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(この日記は16日のものです)午前6時半起床。晴れ。昨夜はブラームスを聴いた後、横になったら鹿の鳴き声が聞こえました。秋です。ということで冷凍庫のウィスキーを引っ張り出し、トロリとした液体をチビリチビリとやりました。夜更かしはしませんでしたが、凌ぎやすくなったこともあり、暁を覚えませんでした。終日会議の連続。疲れました。夕方運動公園へ。ラン7km+スイム0.5km。1,000mのインターバルを3本。4分を10秒あまり切るスピードで走ることができました。これも涼しくなったからだと思います。今日が締め切りの第23回別府湯けむり健康マラソン・ウォークに申し込みました。昨年に続き、2回目です。16km。強烈なアップダウンのコース8kmを2周します。奥別府・志高湖半のレースです。今シーズン初めての大会です。おっと、その前に仲間とのリレーマラソンがあります。今日は友人、猟師Oさんのことを書きます。彼は本匠(本匠)の山奥に住んでいます。天下の清流番匠川の源あたりです。年齢は知天命にあと僅か。彫りが深く西洋の人を思わせる顔立ちにして色白。白髪なのですが茶に染めています。スマートで背も高い。ときどきランニングをしているとききました。茶業を営んでいます。山あいに茶を栽培し、製茶工場も持っています。彼のもう一つの仕事がマタギなのです。ライフルを持つ資格はありますが、未だに旧式の散弾銃を使っています。さて、当市の農林業は、鹿の被害に困っています。市は被害防止の予算を組んでいます。ということで彼の出番となります。1頭仕留めるごとに1万円の報奨金が出ます。猪には5千円。倒したことの確認は、シッポでするそうです。これを切り取り、市役所の林業課へ持ち込むのだそうです。新聞に、昨年は7千頭が駆除されたと載っていました。余計な心配ですが、市役所は鹿のシッポだらけにならないのかな。過日、拙宅の茶を摘んで彼の製茶工場に持ち込んだところ、釜の火に顔がほてっていたので、よく冷やして飲むようにと白ワインをあげましたが、そのお釣りが上等の鹿ロースでした。絶品の鹿刺しでした。7千頭の中の最上位に位置する肉だと思うと、自分だけがこれを食する優越感に浸れます。おっと、話が横道に逸れました。猟のことを続けます。鹿、猪とともに猿の被害も後を絶ちません。例の報奨金、猿は1匹あたり3万円です。当然、猪よりは鹿、鹿よりは猿を狙います。しかし、撃つことは難しいといいます。第一、人間に最も近い動物ですから、狙いをつけるのは嫌でしょう。仮に仕留めても、他の動物とは違い、彼らは撃たれた仲間を見捨てません。1匹が銃弾に倒れると、群れが集まって瀕死の彼を抱え、奥へ奥へと連れ去るというのです。而してシッポを切り取ること能わずなのです。ですが彼Oさんは違います。1匹を仕留め、助けに来る仲間をして、3万円が後から後からやってくると躍り上がって喜び、彼らを片っ端から撃つのだそうです。なんとも凄惨な光景ではありませんか。さて、彼の口癖は「どうでんいいわい(どうでもいい)」です。雨が降ってなすすべなしの昼下がり、たまーに携帯電話が鳴ります。今から飲もうという誘いです。会社を抜け出して昼間っから一杯というわけにはいきませんが、いつか1回は付き合おうと思っています。
2010年09月17日
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午前5時過ぎ起床。外気温21℃。終日晴れ。新聞を読んで後、朝ラン8km。支援学校付近の湧き水が疏水になっているところでカワセミを見ました。美しかったです。犬を連れたご婦人、鉄アレイを持ったウインドブレーカーの中年男、ステテコ姿のおっさん、三人とも滅多に見かけない人でしたが、皆、気持ちのよい挨拶を返してくれました。家に帰り、ゴミを集積所に持っていきました。ビールの缶やワインボトルで一杯になったビニール袋の多いこと。誰がこんなに飲んだのか。朝ごはんは味噌汁にアジの干物でした。これが一番です。キュウリの糠漬けかナスの浅漬けがあれば文句なし。終日デスクワーク。今日も会議会議の連続でした。弊社には珍しく、文学部出身の女性がいます。才媛です。年齢は不惑の域です。言葉を交わしたことは殆どありませんが、読書が趣味と聞きました。今日、会議で隻を同じくしました。休憩の僅かな時間、手持ちぶさたということで、話す機会を得ました。でも気の利いた話題が思い浮かびません。とっさに今朝聞いた荒川洋治の話を持ち出しました。「感性」と「感受性」はどう違うのかということについてでした。彼女は、言葉は生き物だから定義づけて枠に収める必要はない、というようなことを話しました。なんだか一蹴された気分です。会社を出たのは午後8時。ということで夕方のランニングとスイムは中止。真っ直ぐ帰宅して今日も鹿肉の煮付け。酔鯨を少し舐めて、ワインをグラスに2杯。この葡萄酒、1本469円(送料込み)のものをケース買いしたのですが、結構いけます。テーブルワインにもってこいです。ミディアムボディ、香り、余韻ともワンコインワインとしては群を抜いていると思います。掃き溜めに鶴。メモリーズ・カベルネ・ソーヴィニヨン[2009]年。ありがたいことです。夜はベーヤンのSQ1番を聴きました。東京クヮルテットです。名演。続いて英雄をヴァント指揮ベルリン・ドイツ響で。こちらは録音のせいなのか、それともスピーカー(JBL)で聴いたからか、深みのない演奏でした。今日の写真はオクラです。シーズンの最後でした。人に聞いたのですが、花も食べることが出来るとか。サラダにするのかな。
2010年09月14日
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午前5時起床。夏至から一月経つと、夜の白むのが遅くなってきたのがわかります。晴れときどき曇り。出勤前に草刈り。コンニャク畑をやっつけました。勿論コンニャクは傷つけません。そこに父が1本カボスを植えているのですが、実がなっていました。木の背丈は腰ほどですが、幾つも玉をつけています。ピンポン玉よりも大きい。カボスサワーにして飲んだら美味しいだろうな。午前中、営業部門とやりとり。契約の確認は書面でと指示をしていたのに、口頭で相手先と済ませていました。大きな山なので私も別のルートで調査をしました。そして営業の言うことが間違いだとわかりました。この契約案件、法的に問題がないか、組み立てを変えるかしないと没です。ビッグな契約だけに、締まりのない仕事をしていては大やけどをします。午後は幾つかの契約についてチーム全員で検討会。遅くに会議を1つ。株主の方が多くみえ、営業5課のプロジェクトについて意見をいただきました。私も発言しましたが、古い枠組みのまま営業体制を維持するのは難しいと感じました。このところ、ブログに仕事の愚痴を書くようになりました。本来の目的は記録であり、娘息子に読ませるためのものです。ストレス解消に使ってはいけません。而して、では書かなければいいのにということになるのですが、それはまあそれということで、許してもらおうと・・・。いい加減な話です。私の会社は休日出勤しても、残業手当がつきません。その代わり、土日に働いただけの時間、平日に休暇を取ることが出来ます。実際には、なかなか休むこと能わずですが。さて、部下のSがその休みを明日取ります。ここまではどうでもよいことです。彼は広島に行くそうです。カープの応援をしに行くのかと思いきや、ジャイアンツへの声援だそうです。ヘッ、マエケンにきりきり舞いさせられたらいいのにな。部下の話をもう一つ。40歳を前にしたS(広島行きのSではありません)が奥さんからメールを受け取りました。内容は「あなた、できたみたい」しかも末尾にハートマーク。帰り際にそのことを嬉しそうに話してくれました。チーム全員が祝福しました。3人目になるそうです。Sは、近々、立派な車を購入すると浮き浮きしていたのですが「車はキャンセル、家族が5人になると4畳半の仮家住まいは無理、お金を思い切って借り、家を建てよう、保証人になって」といいました。ハンコをつくわけにはいきませんが、いい話ではありませんか。元気な赤ちゃんが生まれるとよいです。お祝いをはずもうかな。夕方、運動公園へ廻りラン10km。その後、人のいなくなった屋外の50mプールでゆっくり水中歩行。クールダウンによいです。今日の写真は拙宅庭のサルスベリです。この木、岳父にもらったものです。咲き始めるといつも彼のことを思い出します。ということで、長くなりますが、次の文章を載せます。もう5年になりますか、一周忌にあたり、紙にして妻の親戚へ配ったものです。「一周忌にあたり」岳父○○のこと 岳父が逝って一年になります。昨年の六月○○日でした。季節はずれの台風が九州を窺う暑い日でした。末期癌のため手の施しようがなく、家族は大分市にあるホスピスを終の場所に選びました。それは彼にとって、「決意の死」でした。享年七十。 彼に初めて会ったのは昭和五九年、NHK連続テレビ小説おしんが放送された年の春でした。デートの後、実家に妻を送った時です。銀行から帰宅したばかりのようでスーツ姿、ネクタイに手を掛けようとしていまた。火照った顔に一日の疲れと安堵が混ぜ合わさったような、複雑な表情だったことを覚えています。 妻の父は銀行の役員、融資の審査と債権回収の責任者と聞いていただけに、こわもての先入観を持っていましたが、初対面の場でこの感を一層強くしました。仕立てのいい背広、帰宅後もなお糊の効いたワイシャツ、それに片岡千恵蔵に似たギョロ目の顔であれば、誰しもそう思うでしょう。しかし、結婚後、硬いイメージは次第に薄れ、世にいう「岳父と婿殿」のいい関係になり、とても可愛がってもらいました。 一周忌にあたり、私の目から見た彼の姿を、思い出の中から拾ってみました。ご笑読ください。 岳父とは将棋盤をよく囲みました。妻に「仕事のストレスを癒すため、相手をしてやって欲しい。」と言われたからです。妻の実家に行くと上げ膳下げ膳、ビール飲み放題に加え、好きな将棋を指せるとあらば、願ってもないこと。入り浸りました。棋力は拮抗、勝ったり負けたりでした。 退職後は、囲碁にのめり込みました。私も彼に手ほどきを受けました。私の方が若かっただけに、すぐに追いつき、追い越しました。私が打ち負かして帰った後は不機嫌になったようです。義母から「少しは負けてやってよ。」と言われましたが、そのことがばれるとバツが悪くなりそうで、できませんでした。ただ、夕食をご馳走になった後の勝負は、晩酌のせいで私の勝負感が鈍り、負けが込みました。義母に、そんな夜は機嫌がことのほか良く嬉しかったとこっそり言われ、私も嬉しかったです。私との勝敗は、漏らさず手帳に記録していたようで、勝率を計算しては今度こそと爪を研いだようでした。碁会所へも頻繁に通ったようです。名人の扇子も何本か持っていて、自慢げに見せてくれました。 こうやって囲碁、将棋を指したことは、今考えますと、少し親孝行になったかなと思います。 勧められたゴルフにはどうしても興味を持てませんでした。大きな手術をするまでは、毎週末、友人とゴルフ三昧だったようです。私はゴルフクラブのセットをもらい、一緒にゴルフ場に行こうと何回も誘われました。しかし、私も週末は色々ありましたし、ゴルフそのものに惹かれませんでした。葬儀の日、岳父のゴルフ仲間に、「お父さんは君と一緒にゴルフをしたかったようだよ。」と言われ、後悔しました。 岳父は健啖家でした。よく食べ、よく飲んでいました。桝形で夕飯の相伴にあずかった時、おかずの量は私と同じくらいでした。酒も銚子二~三本。食べながら会話が弾みました。もっぱら地元経済の話が中心で、私にとって、ありがたい情報が盛りだくさんでした。会社員としてのマナーも教わり、経済紙を読むべきだと勧めてくれました。以来、日経を読み続けています。勉強になりました。 酒が進むと饒舌になり、話題は岳父の若い頃へと遡りました。ヤギの世話話、鶴城水泳部のこと、高校を出て炭問屋で働いたこと、経理専門学校受験のこと、自衛隊からの誘いに揺れたこと、改名にまつわる悩み、話は尽きませんでした。なかでも特に印象に残ったのは、融資先の経営が左前になり、社長の自宅へ差し押さえに行ったとき、家族の視線が針のようだったという話です。小さいこどもを抱えた社長の奥さんから、鬼を見るような眼差しでみられたというくだりには、伺い知ることのできない岳父の世界を垣間見たような気がしました。 囲碁とゴルフ以外に、これといった趣味はないようでした。普段の生活は慎ましやかで、タバコは吸わず、パチンコや麻雀も一切しませんでした。ただ、持ち物にはこだわりがあったようです。上等のゴルフクラブ、高そうな時計、ネクタイも品がよく、洋服はドレッシーでした。律儀なところがあり、これらの買い物は、勤めた銀行と取引のある店でしていたようです。私は、何人もの地元商店街の店主に「あなたが娘婿ですか、お父さんには大変お世話になったのですよ。」と言われましたが、仕事柄、地元の商店にはことのほか思い入れがあったようです。 努力家でもありました。銀行の若い職員に混ざって宅地建物取引主任の資格を目指し、合格したときはとても嬉しそうでした。生涯、この資格を活かすことはできませんでしたが、一番の自慢だったようです。退職後は庭木の剪定を覚え、芝生の管理と合わせ、ステテコ姿でよく汗をかいていました。 笑い話を一つ。ある日「○○さん(私のこと)、私は金歯を一本入れとるんよ。話しをするときに口元がきらっと光ると、感じがよかろう。」と笑うのです。岳父なりのオシャレなのでしょうが、これには参りました。 岳父の思い出は楽しいことばかりです。洋服、ネクタイ、時計、碁盤、名人の扇子、いろいろなものをもらいました。うれしかったです。 まだまだ、思いはありますが、今回はこの辺でペンをおきます。本日は、お参り、誠に有り難うございました。
