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小倉百人一首 九十六入道前太政大臣(にゅうどう・さきのだいじょうだいじん)藤原(西園寺)公経(ふじわらの/さいおんじきんつね)花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり花を誘って散らす春の嵐で庭は雪が積もったように一面真っ白になっているが降りゆくものは 古ふりゆくものは花ではなく むろん雪でもなくてわが身なのだなあ。註花さそふ:花を誘って散らす。「花」は桜。ならで:~ではなくて。断定の助動詞「なり」の未然形「なら」に打消しの接続助詞「で」がついたもの。ふりゆく:(雪のような花びらが)「降りゆく」(降り積もってゆく)と、(わが身が)「古ふ(旧)りゆく」(古語動詞、老いる・古びる)を掛けている。「古ふる」は現代語「経る」の語源だが、ニュアンスは異なる。なりけり:~なのだなあ。同上の断定の「なり」の連体形に、詠嘆の助動詞「けり」がついたもので、ふと気づいてしみじみ感じ入ったというニュアンスを帯びる。当時の最高権力者である太政大臣にまで昇りつめて朝廷の実権を掌握し、京都・北山に壮麗な西園寺(現・鹿苑寺、通称「金閣寺」の前身)を建立し位人臣を極めた実力者が、比類ない栄耀栄華の遊宴の日々の中でふと感じた老いの哀しみ。絢爛たる庭園に降りそそぐ花吹雪のイメージから一転して白髪の老人の嘆きに着地させているが、和歌ではしばしば見られるモチーフであり、「ふる」の掛詞なども使い古された技巧で、発想は凡庸とも評される。が、この平凡さこそが、この国の政治の世界での成功に今も昔も必要とされる「協調性」を示唆しているのかもしれない。要するに、現代語でいえば、きわめて平凡な表現「歳は取りたくないものだ」と言っているだけという気もする。小倉百人一首は、撰者・藤原定家が私家版アンソロジー(詞華集)としてまとめたもので、今でいう何かの記念の小冊子みたいなものである。作者たち(当時の時点でもほとんど故人)それぞれの人柄が偲べれば良かったのかも知れない。歌集としての著名さに比べて、内容は必ずしも名歌揃いでないことは、古来よく知られている。なお、忠臣蔵でおなじみの浅野内匠頭長矩の有名な辞世歌「風さそふ花よりもなほわれはまた春の名残をいかにとやせん」(風をみずから誘って散る花よりもなお無残に散る私は、青春の心残りをいったいどうしたらいいのだろうか)はこの歌を踏まえた秀作である。
2021.07.13
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小倉百人一首 九十七藤原定家(ふじわらのさだいえ、ていか)来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩もしほの身もこがれつつ新勅撰和歌集 849 / 家集『拾遺しゅうい愚草』来てはくれない人をひたすら待つ松帆の浦の時の止まったような夕凪にじりじりと焼け焦げているのは藻塩でしょうか。いいえ わが身が恋い焦がれているのです。註小倉百人一首、新古今和歌集の撰者自らによる97首目。万葉集 935・笠金村(かさのかなむら)の長歌「名寸隅(なきすみ)の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海人娘子(あまをとめ) ありとは聞けど 見にゆかむ 縁(よし)の無ければ ますらをの 情(こころ)は無しに 手弱女(たわやめ)の 思ひたわみて 徘徊(たもとほ)り われはぞ恋ふる 船楫(ふなかぢ)を無み」(名寸隅の 船着き場から見える 淡路島の 松帆の浦に 朝凪には 玉藻を刈り 夕凪には 藻塩を焼いている 海女の乙女が いると聞いたが 逢いにゆく 手だてがないので 益荒男の 凛々しい心はなく 手弱女のように 思いが撓んで 行きつ戻りつ わたしは思い焦がれるばかり 船も漕ぐ櫓もないので。)の本歌取り。万葉集の本歌は若い男の側から詠っているが、こちらは女の立場になって詠んでいる。松帆の浦:淡路島北端の歌枕(名所)。現・兵庫県淡路市岩屋松帆浦。本州側の名寸隅と最も近い海岸。「(来ぬ人を)待つ」と「松」がかけてある。藻塩もしほ(もしお):古来の製塩法で、海藻を集めて簀(す)の上に積み、海水をかけたものを焼いて水に溶かし、その上澄みを釜で煮詰めてとる塩。「藻塩もしほ焼く」は、その方法で塩を作ること。古くからこの地方の名産。「焼く」「藻塩」「焦がれ」はそれぞれ縁語。 淡路市(淡路島)岩屋地区ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2021.07.10
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小倉百人一首 九十八従二位家隆(じゅにい いえたか、藤原家隆・ふじわらのいえたか)風そよぐならの小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりける新勅撰和歌集 192風がそよ吹いて楢の木の葉を揺らしている京の奈良の小川の夕暮れは(もう秋が来たかのように涼しくて)ただみそぎの儀だけがまだ夏であることの証なのだなあ。註なら:「楢」(の木)と「奈良」を掛けている。奈良の小川:京都・上賀茂神社の近くを流れる御手洗川みたらしがわの別称。上賀茂本殿の東に奈良社という摂社があり、そのほとりを流れているのでこう呼ばれた。みそぎ(禊):河原などで水をかぶって身を浄め、罪や穢けがれを洗い落とす宗教的な行事。ここでは「六月祓みなづきばらえ」神事の潔斎をいう。神道では、毎年旧暦の六月三十日(新暦の7月末~8月初め頃)に六月祓(夏越なごしの祓)として、その年の前半の罪や穢れを祓い落とす儀式が行われた。その後、神に奉げた神酒を参加者全員で戴く「直会なおらい」が行われた。大晦日の晦日祓みそかばらえと対応する重要な行事で、古く日本書紀にも記述が見られる。語源は、神聖の意味の「御み」と「濯そそぐ」であろう。しるし:証拠。「(みそぎ)ぞ・・・(なり)ける」は強調の係り結び。* 以下の2首を巧みに換骨奪胎した本歌取り(パスティーシュ)。作者が活躍したのは鎌倉時代初期で、奈良・万葉時代の素直で雄渾素朴な歌風はすでに遠く、このように繊細な彫琢と洗練を旨とする歌作りの時代となっていた。むろん、現代の目で見ればどちらがいい悪いということはないが、明治の巨人・正岡子規が古今集以降の歌風を激しく攻撃し、万葉調の復興を強く鼓吹したことから、近代歌壇ではその影響が強く支配した。いうなれば一種のルネサンス(リナッシメント、西欧中世の沈滞を打破した文芸復興)と相似の思考だったといえよう。ついでにいえば、明治維新は政治におけるルネサンスだったとも言い得るか。なお、本歌2首も、それぞれに秀歌である。八代女王やしろのおおきみ「みそぎするならの小川の河風にいのりぞわたる下に絶えじと(禊をしている奈良の小川の河風に吹かれながらひたすら祈っているのです、わたしたちの秘めた恋が決して絶えることなく密かに続きますようにと)」(新古今和歌集 1376)源頼綱みなもとのよりつな「夏山の楢の葉そよぐ夕ぐれは今年も秋の心地こそすれ(夏山の楢の葉がそよいでいる夕暮れは涼しくて、はや今年も秋が来たような気がするなあ)」(後拾遺和歌集) オーク(楢) Karl-Bekehrty-Straßeウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2021.07.03
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小倉百人一首 九十九後鳥羽院(ごとばいん)人もをし人もうらめし あぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は続後撰和歌集 1199人間がいとおしくもあり人間が恨めしくもある。つまらないと世を思うゆえに物思いに耽る身には。註をし(愛し、惜し):いとしい。いとおしい。いじらしい。うい。現代語「惜しい」の語源であるとともに、「うい」ともおそらく語源的関係があるか。あぢきなし:つまらない。面白くない。現代語「あじけない」の語源だが、「味気ない」は当て字でありニュアンスも異なる。後鳥羽上皇は、33歳でこの歌を詠んだ9年後、鎌倉幕府に対して承久の乱を起こし、敗れて隠岐島へ配流の身となり、そこで崩御した。この後鳥羽院の傍に長年仕え、「新古今和歌集」の選者でもある当時の和歌の泰斗・権威(日本文化トップ)の藤原定家は、私家版のミニチュア・アンソロジーともいうべき小倉百人一首の99首目にこの歌を配置した。その意図については、古来幕府(武家政権)への「精神的懲罰説」ひいては「呪詛説」など禍々しい巷説が囁かれてきたが、それほどではなくとも、名状しがたい深い同情・悔恨・懐旧、思慕の念など万感の思いが込められていることは確かと思われる。 百人一首 「人もをし飛ともうらめし阿ち記なく」ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメインの
2021.06.30
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小倉百人一首 九十九後鳥羽院(ごとばいん)人もをし人もうらめし あぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は続後撰和歌集 1199人間がいとおしくもあり人間が恨めしくもある。つまらないと世を思うゆえに物思いに耽る身には。註をし(愛し、惜し):いとしい。いとおしい。いじらしい。うい。あぢきなし:つまらない。面白くない。後鳥羽上皇は、33歳でこの歌を詠んだ9年後、鎌倉幕府に対して承久の乱を起こし、敗れて隠岐島へ配流の身となり、そこで崩御した。 百人一首 「人もをし飛ともうらめし阿ち記なく」ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2014.11.26
