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フェイスブックでお友達の方の投稿に、『「雪掘り白菜キムチ」です。野菜は、雪に埋もれると自らの凍結を防ぐため、「でんぷん」を「糖」に変えて自衛します。現地で食べて「すごく甘い」白菜にびっくりです。』 というお話を拝読させていただきました。 なるほど、私はソムリエのお仕事にも携わっていることもあり、発想は極甘口ワイン、「アイスワイン」へと跳びます。 アイスワインは非常に甘美なワインです。葡萄の実をずっと摘まずに冬を迎えると、水分が凍結して搾った液体が非常に濃厚になり「貴腐ワイン」に負けるとも劣らない極甘口ワインになるという。 アイスワインは、カナダやドイツ産のものが有名です。やはり北の地域の特産なのでしょう。お値段も貴腐ワインほど行かないまでも、結構いいお値段です。 このアイスワインが造られる過程において、何年か前まで、私もメカニズムを誤って理解していました。 アイスワインの名のごとく、凍った葡萄の実を搾るのですが、その時に水分が凍っているので、固体化した氷が窄汁したジュースの中に入らないからだと思っていました。 実は違うんですね。葡萄の実に限らず植物は、先の投稿にあったように自らの自衛の為に水分を吐き出し、代わりに凍らない糖分で代用する術を身に付けているのです。 「水」は生命の源でありながら、また厄介な代物でもあります。 水は具体的には4℃が最も体積の小さい状態です。温度がどんどん上ると最終的には沸騰し湯気になって、爆発的に体積は増えます。 温度が低くなっても体積が増えますので、氷は水よりも大きいのです。 自らが凍りそうになるのを察知すると、葡萄は体内の水を外へ吐き出します。人間で言う汗をかいたイメージでしょうか。 細胞の中に水を蓄えたままにしておくと、破裂して細胞の膜を破ってしまうかも知れない。 子供の頃に遠足に持って行こうとした、お茶を凍らせていたら蓋が飛んでた、という経験をお持ちではないでしょうか。 糖分は凍りにくいのです。ウォッカをマイナス20℃の冷凍庫に保管している様子は、あちこちのバーやレストランで見かけます。 糖から二酸化炭素を取り除いた分子構造の、アルコールは融点がかなり低いのです。糖も同じく自然界の寒さでは凍りませんので、葡萄はいわゆる体液を「水分」から「糖分」代謝して、自らが凍結することを自衛しているのです。 アイスワインについてお話してきましたので、植物の智恵だと思われるかもしれませんが、実は人間もこの防衛機能が働くときがあります。 それが、「糖尿病」だという研究が進んできました。 人類が生まれてから、何万年、何十万年という時が流れていますが、その間に「氷河期」というのが訪れています。 氷河期を生き延びる上で、人類が獲得した体質が、血液の水分を減らし、替わって糖分を用いること。 血液中に糖分が増えることによって、様々に弊害はあったはずです、しかし種の存続が第一義の当時の人類においてはやむにやまれぬ手段であったのかも知れません。 氷河期という特殊な非常事態に獲得した体の機構ですので、平穏な現代に至る何千年か、何万年かの間にも、私たちの体はこのメカニズムを手放しませんでした。 そのため、糖尿病と言う病気は厄介です。体がせっかく取り込んだ糖分という物質を外に排出する機能が体には備わっていないのです。 それで、外部からインシュリンでコントロールするしか方法はありません。つづく、、、
Jan 31, 2014
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E=mc2 相対性理論の公式です。大変難解な相対性理論ではありますが、公式はいたってシンプル。正に「美しい」式であるともいえます。 アインシュタインは特殊相対性理論発表において、式の美しさに大変なこだわりを見せたといわれています。「自然界のものは美しく、また自然の中から見出されたものもまた美しくあらねばならない。」との自身の哲学があったそうです。 美味しい料理が、「美しいもの」であらねばならないというのは、アインシュタイン同様のこだわりでしょうか。バランス良く味を調えてこそ、美しい味は発揮できるというものです。 