PR
フリーページ
「忘れるということ」
(45歳)
アメリカでは多重人格に苦しむ人が増えているというテレビ番組を見た。あのジキルとハイドのような二重人格どころではない。二十を超える異なる人格が、次々と一人の人間の中で入れ替わるケースもあるそうだ。本人の恐怖はいかばかりかと胸が痛む。
多重人格は、幼い頃の虐待体験に原因があるものが多いとわかってきたらしい。
幼い心に受け止めるにはあまりにも辛い体験が、それを記憶から消そうというメカニズムの始動を促し、そのための究極の手段として、その記憶を持たぬ別の人になるということか。
それにしても人間というものは、自己を防衛するために、何としたたかに本人の意志に関わらぬ働きをするものだろうか。ストレスがあまりに大きい時など、記憶をつかさどる脳組織「海馬」が、委縮することさえあるそうだ。
私は思い出す。
職場の中で人間関係や、仕事と自分の能力の問題に悩み、強いストレスにさらされていた頃、記憶が欠落したり同僚の名前を忘れたり、大切な場面で直前の会話を失念したりして、自分の脳みそが「麻婆豆腐状態」になっていると感じた体験がある。あの時の恐怖感、私の海馬も相当委縮していたのかもしれない。
「忘れる」ことは、心身の防御反応なのだろう。自分で気付かずとも、心(脳)そのものが(危ないよ!)とサインを出しているのだろう。
私はサインが出やすいのか、海馬が欠損しているのか、仕事を辞めてストレスが激減した今も、忘れん坊ぶりは健在だ。
あの頃、被害を最小限に止めるために、自分の物忘れを「М(私のイニシャル)症候群」と名付けて、自分の健忘をPRするという戦略に出た後遺症もある。
人間、どうしても覚えておかねばならないことはそう多くはないと思うが、思い出もなくなり自分を失う恐怖は、時には死にも匹敵する。
自己破壊にまで至るダメージを自他の心にも及ぼすのが、われわれ人間でもあるのだ。
解離性障害
の人に出会ったことはなかった。
自分の健忘が仕事で重大な失敗に結び付くのではないかと感じていた時は、通常のストレスに加えてさらなる強いストレスとなった。
その時に一番恐れていたのは、「若年性認知症ではないか」ということだった。
幸い、エッセイに書いているように、自分で「М症候群」と名付けて吹聴したことで、被害を最小限にできたと思っている。
誰かが物忘れをした時に「あ、私もМ症候群だ」と言われたり、私が何かを失念した時「あ、みらいさんの病気が出た!」なんて言われながらフォローしてもらい、大事にならずに退職できたことは本当にありがたかった。
一人の中年女性は、幼児に戻ることが度々あった。
なぜ彼女がそのような障碍を持つに至ったのかはわからないが、きっと過酷な子ども時代だったのだろうと想像していた。
そういえば、最近は多重人格という言葉をあまり聞かないような気がする。
しかし、そのような症状で苦しんでいる人は、決して減ってはいないだろう。
治療してもなかなか根治は難しいだろうから、日常生活や仕事にも大きな支障が出るはずだ。
私のささやかな体験ですらそうだったのだから。
私はあの時、とにかく仕事で人に迷惑をかけないために、自分の物忘れのひどさを周囲にカミングアウトすることにした。
隠したらいよいよ困ることになるのがわかっていたので、恥も外聞もなかったというのが正直なところだ。
それでも、このまま仕事は続けられないと思い、結局仕事を辞めるに至るきっかけになったのは事実だ。
だが、何事にもマイナスとプラスがある。
私は仕事を辞めたことで、通信で大学を卒業できたし、福祉以外の世界の人達とも出会い、地域活動やボランティア活動をすることもできた。
「認知症ではないか?」と恐れていたがそうではなかったようで、無事に大学も卒業できたのだ。
もしも今、強いストレスにさらされて記憶障害に近い状況に悩む人がいたなら伝えたい。
決して一人で悩まずに、周囲の人(家族や同僚、友人たち)に困っていることを話し、助力を求めてほしいと。
一人で悩みを抱え込むこと、自分で何とかしようとすることは、あまり良い結果にはつながらないということは、体験的にも、その後学んだことでも確かだと思う。
若い頃のポエムを見つけた 2024年11月04日
過去のエッセイ「我が心の石川啄木」 2024年03月14日
過去のエッセイ「人形ではないんだから」 2024年03月10日
キーワードサーチ
カテゴリ
コメント新着