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本書出版から60年余りが経つが、菅原氏が指摘した当時の問題は今も変わらない。 6、共産党や、社会党は、憲法擁護運動と銘打って、この法理無視の偽憲法の擁護運動を展開して、日本国民の正統憲法に対する遵法精神を悪用し、冒漬しつつある。 7、保守党は、当初、帝国憲法の改廃を放任しながら、いまや再軍備のために、この占領憲法の一部を改正して、砂上に楼閣を築き、二重の過ちを犯さんとしている。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 114) 現在聞かれる憲法改正は、憲法改正という言葉だけが独り歩きし、どこをどう変えるのかが明確でない。これはおそらく人によって問題意識が異なるので、改正派は、取り敢えず憲法改正の空気だけを醸成したいということなのではないかと思われる。具体的議論は進まず、ごく表層的な意見が聞かれるに留まっている。要は、本気ではないということだ。自民党内ですら、憲法改正に反対または慎重な人達が過半数を占めているのであろう。そうでなければ、これだけ圧倒的多数の議席を保有しながら憲法改正論議が進まないはずはない。 東西冷戦当時、左派は、日本の軍備を拡大させないために護憲をやかましく言う必要もあったが、冷戦が終焉し、その必要もなくなって、護憲政党というのも意味をなさなくなってしまった。 戦争の中身が物理的な「熱戦」から精神的な「情報戦」へと変化してしまって、第9条自体が時代遅れの観を呈してもいる。 菅原氏は、むすびとして、次のような提言をなされている。1、日本民族の伝統に即し、国家の組織や、政治の基本を定めた帝国憲法を、棚上げされたままに放任しておいては、法の支配する国とはいえぬ。2、普遍的法理に従って、この筋道を正すことが、文化国家として、はたまた民本主義国家としての第1の条件ではあるまいか。3、真理は、これを古今に通じて謬(あやま)らず、これを中外に施して悖(もと)らないものでなければならぬ。伝統を無視し、歴史を否定し、普遍的法理に反するものは、真理とはいえぬ。4、暴力をおさえて、法の支配を確立するためには、非常な叡智(えいち)と、勇気とが必要である。戦争に敗けても、正義を貫き通し、国法を護り抜く決意を持ち、艱難(かんなん)を意とせず堂々と大行進する民族の国こそ、其の文化国家というべきであろう。5、敗けたから仕方がないと、自暴自棄に陥ったり、自分らの忠誠心に欠けたがための敗戦の責任を、ものいわぬ憲法や、弁解されぬ天皇に転嫁し、占領終了後9年、未だに占領管理法を真憲法として奉戴(ほうたい)して恥としないようでは法治国とはいえない。もちろん独立国でもない。いわんや民主主義など論ずる資格はない。(同、p. 115)【了】
2022.08.10
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現行日本国憲法は、その本質が、占領管理法である限り、占領終了と同時に失効せるものと解すべきである。故に国家としては、速やかにこれが失効確認手続きをとるべきであろう。そして日本国憲法の失効が確定すれば、この法によって、一時効力を停止され、棚上げされているわが国本来の帝国憲法が、復活することも当然である。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 108) 日本国憲法は、基本的に占領統治法だったのであるから、占領が解かれた時点で失効すべきものであった。詰まり、現在は、その失効宣言が遅れている状態にある、と考えるべきではないかということである。 しかし今日の客観情勢上、帝国憲法がそのまま、復活したのでは、種々の混乱を伴うであろうから、これが改正、増補をする必要がある。その改正増補のためには、慎重を期し法律による憲法対策委員会を設置し原案を作成すべきであろう。そしてその原案を参考として改憲の御発議を願い、その復活憲法の改正ができるまでは、臨時措置法を制定しておく必要がある。しかしながら、その臨時措置法の制定について、また、改憲派だ擁護派だと抗争されても迷惑だから、現行の日本国憲法の内容をそのまま、一時借用すればよいと思う。(同) 失効手続きは後から何とでもなる。とにかくどうやって「失効宣言」にまで持ち込むのかを考えるのが先である。 菅原氏が指摘する中で大事だと思われるのは、「啓蒙的国民運動」というものである。 現在の中年以上の人達の頭は、敗戦と占領でだいたい狂っているのではなかろうか。論より証拠、天下を二分しているという社会党や民社党は、向米一辺倒は不都合だといいながら、そのアメリカが、日本の雁首を引き抜いたこの占領憲法だけは、金科玉条だというのだから、智能程度12歳と笑われても仕方ない。一方自民党も、保守党と銘打ちながら、社会党や共産党同様、占領憲法是認論で、ただ第9条だけ改正すれば十分だという。これが日本の2大政党の態度なんだから、正気の汰汰(→沙汰)とは思われない。それなら若い者はどうか。今の青年は、終戦後、修身も、地理も、歴史も教えることを禁ぜられて、占領下の奴隷生活時代に成長し、日教組と教授グループとによって無国籍人として教育された。こんな人たちに、祖国日本の永久憲法はいかにあるべきかと質問しても、答えが出るはずがない。要するに日本国民は曠古(こうこ=前例のないこと)の敗戦と、過酷な占領統治で、虚脱状態に陥り、長い間天国に遊んでいる夢を見ていたのだ。 政府はすべからく、日本とはいかなる国か、日本人とはいかなる民族か、なぜ大東亜戦争をやらなければならなかったか、どうして負けたか、そうして占領中の数年間なにをされたかを、赤裸々に、国民に告白し、かつ現下の国際情勢を、偏せずかくさず、徹底的に説明、周知せしむべきである。そして伝統の民族的信念と、健全なる世界的視野による感覚の上に立って、確固たる地歩を固めた後、おもむろに改正に着手すべきではあるまいか。(同、pp. 111-112)
2022.08.09
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憲法の無効復活論は、憲法第99条の憲法尊重擁護義務に反するから、国会議員、裁判官等の公務員は論議すべき限りでないというのである。かつて鳩山(一郎)首相が、政党からこの攻撃を受けて沈黙したことがあったが、これは立法論と解釈論とを区別しないことに座するものである。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、pp. 106-107)第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。 文化統合の象徴たる天皇に憲法尊重擁護の具体的義務を課すのは「倒錯」の極みと思われるけれども、そのことは一旦措(お)こう。 さて、第99条を拡大解釈してしまっては、憲法は無効はおろか一切の変更も認められないことになってしまう。が、そのようなことを言えば、第96条の改正条項と矛盾することになるだろう。第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。 言う迄もなく、第99条は、憲法に変更を加えることを禁ずるものではない。が、問題は、憲法の無効を宣言し、帝国憲法に復帰することまでもが認められるのかどうかということである。 が、現行憲法は無効であると宣言されることなど想定されているはずもないので、憲法の無効宣言は「法の網の目」をすり抜ける話と考えざるを得ない。詰まり、憲法が無効であることを宣言することは憲法で禁じられているわけではないということである。だから、憲法が無効か否かを検討することも第99条に反するわけではないということになる。 勿論、憲法に書かれていないことは何をやっても良いと言いたいわけではない。が、現憲法の特殊な黒歴史を払拭し、憲法を日本人の手に戻すためには、仕方のないことなのだろうと私には思われる。間違った憲法を間違った憲法の枠内で考えて、無効化することは出来ない相談だということである。 憲法が第9章第96条に改正規定を設けているのは、憲法自体改正論議を予想している証左である。憲法を真に尊重、擁護せんがためには、この憲法の欠陥、矛盾を是正さるべきで、そのための研究論議こそ必要であって、同様に、無効復活論もあえて禁ずべきではない。 ただ、現行憲法の無効が確認されるまでは、いかなる欠点があっても、事実上有効なものとして取扱うべきであるから、公務員がこれを尊重擁護すべきことは当然である。しかし解釈だけにとらわれて其の日本憲法がいかにあるべきかについて、根本的に大所高所から思いを致さないものは、公務員としても完全にその義務を果たしているものとはいえない。いわんや占領管理法が憲法を僭称している憲法受難時代においておやだ。(同、p. 107)
2022.08.08
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帝国憲法は、占領軍最高司令官の命令により、改廃され、その後占領軍がなくなっても、廃止された帝国憲法が当然復活するものでない(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 105)という説がある。 しかしながら、占領軍の帝国憲法の改廃手続きは、根本の国家統治権が、占領中という条件にかかっているもので、占領軍の行為の効力自体が、本質的に、占領中なる不確定期限付のものであって、制定行為者のいかんに関するものではない。またもし右の不確定期限付のものではなく、日本の正統憲法として、永久的に改廃したものであるなら、その改廃行為が、違法であるから、占領軍の存在いかんにかかわらず、無効のものといわざるを得ない。(同、pp. 105-106) 日本国憲法が憲法という名前が付いていても実質は「占領統治法」に過ぎないというのであれば、当然占領が終了した時点でこれは無効となる。また、これが帝国憲法の改正であるというのであれば、帝国憲法の改正条項に違反することになるから、違憲憲法ということになる。また、日本国憲法はそもそも帝国憲法を改正したものではなく、敗戦によって「革命」が起こったことによる「革命憲法」であるという考え方もある。が、このような考え方が「非立憲」的であるのは言うまでもない。憲法を改正する際は、「革命」と称すれば、何でも有りということにもなりかねない危険思想である。 サンフランシスコ平和条約第19条(d)に反するのではないかという者もいる。日本国は、占領期間中に占領当局の指令に基づいて若しくはその結果として行われ、又は当時の日本国の法律によつて許可されたすべての作為又は不作為の効力を承認し、連合国民をこの作為又は不作為から生ずる民事又は刑事の責任に問ういかなる行動もとらないものとする。改憲行為が違法であったとしても、いまさらその無効を主張することはできないというのである。 しかしながら同号は、後段の規定によって、明白なるが如く、連合国民の占領中の行為による責任を、占領終了後、問われることのないように、保護したものであって、行為自体の効力の問題ではないのである。改憲行為についていえば、改憲そのものが後日いかように決定されても、その決定による連合国民の責任は、これを追及しない、というにすぎないものであると解すべきで、過去の行為の現在における効力を再検討するは、独立国として自由たることは疑問の余地がない。さればこそ連合国民保護のため本号規定の必要もあったのであろう。(同、p. 106) 占領中のGHQの行為を蒸し返して裁判に掛けるということは出来ないとしただけであって、占領下に施行された法律は変更できないなどという意味であろうはずがない。
2022.08.07
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遡及(そきゅう)すれば大混乱を生ずるという説がある。 絶対無効とすればその効果は過去に遡及するであろうし、過去に遡及しては、せっかく曲りなりにも安定している社会秩序に大混乱が生ずるから、無効復活すべきでないというのである。 しかしながら、公法行為の無効は、理論上確認の時から将来に向かってのみ効力を及ぼし、過去に遡及するものでない。何となればそれは、不定名数(ふていめいすう)の善意の一般国民に影響を与うるが故に国家の権威を保ち社会秩序の保持を使命とする法の本質上、その無効の効力の遡及性は否定さるべく、なお心配なら無効宣言の際、遡及しないことを明定すればよい。わが国としてはもちろん、世界に類例の少ない「憲法の復活」を取り扱うのであるから、種々疑問も生ずるであろうが、衆知を集め、決断をもって、立法措置を講じ、万(ばん)遺漏(いろう)なきを期すべきであろう。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 104) 現行憲法が無効となったとしても、例えば、過去の判例が無根拠となるわけではない。現憲法を基に出された過去の判決は有効とし、これは覆(くつがえ)らない旨を特別に宣言しておけばよいということである。が、これらは判例として新憲法下での判決に直接影響するわけではなくなるということも確認しておくべきであろう。 案外実際上の事務処理は、格別の混乱を来たすことなく、でき得るものと思われる。それは新憲法施行の際、諸法令の整備が、半歳を出でずして完了したことを思えば、今度はその逆を行なえばよいのであって、わが国の法令整理事務を担当する法律技術者たちの手腕は、大した混乱を見ることなく、短時日をもって整備できることを確信する。(同、pp. 104-105) 次は、瑕疵(かし=法律または当事者の予想する完全性が欠けていること)ある行為として改正すればたりるという説である。 憲法改正に瑕疵があったとしても、それは改正憲法そのものが、無効というほどのものではなく、取り消し得べきものとして、訂正若(も)しくは補正し得べきものだと解する説がある。 もちろん脅迫の程度の強弱により、あるいは取り消し得るものとなす者もあろう。しかしながらそれは無効原因の1つたる「方法の問題」にすぎない。改正の方法の誤りも瑕疵の一部ではあるが、根本的に占領中なる「時期の問題」や「改正の限界問題」や、法的持続性の如き「内容の問題」があるから、かりに脅迫の程度が取り消し得べき程度にすぎないものとしても、全体としての無効原因を免脱し得るものでないというべきである。(同、p. 105) 敗戦後、日本の主権が剥奪された占領下において、国際法に反する形でGHQが押し付けたのが「日本国憲法」である。詰まり、日本国憲法を持ち続けることは、GHQの意向に従い続けること、謂(い)わばマッカーサー元帥にお伺いを立て続けることになり、日本は本当の意味で独立したことにはならないということである。
2022.08.06
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陛下は、われわれ国民の性急なのとは異なり、必ずや、長い眼をもって、悠久の国家の生命を、お考えになって、静かに国力の回復と、国民の自覚とを、お待ちになっておられることと思う。したがって国民としては、その地位のいかんを問わず、この際輔翼(ほよく)申し上げる心持ちで、それぞれの意見を天聴に達することが道であり、政府もまた正しい国民の啓蒙を徹底せしめることがその義務であると信ずる。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 97) これは、今上陛下というよりも、文化統合の象徴としての天皇と考えるべきか。 しかしながら、国家の大本(おおもと)たる憲法――それは日本民族3千年の伝統を、成文化された大憲章を、一旦の敗戦により、敵軍の蹂躙(じゅうりん)のままにして、これを放置することは、世界の普遍的憲法法理に反し、且(か)つ東亜解放の人柱(ひとばしら)となったところの戦争目的の一班(いっぱん)を自ら葬(ほうむ)って却(かえ)って世界の軽侮を招き、祖孫に対しても淘(まこと)に申し訳がない次第である。十年一昔(ひとむかし)論の如き中心なき敗北主義的生活に、時の効果を認めんとすることは、日本民族を、永久に精神的放浪民族とすることではないだろうか。この際小康(しょうこう)に安んぜず、断固として、大切開を施す覚悟をする必要がある。(同、pp. 97-98) 菅原氏の本気度が良く分かる記述である。私如き人間がどうのこうの言えるようなものではない。当時は、今とは違って、これだけ腹の据わった論者が健在であったということである。 次は、「無効宜言をする資格者がないという説」である。 絶対的無効とすれば、今の国会議員も、大臣も、すべて、資格を喪失するから、無効宣言のできる資格者がいないという説である。 しかし本来無効の法令であっても、有権的に成立したものである以上、無効宣言がなされるまでは、一応有効の取扱を受くべきものである。よってその法令に基づき、選出された議員も、官吏(かんり)も、失効確認までは、適法に職務の執行ができ得るというべきである。 いわんや国会において、日本国憲法の失効により帝国憲法が復活するため、これに関し種々善処されたき旨の上奏文を議決することは、帝国憲法による適法なる資格の有無にかかわらざるものと信ずる。即(すなわ)ち国民が一大請願運動を起こし、現在における国民の代表者たる国会が、これに応じて、天皇に対する上奏文を決議することは、なんら資格に拘泥(こうでい)することなく、有効になし得るものである。この上奏文に基づいて、帝国憲法上の地位を現在に保たれている唯一の御方(おかた)である天皇が、失効、復活の大宣言をなされば、合法、妥当に「憲法の復活」ができ上がるわけである。(同、pp. 103-104)
2022.08.05