ことフランス料理においては学問的に、美味しさを探求しようとします。フランス料理というよりも、それは連綿と続くヨーロッパの文化、つまりそれこそ紀元前に発祥のギリシャ哲学に端を発する、かような風潮であったのかも知れません。 人間が感じる「味」は、現代では5つに分類され、・甘味・塩味・酸味・苦味、そして近年日本由来で味のひとつとして数えられるようになった・旨味です。 料理を食するにあたって、人は例えば箸で掴んだ時の指先の感覚や、グラスを口元に持ってきたときの柔らかな薫りなども総合的に感じ取って楽しんでいるのですが、舌の上で捉えられる感覚だけに限っていうと、この5つの味をバランス良く整えられた食材が、美味しい料理として評価をされることになります。 私はソムリエでもありますので、ワインを評価するときにはこの「五味」を掴まえるようにしています。 白ワインなら、甘味と酸味、シャンパンのプレステージには旨味が感じられます。赤ワインには「渋味」が感じられますが、渋味は味覚ではなく、体をつねったら痛いと感じる「刺激」なのですね。意外ですが。 それぞれの味覚バランスを保ったものが美味しいと感じるはずです。これがロジックですが、最終的に「美味しい」か「美味しくない」かの基準は自分に内在されていて、「もう一口、口にしたいかどうか。」を判断の材料にしるというのが本当のところでしょうか。 この生物学的にも検証された「五味」なのですが、私はもうひとつの味、「無味」というのも提唱しても良いのではないかと勝手に想像を巡らしています。 無味、つまり真水を「無味無臭」というように、また自らの体液、つまり唾液を意識しながら食事をすることは普通ありえないですが、食事の味のバランスを大きく左右するものだと感じています。 ワインの成分も7~8割がたは「水」です。100万円のロマネ・コンティのうち70~80万円は水にお金を払っていることになります。…とはならないでしょうが。 ロマネ・コンティでは例として想像しがたいので、いきなり身近なもので、「カルピス」という飲料なら親しみやすいでしょう。 カルピス、裏ラベルの作り方には「5倍にうすめてお召し上がり下さい」との記載があります。希釈濃度が20.0%の前後がバランスの取れるストライクゾーンですよ、という意味ですね。 確かに薄くても濃くても、カルピスの成分は変わらない訳ですが、濃すぎても美味しくないし、薄すぎ場合には、ケチケチ作ったした自分を一瞬恨みたくなるときもあります。 優れた料理人の方は、この針の穴に糸を通すような、1%のストライクゾーンを通すことに長けています。1%というと非常に些細かと想われるかもしれませんが、例えばコーラやジンジャーエールなどの清涼飲料水1ccを真水に溶かして飲んでみたら、結構知覚できます。清涼飲料水を飲み干したグラスに水を入れて飲んだら、「あ、このグラス洗ってないや。」と感じることができるでしょう。 同様に、人は「美味しい」「美味しくない」という判断の要素に自分の経験や体の変化があることを意識していません。 味の「うまい」「まずい」がここにあるため、主観的になるのは当然なのです。「うまそぅ~、よだれがでる。」 体が唾液を多く分泌する状態になるのは、目の前にした料理が既知のものであり、その味を過去に経験したことがあるからです。 松茸の香りは、多くの日本人にとって、秋を感じさせる「おいしそう」な香りですが、北欧に生育する同じ種類のキノコは「靴下キノコ」と不名誉な呼ばれ方をされ、あまり良い香りとしては捉えられていないそうです。 レストランにおいて、カウンターとは目の前のお客様に「最も合ったバランス」で料理を提供できる空間です。 かのジョエル・ロビュションが日本の寿司店のカウンターを見て感銘を受けたのも、世界のトップになってもなお、食に対するあくなき探究心がもたらしたことは疑いようがありません。つづく、、、
Jan 29, 2014
