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「我が心の石川啄木」(47歳)色あせて手垢やシミがついた一冊の本「啄木詩歌集」。それは、中学生になりお小遣いを貰うようになってから、生まれて初めて自分で買った本である。あれからもう三十五年も経ってしまった。 啄木との出会いは、小学五年生の頃だったと思う。確か、彼の伝記を読んだのがきっかけだったが、その生い立ちよりも、そこに書かれていた短歌が私の心をわしづかみにした。 私はノートに短歌を書き写し、暇さえあれば口ずさんでいた。どの歌も、なぜか心にジンときた。まだ子どもだった私が、彼の何に共鳴していたのか今でも不思議な気がするが、それらの歌は私がこれから踏み入れようとする青春や、大人の世界の悲しさや切なさを予感させ、同時に強い憧れも感じさせたのだろう。 どうしても彼の書いたものを全て知りたいと思い、私はその詩歌集を買ったのだった。 それには、「一握の砂」「悲しき玩具」と、詩集「あこがれ」が収められていたのだが、詩の方は言い回しや言葉が古臭く、どうも馴染めなかった。 短歌のわかりやすさとのギャップが大きいこともあり、詩は一読して(難しい)と見捨て、ひたすら短歌だけを恋し続けた。思えばあれは、私の初恋だったのかもしれない。 中学生になり密かに憧れる人もいたが、それが自分の真情なのか啄木の心情なのか、今ではよくわからない。ひょっとすると、啄木の心に重ね合わせるために、似た雰囲気の人を求めたのではないかとさえ思う。 そのせいか、私の現実の初恋は何とも歯切れが悪く、その人のどこがいいのかもぼやけたものになってしまった。私の啄木熱は、何と高校生になっても続いていた。 大人になって啄木の現実生活を知るようになり、その身勝手さや、あまりの自己中心性にショックを受けもしたが、彼の歌を好きなことには変わりはなかった。 今でもこの詩歌集を開くときには、「初恋のいたみを遠く思い出ずる日」になり、胸がキュンとしてしまうのである。思春期に石川啄木を好きになった人は多いのではないだろうか。でも今では、彼も随分と過去の人というか歴史上の人物に近くなってしまったので、若者では知らない人も多くなってしまったかもしれない。しかし彼の短歌は、口語体と言うか話し言葉に近いものなので、現代人にもすんなりと理解できる歌である。そして、彼は若くして亡くなったこともあり、まさに思春期のままに生きて詠んで旅立ったため、はっきりいって大人の歌はない。周囲にとってははた迷惑な人だったと思うが、それがあってこそのあの歌の数々と思うと、何とも複雑な気持ちになる。もし彼が長生きして、沢山の人達に愛され支えられてこその人生であり命だと知った時には、どんな歌を詠んだのかなと思ったりもする。でもその時は、彼の短歌の魅力は失われ、つまらない普通の歌になっていたのかもしれない。ともあれ私は、啄木の短歌のおかげで、自分の心を言葉で表現することを知ったような気もする。石川啄木の生涯と文学 26歳の生を二冊の歌集に凝縮
2024年03月14日
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「人形ではないんだから」(47歳) テレビの中で中学生が語っている。「誰にも本音は出せない。僕はいい人間でいたいから。親に? 話せませんよ」。「キレそうになることはよくある」。 続発する中学生の事件をテーマに、中学生にインタビューした時の一場面だ。それを見ながら、(私もそうだった)と、昔の自分を思い出していた。 あの頃は、「出来のいい人形」として生きるのが良いのだと考えていた。良い人間とは多数の人が期待する人のことであり、他人の期待に応えることが良い生き方なのだろうと。 親にとっての娘、妹にとっての姉、先生にとっての生徒、友人にとっての友達。自分の描くそれぞれの役柄の理想像に、少しでも自分を近づけたいと願った。だから、心の中の不満や怒りは抑えるべきものだった。 醜い本音を少しでも見せてしまったら、みんなが失望して嫌われるような気がしていた。良い人間になるためにそれらしく役割を演じていたら、いつか本当にそうなるのではないか。そんな私は、多分「いい子」だったはずだ。 しかし、青春はそんなに甘くはない。人の期待に応える人形になりきれるはずはなく、「キレル」時も必ずある。私もある日、母に対してキレた。 その頃の私は栄養士になるはずで、バタフライナイフではないが自分専用の「牛刀」を持っていた。しかし、幸か不幸かそれを料理以外に使うことが発想できず、ブルブル震える唇を刃に変えて、積もり積もった思いを母にぶつけていた。「私はお母さんの思い通りには生きたくない!」。 それから何度もキレながら、そのたびに「母の期待する娘」や、「夫の理想とする良妻」「子どもにとっての賢母」からの脱出を図ってきた私は、キレることが悪いとは思えないし、本音も醜いものばかりとは思えない。「もっと本音を大事にしようよ。時にはキレてもいいんだよ。人形じゃないんだから」。 テレビの中の少年達に向かって、私は思わずつぶやいていた。これを書いた頃、「バタフライナイフ」を使った少年の殺傷事件があったのだろう。最近でもそのような事件はあるのかもしれない。しかし、近年は少年犯罪は減っているようで、少年院の収容者数も減少していてガラガラだということも保護司の人から聞いた。それは良い傾向なのだろうとは思うが、少子化の影響もあるだろうし、青少年の自殺が多いということは、不満や怒りが他人へではなく自分に向いているのかもしれない。あるいは、あまりにも周囲に合わせて生きているために、自分自身の本音がどこにあるか見失っているのかも。さて、本当のところはどうなんだろう。
2024年03月10日
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「悲しき独白」(47歳) ボクがここに来てから、ずいぶん経ってしまった。確か、夏の終わりだったと思うけれど、今はもう雪がチラついている。きっとこのまま雪に埋もれてしまって…、それからどうなるんだろう。ボクを可愛がってくれたあの少年は、もうボクを忘れてしまっただろうか。ボクだって、彼の顔をはっきりと思い出せなくなってしまったのだから。 ボクは今年の春、高校進学のお祝いとしてプレゼントされたピカピカの自転車だった。 彼のおばあちゃんが、乏しい年金の中から彼に買ってあげたんだ。彼もとっても喜んで、ボクとの通学を楽しんでいたんだ。 それからしばらくして、彼はボクに乗って写真館に行った。お母さんに頼まれたお使いだった。その時彼は、ほんのちょっとだからと鍵をかけなかったんだ。ボクはあっという間に、通りがかった二人組の少年にまたがれて、少し遠くのゲームセンターまで連れて行かれた。 それからは、ずいぶんいろんな人に使われた。スーパーで買われたボクには防犯登録がされていなかったし、マジックで書かれた少年の名前なんか、すぐに消されてしまった。きっとあの少年は、書いた名前を手掛かりにしてあちこち探し回ってくれたはずだけど。 ゲーセンから駅、駅からカラオケボックス、そこからパチンコ店、そしてスナック。随分色々走らされた。 ある時、一瞬あの少年が見つけてくれて目を輝かせた時があった。けれど彼は、首を傾げてちょっと考えてから通り過ぎてしまった。あの時ほど、声を出せない自分が悔しかったことはない。 今ボクは、町はずれの無人駅の自転車置き場にいる。半年のうちにあちこち乱暴に走らされて、汚れてガタガタになってしまった。ボクはもう誰にも見向きもされなくなってしまった。 ふと周りを見ると、同じように錆びついた自転車が何台もある。たまに持ち主と一緒に走り出す仲間を見ると、本当に羨ましくなる。 もうすぐ冬。雪に埋もれてしまうと思うと、むしょうに寂しい。これを書いたのは、私自身がこの少年のような不注意で自転車を紛失した経験があったからだ。私は自動車に乗らないので、仕事をしていた時も自転車で通勤していたし、仕事でも使っていた。だから、うっかりと鍵をかけずに乗り逃げされて、一度は防犯登録で短期間でみつかったが、もう一度は半年以上経ってから警察から電話があった。だがその時は、すでに別の自転車を買っていたし、何よりも部品を取り外されていて乗れる状態ではなかったようなので、警察に廃棄処分をお願いした。仕事で高校生たちと付き合っていた時、彼らの仲間たちの中では、鍵のかかっていない自転車をシェアサイクルのように使っていると話すのを聞いたことがある。呆れた私は、「それは泥棒と同じだよ。やめなさい」と注意すると「だって、オレだって盗られたことがあるし…」などとのたまう。その罪悪感のなさにガックリしながら私は叱った。「盗られたからって盗っていいわけないでしょ! 何を言ってるのかわかってるの」その時は少しは反省したような顔をしていたけれど、今どきの高校生が万引きするっていうのもわかると思ってしまった。今でも、冬になるとあちこちに乗り捨てられた自転車が雪に埋もれている。きっと、このエッセイに書いたような運命の自転車ではないか。そんな自転車を見ると、とも悲しくなってしまう。
2024年03月09日
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「吹雪の中で」(47歳) 冬になると、吹雪の中でもがく自分を思い出す。私が通った中学校は、家から4キロの距離だった。 35年前の冬の田舎道は、人の足跡や馬橇の跡だけが道の痕跡だった。近所に同級生のいない私は、いつもその雪道を一人で歩いて通学した。いくら寒さが厳しくても、雪が降っても、吹雪かなければ夜道でもへっちゃらだった。小学一年生の時から、私は一人で歩いていたのだから。 しかし中学生になり、生徒会やクラブ活動で下校時間が遅くなると、身の危険を感じることも多くなった。最初から吹雪いていたなら、遠回りして除雪された道を帰るのだが、途中で吹雪き始めた時が大変である。 足跡だけの道は吹雪ですぐにかき消され、道路脇の用水も雪に埋もれてまっ平に見える。用水に落ちる危険を避けるためには、道をはずれてもそこから離れなければならない。つまり、踏み固められていない雪原を、腰まで雪に埋まりながら一歩一歩這いずるように歩くしかない。 風と雪は容赦なく私に吹き付け、周りの景色を失わせ、方向感覚さえも狂わせてしまう。鞄を持つ手は次第にかじかみ、感覚もなくなる。雪と夢中で格闘しているうちに手袋が抜けてしまい、ハッと気付いて必死に探し回った時もある。 雪の中でもがくうちに方向がわからなくなり、(このまま動かずにいたら、死ぬかもしれない)と思いつつ、じっとしている心地良さをボンヤリ楽しんでいた時さえある。 しかし、いつも私は無事に帰ることができた。ジッと待っているとフッと風が止み、その一瞬の静寂の中に我が家の灯りが見えたり、(もうダメだ)と泣きそうになった目の前に、父の持つ懐中電灯の光が突然現れ、(助かった!)と安堵したり。 私が多少なりとも孤独に強く、あまり人に頼ろうとせず、(諦めずに努力していれば、きっと道は開けるさ)という楽天性を持つようになったのは、あの頃の体験のおかげかもしれない。吹雪の体験については、この時に書いたエッセイが下敷きになって何度かブログで書いている。今ではこのような体験をする子どもは少ないと思うが、時々大吹雪で亡くなる人が今でもいる。その多くは、自動車が立ち往生して排気ガスが車内に入っての中毒死や、「あともう少しで家だ」と車を乗り捨ててと歩き出し、方向感覚を失っての雪倒れか。天候の急変はよくあることだ。また、最近は自然も温暖化のせいか従来とは変化してきて、目につくのは雪山での遭難や、スキー場のバックカントリーでの遭難や雪崩事故。いつの時代も、自然を侮ってはいけないと思う。
2024年03月07日