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天皇に対しても、占領中の輔巽(ほよく)が十分でなく、現在でも十分ではない。そうした雰囲気において、天皇のお考えを忖度(そんたく)することが、すでに無理である。ことに天皇のお考え如何は、憲法治下においては、最初に問うべきことではない。かりにお考えを知り得ても、それに反する意見の持ち主は、堂々と主張すべきである。そして9千万国民の意向が、だいたいにおいて、定まった後お考えを伺うべきではなかろうか。諌争(かんそう)の臣(しん)なくんば国危うし、とは、君主国の古今、東西を通じての真理であるが、いまこの憲法復活の必要時機に際会し、とくにこの感を深くする。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、pp. 95-96) 我国の立憲君主制においては、「天皇は君臨すれども統治せず」であって、陛下に具体的意見を求めるべきではない。菅原氏と天皇観の違いを感じる。 今上天皇は、帝国憲法上の統治権者としての御身分を現に保有される唯一の御存在であらせられる。したがって陛下が現憲法の失効――帝国憲法復活の宣言をされれば、万事解決といわねばならぬのであるが、それはわが国柄でもなく、帝国憲法の趣旨でもない。要は国民が、無効――復活の法理を理解、納得し、しかる後、国民の一大請願運動となり、国会の決議をへて、天皇の御処置を願えばよいのであって、それが万民の輔翼である。(同、p. 96) 陛下は、具体的な政治活動に関わるべきではない。権威として儀式を執り行うだけであらねばならない。 この憲法で、最も御心を悩ましておられるのは、今上天皇であると拝察する。明治天皇が「国家統治ノ大権ハ朕ガ之ヲ祖宗二承ケテ之ヲ子孫二伝フル所ナリ」と仰せられ、帝国憲法第1条では「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定されたものが、今上陛下の御代において、未曾有の敗戦の結果、占領軍の命令によって、天皇統治は、国民主権に切り替えられたのである。陛下としては、まことに「五内為に裂く」と、仰せられた終戦の大詔以上の御心持ちと拝察する。しかもこの変革は、占領中なる限時的現象にすぎないものを、占領後もそのまま放置されているにおいては、陛下としては、一日も早く「憲法の復活」を実現して大孝をのべ給う御念願と、拝察する。(同、pp. 96-97) このように天皇の御心を忖度するのが日本の流儀である。が、ここから更に踏み込み、最終判断として、今上陛下の意見を具体的にうかがうなどという話になると、それは違うのではないかということである。天皇は、忖度すべき存在なのだ。俗世の混沌(こんとん)の中に引きずり込んではならない。
2022.08.04
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一時に全面的改正では困難だから、少しずつ、改憲して行って、漸次(ぜんじ)に帝国憲法に復活すればよい(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 94)という、「漸進的改憲論」というものもある。すなわち根本的に無効だといっても、簡単に復元の実現はできないから、それよりも第9条とか、第96条とかを逐次(ちくじ)に改正して、帝国憲法復活の実効を挙げたがよいという考え方である。(同) が、話は逆であろう。国際法違反の占領憲法は廃棄し、帝国憲法に原状回復した上で、徐々に改憲を行うのが筋である。これは自ら占領憲法無効という大義名分を放棄して、1つずつ改正して目的を遂げんとする現実主義的考え方だが、こと憲法に関する限り、こうした方便諭はとるべきでない。なんとなれば、憲法が筋道を立てないと、他の法律は、みな便宜主義に陥り、国家の正義も立たず、復興も期し難いからである。ことにこの種の論者は、第9条だけに重きをおき、第1条の国体論に触れることを避けているところに、わが国の憲法に対する建設的意見とはいい難い。(同、p. 95) 菅原氏は、これを<現実主義的考え方>と称しておられるが、要は、海外の反応を怖れて筋を通すことができない「負け犬主義」である。占領憲法廃棄ということになれば、シナや朝鮮が逆上するのは必至であろうし、米国も陰に陽に圧力を掛けて来るに違いない。 政府の無自覚と、PRの不足により、国民の大部分は、この憲法が、どのような制定経過をたどり、どうした内容のものであるかをよく知らない。それは私どもが時たまパンフレットを配付すると、地方の有力なる知識人から、全然真相を知らなかった、なんとかして真相を早く国民に知らせてもらいたいとの要望が、非常に多いことでもわかるのである。こんな程度の認識をもって、日本国民の其の世論というべきではない。もし、このままの状態で、保守党の改憲案を提案したら、おそらく純情な婦人層と、青年層とは、煽動分子の餌食となるであろう。(同、p. 95) 現憲法の制定過程も知らなければ、どこに問題があるのかも知らない。多くの国民が、義務教育によって、現憲法がいかに素晴らしいものであるのかがただ刷り込まれただけの状態で、憲法改正を話題にすれば、時の政権やマスコミの誘導に乗せられてしまうだけである。 今ある改憲論も、「憲法改正」という抽象的な言葉があるだけで、どこをどう変えるのかが具体的に議論されてはいない。国家権力が上から改正を押し付けるわけでもなければ、国民が下から改正を求めるわけではない。あるとすれば、米国の要請や国際情勢などの「横からの改正」ということになるのではないか。
2022.08.03
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原案が、アメリカ製でも、御仕着せ憲法でも、内容さえよければよいではないか。日本の根強い封建性を、廃止し得たのは、敗戦のおかげだ。憲法の良否は、その規定、内容が正しいか、正しくないかによって決する。実質を評価しないで、ただ与えられた憲法だから、不都合だなどと、感情論にとらわれずに、この貴重な犠牲による新憲法は、成立の欠陥をこえて尊重すべきだという説(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 93-94)がしばしば見受けられる。無論、本当に内容さえよければ良いのだが、現憲法のどこが良いのかさっぱり分からない。戦後教育の所為(せい)で、多くの国民が日本国憲法は素晴らしいと思い込まされているだけなのではないか。日本の風土に合わない西欧の価値観を無理矢理押し付けられて、有難がっているのは「自虐趣味」ではないか。 しかしこれは明らかに敗北主義である。ことに中世以降の失態をもって、直ちにわが国を封建国と断ずるのほ、歴史にも暗い。根本的に国体呪阻派の臭いが強い。しかも成立の過程を無視して、内容さえよければ、何んでも結構という乞食根性でほ、民主主義はどうなるのか。国民が、国民のために、国民の手で政治するという原則を無視して、どこに民主主義の権威があるであろうか。こうした実利主義は、結局独裁主義に陥ることになる。憲法の価値はその成立の由緒来歴にあることを知らなければならぬ。(同、p. 94) 菅原氏の言い分も分からないでもない。が、どうして現憲法の内容が良いことを前提としたかのように立論されているのだろうか。新憲法の来歴の問題のみならず、内容も大いに問題があることをはっきりさせるべきではないか。 ここで逐一問題を論(あげつら)うことはしないが、例えば、第9条の非武装条項は正当なものなのだろうか。日本が周辺諸国に軍事的圧力を掛けなければ戦争は起こらないなどということを信じるのは大馬鹿者である。日米安保によって駐留米軍が睨みを利かせているおかげで、シナやロシアは手を出せないだけである。第9条があるから攻めてこないわけではない。 「日本民族は、先の大戦で侵略を仕掛けるほどの好戦的であるから、このような縛りがなければ、再び同じ過ちを犯しかねない」などというのはまったくの「嘘話」である。先の大戦は、日本にとって「自衛戦争」であった。そのことは、朝鮮戦争後、すべてを悟ったダグラス・マッカーサーが米上院軍事・外交合同委員会で証言してもいる。大東亜・太平洋戦争は、日本が仕掛けたものではない。米英が日本を戦争に追い込んだのである。その裏には、ソ連スターリンの「敗戦革命論」があった。 東京裁判のラダビノード・パール判事は言った。「ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう」
2022.08.02
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あるいはまた、彼らが現憲法擁護に狂奔(きょうほん)するのはただ現憲法が、戦争放棄を規定するが故に、この非国家的規定を固守して、中ソの安全に資せんとする「祖国中ソ」に忠誠を尽くすための運動であって、わが日本国のための憲法擁護運動ではないのである。 もし日本の革新政党が、保守政党に先んじて、日本固有の憲法の復活を、法理論に従って主張し、その復活した帝国憲法の大改正を提唱し、筋道を貫けば、おそらく日本国民の人気をさらうであろうのに、中ソの第5列的役割から離脱し得ないことは、ひとり社会党のためばかりでなく、国家のためにも遺憾なことである。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、pp. 88-89) <護憲運動>とは、「平和主義」を隠れ蓑にした「日本弱体化運動」である。その先には、隙あらば日本を侵略したいと考えている、シナやロシアのような国がある。わが国は神代の昔から君民共治だが、それは天皇を9千万分の1と見るのではない。元首を選挙によって平面的に求めることをせずに、長い伝統の上に立つ者を、立体的に、歴史的に決定し、仁徳と輔翼(ほよく)との相互作用をもって一貫した超実利的祖先の理想を、地球上に実現、発展せしめんとする祖孫一体の家族国家である。(同、pp. 92-93) 果たして日本の政治は、<君民共治>なのか。鎌倉時代以降、権威と権力の分離が図られ、天皇は政治に関わらなくなった。明治になって、天皇が政治利用され、あたかも天皇が最高権力者であるかのような形になってしまったが、実際は、「天皇は君臨すれども統治せず」ということだった。<地球上に実現、発展せしめんとする祖孫一体の家族国家>などという話は、地に足の着かぬ「浪漫」であり、私はこのような「理想」に与(くみ)しない。わが国における政治の運営は、治者たる者の統治と、被治者たる者の輔翼(ほよく)――奉仕の関係である。いわゆる民主主義の徹底とは、わが国においては、この輔翼制度をいかに民主化するかである。大正、昭和以降の失政は、輔巽者が、個人化したことに基因するから、今後はすべからく、これを大衆化――国民化して、三権分立についていえば、国会も、内閣も、裁判所も、国民の中から直接、間接の選挙によって選び出された者に輔翼せしめることに、工夫をこらすべきであろう。(同、p. 93) <輔翼>という考え方も、天皇の権威を政治に活かすための一種の「便法」であって、ここに戦前の政治体制の不備を見るのは誤りであろう。むしろ、総理大臣の権限規定が帝国憲法からすっぽり抜け落ちてしまっていたために、「統帥権干犯(かんぱん)」問題が生じてしまったことの方が遥かに大きな問題であったと思われる。
2022.08.01
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共産党は、日本国憲法制定当時、野坂参三議員によって「未だ人民が自らの決定をなすことができず、したがってこのような重要な法案を自由に判断し、公正に制定することは不可能である」とまことに堂々たる反対論を主張しながら、いまや占領憲法擁護運動の急先鋒として、活動している。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 88) 日本共産党が、尤(もっと)もらしいことを言って新憲法に反対していたのは、戦前、国際共産主義組織コミンテルンから「天皇制」を解体するように命じられていたからであろう。だから天皇条項が記された新憲法に賛成できなかったのである。もっと言えば、敗戦で混乱する日本をより一層掻き乱して、あわよくば「共産主義革命」を引き起こしたいということではなかったか。社会党も、向米一辺倒は不都合だといいながら、アメリカが、日本の雁首を引き抜くつもりで制定した、占領憲法だけは、金科玉条だというのだから、これでは12歳と笑われても仕方あるまい。いったんつくった憲法を、どこまでも護り抜くという擁護運動は結構なことだ。しかし折角擁護するなら、真の日本の憲法でなければならぬ。(同) 護憲とは、<運動>によって行うものではないだろう。<運動>によって守らなければならない「憲法」とは、日本の伝統にそぐわないものだからではないのか。歴史のない新興国であればこうはいかない。が、日本には長い歴史がある。悠久の歴史に依拠した憲法であれば、わざわざ<護憲運動>など行う必要はない。敵軍がいたずらした占領憲法を、帝国憲法に対する日本民族の遵法精神を悪用して、擁護するのは、日本の再軍備妨害を企図しながら、占領軍たりしアメリカの傀儡(かいらい=操り人形)をつとめていることにはならないだろうか。(同) 果たして日本人は<遵法精神>が高いのだろうか。<遵法精神>が高いのなら、<護憲運動>など不要だろう。私は、占領憲法に遵(したが)おうとする精神が日本人に高いとは思えない。事ある毎に、占領憲法を持ち出して「自由」だの「人権」だのと言うのであるが、結局日常を制御しているのは慣習や慣例であって憲法ではない。だから憲法がどう書かれていようと、日々の生活には関係ない。 他方、日常を離れた裁判では憲法が重んじられるのだけれども、しばしば首を傾げる判決が出されるのは、憲法が日本の伝統に背(そむ)くところが少なくなく、日本人の「常識」に反するからではないだろうか。70
2022.07.31
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保守政権や、自民党では、自主憲法制定論をまっこうにふりかざしているが、占領中、間接統治され、傀儡(かいらい)政権として利用された臭味(くさみ)から、未だに脱けきらないでいる。なぜ占領憲法の是認を前提とする改憲論を主張する前に、わが国固有の憲法の命運について考えないのか。またなぜ占領軍の指示により制定された日本国憲法が、わが国固有の永久憲法として、存在価値があるかどうかについて、真剣に検討しないのか。占領軍によって与えられたものを、至上命令として、無条件、無批評に受け入れなければならぬことは、占領終了とともに、過ぎ去ったのではないか。アメリカと提携するにしても、番犬的でなく、完全に自主独立して、しかる後堂々と協力した方が、双方のためではないだろうか。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 87) この指摘は今なお有効である。現在の改憲論も現憲法の制定過程に何の疑義も呈さずに語られている。が、GHQが国際法に違反して日本に押し付けた、日本を弱体化するための法律を、どうして「憲法」として戴き続けなければならないのか。占領下に押し付けられた「憲法」を持ち続けているということは、日本は未だ米国の占領下にあるのと同じである。 日本は、憲法9条の所為(せい)で、防衛力は有(も)てるが攻撃力は有てない。それを補うのが日米安保である。が、米軍が堂々と駐留する日本は、果たして「独立国」なのかという疑問が湧く。やはり、「半独立国」と呼ばざるを得ない状態にあると言うしかない。 もし保守党の政治家にして、占領憲法が、敵軍の日本崩壊のための謀略憲法であったことに気がつかないなら、それは迂潤千万というべきであろう。また、もし気づいても、これを改める考えが出ないのなら、それは勇気を欠いた態度といわなければならない。保守党政権はすべからく、日本のあらゆる政治の行き詰まりの根源が、占領憲法の放置にあることを、自覚すべきである。(同) まさにその通りなのであるが、残念ながら今の日本には「保守党」が存在しない。岸田社会主義政権は言うに及ばず安倍政権でさえ「リベラル」色が強かった。本来保守とは、日本の伝統文化を保持し守るものでなければならないが、今ある保守とは、戦後日本を保守するものに成り下がり、憲法をはじめとして、戦前を否定視するところが少なくない。だから、戦後保守には、「反日」的色合いが少なくない、否、大いに見られるのである。 憲法改正にしても、何か大事なことを言っているようで、実際は、自衛隊の明記にせよ、集団的自衛権行使容認にせよ、米国の軍事体制に組み込まれる話でしかない。真に米国から独立し、その上で、米国と連携するというような本質論ではないということである。
2022.07.30
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《なぜ、戦後、ぼく達は、このような事態にあって、「無条件降伏」によって移植された民主主義と非軍事主義の原則に立って、その「無条件降伏」の非民主性、軍事性を衝(つ)く、そうした動きをとることがなかったのか。 それは、ぼく達の中にその民主主義、非軍事主義が、本当には根づかなかったことを意味するものなのではないだろうか》(加藤典洋『アメリカの影』(講談社学術文庫)、p. 176) 日本には、「自由」、「平等」、「人権」を勝ち取った西洋のような歴史がない。だから、日本人には、これら西洋の価値観の歴史的背景が分からない。結果、上辺だけの綺麗事になってしまうのである。《「無条件降伏」が、戦争終結政策として、また対外政策として、さらに一個の思想として民主主義、非軍事主義の対極に位置するものであることは、いったんそのことに気づいて、これをそのような検討対象に据えることさえ思いつけば、けっして分かりにくいことがらではない。 「無条件降伏」とは、これを政策として見れば、自分の信じるモラルを他国に強いるための力ずくの政策にほかならず、またこれを思想として見れば、本来国家間の交渉であるべき戦争行為に国民全部を“まきこむ”、一種の全体主義的思想、超国家主義的思想にほかならないことは――そのような眼からすれば――明らかだからである》(同、p. 177) <無条件降伏>を騙(かた)る「日本民主化」とは、実際は「日本弱体化」であった。また、思想的に見れば、日本の「共産化」であった。 軍隊の無条件降伏方式だから、国家と同一じゃないかとの意見もあるが、これは大きなちがいである。それはなぜ「軍隊」の文字を入れたかの経緯を調べれば、すぐに氷解するのである。すなわちアメリカ政府は、右の事情で、無条件降伏方式を放棄したのであるが、1934年以来全軍に対してはもちろん、世界に対して、無条件降伏を、豪語宣伝していた手前、いまさら、日本に対しては、有条件降伏方式に、変更したとはいえない。そこで、瞑別として無条件降伏に決まっている軍隊を、無条件降伏の上に書き入れて、日本に対しても、無条件降伏させたように、カムフラージュしたのが、その経緯である。わが国の学者、政治家、なかんずく外交官中には、占領軍の宣伝に迷わされて、未だにわが国が無条件降伏しているように錯覚している者も少なくない(例えば前掲の最高裁判決)が、真実は、かくの如くである。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 86)
2022.07.29
