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今日の屋久島は、朝から雨になっている。雲が低くて、空が暗い。山の頂上は、黒雲に隠れて見えない。気温も低い。人の弱さの根底にあるものは、何だろうか。それは、寂しさだろうか。それとも、悲しみだろうか。いずれにしても・・・それは、ある共通の体験に根ざしている。それは、母親からの分離。身一つから、身二つになる体験。母なる子宮からの別れ。その経験は、宇宙の成り立ちを象徴している。ひとつから多への分離。母なる宇宙から個としての分離。弱さの元を辿れば、それは宇宙の始まりに起因している。人の弱さの根本原因は、宇宙の成り立ちにまで遡る。ひとつから多への分離が、その根底にある。だからこそ、人は常に愛を求める。愛し愛されてひとつになることを希求する。昔から愛の歌は、絶えない。同時に、悲しみの歌も数知れない。愛への憧憬と、別れの悲しみ。ひとつのものと一体になる憧れと、ひとつのものから分離した悲しみ。それが、人を悟りへと向かわせる。そのために、修行や瞑想が生まれた。ひとつに帰するために。分離を終焉させるために。悟りとは、差取り。差を取り去ること。差とは、個別性。個であることの終焉が、悟り。ひとつから分離して個となったことが、すべての寂しさや悲しみの原因。だからこそ、人は分離のない愛に憧れる。悟りを得て安心立命の境地になることを求める。すべての源は、ひとつから離れて個となったことにある。その個の寂しさや悲しみを救う道は、再びひとつと一体になること。それが、悟りへの道。瞑想のプロセス。自己の本源への回帰。そこまで至らないと、弱さや寂しさから自由になることはできない。ひとつへの回帰。それのみが、人の悲しみを終わらせる。それは、人生の根本命題と言える。個でなければ、自由はない。しかし、個であることによって、全体から分離した寂しさが生じる。この絶対矛盾を解決する道は、ただ一つ。個であり全体であること。それは、個でありながら全体ともつながっている状態。個々の肉体や魂でありながら、同時に全体ともつながっている。全体と共に個を生きる。その時に、初めて個である悲しみから解放される。人は、自分の弱さを紛らわすために酒に溺れる。愛する人を求めて、出会い系サイトに走る。しかし、いくら異性に抱かれても、個の違いが際立つ時、寂しさが忍び寄る。共依存がもたらすものは、支配と不自由。人は、会社人間となり、仕事に没頭し、寂しさを紛らわそうとする。しかし、会社も仕事も、人の悲しみを解決することはできない。個人や団体に依存しても、そこにあるのは自由の放棄。宗教を信じることは、思い込みによって悲しみから遠ざかること。何をしても、人は救われない。自分の外に何を求めても、救われることはない。自分のなかに全体を見い出すまでは、個としての寂しさが続く。いくら酒や仕事で紛らわせても、根底では満たされないものが持続している。自分のなかに全体を見い出すしか救われる道はない。差を取り去るしかない。差のない意識をベースに、差のある現実を生きる。人は、個であり全体。人類のすべての問題を根底的に解決する道は、これのみ。個として生き、その自分を母親のような眼差しで見守る。主体的に現実を創造すると共に、その全プロセスに静かに寄り添う。それが、個であり全体であることへの道。『幼子(おさなご)が 母から離れ とぼとぼと 歩くこの世は 悲しみの道』『源と つながることが ない限り 人は孤独の 影に怯(おび)える』『ふるさとは 魂であり 魂の 源遥か 宇宙はひとつ』これが日記を書き始めて2158日目の心境。
2010.11.30
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穏やかな天気が続いている。気温も上がってきて、秋の静かな一日となっている。屋久島は、平和。しかし・・・市川海老蔵は、どうしているだろうか。病院の窓を見つめながら反省しているだろうか。愛妻に付き添われて、寂しくはないだろう。しかし、失ったものは、あまりにも大きい。彼は、これからの歌舞伎を背負って立つ男。歌舞伎に限らず、日本の文化や芸能をリードしていく人物として期待されていた。仕事も順調。人も羨む結婚式を挙げたばかり。順風満帆とは彼のこと!だが・・・好事魔多し!思いもよらぬアクシデントに見舞われた。泥酔のあげく、元暴走族に殴られて全治二ヶ月の大ケガ。それだけでなく、海老蔵の夜の行状まで暴露された。このようなことは、初めてではないらしい。彼は、悪酔いするタイプ。六本木界隈のクラブでは、彼を立ち入り禁止にしているところもあるとか。酒を飲むと、周りに因縁をつけまくる。女性に対して暴言を吐く。酒癖の悪さは、夜の街では有名らしい。彼は、スピリチュアルな人間。ものの見方が物質的でなく、極めて霊的。柔軟でしなやか。いろいろユニークな仕事も手がけてきた。これまでの仕事の実績は、実にすばらしい。社会的信用も絶大。これからの日本の芸能を背負って立つ人間と、みんなに嘱望されていた。その彼が、このような暴力事件に巻き込まれるとは・・・彼は、人間的にもすばらしい。しかし、完璧ではない。まだまだ未熟。弱さがある。その弱さが、酒に走らせる。過度の緊張を酒で紛らわそうとする。それには、無理もないところもある。彼は、誰もやっていないようなことにチャレンジしている。その緊張感は、予想を超えたものがあるに違いない。スピリチュアルであるが故に、霊的なプレッシャーもあるだろう。そういう緊張に、肉体は耐えられない。人格にとっても、耐え難いものがある。その張り詰めた緊張を解放しようと酒を飲む。それも一つのリラックス法ではある。そこまでなら許される。ところが・・・彼の場合は、飲み過ぎる。過ぎたるは、及ばざるが如し。酒に呑まれて自分を見失う。冷静さをなくす。そこに魔が忍び寄る。酒が出るところは、暗くてジメジメしている。そういう場所には、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)している。魔が差す!なまじスピリチュアルであるために、そういうものの餌食になってしまう。物質人間であれば、そういうものの餌食になることも少ない。しかし、中途半端に光っていると、そういうものが近寄ってくる。海老蔵の場合は、かなり目立ったことだろう。まだまだ人格が、未熟。人格に弱さがある。まだ32歳なので、彼を責めることはできない。誰でも弱さを持っている。その弱さが、命取りになる。弱さに負けてしまうと、取り返しのつかないことになる。これまで培ってきた信用が、一度に崩れてしまう。海老蔵の場合は、これまでの信頼が一挙に吹き飛んでしまった。この信用を取り戻すには、どれだけかかることか。何十年もかけて積み上げてきたものが、一瞬にして崩壊する。好事魔多し!まさに魔が差したとしか言いようがない。自分の弱さを否定することはない。無理に隠すこともない。まずは、ありのままに認めること。しかし・・・けっして弱さに負けてはいけない。弱さに翻弄されてはいけない。弱さのままに自分を見失ってはいけない。ただ弱さと共にあること。弱さに寄り添ってあげること。弱さをわかってあげること。弱さを否定せず、弱さに負けもせず、弱さと共にある。それが弱さを持つ人の生き方の基本。自分のなかに弱さがない人は、皆無と言っていいだろう。誰のなかにも弱さがある。弱さは、幼少期に形成される。無自覚のままに、いつのまにかできあがっている。それを責めるのは、酷。誰も責任を取れる人はいない。両親のせいでも、環境のせいでもない。もちろん自分のせいとも言えない。幼少期の弱さは、過去世からくる場合が多い。幼少期には、過去世と似たようなことが起きる。そういうものによって、まずは過去世を疑似体験する必要がある。その上で、それを乗り越えるプログラム。