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○百人一首ゆかりの地 発信へ栃木・宇都宮で全国かるた大会北関東初の公式戦 来月24日【下野新聞(栃木) 25日付朝刊1面トップ】 百人一首ゆかりの地である宇都宮市を全国に発信しようと、「蓮生れんじょう記念 第1回全国かるた競技宇都宮大会」(全日本かるた協会主催)が11月24日、市体育館「ブレックスアリーナ宇都宮」で開かれる。同23日に同体育館で行われる市の「うつのみや百人一首市民大会」が開催20回目を迎えるのを記念して市と宇都宮かるた会(加藤光伸会長)が招致した。北関東では初めての全国規模の公式戦で、全国から約700人が参加し、熱戦が繰り広げられる見通しだ。 「小倉百人一首」は、宇都宮5代城主の宇都宮頼綱(法名・蓮生)の娘と藤原定家の息子が結婚し親戚となった関係から蓮生が定家に依頼し、まとめられたとされる。 市は市制100年を契機にうつのみや百人一首市民大会を開催。多くの市民が参加できるよう初級クラスの個人戦と小学生、中学生、高校生、ファミリー、ファミリー初級の各団体戦を行い、日本一の規模を誇る市民大会になっている。 今回の同宇都宮大会は、四段以上のA級、二、三段のB級、初段のC級、初段を志す人のD級の4区分で実施。全国から約700人の参加者を見込んでいる。 同宇都宮大会の募集は10月31日まで。参加費はA、B級2500円、C級2千円、D級1800円。問い合わせは、宇都宮かるた会の加藤会長、電話028・633・5087。(小林亨)
2014.10.25
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小倉百人一首 九十八従二位家隆(じゅにい いえたか、藤原家隆・ふじわらのいえたか)風そよぐならの小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりける新勅撰和歌集 192風がそよ吹いて楢の木の葉を揺らしている京の奈良の小川の夕暮れは(もう秋が来たかのように涼しくて)ただみそぎの儀だけがまだ夏であることの証なのだなあ。註なら:「楢」(の木)と「奈良」を掛けている。奈良の小川:京都・上賀茂神社の近くを流れる御手洗川みたらしがわの別称。上賀茂本殿の東に奈良社という摂社があり、そのほとりを流れているのでこう呼ばれた。みそぎ(禊):河原などで水をかぶって身を浄め、罪や穢けがれを洗い落とす宗教的な行事。ここでは「六月祓みなづきばらえ」神事の潔斎をいう。神道では、毎年旧暦の六月三十日(新暦の7月末~8月初め頃)に六月祓(夏越なごしの祓)として、その年の前半の罪や穢れを祓い落とす儀式が行われた。その後、神に奉げた神酒を参加者全員で戴く「直会なおらい」が行われた。大晦日の晦日祓みそかばらえと対応する重要な行事で、古く日本書紀にも記述が見られる。語源は、神聖の意味の「御み」と「濯そそぐ」であろう。しるし:証拠。「(みそぎ)ぞ・・・(なり)ける」は強調の係り結び。* 以下の2首を巧みに換骨奪胎した本歌取り(パスティーシュ)。作者が活躍したのは鎌倉時代初期で、奈良・万葉時代の素直で雄渾素朴な歌風はすでに遠く、このように繊細な彫琢と洗練を旨とする歌作りの時代となっていた。むろん、現代の目で見ればどちらがいい悪いということはないが、明治の巨人・正岡子規が古今集以降の歌風を激しく攻撃し、万葉調の復興を強く鼓吹したことから、近代歌壇ではその影響が強く支配した。一種のルネサンス(リナッシメント、西欧中世の沈滞を打破した文芸復興)と相似の思考だったといえよう。ついでにいえば、明治維新は政治におけるルネサンスだったとも言い得るか。 なお、本歌2首も、それぞれに秀歌である。八代女王やしろのおおきみ「みそぎするならの小川の河風にいのりぞわたる下に絶えじと(禊をしている奈良の小川の河風に吹かれながらひたすら祈っているのです、わたしたちの秘めた恋が決して絶えることなく密かに続きますようにと)」(新古今和歌集 1376)源頼綱みなもとのよりつな「夏山の楢の葉そよぐ夕ぐれは今年も秋の心地こそすれ(夏山の楢の葉がそよいでいる夕暮れは涼しくて、はや今年も秋が来たような気がするなあ)」(後拾遺和歌集) オーク(楢) Karl-Bekehrty-Straßeウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2014.05.28
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小倉百人一首の日
2014.05.27
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小倉百人一首 九十七藤原定家(ふじわらのさだいえ、ていか)来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩もしほの身もこがれつつ新勅撰和歌集 849 / 家集『拾遺しゅうい愚草』来てはくれない人をひたすら待つ松帆の浦の時の止まったような夕凪にじりじりと焼け焦げているのは藻塩でしょうか。いいえ わが身が恋い焦がれているのです。註小倉百人一首、新古今和歌集の撰者自らによる秀歌。万葉集 935・笠金村(かさのかなむら)の長歌「名寸隅(なきすみ)の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海人娘子(あまをとめ) ありとは聞けど 見にゆかむ 縁(よし)の無ければ ますらをの 情(こころ)は無しに 手弱女(たわやめ)の 思ひたわみて 徘徊(たもとほ)り われはぞ恋ふる 船楫(ふなかぢ)を無み」(名寸隅の 船着き場から見える 淡路島の 松帆の浦に 朝凪には 玉藻を刈り 夕凪には 藻塩を焼いている 海女の乙女が いると聞いたが 逢いにゆく 手だてがないので 益荒男の 凛々しい心はなく 手弱女のように 思いが撓んで 行きつ戻りつ わたしは思い焦がれるばかり 船も漕ぐ櫓もないので。)の本歌取り。万葉集の本歌は若い男の側から詠っているが、こちらは女の立場になって詠んでいる。松帆の浦:淡路島北端の歌枕(名所)。現・兵庫県淡路市岩屋松帆浦。本州側の名寸隅と最も近い海岸。「(来ぬ人を)待つ」と「松」がかけてある。藻塩もしほ(もしお):古来の製塩法で、海藻を集めて簀(す)の上に積み、海水をかけたものを焼いて水に溶かし、その上澄みを釜で煮詰めてとる塩。「藻塩もしほ焼く」は、その方法で塩を作ること。古くからこの地方の名産。「焼く」「藻塩」「焦がれ」はそれぞれ縁語。 淡路市(淡路島)岩屋地区ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2014.05.04
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小倉百人一首 九十六入道前太政大臣(にゅうどう さきのだいじょうだいじん)、藤原(西園寺)公経(ふじわらの/さいおんじきんつね)花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり花を誘って散らす春の嵐が庭一面を雪が積もったように真っ白にしているが降りゆくものは 古ふりゆくものは花ではなく むろん雪でもなくてわが身だったんだなあ。註花さそふ:花を誘って散らす。「花」は桜。ならで:~ではなくて。断定の助動詞「なり」の未然形「なら」に打消しの接続助詞「で」がついたもの。ふりゆく:(雪のような花びらが)「降りゆく」(降り積もってゆく)と、(わが身が)「古ふ(旧)りゆく」(古語動詞、老いる・古びる)を掛けている。なりけり:~だったんだなあ。同上の断定の「なり」の連体形に、詠嘆の助動詞「けり」がついたもので、ふと気づいたというニュアンスを帯びる。 太政大臣にまで昇りつめて朝廷の実権を掌握し、京都・北山に壮麗な西園寺(現・鹿苑寺、通称「金閣寺」の前身)を建立し位人臣を極めた最高権力者が、比類ない栄耀栄華の遊宴の日々の中でふと感じた老いの哀しみ。絢爛たる庭園に降りそそぐ花吹雪のイメージから一転して白髪の老人の嘆きに着地させているが、発想はやや凡庸とも評される。 忠臣蔵でおなじみの伝・浅野内匠頭長矩の辞世「風さそふ花よりもなほわれはまた春の名残をいかにとやせん」(風が誘って散らす花よりもなお無残な私は、青春の心残りをいったいどうしたらいいのだろう)はこの歌を踏まえているのだろう。
2014.03.17