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《この言葉(=無条件降伏)、この事実が戦後に新しく日本にもちこまれ、根づいた価値の、いわば「守護神」、あの、サリンジャーの小説にいう「ライ麦畑の守護神」に似たものとして語られ、受けとめられてきたのはそのためである》(加藤典洋『アメリカの影』(講談社学術文庫)、p. 176) 主人公ホールデンは、高校を退学になったばかりの16歳。妹フィービーに将来の夢を訊かれ、「子供たちを守る捕手になりたい」と不思議な答えを返す。"Anyway, I keep picturing all these little kids playing some game in this big field of rye and all. Thousands of little kids, and nobody's around--nobody big, I mean--except me. And I'm standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch everybody if they start to go over the cliff--I mean if they're running and they don't look where they're going I have to come out from somewhere and catch them. That's all I'd do all day. I'd just be the catcher in the rye and all. I know it's crazy, but that's the only thing I'd really like to be. I know it's crazy." -- J.D. Salinger, THE CATCHER IN THE RYE「とにかく僕は、すべてこの小さな子供たちがこの大きなライ麦畑などで何かゲームをしているのをずっと想像しているんだ。何千人もの子供たち、そして周りには誰もいない――大きな人は誰もいないってこと――僕以外はね。そして僕はどこか危ない崖のふちに立っている。僕がしなければならないのは、もし彼らが崖を乗り越えようとしだしたら、誰であれ捕まえなければならない。つまり、もし彼らが走っていて、行く先が見えなかったら、僕はどこからか出てきて、彼らを捕まえなければならない。一日中それしかしなかった。ライ麦畑の捕手みたいなものさ。おかしいとは思うけど、本当になりたいものはそれしかない。馬鹿げてるって分かってはいるよ」―J・D・サリンジャー『ライ麦畑の捕手』 さて、<無条件降伏>とは、この<ライ麦畑の捕手>のように、子供たちが道を踏み外すのを既(すんで)の所で捕まえ止める「安全装置」のようなものなのか。戦前の日本は道を踏み誤った。だから、今後は道を踏み誤らないように、<無条件降伏>によって西洋流の「処方箋」を施したということなのか。 が、そもそもGHQは、親心よろしく日本を民主化しようとしたのではない。「降伏後に於ける米国の初期の対日方針」にあるように、 日本カ再米國ノ脅威トナリ又八世界平和心安全ノ脅威トナルコ トナキ樣保證スルコト詰まり、日本弱体化がその目的であった。「自由」「平等」「人権」「平和」は、日本を民主化するためのものというよりも西洋的価値観の一方的な押し付けであった。それは、明治期の「和魂洋才」のように、「西洋的なるもの」を日本に移植するのではなく、日本の文化伝統を否定するものであった。 加藤氏も次の如く指摘する。《しかし、このことは必ずしもこの守護神がその守護する価値を代表していることを、意味しない。時には、その守護神と守護されるもの達が、全く相反する価値を代表しているということもありうる。そして、「無条件降伏」という守護神についていえば、一見すれば明らかなように、それ自体の代表する価値とそれがまもろうとし、またもたらそうとする価値のあいだには、うずめようのない亀裂のあることを、指摘しなければならないのである》(加藤、同)
2022.07.28
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《たしかに日本は無条件降伏したのかも知れない、しかし、たとえそうだとしても、このような政策を他の国家と国民、とりわけ他の国民に迫るというのはおかしいではないか、――ぼくなどの眼から見れば、これは不思議というほかないが、とにかくこのように問題をたてた人は、ひとりもいなかった》(加藤典洋『アメリカの影』(講談社学術文庫)、p. 173) <日本は無条件降伏したのかも知れない>などと曖昧なことを言う加藤氏は、夢の中にでもいるのであろうか。日本は、ポツダム宣言にある条件を呑んで降伏したのであるから、これを無条件降伏と言うのはおかしい。 また、後段の<このような政策を他の国家と国民、とりわけ他の国民に迫るというのはおかしい>というのも、いかにも文芸評論家的な、門外漢の物言いであろう。政治的に考えれば、無条件降伏という決着の仕方はないわけではない。無論、無条件だからといって戦勝国側は、何をしてもよいというわけではない。国際法や慣例に反することは言うまでもなく行えない。《しかし、考えてみれば、これは何もこの時だけのことではなく、この「無条件降伏」論争に参加した批評家達は、それこそこの1945年の「小括弧にくくられる」無条件降伏の解釈を争いながら、「大括弧にくくられる」無条件降伏という政策ないし思想を何の疑いもなく受けいれていた点、日本人の国民的常識にしたがっていたというに、すぎないのである》(同) <無条件降伏という政策ないし思想>は、どういう理屈で否定され得るのか。「勝てば官軍」よろしく、米国による原爆投下という国際法違反の大虐殺も、ソ連の中立条約破棄、そして条約破棄後1年の中立有効期間を無視し、対日戦に加わったのも、御咎め無しというのが国際社会の現実なのである。無条件降伏などという無慈悲なものは有り得ないなどと考えるのは、加藤氏が現実を見ようとせず、平和のお花畑で夢想に耽(ふけ)っていたからに違いない。《無条件降伏は、戦後、たしかに日本に民主主義をもたらし、そこから戦前の軍国主義的機制を取り除く、その大変革のなくては叶わぬ契機となった》(同、p. 176) 無条件降伏が日本に民主主義をもたらしたなどというのは嘘である。現在という「高み」から見れば、まだまだ未熟ではあっただろう。が、世界に先駆けて、すべての成人男子に選挙権を与えもしたし、戦時中でさえ、内閣は改造を繰り返した、詰まり、独裁に陥ることなく、民主主義は弱々しくとも機能していたのである。 戦後齎(もたら)されたのは、「フランス革命」を理想とする革命思想である。「自由・平等・博愛」の三幅対(さんぶくつい)を大層有難がっている戦後日本人が多いのだろうが、これらが本来革命を志向するものであることを警戒する者は稀有(けう)と言うべきだろう。
2022.07.27
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故にポツダム宣言には、カイロ宣言と異なり、日本国の無条件降伏でなく「日本国軍隊の無条件降伏」と記載され、つづいて9月2日の降伏文書にも「茲(ここ)に日本帝国大本営並に何れの位置にあるを問わず、一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の連合国に対する無条件降伏を布告す」とうたっているのである。しかも同宣言には、連合国として、自ら数ヵ条の義務さえ提言し「吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルべシ、右二代ル条件存在セズ」と誓約し、完全な有条件方式を、採用しているのである。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、pp. 85-86) 戦後日本では、一般に、無条件降伏したとされているが、ポツダム宣言は有条件降伏だという意見との論争がかつてあった。 文芸評論家・加藤典洋(かとう・のりひろ)は言う。《ここで考えたいのは、「無条件降伏」のことである。 といっても、あの、1978年江藤淳と本多秋五の間でかわされた、いわゆる「無条件降伏」論争にいうそれとは、少しばかり違う。1978年のあの論争においては、1945年のポツダム宣言受諾が有条件降伏を意味するか、無条件降伏を意味するか、その、どちらかといえばスコラ的論議が力をもったが、ここにいうのは、そこでどのようなわけか誰からも考えられなかったこと、1945年の日本の降伏のかたちではない、無条件降伏という政策そのもの、そこにひそむ一種異様な「思想」としての、それだからである。 いったいに、いまから振り返ってみて、あの1978年の論争がこの「無条件降伏」という考え方のまわりをめぐりながら結局いちどとしてその中心に位置するこの考え方そのものを問わなかったというのは、何か、非常に興味深い事実とぼくの眼には映る。 江藤はポツダム宣言受諾をさして、有条件降伏であるといい、本多はこれに対して、無条件降伏であるとこたえたわけだが、江藤のいうのは――もし本当に無条件降伏だったら仕方がないが――そうではなかった、というものであり、無条件降伏そのものが江藤によって否定されたわけではけっしてなかった。 むしろ、無条件降伏そのものを、これはおかしい、とする立場に立てば、このような論議のレベルが成立しなくなるという意味では、この1978年の「無条件降伏」論争は、無条件降伏という政策ないし思想を問題にしなかったのではなく、それを問題にしないことで――つまり、もし本当に「ドイツのように」無条件降伏したのなら、仕方がない、ということを共通認識にし、その政策と思想を不問に付すというか、前提とすることで――成立しているのである。(加藤典洋『アメリカの影ー戦後再見ー』(講談社学術文庫)、pp. 172-173)
2022.07.26
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しかるに、その後、太平洋戦局がますます苛烈となり、いわゆる南方の飛び石伝いの作戦によって、惨憺(さんたん)たる損害を蒙(こうむ)った連合軍は、この上、さらに本土決戦を行なって、日本を潰滅させ、無条件降伏をかちとるためには、スチムソン陸軍長官の計算によれば、5百万人を動員して、百万人の犠牲を覚悟しなければならぬことが、明瞭になったのである。いかにアメリカでも、人命尊重の手前、これではとうていその負担にたえられないと、統合参謀本部でも思い悩んでいる時、たまたま捕えられた高級俘虜(ふりょ)の供述で、日本は天皇の地位さえ安全なら、降伏する用意あることが判明したので、百万人の生命には代えられないと、無条件降伏方式を一擲(いってき)して有条件降伏方式に変更して、1945年7月26日のポツダム宣言を発したのである。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 85) 本書執筆当時は、情報が限られていたから仕方がないことなのだが、実際は、米国側は、皇室が保全され安泰であるならば、詰まり、國體(こくたい)が護持さえするのであれば、降伏する用意があることはポツダム会談よりも半年も前から分かっていた。《したがって、ポツダム会該で(無条件降伏の)最後通牒(つうちょう)(ultimatum)を発する7月26日から遡(さかのぼ)ること半年前から、日本側から講和の動きが示されていたし、2週間前にもロシアに対して明確にその意思が伝えられていたことがわかる。しかもそのことは解読された交信記録からトルーマン、バーンズ、スチムソンは知っていた。 この事実は重要である。まず少なくともバーンズは日本からの講和の提案の事実をポツダムにやってくる以前から知っていたこと、スターリンは、ヤルタで秘密裏に約束された中国の領土を獲得するまでは、連合国と日本との戦いを終わらせたくなかったことがわかる。講和を求めるいくつかの動きの中で一貫しているのは皇室の保全であった。スチムソン長官はその条件でよいとずっと考えていた。彼がトルーマン大統領に宛てた長文の覚書の中に次のような一節がある。〈現王室を立憲君主制の下で維持する可能性を排除しない、とする項目を付加すべきである。そうすれば日本は降伏を受諾する可能性が高まるだろう。〉》(ハーバート・フーバー『裏切られた自由(上)』(草思社)渡辺惣樹訳、p. 142) 米国が、「日本の無条件降伏」ではなく「日本軍の無条件降伏」という形の、謂わば妥協的講和を急いだ背景には、ソ連の動きが絡(から)んでいた。《スティムソンは日本がソ連に和平仲介を求めていることを察知し、日本がソ連の懐に飛び込む前に日本を降伏させるべきと考えた。そのためこの会談中に降伏勧告を発するべきと主張し、リーヒ参謀長の支持を得たものの、バーンズは反対した。またリーヒ参謀長は、草案第2項において「日本の無条件降伏」となっていた部分を「日本軍の無条件降伏」と改め、天皇制保障条項を「日本国民は自らの政治形態を決定できる」と天皇に言及しない形に改めるよう提案した》(ウィキペディア「ポツダム宣言」)
2022.07.25
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アメリカはじめ連合国は、日本占領を軍事占領と考えていたこと「降伏後におけるアメリカの初期の対日方針」にも明瞭に軍事占領たることを記載されており、さらにGHQのアメリカ本国への報告書「日本の新憲法」にも「……純粋な法律的見地からは、現行憲法の枠内には、全面的改正のための機構は存在しなかったし、かつかくの如き機構をつくることは、ハーグの規約を破る軍事占領者の不適当な干渉だと考えられる恐れがあった」と、反省の内情まで曝露している(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、pp. 83-84) GHQは、日本の現行憲法を破棄し、自分達の息のかかった新憲法を作るのは国際法違反であることは分かっていた。だから、形式上、現行憲法に則(のっと)った改正であるかのように偽装せねばならなかったのである。今回の日本占領は、従来の占領とちがった征服に準ずべき性質のものであって、それはハーグ規約をはじめ、占領に関する従来の国際法、国際慣例、もしくは外交上の先例をもって、律すべからざるものであって、無条件、無期限に、征服に準じた占領統治が行なわれても、致し方のないものであるという意見がある。そしてその根拠は、わが国が連合国に対し、無条件降伏したためであるというにある。しかしながらこれは無条件降伏の効果を過大視するばかりでなく、ドイツとちがい、日本の場合には、全然あてはまらない見解であることを知らなければならぬ。 すなわち、無条件降伏方式なるものは、1943年(昭和18年)1月25日、ルーズベルト大統領と、チャーチル首相とが、アフリカのカサブランカで、会談した際、ルーズベルトが「今度の戦争処理は、無条件降伏方式でいこう」と発案し、チャーチルが、それに賛成したものである。この方式は、日本とドイツとを、とことんまで追い詰めて、降伏したら、絶対権力をふるって、否応なしに、終戦処理をしてのけようという案である。 その年の11月27日調印の米、英、中3国のカイロ宣言には、「日本ノ無条件降伏ヲ齎(もたら)スニ必要ナル云々」と記載されてあるが、これは「日本ノ無条件降伏ヲ齎ス」とあって、無条件降伏方式を採用していること明らかである。(同、pp. 84-85) 確かに、当初は日本を「無条件降伏」させようという話になっていたのであるが、その後、話が変わって、ポツダム宣言の条文に従った「有条件降伏」ということになったのである。が、これが国際世間に「譲歩」のように受け取られると格好が付かないので、無条件降伏を装ったのである。
2022.07.24
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今次の日本占領は、ポツダム宣言実施のための占領たる点において、一種の政治占領の観はあるが、その占領目的は、一にかかってポ宣の内容によって、定まるべきであった。そしてそのポ宣の主たる目的は、日本の非軍事化と、民主化の2つであって、格別一般占領と区別すべき実益はない。ただあるいは民主化を日本の国体変革まで含むものとして、そのための憲法改廃も合法だという意見もあるが、ポ宣はすでに述べたとおり、国体変革まで含むものでなく、かりに含んでいても占領なる異常状態において、国民意思の自由表明があり得るはずもなく、正統憲法の合法的改廃など望み得べくもない。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 83) 「ポツダム宣言」の目的は、連合国への日本の報復を抑え込むことにあり、それが日本の「非軍事化」「民主化」の意味であった。が、日本は厭戦(えんせん)国家なのであって、そもそも連合国側が戦争へ引き摺り込まなければ大東亜・太平洋戦争も起こり得なかったのである。 日本の民主化についても、連合国側が日本を理解していなかっただけで、「大正デモクラシー」を見ても分かるように、日本はむしろ背伸びをするくらい「民主主義」を取り入れんとしていた。が、時代状況が戦争へと雪崩れ、戦時体制が強化される中で日本の民主主義が影を潜めてしまっていただけである。 戦争が終われば、日本の民主主義が再び表舞台に立つことになったであろうことは想像に難くない。が、GHQは、日本を弱体化させるための「民主化」政策を行った。《GHQで当初、主導権を握ったのが、ルーズベルト前大統領のニューディール政策を支持するニューディーラーたちだった。コートニー・ホイットニー准将率いる民政局(GS)がその中心で、同局のチャールズ・L・ケーディス大佐らは日本を二度と戦争ができない国にするため、経済力を弱めるだけでなく、日本人の精神構造を変えることをめざした。そのような日本の弱体化を目論(もくろ)む彼らの「民主化」の理論的根拠となったのが、ジャパノロジスト(日本研究家)として当時、最も権威のあったノーマン理論だった。(中略)ノーマン理論に基づく占領改革は、日本共産党を「民主主義勢力」と見なした。同年10月10日、東京・府中刑務所に服役していた共産党幹部を釈放したのを皮切りに、教育界と産業界、メディアにおいて共産勢力の台頭をもたらし、占領下の日本は、あたかも革命前夜の様相を示すようになった》(岡部伸「GHQを操った“ソ連のスパイ”? 「日本の共産化」を企てたハーバート・ノーマン」:web Voice 2021年09月16日 公開) 日本の「民主化」は「共産化」だった。岩波・朝日を本拠とする「進歩的文化人」の戦後の活躍はその典型と言ってよいだろう。
2022.07.23
