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2013.01.24
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このblogに「授業リフレクション」のことを書きながら、ふと思い出した原稿がある。それは、平成22年の夏、社会科初志をつらぬく会全国集会の小林宏己先生(早稲田大学)の基調提案を聞き、「考える子ども」(2010.9月号)に書いたものである。  

・・・・・

子どもがともにあること

「私は、どう共感しているのか、どう共感しようとしているのか。」
 この「ことば」が小林先生の基調講演の中で強く印象に残った。これまで、私自身「子どもに寄り添い、子どもとともに学ぶ教師」にと思ってきたが、私は、何のために子どもに寄り添い、何を子どもの姿から学ぼうとしていたのか。そんな疑問が頭の中をよぎる。
 授業中の子どもの発言をていねいに文字に起こし、気になる子どもが何を考えていたのか、そして、どうしてそう考えたのか思慮することも、いつかはその子どものことを授業の中で見取り、適切に働きかけることができるいう教師としての力量を高めることを求めるためのものではないか。子どもの発言から、いろいろな教材を解釈する視点に気づき、その教材についてくわしくなることに満足するためのものだったのではないか。もしかしたら、今まで私が「子どもとともに学ぶ」ことと考えていたことは、いつか「すばらしい教師」になるための一方的で「よこしまな」ものなのではなかったか。
 研究集会に参加して基調講演をお聴きした上に、せっかくこの原稿を書く機会をいただいたので、この「子どもがともにあること」について考えてみたい。

私は、どう共感しようとしているのか

「私は、どう共感しているのか、どう共感しようとしているのか。」

 私は、これまで授業研究会の中で「目の前の子どものために授業者は何をしたのか、何ができるのか」ということを問題にしてきたが、このことも、もしかしたら子どもたちにとって「おせっかい」で、いわゆる「上から目線」なものだったのかもしれない。本当に私は「何かしてあげる、してあげることができる」存在なのか。そんなことよりも、一人の人である子どもたちと、どう関わろうとしていたのか。子どもたちの何を分かろうとしていたのか。どんな教師になろうとしているのか。そして、人が人とともにある社会の中で、私はどんな存在なのか。こんなことを問い続けることこそ、子どもとともに成長する教師の姿なのではないのだろうか。
 私と教室にいる子どもが、人と人としての関係をつくっていくこと。当たり前のことであるが、授業という特殊な場で、私はこのことを大切にしていただろうか。
 また、小林先生は「考える子ども」に、「全国研究集会に期待する」こととして、授業後の「研究協議を協働的な学びの場へ」するための具体的な取り組みを6点挙げられている。

1)事実の尊重
2)課題・論点の可視化
3)現場主義の徹底
4)権力関係の排除
5)省察の具体化と実践的知見の重視
6)協働の促進

 これは、授業者を含め参加者個々の「見え方」や「分かり方」、「納得の仕方」を大切にし、「その人らしく『学ぶ』こと」を保障するというものであろう。私は授業者に「どのように共感しようとしているのか」、今の私を「語る」ことが必要である。なぜ授業者は私が気にならない子どもを抽出児にしたのか。どうして私は授業者と異なる子どもの姿が気になるのか。そして、それにもかかわらず、どうして私は授業者が子どもたちに向けるまなざしを好意的にあたたかいものとして感じるのか。私と授業者を含む参加者が、研究協議会の中で授業者と参観者、参観者同士が人と人としての関係をつくり、ともに悩み、ともに学ぶことが求められている。

私の「正しさ」とは


 これまで多くの学校の授業研究会で、私は「私の見方ややり方は正しい」と主張してきた。しかし、「子どもがともにある」と考えるとき、「教師としての私の正しさ」という色メガネで自分の授業や同僚であるはずの他の教師の授業を見て、どの「正しさ」が正当かということを議論することは、その色メガネを補修しより強固なものにするにすぎない。大切なことは、私は「どんな色メガネをかけているのか」ということを知り、その色メガネをはずそうとすること。そして、決してはずせないことに気づき、だからといって、はずすことをあきらめるのではなく、色メガネをかけている自分を受け入れながらも、少しでも色メガネをはずして見える世界を見てみたいと願い続けることではないか。
 この願いは、私とは違う「正しさ」という色メガネをかけている私以外の人の「正しさ」に共感し、互いの「正しさ」をすり合わせて、ともに色メガネをはずして見える世界を想像しようとすることにつながるのだろう。
 いよいよ長かった夏休みも終わり、2学期がはじまる。私は、どのような表情で子どもたちを教室に迎えるのだろうか。楽しみである。

・・・・・

研究発表会まであと3週間であるが、子どもたちに「研究発表会だからがんばれ」と声をかけそうになる自分を反省しながら、授業リフレクションすることにより「わたしの色メガネ」をはずそうともがいていきたいと思う。





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最終更新日  2013.01.24 11:36:41
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