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朝10時半過ぎに、あとりさんを迎えに行く。今日が最後の森行き。その前に、木霊のストラップを作っている木工所へ向かう。既にソレイユさんに連れて行ってもらったのだが・・・自宅の母から追加のオーダーがあったとのこと。いろいろ配りたいらしい。久しぶりに木工所へ行くと、また子犬が産まれていた。もうだいぶ大きくなっていたが、毛がフサフサしていて、触ると気持ちがいい。子犬だけではなくて、新しい奥さんも来ていた。なんと26歳。ご主人の年齢の半分以下。バリ島からやって来たらしい。ご主人は、こちらと同じぐらいの年代。(こ、こんなことが許されていいのかッ!)(イイナ、イイナ・・・)羨望の眼差し。こちらも水晶を置く台をオーダーする。やはり屋久杉はいい。水晶が落ち着く。水晶が増え過ぎて、台が足りない。それから、白谷雲水峡へ向かう。途中の道路で、4頭のヤクジカに会う。車から降りる。母子連れがいる。子ジカが、とても可愛い。じっとこちらを見ている。カメラを構える。ところが・・・咳払いをしたとたん、驚いて逃げてしまった。「kimiさんが咳払いをするから」「・・・」返す言葉もない。白谷雲水峡の入口の手前で車を止める。ここで不老長寿の水を汲む。彼女は、この水を静岡の自宅に送るつもり。それでしばらくは屋久島のエネルギーを吸収できるだろう。今回は、屋久島の水が彼女の健康回復に多大な貢献をしてくれた。屋久島の水は、彼女の体にすみやかに吸収されている。溜まっていたものを洗い流し、体を浄めている。心身ともに清らかになった感じ。意外なことに、白谷雲水峡の駐車場は混んでいた。先日は、ガラガラだったのに。どうしたのだろう?ゆっくり、もののけ姫の森まで歩く。彼女は、森を歩いた夜や翌日は相変わらず辛いらしい。しかし、それを過ぎると、より元気になっている。充電と解放を繰り返している。そして、着実に健康に向かっている。森のなかは、歩いている人は少なかった。さすがシーズンオフ。寒いけれども、静かに森を楽しめる。くぐり杉に到着。「ここをくぐると、10歳若返るよ」「何回でもくぐろうかな」「戻れば、また元に戻るんだよ」「一回だけ?」彼女は、喜んでくぐり杉をくぐった。「帰りに不老長寿の水を飲めば、不老だから、10年若返った状態がキープできるよ」「すごいね」うれしそう。もののけ姫の森には誰もいなかった。しばらくすると、知り合いのガイドが下りてきた。「遭難している人がいるのを知ってる?」「エッ! こんなところで遭難しているの?」白谷雲水峡の原生林歩道で、三日前から行方不明になっているとのこと。しばらくすると、捜索隊も下りてきた。役場の職員や森林管理署の職員、それにガイドなど・・・。10数人いる。まだ見つからないらしい。冬場は遭難する人が、たまに出る。しかし、白谷雲水峡で遭難するなんて、ほとんど聞いたことがない。たいていは、宮之浦岳や縄文杉など奥の方。この寒いのに三日間も・・・夜は冷えるだろう。意識が一気に遭難の方に向く。生きるか死ぬかになると、病気のことを忘れてしまう。帰り道の話題も、もっぱら遭難のこと。ヘリコプターが上空を飛び回っている。しかし、森のなかでは木々が邪魔して見つかりにくそう。本格的な大捜索になっている。出口まで来ると、犬の鳴声が・・・なんと警察犬が3~4頭来ていた。わざわざフェリーに乗って鹿児島から来たらしい。警察官もかなりいて、騒然とした雰囲気。屋久島の関係者も心配そうな様子で見守っている。管理の人に聞くと、三日前にここを通って行ったらしい。三本足杉の近くで姿を見られたのが最後。写真に気を取られて、奥の方に入ってしまったのではないかとのこと。時々、観光客が崖から落ちたりして救急車が来ていることもある。しかし、白谷雲水峡での遭難は、管理の人も聞いたことがないとのこと。あまり人の通らない時期に一人で入るところではない。しかも、ルートを離れるとは・・・ガイドによると、滑って足をケガして動けなくなっているのではないかとのこと。確かに、その可能性が高いかも。なんとなく心配しながら、白谷雲水峡を後にする。駐車場が混んでいたのは、観光客ではなくて捜索隊の車だった。最後の最後に、もう一度不老長寿の水を飲む。これで彼女は24歳を永遠にキープ?本人は、そのつもりで御機嫌。ルンルン気分。里に出て、お土産屋に寄る。屋久島上陸直後に寄った所。その時は、屋久島の野菜を購入した。その後、ソレイユさんから手作りの野菜を少しもらったらしい。最後に楠川温泉に入る。これが屋久島での最後の温泉入浴。12日間いて、6回温泉に入ったらしい。楠川温泉と尾之間温泉に、3回ずつ。温泉も彼女を元気づけてくれた。尾之間温泉は強烈過ぎたが、楠川温泉はまろやかだった。水と温泉と森と海と・・・屋久島の自然のエネルギーが、彼女にどんどん吸収されていった。日を経る毎に彼女は元気になった。あと何回か屋久島に来るといい。更に元気になるだろう。これが1月31日の出来事。『屋久島の いのちの水が 浸透し 体浄めて 新しくする』『屋久島の 自然のなかに いるだけで ただそれだけで 元気回復』これが日記を書き始めて1125日目の心境。* 遭難していた人は、翌日、無事に保護されました。
2008.01.31
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朝10時半頃に、あとりさんを迎えに行く。元気そう。手首には、一昨日、ソレイユさんからもらったストラップが巻かれていた。屋久島の貝とローズクオーツなどの水晶で手作りされたもの。ソレイユさんと過ごした一日は、特別に楽しかったようだ。いくつかの滝を回り、屋久杉の工芸所などに行ったらしい。こちらが行ったことのない若者向けのところへも連れて行ってもらったとか。最後にソレイユさん宅で夕食を御馳走になって大満足。温泉にも誘われたが、断ったとか。温泉に入ると、湯あたり状態になって、そのまま寝込んでしまう可能性が高い。ゆっくりソレイユさんと話したかったようだ。ソレイユさん宅の犬や猫も歓迎してくれた様子。ソレイユさんとの一日が、屋久島で最も癒されたと言っていた。(オイオイ、それではkimiさんの立場がないじゃないか)ソレイユさんとは、過去世からいろいろあったようだ。とても仲の良い間柄だったらしい。ところが、何らかの事情でソレイユさんが、あとりさんを殺してしまった。その自責の念が、まだソレイユさんのなかに残っていたようだ。その過去世を思い出したのは、ソレイユさん。殺されたあとりさんは、思い出していない。心の中に引っ掛かりがあったソレイユさんが、思い出す必要があった。あとりさんは、引っ掛かってはいなかったようだ。今生で再会して、めでたくそのシコリは解消された。めでたし、めでたし。先日、あとりさんはパンを買いに行き、ついでに安房川のほとりを散歩した。その姿を職場の窓からソレイユさんが見ていた。そして、それがあとりさんだとわかったとか。まだ本人に会ったことはないのに。深い縁があって、今生でも出会っている。あとりさんは、ソレイユさんが大好きと言っていた。屋久島に来る前から好きだったらしい。(Kimiさんのことは?)実は、kimiさんとも過去世で縁があった。それは森を歩いている時に、あとりさんの口から漏れた。父親に虐待され、7歳ぐらいで亡くなった過去世があった。その亡くなる間際にkimiさんに出会ったらしい。いろいろ親切にしてもらった。星も教えてくれた。その当時は、さわやか青年だったらしい。海外での過去世の話。彼女が亡くなる時、(ここからが重要!)生まれ変わったら、ぜったいあの人に会いたい!と強く思った。やったね!ハーイ、再会したよ。でも・・・残念なことに、もう青年ではなかった。還暦間近のオジサン。しかも、歳が二回りも違う。夢破れたあとりさん・・・夢破れて屋久島あり?まあ、いろいろある。縁のある過去世は、これだけではない。彼女は、平家のお姫様だったらしい。Kimiさんは、たぶん平家の公達だった。以前、日本全国を回っていた頃、雨に濡れながら森を歩くと、いつも平家の落武者の気分になった。なんとなく似たようなシーンがあったような・・・屋久島には、壇ノ浦で敗れた平家が落ちてきている。そういう縁もあるのかもしれない。もちろん、源平時代だけでなく、ムーの時代から屋久島とは縁がある。しかし、具体的には思い出していない。あまり具体的に思い出すということはない。今のところ、そういう必要がないのだろう。そのような話を、森を歩きながらたくさんした。彼女の今生の生い立ちなども詳しく聞いた。両親や姉のことも、いろいろ教えてもらった。体のことについても、これまでの経過を詳しく聞かせてもらった。彼女は、膵臓(すいぞう)がほとんど機能していない。最初のうちは薬や注射もしたが、そのうちにまったく効かなくなった。その後は、何もしていないとのこと。ただ油ものは食べないようにしているとか。油ものを食べなければ、インシュリンが出なくても大丈夫なのだろうか。油ものを少しでも食べると調子が悪くなるらしい。かなり節制している。節制せざるを得ない。朝、車に乗り込む時、彼女は股が痒いと何度も言った。「また?」「股がカビるの」そう言いながら、太ももの上を押さえていた。「なんなら掻いてあげようか」「それってセクハラじゃありません?」「だって、何度も言うから・・・」「ホントに痒いんだもの」「そんなこと、普通は男の人の前で言うか」「だって、ものすごく痒いのよ」「それって逆セクハラじゃないの?」「何言ってるんです」車中では遠慮のない楽しい会話が続いた。彼女の下半身は、異常に湿度が高いらしい。本当にカビが生えるとか。循環式の温泉に入ると、すぐに感染してしまうほどデリケート。極端に免疫機能が低下している。体に締まりがなく、虚弱体質そのもの。陰の虚(きょ)状態。同じ陰性でも、いろいろある。女性自身は、陰の極。しかし、だからと言って、いつもジメジメ・ジトジトしているわけではない。ましてカビなど生えない。それは、陰の陰だから。陰のなかにも陽が必要。そうなると、きれいな陰の形ができる。それで、陰の実(じつ)となる。陰の虚では、グチャグチャ。女性性は、やさしいだけでは足りない。内側で支える芯の強さを必要とする。男性性も、強ければいいというものではない。強いだけでは折れてしまう。しなやかさを併せ持ってこそ、真の強さとなる。人は、陰陽ともに持っている。そのバランスによって男性性と女性性を調整している。極端に偏れば、心身のバランスを崩す。今日は、最初に紀元杉を見る。樹齢三千年。次に川上杉を見る。樹齢二千年。いずれも誰もいなかった。途中のヤクスギランドも、一台の車も止まっていなかった。これがシーズンオフのよさ。どこも貸し切り状態。海抜1300mの宮之浦岳登山口に到着。ここにも車はなし。ゆっくり歩き始める。すぐにシャクナゲが目につく。大きな蕾をつけている。咲くのは六月上旬。半年も前から蕾を用意していることになる。今年は、蕾が多い。久しぶりの当たり年になるだろうと、里ではささやかれている。シャクナゲは、毎年咲くわけではない。当たり年と外れ年がある。今年は当たり年になるようだ。花の時期になれば、登山口からずーっとシャクナゲの花が続く。すばらしい風景に変わる。「まるで花道ね」「確かに!」森のなかは、思ったほど寒くはなかった。真冬とは思えないくらい楽に歩けた。鳥が鳴く。霧が迫る。深山幽谷の雰囲気。生気が満ちる。そのなかにいれば、元気になるしかない。自然は人を元気にする。つい先日、知り合いの医者から面白い話を聞いた。パーキンソン病の人が全快した話。西洋医学では、パーキンソン病は治らないことになっている。東洋医学でも全快したという話は、あまり聞かない。ところが、何もしないで全快したらしい。というのは、山菜取りに山に通ううちに自然に良くなってしまったとか。一切治療しないで、ただ山に通っただけ。山菜を売るのが楽しくなって、頻繁に山に入ったらしい。楽しいという要素も大きい。しかし、それ以上に山に頻繁に入ったことが影響しているだろう。何も治療しなくていい。ただ山に入っていれば良くなるということ。自然は、偉大。すばらしいとしか言いようがない。もしかしたら、何もしないで、森のなかを散歩させるのが最善の治療かもしれない。それこそが、まさにナチュラルヒーリング。今ここでやっていること。別に宣伝しているわけではない。単なる事実。厳然たる事実。森の奥に淀川小屋という山小屋がある。その先に、屋久島でも指折り美しい川が流れている。そこまで行って引き返す。その川の美しさに、彼女は目を見張った。森のなかでも帰りの車のなかでも、アクビが止まらない。「私の分を出してるの?」「そうかも」異常にアクビが続いた。彼女は森を歩いている間、ゲップをし続けた。それが彼女の解放の仕方。「アクビの方が上品だよね」「オナラで解放する人もいるのよ」「それは周りにいる人は迷惑だね」「大丈夫、自宅でしかしないから」「それならいいね」「リラックスしないと出ないのよ」確かにリラックスしないと、アクビもゲップもオナラも出ない。出ることはいいこと。あまり美しい話ではないが・・・出して解放するしかない。こちらのアクビは、頭に詰まっているものを解放している場合が多い。「それなら、私の頭のなかも詰まっているの?」「みんな詰まっているさ」頭のなかが詰まっていない人は、ほとんどいない。最後に尾之間温泉へ行く。久しぶりに熱いお湯だった。すばらしくパワフル。しかし・・・それは彼女には強過ぎた。湯船には入れなかったとのこと。ただ、かけ湯しただけ。もったいない・・・それでも効果はある。温泉に入れば、あとは倒れるしかない。まだ体力がない。温泉のパワーに負けてしまう。森を歩いた後も、次の日は起きれなくなる。だから、一日おき。一日充電、一日解放。それが彼女のペース。それでも間違いなく元気になっている。元々、精神的にはパワフルな人。そうでなければ、これだけの病気は抱えきれない。過去世の総括を一気にしようという勇気あるチャレンジ。これまでの過去世を再体験し、それを超えていく。なかなか厳しいコースを選んだものだ。しかし、自分で選んだ道だから、何も言うことはない。超えられると思ったからこそ選んだに違いない。彼女には、それを超えるパワーが潜在している。間違いなく超えていくだろう。まだまだ試練は続くだろうが、光は見えている。これが1月29日の出来事。『たおやかな 陰であるには しっかりと 陽が支える 必要がある』『たくましい 陽であるには しなやかな 陰の支えを 必要とする』『陰陽と 男女(おとこおんな)の 関係は 互いに相手 活かし合うもの』『陰の陰 陽の陽では 偏って 壊れてしまう 心も体も』『こだわりを 持ってしまえば 何回も 生まれ変わって 外すしかない』『こだわりも 囚われシコリ 執着も 何も残さず すべて手放す』『何回も 生まれ変わって 溜め込んだ カルマ一切 今生返上』『何もない スッキリさわやか 軽やかに すべて手放し 何もつかまず』『霧迫り 霊気を吸えば 身心は 人本来の 姿に戻る』『人為的 治療を捨てて 任せ切る 自然のなかで 自然のままに』これが日記を書き始めて1124日目の心境。* あとりさんの身心の状態をオープンにするについては、本人の了解を得ています。
2008.01.30
