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じいちゃんの話がひと段落ついたところで、次に書く事はどれにするか考える。やっぱりばあちゃんとの事だよなぁ、と思う。じいちゃんの一件は、確かに大変だった。でも書いてみて、自分の中で随分整理がついていたことが分かった。すでに退院して一年半が過ぎ、状態が落ち着いたじいちゃんは、引きこもりがちではあるがその為返ってほとんど手がかからない。ばあちゃんは…元気だ。まず断らせていただけば、ばあちゃんは「いい人」だ。意地悪ではないし、割とあっさりしているし、優しい人だと思う。それでも、廊下をこちらへ向かって歩いてくる足音を聞くと憂鬱になる。これは、世界中の嫁と姑に課せられた永遠のテーマだろう。「相容れない」そう。どうしても受け入れる事ができない部分。そこを自分のなかで処理し、生き方そのものに昇華できればすばらしい事だが。 *********************じいちゃんばあちゃんがもと居た所は、バス一本で福岡中どこへでも行けるとても便利な場所で、福岡の中でも有数の高級住宅地を抱えている町だった。ところがそこから車でわずか30分余りしか離れていないこの町は、バスで福岡市内に行くにはたった一つのルートしかなく、車に乗らない者にとっては不便なところだ。都落ちした、という侘しい思いがあったようだ。それでも同居を始めた頃、ばあちゃんは一生懸命がんばっていた。家の1階の掃除は自分の仕事と決めたように、毎日せっせと磨いた。家はこういう風に掃除するものなのかと、恥ずかしながら私はその時目からウロコが落ちたのだった。土地に慣れようという気持ちがあったのだろう。毎日買い物についてきた。(正直、これには参った)同居し始めたときに一旦じいちゃんの生活態度が落ち着いたように見えたことで、始終「みさこさんのおかげ」と口にした。当然私も、いっぱいいっぱいに気を張っていた。が、もともと家事が下手で、すぐに汚れた茶碗を溜めてしまうし、掃除機だって気が向いた時しかかけないような生活をしていた私のすることは、ばあちゃんにしてみれば見ていられなかったのだろう。夕食後は、休む暇もなく茶碗を洗い出す。「私が後で洗うから、置いといて。」と言っても、「いいよ、いいよ。」と手を止めない。「こんな風に茶碗が溜まっていると思うと、かえって気になってしょうがない」のだという。そう言われると、今度はこっちの気が重くなる。すでに洗い始めているばあちゃんの手からスポンジを取り上げるわけにもいかず、とぼけた振りで「ごめんね~。ありがとう。」と言う私。放っておいてくれたらいいのに。本心ではそう思っていた。結婚以来、実は私はずっと鬱を引きずっていた。長男が小学校入学するのと同時に今の家に越してくる直前まで、ノイローゼ状態で心療内科にも通っていた。本当の事を言えば、なにもかもほったらかして、じっとうずくまっていたい気分だった。昼間、人に会っている時は空元気が出るので、「悩みないでしょう」と言われることさえあったが、朝起きた瞬間から「何もしたくない」という気持ちと戦いながら過ごし、夕方やっと少し出てきた元気も、夕食の支度で使い果たしてしまう。勢い、家の中はいつも散らかっていて、それを見るとまた落ち込むという悪循環。同居を始めるまでは、食器の後片付けは真夜中か翌朝にしかできない状況だった。しかし義両親をうちに呼び寄せたのは、ほかならぬ私だ。ここで責任放棄をするわけにはいかない。その義務感だけが、身体を動かす。だが、心の空虚は気づかないままにひどくなっていた。
2006.01.29
精神科への半年の入院後、家に帰って来たじいちゃん。入院中は、とにかくわがままだった。入院前から自分の主義を曲げない人だったが、それは自分の部屋に閉じこもって、自分の居心地を守るための我がまま。決まったものしか食べないとか、昼にしか起きないとか、本人の思うようにさせておけばよかったのだ。しかし入院中は、やれどの銘柄の缶入りココアをもってこいと言い、そのために市内を端から端まで車で買いに行かなければならなかったり、差し入れた物が気に入らないと言っては、何度も持っていきなおしたり、「今日、今から来い」と言ってきかなかったり、ほとんど二日に一度はなにかで病院に面会に行ったのだった。生活のペースはじいちゃん中心。でも、そのことに気づかないほど毎日必死だった。