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(8日の日記の続きです)目覚めた時間は9時30分だった。チェックアウトまで30分しかない。今ごろ家では大騒ぎになっているだろうか・・・。初めての無断外泊だが、まさか家族は深夜から私が出かけていたとは夢にも思うまい。となると、私は朝から飛び出したことになり、行方不明の時間もせいぜい2~3時間に過ぎない。何故か損をした気分だった。こんなことなら早朝に飛び出していればよかった。7,500円も支払ってしたことといえば、眠ったことだけなのに。ただ眠っただけなのに・・・。(それがホテルというものだ)私は3冊の本を持って家を出た。三浦綾子「道ありき」井上ひさし「本の枕草子」桐島洋子「渚と澪と舵-わが愛の航海記-」愛読書をあげるなら「アンネの日記」と三浦綾子、千葉敦子の著書が私のそれにあたる。単純に読書として楽しみつつも、教本というか指南書というか、「私の人格に影響あれ」という読み方も片方ではしている。が、なかなか自分の中に根ざさない。水はけの悪い土のように、多少は染みても吸収できない意志の弱さを自分の中に感じてしまう。あぁ。この日、「道ありき」を最初に読むのは当然のことだった。内容を熟知していても、あらたにここに書かれている言葉に触れることは、とても大切なことだった。凄まじい真実の記録のこの本を読んだときには既に三浦綾子は亡くなっており、私は彼女の夫に会いに、その講演先にある東京に足を運んだ。そうやって間接的ではあるが、三浦綾子の人生の一部である人に触れることは、三浦綾子の「時」の中に一瞬間でも紛れ込んだような不思議さを自分の中に残せたということだった。それでよかった。この「道ありき」に出てくる三浦綾子の亡くなった恋人・前川正は、私にとって本の中の人としての納まり方をしていないただ一人の人物である。読書としての客観的な読み方ではなく、ページをめくる度に苦しみ、悩み、ヒィヒィいいながら読んでいた。時間的には遮断されているが、それを超越したもう一人の登場人物に、私はなっていた。譬えていうなら「ネバー・エンデイング・ストーリー」のバスチャン(だっけ?)状態。私は日常を、本の中の昭和20年代に置いていた。こういう読み方は、藤沢周平の作品を読むときにも出てくる。私は常に、本の中のある町娘気分でいた。(笑)余談だが、昔テレビで「武田信玄」を見たときに、あまりに夢中になった私は、西田敏行扮する山本かん助が切り殺されたときの次の朝、職場でこういった。私 「昨日、西田敏行が殺されたんです・・・」K 「ええぇぇ~~~!どこで!?」私 「草むらでした!」K 「誰に!?」私 「何者かにです!」K 「通り魔やったん!? で、どこ刺されたん?」私 「刺された箇所は分かりませんけど、血が出てました」K 「えぇ~~! そこまでテレビに写ってるん!?」私 「はい!」これが大河ドラマの「武田信玄」の話だと分かったときには、えらくK先輩から怒られました。虚構と現実の狭間に落っこちるとは、こういう状態のことをいう。(笑)さて、井上ひさしは文章家として、また戯曲家として大変好きな作家なのでよく読む。桐島洋子も知的で躍動的な文章を書く。が、数年前に見た彼女のHPに、拉致被害者の横田夫妻のことを「被害者の鑑(かがみ)」と書いてあった。あと二つ、これと同類のことが書かれていた。彼女の本を読んで感銘を受けた私だが、この「被害者の鑑」には落胆してしまった。言い換えれば「模範的な被害者」ということだ。「鑑」も「模範」も「被害者」という言葉と横並びにさせる語句ではない。大きな欠落を桐島洋子の中に見たようで、がっかりしたのを覚えている。必ずしも「文は人なり」ではないな。佐藤愛子にも感じた。しかし、生き方とそれを表現する文章力には圧倒されるので、なんとなくその本を鞄の中に詰めた。結局私は、10時から18時まで、ずっと「道ありき」を読み、トイレと食事と泣くを繰り返しながら過ごした。そして、スーツケースの出来損ないを引きずり、店を出た。歩きながら、どうせいつかは夫と仲直りをするのに、そこに行き着くまでのこの惨めったらしい時間をどう過ごせばいいのやら・・・と、情けない気持ちでいた。家族の状況を知ったのは、この後だった。てっきり持ってくるのを忘れたと思っていた携帯電話の振動を、足元にあるスーツケースの出来損ないを通じて感じたからだ。恐ろしい留守電が入っている。娘のパニックと息子(長男)が私を罵るメッセージだ。