夫は元手が不要で現金収入が得られる人気職業だった。・一方で欧米人旅行者や研究者は、鹿鳴館などの華やかな文明開化よりも、こうした路地裏の 庶民生活に強い関心を示した。・E.S.モースの『日本その日その日』には、その様子が詳しく記録されている。つまり、この展示コーナーは「文明開化の華やかな表舞台」と対比して、「路地裏に残る江戸以来の庶民生活」を紹介する導入部。江戸東京博物館(あるいはその関連展示)が明治東京を説明する際によく用いる「鹿鳴館の明治」と「路地裏の明治」という二つの顔を示す代表的な解説パネルと言えるだろう。「職業にみる幕末から明治初期の庶民の暮らしThe Lives of the Common People from the End of the Edo Period to the Beginning of the Meiji Era as Seen in Occupations幕末から明治初期、政治や社会は大きく変動していき、庶民のなりわい(職業)にも変化があった。商人や職人世帯の緩やかな変化の一方で、それ以外の世帯が町内より半減したことがうかがえる。From the end of the Edo period to the beginning of Meiji, politics and society underwent a major transition, and the nature of occupations of the common people also changed. While the number of merchant and artisan households showed gradualchanges, the number of households related to other types of jobs decreased by half within the townships.」 調査地域四谷伝馬一丁目の場合商人系世帯数(衣・食・生活用品などに係る商売)1861年(文久元) 54世帯1871年(明治4) 51世帯職人系世帯数 (建築・武具・細工物などの製造などの職人)1861年(文久元) 52世帯1871年(明治4) 55世帯その他の世帯数(左記の職人・商人に当てはまらない者の世帯)1861年(文久元) 92世帯1871年(明治4) 42世帯この展示で最も重要なのは、商人世帯は 54→51世帯(ほぼ横ばい)職人世帯は 52→55世帯(やや増加)その他の世帯は 92→42世帯(半減以下)という変化。明治維新によって武士・奉公人・日雇い・雑業層など、江戸時代の身分制度や大名屋敷に依存していた人々の仕事が大きく変化した一方、・商店・小売業・飲食業・職人仕事など町人地の経済活動は比較的継続したことを示している。つまりこの表は、「維新で東京の社会は大きく変わったが、商人や職人の町は意外に連続性があり、最も大きな打撃を受けたのはそれ以外の雑業・下層労働層だった」ということを、四谷伝馬一丁目の実際の人口調査から示した展示なのでらろう。「■ビゴーが描いた明治の庶民の暮らしLives of the Common People in the Meiji Era as Depicted by Bigot1882年(明治15)に来日したフランス人画家のビゴーは、御雇外国人として絵画を教えながら、庶民の暮らしを描いた版画集を刊行した。ビゴーはその後、風刺画で活躍するようになった。George F. Bigot, the French artist who came to Japan in 1882, published a collection of prints depicting the lives of ordinary people while teaching painting as an oyatoi(foreign employee). Bigot later became popular for his caricatures.」図版キャプション左上・食事をする女性 『Croquis Japonais』中央上・牛肉屋 『あさ』右上・床屋 『O-HA-YO』左下・寄席 『あさ』中央下・人力車に乗る家族 『あさ』右下・葬列 『あさ』「画解五十余箇条(がかい ごじゅうよかじょう)(四条・五条・六条・七条・八条・九条・十一条)Explanatory Illustration about Minor Offenses Ordinance (Chapter 4, 5, 6, 7, 8, 9, 11)明治時代初期昇斎一景/画1872~73年(明治5~6)に交付された日常生活に関係の深い軽犯罪の取り締まり規則「違式詿違条例」を、絵を用いて解説している。牛鍋の流行により、病死した牛の肉を販売する者が現れた。そのため、七条では「腐敗した食物の販売」が処罰の対象となっている。」 「T2ー2 明治の教育」。文明開化の一方で、庶民の衣食住は江戸の面影が色濃く残っていました。たとえば、学校教育の場面においては近代的教育がすぐに整備されたわけではなく、寺子屋から派生した私立小学校も多く存在しました。このコーナーでは、そのような過渡期にあった庶民の暮らしを描いたフランス人画家ビゴーの版画や、近代教育制度の成立に関する資料、当時の学校で使用されていた教科書などを展示します。 「公立・私立小学校の成立と展開Formation and Development of Public and Private Elementary Schools1872年(明治5)の国民皆学を目指す「学制」頒布にともない、東京府は、江戸時代以来の寺子屋(家塾)を市立小学校として活用し、初等教育を整備した。With the promulgation of the "Educational Order" in 1872, which aimed for universal education, the Tokyo Prefectural Government established primary education by utilizing terakoya (private home schools) that had existedsince the Edo period as municipal elementary schools」学制頒布直前の公立小学校と家塾公立小学校(東京府仮小学・1870年(明治3) (地図中凡例)①第一校(のちの鞆絵物小学校) ④第四校(のちの湯島小学校)②第ニ校(のちの番町小学校) ⑤第五校(のちの育英小学校)③第三校(のちの愛日小学校) ⑥第六校(のちの深川小学校)●家塾 寺子屋塾主の内訳(東京15区)士族 132人平民 138人神官・僧侶 15人その他 4人公立・私立小学校数と生徒数の変公立小学校(グラフ凡例)女子生徒数男子生徒数男女生徒の比率不明箇所学校数主な数値1880年(明治13) 71校1890年(明治23) 73校1900年(明治33) 79校1906年頃(明治39頃)129校生徒総計最大 約100,000人私立小学校主な数値1880年(明治13) 445校1890年(明治23) 356校1900年(明治33) 230校1906年頃(明治39頃)143校生徒総計最大 約100,000人「師範学校編輯 小学読本Normal School ed. Primary School Reader1882年(明治15)田中義廉/編当時最も広く用いられた教科書で、第1・2冊はアメリカの『ウィルソン・リーダー』を翻訳したもので、第3冊以降が師範学校によって編纂された。1874年(明治7)の改正で漢語や異国的な情報中心から改められた。」 「師範学校編輯 小学読本」 「おはよ(O-HA-YO)Georges Ferdinand Bigot, o-ha-yo : croquis.1883年(明治16)ジョルジュ・ビゴー/画フランスの画家・ビゴー(1860~1927、滞日1882~1899)による銅版画の第2画帖で、文明開化の影響を受けた様々な職業の日本人が描かれている。和服を着た職人が洋服を仕立てている点が興味を引く。」 作品についてこの絵は、フランス人画家 ジョルジュ・ビゴー が来日直後に制作したスケッチ集『おはよ(O-HA-YO)』の一図です。描かれているのは、・畳の上に座る仕立屋・和服姿で作業する職人・手元には裁縫道具・背後には洋服と思われる衣類という場面です。明治初期、日本では文明開化によって洋服の需要が急増しました。しかし洋服を仕立てる技術者の多くは、もともと和服を縫っていた職人たちでした。この作品は、「和服姿の職人が、西洋から入ってきた洋服を仕立てる」という、まさに明治の過渡期を象徴する光景を捉えています。ビゴーは日本人の日常生活を鋭い観察眼で描いたことで知られ、この作品も単なる職人の姿ではなく、・日本の近代化・西洋文化の受容・伝統技術と新文化の融合を伝える貴重な記録となっています と。『戸外遊戯法(こがい ゆうぎほう)』Kogai yugihō (How to Play Outdoor Sports)1885年(明治18)4月坪井玄道、田中盛業/編日本人が書いた最初の児童向けのスポーツ解説書。内容は、欧米の戸外遊戯法に関する抄訳と体操伝習所で伝授していた戸外遊戯から構成される。戸外遊戯(運動)は、文部省が1878年(明治11)に設置した体操伝習所によって、学校教育で奨励された。本書の編者の一人である坪井玄道と田中盛業は体操伝習所の教員でもあった。この『戸外遊戯法』は、日本で最初期の「スポーツ・運動の教科書」といえる資料です。明治時代初期までの日本では、学校教育における運動はまだ体系化されていませんでした。そこで文部省は1878年(明治11)に体操伝習所を設立し、欧米の体育教育を導入しました。本書には、・鬼ごっこに似た集団遊戯・ボール遊び・競走・跳躍運動・チーム対抗の運動など、子どもたちの体力向上や協調性の育成を目的とした遊びが紹介されています。編者の 坪井玄道 は、日本近代体育の草創期を支えた人物として知られています。児童体操遊戯双六(じどう たいそう ゆうぎ すごろく)。児童体操遊戯双六(じどう たいそう ゆうぎ すごろく)Children's Recreation Athletic Games Sugoroku Board1900年(明治33)牧金之助/版明治時代の体操や遊戯を、遊びを通して学ぶための双六。双六のマス目には、二人三脚や縄飛び、綱引きといった現代の私たちにも馴染み深い種目が並んでいる。1886年(明治19)に体操と小学校の必修科目となった。当時は道具を用いない“徒手体操”のほか、器械体操の一種である“球竿体操”が取り入れられていた。木製亜鈴(もくせい あれい)Wooden dumbbell used for the physical education in the Meiji era明治時代(1867~1912)1872年(明治5)に頒布された「学制」により、初めて体育科が教科として位置づけられた。体育の指導者を育成する体操伝習所ではアメリカ・アマースト大学で学んだ医師ジョージ・アダムス・リーランドを教員として招き、彼の指導により「軽体操」が授業に取り入れられた。木製亜鈴は軽体操で用いる器具のひとつで、明治時代に学校用具として普及した。学制と公立・私立小学校身分や性別にかかわらず国民すべてに教育の機会を与える「学制」は、近代国家の出発にふさわしい画期的な教育制度であった。東京府は当初、1,260校の公立小学校の設置を決定したが、1873年(明治6)ごろにまだ60校足らずにすぎなかった。その不足を補ったのが、寺子屋・家塾の系譜に連なる私立小学校である。東京の家塾は旧栄町内に多く設置され、府は家塾の師匠を「小学教則」に沿って再教育することで急場をしのいだ。また近郊の農村部には、村民が設立資金を出し合う郷学校などもあった。児童の就学率は日清戦争(1894〜1895年)以後、急激に上昇し、公立小学校は規模を拡大していった。一方、私立小学校は、初等教育における役割を公立小学校に譲ることとなった ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.17
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「T1ー2 欧米文化の受容」へ。 「第一国立銀行」の模型。 この模型で紹介されている第一国立銀行は、現在のみずほ銀行の源流の一つです。第一国立銀行とは・1873年(明治6)に設立・日本最初の本格的な商業銀行・初代頭取は 渋沢栄一・所在地は日本橋兜町建物の特徴・5階建ての大規模な煉瓦建築・和風と洋風を融合した「和洋折衷様式」・設計・施工は 清水喜助・当時としては非常に近代的な建物で、東京の名所として知られた歴史的意義明治政府は近代的な金融制度を整備するため国立銀行制度を導入しました。第一国立銀行はその象徴的存在であり、日本の資本主義と近代経済の発展を支える重要な役割を果たしました。繰り返しになるが「第一国立銀行(部分)復元年代:明治初期(1872~77)縮尺(概ね):1/25第一国立銀行は、近代銀行制度の導入に伴い、殖産興業への資金調達を主な目的として、兜町に設立された。日本橋界隈の、地の利が良い兜町には、株式取引所・保険会社などが集まり、やがて日本を代表する金融街を形成するにいたった。この建物は、もともと三井組の本拠地として1872年(明治5)に建てられたが、翌年、渋沢栄一らが出資して設立した第一国立銀行の社屋となった。建物の構造は江戸時代からの伝統技法によっているが、外観は西洋建築の意匠を取り入れた**「擬洋風建築」**である。設計・施工を担当した清水喜助(二代)は、横浜居留地で洋館の建造に従事して西洋建築を学び、日本人として築地ホテル館や駿河町の三井ハウスなどの洋風建築を手がける先駆者となった。」「東京名所競 第一国立銀行Famous Views of Tokyo: First National Bank of Japan橋本周延/画 橋本直義/画工HASHIMOTO Chikanobu」 第一国立銀行本店(兜町)の実際の写真。写真から見える建築の特徴① 中央の望楼(ぼうろう)建物中央にそびえる塔屋です。・最上部に旗竿・四方を見渡せる展望台風の構造・東京のランドマーク的存在当時の東京はまだ2階建て程度の建物が多く、この高さは非常に目立ちました。② 唐破風(からはふ)望楼の下に見える優美な曲線屋根です。・神社仏閣や城郭建築に見られる日本的意匠・洋風銀行建築にあえて取り入れているこの部分が「和洋折衷」を象徴している。③ 洋風の外壁外壁は石造建築に見えますが、・横目地を強調・アーチ窓・規則的な窓配置など、西洋建築を強く意識している。④ 二階のベランダ建物正面には広いベランダがある。・洋館らしい開放的な構造・黒い鋳鉄風の手すりが見られる。⑤ 屋上の手すり屋根の周囲をぐるりと囲む欄干も特徴です。江戸時代の商家には見られない意匠で、「近代建築らしさ」を強調している。この写真を見ると、確かに西洋館のようでもあり、日本の城郭建築のようでもあり、文明開化期の日本人が目指した「和魂洋才」の建築を象徴していることがよくわかるのであった。特に中央の唐破風を戴く望楼は、銀行というよりも「近代の城」と呼びたくなるような威容を感じさせた。「東京名所競 第一国立銀行Famous Views of Tokyo : The First National Bank of Japan1882年(明治15)3月橋本周延/画 橋本直義/画工山村鐘次郎/発行第一国立銀行は、国立銀行条例制定後の1873年(明治6)に営業を開始した日本初の商業銀行。初代頭取に渋沢栄一が就任した。兜町にあった第一国立銀行は、5階建ての和洋折衷煉瓦様式の建物で、設計・施工は清水組の清水喜助が手がけた。もともとは三井が単独で銀行業務を行うために建設され、1898年改築にともなう取り壊しまで、東京名所として親しまれた。」 「開化新名所New Famous Places in the Era of Enlightenment■鹿鳴館Rokumeikan1893年(明治26)撮影外交舞台として建設された西洋風社交館。・外国使節を接待・舞踏会や晩餐会を開催・欧化政策の象徴■為換バンク三井組Mitsui Bank1874年(明治7)撮影現在の三井銀行の前身。・為替業務を担当・近代金融制度の出発点■第一国立銀行First National Bank1873年(明治6)撮影先ほどの模型の建物。・日本最初の商業銀行・渋沢栄一が初代頭取・和洋折衷の名建築・東京名所として人気■ニコライ堂Holy Resurrection Cathedral in Tokyo (Nicholai-dō)1893年(明治26)撮影ロシア正教会の大聖堂。・当時の東京で最大級のドーム建築・神田駿河台のランドマーク■新富座Shintomi-za Theater1875年(明治8)頃 撮影明治を代表する歌舞伎劇場。・江戸歌舞伎から近代演劇への橋渡し・文明開化期の娯楽の中心■銀座煉瓦街Ginza “Bricktown”1873年(明治6)頃 撮影1872年の大火後に建設された近代都市計画の代表例。・煉瓦造建築・ガス灯・広い道路「文明開化の銀座」を象徴する街並みであった。」 「開化新名所官庁や官営工場・軍用施設を擁する首都東京では、明治政府による開化政策が積極的に推しすすめられた。そのシンボルの一つが鹿鳴館で、国際親善と外国の賓客に日本をアピールする場として建設された。第一国立銀行のような〈擬洋風建築〉をはじめ、西洋風の街並みが出現した銀座煉瓦街、開港場横浜との間を結ぶ汽車が発着する新橋ステーションなどは、東京の新名所として脚光を浴びた。加えて石造二連アーチ橋の万世橋(のちの万世橋)、近代的設備を備えた新劇場の新富座なども、錦絵の格好の画題となり、〈東京みやげ〉として人気となった。なかには、駿河台にそびえるニコライ堂のように、東京のランドマークとして今日もなお親しまれているものもある。」 「東京開化名景競 駿河町三井 歌川国貞(二代)/画」。 「東京開化名景競 駿河町三井Famous Views of Tokyo : Surugacho Mitsui1874年(明治7)9月歌川国貞(二代)/画山村次郎/発行三井組は自社の銀行行として建てた兜町の建物を第一国立銀行に譲渡した後、駿河町に新たな建物を建設した。設計・施工を第一国立銀行行と同じ清水組の清水喜助が手がけた。この三階建の建物は、新たな東京の名所として錦絵などにも盛んに描かれた。三井組はここで日本初の私立銀行となる三井銀行を開業している。「東京で刊行された主な新聞Major Newspapers Published in Tokyo竣工したばかりの銀座煉瓦街には数多くの新聞社が集まり、銀座はジャーナリズムの中心地となった。The newly completed Ginza Bricktown attracted numerous newspaper companies, and Ginza became the center of journalism.」 銀座で活躍したジャーナリスト・成島 柳北(なるしま りゅうほく)(1837~1884)『朝野新聞』社長・主筆・末広 鉄腸(すえひろ てっちょう)(1849~1896)『東京曙新聞』編集・『曙新聞』編集長・岸田 吟香(きしだ ぎんこう)(1833~1905)『東京日日新聞』記者・福地 桜痴(ふくち おうち)(1841~1906)『東京日日新聞』主宰・沼間 守一(ぬま もりかず)(1844~1890)『東京横浜毎日新聞』社長・黒岩 涙香(くろいわ るいこう)(1862~1920)『絵入自由新聞』主筆(写真提供:国会図書館所蔵)銀座煉瓦街に所在した主な新聞社(明治10年代)番号・新聞名・・・ 社名 ・・・創刊年月・・・・・・・・廃刊年月(後継紙)1 東京日日新聞・・日報社・・ 1872年(明治5)2月 ・・現・毎日新聞2 郵便報知新聞・・報知新聞社 1874年9月(公文通誌)・1894年12月3 読売新聞・・・・日就社・・ 1874年11月 ・・・・・・現、読売新聞4 東京曙新聞・・・晨風社→朝陽社 1875年6月(あけぼの新聞)1882年3月(東洋新報)5 仮名読新聞・・・仮名読新聞社 1875年11月・・・・・・1877年3月(かなよみ新聞)6 東京絵入新聞・・絵入新聞社 1876年3月・・・・・・・1889年2月7 問答新聞・・・・四通社・・ 1876年6月・・・・・・・1882年11月8 絵入日曜新聞 絵入日曜新聞社1877年6月・・・・・・・1877年10月9 新聞集誌新聞・・集誌社→卓然社1877年10月・・・・ 1878年12月10 東京毎夕新聞・ 日昌社・・ 1877年11月 ///////////// 1878年11月(真砂新聞)11 憂国議事新聞 ///真権社//// 1878年4月/////////////// 1878年10月以降12 真砂新聞 ///////東京真砂新聞 1878年7月(東京毎夕新聞)///1878年9月(東京真砂新聞)13 東京新聞////////東京新聞社///1878年11月////////////1880年5月14 東京横浜毎日新聞・毎日新聞社1879年11月////////////1886年5月(毎日新聞)15 いろは新聞//////京文社 1879年12月(あづま新聞)/// //1884年11月(勉強新聞)16 鈴木田新聞//////美喜屋 1880年12月///////////////////1881年12月 17 東洋自由新聞 東洋自由新聞社1881年3月///////////////1881年4月18 明治日報////////忠愛社///// /1881年4月////////////// 1885年11月19 東京ふりがな新聞 明新社 ////1881年11月//////////////1882年2月20 東洋新報////////東洋新報社 //1882年3月///////////////1882年12月21 時事新報 慶應義塾出版社→時事新報社 1882年3月//////1936年12月(東京日日新聞)22 日の出新聞//////旭光社///////1882年4月///////////////1883年2月23 自由新聞//////// 自由社////// 1882年6月///////////////1885年3月24 絵入自由新聞 絵入自由新聞社 1882年9月////////////////1890年11月25 内外政党事情 四通社→政党事情社1882年10月///////////1883年2月26 官令日報////////官令日報社////1882年10月/////////////不明27 同盟改進新聞///同盟改進新聞社/1882年11月////////////1882年12月以降28 絵入朝野新聞///絵入朝野新聞社/1882年11//////////////1889年5月29 自由燈/////////見光新聞社/// /1884年5月///////////////1886年1月30 今日新聞////// 毎夕社 1884年9月///////////////1888年11月31 日本たいむす日本たいむす局 京文社1885年9月//////////1885年12月以降32 毎日新聞///////毎日新聞社//// 1886年5月////////////// 1906年7月(東京新聞)33 やまと新聞 やまと新聞社//////1886年10月///////////// 1900年10月(日出国新聞) 「明治新聞雑誌文庫所蔵新聞目録」などより作成「東京日々新聞 第697号」 ズームして。牡蠣の付いた「鰐」(サメの古名)をさらにズーム。飲み込まれる直前の乗組員。「東京日々新聞 第697号Tokyo Nichi-Nichi Newspaper, No.6971874年(明治7)推定落合芳幾/画具足屋嘉兵衛/版度会県(現在の三重県)甲賀の浦に、全身海草と牡蠣の付いた「鰐」(サメの古名)が住んでいて、船を転覆させては人を襲っていた。ある時、沖合で火事に見舞われた船の乗組員全員がこの化物に呑まれてしまったという。本図には、ワニとサメを合体させたような生き物が描かれている。錦絵新聞は、人々の好奇心を掻き立て話題となり、一時さまざまな種類が刊行された。」 「朝野新聞」 朝野新聞(ちょうやしんぶん)は、1874年(明治7年)9月24日から1893年(明治26年)11月19日まで東京で発行された、民権派の政論新聞。前期には成島柳北社長と末広鉄腸主筆が論陣を張った。「朝野新聞 第2266号Choya Newspaper, No.22661881年(明治14)4月10日朝野新聞社/発行朝野新聞は1874年(明治7)に創刊された。社長であり主筆の成島柳北や末広鉄腸らが新政府を辛辣に批判し、自由民権運動の高揚とともに自由民権派新聞として人気を博した。1881年(明治14)には発行部数も高くなったが、成島の死を機に凋落し、1887年(明治20)に廃刊となった。なお、銀座四丁目角地に建っていたこの社屋は、煉瓦壁のものとしては銀座で最も早く建てられた「服部時計店」となった。」 「新聞・雑誌の誕生1870年(明治3)の我が国初の日刊紙「横浜毎日新聞」の創刊に続き、東京でも1872年に「東京日日新聞」、「郵便報知新聞」が、その2年後に「朝野新聞」が創刊され、福地桜痴、成島柳北、末広鉄腸ら旧幕臣のジャーナリストが活躍した。これらの新聞は、開設されたばかりの銀座煉瓦街に新社屋を構え、銀座はジャーナリズムの中心地となっていった。士族や知識人を対象として、社説を掲げ、政治論を記事の主体としたこれら〈大新聞〉に対し、庶民向けに娯楽記事や読み物を主体とした〈小新聞〉も次々に発刊され、部数を伸ばしていった。浮世絵師が記事を絵画化した錦絵新聞も、人々への新聞の普及にひと役買った。同じころ、雑誌の創刊もさかんとなり、明治10年ごろには200誌以上も刊行されていた。なかでも明六社の「明六雑誌」は、福沢諭吉ら当時を代表するそうそうたる知識人が参加し、多方面の評論を展開した。しかし、1875年(明治8)に「新聞紙条例」が公布され、政府に対する取り締まりが強化されるようになると、反政府的言論を行った新聞などに対し、発行停止処分や編集者の禁固刑などの処罰も相次いで行われるようになった。」 正面に「ねじり棒(理髪店看板)」 「ねじり棒(理髪店看板)A sign of a barbershop1892年(明治25)頃理髪店(床屋)の看板で、木製で壺珠の頭が付き、赤と白のねじり模様に、青の横縞が入る。この配色とねじり模様は、現代の理髪店の看板にも通じる。1871年(明治4)に「断髪令」が出て以降、手入れのわずらわしさがない「ザンギリ頭」は、文明開化で導入されたものの中でもいち早く庶民の間に普及した。」 「和洋折衷の風俗欧米の最先端の文化を直接導入し、全面的に享受したのは、ごく限られた上流層の人々だったが、東京の庶民も開化の文物を見聞し、しだいに生活のなかに採り入れていくこととなった。文明開化の風俗でもっとも早く庶民に浸透したのは、〈ザンギリ〉と呼ばれた男子の断髪である。1871年(明治4)の断髪令で政府が髷を切ることを奨励して以来、ザンギリ頭は文明開化のシンボルとなった。また、洋傘などの比較的安価な輸入品を扱う雑貨店が各所にでき、西洋好きの人々でにぎわった。一方、「牛鍋食わねば開化けぬ奴」(仮名垣魯文『安愚楽鍋』)といわれた牛鍋をはじめとして、あんパン、あるいは女性の髪型の束髪など外来文化の和風化もすすんだ。新しがり屋の東京人の庶民意識も手伝って、生活に溶け込んでいったものも少なくない。」 背景に掛けられているのは、いずれも明治時代の文明開化風俗を描いた錦絵(開化絵)。ミシンや人力車の姿も。正面に様々なランプが。中央:卓上ランプTable lamp明治中期石油は江戸時代から日本でもわずかに使われていたが、本格的な採掘・利用が始まるのは明治以降だった。石油を使うランプも明治に入り輸入されるようになり、従来のろうそくは菜種油の灯りよりはるかに明るいその光は、日本人の夜の暮らしを大きく変えていった。左:座敷ランプ輸入されたテーブルに置く卓上の石油ランプを改良したもの。わが国の暮らしに合わせ、畳の上で使用できるようにした。高さは約80cm。「踏舞会 上野桜花観遊ノ図」。 ズームして。「踏舞会 上野桜花観遊ノ図(とうぶかい うえのおうかかんゆうのず)A Dance Party and People Viewing Cherry Blossoms at Ueno1887年(明治20)橋本周延/画欧化政策により変わりゆく人や町の様子は、浮世絵の恰好の題材となった。本図をはじめとする洋装の美人風俗画で一世を風靡した橋本周延は、幕末には彰義隊とともに上野戦争を戦い、榎本武揚に従い函館五稜郭で抗戦した経歴をもつ。」 『西洋料理通』"Seiyo Ryori Tsu" : Book on Western Food1872年(明治5)河原崎有恒/編横浜に居留していたイギリス人が日本人の雇人に料理を作らせる際の手控えをもとに仮名垣魯文がまとめたもの。各種料理のレシピから素材との調理時間まで、2巻110項目に渡って紹介している。カレーを初めて紹介した本としても有名。アイスクリームグラスIce cream glass1877年頃(明治10年頃)1869年(明治2)、横浜で日本最初のアイスクリームが発売された。明治期には上流家庭のほか、洋菓子店や果物店などでも売られ、デザートとして親しまれるなどと溶け込んでいった。あんパン(複製)An-pan (Replica)明治時代(1877~1912)明治初期にアメリカパンにヒントを得て創製されたとされるあんパン。和洋折衷のパンとして普及し、明治天皇に献上されたことでも有名である。現代のパン屋の定番商品として親しまれ、今日にいたっている。「ドレス(複製)」。 この説明板は、文明開化期に流行した**バッスルドレス(Bustle Dress)**を紹介しています。バッスルドレスの特徴・腰の後ろを大きくふくらませたシルエット・金属や鯨ひげの骨を入れたコルセットを併用・裾が長く広がる豪華なデザイン・鹿鳴館の舞踏会などで上流婦人が着用日本での流行明治20年前後になると、華族や高官の夫人、富裕層の女性たちが西洋式の社交界に参加するため、このようなドレスを着用するようになりました。江戸東京博物館のこの展示は、単なる衣服展示ではなく、「和服中心だった日本の女性たちが、西洋の社交文化を受け入れていった過程」を示す文明開化の象徴的な資料といえる。ドレス(複製)A bustle dress worn for dances parties and other occasions (replica)明治時代(1867~1912)資料は、1866年(慶応2)多摩地域の裕福な農家に生まれた女性が、早稲田に住んでいた頃手に入れたもの。内側には鯨の骨がコルセットのように縫いつけてあり、スカートの腰の後部にはボリュームを出すための詰め物が入っている。このようなドレスをバッスルドレスと呼び、上流階級の女性が舞踏会などに着用する衣装として普及した。「『改服服裁縫初心伝』Manual for sewing clothes1873年(明治6)勝山竹次郎・橋爪公弘/編明治に入り洋装が広まり始めるとともに、洋服を作るための洋裁技術も伝えられた。資料は日本最初の洋裁書として刊行された書籍で、燕尾服や背広など男性の洋服について、型紙や縫い方を載せて解説している。」 「籐製帽子Rattan Hat1887年(明治20)明治4年に出された散髪脱刀令により、男性の髪型はちょんまげからいわゆる短髪切り頭へと代わり、新たな身だしなみとして帽子が大流行した。和服に洋風の帽子をかぶるのも当時は当たり前で、先んじて取り入れられた洋装の一つだった。」 「掛け時計Wall clock1870年頃(明治3)政府は明治のはじまりとともに江戸以来の様々な制度を改廃した。その一つに、時・分・秒で時間を刻む定時法の採用があった。定時法の浸透により時計は各地に普及し、駅や郵便局などの公的機関には掛け時計が設置された。」 「紙調琴(しちょうきん)」。 「紙調琴(しちょうきん)👈️リンクShichô-kin (Japanese old musical box)1884年(明治17)以降琴声館/製西洋の自動演奏装置を真似てつくられた楽器。ハンドルを回すと紙製の曲譜が進み、孔のあいた部分に空気が通って演奏されるしくみで、音色はアコーディオンに近い。戸田欽堂が考案し、1884年(明治17)に銀座の十字屋が販売して大人気となった「紙腔琴」の類品である。」 「開化皿 磁器色絵六角大皿」。 「開化皿 磁器色絵六角大皿Porcelain Plate with Civilization-Themed Illustration明治前期鉄道の開業をテーマにした絵が施された色絵の大皿で、開業駅である汐留、新橋、横浜の名と、ホームへ到着する汽車、そしてそれを待つ洋装の人々などが描かれている。」 「ダルマ自転車」。 「ダルマ自転車This bicycle was created imitating the Western Ordinary bicycle (penny-farthing) and made by swordsmiths1891年(明治24)国友製造1877年(明治5)頃に日本に伝わったオーディナリー型自転車を模写して作られた日本製自転車。銘から、鉄砲鍛冶職人により製造されたと判明している。オーディナリー型は、車輪の1回転で進む距離が長く、スピードが出たが、操縦に高度な技術を必要とした。日本では、その形から「ダルマ自転車」と呼ばれた。」 展示品を振り返って。「黒ポスト(複製)」。 「黒ポスト(複製)Mailbox, or Postbox, from 1872 to 1904 (replica)1872年(明治5)1871年(明治4)、日本で郵便制度がはじまった。最初に使用されたポストの書状集箱に替わって登場したのが角柱型の郵便ポストであった。正面に書かれる「郵便箱」を「たれべんばこ」と誤読し、公衆便所と勘違いした人の話が、当時の新聞に掲載された。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.16