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小倉百人一首 九十五前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣そまにすみぞめの袖千載和歌集 1137身のほど知らずながら憂うれい多き世の民に私は覆いかけるのだなあ。伝教大師が「わが立つ杣」と言いたもうたこの山に住みはじめたばかりの私の墨染の法衣を。註 天台宗の開祖、伝教大師・最澄が22歳の時、比叡山の根本中堂建立こんりゅうに際して覚悟を披瀝したという道歌どうか(思想・信条を詠んだ歌)の「阿耨多羅あのくたら三藐三菩提さんみゃくさんぼじの仏たちわが立つ杣そまに冥加みやうがあらせたまへ」、および「あしひきの山べに今はすみぞめの衣の袖は干ひるときもなし(恋に破れ世を儚んで山あいの寺に住みはじめた私の法衣の袖は涙で乾く時もない)」(古今和歌集 844、よみ人知らず)の本歌取り。千載集に「法印(僧侶の階級)慈円」とあることなどから、作者が気宇壮大なこの歌を詠んだ時期は20代末から33歳以下の若さだったと特定されている。作者はのちに天台座主ざす。おほけなく:古語形容詞「おほけなし」の連用形。おこがましく。差し出がましく。僭越ながら。身の程をわきまえず。つたなくも。畏れ多くも。もったいなくも。大胆にも。語源は「負ふ気(け)なし」(自負、自信がない)ともいわれるが未詳。作者は関白・藤原忠通の子という貴公子で、つとに才智を謳われたが、ここでは謙遜の辞を述べている。憂き世:憂きことの多い世の中。つらい世間。後世、軽佻浮薄、根無し草といったニュアンスを加えて「浮世」とも書くようになり現在に至る。杣そま:植林した木が生い茂る山。上記の最澄の歌とこの歌により、「わが立つ杣」「杣山そまやま」(あるいは単に「杣」)は天台宗総本山・比叡山延暦寺の別称となった。すみぞめ:「墨染すみぞめ」(僧衣のこと)と比叡山に「住み初ぞめ」を掛けている。墨染すみぞめの袖を覆ふ:僧侶として仏教によって衆生しゅじょうを導き済度さいど(救済)することを言った。
2014.03.14
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砧小倉百人一首 九十四参議雅経(さんぎまさつね、藤原雅経・ふじわらのまさつね、飛鳥井雅経・あすかいまさつね)み吉野の山の秋風小夜さよ更けて ふるさと寒く衣ころも擣うつなり新古今和歌集 483み吉野の山颪やまおろしの秋風に小夜は更けて古い都に寒々と衣を打つ音が聞こえている。註藤原(飛鳥井):姓が藤原、苗字が飛鳥井。ふるさと:現代語の「ふるさと(故郷)」とは異なり、古い京(みやこ)、廃都の意味。衣ころも(を)擣うつ:昔の布地は目が粗かったので、木や石の台に布を載せ砧きぬたという柄のついた太い槌つちで叩き、繊維を柔らかくするとともに艶を出した。主として女性の夜なべ仕事で、寒さに備える秋の夜の風物詩だった。なお、砧の語源は「衣・板(きぬいた)」ともいわれ、もともとは板状のものだったのかも知れない。古来布づくりが盛んだった現在の東京近郊・多摩川周辺に点在する「調布」(租庸調の税みつぎものとして布を納めた)や「砧」などの地名はその名残。 砧 ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2014.03.02
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小倉百人一首 九十三鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん、源実朝・みなもとのさねとも) 世の中は常にもがもな 渚なぎさ漕こぐ海人あまの小舟をぶねの綱手つなでかなしも新勅撰和歌集 525世の中は常に変わらずにあってほしいなあ。渚の汀みぎわを漕いでゆく漁師の小舟を浜から曳いているさまが面白くもものがなしいよ。註時代の動乱の渦に巻き込まれて夭折した悲劇の貴公子の、一種の放心したような視線が印象的な秀歌。○ 吹黄刀自ふきのとじが十市皇女といちのひめみこに贈った歌「河の上へのゆつ岩群いはむらに草生むさず常にもがもな常処女とこをとめにて(河のほとりの聖なる岩群に苔は生えない。そのようにいつも変わらずにいらっしゃいますように、永遠の少女として)」(万葉集 22)および、「陸奥みちのくはいづくはあれど塩竈しほがまの浦漕ぐ舟の綱手かなしも(奥州は広くていろいろなところがあるけれども、塩竈の浦を漕ぐ舟の綱手が心に沁みるなあ)」(古今和歌集 1088)の2首を換骨奪胎した本歌取り。常に:形容動詞「常なり」(変わらず続く、常住不変である)の連用形。もがも:願望を表わす上古語終助詞。~であったらいい。係助詞「も」に、希望を表わす助詞「がも」が付いたもの。万葉集に頻出する。中古の平安期以降は「もがな」に変化し「言わずもがな」などの言い回しに残る。鎌倉時代のこの歌の用法は、意図的に擬古的(レトロ)な効果を狙ったものと見られる。な:詠嘆の終助詞。~だなあ。~であることよ。海人あま:「あまちゃん」でおなじみの「海女」と同一語だが、古くは男女を問わず漁師・漁業従事者を言った。海士、海部などとも表記する。綱手つなで:舟につないで曳ひく(曳舟ひきふねをする)綱。曳き綱。綱手縄つなでなわ。「渚漕こぐ海人あまの小舟をぶねの綱手つなで」としか言っていないので、現代人のわれわれからすると厳密にはどういう情景や動作を詠っているのか詳つまびらかには分からない。あるいは、当時の人には詳しい説明を要しないありふれた光景だったのだろうか。古典ではしばしばあることである。釣り船を自分で漕ぎつつ、浜からも曳いているのだろうか。そういえば、「エイコーラ」でおなじみのロシア民謡「ボルガの舟歌」も「曳舟」の光景を唄っている。→参考リンク「曳舟道」
2014.03.01
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小倉百人一首 九十二二条院讃岐(にじょういんのさぬき) わが袖は潮干しほひに見えぬ沖の石の 人こそ知らねかわく間もなし千載和歌集 760私の袖は 潮干のときでさえ海に隠れて見えない沖合いの岩のように人は知らないといっても涙に濡れて乾く間もないのです。註「袖」と「涙」は、和歌においてはきわめて常套的な縁語(連想語)。「沖の石の」までの上三句が、下の句を導く序詞(じょことば)。人:「(特定の不実な)あの人(恋人)」の意味と「(一般的な)世間の人(他人)」の両義を掛けているか。人こそ知らね:人は知らないが~。「人知らず」を、強調・整調の係り結びにした形で、逆接のニュアンスになる。「ね」は、打消しの助動詞「ず」の已然形。* もとの千載和歌集では、結句も強調の係り結びで「かわく間ぞなき」となっている。おそらく、小倉百人一首の撰者・藤原定家が、この二重の係り結びをくどいと見て推敲したか。○ 父・源頼政みなもとのよりまさの以下の歌の本歌取り。「ともすれば涙に沈む枕かな汐しほ満つ磯の石ならなくに」「厭いとはるるわが汀みぎはには離れ石のかかる涙にゆるぎげぞなき」「なごの海汐干汐みち磯の石となれるか君が見え隠れする」 ちなみに、源頼政は「以仁王もちひとおうの乱」で初めて平家政権に叛旗を翻して挙兵し討死にしたが、源頼朝の武家政権樹立の魁さきがけとなった武将で、歌人としても聞こえた。NHK大河ドラマ「義経」では名優・丹波哲郎氏が悲壮に演じ、氏の遺作となったのは記憶に残る。なお、以仁王は式子内親王の同母弟。また百人一首93番は源実朝。この辺の配列は意味深ともいえよう。
2014.02.24
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小倉百人一首 九十一後京極摂政前太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん、藤原良経・ふじわらのよしつね)きりぎりす鳴くや霜夜のさ莚むしろに 衣ころも片敷かたしきひとりかも寝む新古今和歌集 518こおろぎが鳴いているんだなあ。霜の降りる夜の寒々としたむしろの上に衣の片袖だけを敷いて私は独り寝るのかなあ。註侘しく寂しい寂寥の中に密かな恋心を仄めかし、艶麗さを漂わせた秀歌。きりぎりす:今でいう蟋蟀(コオロギ)のこと。キリギリスは古語で「機織はたおり(虫)」といった。さ莚むしろ:「寒し」が掛けてある。衣ころも片敷かたしく:自分の着物の片袖だけを敷いて独り寂しく寝る。男女が共寝をするとき、互いに袖を敷き交わして寝る風習があり、それに対して言った。
2014.01.29
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小倉百人一首 九十殷富門院太輔(いんぷもんいんのたいふ)見せばやな雄島をじまの海人あまの袖だにも ぬれにぞぬれし色は変はらず千載和歌集 886あなたに見せたいものだなあ(血の涙で紅に染まった私の袖を)。雄島の漁師の袖でさえも濡れに濡れても色は変わらないのに。註作者は、殷富門院(後白河法皇の第一皇女で式子内親王の姉)に仕えた女房(侍女兼家庭教師のようなもの)。紫式部や清少納言などと同様、当時最も教養があった女性層の一人。「恋の涙は血の(色の)涙」というのは、当時わざわざ説明の必要がないような常套的な連想だった。今でいう「血の汗流せ涙を拭くな」(「巨人の星」テーマソング)みたいなものか(?)見せばやな:古語動詞「見す」(見せる)の未然形に、願望を表わす終助詞「ばや」と詠嘆の終助詞「な」が接続したもの。初句切れ。雄島をじま:宮城県松島湾にある島。海人あま:「蜑」「海部」とも表記する。広く漁業従事者を意味した。「あまちゃん」でおなじみの「海女あま」と同語だが、古くは男女を問わず言った。だに:~でさえ。~ですら。ぬれにぞぬれし:「濡れに濡れた(が、しかし~)」。「ぞ」と過去の助動詞「き」の連体形「し」の係り結びで逆接のニュアンスになる。係り結びは、現代語でも「分野こそ違え、尊敬している」など逆接の構文になる。源重之(みなもとのしげゆき)「松島や雄島の磯にあさりせし海人の袖こそかくは濡れしか(松島の雄島の磯に漁をした漁師の袖くらいのものかなあ、つらい恋の涙で私の袖のようにぐっしょりと濡れているのは)」(後拾遺和歌集 827)の本歌取り。
2014.01.26
