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今日のまとめ 1. 計画経済の試みは失敗した 2. アフリカの腐敗の問題は根が深い 3. ようやく多政党民主主義に立脚した国家が増え始めている■アフリカと社会主義 マハトマ・ガンジーやジャワハルラル・ネールらのリーダーシップのもとインドがイギリスの植民地から独立を果たしたとき、それまでの支配者であった英国をはじめとする西側諸国とは距離を置き、むしろソ連のような社会主義の国にロールモデルを求めたことは以前インドの歴史に関するレポートを書いたときに紹介しました。アフリカ諸国の中にもこれに似た発想からソ連をお手本とする国が出てきたことは歴史的経緯から考えてごく自然な流れだったのかも知れません。 ガーナの初代大統領クワメ・エンクルマは大統領就任後、アフリカの期待の星として熱烈に歓迎される中、世界を歴訪します。エンクルマは特にソ連の急速な近代化に印象付けられます。彼は急速な工業化の道こそが植民地時代のモノカルチャー(単一の輸出品目に過度に依存すること)的な経済から脱却する早道だと考えました。彼の指導のもとガーナはソ連型の計画経済を目指します。しかし当時のガーナは植民地支配の後遺症で国民の大半は読み書きが出来ず、工場労働に適した人材に欠けていました。 また会計などの実務ノウハウを備えた人材も払底していました。ガーナの債務は1963年には1.84億ポンドだったのが翌年には3.49億ポンドに倍増しました。しかし政府には政府の債務をちゃんと記録管理するファイルすらも完備されていない状況だったそうです。歴史家マーティン・メレディスによると1963年の内閣の閣議の際、ガーナの外貨準備が僅か50万ポンドに減ってしまったことを告げられたエンクルマは余りのショックの為に15分間黙り込んでしまった後、しくしく泣き出してしまったと記されています。■腐敗の問題 さらにこれはアフリカの多くの国にみられた現象ですが贈賄や横領などが頻発したこともこれらの国の政治、経済の運営を最初から間違った方向へ追いやった重要な要因です。アフリカには「政府の政事は誰の利害でも無い(Government’s business is no man’s business.)」という態度があり、国庫の資金を盗むことが重大な罪であるという意識が希薄でした。特にそれが自分の属するコミュニティーや種族の為ならばそうした行為は正当化されるべきだというメンタリティーがはびこっていました。それは何故でしょうか?。 ナイジェリアの例に見られるようにもともとお互いに人種や言語の違う数多くの部族を強制的にひとつの国として括ってしまい、人工的な国境を線引きしてしまったことがこの原因です。これが国家意識の欠如、あるいは運命共同体意識の欠如につながり国家よりもコミュニティーを優先する慣習を招いたのです。■独裁者の到来 アフリカの政治家はこのような統治力の欠如や腐敗の横行といった環境の中でひとたび権力の座につくとそれを手放そうとせずあらゆる手段を使って居座る工作をしました。そういう権力の腐敗に対してクーデターにより社会を正そうとする若手のリーダーがアフリカ各地で出現します。アフリカ諸国独立後の最初の20年間で成功したクーデターだけでも40件ありました。 ガーナでは1979年に空軍のパイロットだったジェリー・ローリングスがクーデターを起こし一度は失敗しますが二度目の試みは成功し実権を握ります。ローリングスは前国務長官ら8名の閣僚を次々処刑し、アクラの市場を閉鎖します。ウガンダではイディ・アミンが1971年にクーデターを起こし、恐怖政治を始めます。 ナイジェリアでは1966年に若手将校らによるクーデターが起こりますが軍がこれを鎮圧し、そのまま軍政へと移ってゆきました。同国では北、東、西の3つの部族が激しく対立します。