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日本でもっとも充実したジュード・ロウのファンブログということで、本人さえ感涙したという噂(?)のブログでお宝映像のあるエントリーを発見!それが、こちら。若々しく、エネルギーと野心に満ちたジュード・ロウのインタビューでの受け答えも新鮮だが、間に入る舞台劇「恐るべき親たち」も、「見たい!」と思わせる。元祖「恐るべき親たち」はVHSで見たが、Mizumizuには女優2人の名演があまりに印象的だった(それについては、こちらの拙エントリーで褒めまくっている)。このインタビューでも、ミシェルがベッドで後ろから母親を抱きかかえて、好きな女性ができたことを伝えるシーンが出てくる。喜びと希望で我を忘れている息子に対し、絶望感に侵食されていく母の表情。ハッキリ言って、この場面は、元祖コクトー監督映画作品のイヴォンヌ・ド・ブレのアップの「目」の演技にまさるものはないと思う。思うが、それでも舞台劇としては、ジュード・ロウ版も素晴らしい。このインタビューは初代ミシェルのジャン・マレーが亡くなる4年前。はじけるようなロウ版ミシェル像に、元祖ミシェルは何を感じたのだろうか。若い俳優の才能を見つけるのにも長けたマレーだったので、ロウの非凡な才能は間違いなく感じ取っていたと思うのだが。この本格的な演技派が大いに活躍できる舞台劇、なぜ日本でやらないのだろう(修正:2010年にすでに上演されたそうです)。そろそろ日本人の精神性も、この室内劇の素晴らしさを理解できるくらい西洋的な成熟をしていると思うのだが。若い男性俳優の登竜門になり、ベテラン女優2人の演技対決にもなる。これほど大人の企画はないと思うのだが。なんならジュード・ロウがそうだったように、ヌードで若い女性を釣ってもいいと思う。日本では「恐るべき子どもたち」のほうが知名度が高いのが、このごろは少し残念にさえ思う。元祖「恐るべき親たち」のVHSはこちら。若い恋人たちのルックスが、今風に言えば、少し老けているかもしれないが、あらゆる面において、演技と舞台美術、効果のお手本になる作品。こういう演技を日本の俳優、女優で 是非 こんどこそ見てみたいもの。追記:上記の記事をアップしたところ、リンク先のjudecherryさんより情報をいただきました。「恐るべき親たち」、去年日本でも舞台化されていたようです(それにともない、一部エントリーを修正しました)。ミシェル役の満島真之介さんのサイトはこちら(残念ながら、まったく存じ上げない俳優さんです・汗)。脚本家の木内宏昌氏のサイトはこちら。観劇された方のブログは、こちらやこちら。まったく知らなかったのが悔やまれる。再演求む!
2011.06.25
2010年1月23日(土)に公開される、ヒース・レジャーの遺作『Dr.パルナサスの鏡』。この作品、イギリスで宣伝が始まったときは、ヒロインのリリー・コールのヌードがやたらと強調されて、「もしかして、『アイズワイドシャット』みたいなテイストなのか?」と、やや引いていたのだが、日本の公式サイトでの宣伝手法は、一転して、ヒース・レジャーと3人のイケメン俳優たちの友情をまず表に出す、完全に女性狙いのものに変わっていて驚いた。日本ではとにかく、女性を動員しないとヒットにはならないらしい。というか、イケメン俳優4人のネームバリューで、女性を動員してヒットさせようということか。公式サイトの予告動画の日本語のナレーションを聞いても、ターゲット・オーディエンスが若い女性だということがハッキリわかる。まずは、ヒース・レジャーの未完の遺作をジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルが引き継いだという経緯を語る。実際にこの3人はギャラをヒース・レジャーの遺児に捧げるという無欲さで、この作品に参加した。彼らがヒースに示した篤い友情は、事実として非常に感動的なのだが、この日本向け宣伝動画は、そのあとが悪い。あろうことかたらたらと粗筋を説明したあげく、「大切な人を守るため、今鏡の中へ」と、陳腐すぎるキャッチフレーズで終わっている。これじゃ、まるでティーンの少女向けファンタジーのよう。どうしてよくある少女漫画的ストーリーの枠に当てはめたような粗筋解説をして、わざわざ映画を観る楽しみを半減させるのか。こういう「ネタバレ」を宣伝サイドが自らしてくる場合は、実際は物語がそれほどわかりやすくない場合が多い。だって、監督はテリー・ギリアムじゃないの。そんなに一筋縄でいくワケがないと思うのだが。英語のナレーションを字幕にした予告動画は、ずっと成熟している。この作品が「ファウスト」を下敷きにしたものであることをまず伝え、ちゃんと(?)テリー・ギリアム監督の不可思議な映像世界を前面に出したものになっている。あまりナレーションでベラベラしゃべらないし、映像と寄り添う壮大なクラシカルなメロディ――それはロシア風のワルツに始まり、レクイエムめいた合唱に自在に変調する――も効いている。日本語版では、陳腐なストーリー解説に合わせるためか、粋な映像もだいぶカットされてしまった。どうして、日本ではなんでもかんでもこう、幼稚でないものまで幼稚化させるのか。英語のナレーションの予告動画を見ると、「オルフェの鏡」のエントリーで予想したとおり、この作品、ジャン・コクトー的イメージがそこここに散りばめられている。ギリアム監督が直接コクトーに影響を受けたかどうかはあまり問題ではないと思う。「鏡通過」に代表されるコクトーの「幻視」は、特にハリウッド映画に大きな影響を与え、そこからさらに色々な国のさまざまな人の手によって「翻案」されているからだ。たとえば、ヒース・レジャー演じるトニーと一緒にしばしば登場する「小さな人」。小人を登場させて、「この世」と「この世ならざる場所」との境界を曖昧にしていくという手法は、コクトーが好んで使ったものだ。『悲恋』では、小人が主人公を死の世界へ導く水先案内人の役割を果たす。『ルイ・ブラス』では、小人が正装をして宮殿に仕えていることで、そこが実は「この世のどこにもない場所」であることを強く暗示する。だから、コクトー作品へのオマージュである『ロバと王女』(ジャック・ドゥミー監督)の宮殿でも、「小さな青い人」たちが、普通に働いている。コクトー作品がときどき、奇妙なほど予言的側面をもつことは、『双頭の鷲』のエントリーでも紹介した。コクトーはジャン・マレーとエドヴィージュ・フィエールが演じた詩人と女王を双頭の鷲になぞらえ、一方が死ねば、もう一人も生きられないと書いた。それから何十年もたって、ジャン・マレーが亡くなると(そのときはとっくにコクトーはこの世にいなかったが)、一週間もしないうちに、まるであとを追うようにエドヴィージュ・フィエールが亡くなってしまった。「鏡通過」が役者にとって縁起が悪いことも、ジャン・マレーが「私のジャン・コクトー」の中で書いている。