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小倉百人一首 八十九式子内親王(しきし、のりこないしんのう)玉の緒をよ絶えなば絶えね ながらへば忍ぶることの弱りもぞする新古今和歌集 1034玉の緒の命よ絶えるのならば絶えてしまえ。生き長らえれば忍ぶ心が弱りもしよう。註作者の代表作で、新古今和歌集、小倉百人一首、ひいては和歌史上屈指の名歌とされる絶唱。玉の緒を:珠玉どうしを結びつける細紐。転じて「魂たまの緒」(魂を肉体に繋ぎとめるもの)で、「命」の意味。絶えなば絶えね:絶えてしまうのならば絶えてしまえ。「な」は完了の助動詞「ぬ」の未然形、「ね」はその命令形。命令形の用例はかなり珍しい。初句切れ、二句切れも鮮烈。忍ぶることの弱りもぞする:秘めた恋を忍ぶ気力が弱まって、思いが外に溢れてしまう。式子内親王は、「梁塵秘抄りょうじんひしょう」の編纂などで知られる後白河天皇・法皇の皇女で、賀茂斎王(かもさいおう)を務めた。→ 斎宮・いつきのみや内親王がこれほどの思いを抱いた相手は誰なのか、決定的な論拠に乏しく古来想像を逞たくましゅうされてきた。従来は、和歌の進講役であった藤原定家(ふじわらのていか)とするのが定説で、のちに金春禅竹(こんぱる・ぜんちく)作の能の謡曲『定家』などを生んだが、近年の国文学者らの研究により、交流があった浄土宗の開祖・法然(ほうねん)とする説が赤丸急浮上している。これが正しいとすると、まさに「生なさぬ仲」だったといえよう。当時の貴族社会の深窓の令嬢たちにとって、知識人の僧侶がしばしば一種の偶像のような存在であったことは「枕草子」などにも見え、不自然ではない。
2014.01.12
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小倉百人一首 八十八皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)難波江なにはえの蘆あしのかりねのひとよゆゑ みをつくしてや恋ひわたるべき千載せんざい和歌集 807難波江のほとりの芦で作った粗末な小屋でその芦の刈り根の一節ひとよのように束の間の仮寝の一夜ひとよを過ごした人ゆえに私は澪標みおつくしのように身を尽くしていつまでも恋し続けるのだろうか。註難波江なにはえ:現・大阪市中央区付近にあった入り江。一面に蘆(芦、葦)が生えた湿地帯だった。かりねのひとよ:「(芦の)刈り根の一節」(「節と節との間」を表わす「よ」という古語があった)と「仮寝(かりそめのラブ・アフェア)の一夜」を掛けている。みをつくし:「澪標」は船の安全な航路を示す標識。古来、遠浅の難波潟の名物で、難波(大阪)の縁語。大阪の市章はこれを象かたどったもの。語源は「澪(水尾=水脈)つ(の)串」。「身を尽くし(身を捧げて)」と掛けている。恋ひわたる:「わたる」は時間的に。長く恋し続ける。や(恋ひわたる)べき:~のだろうか。* 小倉百人一首の18番~20番には、この歌と場所や内容・発想に関連がある歌が並んでいる。18番 藤原敏行「住の江の岸に寄る波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ」 19番 伊勢「難波潟みじかき葦の節の間も逢はでこの世をすぐしてよとや」20番 元良親王「わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ」
2013.12.21
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小倉百人一首 八十七寂蓮法師(じゃくれんほっし)村雨むらさめの露もまだ干ひぬ真木まきの葉に 霧立ちのぼる秋の夕ぐれ新古今和歌集 491 ぱらぱらと降った通り雨の露もまだ乾かない真木の葉に霧が立ちのぼっている寂寞たる秋の夕暮。註百人一首、新古今集の双方において屈指の叙景の名歌といわれる。真木:松、檜ひのき、杉など、堂々と風格のある木を総称して言った。現代語でいうマキ(槇、イヌマキ)とは異なる。
2013.12.17
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小倉百人一首 八十六西行(さいぎょう)なげけとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな千載和歌集 929思う存分嘆けと言って月が私に物思いをさせるのだろうか(いや、本当はつれないお方ゆえの憂いなのだけれど)月のせいだというような顔つきをした私の涙なのだよ。註月やはものを思はする:擬人化された月を主語にして、「月がそのように思わせる(のか)」という構文になっている。かこち顔:古文で一般的には「恨みがましく嘆いている・愚痴を言っているような顔つき」の意味になるが、ここでは本来の意味の動詞「託かこつ」(かこつける、ほかのもののせいにする、口実にする)の意味から「月のせいにするように装う、振りをする」という意味で用いており、全体の文意も凝った趣向になっている。あまりひねりすぎない比較的ナチュラルな歌風の作者にしてはやや異色な一首と思う。彫心鏤骨の洗練された(ソフィスティケイテッドな)表現を好む選者・藤原定家の嗜好が反映されているようだ。
2013.12.16
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小倉百人一首 八十五俊恵法師(しゅんえほうし)よもすがらもの思ふころは明けやらで 閨ねやのひまさへつれなかりけり千載せんざい和歌集 766一晩中つれないお方を思って沈んでいるこの頃は(いっそ早く白んでくれればいいのに)なかなか夜は明けやらず(いつまでも光の射し込まない)寝室の板戸の隙間さえつれないのよ。註女の立場になって恨む恋を詠んだ。下の句の「閨ねやのひま」に焦点を当てた表現が巧みである。こうしたクローズ・アップの手法は、現代短歌の視点から見ても参考になる。よもすがら:夜通し。終夜。一晩中。明けやらで:「明けやらぬ」の形で「閨ねや」に掛かっている形の異本もある。ひま:隙。隙間。
2013.12.15
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小倉百人一首 八十四藤原清輔(ふじわらのきよすけ)ながらへばまたこのごろやしのばれむ 憂うしと見し世ぞ今は恋しき新古今和歌集 1843 生き長らえればつらいこの時もまた懐かしく思い出されるのだろう。憂鬱だと思っていた時代さえ今は恋しいのだ。註「世を憂しと見」た理由は具体的には明確ではないが、作者が生きた時代は平安末期の動乱の時代、いわゆる「末法の世」であった。名門の公家(六条藤原家)に生まれた作者にとって、厭いとわしい世だったろう。作者自身も、父・顕輔あきすけとの不和や、勅撰和歌集となる予定の「続詞花集」の編纂に当たりながら、天皇の崩御で頓挫したりと、苦悩が深かった。家集(自家歌集)の詞書きによると、この歌は昇進が遅れて嘆いていた友人の藤原実房さねふさに贈って慰めた一首だという。心優しい男だったのだろう。が、この背景知識はむしろ鑑賞の妨げになるほど、普遍的なモチーフの秀歌と思う。なお、下二句の「憂うし」「見し」「恋し」の韻は、おそらく意識的と思われる。
2013.12.10
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小倉百人一首 八十三藤原俊成(ふじわらのとしなり/しゅんぜい)世の中よ道こそなけれ 思ひ入いる山の奥にも鹿ぞ鳴くなる千載せんざい和歌集 1148濁世じょくせよどこにも遁のがれる道はないのだなあ。深く思い込んで分け入ったこの俗世を離れた山の奥にもやはり物憂く鹿が鳴いているのだよ。註小倉百人一首の選者・藤原定家の父の、いかにも玄人好みの秀歌。初句の「よ」の使い方が当時としてはきわめて斬新で、「絶唱感」を齎している。藤原俊成:本名「としなり」、有職ゆうそく読み(貴人・優れた文人などへの尊敬の念をこめた音読み)で「しゅんぜい」。世の中:憂き世。愛別離苦などの煩悩の苦しみ多き現世げんぜ。空蝉うつせみ。ここでは「山の奥」と対照的な俗世の意味で否定的に詠われている。(世の中)よ:詠嘆・感動を表わす終助詞または間投助詞。「ああ、~だなあ」「~よのう」。現代文でしばしば使われる呼びかけの「よ」とはニュアンスが異なる。道こそなけれ:逃れる道はないのだ。「こそ・・・けれ」は強調・整調の係り結び。「道」は「山」の縁語。思ひ入いる:「深く思い込む、考え込む」と(山の奥に)「分け入る」(隠遁する)意味を掛けている。鹿ぞ鳴くなる:「ぞ・・・なる」も係り結びで、哀切の情を強調している。「なる」は伝聞・推定の助動詞「なり」の連体形。鹿の牡は交尾期の秋(9~11月頃)に「フィー」のように聞こえる鳴き声を発して牝に求愛する。「わびさび」を感じさせる物悲しい響きとして、古来多くの和歌に詠まれている。妊娠した牝は初夏の5~7月頃1頭の仔を産み、仔鹿は生後約2年で成熟する。 ニホンジカ ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2013.12.09
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小倉百人一首 八十二道因法師(どういんほっし、藤原敦家ふじわらのあついえ)思ひわび扨さても命はあるものを憂うきに堪たへぬは涙なりけり千載せんざい和歌集 817つれないお方に死ぬほど思い悩みそれでも何とかこらえて生き長らえているものの憂愁に堪えられないものは涙だったんだなあ。註かなわぬ恋の苦しさに、「命」は耐えたが「涙」は耐えられなかったという思いを詠んだ。古来、理が勝った(理屈っぽい、散文的な)凡作と貶けなされることが多い一首だが、改めて読んでみると、それほど悪くはないように思われる(・・・それほどいいとも思えないが)。やはり、やや頭の中だけで観念的に作ったような感じは否めない。