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知り合いから次のようなメールが届いた。「ここ数日、何かよくないものがまとわりついています。夜、寝るとき、よくないものが出現し、近寄ってくる、もしくはひきずりこもうとする、など。こちらの精神がぷらぷらしているのが、わかるのでしょう。私が呼んでいるとも言えます。対処法は?そういう私もいるわけで、なんで、こうなっているのかも漠然とわかりますが・・・・。しばらく、ばたばた、ばたつくことでしょう。はは・・・苦笑という感じですね。困った。という感じで、月曜日乗り切ります。」このメールに対する、こちらの返事は次のとおり。「見守ることだね。観察するとも言うけど。近づいて来るのを、引きずり込もうとするのを。引きずり込まれてみるのもいいと思うよ。見切る覚悟があったらね。ポイントは、恐れないことだよ。正面からぶつかること。負けないこと。最後まで見切ること。そうすれば、何も問題はなくなるよ。そんなものにビクビクすることなんかないんだから。逃げ腰だから、恐ろしくなるだけだよ。正面から対峙すれば、退治できるものだよ。逃げれば、いつまでも追っかけてくるよ。実体を見ることだよ。その本質は何なのか見切ることだよ。そうすればわかるでしょう、自分が何を恐れているのかが。真実は、・・・・なんだけどね。自分で発見してね。ハイ、それでは、また。」この人は、霊的なものを感じやすい体質。よくいろんなものが近寄って来るらしい。以前は、それで苦しんだこともあったとか。しかし、最近は落ち着いているとのことだったが・・・こういう体質の人も、たまにいる。あるいは、普段はそんなことはない人が、突然、そういう感じになることもある。そういう時にどうするか。どうしたらいいのだろうか。まずは、恐れないこと。逃げ腰にならないこと。逃げようとすれば、恐怖は永遠に消えることはない。いつまでも、いつまでも追いかけて来る。ここは決然と対峙するしかない。それが唯一の解決法。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」それが実体。実態のないものが、実態。いや、実態はある。あると言えば、ある。ないと言えば、ない。その実態は、妄念。執念、妄執・・・要するに、迷える念。想い・・・人の想いが、さ迷っているだけ。それが波動の似たようなところに呼び寄せられるだけ。単なる波動共鳴の法則。自分で播いた種を、自分で見ているだけ。決然と見切る覚悟ができていれば、何も恐れる必要はない。そういうものは、見切ってしまえば、消えていく。実態のないものなので、何もできない。ただ自分も同じ波動だと、影響を受ける。そういうものは、自分がネガティブになっている時に近寄ってくる。意識状態をポジティブにすれば、あまり影響を受けない。もっとも、ポジティブ過ぎて我欲に走れば、また影響される。バランス、ニュートラル、心の平和。地球全体を残留想念が取り囲んでいる。想念帯と呼ばれるもの。まるで重力のようなもの。想いは、重い。この世に生きていた時に果たせなかった想い。執着や囚われ。妄執や妄念。そういうものが、地球を取り巻いている。そういうものに影響されないことだろうか。それには、想念帯の外に出るしかない。同じ想いの世界に生きていれば、妄念・妄執の餌食となる。共鳴・共振し、妄念や妄執の虜となる。すべては、自分の意識しだい。自分の意識のありようが、すべてを決めていく。静かに見守る意識状態であるかどうか。常にそういう意識状態であれば、何も問題はない。想いや感情の世界にどっぷりと浸かり、自分を見失う時、目に見えない何かに襲われたりもする。それは自分が呼んでいるとも言える。自分の意識状態を変えれば、そういうものは遠のく。恐れないで、見切ること。見ようとする意識状態になれば、既に想いの世界にはいない。怖いものから逃げようとする限り、救いはない。ただ立ち向かうしかない。静かに見切るしかない。見守る意識状態は、想いや感情の次元ではない。想いや感情を超えた次元から見守っている。だから、妄念や妄執の影響を受けない。見守る意識に影響を及ぼすことのできる念はない。日常から自分自身を見守り、理解しようとする姿勢を持つことだろうか。それが見守る意識を育てる。自然に見守る意識が働くようになる。それが、すべてを超えていく。願望実現や自己実現など、目先の利益に惑わされないことだろうか。それらは依然として想いの世界。ただ見切る。ただ理解する。この世の真実を理解する。この宇宙の成り立ちを理解する。自分自身を理解する。その姿勢が、真理へと導く。それが、すべての問題を解決する。それ以外のことは、すべて小手先のこと。目先の利益。自己保存。理解されれば、道は開く。見切れれば、行くべき道は明らかとなる。静かに見守る意識が、すべてを拓く。何も求めず、ただ見守ること。『人類の 幾千万の 妄念が 地球取り巻き 未(いま)ださ迷う』『ネガティブな 気持ちになれば ネガティブな ものが近寄る 波動の世界』『人の世は この世もあの世も 同じこと 想いに呑まれ 身動きとれず』『妄念に 負けずに対峙 見切る時 曇りは消えて 心澄みきる』『想い超え 感情超えて 見守れば 意識は澄んで 遮(さえぎ)るものなし』これが日記を書き始めて1121日目の心境。
2008.01.27
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水瓶座の水晶祭りの水晶たちの行き先が、すべて決まった。今回は、リクエストが多かった。ほとんどが抽選になった。稀にオンリーワンで、相思相愛というのもあった。今回の人気No.1は、ハニーレインボーだった。これまでで最高の13人からリクエストがあった。No.2は、オーロラ・ブーケ。いずれもレインボーに関わりのある水晶だった。虹は、人に夢と希望を与える。しかし、日常生活で虹を見ることは滅多にない。特に都会で暮らしていると、なおさらそうだろう。屋久島でさえ、そうそう見れるものではない。ところが、水晶であれば、毎日、見ることができる。光が当たると美しい虹の出る水晶は、そんなに珍しいものではない。そのなかでも今回のハニーレインボーは、際立ってすばらしい虹が出た。ものすごく強烈な虹。12人の方には、たいへん申し訳ないと思う。なにしろ水晶は1個しかないので。しかし・・・しかし、なのだ。ハニーレインボーは、リクエストした誰のところへも行かない。正確に言うと、一旦は行く。しかし、そこに留まることはない。経由するだけ。この水晶は、えっちゃんのところへ行く。しかし、えっちゃんの手元には残らない。別の人に渡る。えっちゃんからのプレゼント。ハニーレインボーは、えっちゃんの知り合いのお兄さんのところへ行く。ラグビーのアクシデントで全身マヒになった人。これからリハビリが始まる人。苦しいリハビリに挑戦する人。その人を励まし勇気づけるために、この水晶は旅立つ。その役割にぴったしの水晶。夢と希望を与える水晶。そのために存在するような水晶。これだけ明確な役割を担って旅立つのは、この水晶が初めてかもしれない。すばらしい!水晶冥利に尽きるだろう。ステキな役割。えっちゃんの愛情に包まれ、ハニーレインボーは入院している人の元へ行く。そして、夢と希望を与える。元気になるように励ます。その人が虹を見るたびに、勇気が湧いてくるはずだ。この水晶の虹は、昼間でも見える。自然光でも、夜の光でも、どちらでも見える。ものすごく強い虹が出る。励ますのには打ってつけの水晶。こういう感じで水晶を送り出せるのは、自分としても嬉しい。もちろん、健康の回復がメインの目的ではない。スピリチュアルな目覚め。本来の自分自身への回帰。それがメインテーマであることに変わりはない。しかし、それぞれの水晶の役割というものがある。それぞれの役割を活かし、活用するのが英知というもの。すべてを活かして使うのが、この世の大原則。水瓶座の水晶たちが旅立って、少し寂しくなった我が家。しかし、それを埋め合わせるかのように、新しい水晶たちが到着している。そのなかにはレインボーが出るものもある。次々とすばらしい水晶がやって来ては、去っていく。水晶循環は、続く。楽しく続いている。送るのも楽しい。受け取るのも楽しい。新しい水晶と出会い、楽しみ、送り出す。水晶循環。屋久島経由の水晶循環。光に満ちた水晶循環。『水晶の なかに出てくる レインボー 夢と希望を 人に与える』『入院し 動けぬ人に もう一度 夢と希望を 与える水晶』『地に生きる 人の励まし レインボー 天と地つなぐ 夢の架け橋』『旅に出る 水晶たちは 美しい 姿見せつつ 別れを告げる』『それぞれに 役割担い 旅に出る 水晶たちよ 光り輝け』『屋久島の 光に満ちた 水晶を 受け取る人は 光受け取る』これが日記を書き始めて1120日目の心境。
2008.01.26
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朝10時半過ぎに、あとりさんを宿に迎えに行く。今日は、木霊の森へ行く予定。本当は南の方が晴れているのだが、南の方には登れそうな山はない。天気が悪くても北の方へ行くしかない。途中で水の入ったペットボトルを購入。中身は捨てて、山の水を入れるため。屋久島の水は彼女に合っているようで、美味しく体に吸収されているとのこと。今日は、たくさん汲んで帰ろう。彼女は、元気そう。お母さんにも、電話で声が元気になっていると言われたとか。屋久島のエネルギーが、だいぶ浸透してきたのだろうか。もっとも、昨日は体調不良で、ほとんど寝込んでいたらしい。森のエネルギーを充電して、不必要なものを解放していたのだろうか。昨日不調でも、今日スッキリしていれば問題はない。着実に健康へ向かって前進している感じ。屋久島効果絶大!白谷雲水峡の駐車場は、信じられないほど空いていた。さすがシーズンオフ。シーズン中は常に満車の駐車場に、車は数えるほど。ガイドの車も一台しかない。木霊の森には、たくさんの沢が流れている。どこへ行っても水がある。ところが、彼女は水が苦手。水があると、すぐに咳が出る。彼女の体内に溜まっていたものが、水の流れに連動して動き出すのだろうか。入口を入った途端、咳が出始めた。なかなか一朝一夕に良くなるような状態ではない。しかし、緑の木々と苔のなかで、そのうちに咳はおさまった。見渡す限りの緑に、彼女は感激。誰もいないクリアーな森。今日は、彼女のためだけに存在する。彼女は、木霊の森がとても気に入った様子。苔に手で触り、頬ずりしている。よほど苔が好きなのだろうか。コケないように気をつけてね。ついチャチャを入れたくなるが、彼女は慎重に歩いているのでコケそうにはない。大きな屋久杉の切り株の下に潜り込む。そこで裸足(はだし)になっていいかと聞く。これまで、ここで裸足になった人はいない。裸足になって、気持ちよさそう。しばらく裸足のまま座り込んでいたが、やがて頭を土につけ始めた。オイオイ、そこまでするか。確かに、頭はクリアーになるかも・・・しかし、そこまで?さすがに山羊座。土の星座。典型的な山羊座の女性。こちらより更に山羊座的。彼女は、ゆっくり行動する。気に入ったところでは、しばらく立ち尽くす。こちらは、ただ待つしかない。寒いよーッ!お客様、最優先。ガイドは辛いね。と言いつつ、こちらも盛んにアクビをしている。なんのことはない、自分もしっかり浄化している。木霊の森には、たくさんのキノコが生えている。彼女は、それらのキノコを発見しては喜んでいた。これまで誰にも見せたことのない秘密のキノコを教えてあげる。木と木の間にできたユニークな形をしている。ここは自分専用の休憩所。普段なら、お客さんは休憩しているか昼食中。その間に、ここで瞑想したり、のんびりしたりするところ。その大きな屋久杉の切り株の横に、ユニークなキノコが生えている。木霊の森の一番奥の滝まで行く。ここまでよく歩けたと思う。森に入ると、彼女は元気になる。森は、山羊座の彼女に合っている。ここが一番気に入ったとのこと。そう、ここが一番木霊がいるところ。いいセンスしてるじゃん!ここで、しばらく休憩。最後に、木霊の森の主である大きな切り株のなかに入って記念撮影。彼女は、大満足。十二分に森を堪能した感じ。声に張りが出てきた。歩いた疲れを癒すため楠川温泉に行く。女湯は、終始、貸し切りだったとか。男湯も、入っていたのは一人か二人。ゆっくり、のんびりできた。帰りの車のなかでは、彼女の手足はポカポカ。こちらの方が冷たいくらい。間違いなく元気になっている。着実に元気になっている。このまま屋久島に住めば?元気になると思うけど。でも、それは・・・いろいろ事情が・・・彼女は、山羊座のA型で丑年生まれ。こちらと、まったく同じ。どうも二回り違うらしい。親子?東京にいた頃は、過去世で夫婦や恋人同士だった人が、たくさん現れた。屋久島に来たら、過去世で親子だった人が、たくさん会いに来る。不思議な縁(えにし)。彼女とも過去世で深い縁があったようだ。過去世でも縁があり、今生でも縁がある。既に彼女の両親もガイドしている。なので、遠慮なく言いたいことを言わせてもらっている。山羊座なので、お互いに持って回ったような言い方はしない。半分冗談だが、半分は本気。と言っても、重たくはない。こちらは言うだけ。押し付けたりはしない。決めるのは、彼女自身。こちらは、あくまでサジェッション。決定権は、彼女にある。彼女の人生だから。あとりさんの屋久島滞在は、続く。これからどうなるか。現在進行形なので、先のことはわからない。では、次回をお楽しみに・・・『森の土 裸足(はだし)になって 踏みしめて 頭をつけて 気持ちよさそう』『苔に触れ 石や木に触れ 水に触れ 森のすべてと スキンシップする』『水を見て 咳が出始め 体内に 溜まっていたもの 流れ始める』『流れ出る ものはそのまま 出し切って すべて手放し 身軽に生きる』『森のなか 自然のなかに いるだけで 心身ともに 自然に戻る』これが日記を書き始めて1119日目の心境。
2008.01.25
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朝10時半過ぎに、あとりさんを迎えに行く。天気が良さそうなヤクスギランドへ向かう。途中の道路でヤクザルが、お出迎え。雨上がりは、いつも道路に出ている。彼女の体力を考慮して、80分コースへ。森へ入った途端、咳とゲップが出始める。これが止まらない。大丈夫?エネルギーの強いところに行くと、いつもこうなるらしい。溜まっているものを解放しているのだが・・・苦しそう。以前は・・・こういう時は、すぐに咳止めや解熱剤を飲んだらしい。アトピーの時も薬で抑えようとした。なにしろ子供の頃から薬漬けだったとか。抗生物質が、たくさん体内に蓄積されている様子。やがて、薬がまったく効かなくなった。お手上げ状態。それで、一切の薬をやめた。それが6年前のこと。それから、ずっと食事療法。農薬や化学肥料を使っていないものを食べるように心がけている。その結果、少しはましになったが、まだ働ける状態ではない。それでも、やっと屋久島まで来れるようになったとか。ここ2年ほどで、だいぶ回復してきたようだ。以前は、まともに起きていられない状態だったらしい。今でも、よく倒れたり寝込んだりする。それをなんとかするために、屋久島へやって来た。ゆっくり、ゆっくり歩く。まるでお婆ちゃんをガイドしているような気分。そう話すと、「失礼ね」と言いながらも、苦笑していた。実際、親戚の84歳のお婆ちゃんより動作が遅いらしい。最初のうちは、今にも息が止まりそうな雰囲気だったが、だんだんと落ち着いてきた。緑の世界は、彼女に新鮮なエネルギーを供給する。彼女の身心は、それを無意識のうちに吸収している。徐々に元気が回復してきた。苔の雫に両手をつける。「気持ちいいーッ!」最後には、顔までつけていた。さすが、山羊座。山羊座には、緑が合っている。緑のなかで山羊座の心は、やすらぐ。木々の緑も苔の緑も、山羊座の彼女を元気にしてくれる。同じ山羊座なので、それが手に取るようにわかる。屋久島の森は、緑の世界。上を見ても下を見ても、緑だらけ。緑の世界を歩いているようなもの。山羊座にとって屋久島の森は、ほとんど天国。彼女の体調しだいでは80分コースでやめておこうと思っていた。しかし、森に入って元気になったので、150分コースにある巨木を見に行くことにする。奥へ行けば行くほど、彼女は元気になった。だから、できるだけ奥まで連れて行きたかった。三根杉、母子杉、天柱杉を見る。いずれも樹齢数千年の杉。彼女は、母子杉に手をついて、エネルギーをいただいていた。長いこと、母子杉の周りにいた。森の奥には、元気な木が林立している。元気な木がたくさんあるということは、元気な気が満ちているということ。屋久杉を切ること以外は、何もされていない。それが最高にすばらしい。原始の森は、生気に溢れている。その中を歩いていると、自然にエネルギーが充電される。彼女も徐々に元気になっていった。最初の感じでは、こんなに歩けるとは思わなかった。彼女は、デジカメを持ってきていた。しかし、それを使う余裕がなかった。歩くだけで精一杯。やっと、仏陀杉でデジカメを取りだす余裕が出てきた。彼女は、水も飲めなかったらしい。普段は何を飲んでいるの?白湯(さゆ)。さゆーか。時々、オヤジギャグが出たが、けっこう乗ってくれた。乗ってくれると、止まらなくなる。楽しい!ほとんど自作自演の世界。彼女は、屋久島の水は飲めた。それも、美味しく飲めた。水が違う。心身を浄める水。ヤクスギランドから車で帰る途中、森の水を汲んだ。2リットルのペットボトル一本を彼女にプレゼント。これを飲めば、心身に溜まっていたものが洗い浄められる。細胞レベルからリフレッシュされるだろう。森を歩いている時、吊り橋に出ると、小さな霧のような雨が降っていた。時々は、太陽も出ていた。この状態だと虹が出るのだが・・・森のなかでは見れない。車に乗った後も、霧のような雨は降り続いていた。太陽も顔を出している。虹が出てもいいのだが・・・すると、彼女が叫んだ。助手席の向こうの谷に、大きな虹が架かっていた。さっそく車を止める。久しぶりに見る虹。谷から山に上がっている。彼女は、大興奮。こんな虹は見たことがないらしい。そもそも虹は見なかったとのこと。ここ2年間ほど虹を意識していたらしい。それでも、見たのは3回ほど。しかも、薄くて小さな虹。こんな本格的な虹は生まれて初めて。確かに、稀に見る色の濃い虹。しかも、バックが山なので、はっきりクッキリ。これはこれは・・・屋久島でも、そんなに見れないレベルの虹。これだけ濃いものは少ない。彼女は、感動しまくり。こちらは、写真を撮りまくり。更に下っても虹は出ていた。何度も何度も車を止めて虹を見る。下に行くに従って、虹はスケールを増していった。やがて、山を越え海に至る虹になった。すばらしい!ブラボー!虹は、彼女の未来を祝福しているのだろうか。それとも、屋久島が喜んでいるのだろうか。なにしろすばらしい虹。思わぬハプニング。里の方まで下ると、もう虹は出ていなかった。山の中腹にあった虹。虹が消えた頃、彼女は疲れ果てていた。興奮すると疲れるらしい。気軽に興奮もできないの?ハー、信じられない!たいへんだね。理解を超えた体の弱さ。森での疲れを癒すために楠川温泉に行く。あまり混んではいなかった。ゆっくり温まる。帰りの車のなかで、彼女のホッペはピンク色だった。こうして、屋久島での三日目が終わった。かなり元気になっている。しかし、また揺り戻しがあるだろう。なにしろ長年溜め込んできたものがある。これから薄皮を剥ぐように元気になっていくだろう。もう何回か屋久島に来ればいい。いっそのこと屋久島に住んだら?そうすれば、間違いなく健康になる。毎日、森へ行く。時々は、海にも行く。たまには、滝にも入る。夏は、川で遊ぶ。澄んだ空気と、美味しい水。満天の星と、天の川。山には雪が降り、海では熱帯魚が泳ぐ。ここにいたら元気になるしかない。屋久島は、いのちの島。いのちが湧き出す島。毎日、温泉に入ればいい・・・これが昨日、1月23日の出来事。『屋久島の 森を歩けば それだけで いのちが満ちる 何もせずとも』『森のなか 歩けばいのち 流れ込む 木々のいのちが 苔のいのちが』『屋久島の 森を育(はぐく)む エネルギー 人の命も 満たしてくれる』『太古から 森に流れる エネルギー ふれれば人も また蘇る』これが日記を書き始めて1118日目の心境。
