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先日の「徹子の部屋」で、タモリさんが不思議がってました。「最近の若い人は重要なところに来ると声が裏返るんですよね。なんでだろう?」営業マンでもスタッフでも説明の途中で突然裏声になると..。 「いやそれ、最近の歌聞いてたらそうなるでしょう?」と思わずつぶやいてしまいました。 歌ですよ、原因は。最近のはやり歌は旋律の途中で突然1オクターブ跳ね上がるのが多い。歌のサビ部分で裏声になるのはよくある手法だし、黒人系の歌のファルセットなどもよく見られますが、近頃はメロディの途中で唐突に裏返る歌がやたらと耳に付きます。これが当世風のサウンドなんでしょうが、古い感覚の私には気になってしょうがない。 だから今の若い人が「ヨーデル話法」になるのは歌のノリなので、当然なんじゃないでしょうか?、タモリさん。-------------------------------------------------------<アイルランドの調べシリーズ>前のページ/ 20230510 ダニーボーイを歌うべラフォンテの歌唱力前のページ/ 20230513 ダニーボーイという歌の変遷前のページ/ 20230514 ダニーボーイのバリエーション前のページ/ 20230529 ダニーボーイの原曲変遷図前のページ/ 20230601 朝ドラに「庭の千草」が前のページ/ 20231227 消えゆく歌を追う人前のページ/ 20231228 バーバラ・アレンと米津玄師-------------------------------------------------------
2023/12/29
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先の映画「歌追い人」の主題歌として取り上げられたのは「バーバラ・アレン」という唄。これはスコットランド民謡として一般に知られていますが、アイルランド移民たちにも歌い継がれたようです。 <ジュディ・コリンズ/バーバラ・アレン> この「バーバラ・アレン」は米津玄師の歌詞にも出てきたので知名度も上がったようです。彼はこの歌が好きで「Neighbourhood」という歌にこの曲を登場させています。内容は彼の子供時代の苦い想い出を歌っています。 なつかしさを感じさせるためにこの歌が引用されたという解説がありましたが、単なるなつかしさでなく、もっと深い意味があると思います。 「バーバラ・アレン」という唄には歌詞や旋律に沢山のバージョンがあるそうですが共通する内容は、死にゆく若者に冷たくしてしまった少女が苦悩のあまり死んでしまい、その墓から生えたバラが二人の墓を包むというお話です。 悔恨を昇華させて懐かしさに繋げるという意味で米津氏はこの「バーバラ・アレン」を選んだように思います。重い過去を乗り越えて前に進むための力なんでしょうね。 追伸1:「Neighbourhood」の歌詞の中には「平和も平和で反吐が出た」という文言もありました。気持ちはよく分かりますが、「無差別爆撃で血反吐を吐く」という2023年末の現実に比べれば、ずいぶんマシなような気がします。追伸2:<ガーファンクルの歌>「バーバラ・アレン」には沢山のバリエーションがありますが、私はガーファンクルのバージョンが好きです。-------------------------------------------------------<アイルランドの調べシリーズ>前のページ/ 20230510 ダニーボーイを歌うべラフォンテの歌唱力前のページ/ 20230513 ダニーボーイという歌の変遷前のページ/ 20230514 ダニーボーイのバリエーション前のページ/ 20230529 ダニーボーイの原曲変遷図前のページ/ 20230601 朝ドラに「庭の千草」が前のページ/ 20231227 消えゆく歌を追う人次のページ/ 20231229 裏声の理由/ タモリの疑問に応える-------------------------------------------------------
2023/12/28
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「歌追い人」という映画を先日レンタルで観ました。2000年公開の作品で、アイルランド移民の伝承歌を発見し、保存しようとする人の話です。 アメリカの開拓時代、妹の住むアパラチア山中の村を訪れた女性が、すでに失われたと思われていた200年前の歌が伝承されているのを知ります。女性は音楽の研究者だったのでそれを記録しようとしますが、社会から差別されていたアイリッシュ系移民の村人の心は固く排他的で、銃まで付きつけられます。 Songcatcher (2000) | Film4 Trailer(映画予告編)この映画は創作ドラマですが、そのモデルとなった人がいます。1900年初頭のオリーヴ・D・キャンベルというアメリカ女性の音楽研究者です。 この時代には消滅しかけているイングランド地方の古来の伝承音楽を研究・保存する運動が定着していました。その権威の学者セシル・シャープがイギリスから取材に来て、オリーヴと一緒に数カ月に渡り南アパラチア山地で民謡採集旅行を行います。彼の研究は歌詞だけでなく旋律も忠実に記録したことが高く評価されています。 当時、アイルランド移民は社会的には黒人と同レベルに扱われていたので、アパラチア地方で、閉鎖的に自活するしかなく、その結果、アイルランドの古くからの発音や文化が残ることになったようです。シャープたちはこの地で1600曲近い曲を採取し、1917年にはオリーヴと共著で「南アパラチア地方からのイングランド民謡集」をニューヨークで出版します。こうして、この地道な努力のおかげで多くの歌曲が今に残され、歌い継がれることになったのです。 ただ彼らが採取した曲はバラードやわらべ歌などの歌謡が主で、ダンス音楽や労働歌、聖歌、春歌などには対象でなかったので記録されませんでした。そのために大量の曲が消滅しましたが、ダンス音楽だけは「マウンテン・ミュージック」や「ヒルビリー」として人づってに伝わり、カントリーやブルーグラスなどに変容したそうです。これは後にロックン・ロールへと繋がったとも言われます。 このように、消えゆく伝承歌を記録し保存する人達の努力にまつわるエピソードは本土アイルランドでも残されています。「若者の夢」を採譜したエドワード・バンティングや、「ロンドンデリーの歌」を採譜したジェイン・ロスについてもネット上に克明に記されているので、そちらを参考にしていただくとして、今回は省かせたいただきます。 ただ重要なのは、歌以外にも古い良いものを大事に守るのは学者や研究者でなく一般庶民の役割です。なのでその気持ちは我々も持ち続けたいのですが、それを次世代にちゃんと伝えられるか?となると、それがなかなかに難しいもんなんですね。-------------------------------------------------------<アイルランドの調べシリーズ>前のページ/ 20230510 ダニーボーイを歌うべラフォンテの歌唱力前のページ/ 20230513 ダニーボーイという歌の変遷前のページ/ 20230514 ダニーボーイのバリエーション前のページ/ 20230529 ダニーボーイの原曲変遷図前のページ/ 20230601 朝ドラに「庭の千草」が-------------------------------------------------------次のページ/ 20231228 バーバラ・アレンと米津玄師-------------------------------------------------------
2023/12/27
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今日のNHK朝ドラの「らんまん」を見てたら「夏の名残のばら」が出て来てびっくり。ちょうど調べてたところなので、いいタイミング。ドラマは鹿鳴館での舞踏会開催のための音楽披露会。そこでピアノで演奏されたのがこの曲。 鹿鳴館の竣工は1883年、里見義が「夏の名残のばら」を和訳した「庭の千草」が小学唱歌集に掲載されたのが1884年なので、時代考証としては筋が通っています。このようなかたちで当時の日本に西洋音楽が浸透していったのですね。 しかし、この鹿鳴館イベントは付け焼刃の西欧化だったため、残念ながら国内外で大炎上することになります。 <浮世絵とビゴーの風刺絵>(井上馨らがイメージした日本人の姿は、西洋人から見ると散々です) ちなみに、この「夏の名残のばら」はなんとベートーベンも取り上げていたので紹介しておきます。ベートーベン/20のアイルランド歌曲集 (WoO 153) 6番「悲しく不幸な季節」 (「夏の名残のバラ」の旋律によるベートーベンのバージョンです)また「らんまん」の昨日放映の話には明治政府が増税のために施行した「酒石税」が出てきました。それまでの酒はその年に出荷した酒量に課税する「庫出税」だったのに対し、「酒石税」はその年に仕込んだすべての酒に税をかけるというえげつない内容。仕込み失敗による廃棄や、古酒のために寝かせている酒の腐敗などの損失は見込んでない。そのために多くの蔵元がつぶれ、日本酒の古酒が絶滅しました。その一方で酒税は国税の税収第1位となり、後の幾つもの戦争の度に増税され続けました。 幸い最近になって5年や10年寝かせた熟成古酒が復活し始めていますが、100年にわたる古酒の空白時代を生むことになりました。<リキュールのような深みのある日本酒の古酒>(灘の「沢の鶴」さんは30年を超える古酒も出してられます)当時の日本の状況からすると、西欧諸国との不平等な立場を対等にしようとする焦りや、軍事費捻出のための増税など、明治の日本を建て直すために行った新政府のあがきが日本をかき乱します。そのために国内外からの嘲笑や経済的混乱などの犠牲を招きながらも、結果的には日本が近代国家へと一歩踏み出すことになったのですね。------------------------------------------------------------<アイルランドの調べシリーズ>前のページ/ 20230510 ダニーボーイを歌うべラフォンテの歌唱力前のページ/ 20230513 ダニーボーイという歌の変遷前のページ/ 20230514 ダニーボーイのバリエーション前のページ/ 20230529 ダニーボーイの原曲変遷図次のページ/ 20231227 消えゆく歌を追う人------------------------------------------------------------
2023/06/01
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(ハープは10世紀にはアイルランドの王族たちが愛用し、国のシンボル的楽器でした)「ダニー・ボーイ」については、ネット上に沢山の記事があげられていて大変参考になっています。私もここであれこれと書いていますが、これは得た情報を私なりに整理したいので、すみませんが重複覚悟で書かせてもらっています。さて、幾つもの記事の中で特に充実した資料を見つけたので追記させてもらいます。小村志保さんという方の『「ダニー・ボーイ」の歌をめぐる一考察』という論文で、歴史的な背景からの詳しい記述がされており、とても読みごたえがありました。ダニー・ボーイはロンドン/デリー出身?「ダニー・ボーイ」の歌をめぐる一考察(PDFデータ)(これは12ページもあるのでちょっと読みづらいかもしれません。)この論文によると、この曲はその歴史的背景と深く関わりながら変遷してきたそうです。アイルランド北部で生まれた曲が、イングランドからの侵略や迫害のもとで消滅しかけ、それを守ろうとする人々によって歌い継がれ、記録されてきたとのこと。 そんな経過の中で様々な歌詞が付けられたり、編曲されたりして沢山のバリエーションを生み、広く人々に広まっていったようです。 また「ロンドンデリーの歌」という題名は屈辱的だとする声もあります。この地名はイングランドの植民事業で名付けられたので、古来の地名の「デリーの歌」と呼ぶ人々も多く、今日もなお、沢山の血が流された紛争の歴史が尾を引いています。 とりあえず今回は、先日に記したことへの補足として、沢山あるバリエーション曲を整理し、この曲の誕生から今日までの変遷説を自分なりに時系列でまとめて、図にしてみました。<ダニーボーイの変遷図> 16世紀末に作られたとされる「丘の上のエドモンド」から、「若者の夢」が生まれ、それが「ロンドンデリーエア」と「ハイド城」に分かれて、それぞれが「ダニー・ボーイ」と「庭の千草」に至るという説を図示しました。また「オカハン族の嘆き」が「若者の夢」の原曲だという説もあるので、付け加えてみました。 なお「庭の千草」が「ダニーボーイ」の類型とされているのですが、私にはどう見ても同じ曲とは思えません。でも専門家によると類型と見なされるようです。The groves of Blarney, "'Tis the last rose of summer"(「庭の千草」の元歌の「ブラー二―の森/最後のバラ」と表記されたハープ演奏)伝統音楽の世界では人から人へと伝わっていくうちに韻律や音域が変わったり、歌詞や構成が変化したりします。そのため異なる曲に思えても同じ曲から発展した場合があり、構造を注意深く分析することで根幹が同じ旋律だと判断できるそうです。(19世紀の音楽収集家ペトリーの論)まあ、こんなふうに様々な曲の変遷にまつわる事柄をあれこれ考えながら探るのも面白いですね。 (追伸)アイルランドの悲痛な歴史を見ると、ロック・ギタリストのゲイリー・ムーアがいつも怖い顔をしていた理由がよくわかりました。また、別の情報によれば、ムーアの葬式でも彼の息子がダニーボーイを弾いたそうです。(ご参考)小柳有美さんのブログ「the Muse / Danny Boy (Londonderry Air) Part1」にも各曲についての詳細な記述があって興味深いです。------------------------------------------------------------<アイルランドの調べシリーズ>前のページ/ 20230510 ダニーボーイを歌うべラフォンテの歌唱力前のページ/ 20230513 ダニーボーイという歌の変遷前のページ/ 20230514 ダニーボーイのバリエーション次のページ/ 20230601 朝ドラに「庭の千草」が------------------------------------------------------------