2010年07月29日
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午前5時半起床。終日雨模様かと思いましたが、午後、あがりました。今日は牛を飼う人の話を聞きました。本匠の山奥に住むKさん。面白かったです。以下はその内容。自分はサラリーマン。働きながら山あいで30頭の肉牛を飼っている。繁殖が目的。種付けをして仔牛を産ませる。2ヶ月育て肥育農家へ売却。1頭30万円前後。このときの値段は血統がものをいう。競馬業界と同じで血統は管理されている。種付け料は仔牛販売代金の7%。仔牛の売れたときに種付け業者へ支払う。精子代は別。評価の高い父牛のものは当然高い。何万円もする。肥育農家は8ヶ月間かけて育てる。出産から都合10ヶ月で市場へ出す。このときの体重は平均700kg。このうちタンとテールを含めた内臓、いわゆるホルモンは40kg。これを除いたものが枝肉といわれ、キロあたり単価で評価される。1頭あたり60万円前後で取引される。ちなみにホルモン40kgは3万円前後で売られていく。洗浄も終わっているので、とても安いと思う。もつ焼き屋さんの利ザヤは大きいな。自分の飼っているのは全て黒毛和牛。種の父牛も同じ。肉質は上等。刺しが入る。いわゆる霜降りの黒毛和牛。これとは別に、肉の店頭表示に交雑というのがある。これは和牛の精子を乳牛へ種付けし生まれた牛の肉。刺しの入りが和牛に比べ劣るけど、美味しさは市場価格ほどの開きを感じない。酪農家は乳牛を妊娠・出産させたら搾乳できるから一石二鳥。ただし、生まれた仔牛を2ヶ月かけて育てても値段は和牛仔牛の半値、約15万円。肥育農家がこの牛を8ヶ月かけて育てても1頭45万円。うまいぐあいになっている。牛舎は番匠川の源流近く、人家から離れた山奥にある。毎日朝5時に起きて餌やりをする。夏は気持ちいいが、冬は暗く寒いこともあって、朝が辛い。仕事から帰ると、すぐまた山へ。牛が待っている。生き物は毎日の世話が必要。糞の処理は2週間に1回。毎日籾殻を追加し、14日分をまとめて集める。堆肥工場の車が引き取りにくる。籾殻はコイン精米業者のものを無償で引き取る。餌は大分川河川敷の草。堤防管理のため国土交通省が刈り取ったものをこれも無償で貰い受けて使う。牛は放牧していない。全頭、?いでいる。放したままだと、柵を壊して逃げてしまう。つなぎ止めているのは鼻グリ(鼻柱の中をくりぬいて金属の環をはめたもの)。くりぬく作業は自分でする。彼は50歳くらいかな。背が高く逞しい体つき。体重は100kg近くありそう。牛の世話、家族はしないとのこと。全て自分一人で切り回しているらしい。大したものです。閑話休題、夕方、運動公園へ。ラン10km。走り始めたら降り出しました。つかれて泳ぐ気分になりませんでした。スチームサウナとシャワーだけ。今日の写真はあの「西の関」萱島酒類が竹田市で作り始めた麦焼酎「清明」です。スマートすぎます。売れるかな。
2010年07月28日
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曇り一時雨。とても蒸し暑い一日でした。夜中に何度も目が覚めました。夢うつつの中、W杯3位決定戦を見ようかやめようか。結局起きることができませんでした。今日は出勤、帰宅は午後8時前になりました。音楽を聴いたり本を読むことはかないませんでした。投票へは行きましたが、練習は休みました。会社を訪ねてきた年配のHさんから次のような話を聞きました。「私は若い頃名古屋の造船所で働いたことがある、仕事は電気関係の偽装、新船を船主へ引き渡し処女航海へ出るときは乗船した、W杯の開かれているダーバンへも行った、美しい港だった、行きは貨車を積み帰りは鉱石を満載した、30年以上も昔のことで、まだ強い差別があった、荷役の労働者を棒でたたいていた、その街で時計を買ったが名古屋の税関に見つかり没収された、罰金もくらい出張費がパーになった、航海そのものは楽しかった、赤道祭り。バンクーバーへ行ったときも日付変更線祭りをした。船の飲み水が悪く乗組員はビールばかり飲んだ、3ヶ月あまりの航海で太ると思っていたがなぜか痩せた」今の彼は農業をしながら個人経営の電気工事店を営んでいます。Hさんは遠縁にあたります。長いつきあいがあります。普段の姿からはそんな過去は想像できません。見た目は生まれてからこの方佐伯から出たことがないようななりと人柄です。人間は見かけによりません。午後7時を過ぎて空を見上げたら、雲のの形が不気味でした。雷神か竜が潜んでいそうなうねりが不規則な形で重なり合い、垂れ込めていました。カメラを持たず残念です。この時期の空は時々おどろおどろしい顔をします。早く梅雨が明けるとよいです。今日の写真は週1走るコースのスナップです。先週末、ビアホールに行く前の少しの時間、そこを廻ってみました。番匠川河口の埠頭です。この日は自衛艦が停泊していました。
2010年07月11日
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午前7時過ぎ起床。二日酔いです。雨の中を出勤。重い頭を抱え、今日が期限のレポートをまとめました。先日来募集中だった弊社メセナ事業の審査結果を公表したので、問い合わせが相次ぎました。選考に漏れた団体への説明は難しいです。部下Aの野郎は昼過ぎに社長出勤でした。今日は練習を休みました。帰って早風呂、缶ビールが五臓六腑へ染みわたりました。湯上がりの一杯は堪りません。今日の写真は、昨日のブログの主人公、部下のAです。身長178cm体重90kg剣道7段、42歳の猛者です。
2010年07月09日
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午前5時過ぎ起床。曇りときどき晴れ、夕方雨。梅雨の中休み、青空がのぞきました。湿度が高かったです。ムッと粘り着くような空気は温泉旅館の湯殿のようです。午前中、支店で会議。午後はデスクワーク。大分大学の教官と院生二人と話す機会がありました。内容を書くことが出来ませんが、二人はそれぞれ大阪、静岡の出身だそうです。地元大分の学生は少ないとのこと。九州各県と四国出身者が目立つそうです。二人に酒は如何と問うと、好きとのこと。その時、話を聞いていた部下のT(彼も大分大学出身です)が、後輩の二人へ「自分は大学で酒の飲み方しか習っていない」と自慢げに話しかけました。すかさず「いいや、飲酒を学んだのなら、おまえのような乱れ酒にはならぬはず」と茶々が入りました。皆が大笑いしました。夕方、運動公園でラン13km+スイム0.5km。トレーニング最中に雨が落ち始め、最後はザーザー降りの中を走る羽目になりました。帰宅は午後8時を過ぎました。夕食は妻があり合わせのものを苦心したものでした。ワイン抜栓の口実を作るため「イタリアンだね」と言いました。おだてると木に登ります。本人もその気になって、二人で乾杯しました。今日の写真は酒の上品な飲み方を知らぬ部下Tです。彼にかかると黒霧島の5合瓶があっという間です。
2010年07月02日
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当主はHPhttp://www.kaguramen.com/index.htmlにもあるとおり、佐伯市役所の部長でした。直川(なおかわ)という山あいの集落に生まれたそうです。宮崎の大学を卒業したそうでした。分析が専門というから、工学部出身なのでしょう。M大学には理学部がない筈ですからたぶんそうです。市役所に勤務して水質分析を担当したと聞いたことがあります。彼を知ったのは、私の父との交誼からでした。彼は中国語が堪能でした。骨董趣味の父は、どうして彼と知り合ったのかわかりませんが、彼に、台湾にある故宮博物院の宝物を解説した高価な本を取り寄せてもらったのでした。上下巻で4万円近くでした。もちろん中国語で書かれていました。父が読めるはずもありません。余談ですが、父はときどき、訳のわからないことをします。私がその代金を持って市役所を訪ねたときは、総合案内をする課の課長さんでした。しばらくして、財務部長になりました。地元のケーブルテレビが、市議会の録画を夜に流すのですが、たまたま彼が答弁に立っていました。堂に入っていました。懇意にしている役所勤めの友人に聞いたのですが、彼は餃子作りの名人だそうです。しばらくして、退職し神楽面工房を始めたという葉書が届きました。ということで、5月3日に訪ねてみたのです。ネクタイを締めた役人姿とはうってかわり、ザンバラ髪を後ろで束ねていました。ヒゲも伸び放題。仙人のような風貌でした。打った神楽面に似ていなくもありません。桐の木を植え、15年ほど経つと、これを切って面の材料にするそうです。工房を設けたことに対する遅ればせのお祝いをというと、神楽面を納品する時の台にする杉の板があったらいい、といいました。おやすいご用です。今度、鹿の角が入り、倒した杉を製材に出す予定です。厚さ1寸幅1尺だそうです。無節を持っていこうと思います。そうすれば手頃な面をくれるかな。いや、何万円もするからだめだわな。餃子かな。写真は工房の当主です。どうですかこの顔。
2010年05月07日
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雨のち晴れ。午前6時半起床。夜来の雨に何度も目が覚めました。春の嵐でした。オマケに昨夜の深酒で、気分が優れませんでした。部下Tと一緒にA新聞記者と飲んだのでした。河岸はいつもの暖簾つね三でした。アナゴの天麩羅が美味しかったです。杜谷(もりや)という焼酎を飲みました。私の町にある焼酎蔵の造る銘酒です。がぶ飲みのTだけに、たちまち空になりました。Tは棚の整理だと言って、キープしてある焼酎瓶を物色し始めました。口の開いて名前を書いていないものを5本ばかりカウンターへ持ってきました。片っ端から空けていきます。大将も大目に見てくれました。と言うことで二日酔いになりました。午前中会議。私は傍聴だけでした。勉強会形式の進行でした。質疑は中身の濃いものを期待していましたが、空疎なものでした。大きなプロジェクトだけに、肩すかしにあったような感じがしました。午後は、医師不足の話をドクターに聴きました。今、メセナのような取り組みを考えています。弊社が提案できるか否かの検討です。美しい女医でしたが、こちらの企画に辛辣なコメントをしてくれました。参考になりました。水戸茂雄のビウエラ&リュートコンサートの葉書が来ました。大分古楽研究会からの案内でした。5月7日金曜日、別府のギャラリー枡屋というところであります。2,000円です。仕事が終わって車をとばそうかな。葉書はもう一枚、八面山平和マラソンの参加証。明後日、中津市であります。10kmのレースです。ベスト更新を目指します。今日聴いた音楽はグリーグとシューマンのピアノコンチェルト。ピアノはルプーでした。特にグリーグはルプーが一押しです。気合いのこもった演奏、ロンドン響とのマッチングも最高です。今日の写真はトラです。交換したソファーがよい寝心地なのでしょう、このポーズと顔です。