過去世の疑似体験のままで終われば、進歩ゼロ。それでは、何のために生まれてきたのかわからない。再体験し、それを乗り越えて新しい地平を切り開く。それが、今回の人生の目的。弱いままで終わっては、意味がない。弱さに溺れれば、過去世の繰り返し。今生は、それを体験し、理解し、乗り越える。そのために生まれてきている。弱さを認め、弱さと共にある。弱さを理解し、弱さに寄り添う。しかし、けっして弱さに負けない。ぐっと踏みとどまる。弱さと共にあることによって、弱さを理解する。理解によって、弱さを乗り越える。新しい地平に飛び出す。それこそが、人生をかけたチャレンジ。問われているのは、弱さではない。弱さは、誰にでもある。弱さを責めることはできない。弱さは、あってもいい。大切なことは、弱さに負けないこと。弱さのままに自分を見失わないこと。弱さに呑みこまれないこと。弱さと共にあって、弱さを乗り越えること。海老蔵も、やがて再起するだろう。しばらくは、試練の道が続く。しかし、それも己の弱さを乗り越えるためのもの。泥酔して自己を見失うという過去世からの弱点を克服するための道。トップレベルの有名人でも試練はある。誰にでも試練は待っている。なぜなら、誰もが課題を持って生まれてきているから。その課題をクリアーできるかどうかが、問われている。海老蔵の事件は、他人事ではない。誰もが持っている弱さが露呈しただけのこと。有名人とは、みんなの代表。みんなを代表して弱さを示してくれたようなもの。他山の石!自らを省みる機会。自分のなかの弱さを直視する。それが、自由へ向かう道。海老蔵は、もっと謙虚になり、更にすばらしい仕事をすればいい。それでこそ、今回の事件の意味があるというもの。今回の事件が活きる。過去は、問わない!大切なことは、すべての事象を活かすこと。すべてを活用して、前を向いて生きること。自分の弱さは、何の問題でもない。人生を更に深く理解するためにあるだけのもの。『弱さ故 酒に走った 海老蔵も 自分理解し 甦(よみがえ)るべし』『否定せず 弱さ認めて 寄り添って 弱さと共に 弱さを超える』これが日記を書き始めて2157日目の心境。
2010.11.29
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今日の屋久島は、曇っている。寒くはないのだが、なんとなく暗い。紅葉が美しくなっている。秋が深まっている。屋久島ナチュラルヒーリングのHPでは、射手座の水晶祭りがおこなわれている。ユニークなものが、21組登場している。昨日で全員受付が終わった。ところが・・・リクエストが、非常に少ない。行き先が決まったのは、4組だけ。まだ17組が残っている。残っているものは、今日からは先着順。射手座は、自由の星座。思いっきり現実創造を楽しむところ。自分だけのオリジナルな現実を創り出す。独自の人生を創造する。今回出ているのは、そういうことをサポートする水晶たち。これまでの発想を転換し、まったく新しい発想をする。従来のパターンを打ち破り、思ってもみないような行動を取る。古い習慣や癖を改め、新しく生き直す。そういうことをするのにふさわしい時。もっとダイナミックに生きてみる時。チャレンジする時。自分の可能性を拡大する時。にもかかわらず、リクエストが少ない。ハー・・・みんな現実を生きるのに精一杯?今は、苦しい人も多いだろう。なかなか厳しい現実が続いている人もいることだろう。しかし・・・着実に時代は進化している。波動は、間違いなく上がってきている。だからこそ、厳しく感じるのかもしれない。物質的なものを脱ぎ捨てる必要がある。これまでの古いパターンからの脱却が求められている。物質的な思い込みを大胆に手放す時。それを応援するのが、今回の水晶たち。普通の水晶とは、一味違う。アブノーマル系が多い。けっして優等生ではない。これまでの水晶の既成概念を打ち壊すようなものばかり。自分の思い込みを完全に打ち砕くための水晶たち。別に宣伝しているわけではない。今は、そういう時期。自分の古い殻を脱ぎ捨てる。脱皮する。サナギからチョウへ一歩を踏み出す。新しいエネルギーが、怒涛のように押し寄せている。古いものを手放す時。大胆に。思いきり。勇気を出して。そういう時代にふさわしい水晶たち。ジャストタイミング!過去の既成概念を打ち砕いてくれる水晶たち。もう古いものはいらない!重たいものを手放して、軽くなる。肩の荷を降ろして、楽に生きる。時代は、ふんわりと軽やかな波動になりつつある。今はその切り替え時のため、ちょっとだけきつく感じる。この峠は、乗り越えるしかない。新しい時代に到達するまでには、まだまだ山あり谷あり。しかし、着実に変化しているのは間違いない。外側の現象ではなくて、人の内面を見ること。自分自身が苦しいということは、新しい時代にそぐわないものがあるということ。変化する時を迎えているということ。過去の抵抗に負けないで、新しい生き方にチェンジする。その方が、心身ともに楽になることは間違いない。手放して、手放して・・・緊張を解(ほど)いて解いて・・・楽に楽に・・・落ち着いて、ゆっくり生きればいい。『新しい 時代の波動 打ち寄せて 古い衣は 脱ぎ捨てるだけ』これが日記を書き始めて2152日目の心境。
2010.11.24
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朝から鳥たちが飛んでいた。数十羽はいただろう。最近は、よく鳥たちの集団を見かける。多い時は、百羽を超えている。今日の屋久島は、晴れている。昨夜までの雨で、落(おとす)の滝は大きく膨らんでいる。ススキの穂が、風に揺れている。先程までは、そこで鳥たちが遊んでいた。人の意識は、重箱のようなもの。一番内側が、肉体。その次の箱が、幽体。次が、霊体。それより大きな箱は、神体。一番外側の箱には、境界がない。一番外側の箱は、無限大。あるのか、ないのか・・・それぞれの箱は、お互いに浸透し合っている。ということは、一番内側の箱には、全てが浸透していることになる。これは、あくまで例え。別の表現の仕方もある。一番内側の箱が、肉体。これは、変わらない。その次の箱は、人格。それを包んでいる箱は、魂。魂を包んでいる箱は、グループソウル。グループソウルを包んでいる箱は・・・キリがない。一番外側の箱は、同じく境界を持たない。ポイントは、一番内側の箱だけで生きないこと。あるいは、肉体と人格の箱だけで生きないこと。もっと外側の箱も意識して生きること。意識が外の箱に向けば向くほど、意識は拡大していく。内側の箱だけでは、狭い了見。物質次元オンリーの意識では、宇宙の真実はわからない。この世限りと思い込み、目先の利益に走る。宇宙の大局を見失う。箱がある限りは、個。個のバリエーション。個が、どんどん広がるだけ。それは、どこまで行っても有限。それは、色の世界。空の世界ではない。空の世界は、一番外側の箱だけ。あるかどうか定かではない箱。個であり全体であるとは、個々の箱であり、それと同時に一番外側の箱であること。境界を持つ箱であると共に、境界のない箱でもあること。個として主体的に生きると共に、全体として見守りながら生きること。その時に大切なことは・・・個として主体的に生きる時には、しっかりと個にフォーカスする。自分自身を充実させる。自分にしっかり集中する。そうでないと・・・分裂症や統合失調症になってしまう。個が確立されない。瞑想ばかりしていると、人格が不安定になる。自分を乗っ取られる危険がある。瞑想とは、拡散。個に集中しているものを全体に広げる作業。しかし、それをやり過ぎると、自分というものが曖昧になる。自分というのは、この世を生きる主体。人格というのは、この世を生きるために必要な乗り船。それが分裂していたのでは、この世を適確に生きることはできない。