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このブログを訪問してくださっている方、毎日過去のエッセイばかりで申し訳ありません。私にとっては意味のあることなのですが、もう26年前のものなのでつまらないことでしょう。本当にゴメンナサイ。「センセイ」(47歳) 人間はたくさんの人と関わりを持ちながら生きている。だから、つきあう相手によって呼ばれ方も違ってくる。 私の場合、「みらい」「みらいちゃん」「〇〇(本名)」「○〇さん」「先輩」「奥さん」「◇◇君のお母さん」などなど。たまにではあるが、「山△(旧姓)のお嬢さん」「山△の孫さん」なんていうのも登場する。 私の旧姓は「山△」であり、曾祖父の代にこの地に住み着いたので、お年寄り世代にとっては「山△の孫・娘」になる。さらに「先生」と呼ばれるのは、若い頃に障害幼児の療育指導の仕事をしていたためである。 どの呼ばれ方が好みかといえば、やはり私自身を表現する「みらい」とそのバリエーションだが、その他の呼ばれ方も仕方がないことと割り切っている。 しかし、どうしても不快感を覚えるのは、最近「センセイ」と呼ばれる時だ。三年前から「主任児童委員」という民生児童委員の仲間入りをしてからのことである。 名称は偉そうだが、実際は公的ボランティアであり、何の権限も資格も無いに等しい。さらに、新しい制度によるものなので社会的認知度も低いから、学校や教育関係機関を訪問する時には、プリントゴッコ製の名刺を持参する。 すると、なぜか学校や教育関係者は私を「センセイ」と呼ぶのである。(それも役職が上になるにつれてその傾向が強い)。「教育者ではないので『センセイ』は勘弁してください」と頼むのだが、どうも「センセイ」が口癖になっているようで、改めてくれない。 学校などとの付き合いが深まるにつれて、私の「先生」への失望感は深まるばかり。責任回避、熱意や子ども達への共感性の薄さ、慇懃無礼な言葉の裏の素人軽視…、などなど。(そんなアンタにセンセイとは呼ばれたくない!)と、心の中で毒づくこともしばしばである。というわけで、「センセイ」だけは返上したい敬称である。この当時は、まだパソコンを使っていなかったようで、名刺もプリントゴッコだったんだなと懐かしい。私は仕事をしている時も、プリントゴッコ製の名刺を作っていた。原稿はワープロで作っていたと思うし、これらのエッセイの下書きもワープロだった。このエッセイの講評には、「前半と後半も面白いので、もったいない」と書かれていた。どちらかのテーマに絞って書き込んだ方が良いようなことだったが、私はテーマの「先生」を書くために前半を書いたつもりだったから、(まあ、仕方ないよね)と感じたような気がする。
2024年03月06日
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「放 火」(47歳) ある医師の話によると、てんかんの発作の時に放火をしてしまう人がいるという。発作時なので、本人には当然放火の意識も記憶もない。もちろん、きちんと治療を受けていれば問題はないのだが、その病気を見つけられないことも大いにありうる。 それにしても、(どうして発作が放火につながる?)と不思議だったが、よく考えればわかるような気もする。発作で意識が薄れた時期には理性や思考のタガが緩み、無意識のうちに眠っている欲望や嗜好が浮上するのではないか。そう考えた時、ふと幼い頃を思い出した。 私は火を見ているのが好きな子どもだった。だから、お風呂を沸かす手伝いは嫌いではなかった。薪を焚口に入れて、それが燃えてゆくのを時間を忘れて見入っていた。パチパチと音をたてて燃え上がる炎の中に、様々なものを見ていたような気がする。 一瞬たりとも動きを止めないゆらめきの中に、いつしか自分が入り込み、やがて燃え尽きて白い灰になってゆくまで見つめ続け、「何ボヤ―っとしてるの!」の母の声に、ハッと我に返ることもしばしばだった。 「マッチ売りの少女」や芥川龍之介の「地獄変」も、炎を見つめる時に覚える一種の恍惚感を描いたものだと思うが、私にとっては単なるストーリー以上の興味をひくものだった。私にも、ひょっとするとそんな傾向があるのだろうか。 そんな私も、いつしか炎への並々ならぬ関心は卒業はずだったが、過日の「発作→放火」の話は、突拍子もないことを連想させた。7年前、私の勤務する事務所が不審火で全焼し、随分調べたようだったが原因はわからぬまま。さらに新事務所になってからも二回のボヤ騒ぎがあったが、結局事件は迷宮入りとなった。 「放火説」に尾ひれのついた噂が飛び交い、そこに働く私達は不安と不快の波に翻弄された。年月と共に、悪夢のような日々も過去になりつつあったのだが…。 万一私が「隠れてんかん」であったとしたら…。まさか…?講評には、「こんなサスペンスタッチの作品が書けるとは」なんて書いていただいたが、ここに書いてあることは事実である。今、てんかん発作と放火の関係についての情報があるかどうか探したが、まだ見つからない。随分前のことなので、てんかん発作と放火についてはエビデンスもないのかもしれない。だとすると、てんかんを患っている方には申し訳ないことなのだが、この時はこのように思ったということでご容赦いただきたい。
2024年03月05日
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「正しい『秘め事』を!」(46歳)最近は「不倫」ばやりだ。現実にはどれほどあるのかわからないけれど、渡辺淳一氏の「失楽園」が大ヒットしていることからも、男女を問わず「秘め事・不倫願望」が強まっているかに思える。思えば「マディソン橋」あたりからそんな兆候があったような気がする。 渡辺氏が書きたかったのは、「とことんまでの愛の追及」だったようだが、社会現象としてのこの「秘め事ブーム」は、何か変だと思うばかりだ。「秘め事」は、倫理観というか罪の意識があってこそのものであると思っていたのに、テレビのワイドショーや週刊誌を見ると、まるで秘め事の告白大会のようだ。誇らしげに言いふらしたり、自慢したいようにすら思える。 人に知られたら誰かを傷つけると苦しみ、誰かを守るためには絶対口には出せないと悩み、外に出してしまったら色あせてしまいそうだから大切に秘めている…。だからこそ「秘め事」には一種の甘美さも合わせ持っていたはずなのに。 テレビでレポーターが聞く。「ご主人に悪いとは思いませんか?」画面にぼかしこそ入っているが、出演者はしゃあしゃあと答える。「全然思いません。彼と会うことで自分が満足でき、かえって夫や家族に優しくできていいと思っています」。こんなアッケラカンとした答えを聞くと、(アリャリャ…)とただ呆れるばかりだ。その上、「二人の男性を共に愛しています」なんて、失楽園じゃなくて失笑園じゃないか。 二人を愛することもあるだろう。でも、それには苦しみも伴うのではないか。匿名とはいえ得々と情事を語るなんて、これはもう秘め事ではない。援助交際の名で売買春人たちと同じではないか。 フェミニズムが求めてきた女性の解放は、今や女性自身によって裏切られている。女性の仲間達よ、お願いだからみんなで正しい「秘め事」を取り戻しましょう!(うん、わかった。でもどうやって?)これを書いた当時の私は、ひょっとすると今よりも規範意識が強かったのかもしれない。今では、テレビのワイドショーは面白くするためのやらせもあるし、テレビに出る人は受けを狙ってのリップサービスも多いと思っているから、面白半分に見ていてあまり腹も立たなくなっている。いちいち腹を立ててしまうのは、今では政治家がらみのことだけになってしまった。小説も映画もテレビドラマも、私が面白いかどうか、好きか嫌いかだけであり、社会現象になった時には「なぜこれがそれほどに支持されるのか」と考えてしまう。映画も小説も、事前にネットで調べられるので、自分の関心の持つものを選ぶようになっている。かつてのように「流行っているから」ということで選ぶことはほとんどない。残念ながら、恋愛に関してはいくら社会的ルールや倫理観で人を縛ろうとしても、それはあまり有効に働かなかないどころか、かえって燃え上がらせてしまうということも事実だ。それはどうしようもないことのようなので仕方がないけれど、やはり人として周囲の人への責任感だけは見失ってほしくないと願う。
2024年03月04日
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「遥かなる道草」(46歳) 長男は道草が大好きだった。小学校に入るまで一人で歩く体験がなかったせいか、未知の道を行く冒険心が俄然ふくれ上がったらしい。 小学校まではゆっくり歩いても20分。交通量の多い道路もあり、通学路は決められていた。もちろん、道草はせずにまっすぐ帰るように指導されていた。 それなのに、彼がちゃんと帰宅したのは最初の2~3日だけで、日に日に帰宅時間が遅くなる。何しろ最初の子どもだし、それまで保育園に預けていて社会体験が不足している面もあり、私は毎日心配で仕方がない。 好奇心旺盛で警戒心の少ない息子が事故にでも遭ったらと、つい考えてしまう。「決められた道を歩かなくちゃダメ。途中で遊ばないで、まっすぐ帰りなさい!」と、何度厳しく注意しても効果がない。 叱られると神妙な顔で、「ごめんなさい。明日はちゃんと帰る…」と反省しているようなのだが、翌日になると約束をケロリと破る。 途方に暮れた末、私は泣き落とし戦術に変えた。「お母さんね、あんたが帰るまで心配で心配で泣きそうになるの。遊びに行くのなら、一度帰ってからにしてちょうだい」と、多少オーバーにべそをかくような調子で哀願した。「お母さん、ごめんね。ぼく、学校を出る時には(今日はまっすぐに帰ろう)と思うんだよ。でもね、途中で違う道を見つけたら、どうしてかわからないけどお母さんのこと忘れちゃうんだ。どうして、こんなに一杯違う道があるのかなあ」。私には返す言葉がなかった。 あれから16年、大学卒業を間近にしたある日、長男から久しぶりに電話が入った。彼は口ごもりながら、申し訳なさそうに言う。「お母さん、悪いんだけどあと一年就職しないから…。卒業はちゃんとするし、仕送りももういらない。でも、自分がやりたいこと見つけるまで、もう少しあちこち見て回りたいんだ。今年中にきっと仕事を見つけるから」。 多分こんなことになるかもしれないとの予感はあった。あの子の道草癖は、この先いつまで続くことか。それから長男は、北海道での農業をめざし、色々な出会いの中で今はワインを造る農夫である。その時からは道草はせず、葡萄を育てワインづくりに一直線だ。しかし、彼の好奇心は健在で、面白そうなことにはチャレンジせずにはいられないようだ。まあ、多少は「大丈夫かな…」と思うことはあるけれど、さほどの躓きもせずに生きていることにホッとしている。
2024年03月02日
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「あといくつ寝ると…」46歳 お正月には、一年ぶりに家族が揃った。長男は神戸で大学四年生、次男は兄より一年早く社会人になって東京暮らし。たった四人の家族なのに、全員揃うのはお正月だけになった。「三年は北海道に帰らないつもりだったんだけどな…」次男の呟きは、故郷への懐かしさを想う東京暮らしを実感させる。「やっぱり北海道はいいよな。僕も最終的には北海道で暮らしたいと思うよ」就職を控えた長男も、言葉を重ねる。 そんな二人の大人びた顔が、いつの間にか幼い頃の顔に重なり、口々に問いかける声が耳に蘇ってきた。「お母さん、あといくつ寝るとお休み?」「明日はお休みの日?」「今日がお休みの日だったでしょ? あと七つ寝るとお休みだよ。いい子で保育所に行って、お友達といっぱい遊ぼうね」 子ども達は保育園児。保育園でお友達や保母さんと遊ぶのは嫌ではないけれど、やっぱりお父さんやお母さんがお休みの日が楽しみらしい。 子煩悩の夫は、休日にはよく遊びに連れて行く。冬はソリすべり、春は野山に山菜取り、夏は海。秋は紅葉の美しい山。動物園や遊園地、水族館などはビックイベントだ。 休日にはたまった家事を片付けたり、少しはのんびりしたい私にとって、その状況は少々苦痛ではあったが、いつも我慢させている子ども達への罪滅ぼしと、頑張って付き合っていた。 あの頃の子ども達にとっては、どんなにか「お休みの日」が待ち遠しかったのだろう。毎晩毎晩、よくも同じ質問を繰り返すものだと、未熟な私はうんざりしながら機械的に同じ答えを繰り返していた。 時には、「あと四つ」などといい加減に答えると、数を知り始めた長男のチェックが入る。「違うよ! あと三つだよ。お母さん、間違えちゃダメ!」(知っているなら聞くなよ…)などと、愚かにも心の中で毒づいたりもしたものだ。 ふと我に返ると、目の前には私が子どもを産んだ年に近づいた息子たちが笑っている。 みんながお休みの日は、やっぱりいいもんだ。このエッセイを書いてからもう27年が経っている。長男の子供二人も社会人となり、当時の私達のように家族が揃うのも年に一度程度となっている。すっかり世代交代をしていると実感するし、月日の経つのは早いものだと思う。書き写しながら、そんなことがあったなあと思う。早く寝てくれと思いながら、絵本を読んだり昔話をしているうちに私の方が眠ってしまい、子ども達に「おかあさーん、寝ちゃダメ」とか、桃太郎がいつのまにかカチカチ山になったりして、「お話が変になってるよ」と注意されたり…。考えてみれば、忙しくていつも何かに追われていたけれど、今となれば楽しい思い出だ。二人の子どもに恵まれ、育てることができたことを感謝する。
2024年03月01日