2010年04月27日
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午前6時半に起きました。最近のビジネスホテルには、大浴場があり、サウナも完備しているところがあります。起きがけに朝風呂へ浸かりました。ここは露天も有りました。腕立て伏せやスクワットをしました。午前中、飛び込みで2社を回り、駅近くのとんかつ屋で昼食を食べました。神戸の方へ廻ろうかと考えましたが、明朝早くに仕事の入っている部下の言を入れました。私だけ新神戸で下車しそこで一仕事。出張になると、ついでにという気持ちが膨らみます。昨日も思ったことですが、京都駅周辺を歩いていて感じたことは、中国人の多さです。殆どが観光目的のようです。先日、熊本に行ったときは韓国の人ばかりが目立っていましたが、こちらは大陸の人たちでした。あちらの国の景気の良さを実感しました。中国の人のことをもう一つ。昨夜の食事は部下と居酒屋へ突っ込んだのですが、そこの仲居さんが中国人のアルバイトでした。年齢は20代後半かな。明るい京都弁をちょっと違うアクセントでしゃべるのが可愛かったです。笑顔に見とれ、つい声をかけてしまいました。中国の大学を卒業し、今は京都の日本語学校へ通っている。4月からは、茨城県にあるT大学の大学院へ入学し、国際経済についての勉強をする、と話してくれました。逞しさというか、高い志を持っているようで、なんだかまぶしいものを見たような気分になりました。帰りの新幹線に乗って気がついたのですが、携帯電話のバッテリーが弱っていました。いつもだともう少し保つのですが。トンネルが多くて、その都度途切れた電波を拾いに行くために電力を消耗するのだと聴いたことがありますが、本当でしょうか。暗くなって帰宅しました。先ず風呂。湯船に浸かるとホッとします。泡を抜栓し、遅い夕食を食べました。妻への土産は赤福でした。二日間走りませんでした。明日、仕切り直しです。
2010年02月05日
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午前5時起床。夜来の雨が残っていました。腹筋と鉄アレイ運動。新聞を読み散らかしました。平山郁夫の訃報が紙面に大きく出ていました。もう何年も前、付き合いのあった某新聞記者から直接聞いた話ですが、彼の画のレベルや政財界との交際について、芳しくない話を聞いたことを思い出しました。それだけに、被爆体験や日中友好の活動を訃報記事と抱き合わせで読んでみると、複雑な思いがします。まあそれはそれとして、彼の作品には私は惹かれません。東山魁夷のほうが好きです。私見ですが、平山作品になくて東山作品にあるもの、それは無常観でしょうか。偉そうなことを書きました。午前中、デスクワーク。午後は会議を一つ。スキャンダラスな内容でした。営業のトラブルについて、社外取締役から厳しい指摘がありました。間接的にも関係がありませんでしたから、私の発言する機会はありませんでした。でも営業の人たちのことを思うと、何となく気が滅入ります。今日でバッハのオルガン曲20枚組を聴き終えました。なんだか、東山作品に共通のものを感じました。
2009年12月03日
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終日晴れ。気温は12月中旬並になると天気予報が報じていました。午前4時に起きました。朝ランなし。音楽を聴いて、新聞を読みました。終日デスクワーク。会社の引けそうな時間に新聞記者O氏が訪ねてきました。映画の話をしました。シネマ5の会員証を見せました。これは小冊子になっていて、今年見た映画の前売り半券を貼り付けてあります。そのなかにデジタルリマスター版のシェルブールの雨傘もあります。彼は懐かしさがこみ上げたようでした。学生時代、映画同好会のメンバーだった、その時印象に残ったのがこの映画だった、ドゥヌーヴに憬れたと話しました。彼は36歳独身。サッカーもと日本代表の宮本を優しくした感じです。いい男です。夕方、運動公園へ廻りました。ラン4km+スイム1km。今日も真っ暗な道を走りました。テーピングをして走ると、ちょっとだけ痛みはありますが、大丈夫のようです。Oさんも走っていました。彼は九州一周駅伝を走ったことのある鉄人ランナーです。さすがに早い。横をピューッと走り抜けていきました。音楽はスターデジオのバロック。レオという作曲家のチェロコンチェルト。次がガブリエッリのチェロソナタ。これはビルスマの演奏でした。夜に部屋の灯りを落とすと、染み入ってきます。嘉風が4連勝です。幕内力士で勝ちっ放しは彼と両横綱だけです。佐伯市出身の力士です。応援に熱が入ります。
2009年11月18日
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午前5時起床。朝ラン10km。仕事は向こう3年間の設備投資計画についての最終調整。上司と綿密な打ち合わせ。秘書に社長の来週二日間を取ってもらい、説明を予定しています。社債発行計画と設備投資総額、それに社長の意向のそれぞれが、かみ合ったようなかみ合わないような素案だけに、少し不安です。夕方スイム1.5km。今日はラン、スイムともよい練習になりました。日経コラム「私の履歴書」、今月は益川敏英氏です。ノーベル賞を受賞した物理学者です。内容もさることながら、淡々とした文章がよいです。短く、無駄がないです。しかも味わい深いのです。数学的美しさというと大げさかもしれませんが、シンプルという美しさを感じます。今日の写真はススキです。夕方、逆光でシャッターを押しました。
2009年11月05日
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終日晴れ。秋天が続きます。午前6時半起床。外気温10℃。冷え込むようになりました。10月に入り、ネクタイを着用しています。でも背広の下は半袖のYシャツです。日中はまだこれでよいです。終日会議でした。ここ3週間あまり、私のチームはもっとも悩ましい時を過ごします。今日も少し遅くなりました。日曜日に10マイルレースがあります。今日明日と練習を休みます。而して頭の中は別府湯けむり健康マラソンのことで一杯のはずでした。ところが部下のTから、週末の(別府である)レースは如何と問われ、つい土曜の障害はテイエムトッパズレだよ、日曜日はレッドデザイア間違いなしと口走り、呆れられました。馬脚を露わすとはこのことです。恥ずかしかった。楽天が先勝しました。岩隈はかっこいいな。彼はいい男だろうと妻へ話の水を向けたら、なんだかはげそうだわ、と訳のわからないことをいいました。ケチをつけたがる女なのです。
2009年10月16日
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S兄は、先日、龍門山渓館へ行ったときのメンバーです。彼の人となりは前にも書いたことがありますが、生業は炭焼きです。旅行中、食事をしながら、山渓館にあった大きな囲炉裏を見て曰く。「自分の家にも欲しい。炭はたんまりある。料理も毎日炭を使う。七輪が三つ有る。湯を沸かすのも、ものを煮るのも、勿論魚を焼くときもこれを使う。サンマの塩焼きは最高だ。こんな囲炉裏があったら、そこに鉄瓶を吊り、湯を沸かす。焼酎のお湯割りは、ポットのそれではだめだ。鉄瓶で湧かした湯ならではの味わいがある。焼酎はイイチコ。ところで、先日は、同業者のところで事故があった。樫を倒していて、これの下敷きになり、人が死んだ。危ない。おまえ(私のこと)も山の作業は気をつけなければいけないよ。それにしても、ああ焼酎がうまい」写真はS兄です。目線を隠していない人です。山女魚をむゃむしゃ食べています。
2009年09月21日
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先月29日、黒田恭一氏が亡くなったことを今朝の新聞で知りました。音楽評論家です。NHKのテレビ、ラジオによく登場していました。FM番組「20世紀の名演奏」は大好きでした。優しい語り口と解りやすい解説は魅力的でした。1950年代60年代のものを多く取り上げていたような気がします。流れる音楽もしゃべる言葉も上品でした。最近は声色が変わっていました。病気かなと心配していたのですが、残念です。声色については、佐瀬稔氏のときも同じ感じを持ちました。「日本全国8時です」という番組、月曜日の担当が彼でした。スポーツジャーナリストで、毎週その話題でした。切り口が鋭く、欠かさず聴いていました。入退院の後、声ががらっと変わりました。確か喉か食道、首回りの癌だった。黒田氏と、改めて佐瀬氏に合掌。
2009年06月04日
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午前5時起床。夜来の雨は朝方に弱くなりましたが、昼過ぎまで降ったりやんだりでした。朝ランは中止。この湿りで、筍が一気に出ると思います。先日、伯母に様子をたずねたら、雨待ちだというようなことを言っていたからです。終日、デスクワーク。相変わらず会議会議です。夕方になって、ロッカーにある資料の廃棄をしました。紙の量が半端ではありません。会社を出て運動公園へ。インターバルを交え8km+スイム1km。今日は妻が実家に泊まります。夕餉は自前です。練習の帰りに出来合いのものをスーパーで求めました。テーブルにパックのまま並べ、ハイボールを作り、片手に本。今日は喧しいバラエティ番組の音はありません。至福の時間です。朝日新聞の人欄に、この春、ソウル大学歴史教育学科教授になった君島和彦さんという人が載っていました。学芸大出身の人だそうです。学芸大は韓国人留学生を多く受け入れていたとあります。その記述で、金さんのことを思いだしました。私の母校は韓国の釜山水産大と交流がありました。留学生は10人を超えていたと思います。その中に金さんがいました。深い仲ではありませんでしたが、肴ではなく魚の話はよくしました。水中における漁網の展開(網なり)を流体力学的観点から考察した論文ですぐに学位を取りました。英語も出来、羨ましかったです。すぐに帰国しました。容姿は、一見してうだつの上がらない「あいやん」のようでしたが、人品は素晴らしく、友を選ばば云々の歌にあるような人でした。話は跳び、私が30を過ぎて、ソウルへ行ったときのことです。現地ガイドは若い女性でした。日本語ペラペラの梨花女子大卒、すてきなお嬢さんでした。大学を出たてで、ボーイフレンドは延世大のOBだという自慢話を聞かされました。「韓国は高学歴、私は勝ち組だわよ」と言っているような印象を受けました。そこで彼女に、釜山水産大学という学校があるはずだが、と問うてみました。と、即座に「あんな田舎のイモ大学なんて相手にしないわ」と一刀両断に切り捨てられました。金さんは今、釜山水産大学の先生をしています。
2009年04月14日
