先日から各メディアのトップニュースとして「京大入試カンニング事件」がこぞって取り上げられていることを憂えている。
■グローバル社会なんでしょ
常日頃、グローバル社会だ・時代だと声高に叫ぶマスメディアが、一大学(数大学)のローカル事件をこれほどに取り上げる事態は矛盾していないか。世界各地のニュースを届けることが彼らの順当な行為ではないか。
もっとも、常も米国やヨーロッパなど先進諸国にローカルな話題が中心で、 それ以外の国や地域の話題は極めて少ないのが現実。ならば標記事件を ローカルつながり で取り上げるのも、彼らからすれば道理のあることなのだろう。
徳の高いメディアを育てるのは、私たち一般市民である。安易なゴシップ報道に迎合し、自らの価値まで下げたくないものだ。
■カンニングの歴史は長いぞ
カンニングの歴史 は、試験のそれと同じまで溯れるようだ。
今日でもなおカンニングが存在することは、そのリスクを冒しても、その後の人生にハイリターン(学歴、社会的地位、金銭、、、)が期待できるという社会背景にも変わりが無いということを意味しているのだろう。
これまでの人生の中で、カンニングを見聞きしたことの無い人はいないはずだ。思い当たる節のある人もいるだろう。
たかがテスト一つで、人生を左右されてはたまったものではない。多くの人がそう考えたことがあるはずだ。その通りなのだ。誰もが人間らしく幸せに暮らす権利を持っているはずなのだが、しかし、現実社会はそうではない。
即ちカンニングは「この背景を排除できない社会システムの不備である」とも言える(かも)。
「世にカンニングの種は尽きまじ~ 」
■罪を憎くんで人を憎まず
誰がカンニングをしたのか、最も興味がある人は、テレビにまんじりと見入る当人、もしくは過去カンニングで入学した当人たちだろう。ここまで社会的に騒がれる(メディアが大きく取り上げる) とは、当人たちも予想しなかったことだろう。
心ある当人たちならば、十二分に制裁を受けたに違いない(心無い人はいつの時代にもいるものですが)。
「懐深くそっと未熟な若者を許し、当人たちが心を入れ替え、社会のお役に立てる日を期待したい。」と言える社会であって欲しいと私は思う。
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