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131015 先生いつものごとく教室に10時15分頃入室されて握手を求める。素敵なグレー系のスーツに身を包んで笑顔のまま一人一人に握手する。皆さんはどれだけ幸せですか。根っこが土の中に入って誰が根っこを作ったのか。緑に包まれお日様に恵まれる生活。こんなすばらしい自然の中に置かれているのに毎日いらいらしながら不安なのか。自然の深さと量と大きさその気づきを感じ、喜びを知ってください性犯罪の番組が何度もテレビで放送されています。テレビの視聴率を高くするために放送していますが、見る対象が若い人だと犯罪の検討材料になってしまいます。まるで犯罪を勧めているかのような放送です。刺激、推奨され、アクセルとなって犯罪を推奨しています。世間のレベルが低いのです。お金があって自分の事だけ考えても決して幸せになれません。欲得楽の世間体が見えます。現代は情報化社会。だけど声なき声に耳を傾けるのが大切である。声なきとは、無言でなく自然がいっぱい声を出しています。ピーピーかおはようか葉っぱは生きているから変わる。自然の緑に対して感謝。言うべき時を知る人は黙する人である。内観がない 直感がない・・自然の御手にあるのに、情報の中にあるのではない。我々ではない。私は一人一人だけなので、みんな違うから役立つ学校教育は何で情報を押しつけるのか。洞察力が無くなる。先生は何を預かっていますか?ロボットを預かっているようです。ほんとは一人一人違うことが教育なのに洞察力がない。情報に巻き込まれる。その原因は見えているところだけ報道している。例えば、高いところから落ちた。これでは原因が見えていない。なんの為に生きているの。自分の考え方で、努力している人が常識と思うこと。自分は自分のもの?生かされているのに。自然に。神と仏について 見えないものをウパーヤ これはすばらしい方便手段です。私たちは生かされている。生かしている意志を思っている。70億の人口、魚、植物、動物。意志を持っている。生かされている実感がない内観がない。今日神の御手 自然の中にある。春芽が出て花が咲き秋に実をつけ冬枯れる。輪廻は繰り返される。今日、ほうもんどうを究(まなび)で自分を作っている。天地有情我浄土する私を生かす自然の法則に従って生きて行こう春風が吹いてきたら芽を出し秋風が吹いてきたら枯れる自然の意志にしたがって。年取りたくない人手を挙げてください。手を挙げた人は自然に反則しています。自然のドラマを知る。若い者はその途中にすぎない。プロセスの途中にすることは布施である。どういう人に施すの?すべての人にというのは偽善である。全部の人にはできない。例えばお姉ちゃんがケーキをもらってきた。弟一人がいる。かわいそうだから分けてあげるという考えは傲慢である。これなら憎らしい人には施せない。代償をもとめている行為が布施ではない。やったら自分がうれしいからやるのが布施ですとはならない。やったのに返さないと文句が出る。かわいそうだからやる。代償を求める。命もお金も地位も人に与えて預かっているのにすぎない。自分が大きく喜んで施しができるようでないと人に布施ができない。人に是非もらってもらいたいと施すのが布施である。うれしくて行うのが布施。これでないと縁が良くならない。無財の七施がある 7以外にいっぱいあるのです。愛語施和顔施 赤ちゃんの笑顔です慈眼施身施心施舎房施謙譲施もらってもらう気持ちが大事です。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考 慈悲の実践~無財の七施~ http://ichigu.net/pillar/service02.html 「ありがとう」「おかげさま」の気持ちを行動で表す身近な実践として、『雑宝蔵経』(ぞうほうぞうきょう)に説かれる「無財の七施」(むざいのしちせ)があります。 仏教には、人々が人間形成に努めて幸せや安らぎの境地に至る道として六波羅蜜(ろくはらみつ)の行があり、その第一番目が布施です。布施の「布」は分け隔てなく、あまねく、「施」は文字通りほどこすという意味です。万人に等しく、施しをする人はもとより、受ける人の心も清く、布施の内容も清らかであることが大切であると説かれています。世間一般の損得勘定では、与えた人よりも与えられた人の方が得をするようなイメージですが、布施は、ほどこした人の方が幸せな気分になり、与えられた人よりも与えた人を幸せにするのではないでしょうか。『雑宝蔵経』に無財の七施を行うことで「大いなる果報を獲(え)る」と説かれている通りです。 私たちの日常生活においてお金がなくても、物がなくても周りの人々に喜びを与えていく、少しでも喜んでいただける方法がある、それが「無財の七施」の教えです。このような身近な奉仕や実践によって、自己を高めることができるとともに、世の中の人々の心を和ませることができるのです。 あらゆるものがつながりあってこの世の中は成り立っています。人との出会いやつながりはもちろん、お互いの助け合い、支え合いの中で私たちは生きているのです。伝教大師は「悪事は己に向かえ、好事は他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」と説かれるように、取ったり、もらったりのTake・テイクだけでなく、小さな行いでもいいから、恩返しや御礼をしましょう。周りの人に喜びを与えて(Give・ギブ)いきましょう。私たち一人ひとりのささやかな行いが、周りの幸せのためになり、行いを通じて自分も幸せな気分になります。 1.眼施(げんせ) やさしい眼差(まなざ)しで人に接する 「目は口ほどにものを言う」といいますように、相手の目を見ると、その思いはある程度わかります。相手を思いやる心で見つめると自然にやさしい眼差しとなり、人は安心します。自らの目を通して相手に心が伝わって、相手も自分の気持ちを理解して、お互いが打ち解けることができることでしょう。 2.和顔悦色施(わげんえつじきせ) にこやかな顔で接する 眼施と同様、顔はその人の気持ちを表します。ステキな笑顔、和やかな笑顔を見ると幸せな気持ちになります。そして周りにも笑顔が広がります。人生では腹の立つこともたくさんありますが、暮らしの中ではいつもニコニコ、なごやかで穏やかな笑顔を絶やさぬよう心がけたいものです。また、メールの顔文字も一工夫してみてはいかがでしょうか。 3.言辞施(ごんじせ) やさしい言葉で接する 言葉は人と人との関係を円滑にするコミュニケーションの大事な方法です。私たちは言葉一つで相手を喜ばせたり、逆に悲しませたりする場合があります。相手を思いやるやさしい言葉で接していきましょう。「こんにちは」「ありがとう」「おつかれさま」「お世話になります」など、何事にもあいさつや感謝の言葉がお互いの理解を深める第一歩です。 4.身施(しんせ) 自分の身体でできることを奉仕する 重い荷物を持ってあげる、困っている人を助ける、お年寄りや体の不自由な方をお手伝いするというような身体でできる奉仕です。どんなによいことと思っても、それが実行できなければ意味をなしません。よいことを思いついたら実行し、自ら進んで他のために尽くしましょう。その結果、相手に喜んでいただくと同時に、自己の心も高められるのです。 5.心施(しんせ) 他のために心をくばる 心の持ち方で物事の見方が変わってしまうように、心はとても繊細なもので、自分の心が言葉遣いや態度に映し出されます。自分だけがよければいいというのではなく、心底からともに喜び、ともに悲しむことができ、他の痛みや苦しみを自らのものとして感じ取れれば言うことはありません。慈悲の心、思いやりの心から自然とやさしい顔や眼差しにも表れてくることでしょう。 6.床座施(しょうざせ) 席や場所を譲る 「どうぞ」の一言で、電車や会場でお年寄りや身体に障害を持っている方に席を譲ることです。座席だけでなく、全てのものを分かち合い、譲り合う心が大切であるという意味が含まれています。何事も独り占めはいけません。少なくとも電車やバスのシルバーシートは本来の意義に従って利用しましょう。場合によっては自分の地位を譲って後のことを託すという意味も含まれるでしょう。 7.房舎施(ぼうじゃせ) 自分の家を提供する 四国にはお遍路さんをもてなす「お接待」(おせったい)という習慣が残っています。人を家に泊めてあげたり、休息の場を提供することは様々な面で大変なことですが、普段から来客に対してあたたかくおもてなしをしましょう。平素から喜んでお迎えできるように家の整理整頓や掃除も心がけたいものです。また、軒下など風雨をしのぐ所を与えることや、雨の時に相手に傘を差し掛ける思いやりの行為も房舎施の一つといえるでしょう。 いかがですか。一日一善といいますように、私たちも普段の生活の中で、この「無財の七施」の中の一つでも真心のこもった布施を実行できれば、自ずと他のこともできるようになっていくのではないでしょうか。そうすれば、周りの人たちと仲良くでき、自らの心は安らぎ、ともに幸せに暮らすことができるに違いありません。 ------------------------------------------------------------------------国連で住民の困っている数だけ食糧援助しようとしたら,現地から僧侶の数だけ引いて請求が来ました。坊さんにあげるのは国民から坊主に出すならわしだからです。人を憎み自分を駄目にするのは自分である。不幸な人が回りには多いが、自業自得の結果なんだ。ほんとはみんな幸せなんだ。愛慈悲=仏様恵=神様・天地自然を言う自然の恵みが自分に命令する。人間に善悪はない。行った行為に対してウパーヤ 方便として与えた。どれだけ近づくか今日行う行為による。近づくことをするのが布施です。自然はあなた方に対して命令する。あなた方は年を取る涅槃の境地を与えるために、布施を行うのです。64歳以下8000万人の人口です。この人口で国の1200兆円の借金 GDP240%に当たるを返済します。年金を無くすしかない。ヨーロッパでは67~68歳から年金支給です。医療保険は病名によって他は使わせない。若いとき老境に生きる布施に近づきなさい。因果律自然の法則原因が結果する。天網は漏らさない。自然法爾(じねんほうに)は絶対法則 最後に解説有り。棚からぼた餅とは棚にいいぼた餅を上げる。ぶす餅を揚げてはいけないのです。プロセスが目的を作るいい人生いい老人所業仏業いきていることの行いが仏業である。利得を得る。善縁善果悪縁悪果私たちは仏子なり知らないことが最大の罪なり。犬、ペットでなく仏の化身である。すべての森羅万象は仏の化身である。普段食べているお米は天地の力を宿した米。食べなさいと言うとき命をいただきます。供養して身のうちに入れ、感謝がどれだけ深いかでお米が生きる。昔は海山のものを食べ余計なものは取らなかった。今もうけるために全部取る。そのため自然を狂わした。自然の法則と違う人間が作った状況に対して供養の心が大切である。善は、バランスよく行う。涅槃の境地を生きられるように布施を能力の範囲内で行う。家族の範囲だけでもいいので近づいていきます。身口意 このうち意が大切です。 先生 合掌。-----------------------------------------------------------------------------参考自然法爾(じねんほうに)~親鸞聖人のおしえ~ 「物事は自然になるようになっていくし、それが一番いいことである」 日本には四季があるが、 春になれば自然に温かくなり、自然に花が咲く。 それは自然にそうなるのであって、 だれかが努力してそうなっているわけではない。 それは、自然にそうなるべくして、そうなるのである。 そして、その自然の営み、物事の移り変わりこそ、 仏の働きであり、仏の姿そのものである。 大体、この自分という存在を考えてみても、 生まれようと思って生まれでたわけでもなく、 育とうと思って育ったわけではないではないか。 そう考えると、こうして生きておるのも、 すべては仏さまのお慈悲、ご加護のおかげである。 だから「ああか、こうか」と考えるのをやめて、 その日、一日一日をただ精一杯生きよ。 喜びと感謝をもって事を為せ。 あとはすべて仏さまにお任せせよ。 もともとお前自身はお前のものではなく、 仏さまのものである。 それを勘違いして我がものとして執着していただけのこと。 仏さまのものは仏さまにお返しして、 心配することなく毎日を楽しく生きよ。 (親鸞聖人御消息「自然法爾の章」より)
July 31, 2018
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131107先生ロマンスグレーの髪をなびかせて教室に入場しました。先生から私に尋ねられた。先生「最近どうですか。」私「悩みが多いですね」先生「悩み多いとは傲慢ですね」先生を通して自然の声が聞こえます。司会者みっちゃんの挨拶。「今日はかれた声でご迷惑おかけしてます.喉のポリープができましてしわがれ声です。」先生「ほんとは声が変わってうれしいいうのがいいのです。素敵な人生を送るように変身中です.楽しいです。くらい言わないといけません」私といい、みっちゃんの話といい、いかに先生の門下生ながら今まで何を学んだかと問われそうです。自然の声どころか毎日の仕事や生活にしか目を向けていない。そのことに尽きます。 自分で原因作って結果があるのです。大学生になる22才まで身内を甘えかして教育させる。塾まで子供に行かせています。それに比べユダヤ人は13歳で成人式を迎え家庭で教えています。甘えることになれ、与えられないと不幸に感じます。採取民族が農耕民族になりかわり日本的文化が育つ土俵になりました。昔は困ったら助け合ったものです。お金借りて12/31までに返したいができない。そこで新年度4/1で借金を0とする習わしがあった。それで絆が深くなった。お目でとうは、今年こそ芽を出したいという意味です。お屠蘇は捕殺して新しくよみがえるための行事です。兄弟といえど他人のはじまり。助ける甘えるは子供を不幸にする習慣です。性格を子供から大人に成長させるため時間を要します。効率がよい現代電化生活は小人閑居を得て不善を為す。昔は洗濯掃除などの家事は女の居場所でした。今は善か悪かで判断してます。悪なんてないのですよ。善に近づくだけ。自業自得生かされている事への感謝だけですよ。因果応報生かされていることで感謝感謝できないのは自分の諸行をみせびらかせている証拠。つまり悪の行い。世の中の風潮は政治家は女性を活用してGDPをあげる。不足する労働力に対して女を働かせる動きあり。今の時代、商品の売買は供給過剰で欲しいものはサービスが主だから女性の方が労働力にいいのですが果たしてそうでしょうか。女性の未婚増加。女性の役割をたっぷり行うべき。日々足下の問題に対して解決すべきです。日本では学童施設2.1万箇所設営して女性の社会進出を図っています。女の価値は無償労働力138兆円。でも子供がいないと家庭の幸せがない。これらが不善を為す原因になる。女性がなさなければならないことをしていない。甘えさせて子供を育てる。甘える日本の伝統文化が良くない。懐疑心、疑問を持たない。知人友人の関係は嘘、虚構で一生懸命しているが名前ばっかきにしている。他人には無関心無遠慮で不幸が続く。同情は最低のお付き合い。他人に対してどう接しているか。台風が来る津波が来る だけど見知らぬ人のことですね。見知らぬ人にどう気を配り目配りするか。ここが大切です。自分の心からできる限り因果律で最高の結果を得るべきです。お布施は自分の心から出たもの。無財の七施には心施 やらなくてもいいが思うことの大切さ.ほんとうに心が思う。身施 身体で奉仕する。やれないことを求めるのは邪道。距離が離れていては施せません。強制しても意味はありません。できないけれどできる範囲でいい。NPO見せびらかせてはよくない。神がちゃんとみています。身口意 奉仕したり口で歌ったり心で思う舎房施 相手に気を使わせない.見えないところでの布施。謙譲施 自分が譲りたくてしょうがない。ちなみに怒った心のときは布施をしても布施ではありません。自分が幸せでないと布施にならないのです前回の確認ですが、お兄ちゃんがケーキをもらってきた。お兄ちゃん妹にもわけてあげて。そうおかあさんがいう。これは世間体は正しい。しかし人生で何で苦しむのかはやっても返しがない。ほんとの布施の気持ちでこれを考えると1人で食べてもおいしくない。2人で食べたらおいしいから分ける。財施 お金であげる。お金は天から回ってきた道具です。法施 皆さんにお話ししてわかってもらいうれしい。まさに天下の法則を皆さんにおあげして取っていただく昔話の浦島太郎、桃太郎、花咲かじじい。すべてがこの布施を伝えている。無 垢(がん、に、美)が全部嘘である色即是空 見えたものが無い空即是色 あるよ色即是空 見えたものが無い空即是色 あるよ カボチャの種をつぶしても命の存在はわからない。同じく人間の五感は鈍感で架空な人生を生きている。水に塩を入れて溶ける。無い塩はとれない。しかし確実に塩はある。我々を生かしているのは自然(神)である仏様はあなたです。仏像ではない。神でないものを拝むのは罪である。諸業修行 諸行仏行 自然の祝福それに近づくのが自然で、これが修行近づいて縁が良くなる二宮尊徳天つ日の恵みつみをく無尽蔵鍬で掘り出せ鎌でかりとれ無尽蔵の中に生かされている。近づこうとしないのは怠惰です。偏差値は99%の人が信じているが、幸せになる人は1%もいない。散るべきを知っているのがすずき。五感は無垢であるが善に近づくかわからない。唯心所現 今どんなことを思って生きているのか。どう思うかで将来を作る。心が将来を作る。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考唯心所現という言葉。人間というのは、心の中で思っていることがすべて現れる。どんな選択もどんな結果も、すべては自分が思っている通りになっているという意味らしい。周りの人との距離感も、それは自分の心が決めていること。自分が決めていることに自分が文句を言っている。心の持ち方一つで、世界は大きく変わるんだとか。深いなあ。思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい。それはいつかあなたの運命になるから。http://d.hatena.ne.jp/maru2co/20111024/1319452612「唯心所現」の「心」とは「コトバ」のことです。「コトバ」には、「身(しん)」(行動)、「口(く)」(発声音)、「意(い)」(心の思い)の3つがあります。身・口・意の三業を駆使することで、「唯心所現」の法則によって、「現象世界」をどのようにでも作り上げることができます。善いコトバを使えば、善い世界が「現象世界」に現れ、悪いコトバを使えば、悪い世界が「現象世界」に現れてくるのです。そこで、善い世界を実現させようと思ったら、「実相世界」の善きコトバ、神様の御徳である、智慧・愛・生命を、コトバで表現すれば良いということになります。http://carbonoffset.fukuwarai.net/%E5%94%AF%E5%BF%83%E6%89%80%E7%8F%BE/・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・若者の半数交際相手無し。従業員93%は新聞によるとやる気無し。お隣中国は94%です。アベノミックスで景気は良くなるか?28%の中小の会社が税金納めている。1億円以上の会社のうち68%が税金を納めている。物価が消費税導入で高くなる。それに向けて世界で最も高齢化社会がはやいのは日本である。かつてスウェーデンが120年間で高齢化社会を迎えたが日本ではどうでしょうか。高齢化社会は65才が7%。高齢社会は14%で24年間で達成してしまった。25%3000万人の高齢社会が現状だ。老齢に対する不安をあおっている。85歳まで生きるのに2000万円かかると報道している。親孝行しているのがばかばかしくなる時代。夫婦の喧嘩を見せている家庭内教育。31%離婚、61%家庭内別居今日をどう思うか。今までの制度に甘え、不幸に陥る危険がある。日本で製造されているものが外国で価値を持たなくなる。66歳のフラダンスで身体が痛むのは当たり前。不幸である。将来心配する度合で人生が決まる。心配しないでいい、人生を送る。そのために役割を変えるのが布施。その布施で一番は笑顔である。愛語施 若い人に声をかけられるか。毎日父母と喧嘩 親子だからできる甘え。ブレーキをかけるのはあなた次第。お布施は思い出した時にやるだけでも因果があがる。高齢を豊かにして、周囲から必要とされるひとになるために。皆人は生かされている。自然を信じてマネしている。創造通りに創造される 自業自得イヌマエル 神と共にいます同行二人。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考「同行二人」とは、弘法大師が共に歩かれ西国巡礼をしていくという意味なのですね。同行二人の意味は、その通り、巡礼は弘法大師様と共に行く~~、ということですな~~巡礼の道は日本中で見られるようですなあ~~私の住んでいた地方にも、右、遍路路と指指し石柱がありましたなあ~~~晩春の菜の花畑を、チリン、チリンと鈴を鳴らして遍路さんが行く・・・。巡礼者を、お遍路さん、というのは四国巡礼についてだけ、のようですな~~~農業が嫌で,町に出て、学校に行き農とは直接には縁の薄い職にいましたが、このところ、この選択は誤りであつた様におもえるのです・・・幾歳、ふるさときてみれば・・・・このところ帰郷していませんな。なみだ、なみだで、幾歳くれえて~~~http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1484770869・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
July 31, 2018
