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飼い犬というのは、家のなかで誰が一番エライのか、つまり「家長」が誰なのかを理解しているそうです。もともと犬は、集団のヒエラルキーを察知できるのですね。日本社会における「空気を読む能力」というのも、平たくいえば、犬と同じように、集団のなかのヒエラルキーを察知する能力のことです。その集団のなかで、誰の立場や意見に従うべきかを、その瞬間ごとに判断している。そして、それになびいていくわけです。しかし、逆にいうと、「空気しか読めない人たち」というのは、そういう権力関係の中でしか行動しないために、合理性ではなく、つねにヒエラルキーだけに従って、あらゆる物事を判断・決定してしまいます。いわば行動原理が「犬並み」なのです。◇とりわけ「空気しか読まない組織」というのは、最悪です。組織自体に、合理的な判断がまったく機能しないのです。いくら組織のなかに合理的な判断のできる人材がいても、その判断は、つねに空気のなかで押し潰されてしまう。いまの日本の組織が軒なみ機能不全に陥っているのは、それが空気しか読めない集団で構成されていたからです。◇学校でも、職場でも、「協調性」「素直さ・従順さ・物分かりのよさ」「目上の人への敬意」「コミュニケーション能力」みたいな類の行動規範ばかりを重視しすぎた結果ですね。そんな人材ばかり育てていたら、社会が劣化するのは当たり前なのです。ちなみに本来の「コミュニケーション能力」というのは、異質な他者と意思疎通をはかる能力のことであって、同質的な集団の内部で空気を読む能力のことではありません。
2020.07.06
現在の日本社会に必要なのは、個々の国民がもっているはずのポテンシャルを、つまらない人間関係によって阻害しないための、技術的な仕組みづくりです。日本の社会において人間関係が個人に与えるストレスは異常です。いまや膨大な数の人々が、つまらない人間関係の負担を理由に、学校を辞めたり、職場を辞めたりしていますが、これはたんに「個人の我慢の問題」として済まされるレベルではなく、もはや国家の存亡にかかわる問題にまで膨れ上がっています。つまらない人間関係の雑事が足枷になり、社会全体が多くの人材をみすみす潰しているという現状。これが、いかに国家的な損失を招いているのか。いかに非効率な社会と経済を形作っているのか。それが、近い将来の、日本の国家の没落の行く末にも直結しています。◇かつては、身をもって「人間関係」や「上下関係」を学ばせることが、あたかも教育や指導の目標であるかのように考えられた時期もありました。しかし、これは実際には、悪しきヒエラルキーや非効率な慣習を正当化し、それを再生産することにしか繋がっていません。わざわざ学校や研修で、集団内での空気の読み方や、カースト内での振るまいかたを、生徒たちに教えているようなものです。それに適応できる人間だけが活躍するような社会は、はたして国が目指すべき理想の姿でしょうか?◇もはや忘年会だの社員旅行だのの是非を論じている場合ではありません。そんなものが、個人の能力を伸ばし、企業の業績を上げるとでも言えるでしょうか?いまだかつて、そんな実証的なデータがあったでしょうか?膨大な離職者を生んでいる深刻な現実に目を背け、旧世代的な権威主義や、無根拠な経験主義を守るために、つまらない前例と慣例に執着するほど、日本の企業組織は救いがたく愚かなのでしょうか?いまだに「飲みにケーション」などという言葉を口にするオヤジもいますが、酒の呑める人間が呑めない人間に対して優位に立つという、体育会的なヒエラルキーを形作るための俗悪な慣行にすぎません。「権力をもった上位者におもねるのが仕事である」という発想を、日本社会全体が早く棄てるべきです。本来、仕事とは、そういうものではありません。◇多くの人々が、くだらない人間関係に順応するためだけに、多くの労力や神経をすり減らしています。この、きわめて非効率な生活環境や労働環境を、もういいかげん改めなくてはなりません。国家や社会のために必要なはずの能力が、無知蒙昧や、偏狭な観念や、無意味な慣習など、くだらない理由のために消耗し、むやみに精神と身体を疲弊させ、本来のエネルギーを意味もなく使い果たしています。そして、そのことが、社会全体の発展を国家レベルで妨げています。特有の人間関係が完全に足枷になってしまっている日本。なんらかの技術的な工夫と努力によって、もはや人間関係が障害にならないような生活環境と労働環境を、あらたに作り出していかなくてはなりません。
2019.12.13
