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大量虐殺の独裁者、アミンの半生。背後の英国こそ実は。他人事にあらず、北の将軍様を想起すべし。 注目作。1970年代のアフリカはウガンダの独裁者イディ・アミンと、彼の顧問となるスコットランドの一白人青年医師の“運命”を描いています(ちなみにスコットランド人青年医師ニコラスは架空の人物です。それからウガンダ・トラさんは元ビジーフォーのタレントさんです(^O^)。 主役のアミン大統領を演じたフォレスト・ウィテカーは本作品でゴールデングローブ賞、アカデミー賞の主演男優賞を受賞しました。独裁者の狂気と情けなさを熱演しています。この人には『ゴースト・ドッグ』(『葉隠れ』をモチーフにしたサムライアクションの異色作)の主役を演じた時から一寸注目していました。煙っているような視線が印象的な俳優さんですね。一度パンフを御覧になると直ぐに感じられると思うのですが、この「煙っているような目」が、独裁者を演じるに当たって大変効果を上げています(怖いのよ)。 R-15指定です。2シーン程、生理的嫌悪感を感じる映像があります(吊り上げ拷問シーンは大した事無いけど、手足入れ違え接合は退いた)。 (白紙の状態で観たい方は以下の文を読まないで下さい) ストーリー自体は紹介してもしょうがないですね。これを機にアフリカの現代史の復習などしてみるのも良いでしょう(どうでもいいですが、劇中の「人肉は食べていない」とのアミン氏怒りの声はどうも正しいらしいです。鶏肉以外は召し上がらない方だったようですね)。 クーデターを成功させ、大統領に就任した当初は民衆の熱狂的な声援によって支えられていたアミン。この時は希望に燃えた快活な男でした。それが徐々に猜疑心によって狂気の独裁者と化して行きます。 この過程は将に、「よくある(陳腐な)」独裁者への変貌過程ですね。 余談ですが、どうも「“邪悪”である事」の特長の一つに「“陳腐”さ」があるような気がします。どういう訳か、通常「悪(悪人)=個性的」というイメージで語られる事が多いのですが、これは、恐らく「我“欲”」がしばしば“個性”と勘違いされている為でしょう。一般に“欲望”というものは実はひどく“凡庸”“陳腐”なものなのですが(他者との関連、比較等により喚起されるもの)。 この映画を観るに当たって、特に注目すべき点は「何故、架空の白人青年を主人公に持ってきたか」という点でしょう(ドキュメンタリータッチで構成する事も十分可能な題材であるにも拘らずです)。恐らく、「欧米人が感情移入しやすい登場人物(=白人)を主役に据える為」だけではないでしょう。 この映画には、「独裁者」の背後にもう一つの「隠されたテーマ」があると見るべきでしょう。 それは「植民地主義」。欧米列強(ウガンダの場合は英国ですね)の植民地主義の強い影響とその残滓(と言うより今も強いか)。 (本作品でも英国政府関係者の暗躍が描かれていました) アフリカ諸国に多く見られる“失敗国家”はこの「植民地主義」が植民地にもたらした政治的、心理的、そして特に道徳的ダメージによって生まれたものです(と、言い切っちゃう。アフリカの諸民族が「馬鹿だから」、「劣っている」から、失敗国家になったのとは違う、という事ですね)。 全く文化的に異質な欧米による「植民地主義」によって固有の“伝統”が根こそぎ破壊された地で、一体何に“道徳”の基盤を求める事が出来るでしょうか(「道徳とは祖母が孫に語る言葉の内にある」『虚栄の篝火』にこんな台詞なかったっけ)。 つまり、このウガンダの悲劇(30万人が虐殺されたらしい)も直接の原因はイディ・アミンに求められるでしょうが、真の原因は「植民地主義」にある訳です。 ラスト、いよいよ主人公ニコラスとアミンの決定的対立が明らかになる空港でのシークエンス、重要な台詞がアミンの口から吐かれます。「お前は『ボクは白人、キミは原住民』ゴッコをしているつもりか」 そう、白人の主人公ニコラスは実に“無邪気(能天気)”にウガンダでの慈善行為を志し、その“無邪気”さによっていとも容易に政治の中枢へと進んで行きます。 ボランティア活動だろうと、政治顧問だろうと、彼にとっては役割の固定化されたゲーム(リアリズムが欠如している“遊戯”という意味です)を楽しんでいるに過ぎなかった訳です。「白人は“先生”、有色人種は“生徒”」「白人は“医師”、有色人種は“病める者”」「白人は“成人”、有色人種は“子ども”」(このあたり皮肉を言えば、日本は良い“生徒”でありましたが、一時期“グレ”て、しかし今は“改心”して良い“生徒”になっているといった所でしょうか。y=-(゚д゚)・∴;。 この映画は決して、我々と無関係な「アフリカの独裁者」の映画として観てはいけないでしょう。