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今日は早朝散歩にして夜明け頃の市街地の写真を撮ってみようと、まだ暗いうちに起き出した。療養を旨とする病人としては、睡眠時間を確保するため昨夜は8時半ころには布団に入ったのだが、支度をして外に出ると小雨が降っている。昨夜見た天気予報では曇りだが降らないということだった。あらためて天気予報を調べると9時ころまで雨マークがついていた。眠っている間に条件が変わってしまった。雨が上がってから出かけることにして、少しばかり本を読んでから朝食の準備をして家族が起きてくるのを待ちながら時間をつぶした。「夜明け時」の市街地を撮るという条件は潰えてしまったので、どうしようか悩んでしまった。どんな時でもどんな場所でも良い被写体を見つけられる才能に乏しいのは、こういう場合に困るのである。それで思いついたのは、広角レンズだけを持って行って、すべてそれで撮影するという案だった。これは、良い写真を撮ろうということよりも撮影条件を制限すると被写体はどう写るかという、ほとんど実験なのである。やけっぱちに近いが、私のようなカメラ修行中の身には必要な実験だと自分に言い聞かせて出かけた。さいわい、全天曇り空のやや涼しい日となっている。カメラには、タムロンの焦点距離10-24mmの広角レンズを装着してある。できるだけ10mmに近い広角で写すつもりである。たくさん撮ったのだが、結局この7枚だけを残した。この7枚も出来がいいのか悪いのかよくわからない。ただ、こんなふうに映るということが経験値になってくれればいいとひたすら願うだけである。ただ、50㎜程度の単焦点レンズで撮ってみたいと思う場所を2、3か所見つけた。単焦点レンズだけという制限での市街地散歩も悪くなさそうだ。広瀬通りと西公園通りの交差点定禅寺通りと東二番町通りの交差点広瀬通りと東二番町通りの交差点東二番町通り、電力ビル前の市バス停留所青葉通りと東二番町通りの交差点(1)青葉通りと東二番町通りの交差点(2)真昼の歓楽街(国分町) 途中で霧のような雨が降って、濡れるほどではない快適な涼しさになった。散歩で汗をかいてできるだけ腎臓の負担をなくして塩分を排出したいという私の散歩のもう一つの望みは叶わないのだけれども、どちらかといえば涼しくて快適な散歩を選びたい。手足が吊らない程度に塩分制限を緩めてよいという医者の指示に喜んで従い、大好物の茄子漬(もちろん自分で毎年漬けているのだが、今年は塩分を2割ほど減らして漬けた。それでも十分においしい)にも箸を伸ばしている。そんな食生活でもまだときどき手足が吊る。ということで、とくに汗をかいて塩分を排出した方がよいというのもほとんど意味がなくなっている。これからはできるだけ涼しい散歩をしようと考えている。病気に関してはこんな状況が続いているが、病状改善の最後の詰めの前で逡巡している状態らしい。主治医の判断でステロイドを別の薬に替えてみることになった。その薬も副作用が強いということで、24時間医師の監察下において薬品投与を行うため、10月中旬に3日の入院が決まった。病気が治る期待で、喜んで入院するのである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫
2024.09.16
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汗をかくと塩分(ミネラル)が汗と一緒に排出されて、腎臓を病む私には都合がよい。腎臓を病む私はまた、医師に運動を進められていて、散歩を運動の一つとして欠かせない。炎天下、散歩をするのは写真を撮りたいためでもあるが、病気対策の大事な一つでもあるのだ。 ネフローゼ症候群が発症してステロイド投与治療のための三週間の入院中は、ずっとたんぱく質と塩分の少ない食事だった。ご飯は「1/20飯」というたんぱく質を減らしたもの、カリウムの多い果物はすべて缶詰、おかずのほとんどは煮物にして塩分の軽減を図ったものだった。塩分制限の効果は入院中にはっきりと現われた。ときどき手の指が吊るようになったのである。こむら返りにように筋肉が吊る大きな原因のひとつは塩分(ナトリウム、カリウム)不足である。退院後もその症状が続いたが、指の筋肉が吊るのは塩分制限がうまくいっている証拠なので特に何をするでもなかったのだが、五日ほど前、夜の10時ころ、両手、両足が強烈に吊りだして、痛みに耐えられずにミネラル(ナトリウム、カリウム)の多いスポーツドリンクを三口ほど飲んだ。驚いたことに数分で症状がすっかりおさまってしまった。腎臓が悪いと分かってからは、暑い夏でもスポ―津ドリンクはタブーとなっていたが、それからは身近にいつも置いておくようになった。 昨日は退院後2度目の外来診察で、手足が吊ることについては塩分制限を頑張りすぎないようにと注意され、ちょっと気が楽になった。 私の体の中のミネラル成分は筋肉が吊るか吊らないかのぎりぎりなので、炎天下の散歩では「熱中症」のリスクがとても高くなっているはずである。そのため、散歩の時間は2時間以内と決めて、散歩コースも万が一のとき助けを求められる町中を選ぶようにしている。ただ、私にはかつて炎天下でのアユ釣りが趣味だったときに二度ほど熱中症の初期症状に気付いてうまく対処できたことがあるので、たぶん大事に至る前になんとかできるだろうとは思っている。 今日もよく晴れた暑い炎天である。青空が広がり、空のところどころには雲が出ている。空の青、雲の白、川岸の緑を一枚に収める写真を撮ってみようと思い立ち、広瀬川に架かる橋を撮影ポイントとして廻ってみることにした。澱橋から牛越橋から大橋から2階建ての仲の瀬橋と橋から見る広瀬川と西公園読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫
2024.09.04
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市内を散歩しながらなにがしか「良い写真」を撮ろうというのは、終活として楽しいカメラ修行なのだが、この散歩はいやも応もなく終活のなかに強引に入ってきた私の病気療養としてもとても大事になっている。ネフローゼ症候群と診断され、三週間の入院でステロイド投与の治療を受けている間に63kgの体重が一挙に53㎏まで減ってしまった。53㎏というのは35歳ころの体重で、重さだけで言えば理想的なのだが、ネフローゼ症候群でたんぱく質が大量に排出されたせいなのか筋肉がすっかり衰えてしまっていた。主治医に「運動することが大事」と指示されていたので散歩から始めたのだが、歩くことはまずまずだった。ところが、腕立て伏せをしたら一度もできずにベタっとつぶれてしまったのだ。上半身の筋肉の衰えに驚いて、そちらの筋トレも必要ということになった。何とか今では20回程度の腕立て伏せができるようになったが、あまり筋トレをがんばりすぎると体がガタガタになるのではないかと不安にもなる。こういうところが病気持ちの辛いところではある。まあ、散歩も筋トレも私のほかの終活と同じように「丁寧にゆっくりと」やればいいことなので、けっこう気楽に構えてはいる。 先日の散歩で、暑い夏、汗をかくのはナトリウムやカリウムを排出できて腎臓にはけっこうなことだと気が付いた。あとは熱中症に気を付ければいいのである。今日は曇天だが蒸し暑くなっているが、1時間半ほどの散歩に出かけた。わが家の北西方向、広瀬川沿いの角五郎丁から八幡町に抜けるように歩いた。澱橋を渡って堤防の方に降りると三叉路(橋から降りてくる道、橋を潜って広瀬町方向へ行く道、角五郎丁へ行く道)に出る。その三差路の様子を面白く感じてシャッターを切った。澱橋北詰の西にある三叉路。 この最初の一枚の写真を撮ったことで、今日のカメラのテーマは「三叉路」ということに決めた。何かテーマを決める方が楽なので、たぶんこれからもこんな形でその日の散歩カメラのテーマを決めることになりそうである。 角五郎丁の道から分岐する澱緑地の堤防道路。 角五郎丁の通りから人家の間の小さな階段を降りて広瀬川に近い細道に入る。広瀬川と平行して道を行くと川沿いにある国家公務員宿舎横の変則的な十字路に出る。そのうちの西に向かう道は公務員宿舎の裏の道になるが、どうしてそれだけなのか分からないが100mほどに渡って左右に立派な歩道がある。公務員宿舎横の十字路。 公務員宿舎から右に折れて聖ドミニコ学園わきの細道を通り抜け、角五郎丁の道に戻り、そこから滝前丁通りの坂道を上がり大崎八幡神社前に出る。神社前は素通りして、龍寶寺へ向かう坂道を上る。龍寶寺から八幡町通りに下る坂道(右に大崎八幡への細道が分岐)。 龍寶寺の境内から裏に抜ける道があったはずだと探してみたが見つからなかったので、少し戻って八幡町通りと平行に走る細道に入る。石切橋の三叉路。 しばらく歩くと石切橋に出る。写真の右の道が龍寶寺から歩いてきた道、左は八幡町通りへの道、背後の道は土橋通へ出る道になる。土橋通りを抜けて北六番町通りを東北大学医学部・大学病院の裏に出る。東北大学医学部西北端の三叉路。 医学部の端の三叉路を旧厚生病院前(八幡町通り)に出る。厚生病院は東北大学農学部跡地に新築移転し、現在、旧病院は解体工事に入っている。八幡町通りを少し西に戻り左折して澱橋を渡って帰ることにする。八幡町通りと土橋通りの交差点。 大学1、2年のとき、土橋通の坂道を上がったあたりに下宿していた。その家は今は跡形もなく、あった場所すらわからないほど変わってしまっている。50年、半世紀も前のことである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫
2024.08.23
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世間では、終活というのは自分の人生の後片付けのようなものをすることらしい。誰にも迷惑をかけないようにこの世を去るために行うらしいのだが、私はまったく逆のことを考えていた。これまでの人生でできなかったことも含めて、とにかくこれまでやらなかった新しいことを終活として始めることしか考えていなかった。ところが、妻は私の終活宣言を世間並みに正しく理解したらしく、私が入院生活をしている間にも「お手伝いするからね」と、かつて夢中になって育てていた洋蘭、東洋蘭用のたくさんの蘭鉢などの資材が残されている温室の整理を始めたのである。一応は「ありがとう」というものの、妻の片づけを手伝っているという気分で、さしあたっては私自身の終活の方針は変える予定はないのである。終活が始まってから、庭の手入れや三度の食事の準備、たぶん一生ものの腎臓病との付き合いがけっこう楽しい終活になることは見つけたのだが、あらかじめ、終活としてやろうと決めていたことがあった。 第一に読書。この7、8年細かな雑事に追われてあまり本が読めていなかったので、とくに現代思想・哲学で読み落としている領域を中心に読書をすること。これは、終活をやろうと思いついたときに一番目に決めて準備を進めていたので、順調に進んでいる(老化した頭脳を使うので、以前よりはまったく捗らないのだが)。私はこの十数年、脱原発デモや町内会行事などの写真を撮り続けてきた。いわば、行事の記録としての写真をたくさん撮ってきた(そして、それがとても嫌になっていた)。終活に思い至った時、これからは「良い写真」を撮ろう、と決め、カメラ・写真技術に関する本数冊で勉強を始め、花や鳥、仙台市街の日の出などの写真を撮り始めている。つまり、終活の第二は写真(カメラ)なのである。花や鳥、月の出や日の出など、撮るべき対象が定まっているのは、とにかくその対象に向けて撮影技術を磨くのが当面の課題としてやることが決まっているのでいいのだが、じつは、私が一番撮りたいのは何気ない街角の風景や人の暮らしの細部、そんなシーンの「良い写真」なのである。ところが、実際にはどこをどんなふうに写せばいいのか、まったくわからないのである。とにかく、自信がない。カメラを持って街に出ても、写すべきものが見つからずに帰ってくることの方が多いのである。そこで考えて決断した(大げさだが)のが、「街に出て、とにかくシャッターを押す」というごくごく単純なことだった。数を撮っていれば、ちょっとだけ「良い」写真が撮れるかもしれない。まぐれ、偶然に助けられるという確率に期待することにしたのである。というわけで、8月23日の午後3時半、炎天下の街に出かけた。仲の瀬橋を渡り、花壇地区から評定河原橋、瑞鳳殿前を通って米ケ袋の住宅街を抜けて、東北大学のある片平丁を回ってくるコースである。評定河原橋への道 花壇地区から評定河原橋へ向かうと、以前の早朝散歩で見つけていたお気に入りの景色がある。橋へ上がる坂道と堤防へ分岐する横道、道路わきの一本の樹、瑞鳳殿の森の向こうには向山のテレビ塔。ここの写真を撮りたくて決めたコースだったが、残念ながら道路工事中だった。いずれ、早朝にでも出直して撮り直すことにする。評定河原橋から(左手の赤みがかったビルは仙台高等裁判所)評定河原橋から広瀬川下流方向の写真を一枚、これは空を中心としてそれに広瀬川と市街を添えられたらと考えたのだが、そんな構図の決め方がいいのかどうかはまったくわからない。評定河原橋を渡り終えると、伊達政宗以下三代の廟がある瑞鳳殿への道が見えてくる。大きな樹々に覆われた坂道を観光客が下りてくるのがいかにも涼しそうで、炎天下の舗装路の上でシャッターを切ってみた。瑞鳳殿への坂道 瑞鳳殿前から霊屋橋を渡って米ケ袋に入る。今もそうかもしれないが、この地区はかつて裁判官や東北大の教授などが住んでいる高級住宅街だった。私が助手として最初に仕えた教授もこの地区に住んでいて、毎年の正月には研究室メンバー全員が教授宅での新年会に呼んでいただいた。教授夫人の父君もまた東北大教授だった方で少し離れたところに屋敷があって、1、2度庭の掃除か何かのお手伝いに伺ったことがあった。 米ケ袋から東北大学のある片平丁への道はすべて坂道で、その坂の風景を撮ってみたいと思ったのだが、シャッターを押す機会を見つけられなかった。片平から五橋に抜ける道 片平丁の道に上がると、樹々に覆われた涼しそうな道が見えた。東北大学の敷地を分けるように片平から五橋に向かう道である。ここでも涼しそうという一点で、強い日差しの路上からシャッターを切った。とにかく暑い。まもなく持参した水もつきそうなので、できるだけ早く帰ることにした。たくさん汗をかいていて「熱中症のリスクがあるな」などと考えていたのだが、汗と一緒に塩分が排出されるのは腎臓を患って塩分(ナトリウムとカリウム)を控えなければならない身にはとってもいいことではある。熱中症対策としてのスポーツドリンクは塩分が多くて私にとっては毒に近いのである。熱中症と腎臓病、大いなる矛盾に悩ませられながら(一部は楽しみながら)の帰途、仲の瀬橋を渡っていると、仙台地下鉄東西線の電車が広瀬川を渡っていくのが見えた。広瀬川、地下鉄、大橋、仙台城址が収まっている一枚と思い、橋の上で電車が来るのが待つことにした。「良い写真を撮るにはじっと待つのも大事」などともったいぶって自分に言い聞かせていたが、何のことはない2分も経たないうちに電車が通りかかり、その一枚を写すことができた。仲の瀬橋から仙台城址方向を望む読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫
2024.08.23
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終活を始めるために、3月から4月にかけての年度替わり(地域団体や組織の総会時期)にほとんどの肩書をはずすことができた。半年ほどかけて準備をしていたので、驚くほどスムーズに辞められて、5月から私の終活が始まった。 終活としてやろうと考えていたことはいろいろあったが、まずは庭の雑草取りから始めた。いつもなら伸び切った雑草をむしり取ってさっさと終わらせていたのだが、なにしろ時間はたっぷりあるのでその日はほとんど庭に座り込んだ状態で、雑草を一本ずつ丁寧に根ごと掘り出しながら抜いて行った。 遅々として仕事は進まないのだが、ふしぎなことにその遅さ、はかどらなさが気持ちいいのである。わが家の狭い庭がそこにあって、私はその庭の雑草を一本ずつゆっくり抜いている。 庭があって、そこに私がいる。なにかしら、庭と私の「共在」する感覚が心地いいのである。これは、雑草を抜いた成果による心地良さではない。明らかにゆっくりと丁寧に草を抜くしぐさ(作業)そのものの喜びのようである。それで、心はほとんど定まった。終活で何をするにしても、それは「ゆっくりと丁寧に日々のくらしを生きていくこと」でなければならない、そう考えたのである。 やにわに庭仕事が終活の一番手に上がってしまったが、そうなれば二番手としては「料理」を上げざるを得ない。ここ10年ほど、わが家の食事は私が作っている。30年近く大柄な母の介護をしてきた妻は、両肩の腱を傷つけてしまい、腕があげるのが難しくなってしまったことと、115歳まで生きた義母は誤嚥性肺炎で入院を繰り返すので、嚥下食を作らなけらばならないこともあって、食事の用意は私の仕事になったのである。 義母の嚥下食は気をつけて準備する必要があったが、それ以外の家族の食事は義務感に押されて勢いで作っていた。しかし、三度の食事、その準備は文字通り「日々の暮らし」のど真ん中である。これを「ゆっくりと丁寧に」やることほど、私の終活にふさわしいものはないと考えた。いまは、まず一週間分のレシピを考えて、それに合わせて細かなものまで食材を丁寧に探すことから始めた。レシピの半分以上は初めて作るものを入れているので、これまで使ったことのない調味料や食材が増え始めている。 いまのところ、庭仕事も料理もとても楽しい。 当初、終活として手始めにやろうと考えていたのは、魚釣りと山登りだった。どちらも夢中になるほど好きだった趣味だったが、ここ8年ほどはまったくできなかった。経験もあるし、まずは手軽に始められると考えたのである。 5月には2回、ヤマメ狙いで毛バリを振りに川へ入って、水の中を歩いた。1回目の山行は山麓のトレッキング、2回目は300mクラスの山とリハビリ登山を始めた。3回目の山行は、6月7日に504mの戸神山に登った。1回目、2かいめよりはるかに楽な山歩きで、そこそこ花の写真も撮れて帰ってきた。 翌日、パソコンで写真の整理を終え、何気なく足を見たらパンパンに膨れ上がっていた。むくみ(浮腫)である。初めての経験だが、疲労によるものだろうと考えて数日様子を見たのだが、むくみが続くのでかかりつけの医院で診てもらった。尿検査で蛋白が出ていることから大きな病院を紹介されて診察を受けた。尿に大量のタンパクが排出される「ネフローゼ症候群」という診断で、急遽3週間の入院を言い渡された。治療はステロイドの大量投与(「ステロイドパルス」と担当医師は呼んでいた)、その副作用(血圧上昇、血糖値上昇、免疫力低下、不眠など)のコントロールに入院は不可欠ということだった。ネフローゼ症候群は難病指定されていて、それなりに厄介な病気らしい。場合によっては、一生付き合うことになるらしいのである。「病気で死んだか、寿命で死んだか、わからないこともあるということですね」と言うと、「そういうことも十分にあり得ますね」と主治医は答えるのである。これで3番目の終活がほぼ確定した。ゆっくり丁寧に私の病気の身体に付きあっていくのである。いまは、3週間の入院を終えて、自宅で決められた薬での治療になっているが、スマートウオッチなるもので、睡眠時間、心拍、血圧、体温、血中酸素濃度、血糖値、体温を24時間、監視・記録を続けている。この病気にはNa(ナトリウム)やK(カリウム)の過剰摂取は厳禁なので、2番目の終活(料理)にも関係している。カリウムの多い果物はコンポートにしてカリウムを減らし、野菜類は煮びたし、焼きびたし、揚げびたしなど、卓上醤油の3分の1は昆布入り煮きり酒で薄めたものを使っている。今のところ、こんな工夫もそれなりに楽しめるのがいい。 4番目以降の終活も始めているが、それは、また次の機会にしたい。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫
2024.08.03
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戸神山は、仙台から山形に向けて20kmほどで国道48号から白沢から秋保長袋に抜ける道に登山口がある。登山口といっても仙台市水道局の配水施設の入り口門扉脇をすり抜けるのである。 今日もまた花の写真をゆっくり撮りながら(つまり十分に休みながら)登る計画なのだが、松倉山では春の花が終わり、夏の花はこれからというあまり良い時期ではなかったのだが、その条件はクリアできていないだろうと考えた。 じつは、この5月から終活として山行と水行を何とか復活させたいと始めたとき、いわば体を無理をさせないために写真を撮ることで休憩を入れながらやろうと考えたのである。そうして、二度の山歩き、二度の川歩きをしたのだが、せっかく写真を撮るのだからカメラも終活の一つにすればよいと考えた。これまでは、カメラ任せでシャッターを押すだけだったのだが、以前に購入したカメラの本を引っ張り出して「良い写真」を撮るための勉強を始めたのである。山歩きで疲れた体で家でゴロゴロしているとき、本を見ながら庭の花をどんなふうに撮るかなどということ始めたということである。 というわけで、この花の少ない時期の山歩きで写真を撮ることが必須だとすれば風景写真しかないということになったのだが、標高が低い山で森林限界を越えることなく頂上まで林が続く山なので、風景といっても山道のまわりしか移せないのである。つまり、今日の写真修行のテーマは「山道(登山道)」と決めたのである。 さほど変化のある山道ではないのだが、絞り優先のオートフォーカスにして同じ場所で何段か露出補正を変えて撮ることから始めた。雲の厚い曇天なのだが、いくぶん露出をアンダー気味にした方が草木の緑のがよく映る。 この山は登り口からしばらくは大木の少ない雑木林が続くが、しだいに木々が大きくなってくると杉林に変わる。中腹から6、7合目までは杉林なのである。 その杉林が終わると戸神山主峰(男戸神山)と女戸神山の間をつなぐ尾根にたどり着く。尾根道を辿ると頂上直下の急坂である。頂上までロープが張られた急坂は、松倉山の急坂を思い出させていくぶん気分が落ち込むが、あの時よりは体が慣れているとわが身に言い聞かせてなんとか登ることができた。 頂上はちょっとだけ開けていて仙台市街を遠望できるはずだったが、近くの山も霞むほどの雲量で一面の灰色である。隣接する山並みの中腹も見えないのだった。 頂上にいくつかの石の一つに腰かけて、おにぎり2個の朝食、食後のコーヒーを飲むともうやることがない。上ってきた急坂を下り、尾根道から分岐する裏登山道(登ったのは表登山道)へ下る。 頂上直下の急坂をあっさり下る終えると、道はずっと緩やかな下り道で快適に距離を稼ぐことができる。なにか登山路と下山路では標高差が違うのではないかと思うほどだったが、じつは登山路の杉林の中に下り坂があってそこから登り返したので、標高を稼いだ気分になっていたのである。 10年以上もまえにこの山は2回か3回登ったのだが、今回初めて山中で人に出会った。下山路の比較的平坦な山道で休憩を取っていた女性3人、男性一人の4人組に出合ったのである。ほぼ同年齢ほどの高齢のグループで、口ぶりから頂上へは向かわず山裾を半周する道をたどる予定らしい。お年寄り向きのコースでいい山歩きになるだろうと思いながら別れたが、「年寄り」といい「高齢者」などともいうものの、こういうところで出会う人たちは、いまやほとんどが私より若いだろうと思う。あの人たちもきっと私より若いだろうと思うとちょっと可笑しくなった。きっと苦笑いしていたに違いない。 さて、花は望めないと思って登ったのだが、ポツリポツリと見つけたいくつかの花をカメラに収め、家に帰って調べたら、ミヤマヨメナ、ママコナ、シロバナエゾウツギなどけっこう珍しい花が含まれていた。思い込み、先入観のつまらなさを思い知らされた山行でもあった。 花の写真の整理はこれからである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫
2024.06.07
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広瀬川の上流部に入ってみた。ヤマメは数多く出るところではなかったが、川にアプローチしやすいこととここの渓の景色が好きでずいぶん前に何回かは通った釣り場である。雑木林の急斜面を下って川岸に出ると川岸の斜面から何か所も湧水が流れ出していて芹がたくさん生えている。少し上流に上がれば岸にたくさん蕗も生えていたはずだ。つまりは、芹と蕗が目的で入川場所が決まったのである。 天気予報では7、8mの強風の予想で、テンカラ釣りで毛ばりを飛ばすのは無理だろうと諦めて、ひたすら芹と蕗を目的として入選したのだが、朝凪(海辺ではないが)というのだろうか、風がほとんど吹いていない。さっそく何ヶ月もかけて準備してしていた仕掛けを試すことにした。 テンカララインは2種類を用意していたのだが、昨日釣り道具入れの12段のケースを片っ端から調べていたら古いテンカララインが見つかった。以前にある釣り具メーカーのインストラクターをしていたのだが、その時そのメーカーの商品が送られてきた中に入っていたものらしい。少し武骨な感じのラインだったが、振ってみるとテンカラ初心者の私にも毛ばりをよく飛ばせるのだった。 毛ばりがよく飛ぶことに気をよくして、以前に実績のあった大渕への瀬落ちなど4ヵ所ほどのポイントを行きつ戻りつしてテンカラ竿を振った。初めは伝統的なテンカラ毛ばり(ウエットフライ)で表層付近を流し、次にニンフフライで沈めて流し(その時はインジケーターも使ってみた)、ドライフライを眼で追いながら流しても見た。 サングラスを外し、近眼鏡を老眼鏡に替え、のんびりと毛ばりを結び替えては、また近眼鏡を掛け、その上にオーバーサンガラスを掛け直して竿を何回か降る。その繰り返しがじつに楽しい。かつて競技のアユ釣りをしていたときはいかに短時間で仕掛けを用意したり交換したりするかに血道を上げていたのだが、いまはのんびりと仕掛けをいじっているのがとても楽しいのである。 楽しい、楽しいとワクワクしながら2時間ほど竿を振り続けて遊んでいたのだが、予想通りにヤマメは一度たりとも姿を現さなかった。釣れなくともよいと思って終活の釣りとしてほとんど経験のないテンカラ釣りを選んだので何の問題もないのだが、いずれ間違ってでも釣れることがあるかもしれないと考えるだけでまたワクワクするのである。 竿をザックにいれ、岸辺の岩に腰かけて朝飯を食べていると目の前にも芹が映えている。さっそくそこの芹を摘んで、次は蕗である。岸辺を歩きながら蕗を探す。スマホのカメラで花の写真も撮った。40年も昔のことだが、イワナ釣りの渓流で一眼レフを流れに入れてしまったことがあるので、川に入るときは防水ケースに入れたスマホしか持参しないのだが、まあそれなりに写っているのでいいことにしている(花は花で別立てのブログに写真を載せている)。 さて、かんじんの芹と蕗だがいくぶん季節遅れで完璧というわけにはいかなかったが、芹は漬物、蕗は煮びたしでおいしく食べられた。 二日後、朝目覚めて右手で起き上がろうとしたら肩に激痛が走った。テンカラ竿を右手で2時間ほど降り続けて三角筋を痛めてしまったらしい。降り方も下手なうえに筋力も年相応に弱っていたのだろう。楽しい、楽しいと夢中で遊び続けられる年齢ではないということか。これからの水行は竿なしということになってしまうのかどうか、しばらくはわが身に尋ねながら思案しなければならないようだ。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫
2024.05.24
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「登山」と呼べるような山歩きは2018年7月31日の泉ヶ岳が最後だったのだが、低山とはいえ頂上まで登ることになれば、松倉山でも登山と呼んでもいいだろうと思った。とはいえ、6年ぶりのことである。単にブランクがあったというだけではない。70代の6年は体力の衰えという点では実に深刻なのである。とにかく無理はしない、年齢相応に、山の花の写真を撮ることを主な目的の山歩きであれば十分などと考えて家を出たのである。松倉山(右) 小さな花もきちんと写すためにマクロレンズとコンパクト三脚もザックに入れてきたのだが、1枚目の松倉山の山容を撮った時、カメラの電池が切れかかっているのに気づいた。慌ててザックのなかを探したが予備の電地は持ってきていなかった。しょうがない、撮れるだけ撮って、あとはスマホのカメラでと思いなおして歩き出した。 10年以上も前にこの山には2度ほど登っているが、山裾の林の中にはいろんな花が咲いていた記憶があって、その写真を撮りたいと思ったのだが、少し季節がずれていてほとんど花を見ることができなかった。春になると始まる私の山登りは、低山から始めて雪が消えるのに合わせて山の標高を上げていくので、たぶん松倉山は4月初旬に歩いたのではないかと思う。その時に見て感動した花たちの花期はとうに終わっていたのである。かろうじて見ることができたのはマムシグサ、シャク、咲き残りのオドリコソウぐらいでだった。 花がないのでマクロレンズも三脚も必要がなくなったのだが、電池のなくなったカメラも必要がないということで、マイナスが二乗して何となく収まってしまった。私の失敗のためにできることもできなくなった、というわけではないのである。急坂とロープ 見つからない花を探しながら沢沿いの道を登って行くと、突然「松倉山登山口」という標識が現れて、急坂が始まった。花のことは思い出したが、この急坂のことはすっかり忘れていた。夜から朝にかけて降った雨で斜面は濡れていていっそう登りづらくなっていた。登山道のほとんどにロープが張られていて、そのロープにつかまりながらかろうじて登山道を辿ることができた。さほど息が切れるわけでもないのにちょっと登っては一息入れ、また登っては一息という繰り返しになった。急坂とはいえわずかな高低差なのに、2回ほど腰を掛けての休憩が入った。 頂上尾根に着くと左に行けば三角点のある頂上、右は薬師如来の祀ってある頂上という三差路に出る。三角点のある頂上には1mほどの山ツツジがあってパラパラと4,5輪の花が咲いていた。一方の山頂には高さ60cmほどのずんぐりした石仏が据えられていて、薬師如来像ということである。 さて、下りはいくぶん楽だろうと思っていたが、雨に降られた粘土質の登山道は立っていられないほど滑るので、結局は下りの道もロープだよりでなかなか距離を稼げないのだった。隣接する大倉山にも登れるなら登ろうと計画していたのだが、途中まで登ってから遊歩道へ下るコースを選んだ。12年に来た時には、松倉山の次に撫倉山(354m)に登り、次いで大倉山(327m)を辿るコースだったのだが、60代後半と70代後半の年齢差を考えれば、まぁ当たり前といえば当たり前だと自分を慰めながらアップダウンの道をゆっくりと歩いてきた。 登山道も終わりに近づいた頃、きれいなマムシグサを見つけた。たった1本だけ生えていて、電池切れのカメラに代えてスマホで写真を撮ろうとしたらこちらも電池切れになっていた。こっちは大容量バッテリーをザックに入れてきたので大丈夫と高を括っていたのだが、こっちも充電切れで全く役に立たなくなっていた。登山用のとソーラーモバイルバッテリーなのだが、こちらも6年のブランクでメインテナンスをおろそかになっていたのだった。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫
2024.05.17
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この4月21日に、7つか8つの肩書がわが身から消えた。身辺整理などいう恐ろし気な話ではないが、まだ体が動けるうちにできるだけしがらみをなくして終活をはじめようと考えたのだ。半年ほどかけて準備を進めて、公的な仕事が一つ残っただけで、すべてきれいさっぱりと整理できた。その解放感というか、わが身の軽快感というか、半端ではないのである。残った一つもこの秋に4年の任期が終わる。 それで、記念すべき4月21日の二日後、竿を抱えて広瀬川を3時間ほど遡った。もう記憶にないが、7年前ぐらいが私の釣りの最後だったような気がする。再び、釣り(と川)を楽しもうと考えたのだが、若いころ少しだけやって止めてしまったテンカラ釣りをしようと考えた。日本式の毛ばり釣りでヤマメを釣ってみたいと思ったのだ。それに使う道具はまったく持っていなかったので、身辺整理準備の半年の間に少しずつ買いそろえて準備していて、その日がすべての道具の使い始めとなった。残念ながら、祝福すべき再開初日は広瀬川には魚がいないのでないかと思うほど反応がなかった。 さらにそれから2日後、大東岳山麓の小さな沢沿いを3時間ほどウロウロして山の花や山菜を探してみた。登山道を歩くのは問題なかったが、沢までの急斜面を上がったり下がったりするのは想像以上にきつい行いだった。それに山の花も山菜もそれほど多くなかったのが、疲れを増幅させたようだ。 6年前に泉ヶ岳の登ったのが、山歩きの最後だった。釣りもそうだが、喜寿を過ぎたこの年齢にとって、6年とか7年のブランクは予想をはるかに超えていたというしかない。 それでもこれで私の「水行」と「山行」の再開の第1歩としたいのである。以前のような読書量を回復したいと考えて、終活の準備期間中に読みたい本を集め始めていて、こちらは入手できた本をかたっぱしから読んでいたので、そこそこ「書筺」に対応できつつある。 定年退職後、老後にやりたいことをブログタイトルにして始めたのだが、終活として再びやり直すつもりなのである。ただ、今日の体の筋肉痛と疲労感は私の終活が「見極め」と「断念」を通じてのみ実現される可能性が高い(それをしも実現と呼ぶならばのことだが)。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫
2024.04.27