2023/05/29
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(FEウエザリー作詞のダニーボーイの楽譜)私はケルティック・ウーマンの「ユー・レイズ・ミー・アップ」が「ダニーボーイ」にあまりにそっくりなので戸惑っておりました。 この曲が混声デュオ「シークレット・ガーデン」の2002年のオリジナル曲だったということを知ったのは最近の事です。またケルティック・ウーマンは「ダニーボーイ」も歌っているので、これら2曲は別な作品として認識されているようです。 そう思って「ユー・レイズ・ミー・アップ」を聴き直すと、なるほど別な曲としてのまとまりも感じます。まあ、コピーかオリジナルかなどというような議論には関わりたくないので、私としては「ダニーボーイ」の影響を深く受けた曲として受け止めたいと思います。言い換えれば、ある曲のエッセンスを受け継いで生まれた新たな作品です。 ま、そんな視点で「ダニーボーイ」の曲の原曲とされる先住民族の伝承曲の「若者の夢」を聴くと、短い旋律に続いて流れる旋律は確かに「ダニーボーイ」の後半に高音で歌われるサビの部分にそっくりです。おそらくはこの「若者の夢」での短い導入部が発展するか、別な曲とドッキングして「ロンドンデリーエア」が生まれたのでしょう。Aisling an Oighfir / Ortigueira (演奏される2曲のうちの前半の曲が「若者の夢」で「ダニーボーイ」の原曲か?) つまり「オカハン族の嘆き/若者の夢」というハープ曲がアレンジされて「ロンドンデリーエア/ダニーボーイ」という歌になり、それが「ユー・レイズ・ミー・アップ」という歌に引き継がれたのでしょう。 このようにひとつの曲が変貌してゆくのを味わうのも、音楽の醍醐味ではないでしょうか?------------------------------------------------------------<アイルランドの調べシリーズ>前のページ/ 20230510 ダニーボーイを歌うべラフォンテの歌唱力前のページ/ 20230513 ダニーボーイという歌の変遷 次のページ/ 20230529 ダニーボーイの原曲変遷図次のページ/ 20230601 朝ドラに「庭の千草」が------------------------------------------------------------
2023/05/14
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「ダニーボーイ」という歌の変遷については多くのサイトでも語られていますが、私なりに簡単にまとめてみました。この歌は元々、アイルランドの先住民族の伝承音楽だったそうです。最北端のロンドンデリー地方に住むオカハン族で、17世紀初頭にイギリス軍に制圧されます。しかしその器楽曲は地元に残り、19世紀半ばに街角のフィドル弾きから採譜されたものが「アイルランド古代音楽集」に収録されます。 この曲は当初は無名の演奏曲でしたが「ロンドンデリーエア」とも呼ばれるようになり、それに様々な人が詞をつけて世の中に広まり始めます。19世紀末には恋の歌詞が付けられ「ロンドンデリーの歌」として親しまれるようになります。 アイルランドの人々に広く浸透するのは20世紀初頭です。出兵する若者への送別歌という内容の歌詞が付けられた「ダニーボーイ」として発表されると、第一次大戦や移民に臨むアイルランド人の間に愛好され、第二の国歌のような扱いにされるまでに至ります。またC V スタンフォード作曲の「アイルランド狂詩曲」の中にもその旋律が採用され、クラシックの分野でも認められるようになります。 (*C V スタンフォード - アイルランド狂詩曲第1番/8:05から始まる旋律) こうして現代では世界中の人が愛好する定番曲となっていますが、この曲は特別な意味を持つ曲として扱われているようです。映画でもこの歌を歌うシーンを入れることで、作品における表現や主張を高めたものが見かけられます。 J F ケネディやダイアナ妃、プレスリーなどの葬儀では「ダニーボーイ」が流されたそうですが、あちらではこれが定番曲になっているのかもしれません。そう言えば数年前、日本でも葬儀会社オークスのCMに使われていました。 また村上春樹の小説「世界の終りと~ワンダーランド」にもビング・クロスビーが歌う「ダニーボーイ」がストーリーと絡まって何度か出て来ますね。 「ダニーボーイ」という歌は、様々なかたちで私らの生活や文化に浸透しているようです。------------------------------------------------------------前のページ/ 20230510 ダニーボーイを歌うべラフォンテの歌唱力次のページ/ 20230514 ダニーボーイのバリエーション次のページ/ 20230529 ダニーボーイの原曲変遷図次のページ/ 20230601 朝ドラに「庭の千草」が------------------------------------------------------------
2023/05/13
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(*中学の頃から、文字どおり摺り切れるまで聴いたアルバム)2023年4月にハリー・べラフォンテが亡くなりました。すでに沢山の追悼記事が投稿され、彼の歌う「ダニーボーイ」についても幾人かの人々が言及されているので、重ねて言うべきこともありません。しかし、べラフォンテを知らない人には是非一度、彼の歌う「ダニーボーイ」を聴いて欲しいと思ってます。歌ってこんな風に歌われることも出来るんだということを。 今の時代にはそぐわない歌唱スタイルかも知れませんが、好き嫌いはともかく、一度だけでも耳にしていただければ幸いです。 べラフォンテ特有の細かくソフトな「ビブラート」、低く抑えた歌い出しから「ハイトーン」で歌い上げる後半までのメリハリ。一句一句を丁寧に歌い込みながらも様々な歌唱テクニックが控えめに使われます。半拍置いて歌いだす「タメ」、低い音から本来の音にスライドさせる「しゃくり」、音程を引き下ろす「フォール」、そして長く余韻を残す「ロングトーン」など。 彼の身体から絞り出されるようなこの歌唱は、抑制されながらも情感たっぷりで、一つの芸術にまで高められているように思います。これは凡庸な歌手にはとうてい真似出来ない世界ではないでしょうか。♪ HARRY BELAFONTE ~ Danny Boy ~ ちなみに、三島由紀夫がべラフォンテを空前絶後の歌手と絶賛しているので、ご参考になればと思います。偉大な官能の詩――ベラフォンテの初公演/三島由紀夫 ------------------------------------------------------------ 前のページ/ 20230502 五月の風と大将飾り<アイルランドの調べシリーズ>次のページ/ 20230513 ダニーボーイという歌の変遷次のページ/ 20230514 ダニーボーイのバリエーション次のページ/ 20230529 ダニーボーイの原曲変遷図次のページ/ 20230601 朝ドラに「庭の千草」が次のページ/ 20231227 消えゆく歌を追う人次のページ/ 20231228 バーバラ・アレンと米津玄師------------------------------------------------------------
2023/05/10
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昨年に書かせてもらった武者人形の落ち着き先が決まりました。友人が携わっていた民家園を紹介してくれ、館長さんらに見ていただくと、是非展示したいということだったので、寄贈させてもらいました。そして今年の五月飾りのイベントからデビューしました。 ここは横浜の遺跡公園の一角にある立派な古民家。江戸期より地元の村の名主や組頭を務めた旧家の主屋で、今は文化体験施設として運営されています。 様々なスタイルの五月飾りの展示に、この「大将飾り」が加わりました。人形たちも長い年期を経た建物に収まり、居心地よさそうです。追伸:地元テレビが取材してくれていました。民家園の関係者に人形の専門家がおられ、かなり古いものだと鑑定していただいたそうです。残しておいてよかったです。------------------------------------------------------------前のページ/ 20221017 演歌の意外な歴史<アイルランドの調べシリーズ>後のページ/ 20230510 ダニーボーイを歌うべラフォンテの歌唱力次のページ/ 20230513 ダニーボーイという歌の変遷次のページ/ 20230514 ダニーボーイのバリエーション次のページ/ 20230529 ダニーボーイの原曲変遷図次のページ/ 20230601 朝ドラに「庭の千草」が次のページ/ 20231227 消えゆく歌を追う人次のページ/ 20231228 バーバラ・アレンと米津玄師------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
2023/05/02
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みのさんの動画をあれこれ見てたら、明治・大正期の演歌師・唖蝉坊(あぜんぼう)のCDが出てきてびっくり。みのミュージック「最近見つけた音楽を紹介するだけの動画」(3分30秒から6分15秒あたり) 私が敬愛する「あぜんぼう」を、現在の邦楽のルーツとして紹介してくれたのは嬉しいです。この演歌師による「演歌」については私も昔にあれこれ語ったので、ご興味ある方は文末のリストからご一読頂ければ幸いです。 しかしみのさんは近年になってからの「演歌」についても語っていて、この動画がとっても面白かったので紹介します。演歌の歴史「演歌が誤解されまくってる件について」 私には初耳だった「演歌」の実態ですが、この話題は3年も前にNHKの「ちこちゃんに叱られる」で取り上げられたそうです。なのでもう大概の人がご存じの話題かも知れませんが、一応概略を説明させていただきます。この話のネタ本は 大阪大学の輪島裕介先生著の「創られた『日本の心』神話『演歌』をめぐる戦後大衆音楽史」だそうです。その内容は、現在、我々が「演歌」と呼んでいる唄のジャンルは、1966年に五木寛之が小説「艶歌」で定義付けしたことから始まります。「庶民の怨念悲傷を歌った艶なる歌」という設定です。その「演歌」という呼称が社会的に広く認知されたのは1970年に入った頃で、レコード会社のジャンルに設定され、新聞などの媒体では「艶」の活字が使えないために「演歌」と表記されて広まりました。だから音楽史的には「演歌」は「ロック」や「グループサウンズ」よりずっと後になって登場したジャンルとのこと。 演歌はそれまでに生み出された沢山の歌謡曲も取り込んで大きなジャンルとなります。そしてこぶしを効かせた独特の歌唱法で、恨みや哀愁を歌い、日本人の根源的な歌というイメ―ジに染められて行きます。しかし五木の小説で描かれた時点で、演歌はすでに衰退し始めているとされ、時代と共に新しい傾向の歌に圧倒されつつありました。そして絶滅がささやかれる頃に起こった中高年のカラオケブームがその寿命を延命させて今に至っているそうです。なるほど、演歌というものの歩みが見えてきました。洋楽系の私には歌謡曲や演歌は苦手な分野なので長年避けてきましたが、こうやって再考するとなかなかにユニークな歌のジャンですね。演歌は「限界集落」なのか~ヒャダインの歌謡曲のススメ#4 ヒアダイン氏も、演歌を今の音楽との対比させて適格な考察をしています。こうして演歌というものの位置づけを再確認できたのはとても面白いことでした。でもやっぱり私は明治大正の「演歌」の方が好きだなあ。■20130920 100年経って聴く演説歌■20130927 添田唖蝉坊の唄に泣く■20130926 添田アゼンボーを唄う人------------------------------------------------------------前のページ/ 20220925 みのさんのビートルズ解説動画にときめく 後のページ/ 20230502 五月の風と大将飾り ------------------------------------------------------------
2022/10/17
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YOU-TUBEでビートルズのアルバムの解説動画を見つけたので覗いてみました。「ラバー・ソウル - 全曲解説」というタイトルです。ビートルズをデビュー当時から親しんで来た私としては、今の若いもんがどんなコメントするのかと、ちょっと上から目線で観たのですが、恐れ入りました。よく仕込んでます。ラバー・ソウル全曲完全解説【ビートルズ】みのさんというミュージシャンでもあるルーカス・ミノ・ポールショック氏の動画サイトです。今31歳かな、私より2世代若い人です。 まあ、彼の解説内容は様々な専門図書や関連動画の情報を集約したものですが、よく整理されています。それを自論を交えて一気に語る。内容はアルバム制作時の様々なエピソードや、誰がどの楽器を演奏してるかなどのマニアックな話題です。なので興味ない人にはどうでもいい話題ですが、ビートルズフリークにはたまらない。私もビートルズ本はいくつか読みましたが、この動画には初耳情報や技術的なサウンド分析も入ってるので面白く、次々と幾つもの動画をハシゴすることに。<ビートルズ本>(今手元に残っている本ですが、やはり録音技師 J・エメリックの本が抜群に面白かった。) 解説動画には音源が入ってませんが、ビートルズのアルバムなら大体の曲は覚えているし、ギターフレーズや伴奏のディテールも大体思い浮かびます。しかしビートルズの楽曲は200曲を超えるのでその半分しか詳細は覚えていません。なので恥ずかしながら、最後にはビートルズのCDをかけながらの鑑賞となりました。 みのさんの早口で畳み掛けるような口調は、クセが強くて好き嫌いがありそうだが、私にはかえって明快で聞き取りやすい。多少、情報の欠損や間違いもあるが、後で素直に訂正してるので潔い。 ずらりと並んだ動画一覧を見ると、2-3年前から幅広いジャンルで沢山アップされているので、ご存じも方も多いかと思いますが、この文章を書き始めた2か月程前には読売新聞のコラム記事でも彼が紹介されてました。YOU-TUBEには他の人も解説動画をあげてますが、この「みのミュージック」シリーズは一番見ごたえあります。なにより、音楽やミュージシャンへのリスペクトが感じられるのがいい。おかげで今後の愉しみが増えました。<みのミュージック>サージェント・ペパーズ全曲完全解説【ビートルズ】【ビートルズ】リボルバー全曲完全解説知られざる5人目のビートルズの活躍ロック史解説vol.3 ビートルズの登場とロックの多様化ベースラインだけでビートルズの曲を当てろ!【クイズ】------------------------------------------------------------前のページ/ 20220717 ゴッホの死とピストル、山田五郎説 後のページ/ 20221017 演歌の意外な歴史------------------------------------------------------------