また、これまた我々と無関係な「アフリカと西洋」の“特殊な関係”から生まれた悲劇、と捉えてもいけないでしょう。 突き放して、他人事として観ちゃイケナイ映画。 何故ならば。 ウガンダで虐殺された人々の数は30万人と言われています。 では、北朝鮮ではどれ程なのでしょう(100万人は突破していると言われていますが)。 また、北朝鮮の独裁者がその地位を維持しえているのは日本国内の独裁体制支持者による援助が大きいと思われます(と言うより、それが全てか。何しろ核兵器を密造できたのも日本からの潤沢な資金と密輸出された機材があればこそだもんね)。 大江健三郎を始めとして、いとも“無邪気”に独裁国家を賛美した人々は、将にこの映画のニコラス青年の姿にダブるのです。 ニコラス青年は一体何をしたのか。 旧従属国と旧宗主国、独裁者と“無邪気”な“良心的知識人”。この関係は如何なる“深淵”から発生しているのか。 さらに日本が“植民地”とした地域は(北朝鮮以外は)押並べて高いGDP、GNIを(アフリカ諸国に比べ)誇っていますが、これは如何なる理由からなのか(「皇民化(自国民化)」というのは世界的に見て日本だけが行った特殊な方針のようです{「良い、悪い」はここでは論じません}。 また、台湾は民主主義体制を確立していますが(おっと、韓国も、え~、民主主義国家という事になっていますね、うん民主主義国家だ(笑)、何故、それが可能だったのでしょうか。アフリカ諸国と宗主国諸国との個々の事情、どう違い、どう同じものがあるのでしょうか。 (馬鹿さんの為に言っておくが「だから日本はエライ」なんぞという事を言いたいのではない。そうじゃなくて) 日本がアフリカ諸国の為にできる事、否、しなければならない事は単純に表層的な資金、物資の援助だけではない、という事です。 日本の過去の政策の内、何が評価でき、何が出来ないか、そして何が「アフリカ--欧米」の関係と違ったのか。 何でもかんでも思考停止の「日本即、悪だぁ~」じゃ駄目、ちゃんと考えなきゃイカン、という事です。 それは決して日本人の名誉の為じゃない、アフリカ、南米、アジアその他多くの国々の諸民族、諸国民の為のプラグマチックな知恵となりうるからなんだ、という事です。 この映画、かなり“日本人”として“触発”される映画なんですがね。 北朝鮮のキチガイ独裁者を念頭において見るとさらに興味深いと思います。(あっ『特攻サンダーボルト作戦』って言うのも観たら良いかも。この映画にも出てたエンテベ空港の人質救出作戦を描いた映画)
2007年03月24日
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“堪能”感に乏しい“誠実”な映画。思考停止する観客と識者。 悪い映画にはならない筈なのだが、「観た」という満足感に乏しい印象。不完全燃焼。 不完全燃焼の原因は不完全消化にあるのではないか。つまり、監督自身“墨子”の理念に懐疑的であるという事(パンフ参照)。その為テーマの“明快”な打ち出し方に失敗している(所謂、「文芸作品」だったら、その“逡巡”ぶりが寧ろ長所になるのだが、生憎これは娯楽性に重点を置くべき作品だったからね)。 日本って、しかしテーマが「戦争」「平和」に絡むと思いっきり観客は思考停止に陥るねハァ(*´・Д・`)=3。「平和マンセーです。この言葉をただ繰り返し繰り返し叫びなさい」(さらに言えばこれは「今の日本は平和です(←?)。故に、何でもかんでも現状追認がスバラシイです」とセットなんだけどね。そういえば「拉致事件には妥協が必要だ」by姜東大教授なんていう発言も一種の現状べったり、うやむやにしよう思考だよね) 言わずものがななんだけど、墨子の思想も原作もこの映画での主人公の行動も「非武装なら平和だぁ」でも「まず降伏だぁ」でも「皆で逃亡すればいい」でもないからね(笑)。主人公の民衆や梁王を前にしての演説や問答を思い出してね。 「平和は素晴らしい(当たり前ね)」ここで思考停止。だから「その先」はどうなんだって事。で、将にこの映画は「その先」が取り扱っているテーマな訳。 危機を見て見ぬ振りの自堕落「平和主義者」と違って、この映画の登場人物は農民から王に至るまで全員、“現実”と格闘している(この辺り、反って監督が中国人であった事が幸いしているかな。日本人のように思考停止していないから)。当然「防衛戦争」という選択肢が浮上してくるわけだ(題名が「墨守」ではなく「墨“攻”」である点を想起されたし)。 そう、「非攻」の理念をお題目じゃなく本当に実現しようとすると、どうしても“現実”的行動としては防衛力(軍隊だよ)が必要になっちゃう(少なくとも当時はね)。 だからこそ、墨子というのは当時の中国においては、超兵器を操るスーパー技術者集団だった訳。