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2016年春 「ここはどこでしょう? 」クイズ 2 (1の解答編)として紹介したものを書き換えました。ラストにBack numberを追加しました。室生寺(むろうじ) 2 女人高野(にょにんこうや)室生寺(むろうじ) の歴史興福寺(こうふくじ)の別当法相宗(ほっそうしゅう)如意山の宝珠女人高野(にょにんこうや)鎧坂からの金堂鎧坂から金堂も結構大変ですが、まだここは序章です。金堂から本堂、五重の塔と登り。それから奧の院までかなり体力が必要ですし、奧の院は危険度も増します。スニーカーで行く事を勧めます。場所は奈良の山奥。大阪からも時間的には遠くはありませんが駅からのバスのアクセスが非常に少なく不便です。土日や連休は寺を訪れる人の為に若干本数が増えていますが・・。山の中なのでタクシー代も結構高いです。前回紹介したのはAの橋からGの鎧坂を登った所までです。今回は金堂(黄色の丸)から先を紹介します。不便も含めて山の険しい石段でお年寄りには結構厳しい場所です。行けない人の為になるべく写真を詳しく載せる事にしました。国宝 金堂 建造は平安時代初期元は薬師堂だったと言われる。国宝指定の釈迦如来立像他、同じく国宝の11面観音立像は非常に細工が細やかで美しい。奈良、平安、鎌倉の時代に渡る国宝、重要文化財が安置されていて、ここは別料金で参拝できる。但し撮影は禁止。重文 弥勒堂 建造は鎌倉時代中期本尊、弥勒菩薩立像も重要文化財指定役行者(えんのぎょうじゃ)も祀られている。金堂からの弥勒堂弥勒堂では屋根の修復基金を求めています。ここはあちこち古びているので大口の寄付が欲しい所です。国宝 灌頂堂(本堂) 1308年建立(鎌倉時代)真言宗にとって重要な灌頂(かんじょう)を行う堂である。真言・天台密教の道場として日本の仏教に大きな役割を果たした寺である。寺の歴史は遡れば天平時代の770年~780年皇太子山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒の為にこの霊山にて僧が祈願した事がきっかけらしい。その後興福寺の大僧徒 賢憬(けんけい)(714年~793年)が朝廷の命により開山。しかしその後を賢憬に法相を学んだ高弟 修円(しゅえん)(771年~835年)が五重の塔など寺の建立に携わっている。興福寺(こうふくじ)の別当つまりこの寺は奈良時代、平城京を中心に栄えた仏教、南都六宗の中の法相宗(ほっそうしゅう)が縁起である。そして法相宗(ほっそうしゅう)の大本山が奈良の興福寺(こうふくじ)である。※ 奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つ賢憬(けんけい)も修円(しゅえん)もその在籍は興福寺であり当初この寺は興福寺の別当(興福寺の管轄の寺)であった。以降、真言・天台密教の道場としてこのあたりの山一帯は奈良仏教界の山林修行の霊地となったらしい。法相宗(ほっそうしゅう)西遊記でお馴染み玄奘であるが、彼はインドかたくさんの経を持ち帰る。そして彼は持ち帰った膨大な経典の翻訳に余生の全てを捧げたと言う。その玄奘の弟子が開祖した宗派で遣唐使によって日本に持ち込まれた。日本では8~9世紀に隆盛を極めている。賢憬(けんけい)も修円(しゅえん)も広めた当事者である。また修円は興福寺に伝法院を設立するほどで空海や最澄とも親しかったと言う。国宝 五重の塔 高さ16.10m我が国最小の五重の塔である。寺の創設にかかわった修円(しゅえん)の時代に遡る事かせ天平末から平安初期の建立らしい。五重の塔の左脇から奧の院に進む階段がつながっているのだが・・。下の写真地蔵が並ぶ向こうの山が如意山と言う。