ラッコの映画生活

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2007.02.09
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カテゴリ: フランス映画
LA FILLE SUR LE PONT
Patrice Leconte

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寸評:自分にとってはヴァネッサ・パラディを見るためだけの映画。思うにこの監督、自分の「好み」はあっても「哲学」がないのでは?。思いつきだけをそれなりに映画としただけの作品?。

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ヴァネッサ・パラディを見るためにレンタルしたDVD。だから内容への期待はあまりなかった。見終わって感じたのは「あらっ?!」って印象。コントラストの強い濃いめの白黒画像は『ボーイ・ミーツ・ガール』の真似?(夜のセーヌの川面も写ってたし)。物語全体は『ポンヌフの恋人』の影響?(人生に目的がないか絶望した2人の橋で始まり橋で終わる物語)。主人公アデルのキャラクターは 『エリザ』 でクロティルド・クローが演じた脇役ソランジュの延長線?(男と見れば幸せを期待して接近して結局捨てられる)。あれまあ、これら3本ともこの映画と同じフェシュネールの製作だ・・。(追記:フェシュネール製作の3本って『ポンヌフの恋人』 『エリザ』 『橋の上の娘』のこと。そう言えば船上のダンスのシーンも 『エリザ』 を思い起こさせた。)

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ネタバレにならないことを最初に書いておけば、白黒映像はなるほど奇麗だけれど、そして作品の内容ともマッチはしているだろうが、ルコント監督が自分の表現として使い切れているかって言うと、どうも一見斬新風になっているだけ。一つの重要なショットを何回もパッパッパッと繰り返す編集などはウザイうるさい。うるさいと言えば音楽の趣味も使い方もあまり良くはない。まだ予告編しか見てないけれど、『ドゴラ』なんてのの音楽もウンザリしそう。この監督ってフランスの監督の中では日本で人気も知名度も高いけれど、自分の好みを思いつきで映画にするだけで、根本的に哲学もなければ、エンターテインに徹するのでもない、そんな監督なのではないだろうか?、という思いを更新した。でもパラディをこれだけ見せてくれたことには感謝しましょうか。

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この作品、まずヴァネッサ・パラディ演じる主人公アデル22才マイナス2ヶ月へのインタビューのようなもので始まる。あれは何なんだろう。「現代の若者に聞く」とでもいったテレビの公開収録なのだろうか、そんなもので始まる。画面はほぼパラディのアップで、ショットによって背後にアウトフォーカスで観衆のようなものが見える。髪がまだ長いからオートゥイユと出会う前なんだろう。親しげに優しく、さも理解を示すような口調で語りかけるありがちな女性パーソナリティの質問に答えて、自分の生い立ちから今の状況、自分の人生が思うようにいっていないことを、最後には涙を流して語るパラディ。両親と一緒に暮らす家を出るいいキッカケだったからある男についていき捨てられ、その後も色々な男の悩みを吸い取る掃除機のような自分で、自分は幸運には決して恵まれていない等と語り、将来を問われて涙を流す。これが8分くらい続く。次のシーンはセーヌにかかる橋から身投げしようとしているパラディで、自殺願望に至る彼女の思いをインタビューシーンで説明していると言えるか?。このシーンはパラディを見るにはいい(ありがとう、パトリス!)。でもこのシーンのドキュメンタリー風の作りは、残りの映画全体との整合性がない。この辺にこの監督が思いつきだけである種の斬新風な映画作りを真似ているだけなのでは、と感じてしまう。こういう作風で行くなら最後まで通して欲しかった。さもなくば最初からこんなシーンでパラディ演ずるアデルの心境を説明するべきではなかった。

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(以下ネタバレ)


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モナコのショーの楽屋裏。ガボールはかつてのマト(?)、愛人(?)のイレーヌと再会する。彼女はガボールがいなくなって、最初はずっと彼を探したらしい。お互いに、特にイレーヌはガボールを理解しているらしい風に描かれるけれど、どうもこの辺も何が何だかよくわからない。思わせぶりなだけ。ステージで的(マト)のアデルに布のカーテンを被せてのナイフ投げ。実際にナイフ投げというのがどういうものなのかは知らないけれど、橋の上でガボールが語ったように、人生に絶望していて、何の未練もなく自分を投げ出せる者でなければマトにはならないらしい。そんなマト女との交感がガボールにとってのナイフ投げらしい。自分の身を彼に差し出したマト女と、その女に向けてナイフを投げる自分との究極の愛の行為。

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この後また色々ありながらイタリアに向かい、と2人はショーを続けていく。途中でアデルはまたカフェの男と一時の情事をするが、自分の求めている愛はガボールだっていうことに気付いて、彼女は求め、鉄道線路脇の小屋でガボールにナイフを投げてもらう。生命を含めて自分を全的に男に差出し、それに答えるナイフ投げの男。このシーンは究極のセックスシーンといってもいい。1本1本のナイフが彼女の身体をかすめるように投げられ、音をたてて後ろのボードに突き刺さっていく。それに究極の官能的陶酔を感じるアデル。実はここに既にアデルとガボールの究極の愛は成立している。だからガボールが普通にナイフ抜きでアデルを愛することが出来れば2人の愛は成就してハッピーエンドとなるはず。アデルの求めているのはそれだ。しかしガボールは、最初の橋の上でも「マトの女とは寝ない」と言ったように、普通に女としてのアデルを愛しはしない。ナイフ投げによる究極の愛の表現(確認)は理解できるけれど、何故にガボールが普通に女を愛せないのか、その理由が明確にはなってこない。セーヌに飛び込んだ後に救急隊員にガボールは「(水中無呼吸?)3分42秒のヨーロッパ記録を自分は持っている」と言うけれど、ナイフ投げもそうで、彼のプライドはそういう自分の能力や技にあるからなのだろうか。だから映画の最後にぼろぼろズタズタとなって初めてアデルの愛を普通に受け入れることが出来るようになるのか。そんなことなのだろうがはっきりとは描かれてない。

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ラストを上に書いてしまったが、そんな彼なので、アデルは客船上で新婚のギリシア男性タキスと恋に落ち、ボートを下ろしてもらって2人は駆け落ちをする。しかし結局これもまた一時の情事に過ぎず、ギリシアに着いた彼女はお払い箱。一方のガボールはアデルを失い、アデルと駆け落ちして去ったタキスに捨てられ絶望している新婚のイタリア人妻をマトにしてショーを行うが、アデルの影がちらついてマトの捨てられ新婦の脚にナイフを刺してしまう。ガボールがアデルを愛しているという確認と解釈すればいいのだろう。船はトルコに着き、彼はイスタンブールへ。ナイフ投げを試みるが、アデルというマト無しには上手く投げられない。アデルらしき姿を見て彼はある女を追いかけ、車に撥ねられるが、女は別人だった。身も心もボロボロになって今度こそ身投げしようとするガボールに声をかけたのはアデルだった。2人は抱き合い愛を確認し合うのがラスト。

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そういうわけでこの映画、色々想像はできるけれど、人物のWHYが何も浮かんでこない。物語はごくありふれて単純で、互いに愛し合える、そして愛している2人がいて、でも何らかの(ここではガボールの思い)理由で2人の関係は成就しなくて別れてしまい、結局色々あって最後に再会して愛を確認するというもの。ヴァネッサをたくさん見せてくれたことと、ナイフ投げを愛の交感として上手く描いたこと、この2つが評価できるだけで、内容的には月並み、平凡、描き足らず。

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Last updated  2007.02.13 23:58:39
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