2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全19件 (19件中 1-19件目)
1
今日の屋久島は、晴。しかし、なんとなく靄(もや)っている。山に水を汲みに行く。一昨日の大雨で、水を汲むところが壊れていた。水は、ほとんど流れていない。よく見ると、砂が管に詰まっていた。それを取り除くと、勢いよく流れた。ついでに周囲のゴミも片付ける。ここは、道路からは見えないところ。そのため、誰も水を汲みには来ない。自分だけの専用スペース。道路工事をしていた頃は、工事の人たちが水を飲んでいた。これまでは、なんとなく馴染めなかった。しかし、水場を修理したら、雰囲気が変わった。違和感が消えた。水も、これまでより何倍も美味しくなった。今日は、満月。「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPでは、水晶祭りがスタートしている。今回は、水瓶座の水晶祭り。ライトブルーの石が、たくさん出ている。ライトブルーは、空の青であり海の青。スカイブルーとマリンブルー。スカイブルーは、ラリマーだろうか。マリンブルーは、アクアマリン。ライトブルーこそが、水瓶座の色。これからの時代の色。濃くもなく、薄くもない。クリアーなブルー。その意味するところは、友愛と平和。フレンドリーな人間関係。魚座のような腐れ縁はない。軽やかで、さわやかな人間関係。後を引きずらない。過去に囚われず、未来を恐れない。今ここに意識はフォーカスされる。今、刻々を生きるようになる。魚座の時代は、過去の記憶という重荷を背負って生きていた。記憶ベースで人生を過ごした。今ここではなかった。意識は、常に記憶と共にあった。過去を背負えば、重くなる。自由に身動きができなくなる。シガラミに縛られ、意識の自由はなくなる。過去こそが、自分の拠って立つ基盤だった。自分とは、過去の集大成。記憶こそが、自分。記憶をベースに創り上げた自分というイメージが、自分の行動を決定づけた。「私」こそが、世界の中心だった。あらゆる行動のベースには、「私」があった。「私」にとってプラスかマイナスかが、重要なポイントだった。「私」の利害が絡むと、クリアーな思考は疎外される。私利私欲が、人生の推進力だった。そういう重たい時代が、終わった。時代の流れは、ライトブルー。ライトには、軽いという意味もある。明るいという意味もある。光という意味もある。軽くて明るい光の時代。さわやかで、すっきりした時代。そういう時代が、これから展開する。意識はクリアーに、軽やかになっていく。「私」の意識は、希薄になる。透明な意識の時代になっていく。自我を超えた意識の時代になっていく。今ここを、クリアーに、さわやかに生きていく。軽く、明るく、光と共に。空のように、海のように。ライトブルーにアクエリアスの時代を生きる。『これからの 時代の流れ ライトブルー 軽く明るく 光と共に』『さわやかな ライトブルーの 夜が明けた アクエリアスの 時代始まる』『これまでの 重荷降ろして 軽やかに ライトブルーの 光と共に』『空を飛ぶ カモメのように 海泳ぐ イルカのように ライトブルーに』これが日記を書き始めて1853日目の心境。* 今日の日記は、完成した直後にすべて消えてしまいました。 これは、再度、全面的に書き直したものです。
2010.01.30
コメント(0)
今日の屋久島は、快晴。気温も上がり、気持の良い天気になっている。ここのところ、月が美しい。今夜は、水晶たちを月光浴させるつもり。満月は、明日。しかし、明日の夜は、曇の予報になっている。今夜、月光浴させた方が間違いなさそう。明日から「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPでは、水瓶座の水晶祭りが始まる。水晶たちは、一昨日、海と川で浄化を済ませた。今朝見たら、見違えるように美しくなっていた。旅立ちが近づくと、水晶たちは輝き始める。それぞれが、これまでに見たことがないくらいきれいになる。今回の水晶祭りは、ブルー系の石が多い。ラリマーとアクアマリンが、たくさん出ている。他にブルートパーズもある。ブルー系の石というのは・・・思考をクリアーにしてくれる。混乱した思考を整理整頓してくれる。また、コミュニケーションを促進してくれる。意思の疎通を助けてくれる。そのブルーの色は、友愛を表す。男女のドロドロとした愛ではなく、さわやかな友愛。対等であり、平等。男女関係でさえ、フレンドリー。友愛は、支配や従属とは縁がない。縦ではなくて、横の関係。お互いの個性を尊重して、共に生きる方向。極めて平和的な関係。愛と平和の石が、ラリマー。潜在意識に溜まっていた怒りを鎮め、心に平和をもたらす。ハイアーセルフや周りの人とのコミュニケーションをサポートする。観念の束縛から人を解放し、友愛精神をもたらす。アクアマリンは、調和と平和を象徴する。喉のチャクラに働きかけ、魂のなかにある献身的な愛を引き出してくれる。アクアマリンの純粋なエネルギーは、感受性や創造性を刺激する。肉体的な強さではなく、あくまで精神的な愛がベース。ブルートパーズは、知性と平和の象徴。真実を見極める冷静な観察力や直観力を高めてくれる。特に淡い水色のブルートパーズは、自分の気持や内面を整理するのに役に立つ。今回出ている淡いブルートパーズは、まさに内面の整理整頓にうってつけ。これらの石たちは、水瓶座そのもの。今の時代を象徴している。これから二千年以上続く水瓶座の時代。そのエネルギーを直に感知することは、これからの人生に役に立つ。一口にアクエリアス(水瓶座)の時代と言われても、抽象的でわかりにくい。しかし、目の前に石を見せられたら、一目瞭然。これがアクエリアスの時代のエネルギーと言われれば、明確に自覚される。ブルー系のさわやかなエネルギー。愛を言葉で説明するのは、難しい。しかし、ローズクオーツを手にすれば、説明はいらなくなる。ローズクオーツのエネルギーこそが、まさに愛そのもの。言葉では説明しにくいものを、石たちは直に伝えてくれる。もう四年以上、水晶祭りを続けているような気がする。その間、12星座で最も充実しているのが、水瓶座の水晶祭り。別に意識的に充実させようとしているわけではない。そうではなくて、気がつけば最も充実している。それは、今の時代だからだろうか。それとも、今の時代に相応しい石たちが自然に集まってくるのだろうか。そもそも水晶自体が、水瓶座的。水瓶座と最も波動が合う。特にクリアーな水晶たちは、水瓶座そのもの。アクエリアスの時代とは、クリスタルのような時代。透き通る透明感。クリアーな意識が、アクエリアスの時代の意識。そういう石たちを身近に持っていると、その影響を受ける。アクエリアスの時代のエネルギーが、自然に刺激される。自分のなかに潜在していたものが、刺激されて活性化する。水晶たちは、人をアクエリアスの時代に導く。『ラリマーも アクアマリンも 友愛と 平和表す アクエリアスの』これが日記を書き始めて1852日目の心境。
2010.01.29
コメント(0)
雲一つない快晴。気温も高くなり、最高の天気。待ちに待った水晶の浄化に行く。冬場は、浄化に行ける日が少ない。浄化に行く時は、半ズボン。海や川に入るため、半ズボンの方が都合がいい。海の水は、冷たかった。しかし、川の水は、更に冷たかった。ここのところ、雨が降っていない。そのため、川の水量が極端に少なかった。逆に、緑の藻がたくさん繁殖していた。大雨が降ると一掃されるのだが・・・藻がいっぱいで滑りやすい。前回来た時は、すってんころりと滑ってしまった。右半身が、ずぶ濡れ。夏場であれば問題ないのだが、冬場は冷える。水瓶座の水晶祭りに出るものと、新しく届いたものを浄化する。海と川で浄化すれば、見違えるようにきれいになる。ついでに自分も浄化される。時々は、水晶と一緒に浄化された方がいい。水晶は、鉱物であり固体。同じ形を長く留める。動物は、固体と液体と気体の合体物。液体である水分が、一番多い。動物は鉱物に比べ、流動性が高い。常に変化している。植物は、鉱物と動物の中間。鉱物よりも流動性があるが、動物には劣る。鉱物のように、長い間同じ形を楽しめるもの。動物のように、瞬間瞬間変化するもの。植物のように、ゆっくりと変化するもの。この世は、多様性に満ちている。この多様性を生み出したものは、何だろうか。自然にそうなった?偶然?たまたま?この世に偶然があるだろうか。意図しないで存在しているものがあるだろうか。この多様性は、何かが意図したからではないだろうか。何かが、豊かな地球を意図した結果ではないだろうか。もし、家を建てようとすれば・・・先ず、どんな家にするかイメージする。それから、設計図を書く。そして、実際に建築に取り掛かる。最初にどんな家にするかという意図がなければ、望みの家は建たない。どんな車にしたいかという意図がなければ、新型車は生まれない。ビジョンがなければ、飛行機も船も機械も作れない。最初に意図がなければ、この宇宙も存在しない。星雲から星々を創り出し、星々に生物を住まわせる。それは、偶然には起こり得ない。まして人のような精密な脳を持つ存在は、けっして偶然にはできない。スーパーコンピューターでも遥かに及ばない脳内システムは、偶然の所産ではない。この地球の循環システムも偶然ではない。星々の自転と公転による微妙なバランスも、偶然の結果ではない。すべてに意図が働いている。それは八百万の神々の意図かもしれないし、天使たちの意図かもしれない。それは、多層多次元に渡るもろもろの存在の意図の集大成。それが、宇宙をあらしめている。大いなる意図から、ささやかな意図まで・・・唯一絶対神から人まで、無限の意図が存在している。この宇宙は、意図によって成り立つ。そんな・・・こんな人生を私は意図していない!そのように思う人もいるかもしれない。