それはメキシコで『オルフェ』の舞台劇を上演しようとしたときのこと。まず地震が来て劇場が壊れ、芝居は延期になった。劇場を修復し、いざ上演となったとき、オルフェを演じていた役者がいったん鏡を通過し、ふたたび出てくる前に、舞台裏で倒れ死んでしまったのだ。ヒース・レジャーが亡くなったのも、「鏡を通過」するこの作品を撮っている最中。『ダークナイト』での過酷なスケジュールと役作りで神経をすり減らし、私生活でのゴタゴタもあって精神的にまいっていたという報道はなされてはいたが、『Dr.パルナサスの鏡』予告動画でのヒースの笑顔を見る限り、死に至るほど深刻な問題があったとは、到底信じられない。もちろんテリー・ギリアム監督は、ジャン・コクトーだけでなく、古今東西に散らばるさまざまなイメージを巧みに取り入れている。そう、独創的な人は、常に幅広い知識人であり、優れた翻案家でもあるのだ。Mizumizuがまた特に目をひきつけられたのは、英語の予告動画にちらと出てきた、この場面。この挿絵の右上の部分。なんとまあ、ブリューゲルの「死の勝利」の一部そっくりいただいたものじゃないですか。下の人物画にもモトネタがあると思う。それがどの作品なのかはハッキリわからないが、ブリューゲルと同じく北方の画家の、おそらくテーマは「東方三博士の礼拝」だと思う。布の質感が北方絵画の特徴を示している。このブリューゲルの「死の勝利」については、こちらのエントリーで紹介したが、奇妙なほど、現在のCGで作り上げたファンタジーワールドに似ているのだ。『Dr.パルナサスの鏡』の小道具にブリューゲルの絵画を忍び込ませたのが監督のアイディアなのか、美術スタッフのアイディアなのかは知らないが、恐らくブリューゲルやボッシュといった中世末期の画家の作り出した奇怪なキャラクターは、現代のアーティストにも強く訴えてくるものがあると思う。いろいろな意味で、観るのが楽しみな『Dr.パルナサスの鏡』。各国の映画のポスターを紹介したこちらのサイトも興味深い。この独特な映像世界のどの部分をクローズアップして宣伝するのか? 日本はあくまで、スター俳優中心主義。黒と白を基調にして、中心の鏡の中だけに色をちりばめた色彩構成は、とても洗練されている。ちょっと地味かもしれないが、上品なデザインだ。しかし、ヒロインのリリー・コールと、大注目の配役であるトム・ウェイツの名前さえないというのは・・・ トム・ウェイツが演じる悪魔メフィスト、それだけで胸が高鳴る人も多いと思うのだが。ここまでイケメン俳優の名前を繰り返すのは、日本だけなのでは。作品の内容や質よりも、まずは、役者の「顔」で観客を集めようという今の日本の風潮をよく表している。個人的に好きなのは・・・リリー・コールが抜群に美しいこの1枚。さすがおフランス。リリーの少し獣めいた瞳が印象的だ。ヌードで釣らず、明るい髪によく映えるクリームイエローのドレスを着せているところもオシャレ。指のニュアンスもいい。やはりヒロインをヒロインとして正当に扱って欲しいものだ。このごろの日本は何でもかんでも女性客狙いのイケメンパラダイス作品ばかりで、憧憬の偶像としてのヒロインがいなくなってしまった。この作品では、ヒロインが魅力的に描かれているんじゃないか――その部分にも、実はMizumizuは期待している。しかし・・・『ブロークバック・マウンテン』では、ある意味、ヒース以上の評価を受けたジェイク・ジレンホールはどうしたのだろう?ヒースが亡くなったときに撮っていたBrothersは、12月にアメリカで公開されたはずで、日本でも公開予定と聞いたのだが・・・いつ?ネットでの匿名ファン投稿が口さがなく、心ないのは万国共通だが、ジェイクがヒースの葬儀に表立って参加しなかったことで、英語の掲示板にも、「葬式にも出ないなんてなんてやつ。親友なんてウソだろ」「どうせ仕事だけの付き合い。友情はただの売り物」などとさかんに書き立てられ、気の毒このうえなかった。実際には、ヒースが急死したときには撮影を中断してNYに行っているし、東海岸から西海岸に移ってヒースのお別れ会があったときも、表にこそでなかったが、行っていたのは明らかだし(街中で写真を盗み取りされている)、オーストラリアでの最後のお別れ会のときも、表に出てきた母親ミシェルにかわってヒースの娘のマチルダの面倒を見ていたのは名付け親のジェイク以外考えられない(マチルダちゃんだけが顔を出さず、他のヒースの家族は全員出席)し、つまりは、アメリカからオーストラリアまでずっとヒースにくっついていた状態なのに、「表に出てこない」からといって、非難されるとは・・・出てきたら出てきたで、今度はメディアが無遠慮にカメラを向けてプライバシーを侵害するのは目に見えている。「葬儀に出られないほど辛いのでは?」と掲示板に書いたファンが一人だけいたっけ。ああした書き込みが救いだ。
2010.01.13
縁がないとは、こういうことか…ひとがNYから帰って来て、ブログもちょうどNY編が終了したとたん…ジュード・ロウ版「ハムレット」、今秋ブロードウェイに進出というニュースが飛び込んできた。ハアアッ? ありですか? そんなすれ違い…ものすご~くガックリするMizumizu。も~ちょっと早く決めてよ、その企画。そしたら、NY行きは秋にしたのにさ。eiga.comの記事によれば、「ロウにとっては、95年の芝居『Indiscretions』以来、14年ぶりのブロードウェイへの登場となる」とのこと。このIndiscretionsというのが、ジャン・コクトーの「恐るべき親たち」のブロードウェイでのタイトルなのだ。ロンドンでロウ版舞台「ハムレット」をご覧になったうえに、若き日のロウ演じる「恐るべき親たち」まで、ビデオ鑑賞されたという、ほとんど許せないぐらいうらやまし~方のブログはこちら。ジュード・ロウの凄いところは、「恐るべき親たち」で元祖ミシェルを演じたジャン・マレーですら、「難しすぎる」と感じた役を、マレーより若くして演じ切り、大評判を取った上に、ブロードウェイにまで進出して成功させたことだ。本家フランスでは、何度も別キャストで舞台化されたり、テレビ化されたりしているが、マレーのように成功する役者は出なかった。「恐るべき親たち」はジャン・マレーのためにコクトーが書いたものなのだが、シナリオ上のミシェルの設定年齢は、ロウのほうが近かったというのも、不思議な偶然だ。そして、ハムレット。当然、ハムレットといえばローレンス・オリヴィエ。オリヴィエ版「ハムレット」は500円で買えるDVDになっているので鑑賞しやすい。ハムレットの決定版と言われるくらいで、実際に素晴らしいとしか言いようがないのだが、1つだけ気になる部分をあげるとすれば、悩める青年・ハムレットにはローレンス・オリヴィエが少し老けすぎているかもしれないことだ。