スクロヴァチェフスキ&読響によるブルックナー交響曲第8番を聴きました。読響特別演奏会として、 1月21日
、23日の二日間行われたもので、僕は二日目を聴きました。早々と完売していたコンサートです。
指揮:スクロヴァチェフスキ
管弦楽:読響
ブルックナー 交響曲第8番
1月23日
東京オぺラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
スクロヴァチェフスキのブルックナー8番を僕が聴くのは、今回が5度目になります。過去のものをリストアップすると、
2002年9月
読響
2003年11月6日
ザールブリュッケン放響 (東京オペラシティ)
2006年5月12日
N響 (NHKホール)
2010年3月26日
読響 (サントリー)(読響常任指揮者退任前の、最後の演奏会)
です。
スクロヴァチェフスキの演奏するブルックナーに関しては、これまでも折に触れて書いたとおり、個人的には7番の演奏がもっとも好きです。
流麗な美しさが目立つ、内なる世界に向かうような7番は、スクロヴァチェフスキのスタイルに良くあっていると思います。一方で8番は、より外に奔出するような力強さが必要な曲と思っています。これまで聴いたスクロヴァチェフスキの8番は、一流の演奏とは思いましたが、何かちょっと不必要な作為が加わって、スケール感がやや損なわれてしまうような印象を持っていました。今回、いよいよ92歳になられたスクロヴァチェフスキが、8番をどのように演奏するのか、期待して会場を訪れました。
舞台を見るとマイクが立ち、録音されるようです。ハープは舞台左手奥に3台並んでいます。コンマスは長原幸太さん。オケがぎっしり舞台上に並んだあと、現在92歳になるスクロヴァチェフスキの登場です。やや足が衰えられたようで、足取りが遅く、指揮台に上がるのがちょっとしんどそうでした。しかし指揮台には椅子のたぐいは一切おかず、全曲を立ったまましっかり振られていました。譜面台にはスコアが置かれていましたが、ただ置いただけで、最後までまったく開きませんでした。譜面台を使ったのは、楽章間の間合いを取る時に、指揮棒を置くのに使っただけでした。スクロヴァチェフスキは以前からブルックナーを暗譜で指揮します。以前、とある演奏会で、前半にご自分の作曲したオケ作品を、後半にブルックナーの交響曲を演奏したとき、自作曲は譜面を見ながら指揮をして、ブルックナーは暗譜で指揮していました。ある意味自分の作った作品以上にブルックナーに通暁しているのだなぁと妙に感心したものでした。
さて第一楽章が始まりました。遅めの重い足取りで進みます。第二楽章はさらに遅くなり、びしっと引き締まった重心の低い音楽が進んで行きます。テンポはそれなりに変化があり、アッチェレランドなども行われますが、それほど激しいものではなく、ゆっくりした基本テンポの上に自然な息づかいの音楽が堂々と進んで行きます。
従来のスクロヴァチェフスキと同じく、楽器のバランスに細心の注意が払われ、色々なパートの音が良く聴こえるようにバランス良く鳴らされます。見通し(耳通し?)が良く、心地よいです。そしておそらくスコアの細部に様々な手を加えていることも今まで通りで、耳に新鮮な響きが色々と聴こえてきます。それが違和感なく耳に入ってきて、さすがです。
そして第三楽章が圧巻でした。冒頭の低弦の導入が、信じがたいほど重く、深く、慟哭のように胸に迫ってきて、一気に深い世界に引き込まれました。そしてこの楽章でさらにテンポは遅くなりました。(念のため断っておくと、もちろんアダージョですから先行楽章よりテンポが遅いのは当然ですが、そういう意味ではありません。仮に楽章ごとにおおむね標準的なテンポがあるとすれば、標準から遅い方にずれるずれ幅というか、偏差が、第一楽章、第二楽章のそれに比べてさらに格段に大きい、ということです。)この遅いテンポの上で、盤石のコントラバスを土台として、重心低く、深く渋く響く弦楽が、実に心に沁みてきます。そして、もう全然うまく言えないのですが、ひとつひとつの音の佇まいが、なんともきっちりしているのです。深く、かつ明晰なのです。スクロヴァチェフスキのブルックナーは良く明晰と言われますが、自分にとって、深みを伴った明晰を心の底からこのように実感したのは、今回が初めてのことでした。これは凄い。この第三楽章は、スクロヴァチェフスキが92歳にして到達した境地そのものでした。
