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最初、農苑の入り口や周囲に覆い尽くされていた、イバラ、野イチゴ。その勢いたるや半端ない。そして、他者の侵入を防ぐべく、用意された無数のトゲ、トゲ、トゲ。たとえ、表面を草刈り機やなぎなたなどで取り除いたとしても、今度は起こす時にその根の頑丈さに腰が悲鳴を上げそうになる・・・。何故、彼らはここまでも頑強にできているのだろか。…それは、起こしてからわかってくる。どうやら、土を浄化してくれているらしい。イバラや野イチゴが群生している土の下は相対的に土が肥えている。土が柔らかいし、ミミズもたくさん出てくる。あれ、待てよ…?北海道でも似たようなことが…そう、笹の下の地面だ。笹の下の地面は笹の根が強烈過ぎて根を取り除かないと、作物を育てることがなかなか難しかったが、やはり笹の下の地面は土が肥えている場合が多かった。そう思うと、彼らの役割がだんだんわかってくる。それは、自然への回帰だ。何事もなかったかのような、「無」へと進んでいく変化の過程で彼らが一役買っていることがわかる。彼らの力は強い。人間が建てた家すらも無に帰すべく、根気強く成長し続け、ついには家そのものを潰してしまう力を持っている。しかし、よく考えれば、彼らの働きが強ければ強いほど、その土地は力を持っているということになるのではないか。より、自然への回帰能力が高いが故に彼らみたいな強力な奴らがそこに群生する。そういう中で人間が暮らしていけば当然、人間も強くなるだろう。たしかに、一見すると厄介なのかもしれない。しかし、人間サイドで物事を見るのではなく、自然という立場から物事を見ようとするとちょっと違った見解がでてくる。この世のすべてのものは「無」に帰するべく、破壊の方向に向かっていく志向性があるという。そういう側面でこの笹やイバラの現象をみてみるとただただ、バランスをとろうとする働きにすぎないと思う。人間にできることは、謙虚に彼らとうまく付き合うことだ。ここは人間の住処だということを明確に示して彼らに納得してもらい、そこからなるべく立ち入らないようにしてもらう。人間がこの世で生きていく以上他のイノチを一方的に排除するのではなく、どううまく付き合うかということを考えなくてはならない。以前、住んでいた人はよほど、そういう心に欠けていたのかもしれない。最初、ものすごい、彼ら(他のイノチ)からくる攻撃的な雰囲気がこの家を覆っていたけれど、少しずつ「開墾」していくことで、その「雰囲気」がとっぱらわれてきているようだ。特に、畑では植生が変わって柔らかい草が増えてきたりと、目に見える形でも変わってきている。人間というのはそういうことのできる存在として尊い存在といえるだろう。人間の力の使う方向が正しければすべての存在を良い方向にバランスを取りながら導けるのかもしれない。しかし、間違えれば、それはまた、とんでもない結果をもたらすことになる。今の世の中はその後者のほうに傾きがちだけどどうにかしてその流れを変えらればと思う。その為に生きているんだという確信はもうすでに持っている。しかし、まだまだ足らない…人間の可能性・潜在能力は計り知れない。眠っているのだ。Yasu
2011.08.28
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畑という場があることによって人が集まってくる。最初は何年も誰も見向きもしていなかったただの荒れ果てていた畑。それが、徐々に開墾されていき、一部の野菜が収穫ができるようになった。そして、それがレストランで使われたりするようになった。そして、レストランで働いているみんなも、時間がある時は、この農苑で農作業するようになった。Dimitlyみたいにレストランの常連客だった人が農にも興味があり、そこから、農哲学院に関わりはじめた人も最近、何人も出てきた。「畑」というのは人を集めさせる力があるみたいだ。ロンドンみたいな都会に住んでいてはこんなに公園やガーデンがたくさんありながらも、土に触れる機会は実はあまりない。そんな、土に触れる機会をごくごく身近に与えてくれるこの畑。こんなに求められているんだもの、力を持つのも当然かもしれない。今まで、ロンドンではレストランという一点だけであったが、もう一点の場が少しずつでき始めてきた。もちろん、収穫して、レストランで使うためというのもあるけれども、こういう、「場」作りでもあるというのがわかってくる。最初、でかい機械を入れて一瞬で起こしてしまうことも考えたが、こうして、クワ一本で少しずつ開墾してみるとそのクワ一本に込められた思いというのが重要であることがわかってくる。そんな思いがもしかしたら人を集める一因になってくれればと願ったりもするが、どうだろうか。しかし、少なくと一瞬で起こしてしまったよりも何か違う空気が出ていることは感じたりもする。なぜ、ここで畑をするのか。そこは、単なる野菜を育てる場所ではないようだ。by Yasu
2011.08.22
