1

Photo I ドラム隊がやって来た。 (2012/11/11 15:52) Photo J 国会前抗議エリア(の端っこ)のドラム隊。 (2012/11/11 15:55) 「霞が関1丁目」交叉点を左折し、さらに「外務省上」交叉点を右折して「国会前」交差点方向に向かっていると、後から見事なリズムで「ドラム隊」がやってくる。ドラム隊をやりすごしてその後をついて行く。何となく元気で軽快な足運びになる。「国会前」交差点を渡り、「国会前抗議エリア」に向かうのだが、すでに歩道はびっしりの人で、ドラム隊はずっと手前に陣取って定点演奏を始めた。 人混みの中を少しずつ前に進む。公園の鉄柵と道脇の植え込みの間を這うようにして進むが、photo Kの写真を撮ったあたりで身動きができなくなった。ほんのわずかの隙間から見ると、歩道の端(車道側)に人が歩けるくらいのスペースが確保されているのだった。Photo K ファミリリーエリアに人がびっしりと(国会前抗議エリアから)。 (2012/11/11 15:59) 歩行スペースに出させてもらって国会方向に歩き出す。本当にゆっくりだが「国会正門前」交叉点までは順調に進む。しかし、角を左折すると私と逆方向に歩く人が大勢いて大混雑になった。そこそこ強い雨が降っているものの傘を差して歩くのはきついので畳むことにした。さいわい、上下とも登山用ウェアなので多少の防水性はある。だが、手に持った「プログラム&MAP」はすっかり濡れてくちゃくちゃになってしまった。 国会前の直角三角形の公園の二辺の歩道は、人でびっしりである。「本部」がある「財務省上」交叉点から「国会前」交叉点までの一辺(歩道)は歩きやすい。もう1度「国会前」交差点に出て「ファミリーエリア」に向かう。 ファミリーエリアはゆったりと、などということはまったくなくて、やはり人はびっしりである。人の後をついて歩けば必ず動けなくなる。すぐに公園に入って憲政記念館のトイレを使わせてもらい、それから反対側、「憲政記念館前」交叉点の方から国会正門前に向かうことにした。 憲政記念館では雨を避けてベンチで休んでいる人が大勢いた。私と同年齢の人が多い。そういえば、抗議エリア歩道に頑として座り込んでいる人にそんなに若い人は多くないような気がする。 中には、雨の中を歩行器を押して抗議エリアに向かう高齢の女性もいた(我が家の108才の義母は、この歩行器を使ってかろうじて4、5メートルを歩く)。びっくりして、感動して、ずっと眺めていた(家に帰って、写真を取り忘れたことを妻になじられた)。 憲政記念館の所から公園を出て国会正門前に向かうが混雑はまったく同じで、ぞろぞろと人について歩いて行くとすぐに動けなくなる事情はまったく同じで、やはり、国会側の二辺の歩道は人で埋め尽くされている。 わずかに作られた歩行スペースを進む。このスペースでは、ちょっとで立ち止まると「立ち止まらないで下さい」とお巡りさんの注意が飛んでくる。このエリアでのお巡りさんの声掛けが際立って多い。ファミリーエリアなのでことさら安全に気を配っているのかもしれない。 交差点を渡るときも、「雨で濡れていますので、滑らないようにして下さい」と声を張りあげているお巡りさんがいる。「ありがとうっ」と女性の大きな声が応える。「石つぶてと警棒」の全共闘時代とは天国と地獄ほどの差である。 Photo L 国会前抗議エリア(ファミリーエリアから)。 (2012/11/11 16:27) ファミリーエリアを「国会前」交叉点に向かう頃には、少し雨脚が強くなってきた。雨天のせいか、薄暗くなるのも早いようだ。「立ち止まらない」と注意されながら急いで撮る写真はピンぼけばかり。 「外務省上」交叉点でまた「ドラム隊」に出会ったが、前のドラム隊とは違うようだ。ドラム隊の傍にいると、私のような年齢のものでも元気に浮き立つような感じなって楽しい。 「霞が関2丁目」交叉点まで戻る頃には完全に夕暮である。まだまだ大勢の人が交叉点を渡って国会前へ向かっている。信号が赤になると、歩道は人で溢れて通り抜けられない。交叉点を渡るわけでもないのに、赤信号を4回ほど待って、国会通りを日比谷公園方向に左折することができた。 Photo M 薄暗くなっても国会前、首相官邸前へ続く人波(国会通り)。 (2012/11/11 16:42) 私としては、もう帰り足である。心はとても元気になったが、体はへとへとである。人混みの中は山登りよりきつい。それでも、今日は珍しく人酔いはしなかった。 新幹線に乗って、地図を出して眺めていて、大失敗に気づいた。全エリアを歩いたつもりだったのに、「官邸前抗議エリア」が抜けていた。官邸に首相がいたかどうかは知らないが、肝心なエリアだったのに。霞が関界隈Map A~Mは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV4」、 歩行軌跡(往路のみ)は、「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータ(乱れはビルの影響)。
2012.11.11
閲覧総数 1241
2

4時半に起き出し、犬(牝、11才、イオ)を連れて散歩に出る。天気は曇り、肌寒い。気温は17,8℃くらい。とてもアユ釣り日和とはいえない。 公園から川を見下ろすと、川に立っている釣り人はまだ一人だけ。私がアユ釣りを始めた頃とは、大いに様変わりしてしまった。以前は、暗いうちから焚き火をしながらたくさんの人が解禁の午前4時を待っていたものだ。大概はコロガシなので、そんなに早くても大丈夫なのである。 バブルがはじけ、釣り人が減り、稚魚の放流数も半減した。冷水病に長い間祟られている間に、熱心な釣り人ほど良い川を求めて他県の河川に気軽に出かけるようになっていたのである。じつのところ、10年ほど前までは私もそのような一人だったのだ。 でも今は、さしあたって地元の広瀬川である。6時半に家を出る。入川する場所は、いつも決まっている。仲の瀬橋から澱橋の間のどこかである。理由は簡単、急げば30秒、のっそりと動いても2分で川に出て、オトリを引き舟に移し、徒歩で移動できるからである。仲の瀬橋から上流に歩いて、入川者の具合などを勘案して適当に入るだけなのである。オトリ缶も持っていかない。 堤防を下ろうとすると、川中に2羽のカワウが見える。5,6年前、ヤマメ釣りの時に上流で見たのがカワウらしいと思ったが、実際に確認したのは今年が初めてである。日は違うが、解禁前に、澱橋付近で1羽、仲の瀬橋付近で3羽、大橋下流で4羽のカワウを目撃した。カワウの生息域が北上しているということだが、いよいよ広瀬川もカワウの問題に直面する兆しなのだろうか。 仲の瀬橋上流にいたカワウ。 (2012/7/1 6:37) オトリを持って堤防を歩いて行くと、赤門の背に1人、胡桃淵に1人、澱橋下の淵尻に2人、澱橋上のセに5人ほどの釣り人が見える。澱橋から下の人は全員がコロガシ、上の人たちは友釣りがほとんどらしい。 澱橋付近(胡桃淵上の瀬から見る)。 (2012/7/1 6:59) 胡桃淵とその下流(胡桃淵上の瀬から見る)。 (2012/7/1 6:59) 7時頃にオトリを出す。仕掛けは、複合メタルの0.06号の水中糸ノーマル仕掛け、針はグランT6の7号3本錨である。最近は瀬もトロもある程度はこなせる複合メタルから始めることが多い。まめに仕掛けを取り替えるのが面倒になったということである。複合メタルは編み込み糸で細かい乱流が生じ水切れ抵抗がそこそこ大きく、オバセが利くのである 場所は、胡桃淵上の左岸の分流の瀬である。狙いは瀬脇の大きめの石だが、ハミは本格的な縄張りアユのようには見えないのだが、それ以外に狙い目がない。まったく反応なし。 瀬頭に移って、平瀬脇(川半分は岩盤底で石がない)の60cmくらいの深さを狙うが、ここもまったく反応なし。ここまで1時間。竿を下ろし、石を見て歩く。8時の時点での水温は17℃である。どんよりと曇り、ときどき霧雨が降るという天気で、気温も低いので釣れないのは不思議ではない。 右岸の分流は堤防上からは水色が良さげに見えたのだが、川に入ってみるとハミがほとんどない。完全に候補外である。左岸の分流の瀬脇には、大きなハミが入ってる石があるのだが、縄張りは形成されていないようだ。瀬の流心の石のハミも薄くてはっきりしない。渕尻に行くと、小さな群れ鮎に食まれた石がたくさんあるが、オトリの対象ではない。 