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ゴッホとの共同生活が破綻した ゴーギャン がフランスからタヒチへと逃亡したのは、ゴッホと別れてから三年後の1891年のことである。タヒチが 「発見」 されたのは18世紀半ばで、最後にはハワイで先住民に殺された、かのキャプテン・クックことジェームズ・クックも、金星観測のため、1769年にタヒチを訪れている。
むろん、この 「発見」 とはヨーロッパ人と彼らの世界にとってのことにすぎない。タヒチは、おそらくはアジアのどこかから船出し、その後、ハワイからイースター、さらにニュージーランドにまで航海を続けた人々らによって、そのはるか以前に発見されていたのである。いうまでもなく、それはいわゆる 「新大陸」 の場合でも同じことだ。
タヒチなどの島々の 「発見」 が、当時のヨーロッパの知識人らにどのような影響を与えたかは、たとえば革命前のフランス啓蒙思想家の一人であるディドロが、航海から帰国した同国人のブーガンヴィルについて、『ブーガンヴィル航海記補遺』 という書を書いていることからもうかがえる。彼はその中で、次のように書いている。
ああ!ブーガンヴィル氏よ、あなたは無邪気で仕合せなタヒチ人のすむ岸辺からあなたの船を遠ざけるがいい。彼らは幸福でいるのに、あなたはただ彼らの幸福を損なうだけであろうから。彼らは自然の本能に従うのに、あなたはこの荘厳神聖な性格を抹消しようとしている。いっさいは万人に所属するのに、あなたは我のもの、汝のものという不祥な区別を彼らの中に持ち込もうとしている。
ついに、あなたはタヒチを去る。......すでに夜明けの時刻から、彼らはあなたが船に帆を上げるのを認める。彼らはあなたのもとに殺到し、あなたを抱擁して涙を流す。泣くがいい、哀れなタヒチ人よ。しかしお前たちの流す涙はこれらの野心に満ちた、腐敗した、邪悪な人間の到着を悼む涙であっても、決して出発を悼む涙であってはならない。
いつか、お前たちは彼らの正体を知るに違いない。いつか、彼らは片手に十字架、片手に短剣を握って到来し、お前たちを虐殺したり、お前たちに無理やりに彼らの習俗や見解を採用させたりするに違いない。いつか、お前たちは彼らの足もとにひれ伏して、彼らとほとんど変わらない不幸な状態に陥るにちがいない。
ディドロの予言どおり、タヒチはその後、太平洋における英仏の覇権争いに巻き込まれ、1842年にはフランスの保護領、さらに1880年にはその植民地となり、現在は、共和国フランスの自治権を与えられた 「海外領土」 ということになっている。ちなみに、タヒチに近いムルロア環礁で、フランスの核実験が行われたことは、まだ記憶に新しい。
このような、いわゆる 「善良なる未開人」 の発見が近代ヨーロッパの思想に及ぼした影響については、言うをまたない。世界各地での 「未開人」 の発見は、やがて 「人類学」 なる学問の誕生に導き、ヨーロッパという 「文明諸国」 の遠い過去との比較であるとか、また人類の文化と社会の「発展段階」論といった壮大な理論もいろいろと提出された。
それはともかくとして、一般的に言うなら、自然科学であれ人文・社会科学であれ、「人間」 という生物についての科学が発達することは、人間を 「神」 の似姿という神聖な座から引きずりおろすことを意味する。
われわれ人間が、人間自身を客観的で合理的な冷たい認識の対象とするとき、人間はもはやかつての伝統的な 「キリスト教神学」 で信じられていたような、神と同じ理性を分有し、神から特別なご愛顧を受けた、他の生物とは別格の生き物ではあり続けられない。「進化論」 がもたらした衝撃とは、まさにそういうものである。
われわれは、すでに人間の 「意識」 というものが、神から授けられた、神と同じ 「理性」 などではなく、進化によって生まれた脳という器官の産物にすぎないことを知っている。だが、具体的な意識は、身体とそれを取り巻く、他者を含めた 「世界」 との関係の中で成立するのであり、したがってたんに脳の中にのみ局在しているのではない。
それは自己の身体を貫き、身体をすっぽり覆うと同時に、身体からはみ出したものとしても存在する。たとえば、熟練者が道具や機械を操作するときのように。それは、いわば 「延長された身体」であり、「二乗された身体」 でもある。そして、その結果、「身体」 の側にも、「精神」 の中に取り込まれ、「精神としての身体」 に変容するという妙な状況が生じることになる。
なんの因果かは知らないが、人間は、巨大な大脳を含む特異な身体組織を得ることで、「自己意識」 というややこしいものを持ち、言葉をしゃべるようになった。おかげで、人間はわけのわからぬさまざまな 「観念」 を生み出し、悩まされるようにもなってしまった。もっとも、それがどのようにして発生したかは、すでに遠い記憶の彼方であるから、もはや誰にも分からない。
たとえば、呪術の力を信じる 「未開人」 は、呪いをかけられたと思うと、それだけで死にいたるという。だが、それは、彼が 「愚昧」 であるがために起こるのではない。そうではなく、それは彼もまたわれわれと同じ、「観念」 という病にとりつかれているがゆえに起きるのだ。
そこに違いがあるとすれば、それはせいぜい、とりつかれる 「観念」 の違いにすぎない(どちらが高級であるかは、あえて問わない)。つまるところ、魔法や呪術を信じる 「未開人」 もまた、多少の程度の差はあれ、われわれと同じ立派な 「文化」 的存在なのである。