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130717 いつものごとくにこにこと歯を見せて先生来られた。私がご自宅に送った就職準備セミナーの原稿から【あるレジ打ち女性の話】が印象に残りましたという感想をいただいた。金沢市役所の上田さんもこの話感動しましたねと意見をいわれました.出典『涙の数だけ大きくなれる』 ~木下晴弘著書、フォレスト出版より~http://1kando.net/5100会員から お母さんにいつも食事を作ってあげているのにご飯にはありがとう言うているのに自分に言ってもらえない。 孫の小学4年が学校でいじめられている。抵抗すると更に仲間を連れていじめに来る。どうしたものか。先生自分の思うとおりにはならない。現象には原因がある。感謝しない親を見たら反面教師として見るべきである。老境に入ったとき人から憎まれたりしないように、将来の原因は今作るべきである。 また相手を仏様と認知できると相手が変わる。こちらの波動が相手に移って変わる。 赤ちゃんは何で生まれてきたか。命と心が満たされないと60~80歳で地獄を見ることになりますよ。つまり子供は愛されるために生まれてきた。それが生まれてきた理由である。大きくなるのは易いが成長は難しい。 小言は子供にとって迷惑である子供には喜びと希望を与えて子育ては人生最高の幸せである 原因は過去にある。幼児の教育にある。親にありがとうぐらい言ったらというのは自分自身を虐待させている。自分が苦しくなる。原因を作っている母。迷って苦しんでつまずく時もあるが,老境のモデルになって憎まれ役をしている。仏祖母、毒祖母のごとく子供には親孝行しろと要求しない。 我々は子供の時から答えを教えられてきた。習慣から。風習から。成績上げなさい。社会から後ろ指刺されないようにというような貧相な考えを持って来た。ほんとは答えはいっぱいあるのに。 五蘊皆空{ごうんかいくう} 度一切苦厄{どいつさいくやく}ごうんとは情報の取り入れ窓で色想行識 受想行識色とは現象のことこれらを捨てないと極楽に行けないよ■供養とはなにか。空でなった人でないと良きことができない。仲良くできる人が人類を愛せる。そこで供養とは、欲張りを空になれよと親が自分を供養している。先祖はうれしい存在だ。 お坊さんは死んだ方に向けて御経をあげていますが、本来子孫にこう生きろという代弁者である。遺産である財産、資産、能力は子供に残していったものである。変化に対応するために子供が活用し社会に奉仕する。ここへ来る前に以前見た栗の花が毬栗になっていました。自然の変化が最大の喜びです.確実に年を経ることによって死に際がすなわち今日の結果だった。老境に入った姿が自分を告げる密告者だった。 生活が苦しいから子育てができない。ほんとは違うかもしれない。土の中は生態系があり微生物が生きている。化学物質ができてから微生物を廃棄してしまう。化学物質誕生から40年しか経たないのでまだ影響は現れていないはずが。子供のアトピーはお母さんが食い続けている食物に原因がある。男性ホルモンが少なくなり精子の数が少なくなる 食べ物はその点非常に大切だ。スーパーの社長は店のものを食べない。食べ物は命を保ち命を活性化する。食べ物がいいと発想が変り生理が順調になる。■老境に入り大切にする事項。1食べること 命を活性化させる2寝なさい 寝るほどすばらしい医者はいない朝雀の声を聞き花に声をかけ,風の音が自然に感じられる3休む ノアの方舟 ノアはヘブライ語でいやし、休みを与える意味。空になるには勉強の5倍時間をかけて空になる。そうすれば自然の法則が自然に入ってくる。 汚い魔色の世の中から新しく出発させた方便として。何も見ない本物に満ちて。松風 こう生きろと教えるせせらぎ こうしなければダメ水は○のところは○、□のところは□になって自由に倣う4遊びなさい好きな事をする。働いていることから開放されることスポーツも開放である勝負のある世界はもはやスポーツでない空手道 道でもって仏道なり正しい道に入る人間の欲から開放する5学ぶ修行と言うことではなくほんとは何なのか疑問を持つ学ぶ事は疑問を持つことである出会いからご縁になって、文句との出会いすべて出会いから始める。金子みすゞ『星とたんぽぽ』 青いお空のそこふかく、海の小石のそのように 夜がくるまでしずんでる、昼のお星はめにみえぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。ちってすがれたたんぽぽの、 かわらのすきに、だァまって、春のくるまでかくれてる、つよいその根はめにみえぬ。 見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。『すずめのかあさん』子どもが子すずめつかまえた。その子のかあさんわらってた。すずめのかあさんそれみてた。お屋根で鳴かずにそれ見てた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考 劇団若草の創始者である上山雅輔(本名:上山正祐)は金子みすゞの実弟。1926年(大正15年)、叔父松蔵の経営する書店・上山文英堂の番頭格の男性と結婚し、娘を1人もうける。しかし、夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇されるようになり、女性問題を原因に上山文英堂を追われることとなる。みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、後ろめたさからかみすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。さらにみすゞに淋病を感染させるなどした事から1930年(昭和5年)2月に正式な離婚が決まった(手続き上は未完)。みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。夫への抵抗心から同年3月10日、みすゞは、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺し服毒自殺する。享年26歳。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小石を蹴って実はダイアモンドを蹴って死んだことを知らない。命と心を学ばないと老境になって困る6働きなさい 傍楽 今日の私の役割です誰のために役立っているのか考えなさい聖書にはマタイによる福音書7章でわたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には善い贈り物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に善い贈り物をくださるにちがいない。ここでは求め続けよが抜けています自然(=神)の法則を求め続けなさいたたき続けなさい。そしたら頼れられる。浦島太郎のように愛を出し続ける必要とされる人間になりなさい自分の特性を完成させなさい人間の集団の中で自分の役割を認識するが比較しては駄目ですアベノミックスで金融緩和は貧富の差を生み,財政再建は達成されず年寄りから金を出させる。30兆円の臨時災害復興国債発行30兆円の本予算の国債40兆円だけ国政に使える何処にお金を使うかが政治ですインフラ放棄で日本の橋の40%はぼろぼろです。
July 31, 2018
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130612 2ヶ月ぶりに講演が聴ける。うれしさに小走りになる気持ちを抑えながら会場にむかいました。どなたか近況報告をしませんか?に答えて■質問から 職業選択にみる幸せとは 私がこのたび大学3年生に講演をすることとなりました.職業選択の十戒という内容で7月に金沢市役所主催の講演に出ます。実は会社を選ぶのに給料の安いところを選ぶこと、親の反対している会社を選ぶことなど一般常識以外就職選択基準を話さなければなりません。 先生曰く出発点は非常に大切です。先日も母と息子が就職相談で話したことは、一人一人は同じでないんです。みんな同じ基準で会社を選び、失敗しています。実は倒産しそうな会社ほど本人の身になるのです。人生は練習の聞かない本舞台。学校の勉強は役立たない。会社勤務はお金を稼ぐことと錯覚しています。 先日北海道に行きました。ヨサコイソーランで270組が踊っていました。みんな生き生きしていて好きな芸は身につくのです。ところが会社の仕事ではそうはいかない。もっと自分の好きな仕事をするべきです。 お幸せを祈っていますと皆さん挨拶します、お幸せとは何でしょうか?お金いっぱいもらっていること?偉くなること?いいところに就職すること?このような基準では幸せは一生ないよ■老境鏡はなぜ見るの不幸になるため、他人と比較する為と思ってしまう。悪いよりはいい。二者択一。一時いいことを望み一生終わりがちになる。同じく老境は体験がないとわからない世の光人の心が暗ければ光なし草葉に置き露の風の吹く間の光なりけり 私たちは、はかない幸せをもとめがちです。死は怖いと教えたのは宗教です。老いこそ最善であり人生の最後であり50~60歳と肉体条件が変わる60~70の時50~60の考えでは苦労をします紅葉で紅くなるのはいいが、青いままでは困る我々の時は神の御手の中にあるこの神をホーベンとかウパーワ(自然)という今このときが幸せであり悪いことは不幸と考えるこのときが幸せでありその後はない■幸せは仏子(神の子)と知る事幸せとは2500年前に釈迦の言葉で「人間最大の不幸は仏子なんだと知らないことだ」「人生最大の罪は足ることを知らないことである」時に流されるなよ.時をきっちりと捉える。仕事に使われなよ。主体的に働け。お金に使われるなよ。人生は受け身で生きるなよよさこいソーランであれほど若い者が熱中して奮起した行動をみたことがない。このパワーを世の中に引き出していない。会社や先輩が若者を駄目にする。好きなものを引き出してあげるのが教育で、なんでも平等ありっこない。踊り好きならさせればいい英語好きならさせればいい同じだって事は役に立たなくなる。自分の子供に何か特徴あるのかわかりますか?■母親の仕事母親の仕事をまっとうしなさい政治家曰く日本をよくするには人口を減らさないため、子育てのために乳児園が必要で・・・泣きたくなる失策だ役員は将来の投資をして役立つ社会をを作り法人としての人格を認められる。男女の差はあって当然。自分というものを生きなければ駄目。■20代は究学 仕事に失敗はつきもの孔子は言われた子曰く、「吾 十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従いて矩・のり・を踰えず」。15歳を志学・しがく・、30歳を而立・じりつ・、40歳を不惑・ふわく・、50歳を知命・ちめい・60歳を耳順・じじゅん・、70歳を従心・じゅうしん・、と呼ぶ。10代志学 親のいうことを聞くと世間並み褒めるから新しい事に疑問を持つそのため怒る必要が無くなる。褒めることは驚きと感動と躍動がある。20代は書いてない。究学でしょうね。 仕事に失敗を体験して すばらしいパワーを生む。一番不幸は他者を思う心が自分をいたぶる失うのは良き入れ物を求めるため。体験を通して知る。今の大学生は親の意見で48%職業を選択します。子供に自立心を教えないのは 泥棒根性を教えるのと同じ。乞食根性を教えるのと同じ今の会社はコンピュータで使われた会社人間、乞食人間ばかりです。そのため志学を通して好きなことをやらせる今後その人が何ができるか絶対条件となる多くの人は若いまま老境に入る。友達が死んでも自分のこととは思えない■効率変調時代人と人との会話がへたくそな時代好きだったことを行い神様に使われ信じて神にゆだねる。 人生今日ここを旅行させてもらっているな 明日ここをするのかな今は途中であるが老境の時、平安になる安心(健康も伴う)して人生の喜びをまっとうする。
July 30, 2018
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130410 桜咲く自然と一体化し、自分の居場所と自分の役割を自覚せよ 先生怪我をして退院してから今回で2回目の講演。前回と比べて顔色がいいし,おでこは光り、笑顔が満面にあふれている。今日の感想質問はありますか「どうして笑顔になれるのでしょうか?」それは心配不安があると笑顔が出ない。心配の無い境地とは?どんな心境なのか。今回の話は中村天風先生の宇宙の息吹を身体に受けるように自然の息吹を身体に感じて生きていることに感謝し、居場所と多くの人に親切にする自分の役割を自覚する事だった。今咲いている桜の気持ちと同一化できますか。そこに生かされている自分の姿を発見できますか。感謝以外言葉がない。前回も感謝の言葉だった。人生はミクロの世界で1/100秒で変化が起きてます.経験から心配不安を持って、安心がないと不幸が多い。朝起きたらうれしいのです。皆さんも生きてることに感謝しなさいよ。不安心配が当たらないのです。ワシントンでも日本の桜が2600本咲き誇っています。散る桜残る桜も散る桜散りぬべき 時知りてこそ 世の中の花も花なれ 人も人なれ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考これは細川ガラシャの辞世の句です。花も人も散る時を心得てこそ、その花(人)本来の美しさを後の世に残すことが出来るそんな意味の辞世だと私は解釈しております。http://beautist.cosme.net/article/228893・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・イエスが言ったことは、今やっていることを悔い改めなさい。神の国にいる豊かな変化。地球、自然、変化こそ豊かさであり祝福される。4:7イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。 4:8次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて 4:9言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。 4:10するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 4:11そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。 4:15「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、4:16暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。4:17この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。桜をみて手を合わせて泪こぼれそうです。桜は自分なんだ。ところが自分に住んでいる悪魔今やっていることを悔い改めさせる.神にいる豊かな変化。自然が私、桜は冬枯れても私なんだ.畠も田んぼも私。全部自分なんだ。天地が浄土する。天地の自然法則を自然の恵みに一体感になった。4:1さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。 4:2そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。 4:3すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。 4:4イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。と書いてありますから」。 4:7イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。イエスが岩穴にいて座禅していたころ、サタンがイエスに神の子なら石ころをパンになれと命じてみろ、とはやす。あなた方の中に千変万化がある。神から出る言葉=自然の変化を指す。さて桜が咲いた.どう感じますか。桜が何を呼びかけていますか。天声天命変化から年々歳々花あいに見たり花の豪華さにこのように行きたい夢がある世(よ)の中(なか)は三日見ぬ間(ま)の桜かな ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考《大島蓼太の俳句から》世の中は、3日見ないうちに散ってしまう桜の花のようなものだ。世の中の移り変わりが激しいことのたとえ。「世の中は三日見ぬ間に桜かな」とも。デジタル大辞泉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桜は実は蝶々の幼虫が樹液を吸っています冬は桜の枯れ木に誰も見もしない。大地と樹液に循環が何ヶ月も行われている。ところが、あなた方は結果だけ見てその結果を取り込んでいる。花は散っていくのが目的です。桜の木の全体像は春は花、樹液、枝は去年からの準備をしています。自然は嫌いなこともやるのです。桜を見て神の声が聞けない。すなわちごく自然の豊かさ,祝福、幸せは皆それぞれ違うのです自分は自然に活かされているのです。自然とは変化が許されている。活かされてここにある。この世の幸せは風の吹く間の光なり。風は人間中心に考えている。権利が欲に苦しんでいる。=不幸を感じる。私がやることは身の丈。今居るところ。偶然生まれたのでなく、生まれてくる親のところを選んできた。生活環境=損得の価値観居場所でどれだけ喜んでいるか。変化を理解すると、居場所はプロセスと同じになる。桜は神の口の言葉 感じる人は感じてた。大きなゴミ天網恢々疎にして漏らさず自分に因果律がある。断食を人に見せない。誰も2つ主に仕えれ無い。空の鳥をみるがよい。花をみるがよいこれらのものがわかればすべて添え与えられるであろう。1日生きることで十分である身の丈の生活が好ましい。しかし普段は何でも比較している。嘘をつく毎日のくらしです。浦島太郎の話から浦島太郎が亀を助けた。浦島は貧乏であるが亀を助けた。皆さんは何でもできるがやらないだけである。チャンスは毎日ある。身の丈をちっちゃく考える自然の身の丈 役割である能力に応じていまいる場所で力100%発揮する事が大切です。マタイ25:14また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。 25:15すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。 25:16五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。 25:17二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。 25:18しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。 25:19だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。 25:20すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。 25:21主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 25:22二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。 25:23主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 25:24一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。 25:25そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。 25:26すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。 25:27それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。 25:28さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。 25:29おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 25:30この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。 注:この時代は銀行はないので利子も付かない。このように聖書も間違いの記述があります。40歳以下の正規社員10%は会社に行っていない。うつ病など精神病も多い。能力を発揮する人は幸せがどんどん高まるが,やらない人は会社から仕事を取り上げている。マタイ25:31人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 25:32そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 25:33羊を右に、やぎを左におくであろう。 25:34そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 25:35あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 25:36裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。 25:37そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 25:38いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 25:39また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。 25:40すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。 25:41それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。 25:42あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、 25:43旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。 25:44そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。 25:45そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。 25:46そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。 山羊は羊の餌を奪うので牧場からは嫌われ者です羊飼いにつれられ左側地獄に、右側極楽にわける。左が山羊に右に羊に分けるように人も分けた。右に選ばれた人は神から祝福を受け継がれている。みつぎものを用意しなさい。私の兄弟のもっとも小さい者にしたのは私にしたのと同じである。これがあなたの因果律となる。あなた方は私が旅人であったときに乞食をほったらかしにした。損得、好き、嫌いの価値観でみてしまい、過去未来も関係ない。2016年は65歳以上の高齢者が36%になりますます働き手がない。3000人法曹界に入る。弁護士の人数を制限している。つまり既得権益がいっぱいある。お金は海外投資に行くだけなので,阿部ノミックスでも景気が浮揚しない。明治元年3000万人だった人口は1960年には8500万人。生活保障福祉の費用増大。生きているのが辛いだろうな。医者は儲かるだろう。格差社会の中で、自分の役割を果たさないと駄目ですよ。質問「居場所は年齢と共に変化するのではないか?」わらしべ長者の例にもあるように、最初の居場所は触った物をつかめ。これが今日の役割ちゃんと与えられる自然から来る。まだみれぬ物をあると信ずるのが正しい。
July 30, 2018
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130312 今日は小春日和の天気もいい日。先生福井から車で来られるとのこと。全員緊張していました。ギブスと松葉杖。頭に包帯を予想して。先生皆さんに話したいお気持ちわかりますが・・・ 先生教室に来られた。肩から腕をつっているだけ?みんな感極まって拍手喝采。良かった良かった。木林さんの挨拶の後先生、入院の疲れかやや顔につやがないが、なんと数日前まで手が鬱血で黒くなっていたそうであります。先生にこにこしながら話し出した。まだ病院に入院しています。病院に入って気づいたことをぜひ伝えたい。苦しむために悲しむために皆さんがうまれてきたことが私にはわからない。本当に皆さんは心配事が好きなのですね。ほんとは人生が幸せになるために生まれてきた.幸せを望んでいるのに、幸せがなにか書けない。だが不幸はいや、程度の比較しかできない。もっと幸せになろうよ。ここで「幸せなら手をたたこう」を歌う。幸せなら 手をたたこう幸せなら 手をたたこう幸せなら 態度でしめそうよほら みんなで 手をたたこう幸せなら 肩たたこう幸せなら 肩たたこう幸せなら 態度でしめそうよほら みんなで 肩たたこう幸せなら 手をつなごう幸せなら 手をつなごう幸せなら 態度でしめそうよほら みんなで 手をつなごう現物とか現象を対象として幸せかどうかを判断していますが、みんな1人1人違います。遺伝子が違うように精子と卵子の出会った時からみんな異なっています。ありがたくないですが死を求めないものは経験がないからです。では幸せをいつ経験したか。過去何千年と経験していることなのに、今日どうやって生きていますか、先の世の借りを返すためですか。味覚なら塩はしょっぱい。からくもない。でも味わっていないとわからない同じく涅槃に入る事は説明してもわからない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考 涅槃 ねはん ニルヴァーナは「吹き消すこと、吹き消された状態」を表し、仏教では煩悩の火が吹き消され、煩悩から解放された悟りの境地を表す。また、死、特に釈迦の死を表す。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あれしていけないという規範に皆さんいじめられている。毎日心配している人は、幸せというイメージができあがったものと考えてます。今日の私の行動は筋書きが提出された日で、福井から自動車にのり、こうしてここに来ています。そして怪我したおかげで足1本内臓1つ新しい命が与えられた.肺にも感謝。感謝はどのくらい深い?命が私の方に流れてきます。この深い幸せがあるのに何処に不満があるの。幸せのために生まれてきたのに。毎日毎日 株だ。円が上がった・・・何処に幸せがありますか。少ないより多い方が本当に良いのか。お金は交換する道具なのに、お金を増やす手段にしている。株をどんどん買っては損して売る羽目になる。財産全部取られることになる.いままでお金を持ったことのなく急にお金を持った人の不幸せ。人の心に写る状況が幸せという現象を生み出す。稲盛和夫さんが「忘己利他」を提唱しています。いいかえると「もうこりた」。人の為に忘れて他を利するのは私にはできない。ところが世の道徳や宗教は人から必要とさえる存在になれと説得しますが、できもしないのに人にやれと教える。この世の中に立派な人はいない.立派な部分があるだけである。世の中にないと私たちが生きれないもの。無理、嘘、虚飾、虚構。これが過去からずーと続いている。勉強しても断食して修行してもこの状態は変わらない。つまり常識が不幸にする鎖にしかならないお釈迦様もイエスキリストも家や家族を捨てた。ナザレから家族が迎えに来ていましたが、しかしキリストは自分の要求を聞いてくれる人が家族であると。それに比べ私たちは日常の出来事に縛られています。さらに世間体に縛られ、結果虚構を築く。今日もらった命。どれだけ幸せと思えるかにかかっています。お釈迦様は、菩提樹の下で坐禅をなさりながら、暁の明星を眺めて悟りを得られた。その時、感じられたことは 天地有情我 同時成道ス これが仏教の原点です。