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今日は映画鑑賞の日(勝手に)でした(*´▽`*)ほんとは、お得なレディースデーか会員デーに行きたかったけど。え~っと、「のだめカンタービレ」を観てきました。音楽 好きですもう、何度も何度も鳥肌が立って、不覚にも涙してしまいました…(゚ーÅ)ストーリーは、まあお笑い要素もたっぷりだし、それなりの展開で面白かったけど、ストーリーで泣けたわけではなく、音楽で泣けました。言葉にしなくても、音楽って心に響くのね・・うん♪音楽っていいですね。私・・・楽器といったら、はるか昔にピアノをちょっと習っていたくらいで、ほとんどわからない。クラッシックも、全然詳しくない。これといって、特別なモノもない・・・でも、音楽は好きです♪歌うの好き♪演奏を聴くのも好き♪今日は、友達と一緒に行きました。中高時代の同級生です。一緒の声楽部に入っていた子なので、彼女も同じようなことを言ってました^_^;で、今度カラオケ行こうって話になって、彼女、夜はご主人がやっている寿司屋を手伝っていて、なかなか出られないから、昼間、子供が学校へ行ってる時にでも・・・ってことになり、近々、シラフでカラオケしてきます(笑)歌えるか~シラフで・・(^▽^;)って、歌っちゃうけど。私も、「カンタービレ(歌うように)」に生きていけたら、楽しいだろうなあ♪というわけで、後編も観に行くぞ~!公開は4月17日。かえでの誕生日です(^_^)vきっと、新しい生活にすったもんだしてる頃だろうから、また景気づけに「のだめ」を観るのかもしれない(笑)さてさて今日は、久々にかえでが寮へお泊まりです。明日のお昼は、消費生活委員会の新年会(あんまり気が進まない・・)明後日は、林檎の成人式♪ああ、あっという間に日が過ぎていく…(^_^;)
2010年01月08日
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リンクしているさくらんぼさんのブログで、少し前に紹介されていた本を、私も読んでいます^^↓ ガラクタ捨てれば自分が見える毎年、年末になると大掃除しなきゃ!と焦りだしても、なかなか思うように進まず、結局またどうせ散らかるし・・・とそのままになっていることがたくさんあります。5年前、母が急死した時に、慌ててその辺にあった物を押入れや物置に押し込んで、ずっとそのままになっているものもあります。それって、まったく今の生活には要らないものなんですよねヾ(;´▽`A``なので、使わない物や「いつか使えるかも?」と思って、とってある物は、思い切って捨てちゃうことにしました!(^^)!9月頃から少しずつやってはいたんですが、この本を読み始めてからは、一気にスピードが上がってきて、昨日はキッチンの要らないものをたくさん処分しました(o^-')bこの本の中で一番気になった部分は、「ガラクタ」を溜め込むと、身体や精神面にもかなり悪影響が出るという話です。2年前に心の病気になってから、やる気が出なくて集中力もなくなり、何をやっても長続きしなくなってしまいました・・・(パンやお菓子を作ることはできても、掃除片付けは苦手なのよね( p_q)エ-ン)一つのことを考え始めると、どんどん妄想が膨らんで、悪い方ばかりに考えてしまって、結局は一人芝居なんだけど、その妄想で苦しめられたり、泣いたり、イライラしたり。家の中も、心の中も、「ガラクタ」でいっぱいになっている私は、新しいものが入り込む隙間がなかったのです。悪い気を溜め込んでしまっていたんだと思います。いつも家の中の不要なものを片付けたい、でもやる気が起きない、面倒臭い。それができなくてイライラする。そういう悪循環で、どんどん悪い気が溜まっていったような気がします。9月に育成会のバザーがあり、不要品を出すために、階段の下のちょっとした物置スペースを整理したことがきっかけで、なんとなくやる気が出てきたんです。気になっていた階段の下を片付けたことで、すごく気持ちがスッキリしてきて、他のことに対するやる気に繋がっていったような感じでした。そうやって、忙しい中でも時間を見つけて、ちょっとずつ気になるところを整理しています。先日の林檎の部屋も、そんな流れの中で一気にやってしまいました。 ▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲来週には、庭と花壇の手入れもしたいと思っています。母は園芸も大好きで、とてもきれいに四季折々の花を咲かせていて、花壇は母の自慢でもありました。でもあれから5年・・・夏はジャングル、冬は砂漠と化し、無残な姿になってしまった庭や花壇を、やっと作りかえる気になったのです(父も花はわからず手をつけてないので^_^;)まずは細かい草取りと、土を耕して土壌消毒して、春にチューリップを咲かせたいな~と思って、今日は球根を買ってきましたo(^▽^)oここで宣言しておかないと、挫折しそうだしね( ´ ▽ ` )ノとにかくこの本は、まるでわたしのことを言ってるの?ってくらい、いろんなことを言い当てられているようでした( ̄_ ̄ i)このガラクタ整理をきっかけに、良い気が流れる家にしていけたらと思います~♪良い本を紹介してくださったさくらんぼさん、ありがとう(*´∇`*)
2007年11月02日
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夕食の時間って何時頃ですか~?お仕事の関係や、家族の帰宅時間に合わせると、毎日ぴったり同じ時間ってわけにはいかないですね。我が家の夕食の時間は、もうずっと前から午後6:00くらいです。それに間に合わせるために、毎日4時半か5時くらいから夕食の支度を始めるわけですよ。別に、それで普通に夕食を作って食べるんだから、まったく問題ないはずなんだけど、私の中で、なぜか夕食は午後6時!と決めちゃってるような部分があるんですね。何かの用事で支度を始めるのが遅れたり、調子が悪くてウダウダしていたりすると、夕食の支度をするのがすごく憂鬱になってしまって、そうすると6時に間に合わなくなるでしょ?それがすごく辛いの・・・(T_T)かえでが入所する前は、6時ごろになると「ごはんごはん」って言い出すから、早く支度しないといけなかったんだけど、今は誰も催促するわけでもないし、遅れたからって叱られるわけでもない。娘達の帰宅が遅くなることも多いので、返って夕食は遅い方が都合が良かったりもするんだけどね。でも、私の脳に「夕食は午後6時」って強力にインプットされちゃってて、どうやっても削除できないし、どうやっても修正もできないのです6時近くになっても、まだ全然進んでなかったりすると、イライラしたり鬱々としたり、自分でもそうなるのがすごくイヤで、なるべく早めに取り掛かってはいるんだけどね。昨日は、久々にかえでの送迎で疲れちゃって、午後に30分だけ・・・と思って横になったら、1時間もオーバーしちゃって、これでは間に合わない!と思い、桃に手伝ってもらってカレーを作ったんだけど・・・早く作らなきゃ(◎o◎;)))!と思えば思うほど焦ってしまう。桃に手伝ってもらっても、慣れない包丁捌きを見ているとイライラするせっかく手伝ってくれてるのに、「あ~もういい!お母さんがやるから!」と言っちゃうし・・・自分でもほんとにこれがイヤなの(>_<)ごめんね桃ちゃん・・・で、桃に「ご飯遅くなっちゃうけどごめんね。 別に遅くなってもいいんだよね?」なんて、自分に言い聞かせるように言ったりしてる。桃も、よくこんな私に付き合ってくれるなぁと思うんだけどね(どっちが親か子供かわかんないよ~)これってもともとの性格もあるだろうし、まだウツ病の名残って感じもするし、ヘンに時間にこだわるところは私も自閉症?って思ったりもする。夕食の時間だけでなくて、ほかにも時間を指定されると、ちょっと緊張するようなところはあるんだよね。それはたぶん誰でもあると思うんだけど、私の場合は少しそれが強いのかなぁ?でも以前に比べたら、だいぶ柔軟になれてるんだよ、これでも・・・そんなわけで、今日も夕食の時間が近づいてきたので、イライラする前に早めに取り掛かります・・・あー・・・誰かこの呪いを解いてください~~(+_+)「夕食は6時でなくてもいいから」っていう暗示を掛けてほしいわ~