しっかり自分に集中すること。それなしでは、安定した仕事はできない。しかし、それだけでも足りない。それだけでは、この世人間。物質人間。個として全体から孤立した人間となってしまう。自己にしっかり集中し、主体的に生きる。それと同時に、そういう自分を見守る。集中した意識と、広がった意識。それが同時に必要。中心部は、集中し、充実している状態。周辺部は、無限に広がっている状態。それが、最高のスポーツマンの状態。それが、究極の武道家の状態。集中だけでは、足りない。それでは、外が見えない。外だけに気を配っていても、十分とは言えない。内側が充実していなくては、現実を動かす力はない。内側を充実させ、外側を無限大にする。それが、達人の域。集中と拡散。個であり全体。瞑想的で意識は広がっても、肉体が病気ではしかたがない。それは、拡散し過ぎ。集中不足。一般的には・・・その逆が多い。つまり、個に集中し過ぎ。全体を忘却している状態。個といっても、いろいろある。肉体の感覚に集中している人。感情に集中している人。思考に集中している人。ハイアーセルフに集中している人。それらも一定してはいない。フォーカスは、変化する。昼間は肉体に集中している人でも、夜になると夢の世界に集中する。夢の世界は、非物質界。非物質界と一口に言っても、限りない広がりがある。そのどこにフォーカスするかで、精神状態はまったく異なる。天使や天女の世界もある。天狗や魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界もある。自分がフォーカスしたところで生きることとなる。昼間は嘘をつけても、夢の世界では嘘はつけない。昼間の自分の意識状態が、そのままに夢に反映される。自分自身をごまかすことはできない。しっかりと自分に集中し、それを見守って生きる。個として主体的に、この世の創造に励む。それと同時に、そういう自分を見守る。個々の箱であり、無限の箱でもある。個であり全体であるとは、究極。全体と繋がった個として生きることは、宇宙の大原則。それは、魂になってもグループソウルになっても通用する。宇宙がある限り、あり続ける原則。なぜなら、宇宙はそのようにできているから。空という全体があり、色という個々がある。その個々の無限の組み合わせによって、宇宙は成り立っている。しかし、個々がバラバラに動けば、宇宙は混乱する。全体との繋がりをなくした個々は、混乱の源となる。それが、今の地球人類に起きていること。この現実世界を見れば、それは一目瞭然。歌を忘れたカナリヤは、食べることだけに奔走している。美しく歌うために食べるのに・・・食べるためだけに食べるカナリヤの、なんと悲しいことだろうか。それでは、自家中毒。同じところを空回りしているだけ。宇宙に響く歌声で、美しくさえずってこそカナリヤ。個性的な歌を響かせてこそ、生きている価値があるというもの。ただ食べるだけのカナリヤは、あまりにも寂しい。寂しいからこそ、共依存に走る。それは、小さな箱だけにフォーカスした結果。もっと大きな箱があることを知らない結果。視野狭窄。自分の周りしか見えていない状態。自分を見守りながら生きることだろうか。そうすれば、視野が広がる。小さなことに囚われなくなる。本来の大きな意識へ繋がりやすくなる。人は、無限の意識を持った個。個は、子。宇宙の子供。いつも母なる宇宙に抱かれている子供。人は、子供であり、母親でもある。個であり全体。創造の主体であり、その全てを見守っている無限存在。星々であり、夜空。自己に集中し、それを見守る。内側を充実させ、無限の広がりと共に生きる。のびのびと自由に人生を創造し、自他にやさしく寄り添う。人は、独自の個であり、無限の全体。『内側を 充実させて 限りない 無限と共に 現実(いま)を創造』これが日記を書き始めて2151日目の心境。
2010.11.23
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今日の屋久島は、朝から激しい雨が降っている。昨夜の午前0時ぐらいから降り出した。それまでは、煌々と月が輝いていた。午前2時27分が、満月だった。雨が降り出す前の三時間ほど、水晶たちを月光浴させた。今日から始まった射手座の水晶祭りに出る水晶たち。そして、次の常設の水晶祭りに出る水晶も。ついでに自分自身も。風もなく、暖かく、月明かりで山並みまで見えた。最近は、こんな夜が多い。月の光が、ますます強くなっている。明るい夜が多くなった。射手座の守護星は、木星。木星は、発展の星。この世的に言えば、開運の時となる。どんどん新しい可能性が開いていく。その可能性は、元々潜在していたもの。それが、現実のなかで開花する。木星は、人のなかに眠っている可能性を花開かせる。すばらしい幸運の星。人生を自由に創造する時。新しいことにチャレンジする時。この世に生まれてきた真の目的を成し遂げる時。自由、創造、発展が、木星のテーマ。今回の射手座の水晶祭りには、ユニークな水晶が集まっている。普通の形ではないものが多い。水晶の自由創造。水晶アート。人生も自由創造。人は、自分の人生を創造している。今生の創造の主体は、自分。自分の望むように創造できる。しかし、いろんな制約がある。生まれた時代や場所。両親や家族。風習や慣習。男か女か。肉体の状態。学歴や友人、知人。政治状況や経済状況。そして、生まれてくる前に決めてきた今生の目的。今回の人生で何をしようとしているのか。大枠は、決まっている。自分で生まれるに際に決めてきた。それは、魂の目的。魂が、この人生で何をしようとしているのか。それは、魂にとっても挑戦。実際にこの世に生まれてみないとわからないことがたくさんある。まず、肉体を自由に使いこなせるようになる必要がある。言葉を習得し、道具を使えるようになり、知識を身に付ける必要がある。まずは、この世で生きていくためのノウハウをマスターする必要がある。それが、必要条件。そのベースの上に、今生の目的を達成するということが出てくる。それで十分条件となるはずなのだが・・・現実は、生きていくだけで七転八倒。それだけで四苦八苦。とても今生の目的を達成するところまではいかない。そういう人が、ほとんど。そもそも今生の目的って?わからない人が、大多数を占める。この世には、鉱物があり、植物があり、動物がいる。それらは、偶然に存在しているわけではない。偶然はあり得ない。全てに意図がある。この地球にも創造の意図がある。全ての存在に意図が潜んでいる。そうでなかったら、この世に存在するわけがない。宇宙全体が、意図によって成り立っている。人も同様。この世に生まれるには、それなりの意図が働いている。それは、魂の意図。魂の願い。宇宙を旅する魂の地球での願い。宇宙創造の一翼を担う魂の地球での創造。そういう大きな枠組みのなかで、人は生きている。魂の代表選手として生きている。人は、魂の一部。魂が、その一部を地球に派遣している。地球体験するために。地球創造するために。これまでも多くの体験を積み重ねてきた。しかし、失敗もあった。物質や肉体に魅了され、自分の魂としての本質を忘却した。物質をマスターするプロセスで、自分が物質化してしまった。肉体をマスターするつもりが、肉体に呑み込まれてしまった。肉体の快感の虜となり、肉体に翻弄された。食欲、性欲は、強烈。肉体だけでなく、精神まで魅了してしまう。快感の記憶が、更なる快感を追い求めさせる。それが人生の目的と化してしまった人の、なんと多いことか。快を所有すること。安全を確保することが、生きる目的となってしまった。自分が魂であることを忘れ、ただひたすらこの世の快楽を追い求める。それが、紛れもない現実の生活。物質的欲望は、限りない。人からどう思われるかという精神的欲望も、際限がない。人は、そういう世界に生きている。そういう枠のなかで、人生創造をしている。そういうことを改めて考える間もなく、必死に生きている。惰性に流され、社会に組み込まれて生きている。物理的、肉体的制約はある。しかし、最も大きな制約は、思い込みという精神的制約。自分で自分を縛っている思い込み。その思い込みを外せば、自由は飛躍的に拡大する。その思い込みのすべてを解放し、自由に創造する。それには、まずその思い込みに気づく必要がある。ほとんどの思い込みは、無意識レベル。無自覚のままにパターン化した思い方や行動。それらの思い込みを外し、自由に人生を創造する。それが、人生の目的。そのために生まれてきた。思い込みの解放と自由創造。射手座は、自由創造の時。挑戦と発展の時。新しい人生を切り開く時。今生の花を開かせる時。思い込みという制約を外し、伸びやかに生きる。思いっきり新しいことに挑戦する。日々新たに創造する。人生は、無限・・・『思い込み 外して生きる 伸びやかに 自由創造 人生創造』これが日記を書き始めて2150日目の心境。