天地=自然 有情=バランス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考「我ト与ト二天地有情一 同時成道ス」「自分と宇宙とが同時に真理(道)そのものとなった。」 と訳されるが、それは、この世のすばらしさの発見であり、現実の肯定である。とても、この世は正体のない空っぽの世界だと悟ったことばとは思えない。 お釈迦様はこの世はすばらしいとおっしゃっている。私たちは今、そのすばらしい世界に生きていることを実感し、感謝しながら人生を送らなければ、時間がもったいないのだ。時は取り戻すことができないし、生まれてしまった以上、死へ向かって刻々と自分に与えられた時はすり減っていくのだから。http://www16.ocn.ne.jp/~housyuji/bukyo/bukyo9.html現象の悪にとらわれない世界観に立つ実際、このように犬と人間の間にも「全面信頼する世界」があるのです。この「全面信頼する世界」は一般的に「良心」と言われているものです。「神性(しんせい)・仏性(ぶっしょう)」とか「真・善・美」と言った方がより的確で、人間が生きる上で最も大切にすべきものです。 これは仏教の開祖である釈迦が「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)・有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)(山も川も草も木も国土も皆既に成れる仏である。天地一切のものは仏のいのちのあらわれであり、全てが大調和し合っている世界である)」と大悟したことであります。すべてのものが神仏のあらわれであるという価値観でみていく、「真に生きるべき道」を指し示した「世界観」(生長の家でいう「実相」)でもあります。人間はこの「世界観」に立って生活することにより、真の幸福を得ることが出来るのです。http://www.jp.seicho-no-ie.org/faq/04/0407.html・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・立山を見ると春白く夏青く冬又白くなると言う自然のバランスを持っています。人間の科学と技術だけでは自然を止められない。地球の有情変化に活かされている.自然の環境を安定するために台風や風が起きる.津波、地震さえ・・山川草木国土悉皆成仏悉皆=全部イエスはみんな、くいあらためろ.神の国にいるんだ神の国=自然今回病院に入院して初めて普段感じない身体の一部分に感謝を持ちました。この指が動いている。新しい生命を今日もらっている。地球の上に置いてもらっている。一人一人違うように。環境が異なるし、各人遺伝子が違うし、あなたの居場所も異なる。身口意。ひとは善も悪も行う人格を持っています。その行動で、1日1日代償を求めない行動をするのが大切です。言葉の理解でなく体験である。「千聖不伝」言葉では伝わりません。死ぬとき三途の川できれいに洗ってお釈迦様の前に出る。今日どう生きるかが仏教のプロセスなんです。死んだら人生終わりと誰に教わったの。仏教では輪廻転生を説きます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考輪廻転生について 仏教の死後観仏教の死後の世界観は古代インド人が考えたものです。インド人は現世を基本的には苦しみの多い世界と考え、以下の6つの世界(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)に分類し、死後はこの六道(ろくどう)を輪廻・転生すると考えたのです。お釈迦様は六道輪廻では永遠に苦しみから逃れることができないと考え、極楽世界(輪廻を超越した世界)である浄土を考えたのです。地獄の恐怖が浄土を生み出したと言っても過言ではないでしょう。故人は浄土に往生し阿弥陀仏のもとで仏に成るべく修行をし続けておられるのです。仏教の真の目的は浄土においても仏に成ることです。http://www8.ocn.ne.jp/~ohmybud/jihou6.html ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・梅は木から地上に落ちて肉が腐り芽が出て別のところで生きる。人生は旅の途中結果がプロセス。信じなければ成らない天地の法則聖書 最後の審判 ★人の子が栄光の中にすべての御使いたちを従えて来る時、彼はその栄光の座に着くであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊と山羊とを分ける様に、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置くであろう。 ★その時、王は右にいる人々に言うであろう、『私の父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受け継ぎなさい。あなた方は、私が空腹の時に食べさせ、乾いている時に飲ませ、旅人であった時に宿を貸し、裸であった時に着せ、病気の時に見舞い、獄にいた時に訪ねてくれたからである』。その時、正しい者達は言うであろう、『主よ、いつ、私達は、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、渇いているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、はだかなのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。私の兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである』。 ★それから、左にいる人々にも言うであろう、『呪われたものどもよ、私を離れて、悪魔とその使い達とのために用意されている永遠の火に入ってしまえ。あなた方は、私が空腹の時に食べさせず、渇いていた時に飲ませず、旅人であった時に宿を貸さず、はだかであった時に着せず、また病気の時や、獄にいた時に、私を訪ねてくれなかったからである』。その時、彼らまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、渇いておられ、旅人であり、はだかであり、病気であり、獄におられたのを見て私達はお世話をしませんでしたか』。その時、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の命に入るであろう」。 マタイ25:31~46羊は野性で飼われている。財産である。この話では右の人がいい。法の鏡で見ろ。自然のことをやっただけの人が救われている代償を求めないのでしたことを覚えていない。毎日のプロセス。乞食にパンを与えるのが大事。三途の川を渡るのは今日なんだ。時の流れが川の流れにたとえている。貪瞋痴 人の煩悩は『貪(とん・貪欲に求めること)、瞋(じん・自分の心に執着して怒ること)、痴(ち・無知で愚かな考え方に囚われること)』の“三毒”に帰結する、人に発している煩悩。洗いなさいよ.続く命が人生をおくる卵子と精子が出会い選ばれしものの出会い。老いは我と共に。私の時は神の御手の中にある。若いときは人生の旅の途中。格差社会の折り、何が得意なのと個性を育てるのが大事だ介護だ.年金だ。今不安な人が必ず不安になる。ほんとは今日私たちは幸せなんだ。それを教室にいるみんなにいいに来ました。今日も新しい人生。今日は身体が毎日蘇生するので一番若い若い命が与えられた。老境に入ったとき幸せにつながりますよ一寸法師は 昔、昔あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。子供のない二人は毎日子供が授かるよう神様に祈っていました。「神様、どうか私たちに子供を授けてください。どんな小さな子供でも構いません。」ある日のことです。驚いたことに、二人に小さな赤ん坊が授かりました、背の高さ一寸にも満たない男の子です。さっそく一寸法師と名付けました。二人は宝物のように育てました。村の子供たちはからかいました。「一寸、一寸、一寸法師」と。おばあさんはとても腹を立てて「おだまりなさい。」と追い返しました。 しかし一寸法師はたくましい頭のいい子供になりました。ある日こう言いました。「お父さん、お母さん、私に針と藁とおわんと箸を下さい。」「一体どうする気ですか。」とおばあさん。「針は剣、藁はさや、おわんは船、箸はかいです。都に行って武士になるつもりです。」二人は許しを上げました。さっそく一寸法師は都へと向かいました。途中、ありに会いました。 「ありさん、川はどこですか。」「たんぽぽ畑のところです。」川につくと、おわんに飛び乗ると、矢のように川を下っていきました。魚が一寸法師に向かって来ました。魚は美味しい食べ物とまちがえたのです。一寸法師は箸をつかって追い払いました。波に揺られ、雨にうたれ、風に吹かれ、やっとのことで都に着きました。誇らしげに町を歩いていくと大きな立派な家が見えてきました。一寸法師はそこで働くことを思いつきました。「門を開けてください。お願いがあります。」主人は門をあけるとあたりを見回しましたが誰もいません。「一体だれだ。誰も見えんぞ。」「あなたの足元にいます。」 主人は下駄のそばに一寸法師を見つけました。「私は一寸法師と申します。ここで働かせてもらいたいと思います。」「お前はなかなか活発で頭が良さそうだ。よし家来にしてやろう。」この主人には美しい娘がおりました。一寸法師は読み書きを教わりました。一寸法師は頭が良くてすぐ理解してしまいました。 ある日、娘は一寸法師を連れてお宮参りに出かけました。途中、大きな鬼に出会いました。鬼は娘をさらいに来たのです。「悪い鬼め。お嬢さんにちょっとでも手を出せばただではおかないぞ。」「生意気な。食べてしまうぞ。」と鬼は言うと一気に飲み込んでしまいました。「いたた、いたた...」 一寸法師は針でお腹の中を刺しました。「いたた。死んでしまう。降参だ。助けてくれ。」鬼は一寸法師を吹き出すと山の方へ一目散に逃げて行きました。「助けてくれてありがとう。あなたは小さいけど、とても勇敢で強いのね。」「ちっと見てください。鬼が何か忘れていきました。これは何でしょう。」「これはうちでの小槌というものです。これを振ると欲しいものが何でも手に入ります。一寸法師、あなたは何が欲しいですか。」「私は大きくなりたいです。」うちでの小槌をふると、一寸法師はぐんぐん大きくなりあっと言う間に立派な大人になりました。一寸法師は娘さんと結婚し、望んだ通り立派な武士になりました。http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/7211/Japanese/issunhousi.html生まれたのが一寸法師だった。普通ならこんな子供はいらない。犬からも友達からもバカにされる。しかし親から毎日愛されているのでちっともバカにされているとは思わない年取ってからお椀と針をもらい、都に行く。娘のおもちゃとして一寸法師がお姫様のお供になった。鬼がくると回りは逃げていくが一寸法師だけは鬼に飲み込まれておなかの中で戦い、鬼が勘弁してくれと鼻から出て、打ちでの小槌をもらう。〇自分の居場所で花を咲かせましょう毎日のつながりが老境につながる。自分の利益を考えなさい。今持っているが発揮していない自分の役割居場所を考えよう。体験してください。勉強は嘘の証拠を学ぶだけ。幸せは自利ですよ。天がやってくれて利他につながる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考ボランティアの根本精神は「自利利他」(維摩経)である。自らを生かし、他者を生かすということ。自分のことは、さておき人のためになにかをしなさい、ではなく、自分を生かすボランティアをやっている人は、他者も生かすことができる。本当の自利の精神があって、利他の心が機能するのだ。人は、自分がおぼれながら、おぼれた人を助けることは、できない。ゆったりした中道の心で自分を活かし、相手を生かす。これが、ボランティア活動にとって大切な「生き方」なのである。http://jiririta.net/jiririta.html・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・自利自利で他を愛せるようになる。人生神様が別の筋書きを書いてくれた。いままで不思議に導かれてきたな。質問のなかから子供に孝行といのはおかしい。親と子は一つである許すというのはうれしいことである。子供への負担は関係ない。五蘊盛苦(ごうんじょうく)とは五感に入っていく情報煩悩が盛んになる。往生常楽(往生十楽?)の状態です。しかし自利で求めても、つまり四苦八苦がない。感謝以外無い。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考仏法では生老病死を四苦というように申します。これらが何故苦しみとなるのかという理由は、案外知られていないのではないでしょうか。それは仏法の教えでは、私たちの心は四つの満たしたい尺度を持っているからだといわれています。その四つの尺度とは常・楽・我・浄といいます。最初の「常」というのは、常なることであり、いつまでもいつまでもと願うことです。いつまでも若くありたいとか、いつまでも長生きしたいというのが私たちの心ではないでしょうか。次の「楽」というのは、字のとおり、楽しいことであり、快適なことであり、不都合なことを嫌う心です。三番目の「我」とは、私がいつも中心であることを主張し、無視されることを何よりも恐れることです。最後の「浄」というのは、自分や自分に属するものが善きことであり、非難されるものは何も無いと主張することです。これらの四つが私たちの理想とするところで、この四つを満たそうと絶えずがんばっているのが私たちの姿ではないでしょうか。ところがこれらは到底満たされることはありません。何故なら、わが身の事実は、老い、病み、やがては死する身だからです。ですから私の心の尺度である常・楽・我・浄を実現させようとする限り、身の事実と矛盾して、苦しみが絶えることは無いというのが仏教の教えるところです。それで、このような常・楽・我・浄という智恵は、仏教の言葉では「四顛倒(してんどう)」といいます。四つの道理に背く見解ということです。ところが私たちはものごころついて以来、常・楽・我・浄を満たそうという生き方しか知りませんから、自分の思いどおりにならないことに、しばしば遭遇してしまうということになってしまいます。それというのも、自分というものを中心にものを考えているためではないでしょうか。自分を中心にものを見ると、自分の身体でさえ自分が生き延びるための手段のように考えてしまいます。ですから老いてゆく身を嫌い、病いになる身を恨み、やがては命終わってしまう身を恐れて生きるということになります。仏法はそういう私たちに目覚めを促しているのです。弥陀如来が浄土に往生せんと願って念仏せよと勧めてくださることによって、自分自身の姿が明らかに照らし出され、自分の姿に目覚めるということが起こります。それが常・楽・我・浄という道理に背くことを追い求め続けて、苦の絶えることの無い人生であったという目覚めです。目覚めてみれば、苦の原因ははっきりするのですから、最早、苦に押しつぶされることは無くなるのです。参考二、『欣求浄土』大文第二に欣求浄土(ごんぐじょうど)というのは、極楽の国土と衆生とは、その功徳が無量で、百劫、千劫という長い時を経ても、説き尽すことはできない。数量でも喩えでも、また知ることはできない。けれども、《群疑論》には極楽浄土の三十種の徳益を明かし、《安国鈔》には二十四種の楽を挙げている。極楽浄土を褒めたたえることは、人の心によるということが知られている。今、十種の楽を挙げて、浄土を讃えるが、それはちょうど、一本の毛に滴る大海の水である。第一には聖衆来迎楽(しょうじゅらいごうらく)、第二には蓮華初開楽(れんげしょかいらく)、第三には身相神通楽(しんそうじんつうらく)、第四には五妙境界楽(ごみょうきょうがいらく)、第五には快楽無退楽(けらくむたいらく)、第六には引接結縁楽(いんじょうけちえんらく)、第七には聖衆倶会楽(しょうじゅくえらく)、第八には見仏聞法楽(けんぶつもんぽうらく)、第九には随心供仏楽(ずいしんくぶつらく)、第十には増進仏道楽(ぞうしんぶつどうらく)である。欣求浄土ー聖衆来迎楽(しょうじゅらいごうらく)第一の聖衆来迎楽とは、およそ悪業の人が命尽きる時、身体の中の風の要素(動き、成長)と火の要素(熱、成熟)が、まず無くなる。それゆえ、動乱し発熱して苦しみが多い善行の人は命尽きる時、身体の中の地の要素(物、保持)と水の要素(潤い、集める)とが、まず無くなる。その人の臨終はおだやかで、苦しみがない。まして、念仏の功徳を積み、浄土に心を寄せることに長い年月を重ねた者は、臨終の時、大きな喜びが自然と湧いてくる。その理由を述べると、阿弥陀如来が、多くの菩薩や百千の比丘たちと共に、大光明を放ち、はっきりと目の前に現われる。その時、大悲の観世音菩薩は、多くの福徳を持つその手を差し伸ばし、宝の蓮台(蓮の台座)を捧げて、念仏行者の前に来られ、大勢至菩薩は、無量の聖なる衆と、同時に讃めたたえ、手を差しのべ、導いてくれる。この時、念仏行者は、まのあたりに自らこれを見て、心は歓喜し、心身安楽を得る。まさに知るべきである、ひとり、草庵(小さな家)で目を閉じる時が、すなわち蓮台に坐る時である。そこで阿弥陀仏の後に従い、菩薩たちの仲間に加わり、一念の間に西方の極楽世界に生まれることができる。(観無量寿経、平等覚経、などによる)かの?利天(とうりてん)の億千年もの楽しみや大梵王宮(だいぼんのうぐう)の深い禅定(悟りの境地)の楽しみ、これら諸々の楽しみは、まだ本当の楽しみとするには足らぬ。それらは、生まれ変わり、死に変わりあり、ついには三途を免れられないのである。ところが、今、観音の掌(たなごころ、手のひら)において、宝の蓮華台に身を託し、永く苦しみの海を越え、初めて浄土に往生するのである。その時の歓喜の心は、言葉で言い尽くすことはできない。http://amiter.blog.fc2.com/blog-entry-34.html・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・冬のある日朝10時頃空港行きのバス停を探すのに駅の薬局でお聞きした.お嬢さんが親切にバス停まで連れてくださった.しばらく待っているとそのお嬢さんが通りかかり、声をかけてくれて,又店に入って暖かいお茶をもって来てくださった。何気ない行動ながら実に感謝に堪えない行動である.是非皆さんも周りの人たちに1日1回の親切をしていただきたい.それがお釈迦様やキリストに対して行うのと同じです。
July 29, 2018
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司会の挨拶春を感じる今日この頃ですが年と共に感性が鈍くなっています。挨拶の後、先生曰く変化が地球の原則ですしかし変化はない方がいいのです人生とは変化の連続です変化を先取りして失敗を経験すると生きずらくなります。変化はミクロの世界にたとえれば人の肉体の一部にも当てはまる。赤子を生む女性の一瞬の変化は大きい変化を感知して則対応が大切ですが臨機応変に対応することが大切です心のとらえ方 変化にどう対処するのか新年から1月が経ちました。鬼が邪魔していますその鬼というのは,自分の中に2つの気持ちがあります意地悪じいさんと親切なじいさん。合わせ持っています六道輪廻、108つの煩悩が内在します・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考六道輪廻について まず、『六道』とは【地獄・餓鬼・修羅・畜生・人間・天上】のことで、何れも迷の世界を示しています。『輪廻』とは『その迷の世界をグルグル廻って出抜けられない様子』を形容したものです。この『六道』は人々の心を離れて別にそんな世界がある筈のものではありません。よく爺さん婆さんに向って、田舎のお説教坊さんが、死んでから地獄へ落ちたり極楽へ生まれたりするように説いている向きもありますが、あれはあれで、方便として良いかも知れませんが、元来 『仏教の教理』はそんなことを言っているのではありません。六道とは人々の心の階級であります。教養の程度といって置いても宜いでしょう。仏教では、貧欲・瞋恚・愚痴の心を三毒といっています。そして、それを迷いの代表的のものとしています。教養のない者は、逆境に居ればすぐ不平不満を起こして瞋恚の炎を燃やし、順境に処すればすぐ有頂天になって貧欲の皮を突破る。そして平々凡々の時はウスボンヤリと愚痴を言って空しくその日を送っています。かかる程度の低い輩を『地獄』の衆生と呼んでいるのです。だから死ななくても地獄の衆生は、そんじょそこらにウヨウヨしているわけです。その三毒を一つ一つに分解して、貧欲を『餓鬼道』で代表し、愚痴を『畜生道』で、瞋恚を『修羅道』で代表しています。その上の階級が『人間界』で、ここでは食欲・色欲・睡眠欲という動物的本能の他に名声・利欲の二欲を加えた五欲の世界を代表させています。更に、もう一歩進んで、これも迷いの世界ではありますが六道の最高位に『天上界』があります。これは他の五道程の生々しい欲望はないのですが、天人に五衰の悲しみがあるなどといわれていて、まだ悟りの世界には達しておりません。どんな心の階級、教養の程度かと云いますと、眞・善・美を愛するという側でありまして、つまり哲学や科学・倫理や道徳・美術や芸術に打ち込んでいる連中をいいます。連中といっても職業人とか専門家とかいう意味ではありません。真善美を愛するといえば、まあ教養の高い方の側ではありますが、六道輪廻は免れません。いつ『地獄』に落ちないとも限りません。例えば音楽会に行って良い気持ちで聴いているうちは『天上界』に遊んでいると言えましょうが、その同じ人が帰りの電車の中で、足を踏んだ踏まれたで喧嘩をすれば忽ちに『修羅道』に落っこちてしまいます。結局 人間は悟りを開いた上で、しっかり心の鍛錬をしない限りは、誰でも、如何なる高位高官であろうと学者であろうと文化人であろうと、その他 何であろうと、この六道を出たり入ったりしていることがよく判ります。この状態を仏教では『六道輪廻』と云っています。決して迷信でもなければ低級でもありません。【上記の文章は、耕雲庵立田英山老師の著書『禅海一瀾抄講話』より抜粋した文章です。】http://www.geocities.jp/gakunanzen/zuihitu/z3-rokudourinne.htm108の煩悩について天台宗・神木山等覚院(神奈川県川崎市)の僧侶、中島光信さんにお話を聞いてみました。「実は、108というのは“とても多い”ことを示す数で、必ずしも数が決まっているわけではありません。簡単にいうと、煩悩とは自分を悩ませるもの、心を乱すものの総称ですから、一般的な意味で使う『愛する』ことだって、執着につながる煩悩だと考えることもできる。煩悩の数は時代や教義によって変わり、“8万4000煩悩”という考え方もあるほどなんですよ」考えることがすべて煩悩…みたいになっちゃいそうですね。調べてみると、有名な考え方として「人の五感に“意識”を加えた『六根』を、それぞれ『好(いい)・悪(わるい)・平(どちらでもない)』、さらに『浄(きれい)・染(きたない)』、『前世・今世・来世』の要素があり、6×3×2×3で108になる」というものがあるみたいだけど、例えば“味覚×悪×浄×来世”のような組み合わせで、それがどんな煩悩なのかを素人が理解するのは難しそうです。「より大きな枠組みだと、仏教の根本的な考え方として、人の煩悩は『貪(とん・貪欲に求めること)、瞋(じん・自分の心に執着して怒ること)、痴(ち・無知で愚かな考え方に囚われること)』の“三毒”に帰結する、というものがあります。いずれにしても、人の煩悩は“眠い、お腹が空いた”など身体が欲するものと、頭で考えるもの――物事に執着して、自分で生み出すものとがあるといえるでしょう」http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/wxr_detail/?id=20111230-00022427-r25・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・□節分の豆撒きを皆さんされてます福は内、鬼は外この鬼って徹底的に悪くなることを喜ぶんですよ。一軒家で,寒いとき床をはがして燃やせ,壁をはがして燃やせ、挙げ句の果てに柱を燃やせ。・・家が壊れるまで続きますそんな家の主でも、娘と結婚してせっせと働き、貧乏神が逃げてある日、福の神に変わるこんな事がありました.バス停が何処にあるのか薬屋さんでお聞きしたら、教えていただいて.バス亭で待っていたら、バス停を教えてくれた親切な娘さんが寒かろうと薬屋に戻りお茶を出していただいた。自分の事ばかり考えている人にはできません.鬼が自分の中にいるのです。曽我廼家(そがのや) えんめいの話から 主演の 「ある男がな、 海で溺れて、自分の国とまったく違う国に流れ着く。 