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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/8 元気だった姿、面影なく=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年3月27日 大阪朝刊) 移動演劇「桜隊」を率いた丸山定夫の絶筆は手紙だった。舞台監督兼俳優を務めた高山象三の両親に宛てて、原爆に遭遇する1週間前に書いた。<父上様 母上様 ご機嫌いかがですか>に始まる。<その後大きなブーブー(空襲)は来ませんか。(略)象ちゃんはつくづく私一生の掘り出しもの--幸福でした>。<七月二十九日 ガン>と結ばれている。 高山の父親は俳優の薄田研二で、丸山と一緒に苦楽座を創立した同人である。母親は面倒見のよさから、新劇人の間で「薄田のママ」と慕われていた。 一人息子の高山は、演出家を目指して日大芸術学部に進んだ。桜隊では舞台監督や演出助手、さらに少ない男優の役を補っていた。原爆に襲われたとき、最年少の21歳であった。 桜隊の演出家・八田元夫は広島で丸山と永別した後、神戸の中井志づさん宅で、捜していた園井恵子と高山に出会う。8月19日のことで、著書に記している。 <これが一月前、元気な姿で別れたあの象三なのだろうか。頬はぐっとこけ落ち、鼻の穴は何やら赤黒いものがつまり、血の気を失ってうすら開いた口元が苦しそうに息づいている。思いなしか額がうすくはげ上がっている。枕元には紙と鉛筆が投げ出され、たどたどしい筆跡で「水がのみたい」と書いてある。(略)どす黒く血の塊がつばと一緒にはき出された。喉が赤くただれ、その喉仏の周りに赤黒い血がべったりとねばりつき、歯ぐきからも黒血が吹き出している>「ガンマ線の臨終」(未来社) 八田に同行していた珊瑚(さんご)座の女優・諸岡千恵子さんは手紙を託される。「これを持って東京の世田谷に行ってほしい」。高山の両親に宛てた、息子の重篤を知らせる手紙だった。 諸岡さんは神戸から東京に向かう。「復員の兵隊さんで汽車は満員だったのですが、慰問公演をした部隊の兵隊さんがいて、窓からぎゅうぎゅう詰めの車内に押し込んでくれたのです」 84歳を迎えた諸岡さんは「生きているのが不思議です」と語る。幸運に恵まれたのも事実で、東京駅に着いたとき、兵役を解かれた長兄を見つけた。「事情を話したら、ぼくが手紙を持って行くよと助けてくれたのです」。諸岡さんは続ける。「実家に帰ると、おまえ足があるんだね、と母親が真っ先に聞くのです。広島の状況からして諦めていたのかもしれません」 そのころ中井家では、食べ物が喉を通らなくなった高山に、桃を搾って口にふくませていた。志づさんの夫が神戸製鋼の幹部社員で、工場で分けてもらった貴重な2個の桃だった。 一方、高山と中井家に駆け込んだ園井も変調を見せ始めていた。園井の看病を続けた宝塚の後輩、内海明子さん(91)は話す。「あれほど元気だったのに、血便、血尿、発熱が見られるようになり、とうとう床につかれてしまって……」 原爆から放たれた放射線は残忍きわまりなかった。(次回は4月3日に掲載)
2012年03月27日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/7 終戦「芝居ができるわ」=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年3月20日 大阪朝刊) 宝塚歌劇団から舞台女優を目指して桜隊の丸山定夫に師事した園井恵子は、岩手県の松尾村(現八幡平市)で1913(大正2)年8月6日に生まれた。32歳の誕生日の朝、原爆に見舞われたのだから、非情な運命である。だが園井は一時、運命の女神に救われたと思っていた。「六甲のママ」と慕った神戸の中井志づさん宅に飛び込んだとき、園井は真っ先に口にしている。「私、助かったのよ、助かったのよ」 当時の園井については、結婚して中井家の近くに住んでいた元タカラジェンヌの内海明子さん(91)が詳しい。加古まち子の芸名で宝塚の舞台に立った内海さんは、7歳上の園井から妹のように可愛がられた。園井の本名が袴田トミなので、「ハカマちゃん」「アーちゃん」と呼び合い、園井が中井家を訪問するときは決まってお供をしている。 内海さんは「大好きなハカマちゃん」の記憶が薄れることはなく、むしろ鮮明になってきたという。 「広島のハカマちゃんが心配で中井のおばさまを訪ねると、浴衣を着たハカマちゃんが出てきて、ニコニコしながら元気に私を迎えてくれたのです。それも無傷ですから、抱き合って無事を喜び合いました」 実は--広島に原爆が落とされる直前の7月末、園井は公演の合間をぬって中井家でくつろいだ。広島に戻る8月1日、内海さんは相談を受ける。 「私が広島出身なので、よい疎開先はないだろうかって、ハカマちゃんに聞かれたのです。