でもそれが、じいちゃんが落ち着きを取り戻した理由の一つかもしれない。入院前は自分の部屋に閉じこもり、家族ともほとんど口を利かず、存在を忘れられたように感じていたのだろう。それが、たとえ不本意な精神科への入院であっても、自分が言ったことを家族がほとんどなんでも聞いてくれる…。寂しさが少しは軽減したのではないだろうか。退院してきてからは、一切酒を飲まない。去年、アルコール依存症の主婦が書いた本がドラマになっていたが、その様子を見て、じいちゃんが酒を飲まないということがどれ程大変なことかと感心する。そして、度を越した我がままも鳴りを潜めた。しかし、なんの楽しみもない毎日。昼前に起きて食べるのは、わかめとたまねぎと卵の味噌汁にご飯。夕方6時に風呂に入り、夕食はいわしの缶詰の味を付け直したものとマグロの刺身とご飯。毎日その繰り返し。家族と顔を合わせる食事時もむっつりと黙り込み、たまに話しかけてもめんどくさそうにジロリと見て、「んぁあ~…」と曖昧な返事をすればいいほうだ。あんなに悩んでいたはずの飲酒を、やめさせることが本当によかったのかとまで思うようになった。そのじいちゃんに変化が現れたのは、3ヵ月程まえ。四人目の孫、美月がはっきりと言葉を話し出してからだ。「じいちゃん」と呼ばれるとやはり嬉しいようで、手をとって遊んでやったり、声をかけてやったり。私がパソコンに張り付いていることが多いため、美月はじいちゃんばあちゃんの部屋に入り込んで遊ぶことが多くなった。上の子たちと違い、美月はじいちゃんに対して気遣いがない。それがまたいいようだ。「じいちゃん!」と言うなり、布団で寝ているじいちゃんの周りを駆け回ったり、上に飛び乗ったり。ばあちゃんが歌う歌を覚えて、声を合わせて歌ったり。そのたどたどしい歌声が、じいちゃんとばあちゃんの心をほぐす。じいちゃんの目に少しずつ光が戻り、朝、顔を合わせれば「おはよう」と声を交わすようになった。生活のリズムは相変わらずだが、じいちゃんの体から生気が感じられるように変わってきたのだ。「堕すのかと思った。」と言われた子が、じいちゃんばあちゃんの希望の星になったと言っていい。人生とは、分からないものだ。
2006.01.23
パンツの一件は私にとって衝撃的な出来事だったが、じいちゃんも多少は気が済んだのか、その頃から少しずつ態度が柔らかくなっていった。かかってくる電話は相変わらず私しか取る者はいなかったが、その時の第一声が最初の「お前は誰か?!」から「みさこか?!」(普段呼び捨てにしたことはなかったのだが)になり「みさやんか?!」(これにはびっくり。)そして穏やかに「みさこさんね?」と変わっていった。週一回の医師の面接も功を奏したに違いない。とはいえ、医師・看護師からの説明では、じいちゃんは面接の時自分の話はとめどなく話すが、医師の話になると目をそらし全く聞こうとしない。「お義父さんは、お耳が遠いのかしら…?」とも尋ねられた。たしかに、すこし聞こえにくいことがあるようだが、どうもそのせいだとは思えない。やはり自分の周りに殻を作っていたのではないか。医師に退院の時期を尋ねると、3カ月では短すぎると言われた。その程度の期間では、退院した日に「祝い酒」となる。半年からもしかしたら1年。本人が、入院した理由を本当に自覚できるまでは退院できないと。それを聞いて、家族は複雑な気持ちだった。一年も入院させるなんて…一年で退院してくるのか…日に日に病院でのじいちゃんは落ち着いていった。基本的に、面会は面会室でする事になっている。始めの頃は心の荒れ狂うじいちゃんが、到底自ら面会室に足を運ぶはずもなく、私はしかたなく病室までご機嫌伺いに行っていた。しかし落ち着くに従って、病棟の生活リズムを守るようになり、面会室での面会も問題なくできるようになった。そればかりか、患者のリハビリとして行われる菜園活動に参加したり、レクリエーションに参加したりして、いつの間にか模範患者に。そんなじいちゃんの様子を聞いて、ばあちゃんもすこしずつ落ち着きを取り戻した。「先生が、奥さんはまだ面会に来られませんかって言ってるって。」折を見てそう声をかけると「…行ってみようか。」という返事。入院して3ヵ月以上が経っていた。やがて外泊許可が出て、週末には帰ってくるようになった。その頃から、じいちゃんが耳を疑うような事を言い出した。「先生が、『あんたはもう救いようがない。