しかし、意図は、表面意識だけとは限らない。潜在意識も魂も意図する。大きな神の意図もある。その集大成が、今ここの現実。今の人生を変えたかったら、改めて意図すること。意図すれば、そのように変わっていく。明確に意図することが、自分の人生を変える。それ以外に変える方法はない。生まれてくる前に、今回の人生を意図している。どのような一生にするかの明確な意図がある。その流れに沿って人生は展開していく。しかし、この世に生れてしまえば、その意図の記憶はない。そのため、この世の経験をベースに新たに意図していく。その意図は、生まれてくる前の意図と同じとは限らない。実際に意図して行動するのは、この世の意識。生まれてくる前の意図した流れが、微妙に変化していく。それは、生まれてくる前の意図の強さにもよる。明確でこまやかに意図されていたかどうか。アバウトで大雑把な意図だったか。そのエネルギーの違いによって、この世に作用する影響力も違ってくる。生まれてくる前に強力に明確に意図してくれば、生まれた後もそれは持続する。必死の意図であれば、それは潜在意識のなかで強く働き続ける。それが表面意識にも影響を与え、生まれてきた意図を実践しようとする。明確な意図が、明確な人生を創り出す。今ここから、明確に意図することだろうか。自分の望む人生を明確に意図することだろうか。ダラダラと無意識に生きないことだろうか。自分の人生を自分の望むように創造したかったら、明確に意図するしかない。意図が、人生を創造していく。意図が、宇宙を創造していく。意図がなければ、万象万物は存在し得ない。意図によって万象万物は存在している。明確に意図すること。自分の人生をクリアーにイメージすること。どんな人生にしたいか、明瞭なビジョンを持つこと。それ以外に人生を創造する手段はない。『明確に 意図することで 人生は 望み通りの 現実となる』『明確に 意図することが 面白い 人生創る 創造原理』『意図なくば 現象宇宙は あり得ない 意図することが 宇宙を創る』これが日記を書き始めて1850日目の心境。
2010.01.27
コメント(0)
今日の屋久島は、久しぶりの快晴。午後になって、気温も上がってきた。でも、まだ風は冷たい。あと1ヶ月もすれば、春の香りがしてくることだろう。やっと水瓶座の水晶祭りの準備が終わった。冬場は晴れる日が少ないので、写真が思うように撮れない。自然光で撮っているので、天気に左右される。人工的な照明を使えば、いつでも撮れるのだが・・・できるだけ日常生活に近い形で撮りたいと思っている。普段見ているのと同じ感じが、一番違和感がない。しかし、暗い曇り空では、あまり美しさが出ない。やはり、晴れている方がいい。晴れた日に室内で撮っている。直射日光は、強過ぎる。晴れた日の室内ぐらいが、ちょうどいい。やわらかく光が周る。できるだけ美しく撮りたいと思っている。その水晶が持っている可能性を極力引き出したい。眠っている可能性を花開かせたい。美しさの可能性を・・・美しさとは、色あいであり、形。透明感であり、照り。艶や光沢感。その水晶が持っている雰囲気・・・持っている可能性を最大限表現できるように撮影する。しかし、いくら美しく撮っても、実物には敵わない。実物は、写真を遥かに凌ぐ。それでも、美しく撮れば、美しさが開花する。これまで眠っていたものが、万人に知られる。みんなに認知されると、水晶は更に美しくなる。その美しさに気づけば気づくほど、水晶は一段と美しくなっていく。可能性が花開いていく。じっくり見る。見れば見るほど、美しさに気づく。いい加減に見ていると、深い味わいがわからない。水晶が秘める可能性は、すばらしい。見ること。愛情を込めて見ること。そうすれば、どんどん美しくなる。それは、褒め育てと似ている。女の子は、周りから美しいと言われると、更に美しくなる。賢いと言われると、更に賢くなろうとする。褒めれば、可能性が花開き始める。褒めるとは、肯定すること。今のその存在を認めること。それでOKと言うこと。それがOKと言うこと。肯定的なエネルギーを注がれれば、人は元気になる。ポジティブなエネルギーを注ぐ。ポジティブなエネルギーは、人を育てる。人に限らず、すべてを育てる。ポジティブな言葉をかけ続ければ、すべて健全に育っていく。ネガティブな言葉をかけ続ければ、花は萎(しぼ)んでしまう。せっかくの可能性が、開かないままで終わってしまう。褒め育て。ポジティブなエネルギーを注ぎ続けること。人も動物も植物も同じ。水晶も鉱物も、また同じ。ポジティブなエネルギーを注ぎ続ける時、すべては美しくなっていく。ポジティブとは、その存在を肯定すること。肯定すれば、育つ。その存在を認めてあげれば、本来の可能性を発揮する。ネガティブとは、否定すること。その存在を認めないこと。伸びようとする芽を抑圧すれば、伸びる芽も伸びれない。ネガティブとは、抑えつけること。力でねじ伏せること。下から押し上げるのではなくて、上から押さえつけること。肯定的なエネルギーを使えば、自分の心身も肯定的になる。肯定的とは、健康ということ。心身共に健全になる。潜在する可能性が、花開く。お互いにお互いの可能性を花開かせる方向で生きることだろうか。そうすれば、幸せな世界となる。自分だけ目立とうとすれば、そうはいかない。自己中心的に生きようとすると、肯定的なエネルギーは出にくい。共に生きる。共に活かし合う。そういう方向性で生きることだろうか。持っている可能性を極力花開かせる方向で生きることだろうか。水晶だけでなく、ありとあらゆるものを美しく愛でる。持っている最大の美しさを探る。それは、そのものの良さであり、個性であり、特徴。それこそが、オリジナリティ。同じ水晶は、地上に存在しない。同じ人も、地上には存在しない。同じ花も、同じ星も存在しない。生きとし生けるものすべて、個性を持っている。その個性を花開かせる。花開くのをサポートする。潜在する可能性を花開かせる。そうすれば、この世はそのまま百花繚乱。『それぞれの 個性咲かせる だけでいい ただそれだけで 百花繚乱』これが日記を書き始めて1849日目の心境。
2010.01.26
コメント(0)
昨日は、水晶の撮影をした。次の水瓶座の水晶祭りに出るもの。全部で24組。初回にしては、美しい写真が撮れた。この一回だけでも水晶祭りは可能だが・・・最低でも、もう一回は撮影するだろう。何度かやると、より美しいものが撮れる。次は、背景を変えて撮ろうと思っている。今回は水瓶座なので、ブルーの背景で撮るつもりだった。ところが・・・今回は、アクアマリンやラリマーがたくさん出る。それらの色も、またブルー。それでは、本来の色がわからなくなってしまう。そのため、従来のグリーンの背景も併用することにした。ものによって背景を変えたり、二通り撮ったりするつもり。その方が、よりわかりやすい写真になるだろう。水晶を撮影していると、感動する。あまりの美しさに、出すのを取りやめようかと思ってしまう。これまで気がつかなかった美しさが、ファインダー越しに見えてくる。撮影する時は、いろんな角度から見る。そうすると、これまでとは違った表情を見せてくれる。特にレインボーが、すばらしい。この世のものとは思えない。感動しながら何枚もシャッターを切る。水晶祭りに出すものを選定するのも楽しい。水晶の写真を撮るのも楽しい。解説文を書くのも楽しい。リクエストが来るのを待つのも楽しい。なかなか楽しい水晶祭り。もう四年ぐらいは続いているだろうか。いつから始まったのか、正確なことは覚えていない。水晶が好きなので、なかなかやめられない。水晶祭りで旅立つものがあれば、新しくやって来るものもある。どちらかというと、やって来るものの方が多い気がする。少しずつ水晶は増え続けている。クオリティの高いものが、ズラリと並んでいる。でも、それらもやがて旅立つ。来るものもあれば、去るものもある。すべて一時的に目の前にあるだけ。すべて通り過ぎるもの。それは、水晶に限ったことではない。この世の事象は、すべて過ぎ去って行く。永久不変なものは、何一つとしてない。ただひととき一緒にいるだけ。それを虚しいと思うか、豊かと思うか。それによって、人生は百八十度違ってしまう。思い方は、自由。しかし、事実は変わらない。過ぎ行く一つ一つを愛で、楽しむ。変化の遅い鉱物は、長く楽しむことができる。変化の速い動物は、すぐに飛び去ってしまう。ほどほどの変化の植物は、花が咲くのを楽しめる。変化も、なかなかバリエーションがある。空の雲のように一瞬で変わるものもあれば、水晶のように長らく一緒にいられるものもある。一生一緒にいるつもりが、途中で別れることもある。先のことは、わからない。そうであるならば、今ここを楽しむしかない。今ここの出会いを一期一会として楽しむ。目の前にあるものを、今楽しむ。移り変わる刻々を愛でて楽しむ。次々にやって来る水晶たち。次々に旅立つ水晶たち。そのどれもが、愛(いと)おしい。その愛おしさも、過ぎれば愛着となる。愛着となれば、別れが辛くなる。楽しく出会い、楽しく別れる。新たな旅立ちを祝福するしかない。そうすれば、また次がやって来る。水晶を旅立たせる時は、祝福のエネルギーを入れて送る。宇宙からのエネルギーと地球のエネルギーをハートで融合させる。その融合したエネルギーで水晶を包み込む。それは、祝福のエネルギーとなる。祝福され旅立つ水晶たち。その水晶たちは、届いた先で喜びと共に迎えられる。その喜びに応えるように、祝福のエネルギーを開放する。喜びは、何倍にも増幅される。祝福と共に送り出せば、行った先で祝福の花が開く。行った場所を祝福し、手にする人を祝福する。水晶が、祝福のエネルギーを何倍にも増幅してくれる。祝福された水晶が、もうすぐ屋久島から旅立つ。『何であれ 光と共に 送り出す 受け取る人は 光受け取る』これが日記を書き始めて1846日目の心境。
2010.01.23
