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リンク先のせました。さて、清水寺は一応終了したのですが、産寧坂(さんねいざか)の紹介の為に清水寺 塔頭(たっちゅう)、泰産寺(たいさんじ)子安の塔(こやすのとう)の紹介が必要になりました。泰産寺の子安の塔は産寧坂(さんねいざか)(俗称 三年坂)の名前の由来になったと考えられているからです。※ 産寧坂(さんねいざか)は清水寺参詣で、行きか帰りに一度は辿るであろう実に京都らしい小道です。2016年京都 4 (産寧坂・さんねいざか)泰産寺(たいさんじ)、子安の塔(こやすのとう)泰産寺(たいさんじ)と産寧坂(さんねいざか)洛陽三十三所観音巡礼産寧坂(さんねいざか)とは言え、近年修復中で立ち入り禁止。写真がなかったので清水寺の冊子から写真を借りました。泰産寺(たいさんじ)、子安の塔(こやすのとう)高さ15m 江戸初期(1631~1633年)に再建。(明治末期に移築)清水寺塔頭(たっちゅう)、泰産寺(たいさんじ)は洛陽三十三所観音巡礼の第14番札所になっている。※ 子安の塔内部には元は十一面千手千眼観音菩薩(子安観音)が安置されていたらしいが現在の観音の保管場所は不明。寺の創建には、聖武天皇と光明皇后が御子の誕生を祈願し、かつ、安産できたから・・との伝説がある。(もしそうであるなら創建は清水寺創建より前 8世紀前半になるが・・。)それ故、子宝と安産祈願の寺となり、三重の塔である子安の塔は、現在は奧の院より先の山に移設されているが、元は清水寺、仁王門の向かって右手前に建立されていたらしい。(明治末期に山の中に移築)ところで、創建の天皇から見れば、清水寺より泰産寺の方が先に存在していた事になる。第45代天皇 聖武天皇(しょうむてんのう)(701年~756年) ・・・泰産寺建立?第50代天皇 桓武天皇(かんむてんのう)(737年~806年) ・・・部下が建立。清水寺を勅願寺に日本の観音信仰は、飛鳥時代に伝来したと言うので不思議な話ではないが、もしそうなら、泰産寺は400年以上どころか、1300年と言う歴史になる。もっとも最初から本当に安産の寺かは定かでないが・・ 参考写真は2011年7月のもの写真右のピンクの矢印あたりに立っていたのでは? と推定。なぜならそこの右脇の階段の名が泰産坂(たいさんざか)になっているから・・。泰産寺(たいさんじ)と産寧坂(さんねいざか) ※まとめ直ししましたところで、この泰産寺(たいさんじ)の子安の塔(こやすのとう)は産寧坂(さんねいざか)の名前のルーツと考えられている。産寧(さんねい)と言う言葉はその文字通り「安らかに産む」と言う意味で安産をあらわしている事。子宝祈願と安産を願う者たちの泰産寺(たいさんじ)の観音様への願掛けルートとして一目置かれた通りとして命名された? ・・と言うのが有力な説である。(観音様は子安の塔の内部に祀られていた)つまり、泰産寺の観音様に子宝と安産祈願に詣でる時、同時にこの産寧坂(さんねいざか)を通る事で、より安産祈願が重なる・・・と言う伝説の信仰だ。産寧坂(さんねいざか)の名前は1658年「京童」や1659年「洛陽名所集」にも登場している。つまり400年前に 民間信仰の一つとして産寧坂(さんねいざか)の参詣ルートがすでにあった事は解っている。が、ひょっとしたら?泰産寺の観音様に子宝と安産祈願に詣でると言う信仰は1300年前の聖武天皇以来からあった可能生もあるのかもしれない。(三年坂説)三年坂?単に「さんねい」を聞き間違えたのか? とも思えるが・・。俗称、三年坂については、大同3年に道ができたからと言う説がある。大同年間は806年~810年までの期間。桓武天皇(かんむてんのう)(737年~806年)以降の御代と言う事になるからだ。この産寧坂(さんねいざか)は趣があり八坂神社に向かう経路としても、観光コースとしても非常に人気の小道となっている。(写真は後半に)清水寺境内図 下の 星の14が昔の子安の塔の場所。洛陽三十三所観音巡礼清水寺の本堂が 十六番札所であると言う話は「清水寺1」で紹介したが、西国とは、近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場である。それとは別に京都の中で洛陽三十三所観音巡礼と言うのがあり、清水寺だけで5箇所(10~14番)の札所(ふだしょ)が存在する。※ 洛陽(らくよう)は京都の異称上の地図10~14番札所の場所10番札所・・・清水寺善光寺堂(旧地蔵院) 如意輪観音(鎌倉末期)11番札所・・・清水寺奥の院 三面千手観音座像12番札所・・・清水寺本堂 十一面千手千眼観音13番札所・・・清水寺朝倉堂 清水型十一面千手観音14番札所・・・清水寺泰産寺 千手観音(子安観音)※ 西国三十三観音霊場については、「京都 醍醐寺の桜 3 (弁天堂)」や「西国三十三所 観音霊場 八番札所 長谷寺」で触れています。仁王門からの清水坂方面(清水寺山門の前の風景)清水坂はいつもすごい賑わいです。昔と変わらない店もありますが、修学旅行生を意識した所は変わらず。