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「とうとう一人になったね。」と妻が言う。そうだ、一人になったのだ。 2月23日午前10時58分、長姉の死亡が確認された。51年前に父が亡くなり、それから30数年後から数年おきに次兄、母、長兄、次姉、三兄そして長姉と続いた。いわば、私のこれまでの生の根拠だった肉親はすべてこの世を去り、末子の私だけが残った。私には妻も子供たちもいるが、彼らはいつも私の未来の生の根拠だったし、これからもそうだろう。過去と未来から支えられて生きてきたが、一方の支えがなくなって、これからは立ち眩みするように生きねばならないのだろうか。 10年前に夫を亡くしていた長姉はたった一人の娘を残して死んだ。その姪から見れば私はたった一人の叔父になって、その姪は私のこれからの生の根拠の一人になった。立ち眩みしているわけにはいかないようだ。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2023/3/17 18:17~18:31) 思いついて夕食の下ごしらえをし始めたら、意外と時間がかかって慌てて家を飛び出したのだが、まるっきりの遅刻で元鍛冶丁公園に着いて、集会のほとんどをすっ飛ばしてしまった。 いつもよりもずっと多くの人が集まっているように思えたのだが、30人という報告だった。一番町。(2023/3/17 18:33~18:41) 40年超のボロ原発を60年まで延長しても良いと規制を変更した原子力規制委員会のいわば「規制をしない規制委員会」の専門性に怒って、9年前に書いたその専門性を批判する文章を前回のブログで引用したが、当時は福島事故後停止していた全国の原発の再稼働へ動きが活発なっていた時期で、九州電力の川内原発も例外ではなかった。規制委員会の専門性に対する怒りはずっと続いていて、前回の引用文の16日後にも規制委員会を批判している文章を書いていた(「仙台散歩 : 「9月28日 脱原発みやぎ日曜昼デモ」 火山は噴火する、川内原発でも!」)。 御嶽山噴火は、川内原発が新規制基準に適合していると判断した原子力規制委員会の結論がきわめて危ういことをあらためて示した。 九州電力は、川内原発の半径160キロ圏内に位置する複数のカルデラが、破局的な噴火を起こす可能性は十分に低いうえ、監視体制を強化すれば、前兆を捉えることができるとの見解で、それを規制委員会は容認した。 しかし、「東大地震研究所の中田節也教授は、カルデラ噴火の前兆は確実に捉えることができるとの見方を否定する。中田教授はロイターの取材に対し「とんでもない変動が一気に来た後に噴火するのか、すでに(十分なマグマが)溜まっていて小さな変動で大きな噴火になるのか、そのへんすら実はわかっていない」と話した」(2014年5月30日付け『REUTERS』電子版)と報じられているように、火山噴火の専門家は「前兆を捉えられる」とする「素人」の九州電力、原子力規制委員会の判断を否定している。火山噴火予知連絡会の藤井敏嗣会長が、原子力規制委員会に予知する術はないと強く批判したのはまったく当然のことなのだ。 火山噴火の一点を見ても、原子力規制委員は各分野の専門家と称しながら、専門家の学術的な意見に耳を傾けないのである。彼らの判断基準が、もはや学問的、専門的な知見に基づいているとは言い難いということだ。自分の専門分野以外のプロフェッショナルに敬意を払えない科学者というのは、科学者としてのアイデンティティを自ら否定しているに等しい。 他人の専門性を尊重せずに、自分の専門性は尊重してほしいなどとは、合理的な理性の持主なら口が裂けても言えないはずだ、ガキじゃあるまいし。(2014年9月28日) 青葉通り。(2023/3/17 18:49~18:53) 長姉の葬儀や後片付けのこともあって、1ヶ月ぶりの金デモになった。その間、何か疲れやすくなったわが身をどうしたものかと悩んでいたのだが、今日のデモではほとんど疲れなかった。私より先に仕事から帰っているに違いない妻や息子の夕食をなるべく早く作るのが私の仕事なので、急ぎ足で帰ることができるのはありがたいし、ちょっと気分がいい。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2023.03.18
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雪の少ない冬だと思っていたが、2月に入ってからだいぶ降るようになった。とはいえ、仙台では「雪掻き」というほど大業なことにはならないし、わが家では硬い箒で掃くくらいで済んでいる。 5センチくらい積もったら玄関から車道まで人が歩ける程度に掃くのである。玄関から車道まで15メートルくらいの細い雪道ができる。また少し積もったらすぐに掃く。夜中でも早朝でもちょっと積もるとなるべく早く掃くことにしている。 雪掃きの回数が増えるのだが、あまり気にならない。雪掃きが好きなんだろうかとも考えたが、どうも人一人が通れるぐらいの雪道が出来上がるのが楽しいらしい。そういう雪道を見るのがなんか楽しいということなのだ。 私が小学生のころ、学校までの通学路の大半は車の通らない道で、雪の日は子供たちが一列になって踏み固めた雪の細道が続くことになる。そんな道が切なくなるほど懐かしくなる時がある。そういえば、雪道をあるく子供たちのゴム長靴の底にはたいてい稲藁が敷いてあるのだった。 雪に日には、そんなことを思い出しながらせっせと雪を掃くのである。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2023/2/17 18:17~18:28) 元鍛冶丁公園に着いたらスタッフの一人が急ぎ足で寄ってきて「西さんが来てますよ!」と嬉しそうに教えてくれた。病が癒えた「脱原発みやぎ金曜デモ」代表の西さんが3か月半ぶりに金デモに復帰したというのである。 「まだ体慣らし程度の参加ですよ」と笑っておられたが、とにかく頑張る人なので年寄りとしてはとても心配なのである。私よりずっと若く、みんなが頼りにしている人なので、何とか自重と頑張りのバランスを上手に取りながら元気でいてほしいと願うばかりである。 スピーチでは、電力料金値上げと原発再稼働の連動させる動きや、原発再稼働についての世論調査の話題がでた。最後に西さんがスピーチをして、25人のデモは繁華街に向かった。一番町。(2023/2/17 18:30~18:36) フリースピーチでは、2月13日の原子力規制委員会で反対意見があるにも関わらず原発運転60年超を認める規制制度案を異例の多数決で採択したという話題もあった。この採決に対して多くのマスコミも自公政府案に合わせるための政治的判断だとして規制委員会の役割に疑問を投げかけている。 反対を表明した石渡委員は地質学の専門家で日本地質学会の会長を務めるなどの泰斗であるが、委員長はじめ残りの4人の委員は原子力工学、放射線医学など原子力関連の専門家である。この専門家たちは政府の立場に立って原発推進することで、原子力の安全を担保するために「規制」すべき委員会の役割を放棄してしまったようである。 9年ほど前に、原子力工学の専門家は「科学者」であるのかと考えてみたことがある。再掲しておく(「「7月27日 脱原発みやぎ日曜デモ」 憂鬱を晴らしにデモへ!」)。 だいぶ前に読んだ本で、科学哲学者ジェームズ・R・ブラウンが次のような一文を記していた。「物理学者は、量子力学は基本的には間違っているかもしれないということを認める。物理学者なら誰でも、まったく予想もしなかったような実験結果が出たり、新しくて深い理論的洞察が得られたりすれば、量子力学が明日にもひっくりかえる可能性があると思っているのだ。もちろん、その新しい証拠をきちんと調べるためには時間がかかるだろうし、これほどみごとな理論をあっさり捨てるのは軽率というものだろう。しかし原理的には、量子力学もまた、天文学における天動説(地球中心説)のような道のりをたどる可能性はあるということだ。 それとは対照的に、キリスト教徒のなかに、キリストの神性にたいする信念を捨てられる者が一人でもいるだろうか? あるいは、キリストは私たちの罪を背負って死んだという信念を捨てることができるだろうか? 神がいっさいをつくったという信念は? 物理学者と司祭との大きな違いは、あつかうテーマの違いではない。その違いは、つきつめれば次のようなことなのだ。物理学者は、現行の物理学の中核的信念をすべて捨てたうえでなお、物理学者でいることができる。司祭は、中核的信念を捨てるなら、司祭をやめるしかない。忠誠は、宗教においては徳である。しかし科学においては罪なのだ。」(ジェームズ・ロバート・ブラウン(青木薫訳)『なぜ科学を語ってすれ違うのか ――ソーカル事件を超えて』(みすず書房、2010年)p. 80-81。) この考えは、科学(物理学を科学一般と考えてよい)と宗教に関するきわめて常識的な考え方である。〈3・11〉後、福島の悲惨を目にして多くの人は原発の存在そのものに否定的な考えを示した。しかし、テレビで原発について語る原子力工学の専門家や政府関連の委員会の原子力専門委員のなかで、原発の存在を絶対的な前提としない考えを語る人物をついに見かけることはなかった。 彼ら、原子力工学の専門家にとっては、原発はキリスト教徒におけるキリストに等しい絶対的存在らしい。たしかに、原子力工学を学んだ学生が進むべき道は原発を作るか、原発を保守するかしか進路はない。核融合炉という道もあり得るが、いずれ原発と同じ運命をたどることは明白だ。 ブラウンの言葉に照らせば、原発が信仰の対象のようになっていてその対象を相対的に思考できない原子力の専門家は、科学者ではないということだ。 フクシマ以降、科学者は信用できないとか、政府御用の専門家は信用できないという言葉をいろんなところで聞いた。当然なのである。彼らは科学者ではないのだから、科学者として信用すること自体間違っていたのだ。 科学者としての〈知〉とか〈学〉とかを期待してはならないのである。ましてや、よく言われる科学者の〈良心〉などはないのだ。なにしろブラウンの定義上、彼らは科学者ではないのだから。 科学者に期待できないなどと言いたいわけではない。科学者ならざる原発信仰者としての原子力工学者に期待できないだけである。全人格的にすぐれた科学者はたくさんいる。 残念なことに(当然でもあるが)、そのような科学者は政府委員会には不都合なので、権力機構の中に地位を占めることができないのだ。(2014年7月27日) 原子力行政に忠誠を誓う規制委員会の委員(石渡委員を除く)が真正の科学者かどうか、あえて語る必要などないのかもしれないが………。青葉通り。(2023/2/17 18:40~18:47) 病後間もないというのに西さんは最後までデモを歩かれて、それはそれで安心したのだが、できるだけゆっくりと確実に体力の恢復をはかってほしい、と心配症の年寄りは元気な顔を拝してもやはりいくぶんオロオロしているのである。 次回のデモは日曜日12時からの昼デモという案内があったが、その時間帯の参加は難しい。たぶん、お休みである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2023.02.17
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この冬、金柑にハマっている。もともと、夕飯時にはちっちゃなチーズ片と少しの果物をそえて白ワインを飲むのが好きなのである。果物は、ブルーベリーや杏、プラム、ソルダム、葡萄、小さなリンゴなどそのまま食べられる種類に限られる。 昨年、しばらくぶりで食べた金柑は甘すぎて一回で止めてしまったが、今年の金柑は種類が違うのか、酸味と甘みにちょっと苦みが加わってとてもおいしいのである。季節のものだから何時まで食べられるかわからないが、少なくとも昨日はまだ売っていたので一パック買ってきた。 これから金デモに出かけるので遅い夕食になる。ほかのメニューは何も決めていないが、白ワインとチーズに金柑というセットだけは確実である。勾当台公園から一番町へ。(2023/1/20 18:18~18:36) 少し風が強く吹くときがあって寒そうだが、カメラは何とか素手でもいけそうである。とはいえ、気温が下がることも考えて手袋もバッグに突っ込んで家を出た。 ちょっとだけ遅刻して着いた勾当台公園の野外音楽堂では車の前照灯をステージに向けて集会が始まってた。 スピーチでは、昨日の「ふるさとを返せ! 津島原発訴訟」控訴審の傍聴報告や5月24日に判決が出る「女川原発差し止め訴訟」の話がなされ、25人のデモ参加者はときどきプラカードを強風に煽られながら一番町に向かった。一番町。(2023/1/20 18:41~14:51) 集会で配られたチラシの中に12月4日に女川町で開催された元福井地裁裁判長の樋口英明さんの講演会の報告があった。樋口英明元福井地裁裁判長は、2014年に関西電力大飯原発の運転差し止め判決を出して『原発を止めた裁判長そして原発を止める農民たち』という映画の取り上げられたばかりではなく、退官後、多くの講演会などを通じて原発の危険性を訴える活動を始めたことでよく知られている。 樋口元福井地裁裁判長が大飯原発の運転差し止めを命じた判決文は、117ページに及ぶ長文であるが、それを読んだときにはその格調の高さと気品にとても感動したことを覚えている。 特に印象的だった箇所を抜き書きしてみる。「第4 当裁判所の判断」という章の「1 はじめに」では決然と述べられているのは次の文章である。 個人の生命,身体,精神及び生活に関する利益は,各人の人格に本質的なものであって,その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条,25条),また人の生命を基礎とするものであるがゆえに,我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。 (p. 38) また、「2 福島原発事故において」の節で述べられた次の文章に、私は一番感動した。原子力発電所は,電気の生産という社会的には重要な機能を営むものではあるが,原子力の利用は平和目的に限られているから(原子力基本法2条),原子力発電所の稼動は法的には電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由(憲法22条1項)に属するものであって,憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきものである。 (p. 40) この判決は、「たかが電気のために」という私たちのいわば感覚的主張を、憲法に基づく人格権によって確固とした法哲学、社会正義の考え方として明示しているではないか。たかが電気を作る一手段が人格権を前にして何ほどのことがあろうか、と主張しているのだ。 さらに注目すべき論述が「9 被告のその余の主張について」で為されている。ここには原発問題を考えるうえで極めて重要な法哲学、社会正義の考え方が示されている、と私は考える。第9節の全文を示しておく。9 被告のその余の主張について 他方,被告は本件原発の稼動が電力供給の安定性,コストの低減につながると主張するが(第3の5),当裁判所は,極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり,その譏論の当否を判断すること自体,法的には許されないことであると考えている。我が国における原子力発電への依存率等に照らすと,本件原発の稼動停止によって電力供給が停止し,これに伴なって人の生命,身体が危険にさらされるという因果の流れはこれを考慮する必要のない状況であるといえる。被告の主張においても,本件原発の稼動停止による不都合は電力供給の安定性,コストの問題にとどまっている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが,たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても,これを国富の流出や喪失というべきではなく,豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり,これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。 また,被告は,原子力発電所の稼動がCO2(二酸化炭素)排出削滅に資するもので環境面で優れている旨主張するが(第3の6),原子力発電所でひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染はすさまじいものであって,福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害,環境汚染であることに照らすと,環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。(p. 66、太字強調は小野寺による) ほんとうに名文である。文章作りが上手いかどうかよりも、書くべき内容が文章の美を決定するという典型的な例ではないだろうか。判決文という硬い文章にもかかわらず、とても美しい文章だと私は思う。正しい社会正義の品格が顕現している文章と言っていい。青葉通り。(2023/1/20 18:57~19:03) いま、原発をめぐる多くの裁判、訴訟が争われている。そして、その多くは凡庸な裁判官によって上級裁判所への忖度、政治権力への阿りに彩られている。「曲学阿世」という言葉があるが、正義(法)を曲げて世俗権力に阿るという意味では「曲法阿世」というしかない。 デモが終わった。夕食は9時過ぎになるだろうが、ワインとチーズと金柑が待っている。急いで帰るころにする。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2023.01.20
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暮れから正月にかけてとても忙しく過ごした。妻の監視下で正月の準備のほとんどをこなした。ここのところ、毎年変わらぬ私の担当になっているので年々体が慣れてきているはずなのに、とても疲れてしまった。仕事に慣れていくことと老いが進むことのせめぎあいで、今回は老いの進み具合が勝って正月4日から3日ほど寝込んだ。 そんなわけで、今日の金デモが今年のデモ初めになった。勾当台公園から一番町へ。(2023/1/13 18:12~18:32) 今年はとても温和な冬になっている。寒いが例年ほどではない。雪も少ない。今日は1月としては異様に暖かい日になっている。過ごしやすいと言えば過ごしやすいのだが、これもまた異常気象の一つである。 冬の寒さと積雪に依存して繋いできた生命も多いのである。今日の暖かさでせっかく山に積もった少ない雪が解け始めているというニュースがあった。雪解けの水が不足すれば、春からの農作業が打撃を受けるし、川は渇水して季節で移動する魚たちは困惑するだろう。人間が過ごしやすいことが何より大事などということはないのである。 25人ほどが集まった勾当台公園の集会では、主催者から政府の原発建替えや運転期間延長の方針に対するいくつかのパブコメ募集があるのでぜひ反対の立場からパブコメを送ろうという提案があった。 また、いくつかの告知があった。一つは、石巻市でふたたび『飛田晋秀写真展「福島の記憶」』が開催されるという。好評に応える形で、1月8日から29日まで北上川・運河交流館で開催される。もう一つは、『原発の町を追われて・10年』という映画が前作の『原発の町を追われて』第1~3部と合わせて2月5日(日)戦災復興記念館で上映される。上映時間は、1回目は10:00から、2回目は13:30からとなっている。一番町。(2023/1/13 18:40~14:48) 集会でも告知が原発事故後の福島の町のことだったということもあって、原発事故で「町を追われた」詩人のことをこのブログで書いたことを思い出した(「「5月9日 脱原発みやぎ金曜デモ」 死んだ町! 消えたふるさと!」。 根本昌幸さんという詩人がいる。福島県浪江町に生まれて、原発事故によって相馬市に避難を余儀なくされた一人である。最近、根本さんの詩集『荒野(あらの)に立ちて ――わが浪江町』を読んだ。優れた児童詩も書いている詩人らしく、やさしく平明な言葉で書かれた詩集である。 〔中略〕 生まれ育った地は、そこにそっくりそのままの物理空間として存在しているが、いわば異次元空間のようにそこに立ち入ることが出来ない。そこは生命の場所ではない。「死んだ町」だと詩人は語る。死んだ町だったと 言った人がいた。あと一言付け加えればよかったものをその人はそれで大臣を辞めた。しかし それはほんとうのことだある日 突然町から人が消えた。残された犬や猫や豚や鶏たち牛や馬。その他の動物たちは何を思ったであろう。言葉の話すことの出来ない動物たちは人っ子一人いない町を餌を求めてあるいは人間を求めてさまよい続けたに違いないいったい何がおきたのだろう と。不思議に思ったに違いない。そしておびえるように鳴き声を上げたであろう。やがて動物たちは目に涙を浮かべて死んでいったのだ。ある日突然いなくなった人間たちを恨みながら。死んだ町は 今も死んだままだ。いつまでたっても死んだ町。いつかは消えていく町。幻の町。 根本昌幸「死んだ町」 私たちは、まだ放射能の降り注いだ街で暮らしている。私(たち)の反原発の運動は「福島の人に寄りそって」などというものではない。 昨日、妻は知人から山菜を頂いて困り果てていた。「親切で持ってきてくれたのに……」。若い頃、職業被爆としてけっこうな線量を浴びた私だって食べないのだ。年老いたといえども、私はまだ人生を諦めたわけではない。(2014年5月9日)青葉通り。(2023/1/13 18:54~18:57) 少し汗ばんでデモは終わった。一月なのにこんなに暖かい日を「気持ち悪い」と私は思う。ホモサピエンスの一部として私たちは冬の寒さと夏の暑さが繰り返すこの地に10万年もかけて馴染み、遺伝形質を変えてきた。だが、人間の近代は、人間の遺伝的対応がまったく追いつけないほどの速さで地球を変えてしまった。 「過ごしやすさ」と「気持ち悪さ」が同居する日だが、いずれ「気持ち悪さ」ばかりの日が続き、「耐え難い」日ばかりになるのかもしれない。自公政権の軍事にのめり込む姿勢を見ていると、その前に私たちは戦争で滅びてしまう可能性も否定できないが………。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2023.01.13
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師走である。「師走でせわしい」などと言うとあまりにもありきたりで面白くもなんともないのだが、じつのところ最近は師走に関係なく「せわしい」のである。 仕事ももろもろの用事も依然とほとんど変わらない量なので、しだいに退化していく処理能力のせいだろう。そう思っていたし、それを言い訳にもしていた。 しかし、「せわしさ」にはもう一つ原因があるらしいと気づいたのは数日前である。職業人として生きていたときには、仕事の進み方はひとえに私だけに依存していた。若いときには実験室にこもってばかりいたし、机に向かって論文を書くという仕事が次第に増えていっても、やはり私が仕事を進めるままに時は過ぎていたのである。 退職したとき、あまり社会性のないそれまでの生活を変えようと思って地域の仕事を引き受けた。職業人のときとは比べようがないほど暇なはずなのに、忙しい感じはむしろ増えたように感じたのである。結局、それは自分の時間感覚で仕事や用件が進まず、いつも仕事が残っている状態が続くためなのだ。その間は「仕事があって忙しい」という状態が続くのである。短気な性格がその感情を加速してもいる。 12月初めに、昨年の9月から続いていた国と市を相手の交渉事がようやく終了した。国と市からその話を持ち込まれたときに、交渉の進め方と結末のありようを想定したのだが、実際に私の想定通りにとくに困難も波乱もなく、つまらないほどに淡々と事態は進んだのある。ところが、その遅々たる事態の進行中は仕事を抱えているという感じが消えないのである。こちらから発信すると国と市は返信をすり合わせる時間が必要で、早くて二週間、場合によっては一ヶ月ほど待たされることになる。 いろいろな仕事や用件にいろいろな人たちと関われば、相手の決断や行動をじっと待たなければならない、そんなことはまったくのあたりまえのことなのに、それが私の「せわしさ」の原因の一つだと気づくのに、こんなに年を取らなければならなかったということにだいぶ落胆してしまった。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2022/12/11 14:24~18:29) 冬支度で元鍛冶丁公園まで歩いたら、いくぶん汗ばんできた。思った以上に暖かい。 遅刻して元鍛冶丁公園に着くと、集会は公園の奥のステージで行われていた。雨を避けてステージにかかる屋根の下でやることはあるが、日中の公園入口での集会を遠慮したのだろう。20人ほどが集まっている。一番町。(2022/12/11 14:31~14:39) ネットでツイッターを眺めていたら「日本はアメリカの最後の州にされるのではないか」という趣旨の記事に、「アメリカの州になったら、オスプレイは住宅地の上を飛ばないし、沖縄の基地はもっと分散されてとってもいいこと」という皮肉の効いたリプライと「州には絶対にならない、日本はアメリカの属国、植民地なのだから州に昇格させるのはアメリカの利にならない」という真面目(?)なリプライが続いていた。 駐留米軍の将校と日本政府の官僚から成る「日米合同委員会」の決定が日本の憲法や法律よりも強い効力を持っているというのは、いまや公然たる常識となっていて、日本がアメリカ軍に占領された植民地であると言うのはたんなる比喩のレベルを超えているように思う。 しかし、福島のことを考えると、アメリカの植民地である日本の中の更なる植民地としての東北という考えに突き当たる。8年前に『辺境から始まる 東京/東北論』という本を引き合いに出して、そのことについて次のような文章を書いていた(「「3・16 No Nukes みやぎ」 (1) 錦町公園のイベント・集会!」。 日本という国において、東北はどのような位置を占めているのか。例えば、小熊英二さんは、太平洋戦争以前の「植民地と勢力圏を中心としたアウタルキー(自給自足)経済」が敗戦によって破綻した後、国内でアウタルキー経済を目指した時代に東北が「米どころ」になった、と指摘する [赤坂憲雄、小熊英二(編著)『辺境から始まる 東京/東北論』(明石書店、2012年)p. 315。] 。文字通り、戦後の東北は旧植民地の代替機能を負わされたのである。 あるいは、山内明美さんは、東北の置かれた歴史的状況について、天皇制における大嘗祭を取りあげて次のように述べている。天皇の代替わりの最も重要な儀式である大嘗祭の悠紀に、はじめて東北が登場したのは、1990(平成2)年の秋田県である。それ以前には、東北が大嘗祭に伴う斎国に選定されたことはなかった。あえて天皇儀礼という観点から言ってみるならば、天皇の身体の一部へ東北が摂取され、東北が名実共に天皇の領土としての食国になったのは、20年そこそこの歴史なのである。 [同上、p.256] つまり、太平洋戦争後、食料生産の植民地に過ぎなかった東北は、平成に入って始めて天皇制における日本国の一部になり得たということである。だから、昭和が終る頃、大阪人のサントリーの社長が「東北は熊襲の産地、文化程度も極めて低い」と発言したのは日本国(国民)のありようから考えて当然と言えば言えるのである(熊襲と蝦夷を間違える佐治恵三の低い文化程度はさておいて)。 だとすれば、原発事故後、それをなかったことにしたい政府は、福島を日本に含めない(含めたくない)という思想をベースに動いていると想定することは容易で、しかるがゆえに、福島の人々よりも東京電力が大切だという政治行動に繋がっていると言える。(2014年3月16日) 東北に住む私たちは、日本という国とアメリカという国に対しての二重の植民地の闘いを強いられているということだろう。青葉通り。(2022/12/2 18:42~18:47) 今日のデモの集会の開始時間は午後2時15分、デモは2時半出発だった。これに参加するときは、昼飯抜きである。胃腸が弱くて、食後に変調が生じることが多いので、用件の時間帯によっては朝食や昼食を抜いて出かけることが多い。 今日も家族の昼食だけを作って、私は何も食べないで家を出た。一食抜いてもあまりお腹が空いた感じがしないたちなので、夕食までそのままということが多いが、今日は蕎麦で遅い昼食とした。片平に勤務地があった頃、よく通った蕎麦屋さんでその当時とても好きだった「天とじそば」を食べた。 家でも「天とじそば」を作ってみるのだが、半熟の溶き卵で海老天をとじるのがうまくできなかったのだが、お店で食べながらその作り方が分かったような気がした。デモに参加すると料理の勉強にもなるのである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2022.12.11
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コロナ禍による死者数が尋常ではない。第7波の蔓延時には過去最高の死者数となったが、第8波ではその数を超えそうな勢いで急激に増加を始めている。 とはいえ、政府も県も市も、あたかもコロナ禍が収まったかのようにどのような防護策も講じることはない。世間は、まるで何ごともないかのように経済活動に励んでいる。 誰かが、「若者が感染して、父母が苦労して、祖父母が死ぬ」とネットで表現していたが、私にもそんな印象が強い。第7波が収まりかけたころ、地域で二つほどの行事を考えたのだが、第8波が始まって断念した。行事の開催も断念もそれを決定するのは(形式的ではあるが)私の責任となっているのでたぶんに気の弱い私の消耗も尋常ではないのである。なにしろ、地域行事の参加者は「真っ先に死ぬ祖父母」の世代が多いのである。 そんなこんなで、行事はほとんど中止になっているのになんかドタバタとしていて疲れるばかりである。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2022/12/2 18:19~18:32) 元鍛冶丁公園のケヤキにはまだいくぶん散り残っている葉がついている。仙台は急激に冷え込んで、ほぼ完全に冬の服装で出かけてきた身には、冬に先回りされて散り損ねた葉っぱが哀れに思えるのである。 集会では電力料金の値上げなどが話題になっていた。また、この間(11月25日)の福島原発被害南相馬訴訟の高裁判決に触れて、「元の生活を返せ」いわき市民訴訟の仙台高裁での控訴審が11月29日に結審したこと、また仙台地裁での女川原発再稼働差止訴訟も11月28日に結審したことなどの報告があった。とくにいわき市民訴訟は勝利判決を書いた裁判長が同じだということも紹介され、少しばかり期待感が喚起される話だった。一番町。(2022/12/2 18:33~18:38) 現在、岸田政権は原発稼働の延長、原発の新設を決定しようとしている一方、敵基地攻撃能力のための防衛費をGDPの2%とこれまでの倍額にしようと画策している。あげくに完璧な攻撃的武器であるトマホーク(アメリカが不用なった中古品らしい)を大量に購入しようとしている。完全な「専守防衛」政策の放棄である。 安倍、菅、岸田と日本国憲法を無視する政策が次々と打ち出されている。それにしても奇妙なのは、憲法を無視して政策を決定しているのにその憲法を変えたいと躍起になっていることである。これから導き出せるのは、彼らは自分たちの政策そのものが憲法に反する国家反逆的(典型的な「反日」的)な行いであることを自覚していて、憲法を変えることで何とか正当化したいと必死になっているということではないか。 いずれにしても、「知育」に失敗したような政治家にトマホークのような殺傷力の高い玩具を与えたら何をするか知れたものではない。「防衛的先制攻撃」などいう自己矛盾の甚だしい無茶苦茶な論理で戦争を始めることしか想像できない。 以前(8年ほど前)にエマニュエル・レヴィナスの本から引用しながら平和と戦争について書き記したことがある(「4月4日 脱原発みやぎ金曜デモ」 デモは不参加、ブログはでっち上げ!)。戦争オタクのような政治家が、〈倫理〉の哲学者のレヴィナスの本を読むなどということはありえないだろうが、紹介しておく。「悪しき平和といえども、もちろん、善き戦争よりも善きものではある! ただし、それは抽象的な平和であって、国家の諸権力のうちに、力によって法への服従を確たるものたらしめるような政治のうちに安定を探ろうとする。かくして、正義は政治に、その策略と計略に訴えることになる。(……)そして場合によっては、全体主義国家のなかで、人間は抑圧され、人間の諸権利は愚弄され、人間の諸権利への最終的な回帰は期限なしで延期されてしまうのである。」 [エマニュエル・レヴィナス「人間の諸権利と他者の諸権利」(合田正人訳)『外の主体』(みすず書房、1997年) p. 201] まるで、日本の現状そのままではないか。「日本人は平和ボケしている」と力説するナショナリストたちは、中国や韓国、北朝鮮の脅威を声高に吹聴しながら、それらの国々を挑発することに余念がないし、彼らをあからさまな別働隊とする政府・自民党といえば、対外的には「集団的自衛権」を行使できるように、国内的には「秘密保護法」によって反戦活動を押さえ込もうと「策略と計略に訴え」て、戦争準備に勤しんでいるような「悪しき平和」に日本はある。 そんな平和であってもいかなる「正義の戦争」よりも正しい「善きもの」だ、という私たちの声を圧殺して、このまま進めば日本は「全体主義国家のなかで、人間は抑圧され、人間の諸権利は愚弄され、人間の諸権利への最終的な回帰は期限なしで延期されてしまう」ようになりかねないのである。 レヴィナスは、平和の実現を国家論や政治論という形ではなく、人間の倫理の問題として語り進めるのだ。「しかも、平和は単なる非-攻撃性ではなく、こう言ってよければ、それ固有の肯定性・積極性をそなえた平和である。そこにはらまれた善良さの観念はまさに、愛から生じた没-利害を示唆している。それゆえに初めて、唯一者ならびに絶対的に他なる者はその意味を、愛される者ならびに自己自身のなかで表現できるのだ。」 [同上、pp. 302-3] このようなレヴィナスの言論が反戦活動や平和運動にあまり直接的に役立つとは思えないが、それを担う個々の人々の精神にはきっと大切な意味をもたらしてくれるだろう、とは思える。青葉通り。(2022/12/2 18:42~18:47) デモは終わったが、なにか不思議なほど元気が残っている。この頃は疲れて臥せってしまうことが多くなっていたので、ちょっと嬉しい。 夕食の仕込みも終わっているので、帰り足がとても軽い(スキップする年ではないが………)。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2022.12.02