コメント(2)
今日の屋久島は、気温が高い。朝から20度を超えている。夜明けも心なしか早くなり、朝起きるのが楽。明るくならないと、起きる気にならない・・・昨日、水晶のことで業者に電話をした。内容は、新しくアップされたレムリアンシードの色の件。写真では、色がよくわからなかった。淡いピンク色とのことだった。その際に、「最近は、値段が安いですね。」と話したら・・・「最近は、安くないと売れない。」との答が返ってきた。不景気でデフレの時代。円高も重なって、少しは水晶も安くなるのだろうか。毎日、たくさんのサイトを見ている。最低でも朝と夜に各30サイトくらいはチェックしている。確かに高いものは、売れなくなっている。良いものでも高いものは、残っている。不景気の影響だろう。これからは、法外に高いものは売れなくなる。良心的にやっているところが残っていく。儲け主義のところは、淘汰されていく。日本航空も倒産してしまった。一昔前には、思いもよらなかったこと。銀行も倒産し、一部上場企業でさえ、いつ倒産するかわからない。大きな組織に未来はない。時代は、個性を尊重するようになっている。大組織では、個性は埋没する。個性を活かしたところが、これからは生き残っていく。キーワードは、個々の個性を大切にすること!時代のトレンドは、組織化ではない。個々の個性を活かした、ゆるやかな連帯。個性を尊重した対等な繋がり。上下関係の時代は、既に終わっている。良心的に誠実に生きるところに、光はやって来る。儲け主義のところは、取り残される。多くの人に喜んでもらえるところが、生き残る。誠実に生きることが、繁栄に繋がる。利益優先も組織拡大も時代錯誤。上下関係も縦の繋がりも、時代遅れ。これからは、横の時代。対等な個性が、花を咲かせる時代。そういうところに、人も物も集まる。そういうところが、時代をリードする。これからの流れを見極めて生きることだろうか。誠実に自分の個性を発揮して生きることだろうか。「安かろう、悪かろう」ではなく、「良ければ、いくら高くてもいい」でもなく、「良いものを安く」良心的に個性を活かすところに、光が輝く。『それぞれの 個性活かして 生きるのが これから先の 生のトレンド』これが日記を書き始めて1844日目の心境。
2010.01.21
コメント(0)
今日は、朝から曇り空になっている。寒くはない。3月下旬の気温とのこと。ヒーターは、いらない。庭では、ツツジが真赤に紅葉し始めている。その下に、赤い花も咲いている。紅葉と花が同時?なんとも不思議な光景ではある。次の水瓶座の水晶祭りに、ラピスラズリが出る。厚さ4mmほどの平板。大きさは、4~5cm四方。このラピスラズリを見ていると、思い出すものがある。それは、青森県にある十二湖。そのなかの青池。ここの水は、不思議な色をしている。極めて神秘的な青。その青池の水の色と同じものをラピスラズリに見ることができる。青のグラデーションが、実に美しい。ライトブルーから藍色まで。青、蒼、藍、そして群青・・・青色と一言に言っても、いろいろある。海の青と空の青。山の青と湖の青。アクアマリンとラリマーとラピスラズリでは、まったく異なる青。この宇宙には、何色の色があるだろうか。たぶん無限に近いだろう。光の強さによって、色はいかようにも変化する。微妙なグラデーションの違いは、限りない。同じことが、人についても言える。人は、無限の可能性を秘めている。そのなかのごく一部を、今生で発揮しているだけ。潜在している可能性は、無限と言える。宇宙の可能性は、無限。その一部を、人が担っている。実際は、魂の可能性の一部を人が担っている。今生でできることは、限られる。無限の可能性のなかから絞り込んだものが、今生の目的となる。生まれてくる際に、それを決めてくる。しかし、生まれてしまえば、それは表面意識から消える。しかし、潜在意識のなかでは、常に生きている。魂の願いは、常にある。いついかなる時でも、あり続ける。それを、この世に生れている人が実現してくれるかどうか・・・それは、この世の人しだい。何のために生れて来たのかわからない。大多数の人は、そう思っている。何のために生れて来たのかを知りたい。多くの人は、そう願っている。それを知るためには、自分のやりたいことをやってみることだろうか。いろいろやってみて、本当にやりたいことを見つけ出すことだろうか。自分自身に問いながらやっていけば、必ず見つかる。答は、既に自分のなかにあるのだから。ただ、表面意識と潜在意識が断絶しているだけのこと。その断絶を繋ぐものは、常に潜在意識に意識を向けること。本当は何をしたいのかを常に問い続けること。あるいは、黙って自分自身と居続けること。黙って自分と一緒にいることが、瞑想。それこそが、真の瞑想。いろいろな方法は、すべて方便。方便をやっているうちに、瞑想の本来の趣旨を見失う。多くの人がやっているのは、瞑想のテクニック。やがてテクニックに溺れ、何のために瞑想しているのかを忘れてしまう。ただ静かに自分といる。そうすれば、自分のなかの深い意識と繋がることができる。いつもそうしていれば、やがて今生の目的も思い出す。自分自身の出自もわかる。本来の自分自身も自覚される。すべては、自分自身のなかにある。自分自身と常にある。自分自身を見失わない。内なる潜在意識を感じている。絶えず自分を見守っている。小さなラピスラズリの石。そのなかに、十二湖を見る。石が持つ無限の可能性。その深い青は、瞑想に誘(いざな)う。『十二湖の 青池の青 深い青 ラピスラズリの 青に似ている』『青空の 果てに広がる 宇宙(そら)の青 青の深まり 限りを知らず』これが日記を書き始めて1843日目の心境。
2010.01.20
コメント(3)
今日も水瓶座の水晶祭りの準備をしている。今日は、モルガナイトについて調べた。思ったよりもたくさんのサイトがあった。かなり時間がかかった。モルガナイトは、ベリル(緑柱石)という鉱物の一種。緑色をエメラルド、青色をアクアマリン、黄色をヘリオドール、無色をゴシュナイトと呼ぶ。そして、ピンク色がモルガナイト。含まれるマンガンによってピンク色となる。以前は、ピンクベリルという名前で流通していた。1911年ごろ、宝石愛好家で銀行家のJ・P・モルガン氏にちなんで、モルガナイトと名付けられた。アメリカでは、ローズベリルの名前で売られている。一般的には、あまり出回っていない。ネットで検索しても、原石は少ない。原石で透明感のあるものは、ほとんどない。宝飾品ならある。しかし、かなり高価。今回登場するモルガナイトは、透明感のある原石。小さなものだが、その波動はすばらしい。見ているだけで繊細になる。精妙な愛と共振する。モルガナイトは、清純、愛、優美を象徴する。それは、驚くほど繊細。こまやかな愛。限りなく限りなく繊細になっていく。やがて、すべてを包み込むほどに精妙になる。それは、すべてが繋がっているという全体性を感じさせてくれる。ハートのチャクラに働きかけ、眠っていた献身的な愛を目覚めさせる。人の最も純粋な部分を活性化する。内にある愛があふれ出す。自分を愛し、周りを愛する。愛は、周囲を平和にする。やすらぎのスペースが生まれる。肉体的には、血液やリンパの流れをスムーズにする。その結果、新陳代謝が活発になる。女性ホルモンの活動を助け、月経痛や月経不順、冷え性など女性特有の悩みを和らげる。心臓、肺、呼吸器系の不調を緩和し、元気いっぱいの健康美を与える。美しさや愛らしさを引き出し、理想の恋愛を手助けしてくれる。内に秘めた愛をどのような形で表せばいいのかを教えてくれる。優しい波動で傷ついた心を包み、頑固な気持ちを穏やかにほぐす。 言葉に敏感な石で、日常的に感謝の言葉をかけることで、よりいっそう強い味方になってくれる。効果やメリットは、書き出せば尽きないほどたくさんある。しかし、基本は、繊細な愛。純粋な愛であり、清純な愛。限りなく透き通る愛。目の前のモルガナイトを見ていると、それがよくわかる。見ているだけで、その波動が伝わってくる。なんともすばらしい。純粋な愛を表す石。愛の石は、いろいろある。一番有名なのが、ローズクオーツ。情熱的な愛は、インカローズ。プラトニックな愛は、クンツァイト。いずれもピンクや赤系。色が薄い方が、より清純。色が濃くなると、情熱的。色が濁れば、感情的。モルガナイトは、なかなか手に入らない。特に結晶は、超稀。六角形に美しく結晶しにくい石。塊状が多い。今回登場するのも結晶ではない。しかし、極めて美しい。出すのが惜しいくらい。しかし、出すタイミングだろう。ただ見ているだけで、やさしくなれる。ただ見つめているだけで、幸せを感じる。モルガナイトとは、そういう石。ぜひ実物を見てほしい。『繊細な モルガナイトの ピンク色 すべてのなかへ 浸透していく』『繊細に より繊細に なる時に 人はすべてに 溶け込んでいく』これが日記を書き始めて1835日目の心境。
2010.01.12
コメント(0)