2010.11.22
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ススキの穂が、朝陽にきらめいている。石蕗(つわぶき)の新しい蕾が、開こうとしている。今日は、穏やかに晴れている屋久島。昨夜は、月光が明るかった。個と全体の関係は、夜空の星々と夜空の関係に似ている。星々の数は、数え切れない。その無数の星々は、二つとして同じものはない。それぞれが、個性を持って輝いている。それに対して、夜空は、ひとつ。オンリーワン。唯一絶対。全ての全て。夜空に抱かれて星々は輝く。夜空にやさしく包まれて、安心して星々は個性を発揮できる。夜空は、まるで星々の母親のよう。揺るぎないものに包まれて、星々には何の不安もない。しかし、星々が自分を包んでいる夜空のことを忘れたら・・・全ての状況が、変わってくる。星々から絶対の安心が失われる。母体から断絶された赤ちゃんのような状態となる。実は・・・星々どうしの連携というものもある。目には見えないけれども、星々はつながっている。それぞれのグループを作って、エネルギー交流している。人間で言えば、家族や一族のようなものだろうか。そういうグループがあるので、ある程度不安や寂しさはカバーされる。しかし、そういうものに寄りかかる時、自分の存在基盤は小さなものとなる。そのグループに限定される。人も似たようなもの。家族や親族に寄りかかる。会社や友達に寄りかかる。何か頼れそうなものに寄りかかろうとする。しかし、寄りかかれば・・・寄りかかったものに支配される。依存は、自由を失うことを意味する。もうのびのびとは、生きられなくなる。歌を忘れたカナリヤは、青い鳥を探しに旅に出る。実は、自分自身が青い鳥なのに・・・それが、大多数の人類がやっていること。個になりきって全体を忘れた人類の現状。肉体と共に成長すれば、どうしても自分を肉体と思い込んでしまう。それは、無理のないこと。肉体と共に物質次元を生きるのは、大変なこと。肉体を魂化するつもりが・・・気がつけば、逆に魂が肉体化されている。物質的魂となり、魂の本来の姿を忘却する。自分の本質を忘れ、物質的所有に駆けずり回る。この世の安定を求め、永遠のやすらぎを見失う。しかし、歌を忘れたカナリヤは、魂の叫びを歌えない。真のメッセージを発することができない。自分がこの地球上でやりたかったことを成し遂げられない。深い充実感を味わうことはできない。人は、個。夜空の星々。個性を持つ星の一つ。人の使命は、自分という星を最大限に輝かせること。物質を活用して独自の人生を創造すること。そのために地上に降りてきた。ところが、物質に魅了され、物質の虜となってしまった。ミイラ取りが、ミイラになってしまった。これが、偽らざる人類の現状。その現状を打開する時が迫っている。このままでいいはずがない。真の人類に還らなくては・・・その鍵となるのは、個であり全体であることを思い出すこと。全体と共に個を生きること。そうすれば、自分勝手はなくなる。自分さえよければいいというエゴは、姿を消す。それが、今の混乱の原因。目先のことしか考えず、全体が見えない。ただ闇雲に自己保存に走っているだけ。歌を忘れたカナリヤたち・・・富の所有に奔走する人類。弱肉強食に奢る人類。ひたすら身の安全だけを願う人々。その現状を打破するものは・・・自分自身を見守ること。自分自身に寄り添い、自分をあたたかく見守る。やさしく無条件に抱きしめる。そうするなかで、人は本来の自分に気づいていく。忘れていた真の自分を思い出す。個であり全体である自分を取り戻す。他に方法を知らない。他のやり方もあるのかもしれないが・・・個であり全体であるということについて、もうしばらく続く。宇宙のシステムを明らかにする作業が続く。それが、書き手がこの世に生を受けた理由だから。宇宙のシステムを明確に文章化して地球に根付かせることが・・・『星々は 夜空に抱かれ 思いきり 個性創造 宇宙創造』『全体に 抱かれて人は 今生の 個性創造 人生創造』これが日記を書き始めて2149日目の心境。
2010.11.21
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(2146日目の続き)寄り添うことは、見守ることに似ている。寄り添うことは、相手を自分の思うように支配しようとはしない。相手に沿って、連れ添うこと。つまり、相手を活かす方向で共に生きること。寄り掛かれば、お互いに重たくなる。それでも、お互いのバランスが取れている間はいい。そのうちにバランスが崩れると、肩透かしを食う。一方的な重さに耐えられなくなる。依存することは、支配されること。支配されれば、自由はない。自分の思うように生きられない。それでは、やがて不満が爆発する。そういう関係は、長続きすることはない。我慢に我慢を重ね、熟年離婚となる。その我慢してきた期間の人生は、何だったのだろうか。あまりにももったいない人生となる。寄り添うことは、共にいること。支配しようとしないで、陰で支えること。相手が幸せになるように、相手に沿ってサポートすること。そういう関係は、長く続く。見守ることも、それに似ている。ただ一緒にいる。静かに包み込んでいる。支配しようとも、自分の思うとおりにしようともしない。それは、生き方の基本。肉体と共にあって、肉体を活かし、共に生きる。肉体そのものになりきらない。肉体に寄り添って生きる。感情そのものになりきらない。感情と共に生きる。思いそのものになりきらない。思いと共に生きる。人格も同様。人格そのものになりきらない。人格を見守りながら、人格と共に生きる。今生の人格の中には、多くの過去が含まれている。子供時代のトラウマもある。癖や習慣やパターンもある。先入観や偏見もある。囚われや執着もある。そういう人格を見守り、共に生きる。人格そのものになりきらない。ただ寄り添うだけ。ただ見守るだけ。人は、主体であり客体。人生を創造する主体。そうであると共に、それを見守られている客体。そして、見守っている意識。主体も自分。客体も自分。見守っている意識は?自分ではない。見守っている意識は、どのような存在だろうか。人格の場合もあるだろう。ハイアーセルフの場合もあるかもしれない。魂やグループソウルのこともあり得る。あるいは、まだ名前さえない未知の意識かもしれない。見守りの意識は、無限。ひとつに通じている。全体に通じている。創造の主体は、個。見守りの意識は、全体。個であり全体とは、創造する主体であり、同時にそれを見守っている意識であること。その時に、孤独地獄から脱却できる。個だけでは、どこまで行っても孤独。宇宙の孤児。寂しさから共依存となる。肉体や物質の虜になる。そういう自分を見守る意識が、それを超える。それは、赤ちゃんと母親のような関係。身一つが、身二つになった後の関係。