このうち東の地域では石油が発見されたことからこの地域の住民がナイジェリアからの離反を試み、ビアフラという国を打ち立てます。しかし石油の収入が欲しいナイジェリア政府はビアフラの独立を認めず凄絶な戦争が繰り広げられました。こうした一連の騒乱でアフリカの殆どは独裁政治ないしは軍政になります。その後、長い年月を経た後、最近は徐々に独裁政権の数は減ってきており、ようやく20以上の国が複数政党による民主主義の体裁を整えるところまできています。■南アフリカのネルソン・マンデラ 一方、アパルトヘイトにより白人支配を強化した南アフリカは人種差別政策に対する批判を受けて1961年に英連邦から離脱します。アパルトヘイトに対する抵抗運動としてはネルソン・マンデラらのアフリカ民族会議(ANC)が有名です。しかし 1962年にマンデラは逮捕され、投獄されます。1980年代にはアパルトヘイトに対する国際的な批判が高まり、南アフリカをボイコットする経済制裁が始まりました。1989年に大統領に就任したフレデリック・デクラークは近隣のローデシアの境遇を見て同じ過ちを繰り返してはならないと考えます。 ローデシアでは白人支配から黒人・白人による協同統治に移行するチャンスがあったにもかかわらず白人がそれを拒絶したことから不満をもった黒人が蜂起し長年にわたるゲリラ闘争の混乱に陥りました。デクラークはこうしてアパルトヘイト政策を放棄する決意を固めます。そこで彼は獄中につながれていたマンデラを釈放し、1991年にアパルトヘイト政策を廃止します。そして1994年の選挙ではネルソン・マンデラが大統領に選ばれ民族和解政策が押し進められました。■アフリカが引き継いだ遺産 こうしてアフリカは現代を迎えるのですが長年の失政、経済の混乱などにより大きなハンディキャップを負っていると言わざるを得ません。例えばアフリカの人口の4割は文盲です。これはアジアやラテン・アメリカの16%に比べるとかなり高いです。また国連の人間開発指数ではアフリカが最下位の25カ国の全てを占めています。 さらに8.8億人のアフリカの人口のうち約半分が1日1ドル以下の所得しかありません。アフリカは世界の人口の14%を占めていますが、 HIV/AIDSの感染者数では世界の70%を占めています。財政面ではアフリカの国々のうち半数において国家予算の50%が外国からの援助となっています。さらにGDPの4分の1は腐敗により横領されているという統計もあります。
2007年11月26日
今日のまとめ 1. ガーナの独立はアフリカの人々に希望を与えた 2. 独立後のアフリカ諸国はすぐに問題に直面した 3. 南アは独自の道を歩んだ■ガーナの独立 アフリカにおける独立運動の思想的な基礎を作ったひとりとしてアメリカのWEBデュボアの名前を挙げることができると思います。デュボアは作家、教育者、社会学者、活動家として有色人種の社会的地位向上のために尽力した人ですが、汎アフリカ会議の中心的メンバーとしても活躍しました。そのWEBデュボアらが中心となって企画された1945年の英国マンチェスターでの第5回汎アフリカ会議で書記を務めた若者がクワメ・エンクルマです。 エンクルマはその後、祖国のゴールドコーストに帰り同国の独立運動を指導しました。ゴールドコーストという名称は植民地の支配者であるイギリスによってつけられた名前です。第二次世界大戦後のアフリカは商品市況の低迷、スラムの形成、戦争から帰還した兵士が新しいスキルや世界観を持ち込んだこと、また、外の世界を垣間見たことで独立への期待が高まるとともに現状への不満も募ったこと、などから大きな社会変革が起こりそうなムードでした。 そんな折、ゴールドコーストではカカオの価格低迷で生活の困窮を訴える市民のデモが騒動に発展しました。これが同国の独立運動を加速させたのです。1951年に新憲法が制定され、総選挙の結果、騒動で投獄され獄中から立候補したエンクルマが勝利し、首相に就任します。