2008.01.24
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人生は選択!とは、よく聞く言葉。はたしてそうだろうか。そもそも選択とは、どういうことだろうか。人は何を基準に選択するのだろうか。自分にとってプラスになりそうな方?大多数の人は、そうだろう。では、自分にとってのプラスとは、どういうことだろうか。自分にとって得になることだろうか。自分にとって都合のよいことだろうか。自分が嬉しくなることだろうか。自分が幸せになることだろうか。しかし、何が自分にとっての得だろうか。どういうことが自分にとって都合がいいのだろうか。自分が嬉しくなるのは、どういう時だろうか。自分にとっての幸せとは何だろうか。人生万事塞翁が馬。何が自分の得になるか、幸せになるかわからない。今は都合がよくても、次の瞬間は同じことが都合が悪くなるかもしれない。今は嬉しくても、状況が変われば悲しくなるかもしれない。そもそも、自分にとっての得や都合や、嬉しさや幸せとは何だろうか。それは一定不変のものだろうか。それとも可変的なものだろうか。それらが一生変わらない人はいないはずだ。それでは、人は可変的なものを基準に選択しているのだろうか。いつ変わるかもしれない価値基準を元に選択しているのだろうか。その選択が自分の得になるという保証があるのだろうか。もちろん、そのような保証はない。単なる予測に過ぎない。人は、単なる予測に過ぎないもので自分の人生を選択しているのだろうか。それでは、博打(ばくち)?それとも、確率?人は、自分の過去の経験から選択しているのだろうか。親から躾けられたことや学校で習ったこと。先輩や同僚から聞いたこと。本から学んだこと。社会通念や一般常識。マスコミの情報。自分が実際に体験したこと。いずれも過去のデータ。人は、過去ベースで人生を選択しているのだろうか。過去ベースで未来を決めているのだろうか。いや、未来からのメッセージで決めている、と言う人もいるかもしれない。特に精神世界系の人には多そうなパターン。しかし、そのチャネリングや直感とやらも、本当に正しいという保証はあるのだろうか。もちろん、ありはしない。ただ、評判がいいとか、これまではよく当たったとかいうこと。いずれも過去のデータ。未来からのメッセージのはずが、その根拠になっているのは過去からのデータ。やはり過去ベースで選択していることに変わりはない。人は、過去以外に選択の基準を持たない。それが思考人間の限界。思考とは、比較。過去のデーターの比較による判断。データーがなければ、何もできない。ある程度の記憶量がないと、思考力そのものが成り立たない。それは同時にコンピューターの限界でもある。コンピューターも過去ベースでできている。過去のデータから何事も予測しているに過ぎない。データがなければ、何もできない。思考ベースで生きる限り、人は過去に縛られる。古いもので新しい選択をしているに過ぎない。古くなって汚れているものと新しいものとを一緒に洗濯したら?もちろん、新しいものまで汚れてしまう。新しいものは、新しい革袋に入れる必要がある。では、そのためにはどうすればいいのだろうか。オッと、これ以上書くのはやめておこう。ホームワークをしたいとのリクエストがあったので。ホームワークのテーマは、「過去ベースを用いない意思決定は可能だろうか」かなり難しい?かもしれない。なにしろ3年間も学んできたのだから。少しぐらいは進歩したのでは?まあ、感じるままを書いてください。誰でもわかる文章でお願いします。締切は、1月28日(月曜日)午前7時にしましょうか。掲示板の方に書き込んでください。誰でも参加できます。久しぶりのホームワークですね。『選択と 言えば聞こえは よいけれど どちらが得か 比較するだけ』『選択の 奥にあるのは 自我の種 自分の得に なる場所(とこ)探す』『選択の 元になるのは 過去のこと 過去につくった 自己の価値観』『目の前の ことを昔の データーで 選択すれば 道を誤る』『データーが なければ何も できぬもの コンピューターは 過去の産物』『このままで 推移するなら こうなると 過去のデーター 基に言うだけ』『予測する 基になるのは 過去ベース 未来予測は 当てにならない』『過去にない ことが起きれば これまでの コンピューターは 役に立たない』『できること できないことの 限界を 理解しながら 思考を使う』『真実は 思考を超えて いることを 思考人間 気づくことなし』これが日記を書き始めて1117日目の心境。
2008.01.23
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今日は、満月。「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPでは、水晶祭りが始まっている。今回は、水瓶座の水晶祭り。水瓶座にふさわしい水晶が、たくさん出ている。今回は、24組の水晶たちが登場する。水瓶座の水晶祭りにふさわしく、クリアーな水晶が多い。透明感にあふれ、透き通るように美しい。特にガネーシュヒマールの美しいものが目立つ。アーカンソーやブラジルの水晶も、スペシャル透明なものがある。アクエリアスの時代とは、透明な英知の時代。それにふさわしいダンビュライトもかなり出ている。こちらは、霊性と理性の融合。今回の特徴は、もう一つある。大きな水晶が出ていること。17cmと18cmのポイントが登場する。いずれも、すばらしい水晶。17cmの方は、ガネーシュヒマール。しかも、緑泥石がついたクローライトタイプ。この大きさにもかかわらず、透明感にあふれている。これだけの水晶は、最近ではほとんど見かけない。大きなヒマラヤ水晶は、濁っているものが多い。透明で大きなヒマラヤ水晶というのは、まずない。まして、クローライトタイプは、産出が激減している。最近は10cmを超えるものさえ、あまり見かけない。これだけ大きくて透明感のあるものは、これから出るかどうかわからない。出たとしても、ものすごい価格だろう。10万円を下ることはないはずだ。まず、ほとんど出ない。このガネーシュヒマールは、2007年のkimi宅を支えた水晶。一年間、よく働いてくれた。すばらしい宇宙のエネルギーをチャージしてくれた。記念に永久保存にしてもいいのだが・・・しかし、それをすると水晶が死んでしまう。水晶を私物化することになる。水晶は、地球のもの。みんなの宝。やはり、必要としている人に回すべきだろう。まだまだ十分働ける。まだまだ多くの人の役に立つ。死蔵してはもったいない。そういうわけで、今回の水晶祭りに登場することになった。屋久島での役割を終え、新しいところへ旅立つ。屋久島とkimi宅のエネルギーをいっぱい詰めて。さて、どこへ行くのだろうか。18cmのポイントの方は、鏡のように美しい。まさに水瓶座にぴったし。もしかしたら磨いてある?と思ってしまう。原石ということで購入したが、あまりにも美し過ぎる。もしかしたらファセット(垂面)の一部が、研磨されているかもしれない。それほど美しい。一目見てハッとするくらいの透明感。これだけ大きくて、これだけ美しい水晶も珍しいような気がする。本当に透き通るように透明。この水晶を見ていると、自分に嘘はつけなくなる。自分を映す鏡のような水晶。ガネーシュヒマールでは、もう一つ大きなものが出ている。こちらは、高さが12cm。透明感に優れ、高いクオリティを秘めている。なによりも海抜7000mを超えるところで採れたというから、すごい。海抜7000mというのは、日本ではない高さ。空気も薄い。宇宙空間に近い。この透明感には、宇宙のエネルギーが詰まっている感じ。透明感のクオリティが違う。写真ではわかりにくいが、ものすごい透明感の質がある。ヒマラヤ水晶のエッセンスというような感じ。トップの方はクローライトに覆われているが、中は透明そのもの。この他に、ローズクオーツの結晶やブルートルマリンも登場する。ローズクオーツの結晶は、色は薄めだが透明感がある。価格の割には美しい。間違いなく抽選になるだろう。ローズクオーツは、女性に人気がある。そのやさしさとやわらかさは、女性性そのもの。見ているだけで心が和む。ローズクオーツは、これからも毎回登場させたいと思っている。しかし、ステキなローズクオーツを手に入れるのは、簡単なことではない。透明で色の濃いものは極めて少ない。毎日毎日、いくつものサイトをチェックしている。それでも、なかなか見つからない。ブルートルマリンの結晶は、珍しい。あまり日本では見かけない。カラーのトルマリンの結晶は、価格が高い。そんなに簡単に買えるレベルではない。今回のブルートルマリンは、結晶がしっかりしている。色は濃い目。縦の条線が美しい。価格は、これでもかなり割安。写真は、あまり美しくは撮れなかった。実物の方が、明らかに美しい。きれいなカラーのトルマリンの結晶は少ない。ガラス質の貴重な結晶と言える。ブラジル産のピンクの水晶も2個出ている。これは透明感があって美しい。透明感のあるピンクの水晶は、滅多に見かけない。ローズクオーツとは、また違うピンクの色。タンジェリンクオーツに近いかもしれない。ピンクというより、オレンジ色だろうか。淡い紅色とも言える。なにしろ美しい。ピンクと言えば、インドのクル・マナリのヒマラヤ水晶もある。こちらも淡いピンク色をしている。形も美しく整っている。端正で誠実な感じのクラスター。ヒマラヤ水晶では、カンチェンジェンガやアンナプルナのものも出ている。今回は、なにしろ透明感のあるものが多い。こんなにクオリティの高いものが集中して出たことはないだろう。それほど粒ぞろい。最後に、もう一つ。ハニークオーツという、日本にはあまり入っていないもの。シトリン系だが、色がハチミツ色をしている。ブラジルでは、グリーンクオーツとも呼ばれる。ヨーロッパで人気があるらしい。この水晶の特徴は、レインボーがたくさん出ること。数えきれないほどの虹が出る。それは昼間の自然光でも見えるほど。夜になって電気を点ければ、すごいことになる。豪華絢爛。派手な虹がたくさん現れる。これを見ていると元気になるしかない。レインボーの出る水晶もたくさん見てきたが、これだけパワフルなのは珍しい。謙虚な虹ではなく、映画スターのような派手な虹。スポットライトを浴びるような虹。いろんな水晶があるもの。今回は、すべて自然光で撮影した。明るい曇りの日に、室内で撮った。直射日光に当たっていないので、派手さはない。日常の水晶の姿に近い。強い光が当たれば、何倍も美しくなる。実物は、写真よりも美しい。今回は控えめに写真を撮ってあるので、気が楽。届いた時のお楽しみ!今回も抽選になるものが多いかもしれない。ほしいものが手に入らないというのは、心苦しいものがある。でも、リクエストが集中すれば、しかたがない。最も波動の合う人のところへ行くしかない。今回はクオリティが高いので、これまでよりも価格は少し高めかもしれない。しかし、それに見合うクオリティは確保されている写真以上に美しいものが多い。実物を見てのお楽しみ!『満月に なれば水晶 旅に出る ための祭りが 開催される』『嫁ぎゆく 水晶たちは 満月が 近づくにつれ 美しくなる』『美しく なって旅立つ 水晶の 姿見るたび 愛(いと)おしくなる』これが日記を書き始めて1116日目の心境。
2008.01.22
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朝11時過ぎに、書き込み常連のあとりさんを迎えに行く。今日から12日間、屋久島に滞在する。高速船ロケットには、15人ぐらいしか乗っていなかったらしい。港に着いた時には、一人だけポツンと待っていた。まず益救神社に行って、来島の挨拶。それから、永田いなか浜へ向かう。宮之浦の方は雨だったが、永田の方はほとんど降っていなかった。裸足になって波打ち際を歩く。海面には、ほとんど波は見えなかった。にもかかわらず、ものすごい勢いで波が押し寄せて来た。ぼんやりしていると、まくったズボンがびしょ濡れになるくらい。キャーキャー騒ぎながら逃げまくる。海水温は、ぜんぜん冷たくなかった。砂のなかに足を埋めた方が、外に出しているよりも暖かいぐらい。明らかに気温よりも水温の方が高かった。そのため、海水がかかる砂の温度も高くなっていた。1時間ぐらいはいただろうか。観光客の姿はなかった。風がほんの少し冷たい程度。真冬とは思えない雰囲気。広々とした海。どこまでも続く砂浜。そこを独占して、自由に動き回る。まるで子供にかえったような気分。裸足の足の裏が気持ちいい。あとりさんも気持ちよさそう。表情が活き活きとしている。かなり嬉しそう。こちらも自宅に引き籠り状態だったので、久しぶりに解放された感じ。やはり自然はいい。溜まっていたものが抜けていく。定期的に自然に触れるべきだと痛感する。いくら屋久島にいても、家に籠りっきりでは、やはり詰まってしまう。ましてパソコンの前に居続けると、かなりまいる。何と言っても自然はすごい。ただ脱帽するしかない。砂浜で遊んでいるだけで、心も体もスッキリ。とても軽やかになる。もう少し暖かかったら文句なしなのだが・・・それは贅沢というもの?とにかく詰まっていたものは一掃された。心身ともにスッキリさわやか。軽くなったところで、西部林道へ向かう。途中で思い出す。もしかしたら通行止め?冬場に道路工事をするので通行止めになると・・・しばらく行くと、通行止めの看板が出てきた。1月15日から通行止めになっていた。行けるところまで行ってみる。屋久島灯台のところで先に行けなくなった。せっかくなので屋久島灯台を見物。入口に猫がいた。この猫は野良ではなさそう。鳴きながら親しげに近づいてきた。毛並みもきれいなので飼い猫だろう。灯台で飼われているのだろうか。しばらく猫と遊ぶ。オスの猫で、こちらよりあとりさんの方が好みらしい。猫にモテてもしかたがないか。でも、彼女も嬉しそう。周りの景色を見ると、山の方は岩だらけ。露出したものもあれば、木々に覆われたものもある。巨大な岩の山。それが屋久島。やむを得ないので、屋久島灯台から引き返す。無農薬の野菜を求めるために、ふるさと市場と自然食品店に寄る。それから、豆腐が大好きとのことで、スーパーで屋久島の手作り豆腐を購入。これは昔ながらの手作りで、なかなか食べ甲斐がある。彼女は、豆腐と納豆がないと暮らせないとか。豆腐を2個も購入。屋久島は水がいいので、豆腐も美味い。屋久島にいる間に、せいぜいたくさん豆腐を食べてください!その後、宿の近くのパン屋や生協やスーパーを案内する。彼女は、滞在中は自炊する予定。車はないので、歩けるところを紹介する。宿から5~10分ぐらいで行けそう。こうして、あとりさんの屋久島が始まった。これからどうなっていくのか。毎日ガイドするわけではないので、詳細にはわからない。でも、時々はガイドする予定なので、変化はわかるかもしれない。彼女は、体を元気にするために屋久島へやって来た。12日間滞在して、どのような変化があるだろうか。できれば、毎日、尾之間温泉に入ってほしいのだが・・・体力的に無理らしい。そうなると、森や海へ行って、自然に浸るのが一番いいだろうか。それも毎日は体力が許さない様子。体調を見ながら、調整していくしかない。そのうちに、こちらの家の水晶も見たいとのこと。天気が良いといいのだが。こればかりは何とも言えない。今日に限って言えば、雨だったけれども寒くはなかった。暖かい日が続くといいのだが・・・『打ち寄せる 波の飛沫(しぶき)を 浴びながら 裸足になって 砂浜走る』『足跡を いくら付けても 大波が 砂を洗えば 旧(もと)の木阿弥』『砂浜で 裸足になって 遊ぶ時 子供心が フツフツと沸く』『打ち寄せる マリンブルーの 波の色 砂に砕けて 真っ白になる』これが日記を書き始めて1115日目の心境。