撮影時には40歳近かったと思うので、仕方ないし、年齢を重ねてこその演技だろうし、演技の本質から言えば、役の年齢と実年齢の乖離というのは、大きな問題ではないかもしれないが、映画はどうしても、舞台と違って顔がよく見えるので、俳優の年齢が気になってしまう。ブロードウェイでの舞台が成功すれば(成功するに決まっている。ロンドン公演でも世界中からファンがやってきた。ブロードウェイでも間違いなくそうなる)、映画化もされるかもしれない。オリヴィエ版「ハムレット」と競えるハムレットが、60年ぶり現れるかもしれない。ロウはまだ実年齢も(ハムレット撮影時の)オリヴィエより若いし、体型がスリムなので、より若く見える。レイフ・ファインズ(1995年にブロードウェイで演じた「ハムレット」でトニー賞受賞)も、もちろん上手な役者だが、さすがに映画でハムレットを演じるには年を取りすぎている。ただ…オフィーリアが難しいかと。オリヴィエ版「ハムレット」では、なんといってもオフィーリアの美しさが輝いていた。髪型や衣装を含めたルックスはもちろん、川流れ(溺死)の場面など、あまりに素晴らしくて、うっとりしていいのか、涙していいのかわからないほど。そして、オフィーリアの歌。何の伴奏もない、ただ細く可憐な声で、狂ったオフィーリアが切れ切れに口ずさむ歌は、あまりに哀しく、あまりに美しい。フルオーケストラの奏でる悲壮で重厚な音楽以上のインパクトで、深く記憶に刻まれた。メロディも素晴らしい。誰が作曲したんだろう??あのオフィーリアを凌ぐ女優は、今はもう考えられない。今は女性が熱心な観客になってきたせいか、男性の役者で珠玉の輝きを放つ人は多いが、ヒロインが不在ではないかと思うことしきり。南北戦争を舞台にした「コールド・マウンテン」のニコール・キッドマンを見て、「風と共に去りぬ」のヴィヴィアン・リーは、なんて凄い女優だったのだろうかと、改めて思った。ニコール・キッドマンじゃ、「男性経験のない、清楚な神父の娘」には、どうしたって見えない。対してヴィヴィアンは、すれっからしにもなれるし、一途で純な女性にもなれる。「哀愁」の演技も繊細で、女性のもつさまざまな面をちょっとしたしぐさであますことなく表現していると思った。今、ああいう演技のできるヒロインはいない。大作「オーストラリア」でも、またニコール・キッドマンですか… やれやれ。ジャン・コクトーは「風と共に去りぬ」を見てすぐ、「あの女優(ヴィヴィアン・リーという名前を知らなかったよう)は若いのに、たいしたものです」とジャン・マレーに書き送り、「双頭の鷲」では、「風と共に去りぬ」のイメージを借りたようなスチール写真を撮らせている。しかし、ジュード・ロウの14年ぶりのブロードウェイは… チケット争奪戦が激しそう。ジャン・コクトーの舞台で有名になり、シェークスピア劇(つまりは古典)でこのところ失いかけていたカリスマ性を取り戻すとは。やはり、並みの役者ではないジュード・ロウ。将来はナイトですかね?(笑)。
2009.07.02
ジャン・ジャック・アノー 監督作品の中では、『薔薇の名前』よりも、『愛人/ラマン』よりも、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』よりも、『スターリングラード(Enemy at the Gate)』が好きだ。この作品、舞台は第二次世界大戦下、史上もっとも悲惨な市街戦となったスターリングラード攻防戦なので、典型的な戦争映画と思いきや、大河なる歴史の流れよりもむしろ、個人の感情の動きにスポットを当てたヒューマンドラマで、愛国バンザイでも反戦マンセーでもない。いかにもフランスの知識層による演出らしい、アナーキーな思想が滲み出た物語になっている。とはいえ、戦争映画の大作らしく、大規模な空爆や、狂気の銃撃戦を含めた死者累々の地上戦など、カネかけた迫力ある戦闘シーンも当然大きな見どころになっている。スターリングラードの「赤の広場」の噴水の情景は、ぞっとするほどリアルだ。だが、『スターリングラード』で一番興味深かったのは、ヴァシリ・ザイツェフ(ジュード・ロウ)と宿敵ケーニッヒ少佐(エド・ハリス)、それにヴァシリの同志ダニロフ(ジョセフ・ファインズ)の3人の男たちの人間模様。ヴァシリとダニロフの友情を破綻させることになる、才色兼備のターニャ(レイチェル・ワイズ)の存在感も光った。ヴァシリは、ウラルの山育ちの羊飼い。幼いころから羊の番をする都合上、必要に迫られて狼を撃つことで銃の腕を磨いてきた。戦場でヴァシリに出会った文才のある青年将校ダニロフは、ヴァシリの卓越した射撃の腕に驚き、戦場のヒーローに仕立て上げて、国威発揚に利用しようと画策する。ヴァシリに将校を次々と射殺され、さらにはそれをネタにしたソ連の宣伝工作にも煮え湯を飲まされたドイツは、ヴァシリを暗殺すべく、超一流のスナイパーをスターリングラードに送り込んでくる。それがバイエルン貴族のケーニッヒ少佐。生まれも育ちも対照的なヴァシリとケーニッヒ少佐。映画での初登場シーンが、そのすべてを語っている。ヴァシリは、他の多くの兵士と一緒に、鉄道の狭い貨物車両に、モノのように積まれて戦場に運ばれてくる。外から鍵をかけられた、ぎゅうぎゅう詰めの列車内では、兵士たちは立ったまま、ほとんど身動きさえできない。そんな中で、青年ヴァシリは、まるでロマンチックな出来事を待ちでもするかのように、遠くを見つめている。列車が青年兵士たちを運ぶのは、地獄のような激戦地なのだが、その運命を誰もまだ知らない。車両に日が差してきて、青年ヴァシリの瞳を美しく輝かす。ケーニッヒ少佐の初登場シーンは、太陽がとっくに沈んだ夜。シャンパンをテーブルに置いた豪華な専用車両に1人で乗り、戦地へ向かう。貴族然とした物腰も、ヴァシリとはあまりに対照的だ。このとき、向こう側の線路に、負傷兵を詰め込んだ車両が入ってくる。傷を負った兵士たちは、隣りの豪奢な車両に1人でゆったりと腰掛けている、いかにも階級の高い将校の姿に、当然のように注目する。すると、ケーニッヒ少佐は、無造作に窓のカーテンを降ろして、彼らの視界を遮ってしまう。そこには、何の同情も共感もない。下々の人間には一切の関心がない、いかにも心冷たい貴族的な態度だ。ヴァシリは自分を暗殺すべくやってきたドイツ人将校の射撃の腕前が、自分をはるかに凌ぐものであることに、すぐに気がつく。「5歳ですでに狼を射殺した」などという、誇張されたエピソードで世紀のスナイパーに仕立てあげられたヴァシリだが、所詮は羊飼い。もともとは「工場で働きたいなぁ」というささやかな夢をもった、田舎の労働者階級の息子に過ぎなかったのだ。ヴァシリは、ちょうど羊を狙う狼のように向かってくる敵や静止している敵を撃つのには長けていたが、ケーニッヒ少佐の腕はそんなレベルをはるかに超えていた。建物から建物へ飛び移ったわずか一瞬を狙って、同志を一発で射殺されたヴァシリは、「あんな腕前は見たことがない」と全身を震わせて恐怖する。まともにやりあって勝てる相手ではない。