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だめだ、全部消す。あったことを短く書いとくよ。その後で、引っかかってることを書きます。 おととい、まちツアーの打ち上げが終わって、それからみー君とつよし君の家へ行った。晩かたは早く寝て、翌朝のワカサギ釣りに備えようという話だったので、つよし君ちへ集まったんだ。けど、その後なんだかんだで呑んでから寝ようという話になって、何故かスナックというところへ連れてってもらった。生まれて初めてのスナックは冬用の長靴をガポガポさせて足を踏み入れた。中にはキラキラしてるおねーさんと、ハスキーボイスのママさんがいて、僕は、場違いな足元からなんだか恥ずかしくなってしまって、がぶがぶ焼酎を飲んでまぎらわしてた。二時に帰って寝て、四時半に起きて、余呉湖へ出発。ワカサギは簡単で、お手軽で、おいしいという、とっても初心者向けの魚で、もーめちゃくちゃに楽しかった。たくさんは釣れなかったけど、餌の赤虫の付け方も最後にはうまくなった。んで、3時くらいまで釣って、つよし君ちに帰ってすぐにかき揚げにして、食べた。うんまかったなー。塩をふって、食べて、しょうゆで食べた。100匹くらいだったので、すぐになくなっちゃった。 で、うちに帰ってねる。今日。朝はごたごた北陸会の準備をしてて、それから長尾さんにいろいろと聞きたいことがあって、公社のハウスで一時間くらい話した。それから、冠荘へ呼び出されて行ったらハセガワさんにチョコレートをいただいた。すごく嬉しくて、わーわー言ってたら、やんわりクギをさされた。それからFM福井へ、午後はミカさんとラジオに出た。もうあんまし緊張せずにしゃべれた。場数は大事だなー。帰りに『たねとはっぱ』でごはんをおごっていただいて、それから帰って北陸会の料理をしてた。ら、大失敗して煮物を炭化させてしまった。溝ママさんへもう一度スジ肉を分けていただきに行って、そのまま晩御飯をいただいてしまった。(ごちそうさまでした)それから、さっきまで役場で今年のエコキャンドルの話し合いをしてた。ああ、ラレツばっかだ。短くないし。 けどま、ここ2、3日はこんな感じでした。 ふるさと自治委員制度で集めたお金の使い道について、その委員会で話し合う場が31日にある。僕はその委員の1人で、何ができるか考えてる。それで、長尾さんやいろいろな人に話を聞いてるんだけど、なかなかムズいなー。一つはこないだの景観のプレゼンの中で考えたものについて掘り下げたことを提案するつもりで、そっちはもう大体カタチはできてて、でもなんか根本的に足りてない気がしてるんだ。まだダメ、何かをそこに足すんじゃなくて、別のなにかも提案すべきなんじゃないのかって考えてる。 あー。さっき溝Jさんと話してて「難しい」て言葉を、思考停止の理由にしている自分がいて、げんなりした。難しい、から考える。難しいけど、やり方はある。そうじゃなきゃだめだなー。 さて、これをよんでいる人には申し訳ないけれど、ここ以降は考えをまとめるために書きます。そして、たぶん生意気なことを書きます。嫌な気持ちになる人がいるかもしれないけど、それでも書きます。伝えようとすることで、頭が自然と整理されるので書こうと思うのです。 池田町の畑を支えているのは、おじいちゃんおばあちゃん達で、そこから下の世代の人はなかなか畑に出ているところを見ない。それは福井の共働き率が高いことも、育児に時間的コストが都市部より余計に必要なことも、畑をしているおばちゃんたちが自立しすぎていて、嫁・娘に手伝ってもらうことをよしとしないっていう地域性のことも、その理由になっている。これは当たり前の現状で、もちろんどうこうしようとも思わないし、できないし、するべきじゃないと思う。ただ、10年先、20年先を見たときに、農地の担い手の世代交代は必ず起こっていく。しかも、その世代交代は5年ぐらいのタームで一気に起こりうることだと思う。80、90になったおばあちゃんがずーっと畑をすることはできないから。でも、その娘の世代の人の中には、畑をしたことがない人がたくさんいて、その人たちは土地を持っていても“畑をしない”という選択をする可能性が高いのかもしれない。そうなったら、多くの農地は荒れてしまう。生産されず、ただただ放棄される。多くの都市ではそれが昭和初期に起こった。近代の工業化で農地が余って、でもそこには住宅や工場がすぐに建った。つまり土地の余剰が生まれないので、放棄されないで、転用されていく。でも農村部においては転用は起こりえず、農地として利用されない土地は、ほとんどの場合荒れてしまう。悲しいほど当たり前のことだけど。これから日本の農村は大変な状況になると思う。 隣の畑でジャガイモやニンニクがつくられているのに、町外へ出て北海道産のジャガイモや中国産のニンニクを買ってしまうかもしれない。大部分の人が、農村に暮らしながら買う生活しか営めなくなって、農村ですらなくなる。(単なる都市以外。つまり、郊外地になる)そして、たぶん膨大な食文化が失われてしまう。おばあちゃん世代の人が、食文化に対してかたくななのは、自ら生産しているという自負がその大きな理由になってるはずだから。 どうやったら、スムーズに文化を受け渡していけるのだろうか。どうやったら、世代交代は途切れさせることなくうまいこといくのだろうか。どうやったら、農村は農村でいることができるのだろうか。どうやったら、その自負や意地を引き継ぐことができるのだろうか。 今、考えることで、話し合うことで、何かができるなら何をすべきか。むずかしいけどできないことじゃない。