如意山の宝珠寺には弘法大師(空海)が唐の師匠、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)より授かったと言う如意宝珠が山に埋められた・・と言う伝承が残っている。如意宝珠は菩薩や如意輪観音が持っている珠で意のままにどんな願いも叶えてくれる? そんな宝珠が1946年(昭和21年)実際に発見されたと言う。現在、宝珠は元の石像納経に戻したと言われその姿形も場所も公開されていない。奧の院で僧の方に聞いたのだが、宝珠はこの地蔵の裏手の方あたりに埋められたと言う。盗難の問題があるのでそれが本当かどうか解らないが・・。奧の院に進む階段ここから本格的な山登りとなります。(このあたりはまだ楽です)七重ヶ岳山道なので登ったり下ったり・・。写真は後ろを振り返った所。パワーの満ちあふれた年輪の行った杉林です。杉は万葉の頃から霊力の宿る神聖な木とされてきました。このあたりシダ類の生息域で天然記念物に指定されていました。またまた階段です。今度は歩幅が短く登るのはともかく降りるのは怖かったです。傾斜角はかなり厳しく、しかも手すりが低いしつかまる程の安定も無い・・。ぶっちゃけておきますが、山道の脇は何気に僧や尼のお墓だらけです 一人だったら怖い山道です。段数は本に寄れば390段余り・・。ガタガタで足下悪く登りにくいのが難点です。何度か休み休みやっと奧の院が見えました。振り返った所階段を登り切って最初に見えた景色です。左が 重文 御影堂 鎌倉時代 (高野山御影道の形式だそうです)右が売店ここまで登った者にしか買えない可愛らしいお守りが売っている。スモールサイズの梅と桜のお守りである。ストラップに調度よいサイズです 奧の院如意山山頂です。反対のテラスからは里山の景色が眺められます。さて、正解は女人高野と別称のある室生寺(むろうじ)でした。女人高野(にょにんこうや)とは、紀州の高野山が女人禁制だった為に室生寺に参詣する婦人が増えた事によります。(1450年頃には参詣の記録が出でいる。)はっきり呼ばれるようになったのは興福寺からの独立後? からかもしれません。江戸時代1694年、五代将軍綱吉の時代、彼の庇護を受けていた真言僧護持院降光が興福寺からの室生寺の分離を要求。以降正式に女性にも開かれた真言密教の寺院となり、綱吉の生母、桂昌院の庇護があり、幕府より多額の石(こく)をもらい寺は興盛。尚、その後室生寺は1964年真言宗豊山派より独立して真言宗室生寺派の大本山となっています。ゴールデンウイークにはバスも増発。しかも長谷寺までの臨時便が寺の駐車場から出るようです。この日は平日。バスは日中の1時間に1本あればよい方。たまたま来たタクシーで長谷寺へ。山道なので走る走る。空いていたので6000円ちょいでしたが、通常8000円くらいかかるそうです。今頃はシャクナゲが開花して連休は見頃でしょう。Back numberリンク 室生寺(むろうじ) 1 鎧坂(よろいざか)まで室生寺(むろうじ) 2 女人高野(にょにんこうや)
2016年04月25日
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2016年春 「ここはどこでしょう? 」クイズ 1 として紹介したものを改めて寺の紹介としてタイトルを変えました。2部構成で2回目が解答編でした。ラストにリンク先載せました。室生寺(むろうじ) 1 鎧坂(よろいざか)まで門前町から室生寺(むろうじ)陀羅尼助(だらにすけ)と役小角(えん のおづぬ)と典薬寮(てんやくりょう)鎧坂(よろいざか)「ここはどこでしょう? 」クイズ 1 として紹介したものを利用しています。4月15日。と、ある山奥までやってきました。このあたり、かつては林業で栄えた街だったそうです。バスを降りて向かう先は非常に古いお寺です。観光バスで来る人は見ても気付かないかもしれません。赤い欄干の橋を渡るとそこは寺の敷地です。左に見える山も全て寺の境内です。門前町はノスタルジックな趣です。