お互いに支配したり依存したりしない関係。黙って自分を見守る。肉体を見守り、感情の動きを見守る。思いを見守り、自分という人格を見守る。支配したり思うとおりにしようとしないで、ただ見守る。見守ることは、ただ無条件に一緒にいること。何もしない。ただ静かに寄り添うだけ。無作為。そこに自我はない。ただ見守る意識があるだけ。その意識が、個を超えた意識。個であり全体である道。ポイントは、赤ちゃんのままでいないこと。母親にもなること。子であり親であること。それを同時に生きること。人生を創造する主体。それを見守っている母親のような意識。それを同時に持つこと。それが共依存を乗り超えていく道。いつまでも赤ちゃんや子供のような意識だけで生きていたのでは、救われることはない。自分に対して、母親の意識を持つこと。見守る意識を持つこと。無条件で自分自身に寄り添うこと。そのように生きれば、共依存を乗り超えられるかもしれない。そうしない限り、依存と支配の悪循環にはまってしまう。不安と所有の地獄に落ちる。孤独地獄から救われる道はない。自我とは、所有。不安に苛(さいな)まれる意識が、安心のためにより多くを所有したがる。所有すればするほど、所有したものに縛られる。それもまた共依存。そういう自分を見守る。未熟な自我を見守る。不安で所有したがる自分と共にいる。そういう自分に寄り添う。自分を変えようとしない。ただ一緒にいて、理解する。深く深く理解する。理解されれば、自然に変わる。自分を変えようとすれば、自己分裂が起きる。それでは、葛藤と苦しみの人生となる。自分を変えようとせず、ただ見守る。宇宙の母のような気持ちで、自分に寄り添って、ただ見守る。 『個を生きる 自由創造 思いきり それと同時に 自分見守る』 『母親の つもりになって あたたかく 自分見守る 変えようとせず』『母親の 子宮のなかは 分離なき 真の宇宙の 原型に似て』『見守りは 無限の意識 何もせず ただひたすらに 自分見守る』『見守りの 意識のなかに 包まれて 個は全体と 共に生きれる』『個であって 全体である 生き方は 見守りながら 自由創造』これが日記を書き始めて2147日目の心境。
2010.11.20
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コメント欄に次のような書き込みがあった。「ただ独り在ることと、共に生きることの調和統合はありうるのでしょうか。共依存でもなく孤立でもない関係性のありようは?」独り在ることと孤立とは、異なる。孤立とは、個であること。他と断絶された宇宙の孤児。孤児であるが故に、寂しさから共依存に走る。独り在ることは、孤児ではない。孤独でもないし、寂しくもない。それは、個であると同時に全体であることを意味する。そもそも人は・・・母体から離れる時、個となる。子宮のなかにいる間は、身一つ。母親との一体感のなかにある。それが十月十日経つと、身二つとなる。身二つになると、これまでのようにはいかない。一緒にいてほしい時に、いつも母親がいてくれるとは限らない。孤独を感じることになる。母親から断絶された孤独。それは、宇宙の構造に似ている。「ひとつ」から多に分離していくプロセス。「ひとつ」だけでは、ダイナミックな宇宙は成り立たない。多くの個に分かれることによって、今のような変幻万化の宇宙ができあがる。しかし・・・過ぎたるは、及ばざるが如し。個になりきってしまえば、バラバラの宇宙になってしまう。宇宙としての統合性がなくなる。人も、同じ。個であることによって、自由に創造できる。自分の望む人生を生きられる。しかし、個が過ぎれば、孤独地獄が待っている。個でありながらも、全体とつながっている必要がある。そうでなければ、人は孤独に耐えられない。全体とつながった個。それでこそ、共に生きることが可能となる。共に生きるとは、お互いに依存し合うことではない。一緒にいること。寄り掛かるのではなくて、寄り添うこと。寄り掛かってしまえば、互いの重荷となる。ポイントは、微妙な距離感。べったりでは、窮屈で身動きできない。そうかといって離れ過ぎては、共に生きることにはならない。一緒にいるけれども、寄り掛からない間合い。それが、寄り添うという生き方。共に生きるということ。それには、互いの自立が求められる。寂しさからくる共依存ではなく、自立をベースにした共同歩調。それには、個を脱却する必要がある。個である限りは、何かに頼ろうとする。個で生きるのは、母親から引き離された赤ちゃんのようなもの。それでは、寂しさに泣き暮れるしかない。この孤独地獄から抜け出す道は、ただ一つ。個を超えること。個であると共に全体であること。それが、今の時代のメインテーマ。大多数の人は、個として生きている。共依存しながら、馴れ合いのなかで生きている。惰性のなかで、半分諦めて生きている。それが、真の人生だろうか。人は、肉体として個であるのは間違いない。しかし、それだけでは宇宙から孤立する。断絶した孤独のなかで人生が終わる。個を超えていく道は・・・(明日に続く)『寄り掛かる 人生だから お互いに 重荷となって 苦しみの道』『寄り掛かる ことではなくて 寄り添えば 縛ることなく 共に生きれる』これが日記を書き始めて2146日目の心境。
2010.11.18
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石蕗(つわぶき)の黄色い花が、咲き始めた。芙蓉の花は、島全体に咲いている。ススキの穂は、風に揺れている。秋から冬へ、ゆっくりと季節が移っている。手当てをする時に大切なことは、微妙な距離を取ること。手を相手の肌に直接当ててもいい。そういうやり方もある。しかし・・・手と肌の隙間が1cmほどある方が、エネルギーはより流れる。エネルギーは、空間がある方が流れやすい。べったりくっつけてしまうと、肉体的なエネルギーがメインとなる。繊細な霊的なエネルギーは、流れにくくなる。微妙な距離は、ヒーリングに限らない。人間関係にも当てはまる。男女間であれ家族間であれ、近過ぎると、いろいろ問題が起きる。微妙な距離が、お互いの自立を担保する。あまりにもくっつき過ぎると、依存と支配の関係が生まれる。つまり、共依存。そこに自由はない。お互いに縛り合う関係があるだけ。それは、人と人との関係に限らない。近過ぎる関係は、執着を生み出す。動物や植物に対しても、自分のものと思う囚われ。物に対しても、自己所有にこだわる固執。それらは、すべて苦しみの元となる。相手が人でなくても、支配と依存という構図は同じ。所有するが故に、執着が生まれる。執着は、やがて苦しみへと変化する。ただひとときの借り物。物であれペットであれ、何であれ。子供でさえ、所有することはできない。やがて自立して自分から離れていく。まして他人であれば、いつまでも自分に縛り付けておくことはできない。自分に縛り付けようとするのは、所有欲。所有欲とは、依存の別名に他ならない。依存するが故に所有したがる。その根底にあるのは、自己保存。自分の安全を確保したいがために、より多くを所有しようとする。その底流に流れるのは、快感。快や安全を求め、人は行動する。それは、肉体の本能。そのこと自体は、悪い訳ではない。ただ、それに思考が加わると、囚われとなり、執着となる。人は、囚われたものに、逆に囚われる。「過ぎたるは、及ばざるが如し。」安全に執着することは、いたずらに不安を増幅する結果となる。人に執着することは、自由を失うことを意味する。依存することは、支配されることに等しい。微妙な距離。それが、自立を保証する。人に振り回されることから自由となる。執着の苦しみから逃れられる。距離がないということは、自分がないということにも通じる。少なくとも自立した自分はない。そこにあるのは、依存と支配。執着と苦しみ。