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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/12 面影消え苦しむ姿「無念」=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年4月24日 大阪朝刊) 憲兵は日本陸軍の兵科の一つで、軍事警察をつかさどった。権限が拡大されると思想弾圧など国民を監視したが、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)によって解体された。 当時、20歳になったばかりの佐野浅夫さんは、1945(昭和20)年8月15日の終戦を過ぎても軍から解放されなかった。幹部候補生を対象に補助憲兵を命じられた。 86歳を迎えた3代目水戸黄門の佐野さんは語るのだった。「GHQのマッカーサー司令官が日本に来るまでの間、兵士が反乱を起こさないように治安を維持する補助憲兵にされたのです。広島に新型爆弾が落とされたと聞いていたので、桜隊のことを気にかけながら軍隊に残りました」 この頃、珊瑚(さんご)座の女優・諸岡千恵子さんは広島で丸山定夫をみとり、神戸で園井恵子と高山象三に会って東京に戻っていた。園井と高山の死去は自宅で知った。広島の同じ寮で一時期を過ごした桜隊の9人が原爆に遭い、仲みどりを除く8人が他界したという。この悲しい事実を前に、諸岡さんは愁嘆にたえなかった。一方で、仲だけは生きていてほしいと祈り続けた。 「仲さんは気性が強く男勝りでしたので、どこかで生き延びているのではと希望を抱きました。でも、原爆に遭った桜隊の人たちが次々と死んでいるので穏やかではなかったです」 実はこのとき、仲は広島から東京・杉並の自宅にたどり着き、東大病院のベッドに横たわっていた。 原爆を落とされた8月6日、仲は崩れ落ちた寮のがれきの下から抜け出して、京橋川にいるところを陸軍の救助隊に助けられた。収容所で死にゆく人たちを目にするにつけ、仲はじっとしていられなかった。 8月8日、仲は破れたシーツに半裸の身を包んで、東京に向かう復旧一号列車に乗り込んだ。この列車には園井と高山も乗っていたが、互いに知る由もない。 仲が東京の実家に着いたのは10日未明だった。容体は日増しに悪化し、丸山が亡くなった8月16日、母親に連れられて東大病院を訪ね、そのまま入院した。 佐野さんは追想する。「ある補助憲兵から、桜隊の女優さんが広島から帰ってきて東大病院に入院している、と聞いたのです。仲さんだとわかったので、会いたい一心で東大病院に駆けつけました」 佐野さんが憲兵の腕章を見せると、東大病院はすんなりと通してくれた。 「お見舞いではなく、仲さんの顔を見たかった。桜隊のことを聞きたかった。その一念です」 病室で見たのは、佐野さんの知っている剛健な仲ではなかった。「面影すらなく、問いかけても、うぅうっという声しか聞けませんでした」 急性原爆症に苦しむ仲の様子について、佐野さんは多くを語らない。口に出すべきではない、と今も思っているのだろう。それほどに原爆は、仲みどりを壊していたに相違ない。 「無念極まりました」 沈黙の後、佐野さんはそう言って唇を引き結んだ。(次回は5月8日に掲載)
2012年04月24日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/11 死んだら芝居ができん=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年4月17日 大阪朝刊) 「実を言いますと、私は散り残った桜です。召集されなかったら、桜隊の10人目の原爆犠牲者となるはずの人間でした」 国民的人気を集めたテレビドラマ「水戸黄門」でおなじみの俳優、佐野浅夫さんが「桜隊原爆忌」の追悼会でマイクを握ったのは06年と07年の8月6日だった。3代目黄門の佐野さんは歴代最長の7年間にわたり水戸のご老公を演じた。 この日はサマースーツに身を包んで、長い間の沈黙を破った。「丸山定夫さん、園井恵子さん、仲みどりさん、高山象三くんの4人と一緒に苦楽座で生活をしていたのです」 苦楽座は桜隊の前身で丸山定夫、徳川夢声、薄田研二らが1941(昭和16)年12月に結成した。