さらに今は外国人を意識した和小物の店など増えてました。八つ橋の試食に外国の方がとびついていたのが印象的です。産寧坂(さんねいざか)赤い円・・清水寺 青い星塗りつぶし・・かつての子安の塔の位置薄いブルーの通り・・清水坂イエローの通り・・・産寧坂(さんねいざか)ピンクの通り・・・二年坂清水坂を下ると途中 五条坂と産寧坂(さんねいざか)とに別れる。石の標識には「ぎおんまる山方面」と書かれている。下は分岐点にある七味家本舗。目印になる。七味家本舗明暦年間(1655年~1659年)に、河内屋の屋号で清水寺参りの人向けのお茶屋としてスタートしたと言う。「からし湯」がルーツで七味唐がらしを商う店になったらしい。山椒がけっこうきいたブレンドになっていたような気がします。産寧坂(さんねいざか)入り口今回は帰りルートで紹介していますが、安産の参詣なら往復このルートを歩く方が良いのかも・・。イメージしてきた京都らしさを最も感じる・・と以前連れてきた姪と甥が言ってたのですが、実際外国の方も清水坂よりこちらの方が風情を感じる事でしょう。振り返った所こちらも振り返った写真なのであるが、クロネコトラックの左横が清水三年坂美術館である。清水三年坂美術館は幕末、明治の七宝、金工、蒔絵、彫刻、薩摩焼などを常設展示する工芸美術館です。ほとんどが国外に流出していた幕末、明治の美術品の名品を館長である村田理如 氏が海外より集めてコレクションしたものが目玉となっています。実は今回はこの美術館に行くのが一つの目的でもあったのですが、その素晴らしさに本当に驚きました。象牙の彫刻など本当に細密でリアルで、想像を超える技術です。平和だった江戸と言う時代がはぐくんだ職人技術は、明治に最高潮に達したようです。しかし、皮肉にも日本人は文明開化で西洋物に現(うつつ)を抜かし、国内の高い職人技術を見落としていたようです。結局市場に出たものは全て外国人に買われてしまった為に国内には逆にヒドイものしか残らず、幕末、明治自体の評価自体が下がると言う悲劇になったようです。美術館は広くはありませんが、もし産寧坂(さんねいざか)を通る事があったら一度寄ってその技巧を見ておくのもいいかもしれません。産寧坂(さんねいざか)は上の写真左方面に続くのですが、たいていの人達はここから二年坂に入り、八坂神社の方面に抜けて行きます。※ 二年坂は上の写真右の山椒ちりめん屋さんの手前脇の道を下る階段から始まっています。下の写真は二年坂の入り口です。左に山椒ちりめん屋さん。何気ない路地だが、人が多く往来するので解ると思う。小さいながら看板はあるし・・。本当は一気に紹介したかったのですが、盛りだくさんになり長くなったので二年坂は次回に。それから高台寺に入る予定です。高台寺、昨晩BSで放送されていました。テレビだと撮影できない所まで見せるからいいなーと思ってしまった リンク 2016年京都 5 (二年坂)
2016年11月30日
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つい先頃(2016年10月)、長崎の出島に建物6棟が復元され一般公開が始まったらしい。是非行って見たい所である。実は先月紹介した「デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外・・中世日本の交易」のところで、出島の話を書いている。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)その時に書き落とした事があったのでここで書いておきます。「出島は最初ポルトガルの為に造られ、後からオランダがとって代わった。」と言う話をしているのですがまずはその年代から・・。1634年、出島建設1636年~1639年 ポルトガルが出島を賃貸 (この頃オランダは平戸にいた)1641年~1859年 オランダが出島を賃貸 (この時点でポルトガルは日本から完全追放されている)最初に渡来したイエズス会師達は、布教で来た為に、日本人に熱心にポルトガル語を教えたそうです。ポルトガル人がいた100年弱の期間、長崎界隈にはポルトガル語を話せる通訳がかなり増えたと言います。おそらくそれは当時日本人が唯一話せた欧州の言語だったかもしれない。1639年にポルトガルの入国が禁止され、オランダが出島に入ってからも、相変わらずポルトガル語で取引が続いたそうです。理由は定かで無いが、オランダ人は商売で来日しているので、日本人にわざわざ言語を教える必要を感じなかったのだろう・・と推測されている。(ポルトガル語で十分取引できていたから?)オランダ風説書にオランダ語の原本が無い理由もそこかもしれない。オランダ人による欧州の情報(風説書)は、ポルトガル語で通訳され、日本語で書き記され、幕府に送られたと思われるからです。確かに出島にオランダ人がいた期間は長かったけど、彼らはそこから外には出られなかった。日本人と会話する事はほぼ無かったのだからどっちでも良かったのかもしれない。一方、イエズス会師達は、布教の策として、まず言語を覚えてもらう必要があった。聖書も読めるようにならなくてはいけない。