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午前5時に起きました。晴れ。このところ体調不良の妻は、県立病院の診察を予約していましたが、今日がその日でした。午前7時前に家を出てゆきました。終日デスクワーク。会議を3つこなしました。昼休みに検査結果のTELがありました。異常なしとのことでした。安心しました。更年期にさしかかったことと、3月末で務める養護学校の仕事が終わってしまうことの寂しさが相まって、気分が優れなかったのでしょう。よい診断が出てほっとしました。妻は1年限りの臨時講師です。教師不足が生じると、声が掛かります。この時期は来年度の仕事があるかどうか不安になるようです。私より一つ年下で、今年50歳になります。もう、働かなくてもよいと思わないでもありません。しかし、妻にとって学校は生き甲斐のようなものです。彼女から教師の仕事を取ったら、何も残らないような気がします。本人もそういうのです。「もし仕事がなかったら、私は何をしてよいのかわからない。することがない。」と。音楽を聴いたり、本を読んだり、ブログを楽しんだりすればよい、と勧めるのですが、これらには全く興味がなさそうです。妻は大学を卒業後、10年間、小学校の教師をしました。その間に私と結婚し、出産・育児と家事を両立させました。あるとき、思い立って教師を辞めました。当時、毎日、私と子どもたちが寝入った後、遅くまで机に向かい、翌日の授業を準備していました。疲れがたまり、週末は、昼過ぎまで泥のように眠りました。子育てと仕事を両立させることの大変さが身に染みての退職でした。教師は公務員です。田舎にあって、サラリーは恵まれている方です。周囲の人から、もったいないと言われました。でも健康や幸せはお金では買えません。退職し、娘息子が小学校を卒業するまでの10年近く、鶏、ウサギ、ヤギを飼い、どっぷり田舎生活に浸りました。私も妻も、今思い返してもよかったと思います。子育てが一段落し、近くにある養護学校から臨時講師の口がかかって、焼け棒杭に火が付きました。大学で障害児教育を専攻し、4回生の時、ダウン症の少年と深い関わりを持った経験があり、再就職してそのときの芽が膨らみました。今は、相当な思い入れがあるようです。この時期、教師の人事異動が発表になります。かつての同僚が校長や教頭になったという話を聞くとき、寂しそうにしています。自分の不安定な身分と比べているのでしょうか。こんな時の彼女の背中を見るのはつらいです。また、来年も彼女に臨時教師の口があればよいのですが。夕方、ラン7km。今日はとても調子が悪かったです。身体が重くて仕方がありませんでした。走り終え、水着に着替えたのですが、とても泳ぐ元気がありません。スチームサウナで汗をかき、シャワーを浴びて帰りました。妻の検査結果を受け、勝手にお祝いすべしと決め込み、樽酒を買いました。瓶詰めされ、スーパーにおいてあるものです。確かに香りがします。がしかし、醸造用アルコールを使った棘のある味です。安酒というと失礼ですが、いくら樽の風味がしても、純米の程度のよいもには及ぶべくもありません。
2009年03月18日
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午前5時半起床。霜降。曇りのち雨。寒い一日でした。午後降り出した冷たい雨に気分が萎え、走りませんでした。スイム1,000m。スチームサウナで汗だけかきました。今日、妻の勤務する養護学校へ親方がやって来たそうです。学校の依頼で、子どもたちへ椎茸のコマ打ち体験をさせたようです。原木、椎茸、穴を開けるドリル、全て親方が準備してくれたそうです。学校からの謝礼は無し。木訥で空っぽの親方ですが、そのようなところが皆に愛されるのでしょう。生徒と一緒に給食を食べたそうです。煙草が吸いたくて堪らず、講義が終わったら、校長室のお茶を断り、軽トラで校内を飛び出したそうです。これも親方らしい。今日はアーノンクール、ヨーロッパ室内管でベーヤンのシンフォニー4番、同じくベルリンフィルでブル8。タンノイではなくJBLで聴きました。紋切りの音です。聴きながら、妻とロールケーキを食べました。今日の写真は、ドリルでクヌギの木に穴を開けようとする親方です。普段はボロ臭い菜っ葉服ですが、今日は新品の作業服を着ています。若い女性教員の目を意識したのでしょうか。
2009年02月19日
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午前6時起床。外気温2度。明け方は曇りがちでしたが、日中はよく晴れました。午前中は写真撮影に立ち会いました。営業担当者が商品を並べ、カメラマンがこれを撮ります。弊社は多くの商品とサービスを提供しますが、今日はお酒でした。営業用のポスターに使用します。全部で30種類くらいの日本酒や焼酎を並べると壮観です。後日、没になったデータをもらい、ここへ掲載しようと考えています。午後は大分へ行きました。午後はのっぴきならぬ用事があり、休みを取りました。時間に余裕があったので、久しぶりに国道10号線を上りました。車の運転をすると、眠くなっていけません。車中、リヒテルの平均律を聴きました。今日は花金です。明日明後日と休みなので、映画を見ようかなと思いました。妻にTELしたら、Uさんが亡くなったとのこと。お悔やみに行かねばなりません。妻の都合もあり、午後8時に家を出ようということになりました。午後5時前に高速に乗り、いつもの運動公園へ着いたのは午後5時半過ぎ。ラン7km+スイム500m。帰宅してネクタイを黒に替え、二人で通夜へ。Uさんは教師でした。父と同じ歳でした。家が近くなので、二人は晩年になっても交際していたようです。私が小学校のとき、Uさんがこぶし大の石を見せに来たことを覚えています。バイクで日本一周をしたといい、その石は北海道から持ち帰ったものだと自慢しました。退職した後は、自治会の会長をしました。温厚で、皆に好かれました。娘さんは妻と同級生、友人です。聞くところによると、交通事故だったそうです。歩いているところをはねられたそうです。全身打撲、いたるところを骨折し、内出血がとまらず、手の施しようがなかったと、長男のS君が説明してくれました。Uさんの弟Kさんは、わたしの妻へ、事故の後、亡くなるまでの経過を説明してくれました。情の深さを感じさせるKさんの話しぶりをきいて、悲しみが増しました。明日の葬儀、父が弔辞を読みます。
2009年02月06日
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昨日、同窓会幹事会にTも来ました。彼は漁師です。潜ってアワビやサザエを獲ることを生業にしています。色々と話を聞きました。以下はその内容です。日に3~4本のボンベを使用する。漁場は黒島から高平の下まで。獲れるものは全て獲る。潮の速いところもあるが、暦を見て潮止まりの時間を狙ったり、網代を変えたりする。危険な目にも随分遭遇した。潜っているときにトラブルがあって、ボンベを脱ぎ捨て急浮上したことも幾たびか。でも修羅場をくぐり抜けないと一人前にはなることが出来ない。人がボンベ5本で漁獲する量を3本で獲る。アワビ、サザエ、ナマコ、雲丹などが中心。伊勢エビも獲るが、これは売らない。全て持ち帰り、子どもへ食べさせる。子どもたちはとても好きなんだ。仕事上の悩みも聞きましたが、これは差し障りがあるので書けません。彼は高校時代、野球部でした。1年の時、私の高校は夏の甲子園へ初出場しました。この話をすると、彼の目が潤みました。気持ち、よくわかります。私は彼が大好きです。
2009年01月25日
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午前5時半に起きました。終日晴れ。空が高く、名画「北京秋天」のようでした。箒で掃いた様な雲と青空のコントラストがよかったです。デスクワークでした。部下が3人とも休みだったので、午前中、集金に回りました。今日訪ねた取引先は、お客様へ対する愛想というか接遇の際の元気が足りない気がしました。扉を押して入った途端、上目遣いにジロリと見上げるあの顔顔顔。これではいけません。帰り道、私の営業3課もお客様へ同じ思いをさせていないか、私自身10人にお会いしたとき、10人全員へ同じ明るい態度でスマイルを返しているか、ということを考えました。接遇接客は大切です。午後、懇意にしている取引先の青年Kさんが訪ねてきました。売上代金と売れ残り返品のための来社でした。2千万円近くの業績を残してくれました。感謝感謝です。彼は今春、営業へ移動したばかり。皆が辛く当たりました。ブスッとして人当たりの印象はよくありませんでしたし、異動後、これからというときに足の親指を骨折し、松葉杖をつきながらの営業でしたから、そうなったのだと思います。私も皆と同じ気持ちになりかけましたが、彼の先輩Nさんから「後輩なのでよろしく頼む」と言われ、少しだけ贔屓目に接しました。思うに、管理から雲助の多い営業への移動は大変です。その分を大目に見ました。時を経るに従い、次第に彼の人となりが判ってきました。仕事にスピード感はないのですが、堅実です。おおらかなユーモアがあり、受話器を取っての最初、心地よいジョークを飛ばします。趣味はと訊くと、読書。読む本如何との問いには歴史物との答え。小説ではなく時代考証の評論や論文とのこと。たとえば「前九年の役前夜における朝廷の夷狄政策について」とか「弘仁貞観文化の特色」。人は見かけによらないものです。前九年の役や弘仁貞観文化を云々することはさておき、営業の世界に身を置きながら、別の世界を持つ彼の人となりに、ちょっと羨ましさを感じました。世話になったお礼にと、新月堂のマロングラッセをくれました。「私が好きなお菓子です」と添えてくれました。この一言に彼の人柄が伺えます。今日から水泳を再開しました。トレーニングのベースは番匠川河川敷から総合運動公園へ移ります。ラン6km+スイム600m。泳ぐのは2ヶ月ぶりです。国体のためプールが休館していたのです。夕食は午後8時前。秋刀魚の塩焼きでした。
2008年10月28日
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午前5時半に起きました。外気温は22℃でした。庭の鉢、ブーゲンビリアはまだ咲き続けています。寿命の長い花です。夏の盛りは水やりを欠かしませんでしたが、最近は雨が多く、ほったらかしになっていました。湿りのない日に差し水を失念するといけません。たちまち葉がだらりとなり、かわいそうです。終日晴れでした。正午前後の日差しは強かったですが、日陰に入ると涼しい風が通りました。夕方、ラン10km。腹筋トレーニングを少しして終わりです。途中、番匠大橋たもとで自転車に乗った息子に会いました。自宅からは20kmほど離れている場所です。後で聞くと、ぶらぶらしていたとのこと。大学生は、夏休みに実家へ帰ると、することがないのかな。考えてみると、私の時もそうだった気がします。その彼も、今週末には出立です。走り終えて、Kさんに会いました。彼は往年のランナーでした。前に書いたことがあるかも知れませんが、宗兄弟と一緒に都大路を走った人です。その時、佐伯豊南高校は7位入賞でした。今は佐伯走友会の事務局をしています。春に走った10マイルレースのお世話もしてくれた人です。番匠川のグラスコース1kmを芝刈り機で整備してくれます。今夏、建設会社を退職しました。幼少を過ごした海辺の町に実家がありますが、そこにある井戸の水が名水で、これをペットボトルに詰めて売りだそうと計画している、という話を聞きました。硬度90だそうです。評判になるといいのですが。昨日、友人のKさんがガスコンロを取り付けてくれました。リンナイ製の上等品です。Kさんは、ガス会社に勤務しています。拙宅のシステムキッチンコンロが、かれこれ20年選手になることを知っていました。購入のいきさつはこうです。彼の販売した製品が、納品後にキャンセルになり、格安でいいから買わないか、お得感がある、と勧めてくれたのです。27万円のものを10万円でよいというのです。既存のものは、型は古いのですが、磨き込んでいて愛着があり、まだ十分使えました。しかし、リンナイのホームページを見た妻はいっぺんに心変わり。即注文、納入になりました。妻曰く、掃除しやすい、立ち消え機能で火災の心配なし、グリルは魚のひっくり返し不要、タイマーが付いて自動点火・消火有り。今後の食卓を支えてくれそうです。午後9時過ぎ、床につきました。ゴーゴリが眠り薬です。勿論ノンアルコールです。
2008年09月03日
