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かえでの療育手帳の更新(判定の面接)に行ってきました^^かえでが5歳の時に取得してから、もう11年になります。更新は、最初の3年間くらいは1年ごとにあって、その後、約3年ごとに数回やってきました。この間、ずいぶんと手帳の恩恵に預かってきました。ありがたいことです。今回は、保健センターで14:30から面接だったので、学校を14:00に早退させて、私ももちろん仕事を早退して向いました。こういう面接は、障害のある子ばかりが来るわけで、待たされることは本人にとっても辛いことなので、時間ちょうどに着くように調整して行ったんだけどねぇ。着いたら、まだ前の人が面接中らしく、ロビーで待つように言われまして・・・でもすぐに呼ばれるだろうと、テーブルを挟んでかえでと向かい合って座り、二人で百面相をしたり、手遊びをしたり、くすぐりっこをしたりして時間を潰していました。結局、30分も待たされたんだけど、あの待つことが超苦手なかえでが、意外と静かに落ち着いて、崩れることなく待っていられたんですよね~ ↑だんだん退屈してきて、こんな格好になってる^_^;・・・面接が始まって、あれが出来る、これは出来ない、という問診や、かえでに図形を見せて、大きさや色の判別が出来るかなど、いろいろ審査がありました。判定はAとBがあって、Aの方が重度。そのAの中でも、A-1(最重度)、A-2(重度)、A-3(やや重度)の3段階に分かれていて、かえでは、現在A-2なんだけど、やっぱり年齢が上がるに連れて、成長の遅れは大きくなるばかりで、手先の巧緻性や見通しの持ち方など、少しずつ成長はあるものの、今回の判定では、1と2の中間と判定されましたもちろん判定に不服はないんだけどね。だんだん著しい成長は見られなくなるのだなぁとちょっと寂しい気持ちもしました・・・次の判定は4年後だそうです。4年後って言ったら、かえでは20歳ですわよ療育手帳は終身持っているんだけど、大人になると大きな成長もないし、こういった判定の面接もそれが最後になるんだって。で、その最後の判定では、たぶん最重度になるみたい。まあ、最重度と判定されたら、そこからはもう重くなることはないしね^_^;開き直って、かえでと関わっていこうと思ったわけです。面接は1時間掛かりました小さい頃から最近までのかえでの様子や、家族の関わり、入所のことなど、いろんなことを聞かれ、私も話していく中で、様々な思いがこみ上げました。判定員さんも、「大変でしたね(T_T)」とウルウルしちゃって、それを見て、私もウルウルしちゃって・・・かえではプレイルームの中でのびのびと遊びながら、怒り出すこともなく、とってもご機嫌に待っていることができたので、それを見て、またまたウルウル・・・ちょっと前なら、面接前の30分も待ってられなかったし、すぐに「くるまくるま」と言って帰りたがっていたけど、あんなに苦手だった待つことを少しずつ克服して、私にとっては、こんな素晴らしい成長がほかにあるだろうかという気持ちです。ま、これからも少しずつ頑張っていこうね^^そして手帳を使って、あちこちお出掛けしようね~(*^^)v
2007年06月14日
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かえでは、小学校3年生くらいの頃から、特に食欲が増したわけでもないのに、ポチャポチャと肉付きがよくなってきた身長は大して伸びていないのに、体重だけはぐんぐん増えていた。毎月の体重測定では、1kgずつ増えていく折れ線グラフを見るのが怖かった・・・ローレル指数とかカウプ指数は「太っている」という欄に○印がつけられている偏食がひどかったので、給食では残す事も多く、その分、家でのおやつや夕食は、自分の好きなものがあれば、人のお皿にまで手を出して食べてしまうほどだった。将来のことを考えると、これではいけないと思い、人のお皿にまで手を出す時は、「だめだめ!」と言って、自分のお皿のものだけを食べるように、何度も繰り返して教えた。自閉症の子というのは、解っていないようだけど、一度覚えると、案外、今度はそれが新しいパターン(良い意味でのこだわり)になっていくことが多い。でも、自分のお皿のものを食べ終わったあとは、やっぱり隣に座っているおばあちゃんのおかずも食べたくなる。手を出すと「だめだめ」と言われるので、手を出しながら「ダメダメ」と自分で言って、おばあちゃんの顔色を見ている。これも、かえでは発音がヘンなので「ダメダメ」が「ナメナメ」になってしまう。☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 食事以外のことでも、やってはいけないと覚えたことを、どうしてもやりたい時・・・例えば、冷蔵庫を勝手に開けることとか、ビデオテープに貼ってあるインデックスシールを剥がすこととか、そ~っと手を出しながら、私の顔を見て「ナメナメ」と言うのです。☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆食べられる食材が、どうしてもカロリーの高いものだったりして決まっているから、栄養の偏りもあって太っていくんだろうなぁと思った。何とかして、少しでも食べられる物を増やしていかなくては・・・と焦っていた。とある講演会での、自閉症の権威という大学教授のお話によると、どんな偏食の強い自閉症の子供でも、小学校の高学年になってそのままひどく偏食する子は、全体の1%くらいしかないだろう、とのことだった。私は、それを聞いて安心するどころか、「かえでがその1%に入っているのよーっ!」と落ち込んで帰ってきたのだった。 当時の担任のO先生は、かえでの偏食の強さにホトホト参っていたようで、年賀状にも「給食頑張りましょうね」と書いてあった・・・でも、あの講演会で聴いた「高学年」と「1%」の言葉は、どうしても忘れられず、いつかかえでも偏食のなくなる日がくる!と心の片隅で、淡い期待を抱いていた。そして5年生になり、本当に信じられないことだけど、少しずつ食べられる物が広がってきた。