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さて、いきなり本題に入りますが、「美味しい」とはいったい何なんでしょうか? 普段の食事でも、特別な日のディナーでも人々は「美味しい」「まずい」と判断しながら食事を摂っています。明らかに人類が文明的な生活を営んでいることは、動物と違って、食べることに栄養補給と身体を成長させること以外の意味を見出しているからです。 動物と違う、というのは語弊があるかもしれません。哺乳類も鳥類も、美味しいものと、美味しくないものを本能的に嗅ぎ取っているのでしょう。基本的に「まずい」と脳が判断するものは、きっと身体にとって摂取してはいけないものであり、美味しいものは、美味しいと感じる感覚というのはきっと、ドーパミンのように脳が刺激されて産み出される快楽物資みたいなものでしょうから、脳、というより遺伝子が「もっととれ、もっと欲しくなぁれ。」と信号を送っているようなものだと考えられます。 動物が食物を摂取する上で、もっと「欲しくなるよう」に仕向けられるもの、それは乱暴に言えばエネルギー価の高いものです。例えば、脂肪と糖分でしょうか。サシのたっぷり入った牛フィレやフォアグラ、m&mのチョコレートetc。ダイエットの敵の代名詞になるくらい止められない魅力がそこにあります。 「美味しい」。「おいしい」に最初にこの字を使った人は、天才じゃないかと思います。「美しい」「味」とは秀逸な表現で、何でもかんでも口に放り込めば味はするわけですが、「美しく」無ければ「おいしい」とは評価されないのです。美しいといえば、美の女神「ミロのビーナス」などはその代表でしょうか。建築物ならギザのピラミッド。大変身近な例を挙げると、私たちが普段使っているA4サイズのコピー用紙も安定感があって「美しい」 黄金比、白銀比といわれるものです。黄金比は5:8の比率。ミロのビーナスの胴体は肩の幅に対して胴の長さが5:8で美しさを保っています。A4サイズの用紙は1:√2の比率になっていて、コレも人間が普遍的に感じる美しさであるというのが「黄金」「白銀」の名の由来でしょう。 結論から言えば、要は「バランス」です。 「美味しい」とはつまり「美しい味」。美しいとは「バランス」が良い、ということに他なりません。 よく出来た塩があったとしても、脂の乗った高級黒毛和牛の切り身があったとしても、何にも手を加えていないものを料理とは呼びません。塩だけなめて満足したり、生肉をかじるような事はしませんし、何も手を加えていないものを「料理」とは呼ばないからです。 原材料を「美しく」仕上げてこそ、「美味しく」なります。美しくするにはバランスを整える、料理人が経験と智恵を活かすからこそ「美味しい」という評価が生まれてくるのでしょう。 バランスの良い美しさも様々ではあります。チャーミングな美しさもあれば、ダイナミックな美しさもあります。いずれにおいてもバランスが取れていなければ美しいとは感じ得ないものです。 写真は高台寺 極-KIWAMI-を擁する「AKAGANE RESORT]です。大正14年、遡ること98年前に完成した建物も大変美しく感じます。 この美しさは黄金比か、白銀比か、はたまたアカガネだけに赤銅比か、、、 この空間の中で供される時間が美しい時間でありますように、私たちは日々心を砕いています。 続く。。。高台寺 極-KIWAMI-京都府京都市東山区下河原通高台寺塔之前上る金園町400番1 AKAGANE REAORT 内075-551-3122
Jan 26, 2014
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京都の道を歩いてみると、観光都市といわれるだけあって国内でも様々に他の都市との違いを感じられることがあります。 ひとつがローソンやマクドナルドの看板や、本来のCIカラーを抑えた配色。ブルーやレッドの派手な色使いは極力抑えられ、また抑えるように規制もあるようです。 ところが本来、日本の色使いは大変ヴィヴィッドなものでした。最近のニュースで、宇治の平等院鳳凰堂が現在大改修中で、この機会に柱は原色の朱色に塗りなおし、瓦を黒色に、さらに屋根上の鳳凰には金箔を施す計画が持ち上がっているのだとか。 有識者の間でも賛否両論あるようですが、私は「元の」極彩色に戻すという計画には賛成でロマンを感じます。1000年先の日本人が、「随分色あせたなぁ」などと平等院を眺める姿を想像することも、悠久を重んじる日本人の姿勢では無いかと思うのです。 