家族ももう帰って来んでいいと思っとる。ここで死ぬまで一生過ごせ』と言う。」それを聞いて家族はびっくりした。「そんな。それなら、こんな風にしょっちゅうお見舞いには来ないよ。」しかし、家族の顔を見るたびにじいちゃんは同じ事を訴えた。夫もばあちゃんも、もちろん私も、それが本当なら黙ってはいられない。夫と私は、医師との面談を申し入れた。医師は驚くと同時に怒りを隠しきれないようだった。それでも努めて冷静に話そうとしているのが分かった。「アルコール依存を克服するのは大変難しい。今までの自分の経験でも、退院した患者さんで完全に克服できたのは10%にも満たない。10年間断酒していても、ほんの一瞬で逆戻りというケースも無数にあるんですから。お父さんには、なぜここにいるか分かっているかといつも話しているんです。それをご自分が納得しない限り、退院はできないと。」医師の診察の際に立ち会う病棟の看護師たちに尋ねてみても、じいちゃんの言った言葉に皆驚いていた。しかし夫は、医師に対する信頼の根っこが揺らいでしまった。じいちゃんの言うとおりの事を言ってはいないかもしれないが、少なくとも患者がそういう不安を感じるような事を言っているに違いないと。事実は分からない。ただ、患者側と医師との信頼関係が崩れてしまうと、修復は難しい。やがてじいちゃんが医師に「私も生まれ変わらないといけない。酒もやめなければ」と言ったと聞き、家族はじいちゃんを退院させようと決断した。入院して半年後のことだった。
2006.01.18
その日、いつものように病院に行くと、じいちゃんの部屋が変わっていた。それまでの部屋は、おばあさん患者が勝手に入り込んで困るというので、ナースステーションのまん前の部屋に移っていたのだ。しかし今度は、夜通しついている灯りがまぶしすぎるといって、自分の部屋のドアにはめ込まれたすりガラスに、びっちりと新聞紙を貼り付けていた。看護師が困ったように笑いながら、近づいてきた。「お義父さん、下着のままで廊下を歩かれて…。」ああ。やってくれている。家でもパンツ一枚でいて、冬には「寒い」と部屋の温度をドンドン上げる。じいちゃんの部屋のドアを開けると、熱気で一瞬むせ返るほどだ。他の者が暑いんじゃないかなどとは考えない。それを病院でも押し通しているのだ。「最初はお風呂に入らないと言って聞かなかったんだけど、入ったら入ったで、お風呂から部屋まで戻る時にパンツ一枚でね。」精神科医の病棟には、色々な人たちが入院している。でも、裸で廊下を歩く人を見たことはない。「すみません…。」「いえ、お嫁さんが謝る事ないのよ~。でも、お家でも相当手を焼いてるんでしょうね。」あはは…とあいまいに笑いながら、じいちゃんの部屋のドアを開けて中に一歩入った。「洗濯物を取りにきました。」じいちゃんは、無言のまま服を脱ぎだした。「あ、今着ているのも着替える?」返事はない。そのままどんどん脱いでいく。私は慌てた。「着替えるなら、私出ようか…。」そう言っている間に、部屋を出るタイミングを逸した。なにしろお構いなしに脱いでいくので、部屋のドアを開けるにあけられないのだ。あけると真正面にナースステーションがある。仕方なくドアの方を向いて立っていることにした。すると、「ふん」と言う声と共に、じいちゃんは脱いだシャツを私に押し付けてきた。洗濯しろという意味らしい。やれやれと思いながら振り向くと、なんとじいちゃんは最後に一枚だけ履いていたパンツをその場でずるりと下ろし、片手で「ふん」と私に突き出した。一瞬の間。どうしてさっきドアを開けて廊下に出なかったかと後悔した。それこそ素っ裸になったじいちゃんの前で開けるわけにはいかない。抜き差しならない状況に、しかたなく宙に揺れるパンツに手を伸ばした。生暖かい。部屋を出ると、看護師が私の顔をみて駆け寄ってきた。「どうしたの?なにかあった?」いま起きたできごとを話すと、「まあ」と呆れて、「言いたい事は言っていいのよ。ここは病院だから、家ではできない喧嘩もできるのよ。」と言った。私にはとうてい無理な話だが。夕方夫が仕事から戻ると、もう黙っていられなかった。「もういやだ。どうして私だけがじいちゃんの面倒を見ないといけないの?こんな事まで我慢しないといけないの?おかあさんのお陰だって、いくら言われたって、ありがたくもなんともない!なにもかも私に押し付けて!もう行かない!あなたが自分で行ってちょうだい!!」夫はそれから2~3日の間、じいちゃんの病院へ通った。が、仕事をしている夫にはそれは無理な話だと私も本当は分かっているのだ。結局、病院へは私が行くしかないのだった。