結局、ここでは瀬脇しか狙い目がないという初めの判断に戻ってしまって、つまり、手がないということになってしまった。 組合の監視員標を胸につけた知人が二人、上流にいたので川中での立ち話になった。そこに、私のあとから近くに入って、ユリカモメにオトリをさらわれて釣り続行を諦めた人も加わって情報交換である その監視員や、釣具店、解禁前の調査釣り(放射性セシウム検査用の検体採捕を兼ねている)の結果をまとめると、広瀬川の現況はおおよそ次のようなものである。 例年以上に雪が多くて、雪代が遅くまで流れていたために早期の稚魚放流ができず、放流魚の生育が例年ほどではない。その雪代のため、早期の天然遡上群は少ない。しかし、5月3日の大雨、6月19日の台風の大雨による増水はその後の遡上を助けて、後期遡上群はそこそこ入っている。数は例年くらいいるような感じであるが、生育が遅い。大増水は遡上を助けたが、長く続いた濁りは生育を阻害したようだ。狙いは梅雨明けかも知れない。 調査釣りの結果、釣れる場所は例年とだいぶ異なっている。3・11震災復旧で河川工事が至るところで行われ、その影響が強く出ているようだ。変わってしまった川底を考慮しながら丹念に探るしかないようだ。 赤門の瀬(白泡の部分)と瀬頭の平瀬。上の写真の下流部分 (2012/7/1 10:30) 9時を回った。何か手があるとすれば、場所を移動することくらい、ということで帰り足で下流へ移動することにした。 赤門の瀬の上で竿を出してみた。すぐに追った。例年とは違い、片手であっさりと抜ける。19cmくらい。3尾目までは順調に続いた。4尾目を狙ってやや上に移動し、むこうヘチの岩盤脇を狙っていると、ひったくるような強烈なアタリ、下流に5.6歩動いて矯め、両手抜きで抜きあげたが飛んでくるのはハヤ(ウグイ)なのだった。アユのような引きで、ハヤに良くあるような仕掛けをぐちゃぐちゃにすることもなく、じつにタチの良いハヤなのであった。それにしてもアユは片手抜き、ハヤは両手抜き、バランスを欠くのであった。 赤門の瀬に入ったコロガシの釣り人。 (2012/7/1 10:35) ハヤの引きでオトリが弱ったのを機にここでおにぎり1個の朝食である。その朝食の間に、上流のコロガシの人がやってきて、私のすぐ下、赤門の瀬に入った。私の場所で釣れるのが見えれば、当然である。ただ、残念なことに瀬の下まで丁寧に探ったようだが、1尾も掛からず、元の場所に戻って行ってしまった。コロガシにも掛からないというのは、アユ自体がアクティヴに動き回っていないことの証左かも知れない。 養殖オトリアユがまだ元気だったのでもう1度使ったら、それで1尾、仕事をした養殖オトリを放流。さらにもう1尾の養殖オトリをつけてもう1尾、またオトリ放流である。その場所でもう1尾掛けて、最後に大型のハヤが1尾掛かったのを機に竿を納めることにした。11時20分でおしまいである。 最後の1尾は、釣れた場所を確認しながら川を渡って、ハミを確認した大石回りに下流から泳がせて掛けたもの。きちんとした縄張りがあったのである。9時半に最初の1尾だったが、時間の効果は20%くらい、ほとんどは場所で決まったような気がする。少なくともこの場所は震災復旧工事以前では問題にならなかった場所である。数年はこのような状況が続くかもしれない。 不漁であったが、昨年よりははるかによい。昨年は、解禁日に2時間川を歩き、釣りの対象になるハミを見つけられず、それだけで広瀬川のアユ釣りは終わってしまった。少ないアユを追いかけたりはしない、という決心をしたのである。自主禁漁である。 飛び跳ねる6尾の釣果(19~21cm)。 (2012/7/1 11:45) 広瀬川のアユにも規制値以下だが放射性セシウムが含まれている。そのため、近所、知人にアユを配ることはしないが、私は食べるつもりである。人には勧めないが、私はそうする。 仲の瀬橋上の3人の釣り人。 (2012/7/1 11:50) 帰り足で仲の瀬橋の上に入っている友釣り師に話を聞いたら、1尾も掛かっていないという。コロガシで2尾の人と1尾の人の釣果が、それまで聞いた話の全てであった。 澱橋の上に4人で入っていた釣り人は、福島からやって来たということであった(東京電力福島第1原発事故で太平洋岸のほとんどの河川では釣りができなくなっている)。澱橋の上では釣れなかったと言って、川を見ながら下ってきたが、結局、諦めてどこかへ移動して行ってしまった。 普段であれば、広瀬川はわざわざ他県から釣り人がやってくるほどの川ではない。せっかく福島からやって来たのに、気の毒なことではあった。広瀬川もいつかは他県の人にも喜んでもらえるような良い川になってほしいと思う、切に。