私の尊敬する方の一人に、大覚寺嵯峨御流のお華の先生がいます。 先生から伺った話の中で、「日本の華道の色使いのほうが、西洋のフラワーアレンジメントより派手だ。」ということです。 先生がパリに赴いた折に気付かれたのですが、日本にパステルカラーという彩色は無く、パリのフラワーアレンジメントに色を飛び散らせるような花の配色を行う技法は無かったのです。何故か?「それはね、瞳の色が違うからよ。ヨーロッパの人たちが持つ青い瞳と、私たちの黒い瞳では見えているものが違うからよ。」なるほどです。パリは北緯48度、京都は北緯34度。気温の寒暖だけの差がよく話題になりますが、溢れる光の多さが全く違うのです。 世界に文明が起こる何万年も前から、その土地の風土に合わせて進化し、獲得したそれぞれの瞳の色です。 古都京都においては、緑の屋根に赤い柱を持つ平安神宮しかり、八坂神社の西門しかり、また、写真は濃い緑に囲まれた大徳寺金毛閣。いずれも光の強い青空に挑むように彩色された「古き日本」を代表する建築物です。 先日、京都にも雪が降りました。 AKAGANE RESORTも雪に覆われる朝がありました。 雪の中の椿は、春の陽光の薔薇より赤いことに気付かされます。 食に携わる私たちにとって、さらにフランス料理というヨーロッパの文化に携わる私たちにとっては、この人間としての差異は瞳だけに関わらず、「舌」に関してもあるのではないかと、考え込んでしまいます。 高台寺 極-KIWAMI-では、コースの最初のオードヴル・ヴァリエをお重で供しています。なんとなく「和」を感じさせるからではありません。日本人の感性を持って、季節の食材を盛り込むのにイマジネーションが広がり、その感性こそが、「和」であるからです。 同じくの黒い瞳を持った近隣諸国の方々については、私も知識が不足しておりますが、ひとつだけ言えることは、 日本人は「黒」の中に彩=いろを見出すということではないでしょうか。 つづく、、、高台寺 極-KIWAMI-京都府京都市東山区下河原通高台寺塔之前上る金園町400番1 AKAGANE REAORT 内075-551-3122
Jan 23, 2014
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575、といえば、日本独特のリズムを持った詩、「俳句」であることは皆さんご存知の通りですね。 この「俳句」を名前に掲げたワインがイタリア・トスカーナで作られています。 生産者はカステッロ・ディ・アマ。トスカーナでも指折りの生産者であり、キャンティ・クラシコの名手。また、私自身ここで造られるメルロ100%の「ラッパリータ」はメルロ品種を用いた赤ワインの中では世界でも1位,2位の部類にはいるのでは無いかと感じています。 カベルネフラン25%-サンジョベーゼ50%-メルロ25%。ハイクのブレンド比率ですが、25-50-25のリズムが私たちの知る5-7-5のリズムと相通ずる部分でもあります。 オーナーでありまた醸造家でもあるマルコ・パレンティ氏曰く「自然の情景を季語に託し、短い言葉に想いを集約させる、日本に古くから伝わる“俳句”という表現に深く共感した。カステッロ・ディ・アマはテロワールを尊重し、その個性を1本のボトルで表現する。」ことにこの試みの想いが込められています。 また、このワインにはイタリア人であるマルコ・パレンティ氏が受け止めた「日本の感性」が散りばめられています。 裏ラベルには正に俳句が一句 ・朧夜を 葡萄の色に 酔いにけり そして表ラベルでは、のトレードマークの中世騎士の文様が左へずれています。(比較のために写真はカステッロ・ディ・アマのキャンティ・クラシコのボトルを共に配しています。ちなみにこのボトルにはマルコ・パレンティの直筆サインが入っています) 「美は乱調にあり」左右対称のシンメトリーを基本とするヨーロッパの美意識に対して、日本は中心線を取りません。床の間に華を生ける場合も、理由あって中心からは外す必要があり、そのことによっての美しさを表現しているのです。 私の在する高台寺 極-KIWAMI- にても提供させて頂いきました。現代風のスタイルで、シェフの料理とも非常に相性がよく、美味しく召し上がっていただけたかと思います。 