2008.01.21
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タマネギの皮をむいていく。一枚一枚むいていく。そうすると、最後はどうなるだろうか。最後は、何もなくなってしまう。人の意識も、それと似たようなものだろうか。自己同一化を外していく。自分は、肉体。自分は、男や女。自分は、日本人。自分は、自分の名前。自分は、夫や妻。自分は、父親や母親。自分は、息子や娘。自分は、兄や弟。自分は、姉や妹。自分は、一家の大黒柱。自分は、会社の社長。自分は、サラリーマン。自分は、頭が良い。自分は、才能がない。自分は、ハンサム。自分は、醜い。自分は、スリム。自分は、太っている。自分は、優秀。自分は、普通。自分は、リッチ。自分は、プアー。自分は、誇り高い。自分は、惨め。自分は、リーダー。自分は、被害者。自分は、立派な人間。自分は、つまらない人間。自分は、幸せ。自分は、不幸。自分は、みんなから慕われている。自分は、孤独。自分には、夢がある。自分には、夢も希望もない。自分は、何々・・・自分は、自分は・・・自分は、規定したもの。自分は、自分が自己同一化したもの。たとえば、タマネギの二枚目と自己同一化すれば、美しくハンサムな自分となる。三枚目と自己同一化すれば、お笑い系のキャラとなる。自分は、自分が自己同一化したもの。それ以外の自分は、いない。客観的な自分はいないの?身長175cm、体重60kg。それが自分?しかし、身長も体重も変化する。顔つきさえ変わってしまう。経歴も変化する。家族関係さえ一定ではない。心の状態も、どんどん変化していく。自分とは?一定不変の自分がいるだろうか。それとも、単なるイメージだろうか。自分が自分と思っているものが、自分に過ぎないのだろうか。タマネギの皮の何枚目にフォーカスするか。いちばん内側は、肉体だろうか。自分は、肉体?そう思えば、肉体人間になってしまう。タマネギの真ん中あたりにフォーカスすれば?自分は、魂?そう思えば、魂人間にもなれる。どこにフォーカスするかで、意識の有様(ありよう)は異なる。それでは、タマネギの皮の外にフォーカスしたら?何もないところにフォーカスしたら?自分は、消えてしまう。自分は、何でもなくなる。フォーカスする、自己同一化するということは、自己限定するということ。男と決めつけてしまえば、男になる。女と決めつけてしまえば、女になる。なに?肉体的には決まっている?最近は、そうとも言えない。性同一性障害で、性転換する人もいる。肉体と精神が同じとは限らない。肉体は男性でも、精神は女性の場合もある。もちろん、逆の場合もある。意識の有様は、可変的。自分が思っているところのもの。そもそも男とは何?男の定義は、百人百様。強いのが男と思っている人もいる。やさしいのが真の男と思っている人もいる。女の定義も、人それぞれ。女らしい女と言っても、人によってイメージは異なる。日本と外国でも、男女のイメージは違う。役割分担も異なり、それに応じて男女のイメージも違ってくる。自分が思う男性性であり、自分が思う女性性に過ぎない。客観的なものはない。自分を男らしいと思っているか、女らしいと思っているか・・・単なる思い込み。自分とは、自分が思っているところのもの。自分が自分はこういうものだと思い込んでいるのが、自分に過ぎない。それ以外の自分はいない。ただの思い込み。それをカッコよく言えば、自己同一化とも言う。更にカッコを付けると、何かにフォーカスしていると言うこともできる。しかし、ぶっちゃけた話、思い込んでいるだけ。それ以外の自分は、存在しない。神の一人子?魂?輪廻転生する永遠の命?そうだろうか。聖書では、原罪を背負った罪深き者ということになっている。自分を何と規定するか。ただそれだけのこと。自己同一化とは、自己限定の別の言い方。自分で自分を規定しているだけ。自分で自分を制限しているだけ。自分を男と限定し、自分を女と限定する。そういうものを外せば、自分は男でも女でもない。自分を日本人と規定し、在日朝鮮人と規定する。しかし、両親の国籍が別々であれば、そういうものは曖昧になる。白人と黒人の両親から生まれれば、自分は何人?海外を転々としていれば、自分は何国人?自分が自分を規定しているだけ。今年で33歳?厄年?それも自分で自分を規定しているだけ。単なる肉体の、この世における経過年数。何歳であろうと、肉体の状態は個人によって千差万別。年齢というのは、ほとんど意味をなさない。厄年も、外国人には意味がない。ただ年齢相応の自分と思い込んでいるだけ。みんなが厄年と騒ぐから、その気になっているだけ。魂に厄年などある?自分を魂と思い込んでいる人が、今年は厄年と言うのもヘンな話。タマネギの皮むきをすると、最後には皮はなくなってしまう。自己同一化を外していくと、最後には自分は消えてしまう。自分とは、何?それは、自分が自己同一化しているものに他ならない。つまり、自分と思い込んでいるものが、自分。それ以外の自分は、いない。自分とは、単なる思い込み。単なるイメージ。あるイメージにフォーカスしているだけ。特定のイメージを自分自身と思い込んでいるだけ。自分とは、自分が自分と思っているもの。自分が決める自分の姿。自分はこういうものだと決めつけてしまえば、そういうものになってしまう。自己限定が、自分と言うもの。自己限定とは、自分に枠をはめて制限すること。自分で自分を縛ること。自己限定を外せば、自分は今の自分ではなくなる。すべての自己限定を取り払えば、自分というものは消える。自分は、何?自分は、ない。自分がほしかったら、自己同一化して、自己限定すればいい。自分が規定したものが、自分自身というもの。自分がほしくなかったら、自己限定を外せばいい。そうすると、自分というものは消える。自分が消えても、意識がなくなるわけではない。色の付かない意識は残る。無色透明の意識はある。意識の原点は存在する。完全な自由と共に、意識は存在する。何かと自己同一化すれば、意識の完全な自由は消える。自己同一化したものに縛られる。自縄自縛。自分とは、自己限定。自分とは、自己制限。自分とは、自分で自分を規定すること。そして、規定した自分に縛られること。自分とは、イメージ。自分とは、思い込み。自分とは、自分でつくり出したもの。自分とは、自作自演。人は、自分に縛られて生きている。自分が規定した自分自身に縛られて不自由に生きている。自分のプライドが許さない?侮辱された?プライドという思い込みがなければ、侮辱されることもない。侮辱した人が悪い?それとも、プライドを持っている自分が悪い?どちらも悪くはない。悪いと思い込んでいるだけ。自分に対するイメージがあるから、傷ついたり、侮辱されたりする。特定のイメージとの自己同一化がなければ、傷つくことも侮辱されることもない。自分が自分をつくり出し、傷ついたり侮辱されたりしているだけのこと。すべて自作自演。そういうこともわからずに苦しんでいるだけ。その苦しみさえ自分でつくり出しているもの。自分はこういうものだという自己同一化がなければ、苦しみも生まれない。自己同一化や自己限定が、自分というものを狭く小さくしている。それが自分自身を不自由にし、苦しめている。そのカラクリに気づくことだろうか。理解されれば、束縛は外れる。自分を規定すればするほど、不自由になる。自己限定が多ければ多いほど、身動きが取れない。何も自己同一化がなければ、自由そのもの。自分がないのが、一番自由。自我とは、自己同一化。自我とは、自己同一化したものをベースに生きること。自分というイメージ。自分というイメージの生が、自我の生。自分が規定した自分にこだわって生きるのが、自我の生。自縄自縛であり自作自演。そのメカニズムを理解することだろうか。理解しない限り、自我という枠のなかで苦しむことになる。その苦しみも、また自作自演。自分で自分の尻尾(しっぽ)を追いかけまわしている犬のようなもの。空回りしているだけ。虚しい空回り。もうそろそろ自我の生を卒業してもいい時期。理解してクリアーする。リセットして生き直す。自由に生き直す。『自我という 枠に縛られ 不自由に 生きているのが 今の人類』『自我という 皮をどんどん 剥がす時 最後に残る 意識は無色』『何かとの 自己同一化 外したら 後には何も 残りはしない』『自分とは イメージであり 思い込み 何かと一つに なっているだけ』『掴んでる 手を放したら 何もない 自我というのは 仮初(かりそめ)のもの』『自我という 皮を剥いたら 最後には 何も残らず 自我は消滅』『掴んでる ものこそ自分 手放せば 自分自身も 消えてなくなる』『鳥籠に 自分自身を 閉じ込めて 出たい出たいと 鳴く(泣く)ホトトギス』『鳥籠は 自分自身で 作りあげ 自分自身を 入れているだけ』『鳥籠と 知らずに作り 気がつけば 自分自身が 鳥籠の中』『自我という 鳥籠作り 鳥籠を 自分自身と 思う愚かさ』『鳥籠を 自分自身と 思い込み 自由に空を 飛べない小鳥』『鳥籠の 素材は記憶 記憶こそ 自分自身の 構成要素』『事故に遭い 記憶なくせば その時に 自分自身も 同時に消える』『鳥籠を 直視する時 鳥籠は 夢幻の ごとく消えゆく』これが日記を書き始めて1114日目の心境。
2008.01.20
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0と1。この差が・・・差と言えるかどうか。天と地ほど違う。本質的に異なる。根源的に異なる。この宇宙の成り立ちを表している。真理の真理を表している。ゼロとは、数字以前。数のない世界。何もない世界。つまり、空の世界。イチとは、数の世界。有限の世界。数えられる世界。手に取ることのできる世界。0は、空。1は、色。0は、無限。1は、有限。0は、何もない世界。逆に言うと、すべてがある世界。1の元の世界。1を生み出す世界。1は、色彩の世界。目に見える世界。違いがある世界。いろいろの差異を楽しめる世界。0は、レイ。レイは、零。零は、霊。すべてのすべて。0は、空。何もない世界。ただ意識がある世界。色のない意識。1は、目に見える世界の始まり。どんどん増えていく世界。創造の世界。宇宙創造の世界。0は、すべてに浸透し、すべてを包み込む。0は、すべてを静かに見守る。1は、すべてを創造する。1は、生きた宇宙を創り上げる。0と1は、同時に存在する。人は、その両方を持っている。右手と左手に持っている。両足を片方ずつに置いている。人は、アクティブ。動物だから。しかし、それだけではない。動物ではないから。人は、動であり、静である。人は、創造し、見守る。人は、行動し、瞑想する。人は、1であり、0である。人は、一つであり、ひとつである。一つとは、1。ひとつとは、0。1個の人間であり、無限の霊でもある。宇宙は、ひとつ。唯一絶対。神も、ひとつ。オンリーワン。しかし、人は、たくさんいる。人は、神の分け御霊。人は、霊止。個々の肉体に止まる霊。現実を創造し、見守る。それが色と空。人と神。1と0。有限と無限。部分と全体。一つとひとつ。この世の構造。この世界は、0と1から始まる数でできている。有限の世界が、無限の世界のなかで展開する。色鮮やかな色が、空のなかで舞う。漆黒の闇に美しい星が、きらめく。人は、行動する。人は、創造する。しかし、見守ることを忘れないように。色だけでは片手落ち。部分だけでは、全体を見失う。全体がわかっていないと、やがて虚しくなる。本質を理解していないと、空中分解してしまう。目に見える世界だけに偏ったバベルの塔は、やがて崩壊する。人は、自分自身であり、自分を見守るものでもある。人は、創造するものであり、創造を見守るものでもある。人は、部分であり、全体でもある。人は、有限であり、無限でもある。自分の本質を理解し、本質と共に生きる。1の世界を、0の意識で生きる。極色彩の世界を、無色の意識で見守る。すべてのものに、無色透明の意識が浸透している。人は、やがて気づくだろう。自分が、宇宙であることに。色と空は、同じであることに。創造するものは、見守るものに他ならないことに。すべてはひとつであり、ひとつがすべてである。始まりも終わりもなく、始めからすべてがある。自分はひとつであり、宇宙もひとつである。自分も宇宙もない。ただ静かさがあり、そのなかで動きがある。静寂のなかに活動がある。夜明けのしじまのなかで鳥が鳴く。暗い宇宙のなかで新しい星が誕生する。人は、0であり1である。人は、霊であり肉である。人は、有限であり無限である。人は、色であり空である。人は、今であり永遠である。人は、現実創造であり見守りである。人は、主体であり客体である。人は、人であり神である。『静寂の しじまを破り 鳥が鳴く 空から色へ 宇宙始まる』『漆黒の 宇宙のなかで 鮮やかな 新しき星 今日も生まれる』『永遠の なかに時間を 刻み込み 極彩色の 機(はた)織りあげる』『目に見える 色の源 空にあり 色に見えるは 空の幻』『創り出す 世界はすぐに 消えていく 空が織りなす 色の幻』『色という 固定したもの ありはせぬ 空が織りなす 一場の夢』『一場の 夢の幻 人の世は 空が織りなす 色の彩(あや)どり』『過ぎていく 夢の世界に こだわれば 苦しみという 夢が生まれる』『消えてゆく 無常の夢を 追いかけず 新しき夢 創り楽しむ』『夢なれど 夢を追いかけ 夢を見て 夢の世界で 夢を楽しむ』『ひとときを 止めて浸って 楽しんで また新しき 夢を創造』『お互いに 新しきもの 創造し 人生創造 楽しく暮らす』『本質が わかれば無駄に 争って 骨身を削る こともないのに』『新しき ものを創って 楽しんで 現実創造 見守りながら』これが日記を書き始めて1113日目の心境。* 本当は、この日記を1111日目の記念の日記にしようと思っていたのですが・・・ 1111日目の時点では、まだこの日記は書けていなくて、モチーフだけが明確でした。「透明な意識の時代」が先に書けてしまったので、こちらもアクエリアス時代の本質なので、流れのままにアップしました。
2008.01.19