パワハラの土壌となっているのは、いわゆる縦の社会や縦の組織です。縦社会や縦組織は、旧世代から新世代へと伝統を受け継ぎ、上から下へと旧技法を継承するには有益ですが、旧態にとらわれず変革を押し進めるためには、むしろ有害です。しかも、それはまったく民主的なシステムとはいえず、むしろ、すべての階層が抑圧される仕組みだといってさえ過言ではありません。いわゆる上意下達による縦組織の命令系統が、合理的かつ倫理的な結果を生むのかも大いに疑問があります。ときには不正行為や隠蔽行為までもが、上意下達によって無批判に遂行されてしまう場合があるからです。平成の30年間において、こうした縦社会や縦組織の弊害がいわれつづけましたが、それにもかかわらず、なぜかいまだに日本社会の末端では、この縦の抑圧に耐えるほうが「普通」であるという盲目的な信念が、根強く生き続けています。◇習慣や伝統にとらわれず、あらたな合理性を見出して変革を進めるためには、縦の組織よりも、横に連携する組織のほうが、はるかに有益です。しかし、日本の社会は、同輩どうしを互いに競争させて差別化させることは好んでも、なぜか横につながる組織へと連携させることを好まない。(その傾向は学校の教育現場にさえ見られます)なぜなら、そこには旧世代の恐怖が介在するからです。保守的な日本人ほど新世代の変革を恐れるのです。とりわけ体育会的で、経験主義的な傾向の強い層ほど、下の世代による変革を警戒します。若い世代から追い越されて取り残される恐怖。みずからの経験主義が否定されることの恐怖。従来の習慣を変えざるをえなくなることの恐怖。異質なものへの寛容さや知性が要求されることの恐怖。伝統が消えていくことに対する漠たる不安。そうした恐怖と不安が、社会における変革のポテンシャルを抑圧し、従来的な縦の組織を心理的に支えつづけます。◇とりわけ体育会的な組織では、たいした歴史もなく、およそ合理性があるとも思えないようなくだらない習慣を、いかにも「伝統だ」などと称して次世代へ強要する馬鹿げた傾向がありますが、いうまでもなく、そうした類の「伝統」など百害あって一利もありません。縦組織のなかで盲目的に代々強化されていくような伝統は、たんなる惰性よりも、もっと有害だというべきです。こうした傾向を取り除かないかぎり、日本社会は永久に変わることができないでしょう。◇近代以降の日本が、こうした縦社会の呪縛から逃れられたのは、唯一、明治維新のときと、敗戦後のときだけです。つまり、伝統的な社会構造が壊滅的に崩れないかぎりは、日本人は、いつまでたっても縦の組織に縛られつづけ、けっして横に連携することを許されないのです。バブル以降の平成の期間は、本来、一刻も早い変革こそが必要でしたが、体育会的に強化された日本の縦組織は、形だけの無意味な「伝統」を保持するために、あらゆる末端の現場において変革の芽を潰してきました。平成の日本において十分なイノベーションが起きなかったのは、けっして優秀な人材がいなかったからではなく、組織への同調や慣習の護持のほうを優先させた日本の組織が、あらゆる側面において変革のポテンシャルを抑圧したからです。いまや60万超ともいわれる中高年の引きこもり層は、この時代に日本社会が潰してきた人材の巨大さを物語っていますが、それすらも氷山の一角にすぎません。結果として生き残ったのは、伝統的な縦組織に順応することで淘汰された層だけになっています。同調性やパワハラ的な姿勢によって生き残った層は、たしかにミクロな領域でなら勝てるかもしれません。しかし、そのような層からなる組織は、変革とイノベーションを必要とするマクロな領域では、けっして勝利することも、生き残ることもできない。事実、平成の30年間は、結果として国家的な敗北をもたらしました。◇しかし、中高年世代が空白になっていく今こそ、若い世代が横に連携した組織へシフトする千載一遇のチャンスです。いまこそ、明治維新や敗戦後の時代のように、縦の伝統や習慣にとらわれることのない「合理性の追求」が必要です。そして、そのためには、縦組織に順応して無意味な慣習や伝統を強要しようとする、執拗なパワハラ層の残滓を除去していかなければならないでしょうし、この際、そうしたパワハラ層や縦組織を二度と再生産しないための、基礎的なシステムの構築も必要なのだろうと思います。
2019.04.13