日々いくつもの、世界中のレストランでワインが抜かれていますが、提供するソムリエの思い入れひとつで随分ワインの味は変わってきます。 中身は一緒なのだから、そんなことは無いだろう、と思われるかもしれませんが、同じ食材、同じ作業をしても最後はシェフの感性で料理が決まるように、測れることの無い「何らかの感性」で美味しくなったり、平凡になったりする。そこにワインを供する側の感性が織り成されるからです。 マルコ・パランティ氏は2011年に来日しています。当時、京都にも足を運び日本人の感性を貪欲に吸収しようとした様子は想像に難くないことです。 実その折にガラディナーの席を持っていただいたのが、私の前職の店、高台寺茶寮でした。朴訥に、そして陽気なお人柄に非常に好感を抱いたものです。 そんないきさつから、haikuを扱うようになり、また思いいれも深くなっていきます。 和の心を持ってフランス料理の技法を駆使する「高台寺 極-KIWAMI-」とトスカーナでのワインつくりの技術をもって、日本的な感性を表現する「haiku]それだけで外れることの無い、相性の良さを想像させます。本当かどうか、、、是非ご自身でお確かめいただければと存じます。皆様のお越しを心よりお待ちしております高台寺 極-KIWAMI-http://www.arkh.jp/restaurant/kiwami/
Jan 22, 2014
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料理の世界に携わって、今年で25年になりました。 25年のうち、ほとんどがフランス料理店での勤務です。専門学校を卒業して、料理人としての仕事が1年余り、その後ずっとサービス畑です。 約5年、日本料理のお店にお世話になっておりました。食事というものの、普通に毎日毎日行われている行為であっても、背景にある文化は様々な要素が絡み合って大きく相違を見せます。 まだまだ、私も若手と呼ばれていた1990年代の頃、誰しも想う事なのでしょうが、さて、フランス人ではない日本人が作るフランス料理とは、果たして「本物」なのだろうか、という自身への問いかけです。 近年になって、日本にミシュランがやってくると、幾人かの料理長は「フランス人に日本料理がわかるめぇ。」的な感覚で拒否感を露わにしました。同じ感覚が日本でフランス料理を懸命に拵える料理人に劣等感をもたらしていました。 ある日、一冊の本に出会いました。玉村豊男さんの「グルメの食法」という食に関わるエッセイ集です。 この中に、「日本料理とフランス料理では、食に対峙した時の感性がまるで違う。日本料理の良さとされるのは『意識の拡散』であり、フランス料理のそれは『意識の集中』であり求められるものが正反対に違うのだ。」と。 なるほど、当時20代の私にとっては、目からうろこでした。ビガンっ、と来る感じです。正に。 それぞれ高級といわれるレストランになればなるほど、その目的は顕著に現れます。 先ず空間。高級日本料亭では各お客様のグループそれぞれに個室が用意されます。フランス料理では、ダイニングはパブリックなスペースで、何十人もの人がその空間で共に食を愉しみます。 料亭の個室には、床の間があり、画や書の掛け軸が掛けられている。客人は料理もさることながら、目でも楽しませられます。 食器がさらに異なります。日本料理では、漆器あり土物あり、お酒を楽しむ猪口などは銘銘全く異なるデザイン、形状であったりします。 様々に趣向を凝らして気を散らしているのです。料理に強く意識が向かないように施す。これが「意識の拡散」です。 一方、フランス料理は現代でこそ変化をしておりますが、当時は真っ白な磁器の皿、料理によって大小の違いがある程度で変化を乏しくさせ、その分皿の上の料理に技法を凝らしていました。コースの組み立てもロジカルで、メインディッシュからデザートに向かうクライマックスの為に、オードブル、ポタージュは用意されるべき一皿でなければなりませんでした。 コースはその名の通り、美食への「道筋」です。しっかり食べた、という感覚をもたらせる為のにシェフはコースを組み立てることが、先ず、且つ最も重要な技術でした。 料理、一皿の上に「意識を集中」させることがフランス料理の使命でもあるのです。 