2009年01月29日
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昼休み中に書くぞー!かけるとこまで。 ふってはやんで、ふってはやんで、雪はしんしんと降るなー。雪の雲はたいていがスジ状になっているので、どんなに吹雪いても晴れ間が挟まるんだって。おもしろい。今は晴れ間だ。 こないだは、ファーマーズの人とリライムという、温泉とスポーツジムと雀荘と寝るとことマンガ喫茶とレストランと、とにかくいろんなものが詰まった複合施設につれてっていただいた。昼過ぎに行って、面子が足りないということで、生まれてはじめて麻雀を習ってやった。けど、もーややこしくて、僕にはむつかしすぎた。結局、一回だけあがれて、それから面子が揃ったので、僕は抜けて卓の隅で麻雀を覗き込みながら、寄生獣(90年代前半の名作コミック)を読んでた。夕方ぐらいにみんなが揃って、ナベをつつきながらお酒を飲んで、そんなこんなで夜中に佐野さんに送っていただく。のんだなー。坂下さんというF1牛の肥育をしている方と話して、2月2日に牛のセリに連れてっていただけることに。たのしみやなー。 次の日は、スキー場で日中働いたあとに、福井県内の青年団が一同に集う、青年問題研究会へ。班に分かれて、青年問題についてえんえん話し合った。それから講演会なんかもあって、夜はもちろん飲み会。飲みすぎだなー。青年団の人はみんな気さくで、僕みたいのを毎回こころよく受け入れてくれる。帰るとき、3月に帰ることを話したら惜しんでくれて、涙が出そうになった。帰る前に、町内の青年団で開く送別会にも町外からわざわざ参加してくれるって、握手をしながら話してくれた。はー、だんだん別れの場面が増えてくる。僕はこれにすこぶる弱い。井伏翁、聞かせてください。やっぱり、さよならだけが人生なのでしょうか。 夜中にみー君に送っていただいて、帰って眠った。翌、日曜日もスキー場。 その日は、ハタナカさんと一緒にスキーのリフトの索道員をしていた。ハタナカさんは山の木のことや石のこと、草のことをいろいろと教えてくれる。僕が聞いて答えられなかったことがないくらいなんでも知ってる。しかも、それらをすべて"なぶれる"んだ。建材として加工したり、食べるための処理をしたり、とにかくそんないろいろなことを教えてくれて、いつも話の最後に「人間は土にへばりついて生きてる」ってことを言う。今回は昔の話とハサがけの話、それから石の話をたくさん聞くことができた。 その中で、石は故郷に戻るというお話を聞いた。大きな石は少しずつ時間をかけて川を上る。 これはとても不思議なことだと思わない? 小学校の時、理科や地理なんかで、川石は流されて転がって削られていく中で、丸くて小さなものになる。だから上流には大きな石があって、下流に行くほど丸く小さくなって、海に行くころには石は砂になる。そう習った。けどそれは違うんだ。最終的にはそうだけど、石は川の流れをさかのぼる。 潜堀という現象があって、僕はこちらに来て、福井豪雨の映像を見て学んだんだけど、川の流れが橋の足元を削ってしまう現象なんだ。これは川にある大きな石に対しても起こる。文章で書いて説明するのはむずいんだけど、まー、この現象があって、石は少しずつ川を転がりながら、さかのぼっていくんだ。 そのとき、僕はこんなことを思い出しながら聞いてたんだ。進化生物学研究所にいたときに、ランと化石の専門の吉田先生に不思議な植物の話を教わった。たしか、マダガスカル原産の川に生える木で、種子が熟れると、それを枝から川にポチョンと落とすんだ。その音がとてもきれいで、その木の学名には"音楽"という言葉が入ってる。それで、不思議なのは流されながら川底に根をはって、成長するのに、その木は川の上流にも自生してる。種は流れを下っていくから、下へ下へ分布してくはずなのに、上流にもはえてるんだ。マダガスカルに海嘯はないと思うし、どうやって種子が川を溯るのかは分からない。分からないけど、実際にはえてる、って木の話。(進化研の方で詳しいことご存知の方がいたら教えてください。) そんなこんなで、石は故郷に戻りたがるって話。だから、石垣を作るときもそこの石を使わなくてはならない。と、ハタナカさんは言う。で、水木しげるの『のんのんばあとオレ』で拾った石が泣いていて、もとあった場所に戻しに行くというエピソードがあって、つまりは鳥取のほうでも福井でも、おんなじような“石”に関する信仰のようなものがあるんだ。石は故郷へ戻る。庭石はいろんなところから持ってくるから、作庭はバチあたりなことなのかもしれないな。だからか分からないけど、大きな石を据えた後に庭師の人は、お神酒をあげることもある。なんだか、民俗学の面白さに触れたような気がして、嬉しくなった。南方熊楠とか、宮本常一とか、柳田國男は、そんな面白さに触れたんだろうと思う。それで、はまってったんだ。民俗学に。 ああ、時間がない。今夜はこないだの池田まちツアーの打ち上げ会。終わったら、そのまま、青年団のつよし君ちへ行って、夜中からワカサギ釣りだ! 昼休み時間内で書ききったぞー!ぎゃー、わわー。疲れたー。急ぎすぎて、意味不明ですいません。今度はもっと落ち着いて書きますー。あ、チャイムだ!んじゃ!