あまりおなかが減っていたので、 食堂でトンカツをたのんで夢中で食べる。 食べ終わって、お!! 自分は財布を持っていない一文無しだと気付き、 ご主人に詫びて、配達でも皿洗いでもさせて下さい、 代金を償いますと言うと、 なーに、その必要は無い、この国は食べてもらった店がお礼にお金をさしあげる、 とのこと。 へえ、と不思議に思ったが、もらい。 宿を探して泊ると、 今度はその宿が、泊ったお礼とお金をくれる。 おかげで、どんどんお金が貯まっていって、 贅沢がエスカレートしてゆく。どこに行っても、お金をくれる。 もはや、この世の春。 で、お金なんか持ってなくてもいいや、と、 川にお金を捨てる。 すると、警察に逮捕され、死刑を宣告される。 この国では、お金を川に捨てると死刑なのだ。」 http://www.zabutontei.com/blog/uview.cgi?20071111012221OS0.txtここでお金を払えるのは相手が望むことを求めていないまでも感じて実行すること。よき親切でお金が払える。浦島太郎も亀がかわいそうだとお金を払って結果、因果律が回ってくる。私はみんな嘘つきだと思います法律の網をくぐり抜けていますスピード違反してませんかちょっとしたごまかしを犯す。非理法権天 法とは権力者が自分に都合良く作った因果とは関係ない理論は法律を構成する権力を自分の都合で行う理法権 つまり鬼のこと、不幸になる原因のこと天 つまり福の神 普段忘れている恐育、狂育、競育、凶育ばかり親が子供に求めるなぜ被害者意識になる自然の変化に合せて自由に生きる生かされている自分のもったいなさ自分の命を大事にしなさいよ自分が活かされることが 福の神共働き家庭などの小学生を放課後に預かる学童保育(放課後児童クラブ)の利用登録者数が、今年5月1日時点で過去最多の85万1949人に上ったことが26日、厚生労働省のまとめで分かった。前年から1万8911人増えた。一方、希望しても利用できない待機児童が5年ぶりに増加。厚労省は「需要に整備が追いついていない。施設の拡充に努めたい」としている。 施設数は2万1085カ所(同524カ所増)で最多を更新。待機児童は前年比113人増の7521人だった。 何で親は保育園に入れる?子育てが大変なんですか恐育、狂育、競育、凶育、をしたがる幼稚園のころから子供にはやりたいことをやらせる。ご覧なさい。大卒の62%は何をやったらいいのかわからんといっています子供に自由にやらせないで外に預ける子育て。今の新卒の求職者は 給料なんぼあたると聞くが仕事もできないのに月給を決めたがる。乞食教育、泥棒根性を育てている□節分を堺に良くなるのに鬼が邪魔するあなたたち、今ここに生きている。許されている.命を与えられて今を生きる。何の功績無くても命ながらえて活かされている役割を誰に感謝する神や仏は方便である自然をバカにしていながら自然に生かされている自然の変化の感知 知恵を持つことの大切さ知恵とは生かされていることを知る 自然の法則を知る事神ありき 光有り神の存在はキリスト教だけ聖書にアダムとイブが書いてあるエデンの園で知恵の木があります。アダムではできないことを知らされる。アダムとイブでは役割が違う知の木の実 これは人を傲慢にし 罪の意識がないアダムはこれを食わない 善イブ食べる 悪善悪の戦いがくり返される人はパンだけで生きるものにあらず神の言葉には 善悪が含まれている□1日1回親切をやってみる人生が変わるいままでの人生で失敗は何か。自分に問え人から評価されないのはへいきとという考えが大切先人の後を追うな雑談勝ったから強いと評価される。しかしプロセスが大切で、人格を教えない負けたってくじけない。自分を大切にしなさい戦ってかなわなかった勝者を褒めるのが大切夫婦はつかず離れず・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考非理法権天出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』移動: 案内、 検索 非理法権天(ひりほうけんてん)は、近世日本の法観念を表しているとされる法諺。 概要 [編集]江戸時代中期の故実家伊勢貞丈が遺した『貞丈家訓』には「無理(非)は道理(理)に劣位し、道理は法式(法)に劣位し、法式は権威(権)に劣位し、権威は天道(天)に劣位する」と、非理法権天の意味が端的に述べられている。非とは道理の通らぬことを指し、理とは人々がおよそ是認する道義的規範を指し、法とは明文化された法令を指し、権とは権力者の威光を指し、天とは全てに超越する「抽象的な天」の意思を指す。非理法権天の概念は、儒教の影響を強く受けたものであるとともに、権力者が法令を定め、その定めた法令は道理に優越するというリアリズムを反映したものであった。非理法権天は、中世日本の法観念としばしば対比される。中世日本において基本的に最重視されたのが「道理」であり、「法」は道理を体現したもの、すなわち道理=法と一体の者として認識されていた。権力者は当然、道理=法に拘束されるべき対象であり、道理=法は権力者が任意に制定しうるものではなかったのである。こうした中世期の法観念が逆転し、権力者が優越する近世法観念の発生したことを「非理法権天」概念は如実に表している。南北朝期に楠木正成が「非理法権天」の菊水旗を掲げたとする説があるが、これは瀧川政次郎らの考証により江戸期におこった伝承であることが明らかとなっている。しかし、非理法権天の由来が楠木正成に仮託されたことで、非理法権天は尊皇思想に結びつけられ、その過程で「天」は天子、すなわち天皇であり、天皇が全てに超越するという思想が一部に生まれた。大東亜戦争期の日本では「非理法権天」が皇国主義・軍国主義と密接な関係を持つスローガンの一つとして掲げられ、教科書の中でも使われた。楠木正成の家紋から名をとった菊水作戦で沖縄に向かう戦艦大和には、非理法権天と印した幟があったといわれるhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E7%90%86%E6%B3%95%E6%A8%A9%E5%A4%A9参考終わり
July 29, 2018
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20121204幸せって何処に売っていますか。毎日の生活で私たちは不幸を求めている。政治は国民の幸福のためと言っておきながらなぜ言い争いをするのでしょう。国民は実は不幸になりはじめて政治に気づくのです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・幸せのあんちょこはないかと助けてインターネットに聞きました。どうして人は、幸せになれないのでしょう。どうして人は、苦しむのでしょう。「それは、諸行無常だからだよ。」と、おしゃかさまは説きました。すべてのものは、移りゆき 変化するもの。それが、諸行無常という言葉の 意味することです。「この世界は、自分を幸せにしてくれる世界」という幻想を捨て、「私は、世界の幸せのために在る」と、逆転の発想をした時、神様はあなたに味方するのです。これまで私たちは、自己中心の幸福感しか教えられずに、競争原理に追い立てられてきました。それでは、いつまでたっても幸福になれず、社会も混迷を深め、破滅の道を歩んでいます。今、地球は とても悲惨な情況にあるのです。自己中心、それも肉体中心の幸福の発想をやめて、他者中心の幸福感への転換と、みずからの霊性の進化というよろこびを幸福の中心に置くべきなのです。人々がそうなれば、この社会や自然や地球全体が、ほんとうの幸福に包まれるでしょう。もう、しらんぷりするのは やめましょう。地球や自然に、優しさを向けてあげましょう。困っている人々に、思いやりをもち、そして真面目に考えてあげましょう。決して大げさなことを考えるとか、難しいことを行う必要はありません。「私に何ができるかな?」と考えること。まずはそこから 貴重な一歩がはじまります。参考 幸せとは http://homepage3.nifty.com/harunaji/a015.htm ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・講義のはじめに真っ赤なポロシャツを着て皆さんにもっと明るく着こなして生活を楽しみましょうと見せましたが、恥ずかしかった。シャツは目に見えるものですが,幸せとは目に見えないもの.主婦の方が深刻に質問した。中2の子供が勉強しない。入れる高校がない。毎日夫婦して心配しています。どうすればいいのでしょうか?先生は急に歌い出した七つの子からす なぜ鳴くの からすは山にかわいい七つの 子があるからよかわい かわいと からすは 鳴くのかわい かわいと 鳴くんだよ山の古巣へ 行ってみてごらんまるい眼をした いい子だよカラスはカワイイと啼くのです。勉強のことを心配するよりも夫婦仲を心配した方がいいですよ子供に好きな事も作らせないで、好きな事を見つけさせなければいけない子供は目的を持って生まれてきているのですよ昔15歳で元服式を行いました.今の歳で14歳。もう立派な大人で自立心を持たせるべきです。子供の育児は子供に大人が楽しませてもらっている状態です。母の泪は絶対です。もっと愛を降り注いで自分流に育てればいいのですよ『すずめのかあさん』子どもが子すずめつかまえた。その子のかあさんわらってた。すずめのかあさんそれみてた。お屋根で鳴かずにそれ見てた。 金子みすずは動物や自然に身を置き換えた詩が多くそっと、優しく、情深く人間の業や煩悩を諭してくれます。すずめのお母さんは、鳴けないほど心配しながら『泣いて』いたと思います。怖い人間に抗うことはできませんもの。すずめのお母さんの絶望感が伝わります。みすずはすずめと人間を対比させ子どもと引き離される悲しみを詠ったと思います。しかしながら、こすずめが子どもに追いかけられているときは....「早く逃げて!」と鳴いたでしょうね。「笑って見ていた人間のお母さん、すずめのお母さんの気持ちは同じ母ならわかるでしょう?」とみすずに問われているようです。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1140935406土 こッつん こッつん 打たれる 土は よい畠になって よい麦生むよ。 朝から晩まで 踏まれる土は よい路になって 車を通すよ。 打たれぬ土は 踏まれぬ土は 要らない土か。 いえいえそれは 名のない草の お宿をするよ。 ※ 打たれる=打(ぶ)たれる 切ったお花の魂は御仏様のお宿(大地)でさくよ仏様は迷いをほどいてあげる。桃太郎は腹が減っていた犬に団子をあげた。無償で団子をあげた息子を育てたおばあちゃんがすばらしい。代償を要求するのは乞食の子を育てるのと同じ。子供に何を要求するの桃太郎が鬼を退治して宝をくれた。代償を求めて鬼を退治したわけではないはず。話で代償をくれるのはよくない今日子供をどういう風に褒めてあげるか今日褒めないでいつ褒める?喧嘩は親孝行ですよ周囲にある商品道具使い切れない。使われない道具は私たちにいろいろ使う能力がない輪廻転生何処まで行っても消えることがない今毎年105万人のかたが亡くなります。このうち孤独死3万人自殺3万人死ぬ人見ても他人事。自分の事と思わない 山梨県の中央道・笹子トンネルで天井板が崩落した事故は他人事。縁のあった人の死は感じ方が違う「花のたましい」 散ったお花のたましいは、 み佛さまの花ぞのに、 ひとつ残らずうまれるの。 だって、お花はやさしくて、 おてんとさまが呼ぶときに、 ぱっとひらいて、ほほえんで、 蝶々にあまい蜜をやり、 人にゃ匂いをみなくれて、 風がおいでとよぶときに、 やはりすなおについてゆき、 なきがらさえも、ままごとの 御飯になってくれるから。金子みすゞ 40~60歳にもなって自然の恵みを何だと思っていますか。花から臭いも密もくれるが何も請求しない自然はすばらしい私たちは自然の一部です自然分身=自分 自然の細胞である争いと喧嘩で全部駄目になる自然に活かされている大東亜戦争で310万人死そのうち兵士210万人世間体で笑って押し入れの中で泣く知識を持っても何にもならない善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。善人はお寺に金品仏像を寄付する人悪人は何もしない人阿弥陀とは、サンスクリット語で、「ア・ミター・ユス(バ)」「ア」は否定語(no),「ミター」は量る・計るという意味、「ユス」は時間、「バ」は空間を意味するそうで、直訳すると「時間や空間では計算できない=いつ、どこにでもいる」仏様という意味だそうです。高齢化社会人生とは何か明治時代190万部落があり,1部落150人だった。採取民族で人口を増やさないために赤ちゃんの口を紙でふさいで間引き,年寄りは姥捨て山に捨てた。日本は平均寿命86.5歳60年前は55~56歳明治は47~48歳人口12000万人で4000万人が60年で増えたところがその人口が40年後には8600万人になりますそこで道徳、社会、政治、福祉・・・今のままでいいか国債1000兆円一人880万円の赤字特殊法人赤字2000兆円補助金年金の支出鉄道はトンネルが劣化している。昭和40年代に道路を造った。専門家は30から50年大丈夫としか言わない。20年後若い人が修理するに200兆円。今国家予算90兆円ですね。原子力発電所40年の寿命。だれでも知っています。中国では万里の長城が直せないそれで事故が起きる北陸新幹線も40年後使われない異物として観光名所になっているかもしれない。幸せとは何かどこの政治家も国民に豊かさと幸せを与えたいと言う。夫婦子供2人の所帯が豊かになる基準に、制度を作ったが50歳男20%未婚30歳男女独身のうち25%が親と暮らしている66万組の決行があり22万件の離婚で36%をしめる構造が変わっているのにどの政治家もなのも指摘しない物があっても年寄り23%買うものが無いどの政策も効果なし政治、制度、世間体に任せては駄目だ幸せの基準とは幸せになるチャンスはいっぱいある自然を見なさい.チャンスを見つけて幸せに気づく 浦島太郎の話で 多くの通行人が亀を見捨てた浦島太郎は、なけなしの金をはたいて亀を助け竜宮城でのチャンスをつかんだ関係ない人に親切にできるか他人に親切になれるか知った人に親切は代償を求めることになる善きサマリア人のたとえ話(ルカ福音書10章)29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 ユダヤ人にとってサマリア人を介抱することはけがわらしい行いだった。代償をもとめてはいない何も関係ない人に親切にした人が幸せになれる石ころだとけっぽって実はその石はダイヤモンドだったと言うことになる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考 幸せになりたい、 誰もが頑張っているのに、 誰もが満たされない。 -------- 目次 -------○幸せとはなんでしょう○諸行無常○この世はリサイクル○人は霊的存在○輪廻転生○似た者どうし○因果応報ということ○もう一度、幸せとはなんでしょう○苦難の克服○愛に生きる○奉仕○人間と動物の違い○私は世界のために○地球の悲鳴○幸せとはなんでしょう人は誰でもみんな幸せになりたいですね。でも、なかなか幸せになれない。「もっと綺麗になりたいのだけど・・・」そう思って、いろいろやってみるけど、なんだか疲れたわ・・・「いい会社に就職したい。」そう思って、がんばって就職したけど、ひどい会社だった・・・「バックがほしい。」貯金をみんな降ろして買ったけど、飽きちゃった・・・「彼氏がほしい。」彼氏がいれば、きっと幸せのはず・・・でも、いざ彼氏ができるとケンカばかりだし、ちっとも幸せじゃない。「車、家がほしい、・・・とりあえずお金が欲しい。」たぶん、車が手に入ったら しばらくはうれしくてドライブしたり、車を洗ったりして楽しいでしょうが、そのうち飽きちゃうだろうな。事故にでもあったら、たいへんだわ。家も・・・欠陥住宅だとサイアクだし、雨漏りがするとか、庭に草が生えたり、掃除もめんどうくさい。いろいろ考えたけど、お金さえあれば、何でもできるんじゃない?とりあえず、お金がたくさんあれば 幸せでしょう。・・・という結論になりましたが、はたしてお金持ちなら幸せでしょうか? 物を買うのに困らないし、おいしいものを食べられるし、リッチな旅行ができる、いろんな支払いに困らない、・・・お金持ちの良いところは、こんなものでしょうか。でも、物があればいいってものではありません。いらないガラクタが増えるだけってこともあります。おいしいものを毎日食べられて、たまらないかもしれませんね。でも、それでは健康が心配です。糖尿病や高血圧になって、なにも食べられなくなったら、結局は貧乏と同じですよね。旅行ばかりして、地球の中をあちこち見て回ってもそれが何になるのでしょう?今はテレビで世界じゅうを放送する時代です。旅行は危険が多くて、疲れるだけじゃないですか。でも、お金さえあれば、先の生活に困らないという、安心感はだいじよね。という人がいますが、安心感さえあれば幸せでしょうか?お金があるけれど、老人ホームでボーッとしているお年寄りより、貧乏でも元気に畑仕事をしているお年寄りや、孫に囲まれて賑やかなお年寄りの方が、幸せそうですよ。お金より、健康や生きがいの方が大切なのでしょうか。それでは、地位とか名誉と呼ばれるものを手に入れると幸せになれるでしょうか。政治家や代議士さんは、名誉がありますよね。でも、ウソつきの代表のようにも思えますし、そんなに立派と思えません。大会社の社長さんは幸せでしょうか?会社で失敗があると、いつも困った顔をして謝っていますね。こうして、一般に幸福と考えられるものを並べてみても、何だかパッとしませんね。手に入れて、しばらくは満足して幸せそうに考えられますが、そのうちだんだん、困ったことになりそうです。サッパリ幸せって、分かりませんね。小さな時から幸せって、どんなことと教わってきましたか?学校では、「勉強、勉強」ですね。ゆとり教育とかいっても、結局はテストの点数で、ゴミみたいに分別されて、高校に行きます。テストで人の優劣を決めて、高得点をとることが幸せのように教えられますが、それは人と競争をして勝つことですよね。でも、県でただ一つ、全国で数えるほどの進学校に行った人いがいは、みんな負け組みで、ほとんどの人が挫折を味わうのです。部活動のスポーツをやっていた人は、どうでしたか?健康な発育のためと言われても、結局は人との競争に勝つことばかりをしいられて、いつも負けていましたね。だって、試合となれば負けない人は県内でただ一人、二位以下はすべて負け組みですから。 そんな競争を勝ち抜くことを教えられて育ちますので、社会に出ても、競争で勝てば幸せなのではないかと思ってしまいます。お金を獲得する競争ですね。これは、ほとんどの人が一生かけて戦っていますが、ようやくお給料を手に入れても、どんどん出ていってしまいます。あとは、彼氏をつくる競争や、おしゃれの競争にがんばりますが、「やっと手に入れて、しあわせだわ~♪」と思ったのもつかの間、しばらくすると むなしくなるのです。「あれ・・・、へんだわ」と、この頃思っていませんか?そうなんです。学校で教わる幸せや、大人に教えてもらった幸せは、どこかヘンなんです。そういうことを、今から2500年ほど前にインドにいた「おしゃかさま」という方が、すでに指摘しています。○諸行無常どうして人は、幸せになれないのでしょう。どうして人は、苦しむのでしょう。「それは、諸行無常だからだよ。」と、おしゃかさまは説きました。すべてのものは、移りゆき 変化するもの。それが、諸行無常という言葉の 意味することです。赤ちゃんは子供になり、子供は大人になり、大人はやがて老人になります。誰も、この変化に逆らえる人はいません。若くて美しい女性は、いつかは お腹がポッコリのオバサンになります。優しかった彼は、いざ結婚すれば マザコンだったり浮気性だったり、「こんなはずではなかったのに・・・」と後悔しても、人の心は変るもの。 これらはすべて、諸行無常です。「お金よ、お金さえあれば 人は幸せになれるのよ。」と言っている人も いざお金が入ると、パーッと使って、あっという間に一文なしになって、諸行無常を感じたり、お金が出て行くことに恐怖を感じて、毎日が不安でいっぱいになったり、これも幸せには程遠いですね。この世で変わらないものはありません。石や岩は、永年の風雪で砕けたり削られて形を変えます。どっしりして見える山も、永い間に崩落しているのです。この地球さえ、温暖化やオゾン層の破壊などで、その環境を変えています。どんな物も、時間とともに刻々と変化している。だから、目的とする幸せを手に入れて、一時的に幸せになっても、いつかその幸せは消え行くものなのです。幸せとは幻のようなものですね。じゃあ、幸せって この世にはないのでしょうか?すべての幸せが 幻なのでしょうか?いえいえ、そんなことはありませんよ。ちゃんとほんとうの幸せはあります。物やお金、若さや美貌、健康や異性に幸せを求めている限り、それは夢のようにはかない幻のようなものですよ、これまでのような幸せの考えでは、ぜったい幸せにはなれないことを知っていただきたいのです。これから、ほんとうの幸せを探すお話しに入っていきたいと思います。まず、この世界、この世という世界が、どうやって成り立っているのか、この世界はどうしてできたのか、ということを話します。私たち日本人は、神道や仏教を通じて、こういうことを深く深く考えてきた民族です。学校などでほとんど教えられませんが、ちゃんと知っておきましょう。次に、人はどうして生まれてきたのか、なぜ死ぬのかという「輪廻転生」のお話しです。そして、人の構造というか、目に見える肉体や 目に見えない心、さらに霊魂や幽体という構造もあるのですよ。人によって、運の良い人や 逆に運の悪い人がいますね、そんな人の運命についての「波長の法則」というお話し。「因果応報」というお話しも、運命についてのお話しです。この世界を知ること、世界の流れを知ること、自分の存在を知ることを通じて、ほんとうの幸せということが見えてくるのです。○この世はリサイクルキリスト教やイスラム教という宗教では、この世は神様が造られた世界ということになっています。だから神様は一番偉いのです。その次に偉いのは、人間です。神様は人間を造られて、自然の頂点に立ち自然を支配しなさいと命じました。それに比べて日本人の世界観は、あらゆるものは、神様ご自身が細かく分かれて、石や木や草や 動物や人間になったと 考えられました。だから、自然も人間も みな平等なのです。人間だけが偉いとは考えていませんでした。でも、今はどうでしょう?そんなことを考える日本人は、ほとんどいません。公害や環境汚染、環境破壊を行うのは、自然を人と平等に尊ぶ精神の無くなったことを証明していて、とても残念なことなのです。それで、昔々からの日本人の考え方を、もう一度見直していただきたいのです。この世界が、神様そのものとしたら、自然も人も大切にしなければいけませんね。もちろん自分もです。私たちは、神様から生まれて、この世で精一杯に頑張って生きて、死んでしまうと、また神様の世界に戻るのです。そして、やがてまたこの世界に生まれ変わるのを待っています。そんな生命のリサイクルの一つであり、一部なのです。○人は霊的存在人も自然も神様の一部としたら、私たちは、ほんとうに神様なのでしょうか。 それなら、どこが神様なのでしょう。どこにも神様らしきものは見当たりませんが…。そうですね、身体のどこを探しても、神様は見えません。なぜなら、神様は見えないことになっているのですよ。神様は、人の心のずっと奥に、静かにたたずんでおいでます。それは近くて遠い所で、誰もそこまでたどり着ける人はいないのです。 そんな目には見えないけれど、神様の部分を、魂(たましい)とか霊(れい)と呼びます。ほんとうは、もう少し細かく分類されるのですが、ここでは、あまりこだわらずに、目には見えないけれど、神様の一部のことを「霊」「霊性」としましょう。人間は、目に見える肉体の部分と、霊によって成り立っていることを知ってください。また、人間の心の中に限らず、動物にも霊の部分はあります。植物にもあるし、山や川、石や岩にも霊が宿り、昔の日本では、こんな多くの霊のことを「八百万の神々」と呼んで、敬ってきました。自然をとても大切にしてきたのですよ。ほかには、浮かんでいる霊や、漂っている霊も少なくありません。あまり良くない霊というのもありまして、そんな良くない霊から 私たちを守ってくださる「守護霊」という立派な霊もおいでます。亡くなって、神様の世界に行かれた方々も、この世界が気になってよくおいでになります。そんな神様にも近い、高級な霊など無数の霊に囲まれて、私たちの生活はあるのです。○輪廻転生ふつうに生きている限り、まったく分からなくて自覚のない「霊性」ですが、それがはっきり分かって「ああ、私は霊なんだなー」と思う時があります。それは、人が死んだ時です。肉体が亡くなりますと、この霊の部分が ぼーっと肉体の外に出ます。そして、悲しんでいる家族などを見ては、自分の死を実感するのですが、この時になって、ようやく人は肉体だけでなく、霊的な存在であったことを自覚するのです。人はこの世を生きた後、死ぬと肉体は滅びますが、霊性の部分はもともとが神様ですから、神様の世界へと帰るのですね。こうして、亡くなった人の霊は 天国へと向かいます。