2006.01.16
じいちゃんが入院してしまうと、家の中に漂う空気はふっと糸が切れたようになった。しかし、残った者たちそれぞれは胸の内にしこりが残った。それは、入院間際にじいちゃんから投げつけられた言葉で受けた傷だったり、こうなる前に何かできなかったのかという自問だったり、病院へ投げ込むような非道な事をしてしまったという自責だったりした。はっきりしているのは、じいちゃんは自分たちを恨んでいるということ。客観的にじいちゃんがどんなに理不尽な事を言ったりしたりしたとしても、じいちゃんにとっては全部理由があるのであり、病院に入れられるなんて不本意極まりないのだ。入院して体から完全に酒が抜けきるまでの一週間余り、じいちゃんは隔離部屋から出られなかった。入院当日その部屋をのぞいた夫によると、壁といい、床といい、なんとも言いようのない汚れ方をしていて、そこに古びた布団が敷いてあるだけの侘しい部屋だったという。一般病室に移り病棟内を自由に動けるようになると、じいちゃんは早速電話してきた。恨みのエネルギーは少しも衰えていないばかりか、隔離室での1週間はそれをますます増幅させていた。電話を切ったばあちゃんは、ぶるぶると震えながら言った。「もう私は電話に出ない」ばあちゃんの様子を見ると、そうさせない訳にはいかなかった。じいちゃんは電話口で、俺をこんな目に遭わせやがって…と罵ったらしい。電話の機能を調整して、病院からの電話がかかると「○○病院からお電話です」と呼び出すようにた。これで間違えてもばあちゃんが電話に出る事はない。それは、私がじいちゃんからの電話に出なければならないという意味だ。翌日また電話があった。「はい。」病院からだと分かるので、私は努めて明るい声を出した。「誰か?」じいちゃんの乱暴で威圧的な声に、その一言で私は震え上がった。本当に、受話器を持つ手がぶるぶると震えた。「スリッパを持って来い!こげな、病院のスリッパで歩きよるもんなんか、おらんとぞ!俺の事ば、病院に放り込めばどげんでんよかと思うとっちゃろうがぁっ!」「そんなことないよ。」私の言葉が終わらないうち、電話はぶつりと切られた。平日の昼間。家には私と赤ん坊以外誰もいない。スリッパを持って行かなければと思うが、体が動かない。一人であの病院へ行って、ものすごい形相のじいちゃんと対面する。考えただけで震え上がってしまった。しかし行かなければ、じいちゃんはまた荒れ狂うかもしれない。事情を知る友達に頼んで病院まで付いてきてもらい、やっとの思いでエレベーターに乗った。じいちゃんがいるのは重症患者の病棟なので、エレベーターを降りたところに頑丈な扉があり、スタッフが鍵を開けないと内側からも外側からも開けられない。インターフォンでスタッフを呼び、鍵を開けてもらって名を名乗りながら、もうこの人にスリッパを預けてしまおうと思った。「これを渡してもらえますか?」「え?いいですけど、ご本人に会われないんですか?」しかし、そう言葉を交わしている所へ偶然にもじいちゃんが現れたのだ。果たして、その目は怒り、恨み、悲しみ、苦しみといった感情を全て抱え込んで、亡霊のように暗くぎらついていた。持って行ったスリッパを一瞥してからその目で私を見据えて、「これじゃない」と付き返した。私が抱いている孫も、隣に立っている友達も全く目に入っていない。帰りの車の中で、友達が「あれでは、一人で会いには行けんわ。」と言った。それからは毎日のように電話がかかってくるようになった。「○○病院からお電話です」そのたびに、ばあちゃんは哀願するように私を見る。電話の内容は本当に些細な事で、そんな事でいちいち呼び出すなというような事なのだが、じいちゃんの言葉にはいつも「俺がこんなに辛い目に遭うのはお前のせいだ。」という響きがあり、無理やり入院させたという負い目を感じている私たちはそれに歯向かう事ができなかった。電話にも出られないばあちゃんが、もちろん病院にいけるはずもなく、結局私は毎日のように病院へ行き、じいちゃんの恨み言を聞かなければならなかった。友達に甘えるわけにもいかず、私は自分の神経をわざと鈍らせようと努力した。じいちゃんから何を言われても、何をされても気にしない、と。病院では、妻であるばあちゃんが一度も来ないことを不審がられた。