こうしてゴールドコーストはイギリスから独立し、ガーナという国名を採用します。この時点でも英国は「ガーナは特別だから他のアフリカ諸国には独立運動の嵐は飛び火しない」という考えでした。それは当時からガーナは世界有数のカカオの産地で比較的豊かであったこと、また人種的にも国民の約半分がアカン族から構成されており社会の結束が強かったことなどによります。 しかしアフリカの人々からするとサハラ砂漠以南で初めてアフリカ人がリーダーとなる政府が発足したことはとても刺激になりました。こうして他のアフリカ諸国にも独立の気運が高まったのです。■アフリカの年 第二次世界大戦前のアフリカを見ると独立国はエチオピア、リベリアの2国と白人支配の南アだけでした。しかし戦後エジプト、リビア、チュニジア、モロッコなどの北アフリカ各国が独立し、その後、先に見たようにガーナが57年に独立しました。そして「アフリカの年」と呼ばれた1960年には西アフリカ、赤道アフリカの各国が続々と独立を果たしました。こうして1961年までに29の新しい独立国が生まれたのです。■コンゴ独立を巡るドラマ コンゴは1960年6月30日にベルギーから独立しました。しかしレオポルドビルで開かれた独立の記念式典でのエピソードはその後の同国の波乱に満ちた道のりを暗示するものでした。それまでのコンゴの支配者であったベルギーのボードウィン王は「我々が去っても余り急には変革をしないように」と釘を刺すスピーチをしました。 これに対して新しくコンゴの首相となるパトリス・ムルンバは公式プログラムに無いスピーチでベルギーのそれまでの圧政を徹底的に批判します。もともとコンゴはベルギーのレオポルド2世の私的資産として獲得されました。レオポルド2世はアフリカの持つ資産価値に気づくと、1878年に著名な探検家、ヘンリー・モートン・スタンレーを雇って現在のコンゴの位置する地域の400にものぼる原住民の酋長と次々に「条約」を結び、ベルギーの保護下へ入ることを説得します。こうして1885年にレオポルド2世はコンゴの土地を「コンゴ自由国」としてベルギーの植民地とすることを他の列強各国に認めさせたのです。 レオポルド2世が主に狙ったのは象牙です。このときのベルギー人の容赦ない統治は作家ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』に描かれています。さらにレオポルド2世は天然ゴムにも目をつけます。タイヤの発明と、それが自転車、そしてゆくゆくは自動車に使われたことで天然ゴムに対する需要は爆発しました。レオポルド2世は天然ゴムを収穫するために強制労働や拷問などの過酷な手段を使います。 コンゴがベルギーにとって堪えられない美味しい植民地となった極めつけは1911年にコンゴ川上流のカタンガ州が豊富な地下資源に恵まれていることがわかった事です。「地質学上の真のスキャンダル」と呼ばれたこの発見でカタンガ州には銅、ダイヤモンド、ウラン、亜鉛、コバルト、マンガン、銀などが大量に眠っていることが確認されました。1959年の時点で世界の銅の10%、コバルトの70%、工業用ダイヤモンドの70%を産出していたのです。このカタンガ州からの税収でベルギーの国家財政の3分の1、コンゴの財政の60%が賄われていたと言われます。 しかし1956年に銅の市況が急落するとコンゴの国民は生活の困窮に耐えられなくなり、独立運動がはじまります。コンゴ国民運動(MNC)が組織されたのはこの頃です。1959年1月には首都のレオポルドビルで大暴動がおき、またその10月にはスタンレービルで暴動がおき26人の現地人が死亡しました。こうした騒乱を経て、ベルギーはもはやコンゴの植民地支配は無理だという判断を下し、最初に述べた独立の容認へとつながってゆくのです。■上手く行かなかった民族自治 こうしてアフリカ諸国は念願の独立を相次いで獲得しますが、民族自治の試みは驚くほど早い段階から悪い方向へと堕ちてゆきます。