2012.07.01
閲覧総数 322
3

JR山手線、高田馬場駅は高架の下にあって、改札口を出ると山手線の架道橋の下に出る。今日は、ここから西武新宿線の下落合駅まで歩き、体に余裕があれば、そこから山手線の隣駅である目白まで歩いてみるつもりだ。Photo A 高田馬場駅と山手線架道橋。(2015/9/19 11:18) 駅から出て、すこしばかり東に歩き、振り返って山手線の高架を眺める。架道橋そのものは高田馬場駅のホームの1部で、長い平屋建てが架かっているような姿だ。Photo B1(左) さかえ通り入口。(2015/9/19 11:18)Photo B2(右) さかえ通り。(2015/9/19 11:20)Photo C 高田馬場西商店街の通り。(2015/9/19 11:19) 高架の下を通る道の先は緩やかな坂道の商店街になっていて、道端では今どき珍しいチンドン屋が楽器を鳴らしている(Photo Cの左の歩道)。 左手に「さかえ通り」、「東京富士大学入口」という案内が掲げられた道幅の狭い商店街が見えた。飲食店の看板が賑やかな道だ。そこに入ってみることにした。 Photo D 神田川(「しみずがわ橋」から)。(2015/9/19 11:22) さかえ通りは緩やかに左にカーブした道で、次第に飲食店の看板が少なくなっていく。右手の路地を除くと、空色に塗られた橋の欄干が見える。当然のようにその路地に入った。 街歩きではたいてい、平地より坂道、広い道より狭い道、直線道より曲がりくねった道、川や橋や緑地に惹かれながら歩くのである。Photo E 東京富士大学と「たじま橋」。(2015/9/19 11:26)Photo F1(左) メドーセージ。(2015/9/19 11:29)Photo F2(右) 高田馬場西商店街通りへの坂道。(2015/9/19 11:30) 「しみずがわばし」という橋で神田川を越える。そのまま進むと、下落合に遠くなるので、左手に見つけた1メートルほどしかない細道を抜けて、神田川の上流に戻る。 東京富士大学の建物が見える。両岸に建物があり、川越しに連絡通路が備えられている。 大学のやや下流に、やはり空色に塗られた「たじまはし」がある。その橋を渡り、大学本部の建物の前を通り、高田馬場駅からの道を目指すと、最後は勾配のきつい坂道になった。Photo G 高田馬場西商店街通り(駅方向)。(2015/9/19 11:31)Photo H 西商店街通り。(2015/9/19 11:36) 坂道を上りきって出た通りで「高田馬場西商店街」という名称を見つけたので西商店街通りと呼んでおく。 高田馬場駅方向へは緩やかに下っているようだが、これから歩いて行く西方向はフラットになっていて、ここからは低い丘陵の尾根のような地形らしい。 街灯の上の方に手塚治虫が描いたさまざまなキャラクターが描かれた四角い看板が掛けられていく。「手塚治虫プロダクション」が高田馬場にあるためらしい。Photo I1(左) 北の路地へ入る。(2015/9/19 11:39)Photo I2(右) さらに北へ。(2015/9/19 11:40)Photo J 階段下は「戸三小通り」。(2015/9/19 11:41) 西通り商店街を西に進むほど賑わいは薄れていく。通りに出てから6、7分、距離にして4、500メートル歩いたあたりで右手(北)の住宅地の細道に入った。突き当たりを2度ほど折れて北に進むと緩やかな下り坂になり、その最後は下り階段があって、階段下はやや広い道になっている。 地図を見ると、細い道が縦横に走る中で、その道は戸塚第三小の南西辺を沿うように進み、さらに神田川の湾曲に沿うように西から南へと曲っていく道だ(「戸三小通り」だという)。Photo K1(左) 「戸三小通り」。