天国に到着しますと、それまでに亡くなっていた、父や母や、おじいちゃん、おばあちゃんなど知り合いが出迎えてくれまして、「おかえりー」とか「ごくろうさん」と言われるのです。楽しいご対面となります。その後は、「下界はどうだった?」とか聞かれて、「頑張って生きてきました。」とか「楽しかったよ」なんて、この世で生きてきたことを振りかえり、反省したりします。 そして、ずっと神様の世界にいますと、いろいろなことが思い出されて、あの時はこうすれば良かったとか、もっとこんな生き方がしたいとか、もっといろんな体験をしたいと思うようになります。そして、神様に「もう一度、下界に行かせてください」と、お願いするのです。こうして、人間はまた赤ちゃんになって、この世に生まれてきます。人間に限らず、動物も同じです。草や木も、石も水も、星たちも生まれては死に、神様の世界に行き、また生まれることを繰り返します。このことを「輪廻転生(りんねてんしょう・りんねてんせい)」と、呼びます。○似た者どうし霊性というのは、いろんなレベルがあります。尊くて美しい心の霊もあれば、悪いことばかりしている悪い霊もあります。神様の世界に行きますと、亡くなった家族に会えますね。でも、その世界というのは、この世で行ったことが すべて分かってしまう世界なのです。そして、人の考えていることも分かってしまって、ウソがつけない世界です。もし、善い人ばかりの家族の中に、悪い人が一人いますと、悪いことをしてきたことや、悪いことを考えていることが、ぜんぶ分かってしまいます。そうなりますと、その人は もう恥ずかしくて家族の中にいられなくなるのです。そして、似たような人たちのいる所へ行きます。悪い人ばかりの集まっている世界ですね。自分と同じような人が集まっている方が、その人にとっては住みやすいのです。こうして神様の世界というのは、悪い人は悪い人ばかりが集まって、暴力や裏切り、怒りや恨みだらけの地獄のような世界を作っています。一方、善人は善人の世界を作り、優しさや思いやりのあふれる、それこそ輝く極楽浄土となっているのです。俗説には、人が亡くなると、神様や閻魔大王に裁かれて天国か地獄に振り分けられると申しますが、それでは地獄へ行った人から抗議が殺到するでしょう。神様の世界は完全な世界なので、みずからの意思で、天国と地獄へと住み分けるのです。そういう霊のレベルによって住み分ける性質は、この世界に来てからも続いています。悪い霊性の人は、どんなに着飾ったり、善人ぶっても 周囲には悪い霊が集まります。運が悪かったり、周囲に暴力や怒りが絶えず、裏切りや詐欺や、事件や病気が多いのです。善い霊性の人には、善い霊が集まりますから、貧しくても明るい家庭だったり、いつも元気だったり、楽しい雰囲気に包まれています。似た者どうしは集まりやすいのです。ここまで来ますと、幸せについての本質が ちょっと見えてきましたね。 人間は、肉体と霊から成っていますが、どうも霊性を良い方向に持って行くことで、なんだか幸せそうになりそうな気がしてきました。 ○因果応報ということ神様の世界では、この世で行ってきたことが すべて分かってしまうと書きましたね。誰も見ていないところで、ひっそりと行った悪いこと、その時は、「ま、誰も見ていないから良かった。」と、安心していたかもしれませんが、すべてお見通しなのです。それどころか、心の中で考えた悪いことまで分かってしまうのです。怒りや嫉妬や、妬み、恨み、・・・人間というのは、次から次へと悪いことを考えるもので、誰もが天国では赤面します。また、子供のために朝早くに起きて、せっせとお弁当を作ったんだけど、誰も「ありがとう」と言ってくれない、ちょっと寂しいな。と、思っていたことも、そんな善い行いは 神様の世界でしっかり認めてもらえます。誰にも認めてもらえない善行、感謝されなくても黙々と行ってきた善いことというのは、もっとも尊いことなのですよ。そんな 悪いことと善いことを計算して、プラスとマイナスが ちょうど釣り合うようにするのが、「因果応報」と呼ばれるシステムです。 原因(因)があると、それに従った結果(果)が生ずるという意味の言葉です。つまり、悪いことをした人には、その後悪いことが起こり、ひどい目にあいます。逆に、善いことをした人には、善いことが起こり、幸せになります。そんな原因と結果が、きちんと釣り合うように 世界の出来事は、ちゃんとできているのです。それは、ぜったいに間違うことのない、神のシステムです。「因果応報」がないと、世界の完全性がなくなってしまいますね。悪いことをした人は、悪いことのやり得となり、被害にあった善人は 泣き寝入りすることになります。神様の世界は、こんな悪人の味方をするような、不完全な世界ではありません。もし、あなたが今、幸せだなぁと感じているなら、それはあなたのこれまで行ってきた、善い行いの現われです。もし、今、不幸でつらいわ…と、感じているなら、それはあなたの これまでの悪行が 因果応報により現れているのです。 そして、もしあなたが「私はもう幸福にはなれないわ、悪いことばかりしてきたから…」そう思っても、あきらめてはいけません。これから 善いことをどんどん行えば、これまでの悪いことが、しだいに消されていき、やがては逆転して 必ず善いことが起こり、幸せへと 歩むことができるのです。ここまで来ますと、かなり幸せの条件が 見えてきましたね。○もう一度、幸せとはなんでしょう人は学生の時、勉強すれば幸せになれると教えられ、頑張ってみますが、トップクラスになれる人は、ほんのわずかで、あとは 落ちこぼれの悲しみにあいます。そのわずかの 進学校に行った人たちも、受験競争で苦しいだけで、とても幸せとは思えません。高校、大学を出て、就職すれば幸せかというと、いざ就職すれば 厳しくて、通勤と仕事に追われる毎日です。病気になれば、この病気が治れば 幸せになれると信じても、いざ健康になれば、そんな幸せも忘れて 働かなければなりません。結婚すれば幸せかと 思っていても、いざ結婚すれば次から次へと問題が出てきて、いったいどこまで行けば 幸せになれるのかと、だんだん人生に絶望してきます。それどころか、次から次へと起こる問題も複雑化して、それこそ 必死で苦しんでいるのに、ちっとも救われない、神様なんて信じられないと お嘆きでしょう。それは、これまで書いてきたことを 知らなかったからです。人が、外に幸せを求めている限り、手に入れた一時は幸せを感じても、その幸せは、夢のように消え去ってしまうのです。幸せとは 外にあるのでなく、自分の内側にあることを知ってください。 そして人間は、肉体と霊性のふたつが合わさった存在であることを知りました。私たちが幸せを追い求めるのは、このうち肉体にかかわるものばかりです。美しくなりたいと、お化粧したり ダイエットをしたり、洋服を買ったり、バックや靴、アクセサリーを買ったり、おいしい物を食べたいと思ったり、彼氏がほしい、結婚したい、お金が欲しい、家が欲しい、・・・すべて 肉体のための 幸せの道具です。これらの物もまた、手に入れた一時だけ幸せを感じる 幻のアイテムにすぎません。ほんとうの幸せを得たいなら、肉体のための幸せを 求めるのでなく、霊の幸せ、心の幸せを 求めることが大切なのです。「霊の幸せ」とは、はじめての言葉ですね。霊が幸せになるなんて、どういうことなんでしょうね。私たちが天国に行って、またこの世に戻ってくるには、何か理由がありましたね。「あれがしたい、これもしたい」そう思って この世に生まれてきたはずです。それが霊性としての願いです。その願いを、もう一度考えてみましょう。この世で私たちは、いろんな失敗や間違いをおかします。悪いこともしてしまいます。そんなことを天国で反省して、「今度こそはしっかり生きたい」、「もっと善いことをたくさん行いたい」と願って、この世に生まれ出てきたのです。そんな輪廻転生を、何度も何度も行って、人の霊性は 成長しているのです。永い年月をかけて、何十回、何百回という輪廻転生で、人の霊性は より善い霊性になるために この世に生まれ来て 苦しみに耐えて、がんばっているのです。私たちの、ほんとうの幸せ、根源的な幸せとは、「善き霊性」になることです。美しく、清らかで、愛に満ちた霊性になることが、幸せの結論です。この世に「おぎゃーっ!」と生まれてきた、その本当の目的どおりに生きるのなら、これ以上の幸せはありません。こう書きますとね、「なにそれ、がっかり!」という声が聞こえそうです。「いくら霊が清らかでも、やっぱり顔は綺麗な方がいいし、身体はスマートな方がいいわ。お金がなくては、どうして生きていくの?家のローンはどうするの?子供の教育費はどうするの?霊性が善くても、食べていけないじゃない。」と、反論されそうですね。ふつう、これが常識です。でも、これで、いいのですよ。私たちの生まれてきた理由は、霊性の善きものへの成長。これだけです。このために生まれてきたのですが、しだいに忘れて横道にそれてしまったのです。ほんとうの目的を、今思い出しました。でも、それで現実の社会で暮らしていけるのでしょうか。霊性が成長しますと、内側から輝きます。光のオーラが発せられるのです。清らかな霊性ほど、その輝きは強くて、美しい雰囲気をかもちだし、周囲を魅了します。お化粧やジュエリーで飾り立てても、内面から輝いている人には、ぜったいかないません。その輝きにより、悪い霊は近寄れなくなり、善い霊を引き寄せ、善いことばかりが起きます。似た者どうしは集まるという法則です。もし、貧乏な環境であっても、お金が必要な時は 自然とお金が入りますので、心は安定しています。それが神様が造られた世界の、完全さなのです。善い霊性には、神様の保証付きです。これ以上の安心感はありません。真実の幸福とは、神様から祝福された 不変のものでなければなりません。 それでは、善い霊性として成長するための、もう少し具体的な方法を 考えてみましょう。○苦難の克服この世には、不平等と理不尽が満ちています。善い人が急に事故で亡くなったり、なにも悪いことをしていないのに台風や地震で家を失うとか、罪もない人が戦争で被害を受けたり、どうして?と、神様の存在を疑うようなことが起こります。お釈迦様は、人間には「生老病死」という根源的で避けられない苦しみが存在すると説かれました。さて、そんな苦難に対して、私たちは どう向い合えばよいのでしょうか。 因果の法則によれば、何らかの苦難は 私たちが過去に行った悪行に対する結果であると考えられます。そのため苦難を受けるのは、過去の悪い因果を清めるためには、どうしても必要なことなのです。もしも、この苦難から逃げたり、人に押し付けたりすると、次にはもっと大きな苦難が現われるでしょう。今、起こった苦難には、しっかりと立ち向かうのが良いでしょう。ゴミ箱が いっぱいになっているという 困った事態に対して、見ないふりをして 逃げていませんか?お母さんに捨ててもらおうと、人に押し付けていませんか?大きな物を乗せて 隠していませんか?「このゴミ箱が悪いのよ!」と ヒステリーを起こして、ゴミ箱に やつ当たりをしていませんか?どの方法もいけませんね、いっぱいのゴミ箱は、自分でちゃんと捨てなければなりません。捨てた時に過去の因果が 一つ浄化され、あなたの霊性は、ほんの少し成長するのです。そして、根本的なこととして、私たちが この世に生まれてきた理由が、「霊性の成長」であることを、思い出してください。肉体は十代の後半で成長をストップしますが、心や霊性は、一生を通じて いつでも成長します。それは苦難というトレーニングによって、鍛えられ、経験を積み、学習して成長するのです。肉体の成長が終わって、さらに素晴らしい肉体となるためには、重いウエイトトレーニングをすれば、隆々たる筋肉に成長します。同じように、心や霊性は、苦しみや悲しみを経験してこそ、大きく豊かに成長するのです。まさに苦難とは、霊性の成長や進化のための 試練にほかなりません。 ある高校生のA子さんのお話しを、例え話として聞いてください。彼女は同じクラスに、すごく嫌いなB子さんがいました。もう、その子が近づくだけで、おぞましくなるのです。これという理由もなくて、ただ波長が合わないというか、とにかく彼女のことではイライラするのでした。ほかの生徒もA子さんの態度を見て、B子さんには近づかず、いわゆるクラスぐるみの いじめになっていました。そして、もう一つの問題は、朝の通学の電車の中での痴漢でした。ほんとうにひどい目にあって、辛い毎日でした。「もお、死にたいわ。」が、A子さんの口グセで、友達も同情的です。 そんなある日、彼女にとんだ不幸が降り注ぎました。まず、それまで優しくて 彼女にとって、良き理解者で話し相手だった母親が、突然いなくなりました。「好きな彼氏と暮らします」という一通の手紙だけを残して。ぼう然としているA子さんの目の前で、お父さんが倒れました。脳いっ血でした。彼女はぼう然となっている暇もなく、救急車を呼び、その後は、病院に運ばれた父親の 看病が始まりました。 あまりに大きなショックで、何度も泣いたし、運命や母を恨みました。でも、そんな悲しんでいる暇もなく、二人の弟の世話と、重症の父親の看病のために、体を動かすしかないのです。学校にも行けなくなり、二週間が過ぎ、疲労困ぱいしていた時に、母親がひょっこり帰ってきました。A子さんは、自分たちを捨てた母親を恨んでいましたが、いざ出会うと、もう、ただ泣くばかりでした。 家事と父親の看病を、母に代わってもらい、彼女は二週間ぶりに学校に行こうとすると、通学の電車の中で また痴漢にあいました。それまで 泣き寝入りしていた彼女ですが、痴漢の手を握りかえして、「やめてください!」と、自分でも驚くほどの 大声を上げたのです。周囲の男性たちが、その痴漢を取り押さえてくれて、警察に突き出してくれました。そして学校に着くと、あれほどイヤだったB子さんを見ても、何も感じなくなっていました。自分でも、とても不思議でした。「これまで、なんであんなに嫌っていたんだろう?・・・」A子さんは、一日中楽しい気分で学校生活を終えました。「また学校に来れるようになって、ほんとうによかった。」と思いました。そして、一人で帰るB子さんに歩み寄って、「いっしょに帰ろう。」と言いました。B子さんは、それまでA子さんが恐くてしかたなかったけど、その日から、ぜんぜん恐くなくなり、とても仲のよい二人になりました。 このことから A子さんは、母の家出と父の病気という苦難を乗り越えることによって、霊性がアップしたと思われます。痴漢を撃退する勇気を得て、訳もなくB子さんを嫌うというわがままも無くなり、誰でも愛せる 豊かで大きな霊性を得たのです。B子さんも、その変化を敏感に感じ取ったのでしょう。神様の与える試練が、人を成長させるという 典型的な例と言えますね。 このような大きくて苦しい苦難にあいますと、立ち向かうには恐くて、逃げ出したくなったり、絶望に陥りるものです。そのような時でも、人は立ち向かわなければならないのです。逃げてはいけません。「人は神の子」であることを信じて、苦難と向きあった時、ぜったい神の救いがあるのですよ。なぜなら、この世は神様が造られた世界で、苦難もまた神の造られたものだからです。「天は、自ら助けるものを助ける」という言葉がありますが、みずから「やろう」と決めたものには、神の愛の救いがあるのですよ。私たちのまわりには、無数の救いの手が満ちていて、ただ、それを信じて行動した者が 恩恵を受けるのです。○愛に生きる人は裸で生まれ、死んだ時もまた 裸で死んでいくと言われます。どんなお金持ちも、お金を天国にもって行けません。立派な豪邸を建てても、天国へ行く時は、身一つで行かなければならないのです。大統領も、死んだらただの人です。そんな天国行きですが、一つだけ持って行ける物があります。それは、「愛」です。この世で、どれだけたくさん人を愛したか、その愛の量を持って天国へ行くと言われています。たくさんの愛のある人の霊性は、美しく輝き成長し、さぞ天国ではよい世界へ行けるでしょう。でも、普通に考える「愛」と、ちょっと違うかもしれませんので、ご注意願います。「私は彼を、ものすごく愛しています。世界の誰よりも、死ぬほど愛しています。…ところで、天国へ行けますか。」と、質問されても「まあまあ」と、お答えしましょう。胸を焦がす大恋愛というのは、女性にとって一大事で、人生の最大の愛と思ってしまいますが、神様を基準とした愛のレベルからしますと、低いレベルの愛と申せましょう。愛のレベルは三段階あります。1、異性や肉親への愛(彼氏、親や子供への愛、優しい人への愛)2、知らない人への愛。(1より高級な愛)3、敵を愛すること。(一番高級な愛、一番むずかしい)1のレベルは、普通の愛ですね。レベルは低いと言いましても、愛してはいけないという訳でなく、どんどん愛しましょう。2のレベルは、見知らぬ人へ親切にしたり、道端で倒れている人を介抱したり、無関係なすべての人に平等に愛することで、とても難しいですね。また、世界平和を祈る心にも、この愛はあります。 3となりますと、キリスト様やお釈迦様、ガンジー、マザー・テレサ様のような聖者の愛です。自分を攻撃してくる敵でさえ愛するという、大きく深い人類愛がなければできないことですね。でも私たちにまったくできないかと言うと、そうでもございません。やる気さえ出せば、けっこうできるものなのですよ。イエス・キリスト様は「汝の敵を愛せ」と申されました。あなたの一番きらいな人、あなたを一番苦しめている人、そんな人を「愛しなさい」と言うのですよ。正気ですか?…と言いたいでしょう。もし、愛することができたら、あなたの霊性は浄化され、とても清らかになります。神様のように神々しい霊性となるでしょう。でも、どうしたら愛することができるでしょう。それには、私たちの中に、神様の分身である「霊」が存在しているように、一番きらいな人にも神様がおいでるのです。そのことを考えて、信じることができれば、かなり行けますよ。その人に対して、べつに「愛しています」と告白する必要もないので、あなたが一人になった時に、「あの人の、内なる神様を尊敬し、愛します。」と祈りましょう。それならできるでしょう。祈るだけです。さらに、きっとその人は、多くの欠点があると思いますが、たった一つで良いですから、何か長所を見つけましょう。何でも良いです。「あの人の、大きな元気のある声を愛します。」と、一つだけの長所を愛するように祈りましょう。あなたの人に対する見方が変れば、相手も変ります。相手を鬼と見れば、鬼になり、相手を神と見れば、神になるのです。少しずつ相手への見方が変わってきて、少しは好感が持てたら、これまで鬼のように思って、恨んだり怒ったりしたことを謝りましょう。謝罪の祈りも大切なことですよ。人生は、何も恐れるものはありません。まず、あなたが物事をはじめる決断をして、やる気を出せば、そこからすべての道が開けるのです。お金も地位もいりません。敵さえ愛することができます。あなたが決断するだけで、幸福への道が開けるのですよ。○奉仕愛について書いてきましたが、日常生活で愛の精神を実行するとしたら、それは「奉仕」になります。愛の心をもって、他者が幸せになるようにすることですね。奉仕は、人間の生きる至上の道です。奉仕には、次の三つがあります。一つめ、行為による奉仕。労働や親切な行為ですね。お年寄りに席を譲ったり、ボランティア活動をすることです。お金を寄付することもこれに入ります。 二つめ、言葉による奉仕。人を生かすも殺すも言葉しだい、と申します。それほど言葉には力があるのです。同じことを言うなら、相手を喜ばす言葉を使うこと。相手に明るくなってもらい、生き生きとなるような言葉を使えるようになりたいものです。三つめ、心による奉仕。他者の幸せを願う心、愛に満ちた心です。世界の平和を祈り、人々の平安を祈りましょう。無力で無駄のようですが、とても大切なことです。奉仕と聞くと、なにか災害時のボランティアに出かけたり、多額の寄付をしたり、特別なことのように考えるかもしれませんが、そんなことはありません。むしろ、ふだんの生活の中のこころがけの方が大切な奉仕となります。今いる あなたの場所で、あなたができる範囲で、あなたの言葉で他の人への奉仕が、何かできるはずです。今の職業、環境、まわりの人々、とりまく物の中で行えば良いのです。 10分後には、その時、その場所で、 1時間後には、その時、その場所で、何か奉仕ができないかと考えましょう。 奉仕の対象は、困っている人に対する救いだけではありません。ペットにエサをやれば、ペットへの奉仕。花瓶の水を交換すれば、生け花への奉仕。散らかっている部屋を掃除すれば、空間への奉仕。道路に落ちているゴミを拾ってゴミ箱へ捨てれば、周囲の人々や地球への奉仕になります。こう書きますと、なんだか当たり前のことを しているだけのように 思えるかもしれませんね。そうなんです。奉仕というのは、当たり前のことを、相手に対して心をこめて、愛情を込めて行うことなのです。あなたが看護師さんなら、患者さんに対して 心をこめて看護なさってください。あなたが農家なら、野菜やお米に対して、心をこめて作ってそれを食べる消費者に、心をこめて出荷なさってください。あなたがカメラマンなら、被写体に対して心をこめて写し、写真を見てくれる方々に心をこめて現像してください。あなたが学生で、教室で勉強中なら、先生に心をこめて、そして送り出してくれたご両親に心をこめて 勉強なさってください。 あなたが今いる場所で、いましていることを 他者のために心をこめて行うことが 立派な奉仕になるですよ。○人間と動物の違い人(ヒト)とは、動物としてのヒトのことです。動物である以上、動物としての本能があります。自分の命を守る、「自己保存」の本能と、子孫を残そうとする「種族保存」の本能です。これはサルもネコも、鳥も魚も同じです。 では、人間となりますと、動物としての人でなく、社会生活をする上での「人間」という存在になります。動物の中にも、シマウマやサルの群れのように、またイワシの群れとか、集団になる動物もいますが、人間のように分業して社会を構成する動物は人間以外にいません。集団になる動物は、群れていた方が敵から攻撃されにくいから群れになっているだけで、一匹の固体を見ればそれ自体で完成しているのです。一方人間の方は、花屋とかうどん屋をしているとか、車のセールスとか、学生とか、何か役割をになって社会に貢献している訳で、ほかの動物とは、あきらかに違います。この、動物と人間とを隔てる要素として、人間には第三の本能があるようです。その本能とは、「人は、喜ばれると うれしくなる」という本能です。「人は喜ばれるとうれしい」という心があることを、「それは違うだろ」とか「納得できない」という人はいないでしょう。誰もが 納得できることですね。こんな喜びがなければ、誰が親切をするでしょうか。誰が廊下に落ちているゴミを拾うでしょうか。すべては、喜ばれることがうれしいから、人に親切にするのですね。 人間が、ほんとうに「うれしい」と、心の底からよろこべるのは、この、人に喜ばれた時が一番「うれしい」のです。奉仕をして、人の喜ぶ姿を見て、あるいは綺麗になった廊下を見て、ニッコリできるのは、人間の心の根源からの喜びなのです。もしも、世界じゅうの人々が、この人間本来の持つ本能に目覚め、奉仕の精神で生きたら、この世界はどうなると思いますか?まず、あらゆる職業や産業が 大きく発展するでしょう。国と国の不信感がなくなり、軍隊が必要なくなります。これは、とても重大なことで、世界の軍事予算が必要なくなると、その分を食糧援助や医療援助、環境問題への予算と回せますので、そうなると飢えて亡くなる人や、伝染病で亡くなる人がいなくなります。まるで地上の天国のような世界になるのですよ。そんな人の争いのない世界、不幸なことのとても少ない世界というのは、人間の霊性にとって、すばらしく良い環境です。きっと、霊性の成長も一段と進むでしょう。人間すべてが輝かしい霊性を持ち、愛にあふれた世界は、いっきに輝く世界へと進化することでしょう。まるで夢のような話しと思わないでください。もしも、あなたがこの話しを 10人の人に広め、その人たちがまた 10人の人たちに広めたとしたら、そんな繰り返しが十回あれば、なんと百億人の人たちに広がってしまうのです。これは、地球の人口の二倍です。たった十回ですよ。しかも今はインターネットで、情報がすぐ世界じゅうに広がる時代です。コンピューターウイルスが、あっという間に広がるように、奉仕の精神が広がれば、あっという間に地球は 光輝く天国になるかもしれません。その先がけが、あなたかもしれませんよ。○私は世界のためにここまで読んで、いかがですか?「そんなこと、できないわ」という声が聞こえそうです。少しはできても、ずっと持続することは難しそうですね。「敵を愛する」が一番難関で、「奉仕」も、ついつい怠けてしまうし、「苦難に立ち向かう」のも面倒というか、つい人に押し付けてしまう…。小さな時から、人と競争し、勝つことを教えられてきて、今さら敵をどうして愛せるのでしょう。人一倍儲けて、お金をたくさん得ることが目標だったのに、人に奉仕して何になるのでしょう。苦難のような面倒なことは、「代われるものなら人に任せたり、人に押し付ければ、楽じゃない、それがほんとうの幸せで、世渡り上手というものじゃないの。」と思う人もいるでしょう。これまで頑張ってきた、そこそこの学校を出て、まあまあの企業でコツコツ働いてきた。貯金もある。車もあるし、トラブルは多いけど彼氏もいる。デートは楽しい。私は今のままで、じゅうぶん幸せよ。という人もいるでしょう。そんな人は、今、地球上に5億5000万人の人々が常に飢えていて、餓死の危機にさらされていることを、ご存知でしょうか?お腹が減ってペコペコなのに、何も食べるものがないのです。私たちが「自分だけ幸せなら、それでいい。」という便利な生活の陰で、毎日2万5千人もの人たちが、お腹をすかせながら死んでいることを、どう考えれば良いのでしょう。そろそろ私たちは「自分さえよければいい」という考えを、見直す時期に来ているのです。何も不自由はないのに、何か満たされないのは なぜ?どうして次々と問題が起こるの?と思って、このページを読み進んできたあなたに、もう答えは出ているはずです。「この世界は、自分を幸せにしてくれる世界」という幻想を捨て、「私は、世界の幸せのために在る」と、逆転の発想をした時、神様はあなたに味方するのです。これまで私たちは、自己中心の幸福感しか教えられずに、競争原理に追い立てられてきました。それでは、いつまでたっても幸福になれず、社会も混迷を深め、破滅の道を歩んでいます。今、地球は とても悲惨な情況にあるのです。自己中心、それも肉体中心の幸福の発想をやめて、他者中心の幸福感への転換と、みずからの霊性の進化というよろこびを幸福の中心に置くべきなのです。人々がそうなれば、この社会や自然や地球全体が、ほんとうの幸福に包まれるでしょう。○地球の悲鳴日本人の豊かさの陰で、多くの人々が苦しみ、動物や植物が被害にあっていることを、真剣に考えましょう。世界には、920万人の難民が 祖国を追われて流浪の民となっています。 2000万人の国内避難民の方々が、安全を保障されないキャンプ生活をしています。世界では、毎年少なくとも60~80万人もの人々が国外へ人身売買されていて、その半数以上が 性的搾取の被害者になっています。日本においても、アジア各国、南米、東欧から女性たちが人身売買のブローカーによって日本に連れてこられ、性産業などに送り込まれています。地球上には、およそ100万種と言われるいろいろな動物が生息していますが、多くの種が地球上から姿を消しつつあります。世界全体で動植物では1万6000種以上もが、絶滅危惧種に指定されています。ここ50年あまり、人間が便利で豊かな生活を追いもとめた結果、さまざまな環境問題が世界中で深刻になっています。とくに人間がばらまいた有害物質は、生命をささえる水や土や大気を汚し、さらに生き物の内部にたくわえられて、生態系全体に大きな影響をあたえつつあります。有害物質には、放射性物質や人工化学物質、それに重金属などがあります。 そして、この日本においては、2万5千人の人かホームレスとなって、路上生活をしています。これらは、地球が悲鳴を上げている、ほんのわずかの数字にすぎません。 日本人が、豊かに暮らす陰で、その犠牲になっている人々や動植物が無数に存在しているのです。もう、しらんぷりするのは やめましょう。地球や自然に、優しさを向けてあげましょう。困っている人々に、思いやりをもち、そして真面目に考えてあげましょう。決して大げさなことを考えるとか、難しいことを行う必要はありません。「私に何ができるかな?」と考えること。まずはそこから 貴重な一歩がはじまります。参考終わり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