「ラブ・アンド・ピースで~す」の平和な国でけーもー活動している“反戦”集団ではない。本当に戦争をやめさせたかった人たちなんだよね。 で、ここで最大のアポリアが。「『防衛戦争』って戦争じゃん(T_T)」。そう「防衛戦争」による幾多の惨劇(これを「敵だから良し」とはしないわけだ。偉い)。それがこの映画の山場(映像的にも山場ね)を形作ってる。 この映画の監督ジェイコブ・チャン氏は知的誠実さにあふれる監督だったのだろう。このアポリア、誤魔化そうと思えば幾らもプロットの書き方で誤魔化せる。しかし、彼はそうしなかった。 うーん、でもそれが不完全燃焼の原因なんだよな。 しかもストーリーのみならず、アトモスフェアの面でも失敗している。 「非情さ」が打ち出されていない。感傷的過ぎる(原作小説の主人公はもっと冷徹)。ラブロマンスなぞ明らかに夾雑物だろう(女優さんのファン・ビンビンは好みだけどね)。 かつ、マンガでの一つの魅力であった「知恵者同士の術比べ」的要素も(時間の関係からか)なくなっている。伏線も何もなしに唐突に仕掛けが発動しちゃってる感じ。この「唐突感」が「安物感」を出しちゃう。 終わり方だって(未見の方のために言わないで置くけど)あれじゃ、結局駄目だったという事でしょ。これから主人公が主観的には満足した生き方を送るにしてもそうだ。 ミッション失敗。 故に、「空しさ」「徒労感」といったものがラストに感じられるわけだ。 譬えてみれば、「宝探し」映画で結局主人公は宝を見つけられずにトボトボ帰っていくような映画。 映画の楽しみって基本的に二つのベクトルしか無いと思う。「この世のくだらなさ、苦しみを(一瞬)忘れさせてくれる映画」か「この世のくだらなさ、苦しみをぐっと考えさせる映画」この二つ。 どっちつかずだよな、この映画。 これ、ドキュメンタリータッチで作れば興味深い作品に仕上がったかもしれない。思いっきり“文芸”作品路線。 無論戦闘シーンですら、えらく地味なものになる。 でも、観客は最初から劇映画特有のカタルシスを求めないから、納得した筈。 (あるいは、テレビドラマ化かな。これだとまた別の処理の仕方が出来る筈だし) という訳で、この映画は 1.アンディ・ラウは良い俳優だな 2.ワン・チーウェン(梁王役)の「狡猾」演技もいいね 3.「ありえな~い」スーパー兵器に大爆笑 と褒めておこうか。 おまけ。パンフレットに記載されているジャン・ユンカーマン監督の発言は変。この映画のパンフとして、明らかに妙な事を喋っている。 「かつての墨家の人々は侵略を行おうとする国家に『非攻』と『兼愛』の精神を遊説し続けていったわけですが、現実的に見てもその道しか平和をうったえる手段はないということもあると思いますし、いずれはそういう世の中になっていくだろうという希望もあります」?? だからさ、「遊説」だけでは平和が実現できない(と少なくとも墨子集団は考えた)からこそ、遊説だけでなく「軍事的防衛」を担ったスペシャリストが墨子にいたわけでしょ(この映画は、どういう映画でしたか?主人公は何をしましたか?)。だからこそ、その一人として主人公が苦悩しちゃったんだろ。 「お話し合いで全て解決だぁ~」?だから、そういかないからこそ、この映画が出来たんじゃないか。(「お話し合いで解決した」お話の映画パンフに載せるのなら「有り」かもしれんが、この映画のパンフにこれはないだろう。)お前この映画見てないんじゃない?それとも観客馬鹿にしてんのか。それとも、お前が馬鹿か。 さらに言えば、今の日本に「戦争はかっこいいなぁ」なん言う奴がいるか。「ただカッコイイだけの戦闘シーンを撮ってる映画」なんてあると思ってるの?「私は正しい道徳高級人間です。私に逆らう者は馬鹿人間に決まっています。馬鹿人間は馬鹿なので戦争をカッコイイと思っているに決まっています。カッコイイと思っているから戦争したがるんです!」ハァ(*´・Д・`)=3 お前馬鹿だろ。仕舞いにゃ怒るで(パンフと喧嘩してもしょうがないけどね(^^:ゞ) 本当に「一切の武力に依らない、話し合いのみに依る解決」を求めるのなら、(自己満足のためじゃないぜ、本当に現実的にだぜ)、それはとんでもない難事なんだ。もしかしたら全人類未曾有の努力と自己犠牲が要求されるのかも知れない。「戦争は痛いし辛いから大変だ。平和は何にもしなければいいのだから楽だ」逆だよ、まるっきり逆。平和の方がずっと大変なんだ。 そして、少なくとも能天気な馬鹿には無理。墨子関連の本でもちゃんと読む事をお勧めします。東洋文庫の方が好きだな。東洋文庫は布張りで手触りが良い(^o^) 。
2007年03月19日