(2015/9/19 11:42)Photo K2(右) 「戸三小通り」から西の住宅地へ。(2015/9/19 11:45)Photo K3 もう色づいた柿の実。(2015/9/19 11:45) 階段を下りて広くなった道を西に歩く。わずかに右に湾曲する道で、三階建て程度のアパートらしき建物が多い。 道は小学校の南西角で右に折れるが、そこで左に入る細道に入る。普通の民家が並ぶ住宅地で、それぞれの庭に植えられた緑の多い道である。普通の住宅なら3軒ほどが建ちそうな広さの空き地に銀杏の大木が4本ほど並んで立っている。 銀杏の空き地を過ぎて右に曲って行くと、5メートルほどの柿の木があって、たくさんの実がもうきれいに色づき始めている。東北の農村育ちなので柿の木は珍しくないはずだが、いつも心惹かれるものがある。初秋の柿の木は自然の豊穣さを感じさせ、木の葉がすべて落ち、取り残されたわずかな実が残る晩秋の柿の木には厳冬に向かう寂寥を強く感じる。柿の木は秋になって初めてその存在感を顕わにするようだ。Photo L1(左) 路地を抜ける。(2015/9/19 11:47)Photo L2(右) ボケの実。(2015/9/19 11:47)Photo M 階段を下りて再び「戸三小通り」へ。(2015/9/19 11:47) 塀越しに数個の実がなる木瓜の植え込みを見ながら細道を辿ると、わずかに道は下り、その先はまた階段になっていた。下は変則的な三叉路で、さらにその先は「戸三小通り」が交差する十字路である。Photo N1(左) また、戸三小通り。(2015/9/19 11:49)Photo N2(右) 戸三小通りから右に分かれる。(2015/9/19 11:51)Photo O 神田川にかかる「せゝらぎ橋」。(2015/9/19 11:52) ふたたび「戸三小通り」を辿って行くと、道は直角に左に折れる。その角に「戸三小通り」という道標が立てられていて道の名前が分かったのだった。 「戸三小通り」ではなく、そこで分岐する右の道に入った。道の先に6段ほどの階段を上って、神田川に出た。そこに架けられている橋は歩行者専用で、「せゝらぎ橋」という表示があった。 Photo P1(上) 「せせらぎの里公苑」(1)。(2015/9/19 11:55)Photo P2(下) 「せせらぎの里公苑」(2)。(2015/9/19 11:56) 「せゝらぎ橋」を渡ると、「せせらぎの里公苑」の入口である。公園に入ってすぐ左手にあったトイレで用を済ませた。いつも思うことだが、東京の街歩きでは適当な間隔で公園が現われ、トイレで困ることはない。なまじ自然の残る田舎都市よりも便利がいい。 この「せせらぎの里公苑」は、東京都下水道局落合水再処理センターという下水道処理施設の上に造られた公園だという案内看板があった。公園の中で都会のトイレのことを考えていたはずの私は、トイレの後処理施設の上に立っていたのである。Photo Q 下落合駅を出る西武新宿線電車。(2015/9/19 12:00) 「せせらぎの里公苑」を出ると「下落合」駅へ行く道である。駅に近づいていくと、おりしも西に向かう西武新宿線の電車が下落合駅を出て踏切を横切っていくところだった。 街歩きMap。A~Qは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。
2015.09.19
閲覧総数 1973
4

「ブラック企業」とか「ブラックバイト」という言葉はすっかり定着して、今では「ブラック企業大賞」なども設けられていて、社会からの批判の構造はそれなりにできているように見える。とはいえ、労基法を的確に適用していけば防げていたような事例が後を絶たない。電通の例のように、人の生命が失われてからやっと適用されるのがせいぜいに思える。つまりは、政治のレベルでブラック企業を防ごうという意欲も努力も私には見えないのだ。 最近は、「インパール企業」などという言葉もネットで見かけることがある。先の戦争のインパール作戦のように、無能な指揮官のもとに壊滅に向かう企業のことを指すらしい。さしずめ、東芝や東京電力がその例ではないか。世界では、賢い指揮官を持つ企業の原子力からの撤退が続いている。