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もし真に当時日本に革命があり、その結果できた日本国憲法であるならば、何故にその旨を憲法の中に明記されなかったか。占領軍が一字一句の変更も許さないと強要した「前文」になぜ堂々と記載されなかったであろうか。記載しないばかりか、逆に勅語で、帝国憲法の改正たることを明記させ、さらに議会審議に際し、法的同一性の厳守を指示していることが、革命でなかったなによりの証左ではないだろうか。今日の成文法時代に、帝国憲法第73条によって改正したのだと、明記されているものを、いやそうじゃない、実際はそれと正反対の革命による新憲法なのだという主張が許されるであろうか。もしそんなことができるとすれば、それは日本の革命ではなくして、憲法学の革命ではなかろうか。憲法を護ることを使命とすべき憲法学者が、そこまで憲法理論をまげて、憲法の敵たる革命に屈服し、革命理論をかりきたって、日本国憲法の有効を弁護してよいであろうか。今後また実力をふるってこの憲法を改廃する者が出たら、革命論者たちは再びこれを弁護し、革命を謳歌するであろうか。それは学問の実力に対する屈伏であり、憲法学者の自殺ではないか。それで果たして学問の権威は保持できるであろうか。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、pp. 81-82) まったく菅原氏の指摘の通りなのであるが、宮沢俊義の言う「8月革命論」は、変更を許さぬ憲法の根本義が、神勅主権から国民主権へと移行したのは、通常の憲法改正では行えないことなので、この部分だけは「革命」によって移行が図られたのだということにして、その他は通常の改正手続きに則(のっと)り憲法改正がなされたという、とても憲法学の大家が考えたとは思えない低俗な理屈なのである。が、このような恣意(しい)的に過ぎる理屈を憲法に明文化することなど出来るはずもなく、いかにも立憲的を装った、実際は非立憲的憲法改正が行われたというのが真相なのである。 休戦後、一定目的遂行のため、占領管理する場合を、一般占領と区別して、戦後占領または保障占領といい、ハーグ規則第43条の適用を排除するという。しかしこれも戦果確保のため、武力をもって敵国を管理することにおいて、一般占領と同様であるから、ハーグ規則の適用を排除すべき理由はない。ただ占領目的が、一般占領は敵国の軍事力の破砕が主たる目的であるのに、保障占領は、休戦協定等によって定められた政治目的を遂行するために行なうものであることに、多少の差異があるにすぎないものである。ゆえにたとえ両者を区別し得るとしても、政治占領の方が、戦闘的混乱がないだけに、国際法尊重義務が加重されることはあっても軽減されることはないと解せざるを得ない。(同、pp. 82-83)
2022.07.22
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《新憲法が成立する前に、国民主権主義がすでに成立していたのだとすれば、新憲法が、その前文で「日本国民は……この意法を確定する」といって民定憲法の形式をとっていることもうなずけるが、それならば、その民定憲法たる新憲法が、なぜ、国民代表と考えられる衆議院の議決のほかに、国民となんのつながりもない天皇の裁可と貴族院の議決とを必要としたのであろうか。私の見るところでは、8月革命によって、明治憲法は廃止されたと見るべきではなく、それは引きつづき効力を有し、ただ、その根拠たる建前が変った結果として、その新しい建前に抵触する限度においては、明治憲法の規定の意味が、それに照応して、変った、と見るべきである。したがって、その新しい建前に抵触しない限度においては、どこまでも明治憲法の規定にしたがって、ことを運ぶのが、当然である。憲法改正も――少なくとも、形式的には、――明治憲法第73条によって行われるのが、適当と考えられる。ただ、その場合、国民主権主義の建前からして、憲法改正の手続は、できるだけ民定憲法の原理に則すべきことが要請され、その結果として、表面上は、明治憲法第73条によりながらも、その民定憲法の原理に反する部分――天皇の裁可と貴族院の議決――は、たとえ形式的には規定が存しても、実質的には、憲法としての拘束力を失っていたと見るべきではないか、と考えている》(宮沢俊義『憲法の原理』(岩波書店)、p. 389) 以上が、宮澤氏が考えた、帝国憲法から日本国憲法への移行の理屈、否、屁理屈である。 話を戻そう。占領軍の弾圧により、天皇統治制は、国民主権制に切り替えられ、それを勅語によって、天皇の御意思に基づくものと偽装し、法理無視の不明と、不磨の大典蹂躙(じゅうりん)の不孝の罪を、今上天皇に負わせ奉ることになったのである。 しかし、いかに勅語の形式はとられても、これまた占領軍の管理下に出された不自由勅語――管理勅語たるに相違はない。 しかもこの国体の変革は、日本国民の内部から盛り上がった革命勢力によるものではなく、占領軍なる外力によるものであった。すなわち日本の統治権が占領中、最高司令官の「制限の下」(Subject to)に立たされた関係上、占領軍は便宜上、限時的管理法を制定したのであって、革命が行なわれ、それによる革命憲法が制定されたものとは、全然趣きを異にするものである。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 81)
2022.07.21
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《国民主権主義を承認するということは、それまでの日本憲法の根本建前である神勅主権主義を再建することであり、右にのべられたように、合法的にはなされえないことである。したがって、降伏によって、日本が、それまでの根本建前を廃して、国民主権主義を承認したということは、正規の憲法上の手続では許されないとされている変革が事実の力にもとづいて、行われたということであり、その意味で、これを法律学的意味における革命――8月革命――と呼ぶことができる》(宮沢俊義『憲法の原理』(岩波書店)、p. 388) 先ず、宮沢氏は戦前を<神勅主権>などと言うが、この用語は宮沢氏独特のものであり、甚(はなは)だ一般性を欠く。《神勅主権という言葉は、日本の天壌無窮の神勅と西洋の主権(sovereign power)概念を組合させた考え方であって、日本思想と西洋思想との混同主義に陥っている。多義的な主権概念がもともと拉典(ラテン)語のsupremitasに由来し、誰が誰よりも優越しているかということを問題にした論争的概念であること、そして馬上天下を取った覇者が、その支配権(→王権)を唯一絶対墨高の神(ヤハウェ→エホヴァ)の宗教的絶対主義によって根拠付け正常化し、権威付ける思想であったことを理解し得ていない》(森三十郎「プロイセン國憲法、大日本帝國憲法及び日本国憲法とヘブライズム」(ユダヤ思想の研究 No.13)、pp. 20-21) 更に、宮沢氏は、「革命」による憲法改正ということにすれば、正統性や継続性は問われない、詰まり、やりたい放題かのように言う。が、GHQに魂を売り、御用学者然としていることに、良心の呵責(かしゃく)というものはないのだろうか。《かように考えると、神勅主権主義の否定と国民主権主義の成立とは、すでに降伏とともに、なしとげられたことであり、新憲法が、その明文で国民主権主義を定めているのは、いわば宣言的な意味をもつにとどまる、といわなくてはならない。そして、かように、国民主権主義が、8月革命によって、すでに成立しているという理由によってのみ、明治憲法第73条の手続によるという形式をとった新憲法が、国民主権主義を定めることが、決して違法でないとされうるのである》(宮沢、同、pp. 388-389) 日本は、「8月革命」によって、国民主権主義となった。その後、革命によって否定されたはずの帝国憲法が突如復活し、第73条の改正手続きにしたがって帝国憲法を国民主権主義に改正するというのである。立憲主義とはこんないい加減なものだったのか。
2022.07.20
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《1946年元旦の詔書で、天皇は自身「現御神(あきつみかみ)」でない旨を言明し、みずからの神性ないし神格を否定した。このことも、右にのべられた8月革命を前提としてのみ、理解できる。8月革命によって、神権主義が否定されていたから、かような詔書が発せられることができたのである。もし、8月革命がなかったとしたら、かような詔書は、とうてい発せられることができなかったはずである》(宮沢俊義『憲法の原理』(岩波書店)、p. 386) 「此の世に人間の姿で現れた神」を「現御神」と呼ぶ。確かに、日本の歴史文化を体現される「天皇」はそのような御存在だと考えられる。天皇は、祈りを通して彼岸と此岸を繋ぐ祭祀王であり、彼岸と此岸の境界線に位置する境界人である。 天皇は、彼(あ)の世から見れば「神」であり、此の世から見れば「人間」である。肉眼を通して見れば「人間」であるが、心眼を通して見れば「神」である。勿論、このような話は1つの「虚構」(fiction)に過ぎない。が、此の世は、様々な「虚構」から成り立っている。「天皇」に「現御神」と見ることによって、そうである「かのように」(森鷗外)受け止めることによって、日本社会は円滑洒脱に回るのである。そういう文化を作り上げてきたのが日本という国なのだと思われる。 天皇は、謂(い)わば「半神半人」的存在である。したがって、「天皇は現御神だ」と宣(のたま)うのも、「天皇は現御神ではない」と宣うのも過言の誹(そし)りを免れないだろう。所謂(いわゆる)天皇の「人間宣言」は、陛下の御意思を鑑(かんが)みることなく、GHQによって強要されたものであろう。が、大御心(おおみこころ)は本来、耳ではなく心で聞くものである。《明治憲法の定める憲法改正手続――その第73条によるもの――で、明治憲法の根本建前、すなわち、そのよって立っているところの原理的基礎を変えることは、できない。そうした可能性――法律的可能性――をみとめることは、法律論理的には、自殺を意味するからである。つまり、明治憲法第73条による改正手続で、明治意法の根本建前である神勅主権主義を廃して国民主権主義を採用するということは、法律的には、許されないと解すべきである。したがって、新憲法の施行とともに、日本の憲法の根本建前として、神勅主権主義が廃されて、国民主権主義が成立したという解釈は、正しくない》(同、p. 388) <法理的自殺>は許されないから「革命」と考えるというのは果たして筋の通る話なのであろうか。「革命」と考えて、すなわち、社会の継続性を断ち切って、「横車」を押そうとするのは、まさに「外道」の所業と呼ぶべきものなのではないだろうか。
2022.07.19
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《日本の政治は神から解放された。あるいは、神が――というよりは、むしろ神々が――日本の政治から追放されたといってもよかろう。日本の政治は、いわば神の政治から人の政治へ、民の政治へ、と変ったのである》(宮沢俊義『憲法の原理』(岩波書店)、p. 384) <神の政治>とは具体的にどのような政治のことを言っているのだろうか。戦前、天皇は「現人神(あきつみかみ)」と称された。が、これは、抽象的な「目に見えぬ天皇」であって、具体的な「目に見える陛下」のことを意味するものではない。「目に見えぬ天皇」は、歴史伝統の中に存在するものであって、これが「神」の如く称されているのである。 各種世論調査でも、天皇は多くの国民に支持されている。今でも日本人の心の中には天皇という「神」がいる。日本は、天皇という「神」に守られている。当然、日本の政治も天皇という「神」に守られている。にもかかわらず、<日本の政治は神から解放された>などと言うのは、天皇に愛着を持たぬ宮沢氏の個人的心情の吐露に過ぎないと言うべきである。《この革命によって、天皇制はかならずしも廃止されなかった。その廃止が約束されもしなかった。しかし、天皇制は一応維持されはしたが、その根柢は根本的に変わってしまった。天皇の権威の根拠は、それまでは、神意にあるとされたのであったが、ここでは、それは、国民の意志にあることになった。日本の政治が、神の政治から民の政治に変ったのと照応して、天皇も、神の天皇から民の天皇に変ったのである》(同) 天皇の存在の根拠は「伝統」にあるのであって、憲法に書かれ、定められているから天皇が存在するわけではない。天皇が伝統的存在であることは、昔も今も変わらない。明治以降、天皇が憲法に規定された「国家制度」のような形になってしまっており、「天皇制」という左翼用語がこれに呼応してしまうのではないかと危惧される。「天皇制」という用語は、国際共産主義組織コミンテルンが日本の皇室破壊を命じた際、使われた用語であって、この用語を使用することには少なからず注意が必要である。《この革命――8月革命――は、かような意味で、憲法史の観点からいうならば、まことに明治維新このかたの革命である。日本の政治の根本義が、ここでコペルニクス的ともいうべき転回を行ったのである》(同) が、果たしてこの<転回>は正しいものだったのかどうか、さらには、日本の主体性なしに、GHQによって無理矢理<転回>させられたことをどう評価するのか、といったことは、どこかで改めて考えるべき問題であろうと思われる。
2022.07.18
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《元来、憲法そのものの前提ともなり、根柢ともなっている根本建前というものは、その改正手続によって改正されうるかぎりでない。そうした改正手続そのものが、憲法の根本建前によって、その効力の基礎を与えられているのであるから、その手続でその建前を改正するということは、論理的にいっても不能とされざるをえないからである。明治憲法についていえば、天皇が神意にもとづいて日本を統治するという原則は、日本の政治の根本建前であり、明治憲法自体もその建前を前提とし、根柢としていたと考えられる。したがって、明治憲法の定める改正手続で、その根本建前を変更するというのは、論理的な自殺を意味し、法律的不能だとされなくてはならない。すなわち、天皇が神意にもとづいて日本を統治するという原則は、明治憲法に定める憲法改正手続をもってしては、変更することができない、というのが、ほぼ支配的な学説であった》(宮沢俊義『憲法の原理』(岩波書店)、p. 382) <天皇が神意にもとづいて日本を統治する>などというのは宮沢氏の勝手な解釈である。帝国憲法と新憲法の非継続性はそのようなところにあるのではなく、欽定帝国憲法が突如として民定憲法になったところにあると言うべきだろう。《日本は、敗戦によって、それまでの神権主義をすてて、国民主権主義を採ることに改めた》(同、p. 384)などという説明は無理筋である。そもそも言葉の位相が合っていない。神権主義と対比されるとすれば、それは世俗主義であろうし、国民主権と対比されるとすれば、天皇主権であろう。が、宮沢氏は「天皇主権」とは言わなかった。さすがの宮沢氏も、戦前が「天皇主権」だったなどと言うのが憚(はばか)られたということであろう。《かような変革は、もとより日本政府が合法的になしうるかぎりではなかった。天皇の意志をもってしても、合法的にはなしえないはずであった。したがって、この変革は、憲法上からいえば、ひとつの革命だと考えられなくてはならない。もちろん、まずまず平穏のうちに行われた変革である。しかし、憲法の予想する範囲内において、その定める改正手続によってなされることのできない変革であったという意味で、それは、憲法的には、革命をもって目すべきものであるとおもう。 降伏によって、つまり、ひとつの革命が行われたのである。敗戦という事実のカによって、それまでの神権主義がすてられ、あらたに国民主権主義が採用せられたのである。この事実に着目しなくてはならない》(同) <神権主義がすてられ、あらたに国民主権主義が採用せられた>というのは<事実>ではない。libenter homines id quod volunt credunt.(人は見たいものしか見ない)
2022.07.17
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《それまでの日本の政治の根本建前は、一言でいえば、政治的権威は終局的には神に由来する、とするものであった。これを神権主義と呼ぶことができよう。明治憲法は、その第1条で、「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と定めていた。ところで、その天皇の権威はいったいどこから来るかといえば、それは神意から来ると考えられていた。具体的にいえば、天孫降臨の神勅が、その根拠だとされた。天皇の権威はそこに由来した。天皇は神の子孫として、また自身も神として、日本を統治する、とされた》(宮沢俊義『憲法の原理』(岩波書店)、p. 380) 宮沢氏の天皇に関する考察には同意しがたい。詳しくは稿を改めたいが、天皇は西洋における「唯一神」とはまったく異なる存在である。よって、天皇を「神」と見るのは誤りである。英語でも天皇はGodではなくEmperorと訳されている。天皇は「神」ではない。詰まり、戦前を「神権主義」などというのは「偏見」でしかないということである。《かような根本建前――神権主義――が、国民主権主義と原理的にまったく性格を異にするものであることは、明瞭である。 国民主権主義は、政治的権威の根拠としての神というものをみとめない。それは、政治から神を追放したところに、その位置を占める。そこでは、「民の声は神の声」といわれるから、あるいは、そこでは国民が政治から神を追放して自らこれに代ったのだといってもいいかもしれない。そこでは、国民の意志が政治の最終の根拠である》(同、pp. 380-381) 戦前と戦後の日本を、西欧流の君主と市民との権力闘争の構図で捉えようとすることに無理があるのだ。戦前と戦後の日本は、天皇と国民の権力争いではない。そもそも戦前の天皇には「権威」はあっても「権力」はなかった。天皇は直接政治には関わらなかった。戦前と戦後は、よく言われるところの「天皇主権」から「国民主権」への主権争いではなく、元老による「寡頭制」から大衆による「民主制」への政治体制の転換であった。 政府の憲法改正草案は、かような日本の政治の根本建前の変革――神権主義から国民主権主義への変革――を、憲法に明文化しょうとするものであるが、そういう変革を「意法改正」の形で行うことが、そもそも憲法上許されることであるかどうか。これは、憲法上きわめて重大な問題である。 明治憲法は、憲法改正の手続を定めていた。その条章を改正し、または増補することは、そこに定められた手続によって可能なわけであったが、そこに定められた手続をもってすれば、どのような内容の改正も可能であったかというと、決してそうではなかった》(同、p. 381)