ここのところ、連日、水瓶座の水晶祭りの準備をしている。今回は、ブルー系が多い。その代表格は、アクアマリンとラリマー。これまでにないほどの数が登場する。アクアマリンもラリマーも、極めて水瓶座的。では、水瓶座とは、どのような星座だろうか。守護星は、天王星。変革の星。天王星は、時代や世代に影響を及ぼす。まさに、アクエリアス(水瓶座)の時代の幕開けを告げる星。今こそが、紛れもなくアクエリアスの時代の始まりの時。新しい時代のスタート。それでは、新しい時代とは、どのような時代だうか。それは、差別のない世界。それぞれの個性を尊重し、その存在を等しく認める時代。対等であり平等。水瓶座の180度対極にあるのは、獅子座。獅子座は、王侯貴族の星。王であり、女王であり、師。つまり、縦の関係。対する水瓶座は、横の関係。みな同じ立場。友達であり、仲間。共に手を取り合って進む関係。自分のなかの上下意識や差別意識を取り払う時。そういうものを手放し、真に対等になる時。同じ地平に立ち、共に助け合って進む時。個であると共に、みんなも大事にする時。違いで差別せず、個性として尊重する。自分のなかの差別意識が消える時、真の意味の対等や平等が実現する。自己中心である限り、相手よりも優位に立とうとする。上から見下そうとする。そういう意識を手放すには、深い人間理解が必要となる。なぜ平等であり、対等なのか。人は、何によって成り立っているのか。共に生きるとは、どういうことか。どこまでも透き通る波動。それが、水瓶座のマーク。その波の形は個性を表し、二本あるのは対等や平等を表す。個性を持って、共に生きる時代。アクアマリンもラリマーも、水晶ではない。純粋にブルー系の水晶はない。ピンクや黄色の水晶はあっても、ブルーの水晶はない。なんとも不思議なことではある。今回登場する水晶は、超クリアー系が多い。すばらしく透明。目を見張るほど透明。それらは、心身をピュアーに浄化してくれる。余計なものを削ぎ落とし、シンプルにしてくれる。差別意識や上下意識などの古いものを洗い浄めてくれる。重たいものを手放し、軽やかにしてくれる。透き通るような意識に導いてくれる。アクエリアスの時代は、まさにクリアーなクリスタルの時代でもある。透き通るような意識が、アクエリアスの時代には似合っている。どこまでも限りなく澄み渡る意識。それは自分という狭い枠を超え、限りなく広がっていく。『澄み渡る 意識の先は 限りなく 宇宙(すべて)と共に 時代を生きる』これが日記を書き始めて1834日目の心境。
2010.01.11
コメント(3)
今日の屋久島は、穏やかに晴れている。風は、まったくない。そのため、暖かい。暖かいと、楽に動ける。ここ一ヶ月ほど、酵素玄米を食べている。以前、東京にいた頃も長岡式の酵素玄米を食べていた時期があった。その頃は、圧力釜でガスで炊いていた。いろいろ決まり事があり、炊くのが大変だった。屋久島に来てからは、玄米を電気釜で二度炊きしていた。それでも電気釜から出る電磁波が気になっていた。ところが・・・電磁波の出ない電気釜を紹介された。それが、なんと酵素玄米も炊けるものだった。それだけでなく、発芽玄米も簡単にできる。電気圧力釜だが、電磁波が出ないように工夫されている。これを購入してからは、酵素玄米に切り替えた。先ず4~5時間、電気釜のなかで発芽させる。それから、炊飯。これは、1時間もかからない。炊きあがれば、自動的に保温される。このまま三日ほど保温しておけば、酵素玄米のできあがり。但し、一日一回は酸素を供給するために、かき回す必要がある。酵素玄米になると、どうなるか・・・普通に炊いた玄米よりも格段に消化吸収がよくなる。玄米は、よく噛んで食べないと消化吸収が悪い。ところが、酵素玄米の場合は、白米と同じような感覚で食べられる。とても美味しいし、赤飯を食べているような気分。実際、小豆が入っている。作り方は、いたって簡単。玄米600gと小豆36gに、塩7gを加えて水でかき回すだけ。炊いて三日待てば、発芽発酵玄米ができあがる。できあがった玄米のなかは、酵素がいっぱい。ものすごく楽に食べられる。美味しい。食べた後、胃にもたれない。便は、最高のものが出る。これを食べていたら、便秘になることはないだろう。バカでかいのが出ること、疑いなし。健康そのもの。快食快便。こちらで使っている材料は、無農薬、無肥料の玄米。無農薬、有機肥料の小豆。宮古島の雪塩。この塩は世界で一番ミネラルの種類が多く、ギネスブックにも登録されている。水は、もちろん屋久島の山の水。最高の材料で炊いている。ところが、それだけではない。実は・・・塩を玄米に混ぜる時、水を右回りに回転させる。これで陽のエネルギーが入る。生命エネルギーが、活性化して強化される。もちろん、その際の精神状態も影響する。静かにかき回す。心を込めて回転させる。そうすると、エネルギー的にバージョンアップした玄米が炊きあがる。美味しい最高の玄米ご飯となる。この玄米を食べていたら、誰もが健康になるだろう。医者いらず。日本の医療費は、激減するに違いない。それだけではない。みんなが無農薬、無肥料の玄米を食べ出したら、日本の自然が回復する。農薬や化学肥料による原因不明の病気も半減するはずだ。豊かな自然のなかで、みんなが健康に暮らせるようになる。まだある。肉や魚を食べる必要がなくなる。多くの家畜を殺さなくて済むようになる。動物たちとも仲良く暮らせる。良いことだらけ。実は、これにはもっと深い意味もある。肉体というのは、極めて精妙にできている。今の時代は、その肉体を更に精妙にする時。肉体を精妙にするには、食べるものも大切。酵素がいっぱいの玄米は、普通の玄米よりも精妙になっている。重たくない。そういうものを食べていると、肉体も精妙になっていく。波動がアップしていく。玄米をセットするのに、少しだけ手間がかかる。しかし、酵素玄米ができあがれば、24時間いつでも食べられる。暇な時に玄米を炊いて、保温ジャーに入れておく。三日もすれば酵素玄米となり、いつでも食べられるようになる。電気釜に入れたまま保温してもいいのだが、そうすると次の玄米が炊けなくなる。保温ジャーに移しておくと、いつでも好きな時に炊くことができる。酵素玄米が少なくなったら、次を炊いて補充しておく。そうやって、常に酵素玄米を食べられる状態にしておく。できたての玄米も美味しい。この状態では、発芽玄米。しかし、やはり消化は、あまりよくない。普通の玄米よりは発芽している分だけよいが、やはり胃に重たい感じがする。その点、三日経って酵素玄米になると、楽に消化吸収される。その後は、どんどん酵素が増えていく。酵素は、炊いて保温していれば自然に出現する。買って補充する必要はない。この優れものの電気釜は、ネットで販売されている。但し、メジャーではない。開発した人のサイトでのみ販売されている。価格は、38590円。詳しくは、次のサイトに出ている。http://www.amateras.jp/column090311/別に宣伝を頼まれたわけではない。ただ紹介しているだけ。保温ジャーは、20000円前後で売られている。こちらは象印なので、どこでも買える。推奨されているものを安いところで買えばいいだけ。酵素玄米の炊き方は、電気釜を購入すれば詳しいパンフレットを送ってくれる。日本は、古来から瑞穂(みずほ)の国と呼ばれてきた。米は、日本人の主食。米を主食とすることで、心身共に安定する。グランディングしやすくなる。こんなことを言うと、農協から感謝状がきそうだが・・・今の農協は、本来の趣旨を逸脱している。農薬や化学肥料を売って儲けることに専念している。消費者の健康のことは、考慮されていない。金儲けに走っている農協に未来はない。同様に、金儲けに走っている農家にも未来はない。誠実に自然と共に生きる農家にこそ、未来は微笑(ほほえ)む。命あるものを大切にする人が、これからの未来を背負う人。心身共に精妙にしていくことだろうか。物質化することは、波動が荒くなること。お金儲けに走ることは、自分を物質化すること。心身の波動を高めていくことこそが、アセンション。食べるものも着るものも繊細にしていく。もちろん、精神のあり方も。精妙に、こまやかに日々を生きていく。それが、アセンションに繋がる道。『農薬や 化学肥料を 使わずに 自然と共に 自然に生きる』『発芽して 発酵すれば 玄米も より精妙な 食べものとなる』『心身の 波動を上げて 精妙に していくことが アセンション(次元上昇)』『食べものは 必要条件 精神の あり方こそが すべてを決める』これが日記を書き始めて1833日目の心境。
2010.01.10
コメント(7)
これからの教育は、どうなるのだろうか。具体的に調べてみよう。まず、歴史から。小学校では、社会に含まれるだろうか。歴史とは、何か。これに明確に答えられる人は、多くはないだろう。なぜなら、歴史をそのように深く考えたことがないから。ただ学校で教えられた教科書を歴史と思い込んでいるだけだから。しかし、キリスト教徒とイスラム教徒では、まったく異なる歴史認識となる。キリスト教でも、カトリックとプロテスタントやギリシャ正教では、また違ってくる。立場が変われば、見方も変わる。歴史とは、誰にも当てはまる正解が存在するとは限らない。それは、歴史に留まらない。栄養学の変遷もはなはだしい。カロリーオンリーからビタミンへ、そしてミネラルへ。学説は、変化してやまない。物理学も、その時代の正解でしかない。万有引力の法則は、ニュートンの時代では真理だった。しかし、アインシュタインが出て、真理ではなくなった。そのようなことは、後を絶たない。戦前と戦後では、教育方針が180度変わってしまった。鬼畜米英が、米英こそが民主主義のお手本となった。しかし、その米英も今では時代遅れ。イギリスはEUとなり、アメリカは崩壊寸前となっている。この世の事象は、無常。常に移り変わっている。にもかかわらず、教科書には正解が書かれてある。絶対不変の正解などあるのだろうか。大切なことは、正解を覚えることではない。そんな正解は、覚えた途端に時代遅れとなってしまう。そうではなくて、学ぶ姿勢を身に付けること。自分自身で学ぶこと。では、新しい時代の歴史の授業は、どのようになるだろうか。先ずは、小学校から自分史を書くことになる。自分とは何か。自分のバックグラウンドは何か。自分は、どのような環境の下で成長したのか。自分の構成要素は何か。自分は、どんな影響の下に生きているのか。そういうものを自分で調べることから始まる。小学校の低学年から大学生まで、毎年、自分史を書く。もちろん年毎にバージョンアップする必要がある。そのためには、何が必要か。自分の記憶だけでは、限界がある。特に幼少期については、記憶も覚束(おぼつか)ない。当然、父母や周りの人に聞くことになる。