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一般的に良いとされる行いは多くあります。すぐに思いつくものとしてはボランティア活動でしょう。それをするために時間やお金などの犠牲を払ってするという姿勢は素晴らしいことだと思います。事実そういった働きで復興支援や海外支援、またもっと身近な快適な生活など多くの働きが支えられています。しかしそういったボランティアをいくらしたくても自分の生活や仕事のすべてを投げうってするというのはよほどの資産家ではないと不可能でしょう。まず自分の生活が最低限成り立ってこその助ける働きだからです。聖書ではまず自分で働いて生活をして、そして教会として善い働きを続けていくことを記しています。それぞれ個人では出来ないことでも、チームとしてお金や時間を共有することで大きな働きをすることが出来るからです。事実世界中の教会が素晴らしい働きを展開しています。それらの働きは個人ですることは到底不可能なことに思えるような働きです。しかしそういった働きを教会として共有し進めていく時に達成可能になることもあるのです。教会はキリストの体として聖書で書かれています。頭だけではなにも出来ないし体だけでもなにをしていいのか分かりません。しっかりと体と頭はつながっていないと機能出来ないのと同じように教会につながるひとりひとりがキリストとしっかりとつながり、その心にイエス様の愛、そして想いを沸き上がらせ、共有し、祈り前進していく必要があります。主にあってつながり合い、ビジョンに燃やされて進んでいきましょう。
2013.01.28
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一般的に良いとされる行いは多くあります。すぐに思いつくものとしてはボランティア活動でしょう。それをするために時間やお金などの犠牲を払ってするという姿勢は素晴らしいことだと思います。事実そういった働きで復興支援や海外支援、またもっと身近な快適な生活など多くの働きが支えられています。しかしそういったボランティアをいくらしたくても自分の生活や仕事のすべてを投げうってするというのはよほどの資産家ではないと不可能でしょう。まず自分の生活が最低限成り立ってこその助ける働きだからです。聖書ではまず自分で働いて生活をして、そして教会として善い働きを続けていくことを記しています。それぞれ個人では出来ないことでも、チームとしてお金や時間を共有することで大きな働きをすることが出来るからです。事実世界中の教会が素晴らしい働きを展開しています。それらの働きは個人ですることは到底不可能なことに思えるような働きです。しかしそういった働きを教会として共有し進めていく時に達成可能になることもあるのです。教会はキリストの体として聖書で書かれています。頭だけではなにも出来ないし体だけでもなにをしていいのか分かりません。しっかりと体と頭はつながっていないと機能出来ないのと同じように教会につながるひとりひとりがキリストとしっかりとつながり、その心にイエス様の愛、そして想いを沸き上がらせ、共有し、祈り前進していく必要があります。主にあってつながり合い、ビジョンに燃やされて進んでいきましょう。
2013.01.28
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愛ということばについて私たちの持つ印象は様々あります。日本語で愛と書くとその幅はすごく広いのですがギリシャ語では愛という意味を表すために、3つの種類が分けて使われます。 性的愛を示すエロース、兄弟愛,両親への愛,友情,好みなどを示すフィレオー、そして神的,自己犠牲的,他者中心的な愛という意味を持つアガペーです。私たちが一般的に用いる愛は多くの場合はフィレオーが多いでしょう。好きだから~とか自分の家族だから~とかかわいいから~とか砕いていくと「だからの愛」とも言えるでしょう。それと比較してアガペーの愛は「それでもの愛」と表現出来ると思います。神様はエデンの園から始まって旧約を通し裁きよりも愛と赦しを優先されました。そこには資格がなくても、それでも赦し愛する神的な愛があり、イエス・キリストの誕生~十字架での購いは自己犠牲的かつ他者中心的な愛という表現がふさわしいでしょう。この愛と忍耐ゆえに私たちは自分の行いに関係なく、まず信じることによって赦しを得て、天国への切符を手にすることが出来ます。もし行いが必要なら行うために必要な体力や知識、また行動出来る健全な肉体がないと救いを達成することは不可能になるでしょう。施しが必要であれば裕福でなければ救われなくなってしまいます。すべての人に平等に救いへの道を示すために神様は神様にしかできない方法でその道筋を整えられました。 神様の愛の深さ広さ高さは私たちが生涯かかっても理解しきることは不可能かも知れません。しかし愛して下さる方の愛に自分に出来る精一杯の愛で応え、感謝に溢れて生かされていきましょう!