日本人に対する熱心度はポルトガルの方が遙かに高かったと思われる。2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)清水寺縁起地主神清水の舞台とは?音羽の滝(御利益)前回危惧していた清水本堂の修復であるが、早速年明けから素屋根が建設され、春から本格的な工事が始まる事が決まったようです。(春には現在の姿は完全に消えると言う事です。)推測通り、オリンピックまでには修復を終えるとの事ですが、年間550万人が訪れると言う清水寺です。ドル箱の本堂と舞台が消えるのはちょっと痛手ですね 奧の院は美しく彩色された。おそらく本堂もこんな感じの色合いになるのだろう。本堂脇の山を下る階段。地主神社は写真右から階段清水寺縁起清水寺の創建は奈良時代末の778年(宝亀9年)、大和小島寺の延鎮上人(えんちんしょうにん)が夢告をうけて音羽の滝を訪ねあて、行叡居士(ぎょうえいこじ)に遭い、霊木を授けられて観音像を彫り滝上の草庵に祀ったのに始まる。・・と、清水寺発行のガイドブックには書かれています。そして798年(延暦17年)には征夷大将軍、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(758年~811年)が滝の清水と上人の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の教えに感銘を受け、仏殿を寄進建立、ご本尊となる十一面千手千眼観世音菩薩を安置。時の天皇、桓武天皇の勅願寺となったとされています。しかし、創建後に何度も火災で焼失。(地震もあったかもしれない。)ほぼ13世紀には景観ができていたらしいが何度も再建を繰り返し、大半の建造物は17世紀前後に再建されたものだそうです。清水の舞台でお馴染み本堂が1629年(寛永6年)に火災で焼失した時は徳川家光(1604年~1651年)により1633年(寛永10年)に再建されている。それが現在の本堂である。明治中期の大修理、昭和のオリンピック後に本堂が修理されている。以来50年ぶりの今回の修理は主に屋根の檜皮(ひわだ)のふき替えや壁の塗り替えが行われると言う。地主神社・・・・本堂裏手で清水寺を鎮護する鎮守者はもともとこの土地の地主神。写真は2011年の12月。今回(2016年11月)は混み合い過ぎて撮影ができなかったので・・。縁結びもかねているので参拝に行く人はかなり多いようです。地主神神社、仏閣を建立する時、日本では古来からその土地の神様を鎮護主として祀る風習がある。その土地の神様が本来であろうが、清水寺では大国主(おおくにぬし)が主祭神にまつられている。日本神話で、国土を治めていたとされる土着の神様(地神)が「国津神」で、その代表的なのが大国主(おおくにぬし)。また猿田彦命(さるたひこのかみ)も地主神としてよく祀られている。※ 大阪天満宮では猿田彦命が祀られていた。清水寺でも当初は清水寺内の神社として祀られていたようだが、明治の神仏分離令で独立したのかもしれない。因みに、清水寺の建立の時に祀られた地主神と共にその創建にかかわった坂上田村麻呂も祀られているそうだ。山を下った階段の先、錦雲渓(きんうんけい)に音羽の滝がある。見える行列は滝の水を飲むための列。下る階段の横に清水の舞台の足組が見える。舞台の裏板には墨で大きな銘がしるされている。清水の舞台とは?本堂のテラス(舞台)は錦雲渓(きんうんけい)に垂直にそそり立っている。その舞台はもともと御本尊の観音さまに芸能を奉納する場所。つまり舞を舞ったり音楽を奉納する為のスペースである。平安時代から雅楽や能、狂言、歌舞伎、相撲など、さまざまな芸能が奉納され、現在も奉納されている。テラス(舞台)は410枚以上のヒノキ板を敷き詰め面積は約190平方m。舞台下は最長約12mの巨大な欅(けやき)の柱を並べた釘を一本も使わない「懸造り」という手法で組み上げられている。思い切った決断をする事の例えで「清水の舞台から飛び降りる。」と言う諺(ことわざ)があるが、それがこの舞台である。高さにして建物4階相当。確かに思い切った決断の例えであるが、実際昔は、飛び降りると所願成就。死んだとしても成仏できるとされ、身を投げる者が絶えなかったというから恐ろしい。その舞台の足下は今はこんな感じ音羽の滝(舞台からの音羽の滝)音羽山より流れ出た清水は錦雲渓(きんうんけい)に流れ落ちている。そもそも大和小島寺の延鎮上人(えんちんしょうにん)が夢告を受けて見つけたのがこの清水(せいすい)であり霊泉である。写真、三筋の水が落ちる屋根の少し上にある祠(ほこら)に当初、延鎮上人(えんちんしょうにん)手彫りの観音像が安置された? と推測する。それ故、山号は音羽山。寺名の「清水寺」は、音羽の滝の清水(せいすい)に由来していると言うわけだ。音羽の滝の御利益この霊泉は観音信仰と共に古来より無病息災、立身出世、財福、良縁、子授など人々の信仰を集めたそうだが、今は左から「学問成就の水」「恋愛成就の水」「延命長寿の水」とそれぞれ御利益が割り振りされているらしい。いつからそんな割り振りされたのだろう?今は外国の人達もこの御利益を求めて? 