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寒い屋久島が続いている。早く春になってほしいと思う。しかし、寒いと良いこともある。それは、頭がクリアーなこと。暑いとクリアーさを維持するのは、たいへん。しかし、寒いと自然にクリアーになる。但し、暖房を入れないことが条件。ヒーターを入れると、即座に頭のクリアーさは消えてしまう。水瓶座の水晶祭りが近づいている。準備は、ほぼ完了。写真も文章もできた。後は、22日の満月を待つだけ。ここのところ、水晶を少しだけ買っている。冬場は、あまり良いものが出ない。それに収入もない。幸か不幸か、ちょうどよくできている。もっとも、買いたいものが全然ないわけではない。以前からあるもので高価で手が出ないものが、いくつかある。みんな買ったら70~80万円にもなってしまう。そんな余裕はない。夏場になってリッチになったら、少しは買うかもしれない。しかし、高いものは面白みに欠ける。お金さえあれば、誰でも買える。それでは興ざめ。安くてクオリティの高いもの。つまり、掘り出し物を見つけるのが一番楽しい。たまに大当たりがある。しかし、外れることも多い。ごく稀に、超掘り出し物がある。それは誰からも振り向かれずに眠っていたもの。丹念に探すと、稀にそういうものにぶつかる。しかし、そういうものは滅多にない。売れ残っているものは、これでは売れないと納得するようなものが多い。良いものは、すぐに売れてしまう。掘り出し物は、ほとんどない。それでも、たまにどうしてこれが残っているの?というようなものもある。そういうものを見つけた時は、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)。飛び跳ねたくなるくらい嬉しい。稀には、そういうこともある。幸運か天の恵みか・・・来た当初は感動したものも、やがて興奮も色褪せていく。そうなると、旅立ちの時。また別のところで興奮を与える時。こちらとは静かに別れる時。地球に来て、多くの水晶に出会えて幸せ。地球に来て、多くの人と一緒にドラマを演じられて、この上ない喜び。地球での暮らしは、悪くはない。試行錯誤を重ね、多くのことを学んだ。もう旅立ちの時が、そんなに遠くはない。水晶だけでなく、自分も旅立つ。もう少ししたら、物質地球の束縛が外れる。地球から出入り自由になる。と言っても、まだ数年は残っている。右半身はフリーだが、左半身が地球に縛りつけられている。これが完全に解けるには、最低でも4~5年はかかりそう。アセンションは、なんとか見届けられるだろう。せっかく今の時代に生まれたのだから、クライマックスまでは地球にいたい。生きている間に、日記や写真も本になるだろうか。そういう楽しみもある。あと数年は地球暮らしを楽しめそう。やがて、意識も肉体も自由になる。自由に行きたいところへ行けるようになる。物質の重圧から解放される。意識は大気圏外へと広がる。そういう日は、近い。そんなに遠い先のことではない。それも楽しみ。今も楽しい。美しい水晶たちに囲まれて、幸せに暮らしている。いろんな人との出会いも楽しい。夢のような地球暮らしが続いている。屋久島という、いのちの島で続いている。『金がない 時はじっくり 時間かけ 掘り出し物を 探す楽しみ』『丁寧に 時間をかけて 探す時 忘れられてた 宝に出会う』『水晶も 出会いと別れ 様々な ドラマつくって 地球旅する』『水晶と 出会えたことは 地球での 旅の途中の 七色の虹』『地球での 出会いと別れ 水晶は 闇にきらめく 旅の宝石』『水晶の 透明感は 新しい 意識を開く サポートになる』これが日記を書き始めて1112日目の心境。* 「1111日目 - 透明な意識の時代」も同時にアップしました。
2008.01.18
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「1108日目 - 自他共に」に、次のようなコメントがあった。悪いけれども、またネタにさせてもらう。美味しい鮨ができるだろうか。「私は今世、思いっきり物質的価値観人間なのです。このさきもこれからも。だから少なからずKimiさんの日記には違和感を感じるのです。」物質的価値観人間?このさきもこれからも?そういう人が、どうしてこの日記を読むのだろうか。それが不思議でならない。別に日記を読んではいけないということではない。日記を読むのもコメントを書くのも、まったく自由。何の問題もない。でも・・・どうして、このさきもこれからも物質的価値観人間と決めつけてしまうのだろうか。どうして未来を不確定にしておかないのだろうか。どうして自ら限定してしまうのだろうか。決めつけてしまえば、それ以上にはなりようがない。先のことはわからない。それが本当のところだろう。ただ自分で思い込んでいるだけ。それが真実ではないだろうか。物質的価値観オンリー人間が、この日記を読むだろうか。表面意識はともかく、潜在意識はどうだろう?完璧に物質的価値観人間だったら、たぶんこの日記を読むことはないだろう。少なくとも潜在意識レベルでは、何か別のものを求めているのかもしれない。このさきもこれからも物質的価値観人間で生きることは・・・ものすごいことだとわかっているのだろうか。もしわかっていて、そのつもりだったら脱帽するしかない。すごい!ちょっとやそっとのパワーでは、このさきもこれからも物質的価値観人間でいることはできない。このさきもこれからも物質的価値観人間でいるためには、相当のエネルギーを必要とする。なんとなく燃費の悪い車みたいな感じだろうか。そのエネルギー消費量は並大抵ではない。肉体、感情、思考ベースの世界へ、もう戻りたいとは思わない。あのドロドロ・ネチネチの世界へリターンするなんて、思っただけでゾッとする。そういうなかに、これからもこの先もいたいのだろうか。信じられない?としか言いようがない。もう後戻りできないところまで来てしまった。あの重たい世界へは戻れない。あの湿気に満ちた世界に戻りたいとは思わない。あのジメジメ・ジトジトには、もうウンザリ。想いの世界。感情の世界。思い込みの世界。クリアーさのない世界。そういう時代もあった。もう遠い遠い昔のような・・・これから更に遠のくばかり。離れていくばかり。そういう世界に、これからも浸っていたいのだろうか。そういう人もいないことはないかもしれない。これまでの惰性。新しく生き直せない人たち。それも否定はしない。それぞれの人生。選択権は、各人にある。こちらが介入することはできない。しかし、しかし・・・なにもこれからわざわざ重たい生き方をしなくても?もっと軽やかに生きれるのに。もっとさわやかに生きれるものを。別にどのように生きようと、それぞれの自由。こちらがとやかく言うことではない。それはわかっている。でも、でも・・・時代に逆行する生き方は、苦しい。だんだん辛くなる。やがて身動きが取れなくなる。時代に取り残される。それをわかって選択しているのだろうか。もちろん、わかってはいないだろう。わかっていたら選択しないだろう。無知?知らぬが仏?世俗のなかで生きているだけ?それが多数派の生き方?マスコミの餌食?軽やかに、さわやかに生きる時代。新しい意識で生きる時代。感情や思考を超えた意識で生きる時代。透き通るようなクリアーな意識で生きる時代。そういう時代が、目の前に迫っている。にもかかわらず、古い生き方に固執する人もいる。若い人はともかく、中高年を過ぎると新しく生き直すのは難しい。それはわかっているのだが・・・何のために日記を書き続けているのだろうか。何のために日記を読んでいるのだろうか。まさか時間つぶしではないだろう。そうであるならば、気づいてほしい。できれば、気づいていただきたい。新しい時代の到来に。新しい生き方に。そのために日記を書いているのだから。それは、こちらの希望。あくまで希望。気づくかどうかは、読んでいる一人一人の問題。こちらは、ひたすら書くしかない。もっと楽に、楽しく生きることができる。自分自身を理解すれば、そういう道が開ける。自分自身を理解するなかで、新しい意識が目覚める。それが新しい時代をもたらす。透明な英知の時代。透き通るようなクリアーな意識の時代。それは間違いなくやって来る。間違いなく・・・『感情や 思考の渦に 呑み込まれ 混乱のなか 生きてきた過去』『ごちゃごちゃと 考え過ぎや 想い過ぎ 頭のなかを 整理する時』『感情や 想い乗せない 純粋な 意識ベースで 生きる時代に』『透明な 意識すべてに 浸透し 古い地球を 洗い浄める』『透明な 意識が次の 新しい 時代を拓く 思いを超えて』『考える ことではなくて そのままを 見通すことで わかる時代に』『新しい 時代を拓く 日記書く 日記書くたび 意識が変わる』『真剣に 読めば日記の エネルギー 受けて意識も 自然に変わる』『そのうちに わかる日もくる 今はまだ 物質的に 生きる人でも』『感情も 思考も超えて 透き通る 意識が次の 時代を拓く』これが日記を書き始めて1111日目の心境。
2008.01.17
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人は、浸る。喜びに浸る。悲しみに浸る。思い出に浸る。人は、何にでも浸りたがる。浸って、じっくり楽しみたがる。深く味わいたがる。いつまでも一緒にいたがる。美しいものに浸る。面白いものに浸る。楽しいものに浸る。怖いものに浸る。浸るとは・・・その雰囲気にのめり込むこと。その雰囲気に溺れること。その雰囲気とひとつになること。好きな人と一緒にいたがる。美味しいものを食べたがる。ステキなところへ行きたがる。気持ちのよいことをしたがる。同じことを何度もやりたがる。浸るとは、欲望?それとも、快楽?はたまた、悦楽?好みの音楽は、何度でも聞きたがる。好きな映画は、何度も見たがる。気に入った絵は、買ってまで見ようとする。好きな歌手のコンサートは、行列をしてでも見に行く。浸る、浸る…好きなことなら、何にでも浸る。ところが・・・好きでないことにも浸る?悲しみに浸る。さびしさに浸る。苦しみに浸る。自己憐憫(れんびん)に浸る。自分で自分を憐れむのが、自己憐憫。そんな哀れな自分に浸ることもないと思うのだが・・・どういうわけか、人は自己憐憫に浸りたがる。「私はダメな人間なんです!」本当はそんなことは思ってなくても、そう言いたがる。謙虚?予防線?捨てばち?可哀そうな自分に同情してほしい?こんなに弱い自分なんだから、多くを求めないで?こんな自分に誰がした?弱い自分を正当化?現実を直視できない?今を生きれない?勇気がない?甘えていたい?弱い自分になって、自分を守っている?弱い自分にして、何もしない自分を自己正当化?弱い自分に浸って、世間に反抗?弱い自分を演じて、やさしくしてほしい?弱い自分に浸るのも、それなりのメリットがある。何もしなくても、周りからとやかく言われない。怠惰な自分を正当化できる。弱い人を責めてはいけない!それは、病気自慢の世界と同類。私は、こんなにひどい病気なんだから。私は、こんなにたくさん病気があるんだから。私は、こんなに過酷な状況にいるんだから。マゾ?自虐?自分イジメ?被害者?家柄自慢。名誉自慢。財産自慢。学歴自慢。ポジティブであれネガティブであれ、自慢の種は尽きない。私は、私は・・・こんなにすごい!すごい自分に浸りまくる。浸るとは、自己同一化。それになりきること。自分が、それであること。つまり・・・演じていること。演じているのも忘れて、演じていること。浸りきっている。浸ったものになりきっている。いずれも自我の為せる業(わざ)。気に入ったものに浸る。浸ったものを自慢する。みんなそれをやっている。人は、浸る。何にでも浸る。陶酔する。自分が気に入ったものに陶酔する。恋愛に浸る人もいる。セックスに浸る人もいる。ファッションに浸る人もいる。山登りやダイビング・・・数えあげればキリがない。浸って楽しむ。別にそれが悪いわけではない。浸りたければ、浸ればいい。ただ・・・自分が何かに浸っているのを自覚しているかどうか。無自覚のまま浸っていると、自分を見失う。そのうちに自分が何をしているのかわからなくなる。浸りたければ、浸って味わい尽くせばいい。別に何も問題はない。但し、それを十分自覚しながら・・・自分が浸っていることを自覚しながら…無自覚のままに浸らないことだろうか。自分を見失わないことだろうか。ほんの少しだけ距離を置いて浸ることだろうか。浸っている自分を見守りながら浸ることだろうか。車に浸るのもいい。音楽に浸るのもいい。異性に浸るのもいい。但し、浸っているに過ぎないことを自覚しつつ・・・何でも経験すればいい。何でも浸ってみればいい。でも、浸っている自分を忘れないように。自分が浸っていることを忘却しないように。浸り過ぎて、そこから出られなくならないように。泥沼に足を取られないように。浸ったところで自分を見失わないように。いつでも出入り自由でいられるように。悲しみに浸ってもいい。さびしさに浸ってもいい。苦しさに浸ってもいい。でも、でも・・・それになりきって自分を見失わないように。競馬に浸ってもいい。酒に浸ってもいい。ドラッグに・・・?まあ、ほどほどに。ホントに抜けられなくなってしまう。出入り自由の自分でいられなくなってしまう。のめり込み過ぎると、自分をなくす。美味しいものを食べ過ぎると、太り過ぎて病気になる。スタイルを気にし過ぎると、拒食症になったりもする。みんな自分を見失った結果。浸り過ぎた結果。考え過ぎると、ノイローゼになる。想いの世界に浸り過ぎると、現実と幻想の区別がつかなくなる。挙句の果ては、犯罪者になってしまうことも。自分を見失えば、悲しい結果が待っている。何に浸ってもいい。何に浸っても、自分を見失わなければ。自分を見守りながら浸ること。自分を見守りながら楽しむことだろうか。『ある時は 弱い自分に なりきって 自己憐憫で 自分ごまかす』『気休めに 泣いて嘆いて 悲しんで 悲劇演じて 自分ごまかす』『変わらない ことがはっきり してるなら 事実認めて 生きるしかない』『認めたく ないから気づかぬ ふりをして 事実を避けて 自分ごまかす』『何かから 逃れるために また別の 何かに浸る 自分ごまかし』『ごまかして 生きても所詮 ウソは嘘 現実逃避 アルツハイマー』『イージーに 浸れば酒か パチンコか 難しいこと 努力必要』『努力して 浸っていれば 価値がある? 浸っているのに 変わりはしない』『おれはダメ! おれはスゴイ!と イメージの なかに浸って いるだけのこと』『ポジティブに 浸る日もある ネガティブに 浸る日もある 浸っているだけ』『財産や 地位や名誉に 浸るのは 依存している ことに過ぎない』『金持ちも 貧乏人も 同じこと ただイメージに 浸っているだけ』『イメージは 比較・相対 思い込み 自己同一化 している世界』『いろいろな ものに浸って 楽しんで 浸り過ぎては 悲嘆に暮れる』『オヤジギャグ 作った本人 満足し 自己陶酔の 世界に浸る』 (自分のこと?)『気に入った ものをつくって 浸ってる 子供も大人も 変わりはしない』『気に入った 歌手の歌声 聴きながら 歌の世界に 浸っているだけ』『同じこと 何度も何度も 繰り返す 子供の時と 変わりはしない』『いつまでも このままいたい 心地よい 世界のなかで 浸っていたい』『温泉に 浸っているのと 変わらない 心地よいので 浸っているだけ』『いつまでも 浸っていれば そのうちに のぼせて頭 ぼんやりとする』『心地よい 世界は永久(とわ)に 続かない 同じことでは つまらなくなる』『新しい 刺激求めて 心地よく 浸れるところ 探し求める』『浸るなら 心ゆくまで 浸ること ごまかさないで 素直に浸る』『浸りたい 時は浸れば いいけれど 自分忘れず 頃合いを見る』『楽しみも 悲しみ苦しみ 何であれ 浸り過ぎると 溺れてしまう』『気に入った ものに浸って なりきって 陶酔している ことも気づかず』『これまでは 酔って浸って なりきって 自己陶酔で この世を生きた』『これからは 浸りながらも そのことを 自覚しながら 生きていくこと』『いつまでも 浸っていれば 気がついた 時は手遅れ 途方に暮れる』『浸るのも 悪くはないが そのことを 自覚している ことがポイント』これが日記を書き始めて1110日目の心境。
2008.01.16