2007年08月31日
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毎年11月の上旬に、この地区の文化祭が開かれて、自治会の「ママさんサークル」ごとに作品を展示します。たいていは手芸関係の作品で、材料がセットになっているものをみんなでまとめて購入します。昨年の秋、私は鬱病で半病人生活をしていたので、そのサークルの会合にすら出られない状態でした何を作るか決める会合にも行けなかったので、去年は、展示物を出すのをやめようと思ってました。強制ではないので、無理する必要はないのです。それでも、やっぱり参加したい。取り残されるような気持ちもあり、焦っていました。そんな時、ぶらっと立ち寄った手芸店で木の実をモチーフにしたリースの材料セットを見つけ、これくらいならお裁縫が苦手な私でも出来るだろうと思い、早速購入! ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★私はお裁縫が超苦手です!母が生きていた頃は、お裁縫関係はほとんど母がやってくれていました。母はなんでも器用にこなす人でした。4年前の秋、母が亡くなった時、悲しみの中で、「これからズボンの裾上げとかボタン付けとか、私がやるのか・・・」と、どこか冷静に考えていたものです。それは、家族全員が思っていたようで、下の娘なんて、お通夜の日「ばぁばが死んじゃって、誰に給食袋を作ってもらうの?」なんて言ってるし・・・ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★鬱状態が軽くて気分が良い時に、木の実のリースセットの袋を開けて、作り方を見てみたら・・・なんじゃ~こりゃあ!なんか、すっごい面倒臭そうな作り方!小さいし細かいし、ゴチャゴチャだし、こんなの私に出来るわけないじゃん!やっぱりや~めた鬱状態の時って、字も読みたくないし、読んでも頭に入ってこないし、とにかく何もしたくない。作り方を見ただけで、鬱状態が強くなってしまった・・・なんせ、あんなに好きなお菓子を作ることだって出来ないくらいだったんだから、ましてや苦手なお裁縫なんて、出来るわけがないんだよねそういうことで、サッパリとあきらめることにしましたで、で、今年の文化祭が今度の日曜日に開かれます。今年もママさんサークルで会合が開かれたんですが、うっかり行くのを忘れてしまった~ おバカ!だからみんなとお揃いの手芸セットも注文できなかったの(T_T)・・・そんなときに、ふと去年買ったリースのセットを思い出し、一年ぶりにご対面。去年は出来なかったけど、今年なら出来るかも?いや、この際やってみましょうそんなわけで、思い切って10月中旬から少しずつ作り始めました。時間が空いた時、やる気があったら、ほんとに少しずつです^_^; そして、ついに完成~ こんな簡単なものでも、私にとってはかなり困難なのだ・・・(とはいっても、これ、ひとつひとつの木の実や葉っぱが小さくて面倒なのよ)器用そうに思われているけど、実は全然ダメな私・・・出来上がったリースを壁に掛けて、自画自賛!娘二人も「お母さん、すごいじゃん。頑張ったねぇ」なんて喜んでくれて、なんだか情けない話だけど(-_-;)私だってやれば出来るのよね~嬉しくなって思わず友達に写メまでしてしまった(*^。^*)お菓子もたくさん楽しく作れるようになったし、お裁縫だって頑張れたし(ちょっと大袈裟^_^;)去年から比べると、かなり元気になれたと思う(今8割くらいかな?)まだ、時々辛い時もあるけど、もう無理はしないつもり。自分の心と身体は自分で守らないと・・・このリースが、私が元気になった証って感じがして、UPしちゃいました~(*^^)v
2006年11月03日
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どっぷり鬱病を経験した私は、以前とは考え方を少しずつ変えて、生活するようになった。私の体調の良し悪しは、お菓子が作れるかどうかで判断できる感じだった。今もそうだけど、お菓子を作りたい日は調子が良い日ということになっている。また、こないだの日記にも書いたように、布団が干せる日も調子が良い日この話を近所のママ友達に話したら、私の家の前を通った時、布団が干してある日はメールをくれることがある。「今日はご機嫌よろしいようで ランチにでも行きますか~?」まだ、3歩進んだかと思えば2歩下がるような感じで、ほんとにボチボチだけど、まあゆっくりやっていこうかな?と、やっと思えるようになった・・・(つもり^_^;)昨年の11月に書いていた日記より 11月21日(月) 晴れ時々曇りよいお天気。子供達が学校へ行って洗濯物干して、かえでが、M(下の娘)のシーツに鼻血を付けてしまったので洗って、ついでに私達の布団も干した。先週末は調子悪くてダメだったけど、今日は結構良くて、午前中あちこち掃除する。午前中はそれで終わってちょっと疲れてしまった。夜、片付けが終わって、毎年恒例のAちゃん(友達の娘さん)の誕生日のケーキを作ろうかと思って、材料の準備をする。(ホントは13日が誕生日だったけど、1週間遅れてしまった^_^;)親戚の伯母さんから電話が来て、いろいろ話す。私の声が前より元気になったと言われた。ほんとに最近調子良くなったと思う。前みたいに午前中寝てることもないし・・・夜8時半頃からやっとケーキを作り始める。でも前に作った通りにやって、大丈夫のはずだったんだけど今ひとつ膨らみが悪かった。明日はチョコレートババロアを作って完成させよう。11月22日(火) 晴れ時々曇り 母の命日(3年)母が亡くなって今日で3年。昨夜はそれを考えていたせいか、入眠剤飲んでたのにあんまり眠れなかった。3年前の今日、病院で夜を明かしたんだっけなぁとか、今頃はもう手術終わってたんだよな~とかいろいろ考えてた。 (母の話はこちら)。仏壇にお線香を上げて、手を合わせたら鼻の奥がツ~ンとして、目がウルウルしてきた。今日は風が少し強かったので、布団干しはやめた。今日も朝は起きれなくて辛かったけど、R(上の娘)のお弁当を作って、それから洗濯物干して、Aちゃんのケーキの続きを作る。お父さん(夫)が起きてきて「この頃調子良さそうだね」と言った。でもまた落ち込む時があると思うから、油断しない方が良いかもね。昨日買ったお肉を味噌だれに漬け込んでグリルで焼こうと思って、早速漬け込んでみた。こんな面倒な料理を作るなんて最近では珍しい。ほんとにお菓子も料理もだんだん作ることが苦にならなくなってきた感じで嬉しい。夕方、ケーキを箱に入れて、Aちゃんちに持っていく。ホールで作ると味見が出来ないので、美味しいかどうか心配。スポンジもいつもより硬かったし・・・喜んでくれるといいけど^^11月23日(水) 晴れ時々曇り 勤労感謝の日今日はお休みです。