2009年01月27日
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【きょうの福井の一面】池田町長、オバマ大統領より上。再選記事の写真の位置がですが、すごい。町長は、ありたい大人のひとり。いろいろ影響を受けています。 昨日は町長選で、役場もなんだかそわそわしていた。僕は2時間くらいしか寝てなくて、夕方、町長選の応援会場でどさくさにまぎれて万歳三唱をしたあと、帰ってすぐ寝た。午前3時に高校時代のラグビー部の先輩から電話が来て(体育会系な理不尽さだ!)一時間ぐらい話してからまた布団にもぐりこんだ。寝る前に着信履歴を見て、熊さんから電話があったことを思い出した。「現代農業の甲斐さんから、名前出していいかってー」みたいな話をしてたような。現代農業にふるさと通信が載るとかいう話だったような・・・・・・。気がする、たぶん。さっき役場の皆さんに、思いっきり言い切ってみたけど、夢かもしれない。 でま、今日はわらぞうりを編んでて、それから牛の世話をしていた。母乳をあげることを放棄している初産の若い母牛がいる。子牛があまえようとすると、うっとうしがって蹴るんだ。その子牛は人なつっこくて、母牛のオリを覗き込んでは鳴くんだけど、母牛はわからない。知らんぷりしてるわけじゃない“わからない”って感じなんだ。その子牛に、ペットボトルに偽乳首をつけてミルクをあげた。明日も明後日も、僕がいないときも牛舎のおばちゃんはミルクをあげてる。3ヶ月くらいして、乳離れして、それからまた少ししたら、子牛はもう一度はは離れをする。 牛の世話をしながら学ぶこと。育種という仕事で学ぶこと。むちゃくちゃ大事なことを、匂いや体温とともに学んでいる。感覚に残る記憶は強い。 で、今は役場で、今度のふるさと自治委員のプレゼン用のパワーポイント作りをしてる。はー。いっこはできてきた。今回のテーマは、以後の話し合いを喚起すること。決めすぎてもいけないし、漠然でもいけない。いい硬さでいければいいなー。 少し前にここで書いた、(僕のおじちゃんに顔が似てる)高城さんのブログで『2008年の最後の3ヶ月で、アメリカがここ200年分の紙幣を発行した』という記事があった。ロンドンでもATMでお金をおろすと連番の新札ばかり出てくるそうだ。すごい。すごい、くるってる。たぶん今もそのスピードで 刷り続けられてるんだと思う。そんな話を溝Jさんとしてたら「あー。それ(ドル)、日銀が買ってるんだ」って。何でです!?「円が高くなると大変でしょ。だからたぶん」えー!何でっ!!「トヨタとか困るじゃん」それから兌換とか、本位制とか、日本銀行券とか、つまりはお金周辺のケーザイの話をした。なんとなくだけど、いろんなことが見えてきた。 お金はフワフワしてて流れてて、うそのエンドレス性があって、不安定なものだ。すべがまわる前提の上でシステムが組まれてて、破滅もやんわりくるようにプログラムされてる。 日本の場合、それがうまく行ったのが戦後の40年間くらいで、超お金持ちも超貧乏人もあんまし生み出さずに国全体がシフトできた。大げさな話だけど、最も理想的な経済大国への移行だったと思う。多くの国がイデオロギーや宗教や幻想で、ちからわざで実現しようとしたことを、短期間でできたのだから。単純にすごいことだし、ありがたいことだと思う。僕もすごく享受してるし。 一次産業も、その恩恵をこうむった。お金を払えば、手植えじゃなくて機械が田んぼを植えてくれる。農村に必要な働き手はもちろん減って、仕事が無いから田舎から人が出て行く。働けば生活は豊かになる平和。 そんな流れだったけど、それはすべてがうまく行ってたときの話で、今はそうじゃない。これまでにない次元のやばいことが起こってて、状況が変わりつつある。悲観じゃなくて現実に。 問題なのは、じゃあ、その不安定なシステムにどれくらい自分のウェイトをかけて生きるかということだと思う。自分の生活のどこまでを、システムっていう『客体の塊』に寄り添わせとくか。東京は自給率1%だから、ほとんどの人がそのシステムに依存してるのかもしれない。だから10:0。システム以外に寄辺がない。もし、マーケットに食べ物が無くなったら、大半が餓える。東京人のほとんどが地方出身だから、結局(ふるさとの)生産地とつながってるので大丈夫?今はそうじゃないと思う。東京人3世以降は、つまり江戸っ子に田舎は無いのだから。 農村に生きるじーちゃんばーちゃんは、もちろんケーザイの世界に生きながら、もう一方を、土や手で生活を築く。つまりは5:5か、6:4くらい。年齢とともに右側が増える。でも、イザとなったら、確実に食ってける。つくり手は強いもん。 だから僕も、戻ってからも畑を持ちたいと思う。土に触れていたいと思うんだ。9.5:0.5でもいいから、すべてを乗っかりきらないでおく。そこから始める。 こんな状況で、危機が今だとして、じゃあどうすべきなのかは分からないけど、一つだけいえることがある。 今は世の中がヤバくて、それでも何かすべきで、つまりは、そもそも別の価値観が必要なんじゃないかってことだ。そのために『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』という本や『アフリカ農民の経済』という本は大事なことを教えてくれるだと思う。 どちらも(既存の)そもそも別の価値観について書かれてる。二冊目は読みきれてないけど、一冊目は確実にいい本。興味があればゼヒ。 なーんて。どーなるんかいなー。 そだ、協力隊のHPに僕の感動レポートがアップされました。一生懸命書きましたので、よければ読んでみてください。 あと、今月の広報に『手しごと』について書いてて、それをわらじの師匠が読んでくださってて、よろこんでくださった。毎号必死で書くので、とてもうれしかった。 さてー。ねますかー。なむいねむいねむいー。ぎゃー。
2009年01月21日