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私の会社に、Tという男がいます。30歳です。私は彼を見てハンサムの部類にいると思います。今風の言葉で表現すると「濃い」というのでしょうか。最近、若い人たちは会社でもラフな格好をするようになりましたが、彼は違います。いつも白いYシャツと黒のスラックス、それにピカピカに磨いた先の細長い黒い色の革靴という出で立ちです。身長は170センチを少し超えているでしょうか。体重は一時期90kgあったそうですが、今は70台に落としたようです。何でも、会社が引けてから、ウォーキングをし、功奏したらしいのです。でも、まだちょっと腹が出ているのかな。彼は、私の会社に入社してすぐに母親を亡くしました。以来、父親と二人住まいです。自炊、父君と自分のご飯を毎日用意するようです。時々、一人で町の居酒屋やバーに出入りします。でも独酌というのではなく、板さんやマスターと会話を楽しんでいるようです。飲む酒は日本酒、ワイン、焼酎、ビール、何でもこいのようです。酒の味にはこだわりがあるようで、酒談義をすると小癪なことをいいます。私は年に数回一緒しますが、総じて綺麗な酒です。私の方の酔いが早く、彼の酩酊したところを見たことがありません。彼は、私にとっては高校の後輩になります。中国地方にある国立大の夜学を卒業したそうです。日中、ガソリンスタンドでアルバイトをしながらの生活だったと聞きました。夜の講義は眠たくて仕方がなかったということを聞いたとき、苦学したのだなと思ました。彼のことを尊敬しました。仕事に関して、彼は優秀です。彼が総務部門にいたとき、私は社内規定改訂の相談を持ちかけたことがありますが、よく調べ、また勉強もしていました。助かったことを覚えています。私と彼の関係は同じ会社の社員ということだけではありません。以前、私の家内が小学校の教師をしていたとき、彼のいた学級を担任したことがあったのです。彼のことをよく憶えていました。彼の母親のことも覚えていました。情の深い素敵な方だったそうです。家内は彼のことを好青年だといいます。成人したあと、何度か会い、言葉を交わしたことがあり、そのような印象を持ったようです。彼は独身です。交際中の女性はいないようです。誰か立候補する人はいませんか。
2008年07月17日
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午前4時に起きました。夜来の雨は上がりました。今朝は音楽を聴きませんでした。ちょっと思うところがあり、ゴニョゴニョブログに書き込みました。書いていて思いましたが、社会問題とか政治問題は、ブログに馴染まないようです。なぜかというと、そのようなジャンルには多種多様の意見があり、場合によっては人を不快にさせたり、心を傷つけたりするからです。社会問題に真摯に向き合うことは重要ですが、危うきに近寄らずというのも処世術としては有りかなと思います。この辺が難しいです。今日は午前中、所用で蒲江の方へ向かいました。行きは海岸線、帰りは山中を通りました。リアス式の湾内に、筏が浮かんでいます。生け簀の中にはモジャコ(ブリの稚魚のこと)が入っています。この飼育がたけなわです。漁師が沖で捕獲したモジャコに餌付けをしているのです。筏の上には、餌をやる人たちが沢山います。餌付けが終わると、モジャコは各地の養殖業者へ売られていきます。蒲江で何人かの人と面会した後、今度は山あいの道を帰りました。轟(とどろき)峠を越えると、農家の人たちが田植えをしていました。青山から堅田あたりは早期米を栽培しません。今がが田植えの時期です。こうやって改めて私の町をドライブすると、農業や漁業の盛んなところだなと思います。会社への帰り道、親方に会いました。時々「よしべえ」という名で私のブログへ書き込みをする人です。もう60を過ぎた人です。寡黙ですが、年を重ねた渋さのようなものはありません。ユーモアがありポカンとしています。隣村の生産森林組合の組合長をしています。自らも森林所有者です。そうとうな山持ちです。一人で山の管理をしています。私も時々間伐を手伝います。私にとって、地下足袋を履き、チェーンソーを持って親方の山に行くのが、命の洗濯です。親方は県道沿いに小さな無人直販所を設け、野菜や花の苗を売ったりしています。1つ50円です。もちろん、自分が栽培したものです。2つ売れると100円儲かる、オロナミンCを買うことができる、200円儲かれば煙草を買うことができる、と笑います。親方はユンボの運転が上手です。ユーモアがあり、日々是好日という過ごし方をしています。金持ちではありませんが欲がなく、自給自足なので生活には困らないようです。親方の家にあるものを欲しいというと、何でもくれます。親方の所有する山林の雑木が、拙宅のストーブ燃料です。魚釣りが好きで、暇なときは(いつも暇のようですが)軽トラに乗って鯵釣りに出かけています。酒は一滴も飲みません。本も読みませんし、クラシック音楽も聴きません。カラオケで鶴田浩二の「古い奴だとおおもいでしょうが云々」を歌うのが好きです。明日は、私の地区にある養護学校の生徒を招いて、ドングリの木を植えるそうです。何でも地球温暖化対策らしいです。森の大切さを学習している学校の方針と合致したそうです。この学校に勤務する臨時教師(私の妻ですが)は、いろいろと骨を折ってくれると有り難がっていました。親方の写真です。今日は、右の乳首が痛かったです。思い当たりました。昨日、雨の中、走った時、水を吸ったランニングが上下に揺れ、擦ったのです。雨天になりそうなときは、ユニホームの選択に注意しなければなりません。夕方、ラン8km(鉄アレイ4km)+スイム400m。今日は疲れて、長い距離を泳げませんでした。グロッキーです。夕食はカツ丼でした。昨日のトンカツの残りを使ったものです。白ワインを開けたかったのですが、我慢しました。
2008年06月12日
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クラシック向きのスピーカーとして、オーディオ史上最上位にランクされる往年の名機「オートグラフ」を所有する人が、私の町に住んでいるとは知りませんでした。前々から面識はあったのですが、彼(Oさん)がオーディオの趣味を持っていることは、コーヒーの美味い店「ランブル」のマスターに教えられるまでわかりませんでした。ある日、その店でオーディオ談義をして以来、私は彼のことを師匠と思うようになったのです。その頃、20年ほど使ってきたYAMAHAのスピーカーは蜘蛛が巣を掛ける状態になっていて、私はミニコンの音に甘んじていた状態でした。その日、私はOさんに、学生時代に聴いた名曲喫茶の雰囲気を忘れられないでいること、CDよりレコードの方が雰囲気も含めていいなと思うこと、いつかはレベルの高いオーディオシステムを手に入れたいというようなことを話し、クラシックを聴くならばどんなものをそろえるといいのでしょうかという意味の質問をしました。彼の答えは単純明快でした。音楽はスピーカーで決まるとのことでした。先ず、オーディオは生演奏の音とは全く違うこと、電気的仕掛けで生演奏に近い音を出すよう追求した機械である旨の念を押されたあと、オーディオの音の良し悪しはスピーカーの能力で決まるからお金はスピーカーにかけるべし、クラシックなら断然タンノイの15インチスピーカーがいいとのアドバイスをしてくれました。やはりタンノイなのだなと思いましたが、念を押されたこと、つまりオーディオは生演奏にはかなわないという意味の言葉には、ちょっと考えさせられました。互いにクラシックが好きであったため、話は早く、彼のアドバイスを聞くだけで、私は面倒な視聴をしたり聞き比べをして購入する機種を決める手間を省くことができました。また、彼の所有するオートグラフを視聴させてもらったとき、これはもうタンノイしかないなと思ったものです。彼の話には、長年のオーディオ遍歴に裏打ちされた重みのようなものがありました。新製品が発売される度に美辞麗句を並べるオーディオ雑誌とは違うように思えました。彼は、次々と発売される新製品を否定こそしませんが、ヴィンテージタンノイの音を越えるものはないという思いを持っていたようです。聴き比べてきた者のみが語ることのできる世界を持っていました。私はオーディオの経験なしに、彼が一番に推すものをヤフオクで探し、価格が適正なものであるかどうかの判断も彼に求めて、ただ入札するだけでした。まさにオーディオの師匠です。私は、オーディオの世界を知りませんでした。昇圧トランスとは何に使うものなのか、MMカートリッジとMCカートリッジの違いは何なのかということを知らない門外漢だったのです。KT-88が真空管の種類であることや、トーレンスのTD-126がプレーヤーとしてとても優秀なこと、タンノイにはクォードのアンプがよく合うこと、などを少しずつ教えてもらいました。スパークの管球アンプを購入したときは、ムラードというメーカーの真空管をくれました。1本差し替えるだけで音色が違ってくるのです。おもしろいものです。彼の薦めで、タンノイのGRFメモリーTWWを競り落としました。持ち主は岩手県の方でした。続いてマッキントッシュのC32と2205。それに前述のプレーヤー。セットアップするときは彼がその作業を手伝ってくれました。コロンビアレーベルから出ているリヒテルの平均律を聴いたとき、二人して天国的な響きに痺れました。彼はジャズも聴きます。私もです。JBLのオリンパスや4344の話が出ましたが、ジャズ用のスピーカーはサブシステムになるので、そこまでは手が出ません。新品の4312SXを購入しました。アンプは奨め通りマランツの1250です。パンチの効いた骨太の音を出してくれます。彼も視聴して褒めてくれました。1250は一度修理に出したのですが、その際もいろいろとアドバイスを貰いました。彼は多くのレコードを所有しています。オペラもかなりあるようです。年に1回くらいの割合でオーディオルームを訪ね、タンノイを聴かせてもらいます。訪ねる度にオーディオ機器が入れ替わっているようです。もちろんオートグラフだけはそのままですが。これらを見るのも密かな楽しみです。
2008年03月04日
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私が小学校の頃、近所の松壽寺は朽ちかけたボロ屋のようだった。門も伽藍もない小さな庵のよう。南木佳士原作の映画「阿弥陀堂だより」に出てくるお堂のイメージ。そこには和尚さんの家族が住んでいた。夫婦と子ども一人。檀家は無いに等しく、生活は子どもの目にもはっきりとわかる貧しいものだった。奥さんが丸美屋のふりかけ「のりたま」を地区の家々に売ってあるいていたのを見たことがある。後年になって聞いた話だが、地区の人たちは彼らを疎んでいたらしい。さてその夫婦の一人息子、名前はシンちゃん。私よりも一つ年下。低学年の頃、一度キャッチボールに誘ったことがあるが、腕前はからっきしダメだった。その時にした会話を今も覚えている。彼は私に「僕は京都大学に行くのだ」と言った。鮮烈だった。四十数年前、昭和40年前後の時分、田舎少年の私にとって大学という言葉は遠い存在である一方、彼にとっては切実な高い志であり目標になっていることに、私は返す言葉がなかった。貧乏と孤立の中、小1か2の少年が「僕は京都大学へ」というのだ。今思い返すと、彼の目はとても輝いていたように思えてならない。松壽寺の傍を歩きながら、シンちゃんは今どうしているのかな、京大を卒業したのかな、彼のことだから間違いなく京大卒なのだろうな、そんなことが頭を過ぎった。それにしてもシンちゃんの両親はなぜ冷たい目で見られたのだろう。和尚さんは、いつも黒く薄い袈裟を身にまとっていて、大分の田舎言葉を話さなかった。無口で誠実そうだった。奥さんは地域の婦人会には出席していたよう。二人とも知的な感じだったようだが、これは私の思いこみで、確かではない。キャッチボールから1年位して引っ越し、彼らのその後のことはわからない。あれこれ想像が膨らみはするものの、思いここにいたり、わざわざ地域のお年寄りに彼らの話を聞くほどのこともないなとひとりごちた。
2008年02月23日