上のお店は薬局で、下の薬は胃腸薬「陀羅尼助(だらにすけ)」だそうです。和薬の元祖とも言われる「陀羅尼助(だらにすけ)」は吉野で造られる漢方薬で、黄柏(オウバク)の木の皮をはいで、煎じ薬にしたものだそうですが、その起源は1300年前に遡るそうです。陀羅尼助(だらにすけ)と役小角(えん のおづぬ)と典薬寮(てんやくりょう)修験道の開祖である行者の役小角(えん のおづぬ)が690年頃に起きた疫病から人々を救う為に大和国葛城の吉祥草寺の境内でキハダを煎じた(オウバクエキス)を作り飲ませたのが元祖らしい。食欲不振、腹部膨満感、消化不良、食べ過ぎ、飲み過ぎなどから整腸(便通を整える)まで幅広く利用できるので以来、黄柏(オウバク)エキス薬は山岳修験者の常備薬としても用いられたそうです。※ 他にゲンノショウコウなども入っているようです。修験者らは呪術の他、採薬、合薬術等の知識を持っていた。修行で山岳をを回る過程で薬草を見つけてくるだけでなく、植物の自生地から鉱脈まで見通していたと言います。その彼らの知識は宮廷官人の医薬として、また医師の養成および薬園等の管理をする典薬寮(てんやくりょう)との関わりも深かったようです。※ 732年(天平4年)には役小角の弟子で(韓国広足)が典薬寮のリーダー(典薬頭・てんやくず)に就任している。陀羅尼助と言う名前の由来は、僧侶が陀羅尼を唱えるときにこれを口に含み強い苦みで眠気を飛ばしていた事から? きているらしい 天然のヨモギを使用した草餅のお店です。五木寛之氏の百寺巡礼で紹介されたお店だそうです。ちょっと小ぶりで柔らかいお餅でした室生寺(むろうじ)に渡る最初の太鼓橋この界隈は寺に参詣した人達の食事処です。寺の表門ですが、都合により石柱の寺の名前を消してあります一般の参詣者はこの門からでなく川沿いに進んだ所に拝観入り口があります。拝観料は大人600円。金堂の国宝拝観は別途500円(お土産付き)。写真追加仁王門こちらも都合上石柱の大本山の下の名前を消してあります。写真追加この寺では境内5箇所にQRコードのガイドがあり、ダウロードできる箇所に関してはFree Wi-fiが利用できます。おトイレは仁王門前に一箇所。とても綺麗です。仁王門内側虚無僧スタイルの方が尺八を吹いていました。仁王門過ぎてから山に登る。室生寺(むろうじ)の名所の一つ「鎧坂(よろいざか)」です。幅の広い自然石の石積みの階段です。それが編み上げた鎧のようだ・・と言う事でこの名がついたそうです。行きはよいけど帰りが転ばないよう注意が必要です。両サイドはこの寺の名所の一つシャクナゲが植えられていますが、今年はまだでした5月の連休の頃には満開になる事でしよう。代わりにまだ遅咲きの桜が残っていて、その花吹雪は寺の職員も見とれるほどでした。金堂からの鎧坂方面風に揺られて舞う花びらが堂の中にもたくさん散っていました。この写真からはわかりにくいですが、拡大するとゴミのように白い斑点が写っているのがわかります。こちらは鎧坂を上から撮影したものです。寺の見取り図(一部)です看板を撮影したものですが光が反射して背景が写り込んでいた為に作画しています。次回解答編で、金堂や弥勒堂、五重の塔の紹介をしますが、実は五重の塔から先の奥の院までの距離がかなりあり、かつ険しい石段が続きます。(足の不自由な方や小さいお子さん連れは無理です。)たいてい紹介されているのは五重の塔の所までです。Back number室生寺(むろうじ) 1 鎧坂(よろいざか)までリンク 室生寺(むろうじ) 2 女人高野(にょにんこうや
2016年04月18日