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「T 東京ゾーン」へ。奥には「服部商店」が。 地層が語る、東京の「焼土」と「再生」の地政学日本橋の下をくぐり、江戸から東京へと足を踏み入れる。その境界線に横たわっているのは、美しい装飾品ではない。剥き出しの「地層」だ。「地層は語る ― 地層のハギトリThe stories told by the layers of earth:Removing layers of earth」明暦の大火(1657年)以前の地層から、子供の骨が入った早桶(棺桶のそまつなもの)が見つかった。当時は、土葬が多く、桶のなかに座らせた状態で埋葬するのが普通であった。上に見える排水溝は、江戸後期のものである。In the layers of earth that are from before the large fire in theMeireki era (1657), roughly made caskets with bones of childrenhave been discovered. At that time there were many burials, andit was normal for burials to be done by putting people in a seatedposition inside a casket.The sewage ditch that can be seen above is from the latter part ofthe Edo period.地層上部。・第2次大戦時空襲時の焼土・関東大震災時の焼土左:火災後の廃棄物右:明暦の大火(振り袖火事)の焼土地層説明図。「江戸東京を掘る縮尺:1/1江戸の遺構は、東京の都心部のいたるところから発見される。この地層模型は、都立一橋高校(千代田区東神田)の発掘調査をもとに再現した。ここは、江戸初期に埋め立てられて、寺院の一角となった。1657年の明暦の大火により焼失したあと、長屋が建てられ、町屋のまま明治をむかえた。その後、震災・空襲の2度の惨禍にあい、今日にいたった。5メートルの地層のなかに、江戸から東京への歴史が埋まっている。」「地層は語る ― 地層のハギトリ ―」都立一橋高校遺跡から出土した遺物を棚に並べた。埋もれていた地層によって、その時代を判別することができる。Ⅴ層は明暦の大火(1657年)以前のもの、Ⅳ層は明暦の大火のときのもの、Ⅲ層は18世紀前期までのもの、Ⅱ層は18世紀中期ごろのもの、Ⅰ層は18世紀後期のもの、0層は関東大震災までのものである。The stories told by the layers of earth:Removing layers of earthArtifacts excavated from the Hitotsubashi High School ruins were arrangedon shelves.The period can be identified by the layer of earth in which theywere buried.Layer V dates from before the Great Fire of Meireki (1657), Layer IV fromthe timeof the Great Fire, Layer III from up to the early 18th century,Layer II from aroundthe middle of the 18th century, Layer I from the late18th century, and Layer 0from up to the Great Kanto Earthquake.発掘された地層ごとに出土品を並べ、江戸から東京への歴史の移り変わりを“地下の断面”として見せる展示。地層の各層(Ⅴ層〜0層)に対応して、その時代の遺物が棚状に配置されていた。主な特徴は:・一番下ほど古い時代、上ほど新しい時代・明暦の大火(1657年)を境に地層が分かれる・関東大震災や空襲など、都市災害の痕跡も地層に残る・江戸の生活用品・陶器・人形・井戸材などを年代別に展示・「地面の下に江戸と東京の歴史が積み重なっている」ことを視覚化している中央の大きな壺状のものは、江戸期の大型甕(かめ)・貯蔵容器系の遺物か。また、右側には陶器類、左側には近代に近づくにつれて日用品やガラス器などが見え、生活文化の変化が分かる構成に。この展示は単なる「遺物展示」ではなく、・火災・埋め立て・町屋化・震災・空襲・復興という、東京という都市の“再生の歴史”を、地層そのものから読み解く展示になっていた。「明暦の大火」時の地層。 「体験展示 / Experience exhibition」「人力車(複製)」 「体験展示 / Experience exhibition」「人力車(複製)明治時代」人力車は人が引く乗り物です。明治の初めに日本で発明された人力車は、重要な交通手段となり、外国にも輸出されました。この人力車は2人乗り用です。鉄製の車輪が使われていました。Rickshaw (jinrikisha) (replica)Meiji eraA rickshaw is a vehicle pulled by a person. Invented in Japan at the beginning of the Meiji era, the rickshaw became an important means of transportation and was exported to other countries.This rickshaw was designed for two people. Iron wheels were used.体験展示「リンタク(複製)」再び「服部商店」。 「鹿鳴館」の床下展示👈️リンク鹿鳴館(ろくめいかん)鹿鳴館は、英国人技師ジョサイア=コンドルの設計によるもので、1883年(明治16 ) 11月、欧化政策のシンポルとして、現在の日比谷の一角に落成しました。本模型では、100体以上の人形を配置し、当時の華やかな社交の様子をあらわし、とくに2階の舞踏室で舞踏会の様子を再現していたのであった。 移動して。2階の舞踏室で舞踏会の様子を再現。舞踏会の様子👈️リンク をカメラで追う。「〈鹿鳴館〉明治政府が日比谷に建てた、西洋風の迎賓館。イギリス人技師コンドルの設計で、1883年(明治16)に落成。西洋からの賓客を招いて、舞踏会が行われた。」 目の見えない方や見えにくい方が、指先で触れて読むための点字での説明も。「T1-1 武都から首都へ」。 「武都から首都へ」は、江戸東京博物館の常設展「東京ゾーン(T1 文明開化東京)」に位置する展示テーマ。徳川将軍家の城下町(武都)だった江戸が、明治維新を経て日本の首都(東京)へと変貌を遂げた激動の歴史と文明開化の様子を伝えていた。「武都から首都へ天下の総城下町・江戸は、百数十万の人口を抱える大都市として栄えてきたが、徳川政権の崩壊とともに、その繁栄も失われた。とくに都市の約70パーセントを占めた旧武家地の荒廃が甚だしく、1868年(慶応4・明治元)の東京は、雑草が生い茂り、「夜中は別けて往来少し。また強盗多し」といわれたほどの荒れようであった。一方、都市開発とは逆行するように桑・茶畑の奨励が行われたが、そうした政府の試行錯誤も一時期で終わった。江戸城改め皇城に連なる官庁街が整備され、日本橋を中心とする市街地に再び活況が戻るのには、明治維新よりさらに10年以上の歳月を要した。その後、首都東京が急速に発展したのは、西洋技術の速やかな導入や、大貿易港横浜と海陸で結ばれたこと、旧武家地を利用した都市整備が広まったことなどによるものであった。」 「東京府の誕生Birth of the Tokyo Prefecture1868年(慶応4)7月17日、江戸が東京へと改称された。9月2日には現在の千代田区内幸町にあった旧郡山藩邸を東京府庁舎とし、正式に「東京府」が誕生。同年9月8日、「明治」に改元された。Edo was renamed Tokyo on the 17th day of the seventh month of 1868 (Keiō 4), and on the second day of the ninth month, the former Kōriyama domain residencein present-day Uchisaiwaichō, in Chiyoda ward, was designated as the TokyoPrefectural Office building. This marked the official birth of the “Tokyo Prefecture”. On the eighth day of the ninth month of the same year, the era name was changed to “Meiji”.東京府の行政区画と人口統計1871年(明治4)の廃藩置県から1893年(明治26)まで1871年(明治4)11月大区小区制総人口 882,222人(1872年〈明治5〉)1878年(明治11)7月15区6郡制(郡区町村編制法の制定)総人口 957,121人(1880年〈明治13〉)(拡大図の15区)・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・麹町区・牛込区1889年(明治22)5月15区に「東京市」の誕生(市制・町村制) 総人口 1,719,508人1893年(明治26)三多摩地区の移管 総人口 1,884,885人東京府庁舎(旧郡山藩上屋敷)1894年(明治27)に城石通りの新庁舎が現在の千代田区丸の内に建てられるまで使用された。(写真はネットから)。「書役徳兵衛日記」より天盃頂戴の記事Diary with an Entry on the Occasion where the Emperor Distributed Sake to the Townspeople of Tokyo1868年(慶応4-明治1)四谷塩町一丁目 書役 徳兵衛/作成四谷塩町一丁目の書役(町名主などを補助し文書作成などを行う町役人)原徳兵衛が書き残した日記には天盃頂戴の記述がある。同町は11月4日に東京府から酒36樽を拝領し、翌日派手に御神酒開きを行った。6日には将棋駒型の山車3基を製作し、内藤新宿辺りまで曳き回した。天盃頂載為御礼諸民欽楽 東京府四谷之風景People Revel in Return for Imperial Gift of Sake : View of Yotsuya, Tokyoこの絵は、明治初年の東京・四谷で行われた「天盃頂戴(てんぱいいただき)」の祝賀行列を描いた錦絵。上記の『書役徳兵衛日記』に記されていた、・東京府から酒36樽を拝領・御神酒開き・将棋駒型の山車3基を製作・内藤新宿まで曳き回したという出来事を、視覚的に表現した作品。「天盃頂戴為御礼諸民飲楽 東京府四谷之風景The people of Tokyo were delighted when the Emperor Distributed Sake to the Townspeople of Tokyo1868年(明治1)歌川広重(二代)/画 瀬川屋安兵衛/版1868年(明治1)10月13日に江戸城に入った明治天皇は、東京城に改め皇居とした。翌月の11月4日に東京市民に酒を下賜し、これは、「天盃頂戴」とも言い、当日は名主などが召し出され、酒が各町内向けに配布された。本図からは、酒を振る舞われた市民たちの興奮ぶりが伝わってくる。」 「東西二都論明治新政府は中央集権的な統一国家の建設を急務としたが、旧態を打破し、新政を行うにあたって浮上したのが遷都論であった。大久保利通は、財政難を抱えていた新政府の基盤を日本経済の中心地である「天下の台所」の大坂に求め、浪花遷都に関する建白を行った。また、のちに郵便制度の創始者となった前島密は、大坂とくらべると江戸は少ない財政負担で帝都の建設が可能であるとして江戸遷都を建議した。さらに大木喬任と江藤新平は、京都市民に対する配慮と、関東、東北諸藩を平定するための政策的意図から、京都を〈西の京〉、江戸を〈東の京〉とする東西二京並立論を主張した。こうした各論を背景に、二京並立論に立つ〈江戸奠都(てんと)〉が決定し、1868年(慶応4)7月、江戸は東京と改められた。」 「輸出用茶箱のラベル「FUKUSUKE」」 「輸出用茶箱のラベル「FUKUSUKE」Trademark of the Japanese tea登録商標(1883~1911)明治維新によって江戸の武家地もあるじを失い、空き地となった。そのため、1869年(明治2)、東京府は、旧武家地のうち約300万坪に桑と茶の栽培を奨励したが、この桑茶政策は1871年(明治4)に廃止された。このラベルは、生産した茶を海外に輸出する際の茶箱に用いられたもの。生糸とともに茶が、明治日本の重要な輸出品目であったことを物語る。」 「官庁の建設Construction of Government Offices明治政府の方針により、各官庁が皇居周辺に建設され、丸の内には官庁や陸軍の練兵場などが配置された。In accordance with the policy of the Meiji government, various government offices werebuilt around the Imperial Palace, and government offices and army training camps wereplaced in Marunouchi.丸の内における各施設の所在地1876年(明治9)の官庁・軍事施設・大蔵省・紙幣寮・内務省・文部省・教部省・製作寮出張所・文部司薬局・工兵営・紙幣寮活版局・陸軍武庫車司・鎮台兵営 第十三大隊営・内務省・大審院・上等裁判所・轜重兵営・司法省・警視庁・東京鎮台病院・東京裁判所・陸軍裁判所・陸軍省・練兵場・教導団工兵第一大隊営・中山兵部・神学校・松平忠和・教育博物館写真キャプション皇居より北の内方面 明治初期明治後期の丸の内1890年(明治23)には払い下げを受けた三菱がオフィスビル(三菱一号館など)を建設し、一帯は丸の内オフィス街へと変貌していった。明治後期の丸の内 三菱一号館、三号館(左)「東京風景」1911年(明治44)「桑茶政策The Mulberry and Tea Policy明治維新直後の東京では、旧武家地の荒廃が進んだ。これを活用するため、東京府知事大木喬任は桑畑・茶畑への転用を奨励した。これは海外需要の高い生糸や茶の増産を目指したが、わずか2年後の1871年(明治4)にこの政策は廃止となった。In Tokyo immediately after the Meiji Restoration, former samurai lands continued to deteriorate.To utilize such lands, the Tokyo Governor Ōki Takato encouraged the conversion of these lands into mulberry and tea fields. The aim of this policy was to increase the production of raw silk andtea, the main export commodities at the time; however, it was abolished only two years later in1871 (Meiji 4).」 ・市ヶ谷御門の桑茶畑・「永福東京御絵図」1871年(明治4) (緑色の部分)・写真旧大名屋敷(長岡藩牧野家中屋敷)の耕地化屋敷が撤去され、跡地が畑とされた様子がわかる。愛宕山からみた明治初年の東京・明治10年代の青山周辺の桑畑・茶畑明治維新後、丸の内一帯に広がっていた大名屋敷跡は、一時的に桑畑・茶畑として利用された。これは輸出産業である生糸・茶の増産を図る政策でしたが、短期間で終了し、その後は官庁街や軍事施設へと姿を変えていった。つまりこの展示は、「大名屋敷地 → 桑園・茶園 → 官庁街・軍事施設 → 現在の丸の内」という土地利用の変遷を示しているのであった。「旧武家地と桑茶政策旧武家地を返上させたものの、その処理に困った新政府は1869年(明治2)、殖産興業と窮民授産の見地から旧武家地での桑と茶の植え付けを奨励した。当時の輸出の主要品目が生糸と緑茶だったことによる政策である。青山の15万9千余坪を筆頭に、小石川、千駄ヶ谷、麻布、市ヶ谷、下谷、浅草などの約100万坪が、たちまち桑畑や茶園に変わっていった。しかし、東京の首都機能の整備とは逆行する対策であったことと、払い下げ条項や税制上の優遇措置が悪用されて混乱を招いたことなどから、この桑茶政策は失敗に終わり、1871年(明治4)に廃止となった。」 「鐵道開業新橋夜景圖」 「鐵道開業新橋夜景圖The Railway Opens: Shinbashi at Night1872年(明治5)6月歌川芳虎/画 伊勢屋兼吉/版1872年10月14日、新橋―横浜間に鉄道が開業した。馬車軌道の車内へ入るには切符を持つ一部の人に限定されたが、鉄道の開業は約百日の提灯と緑葉のアーチで飾られ、駅周辺では祭礼の山車が練り歩き、祝祭ムードに包まれた。本図は実際の開業以前に描かれていることから、実景ではなく予想図と思われる。「双頭レール(汐留遺跡出土)A rail used at the Shinbashi station, an excavated article明治時代前期(1868~1888)新橋ステーションがあった汐留遺跡より出土した双頭レール。双頭レールとは、底部に平らな部分がなく、上下とも走行用に使用可能なI字形の形状をしていたレール。摩耗した場合は、上下逆さまに敷設し直し、使用していた。新橋・横浜間の開業当時は、国産はまだなく、イギリスの双頭レールを輸入していた。」 双頭(そうとう)レールとは、アルファベットの「I」ののように上下対称の頭部を持った鉄道用レールです。日本の鉄道黎明期(明治時代)にイギリスから輸入されたもので、片側が摩耗しても上下をひっくり返すことで2度使えるように設計されていました。「四民平等と「解放令」1869年(明治2)6月の版籍奉還に際して、公卿・諸侯(旧藩主)を華族、旧幕臣・藩士などを士族とし、封建的な主従関係が廃止された。また、農工商は平民となり、さらに、1871年には、いわゆる「解放令」が布告され、旧来の穢多・非人などの称を廃して、身分・職業とも平民と同じとした。平民も名字を許され、華族・士族との通婚ができるようになり、職業の選択、居住地の移動などの自由も認められた。いわゆる〈四民平等〉の世である。しかし、〈基本的人権〉など市民としての諸権利がすべて確立されたわけではない。そのためには、その後の自由民権運動をはじめとする、民衆の長く粘り強い運動の展開が必要であった。とりわけ、被差別部落の住民への差別を生み出す社会的・経済的土壌は容易には無くならず、結婚や就職などへの差別は根強く残った。そのため真の自由と平等を求めて、部落解放を目指した運動が本格的に展開することになった。」 「築地居留地と鉄道の開設The Tsukiji Foreign Settlement and the Opening of the Railroad1868年(明治元)、外国との貿易のため開かれた築地には外国人専用の住宅や旅館(築地ホテル館)などが建てられた。長くのびる汐留には新橋停車場が設けられ、新橋・横浜間は鉄道により53分で結ばれた。In the Tsukiji Settlement, which was opened in 1868 for foreign trade, houses and inns (Tsukiji Hotel) were built exclusively for foreigners. In 1872, the Shinbashi depot was established in nearby Shiodome, connecting Shinbashi and Yokohama by railroad in 53 minutes.」地図中の主な施設築地居留地関係・外国人居留地・外国人遊歩道・築地ホテル館・海軍操練所・海軍兵学校・外国人墓地鉄道関係・新橋停車場・汐留橋・新汐橋・明石橋・汐留川・東京築地鉄道館・汽車止場・小田原橋周辺地名・京橋・東京湾・浜離宮 写真・図版キャプション左上写真・新橋停車場(東京大学史料編纂所所蔵写真)中央写真築地居留地 海岸通り 明治中期「東京百景」 右下錦絵築地ホテル館と波止場東京築地波止場ホテル館之景 1870年(明治3 ) 歌川広重(3代)/画左下図浜離宮東京延遼館御庭之図 1883年(明治16 )川端玉章/画 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.15
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芝居小屋・中村座(正面部分)江戸時代の代表的な歌舞伎の芝居小屋である中村座の正面部分を、原寸大の間口11間(約20メートル)、奥行3間(約5.5メートル)で復元しました。ここでは、庶民も大名も日常を忘れて歌舞伎の世界に心を遊ばせました。芝居小屋がもっとも華やかな装いをみせるのは、毎年11月の顔見世興行でした。公許のしるしである櫓の下に、絵看板や文字看板、提灯などを飾りたて、往来をにぎわせました。その様子は、『戯場訓蒙図彙』などにくわしく見ることができます。この模型の復元にあたっては、「中村座内の図」や『江戸名所図会』なども参照しました。看板類は、1805年(文化2)11月の顔見世興行(市川団十郎一代)を想定して作成しました(絵看板は9代鳥居清光画)。江戸時代の歌舞伎劇場「中村座」の正面部分。夜の芝居町の熱気まで感じられるような、非常に華やかな復元展示になっていた。中央上部の大きな櫓(やぐら)・黒地に白い紋が描かれた高い櫓 中央上部の黒い櫓に描かれている白い紋は、 中村座の座紋である 「角切銀杏(すみきりいちょう)」 銀杏紋は中村家系統を象徴する 紋として広く用いられ、歌舞伎界では非常に有名な意匠・これは幕府公認の芝居小屋で あることを示す象徴・江戸三座(中村座・市村座・森田座)だけが掲げることを許された格式でした両側の提灯・白地に紋入りの提灯が吊られている・夜になると芝居町を明るく照らし、観客を迎えた・祭りのような高揚感を演出巨大な文字看板櫓の下にある櫓下看板には、中村座を代表する役者「さるわかかん三郎」(猿若勘三郎=中村勘三郎)「瀬川路考」「岩井半四郎」の3名が記され、その右にはこの絵看板が。 左側に並ぶ細長い木札これは「番付」や出演札にあたるものです。・出演役者・配役・演目 などが書かれていた。近くから見上げて。右側の色鮮やかな絵看板・歌舞伎の名場面・勇壮な立廻り・美しい役者姿 などが描かれていた。特に右側の華やかな人物群像は、歌舞伎独特の 誇張された美意識をよく表していた。下部の赤い提灯列軒先にずらりと並ぶ赤提灯が、芝居町の賑わいを強調しています。この光景は、・非日常の娯楽空間・江戸最大級の歓楽街・“夢の世界への入口”としての歌舞伎小屋を象徴していた。中村座正面に掲げられた「絵看板」と「番付札」に近づいて。中央の縦長の札中央に立つ大きな木札は、興行内容や出演者を知らせる「番付札」にあたります。上部には、「浄瑠理 母育雪間鴬」の文字が見え、その下に演目名や役者名が並んでいた。移動して。「中むら きゃうげんづくし かほみせ?」の文字が。 再び市川團十郎・助六の大見得の姿を。「日本橋」の下に向かって進む。巨大な橋桁を見上げながら歩くことで、江戸の都市スケールを体感できる展示構成になっていた。頭上にそびえる巨大な「日本橋」・木造橋を原寸大で復元した迫力ある展示・分厚い梁と橋脚が、江戸土木技術の力強さを感じさせる・下から見上げることで、橋が“都市インフラ”だったことを実感できる力強い橋脚構造・太い柱が斜材で補強されている・大量の人や荷を支えるための構造・洪水や荷重に耐える江戸の木造技術が見える橋の上を歩く見学者・上部は実際に歩ける展示・江戸の旅人や商人と同じ目線で橋を渡る感覚を楽しめる「日本橋」の意味江戸時代、日本橋は単なる橋ではなく、・江戸の中心・五街道の起点・商業の中心地・情報と物流の集積地中村座の内部の回廊、客席周辺通路を再現した部分であっただろうか?美しい格子模様が広がっていた。「歌舞伎の楽器」。 内部には歌舞伎の演目で使われる楽器👈️リンクなどが展示され、より臨場感を味わえるのであった。移動して。ズーム。「日本橋」の下を潜り振り返って「服部商店」を見る。 「中村座」小型模型。 〈中村座〉江戸境町(中央区日本橋人形町3丁目)にあった、江戸の代表的な芝居小屋。この一帯は、見世物や芝居でにぎわっていた。廻り込んで。「中村座舞台 平面図」。 「中村座(三面図)」。楽屋:役者や芝居関係者が準備や稽古を行う作業場。「芝居小屋の構造縮尺:1/10復元年代:1807〜08年(文化4〜5)頃中村座は、江戸時代の代表的な歌舞伎の芝居小屋のひとつである。江戸の芝居小屋は、たびたびの火災により新築・改築を繰り返しているが、この模型は、堺町(現・中央区日本橋人形町三丁目付近)の中村座に関する1809年(文化6)の記録をもとに、芝居小屋の構造の復元を試みたものである。なお、舞台の破風は、この時期にはすでになくなっていたが、芝居の演目によっては仮設された。」屋根の右手には「天水桶」が。主に都市部の防火用水として雨水を貯めていたもの と。格子状に区切られた「観客席」。 芝居小屋は、当初は能舞台様式の舞台を竹で組んだ囲いやむしろをかけるなどしてつくった仮設のもので、観客は地面に座って見ていたという。江戸時代には、屋根をつけた3階建ての大建築となる。能舞台の橋掛かりが客席に延びて「花道」となり、花形役者が花道を通って登場することになる。浮世絵に描かれた芝居小屋の内部から分かるように、舞台正面の1階席が平土間(ひらどま)で、4人~6人が座れる木の仕切りで区切られた枡席(ますせき)となっていた。平土間より高い左右の位置には、2層になった桟敷(さじき)席が設けられていた。桟敷席は芝居茶屋を通して予約しなければならず、上客向けのものだった。最も安価な席は、浮世絵には描かれていないが、舞台正面の2階の桟敷で立見席となっていた。一方浮世絵には、いまではあまり見られないが、舞台下手(左側)に下級の桟敷席が描かれている。1階を羅漢(らかん)台、2階を吉野と呼ぶ。芝居を後ろから見ることになるので、安価な席となっていた。舞台の真ん中には「回り舞台」(円形に切った床の上に大道具を乗せて、それを回転させることで、場面転換が早くできる)がある。ほかにも、舞台の床をくりぬいて上下させる舞台装置があり、「セリ」と呼ばれている。大きさや場所によって「大ゼリ」「小ゼリ」、花道の「すっぽん」などの種類がある。舞台の床下を奈落(ならく)といい、ここでは人力で回り舞台を回したり、セリを押し上げたりしていた。