2022/09/25
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ゴッホの死については、本人が自分で撃ったと言ってるので自殺とされています。しかし不審な点も多く、これを疑問視する声は当時からありました。それが10年程前から他殺説が話題となり、それらしい拳銃も畑から発見されるなどして議論が交わされるようになっていました。今年の5月には原田マハさんも小説「リボルバー」を発表してゴッホの最後を描いております。 そんな状況の中、山田五郎氏は「オトナの教養講座」で「カウボーイハットの男」犯人説を解いています。ネタ本は2011年に発表されたスティーブン・ネイフとグレゴリー・ホワイト・スミスの共著の「フアン・ゴッホの生涯」で、ナルホドと思わせる証拠や証言もあり、筋は通ります。そうなると最後まで犯人をかばって「誰も責めないで下さい。」と言い残したゴッホの人間性が浮き上がってきて、いっそう心を打たれました。私としてはこれが真相だと思いたいですね。【死の真相】ゴッホは自●か他●かそれとも…?【カウボーイハットの男】*他殺説の詳細については、下記の河内さんという方の美術ブログが参考になります。「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ死の真相に迫る!ゴッホは本当に自殺したのか?(前編)」「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ死の真相に迫る!ゴッホは本当に自殺したのか?(後編)」<追記>ゴッホはもともと牧師を目指していたので自殺は罪というのは知っていたはずです。それでも自分で撃ったと言い張って息を引き取る。そのため村の教会からは葬儀を拒まれます。弟のテオは仕方なしに、荒れ果てた墓地の一角を買って葬ったそうです。そのテオは心労のためか、その翌年に亡くなります。残されたのはテオの妻と生まれたばかりの赤ん坊。亡くなってからも不運がつきまとうゴッホでした。------------------------------------------------------------前のページ/ 20220716 絵画をめぐるドラマもたまらない「オトナの教養講座」次のページ/ 20220718 みのさんのビートルズ解説動画にときめく ------------------------------------------------------------
2022/07/17
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先日採り上げた「オトナの教養講座」は2021年の正月から始まっており、これまでで80テーマを越えますが、現在はダイジェスト版が続々出てます。今後は絵画意外の分野もどんどん出てくるのでしょう。山田五郎氏はBS日テレの「ぶらぶら美術館」シリーズでおなじみ。今回の企画は作品別に掘り下げて解説した動画ですね。なので、いつものくだけた口調で、絵に詳しくない人にも分かるように解説します。そのお相手がスタッフのワダさんという秀逸なキャラです。アカデミックな教養講座では決して見られない大ボケがたまりません。「そこ??!」と絶句する山田氏はいっそう説明意欲を刺激されます。「ぶらぶら美術館」では、おぎやはぎの二人がこのボケ役でした。「こんなヘタな絵のどこがいいの?」と素人丸出しのコメントを出し、それに対して山田氏が「あのねー、」と説明する。それが専門的になりがちなこの手の番組に分りやすさと親しみを与え、日常的な会話レベルに引き下ろしてくれます。ところがこのお二人、10年を超える年月で目が肥えて、今ではいっぱしの評論が出来るようになってしまった。ボケ役がいなくなったらあかんやろ!その点、このワダさんは完璧です。 さて、この絵画解説編では絵画をめぐる様々なドラマもわかりやすく語ってくれます。画家たちの人間関係、印象派やナビ派の誕生秘話、などです。また、印象派が酷評されたという新聞記事の意外な新解釈もとても興味深かったです。好青年画家【バジール】印象派誕生のきっかけになった人!印象派は当初ディスられたは嘘?当時の新聞記事の全貌を解読したら また、真作と贋作、パクリとコピーの違いについて、いろいろ考えさせられる事件。関連する人間達のドラマはまさに小説よりも奇なり、でした。 【メーヘレン事件】英雄か詐欺師か?ナチスを騙した天才贋作者!【フェルメールの贋作】【メーヘレンの人生とは?】なぜ贋作を次々と自白!?反骨心から生まれた贋作魂【贋作事件】日本も騙された偽ゴッホ!オットー・ヴァッカー事件とは? 絵画の世界はほんと、奥深いですね。 <オマケ>【期間限定公開】エッシャー人気を仕掛けたのは、まさかの少年マガジン!?【日本でのエッシャー人気】 ------------------------------------------------------------前のページ/ 20220708 腑に落ちる山田五郎氏の絵画談義「オトナの教養講座」 次のページ/ 20220717 ゴッホの死とピストル、山田五郎説 ------------------------------------------------------------
2022/07/16
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「腑に落ちる」という言葉がありますが、これほどぴったりした表現はないと思うことがありました。山田五郎氏がYOU-TUBEで発信している「オトナの教養講座」での体験でした。ルソーの奇妙なちょい足しサービス!?&送りつけ問題【ルソー解説第3弾】私も幼い頃から美術館や画集で数えきれない程の絵画を鑑賞してきました。好きだけでなく美術系の学校だったので画家の友人も多く、環境的にも絵画美術には縁が深かったのです。しかしながら様々な絵画を眺めても、その内容や趣旨をしっかり受け止められた作品は多くなく、大半の作品は理解や納得ができないままにスルーしてきました。 なので美術関連の書籍や評論もそれなりに読みました。坂崎乙郎の「幻想芸術」とか、岡谷公二の「楽園の謎」とか、ケネス・クラークの「芸術と文明」などは今も大事に持っています。あとはすっかり忘れましたが、当時の読書メモを見ると東野芳明とか、中山公男、中原佑介、針生一郎などの人の解説にも目を通していたようです。しかしそれらは概して哲学的な感じがして、消化不良なまま、今に至っていました。 ところがです。山田五郎氏が歯に衣を着せないでずけずけと解説するこれらの動画を見て、ナルホドと胸のつかえが下りました。 ルソーの絵のどこが面白いのか、西洋絵画にやたらと出てくる裸の女性、なんでタヒチまで行ったの?、モローの首の絵、セザンヌの落ちそうなリンゴ、ボッシュの謎の怪物などなど。様々な名画に漂っていた長年のモヤが晴れてすっきりです。物心ついて70年間、今まで私は何を観てきたんでしょう?おかげで改めて画集のページを繰るのが楽しみになりました。 一方で、ドガやロセッティの動画は..、見なかった方がよかったかも..。好き嫌いが分かれる解説動画でしょう。でもとっても面白かった。 <「オトナの教養講座」の一例>【マネ】「草上の昼食」この女性はなぜ1人だけ裸なの!?【問題作】破滅が成功の鍵?【ゴーギャン】実はゴッホ以上の闇深画家!【説教の後の幻影】怖い絵シリーズ【モロー】恐怖!なんで生首浮いてるの…?【出現】【現代絵画の父】セザンヌのリンゴはなぜ落ちない?【実は〇〇っぴ】【廃墟の絵】滅びの美よりも深い意味!?ドイツとゲルマン人の歴史がまる分かり!【フリードリヒ】日本人はなぜミュシャが好き?【山田五郎が解説】<その他>モネ「日傘をさす女」消えた少年【山田五郎が解説】大量に描かれるナポレオン肖像画の謎にせまる!【ジャック=ルイ・ダヴィッド】【ジョージアのアンリ・ルソー】泣ける!放浪の画家ピロスマニの悲劇【加藤登紀子・百万本のバラ】なんでチ◯ビつまんでるの?実はあの大天才とも関係!?【フォンテーヌブロー派】レンブラント 「夜警」不気味な少女の正体を追え!【山田五郎が解説】etc.------------------------------------------------------------前のページ/ 20220503 明治頃の武者人形 次のページ/ 20220716 絵画をめぐるドラマもたまらない「オトナの教養講座」------------------------------------------------------------
2022/07/09
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また人形の話題で申し訳ないですが、いつのまにか5月になったので五月人形を飾ってみました。実家の整理の時にどうしても捨てきれなかった人形です。長い年月を超えて残ってきたものなので、何とか後世に残したかったのです。<五月人形の大将飾り>五月飾りは縁起物なので、人には譲らずお寺でお焚き上げしろと言う嫁さんの言葉に耳を貸さず、引き取り先を探しました。しかし興味は持っても保存までしてくれる人はなく、骨董品屋さんも渋い顔をしたので、仕方なく今のマンションに置ける数箱を残して、後は泣く泣く捨てることに。家紋入り天幕、ミニ鯉のぼり、白馬、「三番叟」人形、陣幕屏風などはぜんぶゴミに。陣太鼓だけは友人の子供が気に入って自宅で叩いてくれています。 この写真を友人に見せたら、みんな初めて見たと驚いてくれました。五月飾りと言えば鎧や兜がメインの物ばかりだからでしょう。我が家のは大将と従者の武者人形による「大将飾」で、たぶん明治頃のものだと思います。「鎧飾り」や「兜飾り」が主流になったのは昭和に入った頃からのようです。五月飾りは、元々は奈良時代に中国から伝わったもので、公家の「端午の節句」が始まりだそうです。それが武士の台頭で五月五日を式日とし、男子の成長を願う習慣となったとのこと。梅雨の前に武具を虫干しするのがきっかけという説にはなんとなく納得です。 <同じスタイルの武者飾り>この武者人形に興味を持ったきっかけは、京都の大きな料理屋さんの玄関ホールで同じものを見かけたからです。上記の写真で、うちのよりも古い時代のモノのようです。これが何年もの間、飾られているので、武者人形はお雛さんのように縁起物でなく、装飾品として成立するんだと見直したからです。<当家の槍持ち武者> <新潟の武者人形><当家の旗持ち兵> <旗持ち兵>ネットには、左の怖い顔の槍持ち武者や、右の丸顔の旗持ち兵とそっくりの人形がいくつか見かけられました。どうもこれらは一つのスタイルの定番人形だったようです。しかし写真例はあまり多くないので、古い人形はほとんど残っていないようです。やはり縁起ものとして捨てられたのかも知れませんが、五月飾りは雛祭りと違い、先祖伝来の武具を飾るという起源もあるため、子供に譲るのは問題ないという説も見かけました。ともかくこの人形には愛着も出てきたので、とりあえず箱に納めて、実家から引き上げてきた道具類のダンボール箱の山の上に積み上げておきましょう。これらがいつまで自宅に置かせてもらえるかは不明ですが...。*後日談/この人形の落ち着き先が決まりました。 20230502 五月の風と大将飾り----------------------------------------------------前のページ/ 20220409 市松人形のうれい顔 次のページ/ 20220708 腑に落ちる山田五郎氏の絵画談義「オトナの教養講座」----------------------------------------------------
2022/05/03
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NHKの朝ドラの「カムカム」で、主人公がお化け屋敷の運営をするという話になって、その受付の台の隅に日本人形(市松人形)が置かれていました。困ったことです。今の人達は市松人形をオカルト系アイテムと考えてるんですね。 うちの実家にも市松人形がありました。幼い頃よりずっと目にしていましたが、じっくり眺めたのは道具類の整理をし始めた2年程前でした。幸い骨董品屋さんが引き取ってくれることになったので、記念にと写真を撮撮りました。しかし長年の放置で髪は乱れ、着物は色褪せてしまって、なんともかわいそうな風情になっておりました。そのせいか、どことなく憂い顔です。申し訳ないです。しかしよく見ると実にいいお顔をしてます。上品で端正な表情ですが、ふっくらとしていて昭和の顔でしょうね。「きいちのぬりえ」の女の子にも似てます。「かわいい」という感覚は時代によって移り変わり、人形の顔も変遷してます。下の写真の左の2体は江戸期や明治の頃の人形です。右は朝ドラに出てきた人形ですが平成の顔で、今どきの「カワイイ」系の顔になってますね。昔の人形はリアル過ぎて、今から見ると確かにちょっと気持ち悪い。でも当時はこれでも子供たちは可愛いと喜んだのでしょう。ちなみに、昔のミッキーマウスの衝撃的な写真がありました。この怪物をミッキーと認識して子供たちはめちゃ喜んでます。人の美意識というか、感覚ってのも変わるもんですね。そういえば源氏絵巻のお姫さんは引き目、ぽっちゃり顔だ。可愛い顔とか美人の顔の変遷を調べたら面白そうです。<絵入りSPレコード>うちの市松人形は母の持ち物でしたが、着物は裁縫の得意な祖母が縫ったかも知れません。元々、市松人形は手足が可動で着せ替えが出来たそうです。裸で売られることもあったとか、衣装は手作りしたので裁縫の手習いにもなったようです。昔の子供たちにとっては市松人形はとても身近な存在だったのですね。-------------------------------------------------------前のページ/20220303 お雛さんの「ちご人形」次のページ/20220503 明治頃の武者人形-------------------------------------------------------