2022.07.16
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革命説の根拠としては、種々主張されるが、最も代表的なものは、バーンズ回答の「最終的の日本の政府の形態はポツダム宣言に遵(したが)い日本国国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」とあるのを、ことさらに政府の形態とは、国体すなわち天皇統治制か、国民主権制かという主権の帰属を決定することであって、その決定権は、従来天皇に専属していたのを、人民に委譲したものである。このことは天皇の統治権の放棄であるから、その意味において、革命が行なわれたと解すべきであるというのである。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 79) ここで「8月革命論」を唱えた憲法学の泰斗(たいと)・宮沢俊義の意見を復習(さら)えておこう。《国民主権主義というものは、かならずしも在来の日本の政治の根本建前と矛盾するものではない、という見解もあるようである。日本の政治の根本建前は、本来国民主権主義的なものであった、という見方もあるらしい。しかし、国の政治上の権威が、君主とか、貴族とかいうものではなく、一般国民にその最終的根拠を有するという意味の国民主権主義が、それまでの日本の政治の根本建前であったと解することも、また、それがそれまでの日本の政治の根本建前と少しも矛盾しないと考えることも、理論的には、どうしてもむりである》(宮沢俊義『憲法の原理』(岩波書店)、pp. 379-380) 宮沢氏にあって抜け落ちているのは、<国民>の定義である。<国民>をどのように定義するのかによって<国民主権>の意味は変わる。が、宮沢氏は、<国民>に複数の定義があることにまで思いが至っていないようである。一般に、時を現在に限定して、「日本国で今生活している人々」だけを「日本国民」のように考え勝ちである。が、時を広げれば、現在のみならず日本の過去を生きた人達も<国民>と考えられるし、これからの未来を生きる人達も<国民>である。そしてこのように考えるのが「伝統」というものである。天皇の存在について考える場合、この「伝統」というものを決して忘れてはならない。《国民主権主義という以上は、天皇の権威の根拠も、終局的には国民にあると考えなくてはならず、その結果として、天皇制の存否も、終局的には、国民の意志に依存するといわなくてはならないが、それまでの日本において、天皇の権威の根拠が国民にあるという根本建前が採られていたと見るのは、明らかに不当であろう》(同、p. 380) 天皇は、日本の過去を生きた<国民>の承認が積み重ねられて存在する、まさしく「伝統的存在」なのである。天皇の権威の根拠が「伝統」にあるとすれば、<伝統>を紡(つむ)いできた国民がこれに無関係なはずがない。
2022.07.15
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いかに、日本国憲法の前文に「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し……」と記載されても、また勅語に、帝国憲法第73条により改正したのだと示されても、さらに最高司令官が、政府や国会に対し、法的持続性を保障せよと指示しても、法理に反して、憲法の同一性を主張することはできない。したがって改正の発議者たる天皇や、最高権力者たるマッカーサー元帥や、国民の代表者たる議会が、いかに改正の意思をもっていたとしても、その効果は発生し得ないもので、日本国憲法自体無効といわざるを得ない。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、pp. 77-78) 日本国憲法は、法理的にみて「改正帝国憲法」と言うことは出来ないということである。 あるいは、天皇は、憲法改正の発議権者として、いかなる改正も発議できる、したがって日本国憲法も、天皇が、第73条によって、改正したものであるとされる限り、依然として欽定憲法というべきであるとする学者もあるが、天皇も占領下においては、政府や国会とともに、最高司令官に従属し、その統治下に立ち、しかも生身を有せらるる限り、一般国民同様マッカーサー元帥のいわゆる一大強制収容所の中に拘禁生活をやっておられたのであって、その際の改憲発議を平素の常態と同視するわけにはいかぬ。いわんやこの説をとるためには、改正の無制限説をも認めなければならぬ次第で、天皇は法理をこえて、いかなる発議でもできると解することは、一般の法理にもとり、わが国体に背き、さらに帝国憲法の趣旨にも反するものといわざるを得ない。(同、p. 78) 形式的に見れば、帝国憲法第73条に基づいて改正を行ったのだから有効であるという意見もあるが、日本の主権が剥奪され、天皇陛下もGHQの統制下にあったことからして、この改正が有効と成り得る道理はない。わが国の大部分の憲法学者たちは、いかにしても、占領軍や、その傀儡(かいらい)だった日本政府当局者のいうように、これを帝国憲法の改正憲法だというわけにはいかない。それなら法的持続性がないからというので、日本国憲法は、無効と断ずべきであるか。それでは敗戦によって、ようやくあがない得たせっかくの民主憲法を無効として、再び帝国憲法に逆転することとなる。それは、自己を喪失し、米ソの第五列(=本来味方であるはずの集団の中で敵方に味方する人々)のようになり果てている学者たちのたえられぬところである。それならどうすればよいかというので、四苦八苦して考え出したのが、この革命憲法説である。すなわち改正憲法ではないが、革命によってできた新憲法であるから、法的持続性がなくとも有効であるというのである。(同、pp. 78-79)
2022.07.14
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「マッカーサー草案」は2月10日に完成し、2月13日、日本政府に提示された。その提示の際の状況は報告書において次のように述べられている。「ホイットニー准将は、日本側代表に対し、松本委員会の提案は、全面的に受諾し難いものであり、また、日本が戦争と敗北から教訓を学びとつて、平和な社会の責任ある一員として行動する用意ができたことの重要な証拠と連合国がみなし得る、民主的な線に沿う日本の政治機構の大規模の自由主義的再編成としては、不充分なものだ、と伝えた。」(佐藤功『日本国憲法概説』(学陽書房)、pp. 49-50) ライウェル、ケーディス、ハッシー合作の会談記録には次のようにある。The draft of constitutional revision which you submitted to us the other day, is wholly unacceptable to the Supreme Commander as a document of freedom and democracy. The Supreme Commander, however, being fully conscious of the desperate need of the people of Japan for a liberal and enlightened Constitution that will defend them from the injustices and the arbitrary controls of the past, has approved this document and directed that I present it to you as one embodying the principles which in his opinion the situation in Japan demands. -- RECORD OF EVENTS ON 13 FEBRUARY 1946 WHEN PROPOSED NEW CONSTITUTION FOR JAPAN WAS SUBMITTED TO THE PRIME MINISTER, MR. YOSHIDA, IN BEHALF OF THE SUPREME COMMANDER(先日提出頂いた憲法改正案は、自由と民主主義の文書として、最高司令官には全く受け入れられないものだ。しかしながら、最高司令官は、過去の不正と専制から日本国民を守る自由で開明的な憲法を日本国民が是が非でも必要としていることを十分に理解し、日本の情勢が要求していると最高司令官が考える原理を体現したものとしてこの文書を承認し、諸君に提示するよう命じられた) 詰まり、日本側が提示した帝国憲法改正案は、歯牙(しが)にも掛けず、帝国憲法と継続性のないどころか、むしろ帝国憲法を否定するGHQ草案を押し付けたのである。これが、<この憲法改正が、現行帝国憲法と、完全な法的持続性が保障されること>というマッカーサー声明と矛盾していることは言うまでもない。「ついで彼は、最高司令官が、自己の基本的と考える諸原則の詳細な声明を用意させたこと、その声明は憲法草案の形で日本政府に手交されること、および、日本政府はそれを最大限に考慮し改正憲法作成のための新たな努力における指針として用いるよう勧告されること、を述べた。彼は日本側代表に、それ以上のことを行うことを強制されるものではないが、最高司令官は憲法の問題を総選挙に充分先立って国民の前に提出し、憲法改正に関し、国民に自由に論議し自由にその意思を表明する充分な機会を与えようと決意しているということを告げた。内閣が何もしない場合には、マッカーサー元帥は、彼自身、問題を国民に提出するつもりであった。」(佐藤、同、p. 50) <それ以上のことを行うことを強制されるものではない>というのも言葉通りにとることは出来ない。実際ホイットニーは日本側に草案を手渡した後、次のように暗黙の恫喝を行っている。《ホイットニー将軍と下名等は、ポーチを去り日光を浴びた庭に出た。そのとき米軍機が一機、家の上空をかすめて飛び去った。15分ほどたってから、白洲氏がやって来た。そのときホイットニー将軍が静かな口調で白洲氏に語った。「われわれは戸外に出て、原子力エネルギーの暖を取っているところです」(江藤淳『1946年憲法―その拘束』(文藝春秋)、p. 34)
2022.07.13
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占領軍は…昭和21年6月20日、この憲法改正案が、帝国議会に提出されるに当たっては、マッカーサー元帥名義で声明を発して、憲法改正の重要性を強調するとともに、つぎの3点の励行を指示したのである。(1)この憲章の規定を討議するために、十分なる時間と機会とが与えられること(2)この憲法改正が、現行帝国憲法と、完全な法的持続性が保障されること(3)この憲法の採択が、日本国民の自由な意思の表明たること 右の3点は5月13日、極東委員会において採択されたものであるが、3つとも不可能をしいた無理な要求であった。すなわち(1)の討議のため十分な時間と機会とが与えられる状況になかったことは、GHQ草案が僅(わず)か10日間で作成された一事でも明白であり、また(3)の自由意思の表明も、自ら銃剣で管理しながら、被占領国民に、自由意思の表示を求めてもできるはずがない。もしそれ(2)の法的持続性の保障にいたっては、普遍的法理を無視せんとするもので難事中の難事である。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、pp. 76-77) マッカーサーはこれらの指示を実行させる気などさらさらなかった。実行出来ない指示をわざわざ提示したのは、おそらく、新憲法がGHQの押し付けでないことを偽装するためだった。詰まり、アリバイ工作だったに違いない。 いやしくも法的持続性が保障されるためには、改正が、旧法の基本的性格を変革しないことが肝要である。例を家屋にとれば、家の主要部分を根本的にとりかえる場合は、新築であって、改築ではない。本人がいかに改築だといっても、世間や税務署には通らない。憲法にも、その主要部分たる骨子がある。その骨子を部分的改正のための規定によって、全面的かつ根源的に改廃することは、すでに改正の域を逸脱するもので、さような改正は、有効な改正ということはできない。帝国憲法の骨子たる第1粂乃至(ないし)第4条が抹消されて、現在の国民主権に変更されているものを、最高司令官がいかに法的同一性を失わぬようにせよと命令しても、銃剣の力で法理をまげることはできない。それは明らかに不可能をしいたものである。(同、p. 77) <この憲法改正が、現行帝国憲法と、完全な法的持続性が保障される>とは、新憲法が帝国憲法第73条に則った改正であるということである。が、どこをどう見てもGHQ草案は帝国憲法を継承するものではない。日本側が提出した帝国憲法改正案(松本案)を一蹴(いっしゅう)したのはマッカーサー自身である。《完成した総司令部案(いわゆるマッカーサー草案)は(1946年)2月13日に日本政府に手渡された。これがきわめてドラマティックな総司令部案の提示という事件である。この会談には、日本側から吉田茂外務大臣、松本丞治国務大臣等が出席した。その席上、総司令部側から、松本委員会の提案は全面的に承認すべからざるものであり、その代わりに、最高司令官は基本的な諸原則を憲法草案として用意したので、この草案を最大限に考慮して憲法改正に努力してほしい、という説明があった。日本側は、突如としてまったく新しい草案を手渡され、それに沿った憲法改正を強く進言されて大いに驚いた。そして、その内容について検討した結果、松本案が日本の実情に適するとして総司令部に再考を求めたが、一蹴されたので、総司令部案に基づいて日本案を作成することに決定した》(芦田信喜『憲法 第4版』(岩波書店)、p. 25)
2022.07.12
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入江俊郎氏の証言は続く。「まずその案を総理大臣から内奏して天皇の御了承を得て、あわせてこういったような内容の憲法をつくることについて内閣として努力せよというふうな意味の勅語をいただくことにしたらどうであろうかということになったわけであります。松本国務大臣なんぞは、なんだか三百代言(=詭弁を弄(ろう)すること)みたいな議論だといっておられましたけれども、しかしどうもやむを得ない、そういうことにしようというので、3月5日急遽総理大臣が参内されて天皇に申し上げて、翌6日の要綱発表と同時に、そういう意味における勅語をいただいて、これもあわせて発表しております」(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 75) 陛下を介在させ、欽定憲法から民定憲法への移行という「無理」を押し通そうというのであるから、まさに三百代言も真っ青なのである。「近頃この憲法はマッカーサー憲法であって、帝国憲法は依然として生きているんだから、マッカーサー憲法がなくなれば、当然に帝国憲法が生き返えるんだというような議論があるそうでありますが、そういったこととかあるいはまた、あの当時日本は革命があったので憲法改正じゃないのだ、明治憲法はそのまま消滅して新しい療法ができたんで、憲法73条によって改正したなんということは非常に間違っているという議論もありましたがそういう議論が起こるであろうことを十分考えた上で、政府の責任としては明治憲法から新憲法に移行するのになんとかつじつまを合わせようというので勅語を受けたのであります。これは当時の内輪話として申し上げたわけであります。そこで司令部の案に対していろいろ折衝したのでありますが、だいたい司令部側は非常に強い意見で、たとえば天皇とか、戦争放棄の条文は全然手を触れちゃならぬ、こういう強い意向を示されたのであります。……」(自由党憲法調査会、特別賛科(1)、73ページ以下)(同、pp. 75-76) 「天皇条項」や「戦争放棄」といったGHQが作成した新憲法草案の肝の部分には一切手を触れるなということは、新憲法が押し付け憲法であることの最たる例であろう。否、新憲法は憲法を名乗ってはいるけれども、実質は占領統治法なのであるから、このような強制は当然と言えば当然と考えることも出来ようかと思われる。 これによれば、占領軍の不合理な無理強いに対し、政府としては、占領軍に対して堂々と職を賭して争うこともせず、また法理論をもって相手を説得することもできず、ただ日本国民に対して、いっさいの矛盾を袞龍の袖にかくれて、勅語を利用することによって糊塗せんと画策したにすぎなかったようである。ことに後でおこるであろう無効論を押えるためにも、勅語を戴いておいたというにいたっては、滑稽至極である。当時の責任者たちが、占領軍の横暴に対し、万策尽きて、当面の糊塗を、天皇にお願いし、おすがりした醜状は、まさに世紀の悲喜劇であった。(同、p. 76)
2022.07.11
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GHQからこの不合理な意図に基づく憲法の原案を交付され、しかもこれが根本精神はもちろん、前文は一字一句といえども訂正は許さぬとの理不尽な指示を受けた日本政府当局は、思いあまって、ついに天皇に勅語を出していただき、袞龍(こんりょう)が袖にかくれて、一応の辻複を合わせ、これが糊塗(こと=一時しのぎにごまかしておくこと)をはかったのである。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 73)※袞龍が袖に隠れる=臣下が天子の威徳を利用して責任をのがれる 当時日本はGHQの占領下にあり、主権が剥奪された状態にあったのだから仕方がない。が、陛下をも巻き込んだ事態の収拾は誠に遺憾と言わざるを得ないのだけれども、陛下が在られればこそ、何とか辻褄を合わせることが出来たのもまた事実なのであって、まさに僥倖(ぎょうこう)であったと言えるだろう。すなわちそれは昭和21年3月5日、政府草案発表に際し賜わった「憲法改正案を指示された勅語」である。それによれば「朕(ちん)曩(さき)ニポツダム宣言ヲ受諾セルニ伴ヒ、日本国政治ノ最終ノ形態ハ日本国民ノ自由二表明シタル意思二依り決定セラルべキナルニ顧ミ……憲法二根本的ノ改正ヲ加へ以テ国家再建ノ礎ヲ定メムコトヲ庶幾(こいねが)フ……」とあり、これによればポ(ツダム)宣(言)受諾で、国民主権を肯認したのであるから、憲法に根本的本質的大改正を加えようと仰せられているようである。ことに注意すべきはバーンズ回答に閑し、当時外務省が発表しそれに基づきポ宣受諾に決定した「日本政府の最終の形態」をことさら「日本政治の最終の形態」と曲筆し、あたかも革命を是認されたが如き表現がなされていることである。この勅語がいかなる事情により、なんのために出されたものであるかは、当時の法制局長官であった現最高裁裁判官の入江俊郎氏の自民党憲法調査会における告白によって明瞭になったのである。「……結局はこの前文は一字一句も変えちゃ困るということをいわれて、そのままの前文をつけて要綱として発表することになったわけであります。……ところがその前文を見ますと、御承知のように、「日本国民が、その代表者である国会議員を選挙して、それによって、憲法を制定する」と書いてあります。そうすると帝国憲法では、天皇が憲法改正案を提案することになっておりますし、明治憲法のもとで新憲法をつくって行くということであるとするならば、どうもそういう前文では非常に困るじゃないかということを、3月5日の閣議で幣原さんが発言されまして、それはもっともだ、その点どういうふうに直したらよかろうかということが問題になりましたが、これもいろいろ相談の結果、そういう前文のついたような憲法草案を天皇が是認されまして、天皇の意思においてそういう前文のついた憲法を発議するということにすれば、明治憲法73条の憲法改正の手続とも違背しないし、また実質からいって司令部側との関係も円満に行くんじゃないかと考えたわけです。(同、pp. 73-75)