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言葉というのは恐ろしい。そして、それに影響されてしまう自分がいる。「言わない生活」それを心がけるようにしている。節に伝えたい思いを込めてしゃべること以外はなるべく言葉を避けたい思いが強い。一人、孤独にどこかで隠遁生活をしようものならそういう生活もほぼ達成できるかもしれない。しかし、こういう風に俗世の中で生きているのだから、当然言葉をしゃべる必要がでてくる。まわりはしゃべらせようと攻めてくる。言葉が独り歩きする。この「言わない生活」をしているとだんだん、言葉に振り回される瞬間が見えてくるし、他人が言葉に振り回されている状況、そして言葉が言葉を呼び、増幅し、とてつもない力を持つ瞬間が見えてくる。特に、他人に対する愚痴や批判。これはものすごい力を持って、僕たちの内部に攻めてくる。ある人が他人の愚痴をぽつんとしゃべった。そうすると、どうだろう、それに迎合したくなる自分がいて、迎合すると、何とも気持ちの良い自分が出てくる。本当はそうじゃないのにと思っていてもその力が強すぎて止められなくなってしまう。後でふと考えると、そんな愚痴はどうでもいいことで吐かれた言葉だけが、ただ空気中に残って、何とも複雑な気分になる。言葉は力を持っている…やたらめったら言葉を吐かないほうが無難だ。目に見えないもので、力を持っている最たるものが言葉だ。でも、考え方によっては言葉は良い影響も及ぼすだろう。それが愚痴や批判ではなく、真の喜びや楽しさにあふれた言葉。それらは、人の内面にも良い影響を与えるに違いない。結局、人はその人から発する言葉で人を判断しがちだが、この「言わない生活」をずっと続けることで、言葉以外のもの、例えば、顔つき、体格、しぐさ・行動などでその人のバックグラウンドがわかってくる。別に、言葉を吐く必要もなくある程度の意思疎通はできるようになる。しかし、言葉も大事なツール。言葉の持つ力を十分に理解した上で、本当に必要な言葉を吐く。そうすると、その言葉に重みがつくし、言葉の力に利用されるのではなく、逆に利用できるようになる。そうなるとしめたもの。「言葉遊び」というけれども、「言葉に遊ばれる」のではなく、「言葉と遊ん」で、良い関係を築くべきなのだ。「言わない生活」が自分の内部に根付いてきたら、今度は「聞かない生活」も実践していきたい。どうしても他人の言葉が耳に入り、それに影響されてしまう自分がいるが、それを「聞かない」。といっても無視するのではなく、聞いていても、それが悪い影響を及ぼすものなら右から左へと通り抜け、真の言葉だけを自分の内部へと取り入れるようにする。「無私の自分」を築くためには、このような生活は登竜門であると思う。しかし、実践できる場がいくらでも用意されている、この世の中。いつかは達成できるだろう。by Yasu
2011.08.19
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先日、初めてスコットランドを訪れた。いただき膳レストラン2号店がオープンする場所であるオーバン、そして我々のメンバーである?樵さん・一静さんが住むカルディーズ。そしてそのカルディーズにて、?樵さん手作りのコンポストトイレに入りながら思ったこと。「同じだな。」それは、今から4年前、福井の山小屋に住んでいた時、同じく?樵さん手作りのコンポストトイレを使っていた時と形は違えど、全く同じ。同じことを繰り返している。そして、一つ違うことは、より大きなうねりになっているということだ。あの時は、まだほんの一回転くらいの小さな流れにすぎなかったことが、今はだんだんと遠心力をつけて大きなうずになってきているようだ。僕たちは形や行為は違えど、おんなじことを繰り返しているんだなと思う。一見、無駄に見えるようだったり、はたから何をしているかわからないようなこともそれでも「実践する」という行為によって、静かに、静かにそれが蓄積していって、気が付けば大きなうねりとなっている。どうだろう、あの時とやっていることのスケールの違いに気づく。目に見える世界ばかりを言っているのではなく、自分の心、ほんとうの心と体、そのレベルによって今この現実となって表れてくるものは、一見するとおんなじようにみえて中身は全く違うのだ。スコットランドを初めて訪れたけれども、何故、僕たちがスコットランドに行くべきだったのかがすぐにわかった。「力」が強いのだ。特に大地の生命力が。色濃い木々、恵みの雨、きびしくそそり立つ岩壁…ここに住んでいれば人間が本来持っている力を発揮できるようになるはずだ。彼らからうまくその生命力を分けてもらえれば。ここで力をうまく蓄えれば、将来日本に戻った時にも何か一つのうねりというか、日本の危機に立ち向かうことができるかもしれない。そんなことを感じた。もう、目先のことを追うのは止めにしよう。常に流れというものを考え、感じ、それになるべく沿った生き方をする。目に現れる事象というものは一つの流れの中に現れる単なる一点であり、それは流れを判断する大きな要素ではあるのだが、ただのそれだけにすぎない。この流れをうまくくみ取って、利用されるのではなく、利用できるようになれば、どんなことが起きても平気になっていく、そして何より、人間本来の力を発揮できるようになるだろう。僕がここにいる、できる限りここにいて、さらには何年という期間でここにいる、というのは今の流れに沿っているという確信はある。ただし、流れは変わるということは確か。あくまでも現時点での「流れ」ということではあるのだが。by Yasu