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「占い」占いがブームになっているらしい。書店には占いコーナーがあるし、大抵の新聞には「今日の運勢」などが出ている。 典型的日本女性を自認する私は、もちろん占い大好きおばさんである。血液型、手相、星座に易にトランプ占い、エトセトラ…。目に触れるとすぐに自分を占い、「当たってる」や「ハズレてる」などと面白がっている。いいとこ取りの自分勝手な占い好きだが、そのくせ占いにお金を出すことはない。 そんな私がたった一度だけ、お金を出して占ってもらったことがある。場所は25年前の東京、新宿伊勢丹の脇に立つ女性占い師であった。今は「新宿の母」と呼ばれるようになった人だと思うが、当時はさほど有名でもなかったようで、たまたま通りかかったらそこにいた、という感じであった。当時の私は19歳。将来への漠然とした不安の中にいた。 記憶に残る占いの内容は、「当たっていた」と言える。「貴女は能力はあるのに努力不足です」(たいていの人はそうだろう)「適職は、教育関係、福祉関係、ジャーナリズム関係」(考えてみると幅広くて、どれかにあたるような感じ。ちなみに私はその中の福祉にこだわった)「結婚は23歳前後にチャンスがあり、それを逃すと30代半ばになる」(22歳で夫に出会う)「衣食住には苦労しない」(真面目に働けばその確率は高い)「子どもは二人」(二人で十分と思い、それ以上産もうとしなかった) 考えてみると、どれも一般論に近い占いだが、当時は結構その言葉に影響された。お金を出してしまうと、こんなことにも元を取りたくなるケチな人間だからか。 以来私は、占いに投資はしないが、適当に利用はする。「今週は運勢が悪いからやめておく」(気が乗らない誘いを断る方便)「私は寅年生まれでキツイけど」(言いにくいことを言う時)「私の血液型はB型だからチャランポランで…」(言い訳には重宝な台詞)そのくせ、人に「やっぱりB型ね」「寅年だからね」なんて言われると、イラっとしてしまうのだから笑ってしまう。(46歳)これを書いてから「新宿の母」という人はどうされているんだろうと検索したら、ご健在のようだ。公式ホームページがあるので、興味のある人はどうぞ。それから推察するに、私が占ってもらったのは「占い師として独立して有名になり始めた頃」のようだ。昭和五年生まれというから、何と94歳!それだけでも脱帽し、尊敬します。私は占いはさほど信じる方ではないのですが、優れた占い師にはカウンセリングの力量があるとは思っています。思い返せば、あの時私との会話をしながら、私という人間の感性や特徴を把握し、占いをベースにはしていたでしょうが、私に寄り添ったアドバイスをしてくれていたのだと思います。おかげさまで、ほぼあなたの予言通りの人生になったような気がします。あの占い料金は無駄にはしませんでしたよ。
2024年02月29日
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「さくら」 言うまでもなく「桜」は日本の国花。国家「君が代」がどことなく肩身の狭い状況にあるのとは対称的に、この花は日本国中大いばりである。 沖縄の開花から始まって、北海道の最北の地に桜前線がたどりつくまで、日本人のまなざしは桜を追っている。 桜餅、桜湯、桜貝、桜えび、桜色、桜草、桜鯛、桜肉…。接頭語とさえ思われるほどの使われ方を見ても、この花がいかに私達の心をとらえているかが察せられるる。 しかし、これほど恋われる桜が咲くのは、ほんの短い間だけ。待たせて待たせて、やっと咲いたかと思うと一気に満開になり、あっという間にパーッと散ってしまう。それはあまりにも潔く見事であり、残りの一年のほとんどは「どれが桜の木だったっけ?」と思うほどに、目立たずにじーっとしているのだ。 正直に言って私は、桜がこんなにもてはやされることが、若い頃は少々不思議であった。 北国で純粋培養された私にとって、桜は「エゾ山桜」であった。確かに桜は春の到来を告げる花の一つではあるが、私にとって春を感じさせる花は「福寿草、レンギョウ、こぶし」などであり、桜はその次当たりであった。 高校生の頃、本州から転校してきた友達が、我が家の桜を見て呟いた。「北海道の桜って、葉っぱも一緒に出るんだね、桜じゃないみたい」。 私は彼女が何を言っているのかわからず、「うん?」とうやむやに言葉を濁した。数年後、初めて本州の桜を見た時に、私はその意味を一瞬にして了解した。 いわゆる「桜」とは、木全体が花になり、葉っぱなど影も形もない植物であるということを。 満開の桜並木の下で、思わずスキップしそうになりながら、(これが桜なんだ!!)と、心の中で叫び続けた。 あの日から私も、桜に魅せられた日本人の一員となった。テレビで本州の桜を見るたびに、その時ばかりは本州に住みたいと願ってしまうのだ。(45歳)今週から三月になる。冬が戻ったような今日この頃だが、確実に季節は春に向かっている。このエッセイを読み返しながら、今は国歌も威張り始めているなとか、ソメイヨシノも北海道に増えてあまり珍しくはないことに、月日の流れを感じている。
2024年02月28日
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「宇宙」(45歳) 北国の秋冬は日暮れが早い。中学生の頃、冬の下校はいつも雪の夜道を一時間近く歩いた。その時の道連れは、満天の星々や月の輝きで、夜空を仰ぎ、そこに様々な思いを遊ばせながら私は成長した。 地球から星の距離の単位は「光年」と知ったのはいつだっただろう。その日から私は、ある不思議な思いに囚われ続けることになった。 一光年とは、秒速30万㎞走る光が一年かかって到達する距離だそうだ。「北極星」でも800光年、地球の所属する銀河系の直径は十万年光年。かすかに見えるアンドロメザ星雲は、何と二百万年光年だというのだ。 以来私は、星空を見上げるたびに頭の中がグチャグチャになるのだった。今私の見ている星のまたたきは、二百万年かかってここに届いたのだ。あるいはもっと遥か昔の輝きかもしれないとすれば、ひょっとするとその星は今は輝いていなかったり、それどころか存在していないことすら考えられる。「????…」。数えきれない「?」が頭の中を空しく点滅する。そして、表現しようのない不安が、暗黒星雲のように心の中に広がる。 私達は、すでにその実態を変えてしまった幻の宇宙の中に、放り出されているのかもしれない。 しかし、もう一つの幻想も昴のように浮かんでくる。この広大な宇宙には、地球と同じような星も沢山あるはずというから、あの星のどこかに私と同じような少女もいて、こちらを見つめているかもしれないのだ。 現在私の住む場所では、幼い頃のように覆いかぶさるような星の輝きは見えない。それでも時々目を凝らし、昴や白鳥座など優しい星たちを見つめながら、同じような思いに囚われる。 それにしてもこの宇宙に比べて人間の存在の小ささはどうだ。人間の英知と巨額の金をかけて開発したエンデバーだって、ボウフラが太平洋でピョンピョン跳ねているようなものだ。 私の頭は、またグチャグチャになってゆく。エッセイ教室は、毎月先生の指定する「お題」で600字でまとめるのがルールだった。書きやすいお題もあるが、書きにくいものは結構悩んだりもした。しかし、慣れてくるとお題で色々連想して書くことは楽しいことでもあった。書き写していて、きっと多くの宇宙飛行士やロケットに関わる人たちは、子ども時代に私のような思いを夜空に羽ばたかせていたのかもしれない。きっとその時、私は頭がグチャグチャになっただけだったが、彼らは明確な人生の目標を北極星のように導かれたのだろう。
2024年02月27日
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道新文化センターでのエッセイ教室(通信添削)を受講していた時のエッセイを書き残していたのだが、2021年四月を最後に中断していた。昨日のアクセスレポートで、それらの文章を見つけて、(ああ、まだ残っていた)と思い出した。ファイルを別の書棚に片づけてしまって、そのままになってしまっていたのだ。読み返すと、やはり推敲した文章はまともだなと思う。ブログでは推敲も見直しもあまりしないので、文章修行にならないと痛感する。ということで、過去エッセイをまた載せていくことにする。「友達」 人との出会いは大抵偶然の産物だが、それを36年間守り続けた時には、何か運命的な必然のように感じてくるものである。 私とkとの出会いは、小学候四年生の時だった。転校生の彼女は、積極的で活発な少女だった。そんな彼女が、おとなしく人の影に隠れているような私に、なぜ声をかけてきたのだろう。私は明るく勉強もできる彼女の友達になれたことが、ただただ嬉しかった。 小学六年生の夏、私たちは宿題の資料集めを協力し合うことにした。私は父からその資料を手に入れ、喜んで彼女の家に急いだ。「わあ、嬉しいなあ。私、今晩のうちにやってしまうからこれ貸してね」。 私はまだ何もしていなかった。彼女に一刻も早くそれを見せて、一緒に宿題をしようと思っていたのだ。彼女がそれを自分だけでやってしまおうとするなど、夢にも考えていなかった。 その時私の胸にこみ上げてきたものは、寂しさなのか怒りなのか、失望なのか…。 その思いが爆発しそうになった私は、それを口に出すこともできずに家に帰り、部屋に入るなり声を上げて泣き出した。普段は決してみられない私の号泣に母は驚き、何があったのかと彼女の家に飛んで行った。 Kも私の様子を聞くなり泣き出したそうだ。私は理由を一言も言っていないのだが、彼女は私の痛みに気付いたのだろう。 結局、母達には私達の涙の理由はわからなかったと思うが、母からKの涙を聴いた時に、言葉では表現できない切なさと喜びが溢れ、私はまた泣いた。 次の日の朝、一抹の気まずさの中で声をかけてきたのはKの方からだった。「昨日はごめんね。今日、一緒にやろう」「うん、私も泣いたりしてごめん」「そうだよ~。今度からちゃんと言ってね」照れ笑いの中で、私達の心は握手をしていた。 中学になり、彼女の転校で互いに離れて住むようになったが、私達は今もかけがえのない友達である。
2024年02月26日
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「ああ、ゆとり!」(46歳) 私はおしゃれな方ではない。自分の容姿にコンプレックスを抱いて成長したせいか、おしゃれを避けてきた傾向がある。私の洋服選びの基準は、ステキかどうかではなく、いかに目立たないかであった。 だから、流行など無関係で、過度に派手でも地味でもなく、バーゲンの安物でもない。しかしこうなると、洋服選びが結構難しくなるので、デパートなどで洋服を買うのが苦手なのだ。 店員さんに色々と勧められ、試着なとで鏡を見ながらの会話がイヤなのだ。流行の色や形を勧められても、「目立たぬこと」がモットーの私とはなかなか意見が一致しない。 そんなわけで、私が洋服を買うのはどうしても必要な時だけだった。 幸いなことに私の体重は、若い時から退職する四十代前半までほとんど変化がなかった。おかげで、十数年前の服も着ることができた。仕事を辞めたら、スーツなどはほとんど着る機会もなく、苦手のデパートにはいよいよ行かなくてすむようになり、ホッとしていた。 ところがである。仕事を辞めたのと中年期突入時期が一致したせいか、ずっと変化のなかった体重が徐々に増加してきた。「のびのびジーパンとトレーナー」式の楽ちんスタイルが、それに拍車をかけた。 ある日、久しぶりにスーツを着た時、スカートのウエストのゆとりは完全になくなっていた。さらに、腹部まわりもピチピチで、やっとはくことはできたが座ると危ないことになりそうだった。 体形の変化には薄々気付いてはいたが、想像以上の事態に焦りまくり、他の洋服を次々に引っ張り出してみたが、当然ながらどれも同じ結果であった。 心のゆとりとウエストのゆとりは反比例するという発見に愕然としながら、食べたいものを食べずにダイエットの努力をすべきか、財布のゆとりを心配しながら、苦手なデパートでゆとりのあるサイズの洋服を買うべきか、私は究極の決断を迫られている。結局、食べたいものを我慢するなんて私には無理で、その後は必要に応じて洋服を買った。その頃から、地元でもそれなりの洋服が買える状況になり、徐々に着ることが出来るものをそろえてきた。このエッセイを書いてからすでに24年。ありがたいことに、その頃からさほど体重は変わっていない。つまり、当時買ったものが今でも着ることが出来たりする。40代から60歳の頃まで、4年ごとに同期会orクラス会があったので、外出着だけは4年ごとに季節に合わせて購入した。おしゃれにさほど拘らない私でも、クラス会のたびに同じ洋服ではちょっと気が引けたのである。先日、その頃に購入したスーツを何着か処分した。まず、最近はスカートをほとんど着用しないし、40代頃は地味な色合いのものが多かったので、今その洋服を着ると何とも年寄りくさくなってしまうことに気付いたからだ。年を取ったら明るい色がいいということを、実感する年頃になってきたということだ。
2021年04月12日