2022/04/09
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寒い厳しい日々だったことも忘れるのどかな日が続き、いつのまにか雛まつりですね。京都の「おもちゃ映画ミュージアム」から春の便りが届きました。写真を見ると懐かしいお雛さんが飾られています。これは私の母が持っていたセットです。実家にあって処分に困っていたので、古美術品として引き取っていただいたのです。会場の都合で全部は置けないので一列レイアウトですが、綺麗な金屏風を揃えてもらったので、いちだんと華やかになりました。このセットは母のために新調したのか祖母から受け継いだのかはわかりませんが、お顔の造りが古そうなので明治の頃のものかと思います。木箱には京人形の田中彌(たなかや)さんの墨書きがありました。様式としては有職雛(ゆうそくびな)かな?<時代を感じさせるお顔の女雛><三人官女のお顔もそれぞれ異なります> この中にちょっと見慣れない緑の衣装の人形も参列しています。この人形は昔から何の人形なのかわからなかったのですが、画像検索して初めて素性が判明しました。これは「居稚児」なんですね。「いちご」ちゃん、呼び名もかわいい。髪型がポイントでした。輪になった髪を左右に結った稚児髷(ちごまげ)をしてます。これは平安時代の幼い男子の髷で、牛若丸もこの髪型で描かれることもあるそうです。江戸期から明治にかけては女子に広まったとのことです。稚児は化粧したり女性の衣装を着たりすることもあるので、元々カワイイ系のスタイルだったのでしょう。<写真:大正時代の絵>お雛さんの「居稚児」は扇を持って袴に丸い梵天(ぼんてん)がついてるのが特徴のようです。「居稚児」を飾った例もありました。初めて見ましたが、二人ペアで2段目に飾られています。三人官女より上の位だったのかな?<写真:ヨドコウ迎賓館さん所有のひな壇の ちご人形>お雛さんは定番のセットばかりでなく、立派な御殿に入った「御殿雛」もすごいし、「五人官女」ってのもあるようなので、この「居稚児」も含め様々なバリエーションを探すのも面白いかもしれませんね。 それにしてもこの「居稚児」ちゃん、男の子なのかな、女の子なのかな?------------------------------------------------------------前のページ/20220220 町家の通り庭について次のページ/20220409 市松人形のうれい顔------------------------------------------------------------
2022/03/03
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このブログは京都編を終えたはずなのに京都の話題ばかりで申し訳ないです。しかし書き始めるとどんどん出てきてしまうもので、どうかご容赦下さい夏の建具替えの涼しさと同時に浮かんでくるのが「通り庭」の空間です。 玄関から奥まで連なる土間で、吹き抜けの天井には煙出しと光取りのための小さな天窓があります。そこからの光がレンブラントの絵画のようにほの暗い空間に落ちてきます。土間は土を固めた三和土(たたき)なので、打ち水を吸い込んでしっとりとしています。下駄やサンダルの音も柔らかく響きます。 この町家に通り庭がある理由についてはいろいろな人が通説を語っていますが、一番の理由は便所であると私は思ってます。 便所は町家の一番奥にあり、汲み取り式だったので、その通り道が必要だったのです。少々汚い話で申し訳ないのですが、昭和の半ばまでは近隣の農家や「こえ汲み屋」さんが桶とひしゃくで回収に来ており、1950年の中頃になるとバキュームカーがやってきました。作業の後は消毒液を噴霧してくれますが、土間はところどころが汚れたしてるので、その都度水で流してました。なので京都の町家で、改築して土間をなくす家が増えるのは、水洗便所が普及する1960年前後の頃となります。 また、他にも土足で出入りする人が多かったという理由もあります。町家には勝手口がないので、玄関から様々な業者さんが入って来るのです。米屋や酒屋が台所まで納品に来てくれます。行商の魚屋さんは流しで魚をさばいてくれます、八百屋は漬物用のかぶらを縁側に山積みにしてくれます。炭屋は炭や練炭を運び込み、冷蔵庫は氷で冷やすタイプだったので、夏には氷屋が冷蔵庫に氷の塊を入れに毎朝来てくれます。 このように様々な業種の人が台所の奥まで立ち入ってくるのです。当時の京都の日常生活は土足で出入りする人達で支えられていたので、土間は必要不可欠な空間でした。 また洗濯場や風呂焚きも土間の奥にあったので、来客があっても下駄ばきのままで玄関に行けましたし、豆腐屋のラッパが聞こえたら鍋を持って表に駆け出します。当時の生活は土間を介して町と密接につながっていました。(母の実家である祖父母の家の間取りイメージ) また、この通り庭に板を渡して作業場にすることもありました。茶の間を広くし、そこにちゃぶ台を出して井戸で冷やしたスイカや瓜を食べたりしました。天窓から落ちてくる陽光や、通り抜ける気持ちいいそよ風、風鈴の音などが映画の一コマのように今も思い出されます。 この板床は普段は壁に止められていて、それを倒して使ったと思います。暮れにはここでついた餅を丸めた記憶もあるので、一年を通していろいろな場面で使われたようです。ただ、土間が通り抜けられなくなって不便なので、臨時的な使われ方だったのでしょう。 この通り庭の仮設床については、記述された資料を見たことがないので、一般に普及していたのかどうかは分かりません。しかし滋賀県の親戚の旧家でもこんな板床を使っていたのを覚えています。 幼い頃の想い出になってしまった通り庭について、久々に思いを巡らしてみました。------------------------------------------------------------前のページ/20220215 座敷すだれの淡い眺め次のページ/20220303 お雛さんの「ちご人形」------------------------------------------------------------
2022/02/20
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前回に簾戸(すど)の話をしましたが、少々季節が外れますが、その話を続けさせていただきます。 京都の町家では夏になると「建具替(たてぐがえ)」をし、ふすまを簾戸(すど)に、障子を簾(すだれ)に取り替えました。すだれと言えば、今では町家の外に吊るされてる「外掛けすだれ」が定番ですが、元々は宮中で身分を隔てるために使われた「御簾(みす)」が原点なんですね。それを明治になって京都の建具屋さんが応用して「お座敷すだれ」を考案し、普及させたとのことです。このすだれは細かい竹ひごを使い、周辺を西陣織の縁で止め、巻き上げるための紐と固定する引っ掛け金具が下げられてます。 四条通り近くにあった母の実家では、夏になると敷居からこの「お座敷すだれ」を吊るしてました。すだれを巻き上げる紐には手ごろな房が付いているので、それをつかんで扇を持ち、祇園祭の鉾の音頭取りの真似をして叱られたこともありました。また床にはあめ色に変色した「籐むしろ」を敷くので、籐の光沢ある表面の感触がひんやりとしてとても気持ちよかったです。 京都の四条にあった「四条京町屋」も簀戸とすだれの両方使ってたので、実用事例として載せておきます。床も籐むしろを敷いて、典型的な夏の眺めとなっています。手前や奥に見える扇風機も夏の必須アイテムですね。この写真は「手回し蓄音機を聞く会」の一コマです。 この四条京町家も、母の実家も、私の実家の簀戸も、時代と共にみんな消滅してしまったので、せめて想い出として残しておきましょう。--------------------------------------------前のページ/20220127/京町屋の建具たち次のページ/20220220 町家の通り庭について--------------------------------------------
2022/02/15
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<硝子障子>このガラス障子は、この家に入居したときに祖母が夷川通りの家具屋街で買ってきたものだそうです。京町屋はモジュール化されていてどの家も同じ寸法なので、引っ越しの時は建具も持って行ったり買い替えたりしたそうです。夷川には今も中古の建具屋さんが何軒か残っています。 <簀戸(葦戸)>1回目の廃材整理の時に簾戸(すど)が10枚出てきました。業者さんが二階の窓からトラックめがけて投げ降ろしていたので、あわてて止め、残してもらいました。簾戸はすだれをはめ込んだ建具で、夏になると家中のふすまや障子をこれに変えます。すると縁側からの涼しい風が玄関まで吹き抜けます。京町屋の風情ある知恵でしたが、エアコンの登場で使われなくなり、ずっと押入れの奥で眠ってました。 <板戸>ガラス障子も簀戸も古びてはいますが、いい味が出てます。捨てるのに忍びなく、後日、建具屋さんに声をかけました。すると建具屋さんは、この手は在庫がいっぱいあるので、欲しいのは板戸だと言われます。板戸は半円柱型の桟を張った戸です。なので、茶の間(台所)の板戸だけ引き取ってもらい、あとは悲しいですが廃材に。長年、お世話になりました。ご参考: 楽天ブログ「京の町屋のモジュール化」 (2009年8月16日)--------------------------------------------------前のページ/20220125 実家を空に次のページ/20220215 座敷すだれの淡い眺め---------------------------------------------------
2022/01/27
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京都の実家を引き渡しました。70年間に溜め込んだ物の整理は一苦労でしたが、なんとか家は空っぽに。モノがなくなった家はとっても広くなりました。------------------------------------------------------------前のページ/20220105 ブログの「京都編」を店仕舞い次のページ/20220127 京町屋の建具たち ------------------------------------------------------------
2022/01/25
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年が明け、2022年となりました。このブログも2年以上ごぶさたし、失礼しました。奇しくも新型コロナの流行と時期が重なりましたが、停滞の原因はただ、文章がまとまらなかったからです。歳のせいでもあるんでしょうね。 この2年の間に自宅を引っ越したり京都の実家を手放したりして、環境が変わりました。2022年からは関東に腰を落ち着けて、またブログを続けられればと思っております。なのでこのブログのタイトルから「京都編」を外して再出発です。よろしくお願いします。
2022/01/05
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前回、中国の寒山寺のお話を取り上げましたが、このお寺の開祖は寒山とされています。 7世紀、唐の頃にいたとされる「寒山」は風狂の修行僧。山にこもり乞食同然の生活をしながら、寺で働く拾得(じっとく)と共に、僧をからかい、奇声を発したり放歌高吟したりと二人して奇行を繰り返しながらも何百もの詩を残し、後には禅の体現者、仏の化身として敬われます。<寒山寺の詩とペアで売られている寒山拾得図>この二人は「寒山拾得図」として後世の画家が好んで取り上げてますが、どの絵を見ても異様で不気味に描かれてます。私も昔から一体なんだこいつらは、と気になってました。<雪舟の寒山拾得図>あるとき森鴎外の短編にあるのを見つけて読みましたが、ますますわからなくなりました。そのストーリーはと言うと、昔、唐の頃に役人がいて、頭痛を治してくれた不思議な僧に会いに行くと留守だったので、紹介された菩薩の化身という寒山と拾得にうやうやしく挨拶すると、二人はゲラゲラ笑って走り去るという、ただそれだけの話。わけわかりません。この話にはネタ本があります。寒山や拾得の詩500余りを集めた「寒山子詩集」の序文です。鴎外はこれをほとんど加筆なしに短編小説に仕立てています。しかし物語は途中で唐突に終わっていて、人々は皆面食らいます。禅の世界は問答無用、と言わんばかりのぶっきらぼうな扱いです。しかし原書にはその後日譚も書かれていて、寒山拾得が壁や木切れに書き散らした落書きを集めると立派な詩集が出来上がり、彼らの真理を会得したというふうな結末となってます。<北斎の寒山拾得図>鴎外はこういった昔の物語を仕立て直すのが好きなようで、「山椒太夫」もそうですね。しかし彼の「高瀬舟」はとてもよかった。江戸期の役人の手記が元ですが、これはとてもしんみりと心にしみる素晴らしい名作だと思います。井伏鱒二や芥川龍之介の「寒山拾得」は全く違う扱いで、寒山拾得の強烈なキャラクターに取り付かれる現代人を描いてますが、そんな気分、なんとなく分かるほどインパクトある寒山と拾得です。<京都のコーヒーハウス拾得>しかしながら、寒山拾得といえば、私は真っ先に京都のライブハウス・拾得をイメージしてしまいます。というか、この店のおかげで寒山拾得に興味を持ったという方が正しいでしょうね。今年で46周年をむかえた京都の老舗ライブハウス拾得。正式にはコーヒーハウスと称してますが、かっては蒼々たるミュージシャン達がここを巣立って行き、西部講堂、円山音楽堂と並んで京都の音楽のメッカでした。もちろん今も現役で頑張ってますが。それにしても私は今までずっと「じゅっとく」と呼んでましたが違いました。お店のHPに下記のように書いてありました。恥かしい。<拾得は「捨得」とは書きません。「じゅっとく」でなく「じっとく」と読みます>つまり捨はすてる、拾はひろう、で正反対の言葉でした、なので今までは「捨てて得る」などとと呼んでいたわけです。寺に拾われた子供なので「拾って得る」なんですね。僧たちの食事係だった拾得は残飯を集め、山に住んでいた寒山を養い、共に遊びかつ詩を読む。このライブハウスもそんな無名のミュージシャンを集めて共に伸びるという意味で、この名を選んだのではないかと、勝手に合点しています。寒山と拾得は現代にも啓示を与える存在のようですね。そう考えると悪趣味な描き方でなく、童子のような清らかな存在としてこの二人を見るのもひとつなのかもしれません。<伊藤若冲の寒山拾得図>------------------------------------------------------------前のページ/20191024 寒山寺の拓本の奇妙な文字次のページ/20220105 ブログの「京都編」を店仕舞い ------------------------------------------------------------