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退職してから10数年、糠漬けを作り続けている(妻は一度も糠床に手を入れたことがないし、それを自慢にしている)。7、8年前から春のフキノトウ漬け、夏のナス漬、秋にはハクサイ漬けと赤カブ付けが加わるようになった。それで、今は糠漬け(ダイコン、カブ、キュウリ、ニンジン、セロリ、ミョウガ)、ハクサイ漬け、赤カブ漬けが食卓に並ぶ。妻は喜んでくれるが、食の細い私が漬物だけで食事を済ませようとするので、とても口うるさくなるのが切ない。 そんな晩秋である。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2022/11/25 18:12~18:33) 季節の変化に鈍感になったというよりも年々季節に置いてきぼりにされる度合が強くなってきた私にも、家を出るときに外が真っ暗になっていれば仙台はすぐそこまで冬が迫っていると感じる。夕デモなどと言っていたが、ほぼ完全な夜デモである。元鍛冶丁公園に着けばケヤキの葉が地面に敷き詰められていて、もう秋は終わったらしいと感じるのである。秋は終わり、冬はもうすぐ、つまり今はどんな季節に属するのだ、などとしょうもないことを思っているうちに集会が始まった。 フリースピーチの主題は、今日南相馬市の住民ら約140人が、東電に損害賠償を求めた訴訟(福島原発避難者南相馬訴訟)に対する仙台高裁の控訴審判決のことだった。 福島地裁での一審判決では総額約1億4600万円だった慰謝料は、今回の控訴審判決では2億7900万円ではほぼ倍額となった。慰謝料の算定方法にはまだ問題が残されているとはいえ、まずは裁判に勝利したと言えるのではないかと思う。 この判決が出されたことで何よりも感じたことは、東電の敗北感にはただならぬものがあったのではないか。判決の慰謝料額は仙台高裁が示した和解案とほぼ同額で、和解案を蹴った東電の主張はほぼ完全に否定されたと言っていいし、何よりも判決そのものが東電の加害責任やその悪質性を厳しく断罪したことは、どう考えても東電の完敗であって、今後の多くの原発裁判に与える影響は大きいだろうと考える。 仙台高裁判決が東電の加害責任を断罪した内容は、判決後直ちに出された原告団・弁護団の声明に詳しいので引用しておく。 判決は、2002年7月に国の機関によって公表された「長期評価」の信頼性が認められることを前提として、これに基づけば、東京電力は、福島県沖を含む日本海溝沿いの領域においてM8クラスのプレート間の大地震が発生する可能性を認識し、遅くとも、津波試算がなされた2008年4月ころには、同試算程度の津波が到来し、浸水により電源設備が機能を喪失し、原子炉の安全停止にかかる機器が機能を喪失する可能性があることを認識していたと認定した。 判決は、このように東京電力が事故の3年も前から具体的な危険として予見していたにもかかわらず、津波対策により原発が運転停止に追い込まれる状況は何とか避けたいなどという経営上の判断を優先させ、原発事故を未然に防止すべき原子力発電事業者の責務を自覚せず、結果回避措置を怠った重大な責任があったと認めるのが相当であると、東電の責任を厳しく糾弾し大な責任があつたと認めるのが相当であると、東電の責任を厳しく糾弾した。一番町。(2022/11/25 18:35~18:44) 東電1F原発事故は重大な人身事故であったし、深刻な環境汚染を引き起こした。エジプトで開催されたCOP27(国連気候変動枠組み条約第27回締約国会議)も、いつものように環境汚染先進国とこれから環境汚染先進国になりたい国家群の利害調整が進まず、画期的な解決には多くの困難がつきまとっていることを明らかにしながら閉幕した。 COP27では、IAEA(国際原子力機関)が温暖化ガスを減らすには原発が必要だという宣伝をしていたが、あいかわらず「地球は温暖化ガスで滅びるか、放射能汚染で滅びるか」という愚かな二者択一論から抜け出せない醜態をさらしていた。 環境問題の深刻さについては、ブール&ホワイトサイドの『エコ・デモクラシー』(松尾日出子、中原毅志訳)という本が詳しく取り上げている。だいぶ前にその本のことを原発問題に絡めて書いていた。その内容を抜き書きで少し紹介しておく。著者は、環境問題の五つの特性を上げている。〔中略〕 二つ目の特性は、環境問題の不可視性、「環境問題は目に見えない」 (p. 21) ということである。福島原発から空中にばらまかれ、福島県ばかりではなく近隣諸県も放射性物質によってひどく汚染されたが、その汚染は目には見えない。もちろん、測定機器によって確認することは可能であるが、目に見えないことを良いことにして、県全域の放射能測定はしないと決めた県がある。測定しないことでデータがない、データがないことで放射能汚染はないと強弁したいのだ。 著者が例示するように、「交通量の多い幹線道路近くの住民たちは、一般的に自分の子供が癌になる確率が平均よりかなり高いということを知らない」 (p. 22) ということからも分るように、不可視性は意図的な情報遮断の問題でもある。福島原発事故は、情報遮断、情報隠蔽がてんこ盛りの事例である。〔中略〕 「環境問題は世代を超える」 (p. 24) というのが四つ目の特性である。これもまた原発問題がいい例になる。被爆の問題は世代を超える。これは放射能被爆、とくに広範な地域で起きている低線量被爆が抱える最大の問題である。原発を推進したい人々は現時点での被爆被害だけを取り上げ、可能な限り過小評価をしようとしているが、被害はこれから長いスパンをかけて現われてくることは間違いない。 しかも、原発が日々生産し続けている大量の放射性廃棄物を10万年のスパンで管理し続けなければならない。ホモ・サピエンスが地球上に現われたのが15~20万年前であることを考えると、10万年後のホモ・サピエンスがどうなっているか、確かな予想は難しい。どのように言いつくろうとも、原発は未来への責任を完全に無視するか、ないしは責任を放棄することを前提としているエネルギー技術なのである。〔中略〕 著者は、この五つを環境問題における特性としてあげているが、6番目として「不可逆性」を加えてもいいのではないか。使われてしまった化石燃料は人類が生存するスパンで再生産されることはない。地球上に拡散されてしまった有毒な化学物質を回収するすべはない。ただいまこの瞬間も空中や海水へ垂れ流している福島第1原発からの放射性物質も回収することができない。「取り返しが付かない」のである。 拡散していない有毒化学物質なら中和・無毒化も可能だろうが、原発で作り出された大量の放射性物質を消すことは不可能である。それを支配しているのは人間の知恵や技術を超えた「物理学的半減期」という厳然たる物理事象だけである。科学を知らない無知な人間ほど、いずれ何とかなる、未来の技術が解決するなどと思っているようだが、冷徹な「不可逆性」を人類はひっくり返すことはできない。(2013年9月1日) 地球規模の環境問題を現状の代表制民主主義の国家群が解決するのは困難(政治家は自分を選んだ選挙民だけしか代表しないため)だとして、著者らは「エコ・デモクラシー」を提案しているがそれは専門家を中心とする機関の創設で、いわばハーバーマス流の熟議民主主義によく似ているように思える。熟議民主主義が機能している国家を知らない私には、それが国際的な決定機関・制度として有効かどうかは判断が難しい。青葉通り。(2022/11/25 18:45~18:51) まったく寒くはない。デモの周りを急ぎ足で歩いたり、小走りなったりするが汗もかかない。疲れをここちよく感じることができる。いい季節、いい夜である。残念なのは、家で腹をすかした家族が待っていることだけである。急ぎ足で帰るのである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2022.11.25
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疲れやすくなったせいかもしれないが、このごろ以前よりもよく眠れるようになった。睡眠時間が長くなったことで眠りが浅くなったのか、夢もよく見るようになった。 ところが、その夢がじつに面白くないのである。起承転結のないつまらない場面が続くのである。目が覚めたときは、そんな夢を見たと思っているのだが、いつの間にかその内容は雲散霧消するのである。それほどに印象が薄いということである。 老化に伴って、体質や性格が微妙に変化しているのかもしれないが、何にもわからないのである。夢が精神の何らかの象徴である、など言うことはどこの世界の話か、フロイトでもユングでもラカンでもいいからご教示ねがいたい、などと少しばかり自分の夢にいらだってしまったりする。 今日はなんとしてでもデモに出たいと思っていた。わが家の昼食はいつも午後2時近くになるので、今日は1時間早く家族の昼食を用意して、私は食べないで家を出た。胃腸が弱いので食後すぐに外出するのは控えている。朝1や午後1の会議などのときは食事をしないで出かけるのが常なのだ。よくしたことに、それでお腹が空いて困ったという経験もほとんどないのである。肴町公園から一番町へ。(2022/11/6 14:02~14:15) 集会の開始時間に遅れたので、フリースピーチで語られたことは正確にはよくわからない。ただその後の流れで、主催団体の「脱原発みやぎ金曜デモ」の代表者が入院療養に入ったという話もあったらしい。デモ開催に関わる諸々のほとんどを引き受けていた人なので、デモ終了後、急遽今後の方針について打ち合わせがあった。 予定を超えた人数が集まった会議には、みんながその病状を深刻に心配していた当のご本人が病室のベッドの上からZOOM会議に参加されたので、少しほっとしての会議だった。 会議ではデモの開催日数を減らすなどの案も出たのだが、さいわい積極的に手をあげてくれた人たちがこれまで代表者が担っていた仕事を分担することになり、当面の間は現状の開催方法を継続することになった。 「脱原発みやぎ金曜デモ」が立ち上がってから10年以上が経った。金曜デモに参加しては、そのことをブログに綴ってきた。私と原発の関係は、原子力工学を学んでいた学生時代までさかのぼるが、そのころのことをこのブログに書き記したことがある(「「4月11日 脱原発みやぎ金曜デモ」 辺見庸の言葉!」)。「もうひとつの、サブスタンスとロールという問題でいえば、ぼくはどうしたって物書く人間なものですから、集会でね、日比谷の野音かどこかでね、白いテーブルクロスしたところにみんな偉そうに座ってね、あれすごく嫌いなんですよ。(……) 何十年も原発をほったらかしてきたくせに、今頃偉そうな顔して言うかって思うわけです。そういうときに、ロールではなくて、人としてのサブスタンスが問われてくるんだと。」 (辺見庸『週間金曜日』2014年4月11日号、p. 20) 辺見さんの言葉は、ジャーナリストや知識人へ批判の流れの中で語られているのだが、当然のように、それは私にも突き刺さってきた。 大学、大学院修士課程まで「原子力工学」を学んでいた私は、当時、反原発という動きの中にもいた。それも理由の一部として原子核工学科を追い出された私は、拾ってもらった物理系の研究室で「ほっと」して物理学者への道を選んだ。 「ほっと」したというのは、就職ができたということもあったが、もう原子力工学をやらなくてもいいという気分が大きかった。それを裏返せば、原発-反原発という構図の現場にもう居なくていいんだという気分があったのだと思う。もう少し突き詰めて言えば、反原発を担う責任のようなものも軽くなったと思っていたのではないかと、今になればそう思うのである。 辺見さんが言うように、それはロール(役割)としての生き方だったということである。20歳ちょっとの時の反原発はロールとして演じられ、私の存在のサブスタンス(実質)にはなっていなかった、ということだ。(2014年4月11日)一番町。(2022/11/6 14:19~18:20) 集会のフリースピーチの最後の部分の聞きかじりの中に40年超の原発をさらに20年を越えても延長稼働できるようにしようとする原子力規制委員会の話題があった。それを聞いても、「原子力でしか生き延びることのできない学者さんはそう考えたいのだろうな」という感想しかない。 そんなに長い間原発を維持できるだけの人材は枯渇するだろうから、彼らの夢想は夢想のまま終わるのではないか。と言うのが私の考えである。20年も前になるが、原子力工学の大学院教授になっていた後輩が「学生の質がどんどん落ちていく」と嘆いていたことがあった。フクシマ事故以降、原子力関連の学部・学科への進学希望者が急激に減っているという新聞記事もあった。人材は確実に枯渇するのである。 原子力産業が栄える、などというのは夢のまた夢なのである。経産官僚の妄想として潰えるのではないか。経産官僚の悪あがきの一つに高速増殖炉への妄執があるが、8年前のこのブログにも高速増殖炉「もんじゅ」についても書いていた(「「4月27日 脱原発みやぎ日曜昼デモ」 青葉・若葉の風に吹かれて、うらうらと!」)。 私は物理系の研究室に職を得たが、原子核工学科だった同級生のほとんどは原子力関係の職を得た(当たり前のことだが)。大学に残る少数を除けば、優秀な人たちは日本原子力研究所や動力炉・核燃料開発事業団に入った。原子力規制委員会の田中俊一委員長は、私より一年上で、学部卒業で日本原子力研究所に入った一人である。同級生の中には、職業人生のほとんどを高速増殖炉「もんじゅ」に関わりつづけて退職した友人もいる。 「もんじゅ」といえば、4月21日付けの読売新聞(私はネット記事で見たが)に「もんじゅ推進自信ない…原子力機構が意識調査」という記事が載った。日本原子力研究開発機構の高速増殖炉「もんじゅ」で、多数の機構職員が「もんじゅのプロジェクトを進めていく自信がない」と考えていることがわかった、という内容である。 日本原子力研究開発機構は、日本原子力研究所と核燃料サイクル開発機構と改めた動力炉・核燃料開発事業団が統合されてできた国家レベルの原子力研究機関である。私が卒業した頃の原子核工学科の就職状況から類推すれば、ここには原子力工学を専門とするなかでも優秀な部分が集まっているはずだ。そのような技術者、研究者の多くが「もんじゅのプロジェクトを進めていく自信がない」というのだ。福島の事故で「絶対安全」という盲信、非科学的信仰が崩壊してしまった現在、ノーマルな精神・知性を持つ技術者、研究者が原子炉、なかんずく高速増殖炉という不安定な原子炉に不安を持つのは当然と言えば当然なのである。 日本の原子力工学の中枢にいる人びとが不安に陥っている一方、政治・行政の世界では「世界最高水準の原子力安全基準」などというありもしない虚妄の根拠を問われて、政治家も役人も返答に窮している。なんという「反知性主義」の国なのだろう。最近、自民党・右翼的言動を「反知性主義」と呼んでいるようだが、安倍的言説を反知性主義というのは正しいとは思えない。ただの無知を反知性主義とカテゴライズするのは過ちだと思うのだが。もしかしたら「無知+政治権力」を反知性主義と考えるのだろうか。(2014年4月27日)青葉通り。(2022/11/6 14:22~14:31) いつの間にか青葉通りのケヤキ並木がきれいに色づいている。そんなことに驚きながらのデモだった。老骨には暑さ、寒さの変化はけっこう堪えるので、季節には敏感になっているはずだと思うのだが、季節に応じて巡る自然の変化には逆に鈍感になっているのはどういうことなのだろう。老いは世界に開けていたパスがどんどん狭くなっていくことだろうとは考えてはいたがこんなに早いのはいやだなあ、ケヤキを見上げながらそんなことを考えてデモは終わった。 ケヤキには緑をしっかりと残したところ、赤や黄色に色づいたところと混じり合っていて、道には落葉がたくさん散らばっている。樹上の色とりどりの葉とは異なって、地上の葉がすべて枯葉色であることにちょっと不思議を覚えたが、枯葉色になったものが落ちてきたと考えればいいのだというつまらない結論にがっかりしながら家に帰ってきた。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2022.11.06
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一ヶ月ぶりの金デモ参加である。集会は元鍛冶丁公園、ときどき肴町公園というふうに続いていて、勾当台公園での開催は数年ぶりではないかと思えるほどの久しぶりである。 ほんとうに久しぶりだったので少し気が急いて家を出たのだが、勾当台公園には30分も前に着いてしまった。午後6時15分の開催時間を午後6時だと思い違いをしていた。家から勾当台公園まで30分ほどと思っていたが15分で着いてしまった。それで30分も前に着いたのだ。 二つの「久しぶり」それぞれの時間についての思い違いが重なったのである。日々をまめに過ごすことがとても大事と知らされた。ボケというのは怠惰もその一つの要因かもしれないのである。勾当台公園から一番町へ。(2022/10/14 18:15~18:38) 勾当台公園の野外音楽堂にはそれなりの照明がついているのだが、集会まで時間があるのでフラッシュを使うかどうかいろいろ試してみたのだが、どちらもよくないのである。結局、写りは悪くてもフラッシュなしの方がその場の雰囲気が出るように思えたのである(いずれにせよ、帰宅後の写真整理ではいい写真はほとんどないという結果だったのだが)。 フリースピーチでは県会議員の福島かずえさんの「脱原発宮城県議の会」での学習会の話や、原発が大きな負担になっている電力会社が円安でさらに経営悪化となっていることなどの話があった。 先週は参加者が少なかったようだが、今日は30人ほどが集まっていて、暗い勾当台公園から一番町に向かった。 一番町。(2022/10/14 18:42~18:53) 東電福島第2原発の悲劇的事故は世界の注目を集めた。あの事故を契機に敢然と脱原発へ舵を切った国々があった。いま、日本の政府は原発事故で生じ続けている大量の汚染水を公海へ放出しようとしていて、これにも反対や抗議を表明する国が出て来ている。 世界の心配をよそに、日本の政府は事故を終息させることもできずに地球全体の放射能汚染へと踏み出そうとしている。日本は、事故を契機に安全な未来へと向かう合理的な思考・決断ができないでいる。誤解のないように言っておくが、日本人が無能力なのではない。日本の政権政党の政治家や高級官僚にその能力がないだけである。 アルンダティ・ロイはフクシマ事故を東京で経験した。ロイもまた世界の知性としてインドから日本の原子力問題を注視しているに違いない。8年前、アルンダティ・ロイの文章を引用して次のようなブログを書いていた(「2月23日 脱原発みやぎ日曜昼デモ」 ヒーローはいない!)。「私の講演はキャンセルされた。私がインドに帰ってから数日間、福島からの放射能が風に乗って東京に降り注いだ。放射能の広がりは六〇〇平方キロに及ぶ。それはチェルノブイリのそれに匹敵すると公表された。それでも原子力業界は結託して悪いニュースを知らせまいと、原子力エネルギーが唯一の未来だと信じ込ませようとしている。 こうしてこの小さな島国は苦しみの円環を完成したのだ、戦争中も平和なときも、私たちの想像力が核によって摩滅してしまったために。人間の愚かさ、それが異なるデザインの海に囲まれた島で、ふたたび演じられている。」(アルンダティ・ロイ(本橋哲也訳)『民主主義のあとに生き残るものは』 (岩波書店、2012年) p. viii) あれからもう3年経とうとしている。そのころ、アルンダティ・ロイは、講演のために招待された初めての東京にいて、〈3・11〉を経験した。講演は中止になり、アルンダティ・ロイは、東アジアの小さな島国が辿った《苦しみの円環》に思いを寄せていた。当時、煽動罪の嫌疑でデリーの裁判所に召還されていた彼女は、ふたたびインドのネオリベラリズムとの闘いの場に戻っていったのだ。 そのような闘う作家としてのアルンダティ・ロイの在り様は、「核による《苦しみの円環》の克服は「小さな島国」に住む私たち自身に課せられた闘いだ」ということを自ずと私たちに語っているようだ。(2014年2月23日)青葉通り。(2022/10/14 18:54~19:00) 仕事や用事が増えているわけではない(減っているわけでもない)が、仕事や用事で疲れ果てて動きたくない日がとても多くなった。しかも、最近不定期な仕事や用事の割合が増えて調整がつかないということもある。 金デモ不参加にはそれなりに理由があっても、かつてはその理由を乗り越えることができたのだから、どうしても「サボっている」感を否定できないのが悩ましい。 元鍛冶丁公園出発のときは八千歩くらいで、ここ数ケ月は疲れることが多かった。翌日に大切な仕事があるときにはそのために金デモを休むことがあった。 今日は、金デモだけで歩数が一万歩を越えたのだが、あまり疲れてはいない。この体調が続いてサボる理由が一つ減ればいいのだが………。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2022.10.14
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「仙台七夕が終われば秋風が吹く」、仙台人はそんなことをよく口にするのだが、今年は猛暑が続いている。 3年前の8月、同居してた115歳の義母が自分の部屋で息を引き取った。その義母の部屋には、我が家で一台だけのクーラーが設置されていた。十分すぎるほど高齢の義母が熱中症にならないようにとずいぶん前に取りつけたのである。設定温度を28℃にして、暑い日には義母の部屋と居間の戸を開放して私たちも冷風のおすそ分けを受けていた。 義母が亡くなって家族はクーラーに関心がなくなったのだが、あまりに暑い日にクーラーを動かそうとしたのだが、ウンでもスンでもないのである。クーラーは義母と一緒に逝ってしまったのだった。 あわてて取り換えたクーラーに助けられて今年の猛暑をやり過ごしつつある。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2022/8/12 18:24~18:36) 日中の暑さがじっとりと夕暮れの街に張り付いているようだ。デモが始まる前に汗だくにならないようにできるだけゆっくりと歩いて元鍛冶丁公園に向かう。 元鍛冶丁公園に着いて写真を撮り始めたのだが、なぜかいつもより風景の陰翳が濃いように感じる。何枚か撮り終えた写真を見直してみてもコントラストがきついように見える。じっとりとした暑さが翳りに張り付いて陰翳を濃くしているのではないか、などと何の根拠にないことを考えながらシャッターを押すのである。一番町。(2022/8/12 18:37~18:47) 安倍前首相が凶弾に倒れた。それが彼の政治家としての歴史的結末なのか偶発的悲劇なのか、議論はまだまだ続くだろうが、7年前の8月、彼のおびただしい虚言に触れて書いた一文がある(「8月28日脱原発みやぎ金曜デモ」 政治における虚言を勉強しよう!」)。 川内原発が再稼働してしまい、反原発、再稼働反対も絶対に手を抜けないのだが、参議院で審議が進められている戦争法案(安全保障法案)も喫緊の問題である。 戦争法案に限らないけれども、安陪首相は「息を吐くように嘘を言う」ということでとても有名になった。確信的に嘘をきっぱりと断言するというのが彼の特徴である。原発関連で言えば、福島の原発事故は「完全にコントロールされている」という嘘、「政府が先頭に立って収束に当たる」という嘘。 それと比べれば、戦争法案をめぐる中谷防衛相などの発言は、その場しのぎの答弁なので支離滅裂になったり、自己矛盾を生じてしまっているというに過ぎないように見える。役人の耳打ちですべて了解できるほどの人材ではないということを示しているだけだ。 安陪首相の虚言は際立っているというものの、政治家が嘘を語るということそのものはとくに珍しい現象ではないようだ。「政治の世界は虚々実々」などということは昔から言われている。 以前に読んだジャック・デリダの『言葉にのって』 [1] には「政治における虚言について」という1章が設けられている。そこでは、政治における虚言についてはプラトンをはじめとして古くから哲学の対象として論じられているとして、なかでもデリダはハンナ・アーレントの著述 [2] から多く引用している。その本は、私が読んだアーレントの著作には漏れていた。 プラトンまで遡るのは私の能力では不可能だが、せめてアーレントの著作くらいは読んでおきたいと思った。現代の日本の政治の舞台で溢れるように発せられる「嘘」を、その原因を個々の政治家の資質に求めるのではなく、政治の本質に由来する虚言としてとらえることが可能なのかどうか、考えてみたいのである。そうすることで、安倍晋三という個人の虚言の本質も見えてくるのではないか、と思う。たとえば、それは子どものでまかせの嘘そのもの……、あるいは、政治的効果が緻密に計算された虚言……などということが見えてくるかもしれないのである。(2015年8月28日) 暴力によって攻撃される政治と社会、政治と社会によって追い詰められる人間。そのような悲劇の連鎖は「政治を変える」、「政治が変わる」ことによってしか解決できない。 それなのに、先の参議院選挙の結果は「政治を変える」兆しも「政治が変わる」兆しも見えないままに終わった。悲劇はまた続くのである。青葉通り。(2022/8/12 18:50~18:54) デモが青葉通りに入り、国道4号の大通りを渡って行く姿を後方から写す。この後、地下道を通ってデモを追いかけても解散場所までに追いつくことは不可能なので、私のデモはここで終わる。大通りを渡っていくデモの列を撮るときは、いつもここで終わるのである。 デモで十分に汗をかき、帰り足でさらに汗をかき、家にたどり着き、シャワーを浴びて、急いで夕食の支度をし、少し(?)のワインで食事をすませれば、私の一日は終わる。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2022.08.12
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異様に早く梅雨が明け、仙台の6月は猛暑日とかぎりなく猛暑日に近い真夏日が続いている。冷房の恩恵などなかった若かったころ夏負けに悩まされていた私は、「もう夏負けしなくなった」と妻に自慢していたのだが、今年はさすがに食欲不振が続いている。 かつて東北の太平洋岸の夏は冷たい「ヤマセ」による飢饉に宿痾のごとくつきまとわれていたのだが、それに比べれば水不足さえなければ米作にはいい気候だと考えて自分を慰めてみる(農民でもないのに)。元鍛冶丁公園。(2022/7/1 18:19~18:23) なるべくゆっくり歩くことにして、早めに家を出た。まだ冷めやらぬ熱気にやられるだろうと思っていたが、さほどでもない。3週間ぶりの元鍛冶丁公園にはいつも通りのデモ人が集まっている。 仙台のデモ人は酷寒のデモにはとても強いと思っていたのだが、酷暑にも強いらしい。生まれてから宮城県を出て暮らしたことがないのに、私は暑さにも寒さにも弱いらしい。どうも、私には東北人の美徳の一つに数えられてきた「忍耐強さ」というものがないらしい。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2022/7/1 18:31~18:33) フリースピーチで、この5月26日に亡くなられた長純一さんのことを話された人がいた。医者である長さんは2011年の東北大震災後の石巻市で医療救援活動に携わってから、石巻包括ケアセンター所長を勤められるなど石巻の地域医療に取り組まれていた。5月に末期の膵臓癌であることが分かったのだという。56歳の若さだった(合掌)。 長さんは、在宅ケアや自宅介護などに果たす行政の役割の重要性から石巻市長選や宮城県知事選に立候補された。仙台に住む私は、県知事選では当然のように長さんに投票した。当選できなかったことは残念だが、少なくとも私には「誇りある」投票行動だったのである。 今は参議院選挙戦の最中であるが、6年前の参議院選挙で私が投票したのは国民民主党から立候補した桜井充だった。原発については何も言おうとしない彼を胡散臭いと思っていたが、市民と野党の共同候補ということで「よりましな選択」としての投票だった。ところが「よりまし」どころか「最悪」の投票行動になってしまった。当選した桜井充は任期中に自民党に寝返ってしまった。彼に投票した過半の宮城県民をいとも簡単に裏切ったのである。 選挙権を得てから50年、一度も自民党には投票しなかったことは私の誇りである。そのささやかな誇りは、私が投票した人間が自民党である(になった)という事実であっさりと霧散したのである。 しかし、自民党という党は、「裏切者」で「人間性に信頼が置けない」ような人間でも選挙に勝てれば誰でもいいという政党運営だけは見事に一貫している。一番町。(2022/7/1 18:36~18:43) 集会では、原発に関する宮城県の参議院立候補者への公開質問状に対する結果についての話題もあった。丁寧に回答を寄せたのは立憲民主党から立候補している「小畑きみ子」候補だけだった。 「小畑きみ子」候補は、トリチウム汚染水の海洋放出には反対、原子力規制委員会の汚染水海洋放出容認は見直すべき、女川原発再稼働は認められない、原発に頼らない社会を目指して様々な再生可能エネの活用を、などと回答されている。 その「小畑きみ子」候補の選挙カーが広瀬通り一番町で選挙演説をしている。立憲民主党の階猛衆院議員が演説をしていて、ちぎれるように手を振るデモ人には隣にいる鎌田さゆり衆院議員が手を振って応えてくれる。 その他の候補者はすべて(桜井自民党候補も「ウラギリモノ」らしく)無回答であった。回答するだけの考えがないのか、回答すれば票が減ることを知っているのかよくわからないけれども、国民が直面している政策課題に答えを持たないのに立候補する(できる)ということが私には理解できない。 もっとも、6年前の参議院選挙の自民党全国比例区候補の一人が、政策を問われて「今は選挙中ですから」と断ったという例がある。アホ丸出しである。どこをどうひっくり返したって自民党に投票できるわけなどないのである。青葉通り。(2022/7/1 18:47~18:56) 戦後続いてきた自民党政権はけっして評価できないが、その政策が極端に悪化したのは安倍晋三が政権を取ってからである。それは小泉政権以来という人もいるが、少なくとも安倍政権では見境がない感じになったのは間違いない。 その安倍政権について、9年前に次のようなことを書いた(「「12月13日 脱原発みやぎ金曜デモ」 こんなに寒いのに!」)。 今読みかけている本 [2] で、樫村愛子さんは2007年に成立した第1次安倍政権を「原理主義」だと断定している。つまり、「原理主義者とは、伝統を擁護する正当性が薄れてきた現代でも、伝統を従来のように無前提に擁護しようとする人たち」で「伝統だから無前提に擁護するのだと、彼らは語るのである」として、「現在の伝統主義とは原理主義であり(すなわち安倍政権は原理主義である)、今日における必然的な病理である」と述べている。 現在の第2次安倍政権は、現代病を病む政治家の復活だったわけである。 世界を眺めれば、原理主義の多くがテロリズムと同等と見なされる活動を行なっていることは明瞭である。原理主義者に支配されつつある自民党は、おそらく原理主義=テロリズムの図式をよく知っていて、国民がそのことに気付く前に、国民の目くらましとして、私たちが非暴力的に行なっているデモを「テロだ」と言いだしているのではないか。 「特別秘密保護法」というのは、「俺たちが原理主義テロリストだということを隠しておくのだ」という意図だったようにすら思えてくる。 「特別秘密保護法」ではなく、「原理主義テロリズム監視法」が必要なのではないか。いや、原理主義者だからといってそれを監視するというのも、あきらかに反民主主義的ではある。 監視しあう社会がろくでもないことは、歴史が十分に教えてくれている(だからこそ、日本の原理主義者は歴史修正主義者でもあるのだろうけれども)。(2013年12月13日) 今年の選挙は、日本国憲法改悪を狙う右翼ファシズム政党(自民党、公明党、維新の会、国民民主党など)との闘いであることは間違いない。連日の酷暑日に、ふつふつと滾る危機感はほんとうに身にこたえる。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2022.07.01
