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主演ケビン・コスナーandアシュトン・カッチャー。“ストレート(過ぎ?)”な映画。 「海難救助」が話の舞台。広い意味での、「職業を通じての青年の成長譚」映画。“導師(教官殿)”がケビン・コスナー。 貶す気にはならないが、ストーリー等は、ある程度の映画好きなら予測がついてしまう(でも、「“意外な展開”じゃなきゃ、良い映画じゃない」とは言えないし)。 話の展開が“直球”過ぎなんではないか(いや、これはこれでいいのかな、テーマ、舞台ともに“直球”向きなんだし)。 困った(^O^;)。 本作の見所の一つは、訓練生の猛訓練風景。「低体温症、実体験訓練」「水中レンガ押し」等盛りだくさん。 中の一つの、「水難救助の実地訓練」のシークエンスがちょっと面白い。 実際の話、溺れる寸前の人は半狂乱になって救助者に必死にしがみ付くんですが(だから、うっかり飛び込んで助けにいっちゃ駄目。しがみつかれて、二人とも溺死しちゃう)、では、しがみ付かれたら、どうすべきか。教官は、まるで格闘技の関節技はずしのように手を振り払って、見事に背後に回り、抱えて救助してみせる。 でもね、一人だけ万年落第生がいて、上手くいかない。これに失敗したら落第、後が無い。 で、彼が取った「そりゃ拙いんじゃない」的“強引”な方法とは(これ、伏線があって笑えた)。 (もっとも、現実に海難救助の現場では、そういった“強引”な方法も「あり」なのかな、「OH!プラグマティズム」って感じ) 他、セリフに海難救助のシビアさが伝わるものがいくつか。 例えば、救助を望む全員は助けられない話。二十幾つの青年が「誰を助けるか」決断を迫られるわけだ。 何れにせよ“直球”。“直球”過ぎる。 製作サイドも気にしていたのか、主人公の青年の恋なんかも絡ませて「花」を添えようとした?らしい。 が、これは失敗。恋人の話はイラナイ。 教官と彼の奥さんの話は、まぁ40過ぎの男の「人生の陰影」とやらを描いているとしてもいい。 が、「青年のラブロマンス」はイラナイ(糞面白くもないわい( ̄¨ ̄)。その分、もっと訓練風景の描写やチームワークの重要さについて描きこんだ方が良かった。詰めが甘い。 評価、困ったな。一緒に行った友人はほとんど寝ていたが、泣いている女の子もいたしね。 確かにラストは泣けるといえば泣ける。それまで、延々訓練して、訓練してくれた教官と、「ああなる」訳だから。 正直、邦画の『海猿』の方が上だと思う。 おまけ。 これ、そういう事はないとは思うけど『海猿』のパクリ、という事はないだろうか。 でも、なんか影響があったような気もするんだよね。かなりの興行成績を日本で上げたから、一応ハリウッドにだってチェック入れた奴はいるだろうし。それに、主人公の「海難救助(人の命を助ける事)」の動機に「人の死」が絡んでくる所とかね。 (そういう噂話の方が楽しめるかも(^^:ゞ)。 もっとも、世界中何処でも、「海難救助」とそれを取り巻く訓練等のシビアさは変らない筈で、だとすれば似たような映画が出来てしまうのかも知れない。『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は良かった。
2007年01月31日
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これは何でしょう。 「通報がイタズラであった場合の消防士用滑り棒」冬場は空気が乾燥します。くれぐれも火にはお気をつけください。_(._.)_
2007年01月28日
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桐野夏生原作。女性の自立、定年後篇。小さなセリフ、エピソードに見る価値あり ちょっと珍しいテーマの映画。急死した夫の秘められた“過去”をきっかけとした、初老の女性の「自立と精神的成長」を扱った映画。若者のそれはよくありますが、中年~初老のそれは珍しいですね。老齢化社会が一大問題となった今の日本では、もっと注目されるべき(つまりは観客の需要のある)テーマでしょう。本作品は、子育てを終えた女性(主婦)にとっては、共感できる、考えさせられる面も多い映画なのではないでしょうか(正直、“若者(ただの、ね)”にはちょっとピンと来ないかも。でもそういう人は最初から観に行こうとは思いませんもの。問題なし(^o^) 。 ネタバレは例によって避けるつもりですが、「まっさら」からの鑑賞を希望の方は読まないでくださいm(_ _)m。 小さなセリフ、エピソードによる、描写、テーマの掘り下げ方にちょっと唸らされるものがありました。 特に電車内での嘔吐のシークエンス。主人公の「世の中」というたった一語が深い。(正直、このシークエンスだけで十分なんじゃないでしょうか。この映画の“核”。