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「ある夫婦」(46歳) 私の母方の祖父母は、仲が悪い夫婦だった。八人の娘達も、沢山の孫達もそう思っていた。もちろん私もそう信じていた。 祖父は頑固で気が短く、祖母はいつも怒鳴られていた。開拓者として苦労を共にした夫婦であるはずなのに、仲良くにこやかにしている姿は見たことがない。 私はすぐに怒鳴る祖父が怖くて、母の実家に行くのがイヤだった。しかし、盆と正月にみんなが顔を見せないと、いよいよ祖父の機嫌が悪くなるというので仕方なく母についていくのだった。 祖母は女腹というのか、女の子ばかりを八人も産んだが、とうとう男の子は授からなかった。それを祖母は引け目に感じているようで、そのせいなのか祖父の言うことには絶対服従しているように見えた。 そのくせ、祖父のいないところではよく愚痴を言った。つきあいの少ない私でさえ、そんな愚痴を何度も耳にし、少女の私にはそれがとても嫌だった。 しかし、そんな祖母がこんなことを言うのを聞いたことがある。「おじいさんは、あげな人やけど、たった一つ有難かったと思うとる。 私が女ばっかり産みよっても、それだけは怒らんやった…」。 それを聞いた時、女の一人である私は、その言葉にすらかすかな苛立ちを感じた。 祖母は87歳で老衰で静かに死んだ。90歳でまだ元気だった祖父は、祖母の枕元で黙って手を合わせていたという。 それからしばらくして祖父を訪ねた母は、帰宅するなり「おじいさんがボケてきた」と言った。 囲碁が趣味の祖父が、碁盤の前で一人で石を並べてブツブツ言っていたらしい。何をしているのかと聞くと、「ばあさんと碁並べをしているんじゃ」と答えたそうだ。「生きていた頃には、そんなことしたことなんてないのにね」と、母は苦笑した。 祖母が亡くなって一年後、怒鳴る相手がいなくなってすっかりおとなしくなった祖父は、やはり老衰で静かに死んだ。91歳だった。祖父母が亡くなってから、すでに50年近く経つ。これを書いた時には知らなかった祖父母のエピソードを、その後法事の時などで聞く機会があった。何と、祖父は少女の祖母に一目ぼれして結婚を申し込んだらしい。確かに祖母は、晩年でもきれいな人だった。少女の頃の写真はないが、さぞかし可愛い美人だっただろう。二人とも開拓期の北海道に親と一緒に移住してきたので、学校にも行けず(学校がそもそもなかった)文字の読み書きすらできない少年少女の夫婦だったようだ。祖父は必死で開拓に取り組み、土地を次々と広げ、家族を養うことに必死だったようだ。祖母は16歳で結婚してから、次々と生まれる娘たちの子育てや家事、そして農家の仕事を細い体でこなし続けた。私の知っている祖母は、長年の労働のせいか、腰が九の字に折れ曲がっていたが、それでもその体で最後まで自分のできる農作業の手伝いを続けていた。出産のときも、全員ではないだろうが祖父が取り上げてお産扱いもしたらしい。思えば私の知っている祖父はとても耳が遠かったので、私には怒鳴り声にしか聞こえなかったが、けっして怒っているわけではなかったのかもしれない。それに、いたずらなどをした時には確かに怒られてはいたが、祖父が手を上げる姿は見たことがない。祖父母が仲が悪かったとは私の母も言っていたのだが、ひょっとすると誰もいないところでは祖母に優しい祖父だったのかも。字数制限で祖母の亡くなった時のことを詳しく書けなかったが、亡くなった祖母の枕辺で「ご苦労さんじゃった。ご苦労さんじゃった」と何度も繰り返していたとも聞いた。夫婦の関係性というものは、本当のところは本人たち以外にはわからないものなのだろう。
2021年04月08日
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「ケガの功名」(46歳) ガツッ!というような強い衝撃が額に走った。目の前が真っ白になった。次の瞬間、自分のおでこに当てた手のひらの妙な感触にドキッとした。続いて顔面に、ヌラーッと生温かいものがしたたった。 大雪山系黒岳の頂上で、石に足を取られて転倒し、岩に頭をぶつけて額をパックリと切った瞬間である。 私の転んだ気配に振り向いた夫は、「何やってんだ。どうした?」とかがみこんで私を覗き込み、「どら、見せてみろ」と言う。 押さえた手を離すのには、かなりの勇気が必要だった。おでこはグニャッと陥没しているようで、(離したらヤバイかな? いや、そんなはずはない。意識はあるから大丈夫)と自問自答して自分を励まし、思い切って手を離す。 さあ、それからが大変だ。傷口を見た夫はいまだかつてないほどうろたえながらも、必死で傷口をテーピングし、タオルでしっかりと縛り、私に「上から手できつく押さえろ」と指示した。 縫合が必要だが、なにしろ山のてっぺんである。幸い意識ははっきりしているし、今のところ貧血にもなっていない。その時には私も、頭が陥没していないとわかって勇気凛々。「大丈夫、歩けるから」と夫に支えられながらの下山が始まった。 下り始めてから数分後、私はハッと気づいた。結婚以来初めて、夫と手をつないで歩いていることに。 シャイな夫は、人前で手をつなぐなど考えられないのだが、今は私を無事に下山させることに必死のようだ。夫の手はその思いを表すように、きつくきつく私の手を握っている。額の傷よりも、そっちの方が痛いほどに…。その手は、(頑張れ、頑張れ、俺がついてる)と私を励まし労わっていた。 子供も巣立ち二人の生活になって半年、何となく淡々・ひんやりとしていた私達に、神様は何と味なショック療法をしてくれたことか。 これがホントの「ケガの功名」である。補足説明をすると、この時は、妹と三人で登山をしていた。私は気圧の変化で頭痛がすることがよくある。この時も、途中から頭がガンガンする中をやっとのことで山頂に上ったのだが、体調が悪かったせいもあり自分で思うほどに足が上がらなくなっていて、ちょっとした石に躓いて転び、さらに反射神経も低下していたようで、咄嗟に手をしっかりつくことが出来ず、目の前の岩に頭をぶつけたのだった。私のケガに気付いたパトロール隊員が、その後下山から救急車の手配をしてくれた。黒岳は、7合目からはロープーウェイで下山できるのだが、この日は紅葉の季節でロープーウェイに乗るための人が長蛇の列になっていた。しかし私は怪我人であることで優先的に乗せてもらうことが出来、降りたら救急車が待っていた。私の救急車初乗り体験日である。救急車には妹が同乗し、夫はその後を自動車で追いかけた。どこの病院に行ったのか忘れてしまったが、すぐに縫合処置をしてくれた当番医は外科医だった。(妹があとで「当番医が外科の先生とわかって安心したよ。内科医だったら不安だもの」と言っていた)先生は私をリラックスさせるように話しかけながらチクチク縫ってくれたが、途中で麻酔がキレてきたのか、一針ごとに痛みが走る。でも、自分の感覚では随分縫ったような気がするし、このくらいの痛みなら耐えられると我慢していた。しかし、痛みが走り始めてからは「これで終わりますように」と祈りながらだったのは言うまでもない。先生からは、「帰ってから地元の病院で診察を受けてくださいね」と言われていたので、次の日には受診した。すると先生は私の傷口を見て言った。「あー、きれいに縫ってくれてますね。完璧です」。その傷跡は今でも私の額に残っているが、きれいに縫ってくれたおかげだろう、言わなければ誰も気付かない程度だ。あの時に縫ってくれた先生に、心から感謝するばかりだ。
2021年04月06日
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「挫折」(46歳) 悲しみ、怒り、切なさ、悔しさ、自己嫌悪…。どんな言葉も、その時私の心に充満し爆発した思いを表現することはできない。 瞼から噴き出す涙や、しゃっくりのようにこみ上げてくる嗚咽を止めようとすることも忘れ、私は田舎道を歩いていた。二十五年前の、秋の夕暮れ時だった。 わずか一か月半の研修だけで、肢体不自由児や知恵遅れ、自閉症などの障害を持つ子ども達の中に、ただ一人の指導員として放り込まれた私には、知識も技術も経験も何もなかった。私にあるのはただ一つ、「何かの力になれたら」という、未熟な情熱だけだった。 ひろ子ちゃんは三歳で、筋弛緩性の重度の脳性まひだった。体のどこに触れても、手ごたえがなくクタクタしていて、お腹がすいた時だけ力なく泣くだけだった。 大抵の子は、しつこくアプローチをしていれば心身の発達に多少の変化がみられるのだが、ひろ子ちゃんにはそれもまだ見られなかった。 私は悩みつつ、医師や当時は道内にも少なかった理学療法士に電話などで相談しながら、試行錯誤を重ねていた。 ところが、最初は真面目に通っていたお母さんが、ぱったりと顔を見せなくなった。噂によると、ある新興宗教に入ったという。 障害児を抱えた家庭には、必ず宗教が入り込む。それも、「お金を出せば治る」など、藁にもすがりたい親心に付け込んで…。心配になった私は、家庭訪問に向かった。 玄関先でお母さんは言った。「先生、ごめんね。先生は一所懸命してくれたけど、ひろ子はちっとも良くならない。でも、今の神様に祈れば絶対に良くなるって。私、せめてひろ子には笑ってほしいんだ」。 何も言えなかった。必死にすがろうとしている母親に、そんな神様嘘っぱちだとは言えなかった。ましてや、「私が笑わせて見せる」なんて言えるはずもなかった。 語りかけるたった一つの言葉も持たない自分の無力さが、ただただ情けなかった。 胸の奥に突き上げる思いをやっと耐え、玄関を背にした瞬間悲しみが爆発した。心が木っ端みじんになった瞬間だった。この時のことも鮮明に覚えている。あれほどの爆発するような感情は、多分その後は経験していないような気がする。「挫折」というテーマで書いたもので、題名と内容があっているかどうかわからないが、自分の無力さを痛感するという意味では挫折だったのだろう。季節についてはまったく覚えていないので、ひょっとするとこのエッセイに書いた「秋の夕暮れ」も、イメージ的なものだったかもしれない。ひろ子ちゃんは、確かその数年後に亡くなっている。新聞のお悔やみ欄でその名を見つけた時、何とも言えない気持ちになった。(お母さんは、ひろ子ちゃんの笑い顔を見れただろうか)と思った。どんなに障害が重くても、その子なりの成長をすることはわかっているので、あの宗教のおかげで笑ったとは思えないが、決して裕福ではなさそうだったお母さんがせめてたった一つの願いだけでも叶えられていたらいいと心底思った。あちらの世界で、ひろ子ちゃんが笑いながら駆け回っていたらいいなと、今でも思う。前にも、このブログで彼女のことを書いたような気がして見てみると、左のフリーページに載せていた。「あの子の笑った顔を見たいんです」字数制限のあるエッセイとは違い、もう少し詳しく書いていた。
2021年04月02日
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「祖母の宝物」(46歳) 96歳になる祖母は、この数年痴呆が進み、母の腰痛の悪化も重なり、今年の春に特別養護老人ホームに入った。 自分の状況をよく理解できない祖母は、施設暮らしがなかなか納得できず、慣れるのにも時間がかかる。年老いた父母の代わりに、祖母の慰め役は孫の私の役目となり、今も都合がつく限りホームに通い、祖母の話し相手に努めている。 記憶装置が動かなくなった祖母との会話は、オートリバースのテープレコーダーのようなものである。祖母の関心は、「いつ帰れるのか? 母さんの腰は良くなったか?」を中心に、毎日同じ質問を繰り返す。家に帰るのはもう無理だとも言えず、私も覚悟してテープレコーダーになる。「お母さんは毎日病院に通っているよ。 おばあちゃんがここにいてくれるから、安心して養生できるんだよ。 お母さんの腰が良くなるまで、ここにいてね。私が毎日来るから」。 祖母はその瞬間だけは納得するのだが、私が帰るとすぐに忘れてしまい、「もうすぐ迎えに来るから」と言いながら、荷物をまとめてウロウロと徘徊が始まるらしい。 そんな祖母と少しでも楽しい会話をしたいと、かつて祖母がしてくれた思い出話に誘ってみる。悲しいかな、その思い出さえも徐々に少なくなり、なおかつ変形し始めている。 子供の頃の思い出、最初の悲惨で短い結婚生活、そして再婚、厳しい姑や小姑とのエピソード、次男(私の父の弟)の自殺…、などなど。 初孫であった私は、沢山の物語を祖母から聞いていた。その記憶をたどって誘い水をかけるのだが、それに乗ることも少なくなってきた。「そんなことあったかなあ?」などと聞き返されると、(あ、また消えたのか…)などと、老いることの残酷さや悲しさに胸が痛む。 ある日私は、祖父母の結婚のことを聞いてみた。前夫が精神病で耐えられず婚家を出た祖母は、近所でも「鬼婆」と評判の姑に辛抱できる嫁としての再婚だったらしいが、祖父は優しい人だったと聞いていたので、それを話題にしようとした。「初めておじいちゃんを見た時、どう思った?」「うーん、何とも思わんかった。夫が普通なら、それで辛抱しなければならんと思ったから…」 言葉が途切れたので次の話を促そうとした時、祖母は思いがけないことを言った。「私は先生と結婚するんだと思っていたんだけどなあ。父さんが反対したんだ。体が弱そうだからって…」「えっ?…」 それは、私が初めて耳にする話だった。 祖母の断片的な話から想像すると、尋常小学校の担任であった先生がとても可愛がってくれて、大人になったら結婚できると信じていたらしい。八十年前のことだ。 貧乏な開拓農家の末っ子の祖母は、先生から借りた本を読むのがとても嬉しかったという。「親に怒られるから、隠れて本を読んだ」と話す祖母の瞳は、決してぼけ老人の目とは思えず、少女のように輝いて見えた。「おばあちゃん、先生と結婚したかったんだね。悲しかったでしょう?」。「うーん、でも父さんが言ったとおり、先生は肺病で早く死んでしまったし。親がダメだって言ったら仕方ないから…」。 どんどん記憶がまだらになってゆく祖母の脳裏の中に、先生との淡く切ない思い出は、今も生き続けていたのだ。青年教師と少女の間に、どんな語らいの時があり、どんな別れがあったのだろう。 96年の人生を辛抱し続けた祖母は、今も不本意な施設の生活を我慢し、家族を心配し続けている。そんな中でも時々は、初恋の先生との思い出に心を遊ばせているのだろうか。 祖母にとって先生との思い出は、大切な大切な宝物だったはずだ。もう一度その輝きに触れたいけれど、興味本位の手垢に汚してはいけないと思う。 しかしその反面、これだけは最後まで忘れないように、何度も話をさせるべきかとも迷っている私である。祖母が亡くなってから、すでに21年が経つ。それでも、この時のことはよく覚えている。どのような人にも幼い頃があり、思春期がある。誰にでも甘酸っぱい思い出の一つや二つはあるだろう。もちろん、私にだってある。キラキラした思い出は、お金には決して変えることのできない唯一無二の宝物だと、年を重ねるにつれてその大切さを思うようになっている。