大勢並んでいてかなりの待ち時間がいる。滝の後ろには不動明王や行叡居士像が並んでいるようだ。みんな水飲む事に気を取られて後ろを見ていないが、御利益を得るなら、お祈りしてから水を飲むと良いとされている。(のんびりしている時間は無いけど・・。)貴族の為だけの寺も多かった中、清水寺は庶民にも開かれた観音霊場として信仰され親しまれてきた寺なのである。「源氏物語」、「枕草子」、「今昔物語」、能や謡曲の「熊野(ゆや)」、「田村」、「盛久(もりひさ)」、数々の作品の中に登場。昔から崇信されていたと言う証拠だ。ところで、ご本尊の清水観音は本堂内部からのぞき見る事ができますが、当然写真撮影とかはできません。本堂も写真撮影禁止です。それで外側だけの紹介になっています。清水寺とりあえず終わり。
2016年11月24日
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BSでたまたま見かけた中国の大河ドラマ、「琅琊榜(ろうやぼう)」。最後の3編しか見られ無かったのだが、その衣装の美しさに目が惹かれた。本作は2015年、中国、台湾で空前のヒットとなった宮廷劇だそうだ。中国の華やかなりし頃の美しい登場人物と衣装。非常に興味が湧いた。今や経済的に余裕のある中国のドラマは結構お金を使って製作され人物も美形がよりすぐられているので見応えが十分。逆に今の中国とは最も遠い世界感であったが・・。時代設定は、どうも架空らしいがベースは南北朝時代をモデルとしているらしい。となると設定時代は隋が中国を統一する589年以前。中国の南北に幾つかの王朝が林立していた六朝(りくちょう)(222年~589年)時代が当てはまる。さて、私が気になったのは、実は着物よりも武具の方。特に国境を守る女性の統帥の甲冑と兜を見た時、「あれ? 古代ローマの軍人みたい・・。」と思ったのだ。どう見ても西欧風。兜の形も西欧の兜タイプ。しかも兜の頭頂部に、まるでローマの百人隊長が付けるような飾り物がヒラヒラ。幾ら架空でも多少史実にあった武具が制作されているはず。ならば中国の昔の武具は古代ローマの影響があったのか? と思ったわけだ。秦の始皇帝(BC259年~BC210)の陵(墓)から発掘された兵馬俑(へいばよう)のイメージが強かっただけに意外な気がしたのだが、六朝時代は古代ローマ帝国の時代にかかっているし、実際陸続きの中国だから日本と違って西欧の進んだ文化の影響を受けていたとしても不思議ではないか・・。ちょっと調べて見たいな・・と、中国の甲冑にも興味は湧いたが、撮りだめしている西欧の甲冑の方を先に紹介できれば・・と思っている。(解説の本が無いのが目下の問題) さて、今回は前回の茶わん坂を上り、清水寺に。清水寺、とっくに紹介していると思っていたけど・・。やっていなかったようです 2016年京都 2 (清水寺 1)西国三十三所 観音霊場 十六番札所 清水寺(きよみずでら)境内にあった看板に手を加えました。それにしてもこんなに広かったのですね。赤いのが仁王門(重文)黄色が西門(重文)藤色が本堂(国宝)黄緑が奧の院(重文)※ ほとんどの施設が重要文化財に指定。※ 今回写真上部(本堂の先)奧の院は改修工事の為に立ち入り禁止。(以前の写真で対処しています。)以前長谷寺の所で西国三十三所 観音霊場について触れましたが、清水寺も西国三十三所 観音霊場 十六番札所となっています。※西国三十三所 観音霊場については、2016年5月 「西国三十三所 観音霊場 八番札所 長谷寺 1~2」を見てね 創建は奈良時代末778年。開祖は延鎮上人(生没年不詳)。平安時代前期の法相宗の僧。(このあたり詳しくは次回)本尊は 清水型観音(十一面千手千眼観世音菩薩)。北法相宗の本山。正式名は 北法相宗 清水寺 ?古都京都の文化財として点在する17か所の寺社と城郭と共に1994年にユネスコ世界文化遺産に登録されている。寺のエントランスになる仁王門(におうもん)と右が西門(さいもん)仁王門(におうもん)(重要文化財)こう見えて応仁の乱後の15世紀末に再建された門(室町後期)入母屋(いりおもや)造り檜皮葺(ひわだぶき)。高さ14m。横幅10m。奥行き8.4m。撮影していないが、仁王門だけに両脇侍に仁王像が建っている。鎌倉時代の物で京都では最大の座高365cm。仁王門からの西門(さいもん)と三重の塔西門(さいもん)(重要文化財)こちらは江戸初期(1631年)に再建された三間一戸の八脚門で、切妻造り。檜皮葺(ひわだぶき)。西門(さいもん)が造られた理由が良く解らないようだが、こちら脇侍は鎌倉時代に造られた持国天と増長天。四天王寺の西門が西方極楽浄土の東門(入口)であるという浄土信仰から来ているのか?西門の階段脇に以前は無かったとぐろを巻く2匹の龍の像が建立されていた。この龍が外国人に人気のようで人がはけるまで待って撮影。いるのはほぼ外国人。行く度に人が増えている清水寺です。三重の塔(重要文化財)日本最大級の三重の塔らしい。847年創建。1632年再建。彩色復元した総丹塗。今回は再建時の寛永時代の姿に戻したようです。経堂の横に拝観チケット売り場が設置されていた。