人間の体質は、大きく「放散型」と「温存型」に分けることができます。つまり、自分の体熱を外へ発散せずにいられないタイプの人と、体熱をなるべく消費せずに内部に留めようとするタイプの人です。たとえば、前者は下痢になりやすく、後者は便秘になりやすい。性格的にいうと、前者は、外交的で、活動的で、よく喋る。後者は、内向的で無口ということになります。もちろん、これは、あくまで体質上の問題であって、心掛けの問題でもなければ、倫理の問題でもない。体熱バランスを保とうとするホメオスタシスやエコノミーの問題です。ところが、「放散型」の人間は、しばしば「温存型」の人間を倫理的に責め立てます。「怠けている」だの、「バイタリティが足りない」だのと否定的な言葉を浴びせるのですね。それによって「放散型」の人間は、自己肯定感を得ようとする。パワハラの要因というのは、意外にそんなところにあります。◇むしろ、倫理的に問題なのは、「放散型」の人間にしばしば見受けられる自己中心的な言動のほうです。彼らは「温存型」の人間にしたいして、「パワーがない」だの「覇気がない」だの、「出し惜しみしている」だの「体調管理がなってない」だのと言います。そして、あたかも自分の性質が倫理的に正当であるかのように考える。なかには、自分の食生活や、趣味の生活や、睡眠の習慣までもが、だれにも増して模範的であるかのように言いふらします。そして、自分の活動的なキャラクターが、自分の心掛けと体調管理の賜物であるかのように自己肯定するのです。◇じつは「放散型」の人間の行動には、自分の行動の後始末を他人に押しつけるという特徴があります。浅はかな自分の判断で生じた問題の後処理を他人に押しつける。やりっぱなしで、その責任を自分で取ろうとしない。そういうことを平気でやるのも「放散型」の人間です。行動せずにいられない反面、自省や内省を強いられる局面を反射的に避けようとするからです。さらに、衛生面でいえば、風邪を引いたときまで「外向性」を発揮して、ウィルスを撒き散らす。トイレを汚物だらけにしたあげく、他人に掃除させたりする。そういう側面も「放散型」の人間にはありがちなのですね。じつは、かなり迷惑な人間であるにもかかわらず、困ったことに、自制したり抑制したりすることを非常に嫌う。これが「放散型」人間の特徴。自分自身の倫理的な問題をけっして認めようとしないのです。◇こういう人間の体質は、技術的なスクリーニングで判別することが可能です。かりに組織の上位にこのような人間がいると、下位の人間は抑圧され、非常にストレスフルな状況が生まれます。「放散型」の人間は、たしかに個人としては成果を挙げているように見えるし、彼らを働かせれば、短期的な利益があがるようにも思えます。しかし、その反面で彼らの存在は縦社会の抑圧的な構造を強め、じつは組織全体が革新する力やクリエイティビティを妨げます。そのような組織では、従来的な習慣を "変えようとしない人間" ばかりが適応して、時代遅れの習慣や悪弊を "変えようとする人間" は、ひたすら疲弊してしまう。平成という時代は、まさにそうやって社会のポテンシャルを抑圧しつづけた30年間でした。
2019.03.12
父親に殺された小学4年生の女の子は、事件当日、家から逃げ出そうとしたところを、父親に連れ戻されたのだと報道されています。◇日本には「ホンネ」と「タテマエ」がありますが、虐待やハラスメントを行う人間は、「タテマエ」の部分ではそういうことをせず、つねに人目につかない部分で暴力的にふるまいます。それは家庭や職場など、自分よりも弱い立場の人間しかいないような"密室的な空間"です。彼らは、自分の行為が公に晒されることを非常に恐れます。まさに、加害者の父親は、自分の家庭内の暴力を外に知られないように、娘を家の中に連れ戻し、結果、殺してしまったといえます。おそらく彼は、自分の行為を「教育」であり「しつけ」だと弁解するでしょうが、これもまさに、虐待やハラスメントを行う人間に典型的な理屈です。職場でパワハラを行う人間の場合も、例外なく、自分の行為を「指導」であり「教育」だと言うのですから。◇虐待やハラスメントを行う人間というのは、「強い者が弱い者を指導すべきである」という価値観の中に生きています。彼ら自身が、そういう価値観のなかで育ってきたために、それと同じ価値観を次世代に引き継ぐのが当然と考えています。したがって、彼らは、成長するにつれ、自分よりも弱い人間を目ざとく見つけ、そうした弱い人々に支配的にふるまうことで、あたかも自分が一人前になったかのごとく錯覚します。彼らが社会や職場で成果をあげるのも、まさに弱い立場の人々を従わせ、ときには責任を押し付け、さらにはフラストレーションの捌け口にすることによって、自分の目的を実現しているからです。本来、人間の能力や経験値というのは、「強い弱い」とは無関係なはずですが、彼らにとっては「弱い者が強い者を指導する」などありえない話で、「強弱」こそが人間の優劣を決定づけているのです。ある意味で、彼らは非常に野蛮な価値観の中で生きていると言えます。◇虐待やハラスメントを行う人間にとって、暴力の実態が外部に知られることは致命的な打撃です。弱者への支配のうえに成り立っている彼らの人生は、虐待やハラスメントが封じられた瞬間に成り立たなくなる。極端にいえば、虐待やハラスメントの許されない空間では、彼らは、生きることすらできなくなってしまうのです。