2013.11.27
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小倉百人一首 八十一藤原実定(ふじわらのさねさだ、後徳大寺左大臣ごとくだいじのさだいじん)郭公ほととぎす鳴きつるかたをながむれば たゞありあけの月ぞのこれる千載和歌集 161ほととぎすが鳴いた方を眺めやると(もうそこにほととぎすはおらず、朝ぼらけの空に)ただ有明の月だけがぽっかりと残っているんだ。註現代語訳も必要ないほど平明でありながら、深い「わびさび」の余韻を湛えた秀歌。郭公ほととぎす:「郭公」は、現在では「カッコウ」の意味になってしまうが、和歌では「ほととぎす」を意味することがほとんどで、要注意な用字。つる:完了の助動詞「つ」の連体形。ありあけ(有明)の月:満月以降の、夜が明けても沈まない月。下弦の月など。・・・ぞ(のこれ)る:「ぞ」は係助詞。「る」は継続の助動詞「り」の連体形で、強調と整調の係り結び。
2013.11.24
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小倉百人一首 八十待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)長からむ心も知らず 黒髪のみだれてけさはものをこそ思へ千載和歌集 802末長く変わらないお心なのかどうかも分からずこの寝乱れた黒髪のように心乱れてあなたがお帰りになったこの朝は物思いに深く沈んでいるのです。註恋愛の恍惚エクスタシーと不安感の両方を色濃く漂わせた秀歌。長からむ:末長いであろう(心)。「長から」は形容詞「長し」の未然形。「む」は推量の助動詞「む」の連体形で「心」にかかる。「長し」「みだる」は髪の縁語。心も知らず:(あなたの)お心なのかも知れないが。「ず」は打消しの助動詞「ず」の連用形で、「人はいさ心も知らず」(紀貫之、小倉百人一首 35)と同様、多くの場合逆接のニュアンスとなる。黒髪のみだれて:「黒髪が乱れて」と「黒髪のように心が乱れて」の両義を表わしている技巧的な言い回し。けさ:後朝(きぬぎぬ、衣々)。男女が思いを遂げたあとの朝。ものを思ふ:物思いに沈む。憂愁(メランコリー)に沈淪する。・・・今風にいうと「ブルーになる」か。* 与謝野晶子が、第一歌集『みだれ髪』(明治34年・1901)で、タイトルをはじめ数首で引用・本歌取りしている。くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるるその子二十 櫛に流るる黒髪のおごりの春のうつくしきかな髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ
2013.10.22
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小倉百人一首 七十九左京大夫顕輔(さきょうのだいぶあきすけ、藤原顕輔)秋風にたなびく雲のたえ間より もれいづる月のかげのさやけさ新古今和歌集 413秋風にたなびく雲の切れ間から洩れ出た月の光の澄みきったあざやかさ。註秋風に:「に」は原因・理由を表わす格助詞。秋風によって。秋風に吹かれて。たなびく:横に長く引いているさま。たえ間:絶えた間。切れ間。さやけさ:形容詞「さやけし」(明るくくっきりしている)の語幹に接尾語「さ」がついて名詞化したもの。
2013.10.13
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小倉百人一首 七十八源兼昌(みなもとのかねまさ)淡路島かよふ千鳥の鳴く声に いく夜寝覚めぬ須磨の関守せきもり金葉和歌集 270淡路島を行き来する千鳥の泣く声に幾夜目覚めてしまっただろう須磨の関守は。註『源氏物語・須磨』で光源氏が詠む歌「友千鳥もろ声に鳴くあかつきはひとり寝覚の床も頼もし(千鳥が仲間同士で声を合わせて鳴く声に、朝早く独り目覚めてしまった寝床の心細さが慰められて頼もしい)」を踏まえる。光源氏は朧月夜とのあやまちが露見し、自らひとり須磨に隠遁した。淡路:阿波国(あわのくに、現・徳島県)へ行く路の意味。淡路島かよふ:「淡路島から通ってくる」「淡路島に通う」「淡路島(と須磨)を行き来する」の3説があり、定めがたい。いずれにせよ、大意にさほど大きな影響はない。(いく夜寝覚め)ぬ:古くから文法的に議論がある箇所。「(いく夜寝覚め)ぬる」(完了の助動詞「ぬ」の連体形)のいわば省略(詩的許容)として終止形としたとも思われるが、ここでいったん切れる(四句切れ)と見ることも出来なくはないと思われる。同じような問題は現代短歌でもしばしば起こる。ただ、個人的には、文法的な疑問(引っかかり)を抱かせることは和歌・短歌表現ではあまり好ましくないと思う。字余り破調でも「~ぬる」の方が良かったという気がする。なお、「いく(夜)」は疑問の意味を含むので係り結びを構成することもあるが、「か」「や」などの文法的に明確な疑問の係助詞と異なり、必ずしも(係り結びとならず)文末は連体形でなく終止形となる例も少なくない。・・・この項目、ちょっとややこしくてすまぬ^^;須磨(の関守):摂津国、現・兵庫県神戸市須磨区付近。当時は寂寥たる辺境の流謫地と見られていた。平安初期頃までは関所が置かれていたことが、清少納言『枕草子』に見える。○ 源氏物語のゆかりの地をめぐる「須磨」「明石」紀行
2013.09.06
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小倉百人一首 七十七崇徳院(すとくいん)瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ詞花和歌集 229(一部写本では228)瀬の流れが速いので岩にさえぎられる滝川が激しく二すじに分けられてもやがて一つに合わさるように今別れ別れになっているあなたともゆくゆくは必ずまた逢おうと思うのだ。註古来人口に膾炙した恋の名歌だが、若くして平安末期(院政期)宮廷の内紛に翻弄され、政争の犧牲として譲位せざるを得なかった院の無念と、なお将来に賭ける政治的執念を読み取ることも十分可能であり、こうした解釈も牽強付会ではないとの意見がある。(瀬)を(早)み:~が~なので。上代語(万葉時代)の「ヲミ語法」。この歌が詠まれた時代には、すでに歌語として用いられるだけの擬古的・懐古趣味的(レトロ)な言い回しだった。せく(塞く、堰く):遮(さえぎ)る。せき止める。連用形の「せき」は、名詞の「関、堰」になった。滝川:急流、激流、奔流。恋心の激しさを示唆。わる:「分かれる、別れる」の両義を掛けている。あふ:「合う、会う(逢う)」。→ 古典落語「崇徳院」
2013.09.03
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小倉百人一首 七十六藤原忠通(ふじわらのただみち、法性寺入道前関白太政大臣ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん)わたの原漕ぎ出いでて見れば ひさかたの雲居くもゐにまがふ沖つ白波詞花集 382大海原に漕ぎ出して見てみると大空の白い雲に見紛う沖の白波。註平明でシンプルながら調べの高い、雄大な叙景の秀歌。直接には、小野篁おののたかむら「わたの原八十島やそしまかけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人あまの釣舟」(古今和歌集 407 / 小倉百人一首 11)の本歌取りだが、山部赤人の叙景の名歌「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪はふりける」(万葉集 314 / 小倉百人一首 4)の発想・語法の影響も感じられ、作者が大らかな万葉調のレトロ(懐古趣味的)な表現を意図したことがうかがえる。わた:上古語で「海」の意味。「わたつみ(海つ霊)」(海の霊、ひいては海)などの古い語彙に残る。ひさかたの:天、空、月、雲などにかかる枕詞(まくらことば)。雲居くもゐ:雲のあるところ、すなわち空。転じて雲そのものをいう。(沖)つ(白波):後世の「の」に当たるきわめて古い格助詞。「秋つ島」(秋津島、日本)、「天つ乙女」、「下つ毛の国」(下野国、野州、現・栃木県)、また上記の「わたつみ」など、成語として用例が多い。
2013.08.03