それもまた心地よい。なぜ?それは、子供時代のノスタルジー。依存は、仮初(かりそめ)の安心をもたらす。しかし、その安心は高くつく。安心を得る代わりに、新たな心配を背負い込むことになる。捨てられる不安と、支配される不自由。安心のためには、心のやすらぎと自由の放棄が求められる。精神的にも、肉体的にも、経済的にも、真に自立するのは難しい。特に精神的自立は、至難の業。大人はみんな自立していると思われている。経済的自立が、精神的自立と誤解されている。精神的に自立しいる人が、どれだけいるだろうか。共依存しないで生きている人の数は、驚くほど少ない。みんな何かに依存しながら生きている。会社に依存し、家族に依存し、お金に依存する。酒に依存する人もいる。薬に依存する人もいる。映画やテレビに依存する人もいる。見栄や外聞に依存する人もいる。何にも頼らず、独り生きている人のなんと少ないことだろう。99%の人は、何かに依存しているに違いない。それには、訳がある。子供時代は、みんな親に依存していた。最初から自立している子供などいない。みんな親に依存し、支配されながら成長する。そのために、いつまでも依存と支配のドグマから自由になれない。子供時代の意識が、潜在意識となって表面意識に影響する。一人で生きることの寂しさから、物やペットに執着する。異性依存症になる人もいる。新たな父親や母親を求めて結婚する人もいる。ファザコンやマザコンは、潜在意識に根深く残っている。それらをクリアーする必要がある。それらを理解し、クリアーして、初めて自立が可能となる。経済的に成功した人でも、共依存の人は少なくない。それは、自分の精神構造を理解するまで消えることはない。人に依存することは、仮初の安心。依存すれば、自由を失くす。支配され振り回されることが始まる。真の心のやすらぎはない。でも、一人では生きていけない?誰かと一緒でないと・・・そうであるなら、そのように生きればいい。但し、そこから生まれるものを理解した上で。依存は、支配を生み、自由を奪う。執着は、苦しみを生み、心のやすらぎはない。所有は、更なる所有を求め、不安が尽きることはない。ひとときの安心の代償は、限りなく大きい。そういうことをわかった上で生きることだろうか。冷静に自分を見つめ、自分を理解して生きることだろうか。いかように生きようと自由。生きたいように生きればいい。但し、ひとたび依存すれば、その自由は縛られる。自由に生きることはできなくなる。そのこともわかった上で共依存を楽しむことだろうか。無自覚、無知であることが、最も苦しい。『安心を 得ようと何かに 依存する それが新たな 不安生み出す』『自立する 以外に真の 安心を 手にすることは 不可能なこと』これが日記を書き始めて2145日目の心境。
2010.11.17
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昨日は、さわやかな秋晴だった。海抜1400mの巨木の森を歩いた。空気が澄み切っていた。風も心地よかった。巨木の森は、四季折々楽しめる。今年は、たくさんのシャクナゲの花を見た。今は、紅葉が真っ盛り。冬になれば、雪景色も楽しめる。常設の水晶祭りのガーネットのブレスレットにリクエストがあった。リクエストしたのは、獅子座のえっちゃん。さすがに、「8月生まれの私には似合わないのかな?」と書かれていた。確かに、似合わない。「でも、私が今ほしいパワー満載のように思います。」とも書かれてあった。確かに、今のえっちゃんがほしいエネルギーに満ちている。ガーネットの解説文には、次のように書かれている。『自信を失いかけている時に、初心の情熱を呼び覚ましてくれます。自分を見失った時には、内なる炎を取り戻し、創造性を蘇らせます。ネガティブなエネルギーを排出し、本来のバランスに戻します。最近元気がない人、小さなことに思い悩む人、目標を見失った人に、お薦めです。』今のえっちゃんは、このすべてに当てはまる。求職中なのだが、なかなか仕事が見つからない。子供のところに転がり込んでいるのだが、なんとなく肩身が狭い。年齢も、もう年金をもらう年になってしまった。ちょっと自信喪失気味のえっちゃんが、起死回生を狙ってリクエストしたのがガーネット。ところが・・・えっちゃんは、獅子座。ガーネットは、一月の誕生石。一月は、山羊座。獅子座とは、エネルギーがまったく異なる。獅子座は、大胆でおおらか。親分肌で、面倒見がいい。山羊座は、地道な努力と忍耐。緻密な積み重ね。まったく獅子座にはないもの。獅子座は・・・細かいことは、あまり気にしない。太陽のようにパワフルで、ゴーイングマイウエイ。いつも輪の中心にいる。しかし・・・このガーネットのブレスレットは、内径150mm。えっちゃんの手首の大きさは、160mm。どう考えても、このブレスレットでは小さ過ぎる。たぶん、サイズを確かめないでリクエストしたのではないだろうか。一事が万事。極めて獅子座的。良く言えば、おおらか。悪く言えば、アバウト。ガーネットは、緻密で繊細。アバウトとは、対極にある。緻密なえっちゃんに変身?これから地道な努力を積み重ねる?とてもそんなえっちゃんは、想像できないのだが・・・たぶん、無理に努力しようとすれば、おおらかさや大胆さは影を潜めてしまうだろう。自信に漲った獅子座は、小さくなってしまう。今のえっちゃんのように・・・ガーネットは、地味。けれども、堅実。着実で確実。いつも支えている。獅子座は、陰で支えるということを知らない。いつも自分が中心。いつも日の当たるところにいる。太陽の星座だから、それはしかたがない。人には親切だが、あくまで中心は自分。相手の立場に立った親切ではない。上からの思いやり。細かい配慮に欠ける。ガーネットは、この逆。人知れず、黙って支える。自分が目立とうとはしない。獅子座とは、正反対。あの深紅の色は、いのちの炎。どのような逆境にあっても、尽きることのない生命力。風雪に耐え、努力を積み重ねて生きるパワー。そういう生命力を自分のものにするためのガーネット。ガーネットが、パワーをくれるわけではない。パワーは、元々自分のなかにある。それを呼び覚ましてくれるのが、ガーネットや水晶たち。共振、共鳴によって、自分のなかに潜在していたものが刺激される。元々自分のなかに眠っていたものが、目を覚ます。内在していたものが活性化して、表に出てくる。どの星座であれ、本来、深い地球のいのちが宿っている。根底を流れるものは、みな同じ。その内在しているものを、ガーネットは刺激してくれる。ガーネットを見ることによって、内在しているものが揺さぶられる。揺さぶられて活性化する。そうなると・・・大胆かつ緻密。繊細かつオープン。というえっちゃんになってしまう。まさに鬼に金棒!(エッ、ホント?)ガーネットは、根底を流れるいのちのエネルギー。すべての存在を支えるもの。日が当たるところではなく、陰ですべてを支えている。そういう存在と一緒にいれば、自分、自分とこだわる自分が小さく見える。いのちに自分はない。無私。無償。無条件。それが、人が本来持っているもの。今は、精神がコマーシャリズムによって冒されているだけ。本来のいのちの本質を忘れているだけ。無償のいのちと共に、無償の愛が流れている。すべてを支えて生きる。地上の全存在を支える。それが、いのちの役割。そういうものが、自分のなかを流れている。えっちゃんのなかにも、いのちがある。常に活き活きと流れている。絶えずいのちの炎が燃えている。今は、そのことを忘れているだけ。その忘れているものに気づかせてくれるのが、ガーネット。ガーネットに限らず、他の石や水晶たち。それぞれが持っている波動で、内在するものを刺激してくれる。それが、ストーンヒーリングでありクリスタルヒーリング。ガーネットが届いたら、ただガーネットと一緒にいればいい。身に着け、見つめ、いつもそのエネルギーを感じていればいい。そうすれば、その深紅のエネルギーが、忘れていたものを思い出させてくれるだろう。内からいのちが蘇ってくるに違いない。『ガーネット 自分のなかを 脈々と 流れるいのち 蘇(よみがえ)らせる』『体内を 流れるいのち 感じつつ いのちと共に いのちを生きる』これが日記を書き始めて2144日目の心境。