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はー、書きます。 とりあえず、今は夜で、景観についてまとめるのがどーにも詰まって、僕の机の脇にダンボール一杯に溝Jさんが置いた景観関係の本をだーっと読んでる。僕はいつもどーにも追い詰められてから勉強をしている気がする。なし崩し的にきっちりやらなきゃいけなくなって、そのたび体力に任せてこんなことをする。うえー、長生きできなそー。 でもいいや。うまいもの食ってればとりあえず幸せだし。今日は人生で一番うまいお豆腐を食べれたのです。 本日、大豆プロジェクトが終了しました。すごくいい形で、いろいろな方に救われる形で。 沢崎マサさん、ミカさん、しこ先生、1小の3年生のみんな、ありがとうございました。とてもいい経験といい勉強になりました。そしていい思い出にもなります。ほんとにありがとう。 こっちに来てすぐ、デザ大で大豆周辺の危機ついて島村奈津さんが話していたことから、勝手に自分の中ではじまった大豆プロジェクト。現実に直面してる町内のおとうふ屋さんのミカさんの言葉、マサさんと子供の日のイベントに向けて準備をしながら考えたことなんかを通して『じゃあ何ができるのか。』そんなことばかり考えていた。ネクラで後ろ向きな僕がまず探す、できない理由は一つもなかった。もちろん、漠然とした目的の“やり方”は知らなくて、でもやらなきゃダメなことははっきりしてて、だからそれで、5月のはじめに、大豆を6粒だけ入れた袋を作ることから始めた。「えだ豆のつくりかた」という書きはじめで、豆を包む緑色の紙には枝豆の育て方が簡単に書いてある。それをイベント当日にとうふ屋さんで配ることで、いろいろなきっかけになればいいなと、思って始めた大豆プロジェクト。結局、当日は雨が降ったりして、それを自分で配れなかったのもあって、ぜんぜん配れなかった。はっきり言ってその時点では完全に失敗してた。あ、だよなーって、ミチのキチの無力感。 そこでマサさんやミカさんが自分の息子のクラスの先生(しこ先生)に掛け合ってくだすって、3年生のクラスで大豆をつくらせていただけることになった。救ってもらった。自分の畑でも早生の大豆を作って、小学校の大豆だけは失敗をしないようにいろいろ勉強した。 結局、僕の畑は院試やら何やらで大事な時期を逃してすべて腐らせ、そこにかけた朝や晩の作業は無駄になって、途方にくれた。畑に入った瞬間カメムシがワーッと飛んでってて、『最悪っちゅうのはこのワーッと飛んでくこの黒い粒のことだ』と思った。絶対に3年生の畑は失敗できないわけで、ふと逃げたくなったりした。毎回畑を見に行くたびにワーッと飛んでく虫を想像して、ゾッとした。 でもそんなこんなで、うまいこと大豆は実って、熟して、それを体育の陸上の授業のハードルにかけて干して、殻をみんなで一つ一つ手で外してった。クリーム色の大豆はコロコロしてて、無垢で、憎いぐらいにかわいらしかった。 それを今日、沢崎とうふで豆腐にしていただいた。3年生のみんなと、豆がつぶされて固まるのをみてた。にがりをなめてお互い変な顔をしたり、すりつぶした豆を「くさい!」「くさくない!」なんて言って、笑った。それで、途中で固まりかけの絹をすこしだけ全員で食べた。白いそれはスプンですくっているうちにぺしゃぺしゃに崩れて、最後は飲むように飲みほした。出来たてのぬくいそれはフワフワしてて、舌でするっと解けてすごくうまかった。子供たちはニコニコして、それでいったん学校に帰って、僕はパックに詰めた豆腐が冷えるのを待った。 できたのを小学校に運ぶ。絹と木綿を1人に半丁ずつ。それから搾ったおからも。職員室の先生に渡して、僕のプロジェクトはそれで終わった。 晩までいろんなことをして、お豆腐を持って溝口家へ。大豆のことをいろいろ話した溝夫妻と食べたくて、持って来たのだった。その時、マサさんがたまたま溝口家にいて、子供たちが大喜びだったという話をしてくだすった。豚と白菜と豆腐とを昆布だしで煮た鍋をつくっていただいた。うまかったです。 あとはとりあえず思いつくままにー。 上荒谷(アラタン!)の清水さんの、一年のお天気占いがすごい。今日は少ししか話を聞けなかったけど、この時期の一ヶ月の天気を細かく見るとその年の一年の天気とリンクしてて、それで表をつくると7割がた当たるらしい。すごい。 あさってから(もう明日か)わらじ作り再開。送別会の話をヤマシナさんがしてくださった。そういう時期だよなー。先々の予定を立ててて、それが3月11日の最後の日まで段々と伸びていく。やだなー。たぶん、一月先のろばたコンサートに目を奪われて、三月の市をやりきると、不意打ちみたく活動は終わる。なすがままみたいな心境には、まだならんわなー。わーん
2009年01月19日
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お兄ちゃん、風邪大丈夫でしょうか。昨日母から電話で知りました。芝居がんばってください。見に行けないけど福井から送ります、応援念を。ぐぬー! ここんとこ書いてた景観についてのプレゼン。久々に緊張して、まだまだダメだけど、とてもいい形でできた。その後もいろいろと話を引き出せた、いい形になった。話をしながら、だー、って肩の荷が下りた。ふーい。 話は変わってそうで変わらないんだけど、僕は小学校の2、3年生くらいまで12と21の違いが分からなかった。【25+43=】なんて問題が出ると、『25は2だからそのままだな、でも43は4と3だから......、はっはーん、答えは59だ!』とか、不安定な理屈で数字をくるくるひっくり返して計算して、ペケを食らってた。 んなアホなって感じだけど、毎度毎度本人が一番そう思ってるのだからどうしようもない。アホだったんだと思う。 それから、僕は一人で緊張すると吃る子供だった。家族から離れて一人になると何もできず、伝えられず、とにかくもどかしい思い出がたくさんある。 外の世界は理解不能で、接触不能。そんな感じが今でもあって、だから何か理解したり何か伝えたりって事がめちゃくちゃ自分の中で重い意味を持つんだと思う。分かった時は嬉しいし、伝わったときにはすごく嬉しい。伝わらないもんだって考えた上で、どこまで伝えられるのか、そんな風にやってる。よく分からない現代芸術は「思想や考えを一瞬で伝えて、共有するもの」って面があることを知って、より好きになった。文字も、行間を含めてかなりの部分を伝えてしまうから好き。