ヴァシリは、自分を無敵のヒーローに祭り上げた同志ダニロフに、その苦悩をぶつける。最初のうちは、有名になったことを単純に喜び、有名にしてくれたダニロフに感謝していたヴァシリだったのだが…ダニロフに、無敵のスナイパーとしてではなく、ただの一兵卒として戦いたいと訴えるヴァシリ。だが、ヴァシリにはもはや、その道は許されない。この作品、大作なのだが、微妙な小技も効いている。ケーニッヒ少佐が捨てていったタバコを拾って、吸ってみるヴァシリ。少佐愛飲のタバコは、フィルター部が金の巻紙になっている、めったに見ないようなお高そうなモノ。ゆっくりと吸い止しを唇ではさむヴァシリ。このときのジュード・ロウのアップは、なぜか場違いに淫靡な雰囲気(カントク、狙ってますね)。自分とは縁のない上流階級の味は気に入らなかったようで、吸ったとたんに、「なんだ、こりゃ」と言わんばかりに、すばやく口からタバコをはずすヴァシリだった。やがて、ヴァシリとケーニッヒ少佐は、戦況などそっちのけで、互いを仕留めることしか眼中になくなっていく。国対国の壮絶なはずの争いが、いつしか男と男の決闘の陰に押しやられ、ウラルの羊飼いとバイエルンの貴族にとって重要なのは、自分の国がスターリングラードでの戦闘に勝つことではなく、自分自身が相手を倒すことになっている。銃を構えたジュード・ロウのアップは、もちろん麗しいのだが…そんな彼も、ケーニッヒ少佐演じるエド・ハリスの圧倒的な存在感の前では、しょせん青二才か? 自分の息子に対しては深い愛着を垣間見せる一方、敵国の貧しい少年は利用するだけ利用し、ためらいもなく冷酷に惨殺する偏った人間性も、ケーニッヒ少佐の特殊な育ちを強く意識させる。だが、ケーニッヒ少佐は、本来なら負けるはずのない相手に敗北し、時代とともに没落する貴族階級さながらの運命を辿ることになる。普通ではかなわない相手との闘いに命を懸けているヴァシリだが、戦場に咲く一輪の花のようなターニャとの間に、熱いロマンスが芽生える。ところが、ターニャには同志ダニロフも横恋慕。ヴァシリとは親友といっていいほど仲がよかったダニロフなのだが、ターニャがヴァシリに思いを寄せていると知ると、あっけなく友情は放り出して、ガクのないヴァシリを蔑み始める。ターニャに、「ヴァシリなんてさ~、射撃の腕がいいだけのバカな羊飼いじゃん。あんなヤツはさ、いずれはお役ごめんで死ぬことになっているの。ボクとキミはさ、インテリゲンチャよ。戦争終わっても役立つ人材だろ。ボクらは教育受けてるしさ、無学なヴァシリなんかとは、違った使命をもった人間なんだよ。だからボクらがくっつくほうが正しいの!」とまあ、そこまではさすがに言ってないが、それに近い選民思想をチラつかせ、ターニャを口説く。もちろん、こんなこと言うオトコは振られることになっている。ターニャは、ダニロフ無視のヴァシリ一筋。他の兵士たちと雑魚寝のヴァシリに、大胆にも夜這いをかけるのもターニャのほう。純朴なヴァシリも燃えます。衛生状態(ついでに周囲の眼も…)モノともしないラブシーンは、さすがフランス人監督。おフランス映画のかほりの漂うシーン。向こうで口あけて寝てる兵隊さんが、なんか妙にゆるくてグッド。ほんっとこの映画、小技効いてるなぁ…ターニャに振られたダニロフは、ヤキモチを炸裂させる。ヴァシリと自分を切り離すように、2人仲良く写った写真にハサミを入れるダニロフ(案外ロマンチックなことするお方ですこと。それじゃヴァシリに振られたみたいじゃん)。ダニロフは復讐を開始。ヴァシリに反共産主義的な言動が見られると、軍本部へ密告するのだ(インテリゲンチャは、案外やることがセコい)。ダニロフの告げ口にびっくりして眼をむいている、タイピスト役のオバさんの表情がイイ。だが、最後にはダニロフはそんな醜い自分の心根を嫌悪し、命を投げ出して、ヴァシリとの友情を償おうとする。「隣人をうらやむことのない平等な社会を築こうとしても、結局のところ、羨望は人間の性。人は自分にないものを欲しがる。そして、愛に恵まれるか否かという1点だけとっても、貧富の差はどうしようもなくある」――ダニロフがヴァシリにつぶやく今際の言葉は、共産主義批判に留まらず、人間の普遍的な真実を突いている。社会体制がどう変わろうと、人が平等たりえることは決してない。だが、ダニロフが望んでも得られなかった愛に恵まれたヴァシリは、ダニロフがこれを最後と思い決めて話す「真理」をほとんど聞き流しているようでもある。ヴァシリは難解な話は理解しない。ヴァシリが激しい反応を見せるのは、人の生き死にかかわるときだけだ。自殺に等しいダニロフの死は、図らずも、知識階級のもろさと労働者階級のたくましさをあらわにする。この映画、最後は、死んだと思っていたターニャを病院でヴァシリが見つけ出して寄り添う、優しくもロマンチックなカットで幕切れとなる。ダニロフは死んだが、愛し合う2人は生きている。ヴァシリとターニャの純な愛の美しさと同時に、愛そのもののもつエゴイズムも、そこはかとなく感じさせる大人の演出。大掛かりな戦場のシーンはハリウッド的だが、筋書きに漂う哲学はいかにもフランス的。主役のジュード・ロウも準主役のジョセフ・ファインズも全然ロシア人に見えない。『スターリングラード』の無国籍的な味わいは、Mizumizuにとっては欠点ではないが、伝説の狙撃手ヴァシリ・ザイツェフに思い入れのあるロシア人から見たら、違和感アリアリの映画かもしれない。
2009.05.14
<きのうから続く>1人の芸術家を破滅へと導いた美神といえば、やはりルキーノ・ヴィスコンティの『ベニスに死す』のタジオ(ビョルン・アンドレセン)。『オスカー・ワイルド』の監督がヴィスコンティのこの作品を明確に意識していたかどうかは不明なのだが、ボジーを見ていると、どうしてもタジオを思い出す。むしろボジーは、ヴィスコンティの作り上げた美の化身タジオのアンチテーゼではないかとすら思う。この2人のキャラクターは、フィルムのポジとネガのよう。初登場のシーンとラストシーンが特にそうだ。『ベニスに死す』で主人公のアッシェンバッハがタジオを見初めるシーンでは、タジオのカットが3つ使われるのだが…タジオはあくまで、ホテルの客の中の1人。当然ながら、彼に目を留めるアッシェンバッハをまったく意識していない。2つ目のカットがこれ。どこを見ているのかわからない、物思いにふけったような視線。3つ目のがこれ。カメラはアッシェンバッハの視線となり、タジオを見つめる。2番目と3番目のショットでポーズが変わっているので、タジオが動いたことが暗示されているのだが、動き自体は映っておらず、このシーンのタジオも一幅の肖像画のよう。そして、相変わらず自分を見つめるアッシェンバッハには気づいていない。『オスカー・ワイルド』でオスカーとボジーが出会うのは、やはり招待客でさんざめく劇場のパーティエリア。オスカーに友人が近づいてきて、向こうにいるボジーを顎で指して、「僕の従兄弟のアルフレッド・ダグラスが、君を紹介してくれって」と話しかける。