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イチゴパックに熱湯を掛けたら(ナポリタンを入れたので、洗って捨てる事にしたのだ)縮んで、見る見るうちに真っ平の「板」になった( ̄□ ̄;)。 見事である。 危ないから、良い子は真似しないように(^o^) 。 以上。 \(_ _)
2007年03月13日
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全35編。“瑣末”さに人生の悦びあり。語感に味わいあり。 東海林さだおの食べ物エッセイとくれば、もう特に説明する必要も無いでしょうね。 一編30円に満たないこの安さ。しかも何処を食べても美味しい事請け合い。 全編、まさに“瑣末”な食べ物の事を、あれこれと「よくもまぁ」という視点で描写し、「う~む」と頷かされ「ニヤニヤ」と笑わせてくれます。 「人生の悦びは、実は生活上の“瑣末”さの中にあった」そんな重大な“真理”に気付かされます(これ、解毒剤じゃないかな、所謂「セカイ系」のモノの考え方に対しての。「“世界”を救う」事なんかにじゃなくて「ちゃんとコツコツ生活していく事」に本当に大事な事があるんだって事)。 また、この人の言語感覚が食べ物を語る際にピッタリのもの(「たっぷり」を「たっぷし」と言ったりするアレ)。まるで、舌の口中での動きを勘案して表現しているよう。美味そうだよなぁ。 では、ちょっと気に入った点など。 「♪ケーキ巻き巻き」 たしかに「究極のかぶりつき物」は包丁を入れていないロールケーキの丸かぶりつきだろうな(一度やってみたい(o^v^o)。 「ミリン干し応援団」 ミリン干しはおかずだったな。なんか今はお菓子扱い。 p103「ミリン干しを料理包丁で細かく切り刻んで熱いゴハンに混ぜこむ。」 ミリン干しゴハンの提案ね。美味しそう。 「人参の不思議」 p136「いいですか。人参が主役の料理ってありますか。人参の名を冠した料理はありますか。」 あっ!鋭い( ̄□ ̄;)。今まで、誰も指摘していない、この大発見。 p138「人参はなぜか味噌汁界から嫌われている。」 私は入れてるんだよね(^^ゞ正直、あんまり美味しくないと思う(だったら、入れんな)。 「ウイロウを庇う」 p180「ウイロウはスローフード時代にピッタリ合った食べ物なのだ」 確かにういろうをガツガツ食べてる人っていないね。味も指摘通り、薄い感じ。「脱力系」の食べ物と言って良いだろう。 「アンミツ構成員」 東海林さだおものの定番。「どういう順番で食べるか」の深遠にして久遠の大命題(*^-^*)。(ここにも書いてあったけど、朝鮮文化では、いきなり最初から食べ物を混ぜちゃう。故に韓国人には東海林さだお的苦悩(って「何から食べようかなぁ」っていう楽しみなんだけど)は存在しない筈。とすると、やっぱり韓国の人はカレーも「最初から全部マゼマゼ派」なんですかね) ちなみに私はアンミツの場合、豆(赤豌豆)から“攻撃”しますね。「嫌な事から先ず片付ける」派です(*^.^*)。 あぁ、何か食べたくなって来た(*^o^*)。
2007年03月11日
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なんか情けないよ、妙な造語感覚。もう普通の日本語でいいんじゃない。 真面目な運動らしい。文句言うのは気が引けます。 「ハンドルキーパー運動」 全日本交通安全協会が進めている飲酒運転根絶運動。要は、飲み会等で、一人だけは「酒を飲まない運転手役の者」をちゃんと決めようじゃないか、という運動。で、その運転手役の愛称が「ハンドルキーパー」。ベルギーやオランダがモデルとなっているらしく、それらの国々では飲酒しない者の愛称を「ボブ」の愛称で呼ぶ「ボブ運動」が定着しているらしい。そのボブに代わる名称を日本でも定着させようという事。「ハンドルキーパー」という愛称には「ハンドルで仲間の命を守る人」という意味が込められているとの事です。 でも、どうなのかな、この造語感覚。 「ハンドルキーパー」→「ハンドルで仲間の命を守る人」 う~ん、(^_^;。 知ってる人も多いと思いますが、ハンドル(handle)は英語では「取っ手、つまみ」の意味。the handle of a carって言うと、車の「ドアの取っ手」だって思われるんじゃないかな。日本語の「ハンドル」を言いたいのなら(steering)wheelと言わなきゃ駄目(ちなみに自転車のハンドルはhandlebar)。 (これは余談だけど、ニュージーランドやオーストラリアの人が酒場で「ハンドル」と聞いたら、たぶん「取っ手付きのビールジョッキ」または「取っ手付きビールジョッキ一杯分のビール」の事を言っているんだ、と考える筈なんだよね。「ジョッキの番人?」(*^▽^*)。 「『ハンドル』は既に日本語である」までは了解範囲としていいけど、それにkeeperっていうのはちょっと。 