ここに紹介できないほどの怖い内容で、ドラマでいえば私の立場は完全に一本線の抜けた悪役だった。駅まで迎えに来てくれた夫には悪態をつきまくった私だが、その代わり子どもたちには平身低頭して詫びている。相手を見て態度変えるこの私は、「道ありき」を読んでもやはり人格になんら影響されなかったということだ。うぅ・・・。しかし、私の中に残った三浦綾子の人生の一部は、今も大切なところにしまわれている。時々それを取り出しては浸る時間に、私は本の中の三浦綾子と前川正に再会している。一瞬ドラマチックに思えた真夜中の家出だが、30才を過ぎてするには、ちょっと恥ずかしいものがあったかな。ふふ
2005.01.09
真夜中の0時30分。スーツケースの出来損ないに1週間分の着替えを詰め込んで、私は家を出た。下りの電車があと1本残っていたから、これに乗ればなんとか寝床を見つけることができるだろう、そう思った。一応これは家出である。結婚十数年目にして、はじめて家を出た。原因は夫婦ゲンカ。そのまた原因は、パソコンの「コピー」と「貼り付け」の操作にある。それを夫に教えている最中に、炎のごとく温度の高いケンカへと発展した。さて、どうすれば「コピー」と「貼り付け」が炎のケンカに発展するのか。その前に、かれこれ私はこの手順を100回近く夫に教えている。否100回というのはウソで、比喩だ。多分10回ぐらいだろうけど、その懇切丁寧な中身は100を教えたほどに等しい。それを夫は、「ねぇ、『コピー』ってどうするの?」と、新鮮な顔をしてまた聞いてきた。もちろんこれ自体は怒る場面ではない。「いい加減に覚えてよ」の当然の言葉を添えて私は教えた。私のしめ縄の如く太い堪忍袋の尾が、大男の手によってブチッと引き裂かれたように切れたのはこの後だった。聞けば済むことをいちいち覚えない、という屁理屈を夫が言ってきたのだ。では、コピーをする度に私に聞くわけ? そう反論した。夫は、そうだと言った。断っておけば、ここで「しめ縄のような堪忍袋の尾」が切れたのではない。この夫の「そうだ」の一言から、互いの人格否定にまで話しが飛躍し、この罵り合いが私を怒らせたのだ。その時は「コピー」云々の話はもう消え去っていた。夫婦ゲンカというのは、時としてヤクザのケンカよりも急速に燃え上がったりする。国語の教師である夫は私と出会ったとき、干支が言えなかった。いいとこ最初の3匹が言えたらいいほうだ。私が「アホとちゃいますか~」とからかえば、夫は「大切なのは、調べる術を知るということだ。どこにそれが書いてあるのかさえ分かれば、別に知る必要もない」という負け惜しみを言った。この類でいえば、夫は三月が「やよい」とまでは知っているが、11月がさて何なのか、たぶん今もわかっていないと思う。そのくせ巷で使われる四字熟語は全て知っているし、ことわざや人名にも気味が悪いほど詳しい。なのにたった十二支すら言えない不思議な頭をしている。しかし「ねぇ、『コピー』ってどうするの?」から、どうすれば「人間としてダメだ」に事が発展し、家出する勢いにまでに至るんだろう。真夜中に自転車を漕ぎながら、これは「わらしべ長者」以上の展開だと私は思えてならなかった。駅に降り、私は「スーパーホテル○○」まで駆け出した。するとドアの向こうには「満室」と書かれたものが鎖にぶら下がっていた。のっけから予定が崩れ愕然とした私は、周囲を見渡した。果たして私はどんな風に写っているのだろうかと・・・。もしかして家出少女と写っていやしないか、そんな不安に襲われた。古いが、家出イコール人買い売られるというイメージが最悪の場合としてある。それはちょっとまずいので、私は次のホテルへ着くまで、「地方へ取材に訪れた都会のキャリアウーマンが終電に乗り遅れた」という設定で歩いてみた。ここで大切なのが「困ったわねぇ~」という顔だった。果たして誰が夜中の0時過ぎに、一人の女の表情を気にするだろうか。しかし自意識過剰の私は、無意味に「困ったわねぇ」の表情を顔に貼り付けたまま次のホテルへ向かった。ホテルに着くと、午前1時を回っていた。第二関門だと私は思った。なんと言って泊めてもらえばいいんだろう、こんな時間に・・・。家出人と間違われて通報されたらどうしよう、そんな不安がまたもやよぎった。ダメだ・・・動揺してはダメだ。このまま「地方へ取材に訪れた都会のキャリアウーマンが終電に乗り遅れた」の設定を崩せば、この数分の苦労が水の泡だ。