そして私を良いお嫁さんだ、じいちゃんは感謝しなきゃならないと言った。夫は事あるごとに「ありがとう。ごめんね。お母さんじゃなきゃこんな事できないよね。結婚したのがお母さんでよかった。」と言った。じいちゃんは病院でも我がままを言い放題し放題で、スタッフもほとほと手を焼いていたのだ。やはりいつものじいちゃんではなかった。いつもならばあちゃんには我がままを言いながらも、外に向かっては気遣いをしすぎるくらいなのだ。だから同居を始める前に一度同じ精神科に入院したときも模範的な患者で、なぜここに入院しているの?と聞かれたほどだった。それなのに、今回は世の中全てを敵に回している。やはり、家族に裏切られたという気持ちがそうさせているのか。しかし、いくら病院で嫁の株が上がっても、夫から感謝の言葉を述べられても、私にも限界というものがあるのだ。
2006.01.14
2階に上がって、まず119番を回した。「酔って暴れるんですが、精神科へ運んでもらうことはできますか?」「いやぁ…その場合は、警察に電話をしてもらわないといけませんね。私たちが迎えに行っても、ご本人が乗らないと言ったら強制はできませんし。」という返事。やっぱりだめか。119番も初めてだったけど、110番なんてダイヤルしたことない。が、躊躇してはいられない。私は意を決して電話のボタンを押した。1・1・0数回の呼び出し音の後、応対の声が聞こえた。事情を説明しながら、私はここでも断られるのではないかと不安で仕方なかった。一通り私の話を聞き終わると、警官は「お義父さんは、さみしいとよ。とにかく出動はするけれど、パトカーが来ることが決して解決になるとは思わんよ。」と言った。その言葉に責められたような気持ちになったが、とりあえずはほっとして子供の頃に聞いた、“精神病院の黄色い救急車”というのは嘘だったのか…。と、ぼんやり考えた。電話を切って居間に戻ると、冷蔵庫の前で夫と義妹が二人がかりでじいちゃんを抑えていた。「離せぇっ!俺は昼飯を飲むとたい!俺の昼飯を邪魔すんな!これが、これが俺の昼飯ぞ!おい、よく見とけ!このビールが俺の昼飯ぞ!これしか俺の食うもんはなかとぞっ!」私は胸を矢で射られたような気がした。私が昼ごはんを作るのを放棄したことが、じいちゃんの引鉄を引いてしまったのだろうか。その後も、ばあちゃんへ、夫へ、義妹へ、それこそ私が知らないような昔の事まで引っ張り出して、とめどもなく恨み言を叩きつける。その一つ一つが、言われる当人にとっては胸をえぐられるような苦しみだった。人がどうすれば傷つくか、残酷なまでに知り尽くしているかのようなじいちゃんの言葉に、その場にいる者は皆ズタズタだった。「お父さん、しっかりしてよ!あの優しかったお父さんはどこへ行ったの?!」義妹の叫びがむなしく響いた。じいちゃんはきっと、それまでたくさん傷ついてきたのだろう。だから、どうすれば人が傷つくのかよく分かっているのに違いない。今はそう思える。でもその時は、なぜじいちゃんが言葉のナイフを振り回すのか思いやる余裕はなかった。「さみしい」などと言われても途方に暮れるばかりだった。パトカーがサイレンも鳴らさず、回転灯もつけずに到着し、入ってきた二人の警官を見てじいちゃんの態度は一変した。それまでどろんとした目を据わらせてあたりを睨みすえていたのが、にわかに背筋を伸ばし、目の充血さえも消えてしまった。「どうされましたか?何かありましたか?あぁ、私はなんてことはないんですよ。ちょっと夫婦喧嘩をしたまでで、家族が大げさに騒いだだけですからご心配なく。」警官たちはこのような場面は慣れっこなのだろう。うんうんと温厚にうなずきながら、じいちゃんを病院へ行くように説得してくれた。とはいえ、当人はよもや精神科へ行くとは思ってはいない。家族が心配しているからという警官の言葉にしぶしぶ従い、行きつけの内科にでも行ってお茶を濁そうと思ったようだった。パトカーで病院へ連れて行ってもらうわけには行かないが、例外として家の車の後ろを病院まで付いてきてくれた。車の中で内科ではなく、以前入院していた精神科へ向かっていると知って、じいちゃんは再び大声で吠え出したが、車を降りたあと病院の中まで警官が送ってくれたおかげで、なんとか診察室に入ることができた。精神科に入院といっても、本来は本人の了解がなければ入院することができない。