日本の原子力産業は、自公政権という世界情勢や歴史に盲目な指揮官のもと壊滅へ歩を早めている。政府の「エネルギー基本計画」には、「原子力政策の再構築」という現代版インパール作戦が組み込まれている。 ブラック企業やインパール企業が後を絶たないのは、日本の社会(柳田国男ふうに「世間」と呼んでもいい)がそれを許してしまっているからではないか。『ブラック・デモクラシー』 [1] という本を読みながらそんなことを考えた。仙台市図書館で見つけた本で、藤井聡さん、適菜収さん、中野剛志さん、薬師院仁志さんが論考を寄せ、湯浅誠さんと中野さんの対談も収録されている本だが、まだ読み始めたばかりである。 編著者の藤井さんは大阪維新の会の大阪都構想の欺瞞性を厳しく批判して、橋下前大阪市長や松井大阪府知事から激しい口撃や圧力を受けた経験を書いている。つまり、大阪維新の会が行っていた政治にブラック・デモクラシーの典型を見ることができるということだ。 ブラック・デモクラシーを端的に言えば、「多数決を金科玉条とするデモクラシー」であると藤井さんは言う。学校でのいじめは、みんながやっているからといじめる多数の側に加わることで成り立つブラック・デモクラシーの単純な例である。 ブラック・デモクラシーは、デモクラシーの基本である熟議を否定する。藤井さんは、デモクラシーを「真っ黒に仕立て上げ、邪悪なものであろうとなんであろうと政治的正当性を付与する」ものとして次の4つの振舞いを「ブラック・デモクラシーの四要素」として挙げている。(1)多数決崇拝:多数決の結果こそ崇高なるものだと主張する。(2)詭弁:弁証法的議論の全てを遠ざけ、ひたすらに「詭弁」を弄し、「真実」に基づく批判を無力化し、封殺する(したがって、これもまた「言論封殺」の一種である)。(3)言論封殺:あらゆる権力を駆使して「言論封殺」を図る。(4)プロパガンダ:あらゆる心理操作を駆使して、自説への贊成を増やすための嘘にまみれたプロパガンダを徹底展開する。 橋下前大阪市長が率いていた大阪維新の会がこの「ブラック・デモクラシーの四要素」を徹底して行っていたことは、この本に詳述されている。橋下前大阪市長とその支持者の言動については、想田和弘さんも『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』[2] という本で論じている。つまり、日本人は「ホワイト・デモクラシー」を捨てて「ブラック・デモクラシー」を選ぼうとしているのではないかと想田さんは問うているのである。 大阪維新の会の手口を学んだかのように「ブラック・デモクラシーの四要素」を盛大に実践しているのが現在の安倍自公政権なのだ。国会における熟議は全面的に否定され、すべての大臣は質問に答えることなく(答えられずに)日本語ならざる言葉をだらだらと流すだけで、最後は強行採決ばかりである。数こそ力だ、という理屈をそのまま実践しているのだ。「自由民主」というのは、〈Freedom and Democracy〉ではなく〈Freedom from Democracy〉ということらしい。民主主義のルールにまったく縛られない自由を標榜している政党なのだろう。 いま、日本の民主主義は暗澹たる状態に陥っている。だが、日本の民主主義は必ずしも日本の国民の歴史的営為で獲得したものだとは言えない。だから、逆様に考えれば、今の情況こそが真正の民主主義を自らの手で勝ち取っていく絶好の機会でもあるのだ。一夜漬けで身につかなかった民主主義から、わが身に沁み込ませるように創り上げていく民主主義のチャンスだと考えることにしよう。半ば悔し紛れには違いないが、そんなことを考えた。 大阪都構想の住民投票前の維新の会のプロパガンダの様子を書いた適菜収さんの「潜入ルポ これぞ戦後最大の詐欺である」まで読み終えた。私たちがいま現在、目の当たりにしている政治のなかにブラック・デモクラシーの例をたくさん見出すことができるので、この本に書かれていることはじつによく理解できる。 ただし、ブラック・デモクラシーを蔓延させる理由の一つとして、マスコミ・ジャーナリズムがそうした不正への批判力を失っているということがある。そのため、テレビや大新聞のニュースばかりではブラック・デモクラシーの本当の様子がよく伝わらないことがある。