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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/4 「熱い」虫の息で水浴び=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年2月28日 大阪朝刊) その年の夏、18歳だった彼女は映画の一場面のような光景を脳裏にとどめた。67年も昔のことだが、まるで昨日の出来事のように、くっきりと記憶のスクリーンに映し出せる。 月が高く昇った半夜、寺の裏手にある井戸端で、痩せた男が水浴びをしていた。井戸につるべを落とし、くみあげた水を頭からかぶる。時間が止まったように鈍い動作の後、やがて男は動かなくなった。 移動演劇「珊瑚(さんご)座」の女優だった諸岡千恵子さん(84)は振り返る。 「大変よ、劇団の人が水浴びをしている、と言われて庭に出たのです。丸山定夫さんでした。井戸端に座りこんで動かないので、どうしたのですかと聞くと、体が熱くてかなわないので、水浴びをしているんだよ、と消えるような声で言われたのを覚えています」 広島湾に浮かぶ宮島の存光寺で水浴びをしていた丸山定夫は、爆心地から約750メートルの堀川町の寮で被爆した。寮は壊滅し、丸山が率いた桜隊の8人も、爆風と熱線と放射線に襲われた。諸岡さんら珊瑚座の座員は存光寺に疎開したうえで、8月2日から地方巡演に出ていて無事だった。 8月10日、存光寺に丸山メモが届いた。<タイビにいる。れんらくたのむ。ガン>。紙切れに鉛筆で刻んだ筆跡は本人に違いなく、丸山の愛称は「ガンさん」で通っていた。タイビは鯛尾収容所とみられた。 丸山メモが届くのを待っていたかのように、桜隊の2人が東京から存光寺に駆けつけた。演出家の八田元夫と事務長の槇村浩吉である。2人は召集された男優を補充するために帰京していた。 八田と槇村は、丸山の生存を喜んだ。広島にいた桜隊の9人全員が死亡したのではないか、と八田は覚悟のうえだった。 2人は存光寺を後にして鯛尾収容所に向かうが、丸山は国民学校の収容所に移っていた。2階の教室で毛布にくるまり、虫の息だった。このときの様子を、八田は著書「ガンマ線の臨終」(未来社)に記している。 <外傷は首、背、手、足、八、九ヵ所、裂傷だけで火傷は見当たらないが、首のあたりをしたたかに打っているらしい(略)「このままでは死ぬぞ、と這(は)い出た」「火の追いかけて来ないところへたどり着いて、そのまま倒れてしまったんだね」(略)頬は燃えるように熱い。話す言葉が途切れ途切れになってくる> 12日、丸山は存光寺に運び込まれた。丸山を診た医師の言葉を、諸岡さんは覚えている。 「だいぶガスを吸っておられるので、お気をつけてください」 目に見えない放射線の正体が定かでなかった一時期、市民の間でも「悪いガス」がささやかれた。 だが、丸山が弱り切った体で水浴びを続けたのは「悪いガス」のせいではなく、ひとえに放射線の影響による。原爆放射線は名優の全身をほてらせ、体内の細胞を壊しつくそうとしていた。(次回は3月6日に掲載)
2012年02月29日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/3 生死分けた宮島疎開=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年2月14日 大阪朝刊) 強い近視の目には、おびただしい数の丸太がぷかぷかと川面に浮いているようだった。光っていた。このとき18歳の諸岡千恵子さんは見えたままの様子を声に出した。すると諸岡さんの所属した移動演劇「珊瑚(さんご)座」を率いた乃木年雄が言った。 「いいな、近眼は。あれはみんな人間だよ」 諸岡さんは目を凝らして見入った。真夏の太陽が裸の死体を照り返していた。1945(昭和20)年8月9日のことで、諸岡さんの知る1週間前の広島はなかった。 振り返るに珊瑚座は8月1日に堀川町の寮を出て、宮島の存光寺に疎開する。米軍の空襲を警戒してのことで、同宿の桜隊も同行する予定だったが、珊瑚座が一足先に引っ越した。 8月2日、珊瑚座は芸備線に乗って巡演に出る。 8月6日、岡山での公演後、楽屋で広島の異変が話題になった。「汽車でここに来る途中、広島の空に雲のような白煙が立ちのぼっていたが、何かあったのだろうか」。空襲警報のたびに公演が中止になっていたので、座員たちは気にとめず島根を目指した。 8日になって、広島に新型爆弾が落とされ、被害が甚大だと聞いた。諸岡さんをはじめ珊瑚座の誰もが、桜隊の安否を気遣った。 9日朝、島根から広島に向かう。諸岡さんは回想する。「広島から来る汽車は、全身を焼かれて真っ赤な肉が露出した負傷者が大勢乗っていました」 途中から汽車は動かなくなり、珊瑚座の座員は歩き始めた。