しかし今回のように暴力を振るったりした場合、家族の承認を得れば強制入院という手立てが打てる。しかしその場合、個室に拘束されて体内のアルコールが完全に抜けきるまで、人によっては何週間も一歩も外へ出ることはできない。それでもいいかと聞かれて、家族は一瞬迷った。本当にこれでいいのか?間違えていないか?でもこれが、やり直しできる最後のチャンスかもしれない。ばあちゃんはほとんど心神喪失状態で、自分の名前を書くことも難しかったが、義妹の手を借りながらなんとか手続きを終わらせた。夫と義妹は病室に入ったじいちゃんの様子を見に行き、そこでも散々言われて戻ってきたが、その病室の荒れ果てた様子に義妹は涙をこぼした。こうしてじいちゃんの入院生活は始まった。
2006.01.11
2階に上がって、まず119番を回した。「酔って暴れるんですが、精神科へ運んでもらうことはできますか?」「いやぁ…その場合は、警察に電話をしてもらわないといけませんね。私たちが迎えに行っても、ご本人が乗らないと言ったら強制はできませんし。」という返事。やっぱりだめか。119番も初めてだったけど、110番なんてダイヤルしたことない。が、躊躇してはいられない。私は意を決して電話のボタンを押した。1・1・0数回の呼び出し音の後、応対の声が聞こえた。事情を説明しながら、私はここでも断られるのではないかと不安で仕方なかった。一通り私の話を聞き終わると、警官は「お義父さんは、さみしいとよ。とにかく出動はするけれど、パトカーが来ることが決して解決になるとは思わんよ。」と言った。その言葉に責められたような気持ちになったが、とりあえずはほっとして子供の頃に聞いた、“精神病院の黄色い救急車”というのは嘘だったのか…。と、ぼんやり考えた。電話を切って居間に戻ると、冷蔵庫の前で夫と義妹が二人がかりでじいちゃんを抑えていた。「離せぇっ!俺は昼飯を飲むとたい!俺の昼飯を邪魔すんな!これが、これが俺の昼飯ぞ!おい、よく見とけ!このビールが俺の昼飯ぞ!これしか俺の食うもんはなかとぞっ!」私は胸を矢で射られたような気がした。私が昼ごはんを作るのを放棄したことが、じいちゃんの引鉄を引いてしまったのだろうか。その後も、ばあちゃんへ、夫へ、義妹へ、それこそ私が知らないような昔の事まで引っ張り出して、とめどもなく恨み言を叩きつける。その一つ一つが、言われる当人にとっては胸をえぐられるような苦しみだった。人がどうすれば傷つくか、残酷なまでに知り尽くしているかのようなじいちゃんの言葉に、その場にいる者は皆ズタズタだった。「お父さん、しっかりしてよ!あの優しかったお父さんはどこへ行ったの?!」義妹の叫びがむなしく響いた。じいちゃんはきっと、それまでたくさん傷ついてきたのだろう。だから、どうすれば人が傷つくのかよく分かっているのに違いない。今はそう思える。でもその時は、なぜじいちゃんが言葉のナイフを振り回すのか思いやる余裕はなかった。「さみしい」などと言われても途方に暮れるばかりだった。パトカーがサイレンも鳴らさず、回転灯もつけずに到着し、入ってきた二人の警官を見てじいちゃんの態度は一変した。それまでどろんとした目を据わらせてあたりを睨みすえていたのが、にわかに背筋を伸ばし、目の充血さえも消えてしまった。「どうされましたか?何かありましたか?あぁ、私はなんてことはないんですよ。ちょっと夫婦喧嘩をしたまでで、家族が大げさに騒いだだけですからご心配なく。」警官たちはこのような場面は慣れっこなのだろう。うんうんと温厚にうなずきながら、じいちゃんを病院へ行くように説得してくれた。とはいえ、当人はよもや精神科へ行くとは思ってはいない。家族が心配しているからという警官の言葉にしぶしぶ従い、行きつけの内科にでも行ってお茶を濁そうと思ったようだった。パトカーで病院へ連れて行ってもらうわけには行かないが、例外として家の車の後ろを病院まで付いてきてくれた。車の中で内科ではなく、以前入院していた精神科へ向かっていると知って、じいちゃんは再び大声で吠え出したが、車を降りたあと病院の中まで警官が送ってくれたおかげで、なんとか診察室に入ることができた。精神科に入院といっても、本来は本人の了解がなければ入院することができない。しかし今回のように暴力を振るったりした場合、家族の承認を得れば強制入院という手立てが打てる。しかしその場合、個室に拘束されて体内のアルコールが完全に抜けきるまで、人によっては何週間も一歩も外へ出ることはできない。それでもいいかと聞かれて、家族は一瞬迷った。本当にこれでいいのか?間違えていないか?でもこれが、やり直しできる最後のチャンスかもしれない。ばあちゃんはほとんど心神喪失状態で、自分の名前を書くことも難しかったが、義妹の手を借りながらなんとか手続きを終わらせた。夫と義妹は病室に入ったじいちゃんの様子を見に行き、そこでも散々言われて戻ってきたが、その病室の荒れ果てた様子に義妹は涙をこぼした。こうしてじいちゃんの入院生活は始まった。