お父さんは仕事。ご苦労様。今朝は5時半頃から目が覚めていたけど、ずっと布団の中でウトウトしていて、起きたのは8時半過ぎてからだった。相変わらず目覚めが悪い。M(下の娘)は7時前には起きて自分で目玉焼きを作ってパンを食べたらしい。急にアップルパイを作りたくなったので、紅玉を6個と冷凍パイシートを買ってきた。今夜はビーフシチューにしようと思って、肉を早めに煮込んでおいて、それから林檎を煮た。キャラメリーゼ(キャラメル風味の煮方?)にしてみたんだけど、出来上がったら苦味と酸味が混じったような味で、イマイチだった。普通に煮ればよかったかも?でもほんとにお菓子も料理もやる気が出てきたと思う。うつ状態になることが少なくなってきた。今までただのズルをしてるつもりでいたけど、あれはほんとに病気だったんだ と思えるようになった。このまま良くなってくれればいいなあ。こんな感じで、少しずつ体調が良くなってきていた。自分でもその頃のことはあまり良く覚えてないんだけど、日記をつけていたことは、自分がどれくらい良くなってきているか知る上では、かなり有効だったと思う。もちろん手書きではなくて、夜寝る前に、PCのメモ帳に打ち込んでいただけだけど。気持ちの不安定さを、こうやって日記で落ち着かせていた感じまたそろそろアップルパイの季節になってきましたね早く美味しい紅玉が出回らないかなぁ作るのが楽しみ~~
2006年09月18日
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全く健康で何ともない時は、○時までにこれを片付けて、○時にはここへ行って・・・とテキパキやれたものだったけど、鬱病になってから、それが全然出来なくなってしまった。またまた昨年の話で申し訳ないです・・・鬱病で療養していた時、朝は全然ダメだけど、夜には少し調子が良くなるので、「明日の朝は早く洗濯物干しちゃって、その後は布団も干して、あちこち掃除もしたいな」と計画を立ててしまう。秋の長雨が続き、明日はやっと晴れそうだという日だった。でも実際に朝になると、鬱々になっていてやる気が起きず、前の晩に考えていた計画を実行できないせっかく晴れて布団を干そうと思っていたのに、調子が出てくる頃にはもう昼を過ぎている。午前中、ゴロゴロと横になりながら、いろいろ考える。布団を干したい。でもやりたくない。やろうって思ってたのに・・・ほんとはやりたかったのに・・・パッと起きて、テキパキやろうと思えばやれたんじゃない?私ってずるいだけなのかな?こんなグズグズしてるから、もうこんな時間になっちゃったよ・・・あぁ、情けない。布団どころか洗濯物もまだ半分しか干してないじゃん・・・ダメな私。今日も午前中が無駄に終わってしまう(-_-;)その日は病院に行く日だった。予約は11時半。ご近所の家は、みんな布団が干してある。どこの奥さんも、こんな秋の晴れ間を惜しむように、あちこち掃除して布団も干すんだよね。でも私にはそれが出来なかった。「私って家事が何にも出来ない(T_T)」そんなことを考えながら運転していたら、泣けてきてしまってひどく落ち込んだことがあった。診察の時、2週間の様子を先生に話す。「私・・・布団が干せないんです。 昨日の夜は、明日の朝やろうって思ってたのに、 今朝になったらやる気が出なくて・・・ どこの家も干してあるのに、 私だけ出来なくて・・・(ワ~~ン)」そう言って先生の前で泣いたこともあった。今思うとバカみたいな笑える話だけど、この時はマジで悲しかった。先生は、「今日布団が干せなくても、どうかなるわけではないから^_^; 明日も晴れるかもしれないし、ダメなら明後日だってあるしね」と言ってくださった。小さな子供に、丁寧に話すような感じだった。気持ちの浮き沈みが激しくて、泣いたり笑ったり、怒ったり落ち込んだり・・・だから、前もって計画を立てておくことをやめるようにした。それまでも、美容院へ行きたいな~とか、歯医者にも行って歯のお掃除や検査も定期的にしたいし~という気持ちはあるのに、予約の電話を入れることが出来ない。電話をするのが面倒だったりする。なんとか予約の電話を入れても、その日の朝になると、行きたくなくなってしまってキャンセルする。そんなことがずっと続いていた。でも、計画を立てなければ、その日に悩むこともないし、とにかく、その時の気分で、その日のやりたいことを決めるようにした。そうすることで、かなり気持ちが楽になった。前もって神経を使う必要は全くないんだ。もっとお気楽に考えよう^^友達のFさんの就職活動を手伝いながら、私も勤められるような仕事先はないかな?と秘かに新聞広告の求人案内や、ハローワークのHPを探すことがあったかえでが入所しているんなら、私が一人で家でボケ~っとしているなんてまずいんじゃないか?世間体を考えて、働こうか?と思った事もある。かえでが入所したのは、私の健康上の理由もあったのに、かえでが居ないならその間に私も仕事に出たいなんて、履き違えた考えだったかもしれない。子供を入所させて、自分が働きに出るんだったら、家で子供の面倒を見ろ、と周りに言われそう通院し始めた頃、一人で家にいて何もしていないのは申し訳ないから、働きに出たい、と先生に言ったことがあったんだけど、先生は、「新しいことを始めるというのは、 すごくストレスが溜まることです。 あなたは、そういうストレスのために 心が乾いてしまったのだから、 とにかく安静にしていてください!」と怒られてしまった。「じゃあ、動物を飼って癒されたい」みたいなことを言ったら、「動物の世話は大変ですよ。 癒される前に、たぶんその世話自体がストレスになる」と諭された。先生の仰ることはもちろん解る。でも、何もかも取り上げられてしまったようで、ちょっと悲しかった。その後、Fさんは無事に就職が決まり、約3ヶ月のプーちゃん生活に別れを告げて、新しい会社に元気にお勤めを始めた。少しは私もFさんの力になれたんだろうか?いつもFさんを頼って私は甘えていたけど、迷惑じゃなかっただろうか?またまた取り残されたような気持ちと、羨ましい気持ちではあったけど、素直にFさんの就職を祝ってあげた。そのあたり(11月頃)から、私もやっと暗いトンネルから抜け出せる何かきっかけのようなものが見つかった感じで、以前のように、少しずつお菓子作りを始められるようになっていった・・・復帰第1号は、これカスタードプリンでした長女 「お母さん、よく作れたねぇ。頑張ったじゃん^^」次女 「もうお菓子作ってくれないかと思ってた^^」と、2人は交互に言いました・・・
2006年09月11日