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小倉百人一首 七十五藤原基俊(ふじわらのもととし)契ちぎりおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり千載和歌集 1023かねて約束していただいていた「もぐさ」うんぬんの恵みの露のようなお言葉を命と頼んでおりましたがああ 今年の秋もむなしく過ぎ去ってしまったようです。註一読すると、余韻嫋々たる優婉な失恋の歌の趣があり、そういう文脈で読めばなかなかいい歌と思われる。小倉百人一首の選者・藤原定家も、そうした読みで評価していたのではないだろうか。しかし、作歌の実際の背景事情を知ってしまうと、何とも俗臭芬々の「せがれの裏口コネ昇進依頼」「猟官運動が成らなかったオヤジの恨み節」であり、「平安朝の親バカの歌」とも評されている。・・・知らない方が良かった(?)させもが露:「させも」は「さし艾(もぐさ)」のこと。蓬(よもぎ)。→ 〔百人一首 51〕 藤原実方 かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひをなお、この「露」は「恵みの露」というニュアンスであるとする説と「すぐに消え去るはかない露」とする説があり、どちらも意味は通り定めがたい。いぬ(往ぬ):去る。過ぎる。行ってしまう。現代でも、関西弁では命令形で「いね(うせろ、消えろ、行ってしまえ)」という言い回しが残る。完了の助動詞「ぬ」の語源といわれる。めり:視覚に基づく推定、または主観的判断を表わす助動詞。~のようだ。~ように見える。語源は「見+あり」ともいわれ、動詞「見る」と関連することは疑いない。作者は、出家して興福寺にいた息子の僧都・光覚(そうず・こうかく)が、維摩会(ゆいまえ)の講師になれるよう、藤原忠通(76番の作者)に願い出ていた。維摩会は、藤原氏の氏(うじ)の長者が主催し、五重塔で有名な興福寺(現・世界遺産)で毎年10月に営まれる、仏典・維摩経を講ずる法会(ほうえ)で、その講師は慣例により宮中の最勝会の講師にもなれるという非常な名誉のものであった。この時の氏の長者、すなわち任命権者が、前・摂政関白太政大臣(今でいう総理大臣兼最高裁判所長官ぐらい)の忠通であった。作者の願いを聞いた忠通は、清水観音を詠んだ歌「なほ頼めしめぢが原のさせも草わが世の中にあらむ限りは」(ひたすら私を頼みにせよ、しめじが原のさしも草が燻るように、あなたが胸を焦がして思い悩んでいても、私がこの世にいる限りは)を引いて「しめぢが原の」と答えた。「トラスト・ミー」の意味である。作者はその言葉を当てにしてひたすら待っていたが、何年も音沙汰なく、とうとう今年の秋も過ぎてしまった。それを恨みに思ってこの歌を詠んだのだという。平安末期の権謀術数渦巻く院政期から武家が台頭した激動期の宮廷で、結局最後まで生き残った数少ない政治家の忠通(2012年NHK大河ドラマ「平清盛」では性格俳優・堀部圭亮が演じた)から見れば、なんか小うるさいクレーマーだな~程度に映っていたのかも知れない。どうやら作者は、大権力者である忠通に何らかの事由で疎まれ、適当にあしらわれていたフシもあり、今でいうと、芸能界のドンと呼ばれるBプロダクションのS社長ににらまれたタレントのごとく、表舞台から干されていたのかも知れない。・・・あるいは、J事務所のJ氏を激怒させて、今も干されている某タレントとか。
2013.07.30
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小倉百人一首 七十四源俊頼(みなもとのとしより)憂うかりける人を初瀬はつせの山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを千載せんざい和歌集 707つれない人をどうにかして靡かせようと初瀬の観音様に祈ったのにその初瀬の山から吹く颪おろしよそなたのように激しく吹きすさんでつらく当たれとは祈らなかったのになあ。註憂うかり(ける):形容詞「憂し」の連用形の一つ。思い通りにならない人や物事に憂愁を感じる、つらいという意味。なお、「憂し」には2系統の活用があり、1系統は「うく、うく、うし、うき、うけれ、命令形なし」、もう1つは「うから、うかり、終止形なし、うかる、已然形なし、うかれ」である。後者は、語源論的には連用形の「うく」に動詞「あり」が付いた「うくあり」が約(つづ)まって活用するものである。初瀬はつせ:奈良県(旧・磯城郡)桜井市初瀬(はせ)。古くは「はつせ」と呼ばれ、「泊瀬」とも表記した。有名な長谷寺(はせでら)があり観音をまつる。ちなみに、「長谷」を「はせ」と読むことについては、古く「長谷ながたにの初瀬はつせ」という成句ないし枕詞があったという説もあるが確証はないとされ、語源を含めて詳しくは未解明。同種のものに「飛鳥(あすか)、日下(くさか)、春日(かすが)」などがある。山おろしよ:擬人法で呼びかけている。「よ」は呼びかけの終助詞(または間投助詞)。はげしかれ(とは):(山おろしの)風が激しいことと、(人が)つらく当たることを掛けている。「憂かり」同様、「はげしくあれ」の約まったもの。ものを:逆接の終助詞。~のになあ。~のだけれどもなあ。
2013.07.02
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小倉百人一首 七十三大江匡房(おおえのまさふさ)高砂たかさごの尾の上への桜咲きにけり 外山とやまの霞かすみ立たずもあらなむ後拾遺和歌集 120高い山の尾根の上の桜が咲いたなあ。人里近い山の霞は(桜が見えなくなるので)立たないでいてくれないかなあ。註いかにも碩学の教養人らしく、一種のユーモアを湛えた理屈っぽさが持ち味の作者らしい佳品。高砂:ここではおそらく一般名詞として、高い山のこと。現・兵庫県高砂市付近の地名(固有名詞)とする説もある。外山とやま:深山みやまに対して、その周辺の人里に近い山。なむ:(他に対する)願望を表わす終助詞。上古語「なも」が転訛したものといわれる。~てほしい。~であってくれればなあ。「(霞)立たずもあらなむ」は「立たずもあり」(立ちもしないでいる)に願望の意が加わった形。
2013.06.26
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小倉百人一首 七十二祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのき) 音に聞く高師たかしの浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ金葉和歌集 469噂に高い高師の浜のあだ波は決してかけませんわ。袖が濡れたりするだけですものね。註音に聞く:評判である。現代語でも、「(評判が)音に聞こえる」「(名声が)轟とどろく」「(セレブ気取りに)非難轟々」などという。高師たかしの浜:和泉国いずみのくに高石(現・大阪府高石市)高師浜付近。現在では往時の面影は希薄だが、関西では「ユートピア」とまで称される風光明媚な高級住宅地だという。南海電鉄高師浜線の終点・高師浜(たかしのはま)駅がある。ここでは、評判が「高い」ことに掛けている。あだ波:徒(いたずら)にむなしく寄せる波。波が寄せることと男が言い寄ることを掛けている。男の浮気心の隠喩。(あだ波は)かけじや:「じ」は打消しの意思(決意)の助動詞。(決して)~するまい。(波を袖に)かけるまい。(心、契りを)かけるまい。「や」は詠嘆の間投助詞。袖のぬれもこそすれ:「袖のぬれもする」を係り結びにして強調・整調をした形。泣かされて涙で袖が濡れることを掛けている。
2013.05.22
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小倉百人一首 七十一源経信(みなもとのつねのぶ)夕されば門田かどたの稲葉おとづれて 葦あしのまろやに秋風ぞ吹く金葉和歌集 173夕方になると門前の田の稲葉がさやさやと音を立てて葦葺あしぶきの小屋に秋風が吹くのだなあ。註秋風の身にしむ情感を詠んだ叙景の秀歌。(夕)さる:上古語では「去る、来る」など方向を問わず時が移ることを意味したが、平安期になると歌語として「来る」意味に固定され、「夕さり」などの形でも用いられた。おとづる:音を立てる。音がする。現代語「訪れる」の語源だが、原義は「音・連る」。まろや(丸屋):葦や萱(かや)などで屋根を円形に(丸く)葺いた仮小屋。収穫期の稲の番に用いた。
2013.05.11
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小倉百人一首 七十良暹法師(りょうぜんほっし)さびしさに宿を立ち出いでてながむれば いづくもおなじ秋のゆふぐれ後拾遺ごしゅうい和歌集 333 寂しさに堪えず庵いおりを立ち出てあちこち散策し眺めわたすとどこもかしこも同じ寂寥とした秋の夕暮れ。註いづくも:後拾遺和歌集では古形の「いづくも」、百人一首の写本では「いづこも」となっているものが多い。意味は同じ。おなじ:「(秋の)夕暮」にかかっている連体形説と、ここでいったん切れる(四句切れの)終止形説があり、後者の説が強いようである。どちらの解釈でもいいと思うが、やや散文的な前者と詠嘆的な後者で、微妙なニュアンスの差があるか。
2013.05.07
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小倉百人一首 六十九能因法師(のういんほっし)嵐吹く三室みむろの山のもみぢ葉は 龍田たつたの川の錦なりけり後拾遺ごしゅうい和歌集 366山風の吹く三室の山の紅葉は龍田の川の錦なのだなあ。註永承四年(1049)11月9日、内裏だいりで挙行された歌合うたあわせで「勝」となっており、当時は公式な盛儀の晴れの場にふさわしい歌と評価されたらしい。が、後世の評価はきわめて低い。百人一首の中でも屈指の凡作といって間違いないだろう。全くひねりも機知も表現の深みも感じられない。おまけに、地理的に三室山の紅葉が龍田川に流れることはありえないという事実誤認もあり、全くいいところがない一首である。いくたの秀歌を残した才人・能因の作品群の中から、よりにもよって何でまたこんな安い絵はがきみたいな凡庸な一首を選んだのか、撰者・藤原定家の気が知れないといった趣旨の見巧者みこうしゃたちの意見が古来絶えない。私も同意見である。詳しい事情は分からないが、現在「小倉百人一首」として崇あがめ奉たてまつられている百首は、巨匠が後世に残そうと腕撫して、最大限の意気込みで百人の作者の代表作を選び抜いたというわけではなく、有力な後援者で親友・親戚でもあった宇都宮頼綱よりつな(のちの歌人・蓮生れんじょう法師、当地・宇都宮城主、鎌倉御家人)の依頼で、その山荘の障子(襖ふすま)の装飾として選んだものにすぎず、やや気軽な気分で選んだことによるのではないかとも思われる。あえて忖度するに、百人一首も69番目、ここいらへんで、さしもの巨匠も注意力がやや散漫になっていたとも考えられる。百人一首 17番、在原業平の名歌「ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは」と何ほどか呼応させていることは確かだろう。