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午前5時半起床。外気温1℃。午前中デスクワーク。今のプロジェクトに関係のない幾つかの打ち合わせがあり、腰が落ちつかなかった。昼食は部下二人と社会に出て食べる。ごまだしうどんとアジ寿司のセット1人前740円。ネタの鮮度がとてもよい。うどんとの両方で満腹になる。パートナーに美味しいものを馳走し、喜ぶ顔を見ると嬉しいな。それに昼食だと安上がりだし。エヘヘ。よく晴れた。午後、昨年の11月まで携わった仕事に関係する会議があり、これに出席。小さなビルの会議室から海が見えた。湾口の島が浮島現象を呈し、対岸、愛媛県の山も青くはっきりと見て取れる。担当した議題が了承され、別の案件に移ると、その風景がきっかけになり、ある男のことが頭をよぎった。その男Tとは銀座の鳥銀という焼鳥屋で知り合いになった。カウンターで同席になって、私がTに声をかけたのが始まり。その日の数日前、試合の始まった横浜球場の入場券売り場近くを通ったときのこと。Tがダフ屋からチケットを購入しようとしていた。連れの女性がそれを止めるように訴えている。優しく袖を引っ張るように。美男というわけではないが大きい目をしたTと、今井美樹風の優しい顔つきをした袖引きの連れ。その様子が妙に印象深かった。そして数日後、まさか鳥銀で席を並べるとは。これこれしかじか、関内であなたを見たことがある切り出し、後は酒の促しもあってすぐに意気投合。その時は互いに一人客、話が弾んだ。以降、その店でよくTを見かけた。双方に連れのない時は相席をし、私と年齢が同じであること、音楽や本の趣味が似通っていること、左利きということを話した。知り合って5回目くらいの時、Tがもう一軒行きましょうと私を誘った。数寄屋橋交差点の南の方にあるビルの半地下、ピアノの弾き語りのある広いがシックなバー。カウンターの上に白い大きな鴎の模型を吊っていて、時折バーテンダーが吊糸を操作し、それがあたかも飛んでいるように見せる店。そこには仕事を終えた今井美樹似のM嬢が待っていた。彼女を紹介してくれたのだ。横浜球場の話しをするとM嬢は笑った。それから1年程、三人で食事をし、酒を飲んだ。Tが二人のデートに時々私を誘ってくれたのだ。Tは商社勤め、M嬢は理科大卒の才媛、電機メーカーのコンピューター部門勤務。私はTが羨ましかった。ある日、Tは鳥銀で私にM嬢と別れたと切り出した。当然結婚するものと思っていたので、驚いた。彼の話は概ね次のようだった。TはM嬢と婚約をしていた、Tに転勤の辞令が出て具体的な結婚話を切り出したらM嬢が首を横に振った、彼女は関節リュウマチを患い地方の生活は無理というのが理由、彼女に「私は横浜にしか住めないの」と言われたという。その日はTの望むまま梯子酒。彼はカラオケで何度も「セカンドラブ」を歌った。しばらくして転勤先からハガキが届き、数年後、その土地で結婚し、転職してその土地の人になった。いまも賀状の交換はしているが、東京で別れて以来、会ったことはない。今にして思うと、Tは焼鳥屋で知り合っただけの私となぜ付き合ったのか、不思議でならない。もう一つ、今もM嬢のことがちょっと気になる。素敵だったなぁ彼女。こんなことを考えていたら、ズブロッカを飲みたくなった。Tと一緒に飲んだ酒。いけないな、会議中にこんなことを考えては。退社前に昨日のトラブルの続き。帰りにリカーショップでズブロッカ一本購入。今夜は♪♪恋も二度目なら少しは器用に・・・♪♪。運動公園に回りラン5km+スイム1,000m。今夜は妻不在。同僚たちと懇親会。私は魚屋かわべでタコとブリの刺身を買った。これが夕食。今日は酒日。缶ビール二本+酔鯨二合。バタンキュー。
2008年02月01日
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私が教養部を終えて学部移行したとき、先生は下顎にできた腫瘍を切除するため、大学病院に入院しようとする矢先だった。3年の時分に授業を受けることができたのは数回だったと思う。4年になって先生の講座へ入ったときも病気休暇中だったが、夏になる前には復帰した。顎の骨を切り取ったため、顔の下四分の一ほどを失い、顔つきが変わっていた。けれどもそんなことはおくびにも出さず、明るい指導を心がけてくれたように思う。教授は同級生のWに電気泳動による解析を指導した。DNA解析が登場する前にあっては、個体群単位の比較はこの方法が先端であったように思う。私は助教授のK先生の下でマイワシの系群解析をやったがもっぱら計数形質の比較、Wの行う実験、シャーレの中がとても気になり、また華やかに思えてならなかった。しかし、おかげで統計学に詳しくなった。先生の専門は北海道の川を遡上するキュウリウオだった。海や河川の生物資源学にあっては権威だったように思う。当時、学生室での飲酒は御法度だった。しかし、講座の学生8人の誰からともなく先生の復帰祝いをしようという話が持ち上がり、禁を解くことになった。ツブガイをメインにしたおでん、手巻き寿司、手作りの身欠きニシン等がつまみ。先生は酔い、Wの頭を鍋で小突きまわし、もちょっと勉強して優秀になれといいながら、悦に入っていた。Wはアイスホッケー部のゴールキーパーで、少しくらいの茶々はものともしない。それがまた先生を上機嫌にさせた。助手のK先生はツブガイの中腸線毒に当たったのか、すぐに自室へ引き込んだ。助教授は高知出身のいごっそう、やもめでいつも苦虫をかみつぶしていたが、私には優しかった。女優は誰が好きですかと水を向けたら八千草薫かなと答え、皆がわいわい冷やかした。講座にはF嬢がいた。大学職員の娘さんで、その関係から講座のことを紹介してもらい、アルバイトをしていた。可愛く、学生たちのアイドルだったが、前述のような宴会があると仕事の合間によく準備を手伝ってくれた。もう一人、学年途中からKさんというちょっと色っぽい女性がアルバイトとして働き始め、講座の手伝いは二人体勢になった。途端に学生は、清純のF嬢を好む派と大人の雰囲気を持つKさん派に分かれた。隣の講座で音響による異物測定を勉強する無二の親友HたちがKさんを飲み会に誘ったとき、酔っぱらった彼女をおんぶしたときのHのことばが忘れられない。「女の体って、とてもやわらかいべな」。今、彼は札幌近郊の市役所で働き、息子は北大医学部を目指しているという。合格すればいいが。手前味噌だが、卒論のことはともかく学部の成績では8人中私が一番だった。しかし大学院への誘いは先生からはなかった。助教授は卒業前にどうして進学しないのかといってくれたが、先生は私の飽きっぽい性格と探求心に欠けるいい加減さを見抜いていたのだろう。8人の中で学位を取ったのはHのみ。ODになっても講座に採用されず、今は東北地方の水産高校で教鞭をとっている。他の者の近況、Wは大手商社の課長。F嬢と結婚するかなと思っていたKはエビの輸入会社を興し、Tは機械専門商社を退職し妻の実家を手伝っていると聞く。Sは大手スーパーのポスシステムを統括する仕事。全く勉強しなかったOは大手証券会社の部長。Sは静岡でマグロ関係の商社に勤務している。話を戻そう。先生は味噌屋の次男だった。家業は長男が継ぎ、本人は九州の大学へ遊学。その後、学位を取ってそのままこのの大学の教官になったという。ウバガイやホッキガイの研究では有名。私たちが卒業して数年後、退官記念パーティの案内があった。私も飛行機を乗り継いで参加した。同期Kと私の二人だったが、講座の先輩後輩100人ほどが集まった。そのパーティ以降、先生とは会わずじまいだったが、賀状だけは出し続け、頂いた。眼鏡の奥大きく丸い目を忘れはしない。合掌。
2008年01月12日
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午前4時半起床。外気温6℃。冷え込むようになった。午後は北風が吹き始めた。木枯らし一番。女性ボーカルのジャズを好き勝手にかけ回す。6時過ぎから二度寝。7時半に起きてリヒターのマタイ受難曲。ゆっくりした朝は宝船。ブランチのあと、10時を過ぎてチェーンソーで欅を切る。薪にするため。昼食は軽め、フランスパンとホットミルク。午後も作業。一段落して35キロ過ぎからの東京国際女子マラソンを見る。野口は凄い。1ヶ月1,300kmの練習をこなしたという。私は彼女のゴール後、運動公園の芝生を2キロのランニング+プール1,500m。チェーンソーを回していたら大工の源さんが訪ねてきた。山向こうのA村の人。実直な方。私よりも8才年上。村の芝居では主役をこなし、日本舞踊はおてのもの。林研グループの活動や米焼酎造りにも関係している。先般も小学生に木造住宅の模型を作って10分間で棟上げまでの工程を見せたという。妻が日だまりに渋抜きの柿と茶を出してくれた。旧交を温めしばし話し込む。中学時代、私の娘の卓球部1年先輩だった長男は地元で公務員、息子と同じ歳の次男は関東の大手自動車メーカー、長女は医療系機器製造メーカーへそれぞれ就職しているという。心配なしだ。2トンのトラックに乗っている。彼の顧客はほとんどが地元の人。村人のそれぞれが多かれ少なかれ山林を持ち、家を建てようとするときは所有する山の木を切って材料にすると決まっている。源さんは注文を受けると、建てようとする家に必要な材料全てをはじき出し、山の木を何本切って製材すれば足りるのかを逆算する。間違いはないという。それどころか、切り倒した木を製木する(玉切る)とき、この丸太は床柱でこちらの面が表向きとかこれは垂木用にと、製材への注文(わき方)を全ての丸太の小口(チェーンソーで切った面)へ書くという。倒木から家の完成まで全て一人で賄う大工はそうそういないと思う。以前日経の私の履歴書に宮大工の弁が掲載されたが、その文章を地で行くような人だ。たとえば「宮は北向きの檜山一山からだけの材料で賄わなければいけない」と書いてあったが、彼も家を建てるときは同じ山の木を使わなければいけないというようなことを言いそうな人。プールではトライアスロンをするM氏に会う。彼は塾の経営者。一目見て痩せたのに驚く。問うと、先月だったか先々月だったか、関東から九州までの長距離ランイベントがあり、これに参加、1日に90kmを走ったという。しかも毎日らしい。体脂肪がほとんどなくなった旨を話す。いやいや、この話も凄い。帰宅してビール片手に相撲観戦。千代大海の悪い癖が出た。夕食は鍋。就寝は午後7時半。
2007年11月18日
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卒業旅行で沖縄へ行った娘から、昨日、泡盛の小瓶とブックマークが送ってきた。イルカが中央を泳ぎ、周囲をカラフルな色で囲んだステンドグラス様式のカード。娘も色違いのものを求めたようで、嬉しい。本好きの私にとっては最高の土産だな。正月には帰省するのかな。来春には社会人。次第にここを離れていく娘。しかし、その気になればドアツードア、ほとんどの国へ24時間で行くことのできる時代。いつでも行き、帰ることができる。なんのことがあろうか。話したいときは携帯電話が即座に通じる。それに、そんなことよりも彼女には彼女の人生がある。大いに外に向かって進むのがいい。この町は疲れたときに帰ってくるところ。そのうち、私も妻も死んで、帰ろうとも思わなくなるだろうし、嫁げばそこがベースになるのだから。
2007年11月12日
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読売10月5日付け「時代/源流」の中に葱花勲先生の名。記事は、芹洋子の坊がつる賛歌を誰が作詞作曲したのかを追う内容。1977年、阿蘇であったコンサート(海援隊、六文銭出演)のフィナーレで歌われた歌に彼女が惚れ、著作権の問題を解決しレコードにしようとした際の苦労話。作詩は梅木秀徳氏、九大時代、山小屋の番をしていたとき、暇に任せて広島高等師範山岳部の山岳部歌「山男の歌」の替え歌を作ったという。氏は日田高山岳部の出身で、その時の同高顧問が葱花勲先生だったという。先生は私が高校生の時、校長だった。名言「平気前進」は同窓の胸に今も残る。先生の娘も同学年に在籍していた。もう10年以上前になるが、青山に住む建築士のH先輩が、先生の書いた本を見せてくれたことがある。その中に釣りの話があり、大入島高松へ釣紀行の際、イリコを製造する水産加工場の人たちから親切を受けたことが書かれてあった。おそらく網元Aさんのことだろう。ちなみに梅木氏は、津久見に住む叔父にとって大学の先輩にあたるらしい。叔父の自伝の中にそのようなことを含め、若かりし頃の交際を書いてあった。しかし、氏が数年前FM大分の仕事でみえたとき、叔父のことを話に出してみたが、記憶は定かではないようだった。氏は顔中に白髭を蓄えた容貌。