トンカツに添えられている千切りキャベツは、ソースをたっぷり掛けちゃうけど、なんとか食べてくれたり、味噌汁の具も残さなくなってきた。「えっ?これも食べれるの?ほんとに?」という感じで驚くことが増えてきた。ある日の連絡帳。今日は、○○寿司組合のほうから、寿司職人さんが見えて、 給食の時にお寿司が出ました。 かえでくんの嫌いなはずのお寿司ですが、 去年はネタは食べずに酢飯だけ口にしていました。 でも今日は、マグロもイクラも、 お醤油たっぷり付けて食べることが出来ました。 イクラは一粒ずつ醤油に絡めていました^^かえでの通う分校は、同じ敷地内に更生施設があるので、その施設の給食時に「寿司奉仕の日」というのがあって、分校の給食の時にも、寿司職人が目の前で握ってくれる。そのほかにも、選択メニューという日があって、「トロまぐろ丼」or「カツ丼」を選んだり・・・とにかく給食はけっこう豪華なのだ!給食にお寿司とは・・・なんとも羨ましい限りなのだけど、偏食の強いかえでにとっては、まったくの無意味なものだった。あ~、勿体無い。同じ給食費を払っているんだから、私が代わりに食べてあげるわよ、といつも思っていた。でも、それが初めて食べることが出来たと聞いた時は、とても嬉しかった。講演会でのあの大学教授の話はウソじゃなかった!とそこで初めて尊敬した。家でお寿司にする時、どうせかえでは食べないから・・・と言って、いつもかえでの分は白いご飯にフリカケだったけど、もしかして、これから高価なお寿司も、あの勢いで「ナメナメ」と言いながら食べちゃうの~?なんて嬉しい誤算嬉しいような、困るような、複雑な心境だった懐かしい思い出。 その後、徐々に偏食はなくなっていき、今ではかなりいろんな物が食べられるようになった。O先生に「給食が完食できるようになりました」と年賀状に書いて出すと、「あのかえでくんが、給食完食とは・・・!」と驚いたお返事が来たっけ。かえでの一番好きな物は、納豆!帰宅すると小袋のスナック菓子を一つ食べて、それから「ナット」と言って、器に納豆を出し、タレとすりゴマを掛けて、まぜまぜして食べる。健康的でよろしい!実は、私が納豆嫌いなもので、これだけは見習わなくては、と思っているのだけど・・・(^^ゞ偏食がかなり改善されてきた中学部入学の頃から、増加していた体重がぴたっと止まり、今度は身長が伸び始めた。あの小さくてポチャポチャだったかえでも、1年間で身長が10数cmも伸びていき、全く別人のようにスリムなボディへと変身した。これまた、羨ましいっローレル指数は、今では「やせている」の欄に○印ちょうどそういうふうに成長する時期だったのかもしれないけど、食事って大切なんだな~と実感する毎日。その食生活全般を任されている私は、責任重大なのであります
2006年06月22日
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波乱の幕開けで始まったキャンプ・・・かえでのウンチ騒動のあと、無事に可愛いMさん(いちいち可愛いって言わなくてもいいか^_^;)と合流。着いてからの事の顛末を話し、くれぐれもよろしくお願いしますと言って、かえでを引き渡した。この宿泊研修は、2泊3日で、帰るときまで親子は離れ離れになる。もちろん、寝る時も今まで、かえでと3日間も離れたことなんてないから、いくら可愛いMさん(しつこい!)が信頼できる人だからと言ってもやっぱり不安だった。大丈夫かなぁ・・・一緒に行ったTくんのお母さんは、やっと離れられるし、この際羽を伸ばしてのびのびしてやる~なんて言ってたけど、いきなりTくんがパニクっていたので、心配で心配で・・・とヤキモキしていた。やはり参加者の中には、いつも自閉症児の面倒で気が休まることがないから、家族総出で参加して、親の研修はそっちのけでひたすら寝ます、と言う人もいた。みんな大変な思いをして自閉症児を育ててるんだなぁと思うと、私だけじゃないんだと心強かった。保護者は、3日間研修のスケジュールが組まれていて、午前と午後は、主に大学教授や専門機関の先生の講話を聴き、夜のひとときには、グループでわいわいと話し合う。と言ってもアルコールが入るので、難しい話は抜きで、けっこう楽しくいろんな人と話せた。知らない人と和気あいあいっていうのは、正直言って苦手なんだけど、子供が自閉症という共通のことがあるせいか、意外とすんなり話が盛り上がってしまった。 以前から思っていたのだけど、自閉症児の親って、頭がいい人が多いような・・・養護学校の親もそうだけど、この研修に参加した親も、両親揃って有名大学出身だったり、学校の先生だったり、医者だったり、弁護士だったり・・・もちろんそうでない人も多いけど・・・かえでが通っていたこども発達センターの先生は、世界中どこを見ても統計的にそういう頭が良い親が多いのだと言ったことがある。昔は、自閉症の子は、お金持ちの家に生まれると言われたこともあったらしい。要するに頭が良いとお金持ちになれるから、と言うことだと思う。両親揃って頭が良いと、天才の血が濃くなりすぎて異常になっちゃうのかな?でも私達夫婦は揃って頭が悪いから、血が薄くなっちゃったんだよね、と夫と話したことがある 食事の時間は、親と子と少し時間をずらして食べるようになっていたので、こっそり柱の陰から様子を見たりした。偏食の激しいかえでは、家から持参したふりかけをMさんに掛けてもらって、何とか食事を摂っていた。『待つ』ことが非常に苦手なかえでが一番苦労していたことが、スケジュールの間の空いた時間を過ごすこと。次々にやることを指示してもらわないと、たちまちグズグズ言い出すので、Mさんも大変だったようだ。空き時間には、外のコンクリートの斜面ですべり台のように滑っていたので、すぐに半ズボンのお尻が破れて、何枚もダメにしてしまった。予備の洋服は多めに入れておいたけど、最後はそれ一枚しかないというところまできてしまった 3日目の午前中、最後の研修が始まった。遠く山口県から、上田豊治(うえだとよはる)さんという自閉症のかたと、そのお母さんが来てくださり、お母さんの幸子さんがお話してくださった。