2013.05.03
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小倉百人一首 68三条院(さんじょういん)心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半よはの月かな後拾遺ごしゅうい和歌集 860本意でもないがこの憂き世に生き長らえたならばその時恋しく思い出すのであろう夜半の月だなあ。註当時の政界の実力者・藤原道長の圧迫によって天皇を退位しており、その時に詠んだ歌という説がある。奥ゆかしい言い回しの佳品ながら、ある種の凄みも湛えている。
2013.05.02
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小倉百人一首 六十七周防内侍(すおうのないし、平仲子・たいらのちゅうし)春の夜の夢ばかりなる手枕たまくらに かひなく立たむ名こそ惜しけれ千載和歌集 964 / 定家八代抄 954春の夜の夢ほどに儚はかないあなたの腕枕に甲斐もなく立つだろう浮名が口惜しいのですわ。註千載集の詞書きに、「きさらぎばかり月あかきよ、二条院にて人人あまたゐあかして物がたりなどし侍りけるに、内侍周防ないしすはう寄り臥して『枕をがな』と忍びやかに言ふをききて、大納言忠家『これを枕に』とて、かひなを御簾の下よりさしいれて侍りければよみ侍りける」とある。──旧暦二月頃(新暦3月頃)の月の明るい夜、二条院(関白・藤原教道邸)で多くの人々が夜通し語らっていた時、周防内侍が何かに寄りかかって「枕があればなあ」と忍びやかにつぶやいたのを聞いて、時の大納言・藤原忠家(ただいえ)が、「これを枕にどうぞ」と言って自分の腕(かいな)を(男女の間を仕切る)御簾の下から差し入れてきたので、詠んで贈った(歌)とある。「手枕たまくら」は、夫婦や恋仲の男女がすることなので、忠家も半ば戯れだったと思われるが、チャラい男の強引な誘いを巧みにかわしつつ優婉な大人の色香漂う佳品となっている。かひなく:「甲斐なく」(詮無く、無駄に)と「腕(かいな)」を掛けている。
2013.04.27
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小倉百人一首 六十六前大僧正行尊(さきのだいそうじょう・ぎょうそん)もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし金葉和歌集 556互いにしみじみと思え 山桜の花よそなたのほかに私の心が分かる人もいない。
2013.04.22
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小倉百人一首 六十五相模(さがみ)恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ後拾遺ごしゅうい和歌集 815恨むことに疲れきって乾く暇のない袖さえ(朽ちずに)あるというのに恋に朽ちてしまうであろう私の浮名がほんとうに口惜しい。註つれない男に恋する悶え苦しみと、口さがない世間の後ろ指を嘆きつつ、どこかに恋多き女の恋愛中毒(アディクテッド、ジャンキー)的な恍惚(エクスタシー)も匂わせている、洗練された一首。さしずめ、平安朝の「遠野なぎこ」か。・・・あ、すいません、言いすぎました。わぶ(侘ぶ):「~する気力を失う、疲れる」という意味と、「わびしく思う(頼りなく心細く寂しく思う)」の両義を掛けているか。ほす(干す):乾く。だに:~でさえも。袖だにあるものを:なかなか凝った言い回しで、意外に難解な語句。素直に読めば宗祇などの「傷みやすい袖でさえそのままあるのに」とする上記訳文の文脈か。近代の歌人・吉井勇などは、この通説を支持している。ただし、これに先立ち近世の契沖などがこれを否定し「涙で濡れて朽ちそうな袖さえ惜しいのに」と解釈し、これが有力な深読みとして認知され、爾来両説が対立している。個人的には、契沖説はやや穿ちすぎかなとも思う。(あるもの)を:逆接。~なのに。(朽ち)なむ:完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」に、推量の助動詞「む」の連体形が付いたもの。~てしまうだろう。こそ・・・けれ:強調の係り結び。
2013.04.20
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小倉百人一首 六十四権中納言定頼(ごんのちゅうなごん・さだより、藤原定頼)朝ぼらけ宇治うぢの川霧かはぎりたえだえに あらはれわたる瀬々せぜの網代木あじろぎ 千載和歌集 419朝がほのぼのと明けそめるころ宇治川に立ちこめていた川霧がところどころ消えかかってあらわに見え亘ってきた瀬ごとの網代木。註網代木:木や竹を編んで作った漁具の網代を結んだ杭。
2013.04.16
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小倉百人一首 六十三左京大夫道雅(さきょうのだいふ・みちまさ、藤原道雅)今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな後拾遺ごしゅうい和歌集 750今はただ思いを諦めましたとだけでも人伝てではなく(じかに)言うすべがあればなあ。註思ひ絶えなむとばかりを:句またがりになっており、当時の和歌としてはきわめて珍しい。句またがりは、文節と韻律(五七五七七)が一致しないことで、現代短歌では珍しくない。よし:方法、術(すべ)。もがな:詠嘆を込めた強い願望を表す終助詞。「~があればいいのになあ」「~だったらなあ」「~であってほしいなあ」などの意味を表わす。願望を表わす上古語終助詞「もが」に、詠嘆の終助詞「な」が付いたもの。和歌で多用される。上代では「もがも」の形で、万葉集などに頻出する。伊勢神宮の前斎宮(さいぐう、いつきのみや)だった三条天皇の皇女・当子(とうし、まさこ)内親王とのスキャンダラスな恋愛事件で天皇の逆鱗に触れ、逢瀬を固く禁じられた時に詠んだ、未練たらたらの歌。恋愛に関しては比較的規矩が緩かった当時の上流貴族社会においても、これはやはり一線を越えていた。悲恋と言えば言えるかも知れないし、大まじめにそのように鑑賞されることが多い歌だが、その反面、一男一女をもうけた妻にはこの事件で愛想を尽かされ、家庭は崩壊。本人も、名門・藤原家本流の御曹司でありながら、形式的な名誉職の閑職・左京太夫で悶々と生涯を終え、その間も殺人を含むともいわれるむちゃくちゃな「ご乱行」の噂が絶えなかった。一種の人格破綻者だったといえよう。別れた妻は、その後あたかも意趣返しのごとく三条天皇中宮(皇后)妍子(けんし・きよこ、藤原道長の次女)に仕え、女房(官女)として大出世、大和宣旨(やまとのせんじ)と称された。私個人としては、どうしても愛娘(まなむすめ)をキズモノにされた父親の気持ちになって読んでしまうせいか、なんとも自業自得なチャラ男にしか見えず、共感・同情できる余地はほとんどないと思うが、まあ「平安朝のサイテー男」「平安失楽園(未遂事件)」としての「イタおも」な感じ(痛々しい面白さ)はあるかな~と思う一首である。
2013.04.15
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小倉百人一首 六十二清少納言(せいしょうなごん)夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂あふさかの関は許さじ後拾遺ごしゅうい和歌集 939夜が明けないうちに(函谷関の故事のように)鶏の鳴き真似で関守を謀って(門を開けさせようとして)も決して(私とあなたの間にある)逢坂の関は許しますまい。註書の三蹟の一人で男友達の藤原行成(ふじわらのゆきなり、こうぜい)が未明に忍んで来たので、洒落た応接で撃退した歌。いかにも清少納言らしい才気あふれる歌だが、頭の中だけで作った感は否めず、理が勝った一首である。『枕草子』に見られるように、彼女はやはり散文の人か。夜をこめて:夜を籠めて。「夜が包み込んでいて/覆い隠していて」の意味で、当時の一種の慣用句だったか。(鳥の)そら音:空(虚)音。鳴きまね。司馬遷『史記』の孟嘗君(もうしょうくん)の故事を踏まえる。戦国時代、斉の孟嘗君が秦に使いをして捕えられたが、部下に鳥の鳴きまねをさせて、一番鳥が鳴かないと開かないならわしだった函谷関(かんこくかん)を開けさせて逃れたという。(鳥のそら音)は:後拾遺集では「に」。意味は大差ない。はかる:謀る。はかりごとをする。騙す。かどわかす。とも:仮定逆接条件の接続助詞。~としても。よに(世に):否定の語を伴って「決して」の意味を表わす副詞。冒頭の「夜」と頭韻を踏んでいる。現代語「世にも(珍しい)」も語源的関係がある。逢坂の関:山城国(京都府)と近江国(滋賀県)の境にあった関所。「逢ふ」(情交する)の縁語としてよく用いられた。