音楽はもっと情緒的というか、感情的なものを突きつけるし、映画も劇・記録ともに投げかけてくる。すべてそれ、全部そこ。 でま。プレゼンでは一切写真を使わないで、ほとんど単色でやった。これでどうだぁ! って、簡素な感じのあずきフォントで、言葉で、景観を扱った。やー、不完全で危なっかしかったけど、それも含めてよかったっす。ダメだけど間違ってはいなかった。それで、今はそれをまたレポートにまとめてるとこだ。 そだ、こないだの大根堀りは、もーむちゃくちゃ大変だった。畑への道は雪で閉ざされてるから、スコップで雪を掻き分けながら歩いて進む。大根を載せるためにママさんダンプも引きずって、少しずつ進んだ。わーって吹きつける雪の中、ウォークマンで爆音で音楽をならして、ウオーとか言いながら掘っては掘っては進んでく。一曲終わって振り返るとぜんぜん進んでない。わーん、やるんじゃなかった、ばかー! なんて泣き言を言っても、戻るに戻れない。 「あ、手袋!」 車に忘れたけど、戻れない。(ばかー!)畑まで行くので、一時間弱。もうヘトヘト。やっと畑について、大根は1m以上雪の下にあってスコップである程度掘ったら、傷つけないようにあとは手で掘るんだけど、これももちろん(あほ)素手で掘った。これがほんとに楽しかった。雪を掘ってるとうっすら大根の葉っぱが見えてきて、いたぞー!ってなる。はしゃいでしまう。手はいたい、けど楽しいから続けて掘る。掘ってるうちに手にはしびれる感覚しか無くなってきて、怖くなって手をいったんあっためたりした。そうすると痛さが戻ってくる。そんな感じで結局、収穫は米袋一杯にあった。 帰っておろして食べたけど、苦労とか抜かしておいしい。これは、北陸会で来る協力隊のみんなにも食べさせたろ。まってろよー! 1月の終わりに、北陸に派遣されてる隊員のみんなが池田町に集結する。あわら市のカッツと、白山市のまっこ、友ちゃん、小池くんの3人と、滋賀の朽木にいる誠くんの全部で5人が集まって北陸会をやるんだ。溝Jさんも参加してもらって、盛り上がるぞー! うあー、楽しみなり! それから、年末年始の感動レポートを協力隊の事務局へ送りました。たぶんもう少ししたらアップされると思います。 それからー、それからー、うん、そんな感じです。 最近、ギターの練習ができてない。やばい。けど曲目は決まった。あと、もめた僕と岡村君の2ピースバンドの名前も。 『岡松門左衛門』 いいのかそれで、おかむらぁっ!
2009年01月16日
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池田町、吹雪いてます。雷鳴って、積もってます。たぶん昨日今日で70センチは軽くいくそうです。うひゃーん!「くぁー! ゆきだー! わー!」なんて、日中ははしゃいでましたが、えーっと、帰れなくなるので、帰ります。その前に書きます。 昨日は水海地区の氏子さんの新年会。お酒に釣られて、いつものしめ縄会館へ40分くらい吹雪の中を歩いた。かけつけ三杯で日本酒をコップであおって、はじめから飛ばした。新年会だもん。おっちゃんと話しながら、がぶがぶカン酒を呑む。あっためたせいかなー、頭いたくなんない。こんぱにょんのおねーさんがいるような会で、僕はいろんなおっちゃんについでまわった。で、ご馳走をあんましお腹に入れられないまま、「次!行くぞー!」となった。僕は「やー、いいっすーねー。でも、いいっす。」みたいに言って、やんわり遠慮した。みんなで代行バスに乗り込んだところを僕だけ宿舎で降りて寝る。おっちゃんたちはオトナな街へ。翌日今日は、もーのんびりした感じだった。朝、役場でプレゼンの準備やらしてて、昼に新潟のお土産を持って溝口家へ。お昼に絶品お好み焼きをいただいて、そのまま話し込んでしまった。(5時間も!!)時間たつのがはやいなー。ご馳走様でした!で、それから今までプレゼンの続き。 プレゼンは、僕がぼへーっと観てた池田の景観について、役場の方に向けて発表するということで、持ってるもの総動員でやってる。あー、安請け合いはするべきではないのですね。始まりはいつもの溝Jさんの策略から。溝Jさん 「松浦君って、造園学科だよね?」ケゲンな僕 「あ、確かー、そうです。(ヤな予感)」溝Jさん 「今、役場のメンバーであるプロジェクトが立ち上がってるんだけど」ビクビクの僕「あはい。」タクラム溝J氏「そこで景観についてご講義いただきたいと」くーはくの僕 「えぅ?」悪のJ 「先生!できますよね!? 農大! 造園!」僕という名のアホ 「あ、よゆーです。(ぼくのあほー!)」Jという名のオニ 「じゃ、来週お願い。」後悔の僕 「そらむりです」ということで、なんとか新潟に逃れた僕は、とうとうと流れる時間をどうすることもできず、あっという間に帰ってきてしまい、発表は今週中になったのでした。あーあ。目の前に広がるもの(風景)に対して感じたことをキチンとした言葉にするのは難しいなーってことを感じてる。いつも。伝わるのかなーって。でも、どちらにしてもすべきことなんだろうな、とも思うんだ。写真や絵や音楽でそれを表現できる人はそうするかもしれないけど、僕には文字しかない。文章でしか残せない。“感じ”を文字に変換するのは難しいけど、とにかくやる意味は僕の側にあって。つまり、僕の中ではこの日記をはじめ自分の文章を読むと頭がその日を再生してくれるんだ。見えていたものや感じたこと、聞こえた言葉、音、考えていたことを鮮明に。それで、やってるうちに、これはとてもいい機会なんだと思うようになった。伝わらないとダメ。感情におぼれちゃダメ。伝わる、意味あるもの。でま、まとめてます。だいじょぶかなー。 なんてこと言ってますが、明日は若畑、最後の収穫。決死の覚悟で雪中大根の掘り取りだ!そいでもって煮込んじゃうんだ!溝口家でいただいた牛スジと!うわわー、考えただけでうまそうだー!あとリンクというかブックマークをつくりました。サワザキ氏、デザ研へリンクしました。みなさん、勝手にリンクしてすいません。 ふんじゃー、帰ります。
2009年01月12日