上田豊治さんは3歳の時に自閉症と診断され、その後歩んできた道のりのお話だった。豊治さんはすごく絵が好きだったそうで、小さい頃に描いていた絵を、お母さんがきれいにスケッチブックに貼って保存してあった。その後、切り絵をするようになるが、ものすごい細かな切り絵を丁寧に仕上げる。そして、切り絵作家として活躍するようになった。作品もいくつか展示してくださり、目を見張るものばかりだった。良かったら、こちらを見てくださいね とにかく凄い!自閉症ならではの技かもしれない。かえでも何かこういうことができればいいのになぁと溜息も出てしまったけど、私自身が絵を描くことが好きなので、ただその切り絵にうっとりとしてしまった。3日間の研修で、この上田豊治さんのことが一番強く心に残った。偉い先生のお話はそれなりに勉強になるけど、同じ親としての上田さん親子のお話は本当に印象的だった。研修が終わって、「あ~眠かったぁ」と言った隣の席の人の退屈そうな顔には、ちょっとムカついたけどね 最後に全員で写真を撮ります~と係りの人の声がした。早く帰りたくてギャーギャー泣いていたかえでは、無理やり姉妹と一緒に写真に納まり、不機嫌そうな顔で写っている姉妹は、やはり兄弟グループで友達になった子と住所を交換したり、来年も会おうねと約束していた。こうして、キャンプは幕を閉じた。同室の仲良くなったお母さん達とお別れして、一番お世話になったMさんに丁寧にお礼をし、研修施設をあとにした。疲れたけど、収穫の多い研修だった。かえでにとっては、ちょっと、いやかなり苦痛だったかもしれないけどごめんね~ かえで・・・
2006年06月17日
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かえでが4年生になった時、県の自閉症協会というのに入会した。自閉症についてのいろんな情報が知りたいということが目的だったけど、一番興味があったのが、毎年夏休みに行われている「キャンプ」だった。キャンプと言っても、アウトドアのテントを張って寝泊りするキャンプではなくて、公共の施設を使って、2泊3日の宿泊研修をするもの。一応、入会していないと、キャンプには参加できないので、同じ養護学校へ行っている同級生のTクンのお母さんと相談して、一緒に入会した。このキャンプもけっこうな人気があるそうで、毎年定員オーバーしていて、なかなか参加できないという人もいる。せっかくキャンプのために入会したのに、参加できなかったら意味がない。募集と同時に、Tクンと一緒に申し込んだ。なぜ、こんなにこのキャンプに参加したかったのかと言うと・・・別に大した理由はないけど、かえでの排便ができるようになったことと、比較的落ち着いていたことで、今までに経験したことのないものに挑戦したかったという感じ。2泊3日の間、親子は離れ離れになり、子供は学生ボランティアさんに預けて、親は研修会に参加する。学生ボラさんは、県内の大学・短大・専門学校生がほとんどで、マンツーマンで付いてくれる。事前打ち合わせのために、かえでの担当になったボラさん(すごく可愛いおねえさん)が、キャンプの2週間くらい前に、かえでに会いに来てくれた。大学の教育学部(障害児教育)で、勉強しているというMさん。卒業したら、養護学校の先生になりたい、と言っていた。嬉しいですね!こういう人がたくさんいてくれるってほんとに可愛くて、しっかりしていて、でもちょっと控えめで、静かにじっくり見守ることが上手そうな人だった。食事の様子を見てもらうために、一緒にレストランに行って食事をしたり、夏休みの学童保育に一緒に行って、過ごし方を見てもらったり、公園で一緒に遊んでもらったり、1日掛けて、宇宙人かえでを少しでも理解してもらうようにした。いきなり宇宙人と2泊3日も付き合わせるのでは、可哀想ですものね。このMさんなら安心して任せられそう。 そして、キャンプ当日。車で1時間ほどの湖畔の会場に着くと、体育館に集合した。兄弟姉妹の参加もOKなので、兄弟グループには、別の楽しく過ごすプログラムが用意されていた。我が家も、なかなか泊まりで旅行にも行けないので、このキャンプに姉妹も一緒に連れて行った。何組くらいの親子が集まったんだろう?さすが自閉症児の集まりですわあちこちから泣き叫ぶ声や、すでに脱走した子を追いかけるボラさん・・・先行き不安になった。かえでは、家を出る時にちょっとお腹を痛がっていたけど、時間がなかったので、そのまま出発着くとすぐに、トイレに行きたがったどこにトイレがあるのかもわからない。大きな荷物を抱えて、あちこち聞きながら、やっとトイレを探し当てた しかし・・・私の頭の後ろで、パイプオルガンが鳴り響いたチャララ~ チャララララ~ラ~・・・・・ どこも和式だかえでは、洋式でないとウンチが出来ないのよーーーっ\(◎o◎)/!待てよ?和式でも出来るかもしれないじゃん。こんなピンチの時こそ、チャレンジャーになるのよ!いやがっていたけど、和式のトイレにしゃがませてみた。わはは・・・やっぱりダメでしたボランティアの可愛いMさんとも、まだ会えてなくて、泣きたい気分になってしまう。でも、泣いている場合ではなかった。早く洋式トイレを探さなくては!しかし かえでは、もう便意を我慢できずに、久々にパンツの中にもっこりしてしまったのであったこの出来事の前後、かえではずっと不機嫌極まりなかった。びーびー泣いたり、ギャーギャー怒ったり・・・そりゃそうだよね。ただでさえ、どこに連れて行かれるのか見通しも立たないのに、知らないところでウンチしたくなって、トイレも思うような所がなくて、来て早々にお漏らしもして・・・ごめんね、かえで~ほんとに、かえでには可愛そうなことをしてしまった。私も、ものすごくショックだった。せっかくトイレで出来るようになったのに、もしかしてまた逆戻りしないだろうか。せっかく意気込んでキャンプに来たのに、いきなりこんなことになってしまって、かえでは、落ち着いて2泊3日過ごせるんだろうか。可愛いMさんには、会えないし・・・どうなっちゃうんだろうトイレといえば、「洋式」のことしか頭になかった自分に腹が立った。この事件以来、出かけるときにはトイレがどうなっているか、必ず事前にチェックするようになった。今では、和式洋式問わずにできるようになったけどね^_^;姉妹は、兄弟グループと合流し、初対面の子ばかりでもすぐに仲良くなって、みんなで楽しそうに遊んでいる。ちょっと頭の中の作りが違うだけで、どうしてこうも違うのだろう。多動とファンタジーの世界に浸っている、超過敏な自閉症児Tクンも、かえでよりもっとすごいパニックを起こし、お母さんはかなり大変そうだったいつもなら私が助け舟を出すところなんだけど、その日ばかりは、そうも言ってはいられなかった。情けないやら、悲しいやら、惨めな気持ちやら、焦りやら、不安やら、とにかくいろんな思いで、キャンプは始まったのだった。続く・・・