オスカーが視線をやると、その先には…強い視線でオスカーを待ち受けるボジー。このときやはり、カメラがオスカーの視線と一致し、群集の中で佇むボジーに、ぐっと焦点が当たる。同じようなシチュエーションで、対照的な眼の表情。『ベニスに死す』と『オスカー・ワイルド』の美神の登場は、やはりフィルムのネガとポジのようなのだ。そして、ラストシーン。『オスカー・ワイルド』のラストは、一種のハッピーエンドになっている。刑期を終えて出所したワイルドがボジーに会い、結局数ヶ月で完全に破局してしまうのは事実なので、そこで終わらせるのかと思いきや、映画では、オスカーが周囲の反対を押し切り、イタリアでボジーと再会するところで終わっている。イタリアの瀟洒なホテルの前で、ボジーを見つけたオスカーは、急にモジモジして物陰に隠れてしまう(苦笑)。でも、ウスラでっかいお体のせいか、すぐにボジーに見つかる(再苦笑)。ナレーションはこのあたりから、ボジーと別れたあとのオスカーの心境を語ったものになるのだが、映画の幕切れシーン、映像としては、あくまで感動の再会。オスカーの気配を察したかのように振り返ったボジーは、この映画の中で最高の笑顔を見せて、手ひどい代償を払わせた愛しい相手に呼びかける。「アンドレ!」 ♪バラはバラは、美しく咲ぁいぃ~て~(いけね、そりゃ別の話だった)。お互いに歩み寄り、抱き合う2人。ここにいかにもオスカー・ワイルドにふさわしい、逆説的な格言がナレーションでかぶさる。曰く、「この世には2つの悲劇がある……それを得た悲劇」人は普通、望むものが得られないことが不幸であり、望むものを手に入れることがすなわち幸福だと考えている。だが、実際には、より大きな悲劇は、望むものを手に入れたことで起こるのだ。オスカー・ワイルドの悲劇は、まさしく、ボジーという美しき破壊神を得てしまったことで起こった。だが、映画『オスカー・ワイルド』はあえて、オスカーとボジーの完全な破局までを追いかけず、互いにつらく、痛みの多かった2人の交わりの中で、ごく稀にあった幸福な一瞬で物語を止めている。ここにあるのは、過去を乗り越え、他者と積極的に関わろうとする2人の人間の姿だ。『ベニスに死す』のアッシェンバッハとタジオは違う。タジオはやがて、自分を追い回す男の存在に気づき、ちらちらと視線を投げたり、話しかけられるのを待つかのようなしぐさを見せたりする。アッシェンバッハも空想の中ではタジオに触れ、タジオと関わろうとするが、現実には声さえ、ついにかけることはない。そこにあるのは、まぎれもない老いの姿だ。人はごくごく若いころは、他者と関わることに自信がもてず、いわば蓑虫のように、自分の世界に閉じこもっている。だが成長するにつれ、社会と、そして人と、積極的に関わろうとする。やがて老いてくると、人と人がそう簡単に分かりあい、分かち合うことはできないのだと悟ってしまう。そうして、再び人は蓑に隠れる虫のように、老いの孤独に閉じこもるようになる。アッシェンバッハを演じたダーク・ボガートはそれほど老人ではなかったが、アッシェンバッハの精神は、どうしようもないほど老いの境地に達しているように見える。アッシェンバッハにとってタジオは、美の象徴だが、彼はそれを基本的に眺めているだけだ。そして、徐々に彼の肉体に忍び寄る死の影。アッシェンバッハはタジオを追い回すことで死を追い回している。だから、タジオはアッシェンバッハを崩壊させる美しき破壊神には違いないが、あくまでそれは1つの象徴、化身であって、タジオが現実にアッシェンバッハに何かしたわけではない。そして、ラストシーン。台詞はなく、耽美な音楽と映像だけがある。アッシェンバッハの見つめるタジオは、どんどん彼から遠ざかる。明るい髪が光る水面の輝きに溶けそう。タジオは一瞬立ち止まり、横顔を見せ、アッシェンバッハのほうを振り返ったようでもあるが、その動作はシルエットになってしまってよく見えない。遠ざかるばかりのタジオ。砂浜におかれたカメラが、タジオとの距離感を出している。沖に浮かぶ船のほうへ、少年の姿はなおも遠ざかり、それと共に理想が遠ざかり、記憶が遠ざかり、人生が遠ざかる。そして突然アッシェンバッハの視界は途切れ、彼は死の世界へ旅立っていく。自分を見つめる芸術家の視線に気づき、振り返り、微笑み、嬉しそうに名前を呼んだ『オスカー・ワイルド』のボジー。自分を見つめる芸術家の視線を知ってか知らずにか、無言のまま、どんどん1人遠ざかった『ベニスに死す』のタジオ。やはりこの2人の美神は、1つのイメージのネガとポジのように見えるのだ。役者としてこの2人がたどった道も対照的だ。たいして演技経験のないまま、20世紀を代表する名監督の執念によって、美の化身にされてしまった少年は、その後、「この映画に出ることで自分の身に起こることをあらかじめ知っていたら、決して出なかっただろう」と語っている。ビョルン・アンドレセンはその後、「世間に出ない音楽家になった」と言われているが、要するに、引きこもりに近い人生を長く送ることになる。10代のころから役者を志し、20代半ばにはすでにかなりの演技経験を積んでいたジュード・ロウのほうは、ボジー役をステップにして、飛躍的に役の幅を広げていっている。『真夜中のサバナ』では、アメリカ南部の町一番の男娼役。初登場シーンでは、愛車のカマロを磨いている。ボジーの生まれとはあらゆる意味で対照的な、育ちの悪いアメリカ青年役。与太った歩き方が、いかにも品がない。ラストでは、自分を手にかけた男に復讐するために、あの世から戻ってくる。復讐を果たし、まるで吸血鬼さながらの不気味な笑顔。と思ったら…『クロコダイルの涙』では、スバリ吸血鬼役をやってました。泣いたり、笑ったり、キレたりという感情のブレの激しさで、『恐るべき親たち』のミシェル役に多分に重なるボジー役。奇妙な偶然だが、『オスカー・ワイルド』のフランスでの公開は1998年10月7日。元祖ミシェルのジャン・マレーがこの世を去ったのは、それからほぼ1ヶ月後の1998年11月8日。ロウの映画は1998年に、フランスで3本も封切られている(『オスカー・ワイルド』『真夜中のサバナ』『ガタカ』)。俳優としてのスタイルで見ると、ジュード・ロウは、ジャン・マレーというよりむしろジェラール・フィリップに近いように思う。ジェラール・フィリップの演じた『肉体の悪魔』のフランソワは、そのエゴイズムも含めて、現代の欧米の恋愛映画によく見る、恋する青年の原型のようなキャラクターだった。だが、高校を中退して演劇の世界に飛び込んだロウの決意は、ジャン・マレーの演技への情熱と見事に重なる。マレーも高校を中退になっているが、そもそも大学に行く気はなく、役者になりたくて中退したいと母親に言ったものの聞き入れてもらえず、反抗心から女装して騒ぎを起こしたことが原因だった。ロウのほうは、その時のマレーとほぼ同じ年のころ、『The Casebook of Sherlock Holmes』に女装したチョイ役で出ている。マレーは晩年、南仏に住み、絵画・彫刻・陶芸の制作に没頭したが、ロウも暖かいところで、絵を描いたり、音楽を聴いたりといった生活が好きだと言っている(ロウのインタビューについては、こちらのブログを参照させていただきました)。今年はロンドンとデンマークで『ハムレット』を演じるロウ。舞台ではフランスのシェークスピア、ラシーヌの古典劇を得意としたジャン・マレーの歩んだ役者人生と、やはりどこかダブって見えるのは偶然だろうか。