2019/11/09
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なんやね!この「鐘」の字。昔から気になっていることがあります。それは友人から中国土産にもらった拓本。有名な蘇州の寒山寺の七言絶句「楓橋夜泊」です。ところが、立派な文字が並ぶ中、1か所だけくにゅくにゅっとしたミミズのような文字が混じってるのに気が付きました。「鐘」という字なのですが、何ともやる気がない!うーん、中国の土産物だからなあ。拓本取るのに失敗して、印刷屋のオヤジがよっしゃ、いてまえ!とちょこちょこ書き込んで売ってしまった。どうもそんなシロモノのようです。髙い金払って掛け軸にまで仕立ててしまって失敗だった。とがっくりしていました。あれから40年、床の間の掛け軸を眺めながら何気にネットで確認してみたら、なんと本家の寒山寺の石碑までもが、くにゅくにゅではありませんか。もともとこの石碑は、明代に文徴明の書で彫られていたが、損耗して、清の時代に兪樾(ゆえつ)が彫り直したとあるので、この時からこのままなんでしょうね。驚いたが誰もこの件について取り上げてる人はいません。出てくるのはこの詩の内容や寒山寺のいわれ、作者の張継などについての疑問ばかり。ま、これはこれでおもしろかった。詩は抒情的で静寂感に満ちて、私のお気に入りですが、月が落ちたら何も見えないやん、とか、夜中に鳥が鳴いたり鐘をついたりしないよ、とかいろいろ疑問反論があり、今なお決着はついていない。そして、作者とされる張継はこれだけの名詩を残しながら他の詩は何も残ってない。寒山寺とはどこにでもある寺のことで、蘇州の寒山寺とは限らない、どうも後世で同名のこの寺にこじつけたらしい。などなど。そんなあれこれはともかく、この鐘のくにゅくにゅ文字問題については誰も取り上げてないので、あえてこの場で提示してみました。しかし待てよ、ここに至ってちょっと思いつきました。書については圧倒的な歴史と伝統のある中国のことです。生半可な理由でこんな変な書体を挿入するはずがない。石碑は明代に文徴明の書で彫られてます。それが耗激しく、3~500年後の清代末期に考証学者の兪樾(ゆえつ)が翻刻したとあります。翻刻とは文字や内容を変換するという意味ですが、それならば兪樾の書体にて自由に書けばいい。ところがこんな文字を使っているところを見ると、兪樾は文徴明のオリジナル書体で刻印しようとしたのではないので、しょうか?ところが鐘の字がひどく損傷し、オリジナルの書体が判別できなかったので、兪樾は勝手な書体を使わず、あえてくにゅくにゅに崩して書きとどめた。そのためか、鐘以外にも何か所か、変な部分があります。この事を言い換えれば、全体の文字はオリジナルの文徴明の書を写しているわけです。まあ、門外漢の私としてはとりあえずそう考えておきましょう。真実をご存知の方がおられましたら、どうかご教授下さい。*ちなみに、参考までに文徴明のオリジナルの書と比較してみました。 寒、天、江、半などの文字、なんとなく似てませんか?(翻刻した兪樾は篆書が多い人だったので、隷書のサンプルは見つかりませんでした)(追伸:素人の暴論なので専門の方々に不快な思いをさせましたらお許し下さい) --------------------------------------------------------前のページ/20191014/ジェリー・マギーさんのフィンガー・ピッキング 次のページ/20191108/寒山と拾得が残したもの--------------------------------------------------------
2019/10/24
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ベンチャーズのジェリー・マギーさんが一昨日に亡くなりました。東京でのソロ公演のために来日していて、リハーサル中に心臓発作で倒れたとか。彼は何度もベンチャーズに加わって活動してましたが、それ以外にデラニー&ボニーやブルースバンドなどでも活動するなど、幅の広いギタリストでした。クラシカル・ガス特に私は彼のソロ・ギターが好きで、彼の「クラシカル・ガス」は私のフィンガー・ピッキングの手本となりました。完コピーは無理ですが、一応、この曲で舞台にも立たせてもらったこともあります。そんな師であるジェリー・マギーさんに感謝するとともに、ご冥福をお祈りします。--------------------------------------------------------前のページ/20191009 エルトンとバーニーの切ない関係 次のページ/20191024 寒山寺の拓本の奇妙な文字--------------------------------------------------------
2019/10/14
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私がエルトン・ジョンを知ったのは、20才の頃。ラジオで流れた歌をオープンリールテープに録音した時に「作詞はバーニー・トーピンです」という説明コメントまで入ってしまい、それで、この二人の名前を覚えました。映画「ロケットマン」の基本的なストーリーは、ゲイであるエルトンが作詞家のバーニー・トーピンと出会って心惹かれながら、その気持を受け入れて貰えない苦悩を歌に託して生きるという話が軸となります。エルトンの気持ちを知りながら、バーニーはその心情を歌詞にし、エルトンはメロディを付けて歌います。何という自虐的な行為。そしてそれらが次々とヒットし、歌い続けなければならないという、これまた皮肉的な展開。この二人の間にはこんなことがあったのですね。私は彼等の人物や歌の意味などには感心が薄く、歌詞を訳すこともなく、ただ耳だけで50年間聴いてきました。映画「ロケットマン」はそんな私に、歌の後ろに秘められたドラマや心情など様々な情報を与えてくれたました。私はまた根性込めてエルトンを聴きたくなりました。なお、この映画の宣伝のために配布された情報の中に、とてもいい解説がありました。町山智浩さんの「映画『ロケットマン』を見る前に聞くと映画が100倍楽しめるエルトン特集」です。これはラジオ番組を転用したもののようですが、エルトンの人生や歌についての斬新な解釈がされていて、大変参考になりました。たとえば私のカラオケ持ち歌の「ダニエル」は、ベトナム戦争で深い傷を負った兄を慕う歌だとか、「僕を救ったプリマドンナ」は大誤訳で、正しくは「僕を自己中女から救ったシュガー・ベア(ロング・ジョン・ボルドリー)」だとか、いろいろ。ただ、町山氏の語る「ロケットマン」に関する解釈は、ちょっと首をひねる部分もあって、私としては鵜呑みにはしていませんが、「レイ・ブラッドベリ」の短編「宇宙船乗組員」が原作のようだという話は、ブラッドベリファンとしてはとても嬉しいエピソードでした。ともかく、町山氏のエルトンへの愛情こもった熱い話は、多少オーバーヒートしていても映画同様面白く、満足でした。これは30分近くあって、全部聞くのは大変なので、あくまで興味ある人にのみ、お薦めします。--------------------------------------------------------前のページ/20191008 先々月見た映画「ロケットマン」、よかった次のページ/20191014 ジェリー・マギーさんのフィンガー・ピッキング--------------------------------------------------------
2019/10/08
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スクリーンでエルトンを味わう映画好きなのに映画館にはめったに見に行かない私。この正月には娘に誘われて「ボヘミアン・ラプソディ」を。久々の映画鑑賞。そこそこ良くできた作品でした。でもあれほどヒットするとはねえ。先月はエルトン・ジョンを描いた「ロケットマン」が封切られたので、珍しく私から妻を映画館に誘いました。これはほうっておけません。作品はテンポも良く、なかなかうまくまとめられていて面白かった。どちらも同じ監督作品ですが、前作とはまた違うタイプの作品で、中身は濃い。しかしエルトンに淡白な日本では興行的には難しいかも。この作品はエルトン・ジョンの伝記映画とされていますが、ちょっと違います。事実と異なったり時系列を無視したりしてます。つまりこれはエルトンのランダムな回想をもとに再構成したドラマで、彼の歌をミュージックビデオ風に楽しむ音楽映画といっていいでしょう。でもエルトンの歩んだ人生の概要はちゃんと描いてます。まあ、本物らしく語られるドキュメンタリー映画にしても、必ず誇張や過剰演出があるものなので、彼の真実の人生を知りたければ、これをきっかけに各自が探ればいいでしょう。でもこの映画のおかげで、私は彼の歌の深さを知ることになりました。それについては次回に....。(あれこれと慌ただしく流れて行く月日。書きかけの日記がどんどんたまって行きます。)----------------------------------------------------------前のページ/20190805 さよなら、可愛いものたち 次のページ/20191009 エルトンとバーニーの切ない関係----------------------------------------------------------
2019/10/08
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手放した実家の道具類、名残惜しい物も多いけど、新しい人の手に渡ればきっとかわいがってもらえると思います。これらの道具類に意外に興味を持っていただいた人が多いので、ちょっとご紹介させていただきます。塗の菓子皿、雀のお宿がテーマで、おじいさんと踊る五羽の雀が微笑ましいです。陶器の金魚、雀の香炉、三足のカエルです。三足のカエルは金運を招くとされますが、この香炉の本物は本能寺を明智勢が攻める前夜、突然鳴き出して錦の布で覆ってやっと泣き止んだと言われています。信長に危険を知らせたとの逸話と共に伝わっています。市松人形、ちょっと憂い顔の上品な顔立ちの人形。もともと市松人形は着せ替え人形とされているので、衣装は裁縫が得意だった祖母の手作りかもしれません。幼い頃から身近にあったので別れるのはちょっとつらかったが、これはそこそこの値が付いたので、大切にしてもらえそう。これは菓子皿かな?笛、太鼓、つづみの3種が2枚ずつのセット。手描きなので同じ柄でも表情が違う。穏やかな表情のおじいさんとおばあさん人形。金属製でいい仕事してますね。お正月によく出してたけれど、ひょっとしたら、私も同い年になったのかも。骨董屋さんが目ざとく見つけたタンスの上の猫ちゃん、お、あれはどうです?5000円で引き取りますが。あ、隠しといたのに。ダメダメあれは私の宝物。絶対手放しませんよー。でもこれに目をつけて貰えてすごく嬉しかった。
2019/08/05
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大嫌いな断捨離を京都の実家で実施中。お店が開けるくらいの量。骨董屋さんに値の付くものを100点程引き取ってもらったけれど、まだこれだけ残りました。茶釜(2000円成)以外はタダでよければ持って帰りますが..、との答えにしばし考え、置いて行ってもらいました。今回は40点一山で2万5000円。今までの総合計では、とりあえず1カ月程の生活費になりました。それにしても掛け軸15本まとめて1万円は残念。お宝鑑定団ではないが、とんでもない名品があるのではと期待するのが人情。しかし大概が千円、二千円という厳しい評価。それをわが身で体験しました。特に書画は最近、売れないそうです。二代目が先祖や先代のお宝で大損をして、懲りて手を出さないようになったとか。また、床の間どころか和室が激減して掛け軸も需要がない。ましてや茶の湯の出番もない。ということで、流行るのはモダンインテリアに合うシンプルクラシックな骨董小物だそうです。この家紋入りの漆の文庫は私も始めて見たもの、祖母が嫁入りに持ってきたもののようです。明治のものですが、業者さんには邪魔なだけ。中身の裂地だけいただいて、文庫は捨てますとの答えに、思わず「ひと箱だけでも残しといて」と言ってしまった。いったい横浜の自宅のどこに仕舞おうか?嫁さんは渋い顔。それにしても、後日車で品物を引き取りに来た骨董屋さんが、なんとなく愛想よくなったように見えたのは、気のせいかしら?