2006年06月15日
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学校が終わってからの時間、子供さんはどうやって過ごしていますか?いわゆる放課後というのは、宿題をやったり、友達と遊んだり、一人でのんびりとしたり、塾や習い事にいったりするのが、普通の健常な子供達。障害のある子はなかなかそれが出来ずに、ポカンと空いた時間は持て余してしまうだけになっている。かえでもそういう余暇の利用が出来ない子。14時半に迎えに行って、帰宅してからは、家でしっかりつきあってあげられるように、かえでが帰ってくる前に、夕食の下ごしらえや、その他の家事を済ませておかなくてはならなかった。私の性格上、何かを一度にこなせる器用なタイプではなく、ひとつひとつを完璧にやらないと気が済まないので、かえでが帰宅する前に、ボチボチやろうなんてことは、自分の中では許されなかった。養護学校へ来ている子のお母さん達の間で、子供が帰宅すると時間に追われて、慌しくて、兄弟のことや家事が、思うようにできないことが問題になっていた。幸い、かえでの通うA養護学校の分校は、同じ敷地内に障害者の更生施設があり、放課後を、その施設で過ごすことはできないだろうか?という話が出た。専門の職員もいるし、ショートステイ(一時預かり)の受け入れもしているので、ここで学童保育をやってくれたら、すごくいい。何人かのお母さんで、施設の園長先生にお願いに行ってみた。園長先生は、できればそういうことをやっていきたい、でも取っ掛かりがなくてできない。とおっしゃった。私が「じゃ、どうすれば、出来そうですか?」と聞いたら、「力のある人に、会うたびに『困ってます』と訴えてみればいいかもしれない」と冗談交じりに答えてくださった。そこで、娘の同級生のお家のおじいちゃんが、市会議員をやっているのを思い出した。その議員さんなら、顔が広くて、市長とも仲良し♪福祉関係にも強いらしい!みんなに相談して、なんとかアポを取って、ダメ元で行ってみようということになった。いざ、行くぞ~と言う日、一緒に行ってくれるはずのお母さん達が、みんな用事が入ってしまって(ホントかよ?)仕方なく、私一人で行く羽目になったドキドキしながら、議員さんのおうちへお邪魔した。健常児の学童保育も必要だが、障害児にとっても貴重な時間を過ごさせてあげたい。親が面倒見るだけでは、限界がある。放課後の時間を有意義に使えたら、親子ともにリフレッシュできる。議員さんにそういう話をして、またここでも泣いてしまった議員さんはとても納得してくださって、その場で市役所の福祉課へ電話を入れてくれた。更生施設は、近隣のあわせて1市7町から出来ている組合立なので、周りの町にも許可が必要で、次の週にあちこちの福祉課を集めての会合があるから、全部に来年度の予算を組むように言ってみようとおっしゃってくださった。まさか、こんなにトントン拍子で話が進むと思ってなかったので、びっくりしてしまったけど、みんなに報告して、大喜びした。3学期になってすぐに、地元の新聞社から、分校に取材が来た。『4月より、障害児のための学童保育開設』という記事が載るらしい。迎えにいったとき、昇降口で記者の人につかまり、私ともう一人のお母さんが取材を受けた。障害児が放課後の時間を持て余していることや、楽しい時間を過ごせるようになってほしいという願いを話し、少しでもこの子達のことを知ったもらえたら、と思いがいっぱいだった。翌日の新聞に、そのことが載った。かえでの写真はちょこっと載ってたけど、私の顔はちょうど入ってなかった娘が「顔はやっぱりカットされてるわ。年齢だけしっかり書いてあるよ」と言うそうして4月、かえでが2年生になったと同時に、障害児の学童保育が始まった。時間は、午後2時半から5時まで。これで、姉妹の参観会や懇談会にもゆっくり参加できる。夕食の支度も余裕で出来る。かえでも、学校でもない家庭でもない、第3の新しい場所で、放課後を充実して過ごすことができる。家族もかえでも、みんなが満足できる学童保育だった。その後、市や近隣の町でも、障害児のための学童保育をやってもらいたいという声があがり、かえでの利用している所とは別の場所でも、ぜひ保育所を!という活動が始まった。「心身障害児のための長期休暇と放課後を考える会」という長い名前の会が発足し、私も、みんなと一緒に署名運動をしたり、議会へ要望書や陳情書を出したり、ほかの議員さんへお願いに行ったり、議会を傍聴したり、何度も会合を持ったり、とにかく忙しく動いた時期があった。みんなが頑張ったお陰で、あちこちに障害児のための学童保育所が出来た。そこには、中学生や高校生のボランティアも来てくれる。上の娘も、中学時代は夏休みなどは自主的にお弁当を持って、ボランティアに行くようになった。かえでが利用する日は行きたくないそうで、いない日を見つけて行ってくれた。散歩。散歩に行っておやつを買う。みんなでゲームをする。宿題のある子は済ませる。別の保育所との交流。普通の小学校のグランドで遊ばせてもらって、さりげなく健常児と交流。などなど、いろんな企画が盛り沢山で、絶対、家にいては味わえないものばかりだった。学童保育は、いろんな人に潤いを与えてくれたように感じた。「大変だったけど頑張ってよかったね」と言って、当時の仲間のお母さんと笑う私は、今はそんなパワーがないけど、後に続く人たちの役に立ってよかったな~と思うのでした