2013.03.14
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小倉百人一首 六十一伊勢大輔(いせのたいふ)いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ここのへににほひぬるかな詞花集 昔の奈良の平城京に咲き誇った八重桜が今日は平安京の宮中のここらへんで九重に照り映えているのですねえ。註伊勢大輔:古今集時代に活躍した「伊勢」とは別人だが、いずれも歌才を謳われた女房(にょうぼう、官女)だった。「いにしへ」と「けふ」(昔と今)、「八重」と「九重」の対比が楽しい。「奈良」と「七」、「けふ」と「京」も掛けてあるといわれ、まことにおそれ入谷の鬼子母神の超絶技巧である。また、「いにしへ」と「ここのへ」も軽く脚韻を踏んでいる感がある。上品な遊び心にあふれた一首。九重:漢語として禁裏・内裏の意味があり、幾重にも重なって咲いている意味を掛けているとともに、「ここの辺」(ここらあたり)も掛けている。* のちに松尾芭蕉が、オマージュ(礼賛)的な一句を詠んでいる。「奈良七重七堂伽藍八重ざくら」
2013.03.07
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小倉百人一首 六十小式部内侍(こしきぶのないし)大江山おほえやまいく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立金葉和歌集 550(両親が赴任している丹後の国へと)大江山を通って行く生野の道は遠いので母の文も見ておらずまだ踏んでみたこともない天の橋立です。註天才的な歌人だった和泉式部(56番作者)の一人娘で、本人も幼少の頃から一頭地を抜く歌才を発揮したが、案の定というべきか、口さがない人々がささやく「母親による代作疑惑」も絶えなかった。ある公の歌会の席でそのことをからかった藤原定頼に、待ってましたとばかりに作者が当意即妙に応えてみせたという秀歌。この場合、定頼が意地悪だという解釈もあるが、たぶんそうした世評を重々承知の上で(今のお笑い芸人の手法でいう)「いじった・振った・つっこんだ」類いではないかと思う。当時の貴族社会には、そんな洒脱な雰囲気があったように想像する。大江山おほえやま:丹波国(現・京都府)桑田郡の山。有名な丹後の大江山とは別。いく野:丹波国天田郡(現・京都府福知山市)生野。「行く野」と掛けている。(まだ)ふみもみず:(天の橋立の地を)「踏んでみたこともない」と、(下向している母からの)「文(ふみ、手紙・和歌)も見ていない」を掛けている秀逸・痛烈な掛詞(かけことば)。また、「踏む」は「橋」の縁語。
2013.03.05
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小倉百人一首 五十九赤染衛門(あかぞめえもん)やすらはで寝なましものを 小夜さよ更けてかたぶくまでの月を見しかな後拾遺ごしゅうい和歌集 680 (あなたがお見えにならないと分かっていれば)ためらわずに寝てしまえばよかったものを(来ないあなたを待ちわびながら とうとう)夜が更けて西に傾くまでの月を見てしまったのよ。註やすらふ:躊躇する。ぐずぐずする。で:打消しの接続助詞。~しないで。寝なまし:寝てしまえばよかった。動詞「寝(ぬ)」の連用形「寝(ね)」+完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」+仮想・適当(~すればよかった)の助動詞「まし」の連体形。ものを:形式名詞「もの」に、接続助詞とも終助詞とも解し得る「を」がついた連語で、活用語の連体形に接続し、上の句を体言化して悔恨、愛惜、不満などの気持ちを表わす。このまま現代語でも用いる。
2013.02.26
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小倉百人一首 五十八藤原賢子(ふじわらのかたいこ・けんし、第弐三位・だいにのさんみ)有馬山ありまやま猪名ゐなの篠原ささはら風吹けば いでそよ人を忘れやはする後拾遺ごしゅうい和歌集 709有馬山のふもとの猪名のように私が「否いな」(だめ)と言っているとでもおっしゃるのですか。その猪名の笹原に春風が吹くようにあなたから暖かいそよ風が吹きさえすればほら そうなのですよどうして私があなたを忘れることなどあるでしょうか。註藤原賢子:紫式部と藤原宣孝の一人娘。推定される訓読は「かたいこ」(「賢かたき(かしこい)子」の音便)。有職(ゆうそく)読み(尊敬を込めた音読み)で「けんし」とも読む。母子揃って第一級の文人だった。後拾遺集の詞書きに「かれがれなるをとこの、おぼつかなくなどいひたりけるによめる」・・・「疎遠になっている男が『(私は無骨者なので)あなたのお気持ちがどうもよく理解できなくて』などと(言いわけがましく)言ってきたので、詠んで返した歌」とある。「かれがれなり」は、古語動詞「離(か)る」(離れる)を形容動詞の形にした語。難解さで悪名高い(?)51番と並んで、きわめて技巧的な作品だが、こちらは爽やかでややユーモラスな雰囲気すら醸し出している一首。ウィキペディアに載っている訳文「もう俺たちって終わったのかなあ」「あなたに来る気があるなら私は今でも」には笑える。これはこれでニュアンスを伝えており、意訳としては悪くない。上三句「有馬山猪名ゐなの篠原ささはら風吹けば」までが「そよ」を導く序詞(じょことば)ともいえるが、上記訳文のごとく実質的な隠喩のニュアンスもある。小倉百人一首は、撰者・藤原定家がどこまで意識していたかはさておき、調べ(言葉の響き・音楽性、韻律の調子)が美しい歌が多いが、この歌はその点が特に見事であると古来いわれている。明るいア段で畳み掛ける上の句から、イ段を交えつつ、沈着重厚なウ段に着地させている。有馬山ありまやま:摂津国有馬郡(現・神戸市北区)有馬町にある山。猪名ゐなの篠原ささはら:摂津国川辺郡(現・兵庫県尼崎市、伊丹市、川西市付近)の神崎川上流・猪名川両岸に広がっていた笹原。「有馬山(から吹きおろすそよ風)」を男に、「猪名野(の風に揺れる笹原)」を女(作者)に見立てた隠喩という解釈もある。ややうがちすぎかなとも思うが、なかなか捨てがたい説である。いで:ふと思い立った時や、人を誘い促す時などに言う感動詞。さあ。いざ。いやもう。実に。・・・私見では、現代口語の「ほら」や、英語の「well」「look」などに相当か。そよ:そうよ。それですよ。そうなのだなあ。「そ」は「それ、そう」の意味の代名詞。「よ」は感動・詠嘆を表わす助詞。詞書きの「おぼつかなくなどいひたりける」(「君の気持ちがあやふやで煮え切らないように思えて」などと言った)を受けていると解される。擬音語「そよそよ」「風がそよ吹く、そよ風」などの「そよ」と掛けている。なお、「そよそよ」は「さやさや」と母音交替の語で、同じニュアンス。当時「サ行」は「ツァ、チ、ツ、ツェ、ツォ」と発音した。「笹」の語源も類似の擬音語と見られている。やは:反語を表わす疑問形。反語(または疑問)の係助詞「や」に、強調の係助詞「は」が付いた形。その後に動詞を接続する。~だろうか(いや、そんなことはない)。* 宝塚歌劇団出身の大女優・有馬稲子さんの芸名は、この歌から取ったという。
2013.02.25
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小倉百人一首 五十七紫式部(むらさきしきぶ)めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲隠れにし夜半よはの月かな新古今和歌集 1499めぐり逢って見たのかどうかも分からない間に叢雲むらぐもに隠れてしまった夜更けの月だなあ。(久しぶりに邂逅してお逢いしたのかどうかも分からないうちに消えてしまったあなた。)註新古今集の結句は「夜半の月かげ」(月光)。
2013.02.21
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小倉百人一首 五十六和泉式部(いずみしきぶ)あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびのあふこともがな後拾遺ごしゅうい和歌集 763もういられないであろうこの世の外の思い出(のよすが)にもう一度だけあなたとお逢いすることがあればなあ。註後拾遺集に「心地(ここち)例ならず侍りけるころ人のもとにつかはしける」(具合が悪い時に、人のもとに遣わしたという歌)の詞書(ことばがき)がある。重病の床に臥した作者が、長年の恋仲であった敦道(あつみち)親王に宛てた情感溢れる玉梓(たまずさ)。なお、この時の病はのちに治癒した。あらざらむ:「(もうこれ以上この世に)いないだろう」。文法的には、動詞「あり」の未然形「あら」に、打消しの助動詞「ず」の未然形の一つ「ざら」と推量の助動詞「む」が付いたもの。と同時に、語源論的には「あらずあらむ」が約まったものといえる。普通、この「む」を終止形と見て初句切れとする解釈が多いが、連体形と見て、「この世」にかかっていると見ることも可能と思う。前者は、「あらざらむ」だけで「生きていないだろう」の意味に解するが、やや無理があるように思う。この世のほか:現世の外。あの世。もがな:詠嘆を込めた切望を表わす終助詞。「~だったらなあ」。万葉集など上古の形は「もがも」。
2013.02.19
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