「廻り舞台舞台の床を円形に切って、その上に飾った大道具を置いたまま回転する舞台装置。拍子木の合図で、奈落では道具方が人力で棒を押し、連動する心棒が回って、舞台上の盆が廻る。廻り舞台の発明で、二つの異なった状況を交互に見せる演出や、家の内外・船の全形を見せる演出ができるようになり、歌舞伎の発展を促した。」」「舞台の構造。奈落で行う操作は、客席からは見えない」この図は、歌舞伎の「廻り舞台」の地下構造を示しています。奈落で人力により棒(心棒)を押して回転させ、その力で舞台上の円形部分(盆)が回転する仕組みを表しています。「奈落舞台や花道の床下を奈落という。低い天井と陰湿な空間が、地獄を連想させることから、この名が付けられた。この模型は、小屋裏側(舞台側)の地下部分を縦断面にして、奈落の様子を側面から覗けるようにした。」 そして「E10 江戸から東京へ」と。幕末の江戸城御殿から文明開化を経て、明治・大正・昭和の近代都市「東京」へと移り変わる激動の歴史と風景を描いていた。そして「E10-1 江戸無血開城」。約160年前の1868年(慶応4年=明治元年)3月14日、東征軍参謀の西郷隆盛は幕府側の代表である勝海舟との2度目の会談で、翌15日の江戸城総攻撃を中止した。当時、江戸の人口は150万人(推定)。市街戦に突入して、住民の生命と財産を戦火にさらす危機を防いだこの決定は、近代史上最も優れた政治的決断のひとつとして語り継がれているのだ。 「黒船来航絵詞」。 ズームして。「黒船来航絵詞A colored picture scroll of the black-ship visit to Japan1854年(嘉永7)西村正信/誌 関弘道/謹」「ペリー艦隊2度目の来航時の様子を描いた彩色絵巻。本牧沖に艦隊が停泊している様子、蒸気船・乗組員・バッテイラというボートのすがたが彩り豊かに描かれている。また、艦船の形状や装備などについて、詳細な説明が付けられている。幕臣・西村正信が現場で書いたスケッチをもとに、後日調べた知見を加え、浄書したものと思われる。」「江戸無血開城1853年(嘉永6)、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、日本に開国を求める大統領の国書をたずさえ、軍艦4隻をひきいて浦賀に来航した。幕府はその圧力に屈し、1854年(安政元)に日米和親条約を締結した。その後、アメリカ駐日総領事ハリスが日本との通商を求め、1858年に日米修好通商条約が調印され、約200年続いた〈鎖国〉政策が終結した。幕府の権威が急速に衰え、有力な諸藩を中心に新たな政治体制を模索する動きが強まるなか、1867年(慶応3)に15代将軍徳川慶喜は、朝廷に政権返上を申し出た。これに対し、薩摩、長州の両藩を主軸とする勢力は、王政復古の大号令を発したのち、朝廷を守護する官軍として武力討幕を目指した。1868年(慶応4)1月、鳥羽・伏見での戦いが起こり、戊辰戦争がはじまった。官軍(東征軍)が江戸に迫った3月、旧幕府軍事取扱の地位にあった勝海舟と東征軍参謀であった西郷隆盛が会見し、江戸無血開城が決定した。しかし、これを不服とする旧幕臣の一部は彰義隊を結成し、上野の寛永寺に立てこもったが、10時間ほどの戦闘で壊滅した。」「ペリー艦隊の来航と条約交渉Arrival of Commodore Matthew C. Perry’s Squadron and Treaty Negotiationsアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、1853年(嘉永6)・1854年の2度にわたって来航し、幕府との間で日米和親条約を締結した。Admiral Perry of the U.S. East India Squadron arrived twice, in 1853 and 1854,and concluded the Treaty of Peace and Amity between Japan and the United Statesペリー艦隊の来航経路・ノーフォーク 1852年11月24日・浦賀 1853年7月8日ペリー艦隊滞在時のおもな出来事(日付は洋暦による)1853年・7月8日 浦賀沖に到着、浦賀奉行所役人と面会・7月11日 ミシシッピ号と測量艦を江戸湾に派遣・7月12日 浦賀奉行所役人と面会、大統領国書の受け渡し方法を協議・7月13日 浦賀奉行所役人と面会、国書受け渡しにともなう儀式について協議・7月14日 久里浜の応接所でペリーと浦賀奉行が会見、国書の受け渡しが行われる 会見後、ペリー艦隊を引き連れ、江戸湾に入り水路調査を行う・7月15日 測量船を江戸付近まで「向かわせ」、ペリーもミシシッピ号にて川崎付近まで連航・7月16日 艦隊を猿島付近に移動、測量を行う 出航1854年・2月13日 小柴沖(現・横浜市金沢区沖)に投錨 浦賀奉行所役人と面会し、国書の回答の 受け渡し場所を協議・2月22日 アダムズ(望洋丸)が浦賀に上陸、仮設の応接所で林復斎らと会談・3月8日 ペリーら横浜に上陸、幕府側全権と第1回会談・3月13日 ペリー側から幕府に電信機・機関車模型・ボート艘などを贈る・3月17日 第2回会談・3月24日 第3回会談 日本側より漆器、重箱、硯などの美術工芸品が贈られる・3月27日 ホーバンらをの饗宴に幕府側全権を招待・3月28日 第4回会談・3月31日 日米和親条約締結・4月6日 ペリーは再び上陸し横浜村を散策、村長(名主)宅を訪問・4月10日 艦隊に近づきをためならせ、羽田沖に接近・4月18日 下田に移動。約1か月滞在 主らが下田の町、周辺地域を訪れる・4月25日 夜衣に日本人2人がホーバン号に来て、アメリカへの密航を願うが断る・5月13日 箱館に向け出航。17日到着、半月ほど滞在 主らが箱館の町、周辺地域を訪れる・6月3日 下田に向け出航。7日到着・6月18日 下田追加条約締結・6月26日 下田を出航ペリー艦隊(4隻)蒸気船・サスケハナ号・ミシシッピ号帆船・サラトガ号・プリマス号ペリー艦隊(7隻・のち9隻)蒸気船・サスケハナ号・ミシシッピ号・ポーハタン号帆船・ヴァンダリア号・レキシントン号・サウサンプトン号・サラトガ号・プリマス号」 黒船来航1853年(嘉永6)、ペリー艦隊が日本の開国を求めるアメリカ大統領の国書をたずさえ、浦賀に来航した。黒船渡来の情報は全国に広がり、幕府役人や大勢の庶民も見物に集まった。幕府はやむなく国書を受領したが、回答は翌年に引きのばした。この間、幕府はペリーが再来した時の対応について、諸大名や旗本に意見を求めた。また、幕政の改革をすすめ、川路聖謨(かわじ としあきら)や勝海舟といった新たな人材を登用するとともに、海岸防備の強化のため、江戸湾に台場(砲台)を建造した。1854年(安政元)、前年の国書の返答を得るため、ペリーは再び軍艦7隻をひきつれて浦賀に来航し、条約の締結を強硬に迫った。幕府は回答の引きのばしを断念し、横浜に上陸したペリー一行との協議を経て、日米和親条約を締結した。こうして幕府は、開国に方針を転換した。「浦賀黒船来航絵図」 「浦賀黒船来航絵図Route of the Perry’s squadron in Edo Bay1853年(嘉永6)頃1853年(嘉永6)6月、ペリー艦隊が浦賀に来航してから退帆するまでの、艦隊の位置とその航路を図示したもの。図中の黒い、爪のような形をした印がペリー艦隊で、赤の点線が艦隊の航路。江戸湾周辺の黒い四角は大名らが詰めた砲台で、赤い直線は砲台からの距離を示す。ペリー来航時の緊迫した様子がうかがえる。」 江戸防衛と台場Edo Coastal Defense and the Forts1853年(嘉永6)、ペリー艦隊に来航したのを契機に、幕府は急きょ海防体制を強化し、江戸湾沿岸に砲台(台場)を築造した。図は、東京湾沿岸につくられた主な台場の配置を示している。(図中)東京湾の沿岸につくられた台場図拡大図には、品川沖に築造された「お台場」(第一区〜第六区など)が描かれている。右中図第二台場内部図内部には、・兵舎・火薬庫・砲座・弾薬置場・見張所などが配置され、海上防衛拠点として機能していたことがわかる。右下説明文多くの台場は埋め立てによって失われたが、現在でも一部が残されている。現在の「お台場」という地名は、これら江戸時代の砲台に由来する。写真キャプション第三台場(港区)砲台跡(復元)など、現存する台場跡の写真が掲載されている。前列の第1、第2、第3の台場は、嘉永6(1853)年8月に着工し、翌嘉永7(1854)年4月に竣功した。5月には、将軍・徳川家定が、阿部正弘らとともに完成した台場を視察した(『温恭院殿御実紀』安政元年5月18日)。続いて後列の第5、第6の台場が嘉永7(1854)年正月に着工し、同年11月に竣功した。さらに、当初の計画に追加して、品川御殿山下の海岸にも台場が建設され、第5、第6と同時に完成した。完成した台場は、以上の6基のみで、第4と第7も工事に着手したものの、第4は7割、第7は3割が出来上がったところで工事が中止された。第8以下は工事の着手に至らなかった。総工費は約75万両で、この工費をまかなうために発行された嘉永一朱銀は「お台場」あるいは「お台場銀」と通称された とネットから。二番台場図。(ネットから)現在の第三台場(ネットから)。鳥羽伏見合戦図。鳥羽伏見合戦図Newspaper on a tile block which reported a battle of Toba-Fushimi1868年(慶応4)1868年(慶応4)正月3日に起きた、鳥羽・伏見の戦いを報じた瓦版。右上に大坂、左下に京都を配置し、新政府軍と旧幕府軍の交戦地点を燃え上がる炎で表している。この戦いで、新政府軍の優位が決定的となると、正月7日に朝廷から徳川慶喜追討令が発せられた。勝海舟の見た幕末江戸無血開城に大きな役割を果たした勝海舟は、1823年(文政6)に旗本勝家の長男として、江戸本所亀沢町(現・墨田区)で生まれた。幼名・通称を麟太郎といい、青年時代は剣術と闘争に打ち込んだ。1853年(嘉永6)にペリー艦隊が来航し、幕府が諸大名・旗本に意見を求めた際、勝は海防強化を求めた2通の意見書を提出した。これが幕府に認められ、1855年(安政2)に長崎海軍伝習所に派遣され、航海術や造船・測量学などを学んだ。1860年(万延元)には、遣米使節の護衛艦となった咸臨丸に艦長役として乗り込み、アメリカに渡航した。政治情勢が大きく変動するなか、越前藩主松平慶永(のちの春嶽)や横井小楠らと親交を深め、幕府と諸藩が力を合わせた政治の実現を目指した。1863年(文久3)には、14代将軍徳川家茂から神戸海軍操練所建設の許可を直接受け、出自や身分の上下を問わない海軍創設に取り組もうとした。しかし、1864年(元治元)、勝は突然として軍艦奉行を罷免され、神戸海軍操練所も廃止された。勝海舟略年譜Brief Chronology of Katsu Kaishu’s Life勝海舟は、1823年(文政6)正月に旗本勝家の長男として、江戸本所亀沢町(現墨田区)に生まれた。幕府の要職を歴任したのち、1868年(慶応4)3月に西郷隆盛と会談し、江戸無血開城に貢献した。西暦(年号) 時期 出来事1823年(文政6) 1月晦日 江戸本所亀沢町にて出生1838年(天保9) 7月27日 家督を継ぐ1841年(天保12) 男谷精一郎から直心影流剣術免許皆伝を受ける1842年(天保13) このころ、永井青崖に蘭学を学ぶ1847年(弘化4) 「ツンフルリマ」海岸測量全図完成1850年(嘉永3) このころ、坂田町に越居を開く1852年(嘉永5) 妹・順子が佐久間象山に嫁ぐ1853年(嘉永6) 7月 海防につき意見書を提出1855年(安政2) 7月 長崎海軍伝習所勤務を命じられる1860年(万延元) 1〜5月 咸臨丸にて太平洋を横断し、アメリカに渡航1862年(文久2) 閏8月17日 軍艦奉行並となる。このころ、坂本龍馬と出会う1863年(文久3) 4月23日 神戸海軍操練所設置の許可を得る→1865年に廃止1864年(元治元) 5月14日 軍艦奉行、安房守となる 11月10日 軍艦奉行罷免、自宅に謹慎1866年(慶応2) 5月28日 軍艦奉行に再任 9月2日 厳島(安芸宮島)で長州藩側と停戦交渉1868年(慶応4) 1月12日 鳥羽・伏見の戦いの敗戦により、江戸に帰還した 徳川慶喜は大阪城を出迎える。23日に陸軍総裁となる 2月25日 陸軍総裁を免じられ、軍事取扱となる 3月13・14日 西郷隆盛と会談→4月11日江戸開城 10月11日 東京をはなれ、駿府へ向かう1872年(明治5) 5月10日 海軍大輔となる。この年帰郷、赤坂氷川町に転居1873年(明治6) 10月25日 参議兼海軍卿となる1887年(明治20) 12月 『吹塵録』完成→1890年に刊行1899年(明治32) 1月19日 自宅にて逝去図版キャプション・「ヅーフハルマ」写本・書額「海舟書屋」(佐久間象山/筆)・長崎海軍伝習所 公益財団法人鍋島報效会/所蔵・咸臨丸 横兵開港資料館/所蔵・『吹塵録』「勝海舟宛西郷隆盛書状早々田町より被申越候ニ付、此方よりも早速罷越候間、御待可被下候、……」新政府軍参謀の西郷は、慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いから江戸開城に至るまで、幕府側の陸軍総裁であった勝海舟と幾度も書簡をやりとりして、会談を行いました。同年3月14日の薩摩藩邸蔵屋敷での会談の際、勝が蔵屋敷に到着したことを書簡に記し、この書は、その返事として、西郷が早速向かうので待っていただきたいと記した返事です。 「勝海舟宛西郷隆盛書状The letter from Saigō Takamori to Katsu Kaishū1868年(慶応4)3月14日西郷隆盛 / 作成」「田町の薩摩藩邸にいるという勝海舟からの連絡に対し、早速向かうので待っていただきたいとの西郷隆盛の返事。勝と西郷は、3月13日に会談しており、この書状は2回目の会談直前に出されたことがわかる。江戸総攻撃を控えての大詰めの折衝が行われ、徳川慶喜の処遇、江戸城と武器の引き渡しなどの条件が整い、攻撃は中止となった。」「江戸無血開城をめぐるおもな動きMajor Movements toward Bloodless Surrender of the Edo Castle」「江戸を戦火から守った勝海舟と西郷隆盛の会談。その背景には、様々な思惑を持った人々の動きがあった。The meeting between Katsu Kaishū and Saigō Takamori, which saved Edofrom the flames of war. In the background were movements of people with different expectations.」「総督宮ヨリ江戸鎮撫ニ関シ御委任書勝安房江府鎮撫萬端取締之儀御委任:江戸の町を鎮め、すべての事柄を取り締まる役目に任ずる其間可有精勤:その間は誠実に励み、尽力するように大総督宮:東征大総督・有栖川宮熾仁親王御沙汰事:この件についての命である慶応辰閏四月二日:慶応4年(戊辰)閏4月2日 / 新暦:1868年5月22日大徳官府參謀:大総督府(※大徳は東征大総督府の意)の参謀。実質的には西郷隆盛ら」 「総督宮ヨリ江戸鎮撫ニ関シ御委任書The document that appointed Katsu Kaishū to official position that maintains public peace of Edo1868年(慶応4)4月2日大総督府参謀 / 作成」「勝海舟に対し、江戸鎮撫万端にわたる取締りを委任した書状。1868年(慶応4)4月11日の江戸開城後、脱走した旧幕府の歩兵隊などが上野に立てこもったり、関東各地に転戦したりと不安定な情勢となった。新政府側は、勝海舟ほか旧幕府の徳川(田安)慶頼・大久保一翁の3名に、江戸の治安維持を任せた。」「江戸開城1867年(慶応3)、薩摩・長州の両藩を主軸とする勢力によって王政復古の大号令が発せられ、幕府・将軍職が廃止された。翌1868年正月、鳥羽・伏見の戦いが起き、徳川軍は新政府軍に敗れた。海路江戸に帰った徳川慶喜は、閉居していた勝海舟を呼び出し、事後処理を委ねた。勝は、恭順の意志を新政府側に対して示すため、慶喜に上野寛永寺での謹慎をすすめた。また、山岡鉄舟を通じ、東征軍参謀の地位にあった西郷隆盛に慶喜への寛大な処置を求めた。そして、徳川側の嘆願が聞き入れられなかった際には、江戸の町に暮らす人々を海上に避難させた上で市中を焼き払い、東征軍の進軍を妨げるという作戦まで用意していたとされる。東征軍による江戸城総攻撃が予定されていたのは3月15日。この直前の13日と14日、江戸の薩摩藩邸で勝と西郷の会談が、二度にわたって行われた。会談の結果、西郷が勝の意見を受け入れ、江戸城総攻撃は中止された。ここに、江戸は戦火から守られた。」「上野戦争The battle of Ueno」1868年(慶応4)5月15日、新政府軍と上野の山を占拠していた彰義隊の間で戦闘が行われた。これにより、彰義隊士の多くが討死し、寛永寺の伽藍も焼失した。On the 15th day of the fifth month of 1868, a battle broke out between the army ofthe New Government and Shōgitai, the shogunal army that had occupied the mountain of Ueno. The battle resulted in countless deaths of the soldiers ofShōgitai and the main halls of the Kaneiji Temple were also burned down.」図版キャプション「東台大戦争図」歌川芳虎/画 1874年(明治7)説明文「東叡山焼失略図」にみる被害“慶応四戊辰五月十五日八つ時より夜半に終わる合戦朝五時より八つ時頃に終わる但し町家の分朝五時より始まる火夜に入り鎖まる”地図■焼場所●彰義隊討死人「東叡山焼失略図」、大山柏「戊辰役戦史 補訂版」(時事通信社 1985年)などより作成※建第名については一部修正している。地図中の主な表記・寛永寺・黒門跡・輪王殿・本坊・根本中堂・上野公園・東京国立博物館・上野駅・谷中・不忍池凡例・彰義隊戦闘死体・彰義隊本陣(※「寛永寺は1985年に移転」との注記あり)写真キャプション「戦場の跡 山門より御本坊を望む」『温故写真集17 上野寛永寺戊辰戦禍後』1868年(明治元)「彰義隊の墓 山門より寛永寺本坊を望む「上野戦争1868年(慶応4)2月、勝海舟らがとる恭順路線に不満を持った旧幕臣の一部は、上野寛永寺で謹慎する徳川慶喜の護衛を名目に彰義隊を結成した。徳川家の城地と領地高について、新政府側とできるだけ有利に交渉をすすめようとした勝は、彰義隊を鎮静させようと説得したがおさまらなかった。4月11日に慶喜が謹慎先の水戸に向かったのちも、彰義隊は上野にとどまったため、新政府側は危機感を高めた。そして5月15日、大村益次郎が指揮する新政府軍は、彰義隊の掃討に踏み切った。戦闘は10時間ほどで、新政府軍の勝利に終わった。この戦闘により、彰義隊士の多くが戦死し、寛永寺のおもだった堂宇は焼失した。こうして江戸は新政府の統括下に置かれ、7月17日に東京と改称された。」勝海舟のもっともよく知られた肖像画「江戸城明渡の帰途(勝海舟江戸開城図)」川村清雄画 明治18年(1885)。江戸城の石垣を背呂に立つ勝海舟と、その背後から斬りかかろうとする旧幕府陸軍士官とおぼしき者、その腕を押さえる中世風の兵士を描く。背景にみなぎる緊張感とその中で毅然と立つ姿に、江戸無血開城を成し遂げた海舟の生き様を表現する。作者の川村清雄(1852ー1934)は、新潟奉行等を務めた川村修就の孫で、維新後徳川家の給費留学生としてアメリカへ渡り、その後パリとヴェネツィアで西洋画を学んだ。帰国後大蔵省印刷局へ入るが間もなく辞職、困窮していたところへ、救いの手をさしのべたのが、海舟だった。海舟は清雄の画才を高く評価し、邸内に画室を与えた。本作は清雄の代表作の一つであり、日本近代洋画史上早期に制作された本格的な歴史画の優品である。「万延元年遣米使節随行員野々村市之進の遺品」 「万延元年遣米使節随行員野々村市之進の遺品Memento of Nonomura Ichinoshin, which is the member of a mission dispatchedin the United States in 1860江戸時代末期「1860年(万延元)、江戸幕府は日米修好通商条約批准のため、アメリカに使節団を派遣した。使節団は正使・新見正興をはじめとする総勢77名。その中で、副使・村垣範正の組人(秘書役)として使節団に随行していたのが野々村市之進(1818–1884〈文政元–明治17〉)である。渡米時42歳で、この時の記録として『航海日録』を著している。本資料は、遣米使節随行員の野々村が遺した貴重な品々である。」「火縄式馬上銃」、「鉄砲玉」。 フェリーチェ・ベアト: 愛宕山から見た江戸のパノラマ。右側をズームして。左側をズームして。「愛宕山からの江戸のパノラマPanoramic View of Edo from Mt. Atagoyama フェリーチェ・ペアト/撮 1863–1864年頃 東京藝術大学美術館 所蔵下部キャプション左下:「推定撮影場所とパノラマの範囲」右下:「尾張屋版 江戸切絵図のうち『芝愛宕下絵図』」」ネットから。「東都名所見物異人 亀戸天神太鼓橋 あめりか」 ・亀戸天神の名物「太鼓橋」を舞台に、・大柄なアメリカ人男性が、・和装の江戸庶民の中に混じって立つ という構図。絵の内容としては、・亀戸天神の名物「太鼓橋」を舞台に、・大柄なアメリカ人男性が、・和装の江戸庶民の中に混じって立つという構図になっています。特に面白いのは、・異人の巨大な体格・高い鼻・ひげ・ブーツ姿・軍服風の服装などが、かなり誇張されて描かれている点です。一方、橋を渡る町人や子供たちは、珍しそうに異人を眺めています。つまりこの作品は、「開国後、江戸の人々が初めて見る西洋人への驚きや好奇心」を、名所絵と組み合わせて表現した“異人風俗画”です。「東都名所見物異人亀戸天神太鼓橋 あめりかFamous Sights and Strangers in the Eastern CapitalAn American at the Kameido Tenjin Shrine Bridge1861年(文久元)9月 橋本貞秀/画」江戸の名所見物に訪れる外国人を描いた浮世絵。幕末の開国によって来日した異国の文化や風俗への人々の関心を集め、異人文化や風俗への驚きや好奇心が浮世絵に表現されている。」「東都名所見物異人 神田明神社内 ふらんす」。幕末の江戸で「フランス人」を見物する庶民の好奇心を描いた、橋本貞秀の異人風俗画。絵の特徴として、・青い外套と黒帽子を着けたフランス人男性・洋傘(ステッキ状に持つ棒)・大きく膨らんだドレス姿の女性・高い鼻や巻き髪など、西洋風に誇張された顔立ちが目立ちます。一方で、右奥には、・子ども・町人・見物人たちが集まり、異人を珍しそうに眺めています。つまりこの絵は、「開国によって現れた西洋人を、江戸庶民が“名所見物”の一部として眺める」という当時の空気を描いたものです。 「東都名所見物異人神田明神社内 ふらんすFamous Sights and Strangers in the Eastern CapitalFrench Persons at the Kanda Myojin Shrine861年(文久元)9月 橋本貞秀/画」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.14
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「■E9 芝居と遊里」。江戸歌舞伎座の舞台と「助六」の衣装等を再現していた。「E9-1 演じる・見る―歌舞伎の楽しみ」。芝居小屋や歌舞伎の華やかな舞台を堪能当時、歌舞伎などの芝居見物は、庶民や武士といった身分の隔てなく、江戸の人々にとって最大の娯楽でした。このコーナーでは、今日も日本を代表する伝統芸能の一つとして演じられている歌舞伎を取り上げます。とくに荒事を中心とした江戸歌舞伎の特徴を解説し、舞台や芝居小屋の変遷、江戸の人々のあこがれの的であった役者たちについて展示します。また、幕府公認の遊郭であった吉原の成立と変遷、遊女たちの実像についても展示します と。 ■「助六」の世界The World of “Sukeroku”曾我物の一例である「助六」の舞台は、江戸の人々にとって特別な意味を持った。主人公の粋な着付けや歯切れのよいせりふなど、江戸っ子の美意識を集約している。“A Sukeroku”, which was a tale based on the revenge of the Soga Brothers, had a special meaning to the people of Edo. The main character’s chic fashion andcrisp dialogue summed up the aesthetic sense of the Edokko.「助六」の登場人物曾我物とは?曾我十郎五郎兄弟の親敵うちを扱った作品をいい、脚色が重ねられ数多くの演目がある。代々の市川團十郎は、曾我五郎という人物を、江戸歌舞伎の特色である荒事の典型にした。享保期(1716–36)頃から、江戸では毎年初春に曾我物を上演する習慣があり、別の時代の人物であっても、「誰それ実は曾我五郎」という筋に仕立てた。江戸っ子の「助六」「助六」の上演に際して、吉原と日本橋の魚河岸が贈る舞台小道具や、贔屓の旦那衆が舞台で演奏する河東節は江戸期から続く慣例である。あらすじ1 花川戸の助六という侠客は、毎夜吉原でけんかを売り、相手の刀を抜かせている。 助六は実は曾我五郎で、源家の重宝「友切丸」を探すための行動だった。2 遊女屋三浦屋の揚巻は、全盛の花魁で、助六といい仲である。 髭の意休は、子分を引き連れ吉原に通い、権力と金力を笠に着て威張り、揚巻に言い寄るが 相手にされない。3 意休は、助六を罵倒し、図に乗り自らの刀で香炉台を切る。 助六は、その刀こそが「友切丸」だと確認し、意休を討ち果たして刀を奪う。4 捕り手に追われた助六は、天水桶の中に身を隠し、揚巻に助けられて吉原から逃れる。芝居のエリアでは、歌舞伎の演目「助六」が再現されていた。左から、禿、三浦屋の揚巻、禿、髭の意休・実は伊賀平左衛門。助六の舞台江戸歌舞伎の代表的な演目「助六」を、架空の場面設定で展示しました。助六は1713年(正徳3 )に2代目市川團十郎が初演し、その後、曾我十郎・五郎兄弟の敵討ちを扱った作品群「曾我物」の一系統となり、「助六由縁江戸桜」として完成しました。7代目市川團十郎が自身の家の芸「歌舞伎十八番の内」としてまとめ、今日まで受け継がれて物語は、主人公の助六とその恋人の揚巻、揚巻に横恋慕している意休を主な登場人物として、源家の重宝である友切丸の行方をめぐり展開しています。移動して。左:花川戸の助六・実は曽我五郎時致。中央に三浦屋の揚巻。ズームして。さらに。左:禿、右:髭の意休・実は伊賀平左衛門。髭の意休・実は伊賀平左衛門をズームして。左の禿。題名「助六由縁江戸桜」。 花川戸の助六・市川団十郎。「市川團十郎・相勤申候」。「市川團十郎・相勤申候(いちかわだんじゅうろう あいつとめもうしそうろう)」は、市川團十郎がその役柄や舞台を立派につとめること、またはそれを記した歌舞伎の浮世絵や台本(番付)の題名です。江戸時代の言葉で「相勤め申し候」とは、「つとめさせていただきます」「~を演じました」という丁寧な表現を指します。見得を切る助六をズームして。移動して。助六が持つ傘は、まさに歌舞伎で有名な「蛇の目傘」。特に助六では、・黒衣装・紫鉢巻・蛇の目傘が象徴的な姿として知られています。この黒白の強いコントラストは、江戸っ子好みの「粋(いき)」を表現する重要な意匠であった と。顔をズームして。舞台は、吉原遊郭の大見世「三浦屋」の店先。中央の花魁「揚巻(あげまき)」をめぐって、侠客・助六と、権勢を誇る髭の意休(ひげのいきゅう)が対立する、歌舞伎屈指の名場面です。左:助六(すけろく)大きな黒白の蛇の目傘を高く掲げ、花道から颯爽と登場する主人公。特徴は:・紫鉢巻・黒の着流し・白い脚絆・蛇の目傘・大胆な見得(みえ)江戸っ子の「粋(いき)」を象徴する姿です。実は正体は曾我五郎で、父の仇討ちのため、名刀「友切丸」を探しています。中央:揚巻(あげまき)豪華絢爛な衣装をまとった最高位の花魁。・金糸刺繍の打掛・高島田・豪華な簪(かんざし)・長い裾など、吉原文化の華やかさを体現しています。助六と恋仲であり、気品と気丈さを兼ね備えた女性として描かれます。右:髭の意休(ひげのいきゅう)白い長い髭の老人。・富・権力・武士的威圧感を背景に揚巻へ言い寄る存在です。しかし揚巻は助六を慕い、意休を相手にしません。この対立が舞台の緊張感を生みます。背景:吉原「三浦屋」赤格子の大見世が再現されています。右側に積み上がる箱は、遊女屋で使われた調度や贈答品を思わせ、舞台全体が「吉原の豪奢さ」を表しています。この展示の見どころこの場面は単なる恋愛劇ではなく、・江戸っ子の美意識・粋と伊達・吉原文化・歌舞伎の様式美・曾我物の仇討ち物語が一体化した、江戸文化の集大成です。特に、助六が蛇の目傘を掲げて大きく見得を切る姿は、「江戸歌舞伎の象徴的イメージ」の一つとして現在まで知られています と。「助六のせりふと音楽● 助六の名乗りせりふ(2分)12代目市川團十郎/せりふ● 助六の出端(登場)の音楽(2分)河東節十寸見会/演奏・歌歌舞伎座さよなら公演御名残四月大歌舞伎「歌舞伎十八番の内 助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」より2010年(平成22)4月/公演松竹株式会社/録音・協力」 「7代目市川團十郎の助六」。 「7代目市川團十郎の助六Characters from the play Sukeroku1811年(文化8)歌川豊国/画 西村屋与八版吉原の遊郭・三浦屋の店先を舞台にした世話物(当時の現代劇)。上方に実在した町人萬屋助六と島原の遊女揚巻の心中情話をもとにした話を「助六物」といい、数多くの作品が作られた。本資料は、文化8年2月市村座で上演した助六物「助六縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」に取材したもの。意休は5代目松本幸四郎、助六は7代目市川團十郎、揚巻は5代目岩井半四郎。」 