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昨年の秋、私は相変わらず鬱状態が続き、精神的に不安定な大波小波に揉まれながら、それでも少しずつ家事をしながら、ぐうたらと過ごしていた。気分的にはあまり変わってなかった。だるいし、やる気は起きないし、イライラするし・・仲良しの友達のFさんが、フルタイムで勤めていた会社を辞め、その頃、就職活動をしていた。朝、時々メールや電話をくれて、塞ぎ込んでいる私をよく連れ出してくれた。朝は調子が悪くて寝ていることが多かった私を、Fさんはマメに携帯で私を起こしてくれたお互いにヒマだったので、一緒にランチをしたり、ドライブに行ったりした。外に出ることも億劫になっていた私だったけど、お陰で楽しい時間が過ごせた川や海にドライブに行くこともあった。でも、広い水面を見ていると、何だか吸い込まれそうになる「ここに飛び込んだら、冷たいかなぁ」とか「楽に死ねるだろうか」とかそんなことばかり考えている。ふと気がついてハッと我に返ると、恐ろしくて後退りする事もあった。「死にたい」と思ってしまう時って、残される家族のことだとか、周りのことなんて全く考えていない。ただ、自分が楽になりたいとしか思えないんだろうな。自分が弱くて逃げているだけなのかもしれないけど・・・鬱病の人が、必ず考える 死にたい という気持ち。実は私も、当時すごく思っていた。鬱状態が強くて起きられないくらいの時は、「死にたい」という気持ちはあっても、具体的に何も考えられないし、出来なかった。でも、少し具合が良くなって動けるようになると、実際に行動を起こしてしまう人もあるらしい。だから、具合が良くなってきた頃の方が、要注意らしい。私もそんな感じだったのかもしれない・・・まぁ、具体的に行動を起こせるほど勇気もなかったし、そこまで深刻ではなかったのかもしれないけどね。うまく言葉で言えないけど、やっぱり心が普通ではなかったんだろうと思う。睡眠時間はたっぷり取れるようになって、身体は充分に休めることが出来ていたのに、気持ちはいつも焦っていた。みんな、 『のんびりやってね』 とか 『ぼちぼちやろうよ』 という言葉をかけてくれる。でも、初めはそういう言葉が素直に聞けなかった。私がのんびり休んでいる間に、世の中はどんどん先に進んでいってしまって、私一人が取り残される・・・そんなふうに思っていたこともあった。だから ゆっくりしてね と言われると、「私を置いて、自分だけ先に行こうとしているんだ」なんて、ひがんだりもした。Fさんは、特に鬱病のことをどうこう言うわけではなかった。大して私の話をじっくり聞くわけでもなく、普通の世間話をする方が多かった。でも、たまに私が焦っているように見える時は、「神様が、少し休みなさいって時間をくれたんだから、 焦らないでゆっくり休めばいいんじゃない? せっかくの休みを有効に使わないと、勿体無いよ^^」とさりげなく支えてくれていた近所の仲良しの奥さんも、10年位前に私と同じように心の病気になったことがあったそうで、私の事を聞いて、わざわざメールをくれたことがあった。「療養って言っても、長い人生のうちのほんの僅かな時間だから、 周りは気にしないで、ゆっくりしましょう」いつも言われる言葉と一緒なのに、不思議と彼女達の言葉は、すんなり自分の中に入ってきて、だんだんと心から休めるようになった。神様がくれた休暇かぁ・・・『ロンバケ』みたいだな、と思った。相変わらず、調子が悪い時はゴロゴロと寝ていたので、夫も娘たちも、私が寝ている時は、「うつ?」なんて言って、そっとしておいてくれた。かえでの帰宅する週末が近づくと、少し動悸が激しくなったり、鬱状態がひどくなることもあった。でも、家族の協力で、何とか乗り切れていた。かえでの帰宅に合わせて、かえでの好きなオムライスを作った時のこと。上の娘が手伝ってくれて、出来上がったオムライスに、ケチャップをかけてくれる。ケチャップで、絵や字を描いている。 (^o^)(+_+)(T_T) 可愛く描いていると思ったら、私のオムライスに、 う つ と描いていた・・・
2006年09月09日
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私の寝たきり生活はしばらく続いた。特に昨年の7~8月の2ヶ月間は、前回の日記に書いたような生活だった。8月の夏休み期間中も、かえでは寮で生活して、週末に帰宅するようにしてもらっていたので、例年のように、ショートステイやレスパイトサービス、学童保育に申し込んだり、調整してもらったりする事もなく、地域支援コーディネーターの人にお任せだった。というか、私自身、そういうことが出来る状態ではなかったので、お任せするしかなかったのだけど。当のかえでは、週末に帰宅すれば普段と同様に過ごし、平日は、学童保育に行ったり、ショートステイで過ごしたりしていた。何も入ってない日は、施設の社会支援部の利用者さんたちと一緒に作業をして過ごす。社会支援部の作業では、不要になった封筒の糊付けした部分を解体して、再生紙としてリサイクルに出す仕事や、空き缶を潰してそれをトラックで運搬する作業に一緒に入って、ドライブがてらお出掛けしたり、そんなことをやっていたらしい。作業には集中して取り組める職人気質のかえでは、けっこう重宝されていたみたいで、その前年の夏休みに「ギュッ」と言って、家族ごとがんじがらめになっていたことを思えば、施設で生活する事も悪いことではないのかもしれない。少し前に比べると、かえでもだいぶ落ち着いたような感じだった。帰宅した時も、添い寝しないで寝てくれることは、本当に助かっていた。私は2週間ごとに、Oクリニックに通院し、2週間の様子を話し、また薬を出してもらっていた。最初に病院へ行った時は、泣いてばかりいて、先生も少し困ったような感じではあったけど、通院も回数を重ねるたびに、泣く事は減り、自分でも落ち着いてきてるのかな?と思ったりした。かえでの主治医が「3週間くらいで症状が楽になるから」と仰っていたけど、憂鬱な落ち込んだ気分そのものは、あまり変わらないように感じた。というか、だるくてやる気が起きなくて、以前よりひどくなってるんじゃない?って感じもした鬱病というものを知らなかった頃は、気のせいだと思って吹き飛ばすことも出来たのに、知ってしまってからは、不思議な能力を持ってしまったかのように、人の気持ちを今まで以上に先回りして考えてしまったり、擦れ違う人がみんな、私を見てヒソヒソ話しているかのように感じたり、とにかく敏感になってしまった。カラカラに渇き切っていた心の湖の水は、全くと言っていいほど戻ってはいないようだった。それが薬を飲んで、3週間くらいでまた鈍感?になるんだろうか・・・私は一生、こんな能力?を持ったまま、生きて行くことになるのだろうか?だったら、ONE-PIECEに出てくるルフィみたいに、ゴムゴムの実でも食べて、ゴム人間になって、手がビヨ~~ンって伸びるような能力があったほうがいいなぁ、なんて考えたり・・・(アホ)約2ヶ月近く、パキシル、メイラックス、コンスタンの3種類の薬を飲み、少し落ち着いたかな?というところで、メイラックスはやめることになった。このメイラックスというのが、けっこう眠気が来る薬だったのか、これをやめたら、午前中に寝てばかりいることはだいぶ減ってきた。相変わらず、不思議な能力?を発揮しながら、行事の多い2学期が始まった。行事が多いということは、PTA役員の仕事も多いということ。鬱気分をごまかしながら、のろのろと学校へ行くことは、すごくいやだった。私は、それまでも人混みがもともと苦手だったんだろうけど、そういう気持ちにフタをして、どこかで自分に言い聞かせながら、人混みに出て行っていた。でももう、そういう気持ちにフタをすることが出来なくなっていた。特に参観会とか、講演会とか、会議みたいな打ち合わせとか、そういうのがすごく辛かったどうしても行かなくてはならない時は、無理に誰かに連れ出してもらうように、あらかじめ友達に電話をして、迎えに来てもらったりもした。行ってしまえば何とかなるんだけど、行くまでの気持ちが、浮いたり沈んだりして、自分でコントロールすることがすごく難しかった。誰でも、多かれ少なかれ、こんなふうに気持ちが揺れ動くことってあると思う。私も今までだってそういうことは何度もあったし、それが普通だと思っていた。でも、それがすっごく敏感に感じて心に圧し掛かってくるのは、尋常ではなかった。これも、不思議な能力のお陰?かもしれない。こんなヘンテコで敏感な能力は要らないから、ルフィのゴムゴム人間みたいな能力がほしいそれよりも、ロビンのようにハナハナの実を食べて、手がいっぱい出てくる方がいいなぁ・・・そうすれば、家事が一気に片付くし。でも、やる気がなかったら、それも使えないか・・・