2006年05月30日
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かえでが、療育施設のこども発達センターへ通っていた頃、通園仲間のほとんどの子が、療育手帳や、特別児童扶養手当なるものをもらっていた。年齢が低いから、まだ申請したばかりという子が多かったけど、うちは、手続きするのが面倒臭かったことや、手帳を持つこと自体、障害を認めているような感じがして、どうも気が進まなかった。手帳を持って、いろんなこと免除してもらったり、毎月お金をもらったりするのって、『かわいそうな人』扱いされているようで、どうしても私のプライドが許さなかった。そこまで落ちぶれてないもん!そんなふうに思っていた。2つ年上の自閉症の男の子は、言葉も出るし、けっこう自立していて、こだわりが強いところだけが難点だったけど、療育手帳はA判定だった。(AとBがあって、Aの方が重度)どうしてこの子がA判定なんだろう?私の知らない隠れた重度な面があるのかな?不思議だったので、その子のお母さんに聞いてみた。A判定なら、・公共交通機関が親子で半額になる。・有料道路も半額になる。・遊園地や動物園、その他の施設(テーマパークなど)が障害者割引になる。・自動車税が免除・NHKの受信料が免除などなど・・・「そういうの使わない手はないでしょ? だから判定の面談の時に、 これも出来ません、あれも無理ですって判定員に言うの。」へぇ~~~・・・そうなんだ。でもうちはお金に困ってるわけではないし、安売りしてるようでイヤだなぁ・・・そう思った。特別児童扶養手当は、1級と2級があって、1級の方が重度。これは県から毎月何万円かもらえる。1級の方が2級より2倍近く多い金額その子は、こっちも1級を持っている。これは医師の診断書が必要で、病院で先生に「重くなるように書いてください!」と半分脅して書かせたようなことを言った。子供の障害を受け入れて、積極的になるとすごいんだなぁとびっくりした。園で、そういった手当てや手帳に関する勉強会があった時、持っていた方が便利だし、困ったときに「この子には障害があります」と証明できると、先生が言った。なるほど!良い意味で、うまく使えたらいろんな所に出て行きやすくなるかもしれない。私も申請してみようかな。そう思って、あちこち問い合わせて、手当てと療育手帳の交付を申請することにした。手帳の判定の面談をしたときは、たまたまボタン掛けやはさみが巧く使えて、たまたまクレヨンで判定員から言われたとおりに、丸が描けてしまって、何だか知らないけど、B判定になっていた。障害が軽いと判定されたことが嬉しいような、税金が免除にならない残念さや、いろんな思いがあって、複雑だった。手当の診断書を病院の先生に書いてもらう時は、先生の方から、「お母さん、今まで大変な思いをしてきたんだから、 もらえるものはもらっておきましょうね。 お金で気持ちは癒されないけど、 これは周りの人たちから、『頑張ってるね』っていう 応援だと思えばいいんですから。 1級になるように、重く書きますけど、 気にしないでくださいね。」と言われた。それを聞いて、障害に対する偏見は私自身の中にあったんだと気がついた。そうだ。もらえるものはもらっておこう。どうせ私は働きにも出られないし、お金はもちろんあった方がいい。開き直ったら、気持ちが楽になった。それから有料道路が半額になる手続きや、自動車税の免除の手続きなどをして、ちょっとラッキーって気分になっている有料道路は、通院通学の利用の場合となっているけど、今では、遊びに行く時や、全く関係ないところでも使っていて、「かえで、ごめんね~」ってな感じバスに乗っていても、周りの人から変な目で見られたら、手帳を印籠代わりに見せながら割引料金を払って、バスから降りる。確かに、障害があることを証明できるし、障害児が外に出て行くには、あったほうが便利だな~と思う今日この頃。もっといろんなことに上手に使って、周りの人たちの理解を求められたらいいなぁ
2006年05月26日
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かえでがこども発達センターへ通園していた3年間の、真ん中の年(年中の時)、先日の日記に書いたような義母のことがあって(→こちら)、うちの父親も定年退職するし、それこそ夫が一人で働いていることになるので、私もパートでお勤めに出ることにした。園の時間が9:30~14:30だったので、その間だけのパート。かえでの送迎をしながら、会社に行く生活が始まった。私が送迎できない時は、家にいるようになった父が代わりにやってくれた。仕事をを始めると、仕事のことで頭がいっぱいになり、家事も育児もという両立は大変だなぁとしみじみ感じた。それでも、良い職場に恵まれて楽しく仕事ができたことは、嬉しいことだった。かえでが年長になる時、役員が回ってきた。それも保護者会の会長だった。もちろんやりたくないので、一旦は仕事を理由に断ったけど、園に子供がお世話になっていることは、みんな平等なので、何事も勉強だと思い、大役を引き受けた。子供が園にいる間に、役員の仕事を片付けないと困ることが多いので、残念だけど、仕事は辞めることにした。辞めたらまた義母に何か言われるかも?と思ったけど、悪いことしている訳ではないし、堂々としていよう!何か言われたら今度ははっきりと、かえでのことを話そう、そう思った。かえでは、給食に持っていくお箸をすぐに噛んでしまって、毎日のようにお箸をダメにして帰ってきた。他にも同じような子がいて、噛んでも折れないお箸がほしいね!と笑ったことがあった役員の用事も毎日のことではないけど、子供を送った後、みんなで話し合いをして、結局そのままランチに行って、14:30まで喋って、迎えに行く・・・というのが定番になって、なんだかんだ楽しい一年を過ごした。園にいる間は守られた空間にいるようで、世間の偏見的な目もなく、唯一安心して過ごせる場所だった。しかし、時間は容赦なく過ぎていき、卒園が近づいて就学の時期を迎えていた。地元の小学校には養護学級がなく、越境して他の小学校の養護学級に通わせるか、養護学校へ行くか・・・養護学校も、A養護学校と、Aの分校と2つの選択肢があった。いろいろ迷い、あちこち見学させてもらったり、悩んだりで、A養護学校の分校に決めた。分校は人数も少なく、大勢を嫌う自閉症のかえでには、落ち着いて過ごせる場所だろうということや、車で10分、知的障害者の更生施設と隣接されていて、通っていたこども発達センターと同じ組合立だったこともあり、施設があると何かと便利だったので。守られた園から、外に出て行くかえでは、3年間で本当にいろんなことができるようになった。卒園式では、その年から始まった花粉症と戦いながら、せっかく新調したスーツを鼻水でグシャグシャにして、泣きながら謝辞を読む私を、隣でポカンとした顔で見上げていた おやつを食べるかえで(*^^)v