そう、この映画は「電車の中でゲロ吐いて『世の中』って一言呟く映画」←何だそりゃ)。 他、「フライパンの買い替え」のエピソードなんかも印象深いです。そうした小さなセリフ、エピソードが彫りこむ“生活”のディテールがくっきりと“焦点”を結び、主人公の“成長”を浮かび上がらせていると感じました。 主人公の設定が「世間知らずのお嬢様」的主婦(もしかすると主婦=「世間知らず」という設定か)という点がこの映画のポイントでしょうね。主人公の底抜けの“善良さ”(普通、一万円払うか)が、ユーモア(人生肯定的な明るさ)と映画鑑賞後の清清しさを生んでいます。風吹ジュン演じる主人公が、私より遥かに年上(って定年退職後の夫婦って設定だろうが)なんですが、初々しいんですね。可愛いの。(さすがに「萌え~」とは言わない(^-^)。 ライフサイクルの各ステージごとに人が達成すべき課題があるとは、発達心理学でよく言われる事ですが、成人期後期から老年期にかけての課題が重要度を増し(または「変容」かも)ているのでは、と感じました(って、これは大変な事なんですよ。ある意味、ヒト社会の根本的な変化って事ですからね)。 その他。 豊川悦司が「人生の敗残者」を演じているんだけど、ヤッパリ、「豊川悦司」でかっこいいんだよね。駄目じゃん(^o^)。一方、なぎら健壱も出ているんですが、ヤッパリ「なぎら健壱」だった。いいね(^o^)。林隆三も、すけこましジジイを好演(俺が嫌いなタイプのジジイ。滲み出す「不快感」)。 主人公の家の間取りが、「せせこましい」のが気になった。(意図的な設定か。彼女の属する世界が「狭い」と言うメタファー。それとも大道具さんの手抜きか。例えば、普通もっとダイニングは広く取るだろう。この映画、こういう細かい描写が命の筈なんだけどなぁ)。 あと、場面転換時の「花」の映像はなんだ。陳腐過ぎるんじゃないのか(『ひまわり』への伏線のつもりか。でもただスクリーンにアップで映るだけだもんな)。 疑問。 まず、「主婦=自立できていない、社会との接点を持たない人」という認識の出発点はどうなのか。なにか少し古めかしいフェミニズム論のそれといった気がする(だって、逆にこんなのを考えてみて---「会社人間」)。 むしろ同年齢の男性を主人公にした方が良かったんじゃないかな。 (あっ、この年齢の男性は普通、映画館に行かないや(>_
2007年01月26日
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グリム童話に想を得た幻想と怪奇そしてユーモア。“解説”不能の作品も。 民俗学等に基づき、独特の世界を描き出す事で定評のある、マンガ家諸星大二郎の「グリム童話シリーズ」第2弾(普通同じ出版社から出るのに第1弾は朝日ソノラマ、第2弾は東京創元社。でもどっちも副題は「グリムのような物語」)。 第1弾よりバラエティに富んだ印象があります。 全12編収録。巻末に作者自身の解説あり。 例によって感想(ネタバレは避けているつもりですが、白紙状態でお読みになりたい方はお読みにならないで下さい)。1.「七匹の子やぎ」 SFの形式ですね。ちょっと“理解”し難かった作品(初っ端からこれか)。 遺伝子工学の研究所と思しき所に幽閉?されている7人の少年の話。 “母”とは何者なのか、外で何が起こったのか、“オオカミ”にあたる謎の怪生物の正体は。 最後まで読んでも、全て「分かりません」(^o^;)。 私は“理解”出来ない作品に出会った場合、“味わう”事にしています。 しかしこの作品、妙な作品であります。あんまり“妙”なので、読後落ち着きません。少し落ち着くために“理解”は無理としても、少し“誤解”して見ましょう。 恐らくこの作品は、無意識の世界を舞台とした、子供から大人への精神的“自立”がテーマだったのではないでしょうか。 “母”はユング風に「グレートマザー」。恐らく終盤に現れる“オオカミ”こそ実は“母”だったのではないかと。 “オオカミ(母)”に飲み込まれるのか、否か。 飲み込まれた“兄弟”たちは「シャドウ」。 主人公は“自立”を前にしてたじろいでいるのでしょう。2.「奇妙なおよばれ」 民話譚形式。奇怪にして幻想的。グロテスク。 貧しい男のもとへ「血入りソーセージ」と名乗る男から食事の招待が。謎の人物から「レバーソーセージ」と呼ばれた男は出かけるのだが・・・・。 「なんだ、これは」(@_@;)。これは完全に「お手上げ」。“誤解”すら手に余ります。 出てくる“イメージ”が鮮烈。「自分の脳味噌から出てくるソーセージを食べる男達」。まるでヤン・シュワンクマイエルの映画の様です(と言うより、そうか、ヤン・シュワンクマイエルのイメージの出自がそもそも、こうしたチェコやドイツの“文化”圏の深淵から来ていたのか)。 ここまで来たら、もう、それこそ“イメージ”を“味わう”しか対処の仕方がありません。 