轟門でチケット確認して先に進むと回廊に出る。回廊の先に見えるのが本堂。本堂にあるテラスがいわゆる「清水の舞台」である。蔀戸(しとみど)は本来、寝殿造の外周建具に使用するもの。とは言え西本願寺にはあったので、やはり雨風しのぐのに必要なのだろう。特にここは風が吹いたら大変そう。人が多すぎて撮影できなかったので、下の写真は2011年の12月の写真です。下の写真は今回の物。本殿、清水の舞台を紹介するのに、本来は奧の院のテラスからの写真を紹介するところですが、今回は修復工事中で本殿より先に進めませんでした。(釈迦堂、阿弥陀堂、奧の院の拝観ができない。)よって今回舞台の客観的な写真が撮影できなかったので、古いけど2011年の12月と2011年の7月の写真を参考として利用します。所で、今回清水寺には紅葉を見に行ったつもりでしたが、全然まだまだ。紅葉は11月末くらいからのようです。(代替えの写真の紅葉は12月でした。)写真は2011年の12月。奧の院より先の山から撮影。緑の屋根は当時修復中だった朝倉堂(重文)。現在終わって屋根は取り払われています。もうすぐ本殿の修復も始まる事でしょう。そうしたらもしかしたら本殿も丹で赤く色付けされるかもしれませんね。清水の舞台の足もまさか赤に?少し派手になるけど山の緑に映えて案外素敵になるかも・・。写真は2011年の12月。子安の塔、方面からの撮影。正面36m、側面30m、高さ18m。寄棟造り、檜皮葺(ひわだぶき)。国宝の本堂です。写真は2011年の7月。本殿テラス音羽山と錦雲渓を見る。右手はるか彼方には京都の街が広がっている。この当時は人がほとんどいないのにビックリ。今は鈴なりに人がいて下を見るのも順番です。下は今回撮影。テラスからの錦雲渓と音羽の滝。(音羽の滝は次回です)本堂テラスからの現在の奧の院と阿弥陀堂。彩色されて美しくなっています。写真は2011年の7月。奧の院のテラスからの撮影。大抵の場合、本堂テラス、清水の舞台の撮影はここからである。(山に入るのは時間が必要)いかに山肌にせり出してテラスが造られているか・・がよく見える場所なのだが・・。今回の人達は残念な事にこの景色が全く見られ無いのである。(立ち入り禁止になっているから)現在、清水寺は平成の大改修を行って数年。まだまだ工事は続く、何しろ国宝や重文がたくさん集まっているからね。それに何よりあと国宝である本殿の工事が残っている。本堂と清水の舞台も数百年ぶりの大型改修になるらしい。つまりこの姿はもう少ししたら見られなくなってしまう事になる。それどころか本堂自体の拝観が中止になるのも必死。修復に何年かかるのか・・。とりあえず今のうちに見に行っておくべきかもしれませんよ 清水寺 つづく
2016年11月19日
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今年は驚くべき事件が2つも起きた。2016年6月23日、英国のEU離脱の是非を問う国民投票の日。Brexit(ブレグジット)2016年11月8日、アメリカ大統領選挙の日。Amexit(アメグジット)共に大方の予想を裏切った驚くべき結果に終わった。同時にそれらは世界を驚愕させた事件となり共に株式も当事国の為替も結果直後には大暴落し世界経済に影響を与えた。今回はトランプ氏が就任する2017年1月20日までは様子見があるかも知れないが、その後何が起きるか解らないのでどこの国も戦々恐々となっている事だろう。Brexit(ブレグジット)とAmexit(アメグジット)は共にそれらを揶揄(やゆ)した造語である。Brexit(ブレグジット)は「Britain」と「Exit」を合わせた造語。英国のEU離脱を意味する。英国のEU離脱による欧州経済への影響が心配される事件であった。これについては英国民は結果に驚き 後悔(Regret)した事からBregret(ブレグレット)と言う造語も出た。Amexit(アメグジット)はBrexit(ブレグジット)にひっかけた語で「America」と「Exit」を合わせ造語である。「America」と「Exit」は完全なるこじつけであるが、民主党候補のヒラリー・クリントン女史に対して共和党候補のドナルド・ジョン・トランプ氏は今までのアメリカの政治を否定し、破壊する過激発言で世間を驚かせた。従来のアメリカからの離脱? と言うような意味あいに寄せているのかもしれない。それにしても今回のAmexit(アメグジット)が実現した事には本当に驚いた。人種差別を前面に打ち出すドナルド・ジョン・トランプ氏が人種のるつぼであるアメリカであんなに支持されるとはとうてい信じがたかったからだ。どんな人種をも受け入れる偉大なアメリカは嘘だった?たとえ彼らが「変革を望んでトランプ氏を選んだ」と言ったとしても、アメリカ人の本音に白人優位の差別主義がやっぱりあるのか・・と思わずにいられない。彼はKKK団を思い起こさせる。南北戦争終結後に結成された米白人至上主義団体「クー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan) (KKK)」の事である。