2006年05月15日
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前回の日記の書いたように、夫や義母については、あんな感じでちょっと心の距離を置きながら、かえでと二人の娘の育児は、また毎日続いていった。こども発達センターに通うかえでは、年長になる頃、オシッコが一人でできるようになってきて、オシッコに関してはオムツを必要としなくなってきた。身体が平均より大きめだったので、このままオムツを使っていくと、サイズがなくなる当時『はかせるオムツ○ーニーマン』ってのがあった。(今もあるのかな?)それのビッグサイズを使っていたけど、オムツの金額もバカにならないし、オシッコができるようになったのは、本当に嬉しかった。それに、かえでより明らかに重度の発達障害の子が、かえでより先にオムツが取れたというのを聞いて、ちょっと焦っていたこともあったしねオシッコが出来たと喜んではいたけど、ウンチはなかなか出来なくて、いつもパンツの中にしてしまっていた結局、ウンチがトイレで出来るようになったのは、小学校4年生になる頃だったのだけど、諦めかけて、私は一生かえでのシモの世話をしていくのだ!なんて覚悟もしていたので、ある日突然出来るようになった時は、狐につままれたような気分だったあの迷子になった病院(こちらをクリック)へも毎月通って、心理リハビリの先生が、知育玩具で遊びながら、かえでの発達の様子を細かく診てくださった。オウム返しなら、発語があることから、何か欲しがった時に、オウム返しで言わせてからそれを渡すようにしてみましょうと言われた。たとえば麦茶が飲みたい時、かえではクレーンで私の手を引っ張って冷蔵庫に行き、麦茶を出させる。そこでこちらが「お茶」と言い、かえでも「オチャ」と言ったら、注いであげる。何でもそういう感じで物と言葉を一致させてから、要求を満たしてあげる。しばらくそうしていたら、すぐにオウム返しで言葉をどんどん真似していくようになった。なかなか自分から要求している言葉を発することは出来なかったけど、全く言葉らしいものがなかっただけに、オウム返しでも十分に嬉しかった私は歌が好きで、しょちゅう口ずさんでいる♪娘達にうるさいと言われるけど、そのお陰か?かえでも歌が好きで、私が歌ってあげると「もっともっと」という感じで続きをせがむ。その続きをせがむ時に、続きの歌詞を自分でちょっと言うようになった。歌詞といっても、ひと文字かふた文字分くらいだけど、それでも大きな進歩だったある晩、かえでと上の娘と私の三人でお風呂に入っていた時のこと。そろそろ上がろうかと思って、「かえで、そろそろ出ようか?」と声を掛けた。いつもならここで私が「かえでが出るよ~」と外で待っている夫やおばあちゃんに声を掛けて、かえでにも「出るよ」とオウム返しで言わせていた。でもその日、かえでは自分から初めて「でる」 と言ったのだったびっくりした。初めての自分から発した言葉だった。すごく嬉しかった上の娘も「すっご~~~い!! 今、言ったね! かえで、しゃべったね!」と言って、私を見てびっくりしてる。二人で顔を見合わせて、すごいねーーー!と喜び合った。こうして家族でかえでの発達を喜べるって、すごくありがたいことだと思って、上の娘の思いにも、とても感激した。でも、次に娘の言った言葉。「今さぁ、お母さんの方を見て、 『でぶ』って言ったよね!!」「・・・・・・」普通に生まれて、普通に育って、普通に言葉を話して、友達と遊んで、という全く当たり前のことが、かえではできない。言葉は唯一人間だけに与えられたコミュニケーションの手段。宇宙人かえでは、少しずつ「地球」の中の日本の言葉を覚えていってくれた。少し私達のそばに近づいてきてくれたような気がした。めでたい初語記念日だった
2006年05月11日
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かえでが4歳になる頃、母子通園で行っていたこども発達センターに、定期通園をするようになった。この、定期通園をした就学までの3年間で、かえでは大きく成長した入園して1週間くらいが経った頃の、ケース担当のI先生の言葉が今でも忘れられない。「私、今、かえでくんと遊ぶのが一番楽しいの」それを聞いてびっくりした!これまで、宇宙人かえでと遊んで、誰が楽しいと言ってくれただろうか?家族でさえ、母親の私でさえ、手が付けられなくて困っていたというのに・・・今だから言っちゃうけど、私はかえでが自閉症だとわかって、一緒に死のうとも思ったし、どうして私のところに生まれちゃったの?と悲観していたし、お隣の家にも同い年の子がいるのに、どうして普通に喋ったり友達と遊んだり出来るの?とすごく羨ましく思って、ねたんだ事もあった。夫が育児に協力的でないこともイヤで、この人と結婚しなかったらかえでは生まれてこなかった・・・と結婚したことも後悔した。かえでの人権なんて、まるで無視した考えしかできなかったあの頃。私の心の中を、I先生はしっかり見抜いていたような気がした。赤の他人なのに、いくら仕事だとはいえ、かえでと遊ぶのが楽しいといってくれた人は初めてだった。私はダメな母親だったと、すごく反省した。かえでが楽しいと思うことを一緒に楽しんであげていれば、もっとかえでの気持ちがわかったかもしれない。