「江戸歌舞伎の成立と展開伝承によると、1624年(寛永元)、現在の京橋と日本橋の間の中橋に、初代猿若勘三郎が幕府の許可を得て芝居小屋を構えた。これが江戸における歌舞伎興行のはじまりとされている。この地が江戸城に近いことから、1635年(寛永12)ころ、堺町(現在の中央区日本橋堺町周辺)に移転となり、さらに後年、堺町に中村座、葺屋町前に市村座が移った。一方、木挽町にも山村座、森田座が立ち並んで芝居町を形成していた。しかし、絵島・生島事件により1714年(正徳4)に山村座が廃絶し、以降幕府公認の芝居小屋は中村座、市村座、森田座の三座に限られた(江戸三座の制)。天保の改革で芝居町の統制が強化され、1841年(天保12)興行は浅草へ移転を命じられ、2年後には、猿若町に江戸三座がそろった。」 「中村座見立棟上祝之図」。 ズームして。版元 若狭屋 与一(わかさや よいち絵師 七十九歳豊国筆 ( [3代目] 歌川 豊国)「中村座見立棟上祝之図(なかむらざみたてむねあげいわいのず)A Parody of the Celebration of the Completion of Nakamuraza Theater's Framework1864年(元治1)5月歌川豊国(3代)/画 若狭屋与一/版元治1年4月、中村座、市村座、森田座の三座がある猿若町で火事があり、三座とも類焼した。その翌月に出されたこの図では、建て替え中の芝居小屋の骨組みができ、棟上の祝いが行われている中村座が描かれている。同年7月、中村座は普請が完成し、興行を再開している。」 「中村座の芝居前(なかむらざ の しばいまえ)」 ズームして(ネットから)。「中村座の芝居前(なかむらざ の しばいまえ)Outside of a Kabuki theater “Nakamura-za”1817年(文化14)歌川豊国/画 森田屋伊兵衛/版堺町(現、中央区日本橋人形町三丁目)にあった中村座の入口の様子。華やかに飾られた小屋の前を多数な人々が行き交う。出入口前には揃いの印半纏や手拭を身に付けた木戸芸者が賑々しく呼び込みをしている。」 「■演じる、見る―歌舞伎の楽しみ近世初期に京都でおこった歌舞伎は、新興都市江戸でも早くから上演された。初めは遊女がこれを演じたが、幕府の統制によって、遊女から若衆へ、さらに成人男性のみが役者としての活動を許され、野郎歌舞伎として定着した。ここに世界でも珍しい男性だけの演劇が誕生した。江戸前期、上方歌舞伎とは異なる<荒事>という様式が江戸で成立した。これは「暫」や「助六」に代表されるように、江戸の風土や江戸人の気質に合った筋立てで、演じ方も独特であった。また中期には華やかな舞踏劇がさかんに行われ、後期には庶民の日常に取材した世話物が多く上演された。このように、歌舞伎の演劇様式は江戸で独自の発達を遂げ、江戸文化を代表する総合芸術として今日も演じられている。」 「芝居小屋の内部」をネットから。 「芝居小屋の内部歌舞伎は当初屋外で行われたが、享保期(1716〜1736年)ころから客席を含めた全体を大きな屋根で覆う形式の小屋が許可され、晴雨にかかわらず芝居を楽しむ劇場としての設備が整った。観客席は桟敷と高土間、平土間、さらに舞台の横の羅漢台や向桟敷に分けられ、その位置によって料金が違っていたが、身分による区別はなかった。舞台ははじめ能舞台を模してつくられていたため、<破風>と呼ばれる屋根があった。これは18世紀末(寛政末)ころに取り払われるが、以降も儀式的な興行の時には仮設した。破風の前の○舞台は大きく客席の方に張り出していた。また、役者が登退場に使う「花道」があるのが江戸の芝居小屋の特徴であった。舞台の奥は楽屋で、役者や頭取・狂言作者、大道具・小道具・衣装・床山・お囃子など、それぞれの部屋が分かれていた。奈落には廻り舞台や<せり>の仕掛けがあり、複雑な演出の芝居が生み出されるにつれて、小屋のしくみもより機能的になった。」 「■江戸の芝居小屋 興行場所年表Playhouses in Edo: Chronology of Theaters幕府は中村座・市村座・森(守)田座の三座に限り、常設の芝居小屋での興行を許可した。(1714年〈正徳4〉までは山村座を含んだ四座)The Shogunate restricted performances at permanent playhouses to three theaters: Nakamura-za, Ichimura-za, and Morita-za (four, including Yamamura-za, until 1714).」 年表部分(主要事項)・1615年頃(元和年間) 中橋周辺で歌舞伎や人形芝居の興行が行われる。中村座・1624年(寛永元) 猿若座(のちの中村座)、 ★ 中橋で興行を始める。〔1〕・1632年(寛永9) ● 葺屋町へ移転。〔2〕・1651年(慶安4) ● 堺町へ移転。〔5〕・1842年(天保13) 浅草山之宿町聖天町下町裏地へ移転。 (のちの ● 猿若町一丁目)へ移転。〔7〕市村座・1634年(寛永11) 村山座(のちの市村座)、 上野町(のち ● 堺屋町)で興行を始める。〔3〕・1842年(天保13) 浅草山之宿町聖天町裏地へ移転。 (のちの ● 猿若町二丁目)へ移転。〔8〕山村座・1642年(寛永19) 喜太夫座(のちの山村座)、 ▲ 木挽町五丁目で興行を始める。〔4〕・1714年(正徳4) 絵島生島事件により廃絶。森田座・1660年(万治3) 勘弥座(のちの森田座)、 ★ 木挽町五丁目で興行を始める。〔6〕・1843年(天保14) 河原崎座(森田座の控櫓)へ、 ★ 浅草猿若町三丁目へ移転。〔9〕」 「E9-2 吉原の表と裏」 「吉原の表と裏吉原は幕府公認の遊廓として都市・江戸の成立とともにおこり、幕末の混乱期を除き、約3〜6千人余りの遊女がいた。華やかな妓楼では贅を尽くした遊具が、着飾った遊女たちを相手に日夜くりひろげられた。遊女の身なりは流行の先駆けともなり、そのすがたは浮世絵の好画題であった。また、吉原は洒落本など多くの文芸作品や歌舞伎にも取り上げられ、江戸独自の文化の形成に大きな役割を果たした。しかし、こうした吉原の繁栄を支えてきたのは、経済的理由から吉原に身を売り、遊客の相手をすることを職業としなければならなかった女性たちである。明治維新後、政府は「娼妓解放令」(1872年・明治5)を出し、さらに遊女の自由廃業を認める「娼妓取締規則」(1900年・明治33)も施行した。しかし、実際には吉原の妓楼は「貸座敷」と名を変えたのちも存続した。」 「東都名所 新吉原五丁町弥生花盛全図」 ズームして(ネットから)。春の吉原全景を描いた浮世絵。メインストリートの仲之町に描かれた桜並木は、毎年花の咲く時期にのみ植えられていた。吉原の街並みや賑わう様子が良くわかり、建物の中を覗き込む人々の姿が小さいながらも見て取れる。「吉原細見の世界Ⅲ前編」:蔦屋吉蔵発行。左側に大門、メインストリートの仲之町に桜並木が描かれる。妓楼の詳細は雲で隠されてしまっているが、両側町の入口の木戸が設けられている点や、メインストリートに沿って待合が立ち並ぶ様子など碁盤の目に区画を分けた吉原の街並みがわかる俯瞰(ふかん)図である。資料名にある「五丁町」とは、江戸町一、二丁目、京町一、二丁目、角町の5丁(町)から成ることから新吉原遊郭の呼び名である。ただし実際は5丁ではなく、揚屋町、伏見町が加わる。伏見町は大門を入って左側の路地の両側町で、ここには木戸門が描かれていない。「東都名所新吉原五丁町弥生花盛全図Cherry blossoms of Gocho-machi, Shin-Yoshiwara, from the series Famous spots in Edo (Tōto meisho)1830〜35年(天保前期)歌川広重/画 魚屋吉蔵/版大門口から永遠院までびっしり植樹された仲之町の満開の桜並木。俯瞰された景色の下部には、華やかな表向きとは対照的に、吉原の町全体を囲んでいたお歯黒溝や忍び返し付きの板垣が描かれている。」 「江戸市中から吉原へFrom the City of Edo to Yoshiwara浅草寺裏の江戸の周辺にあった吉原へ向かう遊客は、馬や駕籠、水路を利用する猪牙舟なども利用した。Visitors to Yoshiwara, located on the outskirts behind Asakusa Sensō-ji Temple, used horses, palanquins, and fast boats called chokibune that traveled throughEdo’s waterways.」 見取り図で見る遊廓の構造『新吉原之図』国立国会図書館所蔵元吉原が2丁(約220メートル)四方だったのに対し、新吉原は2丁×3丁と、1.5倍の規模に拡大。およそ東京ドーム2個分ほどのエリアだった。妓楼は店の規模や在籍する遊女のレベルによって大見世・中見世・小見世と厳密に格付けされていた。当然、揚代(料金)も異なった。作成年代は不明だが『新吉原之図』は、信ぴょう性が高いと考えられる吉原の見取り図だ。①五十間道(ごじっけんみち)/ 吉原に向かう道。蔦重は、1773(安永2)年、この道の左側の 中ほどに貸本屋を出店したと考えられている②大門 / 門の右側には吉原が設置した私的な番所、左側には奉行所が管理する公的な番所があり、 見張りが駐在して遊女が逃亡しないよう見張った③仲の町 / メインストリート④江戸町1丁目(右)~江戸町2丁目(左) / 格式の高い妓楼(ぎろう)である大見世を中心に 中見世・小見世がひしめく⑤角町 / 中見世と小見世のエリアで大見世はない⑥揚屋町 / 料理屋や湯屋がひしめき、妓楼に出入りする商人や芸人などの居住区でもあった⑦京町2丁目 / 格の低い妓楼の地区⑧京町1丁目 / 江戸町と並んで格が高い⑨N表通り / 仲の町から木戸を抜け、各町の間の横道に入ると表通りで、客が遊女たちを 格子越しに品定めする座敷「張見世」があった⑩⑪西河岸(右)・羅生門河岸(左) / 最下層の遊女が在籍する「河岸見世」が並ぶ裏通り⑫伏見町 / 大門をくぐってすぐ左の区画で、小見世より格安の「局見世」と呼ばれる遊女屋が 軒を連ねる⑬お歯黒どぶ / 遊廓を囲む塀の外側に巡らされた溝(どぶ)。文献によってばらつきがあるが、 深さ約2メートル、幅3〜9メートルだったと推測される。遊女の逃亡を防ぐ目的だったが、 どぶの数カ所に折りたたみ式跳ね橋を架け、非常口としても機能していたようだ。⑭九郎助稲荷 / 廓の四隅に稲荷社があったが、なかでも九郎助稲荷は遊女が篤く信仰した 大見世は通りに面した張見世の仕切り全体が格子となっており、これを 「惣籬=そうまがき」といった。籬とは垣根のこと。中見世は格子の右上4分の1が空いている 「半籬=バナー画像参照」。小見世は下半分だけ格子が組まれた「惣半籬」 局見世と最下層の河岸見世に籬はなく、入り口の戸が開いていれば営業中だった。吉原のガイドブック・「新吉原細見」。 「新吉原細見List of courtesans in Shin-Yoshiwara1801年(寛政13)正月富士屋庄蔵/序蔦屋重三郎/版新吉原細見は、遊客向けに作成された吉原のガイドブック。入り口の大門からはじまり、各町の店ごとに抱えの遊女名が記載されている。また遊女のランク別料金や代金の表などもある。当時の吉原細見は、正月と7月に刊行され、『最新情報』に更新された。」 「都市の中の遊郭家康の江戸入国以来、江戸城下には武士や商人・職人などが集まり、新しい都市づくりがすすめられた。同時に遊郭も京都、駿河やその他の地方から江戸に移転して、城下に店を構えた。1617年(元和3)、惣名主の庄司甚右衛門がこれらの遊郭を現在の中央区日本橋人形町二、三丁目辺りに集め、公許を願い出た。幕府が「吉原開設五ヶ条の覚」をもってこれを統制したのが吉原遊郭である。開設当初の吉原は江戸の町はずれであったが、都市が拡大するにつれ町家のなかに位置するようになり、およそ40年後の1656年(明暦2)、幕府より移転を命じられた。翌年、明暦の大火で全焼したのち、浅草寺裏手の日本堤近くに新吉原が開設された。」 「吉原由緒書」。 ズームして。「吉原由緒書(『東武新吉原根元記』)Records of the Origins of the Yoshiwara Pleasure Quarters in Edo1744年(延享1)/写石井良助/コレクション吉原の由緒に関する町奉行大岡越前守忠相の尋ねに対し、1725年(享保10)7月、吉原の名主庄司甚右衛門勝富が提出した文書の写し。吉原が江戸に開かれるまでの経緯や「吉原開設五ヶ条の覚」、新吉原へ移転する事情などが記されている。この五ヶ条の覚により、吉原が幕府公認唯一の遊廓であることが明確に示された。」 「吉原の一日A Day at Yoshiwara吉原では昼も夜も一日に2回の営業があった。昼眠や起き番期間がほとんど取れない過酷な労働環境であった。Yoshiwara operated twice a day, during the day (hiru-mise) and at night (yoru-mise). The courtesans worked in an extremely harsh labor environment, with little time tosleep or eat.」 図中の記載朝・客を送る(後朝の別れ)・わずかな睡眠をとる午前・起床、入浴、化粧、掃除など午後・昼見世をはじめる・夜見世をはじめる・客の相手をする「吉原傾城美人合自筆鏡」 近づいて。「吉原傾城新美人」の太夫(花魁)は、中央の立膝をしているのが、「よつめ屋(四つ目屋)」の「なゝ里(七里)」で、その左に立って筆を執っているのが、同じ「よつめ屋(四つ目屋)」の「うた川(歌川)」のようである。右:みよし野の かはへ(川辺)にさける さくら花 ちりかかるをや にごると いふらむ よつめや うた川書左:雨帯て うこかぬ梅の にほひかな よつめや内 なな里書「みよし野のかはへ(川辺)にさけるさくら花」の出だしは、古今和歌集の「みよし野の山辺に咲ける桜花・雪かとのみぞあやまたれける」(紀友則)のパロディの一首のようである。その下の句は、「ちりかかるをや」(散りかかるをや+塵かかるをや)「にごる(濁る)といふらむ(言ふらむ)」(『古今集』の伊勢のパロディ)の、そんな雰囲気の歌のようである。それに比して、左上部に書かれている「なな里」の発句(俳句)は、「雨帯(び)てうこかぬ(動かぬ)梅のにほひ(匂ひ)かな」と比較的詠み易い感じである。これも、誰かの句のパロディの一句なのであろう。「吉原傾城美人合自筆鏡Examples of the Calligraphy Courtesans withCalligraphy by Themselves1784年(天明4)北尾政演(山東京伝)/著 喜多川豊三郎/版山東京伝が吉原の代表的な名妓たちをモデルにし、自詠自筆の和歌を添えた浮世絵。版元は江戸で一二大を争う地元問屋だった蔦屋重三郎。本資料は1783年(天明3)に大判錦絵二枚続の連作で出版され、翌年画帖に仕立てられ、四方赤良(大田南畝の別号)の序、朱楽菅江の跋(あとがき)を加えて再版したもの。」 「遊女の実像True Picture of the Courtesans遊女たちは、過酷な労働環境の中に身を置いていた。The courtesans worked in an extremely harsh labor environment.」 江戸期の吉原遊女の人口推移 下層遊女人数 吉原遊女の総人数万治3 335ーーーーーーーーーーーーーーー 547元禄2 ーーーーーーーーーーーーーー 2,778享保8 1,685ーーーーーーーーーーーーーー 2,213 宝暦3 934ーーーーーーーーーーーーーー 2,413寛政3 4,005 ーーーーーーーーーーーーーー5,473文化2 3,112 ーーーーーーーーーーーーーー4,711天保2 ーーーーーーーーーーーーーー5,777天保11 1,920ーーーーーーーーーーーーーー 3,886弘化4 4,255ーーーーーーーーーーーーーー 7,144安政5 2,197ーーーーーーーーーーーーーー 3,152写真キャプション三ノ輪浄閑寺 吉原の遊女を多く葬り、投込み寺とも呼ばれた。新吉原総霊塔 遊女など吉原関係者の霊を慰めるために建てられた。「遊女の実像吉原のなかでも上層の遊女は、武士と対等に対応できるほどの教養を身につける必要があった。初期の吉原遊客の主流は上流武士で、遊女のなかには書や絵や和歌に優れた才能を発揮し、後世に名を残した者も知られている。しかし吉原の遊女の多くは、こうした華やかな暮らしを送っていたわけではない。吉原の唯一の出入り口である大門から外に出ることはかなわず、籠の鳥として身をひそぐ毎日を過ごし、若くして楼内で病死する者が多かった。吉原で死んだ下層の遊女は近くの浄閑寺や西方寺などに葬られたが、無縁仏に近いみじめな扱いを受けた。」 「東都名所 新吉原朝桜之図」。 「東都名所新吉原朝桜之図Cherry Blossom in Shin-Yoshiwara1831年(天保2)歌川広重/画 川口正蔵/版複製遊女と客の後朝(きぬぎぬ)の別れを描いた浮世絵。囲いの中が吉原。遊女たちが吉原の外へ出ることは禁止されていた。大きな桜の木が朝日を浴びている。」 東海道四谷怪談仮名手本忠臣蔵怪談物の代名詞「お岩さん」こと『東海道四谷怪談』は、江戸の町で暮らす人々と怪異な出来事を大胆に演出した舞台で、1825年(文政8)の中村座での初演は大入りであった。江戸後期を代表する歌舞伎作者4代目鶴屋南北(1755〜1829)が、人気役者3代目尾上菊五郎(1784〜1849)のために書き下した。あらすじ1.お岩の夫伊右衛門は、お岩の父左門を殺害する。2.お岩は、隣家の伊藤より後妻の世話によいと贈られた毒薬を飲み、顔が崩れて 髪が抜け落ちる。 伊右衛門は、伊藤の悪事を知りながら、伊藤の孫娘お梅との 縁談を受け入れる。 お岩は、夫の裏切りを知り、苦しみ悶えて亡くなる。3.幽霊となったお岩は、夫とその周囲を次々に祟る。登場人物関係図敵対・塩冶判官 (浅草内匠頭がモデル)・高師直 (吉良上野介がモデル)主な人物・お岩・民谷伊右衛門・お梅・お弓(後家)・伊藤喜兵衛・小汐田又之丞・小仏小平・秋山長兵衛・佐藤与茂七・奥田庄三郎・直助権兵衛(実は兄妹)・お袖・四谷左門・源四郎「■歌舞伎の仕掛け『東海道四谷怪談』のうち「蛇山庵室の場」江戸後期になると、芝居のなかにさまざまな仕掛けが考案されました。とりわけ4代目鶴屋南北作「東海道四谷怪談」は、多くの仕掛けが用いられ、幽霊の自在な動きが人気を呼びました。仕掛けを実際に動かすのは大道具の人々で、役者と呼吸を合わせて、瞬時に行なわれました。ここでは、現在行なわれている「蛇山庵室の場」のく提灯抜け〉く仏垣返し〉く壁抜け〉の仕掛けに、く田楽返し〉を加えました。なお展示効果を考えて、照明などの演出は実際と変えているところがあり、また仕掛けの様子がわかるよう背面に鏡が取り付けてあります。「■歌舞伎の仕掛け『東海道四谷怪談』のうち「蛇山庵室の場」👈️リンク江戸後期になると、芝居のなかにさまざまな仕掛けが考案された。とりわけ4代目鶴屋南北作『東海道四谷怪談』は、多くの仕掛けが用いられ、幽霊の自在な動きが人気を呼んだ。仕掛けを実際に動かすのは大道具の人々で、役者と呼吸を合わせて、瞬時に行なわれた。ここでは、現在行なわれている「蛇山庵室の場」の〈提灯抜け〉〈仏壇返し〉〈壁抜け〉の仕掛けに、〈田楽返し〉を加えた。なお展示効果を考えて、照明などの演出は実際と変えているところがあり、また仕掛けの様子がわかるよう、背面に鏡が取り付けてある。Special effects behind the scenes of the Kabuki(from Tōkaidō Yotsuya kaidan)By the late Edo period, a variety of special effects were used in kabuki plays.Especiallypopular was Tōkaidō Yotsuya kaidan (“Ghost story of Yotsuya on the Tōkai Highway”),written by Tsuruya Nanboku IV (1755–1829), in which unique devices were used toallow the ghost to move about freely on the stage. Devices thatproduced such specialeffects were manipulated by the backstage staff thatpaid close attention to themovements of the actors on the stage.This model shows some special effects used in one of the scenes of the play: the ghostappears out of a lantern, pulls the protagonist into a Buddhist altar and suddenly appearsor disappears through the wall. For the purpose of the display, lighting has been changed; mirrors are placed in back to allow viewing of themechanism of the devices used tocreate these special effects.」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.13
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「御厩河岸Onmaya River Bank」作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)12月蔵前の北端と対岸の本所を渡す御厩の渡しの蔵前側を描く。その名は幕府の馬小屋があったことに由来する。画面左の2人の女性が立っているのが渡しの舟である。明治7年(1874)に厩橋が掛けられたことにより、この渡は廃止された。現在の所在地: 台東区蔵前」 以下に続く浮世絵の説明【】内のキャプションは、浮世写真家 喜千也氏の「名所江戸百景」👈️リンクについての詳細な説明文の一部を私の学習用に転記させていただきました。第106景となる「御厩河岸(おうまやがし)」。蔵前の幕府の米蔵近くにあった渡船場の夕景を描いた1枚である。蔵前(現・台東区)という地名は、隅田川沿いに「浅草御蔵」と呼ばれた江戸幕府の米蔵があったことに由来する。創建当初、米蔵の北側には将軍家の馬小屋があり、その川辺には1690(元禄3)年に渡船場「御厩の渡し」が設置された。元禄の終わり頃に厩は閉鎖となったが、渡船場は幕末まで残ったために、付近の隅田川西岸は「御厩河岸」と呼ばれ続けた。現在も蔵前の北端には、その名残として「厩橋」が架かっている。広重は、御厩河岸から隅田川越しに本所方面を眺めている。御厩の渡しの対岸は石原町(現・墨田区本所)で、中央左に見える石原橋辺りに船着き場があった。グラデーションの濃い空と、まだ明かりがともっていない屋敷群から、日没直後の夕景だと推測できる。川面には「真っ暗にならないうちに」と急ぐ筏(いかだ)や遊び帰りの猪牙舟(ちょきぶね)、遊びに繰り出す屋根船が行き交う。こちらへ向かう渡し船の船首には、白塗りの顔に手拭いをかぶり、黒い着物に赤い帯を締めた2人の女性が立っている。「夜鷹」と呼ばれた最下層の街娼(がいしょう)で、後ろには客引き兼用心棒の妓夫(ぎゅう、牛太郎)が控えている。江戸の町をたたえる名所絵に、なぜ幕府非公認の遊女・夜鷹の姿を目立つように描いたのだろうか――。元定火消同心だった広重は、幕府からおとがめを受けるような絵を避けたことで知られるだけに度々話題となるが、筆者は歌川一門の絆が関係しているのではないかと考えている。この絵の年月印は1857(安政4)年12月で、同年同月には3代目歌川豊国(初代国貞)作『江戸名所百人美女』の「大川橋 里俗吾妻はし」も摺(す)られている。美人画の名匠だけあって、広重よりもはるかに美しく描いているが、頭に掛けた手ぬぐいの端をかんだ黒い着物姿は、明らかに夜鷹(よたか)だと分かる。「深川木場Timber Yard, Fukagawa」作者: 初代 歌川広重年代: 安政5年(1858)8月深川木場の雪景色。立てかけられた材木に雪が積り、その下に運河が流れ、傘をさす人、遊ぶ人、飛ぶ鳥、働く人の姿が奥行きをもって描かれる。寛永18年(1641)の江戸大火の後、幕府は各地に点在する材木問屋の「木置場」を深川永代島の幕府用地に集中させた。その後、材木問屋たちが幕府に深川の海辺の開発を願い出て、元禄16年(1703)に24か町の問屋街が創設された。運河を張り巡らせた一帯は木場と呼ばれ、独特の風情のある地として親しまれた。現在の所在地: 江東区木場」【第107景となる「深川木場(ふかがわきば)」。雪が降り積もる深川の材木置き場で、筏(いかだ)を操る作業員を描いた1枚である江戸時代の建物は、ほぼ全てが木造のため、大量の材木を貯蔵しておく必要があった。江戸の町の貯木場として知られるのが、深川・富岡八幡宮の東に広がっていた「木場」である。幕末頃の地図を見ると、現在の江東区・木場公園と東京メトロ東西線・木場駅一帯が、直線の水路で区分けされている。当時の材木は、河川を利用して輸送し、水に漬けてから乾燥させた。地図には「◯◯ヤ(屋) 木ハ(木場)」と屋号が記され、四角い島が並んでいるように見えるが、それぞれの区画の中心部には大きな池(水中貯木場)が設けてある。「土場」と呼ばれる陸地は区画の周辺部だけで、池は水路につながり、筏に組んだ材木を入出荷していたという。つまり今回の絵は、どこかの区画の貯木池を描いたもの。木場の水路だとする解説も散見されるが、それは間違いの可能性が高い。そして、本来であれば殺風景でありそうな貯木池に、風流な景色が広がっていたのにも理由がある。江戸時代の材木商というと、紀伊国屋文左衛門(紀文)を思い浮かべる人も多いだろう。謎が多く、架空の人物とする学者もいるが、一般的には幕府要人への贈賄で御用商人となり、巨万の富を得たとされている。紀文には豪快なエピソードが多く、吉原遊郭を丸ごと貸し切って遊興したという逸話まで残る。これは、役人を接待したとも考えられるが、財力を見せつけることで幕府を信用させると同時に、江戸っ子の人気を得るためのパフォーマンスだったという説もある。紀文は木場の貯木場を焼失して廃業したそうだが、大手の材木商は江戸でも有数の豪商として繁栄を続けた。彼らも紀文同様に世間の目を気にし、「野暮(やぼ)」「悪趣味」「守銭奴」といった悪評が立たぬよう、文化人とも交流し、風流人好みの景観を貯木場に造り上げていたそうだ。広重は『絵本江戸土産』で、同じ深川木場の雪景色を描き、「おのおの山水のながめありて風流の地と称せり」と書き添えている。】『安政改正御江戸大絵図』(1858年刊、国会図書館蔵)の、永代橋から木場までを切り抜いた。広重の時代、右側の紫の破線で囲った場所に材木商たちの木置き場と材木蔵があった。「深川洲崎十万坪Suzaki Marsh Plain, Fukagawa作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)閏5月荒涼とした雪景色を見下ろす。上空に飛ぶ1羽の鷲と同じ目線である。舞台は深川木場にある洲崎原。海風が強くなかなか人の住める土地ではなかったという。鷲の鋭い眼とあいまって、寒々とした情景に緊張感が漂っている。現在の所在地: 江東区東陽」【第108景となる『深川洲崎十万坪(ふかがわすさきじゅうまんつぼ)』。潮干狩りや初日の出の名所を、殺伐とした雪景色で描いたシュールな一枚である。木場の南に鎮座する洲崎弁天社(現:洲崎神社)付近は、春の潮干狩りや、初日の出が美しく拝める景勝地として知られていたという。通常の名所絵であれば、それら春の光景を描くのだろうが、広重は洲崎沖からの鳥瞰(ちょうかん)で、筑波山方面に延々と広がる「十万坪」と呼ばれた地(現在の江東区千田、千石付近)の荒涼たる雪景を描いている。有名な洲崎弁天を絵の左下に描き入れても良さそうなものだが、あえて画面から外したのだろう。十万坪から南の海岸線までは、江戸市中から出たごみで埋め立てられたそうだ。日頃は寂しい場所だったようで、海には棺おけが浮いており、それを狙うかのような猛禽(もうきん)類の大きな鳥が空に描かれている非常にシュールな絵である。さて、この鳥だが、多くの研究家が「イヌワシ」と書いている。しかし、筆者はこの鳥を「トビ(トンビ)」と断言したい。イヌワシは山の鳥で、海にはいない上に生き餌しか狙わない。しかし、トビは海岸にも多く見られ、屍肉(しにく)を食らう鳥なので、海に浮かぶ棺おけを狙うという絵のストーリーが成り立つからだ。また、トビをよく観察した上で、広重の秀逸な鳥の描写をみると、イヌワシではなくトビの顔や羽の特徴をよく表現していることが分かる。】「芝うらの風景View of Shibaura作者: 初代 歌川広重年代: 安政3年(1856)3月水深の浅い海岸や河口で、船が通行できる場所を示す、澪標(みおつくし)が建ち、周囲をユリカモメが飛び交っている。江戸湾の情景を今に伝える画である。沖を進む船の数に目を向けると、右手に将軍家の別邸である浜御殿の石垣が、さらにその向こうに御殿山を崩して急造した台場の様子がうかがえる。現在の所在地: 中央区浜離宮庭園周辺」【第109景となる『芝うらの風景』。まだ広重の遠近法が確立される前の初期作品で、築地辺りの海上から浜離宮恩賜庭園方向を描いている。江戸時代の隅田川河口は、永代橋の南にある霊岸島(れいがんじま)付近で、そこから江戸湾が広がっていた。月島や勝どきなどの埋め立て地はまだない。築地から高輪にかけての海岸沿いには大名屋敷が立ち並び、その多くは海を望める庭園などを設けた下屋敷で、水運にも適した場所なので蔵屋敷を置く藩もあったようだ。広重の絵は、築地近くの海上から芝浦方面を望んでいる。左奥には、ペリー来航直後に建設された3つの台場が見える。右側に描かれた石垣には諸説ある。現在の浜離宮恩賜庭園、当時の「浜御殿」というのが有力だが、浜御殿の石垣はほぼ直線なので、いくつかの屋敷を描いたとする説もある。近くのユリカモメと、航路を示す澪標(みおつくし)を大きく描き、遠近感を出す名所江戸百景らしい構図だ。