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真昼間から一升瓶を片手に酒を飲んでいるというのは、私にとっては幼いころから最悪な男のイメージだった。私の生家の家族には酒飲みが多かったが昼酒を飲むような人間はいなかった。 昨日の昼食時、一升瓶からグラスに日本酒を注ぎながら突然そんなことを思い出した。私がやっていることは、最悪の男のイメージそのままなのである。 60歳のころに、講演を依頼されてウィーンに滞在していたとき、昼食を一緒にしたウィーン大学のメンバーが白ワインを飲んで、勧められた私も喜んで飲んだのである。もちろん、午後は大学に帰って普通に仕事を続けるのである。 そのころはワインしか飲んでいなかったので、昼食時にワインを一杯というのは悪くないと思いながら、さすがに日本の大学では勤務日の昼に酒を飲むという人は私の周囲にはいなくて、それっきりになっていた。 退職して「ほぼ休日」という日が多くなった時にウィーンの昼ワインのことを思い出した。退職後、昼食は私が作ることになっていたので、白ワインに合うような(つまり、ワインに食事を合わせて)ランチを作って楽しんでいたのである。 そして、半年ほど前からおいしい日本酒を見つけて飲むという「終活」を始めて日本酒の一升瓶がわが家に並ぶようになって、「真昼間、一升瓶を抱える酒飲み」像が出来上がったのである。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2022/6/10 18:20~18:33) 梅雨入りをしたかのように雨が続く仙台で、降りそうで降らない金曜日になった(じつは、デモ終了直後の帰路で一時的に降られた)。25人が集まった集会も雨を心配する挨拶で始まった。 スピーチでは6月8日に仙台地裁で開かれた「女川原発再稼働差止訴訟」の口頭弁論の傍聴報告があった。事故時の避難経路に設置される汚染検査場所に東北電力の社員600人が配置されるとしながら、宮城県は配置計画や手順など整備を行っていないため、県の言う避難計画にはまったく実効性がないという主張などが紹介され、裁判の結審は9月21日に予定されているとの報告がなされた。一番町。(2022/5/27 18:35~18:42) 原発のことを何も知らない政治家が原発の安全性を語る(騙る?)のはまったく珍しくないし、あからさまな無知をあげつらうのも気が引けるのだが、9年前にはこのブログで次のようなことを書いていた(「「11月23日 脱原発みやぎ土曜昼デモ」 脱原発と反秘密保護法と!」)。 ここまで書いて来たら、甘利ナントカ大臣が小泉原発ゼロ発言を批判して「科学的技術が進んで放射性廃棄物の保管期間を短縮できるようになる」旨の発言をしたというニュースをテレビが流していた。科学的無知というよりたんなるホラ話である。 物理学的には、ある放射性同位元素に陽子または中性子を必要量だけ注入して安定同位元素に変換することは可能である。あるいは逆に、長寿命放射性同位元素に陽子または中性子を付加してより不安定な短寿命核種へ変換することも理論的には可能である。ただし、そのためには核分裂生成物としての多くの種類の放射性同位元素を分離したうえで、それぞれの同位元素に異なった核変換処理を施さなければならない。 最大の問題は、核反応断面積(核変換が起こる確率と考えてよい)が極端に小さいことだ。すべての放射性同位元素の核変換が済む時間は、おそらく半減期に応じて減衰するのを待つ時間と匹敵するだろう。つまり、想像を絶する費用をかけて核変換処理施設を建設して長期間の作業をすることは、何もしないで保管しておくことよりいいなどとはとても言えないのだ。 原子力村の御用学者でも今はそんなことを言いだしはしないだろう。甘利大臣の発言は、原発推進が科学的無知ないしは科学的知識の無視によって進められてきたことの典型的な例に過ぎない。人間がつくった人工物が「安全」で「絶対に事故は起こらない」と宣言した時点で科学は破綻していたのである。(2013年11月23日) 今なら、さしずめ東電1F事故後の溶融核燃料から出る汚染水を「処理水」という名前で海洋放出しようとする言説が代表的な政治的騙りであろう。たしかに正常に運転されている原発から排出される「トリチウム汚染水」はある濃度規制のもとに世界中の原発から海洋へ放出されている。しかし、メルトダウンした核燃料に曝されてありとあらゆる核分裂生成物(放射性核種)が混入した汚染水を合法的に海洋放出している国はない。 一定濃度以下のトリチウム汚染水を放出してもよいいという規制は、核燃料溶融事故を起した原発を前提にしてはいないのである。青葉通り。(2022/6/10 18:44~18:52) 原発のことを知らないのに原発や放射性物質の安全性を騙ることは批判されるべきだが、専門家ではないのだから政治家が原発や放射線に無知であること自体は何ら問題ではない。 しかし、政治家が政治制度について無知なのはどうにもならない。親から譲られた地盤と金だけで政治家になったためか、民主主義に基づく政治制度をまったく理解していない政治家がこの国には多いようだ。これも9年前のブログに書いた文章である(「「12月6日 脱原発みやぎ金曜デモ」 特別秘密保護法反対が脱原発への道筋!」。 「人間が抱える不確実性と脆弱性はあらゆる政治権力の基盤である」 [1] といったのはジグムント・バウマンである。自由主義的な保守(私にはそうとしか思えない)のバウマンにしてからが社会学者としては権力の本質を見抜いているのである。 自分の将来を考えるための情報が与えられない、自らの安全を守る手立てがない、そして外国(人)や犯罪者に安全が脅かされていると煽られる、国民をそんな状態に貶めておけば、政治権力は安泰なのである。 そうした点から言えば、安倍自民党は権力の本質をさらけ出しているだけなのだが、近代西洋の諸外国の政治権力と違って民主主義への配慮や逡巡がないのである。たぶん、彼らが日本国憲法を理解できないのも、民主主義の本質が理解できていないからである。そして民主主義を知らないために、近代国家の多くが示すことができた知性の匂いすらしないのだ。 常々、日本は「未完の近代」のまま現代に至ったと私は考えてはいたのだが、オモチャをねだる子供のように絶対支配権力をこれほどあからさまに欲しがるとは想像できなかった。 いかに自民党とはいえ、日本の戦後教育を受けたのだから多少の社会性とそれにかかわる程度の知性はあるものと、愚かにも私は思っていたのである。戦後民主主義教育は、この点では失敗したのだ(右翼政治家が教育に口出ししたがるのは自らの失敗を恨んでいるためか?)。(2013年12月6日) 私も教育者の端くれだった(じつのところ、自分は研究者だとばかり思っていて教育者の自覚は希薄だったのだが)ので、少し居心地が悪い感じはする。だからと言って、安倍政権のやった諸々にはどのような意味でも私には責任はない。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2022.06.10
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終活を始めた。私の年齢で終活を始めるのは当たり前すぎて面白くもなんともないのだが、妻に睨みつけられるような終活を始めたのである。 若いころ、私は大酒のみだった。安い日本酒ばかりを飲んでいた。40歳のとき胃を半分ほど切除してからはなぜか日本酒を受け付けなくなって、それからの35年はワインばかりを飲んできた。 それが、死ぬまでにおいしい日本酒を飲んでおきたいととつぜん思い立ったのである。安くて大量に飲める日本酒から少しはおいしい日本酒を飲もうと思い始めたころに胃を切ってしまったので、日本酒がどれほどおいしいのか私は知らないままであることに気づいたのである。 ということで、おいしい日本酒を見つけること、死ぬ前にそれをきちんと飲んでおくこと、そんな終活を思いついたのである。 まず、宮城県の酒を片っ端から飲んで好みの1本を見つけて、ある店からあわせて一升瓶で10本ほど取り寄せて飲んだのだが、品切れ、入荷未定ということになった。その酒を売っている店をなんとかネットで見つけて12本ほど購入したのだがその店でも品切れ、入荷未定ということになった。 宮城県産の日本酒で私でもなんとか飲めそうな銘柄を見つけたものの、今は飲めないのである。これはただの偶然だが、その酒を造っている酒蔵は父が生まれた地にあって、購入できた2軒目の酒屋は私の生まれた故郷にある。宮城県産に限定して探せば、そういう偶然が生じやすいのは当然である。 あまり自慢もできない終活もこれまでと思っていたのだが、偶然入った飲食店で非常によく似た味の酒を見つけた。秋田の酒だが、今はそれを飲んでいる。日本酒の分類(吟醸酒、純米酒など)はいろいろあるが、私が見つけた二つの酒はまったく同じ製法、分類なのであった。 次は、ふつうに人に話せるような終活を始めるつもりだが、さて………。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2022/5/27 18:25~18:33) 5月下旬、まったく気分のいい夕方である。元鍛冶丁公園はまだ十分に明るかったが、集会が始まると微妙な夕暮れの気配が感じられるようになる。空に雲もないので、夕焼けもまた微かな気配だけである。 25人が集まった集会では、6月8日(水)11時から仙台地裁で開かれる「女川原発再稼働差止め訴訟」の第3回口頭弁論の告知があった。コロナ禍のため裁判の傍聴人の人数制限が行われてきたが、その制限がはずされることになってこれまでの倍の80人ほどが傍聴できることになったので、ぜひとも傍聴してほしいというスピーチだった。一番町。(2022/5/27 18:36~18:46) 2011年3月の東電1F炉心溶融爆発事故の翌年の7月から仙台の脱原発金曜デモが始まったのだが、その年の暮れに第2次安倍政権が誕生した。脱原発デモは脱原発をシングルイシューとして行われてきたものの、ずっと安倍政権の戦前回帰を目指しているとしか思えないファシズム満載の政策との対峙を内包しながら続けられた。 2013年12月には「特定秘密保護法」が成立してファシズム化の道が大きく開かれてしまった。その法案に反対する行動が仙台でも続いていて、11月21日にも集会とデモが行われた。その時のブログ(「「STOP! 秘密保護法 11・21全国統一行動INみやぎ」 集会とデモへ」)に次のようなことを書いていた。 さて、読み始めた(ジグムント・バウマンの)『コラレテラル・ダメージ』に次のような一節があった。「……私たちは長年にわたって、罪もないのにグアンタナモやアブグレイブその他の刑務所に収監され、秘密にされ、そのために相変わらず不運で、非人間的な状態におかれている囚人の存在を知っている。私たちがそのことを知っても、ときおり抗議のつぶやきが漏れるだけで、公然たる抗議につながることはめったになく、ましてや効果的な反対運動が起きることもない。私たち「民主的なマジョリティ」は、これらのすべての人権侵害が「彼ら」を対象にしたものであって、「われわれ」を標的にしたものではない、つまり、異なる種類の人間(「あなた方と私の間にいる彼らは本当の人間なのか?」)を対象にしたものであり、私たち普通の人間には、その影響は及ばないと考えて自分を慰めている。私たちは、ルター派の牧師でナチスの迫害の犠牲者であるマルティン・ニーメラー(一八九二—一九八四)が学びとった、次のような不幸な教訓を都合よく忘れ去ってしまっている――最初、彼らは共産主義者を連行したが、私は沈黙を守った。次に、彼らは労働組合員を追い回したが私は組合員ではなかったので、何も言わなかった。次に彼らはユダヤ人を追い回したが、私はユダヤ人ではなかった……そして次にカトリックを標的にしたが、私はカトリックではなかった……次に彼らは私を連行しようとした……しかし、そのとき、誰も私のために声を発しようとはしなかった。」 文字通りに、「特別秘密保護法」が成立した後の私たちは、ニーメラーの経験をそっくりなぞるように生きていくしかなくなる。 もっとも、自分ではなにもものを考えず、権力の命ずるままに生きたいのであれば、「私を連行しようとした」ということにはならないかもしれない。それはあきらかに奴隷の生き方だが……。(2013年11月21日) ファシズム化の動きが厳しくなる中で、ニーメラーの言葉を引用する言説が(SNSで)多くみられるものの、事態がよくなる気配はまだ見えていない。青葉通り。(2022/5/27 18:46~18:52) これから6月にかけて陽が落ちるのが最も遅くなる時期が続く。今日のデモも、ゆっくりと暮れていく街を通り抜けていくのである。こんないい時間に、脱原発への意思を明らかにしながら街を歩くのは、幸せと言えば幸せ、不幸せと言えば不幸せ、その微妙さに心が揺れる。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2022.05.27
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5月に入ると体が疼く、と書きたいところだが、いまや体は疼かなくなって心が少しだけ疼くのである。山菜取りという山歩きがしたいのである。無性に好きな山菜もあるのだが、山歩きそのものも大好きなのである。 3・11で東京電力が日本列島に放射能をばら撒いて以来、山菜取りも茸狩り(という名の山歩き)を断念した(じつは、原発事故直後の5月、いつもの年のように山菜取りに行ったあとで、放射能汚染に気づくという大ポカを一度だけやったことがある)。 とんでもない実害である。いま、自公政権はすべての原発事故被害を「風評被害」だと喧伝し、原発事故の実害はなかったというフェイクで国民を洗脳しようとしている。こんな単純な嘘で騙そうとする精神にも驚く(まあ、意識的な政治的詐術だろうけど)が、それに唯々諾々と騙されそうになっている無数の精神が存在しているらしいことにも驚いている。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2022/5/6 18:16~18:34) 元鍛冶丁公園がやたらと汚い。酒飲み宴会をやったらしい残骸がそっくりそのまま捨てられている。東北一の歓楽街の一角にある公園の暗がりで酒飲み宴会」をするのはどういう気分のものだろう、などと考えてみたりしたが何も思い浮かばない。公園で飲み食いしてゴミはまるっきりそのままにできる人間にどんな関心もシンパシーも持てないことに気づいて終わりである。 その元鍛冶丁公園には25人ほどのデモ人が集まっていて、脱原発デモでウクライナの戦争も反対するという趣旨のスピーチ、そのためのスタンディングやデモの告知などが続いた。 コロナの話が延々と続いたあとで「原発に反対する」と締めくくられるというなんだかよくわからないスピーチもあったが、ようやく夕暮れの空気が濃くなった元鍛冶丁公園から25人のデモは出発した。一番町。(2022/5/6 18:37~18:46) 私は詩や短歌が好きで詩集や歌集もよく読む。3・11後は、原爆や原発に関して詠まれた作品がことさら目について、ブログやフェイスブックなどのSNSにもそれを引用することがある。ただ、残念ながら詩や短歌を引用して書いた文章を投稿したときの読者の反応はいつもよりずっと薄いような気がする。 それも当然なのだろうと思う。そもそも今や私には詩や短歌のことを話題にできる友人、知人は周囲には一人もいない。ごくごく若かったころ、詩の同人に加わったこともあったが、詩を書くことを断念してからはずっとそんな状態である。今は遠く離れて暮らす何人かの友人との手紙のやりとりのなかでたまに詩や短歌に触れるだけである。 SNSでの反応が薄くても、詩や短歌を引用するのはやめられないのである。とくに論理と心情がうまくかみ合った作品を見つけたときには、私の考えや心情をうだうだと書くより引用して方がよほどいい文章になるように思えるのだ。 さて、そのように短歌と詩を引用した脱原発デモのブログから二つ抜き出してみる。初めは短歌を引用した例(「10月4日 脱原発みやぎ金曜デモ」 股関節は痛むか? )。「福島を出ます」とおさな子を連れし背が去りゆく雨の向こうに (福島市)美原凍子 (2011/7/4 佐佐木幸綱選)日常の会話も悲し線量と逃げる逃げない堂々巡り (郡山市)渡辺良子 (2011/7/25 高野公彦選) 東電福島第一原発の事故から四ヶ月ほどたった頃、「朝日歌壇」に投稿、採用された短歌である。どれだけの日々の悩みがあり、故郷を離れざるを得ない悲しみがあり、哀切な別離と喪失があったのだろう。 このような不幸な出来事から人々を守るために、倫理・道徳が生れ、社会規範としての法が成立してきたはずなのに、原発事故の関連死が数千人に及ぶという現在に至るまで、誰一人として法によって裁かれようとしていない。 いかに資本主義社会といえども、一私企業の営利活動が多数の人命より優先するような立法精神というものはなかったはずだ。現状は、政治とその権力構造に取り込まれた司法によって恣意的な法の運用がなされていると考えざるを得ず、そこでは人倫などというものより経済的豊かさのみが追求されているのだ。どんなに偉そうに政治や社会を語ろうが、所詮は「目先の金」がすべてなのである。(2013年10月4日) もう一つは52年前に出版された詩集におさめられていたもので、「核爆発」について書いていたものを引用した(「10月18日 脱原発みやぎ金曜デモ」 神話が凍りつく!)。 寸断された戦線がみえてくる。そして 核爆発がテレビのむこうがわでつづいている。 われわれは一瞬のさけめから認識へおちる。 われわれはなんども死んだり、詩人みたいに またもや生きてゆく。 神話をつめたくしているのだ。 堀川正美「われら365」部分 これは1970年出版の詩集のなかのフレーズである。読むべき本、読みたい本が途絶えてしまって、やむなく納戸の奥から引っ張り出してきた43年前の本のなかにあった。ここには、予言された「フクシマ」が見える。そんなふうに思えた。 原爆や水爆へのイメージには違いない。しかし、大地震でメルトダウンした核燃料が今も地中のどこかで緩やかな核爆発を続けている、というイメージに繋がる。制御できない核分裂反応は、反応の遅速や反応の密度の問題はあっても、本質的に核爆発となんの相違があろう。 原子炉が爆発してしまってから、愚かといえども日本人は現実の悲惨な裂け目から否定しようのない「認識」へ落ち込んだはずだ。そう考えるのが詩人のイメージというものだ。いまだに、原発を続けたい、外国にも売りつけたいという意図をあからさまにする人間が存在しうるなどと思いもしないだろう。 原爆、水爆、原発の爆発、この一連の事象こそ、人類が地球上に生まれてから語り継いできた「神話」ですら凍りつくような悲惨だったはずだ。(2013年10月18日)青葉通り。(2022/5/6 18:48~18:56) デモを歩いて(正確には写真を撮りながらデモの周囲を歩き回って)かなり汗をかいた。 帰宅してすぐに風呂で汗を流したい。それから夕食を準備する。いつもより1時間も食事が遅れるけれどもしょうがない。冷凍肉の解凍とアサリの砂だしは帰宅時間に合わせて準備してきたので、少しは楽だろう。 そんなことを考えながらの帰宅なのだが、足は重い。それでも、少し頑張って急ぎ足を続けているとあまり疲れを感じなくなってペースが上がる。それでいっそう汗をかくのである。 でも、いい季節になった。デモは明るいうちに公園を出発して、街中を歩いているうちにすっかり日が暮れて、暗くなった道を家に帰る。とても素敵な夕暮れの過ごし方である。汗もたくさんかいたが、汗冷えを気にしなくていいほど暖かくなった。5月はデモの季節である。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2022.05.06
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ある若い歌人の短歌一首を引用して今日のブログを書き出そうと思っていたのだが、その短歌を思い出せない。ここ2カ月ほど読む本に困って何冊かの歌集を読み返してばかりいた。 一週間ほど前、とても疲れた日だったので、早めに風呂に入って、歌集の一冊を読んでいた。ある一首に惹かれてあれこれ思いめぐらせていると、いろんな考えが次々につながってきてきちんと文章化できるような気分になったのだった。 このブログとは別立てで読んだ本のことなどを書いているので、たった一首の短歌だけを取り上げて一文を仕立て上げようかなどと思ってもみたが、それほどたいそうなことではないと思い直して、デモのブログの枕にしようと思ったのだが、その短歌を思い出せないのである。それどころか、あれこれ考えたはずの内容もすっかり消え失せたのである。その時読んでいた歌集の付箋を貼った箇所を何度読み返しても思い出せないのである。 頭の中であれこれ考えるというのがどれほどあてにならないか、実験物理学者の経験として身にしみて分かっていたはずである。実験結果の解釈に苦しんで、目があいているときはそのことばかり考えていて、歩いているときや布団のなかで目覚めたときに「これだ」というアイデアが浮かんで、仕事場の机に座るまでの間、頭のなかであれこれ検討してそれなりに確信らしきものが生まれて、いざ論文を書き始めるとあっさりと論証不可能な個所が見つかる。たいがいの場合、気が付いていなかった論理の飛躍が見つかって終了する。 頭の中だけで考えるという作業を論理的だと考えるのは危険なのである。その考えをきちんと人に話せるか、文章化できるか、いわば正確な言語化が必要なのだ。いやになるほど身にしみて経験してきたのだが、普段の生活でも似たような経験を繰り返してがっかりしているのである。 そんな日々が続いている。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2022/4/29 14:03~14:16) 3月11日以来だから2ヶ月近いデモ参加のブランクがあった。取り立ててわが身に特別なことが起こっていたわけではないし、参加できなかった断固たる理由があるわけではない。たしかに仕事で参加できない日もあったが、ちょっと疲れ気味だったり、微熱があったり、時には単に外出する気分になれないということもあった。ここ二週間ぐらいはこまごました小さな仕事が重なって、ほかのことには気が回らないということもあった。 そんなこんなで2カ月が過ぎた。サボるに値する立派な理由があるわけではないが、一言で片づければ「年相応に老いている」というに過ぎない、残念ながら………。 久しぶりの元鍛冶丁公園は小雨模様である。とても肌寒い。午後2時だが、どことなく暗く、陰湿な感じがする。「昭和の日」というのは、昭和天皇の下で死んだ何百万の戦争犠牲者を悼む日である、そう思えるような気候である。 25人のデモ人は雨を避けてステージの屋根の下に集まっている。主催者に促されて「お久しぶりです」とスピーチを始めた人もいた。あまり長く休むと、スピーチを促されることになりそうなので気をつけないといけない。そうでなくても、デモを休んでる間に人前で延々と話さなければならない仕事もあってうんざりしているのである。 「今度の7月で「脱原発みやぎ金曜デモ」が始まって10年になります」と始まったスピーチもあったが、10年で満期になるわけでもない脱原発デモは雨の中を粛々と繁華街に向かったのである。一番町。(2022/4/29 14:21~14:28) 脱原発デモが始まってまもなく10年になるのだが、世界的な脱原発への歩みは遅々としている。文化的先進国の中には敢然と脱原発に踏み切った国もあるが、日本のような文化的後進国ではいまだに原発にしがみついている。 原発のような地球全体の生命を脅かすような危機に人類は立ち向かえるのか。9年前に次なような文章を書いている(「「8月30日 脱原発みやぎ金曜デモ」 夕闇の中を!」)。 最近、『エコ・デモクラシー』という本を読んでいる。「フクシマ以後、民主主義の再生に向けて」というサブタイトルが付いているが、フクシマ以前に書かれた本で日本での訳本の出版がフクシマ以後だったと言うだけである。 環境問題、生物圏の危機を扱った本なのだが、それを読むと原発問題はそこで述べられている様々な環境問題を超えてさらに生物圏の危機を拡大させていることが理解できる。 そして、その本が指摘している極めて重要な問題点は、近代が獲得した代表制民主主義という政治システムが地球という大きな生物圏の危機を解決することは不可能に近いということである。 著者は、その解決のために「エコ・デモクラシー」を提案しているが、それはハーバーマス流の熟議民主主義とも言うべきもので、代表制民主主義に代わるべき新しい民主主義でないのが少し惜しい感じがする本である。 人間が生きているこの地球上の生物圏へ向かうような眼差しを持つならば、原発問題にどう対処するかは議論の余地がない。フクシマ以前であっても、そのことに気付いている人はたくさんいた。 夢に見るわれは抜け髪チェルノブイリ汚染地域の雨にまみれて 道浦母都子 〈何度も事故があるのに......〉 いきいきと婚姻色に輝きて作動していむ原子炉の火は 道浦母都子 優れた歌人の鋭敏な感受性と確かな想像力がなければチェルノブイリからフクシマに辿り着けない、などということは絶対にない。私のような凡庸な人間の想像力でも、放射能の「雨にまみれ」る恐怖は鮮烈なものだ。(2013年8月30日) もちろん、国際政治機関が地球上の環境問題に取り組むなどというのは可能性があるとしても遠い先の話だろう。当面、私たちはこの日本という一国の問題として脱原発に取り組むしかないのである、たとえ文化的後進国であっても。青葉通り。(2022/4/29 14:32~14:40) 暖かい日が続いたこともあって、今日はことさらに寒く感じる。やはり、昭和の大量の死者たちを悼む「昭和の日」という実感はどこまでも続く。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2022.04.29
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3月18日開催の脱原発みやぎ金曜デモに参加できなかった。3日前にパソコンワークを終えて立ち上がろうと椅子から腰を浮かしたとき、ぎっくり腰になってしまった。二週間ほど前にはトイレを終えて立ち上がろうとしたときに同じことが起きていた。どちらも軽いぎっくり腰なのだが、2回も続いたので、腰痛対策用なるパソコン椅子を慌てて注文した。 ぎっくり腰そのものは日常的な動きには差し支えない程度の軽いもので、2日後にはかなり回復していたのだが、16日夜の地震(仙台市青葉区は震度5強)で、町内の高齢者の安否確認や被害点検で午前2時くらいまで動き回って、その後は余震に備えて夜明けを待つことになった。おかげでぎっくり腰の回復は後戻りのようになって、18日の金デモは休まざるをえなかった。 ぎっくり腰で金デモを休むことはほとんどなかった(はず)だが、最近はけっこうデモを休むことが多くなった。3回に1回、下手をすると2回に1回ぐらいの頻度で休むことがある。用事があって休むこともあるのだが、どちらかと言えば用事が重なって疲れて休むことが多い。老人は疲労の回復が遅いのである。 休んだ金デモの翌日、腰痛対策用のパソコン椅子が届いた。その二日後、椅子に座ってパソコンを操作し続けられるほどに腰は(十分に)回復した。それで、原発に関する昔のブログの再確認の作業を再開した。たいした内容のないもの(ほとんどはそうなのだが)は飛ばし、確認しておきたい部分を抜き出すのである。 今日、抜き出しておきたいと思ったもの一つは、「「6月14日 脱原発みやぎ金曜デモ」 ~~東一番町 ブラザー軒~~」というブログの一部である。 5月17日の朝日新聞・朝日歌壇に次の歌が選ばれていた(選者:高野公彦)。 下北の原燃原発見下ろして安全無限の風車が回る (東京都)宮田礼子 風力発電の風車の支柱が折れるという事故のニュースがあって、風力発電にもそれなりのリスクはある。しかし、無人の野に建てられる風車では真下に人がいる確率はほとんどゼロに等しく、仮に人身事故が起こったにせよ、東電福島第1原発のリスクとは比べようがない。 風車のリスクを基準にすれば、原発1基のリスクは無限大であることは〈フクシマ〉によって事実として証明されている。原発を基準にすれば、風力発電の風車の「安全性」は無限大である。 原子力や放射線医学の専門家はしばしば「リスクコミュニケーション」が大事だという。しかし、彼らのリスクコミュニケーションとは口八丁、手八丁、加えて札びらの威力で「無知な大衆」に「安全である、危険はない」と信じ込ませる作業であるらしい。少なくとも、東大教授の島薗進先生の『つくられた放射線「安全」論』 [1] をよむかぎり、そうとしか思えない。 専門家の「安全信仰」と比べれば、上の歌に詠まれた「安全無限の風車」という歌詠みの眼差しがいかに正しく、信頼できるかは言うまでもない。(2013年6月14日) いま、国(環境省)は1F事故による汚染水を「処理水」と言いたてて、福島の子どもたちへの一方的な洗脳活動を行い始めている。これが、彼らのリスクコミュニケーションなのである。 もう一つは、「「7月19日 脱原発みやぎ金曜デモ」 参議院選挙を前に。」の中の次のような一文を抜き出してみた。https://plaza.rakuten.co.jp/kawamaecho/diary/201307190000/ 原発ゼロを望むのは国民のマジョリティの意見である。憲法改正反対もマジョリティの意見である。少なくともマスコミの調査ではそのような結果が出ている。つまり、その2点に関して言えば、私はマジョリティの側に属している。 今までだってそのようなことはあった。最大の争点と思われることがらでマジョリティの側として投票したのに、それが結果に反映されないのだ。日本のマジョリティは、政治的争点ということを考慮して投票しているわけではないらしい。 そのことを自民党は知悉していて、今回の選挙での最大の争点のはずの「憲法改悪」、「原発」、「TPP」、「嘉手納基地」を完全に隠してしまった。首相は選挙を福島から始めながら「原発」に触れようともしない。そんな卑怯な方法も、経験的には有効であることを自民党はよく知っているらしい。 何よりも不思議なのは、争点を隠されたら国民から見えなくなるらしいということで、ほんとうに理解するのが難しい。たかだか2週間ちょっとの間、政治家が口にしなかったら、原発やTPPの問題はないものだと考えるらしいということが理解できない。 一番気になるのは、「政治は大所・高所から判断するべきだ。原発だけが日本の問題ではない。憲法以外にも緊急の政治課題があるのだ。全体を勘案して投票すべきである」としたり顔で語る「高所・大所シンドローム」患者が意外に多いことである。そんな言説で政治的争点がグズグズにされてしまう。 そんな患者は、町会議員や市会議員、その取り巻きでいっぱしの政治家気取りの人間、あるいは職場や町内の政治通らしき人間に多いように思う。たぶん、新聞、雑誌、本、ネットなどのマルチメディアから政治問題を積極的に集めようとしないマジョリティは、そんなクズな言説にしてやられるのかも知れない。 ましてや、テレビだけが情報源だということになったら最悪である。テレビに出てくる解説者、評論家などというのは、純正な高所・大所シンドローム患者そのものなのだから。(2013年7月12日) 1F事故から11年、自公政権は今でも選挙では原発問題を争点から徹底的に見えないように画策している。それに、「原発問題だけでは政治は語れない」などとしたり顔で応じる輩が輩出する。原発問題を解決できない政治が、ほかの問題を解決で来るはずがないのだが………。 ブログを書いたときの金デモの写真も選んでみたが、いい写真は1枚もない。このころは、まだ3台あったコンパクトデジカメのどれか一つで写していたのだが、ただ被写体にレンズを向けてシャッターを押すというだけの作業で、何か工夫するなどということもなかった。 そういえば、あのデジカメたちがどうなってしまったのだろう? ブログの再点検は遅々として進まない。「デモに参加できなかった週はせめて再点検を」などと考えてみるが、疲れていたりぎっくり腰でデモを休むのにそれが可能だという保証は何もないのである。 まあ、「できるときはやりましょう」という程度で進んでいくしかないようだ。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2022.03.21