2021年03月30日
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「人づきあい名人をめざして」(45歳) 誰にでも得意なことがある。自分には何のとりえもないとコンプレックスを持っている人にだって、口には出さなくても密かに(この分野ではいいセンいってるんじゃないか?)と思っていることがあるのではないだろうか。 いや、得意とまではいかなくても、苦手ではないことがあるはずだ。それをしつこく磨いていたら、誰でも何かの名人になれるのではないかと思う。 かく言う私は、子供の頃から人とのつきあいが苦手であった。友達と仲良くしたいのに自分からは声をかけられず、ひたすら声がかかるのを待つだけだった。 そんな私の、何とか友達をつなぎとめる方法。それは、相手の話を嫌な顔をせずに、一所懸命聞くことだった。 嫌われることが怖い私は、相手を拒否することなど考えられず、ひたすら相手の良いところを探し、相手を受け止めるしかなかったのだ。 いつの間にか私は、数は少ないけれど仲の良い友達もできるようになった。まず相手を嫌わずに、その話を聞くこと。それが私の処世術の出発であった。 年月が流れ、45歳になった私は、「聞き上手、話し上手」と言われることすらある。 つい先日も、ふとしたことで出会った人に、「あなたは不思議な人。なんでも話したくなる」と、個人的な悩みを打ち明けられて、こんなことを私が聞いていいのだろうかと戸惑ってしまった。 祖母が暮らす老人ホームに行っても、祖母の話し相手をするよりも、他のお年寄りの話を聞くのに忙しくなってきている。 私はいつの間にか、話に耳を傾けているうちにその人を好きになり、その人を応援したくなる人間になってきたようだ。 今では、私が人付き合いに悩んでいたことなど、誰も信じてくれない。 もっともっとこれを磨いてゆけば、ひょっとすると私も「人づきあい名人」になれるかもしれないと思ったりする。このエッセイを書いてから25年が過ぎたが、まだ名人にはなれずにいる。というより、誰とでも上手に付き合う必要性をあまり感じなくなってしまった。仕事や各種の活動をしている時には、「敵を作らず嫌われず」で人と付き合い続けていたが、そうしていても苦手な人や嫌いな人はいた。できるだけ自分のマイナス感情は気付かれないように努力くすることは、私の処世術の一つでもあった。長年の「可能な限り相手の長所を探して嫌いにならない」という努力のせいか、私は本当に嫌いな人はそう多くはない。その傾向は今でもあるし、それは悪いことではないので続けるつもり。だが、仕事も活動もほぼ卒業し、無理やり自分を押さえてまでそんな努力をしなくても良い今は、苦手な人とは遠慮なく距離を取る。「あの人にも良いところはある」と自分に言い聞かせることもやめ、苛立つことや腹が立つというネガティブ感情も、そのまま認めて受け入れる。また、人的ネットワークはできるだけ縮小しようとしているので、45歳のころよりずっと人付き合いは悪くなっていると思う。「人づきあい名人」なんて、あの頃の私の幻の夢になってしまったようだ。
2021年03月25日
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「冗談じゃない!」(45歳)「教師に制服を!」。新聞でこの見出しを見た時、てっきりブラック・ユーモア的な表題だと思った。しかし、読み進むうちに、それが大阪は羽曳野市での大真面目な議論と知り、笑うに笑えなくなった。 北海道だって負けてはいない。「大多数の道立高校で、管理職がカラ出張で裏金を作り、道教委に上納金として納めていた」。 これも、信じられないようなブラックジョークではないか。ヤクザもビックリの裏世界だ。(ヤクザ社会への偏見もあるし、ひょっとするとヤクザさんに失礼な言い方かもしれないが) 管理社会・学歴社会の弊害が問われるようになって久しい。その構造の中で必死に耐え続け、何とかそれに順応しようとしてきた子供達は、もう耐え切れずに悲鳴を上げ、「いじめ、不登校、退学、自殺」など様々な表現で、大人社会に警告を発し続けているというのに、いったい教育に関わる大人達は何をしているのか。 かつて教師は、自他共に認める「聖職者」であり、多分それ故に学校や教育界は「聖域」であったはずだ。確かに今でも、そこは聖域であるようだ。普通の社会では通用しない校則がまかり通り、体罰など犯罪に近いものすら許される、治外法権区域なのだから。 民主主義のこの日本で、竹刀を持ち歩く大人に、スカートの長さによって小突かれたり、多くの人々の面前で罵倒されたり、法律を犯してもいないのに殴られたりすることも珍しくはない、特殊区域なのだから。 前記の裏金上納や業者からのリベートが発覚した時、私は関係者内で自浄作用が働くことを期待した。 まっとうではないことをしたことを恥じて、良識のある校長の何人かは自分の非を認め、辞職するくらいのことはするだろうと。しかし現実は、呆れるほどに軽い処分に甘んじただけで、辞職した人など一人もいない。 少なくても建て前や正義を教えるべき教育者がこれでは、北海道の教育界に絶望を感じてしまう。勿論教師の中には、真剣に生徒と向き合っている素晴らしい人も多いだろうが、その人たちの思いさえも踏みにじっているのだ。 某有名進学校では、全校集会で校長がその件について説明したという。「決して私利私欲ではなく、学校のために良かれとやったことであるが、やり方が間違っていたことを反省してお詫びする」。 生徒に詫びただけマシというべきだろうが、それに対して一部の生徒からヤジが飛んだそうだ。「指導部は何をしている。出てきて見解を発表せよ!」。 いつも生徒指導の名のもとに、些細なことにまで目を光らせ、停学や退学処分をちらつかせて生徒の自由を奪い、さらには「本校にはふさわしくない」と自主退学まで迫る学校(特に指導部)に対する、生徒たちの精一杯の皮肉だった。 そんなヤジができる生徒の存在にホッとし、若者のまっとうな感覚に思わず拍手してしまうのは、私だけではないだろう。 ところが集会後、教師たちはその生徒を探し回ったという。いったいその生徒を見つけて、教師は何をするつもりだったのか。 さすが良識ある生徒ばかりのようで、それをチクル者はいなかったうだが、何のための犯人捜しだったのかと首を捻るばかりだ。(まさか、「よく言った」と褒めるつもりではなかっだろう) それにしてもこれらの構図、ポジとネガが反転したような、何とも妙な感じではないか。 ここまできたら徹底して、先生たちも制服を着よう。生徒会にも指導部を置いて、カラ出張がないかどうか、教師の服装の乱れはないか、人権侵害やルール違反がないか、きちんとチェックしてあげよう。 これは決してブラックジョークなどという言葉遊びではない。私は本気でそう思う。そして、本気で怒っているのだ。 まったく、冗談じゃないよ!!これも、書き写しながらこんなことがあったんだと思い出そうとしていた。しかし、そんなこともあっただろうとは思うが、ほとんど記憶に残っていない。これを書いたのは25年も前のことだが、教育の状況は良くなっているとも思えず、これ以後いじめ自殺や遅刻した子の校門圧死事件など次々と考えられないことが起こってきたので、このくらいのことは記憶のかなたになってしまったのかもしれない。多分今では、教師にヤジることのできる生徒はいなくなっているかもしれない。このエッセイで「いじめ、不登校」について触れてはいるが、この時私はまだこの問題は他人事であった。しかしその後、不登校に関係する活動を始めることになる。まだ「不登校・登校拒否」はさほどクローズアップされていない時期だったと思うが、多分メディアで取り上げられ始めた頃だったのだろう。今でも、次々と「冗談じゃない!」と腹の立つことは多いが、年のせいか怒りに任せて書くことは少なくなってしまったような気がする。
2021年03月24日
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「靴の底」(45歳) トシちゃんは三人兄弟の末っ子。母親が40歳になってからの子どもで、兄とは十歳も年が離れていた。神様はトシちゃんの染色体に、一本付録をつけたので、彼はダウン症候群として生まれた。 そんな彼は、抵抗力も体力も弱く、育てるのはとても大変だったようだ。 私が彼と出会ったのは、そんな乳児期をやっとクリアーし、「心身障害児訓練センター」に通うようになった時だった。 ダウン症は知能や運動機能発達の遅れがあるが、人懐っこい子が多い。彼もそんな可愛い幼児だった。 トシちゃんはいつも上等な服を着ていた。お母さん自身はとても質素なのに、と思った私は、ある日何げなく言った。「トシちゃんはいつも王子様みたいなお洋服で、ステキだね」。するとお母さんは「この子はこんな顔つきでよだれも多いし、普通の服ではどうしてもだらしなく見えてしまうでしょ。着るものだけは人一倍気を遣ってやれって、主人も言ってくれるから」。にこやかな笑顔だった。 ゆっくりとではあるが、寝返りから這い這い、つかまり立ちへと成長し、やがてよちよちと歩くようになったのは、四歳の誕生日が過ぎてからだった。 そんなある日、いつものようにセンターに来たお母さんが、私の顔を見るなり、「先生、これ見て!」と小さな靴を差し出した。それは、最近トシちゃんが履いている可愛い運動靴だった。何事かと戸惑いながら靴を手にした私に、母親は靴底を指さして言った。「ここがすり減っているでしょ? 今まで、この子のこんな靴見たことないから、私、嬉しくて…」。 そう言う母親の目から、見る見る涙が溢れた。 元気な兄たちのすぐにすり減る靴と比べ、トシちゃんの靴はいつも新品同様のままだった。母親は今、靴底の痛みに、彼の確かな成長の証しを見たのだった。 いつも穏やかで、感情を表に出すことの少ない彼女の涙に、その喜びの深さを感じ、「本当だね…」と言いかけた私のまぶたの奥にも、熱い何かが突き上げてきていた。この瞬間の光景は、今でもはっきりと思い出す。私も男の子を二人育てていた頃だったので、何も教えなくてもどんどん成長する息子たちの姿に、ハンディを持つ子たちの成長の大変さを痛感していた頃だった。だから一層、私もトシちゃんの靴底の減りに、母親ほどではないけれどとても嬉しかったのだ。トシちゃんも今は50代近くなっていることだろう。施設に入所したことまでは聞いていたけれど、その後のことは全くわからない。あのお母さんも元気でいるだろうか。
2021年03月23日