2011.08.07
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今は人が集まってくる流れのようだ。どんどんどんどん、人が集まってくる。もちろん善童塾に参加されたみなさんもそうなのだが、ここロンドンいただき膳レストランにも不思議な偶然から集まってくる。Dimitlyもその一人。20才のこの青年はなによりもポジティブ。偶然にもレストランの前を通りかかって、何か違うものを感じ、後日レストランを訪れて以来の常連客だった。そして、ランチをしばらく止めることになって、どうしてだという問い合わせをくれたことがきっかけで僕たちと縁を持つようになった。いただき膳レストランという「場」の大切さを実感した出来事。彼は20才という若さながら、あまりこの現実世界に流されない真っ白な心の持ち主。彼から学ぶことは多い。なによりも気持ちのいいのが否定しないということ。イヤなこと、それを言われたくないなあと思っていることを言われるとついつい否定してしまう自我が顔を出してしまうが彼にはほとんどそれがない。まだまだ、強固な自我がいて否定的であることにある種の快感を覚えるヤツが顔を出そうとチャンスを伺っている。しかし、彼みたいな人と接するとそういうヤツらもまた顔を引っ込めてどこかにいってしまう。なるほどなあ。つまりそういう人になれば、僕もまわりにそう思われることも可能なんだなと気づく。なんとなく「気持ちのいい人間」というのはこういう人間なのだろう。そこを目指していけば、周りはほっておかない。人やモノは自然と集まってくるように思えた。人が集まってくる時期であるからこそそれが足りていない自分に気づけた。by Yasu
2011.08.04
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掃除が大好きだ。バーネット農苑にきて、最初にしたこと。それは農苑の開墾ではなく、倉庫の掃除だった。なんで、はやく開墾を進めないのかという声もあるのはわかっていたが(いつもながら)、しかし、それは別に後でもいいこと。まず、何より大切なのが、ここを「自分たちの住む場所」にすることだ。この農苑の敷地は、どうやら前の住人がほとんど管理していなかったらしく、もうそれはそれはものすごい状態だった。まわりの生物たちはここが人間の住処だとわからないからどんどんどんどん、侵入してくる、一番やっかいなイバラが地中深く入りこんで家の壁にひびが入ってしまったくらいだ。だから、ひょっとしたら手遅れかもしれないが、それでもここを「僕たちの住処」だということをわかってもらって、少しでも彼らが侵入することを止めてらうことをまず、何よりも先にしなければならないのだ。そして、「良い気」がこの敷地に入るようにするのだ。そうすれば、取り巻いているすべての環境は僕たちに味方してくれる。そのためのまず、第一歩。それが掃除だ。気が付けば、いつもいつも僕たちがやる基礎的なことは掃除だ。でも、なぜやるのかがだんだんとわかってくるとそうせざるを得ないことに気づく。福井の古民家掃除、美深のセンターの整備、そしてここバーネット農苑の掃除。掃除嫌いな人間は農哲学院生としてやっていくには厳しいのかもしれない(笑)というくらい掃除をしている気がする。でも、それをする前とした後では全く違う空気が流れることに気づいてからはまずなによりも優先すべき事項であることを実感し、自然と体が動き出す。良い気を作り出して、大地からの運(地運)を得る。そうでなければ、やがては自分の身を滅ぼすことになるのだ。こんな風にずっと掃除をしてきてから最近実感してきたことがある。それは目に見えるきれいさも重要であることはたしかなのだが、この「掃除」という行為がただ、掃除機をかけてごみを捨てればいいということではないということ。ごみを捨てるという行為は、どうやら彼らの場所を「彼らのいるべき場所に移してあげる」という行為なんだなということにうすうす気がついてきた。「ここはあなたのいるべきところではない、あっちがあなたの居場所ですよ。」というのが人間の役割であって、その場所をどううまく見つけてあげることが掃除の根本であるような気がしてきた。大宇宙の掃除屋。すべてのモノにはすべての役割があり、いるべき場所がある。いるべきでない場所にいる奴らは、居心地が悪いから当然騒ぎ出す。でもさしあたってどこに行ったらいいのかわからない。だから、僕たちの役割は、彼らの居場所を見つけてあげてそこに移動してやる。例え、ゴミとして持っていかれて焼かれるんだとしても灰となってこの宇宙の一つになるではないか。例え、埋められるんだとしても、大地の一部となって静かに余生をおくれるではないか。そして、まだ人間と一緒に何かしたいとアピールしてくる奴らは留まって、人間を助けてくれるだろう。この倉庫にやたらあったバケツやはしごやら、デッキブラシやら・・・それを冷静に見極めるというのが掃除であるように感じた。なんだか、これって人間にもあてはなることのような気もする。いるべき場所をみつけられたということはいかに幸せなことか。もう騒ぐ必要もないしね。by Yasu
2011.07.31
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