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新型コロナ・オミクロン株のまん延を受けて休止していた脱原発金デモの再開である。宮城県のコロナ感染者数はピークアウトの様相を見せている時期に、ロシアによるウクライナ侵略が始まったこともあって、金デモスタッフがメールを飛ばしあって脱原発というシングルイッシュウに「戦争反対」を加えることにしようと議論されていた。 その再開金デモの当日に、ロシア軍がウクライナのヨーロッパ最大級のサポロジエ原発を砲撃し占拠したというニュースが飛び込んできた。図らずも、脱原発金デモはロシアによる戦争に反対することでいっそう強く脱原発を訴えることになったのである。どう考えてもシングルイッシュウである。 「ロシアの原発砲撃「やっぱり狙われた」 日本でミサイル攻撃を懸念し裁判した人たち「最大の弱点」と訴え」という3月5日付の東京新聞の記事にあるように、脱原発を主張する私たちは、日本の沿岸に50以上もある原発の危険性は原発自体の事故に止まらずいったん事があれば敵に差し出した自滅用の原爆になってしまうことも恐れていたのだ。 それにもかかわらず、自公政権は敵基地先制攻撃論を語り出しているのである。先制攻撃すれば反撃されるのは戦争の常である。そんな主張を公然としている以上、彼らの仮想敵国のミサイルがどこにロックオンしているのかは容易に想像がつく。日本はあっさりと自滅するような原爆化施設を仮想敵国のためにたくさん用意しているのである。 今、パソコンに向かってこのブログを書いているのだが、テレビのテロップに「ウクライナのゼレンスキー大統領はロシア軍が南ウクライナ原発を占拠しようと進軍していると発表した」ことを流している。もしかするとロシアはウクライナの最大のエネルギー源である全原発を占拠してライフラインを封じようという魂胆なのかもしれないが、そうであったとしても国家が原発を抱えることは最大の弱点を抱えることになることは間違いない。戦争好きなネトウヨ政権こそ原発廃棄に向かわなければならない。安倍晋三さんあたりが頑張るべきイッシュウだと思うのだが………。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2022/3/4 18:15~18:30) 元鍛冶丁公園には60人ほどが集まっていた。スピーチには県議会議員の岸田清実さんや市議会議員の猪股由美さんが加わった。運転中のサポロジエ原発が砲撃されたという切迫した危険ということもあって、スピーカーの口調は熱を帯びている。 戦争反対と脱原発のデモやスタンディング、街頭宣伝の告知が相次いだ。プーチンならずとも原発を持ちたがっている政治家は政権周辺に群がっている。「核共有(ニュークリア・シェアリング)」論を議論すべきだという前首相、非核三原則を持ち出して一応は否定して見せる現首相、日本の政治にも核兵器や核兵器化する原発の危機は目の前で蠢いているのである。切実に深刻である。 60人のデモは、脱原発と戦争反対の様々なプラカードを掲げて繁華街に向かった。私の印象に一番残ったのは、今日のニュースを聞いて急いで書いたらしい白紙に手書きの「ロシアは 原発への 攻撃をやめろ」というプラカードだった。その率直さに切迫性が溢れている。一番町。(2022/3/4 18:35~18:43) 60人といつもの倍ほどの人数のデモとなり、最初の信号でデモが分断されたこともあって、今日のカメラワークにはときどき駆け足が必要になった。 足がもつれて転んでも不思議はないほどの十分な年寄りだが、まあ何とか最後まで付き合うことができた。青葉通り。(2022/3/4 18:53~18:56) 脱原発デモのたびに書いたブログを読み直して、かつての私の考えを再確認しているが、まだ9年前のブログ記事にとどまっている。フクシマ事故から2年目には、事故の被害に遭われた人々の話題も多かった。 「仙台散歩 : 映画「フタバから遠く離れて」、そして「4月28日脱原発みやぎ日曜デモ」へ」 というブログ記事にはこんなことを書いていた。 警戒区域である浪江で、避難を拒否して酪農を営む男性がいる。「こいつらを死なせない。これは意地だ」という。被爆をしながらの戦いは悲壮であるが、彼が近くにある避難した酪農家の牛舎に案内する。「エサも水もなく、死んで、腐ってミイラになった」、「死ぬまで一ヶ月くらいあっただろう。最悪の死に方だ」と吐き捨てるように語る。 ここは、牛たちのアウシュビッツだ、そう思った。そして、おそらくはそのことに深く絶望的に傷つけられているのは、避難した当の酪農家なのだ、と思うのだ。 「結局、原発誘致は間違っていた」と井戸川克隆双葉町長は語る。「どんなに補償してもらっても、絶対にプラスにはならない」。そうなのだ。父祖代々、あるいは同じ空気を生きる共同体の一員の家族として生き続けてきた、その〈故郷の全体〉を失ったことを補償できるものなんて存在しない。「不可能な交換」(ボードリヤール)なのだ。「一般的等価物」(ジャン=リュック・ナンシー)が存在しえないものこそ、原発が奪ったものなのだ。原発をたずさえた人類は、思想や哲学が応えることのできない領域に踏み込んだのではないか。吸ひさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず 寺山修司 そういえば、タバコを口にしながら望郷を語る二人のおばさんのロングショットもあった。(2013年4月28日) 被害は人間ばかりではない。生命あるものはすべて放射能に曝され、今もされつつある。「「5月17日 脱原発みやぎ金曜デモ」 30年後を目指して?」 と題する記事ではそれについて書いていた。 被爆地を這ふほかになき山楝蛇(やまかがし) (いわき市)馬目空 昨年の7月くらいから、朝日新聞の投稿欄「朝日歌壇」、「朝日俳壇」から原発事故に関連して詠まれた短歌や俳句を抜き書きしている。上の句は今年の4月8日付の新聞に掲載された金子兜太の選による句である。 人間も家畜もペットも、放射能汚染と放射能被爆によって悲惨な状況に追いやられている。そして、人間も家畜もペットもその一部は避難できたり救出されたりしているが、多くは見捨てられたままである。それでも、見捨てられていることを人々は口の端に登らせ、不十分とはいえマスコミも時として取り上げることがある。 しかし、野生であるものたち、おそらくは人間よりももっとずっと太古からその地で生き続けてきた野生の命の被爆は無視され続けている。少数の生物学者が多くの形質異常を発見するのだが、それだけである。被爆地を這うほかに彼らの生のありようはないのである。 そして、放射能にまみれた地を這うヤマカガシの姿は、様々な事情に阻まれてその地を去ることのできない人々の生に重なってしまう。それぞれの交換不可能な生を、東京電力はおろかどのような政治も贖うことはできない。(2013年5月17日) 文章の巧拙はさておき(さておくしかないのだが)、思いはまったく変わっていない。確認し、確信するばかりである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2022.03.04
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「このままでは、最大で100万人の雇用と、15兆円もの貿易黒字が失われることになりかねない」──。東日本大震災から10年を迎えた3月11日、豊田氏は日本自動車工業会(自工会)会長として記者会見に臨み、そんな衝撃的な試算結果を公表した。 こんな「衝撃的な」記述が導入部に記載された記事があった。「出遅れれば雇用も貿易黒字も失う 再エネを使い尽くせ 本腰入れる需要家」という『日経ビジネス』の記事である。 普通に考えれば、「衝撃的」には違いないが、私には「新しい資本主義」などという無内容な頓珍漢ぶりを披露している岸田自公政府(とのその周辺)がほんとうに衝撃をもって受け取っていると思えないのである。 要するに、再生可能エネルギーへの転換が遅れている日本は脱炭素化へと進む世界から孤立するだろうというのである。二酸化炭素排出量をベースにした国際規制の検討が着々と進んでいて「自動車の場合、燃費規制はもちろん、原料の採取から、部品の製造、自動車の生産、廃棄・リサイクルに至るまでが対象となる」ので、脱炭素化が進まない日本の自動車には関税をかける「炭素国境調整措置」の導入が検討されているのだという。そうなれば、貿易黒字も雇用も失われるだろうという記事である。 日本の脱炭素化の遅れ(再生可能エネルギーへの転換の遅れ)の原因ははっきりしていて、次のように書かれている。 「『原発さえまた動き出せば巻き返せる』という甘い見通しに立ち、10年前に再エネの主力電源化を本気で目指さなかったツケが今、回ってきている」。エネルギー政策に詳しい識者は奥歯をかむ。「絶対に安全だ」と長年にわたり国や電力事業者が言い立ててきた原発が未曽有の事故を起こし、国民からの信頼は地に落ちた。もちろん基幹電源を、出力が変動しやすい再エネに置き換えていくことは容易ではない。だが、「原発事故を契機に、エネルギー政策のパラダイムシフトを果たしていれば、世界の脱炭素競争における今の日本の立ち位置は変わっていた」(大手首脳)。そう考える財界関係者は少なくない。 原発に執着した自公政権(と通産官僚)が日本経済の壊滅的危機への道筋を準備してきたのである。国内での新規建設が無理だとわかると、安倍政権はやっきになって原発輸出を試みたが、完璧に失敗した。何も変えることができないこんな無能な政府を国民はいつまで支持し続けるのだろう。 とても面白いことだが、この記事は、自公政府の政策に批判的なメディアではなく、『日経ビジネス』に掲載されているのである。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2022/1/14 18:20~18:39) 風が吹くたび寒さに震えあがる。予報気温はそんなに低くはないのに、風のせいか元鍛冶丁公園はとても寒い。手袋をしていてもカメラを持つ手がかじかんでくる。 30人が集まった集会では、アメリカ合衆国の高速増殖炉開発に日本が技術協力をするというニュースが話題になった。スピーカーは、「もんじゅ」で失敗したのにいまだに高速増殖炉に執着する日本政府を強く批判したが、このニュースは冗談ではないかと思えないこともない。 高速増殖炉の原型炉である「もんじゅ」の運転に完全に失敗したので、日本の高速増殖炉に関する技術は実験炉「常陽」のレベルにとどまっている。原発の開発は、実験炉、原型炉、実証炉、実用(商用)炉と進むので、道半ば以前に失敗しているのである。加えて、廃炉の決まった「もんじゅ」から核燃料を取り出す技術もないことが判明している。高速増殖炉を諦めきれない日本はフランスに泣きついたのだが、そのフランスも高速増殖炉の実証炉ASTRIDの開発から撤退してしまった。 そんな日本が高速増殖炉開発でアメリカに協力できるどんな技術を持っているのか見当もつかない。東芝のように、開発が失敗に終わった時の負債を押し付けられる(尻拭いをさせられる)のがせいぜいではないのか。そうなれば、日本の破滅的経済危機をいっそう加速させることになるだけだろう。一番町。(2022/1/14 18:40~18:45) 仙台の脱原発金曜デモは、2012年から続いているが、デモ開始から半年以上も経ったころデモそのものについて書いたブログがあった。「「2月15日 脱原発みやぎ金曜デモ」 くりかえしくりかえしの〈デモ〉から」 である。 「くりかえしくりかえし」のデモに出ていると、体も心もデモというちょっとした「非日常」に馴染んでくるようだ。デモも終盤にさしかかって青葉通りを歩いているとき、シュプレッヒコールで大口を開けていたらそのまま欠伸に移ってしまった。3,4回続けて欠伸が出たのだ。じつは、寒風吹きすさび、横殴りの雪の中の先週のデモの途中でも何回か欠伸が出ていたのである。 「だらしがない、緊張感がない」と一瞬は思ったのだが、そんなことはないのではないかと思い直した。年をとっても人見知りで、趣味が多くてもすべて一人遊び、そのような私が一人でデモに参加し始めたときは、それなりの心理的な障壁を乗り越える手続きは必要だった。それが今では、デモの最中に欠伸が出るほど、すっかり慣れてしまったのである。 要するに、「くりかえしくりかえし」で、私にとってデモは〈普通〉になったのだ、と思う。つまり、デモはもう日常である。「おはよう」と挨拶するようにデモをする。「お休み」という前にデモをする。思いっきり大げさに、かつキザに表現すれば、「反原発の肉体化」である(「血肉化」の方がいいかな)。肉体化した反原発は、そのまんまで反原発である。もうデモを歩かなくても反原発なのである。 ここまで書いてきて気付いたのだが、これはデモをサボる口実に使えそうな結論にもなっている。いや、サボるつもりは全くないのだが、これが文字通り「両刃の剣」ということか。(2013年2月5日) あの頃はほとんど休むことなくデモに参加していたのである。青葉通り。(2022/1/14 18:50~18:53) 手袋をしたままタッチパネルを操作できる、そんな手袋でそこそこの厚みがあるのに防寒性能が低いのかカメラを持つ手の冷たさが耐え難くなった。 デモが国道4号の大通りを渡るとき、地下道を抜けて先回りをするのが常なのだが、今日は大通りの手前から流れ解散場所に向かうデモの列を後ろから撮影して、そこでデモ参加を終わりとした。 手袋のなかで手を握りしめ、ポケット深く押し込んでの帰路は、当然ながら年齢に似合わない急ぎ足なのだった。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2022.01.14
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年が変わるころに年齢のことを考えるのはごく当たり前のことだろうが、私の場合は誕生日が1月1日ということもあって、暮れの「お年とり」、元日の誕生日と畳みかけられるので多少面倒でもある。 加えて、今年は肉体的にも年齢ということをきつく思い知らされた。その手始めは暮れの障子張りだった。たった障子4枚の軽い作業だと気楽に始めたのだが、障子の細い桟を踏み抜かないように注意しながら、急いで糊を塗り上げるという姿勢が翌日の肉体にかなりこたえたのだった。疲労はたいしたことはないのに、体のあちこちが筋肉痛になったのである。 大晦日は朝から台所に立ちっぱなしで正月料理を作った。年が明ければ、朝一番に起きて餅焼きから仕事が始まる。元旦の夜の誕生祝いの料理も自分で作ったのだが、妻が「それではあんまりだから」といって茶碗蒸しを作ってくれた。わが家では元旦の私の誕生日にはかならず茶碗蒸しが付く。私が育った家では暮れの「お年とり」のごちそうの一つとして母が茶碗蒸しを必ず作っていて、母からそれを聞いた妻がその習慣を「お年とり」から私の誕生日に移してずっと続いているのである。 そんなこんなで正月をぐったりとして過ごした。傍目からはのんびりと過ごす正月に見えただろうが、本人は必至で疲労回復に努めたのである(そんな年齢だというきつい実感に苛まれながら……)。 そして、疲労がなんとか治まった頃、今年最初の脱原発デモである。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2022/1/7 18:17~18:40) デモの時間帯の仙台の気温は0℃前後という予報なのだが、あいかわらず何を着ていいのか迷うのである。寒さ対策としてインナーを何にするか決めればいいのだが、たいして選択肢もないのにそこで悩むのである。そういえば、この頃はウールのセーターを着るということはほとんどなくなった。着膨れるのが嫌だということもあるが、寒気の下に長時間いるという行動がまるっきり無くなったということもあるだろう。寒気の中で3時間ほどという金デモは寒さ対策という点では中途半端な時間のように感じるのである。 今日はカメラのフラッシュを放り込んで家を出た。せめてスピーチする人の写真はフラッシュを焚いて撮ろうと思ったのである。フラッシュなしだとどうしても写真が粗くなるのである。 フェイスブックやツイッターなどのSNSに投稿する写真はサイズが小さいのであまり気にならないが、パソコンで写真の一枚一枚を見るとその粗さが嫌でも目に付くのである。 もっとも、フラッシュが役に立つのは距離が短いポートレートのような場合だけで、デモのときの写真にはほとんど役立たないのだが。 この冬は雪降りの日がけっこう多いのだが大雪にはならずにすんでいて、デモには全く支障がない。元鍛冶丁公園には25人ほどが集まっていた。今年最初の金デモということもあってか、次々にスピーチをする人が出てくる。最後に市会議員の猪股由美さんの挨拶もあった。一番町。(2022/1/7 18:44~18:50) 2012年から書き続けている金デモのブログを再読して、抜き書きをいくつかフェイスブックやツイッターに投稿しているのだが、「「11月16日 脱原発みやぎ金曜デモ」。 夜の街を行く、この心身不調」というブログから次のような部分を拾い出した。それを語るであろう人は誰も私達のあとにやって来ない。私達がなさずに置いていたものを、手に取りそして終らせる人は誰もいない。 ヒルデ・ドミーン「誰も私達のあとにやってこない」部分 「後に続くものを信ずる」というのは古典的左翼運動の常套句であった。そう信じなければ前に進めない、という心情を私はけっして否定しない。しかし、振り返ったら誰もいない、ということはしばしば起こる。私のような者にすら、似たような経験はあった。だから、「後に続くものを信ずる」ことによって行為のエネルギーを獲得することは、普遍的に可能なわけではないし、誰かに推奨できるわけのものではない。 「私はこれをやりたい」、「いま、ここ、この私が私の意志を表明する」といった、さながら古典的左翼がプチブルと罵りそうな心情がその古典的左翼の情動を凌駕しうる、と私は思っている。それこそが、古典的左翼が力を失い、反原発運動は括りようのない雑多な市民、組織されていないが多数を形成しつつある市民によって担われ続けている情動としての機制である、と考える。私は誰も代表しない。私は私しか代表していない。そのような〈私〉が集まっているのだと思う。 (2012年11月16日) もう一つは、「「11月30日 脱原発みやぎ金曜デモ」。 あのね、原発はエネルギー問題じゃないんだよ。人権問題なんだよ!」から。 原発をエネルギーや電力の問題、ひいては電力を要する産業の問題として括ろうとする人間がいるが、人命を超えてエネルギー問題を選択することは〈普通の人間〉には許されない。 自分の周囲に放射能被爆で亡くなったり、傷ついたり、病んだりする人がいないことをいいことに、原発を擁護しつつエネルギー問題を論じることを「大所・高所から社会を考えている」と思い込んでいるのは、たいてい田舎政治家である。それを「自分は立派な〈高い〉政治意識を持っているのだ」と自己欺瞞で思い込んでいるので、偉ぶって威張り散らす人間が多い。 彼らは、ただ単に社会全体に対する想像力が劣悪であるに過ぎない。「田舎」というのは、ローカルな周囲を世界の全てと信じているような視野が狭い喩えなので、東京に田舎政治家がたくさんいるのは不思議ではない。代表格は、東京と大阪に一人ずついる。私はそれを「大所・高所シンドローム」と呼んで、精神的(厳密に言えば思想的)な病気の一つに数えている。(2012年11月30日)青葉通り。(2022/1/7 18:54~18:59) 疲労がぶり返すということもなくデモは終わった。寒さも感じないし、着ぶくれて汗をかくということもない。何を着て外出するか悩む必要がなかったと思うのだが、次回もきっと悩むのである。そんなことを繰り返してきたし、これからも繰り返すのである。ほんとうに悩まなくてもいいつまらないことを悩んでいるのである。 こんな年齢になるまで悩むことはそれなりにあったのだが、そのどれも悩まなくてもよかったつまらないことだったのではないか、そんな怖ろしげな思いが頭をよぎって、いそいでそれを打ち消して、そんなふうな帰り道となった。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2022.01.07
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今年もよろしくお願いします。
2022.01.01
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「次回は19日の日曜日の昼デモです。17日の金曜日はデモはありませんのでご注意ください。」 デモの終わりのアナウンスを聞いて少しならずほっとした。今、私の予定表は異様に赤く染まっているのである。コロナ禍が奇蹟のように収まってきたせいか、いろんな集まりの案内が次々に届くのである。気楽に欠席できない公的な団体のものが多いというのが問題である。 19日の金曜日に金デモがあったら、その日は5つの予定が朝から続くことになるところだった。5つから4つに減ることはとてもありがたいのである。それでも憂鬱なことには変わりがないのは、半ば公的な集まりに出席しても、仕事をしたという達成感がまったくないものが多いためである。老人に割り振られる役割というのは、そんなものかもしれないが………。 せめて集会の写真はフラッシュで撮ろうと思っていたのだが、忘れて家を出てきてしまった。こういう時に限って、とてもいい構図の写真が撮れるのである。残念ながら光量不足でとても人に見せられない粗い写真にしかならないのである。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2021/12/10 18:30~18:35) 今、仙台の金デモが始まった2012年から書き続けているブログの内容の再検討(というか再読)をしていて、再確認する意味があると思われる文章を抜き出し、誰かに紹介してもいいだろうと思えるものはフエィスブックやツイッターに投稿している。 最初に、2012年の「「9月28日 脱原発みやぎ金曜デモ」 ほーら、雨は上がったでしょ!」の中の次のような部分を抜き出した。 確かに、原発はきわめて政治的なイシュウである。したがって、民主党か、自民党か、あるいはそれ以外か、という政党選択も論理的には切り離せないだろう。そもそも、原発をめぐる問題のすべては政治イシュウである。 たとえば、年間被曝量を20mSv以下だとか、1mSv以下だとか、その数値ですら政治的に決定されているもので、科学的根拠はない。「低放射線被曝で健康被害が出た科学的証拠はない」と政府系御用学者は主張するが、じつはそれと同じレベルの科学的検証であれば、「低放射線被曝で健康被害が出ないという科学的証拠もない」のである。 したがって、その先へ進もうとすれば、人々の生命の貴重さを重んじるか、社会運営の効率(政治的安直さ)を重んじるかの人格(人間性)そのものに基づく判断が必要なのであって、ご都合主義的な科学的精神などではないのである。 現実に病で苦しむ人の側から論理を立てるか、論文の中のデータから論理を立てるか、これは科学の問題ではなく、人倫の問題である。科学者は、「科学的に」と称しながら容易に「人でなし」になりうるのである。 これは、東北大学で物理学を研究し、教えることを職業としてきた科学者の端くれとしての私の実感である。(2012年9月28日)一番町。(2021/12/10 18:38~18:47) 次の抜き書きは、同じ2012年の「「10月12日 脱原発みやぎ金曜デモ」 さすらいの金曜デモだぞ!」の中の次のような部分である。うぐいすの鳴き声でめざめる京都の七軒小路幼い息子とのふたり暮らしの旧い木造の二階めざめた私の顔を覗き込む息子のはにかんだ顔何事も起きなかったかのような 平和な朝君の笑顔を守りたくて 君を連れて逃げた何もかも棄てて 君を連れて逃げた原発事故から 放射能から 逃げた......(中略)......この路地で君を守りきれるか私の静かな覚悟を君は知らぬままやがて健やかな青年になっていくことをひたすら願う 中村純「路地」部分 放射能汚染地域から逃げられることは一つの過程にすぎず、しかも、いかなる犠牲もなしに逃げられる人はいない。そして、子どもを守ろうとする覚悟と決意、うち続く苦闘がそれで終わるわけでもない。 中村純さんの詩集( 中村純『詩集 3・11後の新しい君たちへ』(内部被爆から子どもを守る会 関西疎開移住(希望)者ネットワーク、2012年))を読み終えて、辛い気持ちでデモに出かける。少なくても、デモくらいは元気にやらなくては......。(2012年10月12日)青葉通り。(2021/12/10 18:49~18:54) しばらくは、この10年の間に私の中で変わったもの、変わらなかったものの確認作業を続けようと思う。そうして、揺蕩っている現状から抜け出したいのである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2021.12.10
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一ヶ月半ぶりのブログの更新になってしまった。10月15日の脱原発デモの記事が最後だった。それ以降、今日までに6回の金デモがあって、半分の3回に参加したが、写真や動画をSNSに投稿しただけで、ブログは書かずじまいだった。 写真をブログ用にも整理して準備はするのだが、なぜか書くべきことが思い浮かばないのである。いや、ばくぜんと書くべきことは思い浮かぶのだが、一行目が出てこないので始まらないのである。これまでのことを考えれば、強引に書き出せば何とかなるとは思うのだが、そんな強引さが嫌になっているのは確かだ。 それで始めたのが、これまでのブログの読み返しである。特に読んだ本(哲学、思想、短歌、俳句、詩)や美術に関するブログとこのブログの原発に関する記事を中心に読み返していて、少し大切だと思う文章を切り出してSNSに投稿したりしている。 これまで自分が考えたことを点検・確認することで何かがこれから始まるのではないかという期待がないではないが、もしかしたらこれは精神的な「終活」ではないかという思いもある。私の中で何か新しいことが始まるには、老いすぎているのかもしれないのである。 以下、参加した3回と今日の写真をとりあえず掲載しておく。【2021年10月29日】元鍛冶丁公園、一番町、青葉通り【2021年11月5日】勾当台公園市民広場、一番町、青葉通り【2021年11月19日】元鍛冶丁公園、一番町、青葉通り【2021年12月3日】元鍛冶丁公園、一番町、青葉通り 前回の11月28日は日曜日の昼デモだったが、集会場の元鍛冶丁公園に着く前に急にお腹がぐるぐるなり出して、あわてて引き返した。もともと胃腸が弱いために慎重になっていて、大丈夫と判断してから外出するのでこういうことはめったにない。少しあわてたがたいしたこともなく、ただ金デモをさぼっただけということになった。 今日あたりは日没がもっとも早い時期にあたるということもあって、家を出る時からしっかりと夜になっていた。今日もいい写真は撮れないだろう、フラッシュを持ってくれば良かったかもしれない、などとぐずぐず考えながら元鍛冶丁公園に向かった。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2021.12.03
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東電福島第1原発の事故以来、購読している朝日新聞の「朝日歌壇・俳壇」に採用された短歌と俳句の中から原発、原発事故に関わる作品(原爆を詠んだものを含めて)の抜き書きをブログにまとめて投稿しているが、事故から10年を経た最近はそのような作品は極端に少なくなった。 人はそのようなことを原発事故への関心の「風化」と呼ぶことが多いのだが、そうそう簡単に「風化」ということで括れないのではないか。もとより、新聞の投稿欄である以上、自ずとその時々のトピックに主題が集まってしまうのは避けられない。マスコミは〈事件〉を消費せずにはいられないのだ。 原発事故の直接的な被害を受けた歌人や俳人、わが家(故郷)を捨てて避難した俳人や歌人も投稿を続けているが、しだいに投稿数が減っている。しかし、これはけっして「風化」などではない。10年前と同じような思いや感情が続いていたにせよ、それを短詩形式で表現しようとすれば、類型的な作品を避けるために自ずと同じ主題の作品数は減ることは大いにありうるだろう。これは風化などではなく、単に表出の問題に過ぎない。 風化が起こるとすれば、それは事故・事件の周辺(の人々)で起きるだろう。つまり、事故・事件後をどう生きるかに関わっているのだと思う。それは、辺見庸さんが語った(『週間金曜日』2014年4月11日号、p20)ように、原発事故後に原発事故を「サブスタンス」として生きるか、「ロール」として生きるかの違いに依っているのだと思う。 事故・事件をまっただ中で生死を賭けるように体験した当事者は、否応なくそれをサブスタンスとして生きるしかない。そこには「風化」などというものはない。一方、原発事故の周辺だった人々(の多く)は、事故後の反原発、脱原発を「ロール」として生きることが多いだろう。「風化」はそういう人々の間で起きるだろう。事故から2、3年後まで国会周辺、首相官邸前に集まった圧倒的な数の人々の姿はもうない(もちろん、風化しない、風化させない人々の抗議活動は続いてはいるが)。 だから、「風化」も「サブスタンス」も「ロール」もわたし自身の問題なのである。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2021/10/15 18:16~18:30) 夏の疲れが出たせいか、体調不良で金デモを二週続けて休んでしまった。仕事をしていたころには、同じような秋の体調不良が2ヶ月ほど続くこともあった。退職後は、そのような不調は2日ほど休んでいれば回復していたのだが、最近は回復までの期間が少しずつ長くなり始めている気がする。今回は8日ほど要した。少し嫌な気分である。 10月の半ば、夕方どころか十分な夜の暗さのなかで金デモの集会は進行する。元鍛冶丁公園について、カメラを取り出し初めて押したシャッターは暗すぎて下りないのだった。 30人のデモが出発してからも、シャッターが下りない場面が何度かあった。こういう時には、シャッターが下りてもあまりいい写真にはならないのである(帰宅して確認したら、その通りだった)。一番町。(2021/10/15 18:35~18:42) 衆議院選挙選挙が10月31日になった。自民党総裁の首のすげ替えが選挙に好結果をもたらすだろうというだけの新自民党総裁の姑息な判断である(とはいえ、スガ前総裁の就任時より内閣支持率が低いという世論調査があったのだが)。 コロナ禍で多くの(ほとんどの、と言ってもいい)国民が苦しんでいるときに新しく就任した首相が国会審議よりも闇討ちのような選挙を選ぶという行いは明らかに政治的暴力である。 もとより権力は政治的暴力を内包しているというのは、保守であれ、リベラルであれ、ほとんどの政治家が認めているのだが、かのハンナ・アレントは権力と暴力のそのような関係を否定しつつ、全体主義(ナチズムとスターリニズム)を歴史的に断罪しているのである。 いまや、自公政権が単なる保守主義を踏み外して右翼ファシズムを体現しつつあるのは、資本主義社会の良識的規範たる現憲法を無視して、国会開催義務を忌避しつつ、ご都合主義的に国会解散権を乱用する今次の衆議院選挙日程の決定の経緯にも見ることができる。 暴力と無縁である権力の実現というのは、今の日本には理想どころか、その片鱗すらうかがえないのである。ハンナ・アレントという稀有な政治哲学者の労苦など「どこ吹く風」なのだ。いや、政治哲学と呼べるような何ものかを有している自民党の政治家はたぶん存在していないだろう。 私のごく常識的な予想より半月以上も選挙が早まって、個人的には少しばかりアタフタした。8月の仙台市長選挙のときから、町内の高齢者の投票支援を始めたのだが、しっかりした支援体制ができていなかったのである。 市長選挙のときは初めての試みで、支援依頼が少なかったこともあって、投票所までの送迎は私一人だけで行うことができたが、投票支援のことがきちんと知られるようになれば一人では無理になるだろう。それなりに十分な告知と支援体制構築のスケジュールを考えていたのだが、予想より早い選挙となって慌てたのである。 自公政権というのは本質的に「はた迷惑な政権」なのだが、選挙日程という点でも町内の福祉活動には「はた迷惑」そのものなのである。もっとも、とにもかくにも支援組織(3人だけだが)ができて、私自身は半日の選挙立ち会い、半日の投票支援ということになった。その点では、なんとか私の31日は充実した日曜日にできそうな予感がする(選挙結果が伴えば最高だが)。青葉通り。(2021/10/15 18:47~18:54) なぜか今日は夜の闇が深く硬いように感じる。もとよりカメラと闇とは相性が悪いのだが、カメラそのものが闇に拒否されているような感じなのだ。案の定、帰宅して写真データを整理してると、いつもよりはるかに出来が悪い。いつもならdeleteするような写真を頼りにこのブログを書いているのである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2021.10.15
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東京電力福島第1原子力発電所の溶融事故があった3月11日に因んで、仙台でも毎年原発反対の大集会を開催している。今年も宮城県民大集会を3月に開催する予定だったのだが、コロナ禍のために延び延びなっていてようやく9月26日の開催となった。 朝から曇天が続いて、暑くもなく寒くもない集会日和、デモ日和となった日の午後、勾当台公園市民広場には300人ほどの参加者が集まった。集会(勾当台公園市民広場)。(2021/9/26 13:50~14:23) 写真を撮りながら会場内をぐるぐると歩き回ってバナーの類を眺めていると、今日の集会のテーマが見えてくる。一番多いのは、当然ながら原発反対(再稼働反対)のバナーだが、ほかに「汚染水の海洋放出反対」と「子どもを放射性被爆から守れ」という趣旨のものに集約できそうである。 午後2時を回り始めたころ集会が始まり司会の鈴木真奈美さんから、コロナ感染予防のため集会はできるだけ短い時間で、という趣旨の説明があった。 「さようなら原発みやぎ実行委員会」代表の多々良哲さんの挨拶に続いて、女川原発差し止め裁判原告団長の原伸雄さん、子ども脱被ばく裁判原告団代表 今野寿美雄さんのスピーチがあった。原さんは女川原発差し止め訴訟の経緯と決意を語られ、女川原発で働いていたことのある今野さんは、原発事故時に一緒に避難した5歳のお子さんが既に高校生になられたことに触れながら、子供たちに被曝させない、子どもたちに放射能に塗れた故郷を残さないことへの強い思いを語られた。 集会の最後に「脱原発みやぎ金曜デモ」代表の西新太郎さんからアピール行進の経路と歩くときに注意点、とくに2列でソーシャルディスタンスを確保しながら歩くことや、流れ解散地点では舗装上で集団化しないで速やかに捌けることなどを聞いてから、300人の参加者は一番町から青葉通りを歩くアピール行進に出発した。一番町。(2021/9/26 14:29~14:41) 300人のデモの写真を撮るというのはこれまでも何度も経験して、信号で集団が分断されても2グループぐらいだろうと考えていたが、2列でソーシャルディスタンスをとるデモは意外に長くなって、4グループに分断されてしまった。 できるだけ大勢の人を写したいと老骨であることを忘れて走りまわったが、行程の3分の1くらいで諦めざるをえなかった。 300人も集まるとしばらくぶりに会う人も大勢いたのだが、全員マスクをしているので誰かわからずに見逃してしまうことも多かった。すれ違った瞬間に気づいても後ろ姿ではどうにもならないのである。青葉通り。(2021/9/26 14:50~15:05) なるべく大勢の人の写真(できればその表情)を写しとりたかったのだが、それが叶わなかったので、解散地点の手前で待ち構えていて、少し離れた歩道から車道を歩くアピール行進の最後のグループまでの動画を撮ることにした。うまく撮影できていればつなぎ合わせて先頭から最後尾まで一連の画像にするという魂胆である。 とてもよく走ったので疲れることは疲れたのだが、帰宅時の足は軽い。年寄りの疲労は時間差で顕在化するのである。明日か明後日かの不幸には目を瞑って、さしあたり今日は大満足での帰宅である。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2021.09.26