黒人を憎む(今はユダヤ人、アジア人やヒスパニック系も含まれるのか?)過激な秘密結社である。今風に言えば人種差別の暴力を起こす危険なテロリストだ。しかも現在も存在し今回の選挙でトランプ氏を支持したらしい トランプ氏は勝利宣言で「アメリカは再び手を取り合おう」と言ったが彼が国民の闇を引き出し裂いたのだ。アメリカ分裂の修復が彼にできるのか疑問だ。さて、今回は京都を紹介。先週行ってきました 2016年京都 1 (五条通りから茶わん坂)Brexit(ブレグジット)とAmexit(アメグジット)五条通り茶わん坂清水焼きの発祥京阪電車の清水五条駅から五条通りを上り、茶わん坂を登って清水寺を参詣し、清水坂から途中産寧坂(さんねいざか)、二年坂を通り高台寺を参詣。そして寧々様の圓徳院(えんとくいん)までがルートです。イエローのラインが茶わん坂。右の濃いピンクの円が清水寺左の藤色が高台寺五条通り上の地図ブルーのラインが五条通りであり、国道一号腺です。陶板でできた路地案内の地図が五条通りに並ぶ。ヒビなのか? 貫入なのか? ところどころ割れていたりするがオシャレではある。こんな案内版の他にも、四ヶ国(日本語、英語、中国語、韓国語)対応の地図が目に付くようになった。ところで五条通りは陶器屋さんがけっこう多い。それもそのはず、実は五条坂から茶わん坂界隈は清水焼きの窯元が多かったからだ。上の陶板の案内もアピールの一つなのだろう。景観条例と言うのがあるが、京都は特に厳しいガイドラインがあるらしい。京都らしい家ですね。景観条例と言っても、隣のようなマンションなどあるので見た目はがだがたです。むしろこの中途半端が京都か?さすがに派手なネオンとか看板は条例で厳しく規定されているようです。屋根の上の祠の様な物は室外機を囲った物。商品の展示も昔方式? 奧の中庭が見える所が風情。屋根には焼きものの守り神? 土瓶を持っている。彼は迦具土神(かぐつちのかみ)か?火難除けの神のみならず、鍛冶や陶器(焼物)の神様として信仰されている。五条通りから東大路通り少し手前に若宮八幡宮がある。別名は陶器神社。写真左の柱には「清水焼発祥の地」と書かれている。創建は9世紀頃とされる鎌倉時代から武家尊崇の大社だったらしい。それが清水焼き発祥の地になったのは近年の事。1949年、相殿に陶祖神 椎根津彦命(しいねつひこのみこと)の合祀された事による。・・と看板に書かれていたが、なぜ椎根津彦命(しいねつひこのみこと)が陶祖神なのか? が、今一つ解らないもしかすると屋根の神様は迦具土神(かぐつちのかみ)でなくて椎根津彦命(しいねつひこのみこと)か?毎年8月7日~10日には清水焼き発祥の地として? 若宮八幡宮大祭、陶器神社大祭(陶器まつり)が催されるそうだ。茶わん坂五条通りの突き当たりに大谷本廟があり、その左の脇道が五条坂である。五条坂は清水坂に伸びているが、途中茶わん坂とに別れる。標識には清水寺への近道と記されていた。近い方がいいか・・と茶わん坂を登ったが、正解だった。清水坂は清水寺の正面にまっすぐ向かう道で、観光化されすぎている。一方茶わん坂の方は、かつての窯元があった場所だけに陶器の店が多く穏やかであった。途中から着物の女性が目立つようになった。なぜなら、この通りは陶器屋だけでなく、レンタル着物屋も案外多いのだ。今回は本当に着物を着ている人が多いのに驚いた。こうしたレンタル屋さんのおかげであるが、驚くのは着ているのが日本人ばかりではない・・と言う事だ。観光で来た外国人の方がペアで着ていたりする。男性の着物姿は、ほぼ外国の方であった。清水焼きの発祥五条坂から茶わん坂のどこか(五条坂建仁寺町)に清水焼きの祖とも言われる清水六兵衛(きよみずろくべえ)(1738年~1799年)の釜があったとされる。彼は江戸中期の陶工で、金、赤、青を彩した陶器を作り、これに清水焼きの名を冠したのが始まり・・と、茶わん坂の看板には書かれていた。が、説はもう一つある。陶工の焼き窯 自体はどうも室町時代中期からあったようだ。どこから清水焼き・・と呼ぶのかが問題だ。洗練された美しい清水焼きの発祥は、確かに江戸時代中期のようだが・・・。リーズナブルから高級路線の店まである。考えるに、地形から登り窯だったんだろうな・・と思う。買い物しているのは日本人より外国の方外国の方を当て込んだ商品が増えたと思う。昔はなぜかキティとかのキャラ物と八つ橋が多かったのに・・。外国人が増えて京都の土産も洗練されたのかも。扇子もそうだが、明らかに着物の柄もカジュアルになって受け入れやすくなったかもしれない。人力車が本当に増えたと思う。以前は嵐山くらいしか見なかった気がする。今回は寺の中で観光案内までしている人力車のお兄さんもいた。笑えるのは、女性3人連れを、僕ガンバッテてひきますから・・と口説いていた事だ。ガンバッテひくのはいいけど3人も乗れるのか? と思う。しかし、確かに着物きて歩いている女性を見ると、たいてい3人連れなのである。不思議3人乗れる人力車、確かに必要かもね。京都・・つづく
2016年11月12日