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「忘れるということ」(45歳) アメリカでは多重人格に苦しむ人が増えているというテレビ番組を見た。あのジキルとハイドのような二重人格どころではない。二十を超える異なる人格が、次々と一人の人間の中で入れ替わるケースもあるそうだ。本人の恐怖はいかばかりかと胸が痛む。 多重人格は、幼い頃の虐待体験に原因があるものが多いとわかってきたらしい。 幼い心に受け止めるにはあまりにも辛い体験が、それを記憶から消そうというメカニズムの始動を促し、そのための究極の手段として、その記憶を持たぬ別の人になるということか。 それにしても人間というものは、自己を防衛するために、何としたたかに本人の意志に関わらぬ働きをするものだろうか。ストレスがあまりに大きい時など、記憶をつかさどる脳組織「海馬」が、委縮することさえあるそうだ。 私は思い出す。 職場の中で人間関係や、仕事と自分の能力の問題に悩み、強いストレスにさらされていた頃、記憶が欠落したり同僚の名前を忘れたり、大切な場面で直前の会話を失念したりして、自分の脳みそが「麻婆豆腐状態」になっていると感じた体験がある。あの時の恐怖感、私の海馬も相当委縮していたのかもしれない。「忘れる」ことは、心身の防御反応なのだろう。自分で気付かずとも、心(脳)そのものが(危ないよ!)とサインを出しているのだろう。 私はサインが出やすいのか、海馬が欠損しているのか、仕事を辞めてストレスが激減した今も、忘れん坊ぶりは健在だ。 あの頃、被害を最小限に止めるために、自分の物忘れを「М(私のイニシャル)症候群」と名付けて、自分の健忘をPRするという戦略に出た後遺症もある。 人間、どうしても覚えておかねばならないことはそう多くはないと思うが、思い出もなくなり自分を失う恐怖は、時には死にも匹敵する。 自己破壊にまで至るダメージを自他の心にも及ぼすのが、われわれ人間でもあるのだ。この頃は、まだ解離性障害の人に出会ったことはなかった。自分の健忘が仕事で重大な失敗に結び付くのではないかと感じていた時は、通常のストレスに加えてさらなる強いストレスとなった。その時に一番恐れていたのは、「若年性認知症ではないか」ということだった。幸い、エッセイに書いているように、自分で「М症候群」と名付けて吹聴したことで、被害を最小限にできたと思っている。誰かが物忘れをした時に「あ、私もМ症候群だ」と言われたり、私が何かを失念した時「あ、みらいさんの病気が出た!」なんて言われながらフォローしてもらい、大事にならずに退職できたことは本当にありがたかった。その後、精神障害の人達と関わる機会が増えてから、解離性障害に苦しむ二人に出会った。一人の中年女性は、幼児に戻ることが度々あった。なぜ彼女がそのような障碍を持つに至ったのかはわからないが、きっと過酷な子ども時代だったのだろうと想像していた。そういえば、最近は多重人格という言葉をあまり聞かないような気がする。しかし、そのような症状で苦しんでいる人は、決して減ってはいないだろう。治療してもなかなか根治は難しいだろうから、日常生活や仕事にも大きな支障が出るはずだ。私のささやかな体験ですらそうだったのだから。私はあの時、とにかく仕事で人に迷惑をかけないために、自分の物忘れのひどさを周囲にカミングアウトすることにした。隠したらいよいよ困ることになるのがわかっていたので、恥も外聞もなかったというのが正直なところだ。それでも、このまま仕事は続けられないと思い、結局仕事を辞めるに至るきっかけになったのは事実だ。だが、何事にもマイナスとプラスがある。私は仕事を辞めたことで、通信で大学を卒業できたし、福祉以外の世界の人達とも出会い、地域活動やボランティア活動をすることもできた。「認知症ではないか?」と恐れていたがそうではなかったようで、無事に大学も卒業できたのだ。もしも今、強いストレスにさらされて記憶障害に近い状況に悩む人がいたなら伝えたい。決して一人で悩まずに、周囲の人(家族や同僚、友人たち)に困っていることを話し、助力を求めてほしいと。一人で悩みを抱え込むこと、自分で何とかしようとすることは、あまり良い結果にはつながらないということは、体験的にも、その後学んだことでも確かだと思う。
2021年03月21日
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このエッセイのお題は「スポーツ」だったと思う。それで、私にとってのスポーツについて書いたはずである。「突き刺さった一言」(44歳) スポーツは大嫌いである。この単語は、私に屈辱感や悲しさ、さらには憎しみに近いものまで感じさせるのだ。 あれは小学校一年の初夏。生まれて初めての運動会の時だった。私も人並みに「運動会」という大イベントにワクワクしていたはずである。 40年前の田舎の運動会は、村をあげてのお祭りであり、家族は勿論のこと、近隣の親戚まで集まってきた。 プログラムは順調に進み、いよいよ「徒競走」の時が来た。ピストルの音に一斉に走り出す子供達。もちろん、私も一所懸命に走った。私はただ、人より後にゴールしただけだった。 ビリではあっても、精一杯走った心地よさに、私はやっぱりワクワクしていたはずだ。お昼になったら、お母さんが朝早くから作ってくれたお弁当が待っているのも楽しみだった。 ところが、楽しみにしていたお弁当の時間、想像もしなかった母の言葉が、ピストルの弾のように私の胸を打ちぬいた。「どうして一所懸命走らなかったの?! 競争なんだから遠慮することないんだよ」。みんながドッと笑った。(一所懸命じゃなかったって? 私、頑張ったのに。遠慮してなかったのに) しかしその言葉は、ショックが大きすぎて口には出せなかった。 それは、「ビリで残念だったね」と言われるよりも、親を失望させたことがわかる分だけ、もっと悲しい評価だったのだ。「みらいちゃんは優しいから、友達を勝たせてあげたんだね」というおじさんの言葉も、私の屈辱感に追い打ちをかけた。 頭の中は真空になり、溢れそうになる涙を必死にこらえていたのは、幼いながらもプライドがあったからだろう。 胸の奥に突然生まれた大きな重い塊は、美味しいお弁当を食べても消えはせず、それ以来今日まで「劣等感」として潜み続けた。それは、大人になっても気楽にスポーツを楽しむことをさせてくれない。 私にとってのスポーツは、他人事として見る時にだけ楽しめるものなのだ。
2021年03月20日
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「豚もおだてりゃ 木に登る」(45歳) 今年はやけに慌ただしい。それも、自分のせいというより、まわりに振り回されている。決して自分から選んだ忙しさではない。 雪融けの頃に、実家の95歳の祖母が肺炎で入院。あっという間に「ねたきり老人」となり、私は母と交代で付き添い、付き添い後も在宅介護の協力者とならざるを得なかった。明治女のしぶとさで、何とかもとの状態に回復し、ほっとした時は夏になっていた。 夏休みに入るやいなや、本州から息子が友達を連れて帰省した。台風のように彼らが去ったら、次は茨城から妹家族が里帰りした。甥の不登校問題などを抱えているので、ほったらかしにもできない。妹の相談や愚痴に付き合ったり励ましたりする時間が多かった。 彼らが帰る頃に、私の中学時代の同期会があり、担当幹事だった私は25年ぶりの再会ドラマのために、電話連絡や準備作業にきりきり舞いだった。 みんなに喜ばれてホッと一息つく間もなく、今度は実家の母の入院である。69歳の母には、様々な出来事が負担だったようだ。 95歳の祖母と75歳の父をほおってはおけず、私は実家と自宅を往復したり泊まりこんだりの生活とあいなった。 私もいささか疲れてきて、病気にでもなりたい気分だったが、幸か不幸か不思議と元気である。「豚もおだてりゃ木に登る」という。「おまえがいてくれるから、本当に助かる」「貴女のおかげで本当に楽しかったよ」「お姉ちゃんがいてくれて良かったよ」 そんな声に背中を押されると、力が沸き上がる。 私の血液型はB型。ほめられればそれがお世辞とわかっていても、嬉しくなってしまう体質のようだ。得なのかそんなのかわからなくなる時もあるが、みんなが喜んでくれるなら、それでいいことにしておこう。 しかし、私自身がやりたいことだってまだまだある。それには、身内以外からのエールもほしいのが本音。 私は豚だ。色々な木に登りたい豚だ。どうぞ皆さん、この豚をほめておだてて、沢山の木に登れるように応援してください!!読み直して、こんな時期があったんだなと思い出している。喉元過ぎれは熱さ忘れるというが、すっかり忘れていた。おもえば、この後母が退院してから、祖母の施設入所へと事態がすすんだと思う。それまでの祖母は、ショートステイは母の骨休めのために利用していたが、入所までは本人も全く考えていなかったはずだ。その頃の顛末は、今思い出しても胸苦しくなる。だから、このエッセイを書いた頃は、まだ本当の大変さの助走期間だったともいえる。先生の評価は◎。私のエッセイの中でのお願いに応えてくれたのだろう、上手に褒めておだてて励ましてくれている。
2021年03月12日
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40代から50代のころ、朝日カルチャーセンターの「エッセイの通信添削」を受けていたことがある。講師は斉藤信也先生で、エッセイの評価は💮、◎、〇で、先生から見て「これは駄作」と思ったものは評価なしだった。先生は褒め上手で、駄作であったとしてもどこかは褒めてくれていて、褒めて育てる先生だった。下記のエッセイは◎。「許せない」(45歳) 夏休みに長男が久しぶりに帰省し、何年かぶりの家族キャンプを楽しんだ。ハプニングがキャンプの醍醐味ではあるが、今回は笑っていられない出来事に遭遇した。 場所は積丹半島のこぢんまりとした入江。一軒の民宿の前の砂浜に、色とりどりのテントが並び、私達もその一角にテントを張った。 やがて太陽も沈み、あたりは闇に包まれた。バーベキューの残り火を囲み、他愛もないおしゃべりを続けていた十時過ぎ、後方の民宿から子どもを含めた三十人ほどの集団が、大量の花火とビールを抱えて嬌声と共に浜に現れた。 民宿を借り切っての、職場の家族慰安旅行のようで、先程までは民宿から宴会のような騒ぎ声が聞こえていた人達だった。 やがて、華々しく花火が始まった。小さい子ども達もいたが、この夜ばかりは夜更かしも許されるのだろうと見ていたのだが…。 何とこの人たち、花火の後始末をする様子がないのだ。打ち上げ終わった花火の残骸はそのまま放置して、次々と場所を変える。 見かねた夫が、近くにいた男性に「すぐに始末しないと危ないし、わからなくなるよ」と声をかけたが、ビール片手に「大丈夫、大丈夫、後でやるから」と、気にする様子もない。(ホントカイナ?) やがて手に持つ花火になり、子供達は大喜び。一人の子どもが、火の消えた花火を手に持ち、傍らの大人に聞いている。「ねえ、これ、どこに捨てるの?」 これでやっと後始末体制に入ると思いきや、彼は無造作にそれを受け取り、海に向かってポイ。見ている仲間も何も言わない。 私達は顔を見合わせて絶句し、注意する勇気さえ失った。 子供達の傍らで、「アブナイ、アブナイ」の叫び声と共に、ねずみ花火飛び回り、爆竹は鳴り響く。 どこかで、「いい加減にしろ!」の怒鳴り声が聞こえたが、間髪入れずに「お前ら、何しに海に遊びに来てるんだ!」ときた。 ユ・ユ・許せない! 何も言えない自分たちもナサケナイ。人間不信になりそうだ。多分、私達の家族キャンプはこれが最後だったと思う。その後次男も就職して家を離れ、何年かは家族が揃うことも少なくなったような気がする。でも、このエッセイを打ちながら、当時のことがありありと思い出された。最後の「お前ら、何しにキャンプに来てるんだ」の怒鳴り声で、私たちは彼らの集団がまともではないと感じた。だから、相手にすることをやめてテントに引っ込んだような気がする。あの時の子ども達は、今頃どんな大人になっているのだろう。
2021年03月10日
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「母」(44歳) 私が結婚を考えている人として夫を初めて紹介した時、母の腹立ちぶりはものすごかった。 三人姉妹の長女である私に、両親は夢を抱いていただろうし、思い入れも強かった。だからこそ私は、親の束縛からの脱出手段として、結婚を望んだ節もある。 すんなり認めてもらえるとは思っていなかったが、母の怒りは私の予想をはるかに超えていた。 私も認める彼の弱点は、母から見れば決定的に許せないことだった。それどころか、長所までもがことごとく欠点に変換されてしまう。「彼はとても優しい人だよ」「それは、優柔不断ということだ」「兄弟同士、とっても仲がいいんだよ」「結婚したら、自分の身内だけを大事にするに違いない」「おとなしいけど、芯はしっかりしていると思う」「いいえ、何を考えているかわからない」「私は自分の目を信じたい」「あばたもえくぼになっている目に、何が見えるというの」 彼が何度両親に会いに来てくれても、母はそっぽを向き、あからさまに嫌な顔をした。父や祖母が穏やかに接してくれたことが、唯一の救いだった。(結局私たちは、粘り勝ちで結婚したのだが…) ショックであった。母が自己中心的で自分の感情に正直(?)な点を嫌っていたけれど、この時私の胸には、決定的な母への嫌悪感が生まれてしまった。ー母のようにはなりたくないー それが、それからの私の生き方の原点になった。しかし悲しいかな、子どもを𠮟る口調、子どもに対する感情、様々な育児の場面で、自分の中に母を見る。 年と共に、「お母さんに似てきた」と言われることも多くなり、イヤーな気分と共に、大きな不安が私の中に湧き上がる。 息子が結婚相手を連れてきたとき、私は一体どんな態度をとるのだろうか。【評】母の言動に的を絞ったのは良かったのですが、あまりに「おおまか」でした。事象の背景に潜む「母の人間像」を、もう少し色々と示したかった。ということだったが、800字では少し無理かもとも書かれていた。ちなみに、その後の息子の結婚や職業選択の時には、私は母とは真逆の対応をしている。母はしっかりと「反面教師」の役割を果たしてくれたといえよう。