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7月30日に金デモがあって、その後は「まん延防止等重点措置」が「緊急事態宣言」に切り替えられ、また9月末までの「まん延防止等重点措置」となって、ほぼ1カ月半、デモは休みだった。しばらくぶりの脱原発デモである。 このブログはMS Wordで下書きを書き終えてから投稿しているので、テンプレート用に7月30日のWordファイルを立ち上げたら、写真だけで文章はまったく書かれていないのだった。つまり、デモには出たが、ブログが書かれずじまいだったということである。さぼったのだ。ブログは2ヶ月ほどの長期休暇だった。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2021/9/17 18:17~18:37) 家を出るときにはすでに薄暗くなっていたが、元鍛冶丁公園は周囲の飲食店の電飾の明るさもあっていっそう完全に夜の雰囲気である。1枚目の写真は、7月30日の金デモの「写真だけ原稿」の1枚目の写真とほぼ同じ時間、同じ構図なのに昼の写真、夜の写真ほどの差がある。1カ月半の間に仙台の秋は急速に深まっているのだ。7月30日18:23の元鍛冶丁公園 集会は、女川原発の硫化水素漏出事故のスピーチから始まった。廃炉が決まっている女川原発1号機の廃棄処理建屋の洗濯廃液貯留タンクから硫化水素ガスが配管を通じて2号機の制御建屋内に流出し、協力企業の作業員7人が体調不良になったという7月12日の事故の話である。 硫化水素という猛毒ガスが廃炉の決まった1号炉関連施設から再稼働を目論んでいる2号炉の原子炉制御建屋に漏出するという女川原発全体の構造的欠陥が明らかになった事故で、廃棄作業中に発生する放射能気体や粉塵も漏洩してくるのではないかという疑念を抱かせるものだ。 そのような状態の2号炉制御建屋で再稼働が許されるのか、そのような構造的欠陥を有する女川原発2号炉が新規制基準に適合しているとした原子力規制委員会の判断は適切だったのか。そのような観点から、県内38団体が連名で規制委員会に女川原発2号機の適合性審査のやり直しを求めたという報告がなされた。 集会の最後に、来週の金デモは休みで、9月26日(日)14:00から勾当台公園市民広場で開催される「STOP! 女川原発再稼働『さようなら原発 宮城県民大集会』」の告知があった。このイベントは、例年通り3月に開催予定だったのだが、コロナ禍のために延び延びになっていて、やっと実施できるようになったのである。 しばらくぶりにデモを歩く参加者は30人だった。一番町。(2021/9/17 18:38~18:42) 女川原発の硫化水素漏出事故は、大量の放射性物質(固体のみならず液体や固体)を扱う施設としての安全管理能力を疑わせるに十分の一大事だと思うのだが、以前も女川原発では定期検査が必要な機器、装置類を未検査にもかかわらず検査したと報告したり、もっと簡単なAとDを聞き違えてバルブ操作を誤ったりということがあった。 チェルノブイリ原発事故もそうだが、いったん事故が起これば東電福島第1発電所のような回復不可能な重大事故に至ることが明らかになった現在、電力会社が原発を安全に管理する能力があるのかどうかは決定的に重要である。 ところがここ最近の原発のニュースは、電力会社が原発の安全管理能力を著しく欠いていることを示している。そんなニュースが多すぎてその一つ一つについて述べることは面倒なので、記事のタイトルだけを並べてみる。(1) いったい何が 柏崎刈羽原発で発煙 電源ケーブルには焼けた跡(9月6日 FNNプライムオンライン)。(2) 日本核燃が点検で不正 火災感知器20年虚偽報告(9月10日 毎日新聞)。(3) 伊方原発の緊急時対応要員、宿直中に無断外出繰り返す…再稼働遅れる可能性(9月12日 読売新聞オンライン)。(4) 福島第一の汚染水処理設備で排気フィルター破損 東電が公表せず交換(9月13日 朝日新聞デジタル)。(5) 福島第一、認可外の廃棄物保管が急増…規制庁「マネジメントできていない」 (9月13日 読売新聞オンライン)。(6) 福島第一原発建屋上部で高い放射線量 燃料デブリ並み、廃炉に影響も(9月14日 朝日新聞デジタル)。(7) 福島第1、地下水の放射性物質の濃度を下げる装置が停止 警報ならず (9月16日 毎日新聞)。(8) 敦賀原発2号機 安全証明の壁さらに高く データ書き換えで審査中断(9月17日 毎日新聞)。 最近の10日間ほどの間のニュースでこのとおりである。電力会社が自省的な判断力のある人間によって成り立っているならば、原発を諦めるに十分な事故ばかりである。青葉通り。(2021/9/17 18:48~18:54) 久しぶりのデモで少しばかり疲れた。疲れたが、帰り足はいくぶん軽い。家を出る前に、鍋一つの「肉じゃが」を作っておいたので、夕飯の準備は少しならず軽減するはずである。 「肉じゃが」というのはたいへん有用な料理である。いい加減に作ってもそこそこ食べられるというのが何よりである。ジャガイモをたっぷり入れれば、主食でもいいくらいである(そんなことを言って妻に睨まれたことがあるが………)。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2021.09.17
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仙台の脱原発デモが2012年の7月から「脱原発みやぎ金曜デモ」として始まって、今日は400回記念のデモとなる。実際には402回目なのだが、7月23日がオリンピック強硬開催で体育の日の休日にされたということもあって、記念の昼デモを行うことになった。オリパラよりも脱原発である。 金デモに参加し始めてもう10年である。大学を退職し、2年続けたある大学の非常勤講師も辞して、「これからはやりたいことだけをやる」と張り切っていたときに東電福島第1原発の炉心溶融事故が起きた。流れでいえば、脱原発デモも「やりたいこと」の一つに入ってしまったのである。 「やりたいこと」を10年も続けられたとも言えるのだが、あまり幸福感はない。目的が明確に定まった行いには、目的が達成されない限り幸福感も充足感もないというのが当然で、生きている間に何とかならないかと思うのだが、気が急くというほどのこともない。老いとともに気分がゆったりしてきたのである。とはいえ、もう少し脱原発を続けなければ私の気は治まらないのである。 梅雨明け後の酷暑が続いていて、主催者からはコロナ対策、熱中症対策に万全を期して参加してほしいとくり返しの注意喚起があって、それなりに心配しながら家を出たが、けっこう雲が広がっていて日差しはかなり弱い。 元鍛冶丁公園につくと阿部文明さんのライブ演奏が始まっていて、阿部さんの作詞作曲の歌が披露されていた。集会開始前のライブである。、阿部さんは金デモの常連の一人で、NPOキラキラ発電・市民共同発電所の会員でもある。元鍛冶丁公園での集会(1)。(2021/7/23 15:01~15:10) 午後3時になり、主催者代表の西新太郎さんの挨拶で集会は始まり、続いてさきほどまでライブ演奏をしていた阿部さんが岡林信康の「友よ」を歌った。もう半世紀も昔のことになるが、この歌はデモ前の集会で何度も歌ったことがある。学生時代のことである。 このような集会で「友よ」が歌われることも少なくなり、私にしても学生時代のど真ん中に結びつく感覚があって、歌うのが恥ずかしいような妙な気分になる歌でもある。私などよりずっと若い阿部さんの選曲をちょっと喜んだが、驚きもしたのだった。元鍛冶丁公園での集会(2)。(2021/7/23 15:11~15:32) 阿部さんの歌が終わって、原伸雄さん、池澤美月さん、大内真理さんの発言と続いた。 原さんは、「女川原発再稼働差止め訴訟」の原告団長である。原告団はもともと2019年に宮城県と石巻市に対して再稼働に対する「地元同意」の差止めの仮処分を仙台地裁に申し立てたものの、原告の申し立てる原発の危険性は東北電力によるものとする仙台高裁の判断が出されたたため、差止め請求の相手を東北電力としてあらためて提訴している。その経緯と現在の訴訟の予定などについて話された。 池澤美月さんは「Fridays For Future Sendai」という気候変動の問題に取り組む学生を主体とした環境団体に所属する学生さんで、環境問題の観点から脱原発にも取り組んでいて、金デモにも何度か参加している。 宮城県会議員の大内真理さんは、「脱原発をめざす宮城県議の会」の一員で、「女川原発再稼働ストップ! みやぎ女性議員有志の会」の会員でもあって、その活動などについて話された。女性議員有志の会ということもあって、いのまた由美市会議員と元市会議員で現在は共産党の衆院東北比例予定候補として活動されているふなやま由美さんも壇上で紹介された。 集会の締めは、伊藤美智子さんと佐々木玲子さんの「こんなコント劇団」のよる寸劇である。それぞれがすでに廃炉作業に入った新型転換炉「ふげん」と廃炉が決定した高速増殖原型炉「もんじゅ」に扮して、シニカルかつコミカルに演じて喝采を受けた。お二人は200回記念デモのときにも同じ壇上でコントを披露されたという紹介があった。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2021/7/23 15:38~15:41) 集会が終わり、70人のデモ人が元鍛冶丁公園を出発するころは薄日が差していたが、しだいに翳ってきてデモにはいい塩梅になってきた。一番町。(2021/7/23 15:42~15:53) 金デモの200回記念のときの集会でも「こんなコント劇団」がコントを演じたということだったので、その時のブログを開いてみた。200回記念は、2016年10月23日だった。たしかに伊藤さんと佐々木さんの写真があって「ふげんさんともんじゅさん」と題するコントについて「2003年に停止して解体される原発「ふげん」がいつまでもぐずぐずと続けている「もんじゅ」をさっさと止めるよう叱咤するというストーリーを爆笑を誘いながら演じた」と記している。その後、「もんじゅ」の廃炉が決まったので、ストーリーは少し変わることになったが………。 その時の集会の最後は、合唱団「宮城のうたごえ」のコーラスで、何曲かの中に「民衆の歌」も含まれていた。この歌は戦争法案に反対する国会前の抗議集会で高校生たちが歌ったことから宮城の若い人たちからリクエストがあったということだったが、まったく若くない私も国会前の現場で高校生たちの「民衆の歌」を人垣の外で聴いていた。2015年8月30日の「8・30国会10万人・全国100万人大行動」のときである。 その時の印象をブログに書いたのは1年後の2016年4月8日のブログである。 去年の8月30日、安保(戦争)法案に反対する国会前の大集会で聴いた「民衆の歌」がずっと耳に残っている。自由に身動きができないほどの人混みの流れに押されながら、自由の森学園の高校生たちが合唱する切れ切れの歌声が、音楽に低い感度しか持たない私の心にもどういうわけか強く残っている。 集会で披露された歌やコントから、デモの記録を次々と遡っていって、どうにもとめどがない感じになってきたが、さすがに50数年前の「友よ」の時代までは遡れない。もっとも、当時は日記を書くなどということは思いも及ばなかった頃で、ましてやブログという言葉すらなかった時代である。 さて、「民衆の歌」はミュージカル『レ・ミゼラブル』の劇中歌で、1832年に王政打倒のために蜂起した市民が政府軍と戦う場面で若者たちによって歌われる。次のような歌詞である。戦う者の歌が聞えるか鼓動があのドラムと響きあえば新たに熱い命が始まる列に入れよ 我らの味方に砦の向こうに世界がある戦え それが自由への道 青葉通り。(2021/7/23 15:59~16:05) 最近の金デモの参加者はおおむね30人程度で、今日の70人の参加者は2~2.5倍ということになる。写真は先頭から最後方まで順繰りに全員が写るように撮る。撮り終えたら、先頭まで急いで戻り反対側から同じように撮って行く。腕に自信がないので、これを繰り返す。「下手な鉄砲、数撃ちゃあたる」式である。 一通り撮り終えたら先頭に急いで戻るのだが、今日はそれがこたえた。人数が倍になるとその距離も倍になる。かなり疲れてしまった。 とても疲れたのだが、普通のペースで歩いて帰宅した。本人はとても疲れたと感じているのだが、足は順調に動くのである。こういうことは山登りでしばしば経験する。へとへとなのに足はしっかりと仕事して、予定通りのコースタイムで歩けることがある。 どういうことなのか、よくわからないが、疲労の様式には異なった種類があるということかもしれない。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2021.07.23
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7月に入って2週続けて金デモを休んだ。6月27日に2回目のコロナウイルスワクチンの接種を済ませたが、1週間ほど不調が続いた。接種の翌日から微熱が続いたが、ほんとうに体調不良と感じたのは2日ほどで、あとは倦怠感(というよりも無気力感)が続いた。 ワクチン接種をきっかけに無自覚だった「老い」が顕在化したとも考えられる程度のことで、ワクチンの副作用という大袈裟なことではない可能性が高い。私は、本性として怠惰なのだという自覚はある。本性が露骨に表に出てきたということなのかもしれない。 一週間ほどでほぼ以前の状態に戻ったのだが、そのころ肉親急逝の連絡があって気持ちが参ってしまい、しばらくは行動に支障が出るということになってしまった。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2021/7/16 18:17~18:31) 小雨、曇天と梅雨空が続いていたが、急に晴天の酷暑日になった(梅雨の晴れ間かと思っていたが、デモが終わって帰宅したら「東北も梅雨が明けた」というニュースがあった)。 日中の暑さはいくぶんおさまったように思えたが、元鍛冶丁公園までゆっくりと歩いても汗が吹き出すくらいだった。 この暑さにはまだ体が(心も)ついていけないらしく、いくぶんぼんやりと集会に参加していた。暑さのせいにするのは少々卑怯だが、フリースピーチの内容はほとんど覚えていない。あまり真剣に聞く気がなかったのは事実である。 日本では、新型コロナウイルス感染症の第5波流行の勢いが加速してきた。そんな状況にもかかわらず、宮城県では知事がオリンピックのサッカーの試合に観客を入れて開催することに固執している。 今日の昼、「東京五輪 サッカー競技〈宮城スタジアム〉観客要らんぴっくデモ」が、おなじ元鍛冶丁公園を集会場として開催された。ここに集まっている金デモ参加者の多くも、そのデモにも参加していたに違いない。私も参加したかったのだが、2週間ほどの「人生さぼり」ということもあって予定を動かすことができなかった。 ときどき「あっ、涼しい」と感じる瞬間がたまにある時間帯になって、30人のデモは元鍛冶丁公園を出発した。一番町。(2021/7/16 18:33~18:38) とても短い新聞記事を見つけた。「脱原発の日実行委員会(@datugennohi)」というアカウントのツイッター投稿からの拾いである。もともとは「瀬戸の風」というブログ記事に掲載されていたものである。 6月24日付の毎日新聞の記事である。読みやすいように、電子版から全文を引用しておく。 原子力規制委員会は23日、中国電力に貸していた島根原発のテロ対策施設に関する機密文書を、同社が2015年に誤って廃棄していながら、今月まで報告していなかったことを明らかにした。廃棄の隠蔽(いんぺい)とみられかねないが、同社の担当者は「機密情報の漏えいには当たらず、報告の必要はないと考えていた」と話している。 規制委などによると、機密書類にはテロ対策施設に航空機が衝突した場合の影響を計算するための手法などが記されていた。国の新規制基準に基づいて施設を整備する上で、必要になるという。中国電力は14年10月、規制委と秘密保持の契約を結んだ上でこの書類を借りた。 ところが、島根原発に勤める同社幹部が15年7月に誤ってシュレッダーで廃棄したにもかかわらず、規制委には報告していなかった。規制委が今年3月、電力各社に機密文書の管理簿を作成してもらい、毎年報告を求める仕組みを導入。報告期限だった今月になって報告し、今回の事態が発覚した。【塚本恒】 ここで問題になっているのは、原子力規制委員会から借用していた文書を中国電力が無断で廃棄したことである。したがって、記事は「規制委員会が貸し出しルールを改めた」ということでまとめられている。 しかし、私がこの小さな記事に関心を持ったのはそんなことではない。問題は国家機関の機密文書を一民間企業に貸し出したという点にある。原発へのテロ対策に関する文書なので国家の安全保障上、機密文書に指定すること自体は問題ではない。 問題の一点目は、国家の安全保障上重要な文書に対する機密保持能力を中国電力が担保しているとは思えないということにある。にもかかわらず、安易に貸し出すという機制を理解することができない。 もちろん機密性にはグレードがあるだろう。機密文書ではあるが、仮に漏洩したとしても国家は大事に至らない場合もあるかもしれない。その場合は、電子力規制委員会はけっこう恣意的に機密指定しているのではないかという疑いが残るが………。 私がもっと気になるのは、原発を規制する国家機関がその審査対象である電力会社に原発の安全審査にかかわる機密文書を貸し出していたということである。入学試験前に機密の入試問題をそっと手渡していたという犯罪とイメージが重なる。 その機密文書には「テロ対策施設に航空機が衝突した場合の影響を計算するための手法などが記されていた」というのだから、場合によっては入試問題ばかりではなく模範解答まで教えていたのではないかと勘繰ってしまいそうである。 原子力規制委員会は、東電福島第1原発の悲惨な事故が発生した際、原発の安全規制をはかる国家機関としての「原子力安全・保安院」が規制を受けるべき電力会社とあまりにも「ずぶずぶの関係」であった(つまり、安全が担保されていない)ことが批判されて新たに作られた機関である。 しかし、上のニュース記事から読み取れるように原発の安全性に関わる機密文書を審査対象の民間企業にあっさりと貸し出している関係を見ると、保安院時代と同様に「ずぶずぶの関係」であるようにしか思えないのである。 その傍証というわけではないが、北海道電力泊原発3号機の規制委員会の審査が原発直下の断層問題で8年もの間紛糾してきたのに、委員会は「活断層ではない」とする北電の主張をあっさりと認めたというニュースがあって(7月2日付け東京新聞電子版)、「やっぱり」という感想しかないのである。 原子力規制委員会と原子力安全・保安院の違いがどんどん分からなくなっていくのである。青葉通り。(2021/7/16 18:42~18:51) コロナワクチンの2回目の接種の影響から何とか立ち直ったころ、三兄が亡くなったと義姉から電話があった。なんとか火葬の前に顔だけは見ておきたいと出かける準備をしたが、折り返しの電話があって家族葬だということ、県境を越えての弔問は避けてほしいという連絡があって、諦めた。 これで6人兄弟の4人が逝ってしまった。年の離れた末子としての覚悟はしていたつもりだが、3人目だった次姉のときはかなりこたえた。それでも、見舞いや葬儀で仙台と大阪を何度も往復することことがいくぶんかの救いだった。 今回は自分の部屋でじっと耐えているだけしかない。やることがないというのは、ほんとうにきつい。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2021.07.16
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仙台は1週間ほど前に梅雨入りした(というニュースがあった)。たしかにそれ以降は雨が降っているが、私の記憶の中の梅雨ほどではない。感覚的には空梅雨のような気がする。だいたい、わが家の前を流れる広瀬川はほぼ渇水状態のままである。 かつては、身を亡ぼすのではないかと周囲が気を揉むほど鮎釣りに夢中になっていたが、最近はほとんど釣りには出かけない。広瀬川が「鮎の川」とは思えなくなったのである。それでも、川の渇水や濁流はとても気になるのである。 梅雨らしいのだが、今日もデモには良い日になった。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2021/6/25 18:27~18:34) 元鍛冶丁公園には着いたのは集会が始まって7分ほど過ぎた後だった。30人の参加者に向けて話されていた東北電力株主総会の報告スピーチが終わりかけていた。原発を稼働していないけれども日本原電は黒字経営で、その日本原電を資金的に支えている東北電力が赤字というのは問題ではないかとという内容だった。 会場では、まもなく400回の達するみやぎ金曜デモについてのチラシ配布があった。7月23日午後3時から400回記念デモが予定されている。 脱原発みやぎ金デモでは、金曜の夕方に参加が難しい人のために月に1回を日曜昼の開催としていたが、逆に参加するのが難しくなった人などもいて、それほど効果的ではなかった。そこで、参加者の一人の発案で、金曜の12時から13時までフォーラス前で脱原発を訴えるスタンディングを自主的に行うのでぜひ参加してほしいという案内もあった。スタンディングは、さしあさって知事選まで実行する予定で、1回目は7月2日ということである。一番町。(2021/6/25 18:35~18:45) 私たちはそれなりに肩に力を入れて反原発、脱原発を主張し、訴えているが、日本の保守政権や資本家集団は原発(の利権)に固執している。世論調査などでは原発を否定する人たちが70~80パーセントにも達するが、それがなかなか選挙結果に反映しない。選挙の争点の分散化とごまかし、それに国内に張り巡らされた利権としがらみから自由になれる人は多くないということが理由だろう。 原発をめぐる構図は、ごくごく粗っぽく言えばそういうことなんだろうと思っていたが、それは少し違うかもしれないと思わせる記事があった。「経済界は「原発推し」かと… 能條桃子さんも驚いた」という6月21日付の朝日新聞DEGITALの記事である。 朝日新聞が年2回実施している国内の主要企業100社に対するアンケート結果にについて、若者に政治参加を促す活動をしている慶応大学院生の能條桃子さんに感想を聞いたという内容である。 アンケートは多岐にわたるが、そのなかで脱炭素のための電源について次のようなやりとりが記載されていた。――脱炭素に向けて重視する電源(二つまで)を聞くと、83社が「再生可能エネルギー」をあげ、「原発」は計11社。「原発」の「新設・建て替え」を選んだのは2社だけです。複数回答可でこの結果は、担当者としても驚きでした。 「全く同感です。エネルギー政策を議論する政府の有識者会議などで出てくる経済界の意見は『「原発」推進』が多く、私も『経済界は「原発」推しなのかな』と思っていました。実際には「原発」に利権がある一部企業が『必要だ』と言っているだけなのかもしれません。私自身、『核のごみ』の処分方法が確立されていないのに「原発」を使い続けるべきではないと思っています」 この記事で注目したのは、じつは能條さんの応答ではなく、日本の主要企業100社の中で電源として原発を選んだのが11社のみだということである。私が上に書いた日本の資本家集団が原発に固執しているという構図はどうも正しくないようだ。 日本で原発にしがみついているのは自公の政治家と通産官僚、それに一部の国策企業というのが正しい構図だろう。もちろん、利権構造のためにそこにぶら下がる金魚のフンの諸々もあるだろうが、大体そんなところである。資本主義としての社会構造は脱原発へ大きな運動量(モーメンタム)を獲得しているのはほぼ間違いない。 変化時間の問題はあるが、このような歴史的な運動量を反転しうるような社会的・物理的な機構はおそらく存在しない。青葉通り。(2021/6/25 18:46~18:50) 7月27日のコロナワクチン接種に向けて、解熱剤を準備した。今日の朝、厚労省かどこか聞き漏らしたが、テレビでワクチン接種後の発熱に効果ある解熱薬として4種ほど推奨しているというニュース(ただの話題?)があった。気にして聴いていたが、私が購入した解熱剤にはその一つが含まれていて、いちおうは安心したのだった。もっとも、その話題の最後で「たいがいの解熱薬は効きます」という意味のコメントがあって、4種を推奨する意味を自己否定して見せたので、ビックリもしたが、「バカか」とも思ったのである。厚労省(かどこか)がバカなのか、テレビ局がバカなのか、適当に聞いていたので断言できないが………。 1回目の接種で、発熱(微熱だがほぼ1日)、注射した左上腕部から右上腕部にかけての筋肉痛(2日間、注射部は3日間)の副作用があった。同時に接種した妻の注射部だけの痛みと比べると、私の副作用の方が大きい。辛くて我慢できないなどというほどたいしたことではなかったのだが、なにか2回目接種の副作用を暗示しているようで怖いのである(そうです、私は臆病なのです)。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2021.06.25
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新型コロナウイルスワクチンの第1回目の接種を6月6日に終えた。左上腕部の筋肉注射なので、当日は腕を上げ下げするのがいくらか辛かったが、翌日は注射部だけの痛みになった。ちょっと痛いだけの違和感が三日だけ続いた。熱も少し出た。平熱より1℃は度高い状態がほぼ1日ほど続いてから何とか治まった。 2回目に熱が出るという話をよく聞くが、1回目の方がひどかったという人もいて、よくわからない。妻も一緒に接種したのだが、まったく熱は出なかった。人それぞれのようである。2回目の接種は3週間後の6月27日である。少し心配している。 65歳以上の予約申込み初日にまとめて代行予約した町内の高齢者のワクチン接種も順々に行われているはずだ。おおむね75歳以上の高齢者たちなので、注射後の副作用やショックが心配なのだが、いまのところ本人たちからは何の連絡もない。とくに一人暮らしの人たちが気がかりで、医院にも見守りが必要な人がいたら連絡してくれるように頼んでいたが、こちらもたぶん1回目は無事に進んでいるらしい。 順調にワクチン接種が進んでパンデミックが終息に向かうことを願うしかないのだが、第5波の流行が見込まれると専門家が予測しているのにオリンピック・パラリンピックを強行するという自公政権の判断は明らかに常軌を逸している。 オリパラは中止せよ! 元鍛冶丁公園から一番町へ。(2021/6/18 18:17~18:31) 夕方になれば暑くも寒くもなく、まったくデモにおあつらえ向きのいわゆる「デモ日和」になった。明日はけっこうな雨が降るという予報だが、ここのところ金デモは天候に恵まれている。 元鍛冶丁公園には30人が集まっていた。スピーチの主眼は、やはり東北電力の株主総会の話題であった。毎年、「脱原発東北電力株主の会」が総会に対して質問書を出しているが、今年も114項目に及ぶ質問書を提出する。カーボンニュートラルに向けた長期的な方針と原発の関係という大きな枠組みの質問から、「特定重大事故等対処施設」の期限内の建設と運用可能性、東海第2原発を持つ日本原電との契約・支援体制などなど詳細かつ緻密な質問が並んでいる。 アベスガのような宇宙人語らしきものではなく、さしあたって日本語での回答を期待したい。かつての日本では幼稚園でも小学校でも日本語での呼びかけに日本語で答えるというのはごくごく常識的なことだったが………。一番町。(2021/6/18 18:32~18:37) 上にも東北電力が資金的に支援していると書いたが、その日本原電(日本原子力発電株式会社)は国の肝いりで原発建設、運転の先兵として電力9社が出資して設立した会社で、東海原発1、2号機(1号機は廃炉作業中)、敦賀原発1、2号機(1号機は廃炉決定)を建設・運転した。 この3月、水戸地裁は「実効性ある避難計画や防災体制が整えられているというにはほど遠い状態で、人格権侵害の具体的危険がある」として日本原電に東海原発2号機の運転を認めない判決を出した。 もう一つの敦賀原発2号機も、今や「風前の灯火」状態である。もともと敦賀原発2号機はその直下の断層が活断層であると原子力規制委員会が判定して原発を再稼働できないままになってていた。もちろん、活断層であれば原発を建設すること自体が許されておらず、廃炉にするしかないのである。 ところが、2020年2月に日本原電が規制委員会に提出していた審査資料を委員会に無断で書き換えていたことが明らかになった。アベスガ政権お得意の「改竄」である。政府中央の権力機構のやることをそっくり真似たのである。 その後の経緯をまとめた記事が6月16日付け毎日新聞電子版に「敦賀原発の審査資料書き換え 規制委の調査で見えてきたのは」というタイトルで掲載されている。有料記事なのが残念だが、「改竄」についての部分を引用しておく。 具体的には、こうだ。資料には、敷地周辺で掘削した地質データが示されていた。地層が固まっていない状態の場合、「未固結(みこけつ)」と記載される。つまり、地層が固まっていないと、断層が動いた影響だと考えることができるのだ。 当初は「未固結」と記載していたのに、後になって提出した資料では、地層が固まった状態で活動していない可能性を示す「固結」に書き換えたり、断層の動きをうかがわせる「粘土を挟在(きょうざい)する」という文章を削除したりしていた。こうした書き換えや削除は、計80カ所で確認された。 明らかに活断層を「活断層ではない」と見せるための改竄である。規制委員会といえども、さすがにこの改竄を無視することはできず、日本原電に立ち入り調査を始めたうえ、そのような改竄を行った理由と経緯の報告を求めた。 日本原電はこの3月までに報告書を提出する予定だったが、いまだ提出に至っていない。もっとも「なぜこのよう改竄を行ったか」、「誰が改竄を指示したか」という問いに正直に応えることは不可能だろうし、かといって改竄が明らかになっている以上、新たな嘘をつくことも憚られて、結局解答不能状態になっていると思われる。国会での自公政権の大臣答弁とまったく同じ状態になっている。 今後、どのように進展するか、記事にはこうある。 規制委の石渡明委員は、これまでの規制委の会合で「(書き換えの意図は)審査の科学的、技術的な内容の正しさと関わる」と発言している。日本原電が提出する報告書の内容次第では、敦賀原発2号機の安全審査の行方が再び見通せなくなり、再稼働はおぼつかなくなる。 報告書を踏まえ、規制委が書き換えが意図的なものではなく、資料を作成する上での不注意だったと判断すれば、安全審査の中で敷地内の断層が活断層かどうかが判断されることになる。書き換えの不適切さの程度によっては、原子炉等規制法に基づく規定で定める「品質保証」の基準を満たさない恐れがあり、日本原電が行政処分の対象になる。ただ、審査自体は同様に続くという。 一方「断層が活断層だという結論にならないよう意図的に書き換えた」と規制委が認めれば、活断層かどうかの判断以前に審査の打ち切りもありえる。 活断層であるという科学的結論によって廃炉を決定するというのがもっともシンプルで健全な解だと考えるのは私だけではあるまい。いずれにせよ、日本原電は当面運転できる原電を持たず、資本主義社会で営利を目的とする企業の資質・存在理由ををすでに喪失している。自公政権を中心とする原子力村にかろうじて支えてもらっている状態である。日本の経済がどんどん落ち込むことに大いに貢献しているのである。青葉通り。(2021/6/11 18:42~18:48) 私は、書く内容ごとにブログを三つも走らせているのだが、この頃なかなか更新できないでいる。とくに、食事や花や家族、ペットのことなど生活のささやかなことを投稿しているブログは更新がなかなか進まない。 今、わが家の食事のすべてを私が作っている。そうなると以前のようにたまに作るランチをブログにアップするという雰囲気は消えてしまう。毎日のまったく同じくり返しをブログに書く気が失せてしまうのである。115歳まで生きた義母の介護も終わった。一緒に山登りしていたイオという犬も逝ってしまった。書く話題がないのである。 いまはコト(コトラ)という牡猫がいて、いろんなことが起きているのだが、写真を撮らせてくれない(カメラを構えると警戒してしまう)こともあって、なかなかチャンスがない。すっかりコトに気に入られた息子はなかなかにいい写真を撮っているのだが、その写真を借りてブログを書くというのはなんとも面白くない。 もう少し長く猫と付き合ったらどうなるか………。猫が猫の顔してゐたり それだけのひとひ、小糠雨は降りつづき 笹井宏之『八月のフルート奏者』(書肆侃侃房、2013年)p.61 「それだけのひとひ」を歌人はこのように詠えるけれども、凡庸な私はブログで書き表すことなど到底できないのである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2021.06.18