お寺を紹介したのですが、すでに大学生が借りていました」 そうした経緯もあって内海さんは園井を案じていた。8月8日に中井家で再会できると、やっと安らいだ。「洗髪したら髪の毛が抜けたので、中井のおばさまから、髪に触らないようにと言われて、そのことをよく守っていました」 一方、園井と助け合って、広島から中井家にたどり着いた舞台監督兼俳優の高山象三は衰残の身だった。 「象ちゃん、大丈夫、と何度も声をかけて、ハカマちゃんは象三さんの看病に懸命でした。たしか8月11日だったと思います。歩けない象三さんを荷車に乗せて、中井家の人たちと病院に連れて行ったのですよ、ハカマちゃんは」 東北人の粘り強い性格にもよるのだろうが、このとき園井には、21歳の高山よりも体力が残っていた。 終戦を迎えた8月15日、内海さんは園井の輝く瞳を見た。「これで思いっきり、お芝居ができるわ。そう言って、ハカマちゃんは心の底から喜んでいました」 8月17日、園井は故郷の実母に宛てて、神戸から希望をこめた手紙を出した。 <お会いしたく、たまらなくなりました。ほんとうに九死に一生を得たとはこのことです。しかも八月六日、生まれた日に助かるなんて、ほんとうに生まれ変わったんですね。健康に立ち返る日も近いでしょう。そうしたら、元気でもりもりやります。やりぬきます。母さん江>(骨子)(次回は27日に掲載)
2012年03月20日
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『週刊新潮』2012年3月22日号「墓碑銘」欄上記拡大画像 「オリジナルサイズ」をクリックで拡大
2012年03月15日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/6 空爆後の神戸で再会=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年3月13日 大阪朝刊) 大阪行きの列車が広島駅を出たのは午前3時過ぎだった。崩れ落ちたホームに詰めかけ、始発を待ち焦がれた乗客で車内はあふれた。1945(昭和20)年8月19日のことである。 桜隊の演出家・八田元夫は、珊瑚(さんご)座を率いた乃木年雄から頼まれて諸岡千恵子さんともう一人の若い女優を連れていた。 東京都内の自宅で、84歳の諸岡さんは追想する。「夜になると、焼け野原のあちこちで青白い火がぽっぽっとあがるのです。八田さんから、死体の燐(りん)が燃えているんだ、火の玉だよと聞いて、びっくりしました。怖いというより、多くの死体が埋葬されていないのだ、と思い胸が痛みました」 広島を後にした列車の車内は、復員の兵隊が目立った。八田の著書によると<汗と垢(あか)と埃(ほこり)と脂と革の息でむんむんとむれ返っていた>。太陽が海から昇り、車窓が光り始めたとき、八田が突然言った。 「一緒に神戸で、園井くんを捜そう」 根拠はあった。桜隊の寮と同じ町内会の理髪店主から証言を得ていた。「広島駅の方に、女の人と若い男の人が、肩を抱き合うようにして逃げるのを見ました。阪妻さんの無法松に出ていた女の人です」 園井恵子の名を高めたのが、阪東妻三郎と共演した映画「無法松の一生」だった。八田は男女を、園井と演出家を目指す舞台監督兼俳優の高山象三の2人だと推断していた。 諸岡さんは語る。「園井さんが宝塚歌劇団のときから家族同様にしてもらっていたお宅が神戸にあり、そこにいるのではないかと勘が働いたそうです。私は大阪で乗り換えて東京に戻る途中でしたが、八田さんに従いました」 桜隊の演出家と珊瑚座の2人の女優は神戸で降りた。米軍のB29爆撃機に27回も空爆を受けた神戸は、無残な焼け跡が広がっていた。園井が「六甲のママ」と呼んだ中井志づさんの住まいは、六甲山に向かう坂道の途中にあった。 亡き中井さんは北海道庁立小樽高等女学校の卒業生で、園井の先輩にあたる。こうした縁もあり宝塚時代から園井を支援していた。 八田が中井家の玄関を開けると、突き当たりの階段のそばに園井は揺れるように立っていた。八田の勘は的中したのである。 園井と高山は東京に向かう復旧一号列車に乗り込んだ。神戸にたどり着いたのが8月8日の昼下がりだった。園井は道端で拾った男物の地下足袋と短靴を別々の足に履き、素足の高山は藁(わら)を巻きつけていた。 「生きていたんだね、よかったね、ほんとによかった、と抱き合いました」 このとき高山は衰弱が著しく、高熱に浮かされて2階に寝ていた。園井は八田と諸岡さんに「ガンさんは?」と、桜隊の丸山定夫の安否を問うてきた。死んだとは言えず、八田は口をつぐんだ。諸岡さんも黙っていた。園井は察したようで、その夜、「ガンさんの最期を聞かせて」と、ぽつりと言った。(次回は20日に掲載)
2012年03月13日