聞いてみると、人によって自分に対する見方が異なることがわかる。これまで気づかなかった、自分に対するそれぞれの見方を理解することができる。それだけでなく、自分がどう見られているかということを知ることもできる。それこそが、まさに自分の歴史。意外なことに、歴史とは人それぞれの見方の集大成。いろんな人の自分に対する見方の集大成が、自分史。但し、いろんな見方をどのように編集するかによっても、自分史は変わってくる。つまり、周りの見方と自分の考え方によって、自分の歴史はできあがっていく。成長するに従って、周りの人からの取材は少なくなっていく。しかし、毎年書く度に、書く本人の見方や考え方が違ってくる。これまでとは異なる視点から自分を眺めるようになる。そうなると、自分史もまた変化する。編集者の意向によって、歴史は豹変する。もちろん、生年月日や父母の名前は変わらない。しかし、ある事件がどういう意味があったかということは、見方によって様々に変わってしまう。歴史とは、そういうもの。それを自分史を通して、身を持って学ぶことだろうか。学校の教科書などは、単なる最大公約数に過ぎない。自分史が一段落すると、次は父母の歴史を書くことになる。それには、父母や周りの人に聞く必要がある。それを通して、父母を深く理解することができる。父母を理解すれば、我儘放題にはできなくなる。父母の歴史は、三年に一度ぐらい書く必要がある。成長すれば父母に対する見方も変わるので、一度だけでは足りない。最低でも、小学校、中学校、高校、大学と書くことになる。父母を理解することは、自分理解のバックボーン。父母史が終われば、次は祖父母史ということになる。祖父母が存命なら、その父母や祖父母についても歴史を書くことができる。それは家族史であり、その延長線上には家系史も可能となる。家族史が終われば、次は地域史が待っている。地域史は、個人作業ではなくグループで取り組むことになる。先ずは、地域の長老を訪ねる。それから、地元の歴史資料館や考古学博物館などを見て歩く。近隣の遺跡なども、自分の目で確かめる。小学生で、学区の地域史を作ればいい。中学生では、もう少し広い市区町村史ができるだろうか。高校生なら、都道府県市が可能だろう。大学生なら、全国史から世界史へと展開していくだろうか。修学旅行も、自分で歴史を直に学ぶ機会へと変容する。決まりきったところへ行く必要はない。それぞれが必要なところへ行けばいい。教師は、そのサポートをすればいいだけ。お仕着せではない、手作りの歴史を作る。すべては、自分史の延長線上にある。地域が広がるにつれて、人だけでなく文献にも目を通す必要が出てくる。そのようにして、歴史とは何かを直に体験することになる。自分史を書いたら、お互いに発表し合う。それによって、お互いを深く理解することができる。それぞれを深く理解できたら、いじめも起きないだろう。心身にハンディがある人のことを理解できたら、自然にサポートするに違いない。道徳教育で教えられてやるのとは、まったく質が異なる。上からの強制ではない、自発の行為。理解から生まれる自然な行為こそが、真に価値のあるもの。道徳や法律による強制は、人を偽善者にする。人の深いところからあふれる出る豊かさというものがある。それを引き出す教育こそが、真の教育と言える。自分史の相互発表だけでなく、父母史や祖父母史も相互に発表する。そうすることによって、更にお互いの理解が深まる。父母史や祖父母史を作れば、それに伴い自然に社会の成り立ちも学べる。自分の知らない出来事にも出会う、そこから、また歴史に興味を覚えるかもしれない。いずれにしても、自分を通して歴史を学ぶ。歴史は、教えられるものにあらず。自分で学ぶもの。自分自身を通して学ぶもの。多くの人の協力によって成り立つもの。このプロセスを通して、自分理解が深まる。家族の理解も深まり、家族の絆も太くなる。クラスの絆も強くなり、地域社会の繋がりも自然に形成される。何も教えなくても、みんな自分で学んでいく。教師は、自分で学ぶ姿勢を応援すればいいだけ。結果を評価しない。もちろんアドバイスは役に立つ。しかし、比較や競争の必要はまったくない。それぞれのペースを尊重する。できた順に発表すればいい。一度には発表できないのだから。早い遅いはあっていい。自分史を作ることは、自分自身を見つめること。自分を見つめることは、自分というものを理解すること。それが、最も大切なこと。自分自身の理解なくして、何の人生ぞ。自分というものを理解しない限り、すべては砂上の楼閣。思い込みによって成り立つ蜃気楼のようなもの。いくら努力しても、すべては徒労に帰す。死ぬ時は、この世のことは夢のまた夢。自分を理解することが、自由に繋がる。自分の潜在意識を理解しない限り、真の自由はない。潜在意識は、幼少時に形成される。それに多大な影響を与えるのは、父母を始め家族。その家族史を作ることは、自分というものの真の理解に役に立つ。家系史や地域史を作ることも、更に大きな自分のバックグラウンドを理解することに通じる。そういう作業をすることの方が、単に年号を覚えることよりも遥かに意味がある。それは、自分の人生そのものに影響を及ぼす。いくら年号をたくさん覚えても、それが人生に影響を及ぼすとは考えにくい。しかし、自分史や家族史や地域史は、計り知れない影響力を持っている。それは、単なる歴史の勉強に留まらず、真の道徳教育であり、国語や社会であり、人間関係学すべてに通じる。つまり、総合教育。これからの時代は、総合教育の時代。分化ではなく、トータル。総合化、全体化の時代。個から全体へ、すべてはそのように流れている。自分という個でありながら、全体に繋がっていることを理解する。個から全体へ。教育もトータルな方向性を持つ必要がある。そのスタートは、自分自身を理解すること。自分自身を理解することが、人を理解すること。人を理解することが、社会を理解すること。社会を理解することが、世界を理解すること。すべては、自分自身の理解から始まる。『正解を 覚えるよりも 真実を 探る姿勢が 何より大事』『教えられ 強制される 道徳に 真の価値など 露ほどもない』『理解から 自然に起きる 行為こそ 内に秘めたる 人の豊かさ』『己(おの)が立つ 基盤を深く 理解する 父母や祖父母や 地域の成り立ち』『自分史を 自分で作る 自分とは 何かを深く 考えながら』これが日記を書き始めて1832日目の心境。☆ 「1831日目 - 大日如来」も同時にアップしました。
2010.01.09
コメント(4)
今日の屋久島は、曇。愛子岳の山頂は、わずかに雪が積もっている。寒い屋久島が続いている。水晶がらみで次のようなメールをもらった。「そうそう、一昨日の夜のことです。この日はお布団に入って、ブランドバーグDTを手に握っていました。目を瞑ると、星雲が浮かぶきれいな宇宙空間が見えてきて、今日は何が見えるのかな?なんて思っていると・・・kimiさんが瞑想していらっしゃる姿が見えてきました。宇宙空間で、微動だにせず、こんな静けさがあるのだろうかというほどの、無限の静けさを湛えて、瞑想していらっしゃいました。私は、『水晶を通してkimiさんを感じて見ているのかしら・・・』 と思いました。『すごい』 と思いました。この静かな深い、そして大きいエネルギーは何だろう・・・どこまで静かで、どこまで深くて、どこまで大きいのだろう・・・この包容感とkimiさんから遍く広がる光(不思議なことに光が見えているわけではないのですが、光がわかります)、すごいなあ・・・と、感動を超えて、静かにそのエネルギーを見て(感じて)いました。そのエネルギーを感じているだけで、私の内が静けさと深さと大きさに満たされていくのがわかりました。至福でした。しばらくすると、瞑想するkimiさんの姿と同時に、大日如来の姿が見えてきました。印を組み、静かに宇宙空間に座っていらっしゃる如来。kimiさんのエネルギーと、大日如来のエネルギーがかぶったのかしら・・・不思議に、私の目には、kimiさんと大日如来、同じように宇宙空間の同じ場所に座っていらっしゃる姿が、透過するでもなく重なるわけでもなく、同時に見えます。これが、三次元ではない見え方の不思議なところです。眠りはじめにいつも見えてくるビジョンなどは、いくつもの世界、次元が同時に見えたり、何人もの人の声が同時に聞こえてきますが、こちらの意識は何の混乱もなく、それらをあたりまえのように見て、聞いています。不思議ですね。あの大きな深いエネルギーは、大日如来と同じものなのかしら・・・そんなことを思いながら、いつの間にか眠りについていました。」大日如来のエネルギーは、同心円のように力強く広がっている。それは、まるで波紋のように遍(あまね)く浸透している。ものすごく強烈なエネルギーが、尽きることなくあふれ出ている。大きな大きなエネルギー。大いなるエネルギーが存在する。しかも、深く静か。無限の包容力を持っている。遍くすべてを包み込んでいる。そういう次元もある。一方で、小さな人間という次元もある。小さな肉体に縛られ、過去の経験に縛られた不自由な空間。目の前だけしか見えない限られた世界。人は、そういう世界で生きている。しかし、人の奥には、無限の可能性が宿っている。この三次元では計り知れない多層多次元の世界がある。そういう世界からエネルギーが届いている。この世に生きる人をサポートするために、様々なエネルギーが届いている。水晶は、それを増幅して見せてくれる。水晶の波動と縁のある世界が展開する。それは、三次元の意識では見たこともない世界。しかし、そういう世界を見ることによって、意識は広がっていく。三次元限定の意識が、ゆるやかに外れていく。物質オンリーに縛られた意識が、物質次元を超えて自由に羽ばたく。やがて、多次元的な意識に変容していく。同じ人から、次のようなメールも届いている。