2006年09月04日
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昨年の7月、心配していたかえでの施設入所は、何とか無事にスタートを切った。それと同時に、私の鬱病の治療も始まった。治療といっても、簡単にいえば薬を飲んで寝ているだけ最初に受診した時に、一週間分の薬を処方してもらった。一週間後にまた受診する。眠れない日が続いていたので、抗鬱剤の眠気を誘う作用を利用して眠れるといいな、と思っていたけど、期待したわりには、ほとんど効果はなかった。2度目の診察の時、眠気が起こらず、相変わらず眠れないことを伝えたら、睡眠導入剤を処方された。それがなんと、かえでの飲んでいる レンドルミン という薬と同じものだったので、なんだか笑えてしまった入眠剤を飲み始めると、やわらかく自然な眠気が来て、久々に眠れるようになった。私が処方された抗鬱剤は、即効性ではなく、何日か飲んでいるとだんだん効いてくるものらしい。だから、飲んですぐにはこれといって変化はなかったけど、副作用のせいかなんとなくだるくて、一日中眠かった。眠れない日のことを思えば、まだいいかな?と思うことにした。私はすごく血圧が低くて、もともと朝は苦手。以前、献血をしに行った時、血圧が低すぎて採ってもらえなかったことがあった。採ってもらえないほど低いなんて・・・と思って、いくつなのか聞いたら、なんと上が 79 だと言われて、びっくりした!家に帰って父親にそれを話すと、高血圧の父は「オレは下がそれくらいだ」と言った。そんなわけで、とにかく朝は苦手な私。鬱病の症状に、午前中、特に朝に気分が沈む人が多いらしい。私も、苦手な朝がもっと苦手になった。それでもみんなの朝食を準備しなくてはいけないし、高校生はお弁当が要るし、朝はものすごく鬱状態が強かったけど、それだけは何とかしなくてはと思って、ギリギリに起きて、朝食とお弁当を作る。下の娘はいつも早起きなので、私より先に起きてお湯を沸かしてくれたり、洗面所やトイレのタオルを替えてくれたり、その後、私の部屋に来て「お母さん、起きれる?」と聞きにきてくれた。いつの間にか、下の娘が来てくれるのが目覚まし時計代わりになっていた。でも、どうしても起きられない時もあった。そんな時は、娘達は自分で卵焼きを作ったり、ご飯とふりかけ(我が家のお得意^_^;)で、朝食を済ませてくれた高校生の娘のお弁当が作れない時は、コンビニのや購買のにしてもらった。週に2~3日(半分くらい)は、そんな日があったと思う。でも、コンビニや購買で調達するのは可哀想だし、本人もやっぱり味気ないらしく、「おにぎりだけでもいいから」というので、本当にだけ作った時もあった。っていうか、娘が自分で作ればいいんだけど、私が出来ないのに、娘に言うのは申し訳なく思ってしまった。ここでも、私が子離れできなかったのかもしれない(T_T)かえでが入所したのが昨年の7月からなので、私のこんな生活も同じ時期から始まった。もうすぐ夏休みだから、そしたら早く起きなくてもいいし、お弁当も作らなくて済むから、と自分に言い聞かせるようにしていたような気がする。朝食の支度とお弁当がなんとかできると、私は少し食事をとって、洗濯機を回してまた布団にもぐって、ほとんど午前中は寝ていた洗濯物を干すのは、昼近くになってからが多かった。夏なので、強い日差しですぐに乾いてくれるのが幸いだった。とにかくだるくて、なにもやる気が起きなかった。いろいろ考えていると、訳もなく泣けることは相変わらず続いていたけど、もう考える事も面倒臭くなって、今まで眠れなかった分を取り戻すかのように眠り続けた。午前中は、とにかく何も出来ず、寝ているだけ。昼食くらいから何とか起き出して、午後からが私の活動時間になった。比較的、昼頃から夜にかけては、鬱状態が軽くなっていく。そんな時に肝心の夫はどうしていたか、というと・・・それでも夫なりに私のことを理解してくれたようで、私が夕食の支度が出来ない時(週に1~2回はあった)は、お弁当やお惣菜を買ってきてくれたり、娘たちを巻き込んで、一緒に簡単な料理を作ってくれたりした。食事のあとの洗い物もやってくれることがあった。今までほとんどやったことがない夫が、キッチンに立つこと自体、すごく珍しいことで、とてもありがたかった。私がいないと困るというのが、やっとわかったみたいだった。でも、洗い物をした後のキッチンは水浸し後始末のほうが大変だったんだけどね・・・その後 「オレがやってやった」 と恩着せがましい言葉がなければ、ほんとにいい夫なのになぁ(-_-;)それでも、ここまで変化した夫を褒めておこう。「ありがとね~」 と感謝の言葉(+_+)父も、知り合いのAさんの息子さんが鬱病で療養しているという話を聞いていたので、鬱病の人に「頑張れ」という励ますような言葉を言ってはいけない、と前から言っていた。私が鬱病になってしまったと話すと、「まあ、ゆっくり休めよ。 Aさんも、鬱病は必ず治るからって言ってたし、 のんびりすりゃいいさ」と言ってくれた。一番気がかりだったPTAの大きな3つの役員の仕事は、ほかの人に任せることが多くなり、はじめはすごく気にしていたのだけど、もうどうしようもないので、任せればいいや、と少しは開き直ることも出来るようになっていた。養護学校のPTAの仕事は、子供を送っていってそのまま先生と打ち合わせをすることが多かったけど、かえでは入所してるし、私は寝たきりだし、ほとんど副会長さんがやってくれて、電話やメールでいつも連絡を取って、お願いするような状態だった。先生も副会長さんもほかのお母さん達も、みんな温かくて本当に救われた子供会の役員も6年生の学年委員も、一緒にやっていた方が頑張ってくれて、心配しながらも、何とかなるもんだと思ったりもした。病院の先生も、「人に甘えたり任せたりする事も、あなたにとっては勉強です」とおっしゃったけど、私は今までそれがなかなか出来なかった。全部を自分でやろうとしていた。人に任せて、イライラしたり心配するなら、自分でやった方がいいと思っていた。そのほうが早いし、自分で納得できるから。家族や友達の温かい協力の中で、私は思いっきり甘えさせてもらった。でも、こんな図々しく何もやらずに寝ているだけでいいんだろうか?そんな思いも強くて、とても複雑な気持ちもあった。「性格はなかなか変えられないけど、考え方を変えることは出来る」そう言われることが多いけど、それもなかなか出来ない私は、自分の中で葛藤しながら、苦しむのだけど・・・
2006年08月31日