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すぐにムッとなる。すぐにカッとくる。すぐに反発するのは、自分のキャパシティが小さいから。逆に言うと、それだけ思い込みが激しいということ。表面は平静さを装って、内心はムカムカしている。気にしていることを言われると、すぐに反応する。気に入らないことを言われても、すぐに反発する。自分の見解が認められないと、心穏やかではない。人の話を聞いて、すぐに反応するのは、自分のなかに何かがあるから。自分の見解、自分のポリシー。自分のやり方、自分のパターン。自分の見方、自分の判断。自分の何かがあると、別の何かにすぐ反応する。自分のこだわり、自分のトラウマ。自分の信念、自分の信条。自分の生き方、自分の関わり方。自分流が多ければ多いほど、他人流といさかいが起きやすい。もちろん、自分流が多くても軋轢を生じない人もいる。そういう人は、他人流も認める人。自分流だけでなく、他人流も同時に認める。しかし、自分流へのこだわりが強過ぎると、他人流を認めたがらない。自分流が一番正しい。他人流は間違っている。自分流こそ、この世の正義。こだわりが多ければ多いほど、自我が強いとも言える。自我とは、自分流。自分、自分、自分・・・何でも自分。自分の思うようにしないと、気が済まない。別のやり方を認めない。頑なに自分流を守る。そういう人は、キャパシティが小さい。許容範囲が狭い。自分最優先。自己中心。そういう人は、ムカムカ、イライラの人生となる。自分のこだわりが多ければ多いほど、反発も多くなる。自分流にこだわる限り、周りとの軋轢は絶えない。自己中心的になると、キャパシティはどんどん小さくなる。キャパシティは、ほとんど許容範囲に比例する。自分へのこだわりの少なさとキャパシティは、正比例。自分流に反比例。それらを超えて、理解の深さに正比例。自他を深く理解すればするほど、キャパシティは大きくなる。思い込みは、キャパシティを小さくする。その最たるものが、宗教。妄信・狂信は、聞く耳を持たない。自分流の極み。深い理解が、キャパシティを大きくする。自他を深く理解することが、ありのままを認めることにつながる。狂信・妄信は、理解から最も遠い。思い込みは、ありのままを認めることができない。思い込みは、人を小さくする。人間関係をギクシャクさせ、流れを寸断する。思い込みが、人と人との絆を断ち切る。思い込みは、親子の愛情さえも切断する。キャパシティを大きくするには、いろんな経験をすること。そして、何事も深く理解すること。けっして信じ込まないこと。あくまで理解すること。理解が、大きなキャパシティへと導く。大きなキャパシティが、イライラやムカムカを一掃する。大きな人間になるためには、多くの経験をし、深く理解すること。それが人を包み込む大きなキャパシティをつくっていく。『ムカムカは 自分のなかの 思い込み 認められずに 反応している』『理解する ことがなければ キャパシティ 大きく育つ ことはあり得ぬ』『経験と 理解が人の キャパシティ 大きく深く 育ててくれる』『こだわりを 捨てて理解が 深まれば 大きく包む ようになるもの』これが日記を書き始めて1109日目の心境。
2008.01.15
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昨日の日記の『注意する時の注意』について、次のようなコメントがあった。「なにやら本日はとても人間らしい日記を胸に頂きまして、ありがとうございました。『注意する 時は相手を 肯定し 活かすつもりで 注意すること』これこれ、これがなければやっていけません。このぶん自分は殺してます。これがつらい。私はkimiさんと反対の生き方の方向性をせねばならぬので、スピリチュアルを活かしながら生活してまいりま~す。人間らしくがんばります。」このコメントのなかで気になるのは、「このぶん自分は殺してます。」というところ。相手を活かすために自分を殺す?そんなことをしていたら、そのうちに自分は死んでしまうかも?それでいいのだろうか。それでは、何のために相手を活かそうとしているのだろうか。本当に相手のため?それとも自分のため?自分の意向を聞いてもらうため?本当に相手のためなら、どうして自分を殺す必要があるのだろうか。地の自分を抑えて注意する?我慢して相手を活かそうとする?自分を殺してまで相手を活かそうとする?普通は、そんなことはしない。我慢したり自分を殺したりするのは、自分の都合のため。自分を守るため。本当は自分を活かすため。相手を活かして、自分は殺す?自分を殺して、相手に注意する?自分の本音を押し殺して、相手にやさしく言う?我慢して我慢して、丁寧に言う?そんなことをしていると、本当に自分が死んでしまう。そうでなかったら、そのうちにフラストレーションが爆発する。そうでなかったら、病気になってしまう。いずれにしても、我慢したものは、やがて別のものを破壊することになる。そんなことをしていても、あまり意味はない。そんなことをしても、本当の意味では相手は活きない。相手も自分も活きる。それが真に活かし合うこと。自分は我慢して、相手を優先する。相手は無視して、自分のしたいことをする。そんなことは昔から人類がやってきたこと。そんなことを今更わざわざ日記に書いても何の意味もない。自分も我慢しない。相手も無視しない。共に活かす。それが、これからの道。それこそが新しい生き方。調和につながる生き方。それが難しい。それこそが腕の見せどころ。我慢するのではなくて、自分を理解する。無視するのではなくて、相手を理解する。理解によって超えていく。自他をありのまま認めることによって超えていく。我慢は、あまりしない方がいい。我慢は、やがて自分の心身を壊す。そうでなかったら、周りが迷惑をこうむる。無理があるところ、どこかにとばっちりがいく。基本的には、生き方の問題。生きるスタンス。真に自他を活かそうとしているかどうか。相手だけを活かそうとしても、そういうことはあり得ない。相手を活かして自分を殺したのでは、人類のトータルとしてはプラス・マイナス・ゼロ。そんなことをしても、少しも世の中は良くならない。相手を活かし自分も活かす。それでこそ社会が変わる。それには、どうすればいいだろうか。それには、常に冷静に見守っている意識がいる。そうでなければ、自他を活かすことはできない。そんなに簡単なことではない。静かに自分を見つめ、周りを見つめて生きることだろうか。相手を理解し、自分を理解して生きることだろうか。そして、共に活かす道を探ることだろうか。試行錯誤の日々を過ごすことだろうか。大切なのは、自他を共に活かそうとする方向性。そのように生きたいと強く願う気持。そのように生きると決めること。それが、やがて自他共に活きる道へとつながる。自分のなかで、そういう意識が確立しない限り、結果はついてこない。まず決めること。そうすれば、結果は後からついてくる。決めるためには、深く理解すること。自他を共に活かすことが、真の道であることを。それのみが、すべての人が活きる道であることを。公式見解ではなく、自分自身のものとして真に自覚すること。そうすれば、人生が変わる。理解し、決意する。決めれば、人生は変わる。決めない限り、人生に変化は訪れない。自分の人生は、自分で決める。決めれば、結果は後からついてくる。周りの環境が変わる。自分自身が変わる。人生が変わる。『相手だけ よければ自分 殺しても いいというのは 昔のやり方』『自他共に 活かす道こそ 真実の すべての人が 活きてゆく道』『人生は 理解すること 決めること 深い自覚が 決意に変わる』『決めること 決めれば結果は ついてくる 決めた通りに なってゆくもの』これが日記を書き始めて1108日目の心境。
2008.01.14
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人に注意する時に、注意すること。まず注意する前提として、肯定すること。その人の全存在を認める。この前提がないと、注意は逆効果になる。何かアドバイスする。素直に聞いてもらえる場合もあれば、反発される場合もある。相手の性格にもよるし、相手とこちらの関係にもよる。TPOによっても異なる。注意することよりも大切なことは、その存在を認めること。その上に立って、注意すること。そうでないと、相手は自分の全存在を否定されたと誤解しかねない。なかなか注意するのは難しい。目下の人ならまだしも、目上の人に注意するのは至難の業(わざ)。相手は侮辱されたと誤解する。立場やメンツが丸つぶれになる。丁寧に順序を踏んで、誰もいないところで低姿勢でお願いするしかない。いずれにしても前提になるのは、全人格の肯定。これがないと、すべてはうまくいかない。全体を肯定して、そのほんの一部を否定する。これなら、なんとか受け入れてもらえる余地がある。最初から頭ごなしに注意したのでは、相手は自分自身が否定されたと誤解する。相手の存在そのものを否定したのでは、元も子もない。それなら注意する意味がない。注意するのは、相手に改めてほしいから。全面的に反発されたのでは、何の意味もない。わかってもらって、理解してもらって、改善してもらう必要がある。ここが変わると、あなたは更にすばらしくなるという方向。相手を活かすスタンス。押しつけられたり、抑えつけられると、相手は反発する。いのちが本能的に自分を守ろうとする。抑圧されれば、ゴムまりだって反発する。刺激するにもコツがいる。相手の生命力を活性化させるように刺激すれば、相手はより健康になる。それが指圧や鍼灸のメソッド。人に注意する時も、そのやり方を参考にすることだろうか。いかにツボを押さえるか・・・相手を活かそうとして注意するか、相手を殺そうとして注意するか・・・結果は天と地ほど違ってくる。相手を活かそうとするのは、相手のため。いわば愛情から出たもの。相手を殺そうとするのは、自分の都合。自分のために相手を変えようとしているだけ。そういう時は、たいてい相手は反発する。相手は敏感に嗅ぎつける。最終的には、自分の生きるスタンスの問題になってくる。人を活かそうとしているのか、自分さえよければいいのか。人を活かすという前提で注意すれば、素直に聞いてもらえることも多い。結果、自分の注意も活きることになる。相手を活かせば、自分も活きる。すべてが活きるように回っていく。いのちの循環となる。逆の場合は・・・すべてが、滞る。すべてがギクシャクする。スムーズに流れない。自然の流れに反しているから・・・すべてを活かす方向で生きることだろうか。そうすれば、すべてがスムーズに流れる。人も自分も活きる。すべてが活きる。『注意する 時は相手に 細心の 注意払って 注意すること』『注意する 時は相手を 肯定し 活かすつもりで 注意すること』『前提に 活かす気持ちが ないならば 相手はすぐに 反発するもの』『敏感に 身を守ろうと 人はする まず安心を 保障してから』『肯定し また肯定し 肯定し ほんの一部を 否定するだけ』『冷静に 相手見ながら 注意する 相手を活かす 気持ちを込めて』これが日記を書き始めて1107日目の心境。
2008.01.13
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日記のコメント欄に、えっちゃんから次のような書き込みがあった。「若い頃、好きな人とは友達でいたいと思っていました。友達なら、ずっと友達として付き合える。けれど、心が一歩前に出たくなると、ちょっと寂しい思いをする。自分が、相手に対して距離を保てないと友達は成り立たない。お互い自立していないと、友達は成り立たない。相手を自分だけのものにしたいと思えば友達は成り立たない。相手の世界に乱入しても友達は成り立たない。けれど、心がとても寂しがりやになった時、自分が相手に一番近い存在になりたいとか、相手との距離が寂しすぎるとか思ってしまうのです。相手に白か黒か聞く勇気もないまま、友達を失くしてしまった事もある。友達のままがいい。そうしたら、今もずっと友達。相手との距離にきちんと踏ん張りきれたら、ずっと、友達・・・・。だから、友達はいるんだけどなあ・・・・・」『親しき仲にも礼儀あり』『君子の交わりは淡きこと水の如し』長く友達でいるためには、お互いに自立している必要がある。依存があれば、関係は続かない。親しくなると、つい甘えたくなる。さびしくなっても、甘えてみたくなる。男女関係では、甘えが命取りになる。最初のうちは、甘えが二人を近づける。しかし、親しさが増すにつれて、甘えは我儘に変わっていく。やがて、甘えが負担になる。『親しき仲にも礼儀あり』ということが、どれほど大切か・・・痛感する頃は、すでに手遅れ。これからの時代は、お互いが自立することによって『友達の時代』が実現する。相互依存では、今と変わらない。どんな関係でも、相互依存は幸せをもたらさない。一体感をもたらすようにも見えるが、夢はすぐに覚める。自立=自律。まず自分で自分を自律できないと、自立は難しい。自律できない限り、友達との距離は保てない。水のような淡い関係は保てない。気をゆるめると、こってり欲望系になってしまう。さらりと淡い関係は、なかなか難しい。まず自分を見つめ、物事を客観的に見ようと努めることだろうか。主観が入り過ぎれば、こってり系に変わってしまう。これからは、客観の時代。主観を入れないで事実ベースで見る時代。そういうベースに基づいて、友達の時代が成り立つ。主観のままでは混乱するだけ。客観的に見ることが、相互依存を防ぐ。自律=自立へつながる。自立の基礎がないと、友達関係は持続しない。『和して同ぜず』という自由な関係はできない。友達の時代。パートナーの時代。制度を超えて、一人一人が和していく時代。ゆるやかに連帯していく時代。インターネットというアイテムによって、友達の輪は無限に広がる。しかし、基本は同じ。自律。自立。『親しき仲にも礼儀あり』『君子の交わりは淡きこと水の如し』『和して同ぜず』自立という基礎の上に立たないと、友達の時代はやってこない。『こってりと 感情込めて 濃密に 生きた時代は もう過去のこと』『サラサラと 生きる時代に なっている こってり系は もう過去の人』『関係を 支配しようと する時に 関係壊れ バラバラになる』『サラサラと 水は流れる 関係も こだわらないで 自然にまかす』『自立する ことは互いを 縛らずに 依存しないで 生きていくこと』『自立する ことで誰とも 友達に なれる時代に なってきている』『軽やかに 友達になり お互いに 介入せずに 自由に生きる』これが日記を書き始めて1106日目の心境。* 『1105日目 - 慈悲』も同時にアップしました。
2008.01.12
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『悲しみの 前で菩薩は 立ち尽くす 涙流して ただ立ち尽くす』『悲しみが あるところには 慈しみ 常に寄り添う 二つは一つ』 『慈しみ 引き出すものは 人類の 苦悩に満ちた 悲苦の生きざま』『悲しみが あれば同時に 慈しみ あふれ出すよう できているもの』 『悲しみを 抱きしめる時 悲しみは 慈しみへと 姿を変える』 『悲しみが 菩薩生み出す 人の世に 悲しみこそが 慈悲の源』 『悲しみの 涙のなかに 悲しみを 癒す至高の 慈しみあり』『悲しみと 慈しみとは 同じもの 悲しみのなか 慈しみあり』 『悲しみは 慈しみから できている 慈しみこそ 悲しみの源(もと)』 『悲しみと 慈しみとが 同じなら すべてはすでに 救われている』 『人の世の 幾千万の 悲しみは 慈悲を生み出す 神のはからい』『慈しみ 生み出すために 悲しみが あると思えば 救われもする』 『悲しみを 超えて無上の 慈しみ 人の心の なかに咲かせる』 『悲しみと 慈しみとは 同じもの 悲しみ越えて 慈しみ咲く』『悲しみを 極めていけば 慈しみ ただ燦々(さんさん)と 慈悲の雨降る』 これが日記を書き始めて1105日目の心境。
2008.01.11
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『相対の 波にもまれて 比較して 苦悩をつくり 悩み苦しむ』『優劣を 競えばやがて 辛くなる やすらぎ消えて 苦悩果てなし』『苦しみの 種は尽きない どこまでも 考え出せば 不安果てなし』『苦しみの 根っ子にあるのは 思い込み 強い願望 苦しめるだけ』『何事も 無理をするから 苦しいと 気づけば無理を やめればいいだけ』 『苦しいと 感じたならば リラックス 肩の力を 抜けばいいだけ』『手放せば 苦しいものは 抜けていく 握っているから 苦しくなるだけ』『ありのまま 生きれば 苦しみ何もなし 見栄を張るから 苦しくなるだけ』『正直に 素直にそのまま 生きる時 苦しみ消えて 喜びがある』『競うなら ゲーム感覚 どこまでも 見守る意識 忘れないこと』『今の世の 価値観のもと 楽しみも 苦しみもまた 決まってくるもの』 『苦しみを 苦しみと見て 悩むから 苦しくなって 苦しみが増す』『苦しみと 思えば苦しく なるばかり 思わなければ 苦しみもなし』『ハラハラと 涙流して 苦しいと 思う心が 悲しかりけり』 『無知という 病に罹り 人生を 苦悩のうちに 過ごす愚かさ』 『苦しいと 思う心が 苦しみを つくり出してる それだけのこと』『苦しいと 思えば苦しみ 更に増す 事実ベースで 生きてゆくこと』『見極める つもりがあれば 苦しみの 原因すぐに 見い出せるもの』『思い込み 外していけば 苦しみも いつのまにやら 跡形もなし』 『事実だけ 見ているならば 苦しみは どこにも存在 する余地がない』『苦しみは どこにもなくて 事実だけ あると思えば 悩むことなし』 『苦しみも 悲しみもない 人生は ただ事実のみ 存在するもの』『苦しみは どこにもないと 見極めて 楽に楽しく 生きてゆくだけ』 これが日記を書き始めて1104日目の心境。