もう、妙な「カタカタ英語」要らないんじゃないかな。 なんか、悲しい気分になってくるよ、これ。「学もセンスも無い成金が一生懸命、気取ってる」感じ。まだしも「運転素留蔵さん」とか「酒野万蔵」とかの方が「学の無いのんがそんなに悪いんか。成金で何処がイカンのや」式の清清しさを感じる(成金がみっともないのは、無学である事や趣味が洗練されて無い事じゃなくて、その事を糊塗しようとしている点なんだよね)。 (あと、「根拠を示せ」と言われると困るんだけど、こうした情けない言語感覚は、関東の人間のものじゃないかな{私も関東の人間なんですが(^^:ゞ)。関西の人ならもうちょっとマシな言語感覚を発揮してくれたんでは、と思う) なにはともあれ、いずれにせよ、言語感覚の贅肉、すっきり取った方が良いでしょうね(ちなみに、「腹回りの贅肉」をlove handlesと言う。この言語感覚は好き(@^▽^@) 付記。無論、飲酒運転撲滅運動自体は大変善い事です。
2007年03月10日
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「がきデカ」は何時の時代の誰の目から見た「日本人像」なんだ。 最初に断っておきますが、(ここでは)「日本軍が中国で残虐行為を行ったか、否か」等々の話はしません(そういう事とは関係ないからね)。 朝日新聞07年3月6日朝刊15面シリーズ「伝えたいこと」最終回。鶴見俊輔氏、四方田犬彦氏対談(一面にも宣伝が出ていた。こりゃ期待できそうだ)。 内容。 正直、まぁあまり大した事は言ってませんでした(^o^)。第一、スペース自体狭いしね(まぁ新聞の対談なんてそんなもんだよね)。 で、鶴見氏が「水木しげるの『白い旗』は素晴らしい」という話をして、直ぐ次にこう言う。 鶴見「私は山上たつひこの『がきデカ』を高く評価するが、金銭欲と性欲が旺盛な少年警官の姿は、日露戦争後の中国人の目に映った日本人像ですね。がきデカは遅れて出てきたスケッチです。」(直ぐ次に四方田は「ところで」と別の話題を繋げちゃってる) いきなり、この一文。この一文のみ。これだけ唐突に出て、話のフォローも無く終る。 駄目じゃん。こんな書き方(話し方)しちゃ。 大爆笑(≧▽≦)。 普通の読者わかんないよ。 普通の読者は『がきデカ』は読んだ事はあっても70年代の「がきデカ民主主義」なんて言葉知らないよ。 (確かに「今時の大学生は漫画なぞ読んでケシカラン!!(何時の時代のジジイだ。でも現存するんだぜ(笑)」なんていう「がきデカ」の名前を知りもしない老人なら「ほぉ~、そんな反戦平和を訴える立派な漫画があるとは」って感心して疑問にも思わないだろうけどね)。 普通の読者がこれ読んだら「馬鹿か」って思うだけだよ。「うぁ、“電波”だ。『がきデカ』と「日本軍の中国侵略」何の関係もないだろ。山上たつひこは20世紀後半の日本人だろ。進歩的知識人って何でも、無理やり「日本人の戦争責任(「日本、即、悪。日本人は反省しろ」)に結びつけたがるのな。うん、流石は朝日の対談だ」って思うだけ。 これじゃただの反戦平和自慢、サヨク自慢の権力欲ボケジジイだ。 頼みますよ、少しは読者の事を考えましょうよ。お金貰っての対談なんでしょ(朝日の記者も記者だぜ)。 今の平均的日本人がどれ程「がきデカ民主主義」なんていう言葉を知っていると思ってんの(センセーはアンチ知識人の庶民の味方なんでしょ(笑)。そういえば最近本出してないなぁ。) (知識人批判をしている知識人って、大衆そのものから批判されたらどうするのかね(笑)(ネット出現以前には考えられなかったテーマだね。吉本先生に聞いてみたい気もする(^o^) 。 お節介だけど、例えばさ、こういう場合普通『光る風』を出さないか。「『がきデカ』で有名な山上たつひこには、実は『光る風』という大変シリアスな作品があって、それは反戦平和を」云々っていう調子。これなら、「へぇ~」だし、作品を知ってる人なら「おっ、通だね」だし、すんなりセンセーの訴えたい「反戦平和」なり「日本人は謝罪しろ」なりに繋がるよ。 もう最初から、「普通の人にちゃんと伝わるよう、どう語ったら良いか考えよう」っていう意思そのものを放棄しちゃってる感じ。 そもそも鶴見俊輔先生(センセーでは無い、「先生」である)自身、そのスタンスが大事なんだって事で知識人批判を展開していたんじゃなかったのか(鶴見俊輔氏は日本で最初に漫画をキチンと論評すべき対象であると認めた思想家なのだ)。 年取っちゃったねぇ、鶴見俊輔(四方田氏の方は流石にマシか)。論も賞味期限切れか。 で、「がきデカ民主主義」って言葉を思い出した(って70年代の事だから、後で知った言葉だけどね)。 たしか、「がきデカは金銭欲と性欲のみの戦後日本人の自画像である。