2009.05.10
<きのうから続く>『オスカー・ワイルド』は、文豪としての名声を欲しいままにしていたワイルドが、当時のイギリスでは犯罪だった同性愛にのめりこむことで社会的に葬られるまでの課程を描いている。頻繁に引用されるワイルド自身が書いた言葉は、今の時代ではほとんど顧みられることのなくなった、「英語の美しさ」を思い出させてくれる。オスカー・ワイルドを演じるスティーブン・フライの台詞回しの巧みさも光っている。そして、その言葉の魔力によって、ワイルドは大衆を、そして青年たちを魅了していく。書き上げたばかりの『サロメ』の一部を暗誦するオスカー。ボジーが魅入られたように聞きほれる。『オスカー・ワイルド』の脚本は、その後の展開を暗示する「文学的伏線」があちこちに張られている。たとえば…物語は、新大陸(アメリカ)の銀鉱山をオスカーが訪問するところから始まるのだが、井戸の底に堕ちるようにして坑道にたどりついたオスカーを待っていたのは、たくましい肉体をもつ半裸の青年労働者たち。「地獄へ堕ちるのかと思ったが、天使のいる天国だった」と冗談めかして言うオスカーの台詞が、その後の展開をすべて暗示している。アメリカから戻ったオスカーは結婚し、それからオスカーにとって「初めての男性」になる青年貴族ロビーに出会う。高い知性と教養をもった育ちのいいロビーは、だが、肉体的な魅力に欠けていた。ロビーの次に出会うのが、『ドリアン・グレイの肖像』を書くきっかけになったジョン・グレイ。ジョンは、まさしくアポロンのような肉体美の持ち主なのだが…彼と初めて出会うことになるパーティに出かけるシーンで、オスカーが幼い息子に、と言っている。だがジョンは、大工の息子。素直で一途な性格なのだが、教養はない。オスカーの書いた戯曲が大成功を収めた場面でも、言葉につまりながら、と褒めるのがやっと。その直後に、オスカーは文豪オスカー・ワイルドを破滅させることになるボジー(アルフレッド・ダグラス卿)に出会うのだが、ボジーはジョンと違って、立て板に水のごとく、オスカーの新作への賛辞を口にする。ジョンとは対照的に生まれもよく、弁も立つ青年の鮮やかな登場に、オスカーも何のためらいもなく、「私の作品を理解するのは、経験豊かな若者」「(君を放校処分にするとは、大学の教授たちはなんとも)美を解さぬ連中だ」などと、ソッチ系オーラを全開。滑らかな初対面の会話の合間に、ボジーとオスカーは互いの眼と眼を見つめあい、ある種の合意を交わしている。ジョンとボジーはルックスも対照的。長めの黒髪をなびかせている、たくましいジョンに対し、ボジーは短い金髪で、すらりとした体型。2人の間に流れ始めた特別な空気を察して、ジョンが慌てて割り込んできたときにはすでに、ボジーとオスカーの運命は決まっている。ジョンの敵対的な視線を軽々と無視して、オスカーに本名ではなく、愛称で呼んでくれと頼むボジー。ボジーとオスカーの「不道徳な関係」に激怒し、葛藤と対立の果てに、オスカー・ワイルドを罪人にまで追い詰めることになるボジーの父親。ボジーの父親は、当時の欺瞞に満ちたイギリス貴族社会の歪みを象徴するような存在。だが、結局は個人の才能は、たとえそれがどれほど優れた輝かしいものであっても、社会全体から歪んだ制裁を加えられると太刀打ちはできない。イギリスで、今なおシェークスピアと人気を二分する稀代の文豪オスカー・ワイルドの作家生命は、同性愛事件で投獄されたことで終わってしまった。<続く>
2009.05.09
ジュード・ロウがスターダムにのし上がっていった課程には、3つの段階があると思う。舞台『恐るべき親たち』のミシェルでホップして映画『オスカー・ワイルド』のボジー(アルフレッド・ダグラス卿)でステップして映画『リプリー』のディッキーでジャ~ンプディッキー役で英国アカデミー助演男優賞を受賞、米国アカデミー助演男優賞にノミネートされてからのロウの活躍については、言うまでもないだろう。『リプリー』で74万5000ドルだったロウの出演料は、ミンゲラとの次作『コールドマウンテン』で1000万ドルに跳ね上がっている。このギャラの上がり方は、『太陽がいっぱい』でのアラン・ドロンを彷彿させる。『恐るべき親たち』『オスカー・ワイルド』『リプリー』の3作で、ロウが演じたキャラクターは、不思議なほど共通している。彼らは皆エキセントリックで、感情のブレが激しい。そして、その性格によって悲劇的な結末をみずから手繰り寄せてしまう。ミシェルを演じたからこそボジーの役が来たのだろうし、ボジーを演じたからこそディッキーの役が来た。脚本家が前の作品でロウの演じたキャラクターに、何かしらの影響を受けている可能性も否定できない。たとえば、『オスカー・ワイルド』でのこのシーン。眠るボジー(ロウ)をオスカー・ワイルドが凝視している。『リプリー』『コールドマウンテン』『こわれゆく世界の中で』と、ロウを3度連続して起用したミンゲラ監督は、このイメージを全作に滑り込ませている。『恐るべき親たち』を書いたジャン・コクトーも眠る男のイメージを、繰り返しデッサンにしている。『恐るべき親たち』はもともとコクトーがジャン・マレーのために書いた戯曲。マレーが「泣いたり笑ったりして極端な役をやりたい」と言ったことで、ミシェルというキャラクターが生まれた。元祖ミシェル(ジャン・マレー)も、キレて怒鳴ったり…涙を浮かべて、子供のようにすがったり…身もだえながら泣きじゃくり、母親に慰められたりするが…『オスカー・ワイルド』のボジーもイラついて激昂したり、オスカーの胸の中で涙にくれたり…実も世もなく泣き伏して、オスカーに慰められたりする。ミシェルという極端な若者を演じたことが、ロウにとってはボジー役のレッスンになったのは間違いないだろう。『オスカー・ワイルド』の脚本は、『アナザー・カントリー』のジュリアン・ミッチェル。『アナザー・カントリー』のガイもそうだが、ミッチェルは少数派のセクシャリティの持ち主を、プライドが高く傲慢な、人格障害すれすれの破綻した性格と結びつけて書く傾向がある。ゴッホを主人公にした脚本も書いているから、あるいはミッチェル自身が、狂気をはらんだ異常な精神に惹きつけられるのかもしれない。『オスカー・ワイルド』のボジーは、身勝手な父親と息子を甘やかすだけの母親に育てられ、他人を思いやることのできないワガママな暴君になってしまった青年。求めても得られなかった父親からの無償・無限の愛を、ボジーはオスカーに求めようとする。