2019/08/02
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実家の整理をしていて、引出の奥から紙箱が。開けてびっくり、札束やらバラ札やら、300枚程あるか?しかし見たこともない奇妙なお札。おもちゃ?いや、よく見れば額面は壱円、拾銭、五拾銭..。なあんだ、かっがり。だけど欲を出してはいけません。これはゼニではなくて、文化遺産。何でもコレクションしていた父の置き土産です。別な段ボールにはコインもぎっしり。一円、5円から500円玉まで、昭和から平成までの製造年ごとにざくざく。そんなん集めてどないするんや~!一銭、十銭も小箱いっぱいあったけど、とても売れそうにない、しかし円はまだ通用するので、ありがたい。とりあえず、銀行に一袋持って行ったら、何百枚もあると有料になると言われました。それはかなわん、郵便局なら無料とのことなので、そちらで一部を預金。機械で数えるのですが、結構、時間と手間がかかるので他のお客さんが気になって全部は持ち込めません。でも一週間分の食費にはなりました。旧札もよく見ると面白い。お札は日本銀行が発行するものだと思っていたら、政府が直接発行したものがあったとか。千円札の左下が5銭と10銭札。昭和23年の頃のもので、今の1/4程のサイズでかわいい。日本一最少のお札とのこと。右下は大日本帝国政府発行の10円札、絵面が龍でド迫力です。その下は日華事変の軍票。これらは場所を取らないので、とりあえずマイコレクションに。
2019/07/30
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思いがけない時にテレビから復興節が飛び出しました。HHKの大河ドラマ「いだてん」でした。大正12年の関東大地震で全てを失いながら、逞しく立ち上がりつつある人々の姿を面白おかしく歌った歌です。私はこの歌が好きで、聴く度に心が温まります。添田さつき・復興節/ 土取利行(唄・演奏)Hukko bushi/T.Tsuchitori------------------家は焼けても江戸っ子の 意気は消えない見ておくれ アラマー、オヤマー、たちまち並んだバラックに夜は寝ながら、お月様ながめて、エーゾエーゾ、帝都復興 エーゾエーゾ ♪------------------ これを作ったのは明治・大正期に活躍した演歌士・添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)の息子の添田さつき(本名は知道)。この親子が日本の歌曲の社会派シンガー&ソングライターの元祖であります。そして、彼らの歌を現代に蘇らせたジャズ・ミュージシャンの土取利行さん。この歌については5-6年前にこのブログで取り上げさせてもらいました。(「関東大震災の焼け跡で歌った演歌師」)バラックが立ち並ぶ日暮里の焼け跡で、悲惨と絶望の底にある群衆に囲まれて歌う演歌士。当時のマスコミといえば新聞しかなかった時代、街角で歌う演歌士は貴重な情報源でした。添田さつきは、袋叩きにあうのではとびくつきながら、震災の悲惨さを描写した報道歌「大震災の歌」を歌うと、無言で聴いていた人々が歌詞を買い求め始める。続いて「復興節」を歌うと笑いが起こる。こうしてこれらの歌は被災地の人々に受け入れられ、全国で広く唄われました。ラジオ放送が開始されたのはその二年後のことです。私はこの添田親子を主人公にした大河ドラマが出来る事を待ち望んでいます。文明開化で戸惑う世の中、民主主義や資本主義、権威や政治家を痛烈な批判歌で繰り広げるドラマです。当然、あの宮武外骨先生も登場するでしょう。きっと愉快なドラマになると思いますよ。楽しみ。
2019/06/24
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10連休もやっと最後の日に。今日も晴れたので、御苑ランチ。ベンチは落ち着かないので芝生へ。ここらへんは小学校の頃に遊びまわった縄張り。低木の幹にわら縄で陣地を作ったり、タンポポと摘んだり、地ゼミを取ったり、あの頃と少しも変わってないです。見渡すと、少し離れたところに親子連れが遊び、犬を連れたカップルがお弁当を。その向こうではご婦人が二人、お茶を飲んでいる。日差しが強いので、みんな日陰を選んで座っている。穏やかなひと時。戦争、弾圧、歪み合い、そんな悲惨なニュースが流れる毎日、ここは60年前と変わらず平和です。ありがたい。
2019/05/07
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春まっさかり、まさに雲一つない青空の広がる昼下がり。令和の10連休で行きつけのランチのお店も休んでいるので、こんないい陽差しの日はいつもコンビニ弁当を買って御苑で食べます。洗濯の合間の昼食のひととき。今日はグランド付近で、先月は5-600m先の御所の建礼門を眺めながらの贅沢なひととき。弁当は不味いが、広大な視野がご馳走。ティファニーのウインドウを眺めながら朝食のパンをかじるホリー・ゴライトリー、いやオードリー・ヘップバーンみたい。
2019/05/04
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洋楽の様々な名曲がどのように生まれたのかを解説するBS番組、"Song To Soul-永遠の一曲" でコニー・フランシスが取り上げられてましたが、とても感心した事がありました。Vacation - Connie Francis - ( Lyrics )コニーのプロデューサーは、屋根職人だった父親、ジョージ・フランコネロ・シニアでしたが、彼の後押しのおかげで彼女は経験を積んでデビューし、パティ・ペイジやドリス・デイといったポピュラー系大物歌手を押し分けて、ロックンロール系のスターとしてアメリカン・ミュージック・シーンに躍り出ました。 成功した次のステップとして、父親が勧めたのが他国語で歌うことでした。そんな事、他の歌手達は誰もやっていなかったのですが、彼女は躊躇なく取り組みました。なぜか、その理由は、当時アメリカが世界から疎まれ嫌われていることを父親が気にしていたからだといいます。政府や役人なんかに任せていても、他国のアメリカに対する感情は変わらない。だからお前の歌でアメリカのイメージを変えるのだ、と。こうして、コニーは世界15ヶ国の言語で吹き込みました。特に力を入れたのは日本語とドイツ語だという、なるほど、かっての敵国です。日本語では30曲もあったそうです。確かに、YOU-TUBEで日本語の歌を次々とクリックしてみると、どれも聞き覚えのある歌ばかりでした。夢のデイト(日本語)/コニー・フランシスかくして、コニー・フランシスの、いや父親の世界戦略は見事に成功しました。私の同年代の人たちが当時、アメリカに親しみと憧れを抱いたのも、この戦略のおかげだと、今頃気づきました。コニーと父親とは家庭的にいろいろと確執があったようですが、この点に関してはこのお父さんに素直に感謝しておきたいと思います。コニー・フランシス 大人になりたい(日本語)1962(アメリカでの人気はイマイチだったこの曲ですが、日本の事情もよく知って いたコニーは、日本の女性にウケると直感して日本語で吹き込み、大ヒット させたということです。)
2018/08/11
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茶箪笥の隅から見つけた1冊のノート。中には鉛筆でぎっしりと金子みすずの童謡が書き込まれていました。これはみすずの遺稿集を発見し、世に広めた矢崎節夫さんの「金子みすず童謡集」を写したものでした。童謡だけでなく、与田凖一氏の始めの言葉から、彼女の紹介や発見するに至った矢崎氏の解説文、そして巻末手記まですべて丸写しされてました。出版記録の奥付まで。そういえば20数年前、図書館で借りて実家に持って帰ったのを思い出しました。母が朝日新聞の天声人語で紹介された記事を見て、読みたがっていたからです。まさか丸写していたなんて思ってもみませんでしたが、当時は金子みすずの出版物はほとんど店頭にはなく、手に入らなかったからでしょう。あとで貼り付けたであろう新聞の切り抜きも幾つか貼ってありました。詞の横には挿絵まで描かれてました。これは絵の得意な父に頼んで描き込んでもらったのでしょう。夫婦二人で作った詩集ノート。その痛み具合から何度も読み返していたのが分かります。今年になって不調を訴えて入院していた母は、5月に心不全で92歳で亡くなりました。前の日まで食事をさせ、あまり食べないので怒っていたのですが、心臓がもたなかったのか、翌朝突然に心房細動を起こし、他界しました。式は身内だけでの家族葬となりました。事情で無宗教で行ったので、位牌も遺影もお坊さんもない式。しかしいっぱいの花を飾り、好きだった唱歌を聴かせ、この金子みすずの童謡を幾つか朗読し、参列者から思い出話をささげ、思い出深い、いい葬儀となりました。本と音楽を愛し、平凡な人生を歩んだ母は、生まれ育った京都で、私との二人三脚で静かな生活を送り、穏やかに終わりました。こうして私の5年を超える介護生活は終わりました。
2018/06/09
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京都の夷川通りは昔から家具屋街であり、沢山の家具屋さんが軒を連ねていました。しかし婚礼家具の衰退やネット通販の影響で、家具専門店は消えて次々とビルやマンションに建て替えられ、夷川の昔ながらの風情はなくなりました。そんな夷川通りの中程に、一段と大きな店構えの美術・骨董品屋さんがありました。3軒分の軒を連ねた「万市」さんです。軒の深い瓦屋根の奥は暗くひっそりとしていて、お店に前に大きな火鉢が3列、3段に積んで置いてあったのが印象的でした。 当世風の味気ないビルが続く通りに、長い年月を漂わせてどっしりと構えており、かっての夷川の繁栄を物語る生き証人のようでした。それがある日天幕に覆われ、建具類が運び出されはじめました。大きな建物なので、出来ることなら何かの施設にでも転用してもらえればと願っていたのですが、数日後には重機が入り、母屋は跡形もなくなり、裏の建屋の解体にとりかかっていました。その後、この土地の半分の100坪が6億5000万円で売りに出ていました。結局、土地の方がはるかに価値が髙いために建物は邪魔者なんですね。こんな現状では、京都の町屋を残そうという声や政策が出始めていますが、はたして効果は出るでしょうか?町家や歴史的建造物が札束の上に建っている限りは。万市さんのかっての雄姿(いつか撮ろうと思いながら、永遠に撮り損なったので、GooglMapさんからお借りしました)<事後報告>万一さんは今、病院の駐車場となっています。京都はそのうち駐車場だらけになって、「京都名物・駐車場巡りツアー」ができるかも。
2018/05/12
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日頃、絵の話などめったにしない弟が珍しく絵について語り出しました。たまたま見かけたデパートでの絵画展。光の具合がとても美しくて、テーブルの上に置かれたものがくっきりと映えて、樹木や花やカーテンがとてもリアルで..、と延々と続く。印象派のような絵なのに、日本画の画材で描かれているのもユニークだと。え?とそれまで流して聞いていた私が聞き耳を立てました。女性の絵描きさんでたしか西なんとかさん...私は本棚に行き、ストックファイルから1枚の絵ハガキを取り出して差し出しました。これかい?彼の声が途切れ、 え?なんで持ってるの? この人知ってるの?私もそれほど頻繁には街の画廊を訪れることはありませんが、昨年末、知り合いのグループ展に行った際に、みんなが近くでやってる個展がすごいと噂していたので、興味を持って訪れていたのです。西澤知江子さんという方の個展。絵も素晴らしかったが、描かれた庭園やインテリアがまた素敵だったので、作品が欲しいと思ったけれどとても手が出ない。で、せめてもと絵ハガキを頂戴し、大事にアルバムに保管していたのです。確かに魅力的な作品でした。とても趣のある庭やテラス、室内が豊かな植栽や花で満たされ、陰影に富んだ光りが差し込んでいます。精緻な筆使いと深い色彩。しかしこの絵は一見、印象派的な油彩に見えるのに岩絵具を使われてるそうです。日本画で使われる岩絵具はどちらかというと表面(マチエール)が乾いた質感になるのに、西澤さんの絵は油彩と思ってしまう程の色艶が感じられます。元は油彩を描かれていたそうで、光りを表現するために岩絵具を使われているとか。確かにこれは成功しているようです。何より、描かれた空間に入り込んでくつろぎたいという感じになるんですね。人物が描かれてないのに人のぬくもりも感じられます。絵画作品の役割のひとつに、人の感情に寄り添うことがある。西澤さんの作品はそんな、人を爽やかな気分にしてくれる絵だと思います。好みも生き方も違う兄弟二人が、まったく期せずして同じ画家に感動するなんて、不思議な出来事でした。
2018/05/02
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<Folk Rock Bar "Phoe~be" >お店のブログはこちら大阪での洋楽カラオケ会の帰りにアメリカ村にあるフィービーに。ここはアメリカンフォーク&ロックミュージックが流れるバー。レコード店勤務で膨大な知識を詰め込んだ若いSさん夫婦が経営するお店で、今年で13年目という。サザンコンフォートのカクテルを飲みながら、流れている軽快な音楽が気持良くって「なんだかCSNYのS・スティルスのサウンドを思い出すなあ」と言うと、あ、これスティルスのバンドですよ。マナサスです、と。そこから一気に、ブリティッシュロックがアメリカンミュージックの影響を受けて発展していった流れの話で1時間。いやそれ以上か?他に客がいないのを幸いに二人で盛り上がりました。バックに流してくれたのはマスターが先日買ってきたLP、スティーヴン・スティルスとジュディ・コリンズが最近出したアルバム。二人とも70歳を超えるのに変らぬ歌声。(ジュディはなんと78歳!)恋して別れて50年経っての初の共同録音。何とも味わい深いものがあります。それから話は何故かプログレに飛び、英国、米国、日本と移って四人囃子のアルバム「一触即発」を両面聴くことに。マスターがこちらの分野にも造形が深いのには驚きました。20才から聴いてきた音楽の知識を総動員しての四方山話。その生半可な記憶を訂正し、深い解説をつけてくれるマスター。実に中身の濃いひと時でした。飲み干したダイキリとマルガリータのフローズンカクテルが格段に美味しかった。春が来たんだなあ。Stills & Collins - Houses (Lyric Video)昔とちっとも変らないジュディの歌声、ホントに78歳?