July 27, 2018
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January 12, 2013先生入ってくるなりいつものようににこにこしながら一人一人に握手をされる。そろそろ自分の番かなと緊張します.考えてみたら毎月握手する人は2人。先生と大阪の樋口さん。心の垣根がいつもなくなって素直に聞ける準備ができます。開講の挨拶でkさんが童心になったつもりで今年も1年過ごしたいと言っていました。先生曰く、去年も話していましたがまだまだ世の中明けていない。今年1年もはや8日が過ぎんとしています。人生変わっていないともったいないですよ。自然は春を迎える準備をしています。樹液が樹を流れてどっくんどっくんと呼吸をしています。皆さんは初詣で、ああ金持ちになりたいなど神様を脅迫していますね。kさんの挨拶のように稚児になった子供のように学びたい。見えていないものが見えるように第1歩に変える。歳を重ねて80年。幼心の心をもって、赤ちゃんのように、童心に目覚める命の大事さを知る年寄りが元気でなかったら若い者に希望を与えられない。医療費でも年寄りの医療費は1人当り年間85万円、現役の世代では15~17万円6歳の子供でさえ40%は貯金します将来に心配だから使えない年寄りは若い者に押しつけ代償を求めている□除夜の鐘とは何でしょうか私らは、煩悩をを消す事でしょ。(煩悩という言葉も考えないままにしゃべっている自分に気がつきました)出家をした坊主が修行のために行う行事の一つ坊主とは寺の一坊の主のこと出家とは断食、座禅など修行をとおして欣求浄土 厭離穢土を達成するこの除夜の鐘は修行の方法論としてあります。私たちは今暗闇にいます無明から光明に入るために座禅 断食 除夜の鐘の選択があります。ゴーン 社会との断絶ンンンンーン 浄土に引き入れるために鳴るあけて おめでとうございます命今日もいただいた年取ることが人生を、最善を与えるチャンスを与える人の為に生きるのが歳を取らない六道倫理 六波羅蜜大切ですね・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考六道天道天道は天人が住まう世界である。天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、また苦しみも人間道に比べてほとんどないとされる。また、空を飛ぶことができ享楽のうちに生涯を過ごすといわれる。しかしながら煩悩から解き放たれておらず、仏教に出会うこともないため解脱も出来ない。天人が死を迎えるときは5つの変化が現れる。これを五衰(天人五衰)と称し、体が垢に塗れて悪臭を放ち、脇から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の花が萎む。人間道人間道は人間が住む世界である。四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界であるが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもあるとされる。また、唯一自力で仏教に出会える世界であり、解脱し仏になりうるという救いもある。修羅道修羅道は阿修羅の住まう世界である。修羅は終始戦い、争うとされる。苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界である。畜生道畜生道は牛馬など畜生の世界である。ほとんど本能ばかりで生きており、使役されなされるがままという点からは自力で仏の教えを得ることの出来ない状態で救いの少ない世界とされる。餓鬼道餓鬼道は餓鬼の世界である。餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる。他人を慮らなかったために餓鬼になった例がある。旧暦7月15日の施餓鬼はこの餓鬼を救うために行われる。地獄道地獄道は罪を償わせるための世界である。詳細は地獄を参照のこと。このうち、地獄から畜生までを三悪趣(三悪道、あるいは三悪、三途)と呼称し、これに対し修羅から天上までを三善趣と呼称する場合がある。また地獄から修羅までを四悪趣と称することもある。また六道から修羅を除いて五趣(五道)と称すこともある。初期仏教では、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上を五趣とし、修羅はなかった。つまり五趣の方が六道より古い概念とされる。これは当初、修羅(阿修羅)が、天部に含まれていたもので、大乗仏教になってから天部から修羅が派生して六道となった。したがって、これらを一括して五趣六道という。ウィキペディア 六道よりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93六波羅蜜参考 六波羅蜜(ろくはらみつ)の、波羅蜜とは、サンスクリット語のパーラミターのことで、 「究竟(くきょう)する」「彼岸に至る」「渡る」ということである。 「究竟」というのは、真理を究め尽くし、仏道修行を完成した境地のことをいう。 四諦のところでも書いたように、八正道は主に個人の救われ(悟り)を目的とした 修行であるのに対し、六波羅蜜は他の人をも救う(悟らせる)修行である。 その修行を六つに分けて説いているため六波羅蜜といい、それは次のようなもの である。 布施(ふせ) 布施とは、一般的には第一に「他人に物を施すこと」、第二に「僧に財物を施すこと」 という意味であるが、仏教的には次の3種類がある。 財施・・・財の布施。他人にお金や物を施すこと。募金活動など。 身施・・・身の布施。他人に身体を使った労力を施すこと。清掃奉仕など。 法施・・・教えの布施。他人に仏の教えを施すこと。説法すること。 なお、これらの施しを行なうときにはある動機が必要不可欠であり、それは、 一切の見返りを求めず(そういう心を持たず)、他人の幸せを心から祈るという ことである。つまり、ギブアンドテイクでは決してないということである。 見返りを求めないということは、「自分はこれだけの布施をしたのだ」と偉ぶる こともなく、逆に 「自分はこれだけしかできなかった」と卑下することもないという ことである。 自分でできるだけの布施を行ない、布施ができること自体が「有り難い」と思える ことによって、自分自身の仏性が磨かれるのだと説かれる。 そして、この3つの布施の中で最も尊いとされるのが法施である。もちろん、 財施も身施もいわゆる人助けとしては尊い行ないであるし、奨励されるべきこと には違いないのだが、ややもすると、募金も奉仕も、それを受ける人にとっては、 一時しのぎに終わってしまう可能性もありうる。 そこで法施が重要になるのである。 開発途上国などに対し、医療費や食料を援助するのは、人間として大事な 行ないであるが、それに加えて、田畑の開墾の仕方や農作物の育て方などを 伝授することができれば、当地の人びともいつか自立できる日がくるというもの である。 すなわち、人の幸せを祈願して行なうということが成り立って初めて布施といえる のである。 持戒(じかい) 持戒とは、身を慎むということである。特に、布施を行なうことによって、ややもすると 驕り高ぶってしまいそうになる気持ちを慎み、布施させていただけたそのこと自体に 感謝できる心になることが大事である、ということを説かれたのが持戒であるとも 解釈できる。 仏の教え(戒め)をよく守り、人間らしい正しい生活をすることを説かれたのが持戒 である。 忍辱(にんにく) 忍辱とは、他に対して寛容であり、どんな困難をも耐え忍ぶということである。 持戒によって、歯を食いしばって教えを守るというたんなる忍耐ということではなく、 そこに寛容さを兼ね備えることが忍辱の教えるところである。 精進(しょうじん) 精進とは、たゆまず純粋に努力することをいう。一時的な持戒、ある一時のみの 忍辱ではなく、一心不乱に継続して努力することこそが精進の本来の意味である。 禅定(ぜんじょう) 禅定とは、どんなことが起こっても迷ったり、動揺したりせず、静かな精神を保ち、 常に真理に心が定まっている状態をいう。継続して行なう精進も、常に落ち着いた 心で行なうことが大事であると説かれる。 智慧(ちえ) 智慧とは、真理を見極め、真理によって判断、処理できる能力をいい、仏教徒が 目指す最終到達点であり、仏の智慧ということである。仏教でいう智慧とは、 単なる知恵(知識)ではなく、真理を認識しているということが大前提であるとされる。 そして、この仏の智慧は、布施から禅定までの五つの徳目を修行することによって 完成されるものであると教えられている。以上の「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」が、六波羅蜜であり、人を救い世を救えるような理想的な人間になるためには、どれも欠くことのできない条件である。特に具体的なのは布施であり、できることから少しずつ実践し、仏の境地へ一歩でも近づいていこうと、仏教では教えている。http://www.alpha-net.ne.jp/users2/beach7/rokuharamitsu.htm・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・□今日が大切なんですよ毎日いじめられている亀を見ても知らんぷりしている。正月の屠蘇は自分を殺して幼心としてよみがえるには大切なんですよそして変わったかと鏡餅を見る自分を通して見た世界が大事ですねある程度本を飲んだら絶学です。自分の考えのない時に人の意見に左右されます□ほんとの幸せは何か管理職で日本の女性12%外国は30%遅れている?女性の役割をなぜ考えない(子育てが大切)何で今をいいと言えない今まで買えた鶏肉、豚肉が買えなくなった。だから景気が悪くなった。卒業とは次なるものを得るためのステップ。職業を変えたいけど母に反対される今までの物差しで考えすぎます。今年から新しい物差しで考えましょうそうすれば,子供が仕事を替わりたいというと機に非難する言葉が出ないサラリーマンになって,昔は終身雇用で定年まで働けた。パナソニック7000億で三年間赤字で2億円の借金ソニーが2300人の解雇こういう時代人生が何が好きかを問い、過去との卒業を何回もしなさい□今年は人の為に行動しよう人から必要とされなければ乞食となる人から役立つという確認が仕事を続ける条件年賀状にも書きましたが泣く、悔しさ 思うとおりにならない悲しいことで泣くのでなく恵みを苦労に置き換える考えが古くさい子供が笑ったとき相手が喜んでくれたとき,私がうれしいんですという心境が大切です私の存在が相手を喜ばすその結果自分のためになる本当に自分の存在が周囲を喜ばせる笑って泣いてどっちもあります。花咲かじいさんのようにいいじいさんも自分の中にいれば、意地悪じいさんも自分の中にいる笑う方が少し目方が重い方が善い相手のいいところを探すあなたの努力があったか。絆 日本国中でよく目にするが気の毒と思いつつもそれ以上にならないのが現実。昔は8~9人産んだ 乳児死亡が多く四割生存 東日本大震災で兄弟、父母の死、悲しさつらさを日本国中皆が体験した。人間から見た犬も犬から見た人間 きっと犬も人間も仲間だと思うと絆になるそして私の優しさを持っている仏心を引き出してくれる。
July 27, 2018
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今日は紺のシャツを着た先生又一段と若く見えます。東京から90歳の参加者Hさんが来場しました。先生家族のごとくいたわれて、自ら近寄ってほほズリする。感激の一瞬と同事にこれが礼を尽くすことと悟る。■近況報告身口意(しんくうい)に関して先日先生からお葉書をいただきました。鏡に映らぬ心の奥が観えないけれど因果の法則これは文字にはでない心の内部のこと。鏡に映らない心がいろいろ引き起こすこと。シンクウイも同じことを言っていますよ。参加者のHさんの挨拶の後、年を取ることはマイナスになったという解釈は駄目ですよという。年を取れば仕事、行動は変わる、居場所も変わる。年は与えられるものであり、変化が喜びで豊かさを持たせられる。50代のMちゃん。読書で学び反省してますが、自分の殻に入って外に出ないのは自分勝手であると教えられた。■幸せとは自分を隠したり嘘をついたりして虚構の中に私たちがいます。仏教では断食したり、座禅して、内から外に自分を出すのです。虚構から這い出して無垢から人間の本心が出るのです。能力人柄は十ヶ月の胎児からはじまる。これは小宇宙のごときものですところが母体がねたみ、恨みを持つと羊水が酸性化する現実の世界は無いものをあるように思ってしまう幸せなはずなのに幸せではないそのため、自分を全部出したくて出家する幸せは欲たりの理論足ることをしれ自分の安全を確保してなぜ他人と絆を持てるのか如是我聞 私はこう聞いたんだと御経に書いてあるかつて聖書は支配者が好きに書き換えた旧約聖書はヘブライ語 新約聖書はギリシャ語イエス自身はアラミ語を話す聞かせることが宣教で昔は本など無かった自分の心が飢え乾いている帰るところがなかったら安心できない怖いものがないのに、乳児のころ心配を押しつけられてしまう先の世のいろいろなこと悪いものを残すか良いものを残すかその接点は今日どう生きるか幸せだと続くし悩むと続かない先生丸を書く無とは、空とは何か先生丸を塗ってしまって矢印で外に出た図を書く残った丸が空であり無である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考仏教の空(くう)とは、固定的実体もしくは「我」のないことや、実体性を欠いていることを意味する。ウィキペディア「無」には主語がありません。それが「無い」ということです。要するに仏教はこの部分に特に影響を与えていないのです。そこで、仏教思想の特徴というのは「有でもなく無でもなく、それゆえに有でも無でもあるところのもの」を定義しているということでしょう(龍樹の「中論」)。そして、この存在するとも存在しないとも言える実体、それを明らかにするのが仏教のテーマの大きなひとつと考えます。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q107313235・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私という概念が無にはない 宇宙の一部か空も我がない■ウサギとカメの出世街道亀よ兎に挑戦して勝ちなさいと教わった士農工商の制度が無くなり、もっと勉強して偉くなりなさいと文部科学省は教える。人生は油断したら駄目ですよ。苦労を教わった。出世、成功は人生では辛いものウサギさん。山で走りっこしなさい。亀は川で競争しようよ。同じく男と女とは個性があります。しかし思想が操作されていますこれからはウサギの長所である特徴と亀の長所をあわせて共生させる。自分の特徴、道徳、世間体にこだわってはいけない自分の中に嘘と虚構がいっぱいになっているこれを取ってほしい。無や空になれると自分が出てきますよ。目が開きます。聖書には飛ぶ鳥を観なさい。誰が養っているか。何を食べようと思い煩うな何を着ようかと思い煩うなと書いてある。今日一日思い煩えばいい。小さな蟻の身体にも心臓があるその蟻を踏みつける。自分の足元を見たことがない。しかし神は私に必要なものを知っているこのタオル古くなった。 使う能力がないどういう風に生かすか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考食器拭き 台ふき、雑巾として床拭き、ぼろぼろになるまで使うのが普通・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・神の義 自然の因果を求めなさい今日をよく生きる。心の思いが将来出る。過去の良い悪いはない。違いの立場だけ。だから明日のことを思い煩うな■お盆とは先祖が見守る行事お盆は何を意味するかというと死んだ人が私たちを供養する地獄極楽の境地は自分たちが決める「昼の月」金子みすゞしゃぼん玉みたいな お月さま風吹きゃ、消えそな お月さま。いまごろ どっかのお国では、砂漠をわたる 旅びとが、暗い、暗いと いってましょ。白いおひるの お月さま、なぜなぜ 行ってあげないの。自分たちが喜んで生活する悪口けんかは親孝行今日守ってもらっている親と子先祖と子供たち 一体で、これが絆です。求めて不思議な人と出会える■最後にお子さんへの色紙を見せてもらった身の丈で充分凛としろ文章と素敵な筆の絵が色紙に書いてありました。きっと後で送られるのでしょうね。先生の携帯には毎日メールでお孫さんからのメールが届きますまだ起きているのとか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考お盆の意味は仏壇参りと同じ。先祖に毎日元気に働いてますと報告するもの。それでなくても先祖はいつも心配しています。お墓参りは基本は毎日ですが、最低年4回お盆正月、彼岸には行きたいものです。私は、いつもぶらぶらと日曜日に花を持っていきます。他の仏教の道具の意味もここに紹介しておきますお盆祖先を供養する心日本では、仏教伝来以前から「御霊(魂)祭り」など、祖先の霊を迎える儀式が存在しました。推古天皇(606年)の時代、僧と尼を招き食事や様々な仏事を行う"斎会〔さいえ〕"が設けられ、この様式が現在の「お盆」の原型になったと考えられています。朝廷で始まったお盆はその後、武家・貴族・僧侶・宮廷などの上層階級で主に催され、一般庶民に広まったのは江戸時代になってからのようです。江戸時代に入り町人がある程度の財政力をもってきたため、仏壇の普及や盆提灯に使われるロウソクの大量生産とともにお盆行事が広く根付きました。元々日本人が持ち合わせていた「祖先を供養する心」とお盆行事は固く結びつき、「お盆」は今日まで受け継がれてきています。お盆の為に-家や町での準備-<家の中での行事>13日の朝、霊を迎えるための精霊棚〔しょうりょうだな(=盆棚)〕を作ります。台の上に真菰〔まこも〕で編んだゴザを敷いて、精霊棚の奥中央に先祖たちの位牌を安置します。位牌の前には、なすやきゅうりで作った牛や馬を供えます。これは先祖の霊が「きゅうりの馬」に乗って早く来てくれるように、名残惜しいので「なすの牛」に乗ってゆっくり帰るようにとの願いを込めたものといわれています。なお、近所に先祖代々のお墓がある場合、昼間にお墓の掃除とお墓参りをすませておきます。14日か15日に僧侶を招き、お経や飲食の供養をします。お供えものは、13日はお迎え団子(あんこのついたお団子)、14日はおはぎ、15日はそうめん、16日は送り団子(白い団子)と毎日変えてゆきます。<町で行う行事>14日~17日にかけては寺の境内や町の広場などで「盆踊り」が行われます。これは、精霊を迎え、慰め、そして送るための踊りであったと言われています。8月12~15日まで「連」という踊りの集団を組んで市内を練り歩く徳島県「阿波踊り」や7月中旬から9月中旬まで連日町をあげて踊る岐阜県「郡上踊り」などは全国的に有名です。また、京都を中心に行われる「地蔵盆」は、子供の守護神である「地蔵菩薩(お地蔵様)」をお祭りする儀式で、ここで紹介したお盆(盂蘭盆会)とは別の意味を持ちます。数珠は、お葬式や法事、お墓参りの時に手にする最も身近な仏具です。常にこれを持って仏さまに手を合わせれば、煩悩が消滅し、功徳を得られるといわれています。数珠は合掌する手に掛け、仏さまと心を通い合わせる大切な法具で、忘れてはならない必需品です。ですから、どの宗派でも数珠を大切にします。数珠は、持っているだけで功徳があるとされ、災いを取り除き、平穏や安らぎを得られるといわれています。
July 22, 2018