ネットで流れるニュースはとても役に立つのだが、ネットはネットで「玉石混交」のニュースが無差別で流されるという問題がある。 第3章の中野剛志さんの「どうすれば民主政治から自由を守れるのか」という論考を読み始めたところで時間になった。老犬を散歩に連れ出してから、着替えて錦町公園に向かうのである。錦町公園から定禅寺通りへ。(2017/8/25 18:46~19:07) 集会が半ば過ぎてから錦町公園に着いた。すでにもう真っ暗である。公園の北東の端で集会が開かれているのだが、正反対の南西の入り口から入った私には、参加者がほとんどいないように見えた。 脱原発カーのライトとトイレの灯が集会に集まった人の一部だけを照らしていて、大半は暗闇の中に立っているのだった。近づいて、闇の中にたたずむ人たちを見つけてやっと安心した。一番町(定禅寺通り~広瀬通り)。(2017/8/25 19:15~19:22) 今日のデモは35人だったが、最近の金デモは、35人から45人くらいの参加者で推移している。固定メンバーが多いのは確かだが、それでも「しばらくぶりですね」と挨拶する人、したくなる人は必ずいる。そんな人が重なると50人くらいにデモは膨らむのである。 そして、ときどき不思議にうたれるのだ。それぞれの個別の事情を捨象して、こんなふうにここに集まり、同じコールに声を合わせている。じつのところ、それぞれの個別の生活を互いによく知ることはないのだが、ここから「われわれ」とか「私たち」が始まっているのだという実感はある。このささやかな確認こそが、この社会を生きる強い支えになっているのだと信じている。一番町(広瀬通り~青葉通り)。(2017/8/25 19:23~19:28) 原発は明治維新戦争(戊辰戦争)において賊軍となった地域に設置された、そういう説を思想家の内田樹さんが語ったというネット記事(元記事は『SAPIO』2017年9月号)を読んだ。高校生のインタビューを受けての発言をブログに掲載したものだという。 ネット記事によれば、国内の原発は17か所に54基あるが、その内13か所46基が戊辰戦争で旧幕府側だった藩のあった県に集中しているという。明治維新以降の藩閥政治が、賊軍地域を差別することによって経済格差が生まれ、昭和以降の原子力政策はその貧しい地域へ原発を押し付けた(あるいは、経済発展のために原発を受けいれざるをえなかった)というストーリーである。 きわめてもっともらしいストーリーだが、これが社会学的に正しいかどうかは、戦後の地域経済格差が生まれる主要な契機が明治時代の藩閥政治による地域差別政策にあったかどうかにかかっている。残念ながら、私はその正否を判断できないが、少なくとも結果的には原発が賊軍地域に多く建設されたことは間違いない。 ただ、原発を押し付ける側も受け入れる側も、そこが戊辰戦争の敗者の地であることと原発建設が関連していることに自覚的だったとは思えない。例えば、田中角栄もまた原発推進の政治家の一人だったが、彼の考え方はあくまで農漁村の票を原発とともに中央から支払われる資金と交換するという政治戦略にすぎなかった。つまり、中央資本の側(体制派)に地方の農漁村(反体制派)を取り込む政治戦略の一つにすぎなかった。これは、安冨歩さんが『幻影からの脱出』[3] という本で詳述している原発建設の背景の一つである。 戊辰戦争において賊軍となった地域が原発建設地として狙われたかどうかはさておいて、原子力政策が地域格差をベースにして推進されたことは間違えようがなく、原発が日本の差別構造の象徴であることはまぎれもない事実である。 日本の差別構造を超克することと脱原発を実現することが不即不離の関係を保って私たち(つまり、「われわれ人民」)のタイムテーブルに載っているのである。青葉通り。(2017/8/25 19:29~19:38) この数日、夏らしい暑さがぶり返している。雨続きの冷夏が続いての暑気で、変化に追い付けず、いくぶん体がだるく感じる。 例年であれば、仙台ではお盆を過ぎれば秋風が吹くのだが、今年はまだそういう季節に移り変わりを実感できていない。とはいえ、写真に写る仙台の夜景はどことなく鮮明さが増したように感じて、もしかしたら、この暑さの中でも秋の大気が満ち始めたのではないかと思ってしまう。 