2008.01.10
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希望は、キラキラ。欲望は、ギラギラ。希望は、サラサラ。欲望は、ザラザラ。希望は、星々。キラキラキラ。欲望は、太陽。ギンギラギン。希望は、花。欲望は、実。希望は、花を咲かせるだけ。欲望は、実をほしがる。希望は、さわやか。欲望は、むしむし。希望は、さらり。欲望は、こってり。希望は、花のようなもの。開いた時は、散りゆく時。欲望は、実のようなもの。いつまでも自分のものにしておきたい。希望は、解放。欲望は、支配。希望は、放下。欲望は、所有。 希望は、未来からやって来る。欲望は、過去からやって来る。希望は、夢。欲望は、幻。希望は、完結。欲望は、継続。希望は、その場で完了。欲望は、拡大再生産。希望は、喜び。 欲望は、快楽。希望は、光。欲望は、闇。『欲望に 翻弄されて 今ここを 深く味わう ことを忘れる』『欲望は 今を生きずに 妄想の なかで果てなく もがき苦しむ』『今ここで 味わいきって 終わらせて 感謝と共に 完結させる』これが日記を書き始めて1103日目の心境。
2008.01.09
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今年は、元旦から水晶を手放そうという雰囲気だった。元旦の夜には、水瓶座の水晶祭りに出るものが揃った。もう少し水晶を整理したいと思っている。手放して軽やかになる。多くの水晶がやって来て、多くの水晶が去っていく。多くの人が屋久島を訪れ、また帰っていく。何度も会う人もあれば、一度限りの人もいる。人の世は、出会いと別れ。水晶も人も変わらない。この美しい景色も一回限りの出会いと別れ。ありとあらゆるものが、出会いと別れ。ただ一緒にいる時間の長短の違い。長く一緒にいる水晶もあれば、早めに旅立つ水晶もある。何十年も付き合っている人もあれば、一日限りの人もいる。縁と言うか、出会いと言うか・・・不思議な人生ではある。一期一会。一回生起。厳密に言えば、同じことは二度とは起きない。今この瞬間があるのみ。今この瞬間の連続。同じ水晶でも、光の具合によって見え方が異なる。大筋では似ているが、厳密には違う。欠けたりして壊れることもある。今を味わい、今を大切に生きるしかない。一回生起。オンリーワン。それが真実。一つ一つの瞬間を、大切に味わって生きる。今を真剣に味わって生きる。それしかない。それがすべて。今がすべて。今しかない。今の連続。今があるだけ。『いつまでも 続くと思う 思い込み 思わぬ時に 終わり来るもの』『今ここが すべてのすべて もう二度と 同じ状況 あり得ないこと』『似たような ことはあれども 同じこと 二度と再び 起きることなし』『今ここを 大事に生きる 大切に 一つ一つに 真心こめて』これが日記を書き始めて1102日目の心境。
2008.01.08
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感情に浸った時代が終わろうとしている。勝負にこだわり、恋愛に熱中し、成功と失敗に拘泥した。そのたびに、高揚と落胆を体験した。一喜一憂・喜怒哀楽の世界。感情は、シーソーゲーム。快と不快の間を揺れ動く振り子。一方があれば、必ず他方もある。相対二元の宇宙。感動し、感極まる。失望し、絶望する。満ちては引き、引いては満ちる潮のよう。感情は、水。潤いがあり、変化があり、美しい。感情を体験することは、豊かな人生を意味する。そういう人生を、人類は長い間体験してきた。それは貴重な体験だった。しかし、感情は一定していない。常に変化している。一生大切にすると約束した人も、やがて離れていく。感情の約束は、長続きしない。周りに影響され、思わぬ行動も取る。感情は生きもの。激しい情念。魔物にさえ変わることもある。憎しみ、恨み、怒り・・・悲しさ、淋しさ、辛さ・・・喜び、嬉しさ、楽しさ・・・様々な感情がある。その多くを体験してきた。豊かに体験してきた。もうそろそろ、それらを総括する時かもしれない。いつまでも感情に浸っている時ではない。感情に振り回されて自分を見失う時は終わった。感情を理解し、感情を楽しむ時代。どこからこの感情は生まれてくるか。感情には根っ子がある。快・不快という本能から生まれる原始的な感情。思い込みという思考から生まれる二次的な感情。二次的なものは、時代により場所により異なる。世界の民族感情を見てみれば、一目瞭然。そういうものをすべて理解し、超えていく。そういう時代になっている。感情に振り回されるのではなく、冷静に生きる時代。理性と霊性が融合する時代。過去の高揚感に酔い、また再びそれが訪れることを願う。願うのは、思考。過去の恐怖体験が再び訪れることを恐れる。それもまた過去ベースの思考。感情を思考が取り込む。感情を思考化する。自分にとって都合のよいものは、再現を願う。逆の場合は、再現を忌み嫌う。それが、また感情を誘発する。期待も恐怖も感情を呼び起こす。感情の再生産。感情のままに振り回される人生。多くの感情は、思考ベースで沸き上がる。正確に言うと、思い込みベース。前提や偏見があると、沸き上がりやすい。期待や先入観があると、高揚と落胆が激しくなる。成功も失敗も、すべて思い込みの結果。何をもって成功や失敗とするか。何も前提がなければ、成功も失敗もない。当然、それによる感情も生まれない。ほとんどの感情は、思い込みベース。思い込みに翻弄され、感情に翻弄されて生きているだけ。自分自身に無知なだけ。自分を振り返ることが足りない人生。そういう人生は、もう終わる。新たな人生の時がきている。もっとクリアーに、さわやかに生きる時代。いつまでも感情や思考に弄(もてあそ)ばれている時ではない。しっかりと感情と思考を理解する。感覚や肉体も深く理解する。十分に体験し、それを消化する。消化とは、昇華。理解し、花開かせる。感覚も感情も思考も、理解して使いこなす。それらに振り回されない。深く理解して、支配されない。冷静ベース。霊性ベース。それがこれからのベース。新しいベース。これまでは、思考ベース。あるいは、感情ベース。感覚ベースの人もいたかもしれない。肉体ベースの人もいただろう。しかし、これからは理性ベース。新しい時代は、霊性ベース。しっかりと自分自身をキープし、霊性に生きていく。感情や思考に振り回されないで・・・『感情の 根っ子を見れば 思考から 思い込みから ほとんど起きる』『感情の 源探り 理解して 感情的な 生き方超える』『これからの 時代を生きる キーワード 理解すること すべてのことを』『感情も 思考も超えた 新しい 意識の次元 霊性ベース』これが日記を書き始めて1101日目の心境。
2008.01.07
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体調が回復してきて、久しぶりにテレビを見る。テレビと言っても、録画してあったもの。年末の紅白歌合戦の後半部分だけ録画してあった。それを軽く流して見る。ほとんどは、つまらなかった。特に毎年出ている人たちは新鮮味に欠けた。ただ一人、とても新鮮な人がいた。それは・・・中村中。彼?彼女?何と呼べばいい?中村中が歌った『友達の詩(うた)』は、極めて新鮮だった。以前に一度だけ聞いたことがある。それはスーパーで買い物をしている時にBGMとして流れていた。もちろん、その時は曲のタイトルも歌手の名前も知らなかった。半年ほど前に一度しか聞いたことのない歌を、よく覚えていたと思う。しかも、買い物の途中。いいかげんにしか聞いていない。でも、なんとなく印象に残った。メロディが、とても新鮮だった。年末の紅白の紹介で、性同一性障害の人が初登場と案内していた。それが中村中だった。それまでまったく知らなかった。司会者が母親の手紙を読んでいた。古色蒼然としたお涙ちょうだい風演出。NHKの感性を疑う。時代錯誤もいいところ。時代が変わった。男の役割・女の役割という、これまでの既成の役割分担が終わろうとしている。そういう枠組みでは、現実を仕切ることができなくなった。古い役割分担は崩壊する。フランスでは、すでに事実婚が戸籍婚よりも多数を占めている。日本でも、できちゃった婚が主流になりつつある。古い制度が金属疲労状態に陥っている。制度そのものが人を縛るものでしかないことが、やがて明らかになるだろう。中村中は、衝撃的だった。これまでもゲイの世界はあった。ニューハーフも美しい人もいた。しかし、中村中の場合は完璧だった。女性として完璧。声もスタイルも抜群。もう男とか女とか言う必要さえない。一人の存在として美しい。そういうパーソナリティが存在している。ただそれだけのこと。男とか女とか規定する必要すらない。男も女も関係ない。自分が自分でいる。自分がありたいような自分でいる。自分の表現したい自分でいる。ただそれだけのこと。既成の枠を取り払う時にきている。古いものを手放し、事実と共に生きる。一切の先入観を取り払えば、中村中はただ美しい。そして、曲もすばらしい。若い人は、すでに既成の概念から自由になりつつある。それに女性が続く。最後まで残るのは、中高年の男たち。いわゆるサラリーマン。これまで時代を支えてきたものが、最後まで取り残される。男社会を担ってきたものが、新しい時代に見放される。トップがビリになり、ビリがトップになる。意識が変わったものだけが、新しい社会へ移行できる。新しい時代が着実に浸透してきている。古い意識の枠は、邪魔もの以外の何ものでもない。それらを手放すことが、新しい時代への入場券となる。重い頭では、軽やかな入口を通れない。いくらもがいても、重たいものは沈んでしまう。軽やかでないとジャンプできない。子どもたちは、ジャンプする必要さえないほど軽やか。心身のダイエットなしでは、新しい門はくぐれない。男と女。恋愛にこだわる時代も終わろうとしている。歌のタイトルは、『友達の詩』まさに友達の時代。フレンドリーな時代。男・女に関係なく、フレンドリーに生きる時代。特定の異性に恋い焦がれる時代は終わった。みんなと一緒に生きる時代。男とか女とかの既成概念を外す。既婚や未婚の既成概念も外す。社会的地位も名誉も財産も何の意味もなさない。ただその人のパーソナリティ。その人の人格。その人の個性だけが輝く。オリジナリティだけが、存在を示す。それ以外のものは、すべて消えていく。『古い枠 あればあるほど 身を縛る すべて手放し 自由に生きる』『男とか 女とかいう 枠組みを 外せば人は 自由に生きれる』『ただ人が 個性が そこに生きている 個性に触れる それが人生』これが日記を書き始めて1100日目の心境。
2008.01.06
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三泊四日の旅の最終日は、もののけ姫の森へ行った。だんだんと暖かくなり、過ごしやすくなっていた。正月も5日になって、駐車場はそれほど混んではいなかった。森の中も思ったより人は少なかった。ゆっくり森の中を歩く。ほとんど雪はなかった。ヤクスギランドとは大違い。歩くのが楽。もののけ姫の森で、ゆっくり苔の世界を楽しむ。緑が美しく、静かな森。ただ、大きなリュックを背負った人が、時々、通り過ぎた。山小屋泊まりのようだ。この寒いのに、よく行くと思う。縄文杉の方は、かなりの雪だろう。それに夜は冷えるに違いない。15~20人ぐらいは、すれ違ったような気がする。森は早めに切り上げて、永田いなか浜へ向かう。初日に行ったけれども、その時は寒くて何もできなかった。今日は暖かい。裸足で波打ち際を歩けそう。彼女も波打ち際を歩きたかった様子。さっそく裸足になって波と戯れる。何度歩いても気持ちがいい。何度歩いてもズボンが波で濡れてしまう。波は一定していない。突然、大きな波がやって来たりする。避けようとしても間に合わない。その結果、ズボンが濡れてしまう。今日は、海水もそれほど冷たくはなかった。かなりの距離を歩く。誰も裸足で歩いている人はいない。観光客は、みんな駐車場の近くで海を見るだけ。こんなに気持ちのいいことを、子供以外はしようとしない。子供だけが、すぐに裸足になりたがる。親に反対されながら、波と遊ぶ。子供の方が、遥かに自然に近い。裸足で歩いて、とてもスッキリした。特に頭がクリアーになった。毎日、森を歩いた。仕上げは、海だった。再度、抹茶のソフトクリームを食べに寄る。よほど美味しかったのだろう。彼女は、親に頼まれた追加のお茶を購入していた。それから、水晶の浄化に行く。体に付けていた石を、海と川で浄化する。海も川も、どちらも美しく澄んでいた。特に川の水は透き通るくらい青かった。海にそそぐところなのに、まだ飲める。それから、自宅の裏にある水晶海岸へ行く。小さな水晶のクラスターに目を輝かせる。でも、目を付けていたクラスターがなくなっているような?探したけれども見つからなかった。最近は、ここへ来る人も増えている気がする。誰かが持っていったのだろうか。残念ながら、そういうこともある。なかなか・・・最後にkimi水晶館へ行く。たくさんの水晶が並んでいる。狭い部屋は水晶だらけ。水瓶座の水晶祭りに出す予定のものもあった。これからもう一度浄化する予定なので、ゆっくり見てもらう。彼女は、あまり水晶については詳しくなさそう。ただ食い入るように見つめていた。そうこうしているうちに、空港へ行く時間になった。自宅を出る時、ちょうど飛行機が着陸するところだった。これで十分間に合う。自宅から空港までは5分もかからない。空港に着いても余裕があった。別れ際、「パーフェクトでした」と言われた。最後の最後に、懸案だったものを全部こなせた。特に永田いなか浜がよかった。あれで心身ともにスッキリした。この四日間で、彼女は見違えるように元気になった。顔色がまるで違っていた。雰囲気も明るくなった。屋久島の自然は偉大。屋久島の自然は、どんな人でも受け入れる。ただ黙って包み込む。そして、気づかないうちに癒してくれる。自宅に帰ってみて、行く前と違っていることに気づく。東京から屋久島へ通っていた頃、いつもそのように感じていた。年間30万人近い人が、屋久島へやって来る。その一人一人を屋久島は癒してくれる。大きな大きなキャパシティ。いのちの島=屋久島。いのちあふれる島=屋久島。いのちが活性化する島=屋久島。来る人を元気にする島=屋久島。『屋久島の 森を歩いて 虹を見て 裸足になって 砂浜散歩』『屋久島の 森を歩けば それだけで いのちあふれる 体のなかで』『山に森 川・海・滝と 屋久島に 自然のもので ないものはない』『雪も降る 熱帯魚もいる 滝もある 空を仰げば 満天の星』これが日記を書き始めて1099日目の心境。* 「1098日目 - 雪の森」も同時にアップしました。
2008.01.05