初登場シーンでは…初めから挑発的なキラー目線、誘惑する気満々でオスカーを待ち受ける。イギリスの貴族文化が絢爛と花開いたビクトリア王朝時代の衣装や室内装飾も、この映画の見所。ボジーのイメージカラーはサーモンピンク。ウエストコートやガウンにこの色が使われ、それがボジーの明るい髪と瞳に呼応して映えている。初対面でいきなり、通っている大学の教授を引き合いにして、中産階級に対する蔑みの言葉を口にするボジー。貴族ゆえの傲慢さだけのように聞こえるのだが、その裏にある心理が物語が進むにつれあぶり出されてくる。実はボジーは…身分の卑しい若い男の子に致命的に弱いというのが、真実。ボジーがオスカーに最初にもちかける相談も、生まれは悪いが顔がキレイな男の子に宛てて書いた恋文をネタに、その彼からゆすられているというもの。ボジーは誘われるのを待っている、受動的な美青年ではない。オスカーにも積極的に近づき、いわば「能動的破壊神」として、オスカーの運命を狂わせていく。自身も詩を書くボジーは、流行作家のオスカーのたぐいまれな才能に憧れていた。オスカーを誘惑するために、惜しげもなくその美しいカラダを使うのだが…いったんオスカーを手に入れてしまうと、はるかに年上の中年男では自分のほうが肉体的に満足できなくなってしまう。ボジーはオスカーに、「ボクは本当に君を愛してる。でも人生には刺激が必要だろ」「見てていいから」などとささやき、オスカーの面前で男娼と交わる。道を歩いていても…水に飛び込んで泳ぐ、溌剌とした若い男の子に思わず目がいくボジー。獲物を見つけた肉食獣の眼差し。ボジーはオスカーの中に理想の父親像を見ている。そして、セクシャルではない、理想の愛の世界を一緒に構築したいと願う。だが、現実には2人は一緒にいると衝突するようになっていく。それでも、離れていると…と真剣に思うボジー。オスカーという「父」を得て、ボジーは実父に復讐を仕掛けるのだが、逆にオスカーとボジーの関係がスキャンダルとなり、オスカーが刑務所に。オスカーと鉄格子で隔てられて初めて、真剣に永遠の愛を誓うボジー。Mizumizuがこの作品で、もっとも胸を打たれたシーン。ボジーというキャラクターは、あまりに身勝手でエキセントリックで、言ってることとやってることが違うために、観客の共感は得られにくいのだが、彼は頭で思い描く観念的な理想の愛と、現実に自分の欲望が向かう先とのギャップに引き裂かれ、常にどこかで自分を恥じている人間。それが抑えがたい攻撃性となって、もっとも自分に寛容な相手に向かってしまうのだ。そうやって愛する人を傷つけ、自分も傷ついている。<明日へ続く>
2009.05.07
センターポジションに置かれなくても、ダイアモンドのような輝きを放ち、観る者の目を釘付けにしてしまうジュード・ロウ。その魅力がもっとも冴え渡った作品はやはり、アンソニー・ミンゲラ脚本・監督の『リプリー』ではないかと思う。『リプリー』はルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』のリメイクだと紹介されているが、違うと思う。もっと言えば、『太陽がいっぱい』も『リプリー』も、原作の『The Talented Mr. Ripley(才能あるリプリー氏)』を下敷きにしてはいても、それぞれ相当の脚色がなされている。まずは基本的な人物設定からして違う。『太陽がいっぱい』も『リプリー』も、主人公のトム・リプリーとディッキー・グリーンリーフの容姿は似ても似つかない。だが小説での2人の容貌は、「よく似ている」ことになっている。『The Talented Mr. Ripley』でトムがディッキーを殺して彼になりすまそうと考えるのは、2人の背格好が同じだったということも大きく影響しているのだ。『太陽がいっぱい』では、アラン・ドロンが主人公のトムを演じた。まさに水もしたたるいい男。『リプリー』のトムはマット・デイモン。初めてジュード・ロウ演じるディッキーとビーチで顔を合わすシーンなど、生っ白い肌に黄色いデカパンがア然とするほどダサい。『太陽がいっぱい』では主人公のトムが美貌の青年だったが、『リプリー』では美形はディッキーのほう。『リプリー』のトムは、そのディッキーに屈折した激しい恋情を抱く。『太陽がいっぱい』でもっとも魅力的なシーンの1つは、トムがマージを誘惑する場面だろう。アラン・ドロンの悪魔的な美貌を際立たせるカメラアングルといい、哀愁をおびた音楽の盛り上がりといい、監督のルネ・クレマンはここを最高の見せ場の1つとして描いているが、実はこれも『太陽がいっぱい』のオリジナル。小説はそんな筋書きにはなっていないのだ。一方、『リプリー』で青春の残酷さと美しさを担うのは、ロウ演じるディッキー。たとえば、コレ↓南イタリアの海が見える部屋で、サックスを吹くディッキー。窓の下の青い海を小船がゆっくり通り過ぎて行くのが見える。この絵画的な哀愁をおびたシーンは、ちょっかいを出した女の子が妊娠したうえに自殺をしてしまったあとに来る。このエピソードも小説にはない、『リプリー』のオリジナルなのだ。そして、マージとディッキーの関係。『リプリー』ではマージとディッキーはステディな関係であり、そこにトムが割り込んでくるカタチになっている。ところが小説は必ずしもそうではない。『The Talented Mr. Ripley』はトムの視線で語られるストーリーになっているのだが、トムの目を通して見たマージとディッキーは最初、それほど近しいものではない。トムとディッキーが急速に親しくなり、一緒に旅などして「やや特殊な関係」になってきたとたん、ディッキーがトムによそよそしい態度を取り始め、それまで大して関心のなかった(とトムには見えた)マージに接近していく。小説では、それをディッキーの裏切りと感じたトムが殺意を募らせるという筋書きになっている。『リプリー』では、トムがディッキーに抱く憧れと欲望がないまぜになった激しい感情は、これでもかというくらい露わに描かれているが、ディッキーには一見、そのケはないようにも見える。ところが小説ではそうではない。ディッキーは明らかに、「ボーダーラインをうろうろしている」セクシャリティの持ち主なのだ。彼はトムとの距離が縮まってくると急に警戒し始め、「自分はゲイじゃない」とトムにわざわざ宣言し(←まるで『ブロークバックマウンテン』のイニス)、ビーチでアクロバット芸を見せている「明らかにゲイの」軽業師に露骨な嫌悪感を示す。そして、マージという女性の性格づけ。小説でトムの目を通して描かれるマージは、相当嫌な女だ。トムのことも嫌っていて、ディッキーへの手紙に「彼は何の取り柄もない人」「ゲイではないかもしれないけど、ゲイ以下」「なんらかの性生活が送れるほどノーマルな人ではない」「彼と一緒にいるとき、あなたはなんだか恥ずかしそう」(河出文庫『リプリー』パトリシア・ハイスミス、佐宗鈴夫訳より)とクソミソに書いている。