2013.01.21
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自分の力でどうにもならないと感じる壁や試練を体験したことは多くの方が体験していると思います。そういった時にはちょっとした励ましや支えがものすごくありがたく感じれたり、また解決のために力を貸してくれる存在が与えられた時は一生忘れないくらい感動したのではないでしょうか。ここで私たちが誰しも通る可能性のある。むしろ通るべき困難な道を考えていきたいと思います。努力が報われない時、また正当に評価されない時、さらにその努力を続けることは困難になる場合があると思います。また正直であるばっかりに損をすることもあるでしょう。どちらのケースもうわべを取り繕えばいいと思うかも知れません。しかし自分の心に嘘がつけない。また神様がすべてご存じだからといった思いからまっすぐ歩もうとする時に時に疲れ、挫折感を感じだり、虚しくなることもあるでしょう。しかし自分の道を神様の前に真っ直ぐ保とうとする時に主は慰めを与え、そして強めて下さるお方です。遅いと感じることがあっても忍耐の先に主の慰めがあることを体験することが出来るでしょう。パウロはテサロニケの教会の人々にあらゆるよいわざとことばに進むように勧め、そしてその心を主が慰め、強めて下さいますようにと祈っています。良いわざとことばに進むために慰めと力、つまりバイタリティが必要なことをパウロは知っていました。そこで周りと見比べれば損をしているように感じることもあるでしょう。しかし視点を上に変えるならば神様はそのわざとことばをよしとして下さいます。決してそれは忘れ去られることはありません。主の前に誠実に歩む時に私たちの人生は明るくすがすがしいものになるでしょう。主の慰めと力を受けてまっすぐな歩みをしていきましょう。
2013.01.15
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聖書には黙示録をはじめ世の終わりに関する記述が多くあります。IIテサロニケ2章にもそういったものがありますがそこには背教が起こること、また自分こそ神であるという者が現れ、すべての礼拝されるものに反抗し自分を高くあげるもあります。またそういったものに惑わされる者が多くいること、真理を信じないで悪を喜んでいたすべての者が裁かれるとあります。悪を喜ぶとはどういうことでしょうか?それは死んだらなにもない。なにもないならどんなことをしてでも自分が楽しければいいというような刹那的な考えや自己中心的な思いから来る良心の麻痺です。私たちの心が疲れ、諦め、硬直化してしまうと本当にすさんだ状態になってしまうでしょう。そこには境遇の問題、環境の問題など外部からの問題も少なからず影響していると思います。しかし最終的に決断するのは自分自身に他なりません。いくら責任を転嫁しようとしても自分の決断であることには変わりはありません。私たちはどのような時にも真理に立ち続ける者となるべきです。初代教会も折れそうな心を互いに励まし合い、支え合い多くの艱難を乗り越えていきました。問題以上に神様に注目していました。私たちもそういった素晴らしい信仰の偉人たちに学び、そして習うべきです。惑わされることなく、イエス様から目を離さないような堅実で真理を求めそして真理を喜び、真理に生かされる者とされていきましょう。
2013.01.07
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新年おめでとうございます。それぞれ新しい年に向かって様々な祈りや願い、希望や不安も持っておられると思います。ジョイフルプレイズの今年度聖句はルカ6章45節から「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」になりました。私たちは時として口で人を励まし建て上げ、また同じ口で失敗もします。口を制するというのは本当に大変なことです。しかし今年はひとりひとりが心から良いものが取り出せ、それが伝えられる口をもっともっと持っていくことが出来るように成長、成熟していきたいと願います。私たちはこの口を持って神様を賛美します。そしてその賛美の中に神様がいてくださいます。そんなに素晴らしいことに用いられる口をさらにきよく、そして良いものとするために心を神様によって整えて頂きましょう。まだまだ荒削りかもしれません。でもいいんです。私たちの目指すところ、信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストから目を離さずにいるならば私たちはゆっくりでも遠回りしているように感じても前進していけます。私たちが過去の失敗に囚われず、現状で諦めず、未来の自分、そう今よりももっと、少しでもイエス様に近づいている姿を思いめぐらしながら祈り前進しましょう!
2013.01.04
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