そんなふうに秋の大気のことを思いながら汗をかいているという矛盾の中、デモは終わり、一段と暗さの増した道を帰る。[1] 藤井聡編著『ブラック・デモクラシー――民主主義の罠』(晶文社、2015年)。[2] 想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波書店、2013年)。http://blog.goo.ne.jp/hj_ondr/e/1d6b3ef9b610116189a373f6ed81a4fc[3] 安冨歩 『幻影からの脱出――原発危機と東大話法を越えて』(明石書店、2012年)。http://blog.goo.ne.jp/hj_ondr/e/e0d26f9fc8d8658ce4a9002be6d7d96c 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2017.08.25
閲覧総数 144
5

今日もカメラ持参で本を返却、借り出しした仙台市図書館を起点に歩き回るのである。起点が同じで徒歩で歩き回るのでたいてい同じ場所が重なってしまう。つまり同じ被写体ばかりを辿るようになるのだが、新しく興味を誘うような何かがきっと見つかると(ほとんど根拠のない)思い込みだけがこのカメラ散歩の拠りどころである。四日前の同じような散歩でもそんなに多くはないがなにがしかの結果はあったのだ。 今日は初めからどこを歩くのか決めていた。図書館から定禅寺通りを一番町の北端まで歩き、そこから一番町の東側の路地をたどりながら一番町の南端まで行くのである。何度も歩いているが、そんなことは気にしないことにして歩くのである(多少はやけ気味でないこともないが………)。 まず、仙台三越横の狭い路地に入る。この路地の片側はこの路地より広い道に並ぶ店の裏側になっていてガスや水道の配管、換気扇の出口、クーラーの室外機などが一面に張り付いていて、その景色(風情)が意外と私を惹きつける所である。もう一方の片側に小さな店が並んでいるほんとうに小さな路地である。 その小さな店の一つが表に張り出したメニューを見て思わずシャッターを押した。「もつ煮」、「やきとり」と並んで、「酒と泪」、「一人酒」、「手酌酒」が並んでいるのである。「一人酒」、「手酌酒」はまあまあ良しとして、「酒と泪」はどうやって賞味するのかなどとしょうもないことを考えたりした。お店の人のセンスを酒の肴に少しばかり酒を味わいたいところだが、こんな真昼間には開店していないのである。 その路地を出ると、道なりに薔薇、車輪梅、山法師などが咲いていた。建築基準法に定められているのか、最近の大きなビルには必ず緑地が造られている。その一つに入ってみると、磨かれた石のベンチに上に雨粒が並んでいる。鏡のような石の面に映るビルの影や空に雨粒が趣を加えていて、何回もシャッターを押したものの「いい写真」になるかどうかは心許ない。そのベンチの隣にまだ花弁の開いていない西洋石楠花があった。文字通り「萌え」の状態で、開ききった西洋石楠花の華やかさに比べれば、むしろこちらが私の好みに近い。目立たぬようにひっそりと生きる方が好ましいのである。 一番町の南端近くの文化横丁や壱弐参(いろは)横丁に向かうと、ここにもビル併設の緑地が小さな公園になっていて数本の山法師がたくさん花をつけていた。最近はどこでも山法師が見られるようになった。先日通りかかった新興住宅地の道には山法師が並木として植えられて満開に咲いていた。 文化横丁の出入り口のそれぞれに赤い提灯が立てられていた。文化横丁や壱弐参(いろは)横丁の写真は前にもだいぶ撮っているので、今回はモノクロで写してみたりした。 同じ場所、同じ被写体でも撮ってみれば何かが変わっているかもしれない。少し年を取った私が変わっていて少しばかり「いい写真」になっているのが理想だが、高望みはしないようにしよう。とはいえ、やはりどっかいい場所でシャッターを押してみたい気持ちは強くなるばかりだが………。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫
2026.07.12
閲覧総数 88