しかし、金銭欲と性欲のみであるからこそ、特定のイデオロギー(軍国主義とか愛国心とかね)に駆られて他国を侵略したり戦争をしたりしない。つまり、「がきデカ日本人」は(情けなくもあるが)良い事なんである。」っていう説だったよな(スミマセンm(_ _)m70年代の話で、流石に詳しくは無い。でも、あってると思うんだよね(^O^)。 まぁ、「これ結局(当時の日本の)現状追認なんじゃないの」という批判なんかも当時あったらしい説なんだけど、それはそれで良い(吉本のアンパン屋の話なんかとも繋がるのかな)。 で、あれ?っと思った訳。 だって、上記の文で「日露戦争後」って鶴見氏は言っている。ん? 「侵略戦争に結びつかない」から、「がきデカ“民主主義”」なんでしょ。 「がきデカ」が、中国大陸で悪逆非道、冷酷無比、鬼畜獣人な蛮行を行っていた(と、ここでは仮定しますよ)日本人の姿を表現しているのなら、「がきデカ“民主主義”」の“民主主義”っていうのが成立しないじゃないか。 もう一つ。「がきデカ」は日本人の自画像なのか、中国人から見た日本人の(言わば)他者像なのか。 これも大事なポイントなんじゃないのかな。確か「『がきデカ』のような日本人の自画像が出るという事は戦前には考えられなかった事である。これは素晴らしい。」って鶴見氏は言っていたような。 自己(画)像?他者像?どっちだ。 意味が違うと思うが。 日本人の自画像で、且つ、中国人から見た「日本人像」なのか。 という事は、日本人は「中国人の考えている(醜い)日本人像こそ、日本人の本当の姿なんだ」って考えている(戦後考え出し始めた)って事なんだろうか。(「そう考えなさい」って事なんだろうけどね。) 醜い「がきデカ」の日本人は(情けないけど、戦争しないから)良いのか、 それとも、醜い「がきデカ」の日本人は(戦争大好き人間なので)悪いのか。 訳が判らん。 あ、そうか!「日本人が金銭欲と性欲の醜悪な塊である」という事さえ言えれば、鶴見俊輔氏としてはOKなんだ。 いずれにしても“自己像”を特定の他者の“他者像”に依存しちゃ拙いんじゃないのかな。 オマケ。「『がきデカ』の、金銭欲と性欲が旺盛な少年警官の姿は、〔 1 〕後の〔 2 〕の目に映った〔 3 〕像です。」 色々出来ます。 『がきデカ』は何像を意味するのか。各人楽しんで論を立てて遊べばよろしいんではないでしょうか。何処の国の人も、基本的に人間は金銭欲も性欲も持ってますしね(私は〔1〕に〔拉致事件発覚〕と入れてみましたf(^_^)。 別に、山上たつひこ氏が「日本人の醜悪さを告発する!!」って息巻いて描いた作品でもないし、元々、鶴見俊輔氏のただの“お見立て”ですしね。どんな本なんでしょうね。
2007年03月06日
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変かな。極マトモだと思うが。「分類する」という“哲学的”営み。 阿川佐和子女史(「さん」の方がいいか。『たけしのTVタックル』で有名)の『トゲトゲの気持ち』を読みました。 この方のエッセイは、軽妙で、特に壇ふみさんとの往復書簡形式のエッセイは、お互いの“悪口”が絶妙。 本書も大変楽しく読む事が出来ました。 で、その中に表題作「トゲトゲの気持ち」というエッセイが収録されています(p35)。 阿川さんが虫の専門家(養老孟司氏)と対談した際の事。虫には奇妙な名前の物が多いという話になり、「トゲトゲ」という名前の虫がいる(写真http://eco.goo.ne.jp/nature/unno/diary/image/200204/1019725926.jpg)という話題になったのです。 さて、この「トゲトゲ」という虫の仲間にトゲの無い「トゲトゲ」がいます。この虫は「トゲなしトゲトゲ」と呼ばれています(ここまでは、至極当然。阿川さんも納得されています)。 ところが、その「トゲなしトゲトゲ」の仲間にトゲの有る「トゲトゲ」がいる。で、それは「トゲありトゲなしトゲトゲ」と呼ばれているというのです。 p35「真剣な顔で専門家がおっしゃるのだから反論の余地はない。ないけれど、そりゃ先生、つまりトゲトゲってことにはならないのですかと伺うと、『いや、それがね、《トゲトゲ》とは違うんです。トゲはあるけど、よく観察すると、どうしても《トゲなしトゲトゲ》の仲間なんだなあ』 変かな(*^-^*)(まぁ、変でしょうけど)。 「トゲトゲ」は確かに棘があるから「トゲトゲ」と命名されたんですが、「トゲトゲ」と命名された時点で「トゲトゲ」の「トゲ」は棘から離れているわけで、だから、「変だ」というのならば、そもそも「トゲなしトゲトゲ」という段階で、「トゲなしトゲトゲ」の「トゲ」は「棘」でない事に注目して「棘なしなのに『トゲトゲ』は変だ」と言うべきなのです(何だか書いてて訳が判らん(^o^) 。 