大小の船が秩序正しく航行する一見のどかな景色に、黒船を迎え撃つために築かれた品川台場を描き込むことで、開国か攘夷(じょうい)かで揺れていた、幕末の江戸湾沿岸の雰囲気を伝えている。しかし、この絵は名所江戸百景の初期の作品で、多くの研究者が「まだ遠景と近景を対比させる構図が、広重自身のものになっていない」と評している。確かに、奥に見える澪標と右側を通る船のサイズが不釣り合いで、遠く離れた品川の台場も大きすぎるように思える。もし、石垣の比率もおかしければ、「いくつかの屋敷」説が正しい可能性も高くなるだろう。】「南品川鮫洲海岸Samezu Coast, Southern Shinagawa」作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)2月南品川宿の地点から東海道が通る海岸沿い、そして遠くの筑波山を一望する。鮫洲とは、建長3年(1251)、品川の海でとれたとれた鮫の腹から観音像が出てきたという海雲寺の奇瑞譚(きずいたん)に由来する。画面の海岸で栽培されているのは海苔である。一帯の浅瀬は目黒川・立会川の真水が混じり海苔の生育に適した場所であった。摘み取られた海苔は将軍家に上納されていたという。現在の所在地: 品川区東大井」 【第110景となる「南品川鮫洲海岸(みなみしながわ さめずかいがん)」。冬から春にかけての南品川の風物詩、海苔(のり)の養殖風景を描いた1枚である。東京で「鮫洲に行く」といえば、ほとんどの人が運転免許の更新や試験を受けに行くと思うだろう。現在、鮫洲という町名はなく、京浜急行「鮫洲」駅の東側、品川区南品川と東大井にまたがる旧東海道周辺や、その海側の埋め立て地一帯を指す。江戸時代には南品川宿の南側、東海道の江戸湾側に続く海岸の呼び名であった。つまり、広重が今回の絵を描いた時代には、鮫洲運転免許試験場辺りには船が浮かんでいたのだ。では、江戸っ子は鮫洲と聞いて何を思い浮かべたのか――。うまい魚介がとれる漁師町、そして禅寺の海晏寺(かいあんじ、現・南品川5丁目)であっただろう。鮫洲の由来には「砂水(さみず)が転じた」など諸説あるが、鎌倉中期に海岸へ打ち上げられたサメの腹から、観音像が出てきたという逸話が有名だ。それを伝え聞いた鎌倉幕府5代執権・北条時頼が「堂宇を作って、その霊像を安置せよ」と命じ、海辺から現在の大井町・仙台坂上に至る広大な土地を与えた。そこに臨済宗の大覚禅師(蘭渓道隆)が海晏寺を創建したことで、門前に広がる海岸が鮫洲と呼ばれるようになったと伝わっている。広重は鮫洲海岸を左手に配置し、北方向を鳥瞰(ちょうかん)で描いている。海面から無数の支柱が頭を出し、浮島のようになっているのは海苔の養殖場だ。この辺りは遠浅の穏やかな海で、冬から春にかけては「アサクサノリ」を育て、それが浅草などで加工されて江戸名物「浅草海苔」となった。古くは名前の通り、浅草付近でも海苔が採れたらしいが、江戸中期以降は品川から大森の海辺や、下総(千葉)の葛西で採集したものを使用したという。その中でも、鮫洲辺りは名産地として知られたのだ。海岸線には漁師らの家が並び、白帆を上げた船が集まる辺りが品川宿である。遠くには高輪から芝浦の海岸が見えており、右端は浜御殿(現・浜離宮)辺りだと推測される。冬は空気が澄んでいるため、70キロ以上も離れた筑波山もはっきり見えただろうが、随分と大きく誇張しているようだ。この絵には、2つの鳥の群れが描き込まれている。鮫洲の海上を飛ぶ近い方はユリカモメ、遠くの空を編隊飛行するのはマガン(真雁)であろう。マガンは今では、新潟や石川、宮城くらいにしか飛来しないが、この時代には江戸でも見られ、ユリカモメと同様に秋から冬の風物詩だった。海苔の養殖と渡り鳥、大きな筑波山によって、海辺の冬を見事に表現した秀作といえる。】「千束の池袈裟懸松Kesakake Pine at Senzoku Pond」作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)2月千束池は現在の洗足池で、日蓮が池のほとりの松に袈裟を掛けたという伝説から、この松は「袈裟懸松」と呼ばれた。池は景勝地として知られ、周囲には茶屋も並び、人々の行楽地となっていた。画面には池越しに富士山が遠望され、静かな水辺の風景が広がっている。現在の所在地: 大田区南千束」 【第111景となる「千束の池袈裟懸松」(せんぞくのいけ けさがけまつ)」。日蓮が袈裟を掛けたと伝わる松を中央に配し、自然豊かな江戸郊外を描いた1枚である。「千束の池」は、現在の「洗足池」(大田区南千束2丁目)のこと。東急池上線「洗足池」駅の目の前、中原街道沿いにある周囲約1キロの湧水池である。中世のこの一帯の地名が荏原郡千束郷だったため、「千束の大池」「千束池」などと呼ばれていた。「洗足」の文字が当てられるようになったのは、広重よりも後の時代と考えられるが、その由来となる出来事は鎌倉時代のこと。日蓮宗の開祖・日蓮上人(1222-1282)が、身延山久遠寺(山梨県身延町)から常陸国(現・茨城県)へ湯治に向かう道中、千束池で休息を取り、袈裟を松の木に掛けてから、手足を洗ったと伝わっている。その逸話が広まったことで、後世に「洗足」が用いられるようになったのだ。日蓮は、その後に立ち寄った池上郷の武士・池上宗仲の館で病状が悪化し、この世を去った。熱心な信者だった宗仲は、法華経の文字数6万9384に合わせて約7万坪を、入滅の地として寄進。そこに建立された寺が、「池上本門寺」の始まりである。江戸時代後期、日蓮宗は庶民からの信仰を集め、日蓮の命日、10月13日を中心に開かれる本門寺の盛大な「お会式(おえしき)法要」は、江戸の風物詩となった。「名所江戸百景」でも第81景『金杉橋芝浦』において、お会式に向かう群衆を描いている。池上本門寺の参詣客は、金杉橋のある東海道を南下し、南品川宿から大井村を抜けていく、現在の旧池上通りとほぼ同じルートを歩くのが一般的だった。その他には、中原街道の中延村から馬込村を経由する人も多かったようだ。後者の場合、日蓮ゆかりの千束池に立ち寄るのが、お決まりであっただろう。池のほとりには、法衣を置いたと伝わる「袈裟掛けの松」が残っており、見事な枝ぶりは広く知られていた。】「目黒太鼓橋夕日の岡Meguro Drum Bridge and Sunset Hill作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)4月雪に覆われた目黒の太鼓橋とその周辺を描く白く積もる雪景色の中を流れる目黒川の青が印象的で、橋を渡る人々の姿が静かな冬の情景を際立たせている。太鼓橋は大きく弧を描き、周囲の木々にも雪が積もる。遠景に見える「夕日の岡」とともに、江戸近郊の雪景色の名所として知られた場所である。現在の所在地: 目黒区下目黒」【第112景となる『目黒太鼓橋夕日の岡』。江戸の行楽地だった目黒不動尊への道筋にあった、名高い急斜面と石造りの太鼓橋を描いた1枚である。江戸時代の行楽は、信仰と対をなすものであった。道中の景勝地に立ち寄り、門前町の名物を味わうなど、お目当てはさまざまだ。寺社の境内そのものが物見遊山の対象になる場合もあって、目黒不動尊はその代表格だろう。徳川家のあつい保護の下、壮麗な伽藍(がらん)が立ち並び、それらを眺めに人々が押し寄せたようだ。江戸の町中から目黒不動尊に参詣する人は、行人坂(ぎょうにんざか)を下って、目黒川に架かる石造りの太鼓橋を渡ったという。行人坂は、白金台町(現・港区白金台)から続く台地の西端(現・目黒駅辺り)にあたる急斜面にある。西日で輝く木々が美しいことから「夕日の岡」と呼ばれ、紅葉時期は特に見事で行楽客が集まった。『名所江戸百景』にはこれも含めて5枚の目黒の絵があるが、ランドマークであった目黒不動尊を1枚も描いていない。この作品でも太鼓橋と目黒川、夕日の岡を題材とし、さらに秋色に染まる風景ではなく、日の当たらない雪景を選んでいる。橋を渡る人々は皆、江戸市中に向かって歩いているので、目黒詣でからの帰り道であろう。かさや背中に積もる雪を見ると、降雪の激しさがうかがい知れ、景色などお構い無しといった様子で家路を急ぐ。広重一流の天邪鬼な表現にも思えるが、江戸ガイドブックともいえる『絵本江戸土産』でも同じ場所の雪景を描いている。そちらには、「珍しい石造りの太鼓橋だが、幽邃(ゆうすい、奥深く静かなこと)の地・目黒にあるので、亀戸天神社の太鼓橋のように有名ではなく、工人は遺憾だろう」という解説文が添えてあるので、橋への愛着と職人たちへの敬意が感じられる。鉛色の空の雪景は、太鼓橋を際立たせるための演出ではないだろうか?】「愛宕下藪小路Yabukoji Street Below Atago Hill作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)12月藪小路は現在の港区虎ノ門1丁目あたりの俗称。その名は肥後宇土藩細川家の屋敷地の北側にあった竹藪にちなむ。右に流れるのは桜川である。しんしんと降り積もる雪とあいまって、運河の水面が凍てつく寒さを伝えている。現在の所在地: 港区虎ノ門」【第113景となる「愛宕下薮小路(あたごした やぶこうじ)」。虎之御門付近の大名屋敷街にあった名所を描いた冬の1枚である。この辺りは虎之御門外の武家屋敷街で、藪小路はちょっとした名所だったらしく、この絵の20年ほど前に刊行された「江戸名所図会」にも登場する。「加藤候の邸(やしき)の北の通りをいい、裏門の傍らに少しばかりの竹叢(ちくそう、竹やぶの意味)があったからそう呼ばれた」といった感じで説明されるが、由来については「詳(つまびらか)ならず」と記されている。屋敷の北東角に位置する竹やぶは、「鬼門なので、先祖・加藤清正の虎退治にちなみ、竹を植えた」とする説が知られている。虎は象の群れから逃れるため、竹やぶを安息の地としたとの言い伝えから、虎の屏風絵や虎退治の武者絵の背景には竹林が描かれることが多い。そこから、このような説が出てきたのだろうが、地図に載る「加藤ノト」は、能登守・加藤明軌(1858年当時)のこと。豊臣秀吉の子飼い、加藤左馬之助(嘉明)を祖とする近江水口(みなくち)藩主である。共に秀吉に仕えた加藤家だが、清正と左馬之助は兄弟でも親戚でもないので、間違いであろう。加藤ノトの屋敷の南側には「サンサイコウジ」とある。江戸時代初期、この場所に屋敷を構えていたのは、明智光秀の娘・ガラシャの夫として知られる肥後熊本藩主・細川忠興で、茶人としては「三斎」と名乗ったことに由来するのであろう。同時期に北側の道も名付けられたとすれば、細川家時代から竹やぶがあった可能性もある。加藤清正家が断絶した後、熊本藩を引き継いだのが忠興だ。熊本城明け渡しの際、清正の位牌(いはい)を先頭に入城し、加藤家の家臣も多く召し抱えたことは有名である。清正に敬意を示した細川家だけに、虎之御門に近い屋敷の鬼門に、虎退治にちなむ竹やぶをつくったと考えた方が合点がいく。】「虎の門外あふひ坂Aoi Hill Outside Toranomon Gate作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)11月星空に三日月が浮かぶ葵坂の夜の景。今の千代田区霞が関3丁目辺り、溜池の堀端から外堀に沿って虎ノ門外に下っていく坂が葵坂であった。現在は平坦な道になり、坂の面影はない。手前の裸の2人は毎年行われる寒参りの人々。太平しっぽくと二八そばの担ぎ売りが描かれ、江戸の暮らしが垣間見える。現在の所在地: 千代田区霞が関」【第114景となる『虎の門外あふひ坂(とらのもんがい あおいざか)』。溜池の埋め立てとともになくなった、堰堤(えんてい)と坂道を描いた一枚。明治時代に埋め立てられた赤坂(港区)の溜池は、広重の時代には水が満ちた大きな池で、江戸城外堀の一部になっていた。現在の赤坂見附辺りから、外堀通りと環二通りが分かれる赤坂一丁目交差点辺りまで続き、端には堰堤(えんてい)があったそうだ。そこから流れ落ちた水は汐留川となり、虎之御門(現・港区虎ノ門交差点付近)の南を通り、新橋(芝口橋)、汐留橋を経て、浜御殿(現・浜離宮恩賜庭園)の脇から海に注いでいた。今では汐留川も、ほとんどが埋め立てられている。広重は冬の夜景として、堰堤とその脇の坂道を描いた。題箋(だいせん)には「あふひ坂」とあるが、古地図には「葵坂(あおいざか)」と記される。冬の寒い夜のはずだが、ふんどし姿の2人連れが登場するのがおもしろい。「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」と書かれたちょうちんを手にしているので、葵坂下にある金毘羅大権現、現在の「虎ノ門 金刀比羅宮(ことひらぐう)」への「寒詣(かんもうで)」の帰り道だと分かる。寒詣は「寒参り」や「裸参り」とも呼ばれ、ふんどし一丁で水ごりを取り、その姿のままで鈴を鳴らしながら神社仏閣へ参拝した。「寒」とは四季をさらに6等分した二十四節季の「小寒」と「大寒」の期間で、現在の1月6日頃から立春(2月4日か5日)の前日までの約30日通い続ける。技術の習得を祈願する見習い職人たちがよく行っていたそうで、その姿や鈴の音は真冬の風物詩だったという。落語の「時そば」に出てきそうな夜鳴きそばの屋台が2つ並び、中間(ちゅうげん)にちょうちんを持たせた頭巾姿の武士などは、冬らしい光景だ。坂の上には落葉したエノキ、その右には溜池の北に鎮座する日吉山王大権現社(現・日枝神社)の社殿が描かれている。地平線近くはうっすら明るく、三日月の高さなども考えると、午後6時頃ではないだろうか。】「びくにはし雪中Bikunihashi Bridge in the Snow」作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)10月上野と日本橋を結ぶ中央通りのひとつに、現在の昭和通りが通じる比丘尼橋があった。現在の銀座八丁目辺りである。雪は激しく降り積もり、傘を差した人々が足早に橋を渡っていく。右のやせた猫と、「比丘尼屋」と読める看板、「たし(貸)」と読める文字など、町並みの細部まで描かれている。現在の所在地: 中央区銀座」 【第115景となる「びくにはし雪中」。江戸っ子のシャレが効いた看板が大きく描かれた、食欲をそそる冬の一枚である。「びくにはし」とは、江戸城外堀から京橋川が分岐した地点にあった「比丘尼橋」のこと。外堀や京橋川は埋め立てられたために跡地は分かりにくいが、今の中央区銀座1丁目の北西端、東京高速道路が外堀通りの上を通過する辺りに架かっていた。広重は比丘尼橋北詰から、橋を中央に南方向を描いている。右の石垣は外堀のもので、その向こうには大名屋敷が立ち並んでいた。遠くに見える火の見櫓(やぐら)は、数寄屋橋付近の南町奉行所のものだろう。この付近は江戸の中心部でありながら、当時はあまり華やかな場所ではなかったようだ。夜になると、尼僧の装束に身を包んだ街娼「比丘尼」が出没し、橋の名の由来となったという説もある。現在の銀座で和食グルメといえば、すしや天ぷら、うなぎといった高級料理店が思い浮かぶが、この絵の中には江戸のB級グルメが勢ぞろいしている。大きく「山くじら」と書かれているのは、尾張屋という「ももんじ屋」の看板だ。ももんじ屋とは、動物や鳥の肉を食べさせる店である。江戸時代には肉食が忌避されていたが、病後の滋養強壮の薬という名目で提供しており、幕末には健康であっても「薬食い」と称し、好んで肉を食べる庶民が増えていたという。それでも、大っぴらに商売することははばかられたため、肉の名前に隠語を使っていた。山くじらはイノシシ肉のことである。当時、くじらは魚と考えられ、比較的メジャーな食材だったので、「山に住むくじら」ならば煮て食べても問題ないという発想だ。右側には「十三里 ○やき」の行燈(あんどん)を出したよしず張りの店がある。これは「甘藷(かんしょ)の丸焼き」という意味で、「焼き芋」のこと。江戸後期に「栗(九里)より(四里)うまい十三里(9+4=13)」というシャレを効かせたキャッチコピーが流行してから、多くの焼き芋屋が「十三里」の看板を掲げたという】「高田の馬場Takada Riding Ground作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)2月高田馬場駅から歩いて1キロ弱の西早稲田にかつてあった馬場、弓場。家康の側室、高田殿が没落したことからこの名で呼ばれるようになったという。太田南畝が狂歌で詠むなど、月見の名所としても長く知られ、手前に大きく張りこむ的が月のようにも見えている。現在の所在地: 新宿区西早稲田」【第116景となる「高田の馬場(たかたのばば)」。冬の風物詩『忠臣蔵』でも知られる、幕臣の馬術・弓術の練習所を描いた一枚である。「高田の馬場」は、幕臣が馬術や弓術の稽古をするために、徳川3代将軍・家光が1636(寛永13)年に造営した馬場のこと。JR山手線の駅名や新宿区の町名である「高田馬場」の読み方は「たかだのばば」だが、史跡としては「たかたのばば」と濁らない。現在の新宿区高田馬場ではなく、少し東の西早稲田3丁目に所在した。東京メトロ「早稲田」駅から早稲田通りを西に向かい、穴八幡宮沿いの坂を上り切った高台、西早稲田交差点の付近一帯だ。広さは東西6町(約645メートル)、南北三十余間(約55メートル)もあったというから、直線の長さは現在の地方競馬場に匹敵する大規模な馬場である。「高田」については諸説あるが、この付近から中野方面にかけては高台で農村が点在していたので、古くから「高田」と呼ばれていたようだ。家光は穴八幡宮を高田馬場の守護神とし、社地・社殿を寄進し、神社前の八幡坂には茶屋や露店が立ち並んだという。高田馬場を一躍有名にしたのが、後の赤穂浪士の一人・堀部安兵衛(武庸)が名を挙げた「高田馬場の決闘」(1694年)だ。浪人だった中山安兵衛は、義理の叔父の契りを結んだ菅野六左衛門の決闘に助太刀し、高田馬場で相手をバッタバッタと切り倒した。その評判を聞いた赤穂藩士の堀部弥兵衛(金丸)が娘婿に迎え入れたことで、安兵衛は赤穂事件(1702年)に参加することになった。この決闘は歌舞伎・浄瑠璃などで演じられ、『忠臣蔵』のエピソードとして全国に知れ渡り、武士のみならず庶民にも高田馬場の名が浸透したのだ。1728(享保13)年には8代将軍・吉宗が、世継ぎの疱瘡(ほうそう)治癒を祈願するために穴八幡宮に流鏑馬(やぶさめ)を奉納した。無事完治したため、その後も将軍家は天下泰平を祈念して度々流鏑馬を奉納し、多くの見物人を集めたという。穴八幡の向かいの水稲荷神社には、江戸最大・最古の富士塚「高田富士」が境内にそびえていたので、こちらにも多くの参詣客が訪れていた。行楽客が増えたことで、馬場の北側にも茶屋が並ぶようになり、今でもその道には「茶屋町通り」の名が残る。】「高田姿見のはし俤の橋砂利場Sugatami Bridge, Omokage Bridge, and the Gravel Pits, Takata」作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)1月神田川沿いの雑司ヶ谷から高田馬場にかけ、いくつもの橋が架けられていた。姿見橋は、その名が示すように水面に映る自らの姿を見るための橋とも伝わる。水辺には砂利場があり、砂利を採掘して江戸市中へ運び込んでいた。夕映えを受ける川面の輝きと、橋を渡る人々の小さな姿が、静かな郊外の風情を伝えている。現在の所在地: 豊島区高田」 【第117景となる「高田 姿見のはし 俤の橋 砂利場(たかた すがたみのはし おもかげのはし じゃりば)」。美しい弧を描く土橋と、奥に広がるのどかな田園風景を描いた冬の1枚である。絵のタイトルには「姿見の橋」「俤の橋」と、2つの橋の名が登場する。『名所江戸百景』の画題は、近くから遠くに向かって地名や施設名などを並べるが、今回の絵では珍しく、俤の橋が手前に描かれている。この橋は現在、都電荒川線(東京さくらトラム)の駅名にもなっている「面影橋」のこと。この橋の北側では、質の良い玉砂利が採取できたので、低地一帯に広がる農村は「砂利場村」とも呼ばれたようだ。広重は西早稲田から神田川越しに、高田の砂利場村から雑司ヶ谷に続く斜面を望んでいる。姿見の橋の方は、すぐには見つけられない。絵の右側をくねくねと走る道の途中に、小さく描かれている。この道は現在の「宿坂通り(しゅくざかどおり、宿坂道)」で、中世まで利用された古奥州道で、鎌倉時代には「宿坂の関」が置かれたと伝わる。江戸時代になると奥州街道は、日本橋から東の隅田川沿いを進み、千住で大橋を渡るルートに変わった。しかし、宿坂道沿いには、砂利場村に御府内八十八箇所霊場の29番札所「南蔵院」や高田から雑司ヶ谷にかけての総鎮守「氷川明神社」(現・氷川神社)、斜面の始まりには目白不動尊で知られる「金乗院」といった名所が点在し、にぎわいを残した。】「湯しま天神坂上眺望View From the Top of the Hill of the Tenjin Shrine in Yushima作者: 初代 歌川広重年代: 安政3年(1856)4月湯島天神境内から坂を通して不忍の池、上野の山までを望む。目黒不動、木母寺などと並び桜花で知られる人形町付近にも、雪景色の江戸の冬の情景が映し出された。現在は境内より高い建物が林立している。かつての江戸らしさを今に伝える景色である。現在の所在地: 文京区湯島」【第118景となる「湯しま天神 坂上眺望(ゆしまてんじん さかうえちょうぼう)」。雪晴れの朝、湯島天神の男坂と女坂の交わる場所から、上野不忍池を望んだ冬の1枚である。菅原道真を祀(まつ)る、東京屈指の学問の神様「湯島天満宮」(文京区湯島3丁目)。受験シーズンには合格祈願に多くの学生や家族が訪れ、「湯島天神」の呼び名で親しまれている。社伝では458(雄略天皇2)年に勅命を受け、天手力雄尊(あめのたぢからをのみこと)を祀って創建したとされる。14世紀に地域住民の希望で、天神も合祀するようになり、15世紀後半には太田道灌が天満宮の祠(ほこら)を建て、数百本の梅の木を植えたそうだ。江戸時代には社領の寄進を受けるなど、幕府から手厚く保護される。徳川家康から4代・家綱まで侍講を務めた儒者・林羅山を筆頭に、数多くの学者や文人が参拝したという。5代・綱吉は、林家の学問所と孔子廟を湯島に移し、「湯島聖堂」を造営。1797(寛政9)年には、その私塾が幕府直轄の昌平坂学問所となり、広重の暮らした時代には「湯島=文教の町」というイメージが定着していた。湯島は江戸有数の盛り場という、もう一つの顔があった。町人が多く住む下谷(現・台東区上野)や外神田(現・千代田区外神田)から近く、境内には景品目的に小弓で的を射る楊弓場(ようきゅうば)や芝居小屋などがあり、門前には料理店や茶屋が立ち並んだ。毎月25日には植木市が立ち、全国の名寺院から秘仏を運んで公開する「出開帳」もたびたび催され、勧進相撲の本場所が開かれたこともある。特に江戸後期には、幕府公認の「富くじ」興行でにぎわった。最高額の賞金は、現在に換算すると約1億円の1000両だったので、抽選日の境内の盛り上がりはすさまじかったであろう。】「王子装束ゑの木大晦日の狐火Foxfires Gathered by the Hackberry Tree near Ōji Inari Shrine on New Year’s Eve作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)9月宵闇に集う狐。後ろには狐火が揺らぎ、金色の毛を照らしている。何をしているところだろうか。これは大晦日の夜、関東の狐が集まり、この木の下で装束を改め、関東の稲荷社総元締めである王子稲荷に初詣にいくとの伝承の場面。この榎の木は姿見ノ木と呼ばれたが、現在も、跡地の付近に装束稲荷神社が建てられている。現在の所在地: 北区王子」【第119景となる『王子装束ゑの木大晦日の狐火(おうじしょうぞくえのき おおみそかのきつねび)』。大晦日に狐が集まり、初詣へ行列で向かうという幻想的な1枚である。王子稲荷神社は古くから関東稲荷総司とされ、江戸時代には幕府の祈願所の一つに定められていた。東日本で最も格が高い稲荷神社といえよう。伝承では、大晦日の夜、稲荷神の使いである狐が東日本各地から王子に集まったそうだ。王子稲荷神社近くの榎(エノキ)の下で装束を整えてから、行列になって初詣をしたという。そのため、身支度をしたとされる大木は「装束榎」と呼ばれるようになったという。広重の元絵は、狐たちが装束榎の下に集まり、口から狐火を出しているという幻想的な光景だ。地元の人の話によると、昭和初期の道路拡張によって装束榎は切り倒されたそうだ。その後、地域ではいくつかの不幸が起こったことで、祟り(たたり)と恐れられた。そして、新たな榎の木を植え、その横に装束稲荷神社を建てたのだという。現在、大晦日から正月にかけて「王子 狐の行列」というイベントが地元民を中心に開催されている。写真は2016年大晦日、装束稲荷神社前に集まった人々を撮影したものだ。社殿の左に見えるのが現在の装束榎であるが、周りには訪日観光客の姿も多かった。当節、榎の下には世界各地からの見物客が集まっているようだ。】そして全ての作品の鑑賞を終え、出口に。「名所江戸百景 1856-1858」 「歌川広重の代表作「名所江戸百景」全点を、東京都江戸東京博物館のリニューアルオープンを記念して一堂に展示する。「名所江戸百景」は、歌川広重(1797-1858)が最晩年に手掛けた名所絵の集大成である。安政3年(1856)から同5年までのうちに、118枚が初代広重の落款で刊行され、初代没後の同6年に弟子の二代広重の一図を追加、さらに梅素亭玄魚による目録一枚をつけた120点からなる。「名所江戸百景」は日本だけでなく海外の芸術家にも影響を与え、とりわけゴッホの手により、「大はしあたけの夕立」や「亀戸梅屋舗」が鮮明な色で模写されたことはよく知られている。今回の展示デザインには、アート&デザインスタジオのTangentを迎えた。文化とテクノロジーの間に共通の接触を引き、その繋がりから新しい視点を創出し、未来の輪郭を浮かび上がらせる。本展では、堅大判(たておおばん)を活かした構図が特長の「名所江戸百景」をガイドブックの挿図に見立て、本が開いたような額装も施した。描かれた場所を今の地図に示すことで、江戸と東京の風景が重なり合う。かつての広重の目が捉えた名所は、今どうなっているのか。QRコードの先にある景色を、ぜひ確かめてほしい。」 これは「名所江戸百景」の最後に付けられている、梅素亭玄魚(ばいそてい げんぎょ)による「目録(もくろく)」 です。正式には、「名所江戸百景 目録」にあたるもので、全120点の一覧や刊行情報をまとめた附録ページ。「一立齋廣重一世一代 江戸百景One Hundred Famous Views of Edo : Title Page作者:梅素亭玄魚(1817-1880)年代:安政5年(1850)10月以降梅素亭玄魚による名所江戸百景の目録。梅素亭玄魚は筆耕をはじめ、戯作や図案など多岐に渡る分野で活躍した人物で、歌川派との関係が深い。この目録は作品の刊行順とは異なる順番で記されており、広重の意向をどの程度反映したものか定かではない。1859年制作の二代広重署名の「赤坂桐畑雨中夕けい」がないことから、118図目刊行後から翌年正月の間に制作されたものとみられる。しかし、画中の景色に則って春夏秋冬に分類している点で意義のある目録といえる。完結後に全図が摺り直され、図録をつけてセットで売り出されたと推察され本シリーズの当時の人気ぶりを想像することができる。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.12