先ずエンクルマのガーナは輸入代替工業化路線を打ち出し、数多くの公共事業、工業化プロジェクトをスタートしますがそれらの事業をきちんと経営できる人材が無く、経営が無茶苦茶だったこと、さらに市場経済の理解が不足しており、カカオの価格統制に政府が乗り出した例に代表されるように間違った政策が国庫を圧迫し国民を困窮化させたことも指摘できます。こうした失敗の中でエンクルマ政権はどんどん独裁色を強めてゆくのです。 数々の非効率な国営企業や不正、腐敗の置き土産を残してエンクルマは1966年の無血クーデターで大統領の地位を追われます。その後のガーナはクーデターの連続でしかも経済の状況はその度ごとにますます悪くなるという事の繰り返しでした。 一方、ルムンバのコンゴも惨憺たる状況でした。独立して間もなくコンゴの軍隊が叛乱を起こしました。この混乱の中でコンゴの地下資源の大部分が集中するカタンガ州は独立を宣言します。カタンガ州に駐屯していたコンゴの軍隊は武装解除後解散させられ、新しくカタンガ州独自の軍隊が編成されます。この指導にあたったのは他ならぬベルギーの軍隊です。ベルギーはあわよくばコンゴを取り戻そうという意図からカタンガ州の独立の試みを支援したわけです。 こうして独立間もないコンゴは一瞬のうちに国内治安の乱れ、軍隊の崩壊、カタンガ州離反の動き、ベルギーの政治的ならびに軍事的な介入に見舞われたのです。窮したルムンバは国連に助けを求めます。国連はすぐに国連軍を派遣し公共サービスの再開だけは確保します。■南アフリカの道のり 19世紀終盤のアフリカ大陸の南端のケープ植民地はアフリカ大陸の中でも特に不毛の地であると考えられていました。航行できるような河川もなく、交通手段は牛の引くワゴンだけで、農業をする環境としても極めて条件の悪い土地でした。僅かにオランダ東インド会社の商船が喜望峰を迂回する際に物資を補給するためにケープ・タウンに立ち寄る程度でした。 その南回りルートもスエズ運河の開通(1871 年)で近く用無しになる見込みでした。この土地にはオランダ移民が農民として入植していましたがナポレオン戦争の際に所有権がオランダから英国に移譲され、これらのオランダ人は英国の支配下に置かれました。彼らはボーア(農民)と呼ばれました。ボーアは屈強で開拓者精神に溢れた人々として知られており、彼らは英国の支配を嫌ってケープ植民地の北を流れるオレンジ川を渡り、対岸にオレンジ自由国を建設します。 さらにその北のヴァール側の奥にトランスヴァール共和国を建国します。1867年の或る日、オレンジ川のほとりで遊んでいた少年がダイヤモンドを見つけたことからオレンジ自由国の運命は大きく変わります。ダイヤモンドを掘ってひと山当てようとする山師がどんどんキンバリーにあるデビアーズ鉱山につめかけました。 そんな冒険者の中にこの土地でとりわけ商才に長けた若者が二人居ました。ひとりの名前はアルフレッド・ベイト、もう一人はセシル・ローズです。アルフレッド・ベイトは数字にめっぽう強いだけでなく勤勉で篤志家でした。 一方のセシル・ローズは容赦ない商魂で恐れられていました。或る日セシル・ローズが仕事を終えて帰宅の途中、夜遅くなのに未だ明かりがついている事務所を見つけます。そこで好奇心を持ったローズはその事務所の扉を叩き中の若者に問いました。「いつもこんなに遅くまで仕事しているのかい?」そこでアルフレッド・ベイトは「ああ、毎日じゃないけどね。」と答えます。ローズは「ところでお前さんの商売は何なんだい?」と聞くとベイトは「ダイヤモンドさ。そのうちにこの土地のダイヤモンドを全部独占するのが僕の夢だ。」と答えます。それを聞いたローズは「そりゃ可笑しいな。実は俺もダイヤモンドを独占しようと企んでいたところさ。どうだい、俺たち組まないか?」と持ちかけました。これが後に世界のダイヤモンドを独占するデビアーズ・コンソリデーテッド社のはじまりです。 