こんな問題も考えてみました。 新種のムシが発見されました。何から何まで蜘蛛そっくり。でも六本足なんですよ。で、このムシをどう考えるか。 物凄く蜘蛛に似た「昆虫」なのか、蜘蛛の変り種の「六本脚蜘蛛」なのか(無論、学術的にはどう考えるかのメルクマールが既にあると思いますが)。 実は「分類する」という人間の営為そのものが“思考”の根源を支えているのです。 とんでもなくラジカルな事なんですね(「ラジカル」には「過激」という意味もありますが、「根源的」という意味もあります。「根源的」な事こそ「過激」な事なんですね)。 ムシだとピンと来ませんかね。 ではヒトでは(一挙に生臭くなりましたね。だからしません(^^:ゞ)。
2007年03月04日
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知る人ぞ知る“耽美”小説家の“自由奔放”なエッセイ集。森鴎外の娘だよ。 森茉莉さん。文豪森鴎外と、その二人目の妻志げの御長女さんですね。相当「パッパ(と呼んでいたそうです)」の森鴎外から可愛がられていた、という事は良く知られています(鴎外は子煩悩な人だったんだよね)。 本書は二部構成。一部目は京都について。二部目は巴里。 で、一部目「ひともする古都巡礼を」が、かなり無茶なエッセイ集(o^O^o)。だって、京都に一度も行かずに写真だけで連続エッセイを書いているんだもの(編集者の当初の企画では、一度は実際に京都に行ってもらうつもりだったらしい)。 深い教養と自由な空想力(と筆の力かな)があってこその離れ業。鴎外という超一流の文化人、教養人に育てられたからこそ出来る、無茶な企画です。 この人のエッセイは文章が“凄い”。何が“凄い”って、「飛ぶ」んだよね、話題が。「飛ん」で、その先からさらに「飛ん」だりする。「戻らなきゃ、戻らなきゃ」って言いながら全然別の話題に続いていったりする。まさに「自由奔放」。絶対、学校でこんな感じの文章を提出したら「文脈が乱れています」「テーマを絞って書きましょう」って先生から注意されるは必定(ちなみに、実生活の森茉莉さんの部屋は、相当ちらかっていたらしい(≧▽≦)。なんか判るなぁ。「文は人なり」だね)。 例えば、p50「東照宮の眠り猫」の話。しょっぱなからよく話が飛ぶ。まず、「日光を見ない人は結構と言うな」という俚諺にふれ「《結構》という変な言葉にぴったりだ、と思った。まったくそれはけばけばしい、」って続くと即、今度は「この言葉(=けばけばしい)も大嫌いなのであるが、他にこういう感じを現す日本語を知らない。日本の古典文学や、支那=どうでもいいことかも知れないが、私は中国とは言わないで、支那と言っている。」と続く。で、延々「支那」という言葉について述べて後、自分で「ここら辺で止めないと、今月私が書こうとしている猫についての文章が迷い児になってしまう」と書いて軌道修正。 また、文章自体も凄いよ。一文を見てもらいましょう。 「テレンス・スタンプの微笑い」と題された映画評より。 p178「そういうわけで、この映画のテレンス・スタンプの行動には愕かなかったが、私が愕いたのは、そのためにテレンス・スタンプを選んだらしいと思われるほど、この主人公の行動が、ただのフリイ・セックスではなくて、へんに宗教的で、『世にも怪奇な物語』の第三話の、堕落した英国役者の役の中では、精神の糸のゆるんだ、へんな、甘いような、溶けたような微笑いに役立った、テレンス・スタンプの薄いなにかが破れるような微笑いの表情は、この映画では『宗教』を連想させる、曖昧なキリスト的微笑いに役立っていることで証明されるように、この映画に不思議な宗教性が附き纏っていることだった。」 うわぁ、「。」が途中一個も無い。 美文であるんですが、困ったな、伝わらないだろうな。 では「エロティシズムと魔と薔薇」のエッセイではどうでしょうか。 p153「薔薇の香いは菫ほどではないが、柔しくて素直な、わかい少女のようで、それでいて底の方に懶いような、惑わしのように勁い力で香ぐ人の感覚に迫るものがくぐもっていて、甘くてどこか恐ろしい香いである。知らないでいて相手を捕虜にする少女のような香いである。薔薇も魔である。 薔薇や菫の砂糖菓子。濃い紅の桃の花の微かな苦さ。柔らかくて甘い薔薇の花の香いの中に薔薇の花のある卓の上に洋杯が薄ぐもっていて、白いのや、てんとう虫のような濃い紅や、黄色い雛菊のような薄黄色の錠剤が透っている硝子壜、白い粉薬で曇っている銀の匙がちらばっている。そんな卓をみながらヴェルモットを喫んだり、(夏のはじめなら麦酒)煙草をふかしたりする時私はエロティシズムを感じる。」(ちなみに森茉莉さんはモロに耽美世界の「美青年同士の禁断の恋」の小説なんかも書いてるらしい。