1時間ほど進んだところで、軍用のトラックに乗せてもらった。慰問公演で顔見知りになった少尉がいて、便宜を図ってくれたのだ。こうして諸岡さんらは広島市内に入る。 「何もない、焼け野原だけが広がって、あちこちから黒煙があがっているのです。川に浮かんだ死体もそうですが、それは恐ろしいまでの惨状でした」 珊瑚座は宮島の存光寺に戻った。翌10日から乃木たち5人の男性座員が、桜隊の捜索を始める。「広島原爆戦災誌」(広島市編)に乃木は手記を寄せている。 <堀川町の寮の焼け跡は、あたり一面真っ白な灰で、コナ雪が積もったようになっている。(略)私たちは屋敷跡を歩きまわったが、死臭は勿論(もちろん)、人間が焼けたような形跡もない。白い灰が地上一尺ほど平面に拡(ひろ)がって、瓦のカケラ一つ見つからない><たくさんの負傷者が横たわっている防空壕(ごう)を一つ一つ探して回った。「桜隊の人はいませんか!」大声で呼びながら、壕の奥の方まで行ったが、返事がない。探し疲れて、私たちはその日は帰った> 一方、存光寺には重傷の原爆被災者が次々と担ぎ込まれた。「やけどがひどく鼻や口がわからない人たちが、水を水を……と言っているのです。やかんに水を入れて運んでも、飲むことができず、顔から水がこぼれるばかりでした」 諸岡さんは死にゆく人々を前に胸が痛んだ。桜隊の俳優たちの顔がうかび、気がかりでならなかった。(次回は21日に掲載)
2012年02月14日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う2 鑑札手にし巡演の旅=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年2月7日 大阪朝刊) ひとたび戦争になれば、国家は勝手放題に振る舞う。そのことを見せつけられたのが、先の15年戦争だった。演劇にしても、俳優が舞台に立つには、内閣情報局が発行する「鑑札」と呼ばれた俳優登録証明書を必要とした。いわば国家の意に沿わない俳優を、強制的に排除できたのである。 鑑札について、「桜隊原爆忌の会」の中村美代子会長(88)が追悼会で体験を披露している。「俳優座で演じるため、警視庁の特高二課に行きました。指紋を押印させられたうえで俳優鑑札をもらえたのです」 なんともいかめしい限りの鑑札だが、東京都内に住む諸岡千恵子さん(84)は、13歳のときに申請し、2年かかって手にした。 「歌や踊りが好きな浅草っ子でしたから、子役として金語楼劇団に入ったのです」。この劇団は落語家にして喜劇俳優の柳家金語楼が1940(昭和15)年に結成した。「警察から鑑札をもらえたのは15歳のときでした。身長が低いのをいいことに、子役で出演させてもらえたのです」 諸岡さんの芸名は柳みどりだった。新派の俳優、乃木年雄に引き立てられた。あるとき、乃木が言った。「兵隊に取られて芝居ができなくなったら困る。一緒に移動演劇に行こう」 すでに2人の兄が召集され、諸岡さんと2人暮らしの母親は強く反対した。母親の気持ちは理解できたが、それでも舞台に立ちたい。18歳の一念が実り、諸岡さんは乃木を座長とする移動演劇「珊瑚(さんご)座」の座員となる。9人の一座だった。 「東北の軍需工場やお寺などを巡演する途中で、何度も空襲に遭ったのですよ。四国では、特攻で飛び立つ兵隊さんの前で剣劇を披露しました。おすそわけに頂いたおまんじゅうに、特攻と焼き印されていたのが忘れられません」 日本移動演劇連盟から疎開を命じられた珊瑚座は45年6月に広島入りした。丸山定夫の率いる桜隊もすぐにやって来た。丸山の他に園井恵子、仲みどり、島木つや子、森下彰子、高山象三らがいた。両劇団は広島市の中心街、堀川町の民家を寮にした。 「持ち主が疎開していた家屋ですが、とても大きな木造2階建てでした」。諸岡さんは同宿した桜隊に言及する。「おちびさんと呼ばれて、桜隊の俳優さんにかわいがられてね。買い出しで手に入れた野菜を、園井さんや仲さんから分けてもらったものです。炭火で熱くした鉄のコテでパーマをかけあったりもしました」 丸山定夫は慢性の肋膜(ろくまく)炎を患っていた。諸岡さんは述懐する。「丸山さんは、ほとんど寝ていました。部屋の前を通ると手招きをして、紙に包んだあめ玉をくれるのです。優しい方で、誰からも慕われていました」 7月16日、桜隊は島根と鳥取の公演を終えて、10日ぶりに広島の寮に戻った。入れ替わりに諸岡さんの所属した珊瑚座は8月2日から地方巡演に出る。そして8月6日--諸岡さんが岡山にいたとき、米軍により広島に原爆が落とされた。(次回は14日に掲載)
2012年02月07日
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