イギリスはダイヤモンドの出たボーア人の住むオレンジ自由国をイギリスの直轄領に併合してしまいます。さらに1886年には今度はトランスヴァール共和国で金が発見されます。するとセシル・ローズはダイヤモンドで築いた財産を使って今度は金を獲得するためイギリス軍を仕立ててトランスヴァール共和国へ進入します。この1895年の侵略はボーア人によって撃退されてしまいますが、イギリスは1899年にボーア戦争とよばれる侵略戦争を再度企て、今度はボーア人を屈服させます。このように南アの政治は早くから鉱山コングロマリットの利害によって突き動かされていた点は注目に値します。■アパルトヘイト(人種隔離) 南アフリカでは1936年に有色人種が選挙に出馬するのを阻止する法律を作ったのを手始めに1948年にパス(通行証明書)法、1949年に混血禁止法、1950年に集団別居法などを制定し黒人の人権や生活、移動の自由を厳しく制限しました。これがアパルトヘイト(人種隔離)と呼ばれる政策です。つまりアフリカのその他の地域が民族自決で黒人による政治へとどんどん傾斜していたとき、南アだけは逆コースを歩んだわけです。
2007年11月19日

今日のまとめ 1. 欧州の工業化は素材への需要を高めた 2. 列強は資源を求めてアフリカ大陸を競って植民地化した 3. 第二次世界大戦は植民地独立運動のきっかけを提供した■植民地獲得競争の起源 世界におけるインダストリアル・コモディティー(鉄、すず、亜鉛、銅などの工業向け素材)の消費が爆発的に増えたのは1860年代以降です。その直接のきっかけになったのは1856年にイギリスで発明されたベッセマー法と呼ばれる製鉄法です。ベッセマー法は圧延に適した強靭な鋼鉄の製造を可能にしました。鋼鉄の登場は様々な機械の製作を可能にし、これが欧州各国の急速な工業化を促進したのです。 急速な工業化の進展はあらゆるコモディティーに対する需要を増やしました。素材価格が急騰したのはそのためです。こうして1870年頃にはコモディティーの価格はピークを迎えます。下のグラフは当時の米国での卸売物価の推移を示したものですがウグイス色の理論値は経済学者エドワード・デューイによる通常の商品価格サイクル下でのさまざまな商品価格の合成値であり、一方、赤が実際の卸売物価です。三箇所赤のグラフが突出している部分がありますが、これらはそれぞれ南北戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦による価格の歪曲を表しています。さて、第一回目の卸売物価のピークが来た1870年頃を境に欧州の列強の対外政策は大きく転換しました。それまでは列強は主に欧州域内での領土争いに明け暮れていました。しかし素材価格が急騰しはじめると列強は地下資源を求めて植民地獲得競争に乗り出すのです。列強によるアフリカ大陸の分割が猛烈な勢いで始まったのにはそういう背景があります。アフリカをどう山分けするかの交渉はロンドン、ベルリン、パリなどに集まった代表たちによって行われました。 しかし彼らはアフリカ大陸の実情に関しては極めて限られた知識しか持たず、国境線を定める場合も往々にして緯線や経線を基準とした直線の国境線を引きました。こうして定められたアフリカの植民地各国の境界線の実に2分の1は直線ないしは半円形の極めて人工的な国境線だったのです。このような現地の実情を考慮に入れない線引きによって引き裂かれたエスニック・コミュニティーの数は190にものぼると言われています。 例えばナイジェリア一国を取っても250ものエスニック言語が存在します。列強が国境線を定めるまではナイジェリアという概念は存在しませんでしたし、新しくナイジェリア国民として括られたそれらの種族には当然国家意識など無かったわけです。後にアフリカ諸国が植民地からの独立を果たし民族による自治を始めた以降も内紛など数々の問題に直面したわけですが、それらの問題の種はこのときに蒔かれたと言えます。