2022.07.10
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改正憲法説(日本側で適法に改正したとなす説) これは占領軍当局ならびにその傀儡(かいらい=操り人形)であった日本国政府当局の採っていた説である。この説によれば、日本国憲法は、日本国の諸機関(天皇、枢密院、帝国議会、政府)が合法的に、帝国憲法をその第73条により改正したものであるというのである。そして同じ改正説でも、日本国憲法の成立態様についての見解の相違から民約説と、欽定憲法説と君民協約説の3説がある。 それは日本国憲法改正の勅語に「朕は日本国民の総意に基づいて新日本建設の礎が定まるに至ったことを深くよろこび、枢密顧問及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁下し、ここにこれを公布せしめる」という、不思議な記載があるためである。すなわち前半は明らかに民約憲法たることを表明しているが、後半は全然これに反し、欽定憲法改正の形式を明示されているのである。この相矛盾する表現の前段をとるものは、この憲法を民約憲法だといい、後段をとるものは、依然たる欽定憲法だといい、折衷説をとるものは君民協約憲法だというのである。しかしいずれも表面の偽装にとらわれた見解である。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、pp. 72-73) 日本国憲法制定が「木に竹を接ぐ」かのような筋の通らないものになってしまっているのは、マッカーサーが国際法で禁じられた占領国の根本法の改正を行おうとしたことによる。今となっては「茶番劇」としか言い様のない話なのであるが、教科書で扱われることはないため、ほとんどの国民が日本国憲法がどれほど如何わしい形で作られたのかを知らないだろう。GHQによって押し付けられた米製憲法を未だ後生大事に戴き続けているなどということがどれほど馬鹿げたことか。憲法改正云々よりも先に、このことに決着を付けるべきである。 この混乱の根本原因は、占領軍のとった憲法対策の矛盾によるものであった。すなわち占領軍は、日本弱体化政策の中心として、帝国憲法の廃棄を考えたのである。しかし被占領国の国内法を、不必要に改廃することは、国際法の禁ずるところであり、かつ占領終了後、直ちに復活されるおそれがあるので、国際的にもまた、日本国民に対しても、これを占領軍がつくった全然新しい憲法ではなく、日本国民が自発的に、固有の帝国憲法を改正したところの改正憲法である、との偽装を施す必要があったのである。(同、p. 73)
2022.07.09
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そうして根本的にあいいれないスパルタと事を構え、双方とも各ギリシャ連邦の支援を受けて紀元前431年から404年まで27年間交戦した。たまたま不運にも、アテネ城中に悪疫流行し、大政治家ぺリクレスをはじめ、大局の見える指導者あいついで斃(たお)れたため、人心は萎靡(いび)沈滞し、今日あって明日を思わぬ軽佻浮薄に陥り、アテネ精神ほ挫け去り、ついにスパルタの名将リサンドルのために、405年全艦隊を殲滅(せんめつ)され、翌年完全に降伏した。 かねてアテネを憎んでいたスパルタの同盟国コリントやテーべなどは 「アテネ市を破壊して牧場とせよ」と唱えたが、リサンドルは、他日コリントや、テーべに備えるため、アテネを滅ぼさず、スパルタの保護国として存置せんと、スパルタびいきの貴族党30人を選んで新憲法起草委員に挙げた。これがいわゆる30チラニスであるが、この人々は憲法起草前、国家を危うくする者をまず除かねはならぬといって、多くの名士を死刑に処したり追放したりして、私怨(しえん)はらし、またはその財産を没収して、横暴をきわめたので、チラニスは、暴主の代名詞と化した。英語のタイラント(暴君)は実にここから出たのである。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、pp. 66-67) GHQ占領下の「A級戦犯」の処刑、戦争協力者の公職追放と同じである。まさに、tyrantマッカーサーである。 そこでテーべに逃れていたトラシブロスら民主党員は、スパルタ専横(せんおう)に憤(いきどお)っているテーべ人の同情を得て、紀元前404年不意にたって、アテネの港ピレウスを攻め取ったので、30チラニスは、恐れて付近のエレウシス市に走り、巨魁(きょかい)のクリチアスは敗死した。リサンドルは、最初、チラニスを援助しようとしたが、チラニスの専横を憎む者の多いのと、コリントやテーべの態度をおもんばかって、温和貴族党を懐柔して大赦令(アムネステー)を発し、チラニスとその部下とをことごとく抹殺した。 アテネは、直ちに旧憲法を復活させ、そして賎民跋扈の弊害が、国を亡ぼしたことに鑑(かんが)みて、民会出席日当制を廃し、また民会の決議があっても、憲法に背いたものは無効にすること等、復活した憲法の大改正を施した。しかし時すでに遅く、アテネの人心は極度に堕落し、軽佻放逸となり、再び往時の如き高潔雄大の風を見ることができなかった。されば文学にはまじめな悲劇が歓迎されず、神も人も、玉も石もすべて嘲笑の対象とするアリストファネスの喜劇がさかんにもてはやされ、彫刻には、フィジアス(パルテノン神殿の女神アテナの製作者)のような高雅雄偉な大作は出ず、プラクシテレス以下の繊巧綺麗な表情に富んだ製作物がさかんに起こり、哲学には、ソフィスト派(詭弁学者派)が一流の堅白同異の弁をふるって、世人の注意をひき、これに反対した大聖ソクラテスは、かえって邪説を唱えるものとして罪に問われ、紀元前399年に毒殺された。これは固有の憲法の復活が適時に行なわれなかったため、遂に国が亡びた(同、pp. 67-68) このアテネの堕落の惨状は、テレビが軽薄な「お笑い」に占拠され、SHSがただ耳目を集めようとする奇天烈(きてれつ)な投稿に溢れている今の日本と変わらない。
2022.07.08
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日本国憲法を、正統憲法として無効のものと解しても、あるいはまた、占領管理法と解しても、占領終了の今日、この偽憲法が、法理上効力を有しないことは明瞭である。しかし、いったん法として制定公布された以上、有権的に無効が宣告されない限り、事実上有効のものとして取扱われることは否定できない。そこで国家としては、法の権威を保持するため、すみやかにこれが失効宣言をし且つ経過的立法措置を講じて、理論と実際とを調整しなければならぬ。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 64) 占領終了と同時に本来失効とならねばならなかった日本国憲法という名の「占領統治法」が、あろうことか失効宣言されずに現在に至っている。だから、日本国憲法に基づいて制定された法律や条例等は、混乱を避ける意味で、一旦有効とするより他はないだろうということである。 すでに偽憲法の失効が確定すれば、棚上げされている本来の憲法が、当然その効力を復活することは申すまでもない。したがって日本国憲法の無効ないし失効の確認と同時に、帝国憲法の復活が行なわるべきである。ゆえにことさら、帝国憲法の復活宣言をしなくとも、日本国憲法の失効宣言をするだけで十分である。 この無効、復活については、憲法上明文はない。憲法以外の実定法においても、原状回復は、たんに権利其の他の法律関係のみにかんし、法令自体についてはなんらの規定はない。 これは憲法の本質上無効原因によって改廃される場合(クーデター、革命、征服等)は稀有のことであり、屈辱的なことであるから、憲法はその権威上、かくの如き場合を予想して特に規定を設けることをしないのである。したがって規定なきの理由により憲法法理の大原則を否定すべきではない。(同、pp. 64-65) さて、菅原氏は、箕作元八(みつくり・げんぱち)『西洋史講話』(東京開成館)を下敷きにし、かつて古代アテネにおいてなされた憲法復活について書いている。長文になるが、参考となる話なので今回と次回の2回にわたって引用させて頂こうと思う。★ ★ ★ 昔、アテネは、保守的貴族主義のスパルタと反対に、個人の自由が発達し、文化は向上し、進歩的民主主義の元祖となった。しかも、紀元前594年7賢人の一人ソロン等によって民主憲法が制定されてから、国力ますます発展し、さらにそれがぺリクレス時代に大成し、アテネの黄金時代を築いたが、反面、貧民は多数を擁して、民会を制し、下層市民ほど、国家の優遇を受ける奇現象を呈した。ことにその人達は目前の利益に眩惑(げんわく)され、恒心恒産の念乏しく、いたずらに口舌(こうぜつ)をこととし、野心家に操(あやつ)られ、国家の大事を誤まり、次第に賎民(せんみん)跋扈(ばっこ)の時代を現出した。(同、pp. 65-66) <貧民は多数を擁して、民会を制し、下層市民ほど、国家の優遇を受ける奇現象>(「福祉」が肥大化し)、<その人達は目前の利益に眩惑され>(中長期的展望を持たず、目の前の「人参」をただ追い掛け)、<恒心恒産の念乏しく>(「安定した財産なり職業をもっていないと、安定した道徳心を保つことは困難」『孟子』)、<いたずらに口舌をこととし>(文句ばかり口にし)、<野心家に操られ、国家の大事を誤まり>(扇動に乗せられ、国益を損ない)、<次第に賎民跋扈の時代を現出した>(大衆が社会の表舞台にしゃしゃり出てきた)、とは今の日本社会と瓜二つではないか。
2022.07.07
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いかに最高司令官といえども、占領軍当局として、占領の本質を越え、国際法に違反して、被占領国固有の正統憲法を改廃したり、さらにその統治権制限の効力を、占領終了後まで持続せしめるような法令を制定することは許されないのであって、ただでき得ることは、占領中降伏条項実施のために必要とする措置としての法令の制定にすぎないのである。したがって日本国憲法は、いかに憲法と名づけられても、独立国日本の正統憲法たり得る資質なく、憲法としてならば、無効といわざるを得ない。 しかし、憲法としては無効であるが、他面占領軍最高司令官が、その権限に基づいて、日本国諸機関(天皇、政府、枢密院、帝国議会)に指令して制定せしめたところの被占領国日本の基本組織に関する占領管理法であると解すれば、それは前記勅令第325号と同様占領終了と同時に、失効したるものといわざるを得ない。すなわち憲法としては、当然無効であるが、占領法規としてなら、占領中は有効であるが、占領の終了によって失効する(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 62) 国際法上、占領国が被占領国の憲法を廃棄し、新憲法を制定することは許されない。従って、GHQ占領下で制定された日本国憲法は、憲法ではなく「占領統治法」と考えざるを得ない。帝国憲法第73条の改正手続きによって改正されたという「脚本」の下に、天皇陛下をも巻き込んだ「大芝居」が演じられた。ために、あたかもこれが改正帝国憲法であるかのような「錯覚」に陥ってしまっているが、日本に主権のない時点での憲法改正など有り得ないのであるから、占領終了と共に、我々はこの「幻想」から目を覚ますべきだったのである。 唯、理論上失効しているものを今日まで9年間、有効なものとして施行して来たため、これに基づいて幾多の法令が出され多くの行政行為が行なわれている。これらをいかに処置し、混乱なく失効手続を完遂するかに就いては、細心の注意と立法措置が必要である。それには現在帝国憲法上の地位を保たれている唯一の御方であらせられる天皇において勅語を下賜(かし)され、この失効理論と実際運営との調整を図られることが最も適切であるが、そこに行く前提として、政策的に種々考慮が必要であろう。(同、p. 63) 今では70年に亙って占領統治法に基づいて国家が運営されてきたため、日本国憲法という名の占領統治法を失効させ原状回復を図るためには、技術的に解決すべき問題が山積することとなってしまった。が、技術論は後回しにして、取り敢えず現憲法が無効であることを日本国民が理解することが必要なのではないかと思われる。
2022.07.06
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占領は戦時国際法上の1つの権利行為にすぎない。そうして、それは、占領中占領目的を遂行するために、限られたことをなし得るにすぎない。而(しか)して、その行き過ぎは、占領終了とともに是正され、復活さるべきである。日本人が、国家の根本組織法である憲法を廃棄され、国体を変革されながら、これが復活を考えないのは、法理の無知と、卑屈に基づくもので、まさに世紀的、かつ民族的大醜態というべきであろう。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、pp. 56-57) 占領が終了すれば、原状回復しなければならない。故に、占領基本法たる日本国憲法を失効させ、帝国憲法を復活させなければならなかったのである。が、日本の指導層は、マッカーサーによって既に「虚勢」され、占領前の状態に原状回復するために汗をかく「胆力」を失ってしまっていた。占領による日本弱体化計画は奏功したということである。日本国憲法は、憲法を僭称するけれども、占領軍が日本国の諸機関に指示し、国家組織の基本に関し規定せしめた占領管理法であることは明らかである。 占領立法が、占領遂行のためである以上、その効力も占領期間中に限られ、占領終了とともに失効すべきであることは言をまたぬ。 ただ平和回復後、当然失効するかどうかは、一般の占領法規については、その法令が、憲法外において、法的効力を有したものであるかどうか、すなわち独立後、現行の日本国憲法に反するものであるか否かが、判断の基礎となるのであると最高裁判決はいっているが、その日本国憲法と称する管理基本法自体は、占領終了と同時に失効していることを銘記しなければならない。 これは…占領下、偽憲法の下で、憲法的生活を営んできた日本国民に、今度は、その枠のほかに、真正なる本来の憲法世界のあることを知らしめ、それに復帰せしめんとするものである。(同、pp. 58-59) この当たり前のことがなされなかったのは、1つに、戦前に回帰させたくない勢力があったからだろう。それは、GHQが重用(ちょうよう)した社会主義および共産主義勢力であり、御用学者として重宝された進歩的文化人たちであったろう。原状回復の労を厭(いと)わない人達は、GHQによって既に「公職追放」されてしまってもいた。占領軍によって与えられた管理基本法に、憲法というレッテルを貼られただけで、真正憲法と錯覚し、これを金科玉条として奉戴し、これが違法性について思いを致すこともなく、コップの外の広い世界をのぞこうともせず、占領軍指示のまま、これを絶対とし、能事終われりとしているのが、わが国憲法学界並びに政界の現状である。(同、pp. 59-60)
2022.07.05
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1907年、陸戦法規慣例二関スル条約及ビ規則第3款「敵国ノ領土二於ケル軍ノ権力ニ関スル規則」の第43条に「国ノ権力ガ事実上占領者ノ手二移ツタ上ハ、占領者ハ絶対的ノ支障ガナイ限り、占領地ノ現行法ヲ尊重シ、出来ル限り公共ノ秩序及ビ生活ヲ回復確保スルタメ施シ得べキ一切ノ手段ヲ尽クスべキデアル」とあるが、本条に照らせば、マッカーサー元帥は、明らかにこれに違反して、日本の憲法を尊重しなかったばかりか、「絶対的支障」がなかったにもかかわらず、一部過激左翼分子以外は、日本国民が心から尊重し、遵守していた帝国憲法を抹殺して、これにかえるに幕僚等の作成にかかる民政局原案をもってし、これを強制採用させたのである。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、pp. 55-56) GHQ主導の日本国憲法制定は、明らかに国際法ハーグ陸戦協定違反だったということである。が、昨今の憲法論議には、この問題が一切出て来ない。おそらく日本国憲法制定における黒歴史が知られていないからではなかろうか。占領軍当局が、国際条約に違反して、日本の憲法改正を敢行したからといって、それによってできた日本国憲法が国内法として当然無効たるべきではないが、新憲法改正に際して、占領軍のとった行動それ自体が、国民の意思を尊重しているハーグ規約等の違反である以上、その絶対的指令たる軍命令によって行動せしめられた占領軍の下部組織だった日本国諸機関の行為も、違法性を免れることはできない。したがってそれによってできた日本国憲法もまた憲法としての成立条件を欠き、無効たるべきものといわなければならぬ。(同、p. 56) 黒歴史の存在を知っていれば、この憲法が無効であるというのが本来である。が、本来無効ではあるが、70年以上に亙って、この憲法を元に様々な法律が作成され、判例が積み重ねられてきてしまっているため、ただ無効宣言をすればよいというような単純な話でもない。が、だからといって日本国憲法は有効とせざるを得ないというような弱腰であってもならない。日本国憲法を無効とする本質論と、無効とした場合、どのような問題が生じ、これをどのように処理すべきかという技術論は分けて考えるべきである。 況(いわ)んや、日本国憲法が、国際法優位説に従っていることは、その第98粂2項により明白であるから、この憲法の制定に当って、国際条約を蹂躙(じゅうりん)したことは、それ自体、この憲法の精神に反するものであって、そうした制定方法によって、この憲法は成立し得ないものというべきである。(同)