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中村美代子さん、2012年2月28日ご逝去。(家族葬とのことで、発表を遅らせました)中村さんは桜隊原爆忌の会の会長として、出向く先では原爆と丸山定夫についてお話しされ、8月6日の会には多くの人に声をかけて誘い、と、熱意をもって活動していただきました。「私にはこれくらいしかできないから」と言って…。私たちにとってだけでなく、大変得がたい存在でした。「丸山定夫を殺した原爆が憎い! 原発が憎い!」(2011年桜隊原爆忌で発言されているときの表情)亡くなったと聞く2月28日の前日昼に電話をもらいました。3月4日に開く世話人会の確認のためでした。29日には、電話の後投函された中村さんからのハガキも届きました。会を風化させないよう、今後どのように運営したらよいか、方針を打ち出すための会議なので、中村さんも真剣に後釜を考えなければならないと言っていた翌日のことなのですから、無念です。丸山定夫を熱く語る人がまた一人減りました。舞台を観た人もほとんどいなくなっていってしまいます。ご冥福を祈るしかありませんが、きちんと後継方法を考えるのが、今の私たちの仕事です。【中村美代子さん略歴】 俳優・元俳優座、新劇俳優協会理事、桜隊原爆忌の会会長1923年生まれ。芸術小劇場、俳優座を経て現在フリー。92年、清水邦夫『冬の馬』で紀伊国屋演劇賞受賞。舞台:『三文オペラ』、『ピーチャム夫人』『女の平和』他。映画:『人間の条件・完結篇』、『赤ひげ』、『金環蝕』、『死の棘』他。TV:NHK『繭子ひとり』、『はね駒』他。中村美代子〈Wikipedia〉【注】Wikipediaに、生年1924年とありますが、本人と話した記憶(大正12年生まれと聞いていました)からご家族に確認し、1923年の誤りと判明しました。
2012年03月07日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/5 「生きろ」叫び続け…=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年3月6日 大阪朝刊) <亡(ほろ)びるな 亡びるな 生きろ/起きろ 起きろ 起き得るかぎり/生き得る限り 生きろ 再び生を楽しめ>(詩「亡びるな」の冒頭) 新劇の団十郎と呼ばれ、桜隊を率いた丸山定夫がこの詩を書いたのは23歳のときだった。 それから21年後の1945(昭和20)年8月15日、丸山は宮島の存光寺でふせていた。急性原爆症で苦しむ姿は痛々しかった。 丸山に食事を運んでいた珊瑚(さんご)座の女優、諸岡千恵子さんは枕元で声をかけた。 「戦争が終わりましたよ、丸山さん」 すると丸山は、か細い声で応じた。「脚本を検閲されずに、好きな芝居ができる世の中になったんだね、よかったねぇ」。声は途切れながらも、丸山は希望をつないだ。「この体を治して、いい芝居をやってみせるよ」 このとき丸山は歯茎から血を出し、頭髪もかなり抜け落ちていた。 2日前には、桜隊の5人の女性が白骨で発見された。丸山の記憶から、事務長の槇村浩吉や珊瑚座の座長、乃木年雄らが広島市内の寮の焼け跡を掘り返して見つけたのだ。島木つや子(22)、森下彰子(23)、羽原京子(23)、小室喜代(30)、笠絅子(けいこ)(41)。笠と島木は母子、小室は槇村の妻で衣装係兼世話人として加わっていた。 丸山は演出家の八田元夫にうめくような声で言っている。 「こんなにまでやられて、なぜ日本は手をあげなかったのだろう--」 原爆により骨と化した5人の通夜は存光寺で営まれた。丸山は遺骨に手を合わせて震えていた。諸岡さんたちが隣室に引き取ると、丸山の号泣が夜の底を揺さぶった。 このころ宮島では、運びこまれた重傷の被爆者が次々と亡くなっていた。「火葬場がないうえ、ひつぎの数も限られたので、亡くなった人は果物箱に折って入れるのです」。諸岡さんは18歳の夏を振り返る。「高く積まれた箱からは死臭が漂っていました」 空腹にあえぐ諸岡さんが足をとられて、ふらふらっと箱の山に近づいたとき、地元の人から注意された。「だめよ。水が流れているでしょ、死体の水よ」。諸岡さんは思わず空を仰いだ。「人間は死んだら、水になるのだろうか」 日付が8月16日に変わった。<生きろ>と胸のうちで何度も叫んだにちがいない丸山は、体力を使い切っていた。妻の骨を拾った槇村は「桜隊原爆忌の会」が作製したリーフレットに「丸山定夫の最期」を残した。 <高熱は朝から続いているし、シャックリは病人を苦しめ続けていた。ガンさんには、庭にとび出して井戸で水をかぶるような体力は、最早(もはや)なかった。時に、耐え切れず、水を一口飲んでは噎(むせ)んで体力を消耗した。(略)女医さんが来てくれた。「ご臨終です」と云(い)って、時計を見ると午後九時三十分だった> 享年44、丸山定夫の人生は永遠に幕を閉じた。(次回は13日に掲載)
2012年03月06日
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