2006.01.11
日に日に精神状態が悪くなるじいちゃんは、酒を飲んで茶碗をばあちゃんの方へ投げてよこしたり、ドアを叩きつけるように締めたりするようになり、ばあちゃんとは口を利かなくなった。例によって他の者には妙に愛想よく話しかけるのだが、子供たちがそれに付き合うはずもなく、夫はいつも帰りが遅いし、結局家中で口を利くのは私だけになった。週に2度、ばあちゃんは決まって出かける用事があり、その日はじいちゃんの昼ごはんを私が用意することになっている。じいちゃんは食べ物に独特の癖があり、ひとつのメニューが気に入ると当分の間、徹底してそれしか食べない。その頃のお気に入りは素うどん。鍋の中で溶けてしまうのではないかと思うほど、クタクタと煮た麺をスープの中に入れるだけだから、手がかかるものでもない。その日私は午後から用事があり、じいちゃんのうどんを作って声をかけた後、急いで自分の昼食を食べて出かけた。ところが家に戻ってじいちゃんに「ただいま」と声をかけると、ジロリとにらんで返事をしない。いつもの事ながら何が理由かわからないが、どうも私にもだんまりモードになっているようだ。気にしないでおこうと思った。辛いのは結局本人だ。しかし夕方ばあちゃんが帰ってきて、じいちゃんから聞き出したその訳を聞いて私は頭に血が上った。「うどんが冷めていた。」猫舌のじいちゃんは、できたてを食べられない。ばあちゃんも気をつけているのだが、それでも「こげな熱いもん、食われるか!」と文句を言う事が時々あった。それで私はうどんの器をわざと温めなかった。「うどんができたからどうぞ。」と声をかけてから、なかなか食べに現れなかったのは自分じゃないか。それを、「うどん作ってから自分の昼飯をゆっくり食べて、それから俺に声をかけたに違いない。」とご立腹だ。確かに、じいちゃんが居間に現れるのと同時に私は家を出たが、それだけ急いでいただけの事。自分は呼ばれてから何をそんなにぐずぐずしていたんだ。そもそもそれだけの理由で、よくもまあ人ひとりの存在をまるっきり無視するようなことができるものだ。私は、じいちゃんの昼ごはんは作らないと決めた。やってられない。いい年したじいさんの子供じみた我がままに振り回されるのはごめんだ。向こうも口を利かないだけに、昼時になると自分で勝手にカップ麺を作って食べるので、これ幸いとお気に入りのカップ麺を山ほど買って置くことした。好きにしておくれ。私はしらない。いつもならターゲット以外の者とは口を利くのだが、このときじいちゃんはとうとう誰とも口を利かなくなった。みんなもじいちゃんが部屋に入ってきても何も言わない。そんな日が数日続き、ある朝ボソッと私に「おはよう」と声をかけてきた。でも私は返事をしなかった。私の中で積もり積もった気持ちが意地悪に形を変えていた。そんなある日、事態は急変した。私が二階にいると、下からじいちゃんの怒鳴り声が聞こえてきた。この頃では珍しいことではないが、私は耳をすませた。ガタガタと椅子が激しく動かされる音に続いてドアのけたたましい音がして、ばあちゃんの「痛い、痛い!」という悲鳴が。ただ事ではない。あわてて階段を駆け下りると、うずくまるばあちゃんにこぶしを振り上げるじいちゃんの姿があった。「何してるの!」とっさに私はじいちゃんを羽交い絞めにした。「はなしてくれんね!こいつは、こいつは、こげんでもせんと分からんとたい!」鼻息荒くそう言いながら、今度は足でばあちゃんを蹴ろうとするじいちゃん。ショックで動けないばあちゃんを何とか遠くへ追いやったが、少しでも力を抜くととたんに殴りかかろうとするじいちゃん。そこへ二階から中学生の長男が、何事かと降りてきた。そうだった。今日は熱を出して学校を休んでいたのだ。夫の職場に急いで帰るよう電話をするように言った。そう遠くない職場からとるものもとりあえず夫が帰ってくるまで、私はずっとじいちゃんを押さえていなければならなかった。夫がなんとかなだめてじいちゃんを居間のソファーに座らせた。ばあちゃんは自分の部屋で泣いていた。義妹も電話で呼ばれて飛んできた。そしてこんな日がくるのではないかと恐れていたと涙を浮かべた。ソファーに座ったものの、獣のような恐ろしい声でわめき続け、隙があればばあちゃんを殴りに行こうとするじいちゃんを見ながら、義妹は私にこっそりと言った。「救急車を呼んで。だめなら警察に電話して。」