もしかしたら、自分の“脳”が生み出した“イメージ”を自分で“味わう”という、そういう話なのかも知れません。3.「漁師とおかみさんの話」 これは筋は完全にグリム童話と同じ(貧しい漁師が魚を助けたお礼に願いをかなえてもらうのだが、欲深な女房の願いはどんどんエスカレートして行き・・・・)。 しかし、「欲深な女房」の内面描写を中心に据える事によって、全く別の作品に昇華されているといって良いでしょう。 際限の無い“欲望”に突き動かされる事の得体の知れない“不安”。その“不安”を更なる“欲望”の実現によって忘れようとするのですが、その“欲望”は、やはり更なる・・・・。 現代人の“不安”を短い話ながら見事に描写しています。 (「“悪人”の内面を描写すると“文学”になる」なんてね) と、考えると、なんとも奇妙な事ですが、「“無欲”な漁師」の方が現代人にとっては、「奇妙な人物」という事になりそうです。う~ん、この人の内面世界、気になってきた。4.「スノウホワイト」 「白雪姫」猟奇譚とでも言うべきもの。話の発端は「白雪姫」のラスト部分(永遠の眠りについた姫が王子のキスによって目を覚ますというあれ)。しかし、途中から全然別の「話」に見事に繋がります。 私は登場人物のセリフ「鏡」という言葉でピンときましたね(^-^)v。 元々、グリム童話でも白雪姫は三回殺される(かかる)という話でしたね。これを、あの「伝説」(ナイショ)と見事に結びつけたわけです。5.「小ねずみと小鳥と焼きソーセージ」 これも筋自体はグリム童話を踏襲しています(元々のグリム童話は教訓色が強い)。 とぼけた味わいの作品ですが、ラストは少ししんみりします(だけど、ネズミやトリの擬人化ならまだしも、焼きソーセージの擬人化というのは妙なもの。しかもパソコンに向ってソフト開発なんかしていたりする)。6.「ラプンツェル」 いわゆる「いばら姫」を基にして描かれたSF。 全く同名のマンガを諸星氏はサブタイトルも同じ『グリムのような物語 トゥルーデおばさん』に描いています(いいのかよ。混乱するぞ)。 全く同じグリム童話に2作品とも因っていますが、前作に比べると今作品は起承転結きれいに纏まっていますが、“理”にかち過ぎたきらいあります。7.「コルベス様」 な(◎_◎)、全く不条理に人間が、擬人化されたトリ、ネコ、石臼、卵、針等に虐殺される話。 ストーリーって、これだけですよ。もともとのグリム童話がそうなんですね。 欧州の民話にはこうした、因果応報、勧善懲悪といった意味もなく、理不尽、一方的、突然に“虐殺”される話、というのがありますね。 伝承の過程で“消失”したとも考えられますが、そうだとしても、やはり日本との“精神”風土の違いを考えさせられます。 作者は作品解説の中で「この作品を描いた時は、折りしもアメリカが一方的にイラクに侵攻して、占領していた時期だった」と書いています。8.「めんどりの死んだ話」 「殺人(鳥)事件」を巡るユーモラスなミステリー仕立ての作品。 恐らく諸星氏も楽しみながら描いた作品なのではないでしょうか。“小技”に思わず笑います。 「誰の花嫁だ」「誰のということは言えません。十年くらい前から花嫁ですから」「どういうことだ」「十年前からこうやって花嫁をやっているんです」(略)「そういう花嫁なのか」「そういう花嫁なのです」 とか、 「クルミの実を削って作ったフィギュアなんかも得意です」「こいつクルミフェチだな!」「萌えますな、こりゃ」9.「カラバ侯爵」 あれ、これは「長靴をはいたネコ」でグリム童話じゃない(解説に「日本人の作者はあまり気にしないのだった」だって)。 元の「長靴をはいたネコ」と善悪、ベクトルを反対にして“処理”して見せた怪異譚。 ネコって、“両義的”存在だと本当に思いますね。日本でも「招き猫」の幸福を呼び寄せるハッピーなイメージがある反面、「化け猫」のイメージもありますからね。10.「藁と炭とそら豆」 とぼけた味わいのミステリー。グリム童話諸星版「X曜サスペンス劇場 田園小川殺人事件 そら豆を巡る「男と女」愛憎三角関係の悲?劇」というところでしょうか。 ずうずうしい、そら豆(「そら美」ちゃんだって)が可笑しい。 「事件の当事者たちが藁と炭であるという特徴を生かしたトリックは、まだ誰も書いていないのではないだろうか」と解説にありますが、当たり前だ(^〇^)。 でも確かにミステリーの当事者が「人」である必要はないよな(^O^)。擬人化された「物」で十分。 テレビの「X曜サスペンス劇場」なんかでやらないかな(やらないよ)。11.「とりかえっ子の話」 本作品集中、一番の出来。SF。グロテスクなユーモアに彩られた「小人(魔物)の見た現代史」。ヒットラー、スターリン、次々と権力者の手に渡る小人。果たしてこの小人の哄笑は何を意味するのか。 欧州には赤ん坊が妖精によって小人にすりかえられるという話がよくありますね。グリム童話では、小人を笑わす事が出来たならば赤ん坊が帰ってくるという事になっているようです。 