2022.07.04
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わが国では、革命でもなく、また征服でもなく、しかもこの第73条の改正手続によって、天皇の勅語を仰いで帝国憲法が、全面的かつ根原的に改廃されてしまったような外観を呈しているが、この事実は、いったいどう理解すればよいのであろうか。私はこれに対しては、ただ一語「それは占領の仕業であった」と答えたい。そして、いわゆる「日本国憲法」は独立回復後、日本人によって処理されることを期待しているところの「占領軍の落とし子」であると考える(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 53) 直接の証拠はないにせよ、総合的に判断すれば、GHQが日本人自ら正規の手続きを踏んで憲法改正を行ったように見せかけるよう工作を行ったということは疑い得ない。日本占領軍の最も大きな過誤は、一時的占領統治によって、被占領国固有の正統憲法まで、改廃し得るが如く、錯覚して、マッカーサー元帥が「憲法改正を含まない政治的改革は、まじめに考える価値のないものである」といって、盲人蛇に恐れず式の法的無知ぶりを発揮したことであった。(同、pp. 54-55) 自分がやろうとしていることは、国際法違反であることを知らぬがいいことに(知らぬ振りをして)、マッカーサーは、このような傲慢極まりない発言を口にし、実行したのである。 占領軍の使命は、その軍事占領目的を達成するをもって必要かつ十分とするものであって、被占領国の文化や、法律制度を破壊したり、改廃したりし得べきものではない。ポツダム宣言にいっている「民主主義的傾向の復活強化」も、日本政治の運営を、独裁的ではなく、議会制度を中心として、世論公議を尊重するようにした過去の運営方法を復活強化させるという意味にすぎずして、国の根本組織を変革することを意味したものでなかったことは申すまでもない。 これに関する国際法の直接の規定はハーグ陸戦規則であるが、なおその上に大西洋憲章、ポツダム宣言ならびに降伏文書などにも違反しているのである。しかもこのことは、GHQ自体も、「純粋な法律的見地からは現行憲法の枠内には、全面的改正のための機構は存在しなかったし、かつかくのごとき機構をつくることは、ハーグの規約を破る軍事占領者の不適当な干渉だと考えられるおそれがあった」と自認しており、「日本の新憲法」の報告書中にもハッキリと認めているのである。(同、p. 55) 詰まり、GHQは、米製憲法を押し付けることは国際法違反であることは承知していた。だから日本国民が自らの意思で新憲法を制定したように見せる必要があった。が、GHQの占領下において、日本が憲法改正という主権を行使するというのは、論理矛盾と言うしかない。実際、日本側から提示された帝国憲法改正案「松本試案」はマッカーサーに一蹴(いっしゅう)され、GHQが10日足らずで作成した英文の草案が日本語に訳されて日本国憲法案となったのであった。
2022.07.03
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《此の上論の中には二の點(てん)に特に注意すべき字句が加へられて居る。その一は『將來若(もし)此ノ憲法ノ或ル條章ヲ改定スルノ必要ナル事宜(じぎ)ヲ見ルニ至ラハ』とあつて、特に『或ル條章』と限られて居ることに在る。それは憲法の全部の廢止又は停止を容認しないことの趣意を含んで居るもので、假令(たとい)憲法の改正を行ふとしてもそれは唯或る條項の改正にのみ止まらねばならぬ。憲法の全部の廢止又は停止は國家存立の基礎を根本的に覆(くつが)へすもので、それは許され得べきものではないのである。但し或る條章の改定とあつても、必ずしも現在既に規定されて居る條項を改めることのみに限るものと解すべき理由は無く、新に或る條項を追加增補する場合をも含むものと解すべきは勿論である》(美濃部達吉『逐条憲法精義』(有斐閣)、pp. 62-63)《憲法改正案の內容に付いては二の點に制限を認めねばならぬ。(イ)其の改正は憲法の或る條項の改正又は新條項の增補に限るもので、憲法の全部の廢止又は停止を內容とするものであることを得ない。それは上諭の第5段(前景62頁)にも示されて居る所であるのみならず、本條に『此ノ憲法ノ條項ヲ改正スル』とあるに依つても疑は無い。(ロ)其の改正は第1條に示された『大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス』ることの原則を覆へすものであることを得ない。それは「萬世一系」の文字に依つて示されて居る所で、憲法義解にも國體ノ大綱ハ萬世ニ亙リ永遠恆久ニシテ移動スヘカラスト雖(いえど)政制ノ節目ハ世運ト共ニ事宜(じぎ)ヲ酌量シテ之ヲ變通(へんつう)スルハ亦(また)已(や)ムヘカラサルノ必要タラスムハアラスと曰つて居る。その所謂『國體ノ大綱』とは第1條の原則を意味することは明瞭である》(同、p. 723)もしこの憲法を、全面的かつ根源的に、改正しようとするならば、これを廃棄する以外に方法はない。それは国体を根本から転覆する革命か、さもなくば、国家が戦争で壊滅して、国家組織も、政治機構も、悉く破壊され、敵軍から完全に征服された場合以外にはあり得ないのである。 故に独裁君主でない天皇が、一存で、廃棄にひとしい改正を命ぜられたり、政府や、枢密院や、議会が、ほしいままに改正に名をかりて、廃棄をあえてする手続きをとることは、許されぬところで、法理上からもまた、帝国憲法の本質からもあり得ないことである。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 53)
2022.07.02
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「國體(こくたい)ノ根本ハ典範及憲法ノ能ク左右シ得ヘキ所ニ非ス、主權ハ憲法ニ由リテ成立セス、何ソ憲法ヲ以テ之ヲ移動スルコトヲ得ン。憲法第1條ノ、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」ト謂ヒ、典範第1條ノ、「大日本國皇位ハ阻宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス」ト謂フカ如キハ、歷史既遂(きすい)ノ事實タル建國大本ノ宣明ニシテ、國家自ヲ自己ノ存在ヲ吿白スル者ナリ。法ハ主權ノ創設スル所ニシテ主權ハ法ノ創設スル所二非ス、典範憲法ノ條項ノ改正ハ何ソ國體其ノ者ヲ損益スルノ力カアラン。獨(ひとり)、政體ハ國體ヲ移動スルコトナクシテ變遷ス。憲法ヲ制定シ若シ改正スルハ統治權行動ノ形式ヲ定ムルニ在リ」(穂積八束(ほづみ・やつか)『憲法提要』(有斐閣)、p. 93) 「主権は憲法によって成立するものではない。法は主権が創設するものであって、主権は法が創設するものではない」だから「憲法の条項の改正は、國體そのものを損益する力はない。憲法を制定し、もし改正するとすれば、統治権行動の形式を定めるものである」と穂積博士は言うのである。「我ガ國ハ萬世一系ノ天皇ト相依(より)テ終始シ天皇ヲ以テ統治權ノ主體(しゅたい)ナリト爲(な)ス觀念ハ歷史ノ成果國民ノ確信ニシテ千古(せんこ)動力ス憲法中國體(こくたい)二關(かん)スル規定アリト雖(いえど)开(ソ)ハ國體ヲ創設シタルモノニ非スシテ唯國體ヲ宣明シタルニ過キス從テ國體二關スル憲法ノ規定ハ將來永久二其ノ變更(へんこう)ヲ爲スコトヲ得ズ假(かり)二之ヲ變更シタリトスルモ其ノ變更ハ何等ノ效力ヲモ發スルモノニ非ス卽(すなわ)チ國體ノ根本ハ憲法ノ克ク左右シ得ヘキ所二非ス天皇ノ統治權ハ憲法ニヨリテ成立セス何ゾ憲法ヲ以テ之ヲ變更スルヲ得ンヤ」(清水澄(しみず・とおる)『帝国憲法講義』(松華堂)、pp. 525-526) 清水博士も、「憲法の中に、國體に関する規定があるけれども、それは國體を創設したというものではなく、ただ國體を宣明したに過ぎず、したがって、國體に関する憲法の規定は将来永久に変更することは出来ない。仮にこれを変更したとしても、その変更は何ら効力を有するものではない。すなわち、國體の根本は、憲法が左右出来るものではなく、天皇の統治権は憲法によって成立するものではないから、憲法をもってこれを変更することは出来ない」という見解である。 詰まり、両博士とも、國體は、憲法が制定される前に、悠久の歴史を経て生成されてきたものであり、新参の憲法が左右できるようなものではないという考えなのである。
2022.07.01
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日本国憲法の擁護論者はしきりに「憲法改正の限界」という言葉を使って、改憲論拒否の第1防波堤としている。すなわち憲法改正には、おのずから限界があって、日本国憲法の骨子である民主性、平和性、人権性のようなものは、第96条の改正規定の圏外にあるもので、これらは改正手続きによっては合法的に変更し得ないものであると主張している。この意見は、憲法学上正しい見解であると、私も考える。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 50) 但し、これは、日本国憲法が正統かつ正当である限りである。GHQによって有無を言わさず押し付けられた憲法が正統かつ正当なものであるはずがない。この憲法は、正統性かつ正当性を欠くのであるから、憲法の改正内容が第96条の改正規定の圏外か否かを論じても意味がない。 否、このような言い方では、誤解を生みかねない。そもそも日本国憲法が正統さと正当さを欠くのであれば、無効として廃棄するのが筋である。そして原状回復として帝国憲法に戻すとすべきである。部分的改正は、日本国憲法を正統かつ正当なものと認めなければ行えない。この理論は、もちろん帝国憲法の改正についても、また同様に論ぜらるべきであろう。果たして然らば、現行の日本国憲法自体が、いわゆる改正の限界を逸脱して、帝国憲法の根本をなし、立国の大本を規定した、第1粂ないし第4条を、抹消して改正されたものであることを、反省すべきであろう。明治天皇が、憲法発布の勅語で、「国家統治ノ大権ハ朕ガ之ヲ祖宗二承ケテ之ヲ子孫二伝フル所ナリ」と仰せられ、第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総撞シ」と欽定された帝国憲法が、どうして天皇統治制を、国民主権制に改変することを予想されたであろうか。かくのごとき重大なる内容――国体法規の変革は、帝国憲法自体の廃止であり、日本国体の断絶であって、第73条の改正の範噂に属さないことは、論をまたないところである。(同、p. 51) 本来は変更不可能な帝国憲法の骨子が変更されて日本国憲法が出来たのであるが、このことは認められて、日本国憲法の骨子変更は認められないというのは、二重基準と言うしかない。「憲法は紛更(ふんこう=むやみに改め変えること)を容さず。但し、法は社会の必要に調熟して其の効用を為す者なり。故に国体の大綱は萬世に亘り永遠恒久にして移動すべからずと言えど政制の節目は世運と倶(とも)に事宜(じぎ)を酌量して之を変通するは亦已むべからざるの心要たらずんばあらず。本条は将来に向って此の憲法の条項を改定するの事あるを禁ぜず」(伊藤博文『帝国憲法 皇室典範義解』(呉PASS出版)、p. 91)国体の大綱に関する規定は、永久不変であるが、政体に関する規定等は情勢の変化に応じ、改正してよろしいとされているのである。(菅原、同、pp. 51-52)
2022.06.30
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元アメリカ国務次官サムナー・ウェルズ氏はこのライシャワー教授の著書(=The United States and Japan)の巻頭に一文を寄せて、「なにものもアメリカ国民が、日本国民を自分たちの肖像に似せて再創造し得ると考えることほど子供らしいことはない。なにものも、アメリカ当局によって起草された新日本憲法が一度講和条約が結ばれ、日本が再び一個の独立国となった暁(あかつき)に、日本国民の憲章として日本人民によって維持されるであろうと想像することほど、幻想的なものはないと思われる。真の日本デモクラシーができるようになるとすれば、それはメイド・イン・ジャパンであらねばならぬ」と論じている。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、pp. 49-50) 米国は物理的に日本に勝利しただけではないか。<再創造>などという話を持ち出すこと自体横暴の誹(そしり)りを免(まぬか)れぬ。占領が解け、独立が回復した後、日本を弱体化させるべく制定された実質は占領基本法に過ぎない日本国憲法が、そのまま維持されるなどということは米国人にとっても<幻想>としか思われなかったということである。 が、「事実は小説よりも奇なり」と言うか、日本国憲法は日本がサンフランシスコ講和条約を締結し独立を回復した後も一丁字(いっていじ)も変更なく70年以上を閲(けみ)している。 憲法を変更することに臆病なのか、むしろ米製憲法を上手く利用するのが得策だと考えたのか、それとも、悠久の歴史を有する日本において大事なのは慣習や慣例なのであり、憲法などという大仰(おうぎょう)なものは、神棚に祭り上げておけばよいと思っているのか。成文憲法は、米国のような新興国家に不可欠であっても、長年歴史を積み重ねてきた日本は、目に見えぬ「掟」(common law)が日常を差配する。 成程、西欧型デモクラシーには自家製の憲法が必要なのかもしれない。が、吉野作造博士が「民本主義」と称した、天皇を戴く日本型デモクラシーに、成文憲法が不可欠なのか今一度考えてみることもまた必要なのではないかと思われる。実際、日本に類似した歴史ある英国には成文憲法はなく、不文憲法の立場をとり、機能しているという実例がある。 さて、米国が日本に押し付けた米製憲法の存続を求めないのは、自分達が見込み違いの憲法を押し付けてしまったことに気付いたからではないか。一番大きな要因は、朝鮮戦争の勃発であろう。これによって対日認識が一変してしまった。 日本は大陸を侵略していたわけではなかった。ソ連の南下、そしてシナ共産党の勃興、詰まり、極東アジアの共産化を何とかして食い止めようと抗っていたのである。日本が大陸から退いたがために、シナには共産主義国が誕生し、共産主義勢力が朝鮮半島を蚕食(さんしょく)する事態を引き起こしてしまった。極東アジアを安定させるためには、日本の軍事力が必要であり、憲法9条を改正しなければならない、ということに米国が気付いたということなのではないだろうか。
2022.06.29
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1953(昭和28)年11月19日、来日したニクソン副大統領(当時)は、日米協会で行った演説の中で、次のように述べた。《日本は共産主義の侵略に対する防衛の見地からみて非常に重要な地位を占めている。日本が共産主義に犯されればアジアは共産主義の手中に陥ることになり、また他のアジア諸国が共産主義に犯されれば日本も同様に共産主義の手中に陥ることになろう。 日本には優秀な米軍がいるが、これだけでは共産主義の侵略に対し十分な防衛が行えるとはいい得ない。日本を守るにはどうしても日本自体の防衛軍を十分な程度にまで強化しなければならない。日本の国民もこれを欲し、その責任を果す用意があると思うが、また米国もこれを援助することに何らちゅうちょしない。日本を回ってみて、日本にその意思のあることが判って大いに満足している》(毎日新聞11月19日付夕刊:渡部治編著『憲法改正の争点』(旬報社)、p. 480) 独りソ連の南下に抗(あらが)い、極東アジアの共産化を食い止めようとした日本を叩いたのは一体誰だったのか。自分がやったことに対して反省することのない「サイコパス」的言動はまさに米国的と言えばそれまでであるが、それにしてもニクソンの言っていることは勝手である。 ジョージ・ケナンは次のような反省の弁を述べている。《遂に日本はシナ本土からも、滿洲及び朝鮮からも亦(また)驅逐(くちく)された。これらの地域から日本を驅逐した結果は、まさに賢明にして現實的な人びとが、終始われわれを警吿したとおりのこととなった。今日われわれは、殆(ほと)んど半世紀に亙って朝鮮及び滿洲方面で日本が直面し、且つ擔(にな)ってきた問題と責任とを引繼いだのである》(『アメリカ外交50年』(岩波現代叢書)近藤晋一・飯田藤次訳、p. 63) さらにニクソンは次のように述べた。《米国は1946年に善意の誤りを犯した。それはソ連の真意を誤解したことだ。その結果米国は軍縮に力をつくしたのであるが、今日の世界情勢では軍縮は許されない》(渡辺、同) 政治は、直截(ちょくさい)を避け、含みを持たせた言い方をするものであるが、一般にこの発言は、「日本の非武装を定めた憲法9条を誤りと認め、再軍備を慫慂(しょうよう)した」(同、p. 479)と受け止められているようである。 が、ここで留意すべきは、占領期間中に憲法を押し付けるという国際法に悖(もと)る非礼を詫(わ)びたわけではないということだ。日本を非武装化せんと押し付けた第9条が米国の極東戦略として誤りであったと言っているだけであって、道義的責任を感じているわけでは決してない。詰まり、米国だけでは極東アジアの共産化を止めることが出来ないので、今度は一転日本に軍備増強を迫ろうという余りにも得手勝手な話でしかないのである。
2022.06.28