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「上野山内月のまつThe Moon Pine in the Temple Precincts at Ueno」作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)8月輪を描く奇抜な枝ぶりが特徴的なことから月の松と呼ばれるこの木は、上野清水堂に生えていた。この松自体は明治期に嵐が原因で枯れてしまったが、現在は復元されている。松の向こうに見えるのは不忍池である。右下には中の島の弁天堂がのぞき見え、奥の対岸には町家や大名屋敷がひしめきあい建っている。No.011の「上野清水堂不忍池」では清水堂の舞台を含めたこの松の全容がうかがえる。現在の所在地: 台東区上野公園」以下に続く浮世絵の説明【】内のキャプションは、浮世写真家 喜千也氏の「名所江戸百景」👈️リンクについての詳細な説明文の一部を私の学習用に転記させていただきました【第90景となる「上野山内月のまつ」。桜の名所として知られる寛永寺境内で、しっとりとした秋の情景を描いた一枚である。上野山内とは、当時は徳川将軍家の菩提寺「東叡山寛永寺」の寺領、現在の上野恩賜公園一帯のことである。境内に入って間もない、不忍池を見渡せる高台に清水観音堂があり、舞台下の斜面には、枝がくるりと円を描く「月の松」が立っていた。広重はこの松を、春の景『上野清水堂不忍ノ池』でも描いている。花見の名所として知られる清水堂は人でにぎわい、桜の薄紅色とお堂の朱色が華やかな雰囲気で、遠目に見る月の松は脇役を務める。人の気配がない今回の絵は対照的に、秋らしい哀愁が漂う。荒々しい木肌が分かるほどクローズアップし、月の松の幹と枝を「枠」として配置した。不忍池の向こう岸は町屋が並ぶ茅町(現・台東区池之端)で、その奥には湯島や本郷の大名屋敷が続くが、夕焼けをバックにしたシルエットは静寂な雰囲気を醸し出している。輪の右下には、中島弁財天社(現・寛永寺不忍池弁天堂)の左端と、その周辺の茶屋などが見える。不忍池のシンボルだけに、輪の中心に置いても良さそうだが、広重が月の中に描いたのは、対岸の景色の中にそびえる火の見櫓(やぐら)だ。幕府の定火消(じょうびけし)出身の広重は火の見櫓への思い入れが強いせいか、今回の絵には3つも登場する。月の中に立つ櫓の場所には諸説あり、本郷の加賀藩上屋敷(現・東京大学)内のものだという説が有力だが、弁財天の位置を考慮すると、もう少し南を向いているようだ。そうなると、湯島聖堂近くにあった定火消屋敷(現・順天堂大学内)のものではないかと筆者は考えている。】「猿わか町よるの景Night View of Saruwakacho Theatre Street」作者: 初代 歌川広重年代: 安政3年(1856)9月猿若町は天保の改革の折、市中の芝居小屋が追いやられた芝居町であった。その名は江戸幕府後を勤めた初代猿若三郎兵衛にちなんでいる。右手には森田座、市村座、中村座が軒を連ねたが、左手に軒を連ねる芝居茶屋には煌々と灯りがともる。影を地面に写しだすほど明るい月の下、多くの男女がこの町の夜を楽しむ様子がうかがえる。現在の所在地: 台東区浅草」 【第91景となる『猿わか町よるの景(さるわかまち よるのけい)』。中秋の名月の下、芝居見物後の人々でにぎわう猿若町を描いた1枚である。江戸末期には、中村座・市村座・森田座(後に守田座に改称。または河原崎座)という歌舞伎の江戸三座や、人形浄瑠璃の薩摩座や人形劇の結城座など、浅草寺の北東にある猿若町(現台東区浅草6丁目付近)に芝居小屋が集まっていた。当時の芝居公演は、防火対策と風紀取り締まり上の理由から昼間に限られていたので、早朝から始まって日暮れ前には終幕となったようだ。見物客は芝居がはねた後、周囲の茶屋で食事をしたらしく、夜の猿若町は大層なにぎわいを見せたという。元絵は秋の景として描かれているので、旧暦8月15日の「中秋」を描いたと思われる。遠近法と月の明かりが作る人影が秀逸で、ゴッホの「夜のカフェテラス」にも影響を与えたそうだ。】「請地秋葉の境内Inside the Precincts of the Akiba Shrine, Ukechi」作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)8月墨田区向島に今も鎮座する秋葉神社は、元禄15年(1702)に請地村「現墨田区向島」に遠州の秋葉権現を勧請して建立され、火伏の神として大名や大奥女中から厚く信仰された。別当寺の満願寺と合わせた広大な境内には、林泉が広がり、四季の風景の見事なことから文人墨客があとを絶たなかったという。池の広がり色づく紅葉、それを楽しむ人々を描く。画面の左下、池越しに紅葉が映る様を見て筆を執る人物は広重自身だという説もある。現在の所在地: 墨田区向島」 第92景となる「請地秋葉の境内(うけじあきばのけいだい)。紅葉の名所として知られた向島の行楽地を描いた一枚である。今はこぢんまりとした向島の「秋葉神社」(墨田区向島4丁目)は、江戸時代には約7000坪もあり、火伏せの神として徳川将軍家や大奥、多くの大名から信奉されていたという。画題の「請地(うけじ、うけち)」は村名で、現在の東京スカイツリーの北側、押上1・2丁目と向島4・5丁目辺りの土地を指す。秋葉神社の社伝によれば、13世紀に千代世(ちよせ)稲荷社として創建され、江戸時代初期に修験僧によって鎮火の神「秋葉権現」の尊像が祀られた。1702(元禄15)年に社殿を造営し、神社を管理する別当寺の「満願寺」も建立され、「秋葉稲荷両社」と称するようになる。江戸の町は度々大火によって壊滅的な被害を受けたため、武家から庶民に至るまで秋葉権現への信仰はあつかった。数々の寄進によって繁栄し、満願寺の敷地に広大な林泉(庭園)が築かれると、江戸っ子は「秋葉山」や「秋葉大権現」と呼んで親しみ、門前には料理店も並んだ。四季を通じて行楽客でにぎわったようだが、「秋葉」の名にふさわしく、特に紅葉の名所として知られた。広重は得意の俯瞰(ふかん)で、紅く染まった楓(カエデ)と松が池に映り込む情景を描いている。『江戸名所図会』(1836刊)に「社頭に青松 丹楓(たんぷう)おほし。晩秋の頃 池水に映じて 錦をあらふがごとく 奇観たり」とあるので、それを錦絵で表現したのだろう。秋の静けさの中に、甲高いヒヨドリの鳴き声が聞こえてきそうな秀作である。名所江戸百景では桜が20景も登場するのに対し、紅葉はわずか4景だけ。水面に影が映る絵も3景しかないので、この絵は希少な1枚といえよう。また、手前岸のあずまやでは剃髪した男が絵筆を握っているが、これは広重自身だという説もある。広重は自画像を残していないため、もし本当ならさらに貴重な一枚となるだろう。「木母寺内川御前栽畑Shogun's Kitchen GardenBeside the Inlet Near Mokubo-ji Temple」作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)12月木母寺は現在の墨田区堤通2丁目にある寺で、梅若塚の伝説で有名である。その伝説とは、梅若丸が人買いに誘われて命を落とし、それを知った母が隅田川に身を投げるというもので、「隅田川」という能にもなっている。図は木母寺裏の内川の様子である。内川には将軍が鷹狩をする時の食専用野菜を栽培しており、それを御前栽畑と呼んだ。現在の所在地: 墨田区堤通」 【第93景となる「木母寺内川御前栽畑(もくぼじ うちがわ ごぜんさいばた)」。隅田川と綾瀬川が合流する辺りにある、江戸っ子に人気だった寺院の境内を描いた一枚である。「木母寺」は隅田川の東岸、墨田区堤通2丁目にある天台宗寺院。平安時代中期の創建と伝わり、江戸時代には参拝客でにぎわう江戸郊外の名所であった。「木母」は梅の異名であり、2文字を合わせて1文字にすると「梅」の異体字「栂」になる。隅田川沿いで「梅」といえば、能や浄瑠璃、歌舞伎など古典芸能好きの人ならばピンとくるだろう。人気演目「隅田川物」の元ネタ「梅若(うめわか)伝説」に由縁を持つため、江戸っ子たちはこぞって木母寺を訪れたのだ。梅若伝説は室町時代に、能の演目「隅田川」の題材となり、その悲劇が広く知れ渡った。貴族の家に生まれた梅若丸は、父親を早くに亡くしたために比叡山へ預けられる。聡明な稚児として京中で評判となるが、寺同士のいさかいごとに巻き込まれ、逃げている最中に人買いにさらわれてしまう。京から東国まで連れ回されたことで、疲れ果てた梅若丸は、武蔵と下総の国境、隅田川のほとりで病に倒れる。「たづね来て 問はばこたへよ都鳥 すみだの河原の露ときへぬと(母が訪ねてきたら ユリカモメよ伝えておくれ あなたの息子は隅田の河原で息絶えたと)」という歌を残し、12歳の若さでこの世を去る。そこに居合わせた高僧が哀れみ、亡きがらを埋めて塚を築き、その上に柳を植えて弔った。ちょうど1年後、狂女に身をやつして梅若丸を探し続けていた母親が、隅田川までたどり着くと、対岸で法要が営まれている。それが息子の一周忌だと知った母が、夜を徹して念仏を唱えると、梅若丸の亡霊が姿を現し、悲しみの対面を果たすのだった。朝になると梅若丸は姿を消し、草むした塚だけが残された。そうした伝説にまつわる梅若塚の傍らに、念仏堂が976(貞元元)年に建立され、木母寺の起源となったという。木母寺の境内には「内川」という呼び名の入り江があり、徳川3代将軍・家光の時代に、その北側に将軍や貴人が鷹狩りなどで訪れた際に休息する「隅田川御殿」が建てられる。4代・家綱は御殿を改築し、隣接地には野菜を育てるための「御前栽畑」も造成。木母寺は将軍家とゆかりの深い寺となった。広重は内川を中央、左に御前裁畑の松林、右に木母寺境内にあった料亭を配している。この店は八頭芋としじみ料理が名物の「植半」で、風流人が好んで宴を開いたそうだ。木母寺の東側には桜並木で有名な墨堤が通っているので、梅若丸の命日とされる旧暦3月15日には、花見も兼ねて多くの人が集まった。しかし広重は、向島あたりから来た芸者が屋根船を横付けにし、宴席へと向かう様子を描き、しっとりとした秋の情景に仕上げている。】「にい宿のわたしNiijuku Ferry作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)2月葛飾区の北部中川を渡る新宿の渡し。右手に見えるは武蔵ノ国である。これは現在の埼玉県北部、群馬県、栃木県の南部などを呼ぶ。中川では鮭漁が行われるため、川を遡る小さな千形漁船が浮き沈みする。左手に建ち並んでいるのがその料理屋だと想像される。現在の所在地: 葛飾区新宿」 【第93景となる「にい宿のわたし」。江戸時代には旅人でにぎわった宿場町近くの渡船場から、中川越しにのどかな田園風景を描いた一枚である。中川が大きく横たわり、手前岸には大きな料理屋、対岸には農村が広がり、遠くに山が望めるというのどかな風景だ。凡庸と評価されることも多いが、研究者や浮世絵ファンの間では「広重は亀有から東向きに描いた」「いや、新宿側から西を眺めている」と、熱い論争を巻き起こしてきた。東向き説では、左上の山は筑波山あるいは日光連山で、手前左の2階建ては「千馬田屋(ちばたや)」という有名な川魚料理店とされる。荷を積んでいる船は下流の江戸中心地に向かっているだろうから、手前が亀有で対岸が新宿だとなるのだ。西向き説は、新宿側にも似たような料理屋や旅籠(はたご)があり、左上の山の形から西方の秩父山地ではないかなどと主張する。現在、新宿の渡し船が行き来した辺りには中川橋が架かる。東西両側からそれぞれの景色を眺め、地図とにらめっこした結果、筆者は東向き説を推す。最大の理由は、広重が江戸周辺の渡船場を描くときのパターンである。名所江戸百景では江戸周辺の渡船場や橋の絵をいくつか描いているが、その全てが江戸から外側を向いているのだ。山影は筑波山ではなく、その南東にある筑波連山の一角と考えている。中川橋の西詰、亀有側から見ると、筑波山は川の上流より左に見えるはずで、広重の描く筑波山は男体山と女体山の2つの頂きをもっとはっきりと描くからだ。題箋の下に小さく描かれた村は、街道沿いの隣村・金町の集落ではないだろうか。】「真間の紅葉手古那の社継はしRed Maples at Mama Shrine Overlooking the Tekona Shrineand Tsugihashi Bridge」作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)1月市川市の真間にある弘法寺から手児奈社(てこなしゃ)、継橋、筑波山を望む景色。弘法寺は紅葉の名所として知られた。手児奈社は万葉集にうたわれた美女で、多くの男性から求婚されたことに悩みぬき、真間の入江に身を投げたと伝わる。その霊を祀った堂が、安産と疱瘡祈願にご利益ありとして、江戸庶民の信仰を集めた。現在の所在地: 千葉県市川市真間」 【第95景となる「真間の紅葉手古那の社継はし」(ままのもみじ てこなのやしろ つぎはし)」。古代の悲話にまつわる寺から描いた、江戸百で最も東に位置する1枚である。「勝鹿の真間の入江にうちなびく 玉藻刈りけむ手児名しおもほゆ」(葛飾の真間の入り江で風になびく玉藻を刈り取る手児奈の姿を思いしのぶ)「勝鹿の真間の井見れば立ちならし 水汲ましけむ手児名しおもほゆ」(葛飾の真間の井戸を見れば、ここに通って水をくんだ手児奈の姿を思いしのぶ)1300年ほど前に、山部赤人と高橋虫麻呂が詠んだ、万葉集に収められる歌である。「葛飾の真間」とは現在の千葉県市川市真間のことで、第96回『鴻の台とね川風景』で紹介した国府台の南西に隣接する。「手児奈(手児名、手古那)」とは飛鳥時代、この付近に住んでいた絶世の美女のことだ。手児奈の伝説には諸説あるが、あまりの美貌に多くの男たちが求婚し、彼らの間でいくつもの衝突が起こったという。手児奈は、自分が生きていては争いのもとになると思い悩み、入り江に身を投げてしまう。哀れんだ村人たちは、彼女の遺体が流れ着いた場所に祠(ほこら、後の「手児那の社」「手児奈霊神堂」)を建て、その悲劇を語り継いだ。美しすぎたがために命を絶たねばならなかったという伝説は、下総から遠く離れた奈良の都まで広がり、歌聖・赤人をはじめとする都の歌人の想像力をかき立て、多くの歌が詠まれた。万葉集には手児奈にまつわる幾つもの歌が収められている。伝説を聞いた日本初の大僧正・行基が、737(天平9)年に手児奈を弔うために真間山に「求法寺(ぐほうじ)」を創建。822(弘仁13)年に同地に立ち寄った空海が、堂宇を増築して「弘法寺」に字を改めたと伝わる。鎌倉時代に日蓮(にちれん)宗寺院となり、現在の「真間山弘法寺」につながっている。真間山の南側には、明治時代に埋め立てられるまで、手児奈が身を投げた入り江があった。明治元年の絵図を見ると、入り江と言うよりは江戸川につながる大きな沼池のようにも見えるが、中世まではこの付近まで海が迫っていたので「真間の入江」と呼ばれ、国府への荷を運ぶ船が着く湊(みなと)もあったという。】「鴻の台とね川風景Konodai and the Tonegawa River」作者: 初代 歌川広重年代: 安政3年(1856)5月真間の北側に沿った国分台。画面はその大地から小高い崖を左手に、江戸川から富士山までの景色を描いている。曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』のモデルとなった里見親子の居城があった場所としてよく知られる。現在の所在地: 千葉県市川市国府台」 【第96景となる「鴻の台とね川風景(こうのだいとねがわふうけい)」。現在の東京と千葉の県境、江戸川沿いの人気物語の舞台から描いた1枚である。「鴻の台」とは現在の千葉県市川市の北西端、江戸川に面する「国府台(こうのだい)」のこと。京成本線「国府台」駅の北側、川沿いの緑豊かな高台・里見公園を中心とした地域で、対岸は東京の北小岩(江戸川区)である。利根川水系の江戸川は、広重の時代には銚子(ちょうし)と日本橋を結ぶ利根川水運の主要区間で、庶民は一緒くたに「とね川」と呼んでいた。国府台の名は、古代に下総の国府(こう、こくふ)が置かれたのが由来。周辺には旧石器時代から古墳時代にかけての遺跡が点在しているので、先史時代から房総方面の中心地だったと推測される。平安中期には平将門が国府を攻め落とし、平安末期には敗走していた源頼朝が、ここで兵を集めて鎌倉へ出陣した。戦国時代に太田道灌(どうかん)が国府台城を築き、弟にこれを守らせた。武蔵と下総の国境にあるため、16世紀には関東の足利氏や、有力武将の北条氏や上杉氏、里見氏、千葉氏、太田氏、などが入り乱れ、2度の国府台合戦が勃発した。そんな歴史ある場所が、今ではあまり知られていないのには理由がある。第2次国府台合戦後に城を治めていた北条氏は、豊臣秀吉に敗れ、関東8カ国は徳川家康に与えられる。家康は、江戸の町を一望できる国府台を「防衛上危険な場所」と判断。すぐに廃城としたことで、下総の重要拠点だったことが徐々に忘れ去られていく。確かに家臣に預けて謀反を起こされたり、敵に乗っ取られたりしたら厄介だが、「眺望が良すぎる」のが理由で城が壊されるとは、平和な現代では理解しづらいエピソードである。】「堀江ねこざねBird's View of Nekozane at Urayasu」作者: 初代 歌川広重年代: 安政3年(1856)4月堀江も猫実も浦安の地名。いずれも浦川の両岸で発展した漁村であった。今は宅地開発が進み、当時の面影をみることはできない。画面では、掘川の河口を手前に配して、川沿いの猫実の集落を描き、すやり霞を通じて遠方の富士山を望んでいる。現在の所在地: 千葉県浦安市堀江」 【第97景となる『堀江ねこざね』。東京ディズニーリゾートがある浦安を描いた1枚。千葉県浦安市の名所といえば、今では東京ディズニーリゾートを思い浮かべる人がほとんどだろう。広重が現在の浦安辺りで描き残したのは、堀江と猫実(ねこざね)という川を挟んだ2つの漁村の秋景である。この川は旧江戸川につながる境川。絵の構図では、右側が猫実村、左側が堀江村、奥が旧江戸川である。富士山は多少誇張されていると思うが、現在の堀江の南隣は富士見という住所になっているので、この辺りからでもよく見えたのであろう。手前の砂州には、鳥を捕まえようとする人々が描かれている。この鳥は秋の旅鳥シギで、この地域の名物だったそうだ。江戸府内を描いた絵とこの絵で大きく違うのは、家々の屋根。江戸では防火対策のために瓦屋根が奨励されていたが、農村地域はかやぶき屋根だったことがよく分かる。】「小奈木川五本まつGohonmatsu Pine by Onagigawa River」作者: 初代 歌川広重年代: 安政3年(1856)7月江東区の北部を東西に横断し、隅田川と旧中川を結ぶ約5キロメートルの川を小名木川と呼ぶ。五本松とはその中腹の江東区猿江辺りにあり、見事な枝振りとともに月見の名所として知られていた。本図では、直線的に掘られた運河であるはずの小名木川をカーブさせ、手前の五本松との比較と川面を進む船で距離感を出している。現在の所在地: 江東区猿江」 【第98景となる「小奈木川五本まつ」。江戸の発展に欠かせなかった運河と、成田詣での船客がめでた老松を描いた一枚。「小奈木川」は、隅田川と旧中川を結ぶ「小名木川」のこと。徳川家康が江戸へ入府してすぐに、行徳(千葉県市川市)から江戸へ塩を運ぶために開削した運河である。利根川から江戸川を経由する水運ルートにも利用され、江戸以北の多様な物資が通過した。当初は塩を運んでいた「行徳船」は、17世紀後半には人も乗せるようになる。全盛期には行徳-日本橋小網町間を1日60隻以上が運航し、特に成田山詣でをする江戸っ子に重宝されたという。行徳船が枝の下をくぐろうとしているのが「五本松」。この辺りに5本の松が並んでいたことから命名されたというが、幕末に一本松になっても「五本松」と呼ばれ続けた。綾部藩九鬼家の下屋敷(現・江東区猿江2丁目)から川面まで枝を張り出す姿は小名木川の名物で、広重も「稀代の名木」と称賛している。老松を近景に大きく描き、広重は東を望んでいる。舟は日本橋方面に向かっているので、乗客は成田山からの帰りであろう。この絵で必ず話題となるのが、川が右に大きく湾曲していること。今も昔も小名木川は直線的で、絵のようにカーブする場所は無いのだ。広重特有の遠近法とか、構図を面白くするためという説もあるが、天保年間に出版された『江戸名所図絵』(1834、36刊)と見比べてみると面白い。両方とも川が湾曲し、五本松の近くには乗合船が浮かび、客の1人が手ぬぐいを川に晒(さら)している。この符合から、江戸名所案内の先駆けに対する広重のオマージュが感じられる。】「両国花火Fireworks at Ryogoku」作者: 初代 歌川広重年代: 安政5年(1858)8月大輪の花火が打ち上がり、橋上の見物客やひしめく舟中のシルエットが照らし出されている。両国の花火は、享保18年(1733)に飢饉、疫病による死者の供養、厄払いのために打ち上げられたことがきっかけとなり始まった。この花火は、隅田川花火大会と名を改めて夏の風物詩として今日に続いている。現在の所在地: 台東区蔵前」 【第99景となる『両国花火(りょうごくはなび)』。現在のカラフルなものとは違い、「和火」と呼ばれた落ち着きのある花火が江戸情緒を感じさせる1枚である。江戸時代の両国では、旧暦の5月28日の川開きから8月28日の川仕舞(じまい)までが川涼みの期間で、その始めと7月10日、そして終わりに花火が上がったという。この絵は目録で秋の絵とされているので、川仕舞の花火だと考えられる。元絵は、両国橋西詰の上流側から下流を眺めた構図で、奥の川岸は「安宅(あたけ)」と呼ばれ、幕府の御舟蔵(いわゆる軍港)のある辺りだった。夜は真っ暗であろうし、旧暦28日は月も出ていないので、この位置からの花火はさぞ美しく見えたことだろう。隅田川花火大会江戸時代には納涼の名所として知られた両国。旧暦の5月28日から8月28日の間は、通常日没頃までの営業しかできない両国橋付近の飲食店に夜半までの開店が許され、屋形舟を出すことも許可された。その初日には「両国の川開き」と言われる水神祭が行われ、花火が打ち上げられた。この花火は中断をはさみながら1733(享保18)年から1961(昭和36)年まで続き、1978(昭和53)年に「隅田川花火大会」として復活した。現在は、例年7月の最終土曜日に開催され、約2万発の花火が夜空を彩り、東京を代表する花火大会の一つとなっている。】「ふゆの部 冬」。 「浅草金龍山Kinyuzan Temple at Asakusa」作者: 初代 歌川広重年代: 安政5年(1858)7月雷除けしるきの浅草寺の景。行き交う人々は一様に小さく、境内のスケールの大きさを物語っている。雷門と大提灯は大胆に切り取られ、これから門をくぐって参詣するかのような視点である。現在の所在地: 台東区浅草」 【第100景となる『浅草金龍山(きんりゅうざん)』。師走の浅草を、朱色と白のコントラストで表現した美しい1枚である。金龍山は、「観音さま」と呼ばれて江戸の人々に親しまれてきた浅草寺の山号である。師走の浅草を描いた浮世絵には、12月17日と18日の「歳の市(としのいち)」を題材にしたものが多い。正月用の品々を商う露店が立ち並び、「押すな、押すな」と言わんばかりの群衆が喧騒を感じさせる。広重も参詣客でにぎわう歳の市の絵をいくつか残している。しかし、名所江戸百景のこの絵は、歳の市が終わった後なのか境内には人もまばらで、雷門大提灯(ちょうちん)の下から望む雪景色からは静寂さが感じられる。】季節感豊かに江戸の町を描いた広重最晩年の連作。縦長の画面に奥行きを作り出すため近景を極端に拡大した構図がとられています。本図は浅草寺雷門と大提灯を大きく描き、遠くに仁王門と五重塔を望みます。赤と白のコントラストも画面を引き締めています。「よし原日本堤The Nihon EmbankmentLeading to the Yoshiwara Licensed Quarter」作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)4月雁の群れが飛ぶ高い空の下、人々が行き交う日本堤を俯瞰した月夜の景。日本堤は元々荒川の氾濫を抑えるために築かれた土手だったが、のちに吉原への経路として有名になった。画面右の道の端には見返り柳が見え、左折するジグザグ状の五十間道が出迎える。この道を歩ききると初めて吉原の中が見えるという工夫がなされていた。現在の所在地: 台東区浅草橋」 【第101景となる「よし原 日本堤(よしわら にほんづつみ)」。幕府公認の遊郭・新吉原へ通う遊客の往来を描いた冬の1枚である。画題の「よし原」は、歌舞伎や時代小説、映画でおなじみの「吉原」のこと。近年は人気アニメでも取り上げられ、海外での認知度も高まっている江戸幕府公認の遊郭だ。今でも奥浅草と呼ばれる台東区千束4丁目に、当時の町割りがそのまま残っている。この辺りは隅田川に程近く、江戸時代に入るまで沼沢地が広がっていた。徳川2代将軍・秀忠は1620(元和6)年、浅草地域を水害から守るために、浅草寺北東の隅田川沿いの待乳山(まつちやま)から、奥州・日光街道の箕輪(現・三ノ輪)にかけての約1.8キロに土手を築く。全国の諸大名が工事に参加し、わずか60日で完成させたことから「日本堤」と名付けられたと伝わっている。土手に沿って山谷掘も造ったことで、一帯の水はけが良くなり、「浅草田んぼ」と呼ばれる田園地帯に生まれ変わった。日本提は誕生から約40年後、洪水対策とは別の役割も担い、その名は広く知られるようになる。1657年の明暦の大火後に、日本橋近く(現在の日本橋人形町付近)にあった吉原遊郭が、土手沿いに移転してきたのだ。】【『安政改正御江戸大絵図』(1858年刊、国会図書館蔵)より、浅草寺(中央下)から箕輪・浄閑寺(左上)までを切り抜いた。日本堤を青の点線で示し、吉原を赤の破線で囲った吉原遊郭の敷地は幅380×奥行き280メートルほどで、四方を塀と堀で囲まれていた。唯一の出入り口・大門は日本提側にあり、遊びに行く江戸っ子は必ず土手の上を往来せねばならなくなった。ほとんどの客が待乳山方面から向かい、大門は日本堤の真ん中辺りに位置するため、「通いなれたる土手八丁(900メートル弱)」などと吉原通いを自慢するやからまで現れた。吉原の来訪者は、妓楼(ぎろう)で遊ぶ客だけではない。100軒を超える茶屋では昼から夜まで商談が交わされ、俳諧や狂歌など風流人の集いも多く、夜桜や盆燈籠といった季節イベントも人気だった。幕末には毎日5000人超が集まったというから、土手を行き交う人もひっきりなしだったであろう。今回の絵は、冬の日本堤の夕景である。辻駕籠(つじかご)が向かう方向に吉原があるのは明白だ。つまり広重は、待乳山と吉原の間の日本提を、西に向かって描いている。空には半月が浮かび上がり、それを横切る雁(ガン)の編隊が美しい。土手上の道の両脇には、よしず張りの茶屋が立ち並び、客があふれかえっている。中央右端に見える柳の木は、吉原への曲がり角に立つ「見返り柳」。妓楼帰りの客が、大門を抜けて日本堤に差し掛かる際、後ろ髪を引かれて振り向くことが多いことから名付けられたという。吉原への参道ともいえる「衣紋坂」と「五十間道」沿いの商家の屋根が並び、大門から先は霞に隠されている。その左上をよく見ると、立派な屋根がたくさん頭を出しており、郭内の繁栄がうかがえる。ただ、この風景は広重による創作だ。この作品が摺(す)られたのは1857(安政4)年4月で、絵自体は前年の暮れに描かれたと考えるのが普通だが、吉原遊郭は安政江戸地震(1855年)で壊滅。生き残った妓楼の人々は、浅草寺の東にある花川戸や深川などでまだ仮宅営業をしていた時期である。刊行した頃にようやく吉原に戻り始めたので、広重は予想図でにぎわいの復活を祈念したのだろう。】「浅草田甫酉の町詣Procession for the Tori-no-ichi Festival, Asakusa-tanbo」作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)11月格子のついた窓辺に据えられた猫。田んぼの中の道を行く人びとに向けられる。所どころに熊手のシルエットが見える。画題のとおり、鷲大明神社の酉の市からの行列だろう。画面左には屏風の裏地が見え、畳の上には熊手を模した簪が置かれる。ここが吉原の妓楼、遠くに富士を望む、西向き2階の部屋であることが暗示される。現在の所在地: 台東区千束」 【第102景となる『浅草田圃酉の町詣(あさくさ たんぼ とりのまち もうで)』。吉原の遊郭の窓から、鷲(おおとり)神社の「酉の市」の大行列を眺めた1枚。広重の時代、浅草寺の北側は田圃の広がる場所だったようだ。古地図を見ると、その田圃の先には鷲明神(現・浅草鷲神社)と吉原があったことがわかる。猫が登場していることで近頃人気がある元絵だが、実は吉原の妓楼の控部屋から夕方の鷲明神方面を眺めている。窓の向こうには、「酉の祭(とりのまち、現在の『酉の市』)」へ詣でる大勢の人たちが描かれている。部屋の中に目を転じると、畳の上には客からもらったのであろうか、熊手の形をした簪(かんざし)が並べられている。「酉」は「取り」に通じることから、旅籠(はたご)、料亭、芸能、妓楼(ぎろう)などの「客を取リ込む」商売の人々が多く参詣したという。妓楼ひしめく吉原でも酉の祭の日は特別で、非常門にいたるまで廓(くるわ)の全ての門が開け放たれたそうだ。遊女も大忙しだったろうから、元絵の状況はつかの間の息抜き時間だったのかもしれない。】「蓑輪金杉三河しまMikawashima Island, Kanasugi, and Minowa」作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)閏5月隅田、三ノ輪の辺りから三河島一帯の景色でもある。広々とした田園に飛ぶツル科のタンチョウの姿を配している。江戸では将軍が自ら放った鷹で鶴を狩る「鶴御成」の行事があり、獲物の鶴を確保するため、三河島や千住、品川などには餌付け場所が設けられた。餌付けた鶴を保護するため、幕府は竹で作った柵を設けて、近隣住人に見張りをさせていたという。現在の所在地: 荒川区荒川」 【第103景となる「箕輪金杉三河しま(みのわ かなすぎみかわしま)」。江戸時代、毎年荒川区に飛来していたというタンチョウヅルを描いた冬の1枚である。戦国武将が好んだ遊びに、飼いならした鷹を放ち、野鳥やウサギを捕らえる「鷹狩(たかがり)」がある。江戸時代には大掛かりな行事となり、将軍や大名の狩猟場「御鷹場」を鳥見(とりみ)という役人が常に管理し、獲物の状況を調べたり、関係者以外立ち入りできないエリアを設けたりした。鷹狩の中でも特に重要だったのが、年末の「鶴御成(つるのおなり)」。御所の正月料理で使う鶴の肉を献上するため、毎年捕獲して京都に送っていたのだ。つまり、鶴が捕れない年があってはいけないので、幕府の鳥見が11月頃から村中に聞き込みを始め、鶴を探し出して餌付けしておく。目黒や品川、葛西の鷹場なども候補地だったが、鶴御成に関しては、荒川(現・隅田川)流域の岩淵筋にある三河島付近に決まることが多かったという。三河島は、現在の荒川区荒川辺りにあった農村。北には荒川が流れ、南の高台には徳川家菩提寺の上野寛永寺があり、少し離れた南東を日光道(現・国道4号、昭和通り)が通っていた。街道沿いの隣村が、今回の画題に登場する「箕輪(三ノ輪)」と「金杉」だ。今の日本で、野生のタンチョウが観察できるのは北海道東部くらいだが、広重の時代には江戸にも毎年飛来したらしい。三河島辺りは鶴の名所として知られ、冬には将軍の鷹場となった。鶴の飛来地が特定できると、鳥見は広範囲にわたって矢来(やらい)という簡易的な柵で囲む。野犬などから守り、鶴にストレスを与える凧(たこ)揚げを禁じるなど、人の立ち入りも制限した。鶴の御成が終わった後も、「翌年も飛来しますように」と願いを込めて、春まで手厚く保護していたそうだ。広重は舞い降りるタンチョウを、名所江戸百景でおなじみの「枠」とした。近景には水辺に立つもう1羽を描き、遠景にはのどかな田園風景が広がる。まだ矢来は設置していないが、てんびん棒を担ぐ農民は、急いで餌を運んでいるように見える。矢来とは、竹や丸太を粗く組んで作った臨時の柵、またはそれを巡らした囲いのこと。】「千住の大はしピンボケで解読不能。」 【第104景となる「千住の大はし(せんじゅの おおはし)」。徳川家康が幕府を開く前に建造した、江戸最古の大橋を描いた冬の1枚である。千住大橋は、隅田川に架けられた最初の橋だ。江戸入りして間もない徳川家康が建造を命じ、1594(文禄3)年に完成。現在の荒川区南千住と足立区千住橋戸町を結び、長さは66間(約120メートル)もあった。当初は、単に「大橋」と呼ばれていたという。それまで奥州(東北)へ向かう際は、浅草の北にある橋場(現・台東区橋場)で渡し舟を利用したが、江戸の町づくりには大量の物資を調達する必要がある。東北や北関東方面の物流ルートを確保するため、橋を架けることが急務となったようだ。しかしながら、この時代は、まだ戦乱の世。家康は江戸への敵の侵入を恐れ、他の橋を架けることを許さず、しばらくは隅田川唯一の橋であった。江戸時代初期に五街道の整備が進むと、千住大橋は奥州・日光街道に組み込まれ、北岸に「千住宿」が設けられる。陸路での往来に加え、荒川水運の物資も集積し、宿場町は大いににぎわい、後に橋の南側まで拡大していく。「千住の大橋」と呼ばれるようになったのは、家康のひ孫、4代家綱治世の1659(万治2)年に、隅田川2番目の橋「両国橋」が完成してからのこと。こちらも正式な名前がなく、当初は同様に「大橋」と呼ばれたらしい。紛らわしいため、次第に庶民の間で「千住の大橋」「両国橋」と呼び分けるようになったという。広重は、隅田川の南岸から北西に向かい、千住大橋を俯瞰(ふかん)で描いた。旅人や駕籠(かご)、荷を積んだ馬などが行き交い、宿場町の活気が伝わってくる。ゆったりとした流れが続く上流には、大きな帆を張った荷船や筏(いかだ)が浮かぶ。橋付近の川沿いには木材が浮かび、対岸にも大量に積み上げられている。黄色いかやぶき屋根の小屋や蔵は、材木商のものであろう。この絵が摺(す)られたのは1856(安政3)年2月。『名所江戸百景』の最初の作品の一つで、このシリーズは前年10月の安政江戸地震から復興する江戸の姿を描くのがテーマ。当時、江戸で建築に使われた木材は、埼玉の秩父産や隣接する飯能地域の「西川材」が多く、いずれも荒川を経由して運び込まれていた。武甲山を中心に据えた秩父山地、その周辺の木材が集まる千住宿を、復興の象徴として描いたと考える方が自然だろう。】「小梅堤Komatsune Embankment」作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)12月 隅田川沿いの土手のことを小梅堤といった。画面は033「四ッ木通用引ふね」の地点より隅田川に近い場所が描かれている。高さの誇張された堤の、さらにその上の視点から、前景に幼い子どもを置き、水路の向こうに広がる収穫後の穏やかな田園風景を描き出す。現在の所在地: 墨田区向島」 【第105景となる「小梅堤(こうめつつみ)」。向島の行楽客が往来した、かわいらしい名の村を描いた1枚である。「小梅堤」とは隅田川東岸、向島の小梅村を流れる曳舟(ひきふね)川沿いのこと。この川は農業用水路で、その終点近くの東岸から北西方面を望んだ絵だ。広重は現在でいえば、東京スカイツリーがある墨田区押上1丁目の南西端辺りに立っている。付近に「小梅」という地名は残っておらず、曳舟川も埋め立てられた。「とうきょうスカイツリー」駅北側の「曳舟川通り」は、この用水路の跡地である。川幅や橋の大きさの変化で遠近感を付け、曲線を描く上流部が近景の木々の間を延びていく美しい構図だ。木の下で子犬と遊ぶ子どもや、欄干のない質素な橋、地平線近くまで広がる田んぼから、のどかな農村の雰囲気が伝わってくる。しかし、名所と呼べるような寺社や建造物、史跡などは見当たらない。広重自身、『絵本江戸土産』の「小梅の堤」で、「させる勝地にあらず(たいした景勝地ではない)」と述べている。】 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.11