では、いつまでも小人が笑わなかったら? この作品も、“解説”できるようなものではないような。 小人の正体は無論、何故「笑うと子供が帰ってくるのか」も何故「小人は笑うのを我慢しているのか」も謎。 アメリカに渡ると何故膨張し始めたのかも、小人の“中身”があれである理由も謎。 ただ、作品として完成されているので、「ストーリーが完結している」という読後の満足感はありますね。 (この小人は“大衆(庶民ではない)”の事かな)12.「金の鍵」 書き下ろしの作品。読者へのサービスですね。 まだまだ、諸星氏が興味を抱いた話はグリム童話にあるという事なので、恐らく第三弾も出るでしょう。 楽しみです。
2007年01月21日
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不二家の期限切れ原料使用問題。どうやら食中毒事件も起こしていたようですね。 失態の真相を小出しに発表する姿勢からは真摯さが伝わりません。子供が口にするものだけに重大な問題と言えましょう。 と、いう事と別にして、「不二家」。この名前、少し懐かしい響きがあります。 (日本の男の子は“男”になる過程で、だんだん甘いものを口にしなくなる傾向があるのではないでしょうか。これ、中近東では髭面男がニコニコしながら、どえらく甘いお菓子を食べている光景は普通なので、どうも飲酒文化と関係がありそうです。) 不二家の「ルックチョコレート」好きだったな。もう何年(何十年?)も口にしてませんが。 箱の中に入った小さなチョコレート菓子。チョコの中には何種類かの果物のジャム、クリーム。 私はワザとばらばらにチョコの小片を並べ替え、次にどんな味がするか、楽しんでいました。 幼年時代の小さな思い出。 “幸福”とはディテールから構成されるものなのでしょうね(「不幸」は大状況(戦争なり不況なり)を語る言葉で容易に伝わる)。 そういえば不二家の「ネクター」も好きだった。 ハァ(*´・Д・`)=3 スーパー、コンビニで商品撤退が相次いでいるようです。 (もう食べられないのかな) この問題、日本社会の“劣化”を象徴しているのかも知れません(他人事と捉えちゃ駄目)。 フランチャイズ店の方たち、大変でしょうね。あれ、こんなパッケージじゃなかった筈ですが。
2007年01月18日
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ユーモラスな皮肉。奇妙な味の予測できない幻想小説集。 話がどう進むか一寸予測できないジョナサン・キャロル(Jonathan Carroll)短編小説集。どれもユーモラスな描写なのだが同時にかなり皮肉な内容。全11篇収録。 一神教の異端的解釈に基ずく世界観が土台となった作品も多い(「おやおや町」「細部の悲しさ」が特徴的)。 また、一種の末世感的な感覚で現代世界を解釈している点はこの著者の特徴か(同上二作品+「友の最良の人間」「ぼくのズーンデル」)。 主な作品、気になった点等(ネタバレは避けるよう努めますが、未読で白紙状態からがお望みの方は読まないで下さい)。「フィドルヘッド氏(Mr Fiddlehead)」 仲の良い友人でもある義妹から送られた金細工のイヤリング。義妹は「私の手作り」と言う。ところが、宝飾店で同じものを発見。何故嘘をついたのか、さらに何故これほどまでに高価なものを贈ったのか。このイヤリングのデザイナーは一体如何なる男なのか。 と、ミステリー風に始まって、いきなり幻想世界に突入。「なんじゃ、この人物は」。 欧米の小説、映画等では、しばしば子供たちが寂しさから「空想上のお友達」を頭の中で創造するという話がありますね。実際に欧米人の子供はそういった空想を幼児期に持つのでしょう。恐らく、欧米家庭の基本は「男-女の軸、夫婦」であり、子供は付随的存在(ヘタしたら夾雑物扱い)と見なされているからなのでしょう(全くの幼児期から独立した個室を与えられ、独りでベビーベットに寝かしつけられる)。この辺り、「老-幼の軸、親子」が基準である我々アジア人とは異質なのでしょうね(「親子三人、『川』の字になって眠る」というとアジア人は皆幸福な家庭を想像するのに対し、一般に欧米人は気持ち悪く感じるらしい)。 と、まぁ、そんな欧米人特有の幼児期の空想が土台となった幻想小説でした。 ラスト一行はかなり“苦い”もの。大人も時として幼児のような“空想”を必要とする時があるかも知れないが、幼児のように天真爛漫なものとして“位置づけ”るわけにはいかない、といった所でしょうか。「おやおや町(Uh-Oh City)」 本作品集中、一番“深い”示唆に富む作品。 掃除婦を雇ったところ、これが大当たり。細かい所も徹底的完璧に家中を掃除。まさに“神”技的。ガラクタも廃棄。ところが、とうの昔に捨てたはずの物まで、家の中から出現するに及んで、事態は奇妙な方向に。