途中ははしょるが、結局のところ、自然史という地球の歴史への登場以来、われわれ人間はみな、究極的にはこの奇妙な 「心身」 という 「下部構造」 による規定をつねに受けている。そして、そのような 「下部」 と、その上に立つ歴史や社会、文化といった 「上部」 をつなぐ配線は、たしかに明瞭ではないが(完全に明瞭になることはありえないだろう。それはつまり人間が「自由」でもあるからだ)、なんらかのイデオロギーによってことさらにつながなくとも、すでにそこにあるものである。
したがって、そのような 「配線」 の存在を意識することは、なんらかの 「価値」、たとえば白色人種、とりわけアーリア人種の優越といった怪しげな 「理念」 や、特定の民族や社会層に対する差別を正当化するために、「遺伝学」 だとか 「生理学」 だとか、つねにひとつの暫時的な仮説でしかないなんらかの 「科学」 によって、怪しげな 「配線」 をすることとはまったく別のことだ。
それはまた、なんらかの 「下部構造」 から直接に、「価値」 だとか 「理念」 だとかを導き出そうという話なのでもない。むろん、そのような 「配線」 の存在を認識することは、人間の自由をすべて否定することでもない。ただ、その 「絶対性」 が否定されるだけのことだ。だが、絶対的に自由な人間など、地上に存在しえぬことなど、ほとんど自明のことにすぎまい。
しかし、「上部構造」 に対する否定的制約としてであれ、その成立を可能とする肯定的条件としてであれ、人間の 「本性」 や 「生活世界」 といった具体的な 「下部」 による規定を無視して、自らを 「普遍的」 と称する理念が大手を振って歩き回るなら、そこに生じるのはつまるところ 「啓蒙の暴力」 であり、せんじつめれば、現に近現代史の中でしばしば生じたような、「普遍性」 の名による 「テロル」 ということにしかなるまい。
「行動主義心理学」 を提唱した ワトソン は、かつて、 「 もし自分に生後間もない健康な子供を預けてくれるならば、その子供をどんな性格にでも、どんな職業人にでも育て上げてみせる 」 と豪語したという。むろん、これはおそらく当人も承知の、宣伝をかねた一種のハッタリにすぎないだろう。
だが、そのような人間の 「本性」、すなわち "human nature" そのものの存在をいっさい否定する論理こそが、「革命」 や 「党」、「国家」 といった大義の前には、親や家族、親しい友人らも売り渡すことが正しい行為だとして称揚された 「スターリニズム」 の論理を生んだのであり(むろん、それだけが原因ではないが)、それが最後に行き着く先はオーウェルの描いた 『1984』 ということになるだろう。
現代の社会が、いわゆるグローバル資本主義を経済としての 「下部構造」 としているとしても、われわれを規定しているのはそれだけではない。経済としてのグローバル資本主義は、自己に照応する複雑な 「上部構造」 を必要とする、それ自体が一つの巨大で複雑なシステムであり、それをもって社会を最下段で規定する 「下部構造」 であると単純にみなすことはできない。
そのような世界の変容は、むろん無視し得ない現実であるし、世界経済をかつてのような相互に孤立した国民経済へと分断することが可能なわけでもない。とはいえ、人間という存在を最終的に規定しているのは、われわれ自身の 「心身」 と 「生活世界」 とでも言うべき具体的な現実ではあるまいか。
まだ若かったマルクスが言った、 「現実的な諸個人による物質的生活の生産」
とは、まずはそのような具体的な世界のことを指しているのであり、それはたんなる経済や経済学の問題なのではない。
あらゆる人間歴史の最初の前提は、もちろん生きた人間的諸個人の存在である。それゆえ、最初に確認すべき事態は、これら諸個人の身体的組織、およびそれによって与えられる彼らのそれ以外への自然への関係である。
『ドイツ・イデオロギー』
ついでに引用すると、マルクスの同時代人であったシュティルナーは、キリスト教の神とは、類としての人間の本質が疎外されたものであり、人間はそのような神として自ら疎外した自己の本質を取り戻さなければならないと説いたフォイエルバッハに対して、彼はただ神の代わりに、「人間」 なるものをその座につけたにすぎないと批判している。
なぜなら 「神の精神」 はキリスト教的見解によれば、また「われわれの精神」 でもある。......それは天にもわれわれのうちにも住む。哀れなるわれわれはその 「住居」 である。そしてフォイエルバッハが進んでその天上の住居を破壊し、そのすべてをわれわれのうちに移そうとするなら、そのときわれわれ ―― その地上の住居 ―― は著しく混雑をきわめるであろう。
人間と社会の 「基底」、いいかえれば、われわれを規定している 「心身」 を含めた人間が有する 「自然」 を承認することは、つまるところ、人間がけっして神ではないということ、そしてまた、たとえわれわれが神を殺したとしても、人間はけっして神にはなれないということを明確に承認し、自覚することでもある。
結論はしごく当然な話になってしまったが、言いたいのはようするにそういうこと。なお、タイトルはむろんゴーギャンの有名な絵からのパクリである。
大文字の「良心」と小文字の良心 2010.05.02 コメント(5)
「自由」についてつらつらと 2010.04.25 コメント(5)
フランクフルト学派の陰謀? 2009.11.10