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再び大阪に来ています 暖かくなって調度良い感じの気候になってきたようですが、季節の変わり目は高血圧になりやすいそうなので皆さん気を付けてください。実は父が血圧230をたたきだし驚愕したばかりです。(もともと薬は飲んでいなかた。)血圧計が狂ったのかと思う数値でそんなに高くなる事にも驚き。大慌てでかかりつけの先生に相談。降圧剤をもらってセーフ。こちらもドキドキする自体にストレス? 胃が痛くなりました アウグスブルク 4 (ペルラッハ塔・Perlachturm)ペルラッハ塔(Perlachturm)聖ペーター教会(St. Peter-Kirche)前にも紹介したように市長舎隣のベルラッハ塔は監視塔として989年には存在していたようです。(当初は30m)1614年~1616年(塔に表示された数字)に市長舎の建築家エリアス・ホル(Elias Holl)(1573年~1646年)によってルネッサンス様式の教会と鐘楼(70m)に作り変えられました。デザイン的には市長舎とセットになっているわけです。建物の表通りはショーウインドや店舗らしき物があるので何の建物か解りにくいが実は1階は教会となっている。当初監視塔であった塔は中世に鐘楼に造り変えられたようだが現在は鐘は無い? ほぼ全体が塔に上る階段でしめられていた。(エレベーターは無い。)午前中が雨でした 矢印は塔へ昇る階段の入り口。教会と独立している。(もし扉が閉まっていたらそれは管理のおばさんが不在と言う事。入り口に時間と値段が表示されている。)聖ペーター教会(St. Peter-Kirche)教会の設立は1067年頃。こぢんまりした清潔感ある教会である。前にオランダを旅行した時に思ったが、プロテスタントの教会は見るべき物が何も無いので本当につまらない。それに比べて小さくてもカトリックの教会は教会自体の歴史の重みが詰まっているのだ。同じキリスト教の教会でも付加価値がある感じです塔へは一端教会を出て別の入り口から昇ります。料金所が無いのでダタか? と思いきや、258段の階段を登った地上60m地点に料金所がありおばさんが座っていました。因みに上にトイレはありません。おばさんはトイレに行く度に下に降りるのでしょうね。料金一人€1.5観光客はアウグスブルクでの滞在時間が無いのでほとんどいない。かつての鐘が下がっていたであろう場所。今は現代的にコンクリートの階段になっている。フランドル地方など欧州では街のメイン教会にたいてい鐘楼が付属していて登る事ができるようになっていた。当時でこれだけの高さに上って見た景色は今よりも感動があった事だろう。何より立派な塔と立派な鐘は街のシンボルであったはずで、特にアウグスブルクと言う帝国自由都市において、まちがいなくランドマークであったろう。※ 帝国自由都市については、2009年12月「ローテンブルク 1 (城壁と帝国自由都市) 」城塞都市と帝国自由都市・・で、紹介。リンク ローテンブルク 1 (城壁と帝国自由都市)※ 自由都市については、2014年04月「ブルージュ(Brugge) 5 (ブルグ広場 1)」自由都市ブルージュ(van het Brugse Vrije)・・で、紹介。リンク ブルージュ(Brugge) 5 (ブルグ広場 1)矢印のあたりが展望料金所と展望所何百年前の塔でも安全対策が配慮された塔はここのように今も上る事が可能なのである。(中には日干しレンガで組み上げ階段は板張りの所もあり登るのは不可能の所も・・)前にもミラノ大聖堂の紹介などしているが、大抵は大聖堂の場合で、片側エレベーターが据え付けられ、片側は昔の螺旋階段・・と言うのが一般的である。※ まだ紹介していないが、ウイーンのシュテファン寺院も2本の塔、両方に登る事が可能。片側のみエレベーター付き。ここのように小さい塔はたいてい昔ながらの螺旋階段である。ここは穴場で塔を登るような人がいなかったので助かったけど大抵は塔の中ですれ違うのは大変な狭さである。※ まだ紹介していないが今まで一番狭かったのはデルフトの旧教会の塔である。(人がすれ違う為に余裕のある所まで戻らなければならない。)