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東電福島第1原発の炉心溶融爆発事故は、ギュンター・アンダースが語る原水爆の『核の脅威』となんら変わらない恐怖を私たちにもたらした。原発と原水爆は、私たちの地球の未来、人類の未来に決定的に関与する脅威、人類のカタストロフィーを予言する。明日は ガスマスクつけて 町に出よう 見えないのを いいことに あたしの生殖機能を おかしくする 妖怪放射能が 充満しているこの島と あの半島の 原子力発電所は 再稼働を命じられている 戦闘服に綻びがあったら 命取りだ 冨岡悦子『反暴力考』(響文社、2020年)p.22 2021年4月に第54回小熊秀雄賞を受賞した冨岡悦子が上のように断じた世界は、原発がもたらした放射能の街が、原水爆投下後の町とまったく同じような恐怖を与えていることを意味している。現代は、東電福島第1原発事故以前、ヒロシマ、長崎への原爆投下やビキニ水爆実験を受けて次のように詠まれた世界と何ら変わらない。街の灯によごれたる虹立たしめてストロンチウム九〇の雨 篠弘『現代短歌全集 第十七巻』(筑摩書房、2002年)p. 229。街頭に連呼の候補者も民衆も放射能雨に濡るるを思え 窪田章一郎『現代短歌全集 第14巻』(筑摩書房、 1981年)p. 267。肴町公園から一番町へ。(2021/6/11 18:14~18:33) 最近、金デモの集会場所はほとんど元鍛冶丁公園となっていて、たまに肴町公園になることがある。そのため、間違えて元鍛冶丁公園に行ってしまうことが数回あった。今日は、「さかなまちこうえん、さかなまちこうえん」とわが老体に言い聞かせながら家を出た。 少し遅刻したが、スピーチの話題は東北電力の株主総会の話題が続いた。女川原発は東北電力にとって経営上のメリットがまったくなく、廃炉こそが健全な経営に必要だという話題や、東北電力の大株主である仙台市に株主として女川原発の廃炉を提案すべきという申入れを行ったことなどが話された。 仙台市は、原発は国策イッシュウだとして逃げ腰なのだという。地方自治を担いながら、そこに住む住民の安全、安心について意見が言えないというのである。来たるべき市長選挙ではよくよく考えなければならない、という締めくくりだった。 「列は2列で! 2メートルの間隔で!」とくり返しの注意を受けて、25人のデモは日銀仙台支店の裏の道を一番町に向かった。一番町。(2021/6/11 18:36~18:38) 「「完了」発表済み工事、76カ所が未完了 柏崎刈羽原発」 (6月10日付け朝日新聞DEGITAL)という目を引く記事があった。短い記事なので引用しておく。 東京電力は10日、柏崎刈羽原発7号機(新潟県)の再稼働に向けて今年1月に完了したと公表した安全対策工事で、76カ所の防火工事が終わっていなかったと発表した。同原発では1月以降、テロ対策の不備が相次いで発覚し、原子力規制委員会から核燃料の移動を禁じる是正措置命令を受けた。再稼働日程が白紙となったのに加えて、工事のずさんさも明らかになった。 (中略) 東電は昨年11月、7号機について、「今年6月の営業運転再開」を可能とする工程表を規制委に提出。今年1月13日には「工事が12日に完了した」と発表していた。しかし、1月下旬に中央制御室がある建屋の空調設備の設置工事が終わっていなかったことが判明。その後、火災感知器の未設置や配管貫通部の止水工事の未施工なども発覚。点検を続けていた。 このようなニュースが流れるたびに「東京電力には原発を運転する資格はない」という批判が溢れる。東京電力は自らの原発運転無資格の条件を次々開示していると言ってもいいくらいである。 このニュースをチラッと見たとき、東京電力は安全対策工事の手抜きを〈隠蔽〉したうえに、安全対策工事は完了したと原子力規制委員会に〈虚偽〉の報告をしていたのだと思ってしまった。〈隠蔽〉、〈虚言〉は原子力村住人の習い性なのでどうしてもそう思ってしまうのだが、読んでみるとそうではないらしい。 安全対策工事を行っていた東電は、その工事がすべて完了したと思い込んでそれを公表したのだが、その後になって76ヶ所の工事が未完了であることが分かって、あらためてその〈事実〉を発表したということである。 少なくともこの記事からは〈隠蔽〉や〈虚言〉があったとは読み取れないのだが、それはそれできわめて深刻ではないかと私は思うのである。〈隠蔽〉や〈虚言〉は、それが暴露されたときに正すことができる。 しかし、安全対策工事が不完全であることに気づかないままでいたというのは、関係する東電社員集団が揃いも揃って安全に対する認識や注意深さ、慎重さに欠けていたということではないか。それは、安全性に対する組織的な無能力の証ではないか。 そのような人間集団が柏崎刈羽原発を再稼働するということは、「安全に対する認識や注意深さ、慎重さに欠け」たまま運転するということになる。なんとも恐ろしいことである。 やはり、どう考えても東京電力には原発を運転する資格も能力もないと言わざるを得ない。青葉通り。(2021/6/11 18:42~18:48) 前のブログで岸原さやの「僕たちは生きる、わらう、たべる、ねむるへんにあかるい共同墓地で」という歌を引用して、「明るい共同墓地」で「ねむる」というイメージに驚いたことを書いた。墓で笑ったり、食べたりすることは祭祀としてはありうるが、私の中には墓地で「ねむる」というイメージはまったくなかったからである。この話題には続きがあったのだが、文章が長くなりそうな気配がして端折ってしまった。岸原さや歌集の次に読んだ別の歌集に、同じように墓地を読んだ歌を見つけてさらに驚いたのである。真夜中の墓地あたたかし どのつちの下にも生の時間が眠り 笹井宏之『八月のフルート奏者』(書肆侃侃房、2013年)p.63 「死は永遠の眠り」というのは使い古された凡庸な概念だが、ここで詠われている墓の下の「眠り」は明らかにそれとは異なっている。「生の時間」が眠っているだけであり、死者が眠っているというなどという単なる死の比喩的な表現としての「眠り」を超えているイメージがすごい。「生」は生のまま、ただ時間が止まっているだけなのだ。 墓地には墓石の数に見合った「生」がとどまっているのである。その無数の「生の時間」によって、誤解を恐れずに言えば、その生が集まっている墓地は「生」の息吹によって「あたたか」いのだ。私(たち)の古めかしい死の概念を一瞬にして乗り超える若い歌人のイメージにただただ驚いているのである(とても残念なことだが、作者の笹井宏之は12年前に26歳の若さで闘病生活を終えてしまった)。 老いて読書力が衰えた心にも新鮮な驚きを沸き立たせる作品に出合えることはまだあるのだ。読書はやめられない、たぶん死ぬまで………。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2021.06.11
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僕たちは生きる、わらう、たべる、ねむる、へんにあかるい共同墓地で 岸原さや『声、あるいは音のような』(書肆侃侃房、2013年)p. 92 最近、若い歌人の本を少しずつ読み始めている。1月と3月の短い入院にも何冊か持参した。上の一首は、その中の一冊から選んだ。現代歌人といえども、かなりの人は旧仮名遣いが多いのだが、少なくとも、私が読んでいる若い歌人たちはほとんどが新仮名遣いである(26歳という若さで世を去った笹井宏之は旧仮名と新仮名を使い分けていたが)。 いずれも軽やかな詠いぶりで、うっかりすると軽やかに胸のあたりを通り過ぎていってしまう印象があって、少し慌ててしまう。取り上げられる事柄も日々のささやかな事象のことが多く、ことさら強い感情や印象を与えないように作歌しているのではないかと疑ってしまうほどである。 もちろんこれは現代短歌に対する私の感受力の問題なのだが、それでも何度か読み返しているうちに次第に心の奥底に落ちてくるものを感じるようになる歌もある。岸原さやの一首はその最たるもので、「明るい共同墓地」で「ねむる」というイメージから生まれ、湧き立ってくる感情がある。もっともっと若い歌人たちの歌集を読み込んでいけば、少しはそのような感性に馴染んでいけるのではないかと期待している。 『声、あるいは音のような』には、福島第1原発の炉心溶融爆発事故がまき散らした放射能について読んだ次のような一首も収められている。 朝ひらく放射線量予測地図いびつな舌のその下にいる 岸原さや『声、あるいは音のような』(書肆侃侃房、2013年)p.86元鍛冶丁公園から一番町へ。(2021/6/4 18:15~18:35) 日中は強風が吹き荒れ、午後になって次第に強まる降雨とで脱原発デモができるかどうか危ぶまれていたが、午後5時半ごろから雨も風も急激に弱まってきた。元鍛冶丁公園で集会が始まるころには風はすっかりおさまって、雨は傘なしでもなんとかなりそうなほどの小雨になっていた。 6月6日には大阪で「老朽原発うごかすな! 大集会inおおさか」という集会が開催される。脱原発みやぎ金曜デモもこの集会にメッセージを送っていることもあって、今日の金デモはこの集会への連帯行動でもある。 スピーチは「老朽原発うごかすな! 大集会inおおさか」実行委員会の集会メッセージで始まり、2017年12月7日に起きた沖縄緑が丘保育園に米軍ヘリから部品が落下する事故について「なんでおそらからおちてくるの?」と題する活動報告とDVD上映会が開催(6月6日14:30~、エルパーク仙台セミナーホール)されるという告知、さらには宮城県が開催する「女川原子力発電所環境保全監視協議会」(6月8日13:30~、ハーネル仙台2階 松島)への傍聴参加の要請などに続いた。 20人のデモは、傘をさす人、ささない人それぞれで元鍛冶丁通りを一番町に向かった。一番町。(2021/6/4 18:36~18:45) 集会で朗読された「老朽原発うごかすな! 実行委員会」による集会メッセージは次のような言葉で締め括られている。 若狭の老朽原発から100 km圏内には、福井のみならず、京都、滋賀のほぼ全域、大阪、兵庫、奈良、岐阜の多くの部分が含まれます。このことと、福島原発事故では事故炉から約50 km離れた飯舘村も全村避難になったことを考え合わせれば、高浜原発で重大事故が起これば、何100万人もが避難対象になりかねないことになります。避難は不可能です。しかも、今、新型コロナウィルスの感染終息の兆しも見えません。この中で、超危険な老朽原発が稼働され、重大事故を起こしたら、避難のバスの中で、長期にわたる避難生活の中で、感染を防ぐことは不可能です。 水戸地裁判決を追い風として、老朽原発廃炉を勝ち取りましょう! 老朽原発廃炉を突破口に、原発のない、人の命と尊厳が大切にされる社会を実現しましょう!青葉通り。(2021/6/4 18:47~18:53) 傘なしでデモを歩き通したが、少しの間、カメラをジャケットの下に隠して移動したときもあった。雨に濡れた路面はカメラ的にはとてもいい。もっとも上手に写せればということだが………。 コロナワクチンの接種予定日が決まった。私はいわゆる「反ワクチン派」ではないので、当然のように受けるのである。個人のリスク(の確率)ばかりではなく社会集団のリスク(の確率)を考慮することも必要だと考えるからである。6月6日と6月27日である。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2021.06.04
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新型コロナ感染症による宮城県独自の「緊急事態宣言」とそれに続く「まん延防止等重点措置」の仙台市に対する発出のため、仙台の脱原発デモは長い休止を続けざるをえなかったが、ようやく5月14日に再開した。 今日は再開3回目の金デモだが、私にとっては再開初日になってしまった。5月14日の金デモは、ちょっと忙しくしていてさぼることになった。町内の高齢者のコロナワクチン接種申し込みのお手伝いをしようと、前日に町内会の役員数人で決めたのである。なにしろ3日後の5月17日から65歳以上の個人接種の予約が始めるので、急いで町内の高齢者の希望をまとめなければならなかった。それでも予約初日の朝9時半には町内の二つの医院へ希望者名簿を届け、予約を無事に済ませることができた。 次週の5月21日は、それなりに張り切って出かける準備をしていたが、直前に発熱して諦めた。疲れが溜まると数日間発熱するというよくあるパターンにはまった。たいした労働も人生も送ってもいないのにこうして時々疲れが出て発熱するのである。 元鍛冶丁公園から一番町へ。(2021/5/28 18:14~18:31) しばらくぶりの金デモなので遅刻しないように気を配って家を出たつもりが、元鍛冶丁公園に着いたらすでに集会が始まっていて、女川原発再稼働差止訴訟 今日(5月28日)、17人の石巻市民が原告となり女川原発2号機の再稼働の差し止めを求めて仙台地裁に提訴し、その原告の一人がスピーチしていた(河北新報ONLINE NEWS)。今日のブログのタイトルは、原告の一人、原信雄さんによる「「女川原発運転差止請求訴訟」を仙台地方裁判所へ提訴するに当たって」という副題のある挨拶文のタイトルをそのまま頂いたものである。 原告団はもともと2019年に宮城県と石巻市の避難計画には実効性がないとして再稼働に対する「地元同意」の差し止めの仮処分を仙台地裁に申し立てたが、地裁の判断は避難計画の実効性は争点ではないとして申し立てを却下した。仙台高裁も原告の即時抗告棄却した。 仙台高裁は避難計画の実効性には「相当程度の課題が残されている」ことを認めているのだが、原告の申し立てる原発の危険性は東北電力によるもので宮城県や石巻市の行為が直接の原因ではないとしていた。この仙台高裁の判断を基にして、原告団が差し止め請求の相手を東北電力としてあらためて提訴したのである。 さらに仙台高裁による避難計画の問題性の指摘に対しては、今年の3月18日に水戸地裁が日本原電の東海第二原発の運転差し止めを命じた判決がきわめて有力な反証になっている(朝日新聞DEGITAL)。水戸地裁は、「避難計画やそれを実行する体制が整えられているというにはほど遠い状態で、防災体制は極めて不十分」だとして運転差し止めを認めたのである。 ごくごく当然のことだが、原発を運転するためには事故時の避難計画が十分でなくてはならないのである。仙台高裁も宮城県も石巻市も避難計画には「現状ではなお相当の課題が残されている」ことを認めている。水戸地裁判決の論理は、女川原発2号機もまた運転差し止めとなるべき原発なのである。 金デモ休止前は集会もデモの時間もほとんど夜の内にあった。しかし、今日の集会開始の6時15分は十分に明るいのだった。6時30分に出発する30人のデモはほんのわずかずつ光が薄れていく仙台の中心街を進むのだが、カメラの絞りをどう変えればいいのかわからず、比較的開放に近い露出に設定してシャッターを押し続けた。どのように写るか自信はないのだが、今はいいソフトがあって後からかなりの修正ができるので、ソフト頼みの「いい加減」ということなのである。一番町。(2021/5/28 18:34~18:40) 2011年3月11日の東日本大震災とそれによる東京電力福島第1発電所の核燃料溶融・原子炉爆発事故以来、朝日新聞に掲載された朝日歌壇・俳壇の投稿作品の中から原発(事故)を読んだものを拾い上げてブログにまとめてきた。事故から10年も経てば、さすがに原発事故読む作品はだいぶ少なくなってきたが、この5月ごろに急激に増えた。 4月13日に政府が福島第1原発から出る放射能汚染水を海洋放出すると決定したことに対しての激しい危惧の念を表現する作品が次々と取り上げられたのである。そのいくつかを抜き書きしてみる。 原発に溜まる一方の「汚染水」を海に流すに「処理水」と呼ぶ (交野市)遠藤昭(5/23 永田和彦選) 「処理水の放出」と言い「汚染水の遺棄」とは言わぬ為政者は (観音寺市)篠原俊則(5/23 高野公彦選) 「処理水」の入った瓶を持つ総理両手に真白き手袋をして (観音寺市)篠原俊則(5/16 高野公彦選) 春水でありし日もあり汚染水 (八王子市)額田浩文(5/16 長谷川櫂選) 汚染水海に放つな初鰹 (東京都)橋本栄子(5/30 長谷川櫂選) 面白いことにほとんどの投稿者は「汚染水」と「処理水」をはっきりと見極めていて、政府や東電の意図を見抜いているように汚染水と表現している。政府が言うように処理水という言葉を使う時は「処理水」とカッコ書きにして疑念を顕わしているのである。 処理水とはALPS処理水のことだが、4月13日に経産省がそれを「処理途上水」という名称に変更したというニュースをおしどりマコさんのツイッターで知った。 東電福島第1発電所の放射能汚染水の70%が処理途上水、つまり処理していないのである。「処理水」という言葉で括っていい逃れようということはもう不可能になっているのである。もっともALPSそのものの性能は現在でもテスト段階なのだから、30%の「処理水」もALPSという装置を通って来たというだけで放射能除去が終わったという意味ではないのだろう。海洋放出の議論どころの話ではないのである。 ところで、朝日歌壇・俳壇をずっとフォローしているが、原発(再稼働)賛成、汚染水放出賛成という作品を見つけたことはないのである。短歌や俳句を詠む人はほとんど原発反対、環境汚染反対ということなのか、8人の選者の誰もがそのような作品を選ばないということなのか、あるいはその両方なのか。よくわからないが事実としてそうなのである。 産経新聞や読売新聞の短歌や俳句の投稿欄ではどうなっているか、少しばかり興味がある(そんな投稿欄があるかどうかは知らないのだが)。とはいえ、残り少ない人生の時間を産経や読売を読むことで費やするのはあまりにも惜しいので、そんな自分の興味は無視するしかないのだが………。青葉通り。(2021/5/28 18:44~18:46) 仙台の金デモはコロナ禍のため12月下旬~2月初旬、3月中旬~5月初旬の2回の休止期間があった。そして、これは偶然なのだが、胃の中に2個の早期癌を持っていた私は最初のデモ休止期間中の1月初めに入院して大きい方の胃癌を切除してもらった。さらに、2回目の休止期間中の3月下旬に入院して残りの小さい胃癌を除去してもらったのである。 内視鏡による除去手術では身体的負担はほとんどないのだが、2回もやるとなると気分は多少疲れ気味になる。というより、何となく病人らしくならないと申し訳ないような気分になるのだった。私としては、最近は異様におとなしくしているのである(などと言いながらひそかに山登りの準備をしているのだが)。 一週間ほど前に最終的な胃の検査をして病院から解放されたのだが、主治医から「2個できていたので3個目ができても不思議ではないのだが………」という言葉を贈られ、「やはり……」とだいぶがっかりしながら治療は完了したのだった。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2021.05.28
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コロナ禍でほぼ2カ月の休止後の脱原発デモには参加しているのだが、このブログに書き込むには至らなかった。デモの写真を整理し、フェイスブックやツイッターで報告するだけで終わっていた。どうにもブログの文章を書く気にならなかったのである。 とはいえ、最近は脱原発金曜デモのことばかりになってしまったブログなので、せめて参加したことだけでも記録しておくことにする。「2月26日」元鍛冶丁公園 → 一番町 → 青葉通り なかなか暖かくならない仙台だが、とくに寒いというほどでもない。寒くも暖かくもない日の再開2回目の脱原発デモの参加者は30人だった。 東京での脱原発デモ・集会にも何度か参加したことがある。首都圏反原発連合主催の金曜夜の首相官邸前抗議にも東京出張の際にはできるだけ参加するようにしていた。 数少ない私の東京出張もコロナ禍のため今はまったくなくなってしまったが、首都圏反原連も3月いっぱいで活動休止になるという。何人かの人と知り合い、いずれまたお会いできるなどと思っていたがその機会ももうなさそうである。 「脱原発みやぎ金曜デモ」の主催者は活動休止するつもりはないと言明しているので、こちらは間違いなく当分は続くのである。「3月5日」元鍛冶丁公園 → 一番町 → 青葉通り フリースピーチでは、2月13日発生の福島沖地震で福島第一原発は損傷が拡大し、格納容器内の水位が低下してることなどが話題になった。10年前に事故で致命的な損傷を受けていたが。今回の地震はその時の地震の余震だという。もともと本質的な修復も廃炉もできないまま、いわば剥き出しになったままと言えるような状態がさらに悪化したのである。格納容器の水位低下が始まって、どんどん水を注入しているのだが、放射能で高度に汚染された水はコントロールされないまま放出されているのである。 少し暖かな夜である。先週と同じ服装で出て来てしまったが、デモを歩くとすこし汗ばむほどである。参加者は25人だった。 3月3日はひな祭り(世間ではそうらしい)の日に、手術前検査を受けて残りの胃癌切除を月末に行うことが決まった。「簡単ではありませんが、前の癌ほどではないので何とか取れるでしょう」ということで、内視鏡による切除で一週間の入院ということになった。 入院、手術(と言うほどのこともない)は1月の経験があるので何も心配していないのだが、入院時に出されたお粥が喉を通らなくて辟易したことが頭を離れない。重湯と8分粥は何とかなったが、5分粥はどうにもならなかった。まあ、ひそかに対策を立てているので、それでなんとか乗り切れれば………。「3月12日」肴町公園 → 一番町 → 青葉通り あれから10年後の3月11日、山の中の古い温泉宿で妻とともに半日を過ごした。温泉に入っては炬燵でのんびりしていると、風呂から戻ってきた妻がテレビのスイッチを入れる国の追悼式典らしい場面でこの国の首相が挨拶をしていた。「カッ!」だったか「ケッ!」だったか、妻はそんな声を出して消してしまった。そんな半日。 この日のデモは、東日本大震災、東電福島第1原発事故の犠牲者を追悼するサイレントデモだった。35人がひときわ暗い(そんなふうに思えた)仙台の街をほんとうに黙々と歩いたのである。手に手に小さなLEDの蝋燭を持って………。 原発事故の翌年の夏に仙台の「脱原発みやぎ金曜デモ」が始まった頃、朝日新聞の「朝日歌壇・俳壇」欄に原発事故を詠んだ短歌や俳句が投稿されているのを見て、そんな歌や句をフォローしてみようと思い立った。週1回の掲載から毎週欠かさず歌・句を集めてその1回目を「原発を詠む(1)――朝日歌壇・俳壇から(7月16日~8月13日)」と題して『かわたれどきの頁繰り』というブログに掲載したのは、2012年8月13日だった。それが今では66回目となった。 そんなことを始めてから1年後、事故直後から1年数か月分の「朝日歌壇・俳壇」欄の分が抜けているので、仙台市立図書館に通って朝日新聞縮刷版から原発事故関連の歌・句を拾い集めた。それを「原発事故はどう詠まれたか」と題して「事故直後のころ」から「事故後1年3ヶ月の頃」まで16回に分けて同じように『かわたれどきの頁繰り』に掲載した。 福島原発事故の5年後、2016年3月11日にそれまでの「朝日歌壇・俳壇」の掲載作品から強く印象に残った短歌と俳句を選んでフェイスブックに次のような投稿をした。これらの歌・句の印象の強さはそれから5年後でもまったく変わらない。 2011年3月11日に始まったこと(朝日歌壇・俳壇から)。 春キャベツ七千五百株畑に残し男は自殺す核汚染苦に (三重県)喜多功 (2011/4/18 馬場あき子選) いわき駅構内鉄路赤錆びて津波・原発が街を滅ぼす (いわき市)松崎高明 (2011/4/18 馬場あき子選) 俺も牛も死ねというのか原発の警戒区域の酪農家哭く (白河市)舟部勲 (2011/5/16 馬場あき子選) 帰らざるひと、帰れざるひと、万のいのちに万の名のありしこと (福島市)美原凍子(2011/5/16 高野公彦選) 防護服の警察官が持ち上げし赤きランドセル背負いしは誰 (郡山市)渡辺良子 (2011/5/30 高野公彦選) 福島は暗黒大陸桜咲く (三郷市)岡崎正宏 (2011/4/18 金子兜太選)読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2021.03.12
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仙台の脱原発デモはコロナの再流行で2ヶ月間の休止だったが、ようやくの再開である。ステイホームだの外出自粛だのと言っても、老齢の身にはさほど影響があるわけでもないのだが、2ヶ月間、それなりにいろいろあって、さほど退屈もしないで暮らしていた。 40歳のときに癌で胃を切除した私は、7年ほど前から定期的にかかりつけの医院で内視鏡検診を受けている。ずっと何ごともなかったのでさぼって一年間検診をすっぽかして、この11月に2年ぶりに調べてもらった。34年前の手術痕の脇に早期胃癌があるという結果で、紹介状をもらって大きな病院にかかることになった。 正月明け早々に入院したその翌日、内視鏡による胃癌の切除を受けた。「難しかったけれども、何とかきれいに取れました」と言われて、きっちり一週間(6泊7日)で退院した。34年前に比べて、あっという間に普通の生活に戻れることに本当に驚いてしまった。34年前の胃癌は、「よく見つけられた」と評されたほど小さな早期胃癌だったが、胃の5分の3が切除され、ほぼ1カ月の入院だったし、その後の食生活はたいへんだったのだ。 今回の手術前の何度かの検査で、、もう一つ小さな胃癌が見つかった。これも「内視鏡で取れるでしょう」ということで、3月に入ったら前検査、入院、手術という段取りになっている。 年老いてできることがどんどん減っているのに、癌の生産能力は高まっているらしい。しんそこ落胆するような能力の向上ということもあるのだ。 私が自分でやれることはほとんど何もないのだけれども、気分的にはけっこういそがしい、というか、とてもせわしい感じ、やることがたくさんあるような気分の日が続いている。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2021/2/19 18:15~18:34) しばらくぶりの元鍛冶丁公園には時間通りについた。25人ほどが集まっている。集会が始まる前に昨年の中ごろから見かけるようになった参加者から話しかけられた。私のフェイスブックがこの脱原発デモに参加するきっかけになったという話である。「40年ぶりぐらいのデモですよ」と笑っておられた。最近、仙台に引っ越してこられたということだった。フェイスブックのことなど話し始めたら集会が始まった。 フリースピーチでは東電福島第1原発の事故炉の上部が極めて強い放射性物質に汚染されていること、それを調べる際に原子炉内に空気が混入したこと、それを東電はきちんと公表しないことなどが話された。事故炉では水素爆発を防ぐため窒素ガスを充満させているのだが、そこに誤って空気を混入させたというのである。 つまり、再度の水素爆発で放射能がばらまかれる危険があったのである。東電は、原発の事故を防ぐ管理能力に欠けていたし、くわえて事故炉を管理する能力もないということらしい。 ここでもまた、原発廃炉しか残された道はないという結論しか得られないのである。一番町。(2021/2/19 18:36~18:45) 2か月の間に一番町のイルミネーションはすっかり取り払われており、コロナ禍での人出の少なさも手伝って、なにかわびしい感もするのだった。 2か月間の原発関連のニュース、論説などの一覧を開いてみる。じつのところ、癌が見つかってからあまり丁寧に読む気にならなかったのだが、一応、それらを収集する作業はそれなりに続けていた。 目立つタイトルをいくつか挙げて置いて、これからゆっくり読むことにしよう。このような作業を脱原発デモの再開に同期させられたら、私の中のデモ再開気分が少しは盛り上がるかもしれない。(1) 日本原電に原子力規制委が異例の立ち入り調査 敦賀2号機の安全審査で資料書き換え(毎日新聞)。(2)核燃料サイクル政策、行き詰まり露呈 電事連、苦肉のプルサーマル新計画 (毎日新聞)。(3) 核のごみ最終処分地 5県、受け入れ反対 宮城と秋田は明示せず 東北・新潟アンケート(河北新報)。(4) 東電が多核種除去設備を8年近く“試験”運転 「仮設」という指摘も(木野龍逸) 。(5) 福島原発の処理水、海洋へ放出「反対」55% 世論調査(朝日新聞)。 このように並べてみると、原発ゼロしか進むべき道がないことがよくわかる。私の選択や嗜好の問題もあるが、これら以外でも原発が必要というようなニュースはほとんどないのである(権力に忖度するようなマスコミのことはよく知らない)。青葉通り。(2021/2/19 18:47~18:52) この2ヶ月、少しならず不思議な気分を味わった。早期胃癌が見つかったとはいえ、まったく自覚症状はなかったのである。最近になく体調良好な状態で検診を受け、入院、手術が終わっても、まったく病人らしい体調にはならないのである。 とはいえ、まがりなりにも癌なのである。ましてや検査中にもう一つ見つかってまもなく除去手術を受けなければならない。けっこう深刻な事態ではないか、転移はないのか、癌体質なのではないのか、などと心理的にはたいへん立派な病人になっても仕方がないのだが、体は元気(としか思えない)なのである。 体が元気な病人というのは、概念の矛盾だろう。いや、心が元気で体が不調と同じように、心が不調で体が元気なのも病気なのだろう。とすれば、私が正しい病人であるためには、心(精神)が不調でなければならないのか。癌宣告から一週間ほどはけっこう凹んだけれども、いつまでたっても自覚症状がないうえ、内視鏡手術であっさり除去できたことなどで、心もすっかり元に戻ってしまった。 私は、病人としても正しく生きられないらしい。病気のときだけ正しく生きてもしょうがないのだが………。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2021.02.19
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かつて私が妻に言い、その後妻が繰り返し念を押す言葉がある。「頑張るけど、無理はしない。」 いかにももっともらしいけれども、これが理想的に実現する可能性はほぼ無い。前者に傾けば、微熱を出して寝込む。後者に傾いてはだらだらと過ごして、そんな自分に気分がへこんでしまう。 結局は「少し頑張る」と「少しさぼる」を行ったり来たりするだけである。それでも、呪文の効果はあるらしく、最近は少しならず体調がいい。そんなふうに健康に関しては快適な思いで暮らしているのだが、体の中ではひそかに悪性の生物が育っていると医師に指摘された。今は精密検査のための病院通いだが、元気いっぱい歩いての病院通いである。心は多少へこんでいるが、体はたいへん元気なのである。 本人は元気なので金デモに出かけるのである。先週の金デモは休んだが、ただ忙しかっただけである。さて、私はいつから病人らしく振舞ったらいいのだろう?肴町公園から一番町へ。(2020/12/11 18:13~18:35) 肴町公園はやはり暗い。この間の肴町公園の集会で初めてフラッシュを使った。今日も使うことにしたが、近くは明るくても距離とともに急激に暗くなるのは避けられない。一人二人のポートレートなら問題なのだが、集会そのものを写すのはやはり難しいのである。不満は大いに残るのだが、使う方が少しはましなようだ。 延々と話すスピーカーにたまりかねた主催者がストップをかけるというようなこともある集会だったが、昨日も同じようなことがあった。40人ほどの集まりで、その半数ほどが自己紹介をする形で始まったのが、最初の自己紹介者が延々と話すので慌てて議長が制したのだった。 口からあふれ出すほど話したいことが胸に詰まっているのだろうと同情はするのだが、とくに聞きたいわけではない(正直に言えば、そういう話はたいてい他人には聞きたくもない話題が多い)。 まあ、私自身はできることなら人前で話さないで済ませたいし、何を話したらいいか悩むほど胸には何も詰まっていないのである。どちらがいいかはよくわからない。 この季節はもっとも夜が長い季節で、集会が始まりデモが終わってもとくに何も変わらない。ただひたすら夜だけである。集会に集まった25人のデモは闇に包まれたような公園からイルミネーションで明るいだけの夜の街へ向かうのである。一番町。(2020/12/11 18:38~18:39) 最近の最大のグッドニュースは、大飯原発3、4号機の設置許可取り消しを求めた行政訴訟で、大阪地裁が「国の設置許可を取り消す」という画期的な司法判断を行ったということに尽きる。 12月4日付け毎日新聞電子版の「大飯原発の設置許可取り消し 住民ら原告側勝訴 大阪地裁が初判断」という記事のリード文を転載しておく。 福井県や近畿地方の住民ら127人が、関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)について国の設置許可を取り消すよう求めた行政訴訟の判決で、大阪地裁は4日、許可を取り消した。森鍵一(もりかぎはじめ)裁判長は、原発が想定する地震の最大の揺れを示す「基準地震動」について、「原子力規制委員会の判断に看過しがたい過誤、欠落があり、設置許可は違法」と述べた。2011年の東京電力福島第1原発事故後、国の設置許可を否定する司法判断は初めて。 この裁判では地震に対する安全性を判断する際に用いる基準振動に過去の地震の平均値を用いているが、それが平均値である以上、過去にも基準振動以上の地震が発生していたことになる。それを考慮しない規制委員会の判断は誤りであり、その誤った審査に基づく原発設置は認められないというものである。 もともと、原子力規制委員会は3・11後の原発再稼働をいかに容認するかを使命とした政府機関に過ぎないので、これまでも新規制基準に合格させるためにたくさんの「看過しがたい過誤、欠落」やごまかしを行ってきたことは間違いない。 しかし、原発再稼働容認は規制委員会による新規制基準合格という判断を唯一の拠り所としているので、この裁判の持つ意味、影響はきわめて大きくなるだろう(もちろん上級審の裁判官がどれほど行政に支配されているかによって結果は変わるが)。青葉通り。(2020/12/11 18:40~18:49) 仙台はもう冬だが、さほど寒くはない。毎年春と秋に車のタイヤ交換を行きつけのガソリンスタンドに頼むのだが、12月に入ると予約がいっぱいですぐにはできないこともある。 今年はどうだろうかと朝方予約の電話をすると「いつでもいいですよ」という。さっそく午前中にタイヤ交換を済ませた。それほど、仙台の今年の冬は寒くないのである(今のところは)。 タイヤ交換の待ち時間に本屋を覗いたら読みたい本が2冊見つかるというおまけもあった。夜にはデモにも出ることができて、どことなく「今日は良い日」という気分である。この程度で「良い日」感が味わえるというのは、安っぽい人生ではあるが悪くはない。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.12.11
