雨の日は音楽を

雨の日は音楽を

2023年01月14日
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カテゴリ: 歌曲
 筆者は、最初この曲を知った時にはこの様に思った。「若者はたぶん最後に手元に残った金を使って、宿に泊まっている。窓から外を眺めると何やら音楽が聞こえてくる。見ると辻音楽士が、雪の中素足でヨタヨタと動いている。もう金も尽きているようだし、投げ銭受けの皿も空になっている。嗚呼酷いものだ。若者はため息をつきつつ同情している」と。

 歌詞をよく読むと最初の行からちょっと不思議なのだ。

Drüben hinterm Dorfe/Steht ein Leiermann,  村外れの向こうに辻音楽士がいる

え?窓から見下ろしているのでは無いのか!「向こう」にいるのか!でも

Und sein kleiner Teller/Bleibt ihm immer leer  彼の小さな投げ銭受けの皿はずっと空だ

え?「向こう」に見える辻音楽士の手元の皿が空なのが見える?「向こうに」立つ辻音楽士が裸足で雪の中を歩いていると?

 どうも「どこかちぐはぐ」な歌詞では無いだろうかと思い始める筆者がいる。そもそも、若者にこの辻音楽士は本当に「見えて」いるのか?目玉が望遠レンズのように切り替えが利けば、この歌詞におかしなところは無いだろう。現実的に考えると、辻音楽士の靴が駄目になってしまったら、布を巻きつけるなど代わりになるものを見つける筈だ。凍傷の危険は理解しているのだから、裸足のままで歩き回るのは危険この上ない。

 筆者は、辻音楽士は若者にしか見えていないのではないかと思う。作詞したミュラーも多分北の戦地から、徒歩で南に旅したことが、「冬の旅」の創作動機だったのでは?とのことであるから、緯度から言って、北海道あたりの気温の中で、裸足になって、素手で楽器を演奏などできぬことくらいは分かっていたはずではないか。

 若者は雪景色の中で立つ辻音楽士に、自分を重ねている。だから視点が自由に移動できるのだろう。多分村も、辻音楽士も家々も、辻音楽士に唸る犬も実際の存在では無いのだろう。だから、この歌が終曲なのだ。ミュラー(シューベルトもかも)は、はっきりと若者の末路を暗示している。ロマン派の熱情の終曲点すなわち「死」。若者がこうなるのは、本人も理解していた筈である。冬の最中に、親方の紹介状も貰わずに出奔してしまえば、暖かい場所に到達する前に、餓死、凍死は、予感があったのだろう。前曲の「幻日」は、実際に起こり得たものだが、若者の心はすでに狂ってしまった。日が沈んで、暗闇の中で若者はふらふらと歩く。



Wunderlicher Alter,      おい、おかしな爺さん
Soll ich mit dir gehn?     一緒に行こうかな
Willst zu meinen Liedern   私の歌に合わせて
Deine Leier drehn?      そのハンドルを回してくれるかな?

 心の中の辻音楽士の「前」まで寄って行った若者には、もう引き換えす道は残っていない。以前から、この若者の運命を、狂気か死か?という議論があるのだが、筆者は明確に心が壊れての凍死と思っている。






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Last updated  2023年01月14日 22時04分43秒
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