「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2019.05.21
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カテゴリ: 美術館・博物館
ピーテル・ブリューゲルPieter Brueghel・・・とは?

Piter Brueghel the Elder

1525年か?1530年頃出生~1569年9月9日没

16世紀に活躍した画家・素描家・銅版下絵画家である。

ヤン・ファン・エイク以来となる

ネーデルランド絵画の巨匠となった。

出生地は・・・不明であるが

現在の「ベルギー」リンブルグ州かと推定される。

同名の長男と区別する為に



ブリユーゲル(父)の生年や出生地は、はっきり分かっていない!

ブリューゲル村の出身だと言う人物も居るが謎である。

農民画家と言われた彼が農民出身だと考えられるが

彼は、都会出身の人文主義者である可能性がある。

『イカロスの墜落のある風景』

「ブリュセル王立美術館」展示の作品は、ほぼブリューゲル(父)の模写であるとされている。


1551年、アントウェルペンの画家組合ギルド「聖ルカ組合」に

“Peeter Brueghels”という名前で登録されている。

組合に新規加入するのが通常では、21歳~26歳なので

ブリューゲルが生まれたのは・・・

1525年~1530年頃であると推定される。




ピーテル・クックファン・アールストから絵を習ったらしい?

クックは、当時の画家で最も尊敬された画家の一人であった。

神聖ローマ帝国カール5世に仕えた宮廷画家であり

彫刻、建築、タペストリーやステンググラスのデザインも手掛けた。

ブリューゲルに影響を与えたことが確実なもう一人の画家は、



ファン・アムステルは、ピーテル・クックの義理の兄であり

ブリューゲルに風景画、人物画に影響を与えた。

ブリューゲルは、

ピーテル・クックのアトリエを去ってから

アントウェルペンの版画家業者ヒエロニムス・コックの

下で働くようになった。

1550年9月~1551年10月までは、アントウェルペンを離れ

メヘレンのClaude DorziのアトリエでPierer Baltenとともに

手袋製造業者のギルドのために祭壇画を制作している。


1551年、アントウェルペンの画家組合に加入してからすぐに

イタリアに渡った。

リヨンを経てモン・スニ峠を越える路程で

画家マールテン・ド・フォスも一緒であったと思われる。

ブリューゲルは、ローマ滞在には飽き足らず

1552年、南イタリア・カラブリア州までおもむき

同年、トルコの攻撃で焼けた

レッジョ・ディ・カラブリアの街を描いた素描から推測される。

レッジョから、さらにメッシーナまで行った事も

彼の版画から推測がされる。

ブリューゲルの「死の勝利」は、

シチリア島・パレルモのスクラファーニ宮殿にある

フレスコ画に基づいたものであるとして

彼が、パレルモまで足を延ばしたと言う説もある。

ブリューゲルの最初期の作品である可能性がある

「イタリア風回廊のある山の風景」1552年、

「背景に山のある渓谷」1552年は、

南イタリアで描かれたものである可能性がある。

「ナポリの戦い」の油彩も

南イタリアへの旅を裏付ける。


1553年までに、ローマに戻ったと思われる。

Joris Hoefnageによる2枚のエッチングに

「ピーテル・ブリューゲル画、ローマ、1553年」という銘がある。
 Petrus Brugel Fecit Romae Ao 1553

ローマの「リバ・グランデの港」の素描も残っている。

ローマの啓蒙家ジュリオ・クローヴィオの収蔵品目録に

「半分を自分が、半分をピーテル・ブリューゲルが描いた細密画」

その他ブリューゲルの「バベルの塔」、

ガッシュ水彩画「リヨンの眺め」等

数点の作品が記載されていることも

ローマに滞在していた証拠である。


ブリューゲルは・・・

1554年には、北方に戻っている。

その時の道のりについては

モン・スニ峠、スイス、リヨンを通ったか?

これより東のミュンヘンを通るルートだったか?

争いがある!

マンデルは・・・

「ブリューゲルはアルプスで全ての山々と岩岩を飲み込み、

 帰って来てから、それをキャンバスとパネルの上に吐きだした」

と書いている。

ブリューゲルは、1555年までにアントウェルペンに戻った。

1555年、ヒエロニムス・コックが「大風景画」と呼ばれる

12枚の版画を出版していることから分かる。

ブリューゲルの油絵で日付の付されたものは

1557年が最初である。

当時のアントウェルペンは・・・

アジアへのアフリカ航路、

アメリカへの大西洋航路などにより

地中海沿岸都市に代わり大航海の一大拠点となると共に

絹・香辛料をもたらす中東、

穀物を産するバルト海、

羊毛を産するイギリスを結ぶ南北貿易でも栄え

ヨーロッパの中で成長著しい都市であった。

芸術も盛んであり

1560年には、360人の画家がいたと言われる。
(1569年時点でアントウェルペンの人工は約89,000人)

ブリューゲルは・・・

アブラハム・オルテリウスや出版者クリスト・プランタンなど

オランダの著名な人文学者たちと親交を持っていた。


ブリユーゲルは・・・

1559年から

“brughel”から、大文字の“BRVEGEL”に変えているが、

Hを落としたのは、人文学者の慣習に従いラテン語的な

書き方を採用してものと考えられる。

『叛逆天使の失墜』1562年


1563年、ブリューゲルは・・・

マリア・クック(1545年?-1578年)と結婚。

マリアは、ピーテル・クックと、

啓蒙家で水彩画家のMayken Verhulstとの間の末娘である。

ブリューゲルは、結婚と同時にブリュセルに移り住んだ。

彼の主要作品の多くは、

ブリッセル時代に制作された。

マリアとの間には、

長男ピーテル・ブリューゲル

次男ヤン・ブリューゲルと

娘1人が生まれた。

『ベツレヘムの戸籍調査』1566年


1567年8月、スペイン王フェリペ2世から派遣された

第3代アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドが

ブリッセルに入市して、プロテスタントに対する激しい弾圧を行った。

ブリューゲルは、この事態を間近で見ることとなった。

『聖マルティンのワイン祭り』1566年~67年頃


ブリューゲルは・・・

死の直前、妻に

「余りに直截的・風刺的な」素描を焼き捨てさせたという。

「後悔の念からか、妻が迫害されたり

 何らかの形で責任を問われたらすることを恐れていたためか」

とマンデルは、記している。この記録をめぐって

ブリューゲルの政治的・宗教的立場が

例えば再洗礼派のように、微妙なものであったのではないか?

という推測が行われてきた。

ブリューゲルは・・・

メヘレン大司教アントワーヌ・ド・グランヴェルから尊崇を受けており

フェリペ2世に仕えたアブラハム・オルテリウスとも親友であった一方

哲学的には、新ストア主義に近く

デジデリウス・エラスムスやトマス・モア、

Dirck Volckertszoon Coormhertの著作にも

親しんでいたと思われる。

ただ、特定の党派に属するものではなかった可能性が高い。

1669年、30代末~40代前半で没した。

ノートルダム・ド・ラ・シャペル教会に屈葬された。
(資料=ウィキペディア様他より)


・・・旅日記につづく・・・

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最終更新日  2019.05.21 00:10:13
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