俳優志願の佐野さんは日大芸術学部で薄田の息子、高山象三と同期だった縁で、彼に誘われて苦楽座に参加する。 「私は園井さんよりひと回り下の丑(うし)年で、最年少の18歳でした。園井さんから、ウシウシ頑張ろうね、と励まされたものです」。東京都内のホテルのラウンジで、86歳の佐野さんは振り返る。「宝塚時代のファンから頂いた貴重なヨウカンを、園井さんがお裾分けしてくれて食べていたら、仲みどりさんに怒られてね。男の子がそんな甘い物を食べるんじゃないのって。園井さんが正座してお化粧をしている隣で、仲さんはステテコをはいてあぐらをかく威勢のよさがありました。家族的な劇団でした」 舞台にあがると、それぞれがプロの俳優力を発揮した。丸山と園井の「無法松の一生」を舞台の袖で見ていた佐野さんは、役者の神髄を学んだという。 「生身の人間になりきり、ポロポロと涙を流す丸山さんは、人間の情を表現できる俳優でした。相手役の園井さんも丸山さんに応じて、やはり涙をこぼす。2人の演技をそばで見たことが、私の一生の財産です」 佐野さんが苦楽座から引き裂かれたのは45年3月だった。陸軍の甲府連隊に召集されたのである。高山は病気がちだったので地方公演に出るのを許された。苦楽座が桜隊と改称して広島に移動するのは、6月のことだった。 佐野さんは語る。「桜隊は、苦楽座でつけた名前ではありません。当時の劇団は国から花の名前を押しつけられた。俳優座は芙蓉(ふよう)隊、宇野重吉さんは瑞穂(みずほ)劇団でした。高山くんは桜は軍隊のイメージが強いと嫌がっていたが、芝居をするために仕様がなかった」 佐野さんは標準体形だったので、「老け役もできれば少年役もできる」と、男優の少ない劇団にあって期待された。だが召集から逃れることはできない。「お国の赤紙には勝てませんよ」。佐野さんは東京を離れる前に丸山を訪ねた。 「丸山さんは私を見つめて、ぜったいに死ぬなよ、と強い口調で言ってくれました。死んでしまったら芝居ができません。そのことを伝えたかったのでしょうが、当の丸山さんが原爆にやられてしまったのだから、悔しいですよ」(次回は24日に掲載)
2012年04月17日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/10 死しても女優であり続け=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年4月10日 大阪朝刊) 終戦の年の夏、六甲の坂道を新聞紙に包んだ氷を手にして、24歳の内海明子さんは走っていた。宝塚時代から可愛がってくれた園井恵子を助けたい一念だった。 「熱が40度を超したというので額に手を当てると、それは燃えるような熱さでした。もう井戸水くらいでは役に立たないと思いました」。園井の本名・袴田トミから「ハカマちゃん」と言っていた内海さんは呼びかけた。「氷を買ってきてあげるから、ハカマちゃん、待っててね」 園井は小さくうなずいた。ビタミン注射を打った左腕は倍以上に腫れ、皮下出血による紫色の斑点ができていた。 兵庫県宝塚市の内海さんは、67年前に追憶の糸をたどる。「氷屋さんを探し当てても、ひとかけらも手に入らなくてね。断られ続けても、神様どうかハカマちゃんのために氷を与えてくださいと祈りました」。内海さんは句切って言った。「何軒目だったでしょうか、やっと1キロほどの氷を頂いたのです。解かしてはならないと新聞紙にくるんだ氷を持って、坂道を必死で駆け上がりました」 園井がわずかに呼吸を保っていた中井志づさん宅に戻るや、内海さんはガーゼを氷で冷やした。そのガーゼを園井の鼻や口元にあてると、弱々しい声で応えるのだった。「あー、気持ちいいわ」 内海さんはしんみりと続ける。「あのときは、うれしくてハカマちゃんの枕元で泣きました。この言葉が最後になろうとは思いもしませんでした」 8月21日、園井は神戸で帰らぬ人となった。 「心配のあまり脈をとっていたのですが……、ハカマちゃんの脈がかすかになって、プツッと切れてしまいました」 一方、桜隊と同宿した珊瑚(さんご)座の女優・諸岡千恵子さん(84)は東京の自宅で、園井が死んだと聞かされる。