もっとかえでと向き合ってあげなくてはいけなかったんだ。ごめんね、ごめんねと心の中でかえでに謝った。慣らし保育の間は、先生の接する様子をよく見て、私も家ではかえでの気持ちに沿ってかえでの目線で接するように努力した。努力しなくても、だんだんと自然にかえでの気持ちがわかるようになってきた。かえでは、一人で靴が履けるようになり、着替えも少しずつ出来るようになり、ひどい偏食も、ほんのちょっとだけなら食わず嫌いの物も口に出来るようになり、全くなかった発語も、オウム返しでなら言えるようになり、笑顔がたくさん出るようになった七田チャイルドアカデミーのF先生の言葉も、すごく心に残るものだった。「中国の長江(揚子江)は、むこうの川岸が見えないくらいに川幅が広いんですって。 だから、どっちに流れているかわからなくてね、 時には北へ、時には南へ、時には西へ流れているように見えるんだけど、 でもゆっくり穏やかだけど、確実に東に向かって流れているんですよね。 お母さん、かえでくんの成長もそれと一緒ですよ。 成長が見えなくて焦るかもしれないけど、確実にゆっくり成長してるんですよ。 どうか見守ってあげてくださいね」 まだまだ出来ないことの方が多かったけど、かえではゆっくりゆっくりと進歩していった。その頃のかえで^^ 絵本を見たり、人形で遊んだりこれは、園での様子を先生が撮ってくれたもの。こんな姿を見逃さない先生は、やっぱりプロだな!と思う。年長になる頃には、オシッコもトイレでできるようになった
2006年05月06日
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かえでが3歳になって、近くに出来た『こども発達センターつくし(仮名)』の母子通園の募集があり、さっそく応募した。母子通園というのは、それまでも行っていた保健所の親子教室の、少し規模が大きくなったようなもの。4歳になれば定期通園が出来るらしい。いわゆる障害児向けの保育園での、入園前の一年間、母子で楽しんで慣れましょうという教室だった。保健所よりも本格的な療育をしてもらえるし、私の住んでいる市と周りの市町村での募集だったので、応募がかなり多かったらしい。こんなに療育を必要とする子が多いのか!とびっくりした。もっとびっくりしたのは、その説明会で従妹が来ていたこと。「なんで~?」と二人で顔を合わせて驚いた。従妹は「うちの健ちゃん、ダウンなの」「そっか・・・うちは自閉症なのよ」「そうだったんだ。お互い全然気がつかなかったね」みんな隠したいんだよね。親が我が子の障害を認めたくない時期は、前向きになれないんだもん。できれば隠してひっそりと暮らしたいと、ネガティブに考えてしまう。従妹の子(健ちゃん)と、うちのかえでは、揃って週1回の母子通園に参加することになった。健ちゃんは、かえでより2歳年下だけど、ダウン症だから社会性があるので、先生や他のお母さんにもニコニコ笑いかけ、たちまちみんなのアイドル?になった。かえではというと、みんなで輪になってお母さんの膝に入って手遊びをしていても、すぐにトランポリンや、三輪車などの遊具の方へすっ飛んで行ってしまい、何度も何度も連れ戻す。ほかにもそういう子は何人もいたけど、なんだか情けなくて、終わってから泣けてしまうこともあった。 比べちゃいけないけど、どうしても比べてしまう。先生との面談があり、私の思いを正直に言った。「毎日が辛くて、どうしていいかわからないです。 いろんな教育法は取り入れて、頑張っているつもりですが 今ひとつ手応えがなくて、焦っています」先生は、「今までの自閉症児に対する療育って言うのは、けっこうスパルタ式が多かったんです。 でもそういう療育をした結果、思春期以降にすごく荒れてしまう子がいて、 いろんな先生が研究した結果、今のような優しくその子の気持ちに沿いながら 少しずつ社会のルールを教えていく方法が取られるようになったの。 でも今は、まだ研究段階で、その方法が良いかどうかはわからない。 見ていてイライラするかもしれないけど、 ここは長い目で見て、じっくり関わってあげましょう。 かえでくん、はじめは手遊びも無関心だったけど、今日は楽しそうに見ていたね」そう言ってくださった。本当にそれで良いと言うのなら、この際、じっくり関わってみよう。ここでしっかり療育してもらおう。辛くなったら、ここで私たち親子を、まるごと包んでもらおう。もちろん、まだ焦る気持ちはあったけど、それまで背負い込んでいた両肩の荷物を、少しだけ軽く出来たような気がした。
2006年05月02日
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2歳代のかえでは、少しずつ、本当にゆっくりだけど、進歩し始めていた。でもそれは、私にとって少しの進歩が嬉しかったというだけで、先のことは全く考えてもいず、その日一日を過ごすだけで精一杯だった私に、またショックなことが起きた。親子教室に通い始めて数ヶ月経った頃、かえでの成長を一緒に喜んでもらいたかったという理由で、保健婦さんの一人に、「幼稚園には行けますよね。間に合いますよね」と聞いてみた。すると「う~~ん、自閉症の子はねぇ・・・ たぶん、普通の幼稚園や小学校へは行けないと思う。 よくても養護学級、ほとんどの子が養護学校へ行くよ」地元の公立幼稚園に入園するまで、あと2年半。いくら頑張っても、無理だというの???そんなバカな!こんなに私が頑張っても、まともに幼稚園や学校に行けないなんて・・・このまま少しずつ普通の子になっていくものだと思っていた私は、すごくショックだった。自閉症は、治る病気ではなかったのだ。怪我や病気の時のように、手術をしたり薬を飲んだりして治る病気ではなかったのだ。何となく理解はしていたはずだけど、こうして面と向かって言われるとかなりショックが大きかった。私の住んでいる所は、地方だし田舎だし、普通に小学校へ通うことが当たり前という感じがある。まぁ、地元の幼稚園はいいにしても、小学校はどうしたらいいの?周りの人はなんて言うだろう。親戚や友達から、なんて言われるだろう・・・世間体ばかり気にしていた私は、とにかく辛かった。