2007年10月26日
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スーパーでSのヨッチャンにあった。少し痩せたのかな。彼とは中学の同級生同士。当時、大柄で暴れん坊のイメージが強く、皆に一目も二目もおかれていた。怖がられもしたが、私には普通に接してくれた。今も体格は当時のままだが、50を前にするとはち切れんばかりの肉体も少し小さくなるのだろう。名古屋で左官修行をした後、今は地元のトンネル工事現場に働いているという。以前、血圧が高く、薬を飲んでいるのだと話していたが、今日の顔色からは小康を得ているよう。さて、その店のレジで見た光景を。若い、二十歳前のの小柄な青年。服装から明らかに土木作業を生業にしている様子。顔は日に焼け、赤黒くなっているが、目には幼さが残る。スポーツ刈りの短い髪の毛を少しだけ赤く染め、耳には細い金色のリングをいくつもはめている。レジで私は彼の後ろになった。彼の買い物は6カンが一列に並んだにぎり鮨、薄いブリの切り身が乗っている。ポテトサラダ、焼きそばのようなもの。総菜ばかり、いずれも半額のシールが張ってある。今日の晩ご飯なのだろう。支払金額は四百数十円だった。その時、彼の財布の中に数千円の現金が見えたが、カード類の入るスペースには何もなかった。先日、とある女子大生の買い物姿を横で見た時、彼女のそれには、いくつものカードと綺麗に揃えられた札が薄くない厚さで収まっていた。複雑な思い。彼の買い物は一人前の量なので、家に待つ女性はいないのだろうな。アパートに一人なのだろうか。彼の日当はどのくらいなのだろうか。倒産の相次ぐこの町の土木業界にあって、彼の働く会社は大丈夫なのだろうか。家に帰り、妻のつくった温かい夕食をパクつく息子。不自由なく東京の私大に通う姿はそれはそれでいいのだが、何か心に引っかかるものがある。スーパーの青年の境遇を思うことしばしだが、一方、親としてなにか息子に教えなければいけないことがあり、それを未だなしえていない感じがするのである。この気持ちは、息子が社会人になってする苦労を、これまでの親の経験則を教え諭すこと、で少しでも和らげることが出来ればという親馬鹿の心理なのかな。
2007年09月06日
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昼休みに瀬島龍三の訃報を聞いた。もう20年以上前にスカルノがらみの本を読んでいて、彼の名前を知り、ちょっと興味を引かれ、調べたことがある。その時は落下傘部隊だの大本営参謀だの戦争がらみと伊藤忠時代のことだけで、なんともおどろおどろしいイメージをもった。wikipediaによるとシベリア抑留が11年、東京裁判の証言者として抑留中に飛行機で東京との間を往復した話は興味深い。よくわからないが、源田実が生きた世界と深い関係にあったのではないか。裏の世界と表現するにはいささか遠慮があるけれど、舞台の裏側で演出する彼の立ち振る舞いには興味がある。回想録を読んでみようかな。明日の新聞記事が楽しみだ。
2007年09月04日
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妻の知り合いが逮捕された。新聞に実名報道。私も彼のことを知っている。もともと障害を持っていて、今回の事件はやむを得ないものだったような気がする。かつて、彼にあったとき、私は○○先生(妻のこと)の夫だと名乗ったら、「あーっ、あーっ」と笑顔で応えてくれた。あの表情を忘れることができない。ご家族のことをおもんばかると、やるせない。いい弁護士がついたと聞く。無罪になるだろうが、その後の生活のことを思うと、何ともいえない気分になる。妻はもうこの町にいないTからメールをもらい、いろいろと情報を得た。しかしなすすべは無し。私の友人Sは彼のことにどう関わるのか。NHKFMはフォークソングの特集。アリスの「遠くで汽笛をききながら」を聴きながら、M君のことを思う。
2007年08月18日
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琴櫻死亡の記事。のどわが得意の横綱だった。甲子園真っ盛りだが、広商の佃元投手も。左腕。球威はなかったが、個性の強い投球だったことを覚えている。
2007年08月16日
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午前4時起床。終日曇天、雨模様。妻も1時間間違え、早く起床。トラに起こされたよう。デスクワークのみ。計画策定プラン遅々として進まず。夕方プール、1,500m。調子よし。M氏を誘い、飲みに行きたかったが、我慢して泳ぎ、帰宅。森林組合の打ち合わせ、U氏と。夕食はトンカツ。揚げたてのロースは絶品だ。食後、妻はエアロビ。私は隠れて豚足と焼酎。ジャズを聴く。
2007年06月14日
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Yさんが訪ねてきた。県の水産部門に勤務し退職した人。今は大分宮崎と愛媛を守備範囲とする水産業界紙の嘱託記者をしているという。報酬は掲載記事につき行いくらという計算になるらしい。移動のガソリン代はなんとか賄えていると謙遜した。明るい記事、元気の出る記事を心がけ、もめ事は結果が出るまで書かないのがポリシー。いい仕事だ。私もしてみたい。
2007年06月12日
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明治時代、「酒は正宗酢は丸勘」と高橋是清。皆、これを知ってのことか、以前、漁協の組合長だったM氏の名に勘の一字があったため、マルカン、もしくはカンおいやんと親しみを込めて呼んでいた。氏は戦中、ビルマ戦線に出征。復員後、地域のリーダーとして地域漁業の顔になる。市の家は海に面した山の迫るA地区の高台にある。何度も訪ねたが、時々自分は飲まないからといってはウィスキーをくれた。さつき丸の雲丹は新網のチリメンも。身体に障がいを持った弟さんがいたが、もう亡くなって10年ほどになる。奥さんも癌で失い、今は一人。彼は褒章を受章している。私が推薦を起案した。読売編集手帳に丸勘の文字を見つけ、氏のことを思い出し、メモした。
2007年04月30日
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午前5時半起床。少し霜が降っていた。終日晴れるも花冷え。冷たい一日。午前中、今度の選挙に利用する小学校の体育館を下見。全面改築(立て直し)中で、投票に来た人達がいつも利用する通路を通ること能わずの状況。矢印の立て看板6~7枚を設置することにした。設置場所の土地の持ち主からはその場で了解を得る。地主の一人、Kさんはイチゴ農家。先日頂いたタケノコの礼を言う。受粉をするためのミツバチの箱が置かれていて、ぶんぶん舞っている。刺されないことがわかっているので近寄ってみると、心なしか甘い匂いがした。明日の夕方、投票所の設営。下見に同行したM、T両氏のうちT氏は私の近所、Kの弟と同じ歳。中学の時、ここへ遊びに来て、イチゴを盗んだりタケノコを掘ったりしたという。Kの弟はその後、二十歳位に不如意となり、自らを殺めてしまった。人(人間性、性格)はよかったのにと、しみじみT氏が話す。妻の独り言。「ねぇ、次のようなメールが来たわ。私の友人よ。彼女は breast cancer で手術し anticancer drug の投与を受けている最中。そんな中、彼女の妹が自害し、四十九日を先日済ましたというの。自分の病気ばかりが心配で妹を心配してあげる配慮に欠けたことを後悔していると書いてある。私、やりきれないわ」うーむ、これは重たい。Kの弟を思い出した一日だっただけに、重なるものだ。妻は、つい先だって肝臓ガンと診断され、自殺した人の関係者が身近にいて、葬儀が昨日だった一昨日だったかという話もした。夕方プール、1,400m。晩ご飯はカラスカレイの煮付け。
2007年04月05日
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昨日、娘息子に父がした話。曰く「昭和10年代後半、木立村には大学生はたった一人だった。日本大学に進学し、角帽をかぶって帰省した姿はスマートだった。彼は学半ばにして学徒出陣、激戦の硫黄島へ。そこに墜落したB29乗員を、栗林中将の命令で斬首した。戦後、捕虜となりGHQ再々審にも拘わらず絞首刑に。助命嘆願の村全戸署名を持って上京し、第一生命ビルへ行ったが、銃を持ったアメリカ兵がいて、とても近づくことができずおろおろ、情けない思いをした。後日、木立村役場に処刑の知らせが届き、村長のおとったんは成迫氏宅へその電報を届ける足が重いと嘆いた。しかも遺族への悔やみを終えた後、帰りのあぜ道で倒れ、戸板に乗せられて帰宅したおとったんもそのまま不如意。」
2007年02月25日
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職場を訪ねてきたIさんは私の町の史談会メンバー。市史編纂に携わった長老。弥生大間の人。彼の長兄は教師だった私の祖父と懇意だったという。自身も習ったらしい。一杯の好きな硬骨漢教師だったという。Iさんは8男。ひとつ上の兄は私の伯父と同級生。伯父は旧制中学を卒業後、満鉄に就職、召集令状、サイパン島玉砕。私も彼にそんな話をした。
2007年02月21日
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高坂正堯氏の言葉「全ての本を読むには、人生はあまりに短く、歴史はあまりに複雑である」この言葉を朝日の天声人語で見つけ、K君のことを思い出した。学生時代、天売島出身で、札幌、北24条駅のまだ北の方に住んでいた彼が同様のことを言っていたのだ。読書家の彼は、漱石をことのほか好み、高校を出たばかりの私と鴎外か漱石かという文学談義をした。山王丸という姓の下宿に住み、肩から、大学のマークの入った紺の鞄を下げ、歩いてキャンパスへ通っていた。初対面の時、メガネを掛け秀才面が印象深く、天売島の皆に期待されての進学だったので面はゆい、とこぼしていたのを覚えている。初夏の昼下がり、ニセアカシアの続く道を通って彼の部屋を訪ねたとき、「おい君、死ぬまでにどれだけの本を読むことが出来ると思うか。1日に1冊、1年で365冊。あと50年生きるとして1万7千冊あまりしか読めないのだ。大学の図書館にはいったい幾らの書籍があると思う。とても読んでしまうことは出来ない。ああ、どうせ限りがあるのなら、いい本を読みたいものだ」と話した。入学して2ヶ月あまり、まだ一度も足を向けたことのない図書館に、その時彼は浸りきっていたのだった。トーモクという梱包資材製造の1部上場会社に就職したが、その後、どうしているのかな。一度会いたい。昨日、同窓会誌親潮が届いた。同級生Sの訃報。複雑な心境。急にKのことを思い出したのもこの連絡があってのことか。
2006年09月12日
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終日曇り、蒸し暑い。午前5時起床。スターデジオプログラムチェック。朝食はパン、苺ジャム、ランブルコーヒー、スクランブルエッグ。昼仕出し弁当、夜ビーフンとウニに「佐賀乃誉」の残り。プール休館。シベリウスのフィンランディア他を聴く。タンノイが湿り気を帯びて、音が深くなった。先週、隣町の漁村に住む70台の女性が語る身の上話を聞く機会を得た。以下はその内容。釧路生まれ。娘の時分、炭坑の賄いをしていたとき、私の町から出稼ぎにやって来た坑夫に見初められて結婚。子どもを3人もうけたが、夫が身体をこわし、一家は九州へ。実家へ戻るも夫は次男、離れのあばら屋に住んだ。働くことのできない夫は飲む打つ買うの繰り返し。放蕩がたたり、呆気なく死亡。小中学生の子どもを抱え、彼女は土方に出る。毎日、建設現場でガンヅメと手箕を手に人力床堀の繰り返し。「その時は辛かった」。苦労して育てた子どもたちは皆成人、長男は関東でサラリーマン、長女も長男の近くに住み、次男は関西で大工。3人とも結婚し、ひ孫もいる。今は水産加工会社の作業員。港の独身アパートに住んでいる。子どもから一緒に住もうと言われるが、元気なうちはこの町に住みたい。今一番の楽しみはパチンコ。加工場の仲間も皆好きだそうな。今度、上京し、長男の用意した墓に、死んだ主人の納骨をする。「やっと肩の荷が下りそう」。