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そして「あきの部・秋」。 「市中繁栄七夕祭Prosperity Throughout the City During the Tanabata Festival作者:初代 歌川広重年代:安政4年(1857)7月家々の屋根から七夕飾りを付けた葉竹が林立する様子を描く。遠景には富士山と江戸城が見える。風になびく飾りには大福帳にソロバン、スイカ、ヒョウタンを形どったものがあり、にぎやかだ。ここは中橋狩野新道(現在の京橋1丁目)にあった広重の自宅からの景色で、手前の櫓は広重が生まれた八代洲河岸の定火消屋敷だといわれる。現在の所在地:中央区京橋」以下に続く浮世絵の説明【】内のキャプションは、浮世写真家 喜千也氏の「名所江戸百景」👈️リンクについての詳細な説明文の一部を私の学習用に転記させていただきました。【第74景となる『市中繁栄七夕祭(しちゅうはんえいたなばたまつり)』。描かれた場所が題名にない、希少な作品である。広重の「名所江戸百景」の中で、全く場所の記載がない題箋(だいせん)を持つ、珍しい1枚である。一般的には、広重が住んでいた日本橋大鋸町(おがちょう)辺りからの眺めだろうと言われている。七夕は、彦星(ひこぼし)が織女(おりひめ)に天の川を渡って年に1度だけ会える日だという伝説にまつわる祭りだが、本来はアルタイルとベガ、天の川、月が織りなす天体ショーなのである。旧暦7月7日は月の形が半月となり、舟に見立てられるので伝説が成り立つ。そのことを考えると、旧暦で祝うのが正しいのではないだろうか。】「大伝馬町こふく店Drapers' Stores in Odenmacho作者:初代 歌川広重年代:安政5年(1858)7月大伝馬町3丁目、通称通旅籠町が描かれる。左側の店は大丸屋で、右上部に「けんきん(現金)かけね(掛値)なし呉服太物類」の看板が見える。大丸屋は元々は京都の商店で、呉服屋をとして寛保3年(1743)に江戸に進出した。道の両側には車式のある棒槌の家や作業場などを飾り歩く、棒梁送りの一行である。安政2年(1855)の江戸大地震からの復興期、江戸市中にこうした光景がよく見られたことだろう。現在の所在地:中央区日本橋大伝馬町」【第75景となる「大伝馬町こふく店」。三井越後屋、白木屋と並んで江戸三大呉服店と呼ばれた大伝馬町の「大丸屋」を描いた一枚である。大伝馬町(現・中央区日本橋大伝馬町付近)は江戸市中で最も古い町の一つで、「天下祭り」と呼ばれる山王大権現「山王祭」と神田明神「神田祭」の両方で、筆頭氏子として先頭の山車(だし)を引く栄誉を授かっていた。五街道の日光・奥州街道に面する陸運の要所で、呉服屋や繊維問屋がひしめくファッション発信地でもあったという。大伝馬町を代表する大店(おおだな)だったのが、「大」の字を丸で囲んだ屋号紋で知られた大伝馬町3丁目の「大丸屋(現・大丸百貨店)」。下村彦右衛門が京都で創業した呉服屋の江戸店で、三井財閥や三越の前身となった越後屋に次ぐ繁盛ぶりだったそうだ。看板の屋号紋の左右に書かれた「げんきんかけねなし」とは、元禄年間(1688-1704)に越後屋が最初に始めた商売手法で、店頭での現金払いによって適正価格で販売すること。江戸時代前期の呉服屋などの小売店では、先に客の注文を聞き、家まで商品を届け、年に数回集金に行く「掛け売り」が常識であった。しかし、集金時までの金利や回収リスクを考慮した「掛け値」が上乗せされたために割高となる。明瞭会計の「店前(たなさき)売り」や「現金掛け値なし」は革新的で、江戸っ子に大いに受けた。大丸屋も関西でいち早く取り入れ、1743(享保3)年開業の江戸店でも採用し、成功を収めたようだ。流行を生み出す呉服屋は、商売も先進的だったのに加え、今のファッション業界同様に宣伝上手でもあった。有名なのが「貸傘」で、急な雨が降ると無償で貸し出すのだが、江戸っ子は返さないのが当たり前で、骨傘になるまでずっと使っていたという。大丸屋の傘には「大の字に丸」の紋が大きく入っていたので、雨が降ると町中で店の宣伝をしてくれる。広告費と考えれば、返してもらわなくても問題ないというわけだ。今回の絵も、明らかに大丸屋の宣伝だと思われる。なぜなら名所江戸百景では、ほんの3カ月ほど前に『大てんま町木綿店』が出たばかりだったからだ。宣伝上手を自負する大丸屋が、ヒットを続ける名所絵の大伝馬町の景に、よそののれんが登場したのを黙って見過ごすはずはない。版元へ大枚を持参し、「うちの店も描いとくれ」とごり押ししたのではないだろうか。広重お得意の近景を枠とする構図も、宣伝文句をしっかりと描いた看板が枠では少々あからさまに感じられ、版元からの発注に渋々従ったのではと想像してしまう。とはいえ、このシリーズ最大のテーマ「安政江戸地震からの復興」も、広重らしく見事に表現している。店の前を通る集団は「棟梁(とうりょう)送り」で、建物の上棟式を終えた後、とびや左官など正装の職人たちが、大工の棟梁を家まで送り届けるしきたりの様子である。大伝馬町の周辺でも、数々の家や土蔵が倒壊したというから、新しい建物を完成させ、木やりをうたいながら誇らし気に歩く男たちの姿を、復興の象徴として登場させたのだ。】「神田紺屋町Indigo Dyers’ Quarter in Kanda作者:初代 歌川広重年代:安政4年(1857)11月神田紺屋町の紺屋は、慶長年間(1596〜1615年)に幕府が紺屋一円の藍の買い付けを許された組頭、五郎兵衛五郎兵衛が支配し、整備取り締りをしたことに由来する。画面には多くの染め物の布が干される様子を配置する。広い空に何枚もの布がなびく様子が爽やか。右には紺元の紺屋が着る「長」の字を、広重の「ヒ」と「ロ」を組み合わせたひし形があしらわれたものが興味深い。現在の所在地:千代田区神田紺屋町」 【第76景となる『神田紺屋町(こんやちょう)』。「場違い」という言葉が生んだ粋な場所で描かれた1枚。今でも町名が残る神田紺屋町。江戸時代初期より藍で木綿を染める紺屋が軒を連ねていたのが町名の由来となった。晴天の日に晒(さら)されていた反物が幟(のぼり)のように美しく、それが連なる光景は広重の時代には有名だったらしい。この町で染められた反物の多くは、粋な浴衣や手拭いになったことから、「紺屋町へ行けば流行りが分かる」と言われたそうだ。品質の高さで人気が高く、この町以外で染められた藍染めを「場違い」と呼んだことが、現在も使われる言葉の「場違い」の発祥だという。元絵の右側にある藍染めの柄は、広重の創作。「魚」の文字は江戸百景の版元である下谷の魚屋栄吉(ととや・えいきち)の印、ひし形の紋はカタカナの「ヒロ」をかたどった広重自身の替紋(かえもん)だ。粋な反物に、版元と自分の宣伝を埋め込んであるという粋な演出である。】「京橋竹がしBamboo Market by Kyobashi Bridge作者:初代 歌川広重年代:安政4年(1857)12月月明かりに照らされて浮かび上がるのは、京橋あたりの景色。川岸に壁のように連なっているのはすべて竹である。現在の銀座1丁目から京橋にかけてはかつて竹の問屋が並び、房総産の竹が集められていた。橋の上には夏山の大山参りの帰りの一行だろうか。季節を感じさせる情景である。現在の所在地:中央区京橋」 【第77景となる『京橋竹がし(きょうばし たけがし)』。満月に照らされた京橋と竹河岸(たけがし)を描いた1枚である。江戸時代、東海道の起点・日本橋から京都に向かう場合に、最初に渡る橋なので「京橋」と名付けられたという。元絵は、京橋とその下を流れる京橋川沿いの竹河岸(竹材の市場)の情景を、満月の夜景として描いている。京橋近くの常盤町に住んでいたといわれる広重にとっては、見慣れた風景だったであろう。川沿いにぎっしりと立てかけられた竹を美しいパースペクティブ(遠近法)で描き、手前の橋を見事に浮き立たせている。秋(旧暦7〜9月)の景とされているので、中秋(旧暦8月15日)の満月だと思っていた。しかし、橋を渡る男たちが大山詣り(旧暦6月27日〜7月17日)から持ち帰った梵天(ぼんてん)を担いでいるので、この満月は7月15日頃だという説がある。旧暦7月15日といえば盂蘭(うら)盆の中日にあたるので、男たちはそれに間に合うように大山詣りから慌てて戻ってきたのかもしれない。】「鉄炮洲稲荷橋湊神社Inaribashi Bridge and Mionato Shirine at Teppozu作者:初代 歌川広重年代:安政4年(1857)2月」 近景の2本の帆柱の間から鉄砲洲を見る。真ん中に稲荷橋、左の赤い塀が湊神社である。鉄砲洲の地名は、銃身のような形をして海上に突き出している、あるいは寛永の頃、幕府鉄砲方の井上・稲富の両家が、この砂州上で大筒の射撃演習を行ったことに由来する【第78景となる「鉄砲洲稲荷橋湊神社(てっぽうずいなりばし みなとじんじゃ)」。「下りもの」の廻船(かいせん)でにぎわう江戸湊を、富士山と共に描いた一枚である。江戸の町における海の玄関口「江戸湊」は、日本橋川の支流・亀島川(越前掘)の河口付近にあった。現在の亀島川は隅田川に合流するが、江戸時代には、この辺りまで江戸湾だった。亀島川河口の西側は江戸時代初期には砂州で、埋め立てられた後も本湊町(現・中央区湊1~3丁目)から南の明石町辺りまでを「鉄砲洲」と呼んだ。河口東側の霊岸島(現・中央区新川1~2丁目)には、幕府の船手頭・向井将監(しょうげん)の船手組屋敷があり、諸国から江戸へ入る船は古くはこの場所であらためを受けたため、江戸湊が発展したようだ。千石船と呼ばれる大型船の荷は、小ぶりな平舟に載せ替えた後、亀島川や八丁堀(桜川)を経由して、日本橋や京橋など江戸の商業中心地の蔵へ送られた。広重の時代、東北の船荷が利根川の水運ルートを利用して中川船番所を通ったのに対し、江戸以西からの船荷は浦賀(神奈川県横須賀市)の船番所を経由し、この江戸湊に入った。特に「上方」と言われた関西からの「下りもの」が多く扱われたので、広重の絵に描かれた大量のたるは灘(兵庫県南東部)からの「下り酒」であろう。当時の江戸の町が消費した酒は約8割が「灘の生一本」で、秋に新酒が出来上がると江戸への一番船が競われるなど、祭りのような騒ぎであったという。】「鉄砲洲築地門跡Remains of the Tsukiji Gate at Teppozu作者:初代 歌川広重年代:安政4年(1857)8月月島から隅田川を挟み、築地本願寺方面を望んでいる。近景の帆と釣り船、対岸の様子で見事に奥行が生み出されている。画面の堂は現存せず、今は築地本願寺の本堂は、伊藤忠太による鉄筋コンクリート製で、インドの古代仏教建築を模した建物になっている。」【第79景となる「鉄砲洲築地門跡(てっぽうずつきじもんぜき)」。佃島の南の海上から築地本願寺を描いた、広重の遊び心を感じさせる一枚である築地門跡は、京都・西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派の江戸別院で、現在の築地本願寺のこと。広重の時代の地図には単に「西本願寺」と記してあるが、一般には「築地門跡」や「築地御坊」などと呼ばれていたようだ。本願寺の大屋根は、その巨大さゆえに遠くからでも見え、名所江戸百景でも「霞がせき」や「芝愛宕山」、「芝金杉橋」の風景の中に登場する。江戸っ子にとっては築地のランドマークで、船乗りにとっては江戸湊へ向かう目印だったようだ。広重は秋の景として、鉄砲洲沖、佃島近くの海上から西本願寺本堂を描いている。この絵の海沿いに並ぶ瓦屋根は、右手前が明石町、左奥は南飯田町といった町屋である。手前に描かれた2つの帆は、この付近の海運が盛んだったことを示すと同時に、遠景を引き立たせている。奥の帆船は荷を積んでいるので、右方向の江戸湊へ向かうところだろう。小さな舟は釣舟や投網舟で、明石町の手前にある石積みの防波堤にも2人の釣り人がいる。彼らが狙うのは、まさに江戸前の魚だ。】「芝神明増上寺Shinmei Shrine and Zojo-ji Temple, Shiba作者:初代 歌川広重年代:安政3年(1856)7月増上寺の参道を描く。道の奥にある赤い門が芝の大門で、その奥に山門、本堂の屋根が見える。右手の千木を戴いた社が芝神明宮である。往来には、列をなす托鉢僧と参拝の一団が歩いている。江戸屈指の寺院を目の当たりにした高揚感が参拝客の様子からうかがえる。現在の所在地:港区芝公園」【第80景となる『芝神明増上寺』。東海道を旅する人々が立ち寄った、芝の名所を描いた一枚である。「芝神明(しばしんめい)」とは、現在の芝大神宮(港区芝大門)のこと。伊勢神宮の主祭神、内宮(ないくう)の天照大御神(あまてらすおおみかみ)と外宮(げくう)の豊受大神(とようけのおおかみ)を共に祀(まつ)り、1005年に創建したと伝わる。当時は飯倉山(現・芝公園)にあったため、「飯倉神明宮」とも呼ばれていた。鎌倉時代には源頼朝が参拝に訪れ、豊臣秀吉は奥州遠征の際に立ち寄って戦勝祈願をしている。古くから「関東のお伊勢さま」として、広く信奉されていたようだ。徳川家康は江戸入府後、増上寺を菩提(ぼだい)寺として芝に広大な寺領を与えた。その際に、芝神明は現在の場所、増上寺境内の総門(表門)だった大門の北東に移されたという。東海道(現・国道15号線)から近いので、江戸へ出入りする多くの旅人が、道中無事の祈願や、旅のお礼参りに訪れた。増上寺の門前町なので、茶屋や見せ物小屋、土産物屋が並び、大変にぎわっていたようだ。広重は秋の景として、右手に芝神明の社(やしろ)、左手に大門を配置している。題箋(だいせん)をよく見ると『江戸百景餘興(よきょう)』とあるが、この絵と『鉄砲洲築地門跡』の2点にしか「餘興」は付け加えられていない。そして、人々の表情がしっかりと描かれている点も『名所江戸百景』では珍しい。手前の旅装束の集団は楽しそうに談笑している様子が見て取れる。江戸見物を楽しんだ後、増上寺や芝神明を参詣してから故郷へ帰るところであろうか。当時の増上寺はたくさんの若い修行僧を抱え、七つ時(午後4時)になると10~20人が集団となって、一斉に各町へと托鉢(たくはつ)に出掛けたという。拍子木を打ちながら、念仏を唱えて歩く僧たちは「七つ坊主」と呼ばれ、時を知らせる江戸の名物であった。】「金杉橋芝浦Kanasugibashi Bridge at Shibaura作者:初代 歌川広重年代:安政3年(1856)2月金杉橋から江戸湾を望む。橋上はかろうじて欄干が見え隠れしており、池上本門寺へ祖師参りに行く人々でごった返している。掲げられた竿には寄進用の柄杓(ひしゃく)と日蓮宗の紋所を染めた手拭が飾られている。左下の手拭にある魚の文字は板元・魚屋栄吉を表すものと思われる。現在の所在地:港区海岸」【第81景となる『金杉橋芝浦』。江戸湾を一望できた名所を渡る、池上本門寺を目指す群衆を描いた一枚である。江戸時代の金杉橋(現・港区)は、渋谷方面から天現寺、麻布、芝を流れる古川の水が、江戸湾へと注ぐ直前に架かっていた。東海道を利用して日本橋から京都へ上る際、京橋、新橋に次ぐ3番目に通過する橋で、最初に海が見渡せる地点として名高かった。今でも同じ場所にあるのだが、江戸時代には干潟だった芝浦から東側は埋め立てられ、海はまったく望めなくなってしまった。広重は金杉橋を渡る群衆の向こうに、江戸湾の風景を描いている。海の奥にかすかに見えるのは、築地方面の町並みだ。橋からあふれんばかりの人々が掲げる旗、万灯(まんどう)の傘、まねき(小さな手ぬぐい)には、「井桁(いげた)に橘(たちばな)」の紋があり、「身延山(みのぶさん)」と書かれたものもある。当時の人が見れば一目で、池上本門寺(大田区)の「お会式(おえしき)」に参加する人々だと分かるのだろう。お会式は、日蓮(にちれん)宗の開祖・日蓮聖人の命日、10月13日を中心に行われる法要である。日蓮が亡くなった池上の地に建てられた本門寺には、全国から多くの信徒が集まってきた。池上からかなり離れている金杉橋が舞台なので、正伝寺、圓珠寺といった付近の日蓮宗寺院に向かう講中(こうじゅう、信徒の団体)を描いたという説もあるが、これだけ大勢が参列するのは、この時期の江戸の南で最大の行事だった本門寺のお会式と考えるのが自然であろう。】「高輪うしまちTakanawa Ushimachi作者:初代 歌川広重年代:安政4年(1857)4月高輪大木戸の南、現在の泉岳寺駅周辺から東の江戸湾を望む。当時の正式地名は芝車町。重量物を運ぶ牛車(うしぐるま)取り扱いの許可を得た輸送業者が集住したため、俗称を牛町といった。手前の荷車は、牛を放したあとの牛車だろうか。船の向こうに品川の台場が見える。足下には子犬が2匹。その脇に西瓜の皮が捨てられており、暑い夏のひとときが写し出されている。現在の所在地:港区高輪」 【第82景となる「高輪うしまち」。東海道の江戸の玄関口で、様変わりする海と美しい虹を描いた一枚である。寛永年間(1624-44)に3代将軍・徳川家光は、菩提寺の芝・増上寺内に家康の尊像を祀る「安国殿」や秀忠の霊廟「台徳院殿」を建立した。その際、巨大な石や大量の木材を運ぶために、京都の四条車町などから牛持人足を呼び寄せている。以後も、市ヶ谷見附の石垣建築などで活躍したため、幕府は江戸での牛車運搬の権利と、拠点として「車町」の土地を与えた。当時は東海道の江戸の玄関だった「札の辻」(現・港区芝5丁目、札の辻交差点)の外で、江戸湾の廻船からの荷も積み込みやすい場所であった。車町の最盛期だった18世紀初頭には、牛が1000頭以上もいたので、庶民は「うしまち」と呼んだそうだ。牛小屋は車町だけでなく、南の八ツ山下(現・高輪4丁目)辺りまで点在しており、子どもの間では「高輪牛町十八丁、牛の小便長いネー」という戯れ歌が流行したという。春には潮干狩り客でにぎわい、庶民が食べる小ぶりの大衆魚を扱う市場「雑魚場(ざこば)」も開かれ、夜は月見の名所であった。広重は、東海道から江戸湾を望み、「高輪」の「輪」に引っ掛けたのだろうか、近景の牛車の車輪を枠として、空にかかる虹の円弧を対比するように描いている。風を受けて同じ向きに膨らむ船の帆や、食べ捨てたスイカの皮などの曲面も印象的に配置しているのが秀逸だ。車夫のわらじにじゃれる犬の尻も、丸みを帯びているのがおかしい。名所江戸百景には俯瞰で描いたものが多いのだが、この絵では犬の目線に近い、地面すれすれからのローアングルで虹を見上げている。】「月の岬Tsuki-no-misaki Promontory作者:初代 歌川広重年代:安政4年(1857)8月月の岬の場所には諸説があるが、本図は品川の妓楼の光景といわれる。障子が開け放された二階座敷の先には水平線まで見渡せる海。座敷の奥には料理の皿や鉢、煙草入れや手あぶりも見える。月見の宴の後なのだろうか。現在は埋め立てられてしまっているが、かつては画中のように月明かりに照らされた品川湊を見渡すことができた。現在の所在地:品川区東品川」【第83景となる「月の岬(つきのみさき)」。品川宿の廓(くるわ)の座敷から、江戸湾に浮かぶ満月を望んだ美しい1枚である。名所江戸百景では珍しく、町や河川などの地名がない題のため、現代人には場所が分かりづらい作品だ。「月の岬」はその名の通り、江戸湾に月が浮かぶと、海岸線と高台の稜線(りょうせん)が岬のように望める場所で、江戸っ子には月見の名所として知られていた。正確な場所には諸説あるが、大まかには現在の港区高輪から三田にかけての台地の一角を指すようだ。広重は『絵本江戸土産』第2編の「同所(高輪)月の岬」で、JR「品川」駅の南にあった高台「八ツ山」越しの風景を紹介している。八ツ山は東海道の一番宿・品川宿の北の起点なので、今回の絵の座敷は品川宿北部「歩行新宿(かちしんしゅく)」にあった妓楼(ぎろう)のものだと推測できる。そのため、多くの研究者が品川宿で一番有名な大見世「相模屋(土蔵相模)」から描いたと解説しているが、八ツ山からは少し遠いため、筆者はもっと北側にあった別の妓楼ではないかと考えている。窓の外では満月が高輪沖を照らし、飛翔する雁(がん)の編隊や停泊している無数の船のシルエットが美しい。それに対して、座敷の中は閑散としており、廊下には食器や酒器が雑然と置かれている。一見は宴の後に思われるため、障子越しに映る遊女は、客の待つ部屋へと向かうために身支度を整え、芸者は帰り支度をしていると見る浮世絵ファンが多い。しかし、当時の廓での遊び方を考えると、ここからが本番ではないかと筆者は考えている。】「品川すさきShinagawa Susaki作者:初代 歌川広重年代:安政3年(1856)4月遠く広い海を一望する。洲崎は南品川から目黒川河口に沿った洲のことをいい、北端には弁天社が建てられていた。画面の右下に見えるのが社である。現在、この地域は埋め立てられてその姿が大きく変わっている。現在の所在地:品川区東品川」【第84景となる「品川すさき」。東海道最初の宿場町から、目黒川の河口と江戸湾の光景を描いた一枚である。「品川」の地名の由来には諸説あるが、目黒川河口付近が大きく曲がっていたため、「しなり川」と呼ばれていたのが変化したという説が有名だ。現在の品川の海側は広大な範囲が埋め立てられ、目黒川河口も真っ直ぐ天王洲運河に注いでいるが、江戸時代には北西に向かって大きくカーブし、海側には半島のような砂州が広がっていた。その先端が、今回の絵の舞台である。元々、この砂州に人は住んでいなかったが、徳川3代将軍・家光の時代の1636(寛永3)年、品川・東海寺の沢庵和尚が洲崎弁財天を創建したと伝わる。その後、漁師が住むようになり、「南品川猟師町」や「洲崎」と呼ばれるようになった。深川にも洲崎弁財天を祀(まつ)った神社があり、一帯は洲崎という地名であったが、5代・綱吉時代の創建なので品川の方が歴史は長い。江戸時代中期には、南品川宿の名主・利田(かがた)吉左衛門が埋め立てを進め、洲崎弁天も先端へと遷座。そのため、砂州の先端部分は「利田新地」とも呼ばれたそうだ。広重は新宿から、洲崎弁天方向を描いている。江戸湾の右奥に水平線は見えるが、左端から題箋の下まで対岸の陸地がつながっているので、地図で検証してみた。すると、左は隅田川河口の鉄砲洲や佃島あたりから、右端は中川河口(現在の荒川河口)付近までと判明した。つまり、広重が品川洲崎越しに、対岸中央の深川洲崎を望んでいるという、シャレた構図なのだ。海が広すぎるために絵が間延びしそうだが、洋上に帆船を並べることで変化と奥行き感を加えている。ただ、この絵は1856(安政3)年4月に摺(す)られたものなので、不可解な点がある。1854年末に完成している、品川洲崎と陸続きの御殿山下台場が見当たらないのだ。黒船来航により、幕府が大急ぎで建造した品川台場の一つで、第四台場と第五台場と思われる石垣の一部は沖に描かれているが、洲崎弁天のすぐ後方に広がっているはずの御殿山下台場は影も形もない。この時代の浮世絵では、幕府施設を詳細に描くことを禁じられており、広重も霞(かすみ)や雨でぼかすことが多い。とはいえ、全く描かないのは珍しい。第28景『品川御殿やま』でも書いたように、広重は御殿山を切り崩したことに大変心を痛めており、その土砂によって造られた品川台場に対しても、複雑な感情を持っていたと考えられる。高く積まれた石垣の内側に、当時の最新式大砲が備えられ、兵舎や武器庫が並ぶ台場は、何とも物騒な光景であっただろう。広重は御殿山下台場を描かないことで、江戸湾本来の美しさを見せたかったと想像できる。】「目黒爺々が茶屋The Old Man’s Tea House at Meguro作者:初代 歌川広重年代:安政4年(1857)4月目黒三田2丁目の茶屋坂には、茗ヶ崎(みょうがさき)が名所とされる茶屋があったという。画面の崖下に見える店がそれである。3代将軍家光が鷹狩の折にしばしば寄ったという。茗ヶ崎の主人を「爺々」と呼んだためにこの名で呼ばれるようになったと伝わる。古典落語の「目黒のサンマ」はこの茶屋をモデルにしている。現在の所在地:目黒区三田」【第85景となる『目黒爺々が茶屋(めぐろじじがちゃや)』。往時は富士山が眺められた目黒の坂と茶屋を描いた1枚である。徳川3代将軍の家光は鷹狩りを好み、しばしば目黒方面へ出掛けたそうだ。その折に立ち寄っていたのが、彦四郎という農民が急な坂道の途中に開いた茶屋であった。家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺(じじ)、爺」と話しかけたので、いつしか「爺々が茶屋(じじがちゃや)」と呼ばれるようになったらしい。茶屋は子孫が彦四郎を襲名しながら受け継ぎ、8代将軍の吉宗や10代将軍の家治も、鷹狩りや目黒不動尊に出向くと立ち寄ったそうだ。将軍が江戸郊外にある目黒の茶屋と交流を持っていたという事実から、「目黒のさんま」という落語の噺(はなし)が生まれたと言われる。広重もまた、同じ理由で名所絵として描いたのだと考えられる。元絵は稲穂が黄色くなった秋の景だ。今の目黒に田んぼはないが、稲刈り前の時期に合わせて、爺々が茶屋があったとされる茶屋坂に赴いた。現在は、家やマンションが立ち並ぶ住宅街で、景色もすっかり変わっている。重いカメラバッグと三脚などを担ぎ、急な坂道を上り下りしていたら、茶屋で一休みしたい気分となった。殿様は鷹狩りの際に目黒で食べた、じか火で焼いたさんまの味が忘れられない。城中で「さんまが食べたい」と言って用意させたが、当時のさんまは下賎(げせん)な魚であった。料理番は殿様用に頭を落とし、骨を取り、油を抜くために蒸した。一口食べた殿様は、「これは何か」と尋ねると、料理番は「銚子沖のさんまでございます」と答える。すると殿様が、「それはいかん。さんまは目黒に限る」と言うのが落ちである。長年の間に、さまざまな噺家によってアレンジが加えられているが、これが落語「目黒のさんま」のおおまかな内容である。】「紀の国坂赤坂溜池遠景Distant View of Akasaka and Tameike Pond from Kinokunizaka Hill作者:初代 歌川広重年代:安政4年(1857)9月紀の国坂は、現在の赤坂見附から溜池沿いに四谷に向かう道で、その名は向かいの紀州藩中屋敷に由来する。大名行列が通る坂の下には穏やかな水面が広がり、遠くに赤坂方面の家並みを見渡す構図から、坂の険しさが伝わってくる。坂下の溜は題名にある溜池ではなく、その北側の外濠、現在の弁天濠である。現在の所在地:千代田区紀尾井町」【第86景となる『紀の国坂赤坂溜池遠景』。天皇陛下ご一家がお暮らしになる、現在の赤坂御用地近くを描いた一枚である。赤坂見附(港区)の交差点から四谷(新宿区)方面へと上る「弁慶堀」沿いの坂は、江戸時代には堀の外側に御三家の一つ・紀州徳川家の屋敷があった。そのため、現在も「紀伊国坂(きのくにざか)」と呼ばれている。第47回『外桜田弁慶堀糀町』で触れたが、江戸時代には桜田門と半蔵門の間の内堀(現・桜田堀)が「弁慶堀」だった。江戸築城で活躍した大工・弁慶小左衛門に由来する。当時、小左衛門が岩本町(千代田区)の小さな水路に架けた橋も「弁慶橋」と呼ばれていた。明治期に水路は埋め立てられたことで橋は不要になったが、その部材を再利用して紀尾井町(千代田区)と赤坂の間に新たな弁慶橋を架けた。その周辺の外堀が「弁慶堀」と呼ばれるようになり、今ではこちらが広く知られている。広重の絵は、紀伊国坂の途中から外堀、赤坂、溜池方面を見下ろし、坂を上って屋敷へ戻る紀州徳川家の行列を描いている。毛槍(やり)を手にする者を先頭に、多くの供侍(ともざむらい)たちが口を「へ」の字に曲げるほど力を込め、足を踏ん張るような独特の歩き方なのが印象的だ。年月印から、描いたのは1857(安政4)年と思われる。紀州和歌山藩主は徳川慶福(よしとみ)で、後に14代将軍家茂(いえもち)となる。当時は将軍継嗣問題で、慶福を推す南紀派と、一橋徳川家の慶喜(よしのぶ、後の15代将軍)を推す一橋派の対立が激化していたが、一橋派重鎮で老中首座を務めた阿部正弘が亡くなった直後であり、南紀派優勢に傾きはじめた時期である。広重は既に隠居して人気絵師となっていたが、38歳まで定火消同心職を務めた武士だった。この時期にあえて徳川慶福の行列を描いたのには、将軍継承問題あるいは幕藩体制に対して何らかのメッセージがあったのではないかと勘ぐってしまう。】「四ッ谷内藤新宿Yotsuya and Naito Shinjuku」作者: 初代 歌川広重年代: 安政4年(1857)11月内藤新宿は甲州街道の起点の宿場。元の起点の高井戸宿が江戸から遠いため、信州高遠藩内藤家の下屋敷の一部を割いて開発した新しい宿場であることからこう呼ばれた。