せっかく少し成長が見えてきて、療育にも専念するぞ~と張り切っていた矢先だけに、お先真っ暗になってしまった。ノストラダムスの大予言によれば、1999年7月には人類滅亡の日が来るらしい。その年、かえでは小学校2年生になっている。たぶん、地元の小学校ではない違うところに通っているだろう。世間ではきっと「知恵遅れ」とか言われながら・・・もっと早く、かえでが小学校へ入学する前に、人類滅亡して欲しい!そうすれば、かえでのことは誰にも解らず、みんな一緒に死んでしまうから大丈夫なのに・・・今思うと、マジでこんな幼稚なことを考えていた。でもそれくらい、ショックだった。0歳児教育の七田式は、レッスン教室にも通い始めて、幾何的なパズルや積木など、そういうものをキチキチと並べたりすることは、ものすごく得意な分野になっていった。フラッシュカードやドッツカードという、1秒1枚の速さで見せるカードも大好きになった。それで右脳が開いて普通の知能になると思っていたけど、そう簡単にはいかない。お金は掛かるけど、いつか花咲く日が来るかもしれないと思うと、止める訳にはいかなかった。そうしながらも無情にも日は過ぎていき、かえでは3歳になった。上の娘が地元の公立幼稚園に入園し、送迎の時にかえでを連れて行って、幼稚園で遊ばせてもらうことを許してもらった。園長先生も、かえでのことを理解してくださり、園児が帰ったあとでも、遊具で遊んでくれていいですよ、と温かい言葉を掛けていただいた。毎日の育児で疲れていた私には、とても嬉しい言葉だった。かえでのことを人に話す機会を、自ら無くしていたので(話したくなかった、隠したかったので)理解してもらえる人も少なかったけど、こうして解ってもらえる人がいるのはありがたかった。初めて病院で、脳波検査やMRIなどもやってもらった。いくらレントゲンを撮っても、異常は見当たらない。脳波にも、てんかん波は出ていない。問診からは、自閉症かどうかわからないと言われた。近くの総合病院では専門の医者がいないので、少し離れた大きな病院を紹介してもらった。受診するのは「精神科」・・・聞いただけで、イヤになった。当時の私は、先日書いた弟のこともあってか、とにかく世間体や外見ばかり気にしていた。きっと、私の両親も辛いだろうなぁと思うと、帰宅してからも話をするのがイヤだった。肝心の父親である夫は、仕事帰りに毎日パチンコに寄っていて、何時に帰宅するかわからない。帰宅して私の憂鬱そうな顔を見るのが嫌だったのだろうと思う。私も、毎日の生活にさえ追い詰められていた頃だった・・・
2006年04月30日
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「0歳児教育」の『七田式』を知ってから、それまで療育だなんてめんどくさいと思っていた私は、俄然張り切るようになった。親子教室もかえでを連れて行くのが楽しみになった。そして、東に有名な先生がいると聞けば、夫と私とかえでと3人で出掛けて診察を受け、西で、こういう講演があると聞けば行って聴いたり、それはもう熱心な母親になった。ある先生は「玩具でも家電でも、壊れたら製造元に持っていって修理する。 子供も一緒です。 壊れていたら、お母さんのお腹の中で治すんです。」と言った。お腹の中? 今更どうやって??もちろんお腹の中へ戻すことは出来ないが、お腹の中にいた胎児の時は、周りグルッと180°スキンシップしていたわけで、それと同じくらいに肌と肌のふれあいを大事にしてほしいということだった。普段の抱っこや、お風呂の中、眠る時、とにかくなるべく肌が直接触れるようにする。動物の赤ちゃんは、産まれてすぐに母親が身体を舐める。血液が付いた身体をきれいにするためかと思ったら、それはスキンシップだそうで、産まれてすぐに引き離されて、舐めてもらえなかった赤ちゃんはすぐに死んでしまうそうだ。人間も同じで、産まれてすぐに母親から離された子(乳児院へ入った子など)は、死亡する確率が高いらしい。某乳児院では、夜中に見回りして何度も抱っこしてあげて、無用な死を減らしたとのことだった。荒れてしまった思春期の子や、中味が子供のままの大人。本当はお母さんのオッパイを触るところから、やり直さないとダメだといった言葉が印象的だった。小さい頃の母親とのスキンシップがどれほど大切か、ということ。当時4歳の長女、0歳の次女も大変だったが、それよりまずかえで!七田式教育のスケジュールをこなしながら、毎日スキンシップを欠かさなかった。母親である私の身体は一つしかないから、気持ちはあっても3人に平等に接することは物理的に無理だった。その頃から、近くに住む私の両親と同居することになった。私は一人っ子なので、いずれは夫が婿養子として私の方の姓を継ぐことになっていたけど、かえでのことで大変になってしまったので、この機会に同居&養子縁組をすることになった。夫は、それまでもあまり育児には協力的ではなかったけど、母が毎日居るようになって、ますます育児から遠ざかった。私の不満も募っていったが、かえでのことで精一杯で煩わしいイザコザはあえて避けるようになった。今思えば、夫も義理の両親との同居で、なかなか気持ちが前向きにならなかったのかもしれない。スイミングスクールにも行き始めた。まだ2歳なので、私も水着になって一緒にプールに入る。若い頃は、抵抗なく水着になれたなぁ・・・(遠い目)いろんな刺激を与えてやりたくて、家族でディズニーランドへも行った。私はすごく意欲的だった。そのお陰か、私が「ぴょんぴょん」と言うと、その場でピョコピョコと小さくジャンプするようになったこんな当たり前のような些細なことが出来るようになったことが、すごく嬉しかった。普通の子が当たり前に出来ることが、かえでには全く出来なかった。かえでの成長って、何も基準がない。人と比べることさえ出来ない、独特の世界だった。でも、少しずつ成長していけるかもしれないという予感がした。真っ暗な未来しか見えなかったのが、ほんの少し、明るい光が見えたような気がした。
2006年04月26日
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