2021年03月09日
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「言葉」(44歳) 真一、二十五歳。アテトーゼ型重度脳性麻痺による体幹及び四肢障害と言語障害。 彼は母親と妹の三人暮らしだ。母親は彼が生まれて以来、彼の命を守ることと、そのためのリハビリに明け暮れてきた。父は真一の将来を心配しながら、彼が十五歳の時に癌で亡くなった。 今の彼の楽しみは、テレビのお笑い番組を見ることと、車いすで散歩に連れて行ってもらうこと。 彼が自分でできることはほとんどない。全身の不随意運動と緊張が強すぎて、自分の意志通りに動かせる筋肉がほとんどないのだ。 彼を初めて見た人は、一瞬目をそむけてしまう。変形した手足、そっくり返り常にクネクネ動く首、歪んだ口元から流れ出るよだれ。うめき声にしか聞こえない、絞り出すような声。 彼が生まれた時、こんなに長く生きるとは誰も思わなかった。しかし、彼は生きている。 幼い頃の真一は、体の障害は重かったけれど、精神的・知的な発達は順調だった。普通の赤ちゃん同様に人見知りをし、あやすと嬉しそうに笑顔を見せた。自動車のおもちゃが好きで、保母に手を添えられて動かして遊ぶのが好きだった。 お気に入りの保母が別の子どもと遊んでいたら、ヤキモチを焼いてポロポロ涙を流した。 人が話すことはほとんど理解し、知的な好奇心も旺盛で、五歳頃には文字にも興味を示した。しかし、時には呼吸困難を起こすほどのマヒは、彼から言葉を声で伝える能力を次第に奪ってゆく。 さらに、全身の激しすぎる緊張と不随意運動は、文字を言語化して意志を伝える手段に高めることを妨げ続けた。 学齢に達し、養護学校の訪問指導を受けることになり、これで彼も勉強ができると期待したが、中学生になる頃には「知的障害もある」言われるようになっていた。入退院を繰り返し、伸びようとする芽を摘まれ続け、彼の知的好奇心は減退してしまったのだろう。 父親が亡くなった時、彼は一時期、重度心身障碍者の施設に入った。彼の意志や気持ちを理解できない介護者との生活で、彼の意欲はとどめを刺された。 真一のあまりの怯え方に、意を決して母親が再び自宅に引き取った時、彼は見た目にも知恵遅れの重度障碍者となっていた。 彼がせめて、言葉を操る術を見つけていたら、たとえ体は不自由でも彼の心は豊かに羽ばたくことができただろう。今ならば、コンピューターなども随分開発されている。しかし、彼には遅すぎた。 真一の母親は、自分に言い聞かせるように言う。「この子に、普通の人と同じように考える力が残っていたら、今みたいに気楽に生きられない。真一が知恵遅れになって良かったよ」。 母親の介護の限界はすぐそこに見えている。自分の最小限の気持ちを理解する人から再び離された時、次に彼は何を捨てるのだろう。 表情豊かだった幼い頃の真一。発することのできなかった彼のおびただしい言葉たちは、もう戻ってはこない。彼と最後に会ったのは、彼が30代後半の頃に市役所の窓口でだったと思う。その時もまだ、母親と自宅で生活していた。多分、ヘルパーなどの協力も得ながらだと思うが、何と彼は私のことを覚えていた。中年に差し掛かってはいるが、顔貌は昔のままで、私が思わず声をかけて名乗ると、嬉しそうに「わかるよ」というように首を振り笑顔を見せてくれた。お母さんは「もう限界だよ。でも、先のことはあまり考えないようにしてる」などと言っていた。私は「体に気をつけてね」と言うことしかできなかった。心のどこかでいつも「真一とお母さんどうしてるかな」と案じながらも、こちらから声をかける勇気も出てこない冷淡な私だ。こう書いていても、なんだか胸苦しくなってくる。このエッセイは◎だったが、内容の重さに先生はこの作品で感じたことをたくさん書いてくれただけだった。ちなみに「真一」は仮名です。
2021年03月08日
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このブログを見に来てくださる方、過去に書いたものばかりでごめんなさい。全部載せるつもりはありません。◎評価をしてもらったエッセイだけにしています。「苦手なもの」(44歳) 若い頃から、苦手なものの一つが電話だった。 大体、人と話すこと自体があまり得意な方ではなかったので、顔が見えない相手と話すのは一層不安でならなかった。 そんな私も、仕事をするようになると嫌でも電話に慣れざるを得ず、おかげでかつてのような苦手意識は卒業できたつもりだった。 ところが、とどまることのない技術開発は、新しい苦手なものを作り出してくれた。あの憎き「留守番電話」である。 数回の呼び出し音が鳴る。(留守かな?)とガッカリしかけた時にやっと繋がり、ホッとするのも束の間「ただ今留守にしております…」の無情な声。そして、あの耳障りなピーという音の後に、それこそ機械だけを相手に話さなくてははいけないのだ。 あの「ピー」が聞こえると、私は反射的に声を出す勇気を失い、思わず受話器を置いてしまう。 半年前、一人暮らしをしている大学生の息子が電話をつけた。バイトだ、部活だと忙しいようで、留守番電話の時が多い。私は例のごとく、「ピー、ガシャン」を繰り返し、ついに息子に叱られた。「お母さん、苦手なのはわかるけど、一言でいいから何か言ってよ。夜一人の部屋で、無言電話を聞く僕の身にもなってくれない?」。 愚かにも私は、おぞましき無言電話の主になっていたのだ。 かくして私は、留守番電話の所有者にはよほどのことでない限り電話をかけられなくなり、せっせと手紙を書いている。これは、長男が大学生だったころに書いているので、すでに26年前。まだ、留守電機能はついていても、発信者表示ができない電話だったようだ。こんなことを書いていた私も、次第に留守電には慣れてきたし、そもそも携帯を持つようになったので固定電話そのものを使う頻度は少なくなっている。ただ、最近はこの留守電と発信者表示は便利に使わせてもらっている。常に留守電状態にしていて、発信者非表示や、0120から始まる番号、携帯からの電話は在宅でも取らないことにしている。迷惑電話と詐欺電話防止が目的で、携帯からでも本当に用事のある人は音声をいれてくれるので、すぐに掛けなおせる。その時には、留守電にしている理由とすぐに出ないお詫びをすることは勿論である。さらに、メールや携帯のおかげで、手紙を書くことはほとんどなくなってしまい、すっかり文字が書けなくなってしまった。(涙)
2021年03月07日
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添削教室では、一年に1~2度くらい、通常の倍の文字数(600字の原稿用紙二枚)で書くことが出来る。通常は600字程度なので、書きたいことを絞り込む作業が必要だったが、その倍となると思いのままに書くことが出来た。このエッセイは、常日頃の思いのたけを書いたようで、そのせいかあまり手直しがなかった。評価は◎だった。「マニュアル人間」(44歳) 要領が悪いくせに、マニュアルが苦手だ。マニュアル通りにやった方が効率的だし、間違いも少ないのだが、根が天邪鬼なのだろうか、どうしてもそこに自分なりのアレンジを加えたくなってしまう。 しかし、私のような者は今の時代では少数派のようで、多数の人に効率的に動いてもらうためにはそれが必要なことも多い。特に若い人は、マニュアル通りに仕事をするように育てられている面があり、それがないと一歩も前に進めない人すらいるのだから。 というわけで、マニュアルは普及する一方で、マニュアル信仰人間とはぶつかり合うことも多くなる。「そんな風に変えていいんですか。指示通りにしないと後でクレームがつきませんか?」。「今までと同じじゃ、つまんないと思わない? 試してみたら、新しい展開があるかもしれないでしょ?」「でも、そのやり方ではちょっと手間がかかるんじゃないですか?」「人間相手の仕事なのに、手間を省いてどうするの。それが仕事でしょ!」私は、年長者であることをかさにきて、若い後輩に対して強引になることがある。彼は、(仕方がない。勝手にやらせよう)という態度になる。そして時々、予想以上に苦労した挙句、時には無駄骨に終わったりする私に、それ見たことかと冷ややかな目を向ける。 「マニュアルは、多くの経験から導かれた、最大公約数の公式みたいなものですから、それが一番間違いがないんです。多くの人が分業で働くシステムの中では、それを活用しなければ無駄が多くなって困ります。無駄を省いて余力が生まれれば、新しい仕事もできるじゃないですか」。 理路整然と、マニュアル青年は私に説く。そんな時私は、心底自分の無能力さを呪うし、次からは絶対に前例に従おうと思うのだが、工夫の余地ありと思った時には、やっぱり違うやり方を考えてしまう。 確かに今は、自己完結的な仕事は少ない。多かれ少なかれ、仕事の一部分をこなしていることが多い。だからコンピューターも、人間同様に仕事仲間となってくる。 メカや数字に弱く、機械とはあまり仲良くなれない私は、私よりも機械と向き合うことが楽し気に見えるその青年が、コンピューター(ロボット)に近いのではないかと思ったりする。 考えてみよう。彼とコンピューターの違いは何なのか。少々聞き取りにくい声で話すこと、長い足で歩くこと、お酒を飲んで酔うと絡むこと…。 しかし、だ。声を出したりマニュアル通り(入力通り)に動いたりは、ロボットだってする。お酒を入れたら酔った態度になるように設定すれば、機械だって酔う(ように見える)かもしれないではないか。とすれば、彼の言う「余力で新しい仕事を創造する」のが人間の証明か? だが、またまた、しかしだ。彼が仕事を創造したのを未だかつて見たことがない。いよいよ彼が、ロボットに見えてきてしまった。【評】今の若い世代の特徴は、「教えられたこと、指示されたこと」しかできないという弱さです。自ら新しいものをクリエイトする能力が乏しい。長きにわたる入試制度(幼稚園から「正しいお答えの仕方」を習う制度)が身についてしまっているのでしょうか。コメントはこの四倍くらい書かれていた。先生も同様の気持ちがあったのだろう。あの頃から、教育改革もすすめられて「ゆとり教育導入」から「ゆとりは学力低下につながる」と元に戻されたり、入試改革もされてきたけれど、私が書いたような傾向は改善されたのだろうか。マニュアル人間にプラスして、忖度や空気を読む術までマニュアル化されてきたのではないかと心配になる。
2021年03月05日
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下記のエッセイは、◎だった。これも、私自身の正直なことを書いたものであり、この傾向は今でも健在だ。ただ、年のせいかテレビのドキュメンタリーなどで、いつしか涙がでていることも多くなった。年を取ると涙腺が弱くなるというがこれは事実で、笑い涙や寒暖の差などでも涙が出やすくなっているような気がする。「涙」44歳世の中には涙もろい人がいる。涙と感情とは密接につながっていることが多いので、そのような人は「感情豊か」「心優しい人」など、人間らしさの証明として良く評価されることが多い。それに比べて、私は「泣かない人」だ。卒業式、結婚式、お葬式など、ほとんどの女性が涙を流す時にも、私の瞳に涙があふれることは珍しい。私達の結婚式の時も、誓いの言葉を読みながら泣き出したのは夫であった。私はハラハラしながら、心の中で(ガンバレ、もう少しだから。できることなら代わってあげたい)と思っていたものだ。数年前、高校二年だった息子がオーストラリアに交換留学するのを空港で見送る時、周囲の誰もが私の涙を期待していた。しかし私は、笑顔で息子と握手をし、「元気でね。いくら苦労しても一年間で死ぬことはないし、一所懸命やっていたら助けてもらえるから大丈夫」などと励ましていた。周りの人は、涙を誘う感動の場面がなくて失望したことだろう。正直言ってそんな時、涙が出た方がどんなに心安まるかと思う。ご期待に応えられない申し訳なさに、ちょっと肩身が狭くなる。しかし、だ。涙を浮かべて息子の飛行機を見送った夫は、その飛行機が飛んでいる間中、不安で眠れない私を尻目に高いびきだった。お葬式で滂沱の涙を流した直後に、飲食に興じることはよくある光景。一方私は、喉が詰まったようになり食べられないことが多い。私が人間らしい感情に乏しい人間とは言い切れないと思うのだが。【評】ここには、ギクリとするような、また思わず苦笑するような「人間のタイプがとても良く書けている。評のコメントはもっと長かったのだが、ポイントのみ。毎回、先生の長文のコメントが楽しみだった。何人の添削をなさっていたのかわからないが、先生も文章を書くことがとてもお好きだったんだろう。そういえば、松本清張さんとは親しかったようで、作家となった松本清張氏と話してその大変さを知り、自分は作家にはなれないと思ったとお聞きしたことがある。清張氏は「作品を書くということは、空気中の水分を水にするようなこと」と言っていたとか。確かに、そんなことを言われたら、「自分には無理だ」と思っても不思議はないと聞いていた。ひょっとすると清張氏は、斎藤先生が作家になって自分を超えるのを牽制したかも、なんて思ったりして。またまた想像たくましい私の妄想です。