極上の料理に対しての人々の評価の仕方の違いも大変興味深いです。 日本料理はとにかく、脂の乗った魚介類や、サシのたっぷり入った和牛を食した後でも、「あっさりしてて、美味しかった。」というのが最高の評価の言葉と思われています。 フランスでは、記憶に残る料理を使ってくれた、風味も濃くて抜群であったことを、「上あごが爆笑する」ほど美味しかったと表現するそうです。 食事に対する、「日本料理の意識の拡散」と「フランス料理の意識の集中」との文化・歴史の違いが、極上の食事に求めるものに差異が現れているのでしょう。 とは言え、21世紀を迎えてから15年経つ昨今、現代では情報が溢れる中、洋の東西を越えた食文化はボーダレス化しています。そもそも、ヌーヴェル・キュイジーヌの時代には、日本料理の技法が、随分とフランス料理に取り入れられました。器も、同じ形状の物ばかりでもなく、硝子だったり、錫などの鋳物であったりと。 高台寺 極 -KIWAMI- はその点において、「日本の拡散」と「フランスの集中」が共に楽しめるには相応しい空間です。足して2で割った、「和洋折衷」とは一線を画し、双方の「愉しみ」がふんだんに、贅沢に溢れています。 壁面一面を覆う京都西陣織。描かれた花鳥風月は、床の間の掛け軸を愛でるような、そんな風流さの表れです。和の文化、茶室と同じくの丸窓は、西洋における「構築の美学」では見られない「切り取りの美学」。カウンターからは窓の外、四季折々に姿を変える日本庭園が目を愉しませてくれることでしょう。 高台寺 極 -KIWAMI- 、「極めつき」の食文化がここにはあり、その名に究「極」の名を配した所以がここにはあります。
Jan 21, 2014
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昨日、久しぶりにブログに投稿いたしました。 実に5年ぶりでした。ホームページが残っていたのは奇跡でしょうか。 反響も大きかった模様です。フェイスブックにも反映されていますので、コメントもいただけましたし、ブログのアクセスログは99と、もうちょっとで100越えでしたね フェイスブックでの投稿ではなく、ブログであったのはやはり、お店の広告宣伝と論文的な意味合いが強かったからです。双方向ではなく、一方的に語る場合はフェイスブックでは失礼にあたるケースもままあるんではないかと。 ひとりごとみたいなもんですね。 “こころにうつる よしなしごとを、、、” ブログに徒然草と記した意図意味はそこでしょうか。 高台寺 極 -KIWAMI- は、「和の心」を持ってしてフランス料理の「技」を駆使した料理を提供しています。 和と洋と、遠いようでいて、しかし人間のやることですから相似する点もいろいろとありますね。それぞれの文化を知らずして、比較することも、相違を見つけることも難しいんじゃないかと思います。 私のお世話になった方に、京都大徳寺の和尚さまがいらっしゃいます。 機会があってお茶を教えていただいたのですが、非常に興味深いものでした。 「お茶」といっても茶道の作法だけではなく、背景にある文化や歴史などです。 大徳寺といえば「裏千家」「表千家」発祥の地。正に当時、千利休が居を構えたその場所でもあります。 大徳寺の山門は「金毛閣」。ここの上層に千利休の人形を置かれたばかりに、千利休は豊臣秀吉から切腹を命じられます。「おぬしの股の下を我らにくぐらせるのか」という理由です。 現代においては茶道人口はやはり女性が多いのでしょうが、そもそも茶道、茶道というものが確立される以前の戦国時代は武士の為のものであったそうです。 まず、茶道といえば第一に思い浮かぶ、あの小さな四畳半の部屋ですが、小さく、離れに設えたのは室内で刀を振り回すことが出来ないように、また不審者、今でいう忍者が忍び込みにくいという配慮です。 また、にじり口は武装解除のため。刀を一回置かないと入れないようにしているのです。 じゃあ、その空間で何をしていたかというと、他ならぬ“作戦会議”です。 時は戦国時代ですから、侘び寂びがというのはこの後の時代に生まれてきたものです。 だれそれを討つとか、ここでこう攻めてとか、、、 ここで登場するのが、「お茶」でした。