腐女子?の皆さんは既に御存知か) 結局、こんな文章の綴り方は、「普通の人は真似しちゃ駄目(^O^)」って事だよな。才能があってこそ成立する、森茉莉“スタイル”だからね。 だけど、逆に言えば、「こういう文章も、(いや、「だからこそ」か)名文なのだ」という事も知っておいた方が良い、って事でもある(その、引っ張りまわされる感覚が面白いんだよね)。 学校の教科書なんかに載せたいエッセイです(学校の先生は困るだろうな)。 (さらに言えば、そもそも“文”そのものを書いている人間の)“人格”的魅力って、整った体裁のいい「八方美人」ってものとは、まさに正反対に位置するものなんだ、という事なんだよね。 ああ、ここで「支那」という言葉について、ついでに一寸引用しておこうかな(だから、才能の無いお前が「話題を飛ばすな」って言うの)。 p51「どうでもいいことかも知れないが、私は中国とは言わないで、支那と言っている。支那の人は、日本のような、幼稚な考えを持った人の多すぎる国、そうして、面積のひどく狭い国に敗れたために変えたのかもしれないが、《支那》という名で教えられ、その儘育った私には、《中国》という国名は小さく、吝臭く感じられる。私は支那の文学をかなり深く勉強した父親(とーぜん森鴎外の事)から、日清戦争の後で、「支那人と言ってはいけない。支那の人とお言い」と教えられた。そうして、日本は支那の人から文字を貰ったのだ、とも、教えられた。その後なんとなくそんな目で見ていると、支那という国は偉きく、茫洋としたものに見える。」 この後、横浜南京街(今の中華街ね)の食料品店の主人の水際立った支那の商売人のやり方に言及し「私はその時『支那という国は偉きくて、こわい国だ』と、思ったのだ。」と続く。 未だに「『支那』は差別用語です!!」なんて喚いている馬鹿タレがいるんだよね。ここでは詳しく書かないけど無論誤り。さらに言えば、韓国・朝鮮と中国を一緒だと思って、中国を舐めたらいかんよ。また、「中国政府(中国共産党ね)」への評価と「支那文化」への評価をごっちゃにしちゃいけない。支那はそりゃ、やっぱり凄いとこよ。日本を含めた東アジア文明圏の大きな枠組み(儒教やら漢字やら、まぁ色々思いつくでしょ)を生み出した所だからね。 もっと言えば、その辺の所を踏まえないと、我が国の、それこそ森鴎外のような大文豪の作品をキチンと読みこなせない。欧米文学を読みこなすのに、聖書だのギリシャ古典だのの基礎知識が要るのと一緒だね。 森茉莉さんに話を戻して(^o^)、 この人、「言葉」に関する感覚が凄く厳密。 なんて言ったらいいか、「正確な、定まった、“好悪”の“感覚”を持った人」なんだよね。 例えば次の文。 p「色写真なぞと書く人は今時いないが、私は天然色(カラア)写真という言い方が嫌いである。日本の人間が同類にものを言うとか、同じく同類が読むための文章を書くのに天然色(カラア)なんていう英語を使う必要はない。英人が読むためならカラアだけ英語にしたって仕方がない。日本人はこの頃、カアに乗って、天然色(カラア)の映画をみて、ライスを食べて、ティーを飲んで帰ってくるし、日本語は日に日に英語やフランス語にすり代わって行くが、それならいっそ全部、英語やフランス語で言えるように、英語とフランス語を覚えたらどうなのだろう。」 森茉莉さんの文に続けて言うのはなんですが、私は、ある種の“概念”なり、それに基づく“制度”なりを、「えーご」で言ってる人を見ると、「あぁ、この人、完全にはその“概念”を自分で把握しきれていないんだろうな」って思ってしまう。 う~ん、でも流石に「色写真」は言わない(^O^)。この言い方はこの本で初めて知りましたよ。名詞はしょうがないかな。 もっとも、名詞に対してすら貫徹された、その“感覚”が森茉莉さんの読者をワクワクさせたりするんですが。 p156「私はその時、朝昼兼帯の生野菜のサラドと麺麭二切と、牛酪とチーズとをたべただけで、五時頃そこに到着したので空腹だったのだが、」 「パン」って書くより「麺麭」、「バター」って記すより「牛酪」。この方が、はるかに美味しそうな気がしませんか(ちなみに「チーズ」は「乾酪」なんだけど、流石にこう書かれると直ぐには判らない(^O^)。 最後に、少し笑った話。自宅に降りかかった空襲禍のエピソード。 p38「京都の本ものには遠くても父親がせっかく造らせて楽しんでいた、小堀遠州式の深い山のような庭も、ちょっと美術品のようだったし、父親も芸術の世界の人でもあったのに、なぜ爆弾を落としたのだろう、と私が言ったら、友達に、「軍医だったからよ」と言われて、ああ、そうかと、ギャフンとなってしまった。」
2007年03月01日
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