2006.01.06
あけましておめでとうございます。昨年はボチボチとしか更新しないにも拘らず、読みにきてくださったあなたに感謝いたします。今年もどうぞよろしくお願いいたします。------------------------------------------------------封印が解けたといっても、今回は育児ノイローゼと言うわけではなかった。その証拠に、気分が落ち込んでどうしようもないときに、赤ん坊を抱きしめるとなんともいえない落ち着いた気持ちに満たされた。原因は自分でもなんとなく分かっていた。自信がないのだ。「自分らしくしていいんだよ」といわれても、自分らしさが分からなかった。自分を貫く芯が定まらず、今何をするべきなのか分からない。ただ頭にあるのは、両親と波風を立てずに暮らすことだけ。子供のことも、夫のことも二の次。常にじいちゃん・ばあちゃんが気分を害していないかどうかだけが気になって仕方なかった。そして、自分がそう思っていると悟られるのを恐れていた。いつの間にか始終不安な気持ちを抱えるようになり、そのうち「死」という言葉さえ脳裏に浮かぶ。でも本当に死ぬ勇気はない。それがまた自己嫌悪につながっていく。暗い螺旋階段をひたすらに下っていくような日々。私の母は少々エキセントリックな母親で、子供の頃からいつも母親の顔色ばかり伺っていた。思春期には親に反抗しもしたが、母のすさまじいヒステリーにかなう筈も無く、結局折れるのはこっちだった。そんな風に人の顔色ばかり伺っているうちに、私はちゃんとした自己形成をしないまま大人になってしまったようだ。精神状態というのは伝染するのだろうか。そんなある日、ばあちゃんが涙目で「不安で不安で仕方がない」と訴えてきた。同居を始めて2年が過ぎていた。ばあちゃんにしてもじいちゃんの顔色を伺いながら、私たちに気兼ねをしていろんな事を我慢する毎日だったのだろう。同居を始める理由だったじいちゃんの酒癖は、始めこそおとなしくなったもののすぐに朝から飲むようになり、更に飲むと不機嫌に黙り込むかクダをまくようになっていった。おそらくじいちゃんだって、同居のストレスが溜まっていたに違いない。部屋から一歩も出てこないとはいえ、物音や明かりや人の気配が、じいちゃんにとっては自分の領域を侵す異物だったのかもしれない。そのうちに、夜中に起き出してはビールと一緒に睡眠剤を飲むようになった。その量も日に日に増えて、私は朝起きてからばあちゃんと一緒に、夜のうちゴミ箱に投げ込まれたビールの空き缶の数を数えるのが日課になった。元の木阿弥だ。いよいよ何のための同居だか分からなくなってきた。ついにばあちゃんは総合病院の心療内科に通うようになった。そういう状況で、私は自分の鬱々とした気持ちを誰にもいえなかった。これ以上家の中にノイローゼ状態の人間がいたら、目も当てられない。大丈夫。大丈夫。まだまだ、私はがんばれる。そう自分に言い聞かせるだけの元気がまだなんとか残っていた。しかし家の中に渦巻き始めた得たいの知れない影は、ますます暗く重くなっていく。じいちゃんは飲むたびにばあちゃんを口汚くののしるようになり、それが目に見えてどんどん酷くなってきた。「これはアルコール依存症だよ」私は夫とばあちゃんにそう言ったが、二人はなかなかそれを認めようとはしない。家族というのはそういうものなのだろうか。「ちょっと機嫌が悪いだけ」「酒が好きだからしょうがない。これ以外に楽しみがないのだから。」しかし、朝・昼・晩と飲み続け、夜中に眠れずにまた飲む。これを依存症といわずになんと言うのだろう。第一、飲んでいるときのじいちゃんの様子は決して楽しんでなどいないではないか。そして、認めようが認めまいがどうしようもない事態が起きたのだった。
2006.01.04
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