こうして1876年から1900年までの僅か25年間にアフリカ大陸の79.6%が新たに植民地化されたのです。(1914年当時の欧州列強によるアフリカの植民地、出典:ウィキペディア) 欧州における高度な工業化は企業家に利益をもたらし、高度の資本の蓄積を生みました。しかし本国では投下資本利益率が漸減していたため企業家やマーチャント・バンカー達は余剰資本を投下資本利益率が相対的に高い後進国へ振り向けました。勿論、そうした投資資金はアフリカのみならずラテンアメリカや北米にも振り向けられましたが、アフリカの支配がこの高水準の国際間の資本取引(下のグラフの緑の円部分)が実行される環境の下で押し進められたことを特筆しておきたいと思います。■第二次世界大戦とアフリカ 第二次世界大戦の勃発はアフリカの運命を大きく変えました。先ず戦争が始まるとモンバサ、フリータウン、アクラなどのアフリカの町は戦争に必要な物資の集積基地となりました。イギリスは30万人を超えるアフリカ人を招集しエチオピア戦線でイタリアとの戦いに投入したほかインド・ビルマ戦線にもアフリカ部隊を派兵しました。折からインドではガンジーらによる植民地支配からの脱却を目指す運動が展開されておりアフリカ人は初めて民族主義運動の存在を知ることになるわけです。 第二次世界大戦は欧州列強の国力を消耗させました。もはや植民地を養うだけの余力が無くなったことを自覚したイギリスをはじめとする欧州各国は1941年に太平洋憲章で米国が示した民族自決の主張を受け入れます。ルーズベルト大統領は1943年のカサブランカ会議に於いてイギリスの植民地支配の非人道的なさまを公然と非難し、チャーチルは植民地を手放すことをしぶしぶ認めます。第二次世界大戦が終結すると戦争に絡む商品相場のブームも終わりました。するとアフリカ経済はとたんに不景気となり、仕事を求めて都会に出てきた住民はラゴス、キンシャサ、ダカール、ナイロビなどの都市にスラムを形成しました。
2007年11月12日
1. ベトナムは加工輸出型経済への脱皮を図る局面に来ている 2. 来年にかけて期待される大型株が相次いで上場される見通しである 3. 海外からの投資資金と貿易収支のバランスの維持が経済運営の鍵である■今のベトナムが必要とするもの ベトナムはこれまでの庶民の草の根のレベルでの頑張りに依存する経済成長から、じっくり練られたプランに沿って加工輸出型経済への脱皮を目指す時期に来ています。それを実現する為には外国企業の生産拠点の誘致などを進める必要がありますし、 WTOのガイドラインに基づいて資本市場を開放してゆくことも必要です。さらに国内のインフラストラクチャーの整備も欠かせません。それはベトナムの経済がどんどん世界の経済ならびに資本市場に組み入れられてゆくことに他ならないのです。■人材 そういう社会的・経済的要請に対してベトナムが中国やインドに比べて明らかに劣っている点があります。それは国際的な人材、さらに経営学など最新の西欧流のマネージメント・ノウハウに精通した人材、マクロ経済や資本市場の仕組みを良く理解している人材などが不足している点です。華僑や印僑の末裔は欧米の最高教育機関で既に多数派(マジョリティー)を形成しつつありますしシリコン・バレーや米国東部の製薬会社、バイオ企業などにおける研究開発(R&D)の中核的存在として活躍していますまた、ウォール街でもリサーチ・アナリストやエコノミスト、M&Aの戦略立案などの実務に携わっている専門家は沢山居ます。彼らはそういう現場で学んだベスト・プラクティス(最新のノウハウ)を中国やインドに持ち帰ってこれらの国の企業風土を刷新している最中なのです。 ベトナムにはそういうトップクラスの人材が欠けています。ベトナムは歴史的にフランスとつながりがありますし、サイゴン陥落の後に多くの南ベトナムの人が米国に脱出したりしたことでアメリカにもベトナム人のコミュニティーというのは存在します。