しかしこの塔も1944年2月の大戦の空爆の影響で上部が全焼。1950年に再建されたようです。展望所は塔の外通路だけでかなり狭い。落下防止の為にアクリル板がはりつけられ、かつそれに落書きするバカ者がいるのでとても汚いのが難。一応アウグスブルクの級市街を一望できるベストブレイスになっている。各のぞき窓の方面に見える景色の解説は写真付きで出ている。市長舎前広場左に隣接する市長舎市長舎の向こうに見える教会がウルリヒ&アフラ教会(調度あちら方面が南)東の方角には次回紹介予定のフッゲライがある。素朴な街である。旧市街の北側には大聖堂が見える。大聖堂は調度ローマ時代の何かの施設跡で、遺跡が庭や教会の地下などあちこちから発掘されている。ミュンヘンやウイーン、ザルツブルグなどもそうであったが、工事中に遺跡に当たる事は度々でそのたびによけたり工事を中断せざる終えない自体が多々あるようです。アウグスブルグの旧市街は中世と現代が混じった街なのです。リンク アウグスブルク 5 フッゲライ 1 中世の社会福祉施設次回フッゲライ予定
2016年04月11日
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Break Time(一休み)パスポートの更新・・多少訂正を入れました。m(_ _)mパスポートの残り期間・フランクフルト空港渡航先で必要なパスポートの残り期間フランクフルト空港(Flughafen Frankfurt am Main)パスポートが5月末に切れるので都庁まで行って更新してきました。まだ2ヶ月あるから大丈夫・・と思ったら大間違いです。調べて見るとパスポートの残り日数2ヶ月で渡航できる国はほとんど無い事に気が付きました 例えば米国の場合、パスポートの残り日数は滞在期間+6ヶ月無ければビザの許可がおりません。欧州の場合も似たようなもので、シェンゲン協定加盟国に関してはやはり滞在期間+3ヶ月の残り日数を義務づけています。(EU加盟国以外のパスポートの人の場合)※ シェンゲン協定加盟国・・・アイスランド、イタリア、エストニア、オーストリア、オランダ、ギリシャ、スイス、スウェーデン、スペイン、 スロバキア、スロベニア、チェコ、デンマーク、ドイツ、ノルウェー、ハンガリー、フィンランド、フランス。 ベルギー、ポーランド、ポルトガル、マルタ、ラトビア、リトアニア、リヒテンシュタイン、ルクセンブルク中東、アフリカの場合は大抵が入国の時に6ヶ月以上残っていなければならない。パスポートの残存期間が規定に満たない場合、飛行機の搭乗自体が断られるそうです。ツアーの方は旅行社の方でたいていチェックしてくれますが、個人旅行の方は事前に渡航先の状況を調べておく必要があります。そもそもパスポートの有効期限が切れていた時は戸籍抄本または戸籍謄本を取り直す必要があるので有効期限内に更新した方が便利です。早めのアクションを・・ ヾ(^o⌒*) v尚、パスポート用の写真はカラーであればマイナンバーカード申請の写真として使用できます。 (つまりサイズが一緒。)※ マイナンバーカードは個人を証明する身分証として利用できます。ですから、パスポート自体が期限切れの時はナイナンバー制度が導入されてもやはり上記の戸籍抄本または戸籍謄本は必要になります。フランクフルト空港(Flughafen Frankfurt am Main)せっかくなので関連の写真の紹介がしたかったのですが、残念ながらセキュリティーの関係で出入国に関する諸々の所の撮影はできないのです。そんなわけで今回は飛行機の中から撮影したフランクフルト空港(Flughafen Frankfurt am Main)の写真をおまけ画像として紹介する事にしました。ある意味これもセキュリティーにかかわりそうな気もしますが、写真は2年前のものだからいいか・・成田からの国際便で到着。(写真は欧州入りと出の時が混じっているのでコース順にはなっていません。)