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20120912先生甚平を着て恒例の朝の挨拶を握手と言葉を交わす。受講者全員立ってお迎えしました。講演に先駆けて受講者から近況報告をしてもらいました。先駆けで私が町の中の人をみても,暗い服が多い。ぜひ明るい赤等着て気分も明るくした方がいいと気づいたと報告しました.私のビジネススーツも灰色ですねと指摘を受け,身口意になっていないことに気づく。 ある方は、お客から郵便物が届かないとクレームを受けた。本音で話す声に,気持ちよさを感じたと報告しました。先生正直は大事だけれど個人のエゴイズムは最低です。自分の感情を爆発させない方がいい。恨み辛み憎しみなどぶつけるのは人間として最低である■学びの大切さどんなところで生まれたの?どんなところで育ったの?そこには1000年の遺伝子の歴史があり,仏性 仏の心の持ち方で変わる人間とは複雑で,変化したことは人生の原則である。根っこは先祖。葉っぱは自分で見せちるもの。緑はいつかは変わる。私はこうなりたい.同類からの自分が向上を目指す。多くの人の出会いから距離感を見なくては駄目ですよ。1ヶ月に1回会うとか。楽しく生きるために学びを繰り返す最近死に際を考えます。おばあちゃんおじいちゃんが死を見せる。この死の終わり方が子供にとってどう影響を与えるか。心に残る。「死して死なず」永遠に生きている。愛に愛して信じて生きていかねばならない。過去家族をどれくらい愛したか老境に死に方でわかる。我々は未熟です謙虚さが必要です。若者はだめといってはいけない学び続けることの大切さ相談する親は自分の事を切り離すべきです「うちの孫はねー、うちの子供はねー子供が悪くて恥ずかしいあなたが置かれているのは過去の縁です何千もの縁が教育に出ている回りと同じでないと気持ち悪い実は過去の原因が今日を作っている時の流れというのもは本来因果とは現在が果なら、過去は因これが未来に流れていく例えば生活苦しい人は61%心の豊かさを求めている人は64%男性3割女性2割が未婚を望んでいる国民年金の納付率は58%と低いなぜなら、納めても将来年金が納付額以上にあたらないシステムを知っている■未来から来る恵みをえるには人口40年後には8600万人になる過去の原因なんて関係ないたとえ10分前でも永遠なんだ今日現在の因が未来に果する過去から現在未来と続く現在は未来から来る今日良きことをしようと未来から持ってこようとしている.見えないものが人生の時。心の豊かさを求めている.豊かさとは何ですか?1分考えてください物の豊かさと同じでないでしょうか。世界中の知恵の中で仏教では足ることを知ると言われています豊かな場所に今いるので比べる必要はないのです心の豊かさと物の豊かさは同じである。足ることを知りなさい足ることを知った人は物の不足を感じないつまり生活が苦しいとは過去と比べて苦しいのです。そこのドアなんと言いますか出入り口 取ることを先にする.入ったら窮屈になる金は天下の回り物から、金は天から回ってくる。金は物を買ったりして世界で250兆ドル動いている。お金があれば家買って,車買って幸せは買える?心の豊かさは買えないあなた方はお金の奴隷している金は天から回ってくるが、やることやったらですよ金(金箔)とは永遠に変わらない物だから仏像に金が貼られて永遠を表す今日何をやるかで金は天から回ってきます浦島太郎はいじめられていた亀をみて行動しました。その前におそらく何人も通っていたが誰も助けなかった。浦島太郎は1銭5厘を渡して亀をのがした。この金はおそらく貧しい中の全財産で,その日暮らしの状態の中でした。不安になるために生まれてきた嘘つくために生まれてきた今の世相を見るとそういわざる得ないここでは1銭5厘を先に出した。もし心が貧しいなら出さないそして天国の竜宮城に行った。毎日が飲めや歌えやの世界でした。私たちもぜひ無財の七施を実践しましょう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考 無財の七施http://ameblo.jp/renngyouji/entry-11166738753.html「仏説(ぶっせつ)に七種(しちしゅ)の施(ほどこ)し有り。財物(ざいもつ)を損せず大果報(だいかほう)を獲(う)る。」とあります。これは、お金をかけずして功徳(くどく)が積め、大きな果報が得られるというお布施が、七種あるということです。これを掲げてみます。一、 眼施(がんせ)これは、眼を施す、ということで、優しいまなざしで人に接し、人に暖かみを与えることです。相手に好感をもたらす「まなざし」です。諺にも「眼は心の鏡」「眼も口ほどに物を言う」とありますように、眼を見れば、その人の人間性が顕れるものである、ということです。冷たい「まなざし」より、優しい「まなざし」を心がけていくことが大切です一、 和顔施(わがんせ)これは、「柔和な顔」を施すということで、なごやかで優しい顔つきで人に接することです。顔の表現ひとつで、相手に敵意を抱かせるでしょうし、警戒心や不安を起こさせることになります。「柔和な顔」は、人に喜びや安心感を与えます。ですから、「柔和な顔」を施していくことが大切なことです。一、 言辞施(ごんじせ)これは、愛語施(あいごせ)ともいいます。字の如く、言葉のお布施です。相手と話をする時、優しい言葉や暖かみのある言葉で話していますと、相手に優しさ、思いやりが伝わり、安らぎを与えていくのだと思います。昔から、「言葉は身の文(あや)」といいますように、言葉は、その人の品格をあらわすといわれております。表面上の言葉ではなく、心からの「真実味のある言葉」が大切です。一 身施(しんせ)これは捨身施(しゃしんせ)ともいいます。自分の体を使って、他のためにさせていただくことです。諺に「実るほど頭のさがる稲穂かな」とありますように、人として人格の優れた人ほど謙虚で、決して自分を誇張して見せないものです。稲穂が実れば自然と頭が垂れてくるように、人格の優れた人ほど人に対しても頭が低いものです。その人格を磨き上げていくためにも、自分の体を使って、他のためにさせていただく「身施」は大切なことです。一、 心施(しんせ)これは、心のお布施です。人に対して「まごころ」を込めてさせていただく。「誠意」を持ってさせていただく。ということです。「心配り」とか「気配り」とかいいますが、相手を思いやっての、「心尽くし」というのは、相手を非常に暖かくして差し上げることだと、思います。心からの施し・・とても大切なことです。一、 床座施(しょうざせ)これは、相手に席・場所などを施すお布施です。例えば、電車やバスで困っている方に席を譲ったりすることです。先日、「徳を積むこと」に掲載しましたように、「徳は人にゆづりて、苦労は我に引うくるやうにする」ということですが、この「徳を人にゆづる」ことも、床座を施すことになるのです。そのための難儀・苦労は大切なことです。一、 房舎施(ぼうしゃせ)これは、雨・風を凌ぐところを人に与えることです。例えば、雨・風が強い日に、一本の傘に二人入ってたとします。その時自分は、半身濡れながらでも相手を気遣い、傘を差し掛ける思いやりのことです。自分のことは置いてでも、相手のことを思いやって行動していく、このことは大切なことです。以上、「無財の七施」を挙げましたが、全て人を思いやっていくところに、「七施」があり、そこに「功徳」があるわけですから、そこをお間違えのないように、くれぐれも「こころして」いっていただきたいものです。この「無財の七施」を自分自身が、身に付けていけば、きっと素晴らしい「徳」をそなえた「人格者」になっていけるのだと思います。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・朝、早く起きなさいということから、言葉で相手が感動するおはようを言えるかですだいじょうかな,早くおきて食べて学校行きなさいよお母さん助かるわ。ありがとう。娘がぶん投げた衣服を親がたたんでみせるのです。子供がたたむようになるまで。子供は見てまねるものです。最初に出す。やってみせる。そしたら将来が出てきます。席を譲る.心の豊かさを出す喜びが入ってくる■昔話に見る教訓貧しい年越しでも、隣の家から餅つきの音が聞こえてきた。正月らしくていいねと喜ぶ気持ちが大切です。自分たちは餅無いけどネズミには米粒を与えて餅つきさせた。心を豊かにする.代償を求めない。貧しい生活で藁しかない。傘をあんで市場に持って行ったがあいにく市場が開いていない。道路脇の六地蔵様が頭に雪をかぶって寒そうだった。持っていた5つの傘をかぶせて尚自分の大事なタオルまでもう一つの地蔵様にかぶせた。家に帰り事情を話したら,良かった良かったと女房が褒めてくれる。その夜ドスンドスンと地蔵様が足ならししながら米や財宝を持ってきてくださった。心を出すことが心の豊かさにつながる。愛の字は心を受けると書きます。心は慈悲、恵み未来から愛を受けて実証現実かする未来から来ています今の生活は実は物が生かされていない。必要な物の何十倍の物が腐らせられていますどのくらいのものを使わないで持っていますか今に天からの逆襲が始りますよ使う能力は心の豊かさを持つと出来ますhttp://www.zabutontei.com/blog/uview.cgi?20071111012221OS0.txt曽我廼家(そがのや) えんめい?主演の 「ある男がな、海で溺れて、自分の国とまったく違う国に流れ着く。 あまりおなかが減っていたので、 食堂でトンカツをたのんで夢中で食べる。 食べ終わって、お!! 自分は財布を持っていない一文無しだと気付き、 ご主人に詫びて、配達でも皿洗いでもさせて下さい、 代金を償いますと言うと、 なーに、その必要は無い、この国は食べてもらった店がお礼にお金をさしあげる、 とのこと。 へえ、と不思議に思ったが、もらい。 宿を探して泊ると、 今度はその宿が、泊ったお礼とお金をくれる。 おかげで、どんどんお金が貯まっていって、贅沢がエスカレートしてゆく。 どこに行っても、お金をくれる。 もはや、この世の春。 で、お金なんか持ってなくてもいいや、と、 川にお金を捨てる。 すると、警察に逮捕され、死刑を宣告される。 この国では、お金を川に捨てると死刑なのだ。」 という変なハナシ。 貨幣価値について、いろんな解釈ができるブラックユーモア。 現実は人を採用する際は,求職者はなんぼもらえる?休みは?その結果成果主義導入で67.5%のひとはうつ病になり、85%の人がうつになり,お金のために働く。ほんとは誰とも比べていけない.身の丈だけでやっていくことが大切相手に対して自分ができる事をするのが働くこと。いいことしてもらったら、お金払われる。福井のデパートはテナント募集、売り店舗の看板が出てます。必要な事をやってもらい、その代償としてお金をもらう。いいコトしてあげたい。お金に使われることはない必要であることをしてあげると自然に未来から来る入ってきたらほんとは豊かと思っていけないのです。■親切親切の効用はキリスト教でも紹介されてます。1:ルカによる福音書 / 6章 27節 しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。 1:テモテへの第二の手紙 / 2章 24節 主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、 最後に疲れると不親切になります気をつけて休みも必要です。
July 22, 2018
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240510無尽蔵にある幸せの預かりもの心眼を磨いて感謝に満たされてください。師から有り難い言葉をいただいた。観自在菩薩にあるように観るであり見るでない。観ることは、心眼、慧眼を持ってみなさいとロボット工学森政弘先生から習ったがまさに再会した気分である。20代の自分には余裕がなかった。日々国家試験勉強の毎日。懐かしい中に師の言葉と併せて青春が呼び戻される。豹変しなさい。心眼でみなさい。本を捨て自然に学べ。自然の声を心眼で観なさい。不立文字、教外別伝。手も足も出ない自分を感じてます。黙って座って静かに自然の空気を感じましょう。今は春の臭い、おしろいのような臭いが感じられます。こうした臭いは初めて感じました。自動車での通勤を放棄して2年がたちます。雨の中、風の中を歩いていると自然のなかに生きている自分を感じます。少なくなった田んぼや畑も金沢駅の駅西を歩いていると今でもあります。■自然に感謝する音楽も目に見えない波動をだしてます私たちが生きることを与えられている時間、備わった能力で自然の花を見ても涙が出ます。能力、感謝、感性、 今日一日過ごせる幸せ豊かさ、所有感、自然から与えられたすごさ。誰がつくっているのですか?人も自分も気持ちがわからない鏡に映せば汚い自分も生かされるとわかったとき感謝が起きる。■感謝とは何か土の中はぽっかぽか地の蔵 花や実の宝庫お地蔵様 大地から恵みを出される方ですね対して天照大神、キリスト、創世から離れて人間がつくったものに変身している大地に感謝金子みすゞ 「土 」こッつん こッつん ぶたれる土は よいはたけになって よい麦生むよ。 朝からばんまで ふまれる土はよいみちになって 車を通すよ。 ぶたれぬ土は ふまれぬ土は いらない土か。 いえいえそれは 名のない草の おやどをするよ。 参考何でもない土や名のない草に目をやる優しさとすべてを認めてあげられる大きさ。誰にも笑顔で、誰にもやさしかったという彼女の詩は、あたたかい。今は大地の恵みを考える時間も気持ちもない婬邪罪 神でもないものを拝むこと感謝はなんですかどうして生まれてきた今の自分に安定があるかほんとは愛されるために生まれてきた一年365日うまれてしあわせと言う時間を感じるために生きている大地は時、命、能力を与えられている。何で自分の身を考えない。何で多忙なんだ。私たちは恵まれた条件で居るここに感謝が生まれる自分で持っているものは燃やされるそのため当てられたものを使い切って感謝すべきなんだ道具の価値を吟味すべきなんだ。ゆっくり休憩すべき比べるな頼るな求めるなあなたはもう充分に幸せである人生というものは波羅波羅波羅とは平安安心のこと虚仮とは嘘である 死んだら幸せでなく、今が幸せかを宗教はとく自分で幸せであることを念じなさい小さいことが大切ですよ笑顔、お辞儀、挨拶感謝が少ないと出来ないですね笑顔は喜びがないと作れない幸せを持っていないと笑顔がない結婚しても31%の方が離婚してます。77万の結婚の内、25.1万人の離婚男と女では役割が違います金子みすゞ 「わたしと小鳥と鈴と」わたしが両手を広げてもお空はちっとも飛べないが飛べる小鳥はわたしのように地べたを早くは走れないわたしが体をゆすってもきれいな音は出ないけれどあの鳴る鈴はわたしのようにたくさんな歌は知らないよ鈴と小鳥と それからわたしみんな違って みんないい女性は機械的に扱われている女性らしい感性を捨てている■子供の特徴を引き出すエデュケーションはかわいがること、ヒヌークとは愛すること非行した子は誰がつくった?親でしょう子供はそれぞれ違う。1科目でも優れていればそれでいい特徴を引き出す子供は愛されるために生まれてきたのです。3歳までの子供の権利が無視されていますね自分の定年退職も命令され、学校制度に任せっきりできた結果です3歳までは子供のわがままにさせて喜びなさい感謝がないなら自分の持っているものを調べなさい若者の8割が収入不安です15~29歳。それでも2割の子供が不安がない三歳まで言うことを聞いてもらった子供です断られたことがないので何でもチャレンジできる子供に育つ愛される権利を子供が持っている自然のすばらしさは太陽が沈むときの神々しさ神社を見ても感じませんね宗教は御経から学ぶべきで、僧侶や建物からではないマタイによる福音書 / 18章 12節 あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。・・・・」 (ルカの福音書15:11~24)。わらしべ長者 むかし、むかし、ある所に正直者ですが、運の悪い男が住んでいました。朝から晩まで、働けど働けど、貧乏で運がありませんでした。ある日のことです。男は、最後の手段として、飲まず食わずで、観音さまにお祈りしました。すると、夕方暗くなった時、観音さんが目の前に現われ、こう言いました。「あなたは、このお寺を出るとき、転がって何かをつかみます。それを持って西に行きなさい。」確かに、男は、お寺を出ようとしたとき、転がって、何かをつかみました。それは、一本のわらでした。何の役にもたたないと思いましたが、男は、わらを持って西に歩いて行きました。書いていないが貧乏で1週間も食べていなかった。観音堂のところで夢を見てぎりぎりの状態の生活であったのでしょうそうして幸せをつかんだ。神さまが愛している。1人でも迷える小羊を涙をこぼして心配している■自然主和顔施 感謝 喜びは感謝です自然の緑はきれい 心で感謝してますか大地が1年かけて作った、見えないものが見えるものを作る。感謝が精一杯だから物事に失着して自分の人生をムダにしない足下から考え、なぜ生まれてきたのか そこから感謝がうまれ 輪廻転生へと結びつくそのために1自分を見つめる2脇にいる人を大事にする■女性でなく女の復活赤ちゃんを産む特権を持つ女衆教信仰ではなく真向がただしい自然に従うだけです自然に生かされることは、ウパーヤ方弁と同じ聖書に裁くな人を裁くな裁くという権利も能力も人間にないしかし法律は荒っぽい犬は家族である家族と同じという気持ちを引き出す■教育強育 塾へいかす恐育競育共育今日育 今日教えなかったら手遅れになる興育 興味のあることを教える子供の性格は3歳までに決まってしまうこのときを大切に思うのが重要子育ては人生のやりがいに通じる■豹変する男になれそして豊かな人生を享受する60歳過ぎると断言する男になる75歳 職業はおばあちゃんという職業で、死ぬまで現職でいきなさい前回の居職十の話の内の職の話を聞きました。
July 15, 2018
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June 13, 2012いつになく教室が埋まる外は暑いのに部屋は涼しい自然にいる私たちが自然を感じない生活を行い、その報いが帰ってきます。原発にしろ、子育て。こうすればいいと教えてもらえるのは母からか。今も人生の母を求めてやまない私なのか□世俗から離れましょう 仕事に追われていませんかJRの社員が車両を運転し車掌も兼ねる仕事に追われている主婦は時間がありすぎて自分を苦しめている昔は川へ行き洗濯してました。今はスイッチ1つ押すだけ。愚者は環境を得て不善を為し、賢者は時間を得て遊歩(ゆうぶ)する遊歩(ゆうぶ)はサンスクリット語から来ている世俗から離れること参考http://kenuchka.paslog.jp/article/1065701.html「あばた」が実はサンスクリット語(梵語)起源の日本語だったと聞いて驚く。考えてみれば、「痘痕」なんてどう見ても当て字だし、音的にも日本語っぽくない。元は「アルブダ」と言って、腫瘍を意味するものらしい。仏教とともに日本に入ってきて定着した言葉は、歴史が古いだけに外来語かどうか分からなくなってしまっている。また、仏典における原義と、一般語化して本来の意味から変わってしまったものもある。「阿吽(あうん)」:梵語の「ア」と「フーン」を合わせたもので、「ア」は口を開く音を指し、「フーン」は口を閉じる音を指した。翻って、「吐く息」と「出る息」となって、「阿吽の呼吸」に至った。梵語 → 仏教語 → 相撲用語 → 一般語という珍しい流れ。「悪(あく)」:梵語の「アクシャラ」。仏教語における「悪」は世の理や仏道に反することで、将来の苦を引き起こすことを指す。和語における「悪」は、「にくらしいほど並はずれた」という意味であり、古代中国における「悪」は、「規則や命令に従わないこと」を指した。また、欧米における「悪」は、「絶対神を否定するもの」を指した。このことからも、「悪」の定義は今日なおも大きく揺らいでいることが分かる。「瓦(かわら)」:梵語の「カバーラ」。儀式で使われる杯や器を指した。後に、人間の頭蓋骨で作られた髑髏杯のこととなり、儀式で血などを入れるのに使ったとされる。織田信長が浅井長政の頭蓋骨で髑髏杯をつくって酒を飲んだ話が思い出される。神秘主義におけるカバラ思想の「カバラ」は別語源らしい。「金毘羅(こんぴら)」:梵語の「クンビーラ」。ガンジス川に棲むワニのこと。古代より水に棲む神として崇められていたという。「琴平」は金毘羅の当て字。「三昧(ざんまい)」:梵語の「サマーディ」。今でこそ「贅沢三昧」などと悪い意味でしか使われないが、本来は一つの対象に集中し、心を動かさないことを意味し、悟りの境地だった。今日の「一心不乱」とか「一意専心」に近く、今日でもヨガの階級では最高位となっている。「娑婆(しゃば)」:梵語の「サハー」。今でこそ受刑囚が「塀の向こう側」を指す言葉となってしまっているが、本来は「現世」を意味し、転じて修行僧が「下界(山の下)」を指すものとして使うようになった。「島(しま)」:梵語ではなくパーリ語の「シーマ」。今でこそヤクザの縄張りを指すが、本来は修行僧たちが修行する空間(領域)を意味した。「刹那(せつな)」:梵語の「クシャナ」。一瞬の意。正確には約75分の1秒とも言われる。数字としては、10のマイナス18乗の数を指す。現代日本語の「刹那的」は「後先考えない」ことを意味するが、仏教の原義的には「一瞬一瞬を大切にする」「瞬間を充実させる喜び」を意味する。どういう訳か仏教語は現代日本語で悪い(ネガティブな)意味で使われるようになっているものが多いことが分かる。逆に仏教語で悪い意味のものだったものが、良い意味で使われるようになってしまった単語もある。いま流行の「愛」がそれである。仏教語における「愛」は、梵語の「トゥリシュナー」の訳語。「トゥリシュナー」の原義は「喉の渇き」で、「むさぼり、執着する」といった渇望とか貪欲を意味するものだった。仏教的には、「欲望の満足するところを求める心情」を指し、愛欲とか愛執などと使い、決して良い(ポジティブな)意味ではなかった。もっとも、日本語における「愛」の起源は、仏教語の他に中国の古典における「仁愛」にも見いだすこともできるが、こちらも「大事にする」「親しむ」の意であり、今日の「愛」とは異なる。もともとは「トゥリシュナー」を「愛」と訳してしまった古代中国人が悪いのだろうが......檀那:旦那:梵語の「ダーナ」。もともとは「贈り物」の意で、転じて「お布施」となり、さらに僧が「喜捨してくれる信者」を呼ぶようになった。奈落:梵語の「ナラカ」で、そのまま「地獄」のこと。涅槃(ねはん):梵語の「ニルヴァーナ」の方言(ニヴァン、ニヴァナ?)が語源。もともとは蝋燭などの炎が吹き消された状態を意味し、転じて「生命の炎が消える死」となり、さらに仏教語として「煩悩(の炎)が消えた後の静寂」を指すようになった。馬鹿:梵語の「モーハ」で、古くは「莫迦」と記した。元の意味は「無知」「暗愚」に近い。仏教的には、無知は人々を現世で迷わせ苦しめる元凶ということになっている。仏陀:梵語の「ブッダ」。今でこそ「釈迦」の別名のように使われているが、本来は「悟りを開いた人」全般を指す。原義は「目覚めた人」。菩提:梵語の「ボーディ」。原義は「悟り」で、釈迦が悟りを開いた時に座っていた木を菩提樹と呼ぶようになったが、中国には生えていなかったこともあり、似たような木を「菩提樹」と呼ぶようになり、それが日本にも輸入された。平安時代には、「極楽浄土」の意で使われていたが、転じて「冥福」となり、今日に至っている。魔:梵語の「マーラ」で、インドの悪神の一つ。仏僧の修行を妨害する存在を指すようになった。後に、修行の邪魔となる愛欲=男性器を指す寺院の隠語(マラ)となり、今日に至っている。茉莉花(まつりか):梵語の「マッリカー」、インド原産のモクセイ科の低木。香や茶の原料として紀元前から今日に至る。夜叉(やしゃ):梵語ではないが、パーリ語の「ヤクシャ(女性形はヤクシー)」。森林に棲む神霊である【参考】『日常仏教語』 岩本裕 中公新書(1972)□自分とはなにか自分とは自然の分身自然の子小宇宙、細胞、人間の存在をつくる寝床に入る前に自分との対面をしなさい表側の自分だけしか鏡に映らない心が分身本来の自分に戻れ例えば石ころが落ちている 磨けばダイヤモンド自分もダイヤモンドですよ本心に戻って毎日生きよ時間的使われ方がわからない時間に振り回されている本心の自分ではないが仕方なく仕事に使われている命とか能力を使おうとせず人の持っているものだけを見ている幸せの字は物差しがついている□進歩とは何か大阪駅前のビル群、新幹線の高架橋人類が進歩した証拠。グローバルスタンダードに対応進歩とは仕事から解放されることではないか老後は遊歩する瀬島龍三先生からも教わったですね若者2000人のアンケートのうち80%が不安を感じている大飯原発の再稼働を野田首相が話していた人間が人間らしい生活をするために文化的暮らしをするために私は原発が必要です細野さん東電の建屋の耐用年数は40年ですよ大飯原発は今50年です日本の高温多湿が耐用年数を60年と決めているがインフラが老朽化しています道路橋など2030年には水門60%道路53%が建設後50年になる日本の建築は伊勢神宮に見られるように新しくつくるのが文化だった2060年までに190兆円かかる人間が豊かな生活、人類の進歩は何か50年後は生きていない無責任な人ばかり□宗教と税金時間どうりにやらないと怒られる女の自由な愛と平等が発現されない時間を自分のために充分使っていない仕事はハタが楽になることしかし人に何かを求めてばかりでは人生不幸につながる自然との共生税と福祉の一体化に反対する?お寺84000箇所 コンビニ45000箇所□先祖のおかげマタイによる福音書第一章から家系図か出ているが今日あるのは先祖のおかげです校正書2010年で完全生命表の完全版で男子79.55歳女子86.3歳健康寿命は男子70.42歳女子73歳男は9.22年間女は12.77年間病気で苦しむ結果になるイスラエルではこの子を先祖が期待できるように育てられるか不安と感じる夫婦が多い何十代も続く存在、家系図を知らない。先の世は今現在の状況が原因であり、教え生きること。子孫に返すことを問われている□自分という存在を見なさい人類の進歩=豊かさ、長寿、健康、苦しまない将来不安であってはならないはず2割の若者が不安でないならその人達はなぜ不安でないかを知る必要がある頼られる人間になりなさい求められる人間になりなさい比べるな。自分にご苦労さんと言えるように自分を磨きなさい昔かごに乗る人、かごをつくる人やりがい生き甲斐感謝を持てこの感謝は先祖から来ている観自在とは自分という存在をよく見なさいと言うこと生かされて生きている今日も明日も生かされている感謝以外無い積善の家に余慶あり 参考善行を重ねているような人の家庭には、自然にめでたいことが集まってくるものです。人知れず善いことを積み重ねていくよう努力することは決して無駄にはなりません。 善とは道徳、世間体は嘘。自分を飾るだけ[天網恢々疎にして漏らさず]参考"恢々"は広くてゆったりしていること。天が張っている網の目は粗いようにみえるが、その実、どんなに小さな悪事でも決して見逃すようなことはない、ということ。悪事の報いを逃れることはできない、というたとえ。原因、因果である苦労大変という原因をつくる子供先祖から続く今日の問題は先先から続きこれからも続く学校では見えないものを教えない受け身 こうしていることの感謝今ここにあるのが不思議だナーあなたの役に立たない物があるとしたら使う能力がない時に流されるな 味方であれ 朝日が起こしてくれる時に感謝仕事に使われては駄目ですよ傍楽 サンスクリット語です役割に不満を持つと感謝がないここにいる事実で感謝なのです自分で改良しない限り改善はない周辺に敵なし、風、雨、綠、道具も私のために役立つように待っている□童話が時代の流れで変わった。浦島太郎http://www.asukanet.gr.jp/tobira/urashima/urashima.htmlむかしむかし,あるところに,浦島太郎という若い漁師が母と二人で暮らしていました。ある日,浦島太郎が浜を歩いていると,子供たちが亀をいじめているのを見ました。かわいそうに思い,逃がしてやるように子供たちに言いましたが,いっこうにやめてはくれません。そこで,持っていたわずかばかりのお金を渡して亀を助けてやりました。この絵本にはなんと船に乗った浦島が絵が書かれていました小舟の船主は昔いなかった内容が時代的に変わっていきます早く起きろと言う親の躾を受けていた時代を反映しています小学校で子供を虐待していたあいつに負けるな悪いことばっかり言い続ける何で褒めない○ハラハラドキドキ音がして壊れたねX何しているのあなたたち貧乏人と思う人が貧乏人である今生かされている宝ものを6年生の子供に茶碗運びから洗いをまかしやってくれてありがとうと言うことが大事褒められる以外はものさしにならず□物語を聖書にたとえて浦島太郎は誰ですか。あなたですよこの亀は嫁、友達にたとえてみる嫁を助けられるか翌日亀が礼に来るほんとに信じている者に悪魔が来ない今日どう生きるかが大切である虫は偶然この部屋に入ったか虫が入るのは必然だったか