主人公は“神”になる為のテストを受けさせられる破目になります。その関門はある事で主人公を逆恨みしている“死者”と和解する事。 一神教の奇妙な解釈(異端派のそれ)が恐らくアイディアの基。 それにしても、「自己の“真実”の姿」を知る、知らされるというのは、確かに最も恐ろしい拷問なのかも知れませんね。p93「自分では知らなかったが、他人がぼくについて知ってた事。ぼくについて他人が信じた嘘。口にしてくれた人がいても、誰にも信じてもらえなかった真実。(略)自分についた嘘、深く切りつけてくる真実」。このあたりの点をグッと書き込んでいる描写は圧巻。 “神”がしばしば自殺する、っていう話はニーチェを連想しますね(最もこちらは自殺されちゃうから困るという事なんですが)。「秋物コレクション(The Fall Collection)」 良くまとまった、しみじみとした話。 病気で余命幾ばくも無い主人公。全財産を下ろしニューヨークへ。高級紳士服店でたまたま見かけた、一本の高価な洒落た傘。その傘を購入した事から、男の人生に変化が訪れる。 「何を着て、死にたいですか」この質問自体なかなか思いつきませんね(少なくとも“伝統的”日本男性は。女性はどうなんでしょう)。 答えを考え付くより、問いを考え付く方が偉大だ、というのは真理だと思います。 (それにしても、普通、「何を食べて、死にたいですか」の方にいくのは何故だろう)「友の最良の人間(Friend's Best Man)」 「犬は人類の最良の友」とはよく言いますが、犬に対して人類はどうなんでしょうね。 世界幻想文学大賞受賞作品(もっともこの作品が一番とは思えないのですが)。「細部の悲しさ(The Sadness of Detail)」 なんじゃこりゃ。ある種の神秘思想。 この作者、現代世界を一種の「末法の世」と捉えてるんじゃないでしょうか。「手を振る時を(Waiting to Wave)」 幻想小説なんですが、失恋時こうした“幻想”を持ってしまう人は多いんじゃないでしょうか。と、これある種の“私小説”ともいえるかも。「ジェーン・フォンダの部屋(The Jane Fonda Room)」 死んで地獄に行って見ると、そこはやけに陽気で愛想の良い所だった。ところが・・・・。 ズバリ、ショートショート作品(そうそう、『バーバレラ』っていう、ちょっぴりセクシーなジェーン・フォンダのSF映画があったなぁ)。「きみを過ぎて十五分(A Quarter Past You)」 まさに同床異夢。「ぼくのズーンデル(My Zoondel)」 ズーンデルなる特殊な犬種を飼う事に。この犬種は狼人間を探知する能力があるというが・・・・。 ある種のショートショートとして読むことも可能でしょうね。ただ「オチ」にあたる点が「人間にとって“悪”とはどのようなものか、人の心のうちにどのような形で存在しているのか」という一寸示唆に富むものになっているので、「あぁ、なるほど」と、単純なストーリーの完結を意味したものにはなっていません。 日本も、“狼人間”がうようよいる社会になってきているんじゃないかしら。「去ることを学んで(Learning to Leave)」 最初は奇想天外なイタズラの話から始まりますが、やがて“男性”と“女性”の関係の問題へと横滑り。「パニックの手(The Panic Hand)」 表題作に相応しく「なんじゃこりゃ」的要素が一番強烈。 列車でたまたま知り合った親子。妖艶な美女の母親と愛らしい娘。ところがいきなり、その美女が主人公に・・・・。 訳がわからん。でp204「なんとも間が抜けて役立たずに聞こえるだろうが、わからないものはしかたがない。それじゃ不満だと言われれば謝るしかない。」って作者自身が書いている(≧▽≦)。 総じて、読者がどこに連れて行かれるかわからない、そんな作品集でした。
2007年01月14日
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「太平洋戦」戦記マンガ。乾いた描写に感動。 この作者、才能ある。 全部で八話収録。独立した短編なので、どこからでも読めるが、凡そ(「真夏の赤蜻蛉」以外)太平洋戦争初期~終戦という時間軸に沿った収録順番となっている。 全編、“情緒(お涙頂戴のおセンチ)”を排除し、淡々とした描写によって物語は語られていく。 そのためにかえって、戦争の非情さや人間の尊厳が読者に深い感銘を与える作品集となっている。 各話短評。第一話「大陸基地航空隊」 舞台は南京陥落前後の支那。主人公は新米パイロット。初陣の緊張と戦友のあっけない死。 p19「エンジンに肉片がへばりついている。」「大変だな」さらりとした整備兵の会話。思わず吐く主人公。 p20「慣れろとは言わん。」アドバイスする歴戦の上官「いずれ平気になる。」言いながら、うつむいている上官。 p21「大貫(主人公)は飛行兵になりたかったか?