2010.11.16
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今日は、半月。満月に向かっている途中。常設の水晶祭りに、新たに六個追加した。そのなかに、ガーネットのブレスレットがあった。それ以外のラピスラズリやインカローズやスギライトは、既に解説文ができている。ガーネットについては、まだできていなかった。急遽、昨日からガーネットについて調べ始めた。すると・・・ガーネットは、一月の誕生石。そのことは、自分の生まれ月なので知っていた。しかし、調べれば調べるほど山羊座的。山羊座そのものという感じ。ガーネットの和名は、柘榴(ざくろ)石。色が石榴の実に似ていることから、日本ではそのように呼ばれている。元々は、多くの種子を持つというラテン語に由来する。「実りの石」というのが、その本来の意味。積み重ねた努力が実る石。忍耐力と強い精神力を与え、成功へ導く石。自分を見失った時には、初心の情熱を呼び覚ましてくれる。自信を失いかけた時には、内なる炎を取り戻し、創造性を蘇らせる。ガーネットには、深紅や緑色など、いろんな色がある。全部で14種類とも言われる。ブルー以外は、すべてあるとか。ガーネットのイメージは、深紅なのだが・・・古くから各地で神聖な石とされてきた。ユダヤ教の祭司は、真理を得る石として身に着けたらしい。アレクサンダー大王は、一族の忠誠の証とした。中世の十字軍の兵士は、命を守るお守りとして用いた。宝石言葉は、信頼と愛。変わらぬ愛や忠実を表す。深い赤は、秘めた情熱でもある。持続する愛とも言える。愛の絆や友情の証としても使われてきた。また、一途な愛や貞節を意味する石でもあった。その血のような色は、一族の血の結束の証として王家の紋章ともなった。ノアの箱舟のカンテラに使われたという説さえある。その深紅の色は、精神を安定させる。心を癒し、落ち着きをもたらす。長い時間をかけて実力を培うのをサポートする。忍耐と努力の山羊座にピッタシ。ガーネットは、「健康の石」とも呼ばれる。あの深紅は、血の色。血液の循環をよくし、体内の老廃物を排除する。ネガティブなエネルギーを排出し、本来のバランスに戻るのをサポートしてくれる。肺活量を高め、体の隅々にまで新鮮な酸素を届ける。免疫力を強くし、体中に活力を漲(みなぎ)らせる。貧血や血管の病、動脈硬化や自律神経の病に効果があるらしい。なにしろ秘められた生命エネルギーという感じ。最近なんとなく元気がない人に、お薦め。小さなことに思い悩むことが多くなった人にも。目標を見失ったような状態の人にも。ガーネットは、役に立つ。ガーネットには、深い深い何かがある。秘められた何か。いのちの本源とつながるような何か。下から湧いて来る生命エネルギー。ガーネットの深紅は、血の色。いのちの色。深い深い絆。根底で人を支える色。『根底で 人を支える ガーネット 変わらぬ愛は いのちの本質』これが日記を書き始めて2142日目の心境。
2010.11.14
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2053~2056日目の日記、「癒しの旅・屋久島」に登場した方からメールが届いた。屋久島で打った尾てい骨について書かれていた。偶然はない!そのメールを紹介する。「毎日、水晶を見ていると、心が静かになります。というか、屋久島から帰って来た頃から、静かになった気がします。整体の先生が、尾てい骨が、まっすぐになっていると言っていました。以前は、左に曲がっていて、おまけに飛び出ていたそうです。静かになったのも、尾てい骨を打ったおかげだと思います。屋久島に感謝です。水晶を見ているうちに、実は・・・自分が自己否定で、いつも自分が悪い、無能で駄目なんだと無意識に思っていました。だから、もっと足りない、もっともっとと追い込んでいたのだと気がつきました。私は、よくやっているのに自分を追い込んでいて、自分に申し訳なかったと思います。水晶を見ているうちに、段々と思えてきたのです。もっと自分を大事にしますね。今の抱えている問題が、クリアーするかもしれません。kimiさん、水晶をありがとうございます!」この方は、屋久島の海岸で滑って、尾てい骨を強打した。木霊の森で横になった時、体が自然に動き始めた。その後も、寝る前に体を自然に動かすようにしている。その結果、尾てい骨が正常に戻ったらしい。何年も整体で良くならなかったもの。それが、自分で治ってしまった。実は、何もしなくてもいい?本当は、何もしない方がいい!体のことは、体にまかせればいい。体のことは、体が一番知っている。人間が知っているのは、体のほんの一部。断片的なことしか知らないのに、体をいじりまわす。今の医者が、体をトータルに知っているだろうか。体は、自分のことをトータルにわかっている。いのちは、いのちを知っている。いのち以上にいのちを知っているものはいない。いのちは、いのちにゆだねる。それ以上のヒーリングはない。いのちは、必要なことをしてくれる。人が為すべきことは、それをサポートすること。いのちが働きやすいようにすること。いのちの働きを妨げないこと。いのちを尊重し、いのちと共に生きること。そのことを肝に銘ずべきではないだろうか。今の医学は、本末転倒。医者が、主役になっている。医者が、病気を治してくれることになっている。医者は、病気を治せない!そんな当たり前のことが、世間では通用しない。世の中全体が、おかしくなっている。医者は、病気を治せない。病気を治せるのは、体=いのちのみ。体にまかせる。自然にまかせる。宇宙にまかせる。それには・・・深い理解がいる。理解のないままにまかせれば、信仰になってしまう。信仰は、不安定。信じてよいのかどうか、常に疑いと背中合わせ。信じるのではなくて、理解すること。体を理解し、宇宙を理解する。理解すれば、信じる必要はない。無知であるが故に、信じるしかなくなる。水晶を見つめていると、自分が見える。別に水晶玉を見つめる必要はない。それでは、占い師や魔女になってしまう。自分の好きな水晶を眺めればいい。そうしていると、心が落ち着く。静けさのなかで、ふと気づきが起きる。煩雑な日常から、しばし離れる時間が必要。クリアーな水晶を見つめることは、実は自分自身を見つめること。気づくことによって、自分への理解が深まる。自分自身に気づくことが、真実に生きることを確かにする。思い込みだらけの自分で生きたのでは、人生の真の豊かさはわからない。自分自身を知ることが、宇宙の真理へ導く。一昨日も、この方からメールが届いた。それは、次のようなものだった。「インカローズ届きました!すごく透明で素晴らしい赤です。すぐ身に着けると、体が内に曲がってきました。いつもは、背中がのけぞる感じになるのですが。それから、体の中へ中へとエネルギーが入ってくるのです。頭から足まで、立っていられないほどです。しばらくすると、涙が溢れて止まりませんでした。インカローズは初めて手にするのですが、キーポイントでした。 第二希望だったのですが、買ってよかったです。ありがとうございました。分析すると、私はよほど傷ついていたみたいだと思いました。いろいろ見えてきますね。」石には、それぞれエネルギーがある。そのエネルギーとの出会いによって、心身に変化が起きる。この方の第一希望は、クンツァイトだった。しかし、今はクンツァイトよりもインカローズの方が必要だった。インカローズは、愛の石。インカローズを手にすれば、愛の波動が心身に浸透する。心身が愛で満たされる時、心の傷は涙となって解放される。美しくもすばらしいインカローズが届いた。天の時、地の利、人の和。何事もタイミング。屋久島へ行くべき時があり、出会うべき水晶もある。起きるべきアクシデントがあり、それによって人生が展開する。起きてくることを見逃さないことだろうか。いやな事とか、悪い事と捉えないことだろうか。起きてくる一切を活かすことだろうか。すべてを活用すれば、この世に怖いものはなくなる。すべてを理解し、すべてを活用する。屋久島も水晶も、すべて縁。縁のあるものに助けられながら生きている。出会いも、また縁。縁が創る、この人生。不思議と言えば、不思議。でも、その縁を設定しているのも、実は自分。生まれてくる前に自分で設定したもの。それを活用するかどうかが、今、問われている。縁を大切にすることだろうか。縁を無駄にしないことだろうか。深く静かに縁と共に生きることだろうか。『起きてくる すべてのことを 大切に 無駄にしないで 活かして使う』これが日記を書き始めて2141日目の心境。