「信じられないので、だって神戸で会ったとき、助かってよかったねと喜び合ったばかりよ--と言い返した覚えがあります」 内海さんは園井に薄化粧を施した。「髪は少し薄くなっていましたが、苦しんだ顔ではなく、気品があって美しい、私の知っているハカマちゃんでした」 園井は死に化粧までも映えていた。死してもなお女優であり続けた。 一人息子の高山象三を骨揚げした俳優の薄田研二は、物言わぬ園井に手を合わせると、持っていたスケッチブックを開いた。園井の美しい顔を残したかったにちがいない。 内海さんの夫で、宝塚歌劇団の演出家だった故内海重典氏は「私が愛した宝塚歌劇」(阪急ブックス)に書き留めた。 <薄田さんはデスマスク(死顔)をスケッチしていた。(略)遺体を大八車に乗せ、六甲の焼け跡を縫って火葬場に運んだ。引き手は八田元夫さん、押したのは薄田さんと私だった> 志づさんや内海さんら女性たちは、園井の遺体を乗せた大八車の後に従った。忍び泣きが六甲の坂道に降り注いだ。(次回は17日に掲載)
2012年04月10日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/9 死の気配ごまかした日=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年4月3日 大阪朝刊) 神戸港は夏の落陽を浴びて光っていた。沖合には擬装空母が放り捨てられてあった。付近の船舶はことごとく米軍の空襲で沈没させられたが、子どもだましのおとり船は見向きもされていない。 終戦から4日後の1945(昭和20)年8月19日に桜隊の演出家・八田元夫が、海に開けた六甲山麓(さんろく)に建つ中井志づさん宅の2階から目にした光景である。八田のそばでは、舞台監督兼俳優の高山象三が片息をついていた。 高山は、やっと往診してくれた医者から、法定伝染病のジフテリアと診断された。誤診であるが、急性原爆症とわかる開業医はまずいなかった。 桜隊を率いた丸山定夫をみとった八田だけは、ジフテリアに異を唱えた。しかし、ここは医者の診断に従い、高山を隔離する病院を探した。だが見つからず、高山と一緒に広島から逃げてきた園井恵子を、やむをえず隣の部屋に移した。 ほどなくして園井の部屋から、高熱にあえぐ息遣いが聞こえてきた。8月20日を迎えていた。 宝塚時代の後輩、内海明子さん(91)は中井家で園井に付き添った。園井の本名・袴田トミから「ハカマちゃん」と呼んだ内海さんが、当時を振り返る。 「8月19日までは少し歩けたハカマちゃんですが、20日にはすっかり弱られたので、ずっとそばにいて看病しました。すると中井のおばさまから呼ばれて--象ちゃんが亡くなったの、ハカマちゃんに知られたらいけないので注意してね、と言われたのです。隣の部屋が静かになったのに気づいたハカマちゃんから、象ちゃんはどうしたのと聞かれると、眠っているみたいよと答えて、夢中でごまかしました。あのときは、とてもつらかったです」 八田が珊瑚(さんご)座の女優・諸岡千恵子さんに託した手紙を読んだ高山の両親が中井家に着いたとき、一人息子は火葬場に送り出された後だった。志づさんが「追いかければ間にあうかもしれません。お供します」と両親の背を押した。 だが両親は、息子の顔を見ることができなかった。炎の向こうに幻の息子がいたにすぎない。高山象三、享年21だった。 この間も内海さんは園井のそばにいた。高山の死はふせられたままであった。高山の遺体を納めた座棺を担いだ志づさんの夫らは、園井に気づかれないように静かに階段を下りた。 園井は低声で、内海さんに頼んだ。「阪大病院に連れて行ってくれない」 阪大病院に園井が思い至ったのは、体験したことのない症状に不安をおぼえたからに相違ない。当時、24歳の内海さんは「大好きで、尊敬するハカマちゃん」を助けてあげたいと痛切に思う。 だが園井の容体と当時の状況からして、いかんともしがたかった。 「お熱が下がったら行きましょうね」 太く腫れた園井の腕を、内海さんは何度もさするのだった。(次回は10日に掲載)
2012年04月03日
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