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うあーひさびさな感じがするけど、一週間ぶりくらいか。はやー。今日はじいちゃんちのパソコンから書いてます。とりあえず5日の夕方のフェリーで福井を出て、6日の朝に新潟へきて、おじいちゃんおばあちゃんの家でのんびりしてます。すげー落ち着くなー。食っちゃ寝してました。あとは長嶋有とかジョージオーウェルとか読んでた。さて、にっし。 5日までに終らせることがあって、4日は夜通し役場でいろいろと書いたりしていた。朝、そのまま溝Jさんに提出するものを出して、ヤマシナの兄いにも広報の原稿を渡して、課長に挨拶をしたりしてた。んで、溝パパさんに拾ってもらって、そのまま武生へ送っていただいた(ありがとうございました)。武生から電車で敦賀へ。車内では眠くてガクンガクンとおおげさに、ひざからウトウトしてた。やーねみかったなー。敦賀についてすぐ、観光協会で地図をもらい、自転車を借りた。 原発が見たい。 敦賀へ来る前からずっと、そんなことを考えていた。こちらの人は、原発のことを「ゲンデン」という。最初は何のことか分からなかったけど、少ししてから原発の会社の社名だと知った。僕の居たところには原発はなくて、でも、原子力で発電された電気を使っていることは意識してる。福井には原子力発電をする会社があって、知り合いや親戚がそこで働いている。そうでなくても、もっと近しい位置にあって、会社名で呼んだりするんじゃないかと思う。この呼び方の違いは、とても大きな違いなんだ。 原発はお金持ちで、福井県のいろいろなところにそのお金は使われている。「松浦くんに支払われてるお金の中にも入ってるんだよ。」って言われた時は、「そっかー」なんて、嫌悪感とは違う、変な実感がしばらく残った。 池田町には、いつもスッポンやイノシシを食べさせてくださる猟師のおっちゃんがいて、酒飲みでデタラメ言葉遣いなその人が僕は大好きで、一緒にイノシシをさばいたりする。それで、おっちゃんには僕によく似た息子さんがいるらしい。初めて会ったときはそのおっちゃんは「お前、なんで、ここにいるんだ!?」なんて言ってて、僕を息子さんと本気で勘違いしてたくらいだ。まだ実際に息子さんにあったことはないけど、いろいろな人にも言われるんだ。で、その息子さんは六ヶ所村の再処理施設で働いている。 核施設って知識の中にあるものが、福井に来てから身近になって、同時に「STOP六ヶ所!」と叫ぶ人に決定的な違和感を感じてしまうようになった。どこにも嫌悪感はなくて、それにSTOP!と叫ぶ気持ちはわかる。こわいもん。でも、なんでだろ。わからん。 自転車をこぎ始めると、原発は思ったより遠くにあるということが分かった。市街地を抜けて、峠道に入ってから30分、それでやっと半分。しりが痛い。スゲー後悔。とにかく体はこぐことに集中して、後はほかの事を考える。『また登り道かー』とか考えない考えない、なーんて考えながらこいだ。 地続きにものごとを考えること。これは本当に重要なことだと、あるときから思うようになった。本当にとーとつに、そう考えるようになったんだ。前は、宇宙について夢想して、その材料として本を読んで、高校で仲間で同好会を立ち上げたりして、熱中できた。でも今はそんなことは出来そうにない。それはたぶん、いろいろな事で当事者になってしまったからで、大学に通う前はそれをこそ恐怖していたような気がする。 たとえば「知る→行動する」に、それ以外は無いはずはないわけで。地続きな考え方には、割り切れなさというか、贅肉のようにまとわりついてくる部分がある。決断や行動を妨げるそれはあやふやで、だからこそ明確に大事なものがあるように思う。 たまたま知り合ったある新聞記者の人に、高校を出てすぐの僕は「行動のためには自分に入る情報を選んで削いでいく必要がある。」という話をされた。された瞬間、「それもありかー」なんて思った。僕とはまったく違う考えに、嫌悪感はなかったと思う。ある人は意識して耳をふさぎ、煩雑な事から目を背ける。それでもすべき行動があって、それでなきゃできないことがあって、それでそうする。突破力があるというか、そういう人が歴史の中でも一歩先に立ってきたのだろうと思う。 やっと見えてきた。水島(絲山秋子の『海の仙人』に出てくる、うつくしい島)を右手に見てしばらく、半島の入江にあるのが敦賀原発だった。施設はとにかく大きくて、たくさんの人が働いているようで、奥から奥からひっきりなしに作業服の人が出てくる。 「見学できるところはありますか?」と僕が作業員のおじさんに聞くと、福井の言葉で返ってきた。自転車と僕をあきれたようにながめながら。この辺の人なんかなー。 見学するところは1時間半近くかけて来たのに工事中で、何にも見れなかった。帰ろうとして自転車に乗ると計ったように雨がザンザン降ってくる。おあいにく様です、な感じがひどい。腹が減ったし、汗と雨でびしゃびしゃだし、ああ、これでこけたらすこし泣くなー。とか思いながらこいだ。雨の中の水島はそこだけ明るくて、綺麗だった。 途中にある漁村は消防団の建物や公園は新しくて、家々のトタンはさびていた。村の山手と浜を分断するようにきれいなバイパスが貫き、近くに小学校があるためか、数十mごとに何本もの地下道がパイパスの下を穿ってあった。 ずぶぬれになって、一力へ。チャーシュー麺がうまいラーメン屋で、こないだ来たときに教えてもらったはじめてのお店。さっぱりしてて、しみたなー、うんまかった。 それでやっと敦賀駅へ戻れて、観光協会へ自転車を返して、すぐにベンチで寝た。もうクタクタだったんだ。5時にバスに乗ってフェリーへ。乗ってからはあんまし記憶がない。すぐに2等寝台にもぐりこんで、ずぶずぶと夢の世界にダイブした。八時に目が覚めて、お風呂に入って、少しだけ電話してまた寝た。で、目が覚めたら朝。 豪華で巨大なフェリーにはたぶん、10人くらいしか人が乗ってなくて、申し訳ないくらい快適だった。 それから今週は新潟のじいちゃんばあちゃんの家でくつろいでた。僕は新潟の祖父母に小さい頃預けられていたのですごく落ち着く。70代だと思ってたじいちゃんは80になってて、ばあちゃんは79歳だった。毎日のように肩をもんであげて、昨日は温泉へ一泊した。あす、ドンコーで福井へ帰る。帰ったらろばたコンサートの会議だ。雪がひどくなきゃいいなー。 今日未明から西日本日本海側は大雪だってさー。ぎゃわーん!