フランクフルト空港(Flughafen Frankfurt am Main)は非常に巨大な空港です。欧州ではロンドンのヒースロー空港、パリのシャルル・ド・ゴール空港にならぶ国際線のハブ空港として知られていますが、この巨大さは一番かもしれません。何しろ着陸してからゲートに到着するまで15分以上(飛行機で)走ったかもしれません。ターミナルビルもたくさんありすぎて凄いです。どこをどう走ったか迷走しているのでよくわかりません。空港の中あちこちに飛行機が駐機しています。それでも余裕なのですからいかに広いのか・・。この時はフランクフルト経由で最初ウイーンに入り、帰りはミラノからフランクフルト経由で成田へ帰国。その為に一回入国審査をしてから再度欧州内を飛ぶ飛行機にトランジット(乗り継ぎ)しました。ターミナルに入り切らない飛行機もたくさんいます。(主に欧州内を飛ぶ飛行機)上の写真左にバスが走っているのですが、欧州内を飛ぶ国際線は飛行機も小ぶりになるのでターミナルに接続する事はほとんど無いのかも・・。搭乗ゲートの案内はあるものの、そこから階段を降りてバスに乗り込むのがほとんどです。つまり、敷地に駐機している飛行機までバスで行き、タラップを昇って飛行機に乗る・・と言う事になるので足の悪い方はちょっと大変です。余談ですが、ウイーンへの飛行機に一番乗りしたと思っていたらすでに先に人がいました。(・_・?)はて?ウイーンに到着したら黒塗りのお迎えの車がタラップの下に停車していて、その方は乗ってとっとと帰って行きました。かなりのVIPだったのでしょうね。空港の中にプライベートの車で入るなんて・・。国際線からのトランジツト(乗り継ぎ)で飛行機が小型になる問題点があります。国際線の場合キャリーケースも少し大ぶりでも良かったのですが、トランジット(乗り継ぎ)と言えど、こちらで搭乗する時は日本の国内線と同じ程度のサイズしか機内に乗せてもらえません。アメリカンタイプの大きなキャリーなどは取り上げられて貨物室に入れられます。ですからキャリーケースの鍵は持っていた方が良いし、パソコンなどは手荷物になるので携帯用のバックが必要になるかもしれない・・と言う事です。(貴重品は出した方が良いです。)因みにミラノでは、リムジンバス内にも小型のキャリーも持ち込みできませんでした。おそらく万が一事故でひっくり返った時にそれがケガの元になる・・と言う事なのでしょう。その時もパソコンを出して抱えて大変でした。尚、トランジットの荷物検査は成田の時よりもかなり厳しくなっています。(ドイツは怖いです)成田で化粧品など買ったら大変です。免税の品も小さな袋に入るサイズに限られるからです。飛行機まで案内するバスがよく迷子にならないな・・と感心するほど空港は広く、ターミナルは複雑にあり、飛行機の数は数百を数えるほど駐機しています。本当にハンパ無い広さで、トランジットの為のターミナル移動だけで小一時間は見た方がよい。乗り換えの時に土産を・・と思っていたら走っても間に合わない・・と言う事態になりかねます。とにかく先にゲートを目指した方が良いでしょう。(日本行きのゲートはたいてい端っこです。)尚、空港施設内のトイレも日本のようにあちこちに無いので大変です。見つけたら入っておいた方がいいかも・・。飛行機を押す車両もたくさん駐車。バスだけの一画などもありました。よく事故が起きないな・・と言う滑走路も複雑な交錯をしています。下の写真は今降りてきた飛行機がこちらに来る所です。お迎えのゲートはドイツ到着の時のみ。下は成田のお迎えのゲートです。上のドイツとは違ってやっぱり親切ですね。最近はテロもあったから空港のセキュリティーはもっと厳しくなったのかもしれませんね。次回は今度こそアウグスブルクでペルラッハ塔です
2016年04月05日
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