2021年03月04日
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下記のエッセイは◎(二重丸)を貰っている。先生の評価は、〇 ◎ 花丸 と三段階のようだった。「免許」44歳 私は免許を持たない。現代社会では、免許がなければとても不自由に感じるが、自分には免許を持つ資格がないと決めている。 資格欠如の最大の理由は、時々意識が現実から遊離する癖があるからである。 簡単に言えば、「心ここにあらず」の状態になりやすいのだ。赤信号なのに渡ろうとしたり、歩道の真ん中にある電信柱にぶつかりそうになったりと、そんなことが子どもの頃からしょっちゅうある。(幸いなことに、間一髪で大事には至っていないが)。 二つ目は、反射神経が鈍いこと。小さい頃から何をするにもトロくて、いつもバカにされていたから間違いはない。 三つ目は、一人でブラつくのが好きなこと。 自転車でも徒歩ででも、知らない道を辿りつつ、様々な連想を楽しむのが大好きな私である。おまけに、ジェットコースターなど、スピード感のあるものが好きときている。(走るのが遅い反動か?)。 鈍くて空想癖がある私が、免許を取り車を持ったらどうなるだろう。暇を見つけては走り回るようになり、スピードはエスカレートしてゆき、その結果どのようなことが起きるのか、想像するのも怖いくらいだ。 というわけで、殺人者にだけはなりたくない私は、誰が何と言おうと自動車免許は取らないのだ。「そんなこと言ったら、免許が取れなくなる人いっぱいいるよ」、という人がいる。その通り。取ってはいけない人がどんどん免許を持つから、交通事故の犠牲者も増えるのではないか!【評】今回の文は洒落ている。クルマをやらない理由を書いてある。それが目的のようである。が、よく眺めてみると真の目的は、今日のクルマ社会の根本的問題点をズバリ痛烈に批判するのが狙いだった。うーん、なかなかうまいと感心しました。というようなコメントが書かれていたが、そこまで考えてはいなかったと思う。単に自分が免許を取らない理由と、少しばかりの社会批判をしただけだったので、ちょっと恥ずかしくなったことを思い出した。それでも、たとえ勘違いであったとしても褒められたら嬉しいもので、次に書く意欲にはつながる。斎藤信也先生は、とても良い先生でした。
2021年03月03日
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下記のエッセイのお題は「眼鏡」だったはずだ。当時の私はメガネをかけてもいなかったし、なかなか題材が思いつかずに「色眼鏡(偏見)」で書いたのだと思う。「色眼鏡(偏見)」 44歳障害を持つ人達との活動に参加していると、人間はこんなにも自分と違うものに対して偏見を持ちたがるものなのかと、ショックを受ける時がある。福祉映画の上映会を企画した時、仲間入りしたばかりの松葉杖(長く移動する時は車いす使用)の若い女性と二人で、受付と会計を担当した。彼女に前売り券の集計も併せて行うことを説明し、記録用紙と私の電卓を渡しながら、「これお願いできる? この電卓で大丈夫かしら?」と聞いた。他人の電卓では使いづらいだろうし、人によっては単純計算はそろばんの方が良いからである。(実は、私がそうだった)それまで笑顔だった彼女の表情が、サッと固くなった。「大丈夫です。できますから」。その時から彼女の態度はよそよそしくなり、私は何が彼女の気分を害したのかわからないまま、内心(障害者ってひがみっぽいところがあるから…)などと思っていた。後日、彼女が「障害者だから電卓も使えないと思われたのかも」とこぼしていたと人づてに聞き、互いの偏見の眼鏡をはずすことの難しさを痛感した。今は大の仲良しの彼女は、先日某コンサート(自由席)で、一番後ろにしか座れなかったとぼやいた私に、こう言ったものだ。「そんな時は、私の車椅子を貸してあげるよ」「そうだね、その手があったか。でも、みんなにどう見られるか怖くて、できそうもないよ」色眼鏡をはずすのは本当に難しい。このエッセイへの評価は可もなく不可もなくという感じで、次のようなコメントが添えられていた。「目の付け所や着想はなかなか。しかし、作品から訴えてくるものが今一息であっけない感じ。とても大きいテーマなのに。それに、これは偏見からではなく「ついうっかり」が誤解されたので、題をつけるなら「言葉は怖い」でしょうか。確かに言われる通りだと思う。無理やりお題にこじつけた感じが、私でもする。それはともかく、ここに書かれているエピソードは、これを読むまですっかり忘れていた。確かにそのようなことがあったような気もする。しかし、彼女との思い出はそんなささやかなことよりもっとドラマティックなことがいくつもある。彼女と付き合うことで学んだことはとても多いので、そのうちにそんなことも書けたらいいなと思う。
2021年03月02日
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「テレビ」43歳 北海道の農家であった我が家にテレビがやってきたのは、約三十五年前、私が小学校に入学したころだった。 親孝行な父が、脳卒中で体が不自由な祖父のために、近所に先駆けて奮発したのである。 テレビは茶の間の正面にドンと据えられ、それが見える特等席に祖父の椅子が置かれた。隣近所にはまだテレビはなかったから、夕方までは近所の子ども達が、夜になれば農作業を終えた大人達が、テレビを見るために集まってくる。 持ち主の子どもであるはずの私達(私を長女とする三姉妹)には、番組を選ぶ権利はなく、人の輪の頭越しに覗いている状態で、茶の間で食事もできず、台所の片隅でご飯を食べたりしたこともあった。 祖父は体や言葉は不自由ではあったが、理解力はあったので、村の人達の輪の中でいつも楽しそうに笑っていた。 プロレスや相撲がある時は人の数はさらに膨れ上がり、私達のような子どもは別の部屋に追いやられ、みんなの笑い声や歓声を面白くない気分で聞いていたものだ。 あの時のテレビは、まさに地域の娯楽やコミュニケーションの中心であり、情報の発信源であった。 障害者の祖父もしっかりとその中心にいたし、時には追い払われていたとはいえ、私達もみんなの傍にいて、近所のおじさん達に可愛がられていた。 テレビがある意味で悪者にされるようになったのは、いつの頃からだったろうか。このエッセイへのコメントは、「別段変わったことを書いているわけでもないのに、何となくユーモラス。あなたは自分では気づいていないかもしれないが、ユーモリストのセンスがある。この長所を磨いてください」と書かれていた。きっと嬉しかっただろうと思うし、磨きたいとも思っただろうけれど、どのように磨けばいいのかわからなかったことだろう。まあ、今でもわからないままと言える。
2021年03月01日
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ファイルをちゃんと整理したら、エッセイ通信講座第一作目は下記のものだった。慶應通信もこの年から始めているので、仕事を辞めて自分のために栄養補給をするために張り切っていたのだろう。最初に出したものだが、これは普通の出来だったようだが、コメントには「ギクッとする内容で、説得力のある作品。これからも頑張って!」とあった。「薬」(43歳)私が三十代に突入したころ、妹はデパート内の薬局の薬剤師だった。仕事柄手に入る薬メーカーからの試供品を貰ったり、時には効能を確かめる実験台にもなったりしていた。妹は、「試してみないと、自信を持って勧められないからね」と弁解していた。とは言え、私の家族はほとんど風邪もひかないので、協力できるチャンスは少なかったのだが。ある日、妹は一瓶の薬を私に手渡した。「お姉ちゃん、これは絶対に飲んでみて。他人にはなかなか頼みにくいし、もし効いたら人生変わるかもよ」。それは、ニキビ跡がきれいになる効果のある薬だという。私は高校時代に、あの松井君もビックリのニキビで、そのデコボコが顔面にはびこっていたのである。大喜びで協力したのは、言うまでもない。指示通りに一日三回、期待に胸を膨らませながらその薬を飲み続けた。一週間後、妹は私の顔を見て満足そうに言った。「わあ、効いたね。すごくきれいになったよ」。私自身、何となく肌がスベスベしっとりなったような気がしていたので、「ヤッタ!」と思ったものである。しかし、服用をやめた次の日の朝、鏡を見た私は愕然とした。肌は乾燥して、ガサガサのボロボロ状態だったのだ。薬に頼り切ってしまった私の肌は、自分自身で潤いを保てなくなったようなのだ。私が薬を素直に信用できなくなったのは、その時からである。
2021年02月27日
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40代から50代のころ、朝日カルチャーセンターの「エッセイの通信添削」を受けていたことがある。講師は斉藤信也先生であったのだが、当時も十分ご高齢だったので、もう亡くなられたかもしれない。その頃の私は、慶應の通信教育で学び始めていたので、通信教育2本立てだったようだ。昨年、古い資料などを整理していたら、エッセイ通信講座の分厚いファイルが出てきた。毎月一回、先生の出す「お題」で800字の原稿用紙にエッセイを書き、それを添削していただくという形だった。その月に示された「お題」で何を書こうかと色々と考えて、ワープロかパソコンで下書きして原稿用紙に書き写していた。先生はそれを赤ペンで添削してくださるのだが、添削よりも添えられたコメントや小コラムがとても勉強になったし、毎月とても楽しみだった。ぺらぺらと見ていたら、これを捨てるのがもったいなくなったので、あらためてパソコンに打ちなおしている。今見直しても、我ながらなかなか着想が面白いじゃないかとか、先生に褒められたものなどは、読み直しても楽しい。ということで、もう15年以上も前のものだけど、ブログに転記してみたいと思う。原稿用紙には、書いた当時の年齢が書いてあるので、それも書いておく。「貧乏くじ」 (51歳)生きていれば、誰でも何回かは貧乏クジを引くことがある。「クジ」というものは確率に支配されるものだし、人生の方も似たところがあるから、そうそういつも「当たり」を望むのは虫がいい。と思う私は、ここぞという時に貧乏くじを引かぬよう、大したことがないものは「貧乏くじらしい方」を積極的に引くようにしている。そのせいか今までの人生で、耐えられないほどの不運に見舞われたことはない。しかし、個人レベルの貧乏くじは自分の才覚で何とか処理できるだろうが、国家レベルとなるとそうはいかない。この日本で「貧乏くじ」を引きっぱなしなのは、何と言っても「ちゅらさん」の沖縄だろう。沖縄の歴史にさほど詳しくはないけれど、江戸時代末期や第二次世界大戦の終戦前後はもとより、敗戦から現在までを概観するだけでも、この長きにわたる貧乏くじは言語に絶する。しかもこの先もどこにバトンタッチできるか、皆目定かでない。またもや起きた駐留米国人による暴行事件で、沖縄の人たちの怒りは噴出している。それをきっかけに、「地位協定見直し論議」に拍車がかかっている。当然であり、私たち国民はそのゆくえを厳しく見てゆくべきだろう。ついでに指摘するべきことがある。この地の「貧乏くじ」は、確率に支配されるクジではない。人間が作り出した「人為的貧乏くじ」である。人間集団とは、常にどこかにスケープゴートを用意しておくという、狡猾な知恵を備えた集団でもある。時には、その罪悪感を薄めるために「運や偶然」のレベルの問題にすり替えることも多い。抽象的な言葉がうさんくさく感じるのは、そのせいではないだろうか。さて、間もなく参議院選挙だ。知らないうちに必然的に貧乏くじを引かないように、しっかりと見極めることが必要だろう。しかし、この程度の目と頭では、どうにも本質を見破ることが出来ない。仕方がない。運を天に任せ、自分の勘を信じて、一票のクジを引くことにしようか。これは、着想が良いと褒められたもの。しかし、導入部はいいが最後のまとめがわかりにくいとのご指摘も。ほかにも、色々とアドバイスはされているが、私の力量では800字ではとても無理な注文だと今読み直しても思う。大幅に自分の文章を書き替えられたような部分は元の文章のままにして、削除された部分はそのままにしてある。
2021年02月22日
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