しかし着の身着のままで逃げてきたファースト・ジェネレーション(初代移民)は敗戦と母国脱出時のトラウマ、異郷の地への順応に際しての苦労などを克服するのが精一杯でした。彼らの子息であるセカンド・ジェネレーション(第二世代)は今ようやく社会に出て、結婚し、家庭を持つという時期にさしかかっている状況です。しかし中国やインドの子息に比べて家庭環境や教育環境ではかなり苦労が多かったと察します。その影響で欧米の最高教育機関で一大勢力を形成しているという段階には未だ達していません。それが実現するにはもう一世代の時間が必要でしょう。 今のベトナムの政府や企業で中核的存在になって活躍している層は仮に海外での留学経験があったとしてもそれは旧体制時代のソ連だったりして、資本主義の運営に必要な知識をきちんと学んだ人材が決定的に不足しています。さらに前回までに見てきたようにベトナムの政治家は外からのアドバイスに耳を貸さないことで知られています。これらの要因がベトナムの国家運営や企業経営に新風を吹き込むことを阻んでいるのです。■戦略的に重要でない企業から優先し上場 ベトナムの株式市場が最近日本の投資家にも注目されていますが、現在ベトナムの株式市場に上場されている企業は事業規模が小さく、しかも基本的なガバナンス(企業統治)や経営のディシプリン(規律)に欠いた企業が散見されます。経済の実力でベトナムとほぼ同じ程度の他国の上場企業との比較においてもベトナムの上場企業の脆弱性は明らかです。これはひとつにはベトナム政府が国策の面から重要性の低い企業の私有化、上場を優先し、自分達が最も重要だと考える中核企業を最後まで温存する方針を採ったことと無関係ではありません。■一度頓挫している民営化への試み ベトナムでは米国や欧州の名門投資銀行や運用会社は余り活発に活動していませんし、大きな拠点を持っているところはありません。これはなぜかというと既に彼らは一度ベトナムに進出し、その後、撤退したからです。ドイモイ政策が打ち出された後で、一度ベトナムが欧米の投資家の間でブームになったことがありました。著名な運用会社や証券会社が相次いでベトナムに進出しファンドを組成しました。しかしベトナム政府の民営化プログラムは遅々として進まず、結局これらのファンドは集めた資金を投資する投資先を見つけられず、しぶしぶ資金を投資家に返還したのです。■今度こそブームをモノにしたいベトナム 従って今回のベトナム・ブームは厳密には「2回目のブーム」です。前回同様、今回も欧米の投資銀行はベトナムの中核国有企業の民営化・株式公開プログラムに関与するためベトナムに殺到しています。べトコム銀行(ベトナム外商銀行)、インコム銀行(ベトナム工商銀行)、BIDV(ベトナム投資開発銀行)、モビフォン(携帯電話会社)などの大企業の上場スケジュールが市場での話題に上っています。これらのブルーチップ企業の株式が株式公開となればベトナム市場は大きくスケール・アップし、世界の機関投資家にとってベトナムの重要度は飛躍的に上がるに違いありません。 今回の当初のスケジュールでは上記企業の大半は年内に上場に漕ぎ着ける筈でしたが、またスケジュールが遅延しがちになっているのは不安要素です。前回のレポートで見たようにベトナムはインフラ整備のための先行投資を進めています。これは機器や資材の輸入を増やし、貿易収支の悪化を招いています。従って海外からの直接投資やポートフォリオ投資によってバランスを維持してゆくことが今後一層必要になるのです。実際、ベトナム政府は海外からの資本持込みに対する規制を緩め始めています。これが海外からの投資資金の介入を可能にしているため、株式市場が活況になっているわけです。
2007年11月09日
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