本図は馬の脚に視線を集めて宿場の街並みを描く。荷駄馬の方向に進むこの馬は、お江戸で収穫した野菜を積み、市中に向かう途中だろうか。草鞋を履かせた足元から、飼い主に大切にされていたことがうかがえる。現在の所在地: 新宿区新宿・新宿御苑前付近」 【第87景となる『四ツ谷内藤新宿』。宿場町の朝の情景を描いた遊び心たっぷりの傑作である。『名所江戸百景』の中で、「最も汚い絵」といわれる一枚である。馬の尻を大きく描き、足元には馬糞(ばふん)まで落ちている。とはいえ、手前の馬の後ろ姿を枠に、縦3分の2まで地面を描いて奥行き感を出す、広重ならではの大胆な構図である。広重の時代、甲州街道の最初の宿場「内藤新宿」は、旅人が休息をとるだけでなく、物や情報、文化が集まる場所で、非公認の遊郭「岡場所」としてもにぎわった。表立って「遊女」とは呼べない岡場所では、給仕をする飯盛女(めしもりおんな)という名目で私娼(ししょう)を置いていた。当時は幕府も黙認していて、内藤新宿の飯盛女の数は150人までと決められていたという。江戸時代後期に流行歌となった潮来節(いたこぶし)の中に、「潮来出島の 真菰(まこも)の中に あやめ咲くとは しおらしや」という一節がある。その替え歌で「四谷新宿 馬糞(まぐそ)の中で あやめ咲くとは しおらしや」という歌が江戸ではやったそうだ。道に散らばる「まぐそ」を岡場所にあふれる男たち、「あやめ」を飯盛女にたとえているらしい。この絵の発売当時、絵草紙屋の店先で、この歌を口ずさみながら絵を買う客の姿が目に浮かぶ。江戸の物流は水運が盛んであったが、内藤新宿より西には荷船が往来できる河川や掘割はなかった。甲州街道や成木街道(現・青梅街道)を通って江戸に出入りする物資は陸運となるので、内藤新宿には荷馬が多かったことがうかがえる。元絵は、現在の新宿2丁目にあたる内藤新宿仲町辺りで、日が昇る東側、四谷に向かって描いた秋の景とされる。店の者にあいさつをする身軽な格好の男は、明るい空に向かって歩き出しているので、江戸の街中から遊びに来て泊まったのだろう。手前に歩いて来る旅支度の男は、甲州へ旅立つ前に1泊したのか、「あやめ」に見送られている。まきを積んで江戸へ向かう馬なども描かれ、活気ある朝の宿場町の雰囲気が伝わる一枚だ。】「井の頭の池弁天の社Benten Shrine, Inogashira Pond」作者: 初代 歌川広重年代: 安政3年(1856)4月井の頭の池は江戸の町を潤した神田上水の水源である。弁財天のお堂を手前にして、池を俯瞰しており雄大な景色が広がっている。その水は2代将軍秀忠がお茶の湯に使ったと伝わる。恩賜公園となった今でも、弁天堂、お茶の水と名の付く場所があり、都内の憩いの場所として親しまれている。現在の所在地: 三鷹市井の頭」 【第88景となる『井の頭の池弁天の社(いのがしらのいけべんてんのやしろ)』。現在は「井の頭恩賜公園」として、東京都民の憩いの場として人気の「井の頭池」が描かれた一枚である。江戸時代、井の頭恩賜公園の池の辺りに、徳川将軍家及び御三家の鷹場(たかば)があった。3代将軍・家光が鷹狩りに訪れた時に、江戸の上水の根源にあたることから「井の頭」と命名したと言われている。広重の絵では、左下に小さく弁天の社が描かれた構図になっている。おそらく大盛寺(井の頭弁財天の別当寺)から弁天の社につながる石段の上から眺めたものと思われる。今でも石段の両脇に、日本橋小舟町の商人たちが文化年間(1804〜1818)に寄進した石灯篭が残っていて、往時を偲ぶことができる。】「王子瀧の川The 'River of Waterfalls', Oji」作者: 初代 歌川広重年代: 安政3年(1856)4月石神井川は王子辺りで滝野川と名前を変えた。川沿いに幾筋もの滝が流れていたことからそう呼ばれるようになったという。No.047の「王子不動之瀧」はそれらの滝の一つをクローズアップして描いている。付近の金剛寺の崖下には岩屋弁天という洞窟があった。画面に描かれる鳥居の先にその洞窟がある。現在の所在地: 北区滝野川」 【第89景となる『王子瀧の川』。江戸の人気行楽地・王子の渓谷美を描いた、珍しい紅葉風景の1枚である。全119景の「名所江戸百景」に、桜を描いた絵は20枚もあるが、紅葉の風景は4枚しかない。当時の江戸にも、紅葉の名所は数多かったはずである。広重は安政江戸地震から復興する江戸の姿を伝えるために「名所江戸百景」を描き始めたというが、枯れ落ちる紅葉よりも、華やかに咲く桜の風景が目的には合っていたのだろうか。王子を舞台にした絵は、全部で6景。いずれにも豊かな自然が描かれ、江戸市中の人々が日帰りで訪れる人気行楽地だったことがしのばれる。8代将軍・徳川吉宗が飛鳥山を中心に王子周辺に桜を植えたことは有名だが、同時に秋に色づくカエデなども植樹している。特に“自然の山水”とたたえられた「滝野川(石神井川)」の渓谷は、紅葉の見物客でにぎわったそうだ。広重が描いた秋色の王子は、紅葉寺の愛称で親しまれた「金剛寺」辺りだ。金剛寺は弘法大師・空海が創建し、本尊の不動明王像を自ら彫ったと伝わる。平安時代末期、源頼朝が武蔵国を攻める際にこの地に陣を敷き、後に弁天堂や田地を寄進したという古刹(こさつ)である。右手の高台の奥に見える屋根が金剛寺で、対岸へと架かるのは「松橋」。真ん中の崖下に描かれた鳥居がある洞窟は「松橋弁財天洞窟(別名・岩屋弁天)」で、空海作の弁財天像が祀(まつ)られていたそうだ。右端では、王子七滝の一つ「弁天の滝」が勢いよく流れ落ちている。松橋はこのかいわいで唯一の橋だった。古地図には「王子権現(現・王子神社)」に向かう人のために、「この橋の他に、近辺に橋はない」といった注意書きが添えられている。カエデが色づくのは肌寒い時期だが、参詣する前に身を清めているのか、滝浴みや川浴みする人の姿も見える。】 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.10
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「中川口Mouth of the Nakagawa River作者:初代 歌川広重年代:安政4年(1857)2月描かれるのは小名木川の中川口。現在の江東区大島3丁目あたりである。ここは中川、小名木川、船堀川の3つの川が交わる水上交通の要所であり、幕府は御番所を設けていた。画面左下に見える柵の辺りが御番所である。現在の所在地:江東区大島」 以下に続く浮世絵の説明【】内のキャプションは、浮世写真家 喜千也氏の「名所江戸百景」👈️リンクについての詳細な説明文の一部を私の学習用に転記させていただきました。【第61景となる「中川口」。水上交通の江戸の玄関口だった小名木川の中川口を行き来する舟と人々を描いた一枚である。川の四つ辻を描いた絵で、中央を左から右に流れる「中川」は、当時の江戸府内の最東部に位置し、向こう岸は江戸の外であった。縦の川は、手前が隅田川と中川を結ぶ「小名木川(おなぎがわ)」、奥が中川と江戸川を結ぶ「新川(しんかわ、別名:船堀川)」。いずれも徳川家康の江戸入府(1590)後に、下総の行徳塩田(現・千葉県市川市南部、浦安市北部)から塩を運ぶために開削された運河で、2つを合わせて「行徳川」とも呼んだという。行徳から日本橋小網町まで塩を運んだ「行徳船(ぎょうとくぶね)」は、幕府の承認を得て、次第に他の物資や人も運搬するようになる。庶民に人気のあった成田詣など、行楽で江戸から下総方面に向かう際の交通手段となり、江戸末期には旅客用の船も含めて1日60隻以上が往復していたという。家康の河川改修事業では、利根川の本流を銚子(ちょうし、千葉県銚子市)まで伸ばして太平洋に流れ出すようにした。そのため、東北方面から物資は、銚子で小さい船に乗せ換えられて、しょうゆなど下総の名産品と共に利根川を北西に進み、関宿(せきやど、千葉県野田市)で江戸川を南下し、新川を経由して江戸へと運ばれた。江戸の都市化と共に増加する貨客の監視と「改め」をするため、幕府は水運の関所である「船番所」を小名木川に設置。広重の時代には、中川と合流する手前の「中川口」に置かれていた。船番所の建物自体は絵には登場しておらず、左下に石垣と柵をわずかに描いただけだが、行徳船を利用した当時の人々には左枠外にある船番所全体の雰囲気が伝わったのだろう。小名木川には2艘の川舟がすれ違い、江戸を出る方の乗客は皆、不安そうに船番所を向いているようにも見える。絵の一番下に接岸している苫(とま:舟を覆うむしろ)をかぶった舟は、塩や物資を運ぶもの。新川にも同様の舟が多数係留し、改めの順番を待っているようだ。舟釣りを楽しむ姿が見える中川では、上流から下る3床の筏(いかだ)が印象的だ。この絵は夏の景だが、安政4(1857)年2月頃に刷られたものである。江戸では、その2年前の安政大地震、前年の台風によって多くの家屋が倒壊し、復旧には大量の木材を必要としていた。広重は絵の中央に大きく筏を描くことで、復興へと向かう人々の姿も伝えたかったのかもしれない】「利根川ばらばらまつScattered Pines Along the Yonegawa River作者:初代 歌川広重年代:安政4年(1857)8月利根川の岸、切り株のような松の景観を、手前に大きく描いている。この地に立つ松は水害防止のために植えられたとされ、江戸川と利根川を結ぶ水運路の景観を特徴づけていた。船が静かに行き交う川面と、空中を飛ぶ鳥が広々とした水辺の情景を感じさせる。現在の所在地:江戸川区小松川」 【第62景となる「利根川ばらばらまつ」。珠玉の一枚に登場する江戸川の投網漁を、広重の描いたであろう場所で再現した。投網が大きく広がった一瞬をとらえた印象的な絵だ。網の向こうが透けて見えるのが秀逸で、広重の描写力のみならず、彫師や摺師(すりし)の技術の高さにも感心させられる。そして、この絵は『名所江戸百景』の中で唯一、場所が特定できないことでも有名である。画題の「利根川」は、その分流の「江戸川」のこと。当時の江戸川の下流部分は現在の旧江戸川で、第61景「中川口」で詳しく述べた利根川水運ルートにおける主要な部分であった。広重が描いた場所には諸説あるが、「旧江戸川にある妙見島(江戸川区東葛西3丁目)付近から、上流方面を望んでいる」というのが一番有力とされる。ただ、川向うの岸に並ぶ「ばらばら松」という名所があった地点は、今では定かでない。広重の絵をよく眺めると、左端の舟は幅の狭い河口で網を引き寄せているように見え、帆を上げた弁才船も左に進路を取っている気がする。「八ツ見のはしYatsumi-no-hashi Bridge作者:初代 歌川広重年代:安政5年(1858)8月八ツ見のはしとは日本橋川に架かる橋で、本来は一石橋という名称である。常盤橋、日本橋、江戸橋、呉服橋、鍛冶橋、銭瓶橋、道三橋に一石橋を加えて、それら8つの橋を見渡すことができることからこの名がついた。画面は一石橋の上から、銭瓶橋、鍛冶橋方面を見た構図である。現在の所在地:中央区八重洲」 【第63景となる『八ツ見のはし』。江戸城外堀近くの日本橋川に架かる橋から、富士山を望んだ一枚である。首都高速の呉服橋出入口付近、外堀通りが日本橋川の上を渡る場所に一石橋(いちこくばし)がある。江戸時代末期、この付近で江戸城東側の外堀であった外堀川と日本橋川、城内へ日本橋川からの物資を運び入れるための道三堀(どうさんぼり)が交わっていた。水路の辻(つじ)ともいえるような場所であった。一石橋の上に立つと、外堀川に架かる呉服橋と鍛冶橋、道三堀の銭瓶(ぜにかめ)橋と道三橋、日本橋川・北方向の常盤橋、西方向の日本橋、江戸橋と7つの橋が見えたという。それに一石橋自体を加えて、「八ツ見の橋(やつみのはし)」「八見橋(やつみばし)」と呼ばれたそうだ。柳の木と一石橋の欄干を枠とする得意の手法で、広重は道三堀方向を描いた。中央の橋が銭瓶橋で、その奥に大名屋敷と江戸城、富士山を美しく配している。】それぞれの橋の位置図。「水道橋駿河台Suidobashi Bridge and Surugadai作者:初代 歌川広重年代:安政4年(1857)閏5月身を翻す大きな鯉のぼりにはこれから天上に登っていくかのような躍動感がある。奥にも鯉のぼりが2匹、その他色鮮やかな吹き流しなどが風にあおられている。描かれるのは本郷1丁目から水道橋より南西を見渡した景色である。遠方には富士山が聳(そび)えている。見晴らしの良い景色とともに五月節句の時期の爽やかな空気が画面に仕上がっている。」現在の所在地:文京区本郷【こどもの日(5月5日、端午の節句)に、男児の成長や立身出世を祈願して飾られる「こいのぼり」。それを主題に歌川広重が描いたのが、「名所江戸百景」の第64景となる『水道橋駿河臺(すいどうばしするがだい)』だ。広重によって描かれている川は神田上水(今の神田川)で、そこに架かるのは水道橋である。川の向こうの駿河台は、切り絵図(江戸時代の古地図)で見ると旗本や御家人が多く住む武家屋敷街で、町人の住む町家は見当たらない。当時の武家は、端午の節句には家紋の幟(のぼり)や吹き流し、鍾馗(しょうき)の描かれた幟などを掲げていた。こいのぼりは、町人が揚げる物だったそうだ。よく見ると広重の絵のこいのぼりは、川沿いの火除地に立てられている。江戸時代末期、広重が勤めていた定火消(じょうびけし、江戸幕府の火消し)が大幅縮小されたことを考えると、この場所でこいのぼりを大きく描いたのは、武家の凋落(ちょうらく)に対する皮肉のように思える】「角筈熊野十二社俗称十二そうKumano Junisha shrine in Tsunohazu,Popularly known as Juniso作者:初代 歌川広重年代:安政3年(1856)7月熊野十二社は大江戸線都庁前駅を出て新宿中央公園を抜けた先に今も鎮座している。今日では都心のビルが林立する場所となってしまったが、江戸時代当時は画面に見える通り、大きな池があり江戸郊外有数の遊楽地であった。現在の所在地:新宿区西新宿」 【第65景となる『角筈熊野十二社俗称十二そう(つのはずくまのじゅうにしゃ ぞくしょうじゅうにそう)』。かつては水辺に囲まれた新宿の熊野神社は、今や高層ビルに囲まれている。新宿追分(現 新宿三丁目交差点)から西、青梅街道と甲州街道の間は、かつて角筈(つのはず)と呼ばれていた。現在の新宿中央公園の一角に鎮座する「新宿十二社 熊野神社」は、室町時代の応永年間(1394~1428)に商人の鈴木九郎が創建したと伝わる。鈴木の故郷である紀州熊野から三所権現、四所明神、五所王子の十二所権現を全て勧請したため、角筈熊野十二社と呼ばれていたという。広重の時代には西に二段の池、東に滝が隣接し、周囲には茶屋や料亭が立ち並び、夏には多くの人々が涼を求めて集まったといわれる。元絵は、左下に熊野神社の社殿、右に大池(二段の上の池)、その周りで涼をとる人々が描かれている。池のあった場所は今では埋め立てられて道路になっているが、東側の新宿中央公園には「水の広場」「ナイヤガラの滝」など水の流れる場所がある。暑い夏の日のランチタイムには、周囲のオフィス街で働く人々が涼んでいるのを今でも見かける。】「糀町一丁目山王祭ねり込The Sanno Festival Procession Enters Kojimachi Itchome作者:初代 歌川広重年代:安政3年(1856)7月山王祭は千代田区永田町にある日枝神社の祭礼で、神田明神の祭礼と一年交代で執り行われた。江戸の第一級の祭りであり将軍が上覧するのが常であった。画面は、山車の行列が半蔵門に入っていく様子。手前に見切れた山車と奥の猿田彦の山車の大きさで距離感が表されている。現在の所在地:千代田区永田町」【第66景となる「糀町一丁目山王祭ねり込(こうじまちいっちょうめさんのうまつりねりこみ)」。将軍も上覧した「天下祭り」が、江戸城になだれ込む場面を描いた一枚である。この山王祭と江戸総鎮守であった神田明神の神田祭は、徳川3代将軍・家光の時代から山車(だし)や神輿(みこし)が江戸城に入ることを許された。将軍も上覧したことから、両祭は「天下祭り」として全国に名をはせている。行列が城内を通り抜ける「練り込み」は、半蔵門(現・千代田区麹町一丁目)から入り、竹橋(千代田区一ツ橋)から出たという。広重は、その練り込みの様子を、現在の国立劇場(千代田区隼町)付近から描いている。堀の向こうに見える右手の建物が半蔵門で、そこへとつながる土橋の上を米粒のような人々が巨大な山車を引いて渡っていく。左手前に大きく描いているのは山車飾りの一部で、その下の堀沿いには花笠をかぶった大勢の人々が並んで歩く。近景を枠とする広重お得意の構図だ。山王祭と神田祭は1681(天和元)年から、山車行列を隔年で交互に開催するようになった。どちらの祭でも行列の先頭は大伝馬町(現・中央区日本橋大伝馬町)の「諫鼓鶏」、その後を南伝馬町(現・中央区京橋)の「御幣猿」の山車が続くのが慣わしであった。諫鼓鶏は、古代中国における伝説上の君主が「施政に不満があれば、これを叩いて知らせるように」と鼓を設置したものの、誰も不満を抱く者はなく、鶏の格好の休み場になっていたという故事に由来する。つまり、天下泰平の象徴である。猿が担ぐ「御幣」は神道の祭具で、縁起を担ぐ、運気を上げることにつながる。多くの研究者がこの絵には2つの間違いがあると指摘している。その一つめは、「先頭・諫鼓鶏、2番手御幣猿」の慣行を破って、御幣猿の方が先に半蔵門をくぐろうとしていること。もう一つは、諫鼓鶏の羽の色は神田祭では「白」、山王祭では「五色」と使い分けられていたのだが、なぜか山王祭の行列に白の諫鼓鶏が登場していることだ。最盛期の山王祭は山車60基、鳳輦(ほうれん)と神輿が3基の大行列だったと伝わる。子どもでも知っていたような一大イベントのしきたりを、江戸っ子の広重が間違えるはずがない。絵の改印は安政3(1856)年7月で、直前に山王祭が開かれたことは確かだが、行列の順番を記した史料などは残っていない。「広重は何らかのメッセージを込めたのではないか」という声もあるが、明解な説は存在しない】「外桜田弁慶堀糀町Benkei Moat From Kojimachi to Soto Sakurada作者:初代 歌川広重年代:安政3年(1856)5月桜田門付近から桜田濠を通して、西側の彦根藩井伊家の上屋敷を眺めた構図である。この視点の位置から現在の永田町、隼町一帯を外桜田といった。威容を誇る赤門の下に樋のようなものが見える。これは桜の井と呼ばれた3基のつるべ井戸で、通行く人に提供され名水との評判を得た。現在の所在地:千代田区永田町」【第67景となる『外桜田弁慶堀糀町』。現在は国の主要施設が立ち並ぶ、桜田門から半蔵門に至る江戸城内堀付近を描いた一枚である。広重の絵は、江戸城の桜田門付近から糀町(こうじまち、現・千代田区麹町)付近までを鳥瞰(ちょうかん)で描いている。今は「桜田堀」として知られる桜田門から半蔵門にかけての内堀は、江戸時代には「弁慶堀」と呼ばれていた。江戸城の築城で活躍した京の大工・弁慶小左衛門が、この堀の縄張りをしたことに由来するという。この堀は江戸城南西側に位置し、東側の堀とは違って高い石垣が築かれていない。築城の際、武蔵野台地の地形を生かし、掘削したことがうかがえる。堀の外側は、「外桜田」と呼ばれた地域だ。左上の立派な赤門の屋敷は、井伊掃部頭(かもんのかみ)の彦根藩上屋敷である。門の手前には、3連のつるべが下がった大きな井戸見える。名水として評判だった「桜の井戸」で、水量も豊富なため、往来する人々にも提供していたという。彦根藩邸の奥には三河田原藩上屋敷(現・最高裁判所付近)、播磨明石藩上屋敷(現・国立劇場付近)と続き、右の奥には火の見櫓(やぐら)が小さく描かれている。この櫓は、糀町の定火消御役屋敷のものだ。広重の絵には、火の見櫓がしっかりと描かれていることが多い。絵師の仕事に専念するまで、八代洲河岸(やよすがし、馬場先門付近)の定火消御役屋敷で同心を務めていたので、火の見櫓には特別な思い入れがあったのだろう。】「みつまたわかれの淵The Parting Waters at Mitsumata作者:初代 歌川広重年代:安政4年(1857)2月富士山を遠方に望む清澄橋付近の隅田川の景色が描かれている。画面の富士山の下辺りに見える箱崎川と大川とが分かれるためこの十洲は三又と呼ばれ、また、品川から来た海水が隅田川の真水と別れるためわかれの淵ともいった。現在の所在地:中央区日本橋中洲」【第68景となる『三つまたわかれの淵(みつまたわかれのふち)』。今も昔もたくさんの船が往来する、水上の名所を描いた一枚である。この絵は、小名木川(おなぎがわ)に架かる萬年橋北詰付近の川辺から、西方向を眺めて描いている。つまり、第43回で紹介した「深川萬年橋」において、カメの奥に広がる景色と極めて近いのだ。ぜひ、見比べていただきたい。隅田川のこの付近は、かつて「三ツ俣(みつまた)」と呼ばれたという。この絵では右が隅田川上流、左奥が下流で、富士山の下に小さな入り江のように見えるのが箱崎川、枠内には描かれていないが手前の帆を掛けた高瀬舟が向かう先に小名木川がある。三ツ俣がどの地点を指すのかには諸説あるが、確かに隅田川の流れが3つに分かれている場所である。当時は、この辺りで海水と川の真水が交わることから、「わかれの淵」とも呼ばれていたようだ。箱崎川は、船で隅田川の浅草方面から日本橋川へ向かう際の近道であった。小名木川は千葉方面から東北の物流船などが多く往来していたので、三ツ俣は水上物流の要所だったろう。広重がこの絵に、18艘もの船を描いたのもうなずける。】「浅草川大川端宮戸川Asakusagawa River, the Ohkawa Riverbank and Miyatogawa River作者:初代 歌川広重年代:安政4年(1857)2月題にある3つの川はいずれも隅田川を指す。流れる場所により呼称が変わり、浅草周辺は浅草川その旧名の宮戸川、両国橋より下流は大川といった。画面には梵天をさした舟が描かれている。江戸中期、毎年夏になると大山阿夫利神社へ参拝する大山詣が流行した。図の舟はその一行といわれる。現在の所在地:中央区東日本橋」 【第69景となる『浅草川大川端宮戸川(あさくさがわ おおかわばた みやとがわ)』。夏のイベント「大山講」に出発する一団でにぎわう、隅田川を描いた一枚。題箋に書かれている「浅草川」「大川」「宮戸川」は、いずれも隅田川の別称である。この絵に登場するのは、両国から「大山詣り(おおやままいり)」に出掛ける人々だと言われている。大山詣りとは、神奈川県伊勢原市にある霊山・大山(標高1252メートル)と大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)へ、主に旧暦6月27日から7月17日の夏山開きの期間に参詣すること。大山阿夫利神社と富士山本宮浅間大社の御祭神は父娘の関係にあるため、江戸時代には大山と富士山の両方に参拝する「両詣り」が流行した。特に大山詣りは江戸から片道2~3日と手軽で、箱根の関所を越えないので手形などの必要もなかった。そのため、実際には道中の遊山が目当ての場合が多かったとされる。当時の大山は女人禁制の区域があり、男性だけの夏の行楽として職人や鳶(とび)の間で人気が高く、参拝のための団体「大山講」が数多く組まれたという。両国の東詰で、水を浴びて身を清める「水垢離(みずごり)」を取ってから、出立するのが習わしだったようだ。多くの男たちが両国に集まって来るので、広重の絵に描かれているように大層にぎやかだっただろう。絵の左に描かれているのは、小さな御幣(細長い紙を折り、木の棒にはさんで垂らした神具)をたくさん刺した梵天(ぼんてん)というもの。この御幣を道中で配りながら、大山を目指したという】「綾瀬川鐘か淵Ayasegawa River and Kanegafuchi作者:初代 歌川広重年代:安政4年(1857)7月ねむの木を近景に大きく配し、隅田川を望む。奥に小さく描かれた橋が綾瀬橋でそこから流れているのが綾瀬川である。鐘か淵は、長命寺の鐘が大洪水によってこの辺りに沈んだからとも、梅若寺?の梵鐘が沈んだからともいわれるが定かではない。現在の所在地:墨田区堤通」【第70景となる『綾瀬川鐘か渕(あやせがわかねかふち)』。千住大橋から東へ向かって流れる隅田川が、南へ向きを変えて曲がる所に綾瀬川が流れ込んでいる。かつてはこの辺り一帯を「鐘ケ淵」と呼んでいたそうだ。明治期には、綾瀬川の東岸が鐘ケ淵という住所だったようだが、現在は鐘ケ淵という町名はなくなり「墨田区墨田」となっている。広重の絵は、隅田川越しに綾瀬川を眺めた朝焼けの景。合歓の木(ネムノキ)を枠に配した、広重お得意の構図で描かれている。葦(ヨシまたはアシ)茂る岸から筏師(いかだし)がこぎ出し、目前にはサギも飛んでいて、風光明媚(めいび)というよりは少し寂れた印象を受ける。】「五百羅漢さゞゐ堂Sazae Hall at the Temple of the Five Hundred Arhats作者:初代 歌川広重年代:安政4年(1857)8月羅漢寺は現江東区大島4丁目の俗に羅漢通りと呼ばれるところにあった。画面右にあるのが栄螺(さざえ)堂で、名の通り螺旋状の構造になっているのが特徴である。当時としては珍しい3階建ての建物であったが、安政2年(1855)江戸大地震で倒壊後、実際には再建されなかった。現在の所在地:江東区大島」 【第71景となる『五百羅漢さざゐ堂(ごひゃくらかんさざえどう)』。江戸時代に栄えた寺院にあった、風変わりなお堂を描いた1枚である。江戸時代の本所五ツ目に「五百羅漢寺」という寺院があった。羅漢像が500体以上祀(まつ)られていたそうだ。その寺には、当時としては珍しい3層構造の「三匝堂(さんそうどう)」という仏堂が立っていた。サザエのように内部がらせん状になっていたことから、「さざゐ堂(さざえどう)」とも呼ばれていたという。らせん構造の通路の周りに百観音が安置され、それを拝みながら進むことで、100カ所の寺院を巡礼したのと同じご利益があると考えられたそうだ。広重はさざゐ堂と参拝客を、夏の名所として、高所からの目線で描いている。葛飾北斎も見晴台からの景色を富嶽(ふがく)三十六景の1枚としているので、ここからの眺めは江戸の人々に評判だったのだろう。江戸幕府からの保護があつかった五百羅漢寺は、明治時代に入ると没落し、さざゐ堂も壊されてしまった。その後、移転を重ね、現在は目黒不動尊(瀧泉寺)の近くで「天恩山五百羅漢寺」として存続している。五百羅漢像は約300体が現存し、モダンな鉄筋コンクリート造りの本堂や羅漢堂に安置されている。】「深川三十三間堂Sanjusangen-do Temple at Fukagawa作者:初代 歌川広重年代:安政4年(1857)8月川に沿って平行に伸びる長い建物。京都の蓮華王院を模して建てられたのがこの深川の三十三間堂である。寛永年間(1624-1644)に弓師(ゆみし)備後(びんご)という人物が通し矢の場として浅草に建てたのがはじまりとされ、後に深川に移転した。宗教施設というよりは武芸の稽古場として知られていた。現在の所在地:江東区富岡」」 【第72景となる『深川三十三間堂(ふかがわさんじゅうさんげんどう)』。広重独自の遠近法による珍しい一枚である。京の三十三間堂(京都市東山区)は、平安時代後期に後白河上皇が離宮内に創建した仏堂である。鎌倉時代(1266年)に再建された長さ約120メートルの本堂は、中尊の千手観音坐像(ざぞう)の左右に1000体の千手観音立像が並ぶ圧巻の光景で知られている。その三十三間堂が、江戸時代初期(17世紀前半頃)から武芸を競う場にもなったという。長大な軒下を矢で射通す「通し矢(とおしや)」という弓術競技が、武家の間で大はやりしたのだ。その流行が江戸にも伝わり、浅草に江戸三十三間堂が建てられたそうだ。こちらにも一応ご本尊として千手観音が1体置かれたが、もっぱら通し矢が目的だったらしい。この建物が元禄11(1698)年の大火で消失したため、深川の富岡八幡宮(はちまんぐう)の東に再建されたのが深川三十三間堂である。通し矢は幕末まで行われていたが、安政江戸地震(1855年)でお堂の一部が倒壊し、競技ができなくなったようだ。再建されないまま江戸時代を終え、明治5(1872)年には取り壊されている。広重は、その深川三十三間堂と東の木場付近を俯瞰(ふかん)で描いている。興味深いのは、左から右上に向かう斜めの線が全て平行に描かれている点だ。本来、広重は写実的な遠近法を得意とし、この絵でも遠くの材木などはしっかりと小さく描かれている。つまり、左から右奥へと向かう建物や通りだけ、わざと平行に描いているように思える。三十三間堂を際立たせようとした広重独自のデフォルメなのだろう】「はねたのわたし弁天の社Benten Shrine and Haneda Ferry作者:初代 歌川広重年代:安政5年(1858)8月羽田の渡しは多摩川の最下流の渡しとして、川崎方面までの参詣などに用いられた。画面に、たくしあげた腕と脚が画面外からぬっとあらわれ、船を漕ぎ進めている様子が描かれる。向こうに見えるのは羽田弁天。当時は要島弁財天とも洲崎弁財天とも呼ばれた。後後、羽田空港の拡張工事で強制移転となり、現在は玉川弁財天の名で祀られている。現在の所在地:大田区羽田」【第73景となる『はねだのわたし弁天の社(やしろ)』。日本の玄関口・東京国際空港(羽田空港)辺りに、弁天堂と常夜灯という江戸名所があった。江戸時代、今の首都高速道路羽田線の多摩川に架かる橋の辺りに、「羽田の渡し」があった。東海道で多摩川を渡る場合は少し上流の「六郷の渡し」が利用されていたので、こちらは川崎大師の参詣に使われたようだ。現在、羽田の渡しの下流には羽田空港がある。元絵の当時は、要島と呼ばれた漁師が住む島で、弁天(玉川弁財天)と穴守(あなもり)稲荷が祀(まつ)られていたという。海に浮かぶような美しい弁天社と常夜灯は、海上安全や大漁を願う漁師や船頭はもちろん、川崎大師に訪れた江戸っ子からも崇敬が厚かったであろう。羽田の渡しと弁天は少し距離があるので、舟を操る毛深い船頭は川下まで遠回りするサービスで弁天を拝ませていたと伺える。第2次世界大戦後、羽田空港の前身である東京飛行場は連合国軍総司令部(GHQ)に接収された。要島の住人や2つの神社は、48時間以内という厳しい期限で、海老取川の向かい側(多摩川の上流)に立ち退きを迫られた。しかし、穴守稲荷の鳥居を撤去する際に多くのけが人が出たことから、大鳥居だけは元の場所に残されたそうだ。その後、大鳥居の周りは空港駐車場となったが、空港拡張に伴って海老取川に架かる弁天橋付近へ1999年に移設された。】 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.09
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