2019.02.09
「新潮45」の問題が取り沙汰されていますが、そこから明らかになってきたのは、「WiLL」「Hanada」「新潮45」などのネトウヨ系雑誌が、おもに中高年層に支持されているのだという事実です。バブル期における「勝者の論理」を価値原則として維持しつづけるために、弱者や同性愛者、中韓や北朝鮮、野党や左翼などの「他者」の論理を排し、自己批判なく「勝ちっぱなし」の人生を無葛藤にやりすごそうと考える人々。彼らが「自慰」と「排斥」のデマゴーグに飛びついている。◇もちろん、これがイデオロギーの次元にとどまるなら問題ありませんし、彼らが、どんな本を読んで、どんな考えをもとうが、個人の自由です。しかし、こうしたバブル世代の価値観は、そのままハラスメントの行動原理をも裏付けている。そのことの実態を見逃すべきではありません。◇自己肯定感を維持するためになら、他人を威圧することをためらわないという姿勢や、真実の探求にも、他者との対話にも、反省的な思考にも興味を示さず、ひたすら「理解できないもの」や「気に入らないもの」を排除するために、暴力や暴言も抑制しないという短絡的な発想は、そのままハラスメントの行動原理に通じています。このたびの「新潮45」の記事では、彼らが歓喜するいわゆる「自慰史観」の行き着く先が、じつは痴漢擁護だったりセクハラ擁護だったするという哀れっぷりが示されました。つまり、その目指すところは、たんに自慰と暴力への衝動を、社会に承認させようとすることであり、そこに見受けられるのは、自慰と暴力への欲求を自制することのできない親爺どもの「甘え」です。このように、みずからを律することのできない人々に権力を与えてしまうこと、それこそがハラスメントの最大の原因となります。これからの社会は、あらゆる角度と方策から、こうした親爺どもの「甘え」を封じていかなければなりません。ハフポスト日本版:「痴漢は制御不可能」は間違い
2018.09.28
レスリング、アメフト、ボクシング、体操、大相撲…これらの問題に共通しているのは、「協会」や「連盟」といった組織が介在していること。そして、こういった組織の実態が極めて不透明であること。たとえば、大坂なおみとサーシャ・バイン氏の関係は、個人どうしの契約関係なので、きわめて明快です。能力のある者どうしが契約を交わして、戦いに勝てば賞金を得るでしょう。しかし、「協会」や「連盟」を牛耳っている人たちは、どのような理由でそのポストに就いた人なのか、部外者にはまったく不透明です。たとえば、塚原夫妻は、なぜ夫婦で体操界を牛耳っているのですか?ちゃんこ屋のおやじは、なぜ大学スポーツ界を牛耳っているのですか?ヤクザの友人は、なぜアマチュアボクシング界を牛耳っているのですか?森喜朗や竹田恆和は、なぜオリンピック組織委員会の頂点に座っているのですか?部外者にはさっぱり分かりません。一般の人間にはあずかり知らぬところで、いつのまにか、彼らはそういうポストについている。かりに、こうした仕事がボランティアだというなら、善意で尽力している人たちだと見なしてよいのかもしれません。しかし、実際には巨大なお金が動いています。つまり、スポーツ協会とは利権の絡む場所です。おそらくは、権力と密接に絡んだ複雑な関係のなかで、そうした人事が決められている。そうした力学によって構成された組織では、都合のいい人物だけが重用され、楯突く人間は排除される。そうなるのは目に見えています。つまり、組織の原理が、スポーツの才能や実績とは無関係な論理で出来ている。スポーツ界が、こうした組織によって支配されている限り、いま議論されているような問題は避けられない構造的なものであり、多かれ少なかれ、どのスポーツ組織にも、有形無形のパワハラだの利権問題だのが存在するのだろうと思います。ほんとうに健全なスポーツ界のありかたを目指すのならば、「公益財団法人」の名のもとに利権団体と化したこれらの組織を、いちどすべて解体し、根底から、透明な人事と透明な予算管理の仕組みを作りなおしていくほかないと思います。
2018.09.25
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