なので私は「また終電に乗り遅れちゃった超ハードなお姉ちゃん」っぽい顔をして「お部屋あいてますぅ」といかにも慣れた口調で聞いてみた。この言い方に一瞬場違いなアクセントを感じた気もしたが、そんなときは相手も同じことを感じているようだ。フロント係りのお兄ちゃんと目が合った。「しまった。ミスった!」この動揺は、深夜を過ぎ、疲れて早く部屋に入りたがって女を装うことで誤魔化した。「ここに、ご記入願いますか?」フロント係のお兄ちゃんから受け付け用紙を渡され、私は書いた。住所は実家、名前は本名、電話番号は・・・と考えながら書いたのがまずかった。3回も番号を間違い、訂正の斜線をビュンビュン引っ張った。「怪しい、私は今、非常に怪しい」なんとかルームカードをもらった私は部屋に入り、早速お風呂を沸かして浸かった。なんで私は自宅にいないで、こんなところにいるんだろう。その理由が頭に浮かんだとき、口の片方だけで笑ってしまった。「そっか・・・『コピー』だったなぁ・・・」できれば「価値観の違いから家を飛び出してしまった」みたいな、知性と品を伴う口論であれば、ホテル代の7,500円も浮かばれただろうに・・・。何が悔しいかといえば、あとにも先にもこのホテル代だった。ケンカの悔しさを忘れ、ホテル代を惜しみながら私は眠った。(続きは、時間があれば書きます。φ(..#)。次の日はとてもマジメに過ごし、一皮向けて私は帰宅するのでした。しかし、家族は・・・ (/><)/ ひぃ~!)
2005.01.08
あけましておめでとうございます今年もよろしくお願いいたしますやっとパソコンの前で打つ時間が取れました。といっても、もうすぐ日付が変わる。明日も6時起き、そして七草がゆを作らなくては・・・。そう思うと、座った早々椅子からお尻をはがすことばかり考えてしまう。しばらく「書く」が遠のいていたので、「ここ」も「原稿の上」も気になっていたのだけど、ちょっとばかし違うことをしていました。毎年違ったことをしている私。そのための勉強をしていました。まだ内緒。昨年は「命」というものを自分なりに見つめた一年でした。自分の命、人の命。生きているからこそ「命」なのだけど、亡くなればなお、その存在していた「命」を思わずにはいられない。その意味を見つめるのに充分なほど、存在していた「命」は消えてなくっていきました。生まれてきた意味は、死んでその悲惨さを世界に判らしめるためだけにあるように、名をあげられることもなくその時の死者として数にあげられていく無念を、何度も紙面の上から見ました。ありとあらゆる「悲」と「怒」の感情を総動員して過ごしたこの一年の最後に、あのスマトラの津波で15万人もの命が奪われました。15万人の断末魔の叫びと、その家族の悲鳴を地球という同じ星にいながら聞こえないのが不思議なほど、あの日の地球は絶命する黒い声で響いていたはず。こんなにも命が散っていった2004 年という年を振り返ると、果たして自分は平均寿命まで呑気に生きていけるのかと信じがたい気持ちになります。人間が生きていくというのは、運を天にでも任せながら危ない道をすり抜け、それはまるで生き残りゲームの勝者のように、生きられたのは当たり前ではなく、ただ運が良かったというだけの世界にこれからなって行きそうで、なんだか怖いです。戦争や災害に限らず、多くの人たちが生きにくい時代になっています。それでも、命があることが素晴らしいと知らされた言葉があります。スマトラの津波で、一度は諦めていたのに助かったと連絡を受けた家族の一人が「生きていればいい。全てをなくしても命があれば、またそこから始めることができるから」といった言葉を、それをテレビで見ていた父が教えてくれました。「たとえば腕を失くしたとしても、失くしたところからまた始められる。生きてれば始めるってことができる。死んだら無やからな・・・」そう言いながら。生の存在の貴重を、知る言葉でした。イラクで亡くなった橋田信介さんが、亡くなる前に撮ったビデオにこんな言葉を残していたそうです。「とにかく一日のうちにホンの小さな楽しみがあれば、あとはどんなに辛く苦しくても、その小さな楽しみのために生きてください。生きるということが大切なんです」あらためて、かけがえのない命を今、生きているのだと思いました。誰の命も無意味にこの地球からこぼれ落ちることなく、たった一つずつの生の存在を愛しむことができればと願います。
2005.01.06
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