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朝からヤクスギランドへ向かう。ヤクスギランドの駐車場は、一杯だった。昨日まで通行止めだったからだろうか。駐車スペースの先は、まだ雪が残っていた。管理の人に聞くと、県道は除雪されたが、その先の町道はまだとのこと。町道の先にある紀元杉までは行けない様子。白谷雲水峡とは、だいぶ様相が違う。こちらの方が森が深いということだろうか。ヤクスギランドの中も、30分コース以外は除雪されていなかった。まさか30分で帰るわけにもいかず、雪の中を歩く。少し足跡があり、道に迷うことはなかった。15cmぐらい一面に積もっていた。久しぶりに雪の上を歩く。白と緑の世界。空気が凛として、とても清々(すがすが)しい。静かな森に川の音だけが響く。さすがに150分コースを歩いている人はいなかった。これだけ雪があると危険なので、80分コースにする。途中から大きな屋久杉を見るために150分コースに入る。ここには足跡があった。三根杉、母子杉、天柱杉を見る。雪に覆われた巨木。幾千年の風雪に耐えてきた木々。よくここまで生きてきたものだ。風も雨も屋久島は半端ではない。それに雷もある。樹齢千年を超す屋久杉は、やはり風格がある。人間の何十倍も四季を体験している。そういう大きな杉に対面するのは、けっして悪いことではない。生きるスタンスが変わる。目先だけの世知辛い生き方ができなくなる。たまには大自然に触れるのもいい。こちらは昨夜は何も食べなかったので、足元がおぼつかない。昨夜食べなかったということは、一昨夜から食べてないということ。既に40時間近く何も食べてない。少しパワー不足。でも、この程度のことはたまにある。そんなに珍しいことではない。体調が悪いと、食事を減らす。だから、別に歩けないことはない。しかし、お腹は空く。そこで、雪を食べた。屋久島の雪はシャーベット状。ザラザラしていて、まるでカキ氷。雪を食べる度に元気になった。これなら遭難しても死なない?しかし、こんな寒いところで遭難したくはない。もっとも、ここでは遭難したくてもできそうにないが・・・寒いので、早めに引き上げる。紀元杉まで行けないので、時間に余裕があった。お土産を買いに宮の浦まで行く。里は、そんなに寒くなかった。それから、彼女が切望していた抹茶のソフトクリームを食べに行く。今日から店が開いているのは確認済み。美味しいソフトクリームに大満足。無農薬のお茶も、お土産に購入。4日ともなると、さすがに温泉も混んではいなかった。彼女は、なんと2時間も温泉に入っていた。あまりにも遅いので、温泉で倒れてないか心配になったほど。こちらは車の中でひと眠り。夕陽は、今日も雲の中に沈んだ。これで三日連続。雲に沈むまでは美しかった。天使の梯子が見れた。西洋医学は、患部だけを見る傾向がある。東洋医学は、体全体を見る。東洋医学では、全身のバランスを回復させようとする。西洋医学では、患部だけを治そうとする。西洋医学では、悪いところがあれば取り除いてしまう。東洋医学では、そんなことはしない。悪いところを取っても、再発するに決まっている。体質が変わらない限り、病気は別の場所で再発する。東洋医学は、体を見る。西洋医学は、症状を見る。西洋医学は、すぐに結果が出る。東洋医学は、時間がかかる。酸性とアルカリ性。陰性と陽性。虚と実。様々なバランスがある。それらのバランスが崩れた時、病気になると東洋医学では見なす。西洋医学には、そのような原理原則はない。ただ平均値から、数字的に判断するのみ。数字を平均値に戻すために、対症療法的に投薬する。東洋医学では、化学薬品は用いない。古来より体にやさしい生薬を使う。西洋医学では、ほとんどが化学薬品。当然、副作用が強い。元々、薬は毒を以て毒を制すという世界。しかし、化学薬品には体が拒絶反応を示す。食事療法が、時間はかかるが最も副作用が少ない。最も正攻法と言える。しかし、東洋医学でさえ、体だけを見る場合が多い。心まで見る東洋医は少ない。いくら体質改善をしても、良くならない場合もある。心が変わらなければ、同じことの繰り返し。心がすべてというのは、宗教の世界。心を変えれば、体も変わるという仕組。確かに、それも一理ある。しかし、心だけですべてを治すのにも無理がある。症状を見、体質を見、心を見る必要がある。すべてをトータルに見る必要がある。西洋医学の優れている点もある。緊急の場合には、役に立つ場合も多い。検査も的確。しかし、ややもすると症状だけを改善しようとする。本質的に健康にしようという姿勢に乏しい。心のケアーに至っては、まだまだ序の口。東洋医学は、人を全体的にとらえる。しかし、どの深さまで見ているかは、個人差がある。肉体次元を超えて、どの次元まで全体的に見ているか・・・それによって対応が違ってくる。何をベースに生きるか。どこに中心をおいて生きるか。それによって生き方が異なる。どこでなければならないということはない。ただ、深ければ深いだけ人生が全体的に見れる。余裕を持って生きれる。心は安定し、深いやすらぎに包まれる。表層で生きれば生きるほど、心は波立つ。静かに静かに自分の本質と共に生きる。そうすれば、多少のことで動揺することはない。しっかりとグランディングできる。自分のペースで生きれる。西洋医学も、東洋医学も、宗教も、全体的に理解することだろうか。科学も、芸術も、真理も、幅広く理解することだろうか。肉体も、感情も、思考も、トータルに理解することだろうか。自分自身を深く深く理解することだろうか。本質的な理解が、十全な生を可能にする。表層的な理解は、混乱の生につながる。深く深く理解する。自分の本質を、宇宙の成り立ちを。『千年を 超える屋久杉 幾万の 風雪超えて 今あることか』『症状の 奥に隠れた 真因を 突き止め治す ことが必要』『原因を 見ずして症状 除いては 生き方変える チャンス失う』『症状は これまで生きて きた結果 自分見直す 好機到来』『原因を 変えれば何も しなくても 時間と共に 症状消える』『西洋も 東洋も超え トータルに 人を見つめて 理解すること』これが日記を書き始めて1098日目の心境。
2008.01.04
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朝から木霊の森へ向かう。木霊の森には、まだ雪が少し残っていた。森の中は寒かった。途中で出会ったヤクジカのお尻の毛がフサフサで、あたたかそうだった。沢は水量があり、木霊の森は美しかった。しかし、寒いので早めに切り上げる。白谷雲水峡は、混んでいた。駐車場から車が溢れていた。JR温泉に行く。まだ早い時間なのに、こちらも混んでいた。尾之間温泉も駐車場が満員。お客さんはJR温泉、こちらは尾之間温泉に入る。天然村に戻ると、こちらも駐車場が満員。今日は地元の人のライブが予定されていた。それにしても、すごい混みよう。こちらの車を止めるスペースは全くなかった。自宅に帰って、食事もしないで寝る。風邪の具合がイマイチ。熱もないし、頭も痛くはない。しかし、咳が止まらない。外にいる時はいいのだが、車に乗ると咳が出る。車内の空気が冬仕様で、乾燥している。それで咳が出る。頭もクリアーではない。12時間以上寝たけれども、体調はイマイチ。どうもスッキリしない。そんなにひどい風邪ではないが、風邪には違いない。この状態は、屋久島へ来て初めて。原因は、はっきりしている。12月末に来た知り合いが風邪をひいていた。ずっと一緒にいたので、それが移ったのだろう。世間的には、そういうことになる。しかし、実は・・・彼女が原因ではない。彼女は、単なるきっかけ。真因は、自分自身にある。体調が完璧であれば、風邪をひくことはない。これまで何人も風邪をひいている人のガイドをした。しかし、その度に風邪をひくということはなかった。いや、まったく風邪はひかなかった。今回に限って、なぜ?たぶん疲れが溜まっていたのだろう。節々が少し痛かった。筋肉痛も出てきた。これまで溜まっていたものが、緩み始めていた。頭がボーッとするのも、頭が緩み出している証拠。節々が痛くなるのも、関節が緩んでいるから。全身の緊張が解け出している。熱が出るのは、溜まっていたものを溶かすため。高い熱が出れば出るほど、全身に溜まっていたものが溶ける。体内に潜伏している病原菌も死滅する。ガン細胞でさえ消滅させることができる。体は、すばらしい。実にすばらしくできている。体を信頼して、体に任せることだろうか。そうすれば、ベストの状態に導いてくれる。風邪とは、船がドッグ入りするようなもの。屋久島航路のフェリーでさえ、年に一回はドッグに入る。全身のオーバーホール。心身のメンテナンス。無病息災という言葉と共に、一病息災という言葉もある。病気にならないに越したことはない。しかし、一病に罹ることで全身が生き返るということもある。風邪の効用。何でも活かして使えば、役に立つ。病気でさえ活かして使う。風邪を活かせば、いのちが活きる。病気を忌み嫌わないことだろうか。すべてを理解する。理解して活用する。そうすれば、この世に不要なものはない。理解がないから、避けようとするだけ。風邪の時は、手放す時。これまで溜め込んだものを手放す。物質的なものも精神的なものも。風邪をひいたら整理整頓するといい。部屋の中も、体の中も、心の中も・・・すべて整理する。不必要なものを手放す。手放してスッキリする。風邪とは、不要なものを手放して軽やかになるチャンス。心も体も物も、すべて手放す。身に余るものを持ち過ぎたから風邪をひく。身の丈に整理整頓する。風邪の時は、自分自身を振り返るチャンス。静かに自分を見つめる時。もうこれ以上は入れないで、解き放つ。解放の喜びを味わう時。『風邪をひき 軽やかになる 手放して 物も体も 心もすべて』『溜め込んだ 重たいものを 手放して 軽やかになる 風邪の効用』『理解する ことで恐れは 消えていく 理解なければ 恐れがつのる』『逃げるから 恐れが後を 追いかける 踏みとどまって 直視するのみ』『信頼し 任せる心 あるならば 体はそれに 応えてくれる』『何もせず いのちと共に 生きる時 いのちは還る 自然の道に』『身を捨てる 覚悟があれば 後はただ いのちのままに 任せて生きる』『ジタバタも アクセクもなく ひたすらに いのちのままに いのちと生きる』これが日記を書き始めて1097日目の心境。
2008.01.03
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朝9時の飛行機で、お客さんが到着。本当は元旦に来るはずだった。ところが・・・昨日は飛行機が屋久島空港に着陸する寸前で、また上昇してしまった。車輪まで出ていたが、結局、強風のため鹿児島空港へ引き返すことに。その後の飛行機も満席で、一夜を鹿児島で明かすことになった。二日がかりで、やっと屋久島到着。稀にこういうこともある。まず初詣に行きたいとのことで、益救神社へ。少し人出があった。お守りなどを売っているところで、顔見知りのガイドに会う。年頭のあいさつ。山の方は天気が悪いので、屋久島を一周することに。まず永田いなか浜へ向かう。ものすごい波。風も強く、外に出れない。本当は波打ち際を裸足で歩きたかった。しかし、とても裸足には・・・寒過ぎ。正月になって急に寒くなった。西部林道では、たくさんのオスジカに出会った。彼らは正月関係なく、静かに暮らしていた。正月で浮かれているのは、人間だけ。自然はいつものように存在していた。神野水を汲み、大川の滝へ向かう。ここで滝壺に架かる虹を見る。これが最初の虹。そこそこ人がいた。タイドプールでサンゴを少しだけゲット。湯泊の海浜温泉へ向かう。お客さんだけ女湯で足湯。こちらは車の中で休憩。平内海中温泉は、潮が満ちて冷たくなっていた。源泉が溜まっているところから温泉を汲んで口に入れる。硫黄の臭いがする。胃腸に良いらしい。それから、千尋の滝へ向かう。千尋の滝で、二度目の虹を見る。滝壺から湧き上がる水煙に虹が架かっていた。薄い虹だったが、とても美しかった。水量は思ったほど多くなく、その細い流れにも虹が架かっていた。千尋の滝で虹を見たのは初めて。この世のものとは思えないくらい繊細な虹だった。こういう時に限って手元にカメラがなかった。千尋の滝の下流にある竜神の滝とトローキーの滝へ行く。トローキーの滝では、赤いカニ達の姿がなかった。あんなにたくさんいたのに・・・冬眠中?朝の9時から島内を回っているので、まだ温泉に行くには早い時間。とりあえず、宿の天然村で休むことに。天然村へ行く途中で3度目の虹に出会う。今度は大きく空に弧を描いていた。天然村で1時間ほど休憩。それから、JR温泉へ向かう。その途中で、今日4度目の虹を見る。虹をゆっくり眺めるため、農道に入る。畑の真ん中に車を止め、虹の撮影。半円に満たないくらい。あまり濃くはない。お客さんは、虹を見ることはめったにないとのことで嬉しそう。JR温泉に着くと、なんと・・・元旦から三日までは、外来入浴は1時から4時と書かれている。時計を見ると、4時をわずかに過ぎていた。こちらに何の断りもなく・・・まあ、それほど有名人でもないので、断りがないのが当たり前。しかし、これではJR温泉には入れない。こうなれば、少し熱いが尾之間温泉へ行くしかない。彼女もいろんな温泉に入ってみたいようなので、ちょうどいいか。尾之間温泉は、とても込んでいた。普段であればガラガラの時間帯。ところが、車を止めるスペースさえないほどの混みよう。さすが正月。やっと車を止めて中に入るも、中もいっぱい。正月は温泉に限る!と、誰もが思うのだろうか。いたるところで新年のあいさつが聞かれる。あたたまって、宿へ戻る。こうやって、3泊4日の旅の初日が無事に終わる。こちらは風邪気味で、ドライブ中に咳が出て困った。こんなことは初めて。自宅に帰れば、今日は58歳の誕生日。と言っても、誰もお祝いしてくれる人はいない。体調がよくないので、早く休みたい一心。誕生日の頃は、あまり体調は良くない。毎年のことなので、そんなに驚きはしない。誕生日に快調だった記憶はあまりない。誕生日は、いつもイマイチ。潜在意識が歳を取りたくない?誕生日おめでとうメールがたくさん届いていたが、返事を書く気力もなし。食事をして、早々に布団に入る。今日で58歳?自分の歳が信じられない。誕生日が来る度に歳を取っていく。しかし、意識は歳を取らない。意識はクリアーになっていく一方。肉体年齢と意識のギャップが広がるばかり。意識は肉体年齢とは関係ない。肉体と共に成長するので、自分を肉体と錯覚して歳相応の意識になっているだけ。肉体と意識が異なることが明確に自覚されれば、肉体年齢に左右されることはない。意識に年齢はない。意識には、状態があるだけ。その時々の意識状態があるだけ。年齢とか全く関係ない。ただ自分は何歳と思い込んでいるだけ。意識は、いかようにでもなれる。青年にも老人にもなれる。自分の意識状態によって、意識は存在するだけ。何と自己同一化するかという話。肉体年齢と自己同一化すれば、58歳になってしまう。心の若さと自己同一化すれば、いつも意識は青年。意識は自由自在。固定されたものは何もない。ただこれまでの経験をベースに自分を規定しているだけ。自分をあるイメージに固定しているだけ。それは思い込みであり、自分で自分を縛っているだけ。意識に固定したものはない。意識は自由自在。意識は無限定。自由に、のびやかに生きればいい。天上天下、何も遮るものはない。『何歳と 思えば思った 歳になる 意識は自由 何にもなれる』『規定する ことがなければ 何もので あることもない 意識は無限』『特定の ものと自分を 思い込み 意識の自由 忘れて生きる』『思い込み 外せば自由 今ここで 自分で自分 縛っているだけ』『年齢を 外せば意識 肉体の 呪縛が外れ 高く飛翔(はば)たく』これが日記を書き始めて1096日目の心境。
2008.01.02
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新しい年が明けた。新年になった時、「こまやかに高めていく」という感じだった。何事も繊細に繊細に高めていく。精妙に精妙になっていく。すべてのことを、こまやかに高めていくしかない。肉体も、精神も、関係性も・・・こまやかに高めていけば、限りなく深化していく。その深まりに限りはない。荒っぽく生きれば、殺伐とした人生になる。こまやかに生きれば、潤った人生となる。心を込め、いのちを込め、魂を込めて生きる。一つ一つに真心を込める。生きる姿勢が、人生を創っていく。生きるスタンスが、自分の人生を創造する。こまやかに、繊細に、精妙に・・・意識は限りなく深化していく。意識が精妙になれば、肉体も精妙になる。人間関係も、物や自然との関係も、より繊細になっていく。繊細になればなるほど、意識と物質の融合が進む。肉体が意識の波動に近づいていく。肉体が更に意識を投影するようになっていく。意識のままの肉体ができあがっていく。肉体が肉体のままに老化するのを許さない。意識によって肉体を変化させる。恋をすれば、女性の肌は見違えるように美しくなる。肉体は精神の影響を多分に受ける。意識がすべてに行き渡る。意識が物質にも肉体にも浸透する。これからは、意識と肉体や物質との分離が小さくなる。徐々に融合が進んでいく。自分の望むように物も肉体も変わっていく。状況自体が、自分の希望に沿って変化していく。意識がこまやかになればなるほど、変化の構造が見えてくる。変化の成り立ちがわかれば、変化を起こせるようになっていく。いかに意識を研ぎ澄ますか。いかに意識を精妙化するか。自分の意識に合ったものが周りに現われる。周りは自分を映す鏡。周りの変化が自分の変化。周りを見ることで自分がわかる。意識と物質の融合。物質の意識化。意識がすべてを決めていく。すべてが意識によって影響されていく。自分の人生を自分でクリエイトする。こまやかに、繊細にクリエイトする。自分の望みを現実化する。楽しく、おおらかに創り出す。『新しい 年が明ければ 2008 意識の深化 更に深まる』『こまやかに 意識変われば 現実も 望みのままに 変化していく』『精妙に 意識変われば 限りなく 豊かな世界 現れ出(い)ずる』これが日記を書き始めて1095日目の心境。
2008.01.01
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