お茶はカフェインを多く含み、作戦会議で疲れた頭をスッキリ覚醒させる効果があったからです。 わざわざと、濃い濃いお茶を煎れて、眠くなりそうになると飲んでまた事にあたる。 現代ではこの濃いお茶を「お濃茶(おこいちゃ)」その後、太平の世になってやや薄くなって登場したものが「おうす」です。 現代の「おうす」がお茶の一種としてさほど薄くないのは、お濃茶との比較だからです。 お茶を煎れる作法、茶道にはいろいろなしきたりがあります。私の推測ですが、袱紗をたたんだり伸ばしたりして見せるのは、武器を持っていない証拠として、茶碗を皆の見ている前で拭いたりするのは毒を盛っていないことを明らかにするためであったと思います。 何より、別室からお茶を点てて持ってこない、衆人環視の中で茶を煎れるという行為そのものが、不穏な行いをさせないためのものであったのでしょう。 ある事件をきっかけに、「茶」は有事の緊迫したしきたりから、芸術的に、そして様式美を重んじる「茶道」へと変化していきます。 その事件こそ「本能寺の変」信長の暗殺でした。本能寺で明智光秀に襲われた時、信長は多くの旧来の名品といわれた茶器を携えていました。 銘品と呼ばれた茶器は信長と共に灰になったのです。 昨日までの、トップであった過去の銘品が無くなったとなれば、日本で最高といわれるのが千利休となることに時間を要しませんでした。 意図したことか否かは、歴史上の事で不明ですが、正に、この筋書きが四畳半の小さな間で練られて事であったならば、、、 私もソムリエですから、ワインテイスティングや乾杯など、現代マナーと呼ばれる西洋の作法の中にも多くのこういった背景を見出してもいます。 ワインテイスティングの始まりは毒見であったとか、什器に銀器を用いるのはその昔、銀は毒素に反応するからだとか。 料理というのはそれぞれの時代背景を繋いで現代に至る文化です。 興味は尽きませんが、この続きはWebで、、、 じゃなくて、高台寺 極 -KIWAMI- で ようこそ、おこしやす
Jan 17, 2014
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ご無沙汰しております。。。 随分とブログの更新が滞っておりました。私、昨年より仕事を変わり、現在は京都東山「AKAGANE RESORT」にてお世話になっております。AKAGANE RESORTには現在3軒のレストランがあり、うちひとつがシェフズカウンターでお料理を提供しているのが、この高台寺 極 -KIWAMI- です。この「カウンター」、どうも日本独特の文化らしく、外国からのお客様には大変喜ばれます。もちろん、欧米にもバーカウンターやレストランのウェイティングバーは存在するのですが、眼の前で料理が完成するのを垣間見られ、本来厨房の中にいるはずのシェフとの会話を楽しみながら舌鼓を打つ。もう10年以上前の話になるでしょうか、当時フランス最高峰の料理人「かまどの前のボナパルト」と呼ばれた、ジョエル=ロビュションが来日した際に、銀座の寿司店「すきやばし次郎」に立ち寄りました。 ロビュションは、この店の料理に、また日本のカウンターというスタイルに大変感銘し、本人曰く衝撃的とさえ言われるほどの体験をしたそうです。 繰り広げられる鮮やかな包丁さばき、料理長との会話、香ばしい焼物の薫り、何よりも、眼の前のお客様との距離感によってフレシキブルに料理が変わっていく。ボリュームしかり、味付けしかり、、、 後にジョエル=ロビュションはカウンターのレストランを新たにオープンし、銀座の「すきやばし次郎」は東京ミシュランが発刊の際には、見事三ツ星を獲得されました。 京都、高台寺 極 -KIWAMI- はカウンター11席のみの空間です。 料理は洗練されたフランス料理の技法を基に、「日本の感性」を豊かに配した設え、そして京都ならではの「おもてなし」の心を持ってお客様をお迎えしています。和魂洋才、ここに極まれり。高台寺 極 -KIWAMI- 。ここには、五感をフルに活かして、食事を愉しむ時間が流れています。 お近くにお越しの際は是非お立ち寄り頂ければと存じます。
Jan 17, 2014
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