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僕は、人類の乗り越えなければならないもっとも大きな課題はゆえなき差別だと考えてきました。思想史、宗教史の中で穢れが無数の差別を生じさせ、制度によって固定化してきたことは事実です。21世紀に入って根絶するどころかエスカレートの一途をたどっている戦争のもっとも熾烈なものは、一神教同志の差別に基づいています。この差別の原因となっているけがれ感こそが文化として植え付けられてきたものです。
一方、きのこはなぜおそれられ、また反対に蔑視されてきたのだろうか?。僕のきのこ文化の中心的課題はまさにこの問題にすべて含まれます。
文化人類学では、安定した秩序を撹乱するような新しい要素、バランスのとれたシステムの中に入ってきた異分子を危険な要素として、それをケガレとみなして排除していく事例をさまざまに取り上げてきました。沖浦和光さんは「どっちつかずで分類できないもの」「中心から外れた周辺にあるもの」もこうしたケガレとして組み込まれてきたと言っています。
たとえば古代、王化の及ばぬ辺境の人たちを「化外の民」として賤視してきましたが、この差別もケガレから解明できると。かっての蝦夷、現在のアイヌたちのことは戦前までは土人と呼んで何のはばかりも感じなかったのが僕たちなのです。「土人法」なんて法律まであったのですから驚きです。
僕が亡父から継承してきた毎年4月29日昭和の日に神戸市護国神社で斉行されます大戦殉難北方異民族慰霊祭は、悲惨な戦争を二度と繰り返さぬための集いであると同時に、そうした僕たちの心に巣くう「異」に対するささやかな差異・偏見をみつめるひとときだと思っています。
また神社の禁忌では「五体不具」もケガレの中に入れていますが、障害者差別の問題もケガレに端を発しているとみています。皮膚の色の違い、生まれ育った文化体系の異なる外国人にたいする差別も同様です。
この差別はやがてインド、中国では制度として固定化され法律に組み込まれていきました。わが国でももちろん律令の中で貴・良・賤として制度化されていきます。
きのこのことを僕は仏教思想の中での女性蔑視の言葉「三界に家なし」を援用して菌類の造胞子器官でしかないきのこのことをきのこ屋さん自体が誤ってとらえているとして動物でも植物でも、ましてや菌類そのものでもないきのこは「三界に家なき生物です」と言ってきましたが、この永遠の異邦性こそがきのこを他生物から区別し、それがまれにしか出会わないことからやがてそれぞれの意識の中で差別となっていきました。
きのこの先生をはじめた最初の頃、「食べられる?食べられない!!」には躍起になる親子が、毒と聞くとよく確かめもせずにまるでけがらわしいものにでも触ったかのようにポイ棄てにしていました。それが面白くて僕は「きのこを食べるなんて信じられない。マツタケでも古いのは毒でっせ」と言うと、てきめん両手一杯に抱えてやってきた妙齢のご婦人やその子供たちは取り返しのつかないことをしたといった様子で棄てていました。あげくの果てに「先生、こんなにきのこを触ってしまいましたが、身体に悪いことはないでしょうか」と聞く始末。いくら冗談好きといっても「いや、悪いですよ。いずれ死ぬでしょう」とは僕にもとても言えませんでした(人間はいずれ死ぬのですからまんざら嘘でもないのです)が、その取り乱しようが面白くてよく連発したものです。
それほど、きのこは馴染みのうすいいきものだったのですね。それもつい2~30年前のことです。きのこが可愛いなんて女の子たちが言い始めたのはつい最近になってのことです。この時、僕は差別というのはこうした些細なことから生じることを見続けてきました。
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