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東京駅の東口が八重洲口(やえす ぐち)であるが、その八重洲と言う地名がヤン・ヨーステン(Jan Joosten)と言うオランダ人の名前に由来している。※ ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Loodensteyn )(1556年? ~1623年)ヤン・ヨーステン(Jan Joosten)はデルフトの名家出身の航海士で、1600年4月に現在の大分県佐賀関半島に漂着したオランダ船リーフデ(Liefde)号の乗り組員であった。(110人中24人のみ生存)同じく救助されたイギリス人のウィリアム・アダムス(William Adams)(1564年9~1620年)と共に家康に重用され、江戸に屋敷をもらい、嫁を取り、日本の貿易や貿易船の造船に貢献した人物なのである。ヤン・ヨーステンは後に日本の代表として朱印船貿易に臨み、ジャカルタでオランダ東インド会社と交易している。一方イギリス人のウィリアム・アダムスは、イギリスの東インド会社との通訳と共に朱印発行の手助けをしているし、彼は外洋に出る為の交易船の設計指南もしている。日本にとって彼らの存在の意義は非常に大きかったと推察する。デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)リーフデ(Liefde)号の航海士プリンセンホフ博物館(Municipal Museum Het Prinsenhof)ウィレム1世(Willem I)の暗殺ヴァニタス(vanitas)番外、出島問題(中世日本の交易) ポルトガルとの縁、カトリック信者の問題、出島建設、ポルトガルからオランダへ後発の海洋国となったオランダの快進撃が始まるのはスペインから独立してからの話だ。そのスペインとの80年に渡る戦い(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)の先頭に立ってオランダを導いた中心人物がオラニエ公ウィレム1世(Willem I)で、オラニエ家の宮殿が現在のプリンセンホフ博物館(Municipal Museum Het Prinsenhof)として公開されている。プリンセンホフ博物館(Municipal Museum Het Prinsenhof)中庭から運河を隔てて旧教会のお隣にある。実は宮殿になる前、 ここは女子修道院(聖アガサ修道院)だったのである。※ 1403年に聖アガサ修道院(Sint-Agathaklooster)として改装され、1572年にオラニエ公ウィレム1世(Willem I)がここを住居に利用したのである。もと礼拝所? 現在も礼拝所?広間にはオラニエ家の肖像画が並ぶオラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)と奥方の肖像1番目か2番目の妻かな?ミシェル・ファン・デル・デュッセン(Michiel Van Der Dussen)とその家族の肖像※ 以前オラニエ公の家族と載せていたのを修正しました。画家 ヘンドリク・コルネルスゾーン・ファン・フリート(Hendrick Cornelisz Van Vliet)(1611年頃~1675年)本来は教会内部を描く「建築画(Architectural painting)」の専門家らしい。厨房下は塔の階段上の写真の右中頃に半分見切れているところが弾痕かもしれない。ウィレム1世(Willem I)の暗殺1584年7月10日にこの屋敷のメイン階段でオラニエ公ウィレム1世(Willem I)は暗殺された。刺客は熱心なカトリック教徒であったバルタザル・ジェラルド(Balthasar Gerards)である。理由はウィレム1世の重婚や改宗、カトリック教徒との戦いなど許せなかったからのようだ。※ ウィレム1世はプロテスタント擁護派で、元君主であったカトリックの国であるスペインとの戦いを始めた。これは結果的にスペインからの独立・・となり戦後、ウィレム1世はオランダ建国の英雄になった。残念ながら銃痕の残る壁の撮影をしていなかった。なぜ気がつかなかったのか? 残念銃痕はかなりの大きさ。悲劇的な最後である。下は若かりし頃のウィレム1世(Willem I)の肖像なかなかイケメンである。撮影写真がボケていたのでウィキペディア(パブリックドメイン)から借りてきました。ヴァニタス(vanitas)まとめであるが、最後にプリンセンホフ博物館にあった絵画を紹介する。ヴァニタス(vanitas)はラテン語で虚しさを現す。もとは旧約聖書のコヘレトの書(伝道者の書)に由来しているようで髑髏(されこうべ)は人の死ぬべき運命を。熟した果物は人生が円熟して死に近づく様?メダルは得た名誉笛は人生の快楽書物の一つはおそらくコヘレトの書が書かれた旧約聖書もう一冊はプロテスタントの聖書?人生の儚さ(はかなさ)、現世の虚しさ(むなしさ)を警告する寓意の静物画らしい。作品はオラニエ公ウィレム1世(Willem I)の人生そのもののように思える。