2018/04/01
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あけましておめでとうございます。昨年は殆ど書き込みしなくて申し訳ありませんでした。本年はなんとかがんばりますので、よろしくお願いします。
2018/01/01
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クリスマスソングはじつに沢山の歌が作られていますね。ですが、せっかく覚えていてもめったに歌う機会などほとんどありません。しかし私は最近、あちこちの洋楽カラオケ会に入って歌っているので、この際、思いっきりクリスマスソングを歌ってやろうと発奮。YOU-TUBEでおさらいしてみると、中学時代に聞いたビング・クロスビーのほとんどはしっかり覚えてます。別にクリスチャンではないのですが讃美歌なども幾つかはイケます。しかし単に知っているだけでなく、ちゃんと歌えるかとなると10数曲に絞られます。これにうろ覚えだった歌や新たなものを付け加えてリストアップ。先日、大阪と奈良で歌いまくってきました。その中でもこの「The Christmas Song」は「暖炉で炙った栗の実」 という美味しそうな副題が付いていてとても素敵な歌です。途中の「メリークリスマス、トゥ ユー」というフレーズだけしか覚えてなかったのですが、YOU-TUBEでそれらしき歌を探しまくり、やっと見つけた次第です。The Christmas Song (Chestnuts roasting on an open fire) lyricsこの歌を最初歌ったのがナット・キング・コールで、他に沢山の人も歌ってますが、彼のバージョンが最高ですね。途中で入ってくるジャズっぽいピアノもたまりません。幸いDAMのカラオケにもあるので、これはイタダキです。次に感動したこの歌、名曲ですが、まだ完全とまではいかないので、何とかマスターしたいですね。Have Yourself A Merry Little Christmas - Kelly Clarksonそして歌うたびに厳粛な気分になるこの歌「オー・ホーリーナイトJosh Groban - O Holy Night [with lyrics]また最近よくTVで耳にするようになったこの歌は、昔、タイガースの「落葉の物語」で使われていて、「素敵な、素敵な、恋の物語」というところのフレーズがバロック曲か何かの一節を取り込んでいるようなんですがその題名が分からない。ずっと気になってたのですが、あるカラオケ会で歌ってくれた女性がいて、やっと題名がわかりました。賛美歌106番 「荒野の果てに」です。「Gloria~」の部分でした。感動しましたよ。半世紀近く経ってやっと胸のつかえがとれたような気がしてね。Angels We Have Heard On Highそんなこんなで、これ以外の私のお気に入りクリスマスソングをざっとあげてみればこんなふうになります。Adeste fidele/きたれ友よ(カトリック聖歌113番)Blue Christmas - Elvis PresleyFrosty The SnowmanHappy Xmas - John LennonIt's Beginning To Look A Lot Like Christmas - Perry ComoIts the Most Wonderful Time of the Year - Andy WilliamsJingle Bell RockLast Christmas - WhamLet It SnowRockin around the Christmas tree - Brenda LeeSilver BellsThe First NoelWinter Wonderland他にも素敵な歌がありますが、とても覚えきれないので、来年の課題として楽しみにしておきましょう。なんせ、大変な量の歌が眠ってます。来年一年かけてじっくり探して、12月の歌会の楽しみにしておきましょう。Baby, It's Cold Outside (イディナ・メンゼル&マイケル・ブーブレ Cover) 日本語訳ところで、クリスマスソングではないのですが、面白い歌を見つけました。「外は寒いよ」という歌で、帰ろうとする女の子をあれこれ理屈をつけて引き止めるというけしからん内容です。男女の掛け合いが絶妙で、なんとかお相手の女性を見つけて歌ってみたいものです。もちろん歌だけですよ。
2017/12/22
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今日は映画に登場する世界の料理を食べようという企画の「シネマ・カフェ」に行ってきました。映画好きのイラストレーター・西岡りきさんに以前から誘われていたのですが、なかなか時間が取れなくてやっと実現しました。会場は京阪沿線の大和田にある大阪国際大学の守口キャンパス。ここのカフェに西岡さんが得意のケーキを出しておられるのですが、大学とTSUTAYAのコラボ企画で、このイベントを10回程開催されて来られたそうです。確かに私らは子供の頃から沢山の洋画を見て育ち、様々な生活様式や文化に触れました。あちらの食べ物もどんどん入って来て、今では当たり前のように我々の日常に溶け込んでいますね。コーラやホットドック、ハンバーガー、マフィンなど。しかしまだまだ食べたことがない食品がいっぱいあります。それを西岡さんが材料を調達して作ってくれるのです。そして、それにかかわる映画のシーンを見ながら西岡さんが解説して下さるのです。今回のテーマは「フィッシュ&チップス」。あちらの庶民の食べ物なので様々な映画に出てきます。床に落ちたカケラも取り合うような貧しい時代もあったようです。映画に描かれた様々な人生模様を見ながら、それを味わいます。普通はタラが多いようですが、西岡さんはアンコウ系の輸入魚を仕入れ、黒ビールで溶いた衣で揚げました。ポテトチップは粉モノでなくジャガイモを使ってます。どちらもとっても美味しかったです。今後もお菓子や中華などの予定があり、楽しみなイベントです。西岡さんと今日の感想をあれこれ語りたかったのですが、家の都合もあり、後髪を引かれる思いでおしゃれな学園を後にしました。
2017/09/28
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先月に「よーいドン」でTV放映されたジャズスポット・ブルーライツ。常連の端くれとしてはその後の反響が気になってました。その後、インスタ目的の若者たちが押し掛けたらどうしようとハラハラしてましたが、まったくそんな雰囲気はなかったよ、との常連のSさんの話で一安心。そりゃそうですね、最近はジャズを聴く若者は少ないようだし、スイングジャズという言葉も耳にすることがなくなったし。この店は元々、自分のために山奥に建てたリスニングハウスで、人々の要望に答えて喫茶店にしたという経歴だけに、商売っ気もなくアクセスも大変不便。だから、いつもお客は少ない。時には店を覗いても真っ暗で、ドアホンを押すと母屋から高齢のマスターが出て来て店を開けて電気を点け、アンプのスイッチを入れるという実話もあり、行く時は事前に電話した方がよいとまで言われてました。長年通っているSさんは、いつも貸切のような状態なので、お気に入りのレコードを持参してそれを十分堪能することが出来たとか。でも先日行ったら12人もの客がいて、自分のリクエストの盤がなかなかかからなかったとぼやきながらも、嬉しそうでした。しかもみんなジャズが好きそうなお客ばかりだったとのこと。お店が満席の日もあったとのことで、このお店を元気づけようといろいろイベントを企画されてきたSさんにとっては、やっと世間に認められたという安堵感が大きかったのでしょう。先日行った時にマスターにも聞くと、確かにお客さんは増えているけど、様子見の方が多いようで、落ち着いた頃に来て下さるでしょうとのこと。こうして常連さんが増えればいいですね。お店も、先代のマスター亡きあと息子さんが引き継ぎ、三代目さんも店を手伝うことがあるので、この素晴らしい音響遺産をずっと守り続けて欲しいものです。さて、先に上げたSさんは同じ会社のOBさんを集めて名盤鑑賞会を毎月開催されてますが、若手ジャズメンも応援されております。地元枚方にも全国的に活躍しているミュージシャンがおり、このブルーライツの音響設計された店内を使って毎年、ライブを企画し、今年で5回目だとか。私も今回スケジュールが合ったので、やっと参加することが出来ました。地元出身で、全国的に活躍している山田静香さんのピアノトリオです。とてもよかった。優しさや快活さに溢れたとても表情豊かなピアノでした。演奏する彼女も、他のメンバーと目くばせしながらとても楽しそうに演奏していてました。ジャズと言えば、なんとなく難しい顔で演奏するとっつきにくい音楽というのが私のイメージでしたが、これも時代なんでしょうか?ポップな感覚でジャズが楽しめるなんて、嬉しいです。それに、身近なところにも次世代の音楽を背負う若いひとたちがいるというのもありがたいことですね。
2017/09/27
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関西の人しかご存知ありませんが、関西テレビの「よーい・どん」という番組に「となりの人間国宝さん」というコーナーがあります。町の特色ある人やお店を紹介してくれるのですが、これがなかなか面白い。日頃前を通り過ぎていた店が実は大変歴史ある店だとか、世界的に有名な名人がいたりとか、また、すさまじい人生を歩んだ人もいる。そんな様々な情報を教えてくれる番組です。これに最近知り合いが続々と登場しています。彼等は殆ど知られていない人達なので、これをきっかけに社会的に広く認められるのは嬉しいことです。■「となりの人間国宝さん」認定、奥村佳弘さん/Jazz喫茶BLUE LIGHTS」先月は巨大なコンクリートのスピーカーのあるジャズ喫茶「BLUE LIGHTS」に、歌手でタレントの円浩志さんが訪問。ひたすらに最高の音響を追及した親子の奮闘に感激されてました。時間の都合か、語りたいことの半分も表現されないままに番組は終わりましたが、それでも大阪の香里園の辺鄙な住宅地に、素晴らしい音響の聖地が存在する事を伝えてくれました。しかし、スピーカーの中に入るかなあ?円サン!(借りた画像は削除しました)私のいた会社のOBさんらがこのジャズ喫茶を励まそうと毎月Jazzの名盤レコード鑑賞会を開いており、私も4年程前から通っておりました。亡くなった先代のマスターの葬儀をこの店で行ったというのは初耳で、胸が熱くなりました。 (お元気だった頃の先代マスター、奥村繁太郎さん) (まずスピーカーを作り、その上に家を建てたとか)■「となりの人間国宝さん」認定、太田ご夫婦/おもちゃ映画ミュージアム」また、無声映画のフィルムと映写機をコレクションする「おもちゃ映画ミュージアム」は私も会員としてお手伝いしてますが、ここも円さんが訪問。館長のご夫婦をおちょくりながらもいろいろとその想いを伝えてくれました。 (京町家を改造したミュージアム、時々は映写会も) (館内にはスライドや無声映画用の簡易映写機がいっぱい)■「となりの人間国宝さん」認定、中川さん/いっぽう堂」上記ミュージアム近くの三条会商店街にある昭和レトログッズの「いっぽう堂」さんには月亭八光さんが訪問。懐かしいモノで埋め尽くされた店内で、若い店主の中川さんが熱弁を振るってくれました。この手のお店の店主さんはだいたい饒舌ですね。モノへの愛情が溢れているからでしょう。この店は同系列の番組「ten」や横山由衣の「京都いろどり日記」でも取材されたので、放映後は沢山のアクセスがあり、てんやわんやだったそうです。東京から日帰りで来るマニアさんの来店もかなり増えたそうです。小さい店なのでお客さんが入りきれないのが悩みだとか。 (靴を脱いで上がるお店というのもユニーク)(店主の中川さんはいつも商品を磨いてます。愛しくて仕方ないんでしょう)■「となりの人間国宝さん」認定、小嶋太郎さん/布引焼き」また2年程前ですが、懇意にしている「布引焼きの小嶋太郎さん」の工房にも八光さんが訪問してます。八日市の焼き物を復活させたオリジナル陶芸家です。平安時代に焼かれていた緑彩陶器をもとに独自開発の釉薬で色彩豊かな陶板画の世界を切り拓いたとのこと。小嶋太郎さんは岡本太郎の太陽の塔の陶板制作にもたずさわっており、ユニークで楽しい方です。番組でも八光さんを食ってました。現在は息子の一浩さんを中心に、家族それぞれが個性的で夢のある陶器やモニュメント陶板などを作られています。(1000年前の技法を現代に蘇えらせた小嶋太郎さん独自の緑彩陶です)(太郎さんは陶板や公共の壁面モニュメントなどを制作されてます)この番組は週末にその週のベスト人間国宝を選ぶようになりましたが、いっぽう堂さんもジャズ喫茶もベスト1に選ばれているところを見ると結構インパクトがあったようです。でも他の放映も含め、それぞれ大きい反響があったとのこと。やっぱりテレビの情報発信パワーはすごいものですね。(ご本人が映ったテレビ画像を使いたかったのですが、著作権が あるそうなので使用出来ず、うまく伝わりませんでしたね)
2017/09/04
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湖畔のベンチに座って、久しぶりに友人とのんびり話しました。金沢に住む友人からの電話。娘夫婦とライブイベントに出て来たという。宇治で開催された2万人規模の「京都大作戦」という屋外音楽フェス。ところが今回はチケットシステムがネット管理で、顔認証システム方式を取っているそうなので、他のイベントのように簡単にチケットが手に入らなかったとか。彼女は出演するバンドメンバーと親しいので、いつも関係者としてチケットを融通してもらってたのですが、時代ですねえ。「なんで、ヒマなんよー。」なので私と会ってくれるという。ありがたいです、昨年の磔磔ライブ以来の再会です。友人は同じくあぶれた娘の旦那さんの運転で、小学生の孫と一緒に来てくれました。彼女一人なら昼飲みの居酒屋に行こうとしてたのですが、子供がいるので、北山の宝ヶ池へ。受験時代によく友人の車でドライブに来ていた場所です。殆ど当時そのままで、懐かしい。この日は天気がいまいちなので人影もまばら。しばらくは喫茶店で話しましたが、他の二人がヒマそうなので湖畔へ。すると店の前に突然鹿数匹が。え、なんで?奈良公園じゃあるまいし。後で調べるとこれは野生の鹿で、八瀬や近くの山の方から降りて来るようです。とても人に慣れていて人の目の前で植栽の新芽をかじっています。その場に居合わせた子供たちがバンビだ!と喜んで駆け寄り、葉のついた枝木を差し出すと、鹿は用心深く観察したあと、それを食べようと首を伸ばす。ところが子供は怖くなってキャッとか叫んでその枝を放り出す。鹿はムッとした様子。これ、飼いならされた鹿ではないので、ちょっとひやっとしました。最近は畠の作物や庭園の植栽が鹿に食い荒らされて問題になっているようです。また、子鹿が野生の犬に襲われて殺されたという記事もありました。また公園には沢山の大きな鯉が群がってましたが、これを獲りに夜な夜な出没する人間もいるとか。自然との共生って難しいものです。ま、それはともかく、友人の同行人たちは池の足こぎボート遊びに。退屈していた男の子はやっとはしゃぎだしてくれました。彼らが向こう岸の国際会議場のほうまで遊覧しているのを眺めながら、私と友人はベンチに腰掛けて取留めのない話を。のんびりした時間が流れて行きます。話した内容はもう忘れていますが、湖畔を吹く風とまったりした時間ははっきりと記憶にあります。こういう友はそんなにいません。大概の友はランチなり、コーヒーが終わると予定があるとそそくさと帰ってしまう。私もそれほど親しくない人とは用事を作って失礼する事もあるので、それはそれでいいのだけれど、こんなふうにだらだらと過ごせる気分になれる間柄ってほんと素敵だと思います。その友人にも感謝です。