July 15, 2018
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□心の持ち方慈悲とか愛つまりどういう風に心が受け止めるかで幸福になるかわかる。いまの世の中こどもの考えのままに年を取った人が多い。教育に問題がある。乳児の育て方を見ても母親はいつもだめだめだめ・・・一番多いこどもへの言葉後で 嘘つくのが大事と思っている今度な 何時になっても実現しない乳児から保育園、学校へと子供を通わせているが行かなくても法律違反でない。真の教育を求めて自分で教えてもいい。休みは心身ともに休む日中光を浴びて仕事に励み寝る事が疲れなくなる不足すると不機嫌になる。これは病気の第一番目である制度が人間の自由や仕事を縛る学校でも入学して、比べられ、順番が付く文部科学省は答えを教えるところつまり教えないことにはわからないし、知っていることが全部正しいと思っている。このことがわかっている方は気をつけてください。今桜が満開です。重さなら100貫あるような感じです。全体どうして重みを把握出来ますか。幸せも同じですシリア1日75人殺されます。人類愛は教育によって生まれたので一人も夫婦愛につながらない宗教は先祖の思いが私の中に生きている。心が思うことを決める教育も決める。何が悪いか、損か得かは心が決める損して得取れとはうそですよ友達に頼むとカツ丼、後で1200円後でおごるから500円のラーメン食べさせて。これは誰が決めたか。出来なかったら恩知らず。自分で裁かれます。裁く心が自分に損を与えます。心が不幸を決める。桜の根を見なさい。大地の恵みを思いなさい。土の中は暖かくて楽しいな毎年桜が咲くね世の中は三日見ぬ間の桜かな意 味: 三日見ないうちに散ってしまう桜のように、世の中の移り変わりが激しいこと。 この根っこを見て人生を学べないか思いが結果するつまり根っこがやっているのは心の働きと同じ誰も認めない内容。桜は時期が来れば咲く。自然に包まれている。何で自然を征服できるの神が大地を作り人を作りなのに現世ではセメントの柱が新幹線を支えるそして自然破壊子育ては私です。先祖の心が生きてます。法律、学校の奴隷にいつなったら「今日の自分にご苦労様がいえるか」衣食住足りて礼節を知る心が満足しない 自分の中の先祖が満足しない人様用語で考え自分用語で考えてないため夢希望ビジョン上ばかり見ている平均寿命86歳。この肉体に喜びを与え根っこが土に帰り自然が喜ぶ□衣食住足りて礼節を知る衣 化繊は石油で出来ている黒板に点をつけるとおよそ3億個の原子がある。その中に電子があるが、その電子さえクォークをピンポン球にたとえると電子は月の大きさである。御経は死んだ人の為でなく、生きる人への教え衆教 大衆に本当のことを教えること(造語)問題は時間が解決する 女性の見方問題に白黒つける 男性の見方この世は嘘と女の誘惑出家とは出世間(社会)出世は偉くなることと考えられがちだが、本来欲を捨てること。白陰禅士悟りなば 坊主になるな魚食へ 地獄へ行って鬼に負けるな 世間の苦しみを経験しろ僧侶は麻、綿、絹しか着無かった化繊は静電気が付くのでアースして放電しないと駄目である医源病 医者が原因で病気をつくる絆 血のつながりが基本であった江戸時代は1部落平均150人。7から8所帯で構成する大家族。村八部のうち8部が助け合いとなる参考地域の生活における十の共同行為のうち、葬式の世話(死体を放置すると腐臭が漂う、また伝染病の原因となるため。また死ねば全てを許されると言う思想の現れとも)と火事の消火活動(延焼を防ぐため)という、放置すると他の人間に迷惑のかかる場合(二分)以外の一切の交流を絶つこと(残り八分は成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行)。ウィキペディア障子家の中は寒くとも、冬は着込めば過ごせるので夏の高温多湿対策に障子を使う家の中を一時的に遮るセメントの家 砂漠対策。寒さ対策の家生活保護は働けばお金に不自由することはない個室 小人環境を得て不義となす人に対する気遣いがない更に夜は部屋のチリやゴミが降りてきて呼吸で口から吸収する幼老一定 年取ったから死ぬことはない□衣食住から医飾従医 遺伝子組み換え食品は15から20年後に身体に影響を与える飾 優先順位が違う。夫が熱でうなされたら、まずは化粧して109番に通報する従 朝昼晩の自然のリズムに従うこと。天候に従うこと良寛和尚はこうおっしゃっています。 災難にあうときは 災難にあうがよろしく 死ぬ時節には 死ぬがよろしく候(そうろう) これはこれ災難を逃れる妙法にて候・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考 さからって無理をしない、風のごとく水のごとく生きた 良寛和尚のおっしゃりそうな味わいのある言葉です。 雨の降る 日は哀れなり 良寛坊 炊くだけは 風が持ち来る 落ち葉かな 自分を隠したり、飾ったりすることもなく、自然の恵みの なかで生かされていることをただ感謝して、風のごとく 水のごとく生き、嬉しいときは笑い、悲しいときは泣いて 生きた良寛和尚です。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・良寛辞世の句うらを見せ 表を見せて 散る紅葉 ボタンを押して言うことを聞くのは自然界にはないしかし普段使っている掃除機、洗濯機はボタン一つで言うことを聞くが、子供は無理ですよ。□居職十居 居場所を確保しなさい職 十 往生十楽のこと往生十楽とは大文第一 厭離穢土--地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人の六道を説く。大文第二 欣求浄土--極楽浄土に生れる十楽を説く。大文第三 極楽証拠--極楽往生の証拠を書く。大文第四 正修念仏--浄土往生の道を明らかにする。大文第五 助念方法--念仏修行の方法論。大文第六 別時念仏--臨終の念仏を説く。大文第七 念仏利益--念仏を唱えることによる功徳。大文第八 念仏証拠--念仏を唱えることによる善業。大文第九 往生諸行--念仏の包容性。大文第十 問答料簡--何よりも勝れているのが念仏であると説く。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・参考1厭離穢土 (おんりえど、えんりえど)とは、浄土教の用語。欣求浄土と対句で使われることが多いこの娑婆世界を「穢れた国土」(穢国)として、それを厭い離れるという意味であり、阿弥陀如来の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという意味。2『維摩経』には「その心浄きに随って、すなわち仏土浄し」といい、また『心地観経』には「心清浄なるが故に世界清浄なり、心雑穢(ぞうえ)なるが故に世界雑穢なり」とあるように、世間の清浄であることは心による。すなわち、国土の浄不浄はそこに住む人の心によって決定づけられる。そこで、真実の浄土は仏の住居する処であり、成仏せんがために精進する菩薩の国土である。この点で、浄土は仏土である。しかし浄土は仏土であるが仏土は必ず浄土ではない。仏の教化対象の世界も仏土であるから、凡夫の世界も仏国でありうる。よって、仏国とは仏の住まいし、また教化する世界のすべてをいうから、浄土は成仏を目標とする菩薩の世界である。このような浄土について種々に説かれる。それらの中でも阿弥陀仏の西方極楽浄土は有名だが、この外に阿?仏(あしゅくぶつ)の東方妙喜世界、薬師仏の東方浄瑠璃世界、釈迦牟尼仏の無勝荘厳国など知られている。その意味で、浄土という語は一般名詞であり、固有名詞ではない。浄土は何のためにあるのかといえば、仏自らが法楽を受用するためと共に、人々をその国に引接して化益をほどこし、さとりを開かせるためである。雑穢の世界は成仏への修行の妨げである。そこで、諸仏は修行が容易であるように、人々を浄土に引接して化益する。この意味で、浄土とは仏の自利・利他の二利満足の場である。3極楽証拠 大文第三に、極楽証拠を明かせば、二つある。一つには十方浄土に対する。二つには兜率天に対する。・極楽証拠―対十方初めに、十方浄土に対するとは。 問う。十方に浄土があるのに、どうして、ただ阿弥陀浄土だけに生まれようと願うのか。 答える。天台大師が云う。「多くの経典、論書は、ただひとえに阿弥陀仏を念じ、西方の極楽世界を求めさせてある。《無量寿経》・《観無量寿経》・《往生論》などの数十部の経典、論書の文に、教え示し、西方浄土に往生することを勧められている。こういうわけであるから、ひたすら西方を念ずるのである。」天台大師は、一切の経、論を、およそ十五回繰り返し読まれた。だからその述べられることは信じないわけにはいかないのである。迦才師(かざい)の《浄土論》三巻には、十二の経と七つの論を根本にしている。一つには無量寿経、二つには観無量寿経、三つには阿弥陀経、四つには鼓音声経(くおんじょうきょう)、五つには称揚諸仏功徳経(しょうようしょぶつくどくきょう)、六つには発覚浄心経(ほっかくじょうしんきょう)、七つには大集経(だいじっきょう)、八つには十往生経、九つには薬師経、十には般舟三昧経、十一には大阿弥陀経、十二には無量清浄平等覚経である。論では、一つには往生論、二つには起信論、三つには十住毘婆沙論、四つには一切経の中の弥陀偈、五つには宝性論、六つには龍樹の十二礼偈、七つには摂大乗論の弥陀偈である。更に、わたくしに加えていう。法華経 の薬王品、四十華厳経 の普賢願、目連所問経、三千仏名経、無字宝篋経(むじほうきょうきょう)、千手陀羅尼経、十一面経、不空羂索神変真言経、如意輪陀羅尼経、随求陀羅尼経、尊勝陀羅尼経、無垢浄光大陀羅尼経、光明真言、阿弥陀大呪など諸々の顕教や密教の中に、極楽を勧めることは、数えきれぬほどである。それゆえ、ひとえに西方浄土を願い求めるのである。 問う。釈迦如来、曰く。「仏たちの浄土には、実に差別がない。」と、仰せられる。それなのに、なぜ釈迦如来はひとえに西方浄土を讃えるのであるか。 答える。十方随願往生経に、仏がこの疑問を解いて仰せられる。「娑婆世界の人間は、貪りなどの心が多く、信に向かう者は少なく、邪法を習う者は多く、正法を信じない。真理へ一心になることができないから、心が乱れ、志がない。浄土に差別がないけれども、人々の心をひと筋に定めさせようとされるのである。それゆえ、かの浄土を讃嘆するのである。往生を願う人々は、すべてその願いのままに果を得ないものはない。」 また、《心地観経》に説かれている。「仏弟子たちよ、至心に一仏および一菩薩を見たいと求めるがよい。このようなことを、迷いの世を離れる教えと名づける。」と、ある。このゆえに、もっぱら一つの仏国のみを求めさせるのである。 問う。その心をひと筋じにさせるためというのなら、どうして、多くの浄土の中で、ただ阿弥陀浄土を勧めるのであるか。 答える。たとえ他の浄土を勧めても、やはりこの疑問は残るであろう。仏の想いは、測り知れない。ただ仰いで信ずべきである。たとえば、愚かな人が炎の穴に落ち、自分の力では出ることができない場合、善知識(善き導く人)が一つの方法でこれを救おうとすれば、愚かな人は、それに力を得て、努めてすみやかに、ここを出る。何の暇(ひま)をもって、あれこれと他の方法を議論することがあろうか。行者もこれと同じで、他の思いを起こしてはならぬ。目連所問経に説かれているとおりである。「たとえば、長い川に漂う流木が、前のものは後のものを見ず、後のものは前のものを見ず、すべて大海に流れ込むようなものである。世間もまたそのとおりで、地位高く、財産があり、また歓楽の自由自在なものでも生老病死を免れることはできない。どのようなものでも、仏教を信じなかったならば、後の世に人間と生まれても、さらに一層、悩み、苦しむ身となり、仏の国土に生まれることが得られない。それゆえ、我、説く。〈無量寿仏の国は往きやすいのに、人々はこれを行じず、往生することができない。反対に九十五種の邪道につかえている〉と。こういう人を、眼のない人、耳のない人と名づける。」《阿弥陀経》に説かれている。「我、この利益を知るゆえに、これを説く。もし信ずるものがあるならば、まさに、願いを発して、かの浄土に生まれる。」このように仏の教えはありがたい。ただ仰いで信ずるべきである。まして、阿弥陀仏とは縁がないわけでもない。なぜ、これを拒むことがあろうか。天台大師の《十疑論》にいうとおりである。「阿弥陀仏には、大慈悲の四十八願があり衆生を導きたまう。また、かの仏の光明は、遍く十方世界の念仏の衆生を照らし、摂め取って捨てることはない。十方にある諸々の仏は、妙なる舌をもってその響き、音声で三千世界を覆い、一切の衆生が、阿弥陀仏を念じ、仏の大悲の本願力に乗じて、極楽世界に生まれることを得るのである。」また《無量寿経》に仰せられる。「{末法の後、仏法が滅した時、この経を百年、世に留めて、人々を導き、かの国土に生れさせよう}と説かれてある。ゆえに、阿弥陀仏と、この世界の極悪の衆生とは、とりわけ因縁があることが知られる。」と、ある。 慈恩大師、曰く。「末法一万年には、ほかの経法はことごとく無く、阿弥陀仏の教えのみ、人々を利益する。時を経て末法一万年後には、すべての経は無くなるが、釈尊の御恩は重くて、この教えを留めてくれること百年なり。」 懐感禅師、曰く。「*般舟三昧経に説いてある。跋陀和菩薩(ばつだわぼさつ)が、釈迦牟尼仏にお願いして、{未来の衆生は、どのようにして十方の諸仏を見たてまつることができましょうか}と。そこで仏が、答える。{阿弥陀仏を念じたならば、十方一切の諸仏を見たてまつる。}と。阿弥陀仏は、とりわけ娑婆の衆生と縁があるので、まずこの仏を専心に称念すれば、この三昧が成就しやすいのである。」*般舟三昧(はんじゅざんまい)―常に仏が現前する。 また観音と勢至の二菩薩は、この娑婆世界で菩薩の行を修めて、かの極楽国に生まれたのである。過去からの因縁があるのだから、どうして阿弥陀仏の教えが我ら衆生に相応しくないといえるのか。 極楽証拠―対兜率(たいとそつ) 二つに、兜率天に対する、というのは、次のようである。 問う。玄奘三蔵が云う。「西方(インド)の出家者も在家者も、弥勒菩薩のおられる兜率天に生まれる行業を修めている。兜率天はこの世界と同じように欲界で、その行は成就し易いからである。大乗・小乗の諸師たちは、みな兜率天に往生することを認めている。阿弥陀仏の浄土は、おそらく汚れた凡夫では、行が成就し難いであろう。昔の経典、論書によれば、*七地以上の菩薩が、それぞれの程度に応じて阿弥陀仏の浄土を見るとある。新しい経、論によれば、*三地の菩薩が浄土を見ることができるとある。どうして、低い凡夫が、浄土に往生することができようか。」天竺(てんじく、インド)でさえも、すでにこのとおりである。今、どうして阿弥陀浄土を勧めるのか。*七地―菩薩が修行して得られる境地。七地は、全ての執着心を取り、その光で四 方を照らす。*三地―あらゆるものは無相、空(くう)であると観じ、大慈大悲の心を起す。 答える。どこの地であっても、顕教・密教の教えの道理は同じである。わたしが、今まで説いてきた証拠は、すでに多い。どうして仏教の明白な文に背いて、天竺の風潮(ふうちょう)に従うのか。まして、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の無常院には、病人を西方に向け、阿弥陀仏の浄土に往く想いを起こさせたというではないか。その詳細は、後の臨終の行儀のところに述べるとおりである。明らかに知るべきである。仏の想い、ひとえに極楽を勧めることにある。西域(インド地方)の諸々の人々も、どうしてこれに背くであろうか。また懐感禅師(えかんぜんじ)の《群疑論》(ぐんぎろん)には、極楽と兜率とについて、次のような十二の優劣を述べている。一つには、教えの主が仏であり、兜率天は菩薩である。二つには、浄土と穢土のちがい。三つには、女人の有る無し。四つには、寿命の長い短い。五つには、内院(弥勒ぼさつの住処)・外院(天人の住処)の有る無し。兜率天の内院は退かぬが外院は退くことがある。西方浄土には内、外がなく、すべて退くことはない。六つには、五衰の有る無し。(五衰―死ぬ前の相。天道を参照)七つには、相好(そうごう、仏の優れた姿)の有る無し。八つには、五神通の有る無し。九つには、不善心の起こる起こらない。十には、滅罪の多い少ない。たとえば、弥勒菩薩の名を称えると千二百劫の罪を除くが、阿弥陀仏の名を称えると八十億劫の罪を滅ぼす。十一には、苦を受けることの有る無し。十二には、生を受けるときの相違。兜率天では、男女の膝下や懐の中に生まれるが、西方浄土では、蓮華の内、宮殿の中に生まれるのである。兜率、西方の優劣は、このようであるけれども、ともに仏が勧め、讃えているのであるから、たがいに是非を論じ、非難しあってはならない。と、懐感禅師(えかんぜんじ)は述べている。慈恩大師は十の相違を立てている。前の八つは、懐感禅師が立てた説を出ていないから、繰り返して引用しない。その第九にいう。「西方浄土は、仏が行者の所に来迎(らいごう)したまうが、兜率天は、そうではない。」しかし、懐感禅師は「来迎は同じ」という。慈恩大師の第十にいう。「西方浄土については、経典、論書ともに、勧めるものが極めて多いけれども、兜率天については多くない。」 また、懐感禅師は、往生の難易について、十五の同じ意見と、八つの違う意見を述べている。その八つの違う意見は次のとおりである。「一つには、本願の異。阿弥陀仏には引接の願(いんじょうのがん、衆生を救い導く)があるけれども、弥勒菩薩にはそのような願はない。願のないのは、自分の力で泳いで水を渡るようであり、願のあるのは、舟に乗って水に遊ぶようである。二つには、光明の異。阿弥陀仏の光明は念仏の人々を照らし、摂め取り捨てることはないが、弥勒菩薩にはない。光に照らされるのは真昼の遊びのようであり、光のないのは闇夜の散歩に似ている。三つには、守護の異。数限りない仏の化身や観音、大勢至などの菩薩が、いつも行者の所に来ているのである。また《称讃浄土経》に、十方の無量の数ある諸仏が護ってくれる。と、あり、また《十往生経》に、仏は二十五菩薩をつかわせて、いつも行者を守護する。と、ある。が、兜率天では、それがない。守護があるのは、大勢の人と、ともに遊び、強盗が迫ってきても恐れないようなものである。守護がないのは、ただ一人で険しい道を旅して、乱暴者に犯されるのに似ている。四つには、*舒舌(じょぜつ)の異。十方の仏がたは舌をさしのべて真理の真実を証明しているけれども、兜率には、それがない。*舒舌―仏の妙なる舌は長く、真理を証明する。五つには、衆聖の異。華聚菩薩(けじゅぼさつ)、山海慧菩薩(さんかいえぼさつ)が広大な願を発して、{もし一人でも西方浄土に生まれることが済まぬうちに、我は、仏の悟りを取らない。}と述べられたことである。六つには、滅罪の多少。これは前にあげたとおりである。七つには、重い罪悪についての異。五逆罪を犯したものも西方浄土に往生することができるけれども、兜率についてはそうではない。八つには、経説の異。《無量寿経》に、{六道の悪処を断ち切り、悪処は自然に閉ざされ、仏道に進むこと、きわまりがない。浄土へは往生しやすいのに、往生する人は少ない}と、あるが、兜率については、そうではない。十五の同じ意見からいっても、浄土へは往生し難いと説くべきではない。まして、異の意見には八つもある。それでも、浄土へは往生し難いと説いていいのだろうか。諸々の仏道を学ぶ者よ。道理と教えを求め、どちらの道が易しいか、難しいかをよく見分け、その迷いを取り除くべきである。」と、ある。 問う。前の玄奘三蔵の伝える、三地以上の菩薩が往生というのは、どうなのか。 答える。西域(インド地方)の行法は、よくわからないが、今、試みに解釈を施してみよう。西域の行者は、小乗(自己を磨く)を学ぶ者が多い。伝えるところに依ると、「十五の地方は大乗(多くを救う)を学び、十五の地方は大乗と小乗とをあわせて学び、四十一の地方は小乗を学ぶ。」ということである。兜率天に往くことは、大乗も小乗も共にこれを認めるが、他の浄土に往生することは、大乗では認めても、小乗では認めない。兜率天は大乗も小乗も共に認めるので、兜率に生まれることを伝えているのではないか。砂漠(タクラマカン)から東の地方は、大乗仏教が盛んであり、西域の諸々の修行と同じにしてはならない。まして、多くの教えの興隆(こうりゅう)は、なにも一時代というわけではない。とりわけ、念仏の教えは、末法の時代、仏教がなくなった後でも、罪に穢れた衆生を多く利益するものである。考えてみると、玄奘三蔵の時代、西域ではまだ念仏の教えは盛んでなかったのであろうか。そうでなければ、玄奘三蔵の高弟である慈恩大師が、どうして特別に《西方要決》を著作し、十の優劣を立てて自他のために、阿弥陀浄土への往生を勧めるのか。 問う。《心地観経》に説かれている。「我、今、弟子を弥勒に託す。龍華会(りゅうげかい、弥勒菩薩の説法)において、解脱(悟り)を得る。」と、あり、この経から、釈迦如来は兜率天を勧めてるではないか。 答える。この経文があっても、相違することはない。誰とて《弥勒上生経》・《心地観経》などの二、三の経文を否定はしない。けれども、極楽を勧める文が、多くの経典にあることには及ばない。また、《大悲経》の第三巻に説かれている。「将来の末世に法がなくなろうとするとき、修行者がいて、仏の教えにより出家した者が、子供の手をひき、一緒に遊び、酒屋から酒屋へと行き、仏の教えに入りながらも、悪行をするであろう。ただ身分は沙門(出家修行者)となりながら沙門の行を汚し、しかも、自ら沙門と言い、姿、形は沙門のよそおいをして、身に袈裟(けさ、僧の服)を着るであろう。そういうものでも、弥勒に随い最後の盧遮那仏(るしゃなぶつ)に至り、それらの沙門たちは、次第に般涅槃(はつねはん、完全な悟り)に入り、一人も残るものはないであろう。なぜなら、このようなすべての沙門の中で、わずか一度でも仏名を称え、信じたその功徳は、虚しくなることはないからである。」と、ある。《心地観経》の意味も、この《大悲経》と同じことである。それゆえ、かの《心地観経》には、龍華会(りゅうげかい、弥勒菩薩の説法)とは言っても、兜率とは言わないのである。今、これを考えてみると、釈尊の入滅(この世から離れた)より弥勒菩薩の出世(この世に出る)まで、五十七億六千年も間隔がある。(新婆沙論による)その間、輪廻、迷いを続ける苦しみはどれほどであろうか。どうして臨終において、すぐさま蓮台に乗り往生することを願わないのか。なぜ、悠々と生死の世界に留まり、龍華会を待つことがあろうか。まして、阿弥陀浄土に生まれれば、昼夜、思いのままに兜率天の宮殿に往き、龍華会の際には、第一の聴衆となる。まさに、富貴になって故郷に帰るようなものである。誰かこのことを願わないものがあろうか。もし、別の因縁があるならば、西方以外の浄土を願うのもよかろう。各自の望みに従うべきである。誤った執着をおこしてはならぬ。ゆえに、懐感法師、曰く。「兜率を求める者は西方の行者を非難してはならぬ。西方浄土に往生しようと願う者は、兜率天に生まれる修行を悪くいってはならぬ。それぞれ自分の性分に随い、気持ちに任せて修学すべきである。お互いに是非を論じてはならない。そんなことでは、優れた世界に生まれないだけではなく、さらに三界にて、迷いの海に没し、廻ることになる。」と、ある。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
July 1, 2018
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