番外、出島問題(中世日本の交易)・・・ポルトガルとの縁、カトリック信者の問題、出島建設、ポルトガルからオランダへ前から先送りしていた「なぜ日本はポルトガルからオランダに交易相手を変えたのか?」 だけ少々。下は出島交易の頃の東南アジアの海図赤矢印が日本 青矢印がマカオ(ポルトガル) 黄色矢印がジャワ(オランダ)がアジアの交易拠点ポルトガルとの縁冒頭に紹介したオランダ人のヤン・ヨーステン(Jan Joosten)が来日するより50年程前の1549年8月、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier) (1506年~1552年)が鹿児島に上陸。さらにその5年程前、ポルトガル人により種子島に火縄銃が伝来している。イエズス会師ザビエルがわざわざ日本に来たのは布教が目的であったが、イエズス会バックのポルトガルは日本との交易を求めていた。日本は欧州からの舶来品に興味はなかったが、当時交易の禁止されていた明の陶磁器や絹製品が欲しかった為にポルトガルに中継(なかつぎ)貿易を頼んだのである。それは日本の交易相手がオランダに変わっても一番欲しかった物は明の陶磁器や絹製品に変わりはなかった。因みにオランダは日本から純度の高い銀を持ち帰ってVOC用のコインを鋳造し、それがアジアでの交易用のコインとなり長く流通したらしい。カトリック信者の問題1569年、同じイエズス会のルイス・フロイス(Luís Fróis)(1532年~1597年)が信長に畿内の布教許可を得た話は有名だが、それから秀吉の時代になるとかなりのカトリックの信者が増え、特に大名クラスが信者になると長崎がイエズス会領となり要塞化されはじめたらしい。さらにポルトガルは奴隷貿易を行っていて、日本人も買われて行った?(キリストやマリアの像を信奉するが故、仏像や観音像などの破壊もあったと聞く。)秀吉は1587年、バテレン(伴天連)追放令を発布するにいたる。キリスト教の布教を禁止し、京都の南蛮寺もこの時に破却されたのはそうした理由による。※ しかし、宣教師の入国禁止でもポルトガルとの交易は許されていた。その後スペイン人やイギリス人も日本にやってくる事になり、日本の感心は欧州の情勢にまで及ぶ事になる。それは鎖国オランダ時代、200年間続いたと言うオランダ風説書(fusetsugaki)から解る。出島建設秀吉が亡くなり、江戸に幕府が移った後もイエズス会の布教の問題は続く。宣教師が日本に入国できなくなった時、彼らは海外で信者になった者達を帰国させて布教を始めさせた。(それが原因で日本人の出国は禁止。海外にいる日本人の帰国も禁止された。)1616年、平戸・長崎以外での欧州人の入国を禁止。(徳川秀忠の時代)1633年、第一次鎖国令(徳川家光の時代)1634年、出島建設 (長崎に人工島を建設し、賃貸料をとってポルトガルに貸し出した。)1635年、第三次通達※ 長年貿易で潤ってきた長崎の経済困窮の為に出島を無くす事ができなかった。ポルトガルからオランダへ出島建設では、完全にポルトガルを管理するのが目的であったが、1637年の暮れに島原の乱が勃発。本当は年貢の取り過ぎが原因のストライキであったらしいが、キリシタンの反乱と位置づけされ弾圧が始まった。(この時に幕府側に付いたのがオランダ。)明からの輸入品の為にポルトガルと縁が切れないでいたがオランダがその代わりを申しいれる。また、オランダはプロテスタント国だからカトリックのような偶像崇拝が無い。日本は貿易相手をポルトガルからオランダに乗り替えたのである。ポルトガルは出島から追い出され、代わりにオランダが平戸から出島に移動し、江戸幕府と200年に渡る交易を始めたと言うわけだ。因みにオランダはすでにアジアに植民地を開いていた。1602年、ジャワ島のバンテンにオランダ東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie)を設立。1619年には、ジャカルタに新たな商館を設置するとそこをオランダ東方貿易の拠点にした。(アジアにおけるオランダの植民地バタヴィア (Batavia)の誕生)デルフト(Delft)はおわりですBack numberリンク デルフト(Delft) 1 (デルフトの眺望)リンク デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)リンク デルフト(Delft) 3 (市長舎と新教会)リンク デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)リンク デルフト(Delft) 5 (新教会からのデルフト眺望)リンク デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)リンク ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)とメーヘレンリンク デルフト焼き(Delfts blauwx)
2016年11月04日
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