「自分の見えるものや体験するものが、私を真(深)からリラックスさせてくれます。『私』 を超えたところへ繋げてくれます。この物質、時間の世界を出ると、ほんとうに無限の無限の世界があるのですね。そこは、すべてのすべてを自由に在らしめて、それらすべてを包容し慈しんでいる世界ですね。世界という言葉も、おかしいですね。空間・・・言葉でうまく言えませんが。そしてそれを感じると、私自身が、私を出て自由になり、すべてを包容し包み込む、大きな大きな存在であることをわかります。限定された三次元意識が緩むと、こんなに広がった愛の意識になるのですね。・・・なんて、わかったようなことを書いていますが、そのように感じさせてくれるビジョンやエネルギーに、心から感謝しています。また、見たこと感じたことを書くことによって、私のなかのそれらを感知するエネルギーも、さらに密度の高いものになります。いつも、私のその作業にお付き合いいただくkimiさんにも、心から感謝しています。次元の違う世界や、またエネルギーを言葉にするのはとても大変で、うまく説明できなくて、いつも長文になってしまいます。kimiさんにメールを送ったあと、『は~、もしかしてただの妄想ビジョンを長々と書いて送ってしまったのかも・・・申し訳ないな・・・ 』なんて、毎回必ずプチ反省意識に陥ります。でも、kimiさんにメールの内容に一言触れていただくと、私のなかでまたエネルギーが動き出します。日記でビジョンに解説を加えていただくと、なるほど、そうか・・・と、自分自身わかっていなかったことが光になり浮かび上がり、ビジョンもエネルギーも更に深く理解できます。」ビジョンは、必要があって現れる。そのビジョンを見ることによって、その人の意識が変容するためにセットされている。それは、約束事。地上に生まれたら、どういうサポートがあるか事前に決められている。ビジョンを見る、見ないは、個人差がある。あまり見ない人もいる。それは、それでいい。それぞれ約束事は、異なる。その人に合った出来事が起きる。それを十二分に体験することだろうか。そして、深く理解することだろうか。他の人の体験を羨んでもしかたがない。自分の人生を大切に生きる。目の前に起きてくることを疎かにしない。一つ一つ丁寧に対処していく。それが、自分の人生を開いていく。たまには、夢を見るのもいい。たまには、ビジョンを見るのもいい。小さな意識の枠が外れる。大きな本来の意識へ戻れる。しかし、最も大切なことは、今を真剣に生きること。今ここが、すべて。自分の体験が、すべて。自分自身を通して人生を理解していく。大日如来は、すべての衆生を抱きしめている。無限の慈愛で、無条件に抱擁している。ただただ慈しみのエネルギーが、あふれている。何も求めてはいない。大日如来は、何もしゃべらない。ただ静かに座っている。尽きることのない慈愛で、すべてを見守っている。大日如来に見守られ、衆生は生きている。誰も見守ってくれる人はいない?みんなに見捨てられた?そんなことはない。そんなことは、けっしてない。この世の人が誰ひとり振り向かなくても、大日如来は常にやさしく見守っている。見放すことはない。いつも変わらぬ静かな慈愛のエネルギーを放っている。すべての人を深く包み込み、限りなく慈しんでいる。『透き通る 静けさのなか どこまでも 遍(あまね)く慈愛 満ち満ちている』『静まれば 大日如来の エネルギー 自分自身に 浸透している』これが日記を書き始めて1831日目の心境。
2010.01.08
コメント(0)
時代が、変わった。ディセンションからアセンションへ変化した。ディセンションとは、個別化。アセンションとは、全体化。流れが、逆転してしまった。これまでは、個別化の流れだった。全体から、より細かいところへ個別化してきた。その極致が、個人ということ。その個人の極致が、自我。自己中心。自分が、世界の中心。自分がすべて。人類は、これまでそのような体験をしてきた。極限まで個別化し、個人主義を謳歌した。それが、反転する。個別化の終了。個性を持ったまま全体に帰依していく。個性を持ったまま全体と共に生きる。個の全体化。但し・・・個別化を体験した個にとっての全体化。個別化以前とは、異なる。個別化という財産がある。豊かさがある。個であり全体。それは、全体だけよりも遥かに豊かと言える。個性を持って全体と共に生きる。これからは、そういう流れ。もう個に拘泥する時代は、終わった。個から全体へ、ゆるやかにシフトする時代。いつまでも個にこだわっていると、時代に取り残されてしまう。全体と共に進む個になる必要がある。全体の流れと共に生きる個。それが、これからの時代の個の生き方。個だけで生きるのは、時代遅れ。大きな全体と共に個性を発揮して生きる。そういう時代の流れを自覚して生きることだろうか。そうすれば、生き方を間違えることはない。自分さえよければいいというのでは、時代に取り残される。自分も全体も共に喜べる時代にする必要がある。みんながそのような意識で生きる時、これまでとはまったく違う世界ができる。それが、これからの方向性。自分さえよければいいというのは、明らかに時代錯誤。共に生きるのが、これからの流れ。『時が満ち ディセンションから アセンション 地球の流れ シフトする時』『ディセンション 極限となり アセンション 個から全体 個であり全体』これが日記を書き始めて1830日目の心境。☆ 「1828日目 - 動と静」も同時にアップしました。 関連があるので、どうぞお読みください。
2010.01.07
コメント(1)
今日は、水晶の発送でほぼ一日が終わった。午前中に終えるはずだったが、思ったよりも時間がかかった。と言うのは・・・新年なので、お年玉を入れたから。ささやかなものだが、気持ち。リクエストした人に合っていそうなものを、お年玉として同封した。昨日から選定していたが、今日になって変わったものも多かった。やはり、合う、合わないがあるから。午後、二回目の郵便局から帰ってくると、海に虹が架かった。まるで水晶の旅立ちを祝福するかのように。しかも、二重の虹。すぐに消えたが、何枚かは写真に撮れた。今年は、短くてもいいので毎日日記を書こうと思っていた。ところが、昨日、書くのを忘れてしまった。忘れたと言うより、気がついたら夜だった。昼間は、何かと忙しかった。水晶祭りの宛名書きは、ともかく・・・次の水瓶座の水晶祭りの準備をしていた。最近は、晴れることが少ない。そのため、早目に写真を撮る準備を始めた。それが、なかなか時間がかかった。根が水晶が好きなので、見始めるとじっくり見てしまう。つい時間が経つのを忘れる。気がついたら、日記を書くのを忘れていた。昨日書きたかったのは、教育について。知り合いが、夢を見た。その話が面白かったので、書きたいと思った。教育が、変わる!これからの教育は、これまでとまったく違うようになる。例えば、理科の授業。これまでは、教科書で学ぶ。これからは、教科書ではなくて、実物で学ぶ。花の成長を、今は本のなかで学ぶ。種から芽が出て蕾となり花が咲く。教科書やビデオを見て、わかった気になる。しかし・・・それで本当にわかったのだろうか。花というものを。それは、ただのわかったつもりではないだろうか。これからの教育は、次のように変わる。まず何も教えない。一緒に花の種を植える。その後どうなるか、一緒に観察する。観察を通して学ぶ。教科書だけで学ばない。事前に結論を提示しない。結論は、自分たちで発見する。自分の目や鼻や手を使って、実地に結論を出す。正解は、なくてもいい。見方は、人それぞれ異なる。見る角度や見る時期によっても違う。絶対的な正解を提示しない。大切なことは、実際に自分自身で体験すること。自分自身で確認すること。決まりきった正解を覚えることではない。自分の体を通して学ぶこと。今の受験勉強とは、対極にある。ただ正解を暗記するだけの受験勉強は、創造性を育まない。画一化された規格人間を生み出すのみ。人生の正解は、そんなに簡単にあるものではない。重要なのは、答ではない。答に至るプロセス。学ぶ姿勢。学ぶ態度。そういうものを身に付ければ、いくらでも自分で学べる。自分で学ぶこと。それに優るものはない。そういう姿勢を身に付けるところが、学校。これまでの教育と、まったく異なるシステムになる。一人一人が、物事を自分で観察するようになる。自分で考え、自分で理解していく。画一的な教科書はいらない。自分自身でやることが重要。決まりきったことではなくて、自分を通して学ぶこと。それによってのみ創造性が芽生える。真に自由に生きられるようになる。そういう教育が、未来の教育。まだまだ道は遠い。しかし、方向性は明るい。真の自由へ、光へ向かっている。『答より 学ぶ姿勢を 学ぶのが 真の教育 真の豊かさ』これが日記を書き始めて1829日目の心境。
2010.01.06
コメント(5)