2010.11.13
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今日の屋久島は、風が強い。気温も低く、寒い。まるで人類の闇を見ているような感じ。人類は・・・かなりクリアーになってきている。でも、まだ深い闇が残っている。その闇が、最後の足掻(あが)きをしている。傷口が、うずいている。人類は、地球での長い生活の間、肉体や物質に翻弄されてきた。肉体や物質を自由に使いこなすつもりが、逆に虜(とりこ)になってしまった。ミイラ取りが、ミイラになった。その過去を乗り越えようと思って、多くの人が生まれてきている。しかし、この世に生まれてみると、周りは物質だらけ。世間は、物質文明花盛り。肉体に入り物質と暮らしている間に、気がつけば物質に取り込まれている。それが、紛れもない現実。子供の頃は、それもしかたがない。肉体を自由に動かせるようになり、物質に慣れる時期。しかし、そのうちに精神まで物質化していく。自分を肉体と思い込んでしまう。肉体と一体化するプロセスで、霊性を見失う。それが、これまでの人類のパターン。物質中心となり、霊性を忘却する。自分の本質を見失う。子供の頃は、過去世の再体験。過去世を乗り越えるために、過去世と似たような体験をする。再体験しないことには、過去世を理解できない。だから、子供の頃の過去に囚われる必要はない。大切なことは、過去の経験を活かすこと。過去の経験を理解し、霊性で統合すること。物質も肉体も理解して、使いこなす。感覚も感情も思考も、理解して活用する。すべてを霊性で統合する。それが、最も重要なポイント。霊性の確立。そのために、今生は生まれてきている。肉体や物質を楽しむのもいい。しかし、それらに翻弄されて自分を見失わないこと。主客転倒にならないように。メインは、肉体や物質を使って自由に創造すること。創造する主体を見失わないこと。その主体こそが、自分の本質。真実の自分自身。揺らぐことのない霊性。この世の人間は、いろいろなものの集合体。肉体も感覚も感情も思考も、自分と言えば自分。自分でないと言えば、自分ではない。自分という存在は、奥が深い。この世の人格さえ、この世限りのもの。今生を生きていく乗り船。魂でさえ、その次元を生きていくための器。人は、たくさんの器の集合体。その中心で燦然と輝くものは、霊性。霊性こそが、限りないもの。霊性は、冷静に通じる。いついかなる時も冷静であること。冷静さのなかに霊性が宿る。この世の冷静さとスピリチュアルな霊性が融合すれば、霊聖となる。この世を生きるとは、この世のものを使って自由に創造すること。けっして、この世のものに囚われないこと。肉体や物質を使ってクリエイトする。間違っても肉体や物質の奴隷にならない。それが、これまでの人類史。肉体や物質に振り回された人類の歴史。それは、もう卒業する時。理解して乗り越える時期。霊性において統合する時代。この世的なものの中心に霊性が宿る夜明け。富士山は、上へ行くに従って苦しくなる。空気が薄くなり、登りが急になるので、一歩一歩がつらい。しかし、その苦しみは、頂上が近づいている証拠。苦しいからと言って、今放棄したら、これまでの努力が水の泡。周りは、明るくなっている。夜明けの前が、一番暗い。深い闇が出てくる。最後の悪足掻きをする。そういうものに負けないことだろうか。しっかりと霊性を中心にすえて生きることだろうか。夜明けは、近い。時代は、白みかけている。『人類の 夜明けの前の 暗闇は 頂上間近の 富士山登山』これが日記を書き始めて2137日目の心境。
2010.11.09
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今日の屋久島は、晴。風もほとんどなく、さわやかな秋晴となっている。昨日で三泊四日の屋久島の旅が終わった。ちょっと一息ついているところ。今回のお客さんは、女性二人。そのうちの一人は、30年前に同じ職場にいた人。屋久島空港では、30年ぶりの再会となった。お互いに一目でわかりはしたが・・・30年の歳月は、お互いを老けさせてしまった。彼女は、65才。既に退職して、年金暮らし。彼女から、元同僚のその後の話を聞いた。同じ職場にいた先輩たちは、既に退職している。ところが・・・退職後に亡くなった人が、何人もいた。「エッ、あの人も、あの人も・・・」退職後に病気で倒れた人もいた。一緒に働いていた頃は、とても元気だったのに・・・こちらが退職した後、職場環境はどんどん厳しくなった。ほとんどコンピューター化され、民営化も進んだ。こちらが公務員をしていた頃は、のんびりしていた。今のような公務員バッシングもなかった。思えば、一番よい時に公務員をしていたような気がする。その後は、仕事がハードになるばかりだったらしい。退職後しばらくして亡くなる人の、なんと多いことだろう。仕事で心身をすり減らしてしまったのだろうか。働いている間に体力を消耗しきってしまったのだろうか。あんなに元気だった人までも・・・公務員をしていたのは、15年間。それから既に22年が経っている。フリーの方が、遥かに長くなってしまった。よく生きているなと思う。公務員は、親方日の丸。真面目に働けば、定年まで生活の心配はない。フリーは、保証のない世界。生きるか死ぬかのサバイバルゲーム。でも、まったく後悔はない。22年間、好きなように生きてきた。あのまま公務員を続けていたら、今の自分はない。消耗しきった、ただのオッサンがいるだけ。狭い世界のなかで、人間関係に悩んでいたかもしれない。頭だけの理解で、人生をわかったつもりになっていたかもしれない。あるいは、生きる希望を失っていたかもしれない。いずれにしても生活のためだけに働けば、消耗するしかない。たった一度の人生。思いっきり生きることだろうか。そのために必要なものは、勇気!チャレンジする心。保守的になれば、人生は後ろ向き。常に挑戦し続けることだけが、若さを保ってくれる。先のことは、わからない。今を生きるしかない。今、本当にやりたいことを後回しにしないことだろうか。後でやろうと思ったら、その時は体力がないかもしれない。状況が違って、やりたくてもやれなくなっているかもしれない。思い切ってチャレンジすることだけが、人生を切り開く。常に新たに生きていく。今を新鮮に生きていく。新しいことに挑み、ワクワクしながら生きていく。いつもさわやかな風と共に生きていく。『今ここで 望む人生 生きること チャレンジこそが 若さの証(あかし)』これが日記を書き始めて2130日目の心境。
2010.11.02
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