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アメリカ人でも良心的な学者、政治家は、この憲法を押し付け憲法と見ている。(菅原裕『日本国憲法失効論』(国書刊行会)、p. 48) 菅原氏は、元駐日大使のエドウィン・O・ライシャワーを例として挙げる。《マッカーサー元帥は賢明にも、改正の発議は勅命をもってし、ついで議会の承認を要するという、元の明治憲法に規定された手続きによって、憲法改正を達成しようと決意した。占領軍当局につつかれて、日本政府は、1945年(昭和20年)秋にこの問題にとりかかったが、改正に対する最初のうちの努力は、明らかに要求されたものには達せず、憲法草案の大部分は、占領軍当局の命令ではないにしてもその直接の示唆によるものであった。これは、結局、1946年(昭和21年)3月6日に、天皇の「命令」によって、そしてマッカーサー元帥の「完全な承認」を得て、一般国民に発表され、わずか一部を修正しただけで採択され、1947年(昭和22年)5月3日についに施行された。(E・O・ライシャワー『ライシャワーの見た日本』(徳間文庫)林伸郎訳、pp. 330-331) 本書が書かれた1950年当時は、GHQの報道統制のため、憲法制定過程は明らかになっていなかったからこのような書き方になったとも言えようが、実際は、GHQが書いた英文の草案を和訳したのが日本国憲法案となったのである。《われわれは、この文書のどの部分が自主的に日本人の起草したものなのか、どの部分がアメリカの示唆もしくは強要の結果なのか、そしてどの部分が占領軍当局自身によって単に立案されたものなのか、正確には永遠にわからないかもしれない。命令がからまっている限り、新しい統治機構は、ポツダム宣言の中で約束されたように、「日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ樹立せら」れた、ということはできない。十分に意義深いことだが、憲法改正を望む人々は、近年、それが外国製だという非難をくり返してこの憲法にあびせかけている》(同) 多少の手直しはあったにせよ、基本的には米製憲法と言っても決して過言ではない。《1946年の初めにおける日本政府が、それ自体、日本国民の意思を代表していたかどうかは、疑わしい。戦後最初の数年間が必然的にそうであったように、思想と態度が急速に変化する時代においては、数年後に、つまりわれわれの他の改革や教育計画の効果が認められたのちに、日本人に適する憲法を作成しようという民衆の意思は育ちつつあったが、それを十分に代表する日本人のグループは1つもなかったであろう。とにかく、新憲法は、われわれの主要な改革措置の1つであり、たとえ、厳密にいえば大多数の日本人が、自分たちの望むようにそれを作りあげる自由は完全になかったとしても、彼らから歓迎され、支持されたのである。「日本国国民の自由に表明せる意思」はこれから明らかになるだろう。新憲法の真の試練は、それが長年にわたって日本国民の要求に応ずることができるかどうかということであろう》(同、pp. 331-332) 浅薄極まりない記述である。ライシャワーは「占領」というものが分かっていない。敗戦からサンフランシスコ講和条約締結まで日本には主権がなかったのである。だから、帝国憲法が全否定されてしまったのである。
2022.06.27
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《今日帝国憲法改正ノ考査ヲ為(な)スニ当テハ其ノ全体的改正ヲ為スモノトシテ考査スベキニ非ズシテ其ノ部分的改正ヲ為スモノトシテ考査スベキノ理由二(ふたつ)アリ。一(ひとつ)ハ現存ノ帝国憲法ガ明治天皇ガ久シキニ亘(わた)ル有司(ゆうし=役人)ノ調査ノ上裁断シタマヘルモノナルコトナリ。単ニ此ノ一事ノミヨリシテ帝国憲法ノ全体的改正ノ如キハ容易ニ之ヲ為スベキニ非ザルヲ知ル。固(もと)ヨリ絶対ニ之ヲ為スベカラズト云フニ非ザレドモ之ヲ為スハ社会事情ノ変遷ガ明(あきらか)ニ之ヲ要求スト認ムベキ程度ノモノナル場合ニ限ルベシ。従テ帝国憲法ノ全体的改正ノ考査ヲ為スコトモ亦(また)社会事情ノ変遷ガ明ニ之ヲ要求スト認ムベキ程度ノモノナル場合ニ限ルベシ。而(しか)シテ今日我ガ国社会事情ノ変遷甚大ナリト雖(いえども)帝国憲法ノ全体的改正ヲ為スコト従テ帝国憲法ノ全体的改正ヲ為スモノトシテ之ヲ考査スルコトヲ要求スル程度ノモノニハ非ズ。是レ今日帝国憲法ノ全体的改正ヲ為スモノトシテ考査スベキニ非ズトスル理由ノ一ナリ。(「帝国憲法改正ノ必要」内大臣府御用掛・佐々木惣一奉答) 帝国憲法は、全体的改正を拒否するものではないけれども、それは全体的改正をせざるを得ない状況があってはじめてなされるべきものである。が、現在(つまり、敗戦後すぐ)はそのような状況にあると思えないと佐々木惣一は言うのである。二ハ現存ノ帝国憲法ガ我ガ国ニ於ケル根本的法規範トシテ之ヲ尊重スルノ国民的信念ヲ確保スベキ必要アルコトナリ。(同) 憲法改正は、国民の「遵法精神」を傷付けはしないかという懸念である。帝国憲法ガ国家ノ根本法トシテ能(よ)ク国家生活ヲ規律スルノ実ヲ挙グルコトハ結局ニ於テ国民之ヲ尊重スルノ信念ヲ有スルニ由(よ)ル。然(しか)ルニ帝国憲法ノ全体的改正ノ考査ガ国家ノ実務ノ機関ニ依リ為サルル場合ニハ国民或ハ将来帝国憲法ガ全体トシテ改正サルルニ至ランコトヲ思ヒ遵由(じゅんゆう=頼りにして従う)ノ心ヲ減ズルコトナシトセズ。或ハ帝国憲法ノ根本的法規範トシテ存在スルノ価値ヲ疑フコトナシトセズ。是レ帝国憲法ヲ尊重スルノ国民的信念ヲ弱カラシムルモノナリ。(同) 憲法に対する国民の信頼があってこそ憲法は根本規範足り得るのであって、憲法の信頼を損ねるようなこと、詰まり、これまで信頼してきた憲法を、国民が納得いく理由も無く、そっくり別のものに入れ替えるようなことは慎むべきではないかということである。今日我ガ国ニ於ケル社会事情ノ変遷ガ帝国憲法ヲ全体トシテ改正スルコトヲ要求スル程度ノモノニ非ザルコトハ前ニ之ヲ述ベタリ。然ラバ帝国憲法ヲ全体トシテ我ガ国ノ根本的法規範トシテ尊重スルノ国民的信念ハ之ヲ確保セザルベカラズ。故ニ此ノ帝国憲法尊重ノ国民的信念ヲ弱カラシムルノ虞(おそれ)アル帝国憲法ノ全体的改正ノ考査ノ如(ごと)キハ国家ノ実務ノ機関ニ於テ濫(みだり)ニ行フベキコトニ非ズ。是レ今日帝国憲法ノ全体的改正ヲ為スモノトシテ考査スベキニ非ズトスル理由ノ二ナリ。(同)
2022.06.26
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《日本國憲法は前述の如く、帝國憲法第73條の定めるところの、天皇の提案、帝國議會(ぎかい)の議決、天皇の裁可という行動により、成立したのである。卽(すなわ)ち、日本國憲法は天皇が制定したもうたのである。故(ゆえ)に、日本國憲法は欽定憲法である。尤(もっと)も、日本國憲法は、將來日本國憲法自身の改正を爲(な)す場合の手續(てつづき)を定めて、天皇による制定ということを否定している。故に、日本國憲法によれば、天皇の制定による欽定憲法というものは、將來は存在し得ない。倂(しか)し、それは、日本國憲法自身のことではなく、日本國憲法の定めるところにより日本國憲法の改正として成立せしめられることあるべき將來の憲法のことである。憲法の成立手續より見た、日本國憲法自身の性質の問題と將來の憲法の性質の問題とを混同してはならぬ》(佐々木惣一『改訂 日本國憲法論』(有斐閣)、pp. 113-114) 欽定憲法を改正して民定憲法を制定することは大いなる「矛盾」である。民定憲法を制定するためには、欽定憲法の水脈を絶たねばならない。詰まり、ある種の「民主革命」が起きたと考えざるを得ない、というのが美濃部達吉や宮澤俊義の解釈である。 一方、新憲法は帝国憲法改正の手続きに則(のっと)っており、紛(まが)う事無き欽定憲法である。が、新憲法は、天皇による憲法制定を否定しており、新憲法が改正される場合は、民定憲法の形式となる、というのが佐々木惣一の解釈である。 佐々木惣一は、帝国憲法改正が必要か否かについて次のように天皇陛下に奉答している。《凡(およ)ソ一(ひとつ)ノ法典ヲ改正スト云フ場合ニハ其ノ法典ヲ全体トシテ廃シテ新ニ他ノ法典ヲ設(もう)クルコトモ考ヘラル。帝国憲法ノ改正モ亦(また)同ジ。是(こ)レ現ニ帝国憲法トシテ存在スル法ヲ全体トシテ廃シテ他ノ法ヲ設ケ之ヲ帝国憲法トスルナリ。之ヲ帝国憲法ノ全体的改正ト云フベシ。之ト異ナリ帝国憲法ノ内容タル個々ノ規範ニ改正ヲ施スコトハ之ヲ称シテ帝国憲法中ノ部分的改正ト云フベシ。帝国憲法ノ改正ノ考査ヲ為(な)スニ当テハ右ノ両者ヲ区別シ其ノ何レノ改正ヲ為スモノトシテ考査スルカニ付見地ヲ当初ヨリ確立シ置クヲ要ス。帝国憲法ノ全体的改正ニ在テモ現存ノ帝国憲法ト新ニ設ケラルベキ帝国憲法トガ其ノ内容ニ於テ連続スルモノナルコト当然ナリト雖(いえども)一ノ法典トシテ現存ノモノヲ棄テテ新ナルモノヲ以テ之ニ代フルナリ。帝国憲法ノ部分的改正ニ在テハ帝国憲法ノ内容タル個々ノ規範トシテ現存ノモノニ変更ヲ加フルナリ。若(も)シ帝国憲法改正ノ考査ヲ為スニ当リ右何(いず)レノ見地ヲ取ルカヲ確立セザランカ考査ノ結果改正ヲ施サントスルニ際シ改正サルベキ規範ヲ成文ノ条項トシテ示スノ方法及ビ其ノ条項ノ配置ニ関シ混雑ヲ生ズルヲ免(まぬか)レザルナリ。(「帝国憲法改正ノ必要」内大臣府御用掛・佐々木惣一奉答)
2022.06.25
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《11月3日の明治節を卜(ぼく)し、天皇は、帝國憲法改正を裁可せられ、日本國憲法の名を以て、次の上諭を附して、公布せしめられた。 「朕(ちん)は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎(いしずえ)が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢(しじゅん)及び帝國憲法第73條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」 當日(とうじつ)貴族院の議場において、憲法發布記念式典が行われた。天皇陛下親臨、各皇族を始め國務大臣等の重(おも)な官、兩議院議員等參列、左の勅語が下された。 「本日、日本國憲法を公布せしめた。 この憲法は、帝國憲法を全面的に改正したものであって、國家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された國民の總意によつて確定されたものである。卽(すなわ)ち、日本國民は、自ら進んで戰爭を抛棄(ほうき)し、全世界に正義と秩序とを基調とする永遠の平和が實現(じつげん)することを念願し、常に基本的人權を尊重し、民主主義に基いて國政を運營することを、ここに、明らかに定めたのである。 朕は、國民と共に、全力をあげ、相携(たずさ)へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化國家を建設するやうに努めたいと思ふ。」 かくて、帝國憲法を改正するものとして、日本國憲法が成立したのである。 以上述べたところで明(あきらか)な通り、日本國憲法の成立は、帝國憲法によりで定められていた行動の行われた結果である。凡(およ)そ、法が、現に存する法によりて定められた行動でなく、法外の實力上の行動により成立せしめられるとき、その行動は革命であり、その法は革命により成立する、という。故に、日本國憲法を成立せしめた行動は革命ではなく、日本國憲法は革命により成立したのではない。このことは、法の規定する內容如何の問題ではないから、日本國憲法が內容上、帝國憲法を金面的に變更するものであつても、その故に、その變更を目して革命といい、その憲法を目して革命による憲法、といい得ないことには、變(かわ)りはない。(佐々木惣一『改訂 日本國憲法論』(有斐閣)、pp. 112-113) 日本がポツダム宣言を受諾し、「民主革命」が起こり、天皇から国民へと主権が移った後、民定憲法が制定されたとする美濃部達吉や宮沢俊義らの説に佐々木惣一はこのように反駁(はんばく)したのであった。 論点は、欽定(帝国)憲法から民定(新)憲法への移行をどう説明するのかというところにある。
2022.06.24
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憲法学の西の雄・佐々木惣一は次のように語る。《第90帝國議會は5月16日召集せられ、6月20日開會した、開會卽日(そくじつ)、勅命により、帝國憲法改正案が帝國議會の議に付せられた。次の勅書が下された。 「朕(ちん)は國民の至高の總意に基いて、基本的人權を尊重し、國民の自由の福祉を永久に確保し、民主主義的傾向の强化に對(たい)する一切の障碍(しょうがい)を除去し、進んで戰爭を抛棄(ほうき)して、世界永遠の平和を希求し、これにより國家再建の礎を固めるために、國民の自由に表明した意思による憲法の全面的改正を意圖(いと)し、ここに帝國憲法第73條によつて、帝國憲法の改正案を帝國議會の議に付する」。 これによれば、この憲法改正案の付議は帝國憲法第73條の定める憲法改正の手續(てつづき)によりて爲(な)されたのである。それは固(もと)より當然(とうぜん)である。帝國憲法第73條はポツダム宣言受諾後においでも依然としてその效力を有するからである。新聞報道によれば、マックアーサー司令官の發表した聲明(せいめい)中、本改正憲法が明治22年發布の現行の憲法と完全なる法的持續性を保障されることが絕對必要である、としたが、これは、司令官においても、今回の憲法改正のことが帝國憲法と法的連續を以て爲さるべきであり、從(したがっ)て、同法第73條の手續によるべきである、とすることを明(あきらか)にしたのである。故(ゆえ)に、ポツダム宣言を根據(こんきょ)として、帝國憲法の改正たる憲法は、國民の定めるものたるべく、天皇の定め得ざるものであるとし、從て、帝國憲法第73條がその效力を失うたのであるから、同條により、憲法改正の手續を爲すことは、ポツダム宣言により許されない、というような見解は、中(あた)らない》(佐々木惣一『改訂 日本國憲法論』(有斐閣)、pp. 109-110) これは、《國民は舊(きゅう)憲法に依(よ)つてではなく、ポツダム宣言の受諾に基き新に國の最高權者として新憲法を制定すべき權力を與(あた)へられたのであって、卽(すなわ)ちポツダム宣言の受諾は此の點(てん)に於いて舊憲法を覆(くつがえ)した革命的行爲と見るべく、若(も)し憲法所定の手續(てつづき)に依らずして憲法を破壞する行爲を「革命」と稱(しょう)するならば、ポツダム宣言の受諾に依り明(あきらか)に革命が遂行せられたものに外ならない》(美濃部達吉『日本国憲法原論』(有斐閣)、p. 119)という美濃部説に反論したものであった。《ポツダム宣言は前に述べた如く、わが國の政治その他の社會生活の共主主義の强化を要求し、又わが國政治府(government)の終極の形態が、日本國人(Japanese people)の自由に表明した意思と一致して樹立さるべきであるとするが、それは帝國憲法を改正する憲法を制定する者が、天皇に對(たい)する意味での國民であるべきだ、というようなことを、要求するものではない。ポツダム宣言は、わが國の憲法が天皇の制定する欽定憲法たるべきか、國民卽(すなわ)ちこれを代表する機關(きかん)の制定する民定憲法たるべきか、というようなことについては、何等言及しないで、それは一に日本國人自身で決すべきである、とするのである。故に、天皇が、帝國憲法改正案を、帝國憲法第73條により、帝國議會の議に付して、制定せられることは當然のことであつた》(佐々木、同、p. 110)
2022.06.23
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美濃部博士の弟子筋に当たる宮沢俊義は帝国憲法改正に関して、次のように解説する。《(1)1946年(昭和3年)6月20日、天皇は、明治憲法73条により、勅書で、憲法改正案を衆議院に提出した。 (2)衆議院は、同年8月24日、総議員3分の2以上出席の上、3分の2以上の多数で、これを修正可決した。 (3)つづいて、貴族院は、10月6日、やはり総議員3分の2以上出席の上、3分の2以上の多数で、これを修正可決した。 (4)衆議院は、10月7日、同様な手続で、貴族院の修正に同意した。 (5)天皇は、11月3日、それを裁可し、各国務大臣の副署をもって、公布した。 この手続は、形の上では、明治憲法73条によるものであった。しかし、この憲法改正は、明治憲法の予想したものとは、本質的に、違っていた。 (1)明治憲法は、憲法改正として、その「条項」の改正を予想していたが、この改正は、全部改正であった。 (2)明治憲法の改正については、「国体」の改正は許さない、というのが、支配的な解釈であったが、この改正は、神権主義的な天皇主権に代えて、国民主権を採用した。(宮沢俊義『憲法講話』(岩波新書)、pp. 219-220) 余り枝葉末節に拘(こだわ)りたくはないけれども、帝国憲法を「天皇主権」としているのは、いかにも進歩的文化人・宮沢俊義らしいところである。新憲法を「国民主権」としたいが故に、これを反転させて帝国憲法は「天皇主権」だったと決め付けているのだが、帝国憲法のどこにも「天皇主権」という規定はない。戦前は、「君主は君臨すれども統治せず」の立憲君主制であったのであり、これを「天皇主権」と言うのはただの左翼思想である。《この憲法改正は、したがって、明治憲法についての支配的解釈による限り、明治憲法の予想した改正権の限界を超えたものである。とすれば、法的にいう限り、ここでなされた憲法「改正」は、合法性を超えて、または、合法性の外で行なわれた変革であり、降伏によってもたらされた「革命」的な変革の一部と見るほかはない》(同、p. 220) 要するに、日本国憲法は、帝国憲法第73条に則った改正とは言えず、革命憲法と考えざるを得ないということである。これは、昨日引用した《若し憲法所定の手續に依らずして憲法を破壞する行爲を「革命」と稱(しょう)するならば、ポツダム宣言の受諾に依り明(あきらか)に革命が遂行せられたものに外ならない》(美濃部達吉『日本国憲法原論』(有斐閣)、p. 119)とする美濃部博士の見解と軌を一にするものである。《明治憲法73条による改正手続をとったのは、なぜか。 ここでの変革は、実は、降伏によってもたらされた超合法的なものであったとしても、それができるだけ合法的な改正の外見をもつことは、非合法性が野ばなしに拡大されることを防ぐためにも、実際上きわめて望ましいと考えられた。そういうねらいからでもあろう、当時の占領軍司令部からも、明治憲法と日本国憲法との法的継続性を保障すべき旨の要望があった。それやこれやで、日本国憲法の制定は、どこまでも明治憲法の改正という手続をとるのが妥当とされ、その公布文にも、「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮絢及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」と書かれることになったのである。しかし、この明治憲法のたった一度の「改正」が、実は、決して、単なる「改正」ではなかったことは、いまのべたとおりである。 明治憲法73条の改正手続は、その本来の意味では、ついに発動せずに終ったのであった》(宮沢、同)
2022.06.22
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