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昨年の6月27日、かえでの月に一度の通院の日だった。毎月、私一人で病院に行き、かえでの様子を先生に少し話して、薬を処方してもらって帰る。前月に行った時にも、先生には、かえでがいろいろと大変なので、学校の先生から短期入所を勧められているという話をしていた。先生は、「それもひとつの選択ですよ。僕は入所してもいいんじゃないかと思うよ。」とおっしゃっていたけど、なんせ私が頑固なものだから、まだまだ頑張らないと、と思っていたし・・・でも6月には、もうそんなことを言っていられる状態ではなかった。というか、すでにその時には、ケア会議でかえでの入所が決まっていたものだから、先生に「7月4日から入所することになりました。 一応、身辺自立と添い寝なしで寝れるようにしたいと思うので・・・」と話す。話している途中で、思わず泣いてしまった。これまで約11年間、この先生にお世話になってきたけど、いつも私は元気だった。だから月に一回の約20分ほどの診察の時間、先生は元気な私しか見たことがなかったはず。でもその私が先生の前で急に泣き出したものだから、先生はすごくびっくりして、「お母さん、どうしました」と慌てていた。実は、ここ一ヶ月くらい、私、ヘンなんです・・・そう言うだけで精一杯だった。もう声が震えてしゃくりあげてしまって、喋ることもできなかった。自分で何とか気持ちを落ち着かせて、深呼吸しながらゆっくり話した。かえでのことが怖い。迎えの時間になると、すごく気分が悪くなってくる。何もかもやる気が起きない。食欲もなくて、眠れない。泣いてばかりいる。とにかくすごく憂鬱。毎日の生活自体が辛い。そんな症状を話した。先生は、静かに話を聞いてくれた。かえでの診察の話の時とは、表情が違った。これが、本当の精神科の先生の顔なのだ、と思った。「お母さんの症状は、もう典型的な鬱病の症状ですね」とおっしゃった。そう言われて、やっぱりそうかと、少し安心するような気持ちにもなった。これは、かえでと初めてこの病院に来て(初めての病院はこちら)、かえでが「自閉症です」とはっきり言われた時と、同じような気持ちだった。心の中を、湖にたとえた話をしてくださった湖というのは、普段は水がいっぱいになっているから、底の方は見えないけど、本当は底というのは、凸凹していて、いろんなものが沈んでいる。でも、この心の湖の水がだんだん減ってしまうと、だんだんと凸が表面に出てきてしまう。この凸というのが、かえでのことだったり、姉妹のことだったり、夫のことだったりするわけで、普段は水がいっぱいで気にならないことが、今は水が減って、凸が出てきてしまっているから、すごく敏感に感じてしまって、どんどん悪い方へ考えてしまう。 「今は、心の水を満タンに戻すことが大事です。 とにかく休んで、水を満タンにしましょう。」そんな話をしてくださり、すごく解りやすくて、納得できた。でも、今だって仕事をしているわけでもないし、どうやって休んで満タンにすればいいのですか?これ以上休んでいたら、怠けてると思われる・・・「鬱病の治療には休養が一番です。そしてお薬を使うんです。」怪我をしたとか、どこかが痛いとか、そういうことなら薬も効くだろうけど、こんな気分が落ち込んでいるような、目に見えないことに対して、どういう薬を使うのだろう?薬を飲んで治るの?と不思議に思った。「そういう精神的な症状に効く薬がちゃんとあるんです。 薬を飲んで3週間くらいで、大抵は気分がだんだん 良くなって来ますからね。 でも、水が満タンになる前に無理をしてしまうと、 前よりもっとひどくなる場合がある。 この際、かえでくんや家族のためにも、 しっかり治療した方がいいですよ。」この病院までは、車で1時間くらい掛かるので、2週間おきに通院するのは大変だから、私の家から近い、Oクリニックを紹介してくださるとのこと。「僕の名前を言ってもらえば、O先生はすぐわかるから」と言って、簡単に紹介状を書いてくださった。かえでを連れて、初めてこの病院を訪れた時、「精神科」というだけで、いやな気持ちになっていたけど、今は、自分がその精神科に掛かることになってしまったのだ。でも、もうそんなことを言ってはいられなかったし、先生のお話を聞いて、早く治療したいと思った。先生は帰る私を心配して、次の患者さんが待っているのに、病院の玄関まで見送ってくださった。「お母さん、気をつけてね。 もし、O先生と相性があわなかったら、 僕が責任持って診ますから。 かえでくんとお母さんとのお付き合いも長いしね。 とにかくゆっくり休んでくださいね」胸がいっぱいになって、泣きながら帰った。泣きながら高速を運転するのは、怖かったけど夫は早番で、15時過ぎに帰宅していた。私は、先生に言われたことをどうやって夫に話そうか、うまい言葉が出なくて、また泣いていた。疲れて居間のソファにドッと倒れこむようにして、伏せて泣いた。最近の私の様子があまりにもおかしいので、夫も痺れを切らしたように、「なんでそんなにいつも機嫌が悪いんだよ? オレはどうすりゃいいんだよ、一体!」と怒るように言った。私は、先生の話をそのまま夫に話した。「で、病院へ行ってこようと思う。 紹介状も書いてもらったから、Oクリニックへ電話してみる」夫はその時、PCでゲームをして遊んでいた私に怒るより、ネットで鬱病のことを調べて、どうしたらいいか考えてくれてもいいじゃん!そう思って、それとなく言うと、夫なりに調べていたようだった。6月30日。初めてOクリニックへ行くこれまでの経緯を話し出すと、また泣いてしまった。涙腺が全壊してしまって、涙はどんどん出てきた。こらえようと思うと、しゃくりあげてしまう。まるで小さい子供のように・・・ヒクヒクしちゃって、止まらなくなってしまう。O先生は、かえでのこともよく解ってくださって、話をしっかり聞いてくださった。そして、「今までよく頑張りましたね。 もう頑張らなくてもいいですから、少し休憩しましょう。」と仰った。それだけで嬉しかった。薬は、抗鬱剤のパキシルとメイラックス、そして抗不安薬のコンスタンが処方された。眠れないことが辛かったけど、抗鬱剤は、眠くなる作用があるので、寝る前に飲めば、眠れるようになるとのこと。とにかく、夜はぐっすり眠りたかった。眠れずに悶々と考えて泣くことは、もうたくさんだった。診察を終えて、気分が少し楽になったような、でもこれからのことを考えると、また落ち込むような、不安定な気持ちで家に帰った。家族に、自分の症状やこれからの治療のことを、私の口から話しても、信用してもらえないんじゃないか?と思ったけど、薬を飲んでいるなら信じてもらえるだろう。私は決して怠けているわけではない・・・先生から言われた言葉を、自分に言い聞かせるようにした。かえでの、施設への入所もすぐ目の前に迫っていた。その準備をすることさえ億劫だったけど、なんとかそれくらいは母親としてやってあげなくては・・・そう思って、入所に必要なものを買いに行ったり、荷物をまとめたりした。当のかえでは、相変わらずだったけど、家を離れて入所することに気がつかないというのは、ありがたいような気持ちだった
2006年08月09日
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昨年、6月中旬に、かえでのケア会議が開かれた。これは、養護学校での特別支援教育の一環として、個々に応じた支援をするための会議。どんな子でも、お願いすれば開いてくれるし、お願いしなくても先生が必要だと感じれば開かれる。うちの場合は、先生が必要と感じたようだった。担任、教務主任、そして支援センター、学童保育、市の福祉課、児童相談所、いつも利用する更生施設から、それぞれ関係者、夫と私の、約10名ほどが集まって、かえでのこれからのことについて、話し合いが持たれた。現状を整理してまとめたものを、担任が用意してくれて、それに沿って、私や夫が今のかえでの様子や家の中のことを、話せる範囲で話す。話をしている途中で、何度も涙が出そうになって、ハンカチを膝の上で握り締めていた。この時の話し合いで、かえでの身辺自立と、私自身の休養を目的とした施設への短期入所が決まった。でも私自身、精神的にこんなに辛くなっているにもかかわらず、かえでを預けるのはすごく心配だった。入所して私と離れたら、かえでの不安がもっと強まるかもしれない。もっと問題行動がひどくなったらどうしよう、と思っていた。