2009年01月09日
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『お正月 今年もあるぞ 大晦日』僕のいちばん好きな正月の句です。ノーテンキ。 あけましておめでとうございますことしもよろしくおねがいします わー、やりきったっす。年末年始。やー、たんのしかったー。 では早速、31日から。2008年最後の日は、生ゴミ回収を溝Jさんと回ることから始まったんだ。明け方から、ふぁーっと雪が降っててね、晴れたり降ったりの日だった。生ごみの入った袋を回収しながら、僕はゲリラ雪だるまの設置をもくろんでいたので、手はすぐにびしゃびしゃのひえひえになった。起きてから、今日がなんだか嬉しくってそれをクッと込めるように、2つ~5つの雪ダマを重ねた。そんなこんなで午前中は終わって、それから昼飯を木村さん夫妻と一緒に食べようってことになった。なんと敦賀で、しかもおすしをっ!!(ギヤ)それでお昼に溝Jさんの車にみんなで乗って、高速で敦賀に向かって、デザ大のササイさんと合流して、まずは日本海さかな街へ行った。ここは大きな建物の中に、築地みたいな魚屋さんがみっちり詰まってて、おのおのに客引き合戦をしていて、見ているだけで飽きなかった。塩辛桶を抱えたおっちゃんがアメ横のダミ声で「しおから~あぃ、しおからー」とやってるそばでイケ面がおばちゃんを口説くようにカニを勧めてて、その向かいではかわいい女子店員の黄色い声にお父ちゃん連中が足を止めてる。おばさんは手際よくサバの一本ざしをくるくる焼いてて、淡い青い発砲スチロールに並んだカニは赤く映えて綺麗で、とろろ昆布を削りだすおんちゃんの手際に見とれていると、みんなとはぐれたりした。平屋だと思った建物の隅には上に上がる階段があって、2階には夢の中みたく唐突にダイソーがあった。そこに寄って、木村さんたちのお土産を入れる大きなバッグを買っていく。それからおすし屋さんへ。そこは合流したササイさんのいるお店で、おすしだけじゃなくていろいろな創作料理も出すお店で、お世辞抜きにどれもとっても美味しかった。最後にアツアツの出汁巻き卵が出て、それはそれはフワフワしてて、とにかくんまかった。それからササイさんと別れて、木村さん夫妻を敦賀の駅に送って、それから帰った。帰りしな、「ああ、結婚したい! そして子供が欲しい!」と僕がのたまうと「まずは彼女だろう」と、的確に溝Jさんにつっこまれたりした。 夕方前に池田に着いて、家に帰り、まず僕は寝た。大晦日なのに寝たのは、夜中にビックイベントが待っているからだった。11時に起きて、西角間へ行く。そこでは毎年、在所の方がカウントダウン花火を上げていて、これは絶対みときたかったんだ。会館に待ってると、半助さんや飯田さんたちが集まってきた。それから、みんなで花火を担いで近くの橋に向かう。鉄の筒を立てて、準備を整えて、11時59分。時間をチェックしながら、火薬を筒に詰め、そこに花火玉を入れ、年が明けた瞬間、火種を投げ入れて次々と打ち上げていった。打ちあがった花火は見上げる僕の真上でまん丸にひらき、直後には3号玉なのに音は腰まで響いてきた。わーわー、アホみたく声をあげて、光の広がる瞬間を目に焼き付けていた。それから半助さん夫婦とマサさんとぞろぞろ連れだって初詣に行った。まずはお宮さんに行って、それからお寺に。マサさんとは秋ぶりで、いつも一緒に作業しながら半助さんに米作りを教わっていた。まだ20代で、いつも兄ちゃんみたく接してくれる。「やー、もうあえんかと思ったわ、今度呑みいこうな」「えー!秋吉がいいですっ!ひね鳥!!」いつもみたくそんな話をした。 それから、みんなと別れて、大本集落の八幡さんへ。ここで、本日のメーンイベント、『禊』に参加した。禊は、元旦の朝四時すぎに、大本集落の厄男がお払いを受けたのがはじまりみたいなんだけど、今は厄男だけじゃなく、町内外からいろいろな人がお払いを受けに来る。というのも、禊では意味どおり、必ず裸で川に浸かって体を清める必要があって、これがとにかく寒くてキツイんだ。山中の集落で雪が降る正月の一番寒い時間に川へ入るのだから、もう普通の感覚じゃない。でも、不思議なことに入った人はその年は風邪をひきにくくなるらしくって、それで健康のために(?)って毎年やってるおっちゃんもいるくらいなんだ。とにかくもう、凄いらしい。いろんな人に聞いて、その人に「実際に見るとどんな感じなんですか?」って尋ねると「見てない。けど、凄いらしい」っていうんだ。それは見てやろうじゃないかと。地雷を見ると踏まずにはいられない性格の僕は、参加することに決めたんだ。後厄だし。 でね、これは前にここで書いたダムの話にも繋がってくるんだ。