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私はよく熱を出す。熱と言っても微熱で、それも平熱が35.5度くらいと低いので、37度ともなれば本人はそれなりに辛いのである。以前は「しょっちゅう風邪をひく」のだと思っていたが、5年ほど前に風邪ではなく疲労が原因だということに気づいた。微熱が2、3日続くだけで咳も出なければ喉も痛くならない。微熱以外の症状がないのである。 もちろん人並みに風邪もひくのだが、熱を出す10回に1回程度に過ぎない。風邪ではなく疲労が原因だと気づいたのは、体力が衰えても山に登りたいと朝の散歩に少し足腰を鍛える要素を付け加えてからである。神社の石段や仙台城址の坂道を散歩コースに入れたのである。そんな散歩を5日も続けると必ず微熱が出て2日ほど休むことになる。 なんやかやで散歩の行けない時には微熱が出ない。1日おきくらいのペースだと10日から15日ほどで熱が出る。そんなことの繰り返しで、さすがに疲労が発熱の原因だと気づいたのである。いまでは石段・坂道散歩は3日ないしは4日に1度と限定している。おかげで最近は微熱が出る回数が激減した。「最近、ぜんぜん風邪をひかないじゃない」と妻が感心している(風邪じゃないんだってば)。 発熱が疲労によるのだと気づいた頃、「疲労感軽減ドリンク」なる商品のコマーシャルがとても気になった。長時間飛び続ける渡り鳥の筋肉に含まれる成分が疲労感を軽減するというのである。飛びつきそうになったものの、コマーシャルを丁寧に見ていても「疲労感を軽減する」としか言わない。「疲労」が減るのではなく「疲労感」が減るだけらしい。 その「疲労感軽減ドリンク」を飲みつづけ、石段・坂道散歩を毎日続けたらどうなるのだろうか。「疲労感」はないのだけれども「疲労」はどんどん蓄積して、最後にはとんでもないことになるのではないか、などと考えたりしてとても服用する気にはなれないのである。「疲労」を軽減するという宣伝ではただの「栄養ドリンク」と差別化できないための「疲労感軽減」という宣伝文句なのかもしれないが、私としては釈然としないのである。 私は「疲労」を軽減したいのであって「疲労感」を軽減したいのではない。疲労が減れば疲労感も減る。しかし、疲労感が減っても疲労が減ったという証明にはならない。「逆」は真ではない。疲労に鈍感になっているだけということも十分にありうるのである。 そんなこんなで、私としては年齢相応に休み休みしながら足腰を鍛えるしかないのである。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2020/11/27 18:25~18:34) 元鍛冶丁公園にはケヤキ落ち葉が降り積もっていた。風に吹き寄せられたらしく3分の1ほどにふかふかに敷き詰められていた。仙台はもうすぐ冬である。 30人の参加者の中に初めての参加だという3人の若い人がいて、手製のプラカードを抱えてスピーチをした。脱原発を訴えてずっとデモを続けている人たちがいることはとても大切だという趣旨の発言もあった。宮城県議会や知事が女川原発再稼働を容認するという動きが出てから新しい参加者が増えてきたという主催者の発言もあった。一番町。(2020/11/27 18:35~18:45) 新しい日本の首相が初めての所信表明演説で「2050年までに地球温暖化ガスの排出を実質ゼロにする目標」を宣言した。その後に、閣僚かなんかの政治家がそのためには原発が必要だと強調するニュースが続いた。 「なんだかなあ」という感想しかない。ずいぶん昔のことでいつだったか定かではないが、地球温暖化ガスを減らさないといけないという主張が声高になった頃、だからこそ原発が必要だと推進論者たちも声高になった時期があった。そのとき「温暖化ガスで滅びるか、はたまた放射能で滅びるか、悪魔の2択だね」というシニカルな冗談もまた声高になった記憶がある(私のまわりだけだったかもしれないが)。 ペテン師と政治家は2択が好きである。あることを主張するためにもっと悪い例を出して2択を迫る議論である。しかし、私たちが人生の中で決断しなければならないイッシューは、2択で決まるような単純なものはそんなに多くはない。3択もあれば5択もある。10択もあれば20択もある。知識と経験が豊富であればあるほど選択肢が多くなる。世の中のことで二つしか選択肢が見えないのはよほどのバカである。 もちろん詐欺師や政治家が2択しか選ばないのは認知能力が劣っている可能性もあるが、そればかりでなく意識的に悪魔の選択をせまる悪意もあってのことだろう。成功体験もまた彼らの2択好きを増幅させているにちがいない。その成功にはそれで納得してしまう大衆が必要なのである。悪魔の2択は、ペテン師のように振舞うポピュリスト政治家の重要な政治手法でもあるのだ。 エネルギー技術として原子力は新しい素晴らしい技術だといまだに信じている人たちがいるが、現在はもっと新しくスマートな技術が開発されている。太陽光を直接電力に変換するという技術と、多量の放射能を生み出しながらただお湯を沸かすだけの原発の技術を比べてみればいい。原発はそのお湯でタービンを回して発電しているだけなのである。もうすでに古くなった野蛮な原子力技術とさらにそれより古い化石燃料を引き比べるのは、じつに愚かしい2択であるにすぎない。 エネルギー問題でも選択肢はたくさんある。悪魔の2択は、愚か者の認識に過ぎない。普通の認知能力を持つ世界では再生可能エネルギーへの転換がどんどん進められている。石炭か原発かなどという愚劣な2択にしがみついている国は極東アジアの三流国だけになりつつあるようだ。青葉通り。(2020/11/27 18:46~18:55) 石段・坂道散歩は3日か4日に1回なのでこのごろはスクワットも加えている。一度の負荷を増やして、あとはゆっくり休もうと考えたのである。だから金曜デモの日には石段・坂道散歩をしないようにしていたのだが、都合があって今朝はその散歩に出かけた。 少し心配していたが、途中で足が重くなるということもなくデモは終わった。もし疲労がたまって微熱が出るとしたら4日後くらいだろうが。今日はひとまずやれやれということである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.11.27
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11月8日のまだ暗い時間、たぶん午前4時ごろだっただろうか。夢を見ていたか、夢から目覚めにいつ変わったのかよくわからないまま、何か悲嘆に暮れている感じでぼおーっとしていた。 夢にしてはどんなイメージもなく、ただ「今日は12日だ」という確信のようなものが勃然と沸き起こった。夢と言えば、それがすべてである。その言葉で夢が始まり、気が付けば目覚めていたので、その言葉で夢は終わってもいる。 夢か現か、定かではないけれども、その続きがある。「今日は12日、つまり昨日は11日ではないか。昨日は3月11日だった」、そう思ったのである。そして、3月11日を何も思わずやり過ごしてしまったことに愕然としたのである。 3月11日だというのに何もしていなかった、どんな思いも抱かずに、どんな行動もできずに3月11日が終わっていた。そういう思いにとらわれて、いやな気分のまま、次第にはっきりと目覚めていったのだった。3月11日どころか、11月7日だったというのに………。 あの3月11日から間もなく10年である。事故を起こした原発にまったく手が付けられない状態のまま、同じように被災した原発を再稼働させようと蠢き、画策している人々がいる。この10年、彼らは何を考えて生きてきたのだろうか。 いや、私たちはいったい何をしていたのだろうか………。肴町公園から一番町へ。(2020/11/13 18:22~18:33) 今日のデモは肴町公園だということは当然ながら知っていた。それで、肴町公園は暗いのでフラッシュを持っていこうと決めていた。デモの写真を撮るためにフラッシュを使うのは初めてである。フラッシュ光の不自然さが嫌いで、暗ければ暗いなりになどと考えていたのだが、ろくな写真が撮れないのでなんとか使ってみようと決めて家を出た。 フラッシュは集会のどこで使おうか、フリースピーチをする人の写真がきちんと撮れればいいことにしようか、などと考えながら道を急いで、着いたところは元鍛冶丁公園だった。デモ人は一人もいないことで間違えたことに気づいたのだった。家を出るときは肴町公園へ向かっていたのだが、いつ目的地を変更してしまったのだろう。あわてて肴町公園に急いだ。それほど遠くもないのに、もう集会は終わりかけていた。 集会は、宮城県知事がいくつかの意味のない形式的な儀式(手続き)を終えて女川原発の再稼働に同意したことへの抗議と憤りに満ちたスピーチが続いた(はずである)。 用意したフラッシュも役に立たず、ほとんどのスピーカーの写真はとれずじまいだった。カメラには収められなかったが、暗い肴町公園には憤りの気配が立ち込めていた。その気配を強く身にまといながら45人のデモ人は一番町の街中に向かった。一番町。(2020/11/13 18:36~18:38)寒村ののるかそるかの原発に未来預けし福島の今 (福島県伊達市)佐藤茂 (11/8 佐々木幸綱選) 上の短歌は11月8日の朝日新聞の短歌・俳句の投稿欄に掲載された一首である。自分たちの未来を「のるかそるか」の思いで原発に託し、そして故郷を喪失した現実を詠んでいる。国は貧しい農漁村を狙って原発を建設しようとし、貧しいがゆえに建設を受け入れた町(村)があった。原発安全神話の崩壊とともに、原発を受け入れた町ばかりか近隣の町(村)までもが、人の住めない地となった。原発を受け入れた町(村)がどうなったか。東京電力福島第一発電所のある(今は大量の放射能を吐き出し続ける原発廃墟のある)大熊町に生きて、事故後に避難先のいわき市で亡くなった歌人、佐藤禎祐が原発を受け入れた立地の町を詠んでいる(佐藤禎祐歌集『青白き光』(いりの舎、平成23年))。原発に縋りて無為の二十年ぢり貧の町増設もとむリポーターに面伏せ逃げ行く人多し反対を言へぬ原発の町うからやから質に取られて原発に物言へぬ人増えてゆく町 そして、東電福島第1原発の4基はメルトダウンし、爆発し、史上考えられる限りでの最悪の事故を起こした。原発の「安全神話」は微塵に粉砕されてしまったが、今、放射能に塗れた故郷を再生できるという新しい「神話」に福島の人々は惑わされ、苦しめられている。 中村純の「男を守れ」という詩の中にその町(村)で生きようとする人々が描かれている(中村純詩集『はだかんぼ』(コールサック社、2013年))。マイクロシーベルトの千倍が ミリシーベルト人が不在の美しい村に 別世界の概念が広がる。「特攻隊だから」そう話す夫のことばを反芻する妻がいる「原発で食べてきたから、いまさら逃げられない」「村が被災したから公共事業もない、仕事は原発しかない」「娘と妻は避難させた保障もないから自分は福島に戻らねば食べさせていかれない」できるだけ従業員の被曝を抑えようと線量の低い現場の仕事を取ってこようとする社長がいる社員と家族を食べさせ社員の被曝を少なくするために日々いのちを削られ、お金に変えられていく「百ミリシーベルト被曝したらもう仕事はできないそのとき自分は使い捨てなのか」三月十一日から 三十七シーベルト被曝しているという 2011年3月11日の前、すべての国民は年間1ミリシーベルト以下に放射能被曝を抑えるよう法律で守られていた。その3月11日以降、原発を受けいれた町(村)の人々は20ミリシーベルトまで放射能を浴びていいと国が法律を変えてしまった。それが原発を容認してしまった町(村)の人々への残酷な「ご褒美」なのである 朝日歌壇・俳壇に次のような短歌が選ばれていた。この夏に「棄民」って言葉二度聞きぬ残留孤児と福島の人 (和歌山県)石垣多鶴子 (9/27 馬場あき子選) 福島事故後、世界は変わったのである。女川町に大熊町と同じ運命を託してはならない。新しい「棄民」を生み出してはならない。大多数の宮城県民はそう考えている。東電福島第1原発の事故が引き起こした福島の人々の過酷な運命を知ったうえで、女川原発の再稼働を望み、議決し、容認した人間たちがいる。彼らの確信犯的言動の有責性は極めて大きく、重い。誰が手をあげ、賛同したのかを私たちは記憶しておかなければならない。 どんな苛烈な未来が待っていようとも、さらにその先の未来のために問うべき責任は問い続けなければならない。青葉通り。(2020/11/13 18:40~18:47) コロナ禍のために大きな声を上げられない。それでもデモ人は素直で真面目なのか、これまでは粛々とデモを歩いていた。今日のデモに参加した人はどうだったかよく分からないのだが、少なくとも私にはいくぶんかのフラストレーションが残った。 ただ、私が遅刻したせいもあり、肴町公園から一番町に出てすぐに青葉通りに出るという最短のコースだったこともあって、カメラは極端に忙しかったので、それがフラストレーションへのいい対処法だったようではある。 〈静かに〉かつ〈苛烈に〉抗議するということはどんなものだろう、などと答えが出そうもない「ぐだぐだ」を宥めながらの帰り道だった。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.11.13
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仙台はどんどん寒くなる。先週の薄手のブルゾンを一段厚いものに替えるだけでは心細くて、インナーも少し厚いものにして元鍛冶丁公園に向かった。コロナ禍のこんな時期に風邪をひいてしまった後に生じるだろう諸々のことを想像すると、なんとしてでも風邪ひきにはなりたくないのである。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2020/10/30 18:21~18:32) 元鍛冶丁公園に着いて、ザックからカメラを取り出してちょっと慌てた。カメラについているのは広角レンズだった。先日、70人ほどの集まりがあって広角レンズに替えたこのカメラと望遠専用のカメラの2台で写真を撮ったのが、レンズを取り換えるのを忘れたままカメラをザックに詰め込んで出かけてきてしまったのである。 今日初めて仙台のデモに参加したという人がいて、「被災原発が再稼働するのは許せない」という趣旨のスピーチをしたが、そのスピーチは「仙台のあまりの寒さに震えあがっている」という意味の言葉で始まった。 仙台は秋のど真ん中で「初冬」ですらないが、それでも寒いものは寒いのである。早くデモに出発しないかなあ、と思っているのは私だけだろうか。そんなことを考え出したころに35人のデモは元鍛冶丁通りを一番町に向かって出発した。一番町。(2020/10/30 18:37~18:45) 河北新報の記事である。「女川再稼働を容認の宮城県議会「不支持」72% SNSアンケート 県民投票求める声も」(10月27日付け『河北新報 ONLINE NEWS』)という再稼働を容認した宮城県議会についてのアンケート結果の記事である。河北新報の「読者とともに 特別報道室」のLINEに友だち登録する人にアンケートを実施したものである。 アンケート結果を要約すると次のようになる。再稼働を容認した県議会を……支持22%、不支持72%県議会の判断の時期…………「早い」72%、「打倒」22%、「遅い」7%知事は再稼働に同意すべき…「はい」31%、「いいえ」57%知事の決断前の県民投票……「実施すべき」76%、「すべきでない」19%女川原発2号機の再稼働………「賛成」23%、「反対」74% 河北新報はこれまで女川原発2号機の再稼働についてのアンケートをしばしば行ってきて、再稼働反対が県民の60~70%になることを示し続けて来たので、今回のSNSアンケートの結果はとくに驚くほどのことではない。県議会と県知事は終始一貫して県民の意思に背を向けつづけているということをあらためて示したに過ぎない。 記事の中に再稼働を「支持する人」、「支持しない人」、「どちらかわからない人」の意見のいくつかを掲載されている。支持や不支持の意見はいつかどこかで何回も見聞きしたようなものだったが、「わからない」という人に次のような意見があった。議決権は理解できるが、福島を思い出して悲しくなる。深く審議されているとは思えない。(石巻市・50代女性) 短い文章の中に、この人の福島へのシンパシーや悲しみが伝わってくる。このような思いをしながら再稼働の是非については「わからない」という。その機制を私が分かるはずもないが、石巻市に在住ということなどを考えると様々なことが想像される。想像だけで結論など出るはずもないのだが、この人の悲しみは原発の再稼働を止め、廃炉に向かうしか癒されることはないだろう。青葉通り。(2020/10/23 18:51~18:57) デモが終わり、急いで家に帰る。すぐに食事の用意をしなくてはと台所に立つと、妻は自分の部屋(義母が亡くなった後、義母の部屋を占拠している)でスマホをいじりながらテレビ(これも義母専用だった)をちらちら見ている。 糠漬けを出すところから始まる私の台所仕事が始まると、妻は食卓に移動してそこで小さなテレビを見ながら、ああだこうだと私に指示を出すのである。そこの小さなテレビは、台所仕事をしながらテレビを見たいと妻が執拗に言うので、チューナーとテレビが分離出来て風呂場でも見られるという小型のテレビを購入したのだった。 私が台所仕事をするときはそのテレビを見ない。見る気もないのだが、妻が食卓に移して見ているので見ることができない。妻は居間のテレビ、自分の部屋のテレビ、移動できる小型テレビ3台を活用している。私と息子は居間のテレビだけ。妻は「わたしはきっとテレビっ子なのね」などと言ってにこにこしているばかりである。 誤解のないように言っておくが、台所仕事をする夫にテレビを見ながらあれこれ支持する妻はけっしてスガーリンのごとき専制独裁の恐怖の支配者というわけではない。妻は左手橈骨骨折と両肩の腱断裂のリハビリ中なので、私が台所仕事をすべてやっているというだけのことである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.11.01
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先週の脱原発デモについてこのブログに書くのをさぼった。参加して写真を撮って、スチル写真と動画をSNSに投稿して終わった。雑用がそれなりにあって、そのほとんどがパソコン相手でブログに時間をさけなかった。こんなふうに書くとかなり多忙に聞こえてしまうが、じっさいは処理能力が落ちているというに過ぎない。 なんとなくもたもた過ごしている気分だが、昨日(10月22日)、宮城県議会は女川原発2号機の再稼働の請願を採択してしまった。知事はそれを根拠に近いうちに(予定通り)再稼働を容認するだろう。じっさいの再稼働は2年後くらいになるだろうが、事態は格段に悪化した。 もう一つ嫌なニュースが続いた。今日(10月23日)、仙台高裁は石巻市民が宮城県と石巻市に女川原発再稼働の地元同意の差し止めを求めた抗告審で市民側の訴えを退けたというのである。高裁の判断は、「県知事の地元同意や立地自治体の事前了解が、再稼働を目指す東北電力行為と同一視できない」というのである。しかし、地元同意がなければ東北電力は再稼働できないという事実は、自治体と東北電力の行為を無理やり分離することには無理があることを意味しているだろう。結論が先にあった判断だとしか思えない。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2020/10/23 18:14~18:30) この季節、陽が落ちて暗くなってしばらくしてからデモのために家を出るので、夜になって外出するということになる。長い職業人であったときにはこの時間帯に家に帰っていたので、日中を家で過ごして夜に玄関を出ることに違和を感じるだろうと思うのだが、じつはほとんど感じない。そんな自分にちょっとばかり「違和」を感じながら元鍛冶丁公園に向かった。 やはり、今日の元鍛冶丁公園にはいつもの倍近い人が集まっている。デモ中の集計では45人の参加者だった。 フリースピーチでは石巻市や宮城県への請願や要請行動を行ってきた人たちが次々に憤りに満ちたスピーチをした。 県議会に出された再稼働に関する請願は環境福祉委員会で審議されたが、9月13日の委員会はたった10分の審議で女川商工会が出した再稼働を求める請願を賛成多数で採択してしまった。再稼働の是非に関する県民投票の請願には「議会で十分に論議するから県民投票は不要」として拒否したにもかかわらず、その議論はたった10分なのである。 なぜそうなるのかは、はっきりしている。自民、公明の議員たちは議論ができないのだ。自分たちに「理」がないことを十分に自覚しているので議論から逃げるしかできないのだ。「議」員たるおのれの義務の否定、ないしはサボタージュである。「恥を知れ」というしかないが、恥を知るならとうの昔に議員を辞めているに違いない。一番町。(2020/10/23 18:36~18:45) 女川町議会、石巻市議会、宮城県議会の自公議員の言い分に、「原発再稼働は国の政策だから地元がとやかく言うことではない」というのがあって驚く。地元の同意がなければ東北電力は再稼働しないということは、地元に相当の決定権があるのである。それを放棄するのは、自治体議会や首長そのものの存在意義の否定、自己否定に他ならない。 河北新報に「女川原発再稼働・迫る地元同意」という連載記事の「(2)先導する議会、民意とは乖離」(9月29日付け河北新報ONLINE NEWS )に次のような一文があって地方自治体の存在理由、その意味について考えさせられる。 北海道函館市。電源開発(Jパワー)が青森県大間町に建設中の大間原発は、津軽海峡を挟んで最短23キロ。稼働すれば重大事故時の避難対象となる30キロ圏を抱える。人口約25万の観光都市は、対岸のリスクを除去できないでいる。 市は14年4月、建設差し止めを求めて国と同社を提訴。6年半近くたった今も係争中だ。工藤寿樹市長は「市民の承諾もなく、近隣に原発が建設されている。市の存続と住民を守らなければならない」と訴える。 地元の民意をどう吸い上げ、国策とどう向き合うか。市は訴訟の前から「大間原発建設の無期限凍結」を掲げ、市民との意識共有を図る。工藤市長は「市が原発政策で特定の立場に立たないことで、理解を得られた。建設凍結は市民の総意だ」と強調する。 何たる彼我の差だろうか。一方は国策だからと県民の命も安全も考慮することなく上(政府)の意向に従うばかりの首長や地方議員がいて、一方には「市の存続と市民を守らなければならない」と行動する首長がいる。原発再稼働に関しては、東電福島第1原発事故の原因究明を行わない限り東電には柏崎刈羽原発を再稼働する資格はないと再稼働を容認しなかった新潟県の例もある。 私たち・宮城県民はいったいどんな首長や議員を選んでしまったのだろうか。「選良」という言葉があるが、私たちは「選愚」を選んでしまったのである。「選愚」たちが唯々諾々と女川原発再稼働を容認しているのである。青葉通り。(2020/10/23 18:52~18:54) 最近の金デモは30人前後ということが多く、デモの写真を撮ろうと言う身には45人はたしかに多いなと身に沁みて感じた。45人という数とソーシャルディスタンスということでデモの列が長くなるのある。 かつて数百人のデモの全体を撮ろうと走り回ってへとへとになったことがあったが、それほどではないにしてもやや似た状況に陥った。体力の衰えをそういうふうに感じることが身に沁みた秋に夜デモであった。 それにしても、今日ほど「まだまだ脱原発デモは続くのだなあ」と実感した日はない。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.10.23
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三週続けて脱原発デモを休み、ブログも更新しなかった。疲労が出たとばかり思っていたが、鼻水と頭痛がひどかった。熱は微熱だったし、血中酸素量も正常だったので、新型コロナウィルス感染症ではないという確信はあったが、外出はためらわれた。 5日ほどで回復したのだが、2、3日元気が出て、その後、2、3日疲れが出るという繰り返しだった。退職数年前にやはり疲労で微熱が2ヶ月ほど続いたことがあったが、それに比べればかなりましなのだが、年老いた分だけ慎重に暮らしていた。 左手橈骨骨折の妻は週2回のリハビリに通ってはいるが、ようやく食後の洗い物をやれるようになった。やれやれと思っていたら、また部屋の中で転んで今度は右手が痛むという。あわてて整形外科に診てもらった(かなり強引に頼み込んでいた)のだが、こちらはただの打撲だという診断だった。とにかく、かなり刺激的で胃が痛みだしそうな日が続いている。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2020/10/9 18:14~18:35) 休んだ三週間の中には、9月26日の「女川原発の再稼働を止めよう! 県民大集会」があって、それだけは出ようと前日まで考えていたのだが、微熱と鼻水と頭痛の人間が人混みの中に出ていくというのはあまりにも不穏当だと家人に止められた。個人的には残念だったが、800人もの人が集まったというから大成功の集会とデモだったということで何よりである。 集会でのフリースピーチの話題に中心は、やはり女川原発再稼働容認へ向けた県や自治体の動きである。この動きについては、河北新報が「女川原発再稼働・迫る地元合意」という5回連載の記事を掲載した。 「(1)恩恵とリスク、立地町の葛藤」、「(2)先導する議会、民意とは乖離」、「(3)30キロ圏市町に権限の差」、「(4)審査追認、安全性の議論なく」、「(5)「県民の総意」問われる覚悟」とそれぞれの回のサブタイトルを並べただけで、女川町議会、石巻市議会、宮城県議会の自民党(系)議員が県民の意思や生命・健康に背を向けた政治行動をとっていることが明らかである。 しかし、そうした流れの中である自民党県議の言動が注目されている。10月9日付けの河北新法ONLINEに「女川再稼働賛成の請願 自民ベテラン宮城県議が棄権を示唆「安全神話崩れた」」という次のような記事が掲載された。一部を抜き書きしておく。 藤倉知格氏(富谷・黒川、8期)が県議会9月定例会の一般質問で表明した。昨年の2月定例会の一般質問では、将来的な脱原発に言及。再稼働の是非を問う住民投票条例案の採決時、自民会派で唯一棄権した。 東京電力福島第1原発事故、高レベル放射性廃棄物(核のごみ)など未解決の問題を挙げた藤倉氏。「『原発推進、再稼働容認、原発の恩恵には浴す。だが汚染水の放出には反対、最終処分場はごめん被る』では整合性が取れない」と指摘した。 原発を「ハイリターンの一方でハイリスクが伴うもろ刃の剣」と表現。「最後は責任を持つ」との国の姿勢を「殺し文句ないしは決めぜりふ」とし、「国が取れる責任は極めて限定的だと、福島の深刻な現実が物語っている」と訴えた。 藤倉氏はかつて女川原発3号機のプルサーマル計画を推進する立場だったが、「福島の事故で自分の中の安全神話が崩れた」と述懐。「苦悩を背負い、再稼働に賛成とはいかないと申し上げる」と締めくくった。 福島原発事故後、世界の多くの国の政治家が原発の危険性をあらためて認識し、少なからぬ国が原発からの撤退、削減を決めた。そのため、原発輸出で儲けようとした旧安倍政権の政策がことごとく失敗に終わっている。 そのような世界の情勢から考えて、藤倉さんの考えはごくごく普通、ごくごくまともなのだが、田舎の保守政界のしがらみの中で、このような意志を表明し棄権するのはたいへんだったろうと同情する。願わくば、もっと多くの自民党(系)や公明党の議員が、藤倉さんのようにごくごく普通の考え方をしてほしいのである。一番町。(2020/10/9 18:37~18:47) 「もう原発はやめた方がいい」という至極常識的な考えを証明するようなニュースが相次いでいる。旧安倍政権の目玉政策だった原発輸出が完璧に失敗したことを証明するように「日立、英原発計画から撤退 投資環境悪化で続行不可能と判断」(9月16日付け『REUTERS』)という記事があった。だいぶ前から撤退するというニュースは流れていたが、これで「とどめ」である。 また、「世界で再生エネ発電、原発超える――コストも優位、欧米は廃炉進む」(9月26日付け『KYODO』)。原発にしがみついているのは極東の三流国家だけになりそうな世界の流れである。 もっと強烈な記事がある。「「原子力離れ」学生の減少続く 原子力委員会が人材枯渇に懸念」(10月7日付け『西日本新聞』電子版)である。 「大学・大学院の原子力専攻入学者は、70年代半ばから90年ごろまで500~600人で推移。92年の約670人をピークに減少傾向となり、2018年には約260人まで落ち込んだ。/ この状況が続けば、技術者不足やノウハウの散逸を招きかねない-。原子力業界には強い危機感がある。」という内容だ。 就職先は原発のお守りしかないような原子力工学に魅力はないだろう。ましてやその原発の未来に東京電力福島第1原子力発電所の惨憺たるイメージが重なるのだから、学生が背を向けるのは当然である。 原子力業界に原子力の知識を持つ人材が枯渇する。近い将来そういうことになる。人材が集まらないということは、優秀な人材はなおさら集まらないということである。急いで原発を廃炉にしないと、電力会社は原発を維持するだけで地獄に陥ることになる。 もう原発はきっぱりとやめた方がいいのである。青葉通り。(2020/10/9 18:48~18:57) 今日のデモは少しばかり疲れた。まだ歩き馴れていないのである。疲れてはいるが、急いで帰って家族の夕食を作らなければならない。夕食が遅くなっても、猫以外は文句も言わず待っていてくれるのだが、こちらはこちらで「おさんどん」はさっさと終わらせたいのでいくぶん気が急くのである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.10.09
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ほぼ一か月半、家事のすべてを一人でやってきて、だいぶその生活リズムに慣れてきた。妻が左手橈骨骨折で入院、手術をしたのだが、その骨折は順調に治ったものの、整形外科的な不具合がいくつか見つかって通院治療ということになった。115歳まで生きた母の介護を在宅で続けてきたことが妻の体に無理を強いたのだろう。 そんな妻の事情を知っている主治医がとても熱心に治療にあたってくれていて、どこか妻は張り切って通院しているように見える。その妻の送迎と家事全般をやることがずっと続いているのである。これがいつまで続くのか、まだ先は見えない。 肉体的にはたいした労働ではないのだが、当初の二週間ぐらいはとても疲れた。それで先々週は金デモに出たもののブログを書くまでには至らなかったし、先週の金デモは休んでしまった。それでもようやくそんな毎日が普通の一日の感じになって来た。ただ、朝早い私が作る朝食はそれまでより一時間半ほど早くなって、妻は何も言わないがいくぶん不満らしい危険な気配を漂わせている。肴町公園から一番町へ。(2020/9/11 18:13~18:38) 朝晩はようやく涼しくなってきた。今日は久しぶりの肴町公園である。しかし、午後6時過ぎればすっかり日が暮れて、街灯の少ない肴町公園は、露出優先のオートフォーカスではシャッターが切れないのだった。 フリースピーチは、女川町議会が女川原発2号機の再稼働を容認したこと、石巻市議会、宮城県議会の動きなどが中心的話題だった。それに対して、多くの市民団体の抗議や、要請行動がなされている。 9月26日には県民大集会を開催し、6割以上の県民が再稼働に反対していることをアピール行進で締めそうという予定している。 宮城県の新型コロナ感染者もじわじわ増えていて、その先行きが心配されるが、何とか集会が実施できればいいのだが………。 集会を終えて30人のデモ人は薄暗い肴町公園を出発したが、今日のデモコースはいつもの半分くらいである。肴町公園から一番町に出て、一番町を南進してすぐに青葉通りを左折して流れ解散の仙都会館前の向かうのである。 明るい一番町はあっという間に通り過ぎるので、けっこう忙しくシャッターを切ったが、やはりとても雑な感じの写真になってしまった。一番町。(2020/9/11 18:40~18:43) 「原発事故から 故郷へ帰還できず 死去2600人余 福島」(9月9日付けNHK NEWS WEB)という哀切な事実を伝えるニュースがあった。 福島県の「帰還困難区域」から避難した住民のうち、ふるさとへの帰還がかなわぬまま亡くなった人が少なくとも2600人余りに上っていることを伝えるニュースである。このニュースでは触れていないが、政府が定めた「帰還困難区域」以外からも多くの人々が避難して、その中にも帰還できないまま亡くなった方も多くいるだろう。 帰還困難区域は7市町村にまたがっていて、事故当時は2万6500人余りがすんでいて、その1割に相当する2670人が亡くなったという。 原発事故が起きたとき、あるいはこのようなニュースが流れたとき、福島県大熊町に原発建設を認めた当時の首長や議員たち、そして積極的に賛成した住民たちも、激しく心が痛むのではないか、とずっと想像してきた。自分の隣人、友人、親戚を故郷から追い出す結果になる原発誘致を積極的に推し進めたことを後悔しないはずがないとずっと思ってきた。 苦しむのは被害者ばかりではない。被害を生み出し要因に加担した人々も苦しむことになるだろう。地方の首長や議員たちが、心に痛みを感じない人非人ばかりとはとうてい思えない。 しかし、女川町議会は大熊町と同じ道に足を踏み入れた。石巻市の市長や市会議員、宮城県知事、県会議員たちが死ぬほどつらい思いをする未来が来ないことを祈るしかない。青葉通り。(2020/9/11 18:47~18:50) 私は、夕食前に風呂に入り、食事時に少しのアルコールを摂取する。もともと酒好きなのだが、職業人であったとき、ストレスで声が出なくなり夕方には喉から出血するという日が続いたとき、風呂と晩酌後には喉も声もすっかり恢復するのを経験してから、ますます欠かせない習慣になった。 しかし、今日はそれも無理だろう。帰宅したらただちに夕食の準備をしなければならない。白米だけは電気釜が自動的に炊き上げてくれているはずだが、三人分のおかずを用意しなければならない。何よりも帰路の間にメニューを決定しなければならない。それがもっとも厄介なのである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.09.11
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