それとも飛行機に乗りたかったのか?」「飛行機に乗りたかったのであります。」「そうか・・・・じゃあオレと一緒だな。」------“戦争”という状況下と個人の運命(平和時ならば二人は)。 p24 疲れた------ 空を夢見て、ここまで、来たんだったな。 (うん、この作品集ズバリ“文学作品”だね。少なくとも作者の志向性はそうじゃなかったかな)第二話「複葉艦戦隊」 敵米兵パイロットとの淡い淡い心の交流(大空で一瞬、目が合って敬礼されただけ)。「淡い」が故の“深さ”。 この話、両国航空兵の兵士としての“技術”が話の土台となっている。「敵味方」を超えて共感しあう、プロ意識。 p47「今日オレは死ぬだろう。お前(米兵)と同じ目をした、たくさんの若者達と一緒に。小さななぐさめは-----、空で死ねるということだけだ。」 通常、人間の“尊厳”を語る場合、“人権”がらみのみの視点で語られてしまう。「生まれながらの」権利。裏を返せば、単に生きてさえいれば、どんなに自堕落に生きていても“人権”があって、故に“尊厳”がある。 無論そうした視点があっても良いが、「それのみ」というのはどうだろうか。 ある種の(例えば職業上要求される)能力向上(修練、修行ね)が、その人の“人格”を向上させる、その人に尊厳を与える、という事があるのではないか。 それは、“人権”意識と同様、国籍等を超えた普遍的なものだろう。 “戦争”の根絶は難しいとしても、“戦争”時に敵兵に“尊厳”を感じることは可能ではないか。 (重要ポイント。ミサイル「ボタンでポン」式では無理)第三話「海鷲の落日」 p57せっかくの休暇に郷里に帰らなかった主人公とその上官。嫁はいないのか、と尋ねる上官。相手をすぐに未亡人にするのは気が引けたので、縁談から逃げて来たと答える主人公。「何をウブなことをぬかしてやがる。」逆に尋ねる主人公「兵曹、ご結婚は?」「飛行機に乗ってるうちにこんなになっちまってな」航空帽を取って禿頭を見せる上官。去年、お袋も死んだと上官は告げる。 何気ない会話が静かに、だが深く“家族愛”を浮き上がらせる(家族がいない、作らないという「家族の不在」によって逆説的に浮かび上がる“家族愛”)。 日本の戦争ものに多い、うんざりさせられるステレオタイプ描写(例「あなたぁ~~~!!必ず生きて帰ってきて~~~!!」オイオイオイと号泣する若妻「ナントカカントカ死ぬなぁ~~!!」絶叫する戦友。「戦争反対だぁ~、反戦だ~」のプロパガンダ屋は実は、自分の組織を拡充したい、自己満足したいだけなんじゃないのか)とこの作品は無縁。 “反戦”プロパガンダから無縁だからこそ描きえた戦争の非情さ。第四話「蒼こうの銛手」 p88貧しい農家出身の男「私は地ベタの上にいい思い出がありません。海軍に入れば海でも空でも地ベタから離れられると思ったのです。」 当時の「貧しい農家」は本当に貧しかった。多くの貧しい若者にとって(今では想像し難い事ではあるが)“軍人”は憧れの職業ですらあった(こうした貧しさが実は日本軍の強さの秘密であったりしたのでは)。 p94「生まれて初めて地ベタの上から、きれいな夕陽を見た。」死に際の言葉。第五話「最後のト連送」 特攻を頑なに拒み続ける歴戦の勇士「雷撃の鬼」。 p110「魚雷は一日で補給できるが、搭乗員の補給には二十年もかかる。だから、かならず帰投して、反復攻撃を繰り返す。」p111「反復攻撃は私の信念であります。」 (“人権”思想からではない、“人命尊重”の精神。その可能性) だが、命令に素直に従わない彼を疎んだ司令部は、彼にある悲惨な命令を与える。 ある種の滑稽感(なんと複葉機だぜ。96艦攻)すら漂う、最後の出撃。「滑稽感」すらあるからこその壮絶感、悲壮感。第六話「明けの彗星」 これも特攻を頑なに拒否する部隊の話。血気に逸り、特攻を望む若いパイロットに、部隊長は黙々と“技術”を修得する事の大切さを教える。 我が身をはって。(「モデルは有名な芙蓉部隊」と、あとがきにあるが、その部隊の説明が欲しかったな)第七話「真夏の赤蜻蛉」 (これだけ異質。且つ疑問あり) 終戦の日当日の、あるパイロットと少年達の交流。 パイロットの“乾いた”諦念、明るい虚無感が漂う作品。 (だけど、疑問があるんだよね、設定に。いわゆる「浮浪児」って終戦後の事じゃないのかな。いくら親兄弟が空襲で死んだからって、あちこちふらふらして、「かっぱらい」してたら、お巡りさんや憲兵さんに捕まると思うのだが、戦争中は。戦中と戦後の風俗を混同している人って結構いるしね)第八話「闇の誘導路」 米国の技術力に比べ、格段の差がある日本。あざ笑うかの如きB29、レーダー妨害専用機「ヤマアラシ」。対する日本人パイロットと電探(レーダー)技術者。圧倒的な技術力の差によって、片目を失うパイロット。技術者はある奇策を以って対抗しようとする。p188「必ずもう一度あんたを、B29に会わせてやるぜ!」 