かえでの身辺自立というのは、 まず、一人で寝ることが出来る。 (手を握って添い寝しなくても、一人で寝られる。添い寝だけでかなり私が消耗してしまう) 一人で入浴が出来る。 (誰かが一緒に入って洗ってあげていたので、夫がいない時だと同姓介助が出来ず、 私や下の娘が手伝っていた。身体も大きくなってきて、異性の介助はふさわしくない)主には、そういうところを目的とした、有期限有目的の短期入所ということだった。伸るか反るか、賭けみたいな感じだったけど、少しの間だけ、お願いしてみようという気持ちになった。施設の職員の方からも、「責任持って対応しますから、安心してください」と力強い言葉をもらって、嬉しかった。ショートステイの時は、あくまでも一時預かりという範囲なので、担当者もその時々で変わるけど、入所になると、ケース担当が個別に付いてくださるそうで、いろんな面で安心できそうな感じだった。ここでいつまでも、私がゴチャゴチャとゴネていても仕方ないので、思い切って入所を受け入れて、7月上旬から、さっそくお願いすることになった。私の精神状態は、あまり良くなくて、泣いていることが多く、いつも目が赤くなっていた。娘達も、すごく心配してくれていたけど、私の前ではわざとふざけて、笑わそうとしてくれていた。私の気持ちが上向きにならない日が多くて、食事の時も、何となく暗い雰囲気で、こういうのって気まずいなぁ、と思っていたけど、どうしようもなかった。友達に、私の症状を話した時、友達が言った。「私のお茶の先生もそうだったの。 外に出て、みんなと一緒に話している時はすごく明るいのに、 家に帰って一人になると、すごく泣けてしまって、 周りの人から変だと思われて、受診することを勧められたんだって。 そしたら、鬱病だったの。でも病院へ通ったらすごく良くなったよ。 メイプルさんも一度行ってみたら?」自分でも、鬱病じゃないか?と思って、いろいろ調べたりしてはいたけど、その時、鬱病という言葉を、ほかの人から初めて言われて、その病気がとても身近に感じた。鬱病って言ったら、有名人でいうと高島忠夫さんとか小川宏さんとか竹脇無我さんとかがなっている。私よりもっとひどい症状で、自殺未遂したり、入院も必要だったりして、克服するまでに何年も掛かる大変な病気だと思っていた。でも最近では、近所にも鬱病で療養している人がいたり、ストレス社会だから、鬱病自体は珍しくないし、ほかにもパニック障害や似たような精神疾患も多い。更に、ネットで検索して調べてみた。たいてい、そういったHPには『鬱病チェックリスト』というものがあって、自分で調べることが出来る。どこでチェックしてみても、私は軽~中度の鬱病に当てはまった。いろいろ調べてみると、毎日の些細なストレスでも、鬱病になっていくということが書いてあった。そして、私は鬱になりやすい性格なんだ、ということが初めてわかった。年に数回、親しい友達での飲み会があって、その時もたしか4人くらいで飲みに行った。気分は下降気味だったけど、行ったら楽しくなれるんじゃないかと思い、なんとか気持ちを奮い起こして出掛けてみた。前出の友達の話のように、私も出掛けてしまえばみんなで明るく話せるし、その時は楽しく過ごせる。でも、楽しく飲んでいたのだけど、何気ない友達の言葉が妙に気になったのをきっかけに、蓋をしていた現実の苦しい気持ちが、急にあふれ出てきて、私は、みんなの前で泣き出してしまった楽しい雰囲気を壊してしまって、申し訳ないという気持ちと、この切ない気持ちをわかってほしいという気持ちとで、もうぐちゃぐちゃだったその2日後、毎月一回通っているかえでの病院の日だった。主治医は、もう10年近くお世話になっている精神科の先生だし、かえでのことだけでなく、私のことも相談してみようと思った・・・
2006年08月06日
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私の精神状態がヘンだと思い始めたのは、昨年の5月から6月になる頃だった。5月は、それでもまだお菓子を作る事も楽しみで、ストレスはお菓子作りで発散していたところもあった。イライラする事も増えてきて、前回の日記に書いたようにこれはやっぱり更年期?と思っていたけど、更年期だなんて言うと、すごく歳を取ったような感じで、なんだかそれも辛かった。かえでは、帰宅してから夜寝るまで、私に向かってくることが頻繁にあって、気が休まらない。ある日の日記・・・今朝なんて、いつもの時間に起こしに行ったらけっこうすんなり起きてきて、調子良さそうだと思ったとたんいきなり私のところに来て、私を突き飛ばした!びっくりしたけど、それより怖い感じですごくイヤだった・・・毎日こんなに一生懸命やっているのに、なんで?!って感じでほんとに頭にきた。朝食は、おじいちゃんと一緒に食べてもらったけど、参っちゃうなぁ・・・学校へ行く時は静かに行けた。そのままPTAのベルマークの整理で、会議室を借りて11人でやる。11時半ころまでやって終わる。やっている時に、みんなでわいわい喋っていたけどちっとも楽しくなくて、あまり笑えなかった。なんだかイライラするので、午後はカスタードプリンを作った。とてもうまくできてよかった。私の楽しみって、これくらいしかないって感じ・・・でも作りながら泣いていた。頭の中が、いろんなことで飽和状態になってる。明日は良い日になるといいな・・・ 今日、これを読んでいたら、あの頃の苦しかった気持ちがよみがえってきて、切なくなった。かえでが帰宅してからの『ギュッ』は、夫に任せていると、かえでの機嫌が悪くなった。手を握っていても、片方の空いた手で漫画を読んでいて、まったく身が入ってないという感じ。夫は、交替勤務をしていて、一週間毎に早番と遅番の勤務になる。早番のときは、帰りが早いので、帰宅後のかえでの面倒を見てもらえるのだけど、夫が居ると、かえってかえでが不機嫌になるので、遅番の時の方がなんとなく私も嬉しかった。 亭主元気で留守がいいなんて言ったら怒られるけど、子供の扱い方を全く知らないオヤジは、こっちの手間が増えるばかりで、正直邪魔だった夫がかえでの面倒を見てくれることを、ありがたいと思うどころか、それさえがイライラの原因になった。「そういうやり方じゃなくて・・・」などと言おうものなら、今度は夫の機嫌が悪くなる。その頃、こうやって夫に意見したら、次の日は、かえでが大変なのに全く知らん顔をされたこともあった。夫さえも、こちらが気を使わなくてはならない面倒なガキのようだったそして、同居している私の父も・・・父はかえでの事も心配してくれて、よくやってくれていたけど、やっぱりうちの男たちは、育児に関しては役に立たないことが多く、ほんとに見ているだけで、イライラさせられた。その2年半まえに母が亡くなって、父が落ち込んでしまわないように、私も気を遣ってきた。元来、女の方が長生きするようにできているわけで、夫に先立たれた女は、夫亡き後も逞しく生きていくけど、妻を亡くした男って、そのあとを追って1~2年で亡くなる人も多いと聞く。そんなことになっては困るので、心配して気を遣っていたのだけど。元々、仕事一筋の父だったので、家の中のことは無関心だった。季節の変わり目の衣替えなど、母が全てやっていたことを私がやらなくてはいけなかった。子供が一人増えたような感じだった。はじめは私も父のことを思い、張り切ってやっていたけど、だんだん大変になってきて今は、ほとんどほったらかしだけどね^^家に居ると、うんざりする事がたくさんあって、外に出た時は、もう家に帰るのがイヤだった。このまま、一人でどこかに行っちゃおうか?