2017/07/29
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うちわは中国で生まれたそうですが、エジプトのラムセス2世の壁画にも描かれる程、世界に広まりました。単に風を送るだけでなく、祭礼や権威の象徴としたり、貴人や女性の顔を隠したりと様々な用途に使われたそうです。そんなうちわの原型は4-5世紀に日本に伝わり宮中に浸透したとか。いま私はプラスチック骨のうちわでパタパタしてますが、とてもみやびなうちわが祇園のバーに飾られていました。元禄時代から続く老舗「阿以波(あいば)」さんのうちわで、金地にあざやかな図柄が描かれてまことに優雅です。なんだかもったいなくてあおげませんね。これは京うちわ(都うちわ)と呼ばれ、南北朝時代に伝わった朝鮮団扇が始まりだそうです。柄を後で差し込んで作る構造です。その後、江戸期になって、土佐派や狩野派が宮廷のために絵を描き、豪華な御所うちわが生まれ、これが庶民にも広まって、京うちわとして定着したとのことです。そして文字が書かれているのは芸妓さんや舞妓さんが配るうちわ。京丸うちわとも呼ばれています。中国月扇の流れをくみ、持ち手の竹を細かく割って広げて紙を貼った一体型なので丈夫で腰があります。こちらはめったなことでは手に入りません。これはお得意さんや御贔屓さんに配るものだからです。最近はこれに自分の名前を入れてくれるオリジナルサービス品もあるそうですが、それでは全然ありがた味がありませんね。ちなみに芸妓さんを呼んでのお座敷遊びのお値段、知ってます?お馴染みさんで2-30万円という噂です。祇園町南側では舞妓さんを連れて歩く旦那さんを見かけることがありますが、舞妓さんをデートに誘うまでには1000万だか2000万だか、かかるってテレビで言ってました。ホントかどうかわかりませんが、舞妓さんの着物だけでも数100万円と云われているので、ありえなくもありません。とにかく世界が違います。一見、素朴なうちわに見えますが、けっこうかかってますよー。ちなみに今日はママさんも浴衣で(外では祇園囃子が...)(おまけ)阿以波(あいば)さんにはこんな繊細なうちわも... 芸術だ
2017/07/21
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この1ヶ月間、痛みに悩まされてました。40年ぶりに再発したヘルペス(帯状疱疹)です。20代半ばに罹った時は息が止まる程の激痛で、一人暮らしで銭湯にも行けず大変でした。横になって寝られないのでしばらくは壁にもたれて寝てました。あれから40年。風邪のように全身が痛んだので、風邪薬をもらおうと医者に行き、聴診器を当てる為に胸をはだけたとたんにお医者さんが「あ!」と一言。腹の左半分に湿疹が。またか!しかし今回は薬も進歩したようで、当初は痛みもなく、治療薬も飲み終わり、湿疹も水泡になる前に消え始めました。もう大丈夫ですよと言われて、やれやれ。ところが安堵した頃からなんと痛みが出始めました。チクチクしたり、ズキンとしたり。慌てて皮膚科の方に行くと、軟膏を塗らないとダメですよとのこと。ヘルペスは皮膚科の領域だったのですね。ウイルスは抑えたけれど、神経にダメージを与えるのでそれが痛みとなって残るとか。そんなわけで今も痛みに堪えながら、いつ収まるかわからないまま軟膏を塗っております。痛みを抱えると機嫌まで悪くなりそうです。やれやれです。
2017/07/08
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ちょっと妄想を展開しますが、お許しください。先日取り上げた所長官舎の小池なんですが、昨年春に始めて見つけ、池にそそぐせせらぎの川底に小石や藻、水草が揺らめいているのを眺めていると、私の脳裏にあるものが浮かんで来たのです。それは純白の衣装のオフィーリア。それはジョン・エヴァレット・ミレイの絵画です。もちろんこれは私の誇大妄想。実際の絵画と比べるとスケールが全然違って、所長官舎の池のせせらぎは、片足を浸すのがやっとの程の狭さです。しかしそれでも私の想像力は十分で、私はそこに流れて行くオフィーリアをしっかりと見たのです。透き通るような水と水草、それに覆いかぶさる植栽からの連想ですが、水音や植栽を揺らすそよ風も影響したかもしれません。今も時折、せせらぎに照り返される陽光の中にオフィーリアがちらほら浮かぶ時もあります。2016年には樹木希林も流れて行ってましたね。宝島社の企業広告でしたが、「死ぬときぐらい好きにさせてよ」とはすごくインパクトありましたね。沢山の賞も受けてました。水や水草、植栽類がとても美しく再現されてました。さて話は飛びますが、オフィーリアはアニメの世界でも流れてました。しかしこちらは流されてなんかません。なぜか抗って泳ぎます。<【びじゅチューン】オフィーリア、まだまだ/井上涼>このびじゅチューンは世界の美術作品をネタに不条理な感性で料理したアニメです。作者の井上涼はとっても不思議なキャラと世界観があり、私、すっかりハマってます。彼はいくつものCMでも活躍してますが、金沢美大出身ということで、とても楽しみなアーチストです。彼の音楽性もなかなかのもので、音が外れるかどうかの瀬戸際で勝負してます。特に彼の音楽的魅力は合いの手のリズム感ですね。フレーズとフレーズの合間に放り込む合いの手がなんともいい。委員長はヴィーナス「鳥獣戯画ジム」井上涼「びじゅチューン! DVD BOOK2」|ウチノヨメびじゅチューンの企画というか、ネライというか、うまいとこ突いたねという感じです。それにしてもこんな柔軟な才能が金沢美大から生まれたとは、実にめでたい。話がずいぶん外れましたね。まあいいか。
2017/07/06
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<復元された宮内省京都支庁の所長官舎の小池>昨年の春に見つけた小さな池。澄んだ水と揺らめく水草を眺めて、時がたつのを忘れました。この池のどこがどういいのか、鑑賞のコツはわかりませんが、とにかく惚れました。それからは近くを通る度に眺めに来てます。池は小さく浅いけれど水が澄みきっているので、池底に生えた藻や水草が細部までくっきりと眺められます。また、この池には遣水(やりみず)と呼ばれるせせらぎを通って水が流れ込むようになっており、遣水と園池という、寝殿造りの庭園にも見られた形式だそうです。<写真:名石を配した遣水(やりみず)>ここは京都御苑の南西の角。幕末まで閑院宮(かんいんのみや)がありました。東京遷都で空屋となってからは役所や管理事務所として使われてきて、現在は御所の歴史や自然の展示場として無料公開されています。気軽に立ち寄ってぼんやりと過ごすのにももってこいの場所です。展示建屋の脇には大きな池がありますが、園路を奥へと歩むと土倉の向こうに建物の跡地があり、間取りが復元されています。これが明治25年に建てられた旧宮内省京都支庁の所長官舎です。この園路がけっこう長いので、たいがいの人は途中で帰ってしまいます。これといった表示もないので私も長年、気付きませんでした。また、がらんとした跡地は間取りが印されているだけなので、建築好きの私はともかく、一般の人は皆きょとんとしてます。<写真:所長官舎跡地>なので、殆どの人はその庭先にある池などには目もくれずさっさと帰路につくのです。残念です。主人の間から庭を眺めると目前にこの池があり、座敷から楽しめるよう、よく計算されて配置されているようです。池は幅2間足らず、深さは浅く、40センチ程です。真ん中にへこみがあり、それがいいアクセントになっています。この池は数年前に遺構を元に復元されたのですが呼び名がなく、私は勝手に「所長官舎の小池」と呼んでいます。この池の特徴は魚がいないこと。それがいい。魚がいるとそちらに目を奪われるが、この池の主役は藻や水草です。揺らめく水面を通して水草から細かい気泡が上がってくるのも楽しめる。これに小雨が降りかかると風情は一層盛り上がります。私の一番好きな眺めです。梅雨時は菖蒲やあじさいが咲いて最高の眺めとなります。しかし御苑にある他の池に比べ、歴史も浅く、これといったいわれもなく、評価する人もいないので誰も見向きもしません。ま、それはそれでもいいのですが、あまりに無視され、ぽつんと寂しく存在し続けるのもあまりに不憫に思い、なんとか人々に知らしめたいと動画を作ってみました。ラフな撮影なので見苦しいでしょうが、目を通していただければ幸いです。いつか、ちゃんと撮影し直したいと思っています。京都御苑の所長官舎跡地の小池 <α版> (3:05) 後記:この記事が遅れた理由の一つは、池が見るに堪えない状態になっていたからです。秋から春先にかけては、水面が落葉に覆われたりして、雑然とした風情になっていたのです。特に6月には池底を大掃除してしまったので、苔も水草もなくなり、とても殺風景で人様に見せるのははばかれていました。それが、春の落葉もおさまり、藻や水草もやっと生え始めたので、池は元の清らかさを取り戻しました。あと1ヶ月もすれば眺めは良くなるかと思います。ただ、菖蒲やアジサイはもう盛りを過ぎておりますが。
2017/07/05
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「ソウル・バス」で検索するとソウルの市内バス情報が出て来ますが、「ソール・バス」と打つと「グラフィック・デザインに革命を起こした男」として出てきます。彼は商業デザインの世界で多彩な活躍をし、特に彼が手がけた数々の有名企業のICマークは我々も日常的に馴染んでいます。しかし何と言っても彼の一番の業績は映画のタイトルデザインでしょう。映画好きの人なら、オープニングタイトルだけでもワクワクするような作品の数々を上げることが出来るでしょう。時には映画本編よりもずっと印象的なタイトルもあることも。初期の映画では、最初にタイトルや制作関係者の名前が簡単に表示されてましたが、関連する人物や企業が増えると共に、タイトルが長大化し、延々と文字が続いて退屈することもありました。これを彼は視覚的に面白くするだけでなく、映画の内容を暗示し、観客を本編に引きずり込む効果をももたらしました。この手法は現在、我々が楽しんでいるTVドラマやプロモーションビデオに引き継がれています。そんな彼のタイトルデザインの代表作を集めてデザイナーの西岡りきさんが講演会を開いてくださいました。以前からタイトルデザインの素晴らしさを語っておられたので、おもちゃ映画ミュージアムが企画したのです。昨年と今年の2回にわたった講演会はとても見応えがあり、上映後の懇談会でもいろいろと盛り上がりました。ソール・バスの代表作は「黄金の腕」。印象深いジャズとともに白いラインがリズミカルに文字を呼び出し、最後に折れ曲がった腕に変化する。麻薬と暴力で歪んだ腕が作品の強烈なシンボルとなっています。Saul Bass-opening credits- 'The Man With The Golden Arm' (1:27)(曲はエルマー ・バーンスタイン作曲で、ショーティ・ロジャーズのトランペット、シェリー・マンのドラム)また彼はアニメーションも手掛け、「80日間世界一周」や「おかしなおかしなおかしな世界」ではタイトルというより、一つのアニメーション作品として成立するほどの出来です。It's a Mad Mad Mad Mad World - title sequence by Saul Bass (4:11)「ウエストサイド物語」のラストタイトルには街の落書きや標識が使われ、「ザッツエンターテイメント」ではタイトルアイデアの総集編といったかたちで、盛り沢山のアイデアで出演者が紹介されていました。ここまでいろんなアイデアが出るかと驚く程、ソール・バスの柔軟な感性は深いものだと感心しました。Saul Bass title sequence - That's Entertainment, Part II (1976)彼はまた、タイトルだけでなく、映画本編にまでかかわったそうで、「サイコ」のシャワー室の殺人シーンのショット構成や、「スパルタカス」の戦闘シーンなどのスクリーンシナリオを書いたそうです。改めて見直してみるとなるほど、映画本編のカット割りとは一味違ったキレのいい画面構成でした。現在では様々なアイデアにとんだタイトルシーンが生み出されていますが、そのきっかけを作ったソール・バスの偉業をじっくり見直したひと時でした。ところで、彼はこんなフィルムも作ってました。なんとドアーズのデビュー曲「ブレイク・オン・スル―」です。まさにプロモーションビデオの走りです。(当時は映画フィルム)とても意外な堀出しモノでした。ドアーズのデビュー曲のプロモフィルム/Break on Through - Saul Bass
2017/07/04
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「名月をとってくれろと泣く子かな」とか「悠然として山を見る蛙かな」とか、人間味や自然観あふれる小林一茶の句ですが、この一茶の映画化が進んでいるようです。藤沢周平の原作を、吉村芳之監督がリリー・フランキー主演で撮ってるとか。その映画のエンドタイトルのアニメーションを、アニメやイラストで有名な古川タクさんが手がけておられます。今日、おもちゃ映画ミュージアム(映画芸術文化研究所)にて、タクさんの講演があり、その時にその一部を見せていただきました。古川タクさんの作品はTVコマーシャルやNHKの「みんなのうた」などで昔から馴染んできましたが、この一茶のアニメもとても味わい深く、洒脱な作品に仕上がっていました。またバック音楽が拓郎の「今日までそして明日から」なんです。意外なようで、とても合っていて面白かったです。他に、タクさんが即席で手書きされたフィルム動画の試写も楽しめましたが、タクさんご本人も、ミュージアム所蔵の動く絵のからくり機器や、蓄音器と連動したムービーレコードなどに興味を示され、感心しながらご覧になっていました。これ程のアニメの大家もご存知ない機材を所有するおもちゃ映画ミュージアムも大したものだと再認識しました。【CM】おくすり飲めたね「忙しいママを応援」篇15秒 株式会社龍角散古川タク『以心伝心しよう』(1993年)
2017/06/26
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