2006年05月08日
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先週の土曜日、T氏に会うことができた。T氏は、大学の大先輩の息子さんだ。大先輩が無くなった後、墓参りをせず、不義理を続けていたが、このほど会う機会を得た。彼は、国立音大在学中に東京交響楽団へ入団。その後、読売日本交響楽団に移り、現在に至る。50代前半の控えめな紳士。奥さんはチェリスト。いろいろと音楽の話を聞いた。ホルン、基本は手作りだが、今は機械作りのものもある。所有するものは100万円。ヴァイオリンと違い、最高額のものでも150万くらいらしい。持たせてもらったが10kgあるなしか。演奏中は、吐く息の水分が管の内側に凝結するので、頻繁に水滴を除く必要があるとのこと。確かに、管の途中を外して水分を切っていた。妻が「演奏中、パーカッションが指揮者を真剣に見つめていたが、他の楽器はそうでもないようだったですね」と意地悪い質問をした。氏は「そう、指揮者をほとんど見ない。チャイコの五番などは、ティンパニの音に注意をしていたほうが、間違いがない」。なるほど。続いて、指揮者の要求するピッチの話になると、妻の方が身を乗り出し、音譜の読めない私は蚊帳の外。読響の名誉指揮者にはザンデルリング、マズア、ロジェストヴェンスキー、ブルゴスなど、学生時代、レコードを飾った有名な人たちが名を連ねる。彼らのことを聞いた。マズアは音楽に厳しい人、ロジェストヴェンスキーはオケの人格を大切にする人、ブルゴスは練習嫌いの典型的なスペイン人。私にとって、ポートレートを見るだけの遠い存在だった彼らのことを、実際に彼らの元でホルンを吹いたT氏から聞くと、急に親近感を覚える。不思議なものだ。ロジェストヴェンスキーがボリショイのプリマと結婚した話をすると、彼の妻はピアニストだという。おかしいなと思い調べてみたら、やはりピアニストだった。ちなみに同じ名前をした月のクレーターがある。この由来はドミトリー・セルゲイビッチ・ロジェストヴェンスキーというロシアの物理学者。おっと、話題がそれた。オーケストラの労働条件は、基本的に終身雇用の年齢給。但し、コンマスや指揮者は年俸制。入団は狭き門。募集は音大などへネットワークを通じて行うという。近々、トロンボーンを一名募集するそうだが、応募は百人を超えているらしい。オケの全メンバーが応募者全員の演奏を一通り聴き、候補者を五人程度に絞る。再度、テスト演奏を科し、オケ全員の投票で最高点の人を仮採用するという。この時点で最高点が投票の過半数に至らない場合は、全てゴワサン、また再募集をかけるとのこと。さて、仮採用者は半年ほどオケの試用期間を経て、再度、全員の投票を受け、過半数の諾を得た段階で本採用となる。厳しい。氏は、昔はさほど厳しくはなく、容易にメンバーになれたと自分のことを謙遜していたが。演奏会のスケジュールについて問うと、日本のオケの中ではゆったりとした日程になっていて、数年に一度はヨーロッパへ演奏旅行に出向くらしい。また、他のオケへ加勢に行くこともあるそうで、今春はN響で吹くとか。読響の演奏は、日本テレビ系のBS民放で時折放送される。また楽しみが増えた。
2006年03月08日
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山向こうの集落に「波越の親方」という人がいる。古くからの友人で、拙宅に薪ストーブのあることを覚えてくれていて、あちらこちらの山にある薪をタダで貰い受けてくれる。本人はたいそうな山持ちだが、木材不況で貧乏を囲っている。出で立ちはいつも小綺麗だが、軽トラに乗り、山に入るときも安物とはいえ革靴を履いたりすることがあり、要は無頓着なのだ。週末には、太っちょのチェーンソー使いと痩せの小取りを子分として従えるときもある。小取りは無口でよく働くが、大のビール好きで痛風持ちらしい。チェーンソー使いは、チェーンソーを使うだけで、エンジンを止めているときは講釈ばかりらしい。親方はタバコを吸う。酒は1滴も飲まず、とんちの効いた話を好む。上等の土佐鉈を持つが、何時も錆びらかしている。趣味を持たず、本も読まぬ。パチスロから足を洗って久しい。生業はS林業の社長、といっても一人親方だけれど。椎茸や山菜を売り、先の二人に時たま炭を焼かせる。山芋は掘らない。彼の友人は大工、製材の親方、クラシックの好きな鍼灸院の大将、新聞記者など。変な組み合わせだ。ボケッとしているが、茫洋とした雰囲気がいいという人もいて、そんな人となりに付き合いを求める田舎者も他に何人かいるにはいる。
2006年02月12日
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読売に掲載されるドナルド・キーンの連載が面白い。自叙伝風。日経「私の履歴書」とはまた異なる風情。少年の頃、父に連れられての欧州旅行時、シェルブールに上陸し、パリへの途上「フランス列車のコンパートメントの窓のしたに取り付けられている小さな金属プレートに『てきぱきとしかし乱暴にしないで』とある」のを見つけ、フランスとアメリカの違いを知ったとある。このような観察眼をして多くの国の文学に長じたのだろう。食べ物についての雑感もある。それによると、世界各国のほとんどの食べ物は克服したが、どうしてもいけないものとして、猿の脳味噌、スッポンの生き血を挙げている。面白い。これを読んで、思わず自分の絶対忌避を考えた。これまで見聞きしたものの中で唯一いけないのは、後数日で孵化しようとする鶏の卵を半熟に茹でたもの。確かインドシナの食べ物だ。想像するだけで身の毛がよだつ。ドナルド・キーンアメリカ人。日本文学研究者、文芸評論家、翻訳家。日本の文化の欧米への紹介者として数多くの業績を残す。菊池寛、読売文学各賞受賞、文化功労者。
2006年02月09日
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「ぴあ」で次のコンサートを検索していたら、来月の初め、北九州の読響演奏会ヒット。ラフマニノフのピアノコンチェルト2番とチャイコの交響曲4番。曲も好いが、何より読響だ。私には、この交響楽団に、どうしても会わねばならぬ人がいる。金管のT氏だ。面会に絶好の機会。私は大分に帰ってのち、大学のある大先輩T氏に大層可愛がられた。彼は農林省を経て大洋漁業に勤務、アサリや鮪の輸出を担当し、退職後は故郷の大分市へ居を構えた。私が彼に出逢ったのはその時分。彼が同窓会の県支部長、私が幹事を引き受け(といっても支部の人数は全員合わせても十数名、支部総会をしても集まるのは5、6人が関の山)、それでも支部の大幹部会と称しては悦に入り、二人して大分の都町に繰り出していた。私より40近く年上の彼は、奥様を亡くし一人住まい、二人の息子も神戸と東京で音楽を生業にしているとのことで、私を息子のように可愛がってくれた。私は「先輩、先輩」と呼び、そう呼ばれる彼も満足のようだった。先輩の河岸、先輩の注ぐ酒をクイッと干すたび、よしよしと喜び、戦中戦後の学生生活のことを話してくれた。興が乗ると、全国の港町で体験した色話も小出しにした。その彼が昨春鬼籍に入った。訃報は図らずもその年の夏に同窓会誌を読んでのこと。数年前、卒中で倒れ、リハビリに努めていて、私も一昨年の暮れに村の特産イチゴや干物を持って見舞ったが、その時が最後の別れになってしまった。大分市に身寄りはないということで、焼香すら叶わなかった。しかし、今般、御子息が読響メンバーだという話を思いだし、ホームページを調べたところ、確かに在籍していることがわかった。以来の不義理を果たすべく、遅ればせの香典と、同窓会誌への弔文掲載に同意を頂こうと思っている。
2006年02月06日
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午後プール。1,000m。ここで中学高校の同級生Kと会う。隣町の中学教師、水泳部の顧問。子どもたちを連れて来ていた。S中学は県No1だそうな。彼の頭には白いものが混じり、顔も年相応になっている。二十歳の息子が福岡の大学に通い、サッカー選手としてかなり高いレベル、3人いる子どもの一番下は小6で先は長い、365日晩酌をするが、ビールは奥方に飲ませて貰えないと嘆いた。最近は教師の世界も世知辛くなったとも。プールから上がると、玄関で隣町役場勤務のT氏に会う。水泳部の子どもさん送迎のため来たという。3年生、今春息子の通う高校を受験、水泳部に入るとのこと。夕食時、息子にT君のことを聞いてみると有名選手なり。団体戦の戦力アップにつながることを期待。プールであった人をもう一人。NTTを退職し、津久見へ向かう途中の集落に住む60代の男性。軽トラに乗ってやってくる。品のいい紳士。K高校のOB。転勤族で、退職後、この町へ帰ってきたとのこと。よく会うので、どちらからともなく声を掛け合った。夕方、妻と塩湯に行くつもりにしていたが、時間折り合わず中止。相撲観戦。豪風が栃東相手にいい相撲を取った。垣添もそうだが、気合いのこもった取り口は見ていて感動する。千代大海の相撲は下の下。もう引退勧告はこれで何度目か。ついに妻が老眼鏡をこしらえた。眼鏡屋で計ったら視力が0.5。これでは肩も凝る。乱視もあるとのこと。4万円なり。図書館。シェイクスピア、吉川英治などを借りる。昨日いただいたコンサートチケットは両親へ。母屋へ持って行ったら、夜に供え、昼寝をしていた。ここの冷蔵庫にアコヤガイの貝柱有り。母がこれをくれたのでフライに。適度の歯ごたえと貝の風味。スペインのワインと合わせてみた。エストラデゴ レアル。フルボディ。あでやかなルビーだが、味は土気を思わせるほど濃い。料理にはミスマッチ。映画「ニューシネマパラダイス」。BSでやっていて、つい見入ってしまった。音楽もいい。これはスターデジオの間奏に入っているが、クラリネットで奏でるロマンチックな響きはほっと一息だ。
2006年01月14日
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早朝外気温1℃。冷え込んだ。リサイクルゴミの回収日。新聞、ダンボール、牛乳パックなどをまとめて集積所に出す。プール1,000m。約3ヶ月泳いだが体重は変わらず。上半身は少し締まった。夕食はカンパチ刺し。最近の養殖技術はめざましい進歩。餌や養殖密度、潮通しのいい海域などを研究しているのだろう、天然魚に近く、天然魚より美味い。熱々のご飯と食べる刺身は格別。合わせた酒は「極聖しぼりたて無濾過本醸造原酒」岡山市宮下酒造。芳醇さに欠ける。元々本醸造はそうとわかっていながら、つい次を期待して飲んでしまう。息子風邪気味。85歳の老人に戦争の話を伺った。「台北から8千トンの輸送船で南洋に向かう途中バシー海峡で魚雷攻撃に遭った。兵隊が3つの船倉に別れて乗船していたが、そのうちの一つに命中。中の200人は爆死溺死。それでも船は沈まず、1週間後、ベトナム・サイゴンに入港。死者を海水の入った船腹から引き揚げ、砂浜で荼毘に付した。7日間海水に浸かった死体は、抱える度にヌルリと皮が剥けて困った。骨は寄せ集めて一山にし、遺骨箱に入れて遺族に返したが、混ざり合ったものがそれぞれの故郷に帰還するはずがない。この体験で私は仏を信じることができないでいる。その後、今の東チモールを転戦。終戦は下関。その後、農家を継いで現在に至る。」『父と暮らせば』監督・黒木和雄 宮沢りえ主演、原爆後の市井に暮らす親子。『隠し剣 鬼の爪』監督・山田洋次 永瀬正敏主演。両映画とも佐々木譲は「主人公の家の下男下女には、何の役割も人格も与えられていません。あの男女の描きかたに、山田洋次の階級観の本音を感じてしまうのだけど。」と厳しい指摘。
2005年12月02日
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