人は、動かずにはいられない。静かにじっとしているのは、苦手。子供は、常に動き回っている。寝ている時以外は、常に動きと共にある。人は、動物。だから、動くのは当然。鉱物ではないのだから、動き回って当たり前。ところが・・・動き回ってばかりいると、最も重要な何かが欠落する。それは、全体性。動は、個別性。静が、全体性。動き回ることは、必要。しかし、それだけでは十分ではない。動と共に、静も必要。それで、必要十分。常に変化する世界では、人は安心できない。安住の地を見い出すのは、難しい。安心立命は、遠い。安心立命のためには・・・変化の絶えない色の世界を超える必要がある。動き回っている限り、色であり個。いくら孫悟空が力の限り飛び回っても、所詮、お釈迦様の掌(てのひら)の上。つまり、色の世界を出ることはできない。動の世界にいる限り、色であり個。色であり個である限りは、安心立命はあり得ない。静に入らなければ、人は安心立命を得ることはできない。静は、動の源。静は、聖に通じる。すべての源。人の原点。それを体得するには、動から離れる必要がある。独り静かにあることがない限り、静の世界に入ることはできない。常に動き回らずにはいられないのは、動としての本能。しかし、それだけではない。個の不安や心配から、ただじっとしていることができない。何もしないで、自分自身といる。それこそが、真の瞑想。自分を見守ることが、真の瞑想。絶えず動く意識を、ただ見守る。そのただ見守っている意識は、動ではない。静の意識。静が極まれば、聖。個を超えて全体となる。動であると共に静がない限り、真のやすらぎはない。個であると共に全体でない限り、個の孤独からは解放されない。空と共に色を生きないと、真の安心立命はない。調和と融合のなかで生きないと、真に豊かな人生とはならない。ほとんどの人は、動だけで生きている。静を知らない。個だけで生きており、全体とは無縁。それでは、アンバランス。昼間は動き回り、夜は静かにする。それが、自然のリズム。動物でさえ、24時間動き回ってはいない。必ず静かな時間がある。人も同様。人は、寝ている時に全体に繋がろうとしている。少なくとも魂に繋がり、今生の意味を理解しようとしている。しかし、目が覚めれば忘れてしまう。動だけでは、やがて息切れする。静かな時を持たなければ、創造的なことはできない。宇宙創造は、静に源を発している。静が、動の源。その静を知らずして、動のみにて生きれば、混乱が待っている。それが、これまでの人類史。静かに深く自分自身といるしかない。ただ自分自身を見守る。それは、難しいことではない。誰でもできること。ただ自分と一緒にいる。それが、唯一静に繋がる道。人は、動であると共に静である必要がある。個であると共に全体である必要がある。そうでない限り、人生の意味はわからない。個だけでは、ただ五里霧中のなかをさ迷うのみ。昼間は、思いきり体を動かす。夜は、静かに自分自身といる。そういうバランスが大切。それによって、個と全体が調和する。全体と共に生きる個となる。その時に、初めて人生の意味がわかる。共に生きるということの本質が、真にわかる。動物も植物も鉱物も、すべてと一緒に生きる。地球と共に生きる。太陽系と共に生きる。銀河系と共に生きる。宇宙と共に生きる。先ずは自分自身と共にあって見守ることが、すべての始まり。自分自身を見守ることこそが、真の瞑想。そこから、すべてを見守ることができるようになる。すべてを見守ることが、真の愛。見守りには、始まりも終わりもない。限りない無辺の愛。尽きることのない神仏の慈悲。世界に満ち満ちる宇宙の愛。『動かずに いられないのが 人の常 動く自分を 見守る必要』『動くなら 見守りながら 動くこと 動くだけでは 混乱を生む』『静寂の なかで創造 起きる時 秩序を持った 現実となる』これが日記を書き始めて1828日目の心境。
2010.01.05
コメント(0)
今日の屋久島は、朝から快晴。久しぶりの青空。清々しい天気に、先ずは洗濯。それから、山に水を汲みに行く。帰宅して、水晶の浄化に。海は、超べた凪(なぎ)。ほとんど波がなかった。しかし、海水は冷たかった。川の方は、水量が極端に少なかった。川幅が、いつもよりかなり狭くなっていた。それだけでなく、びっしり緑の藻が生えていた。足元が滑りやすい。川のなかに水晶が入ったザルを設置し終わって・・・なんと転んでしまった。藻が生えた石に乗ってしまったようだ。シマッタ!しかし、後の祭り。冷たい水に左半身が濡れてしまった。半ズボンだったので、しっかり濡れた。ハー、ツメタ!正月早々、禊(みそぎ)ということだろうか。水晶だけでなく、人間も浄化する必要が・・・?まあ、いいか。そのつもりで来たのだから・・・光が強くなると共に、浄化も激しさを増している。正確に言えば、浄化と言うより光への転換プロセス。すべてを光化するプログラム。実は・・・何もしなくても光化されていく。いや、実は・・・何もしない方が、光化される。余計なことをすると、光化が邪魔される。エッ?そんな・・・と、誰もが思うかもしれない。しかし、それは紛れもない事実。何もしないで時代の流れに任せていれば、いやでも光化される。それが、時代の流れ。時代のプログラム。地球光化プログラム。ところが・・・この何もしないということが、なかなかできない。もしそれができたら、既にかなり光化されいるだろう。人は、何かをしたがる。何もしないでじっとしていることは、人にとっては耐え難いこと。すぐに何かをしようとする。何かをせずにはいられない。ジタバタもがくのが、人の性(さが)。じっと静かにしているには、深い理解が必要。そうでない限り、不安や心配で何かをせずにはいられない。何かをしていれば、気が紛れる。あるいは、何かをしていなければ、どうにもならないと思い込んでいる。独り静かにしていることができない。何もしないでエネルギーを受けていることが難しい。ジタバタ騒ぐことによって、安心する。ジタバタ騒がないではいられない。人生を深く理解すればするほど、人は騒がなくなる。ジタバタ騒ぐのは、不安や心配が為せる業(わざ)。静かにしていることが居た堪(たま)れない不安心理。動き回っていないと心配で仕方がない小心者。泰然自若としていればいいだけ。そうすれば、時代の流れと共に流れることができる。何もしなくても光化される。宇宙の流れは、人を光化していく。何も恐れないで、ただ宇宙と共にいることだろうか。宇宙を信頼することだろうか。もし宇宙を信頼できなければ、徹底的に自分自身を理解することだろうか。自分自身の理解の先に、宇宙への信頼が待っている。独り静かに自分自身といる。自分のなかにある不安や心配と一緒にいる。自分のなかにある様々な思いと一緒にいる。何であれ自分自身と一緒にいる。良いも悪いもない。あるものは、あるもの。今の自分をそのまま認める。そういう自分と一緒にいる。ただ静かに一緒にいる。良いとか悪いとかの判断を一切しない。ただ一緒にいるだけ。その一緒にいる意識が、自我を超えたもの。自分自身を黙って見守っている意識が、自我の外の意識。自我と共にある意識。判断や選択をしない意識。ただ一緒にいるだけの意識。そういう意識と共にあれば、不安や心配はない。静かに宇宙に身を委(ゆだ)ねることができる。宇宙に身を委ねれば、何もしなくても宇宙は光化してくれる。なぜなら、宇宙は光の時代に向かっているから。静かに自分自身と一緒にいて、自分自身を見守る。その見守る意識で、宇宙と共にいる。何もしないで、ただ宇宙と一緒にいる。そうすれば、人は自然に光化される。『何もせず 宇宙と共に ある時に 人は自然に 光化される』『何もせず 独り静かに いる時に 人は自然に 光化される』これが日記を書き始めて1827日目の心境。
2010.01.04
コメント(5)
「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPでは、山羊座の水晶祭りが始まっている。今年は、元旦が満月。そのため、元旦から水晶祭りとなった。昨日で全員受付が終わり、半分ほどの行き先が決まった。水晶が日常生活でどのような役割を果たしているか・・・それを知るのにちょうどいいメールが、先ほど届いた。「新年早々ショックなことがあり、自分の無力さと相手の無理解さや相手に通じない悲しさに憤りを感じ、久しぶりに涙にくれました。でも、涙にむせんでいる時の感情が、今までとは確実に違います!あれこれ考えずにヒマラヤ水晶を握りしめながら、ただただ悲しい感情に浸りながら涙をながしていました。そうしていると、泣いているのに感情に流されず、静かな静かな自分を感じとれ驚きました。自分でもビックリするほど気持ちの切替ができています。これも水晶サポータたちのお蔭ですね!!毎回素敵な水晶さんたちをありがとうございます。今年もどういう水晶さんたちと出会えるのか、すごく楽しみです。」ヒマラヤ水晶は、すばらしい。それは、冷静さを超えて霊静さへと誘(いざな)う。透き通るような透明感は、純粋な意識に通じる。感情や思考の奥にある純粋意識。それは霊的であり、静寂。すべてに浸透している。クリアーそのもの。静謐(せいひつ)の世界。感情的に興奮した時、ヒマラヤ水晶を握りしめると落ち着く。それは、ヒマラヤ水晶の波動が全身に浸透するため。ヒマラヤ水晶は、霊静。それが自分の意識のなかにある霊静な部分と共振する。それによって、感情から離れて冷静になることができる。本来の自分自身へ戻れる。ヒマラヤ水晶は、霊静へ導くサポーター。本来の静寂へ誘う応援団。水晶に依存すれば、本末転倒。しかし、水晶を活用すれば、いろいろサポートしてもらえる。そういう役割も水晶は担っている。水晶は、人を霊静へ導く。もう一つメールが届いている。こちらは、前回の水晶祭りで届いた水晶について。長いけれども、ほぼ全文を紹介する。「水晶、きれいです。(何度言っても言い足りない)まだ少~し頭痛が残っていて、水晶さんをゆっくり感じられないのですが、日曜の夜、枕の横に置いて寝ていたら、不思議な体の感覚を体験しました。水晶さんをすぐ横に置いて目を瞑ったら、急に額のところにエネルギーが強烈に照射されるような感覚が起こり・・・それから、私がそのエネルギーを受けて額の辺りで異変(?)が・・・感じたことは、言葉ではとても表せません。でも、あえて三次元の言葉で表現するなら、額が(額と言っても物質的な額じゃないのです)、分解されていく感じ、分解というより分裂?仏像で仏頭内部からまた仏像の顔が現れているものがありますが、しいて言うとそんな感じに似ているかもしれません。(それは、仏像の顔が幾通りもの姿に自由自在に変化する様子を表しています)私の(三次元ではない)額が、四つ(か、五つ)に分かれて、それは映像でも見えるし、エネルギーでも分かれるのが、しっかりと感じられます。