パイロットと技術者、両者の意地と技術とプライドをかけた「反発と信頼」の男のドラマ。 この話、少し「プロジェクトX」風。ドラマ化するのなら、八篇中これが一番良いと思う。話の山場に向け、ストーリー的にも最も良くまとまっている。 昭和20年5月25日までに、東京は50%以上を既に焼尽し都市機能は消失したと米軍に見なされた為、東京は爆撃リストから外された。その最後の東京防空戦であった事が最後のコマの説明文にある。 つまり、蟷螂の斧。 この点からみると主人公達の努力は、まさに空しい。 だが、にもかかわらず感じられる「魂の高揚感」。 時代時代の状況と、しかし、そうした事と別に存在しえる「“充実”した生、人生」。 八篇全て“悲惨”な話だが、“悲惨”さの中に“人間”の栄光と「“充実”した生」が見える。 翻って、今の日本社会、どうなのか。 “悲惨”さと無縁である“平和(という事になっている)”な社会。 でも「“悲惨”さと無縁である事、無縁であらねばならぬとする事」がより大きな(メタレベルでの)“不幸”を生み出している、という事はないだろうか。 「不幸」を完全に消滅させようとすると“幸福”も存在できなくなるんじゃないだろうか(「不幸でない」という事は、“幸福”という事ではないという事)。 さらに言えば、「不幸」であっても“幸福”という事はあるのではないか。(この辺になると意味がわかんないでしょ(^^:ゞ)とりあえず謝っとくか) m(_ _)m 明けの彗星
2007年01月12日
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もう一つの“近代”。アンチ進歩史観。杉浦さんの早すぎる死・゜・(PД`q。)・゜・ 大変読みやすく、しかも内容が盛りだくさんに詰まった一冊でした。「浮世絵」「駕籠」といった項目に分かれ、各項目はそれぞれ数ページ。鞄の中などに入れて読むのにもってこいの本です。 この本、お買い得、オススメ。 惜しまれつつ終了したNHKの人気番組「コメディーお江戸でござる」の解説コーナーを基に書かれたもの。 何でも無い庶民の生活ほどかえって資料が残っていない為、学術的に難しいものがありますが、杉浦日向子女史の解説によって生き生きと当時の庶民の生活が蘇ります(本当に杉浦さんの死は何とも残念です)。 杉浦日向子さんは下町育ちとの事。この辺り、もしかすると今でも東京の下町には江戸時代の庶民と情緒的な紐帯が延々と密かに繋がっており、だからこそ、生き生きとした解説が可能だったのかも知れません。 本書に述べられている「法治システム」「情報ネットワーク」「教育制度」等々を読むにつけ、「江戸時代は“近代”ではなかったのか」という疑問が浮かびます(無論、「日本の近代は明治維新以後から始まる」が通説なのですが)。 「近代とは何ぞや」という問題、これ大問題なのでとりあえず置いておきましょう。 ただ、「“近代”化=“欧米”化」という意識(大部分の欧米人は残念ながらこれ。あと日本人の似非インテリもそう)の「=」に大きな楔が打ち込まれる必要があるのは、本書のような易しい入門書でも良く解ります。 「江戸時代」もう一つのありえたかもしれない“近代”。 p287(解説・石川英輔氏)「ヨーロッパ文明に心酔して自国の文化を見下す人も多いが、私は今の世界の混乱の原因は、断じて『遅れた』アジアやアフリカにはなかったと信じている。平穏に暮らしていた世界に強大な軍隊を派遣して植民地化し、現代の主な原因を作ったのはヨーロッパの側なのである。平和と協調を最優先した江戸文化は、攻撃的なヨーロッパ文明の対極にあった。」 もう一つ。杉浦日向子さんの指摘。p70「江戸文化の特徴は、そのいずれも庶民が生み出している点です。」 確かにオペラ等西洋文化の普及伝播経緯は上流階級→下流の流れ。しかし浮世絵、歌舞伎等江戸文化は下→上の流れ。 他、気になった事など覚書。 浮世絵。p20~p22 浮世絵は、一つのプロジェクトチームで作られていた。絵師--版下絵、版元--出版社、案じ役--プロデューサー。他、彫り師、刷り師等。「北斎」「写楽」「歌麿」というのもプロジェクトチーム名。一人の名前とは限らない。 また、版元に持ち込まれた作品は、「行事」という出版協会のような所に持ち込まれ、「類似した作品がないか」「風俗を乱していないか」審議される。 髪飾り、煙草入れp30 指輪もあって「指の輪」と呼ばれていた。一般女性はあまりせず、花街の女性が「私には約束があるからちょっかいを出さないで」という意味ではめていた(南蛮からの「物品」は当時それほどは珍しくなかっただろうが、「風俗」まで輸入されていた、という例か。いわゆる「江戸時代、鎖国で日本は閉ざされていました」という説は近年大きく疑問視されている)。 「びらびら簪」びらびらが大きければ大きいほど恋人募集中の気持ちが強い(判り易いなぁ)。 