想いが重なれば闇は光に変わる。想いを抱き続ければ天開がある。

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Lily & Rosy

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2009年02月12日
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こちらも、書き起こしてみました。


言葉が醸し出す誤解というものにも心を留めないといけない。
私たちはそもそも別人格であり、
そもそも相手を100%理解することは不可能。
それを認めたうえでの、相手への尊敬と愛と信頼。


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(心のともしび)
http://www.tomoshibi.or.jp/tv/info.html

By シスター 渡辺和子


ある教育講演会で話をした時のことでした。
教師の心に生徒への愛と信頼があるかないかによって生徒は変わるということを、ある高等学校の事例を引いてお話をいたしました。
長野県のある高等学校は全国から問題のある学生が集まって、立派に学業を終えることで知られておりました。その秘訣の一つとして、わたくしが感銘を受けたのは、そこでは教師たちが生徒たちを、「しか」ではなく、「なら」で評価するということでした。
あの生徒は、足し算「しか」できない といわないで、
あの生徒は、足し算「なら」できるよ という評価をする。
それは、教師の心に、生徒のできないことを強調するのではなくて、生徒のできることを強調する、信頼と愛があったからです。
言葉の問題だけではなくて、教師の心が180度違ったのだと思います。

その話をしていて、私も少し悪乗りをしたんだと思いますが、
あの子はいたずらしかしない でなくて
あの子はいたずらならよくできる ということも言ったと思います。


私自身が修道院にはいるまえ、7年ほど仕事しておりまして、非常に大きな修道院に配属されていた期間が長くございまして、小さな修道院に配属されて、ひとりひとりが料理当番を受け持たねばならないときに困りました。私ができることは目玉焼きをつくること。一人のシスターが、シスター渡辺は、目玉焼きしかお作りになれない、とおっしゃったのに傷つきました。ところが、他のシスターで、シスター渡辺は目玉焼きならできるわよねといってくださって、とても救われたものですから、この高等学校の事例がそれだけ心に響いたんだと思います。

この教育講演会が終わりまして、数日経った時に、わたくしは一通のお手紙をもらいました。それは一人の母親がお書きになったもので、私はシスターの講演会出ていました、そしてシスターの話を、そうだそうだと相槌をうって聞いていたんだけれども、シスターが「しか」と「なら」の話をして、「いたずらならできる」と締めくくったときから話は自分の耳に入らなくなりました。なぜなら、私には、重度の障害を持った子供がいて、その子供は、いたずら「すら」できない、いたずら「さえ」できない子どもなんです。

私はその手紙をもらって、びっくりしました。思いがけない手紙だったんです。その手紙に住所と名前を書いてくださっていたので、お詫びのお手紙を出しましたし、わたしたちは、知らず知らずのうちに、自分の言葉で傷つけていることがあるのだとしっかりと心に刻みました。確かに言葉は人間のみに与えられた貴重なコミュニケーションの手段だと思います。黙っていてはわからない、話せばわかる、ということを、わたくしたちはよく申しますけれども、話したが故に誤解を生んだ、黙っていればよかったのにと思うことも多々私どもは感じております。
同じ言葉を使っても誤解が生じる、ということを、わたくしは経験しました。

あるとき講義のなかで、若いお医者様のお話をいたしました。

で、その講義が終わりました後、一人の学生がわたくしのところに参りまして、私の父は医者ですが、先ほどシスターがおっしゃったことと真反対のことをいいます。自分は病気を診る医者で、病人を診る医者ではない。私は困りまして、その学生と話をいたしました。そしてわかったのは、その学生のお父様は、病人を見ていると、ああこの人はもう随分とお歳を召している、一方こちらは若く何人か家族がいる、なんとかして治してやらなければ、という気持ちを持たないでもない。またはこの人は、お金が十分にあるから、 あの治療をしてもあの薬を出してもいいだろう、それに比べて、こちらの人には、無理だと思う、そういう気持ちが起こらないでもない。だから私はできるだけ病人を見ないで病気を診ることに徹したいのだ、というのがその学生のお父様のお気持ちでした。

言葉は病気、病人です、しかも反対に使われております。しかしながら、この二人のお医者様にあったものは、あたたかい心遣いと人間愛だった、共通したものがあったと気づきました。

そして、長く話したら、洗いざらい話したら、ぶちまけたら、それで相手がわかってくれるか、自分も相手を理解できるかというと、けっしてそうでないと思います。確かに、時間をかけてゆっくりと話すこと、隠し立てしないで話すことは大事だと思いますけれども、私たちは別人格でございますから、相手を100%理解することは不可能です。

これは、柴生田 稔とおっしゃる歌人が、折々のうたというものに掲載されている歌でありますけれども、

今日しみじみ 妻と語りて一致する 夫婦はついに他人ということ

別人格である二人が、しみじみと話し合った、その結果として、お互いは100%理解しつくすことはできない他人であるという結論で一致した。
しかもその二人がこれからも手を携えて結婚生活を続けていくということで、本当にこの二人の成熟した愛、大人の姿に感銘を受けました。

エーリッヒ・フロムの言葉だったと思います、
一人でいられるということは、愛する能力をもつことへの条件であるという言葉があります。

私たちも、言葉がどれほど重要なコミュニケーションの手段であるかを気づくと同時に、その言葉が醸し出す誤解というものにも心を留めないといけないと思います。
口から言葉が出る前には、私たちは言葉の主人です。でも、いったん口から言葉が出た後、わたしたちは言葉の奴隷となる、ということを忘れないで、丁寧に話すこと、相手を傷つけないように言葉を選ぶこと、そしてどれほど信頼しあっていても人間は弱いですから、100%理解し尽くすことは不可能だ、そこへ相手への尊敬と愛と信頼が生まれる。お互いが許し許される謙虚さをもって生きてきたいと思います。





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Last updated  2009年02月13日 03時37分54秒
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