でも、この分かれるという言葉も、実際は違うのですが・・・(言葉がないので、分かれると言います)変化(へんげ)する・・・というのでもなかったし、それらはすべて私で、この世的に言うと分かれるのですが、ほんとうは、ひとつ。今まで私が感知していなかった(できていなかった)私のエネルギーが、突然堰を切ったように現れたのか、または、その水晶のエネルギー、または水晶が媒介する宇宙のエネルギーを見た(観た、観じた)のか・・・とにかく、額へのエネルギーの照射感がすごくて、不快ではないのですが、そのエネルギーの強烈さに、この私では少し付いて行きかねて(もう少し私の状態が密度の高いエネルギー状態であれば大丈夫だと思いますが)、水晶が近すぎる・・・と思い、目を開けました。目を開けて、水晶を少しだけ遠くへやろうと思ったのですが、気が変わり、先ほどの感覚をもう一度もっと強く感じたいと思い、ポイントをまっすぐ私の額のほうへ向けて再度目を瞑りました。すると今度は、突然、体が宇宙空間へ放り出されたような感覚に陥りました。肉体の感覚は、全くありません。瞑想中も肉体の感覚はないですが、それとはまた違った初めて味わう感覚・・・私は、ただの波動になって、ゆらゆら揺らめいているだけでした。宇宙の真っ只中で、見えない透明なゆりかごに乗ってゆらゆら揺れている、そんな感覚です。三次元の意識が、そんな感覚を少し怖がりました。私は、為すがまま、自分の意思では何もどうしようもできる状態ではなく、ただ浮かんで揺れていました。ものすごく、心もとない感覚。どうなってしまうんだろう、身体に戻れるのだろうか・・・そんな不安が少し過ぎりましたが、この初めて味わう感覚をもっともっと感じよう、そう思ったら不安はなくなりました。私は、波(波動)のようでもあり、エネルギーの赤ちゃんのようでもありました。(羊水に浮いているのは、あのような感覚なのかもしれません)しばらくその状態に身を任せながら(身はないので、意識を任せながら?)感じていたら、いつの間にか眠っていたようです。あの状態をまた経験し、何度も経験を積んでいくと、波だけになった私は、すべての波と同調することができるようになるのかもしれません。そんなふうに思いました。そうすると、すべてのバイブレーションを五感というものを超えたところで感じることができるようになるでしょうか。でも、その状態は、もう感じるという内と外のものではないですね。私は、すべてになるのでしょうか・・・とにかく、双子座からここまで連続して水晶が届きましたが、水晶の力、水晶のサポートというのが、どれほど大きなものなのかというのを、本当の本当に実感し始めた感じがあります。それぞれの石たちが、それぞれ私の内に眠るものを引き出してくれます。一つ一つの石のサポート、そしてまた個々の石たちがエネルギーをひとつにまとめ上げて私に働きかけてくるトータルなエネルギーサポート。細やかなバイブレーションを、さらに細やかに感じていくことができているこの数ヶ月です。すごいです。水晶の秘める力、エネルギー。」自分自身が、いくつにも分かれていく。にもかかわらず、そのすべてが自分自身。何層にも渡る自分という存在。多次元存在であると共に、多様性を秘めた存在。魂意識になれば、そのなかに多くの意識を包含する。それらが同時に現れることもある。また、魂を超えた多次元の意識も存在する。人は、多層多次元存在。そういうものを水晶が垣間見させてくれたということだろう。本来の意識の状態を三次元の意識に見せてくれたようだ。三次元限定の意識は、そういうものにたじろぐ。自分の精神がおかしくなったのかと疑念を抱く。しかし、実際は、そうではない。三次元の意識の方が、超限定されているだけのこと。意識というのは、本来無限。それを自ら限定しているだけ。水晶は、そういう本来の可能性を開いてくれる。自分のなかに眠っているものを刺激してくれる。そこから新しい視点が開ける。水晶は、自分自身を開くサポーター。肉体のない波動の感覚・・・自分は、波動?肉体を持つ意識には、とうてい理解しがたい感覚。しかし、それもまた意識のあり方。純粋な意識であればあるほど、波動そのもの。ただの波動存在。すべてが、波動によって成り立っている。その精妙さと粗雑さのバリエーションが、宇宙というもの。水晶は、今まで自分がまったく知らなかった感覚を呼び覚ましてくれる。水晶の特質の一つは、その増幅作用。何倍にも増幅してくれることによって、初めて認識できることもある。特に三次元限定意識にとっては、目の覚めるような体験をさせてくれる。水晶とのコラボレーションによって、思いもよらない可能性が開く。三次元オンリーの意識では理解できないものが、眼前に展開する。これからの時代に必要なものが、提示されてくる。それは、水晶と魂のコラボレーション。人は、三次元の意識のみで生きているものではない。多くの次元の意識と同時に存在している。同時に宇宙を進んでいる。そのことを水晶は気づかせてくれる。新しい時代が、開く。未知の意識の領域が、開く。そのサポートを水晶はしてくれる。水晶は、水先案内人。未来という道を暗示するサポーター。今をしっかりと支えてくれるサポーター。ただ見ているだけで感動するほど美しい存在。そういう水晶が存在することに、感謝!『感情に 溺れた時は ヒマラヤの 水晶握り 独り佇(たたず)む』『水晶の 波動心に 沁み渡り 意識の奥が ゆっくり開く』『透明な 水晶見れば 透明な 意識目覚めて クリアーになる』これが日記を書き始めて1826日目の心境。
2010.01.03
コメント(1)
今日の屋久島は、静かな曇。穏やかに静まり返っている。今日は、自分の誕生日。60回目の誕生日。つまり、還暦ということ。還暦とは、生まれた時の干支に戻ること。一回りしたということ。一応は、この世の人生をほぼ経験したことになる。心身共に健康。まだまだ現役。生涯現役。永遠の青年。気持は、若い。肉体も老いてはいない。人生は、これから。そんな気持ちでいる。今年は、新しいスタート。還暦で一周して、二周目のスタート。新たに生き直す。本来の自分として生き直す。これまでは、この世の経験。これからは、この世の経験を踏まえてトータルに生きる。本来の自分自身で生きる。この世の意識だけでは生きない。今生で創り上げた個性。この世の人格。しかし、それがすべてではない。何度も生まれ変わってきた魂としての意識もある。魂として、この世に生れてきている。しっかりと今生の目的を持って生まれてきている。これからは、その本来の目的を果たしていく。これまでは、その準備期間。60年をかけて準備してきたことを、これからは実行する。地上の人々が本来のスピリチュアルな意識を思い出すお手伝い。本来の自分自身へ還るサポート。それが、今生でしたかったこと。60年をかけて準備してきた。学校に行き、仕事をし、社会経験を積んだ。いろんな人と出会い、いろんな体験をした。数多(あまた)のエネルギースポットに行き、多様なエネルギーを感受した。人、場所、社会経験によって、必要な人格が形成された。自分自身を見つめることによって、人生の本質を理解した。この世だけではなく、宇宙全体に通用する真理を体得した。自分のなかに息づく真理に気づいた。そういうものをベースに、これからは生きていく。淡々と静かに真理を伝えていく。おおげさに騒ぎ立てるつもりはない。必要なところに必要なものを伝えていくだけ。目の前の山々は、動かない。静かにそそり立っている。昨夜の満月は、煌々と輝いていた。ただ遍(あまね)く地上を照らしていた。静かに深く生きればいい。穏やかに真っ直ぐに進めばいい。何も力むことはない。静けさのなかに真理は生きている。静けさのなかで伝わるものがある。静けさのなかに息づくものがある。響き合い共鳴するものがある。宇宙に浸透するものがある。『還暦に なって新たに 生き直す 真理と共に 真理を生きる』これが日記を書き始めて1825日目の心境。
2010.01.02
コメント(2)
2010年が始まった。今年は、本格的に光の年となるだろう。新しい光の時代の始まりのような気がする。もう闇の時代は、過去のものになろうとしている。世界の情勢は、表面的にはそれほど変わらないようにも見える。戦争も飢餓も病気も蔓延している。そういう過去の遺物も確かにある。しかし、そういうものは、これから消え去るのみ。過去の亡霊は、既にエネルギーを持たない。光が、東の空から昇り始めている。明らかに新しい時代が始まろうとしている。もう光だけを見て生きればいい。闇は、ただ消えゆくのみ。過去の残滓に過ぎない。過去に拘泥しなければ、光だけが見える。後ろを振り向くと、闇に呑み込まれる。どんどん光が強くなっている。一段と加速度が付いている。もう闇には、力はない。ただ惰性として残っているだけ。いや増す光と共に生きることだろうか。光を意識し、光を感じて生きることだろうか。何も問題はない。既に光の時代と言っても過言ではない。今年は、本格的に光が前面に躍り出てくるだろう。大きくて太い光が現れる。その光が、遍(あまね)く地上を照らす。光が地上に浸透していく。もちろん、まだ闇の活動もある。それは、最後の足掻(あが)き。消え去るものの最後の雄叫(おたけ)び。そういうものは、そのままにしておけばいい。気にしないこと。無視すること。そのままにしておけば、自然に消えていく。意識すれば、消えようとする闇にネルギーを与えてしまう。闇は、現われては消えていく。ただそれだけのこと。過去の残滓が現われて消えている姿。そういうものは、放っておくに限る。ただ光と共に生きる。降り注ぐ光と、内から湧き出す光と共に生きる。闇のない光と共に生きる。光そのものとして生きる。『東雲(しののめ)の 光は強く 輝いて 遍(あまね)く地上 照らし始める』『光降る 光の時代 幕が開き 光と共に 生きるしかなし』これが日記を書き始めて1824日目の心境。
2010.01.01
コメント(2)
全19件 (19件中 1-19件目)
1