この地区も含まれる下池田の大半がダムに沈んでしまうって話。それで、この八幡神社ももちろん沈む。大本のおっちゃんは、残念そうに「たぶんこの行事も来年が最後だろうな」って言うんだ。 3時。今年は例年よりも人数が多くて、老若男々町内外の人が揃った。みんなで八幡神社の囲炉裏にちぢこまってあたりながら話してて、記帳をしながら神主さんのお話を待っていた。それから神主さんが諸注意のあとに「4時半に始めます」ということを話してから、わらじを配りだして、僕は自分で持ってきたわらじを履いた。みんな時間が近づくと少しずつ服を脱いでいって、最後には肌着一枚になって震えながら待つ。「よし!たいまつに火をつけろ!」という声がかかると、みんなが一気に服を脱いで、「おお!(寒いっ)」と口々に叫んだ。その「おお!(寒いっ)」は重なるとしだいに狂気みたいな響きを帯びてきて、叫びは雄叫びになって次々に上がり、小さな社でうねって大きくなっていった。一番男がたいまつを持って社から駆け出すとどんどん続いて川へ駆けていく。「わっしゃーぃ!わっしゃーぃ!」僕もそこに同調していて、溶け込んでいて、そこからは寒さも何も感じなかった。みこしを担ぐ時と同じ興奮と陶酔がそこにあって、一つ違うのは痛みが伴うことだけだった。寒くて体が震えることはすでになくて、もう熱くも寒くもなくて、たぶん体が熱を感知することを拒否していたんだけど、かわりに痛覚は警告しまくってる感じがした。川に入るとそれは全身に広がっていく。ばしゃばしゃ流れを掻き分けて川の深みに向かうと、痛みは酷くなって、一瞬、「あー死ぬかも」って怖くなる。全身浸かってから、ゆれるたいまつの火の美しさを、黒い川面に浮かぶオレンジのキラキラを見て、陶酔にもたれてようとしてみる。そうして恐怖をごまかそうと思うんだけど、痛みは川に浸かる体を現実に引き戻して繋ぎとめる。『痛い!いたい! い!た!い!』恐怖ギンギン感じる。息を吐け!息を吐いて!腹式呼吸で!ダメ、だ!と思ったときには体が岸に向かっていた。生存本能はぶざまで、流れに足を取られて転んで、もがいた。頭の隅で「あーあ。」という声が聞こえた。岸に着くと、杖をついたじいちゃんが川へ入ろうとしていて、僕は『ダメだ、じーちゃん死んじゃうよ!』と手を伸ばした。でも、自分の視界に僕の手が入ると、「ダム」とか「さいご」とか、単語がパパッと浮かんで手がすくんだ。じーちゃんは震えながら僕の手を取って、つかんで、杖、足、手、杖、足、手、と順番に踏み出していった。しわの中の黒目がちの瞳に正視されて、僕は頭を打ち抜かれたように立ちすくんでしまった。振り返りることができなかった。続いて入ろうとするヤマシナさんの手にカメラがあって、それをひったくるように受け取って、僕は川から上がった。想像以上の力につかまれた右手はジンジンしていた。 のしのし歩いて社へ戻る。頭はしびれて、足は痛くて、ひどい顔だったと思う。走って戻ると風邪をひくという話を思い出して、雪を踏みつけるように歩いた。社に入る間、狛犬の上に積もる雪がこっけいで、笑った。凄い状況が押し寄せて、死ぬかもって思って、死にたくなくて、痛くて、生きててだから、へんになってた。シャツとパンツを身に付けて、足を囲炉裏であぶった。肌着だけでも寒くなかった。ふと横を見ると、さっきのじーちゃんはパンツ一丁で笑っていた。年季が違うわなー。それからお払いをしてもらって、榊を捧げて、お神酒をいただいた。 それから、きまま倶楽部の皆さんとお酒を呑んだ。美味しいお酒とおせちと、雑煮で腹いっぱいになって、そのまま夜が明けるころにコタツで寝てしまった。 明けて元旦。はじめての雪道で、いろいろへこんだ。午後は役場で仕事をし、牛の世話をした。 2日は町長の家へ挨拶に行き、そのまま遅くまでそこにいた。スミさんの作るものは美味しいものしかなかった。納豆汁、かぶら寿司、おせち。笑って、うなずいて、また笑っていた。あいまあいまに食べては呑んでいた。そうして、お酒はひさびさに若い呑み方をして、しばらくぐったりした。 んで、3日、今日は青年団の人と福井満喫ツアー。敦賀へ行ってヨーロッパ軒でソースカツ丼を食べ、三方五湖ではしゃいだ。夕方帰って、明日までにすべきことを片付けていた。おわらねーおわらねー。5日までに終わらせて、きれいな体で新潟へ行きたいなー。 というのが僕の正月でした。やー、いい正月だった。いつも通りいきおいで書いて、途中でへばってしまいましたが、長いのに読んでくださってありがとうございました。それではー
2009年01月03日
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