浮世床、髪結いp59 江戸にも、白髪染め、育毛剤はあったが、さほど髪の毛の量は気にされていなかった(ソリャソウダ。だって剃ってるもんね。)。 (もしかして「禿の楽園時代」だった?) ただ、剃った月代は青いが、自然に髪が抜け落ちると、月代が青くない。そこで、若く見せたい男性は「青黛(せいたい)」という青い眉墨、今でいうアイシャドーのようなものを、月代に薄く塗っていた(「月代が青くない」そうきましたか)。 損料屋p135 江戸時代の総合レンタルショップ。家財一式、鍋釜からワンちゃんネコちゃんまで。 結構ポピュラーな貸し物が「褌」。洗わないで返せるのが人気の秘密(うな丼一杯分ぐらいの値段はしたらしい)。 (この辺り、現代ではどうなんでしょう。社会が二極分化し貧しい人が増加すると、どっとレンタル物の需要が増えるかもしれない) 奉公人p144 若旦那がどうしようもない放蕩息子で追い出されると「与太郎」と呼ばれる。「不要太郎」がなまったもの。 水道p240 17世紀、世界の人口トップ三大都市、江戸、ロンドン、パリ、のうち、常に水が流れている水道があったのは江戸のみ。 次はいわゆる「江戸時代=封建抑圧暗黒時代」観の嘘について。p71「実は江戸時代では、武士が皆の上に立つ者という意識もありませんでした。『士農工商』という四文字熟語が普及したのは明治の教科書で盛んにPRされたからです。それ以前もそういう言葉はありましたが、庶民は知りません(略)。身分が順位付けられているなんて、全然考えていません。職人ならば自分の上は『親方』で、その上は『町名主』や『町役人』だと思っています。自分たちの職業の中でそれぞれの順位付けはありましたが、職業別のランク付けはありません。横一列の分業感覚なのです。 江戸時代には、価値観の同じ仲間たちがわいわいと一緒に趣味の会をする『連』という集まりがあります。ここでは、職業、身分、年齢、性別全ておかまいないなしです。」 明治に書かれた江戸時代評価は大いに疑わなければなりません。だって「江戸」を“倒した”が故の「明治」であり、明治という体制は自らの正当化を図るため、「いかに江戸時代が打倒されねばならない存在であったか」を声高に主張するに決まっていますからね。 (「門閥制度は親の敵でござる」の言葉で有名な福沢諭吉。でも妙に思いませんか?だったら何故、江戸時代に、名も無い豊前中津藩士の息子、福沢諭吉が三回も欧米に行けたんでしょうか。「江戸時代=なんでも家柄でがんじがらめに決まってしまう暗黒時代」これ相当に胡散臭い、でっち上げに近いモノなんじゃないでしょうか) もう一つ。今度は女性の地位。p167「『三行半を叩きつける』というセリフをよく聞きますが、本来、三行半は男が女に叩きつけるものでなく、女が男からもぎ取っていくものなのです。」 江戸という都市は圧倒的に女性が少ない都市でした。だから女性の方が圧倒的に優位だったのです。 女性が結婚の条件として、男性に三行半(離婚届)を予め書かせて貰っておく、という事も多かったようです(なんかいかにも男が頭下げて結婚をお願いしているという感じですね。予め離婚届に判子ですか)。 また、女性の離婚再婚は別に恥ずかしい事でもなんでもなく、七度婚なんていうのはざらだったとの事。逆にそんな女性は経験を積んでいて貴重であると見なされていました(因みに男の方は離婚されるとダメ人間の評判が立ち、まず再婚なんてありえなかった)。 これ、わざわざ、お上が「なるべく女性は二度以上結婚しなさい」と奨励しているくらいだったそうです。 ただし、これは町人の話。武家は「貞女は二夫にまみえず」。 ただ、今は「江戸時代は封建抑圧暗黒社会。離婚なんてとんでもない事とされていました」なる俗説がまかり通っていますね。 極一部のリゴリスティックな集団(お侍さん)の生活が、あたかも、全ての集団のそれであるかの様に、嘘をついているわけです。 これ、明治時代の「アンチ江戸時代キャンペーン」だけでなく、現代の「進歩史観」プロパガンダにも原因がありそうですね。 そもそも“進歩”という概念自体、どこから来たのか(フランス革命期の新興勢力ブルジョワが貴族に対抗すべく、貴族の存在理由をそっくり“転倒”させたもの(“進歩”の概念)を自らのそれとしたのではないでしょうか。この辺りから探る必要がありそうです)。 これからは「歴史」は“進歩”でなくて、“変化”として捉えるべきでしょうね。 そして“変化”なら、あらゆる時代が、参考にすべきモデルとして、我々の前に立ち現れてくる筈です(我々が自分の時代に自惚れる為の鏡としてではなく)。 「江戸時代」。21世紀だからこそ、日本のみならず世界で注目を集めるべきものだと思います。 残念な点。この本、学術本じゃないからしかたがないけど、出典が書かれていたらな。あと索引も欲しかったよ。
2007年01月07日
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