第三楽章が静かに終わりました。僕はあまりの充実に圧倒されて、「第四楽章がこの路線のままで行ったら、もうこの先はないだろう。スクロヴァチェフスキのブルックナーを聴くのもこれで最後になるのではないか」、などという変な思いを抱いてしまいました。しかし幸いにも?、そうはなりませんでした。やがて始まった第四楽章は、先行楽章と比べてテンポがかなり速めで(上に書いた意味です)、アグレッシブな色合いを帯び、僕としてはそれまでの方向性との違いが大きすぎて、第三楽章までほどには音楽に入り込めず、変な言い方ですが「これならもう一度聴けるかも」と安心?しながら聴いていました。
演奏終了後、スクロヴァチェフスキは、タクトを降ろすまで完全な静寂が起こることをかなり期待していたと思います。スクロヴァチェフスキのこのあたりのこだわりについては、2010 年10月の読響との7番の演奏会の記事 「拍手は指揮者が手をおろしてからお願いします」というアナウンス in 読響定期演奏会」
に詳しく書きましたので、よろしければご覧ください。
僕が今回聴いたのは二日目で、初日の拍手がどうだったのかはわかりません。しかし二日目に関しては、スクロヴァチェフスキのこの期待は、完膚なきまでに打ち砕かれてしまいました。
終了後、物理的な残響が鳴りやむかやまないか、もちろんまだ指揮者がタクトを高くあげているうちに、すかさず一人の不心得な聴衆が、ブラボーと叫んでしまい、拍手が沸き起こりかかってしまいました。スクロヴァチェフスキはさぞやがっかりしたのでしょう、直ちに、かざしていた両の手をガッとおろして譜面台につかまり、頭を垂れて、じっとしていました。いかにも残念無念といった雰囲気が全身から立ち上っていました。スクロヴァチェフスキは頭を垂れたままそのまましばらくじっと動きません。湧き起りかけた拍手はすぐに静まったものの、もうタクトは下がったんだから良いだろうとばかり、数人がブラボーを後追いで叫んでしまい、事態をより悲喜劇的にしてしまいました。そのうちに後追いブラボーも止み、ようやくホールは静寂に包まれはじめますが、指揮者はもうあきらめたようにオケの人たちと顔を見合わせ、体を動かしはじめ、それでホールはあらためて拍手が始まり、ようやく晴れて拍手喝采の時間になった、という顛末でした。結果的には十分な静寂もなく、出鼻をくじかれた拍手喝采という、歯切れの悪いものになってしまいました。
最初にブラボーと叫んだ方は、悪意はなかったのだと思いますが、はっきり言って鈍感すぎます。この日場内アナウンスでも、念をおすように、「拍手は指揮者のタクトが下がるまでお控えください」と放送されていました。この方一人が気をつけていたら、もしかしたらホール全体が静寂に包まれた、貴重なひとときが実現したかもしれません。。。
8番と言えば、ヨッフムの日本公演でのDVDでも、終演直後の間髪をいれない聴衆の歓声に、びっくりしてギョッとするような表情をするのが、クローズアップで写っていますよね。その時代に比べれば今は非常にマナーが向上したとはいえ、まだまだ理想的な状況には遠いということを認識しました。
しかしそれにしても、誤解を恐れずにいえば、スクロヴァチェフスキの反応も、大人げないといえば大人げないように思いました。指揮者としては会心の演奏で、完璧な静寂が起こることを確信していたのかもしれません。だからと言って、フライングブラボーに対する失望を隠さず、むしろ大袈裟にアピールするような身振りって、どうなんでしょうか。。。
もちろん、演奏直後の静寂を大切にしたいという気持ちは非常に良くわかりますし、全面的に賛成です。それを気にしない指揮者よりも、ずっと共感し、そのお気持ちを尊重したいと思う者です。それが実現するよう、聴衆ひとりひとりが自覚して協力すべきなのは当然だと思います。
それでも敢えて言えば、演奏後の静寂は、目的ではないと思うんです。結果的に静寂が実現しなかったからと言って、その失望をアピールするというのは、世界の大巨匠としては心が狭いというか、潔くないような気もします、などと言ったら顰蹙を買っちゃうかもしれないけど。。。
まぁしかしそれも小さなことです。ともかく第三楽章までの深遠なる音楽世界は、僕にとって本当に貴重な、稀有な体験となりました。スクロヴァチェフスキと読響の皆様(特にコントラバス!)に感謝です。どうぞお元気で、また日本でブルックナーを振ってくださることを、心から願っています。
○2016/2/4 追記です:以前、スクロヴアチェフスキのブルックナー演奏会をきっかけに、演奏終了後の「余韻」について考えたことがありますので、リンクを貼っておきます。よろしければご覧ください。
(4)も書くつもりでしたが、中断してしまいました(^^;)。
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