なんて考えた事もあった。H先生からの提案の、かえでを有期限有目的で短期入所させてはどうか?という話も、今の私には必要かもしれない。でもかえでは大丈夫かしら?可哀想だよね、預けることって。かえでだって、自分の家を離れたら、よけいに自傷や不安が強くなってしまうかも。そしたら、もっと大変になるかもしれない。それに、それに・・・入所させることって、育児放棄って思われない?・・・「あんなしっかり者のメイプルさんが~?」って思われる。養護学校に来ている子の中には、もっと大変な障害のある子だってたくさんいて、それなのにそのお母さん達は、みんな明るく頑張っている・・・だから、私だけそんなことはできない。「とりあえずケア会議を開いて、関係している人たちで、 かえでくんとご家族の今後について話し合いましょう」とH先生は仰った。その頃の私は、食欲が落ちて、食べられない。食べないから便秘をする。体重が減る。やる気が起きない。家事をしたくない。動くことが億劫。肩凝りがひどい。朝、起きられない。もともと低血圧なので朝は苦手だけど、更にひどくなった。眠れない。寝つきが悪く、眠っても眠りが浅くてすぐに目が覚める。特に明け方4時頃からは目が覚めて、身体はだるくて動けないのに眠れない。買い物に行っても、何を買って良いかわからない。献立を考えられない。味がわからない。これは、食事を作る時、味がよくわからなくてたくさん醤油を入れすぎてしまって夫に「味覚がヘンじゃない?」と言われて、気がついたことだった。夕方4時過ぎ、かえでの迎えの時間が近づくと、ものすごく憂鬱になった。そして、些細なことがすごく気になる。特にPTA役員の関係で、しっかりやっていないと思われそうで、ほかの人が話しているところを見ると、自分のことを言われているんじゃないかと思ったりした。友達に送ったメールに、すぐ返信が来ないと、嫌われたんじゃないかと思ったり・・・普段、そんなに気にならないことでも、妙に敏感になった。とにかくすぐに涙が出てくるし、気分はいつもどん底になっていた。それでもやることはやらないと、家族が困る。役員の仕事もやらなくちゃいけない。人に頼ったり甘えたりすることが下手な私は、どんどん自分の首を絞めていった。ケア会議を開けば、私は救われるんだろうか?もう、自分で判断する気力もなかった。6月中旬には、もうお菓子を作ることさえ、やる気が起きなかった。私に出来ることは、泣くことだけだった・・・
2006年08月03日
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昨年度、上の娘が無事に高校に入学かえでは中2、下の娘は小6年に進級した。子供が三人いて、それぞれ違う学校に通っていたら、用事もかなり多くて、新年度には、いつも母はパニック状態・・・学校からのお便りとか、めちゃくちゃたくさんあって、何がなんだかわからなくなってしまう。しかもこの年は、PTA関係の役員が3つ重なってしまったかえでが通う養護学校の分校のPTA会長。これはもう順番だから仕方ない。でも、人数が少ない分校と言っても、会長職はかなりプレッシャーだった。それから下の娘の子供会の役員。これも娘が6年生なので、避けては通れない仕事だった。そんでもって、6年生の学年委員・・・この年から広報発行も兼ねることになっている。これはくじ引きで当たってしまった養護学校のPTA会長や子供会の役員があるので、勘弁してほしいという直訴も虚しく却下され、あみだくじの最後を引いたら、まったく福もなく、めでたく大当たりほかのくじ運はめちゃくちゃ悪い。悪すぎるくらいなのに、なんでこういうくじ運はいいんだろう。くじ運が悪いから、当たっちゃうんだよねクスン・・・これで、大きな役を3つも引き受けることになってしまった。この年度は、いつもよりかなり大変な始まりになった。私は、これまでもいろんな役員をやってきたけど、引き受けたからにはしっかりやろうと思って、自分なりに完璧にできるように頑張ってきた。だから、ほかの人から見れば「メイプルさんに任せておけば大丈夫だよね~」という感覚だったかもしれない。みんなの期待を裏切らないように、とにかくしっかりやらなくては、という思いがあった。自分の事を犠牲にしても、みんなに迷惑を掛けないようにしたかった。手を抜いてはいけない。そんなふうにして、これまでに私は自分の中にヘンなプライドを作ってきてしまった。かえでは、相変わらず大変な毎日だった。『ギュッ』も続いていたし、寝るときも添い寝をして、眠るまで一緒にいなくてはいけなかったし、こっちが眠っちゃうといきなり叩いてくる。私の顔色をよく見ている事も変わらなくて、不機嫌そうな顔をしたり、きつい口調になるとすぐに向かってくる。美人教師H先生は、持ち上がりでそのまま担任。隣のクラスの頼りになる先生は、小学部に異動になってしまったので、もう頼ることはできなかった。4~5月は、子供も新しい環境に慣れるまでにかなり神経を使っている。上の娘の高校生活についても、親として初めてのことも多く、毎朝のお弁当から始まって、歯の矯正とか、めがねからコンタクトにしたりとか、野球の応援練習(けっこう厳しい)とか、勉強のこととか、いろんなことが心配だった。本人も口には出さなかったけど、大変な様子は手に取るようにわかった。そのため、下の娘は野放し状態だったm(__)m元気に頑張ってくれていることは救いだった。でも多感な時期だけに、新年度はやっぱりナーバスになっているようだった。夫は、その1~2年前から仕事が忙しくなって、土日の休みのうち、どちらかは休日出勤で、育児に関しては、これまで同様に期待はできなかったし、してもいなかった。休日出勤して、私が働けない分、稼いでもらったほうがいいかも?って感じもあった5月上旬、養護学校のPTA総会が終わり、新年度の慌しさが一段落した。この頃から、私はまた涙がポロポロと出てきてしまう症状が始まった。何でもないのに泣けてくるのは、母が亡くなったあと、しばらく続いていたけど、もう大丈夫だと思っていただけに、どうしてだろう?と思っていた。かえでに添い寝しながら「私たちにはもう未来はないんだろうな・・・」と考えたり、自分の思い通りにならない出来事も多くて、イライラしたり、かなり悲観的になったり、悪い方へ悪い方へと自ら思いを動かしていた。どうしていいものかわからず、私がしっかりしなくては、もっと頑張らなくては、とさらに気持ちを追い込んでいった。イライラするのは更年期が近づいているからだよ、と友達にも言われて、そうだよなぁ、もうそういう歳なんだろうなぁ、とあまり納得したくない理由を、無理やり噛み砕いて飲み込もうとしていた。H先生は「お母さん大丈夫ですか?」と心配してくれて、あまり大変なら、かえでをショートステイか短期入所で預かってもらってはどうか?と提案してくれた。かえでを施設に入所させることは、上の娘の受験の時にも少し考えたけど、それを乗り越えたんだから、もう必要ないと思っていたし、不必要に子供を預けるなんて出来るわけがなかった。かえでが、こんなに不安で毎日手繋ぎを求めてくるような状態なのに、私から引き離したら、どんなことになるだろう?大変だけど、これは私の仕事だし、かえでの母親としてやらなくちゃならないこと。そして、私みたいな完璧な人間に、この先生はなんてことを言うんだろう・・・そんなふうにも思った。でも、自分でも気がつかないところで、私の精神状態はどんどん悪くなっていた・・・
2006年08月02日
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