事実、小説のトムは、マージが手紙に書いたとおりの人間なのだが。だが、ミンゲラの作り上げたマージ像は、小説とは違って、非常に魅力的だ。神秘的ですらある。『リプリー』のマージは女性的な優しさと寛容さを併せ持ち、トムに対しても穏やかに、好意的に接する。ミンゲラ+ロウの最後のコラボレーションになった『こわれゆく世界の中で』のリヴにも共通したムードがある。北欧的な美貌といい、ミンゲラの理想の女性像なのかもしれない。『コールドマウンテン』のヒロインも同じ線上にいる女性だろう。『リプリー』のマージは、ディッキーがトムに「飽きて」、邪険にし始めると、「彼っていつもそうなの」とトムをなぐさめたりする。マージはこれまでディッキーにトムと同じように扱われた男友達の名前を挙げる。ディッキーが積極的に友達になろうとするのは、いつも…マージは女性特有の勘で、ディッキー自身ですら気づかずにいる、彼のある種の嗜好に気づいている。このとき、マージが挙げたディッキーの男友達の中に、『リプリー』の後半でトムと重要なかかわりをもってくるピーターの名があるのだ。『リプリー』ではディッキー亡き後、トムとピーターが「ほとんど一線を越えそうな」関係にまで発展するが、小説ではそんなエピソードはない。わずかに、トムがピーターに対して、ディッキーとの間に流れたような微妙な空気を感じて羞恥心を覚えるだけだ。ピーターとのかなり突っ込んだエピソードは、映画『リプリー』のオリジナルなのだ。『リプリー』の中で重要な意味をもつのは、浴室のシーン。そして、もちろん、ジュード・ロウの十八番のキラー目線。余談だが、トムがディッキーから、「別れよう」と言われるのは、ナポリにあるガレリアを出たところだ。ガレリアの階段を降りて、「サン・レモでさよならだ。それがぼくらの最後の旅」とディッキーがトムに告げる。Mizumizuは同じ場所で、道行く人に愛想を振りまいている捨て犬を見た(詳しくは、2007年10月28日のエピソードを参照)。『リプリー』を観たのはその後なので、捨てられつつあるトムの姿が、捨てられた犬のイメージに重なって、胸が痛んだ。小説でのディッキー殺しが、ある程度計画的に行われるのに対して、『リプリー』の殺人は突発的なアクシデントだ。サン・レモでボートを借り、海上に出たところで、トムとディッキーが言い合いになる。「マージと結婚する」と言うディッキーに対して、トムが並べ立てる台詞は、「一見」あまりに一方的で、思い込みの激しいストーカーのよう。「マージのことなんか、愛してないくせに」「きのうは別の女の子を口説いていただろ」「浴室でチェスをしたあの夜、君も特別なものを感じたはずだ」「ぼくは自分に正直なのに、君はそうじゃない」… あげくに、こんなことまで言い出す。そして、「君は一体何がやりたいんだ」とトムに言われると、ディッキーが激昂し、2人は取っ組み合いになる。このときにディッキーが見せた常軌を逸した暴力性が、結局はディッキーの命を奪う結果になるのだ。映画はこのあと、完全犯罪にすべく奔走するトムの姿を描き、サスペンス映画としての面白さを十分に堪能させてくれる。フレディ殺しにまつわるエピソードに関しては、『太陽がいっぱい』のリメイクと言ってもいいかもしれない。だが、結末は『太陽がいっぱい』とはまったく違っている。『リプリー』では、物語の終盤になって、意外なディッキーの過去がトムに明かされる。アメリカにいた大学時代、ディッキーは「女のことで」男友達とケンカになり、相手が障害者になるほどの大怪我を負わせていたのだ。それゆえに、ディッキーの父親は、息子が「また」同じような経緯から、友人のフレディを殺してしまい、自殺したと簡単に信じ込む。だが、マージだけは、ディッキーはトムに殺されたのだと確信していく。周囲はディッキーの過去をマージには伏せている。ゆえに、こう思う。「マージは本当のディッキーを知らない。だからトムが犯人だと誤解しているんだ」と。一方で観客は、真実を見抜いたのはマージだけだということを知っている。ここに、不思議なパラドックスが生まれる。ディッキーは一点の曇りもない、太陽のような男だった。少なくとも、この過去が明かされるまでは、そう見えた。過去に友人を半死の目に遭わせたなど、そぶりにも見せなかった。トムはディッキーに「自分は大学時代の知り合い」だと偽って接近する。そのトムに対しても、自分の引き起こした不祥事について知っているのか、どう思っているのかなど、探りを入れることさえしなかった。トムがディッキーの筆跡占いをして、「誰にも言えない秘密を抱えている」と言ったときも、まるでピンときていない様子で、「本人にもわからないなんて、たいそうな秘密だな」などとごくごく自然に答えている。だが、ディッキーには、大きな秘密があったのだ。アメリカにどうしても帰りたくないわけも。ヨーロッパにとどまることで、ディッキーは自分の過去から逃げていた。そして、トムとディッキーがボートの上で殺し合いになってしまうケンカを始めたのは? やはり、マージという女性をめぐってのことだった。トムのような男友達を、ディッキーは作っては捨てていた。妊娠して自殺したイタリア人の女性はファウストというディッキーの男友達の婚約者だった。だとしたら、アメリカで起こった事件も、同じような経緯で生じたのではなかったのか? 「本当の自分から逃げ、やりたいことをやらないまま、たいしてやりたくもないことには次々に手を出す」――こういう自分の本質に触れられると、ディッキーは理性を失うほど怒り狂うのではないか?だからもしかしたら、サン・レモの海の上でトムがディッキーに言った台詞は、すべてがトムの一方的な思い込みではなく、ディッキーの真実、あるいは真実の一部だったのかもしれない。ディッキーの心の奥深くに隠されたセクシャリティをうかがわせるのが、ディッキーの死後、トムに積極的に近づいてくるピーターの存在だ。もともとピーターはディッキーの男友達。映画ではつまびらかにされないが、マージの台詞から、トムと同じような立場だったことが暗示されている。トムとピーターは、ディッキーを通してつながるのだ。ディッキーという太陽が隠れたあと、2人は隠花植物のようにひっそりと愛を育もうとする。だが、ピーターは薄々、トムの心に「消せない誰か」がいることに気づいている。サスペンス映画としてのテンポの良さや、ハラハラする展開の面白さで観客を惹きつける一方で、ジュード・ロウというたぐいまれなダイアモンドをディッキー役に配することで、原作者のハイスミスが追究した「隠されたセクシャリティ」というテーマを別の手法で織り込んだ、なかなかに深い作品。のちにハリウッド映画界を代表することになる名優が、こぞって参加しているのも頷ける。
2009.05.05
ジュード・ロウ出演作の中でもっともストーリーが「面白い」と思うのが、『ガタカ』。近未来というSF的設定に、どう見ても主人公が犯人にしか思えない殺人事件が絡み、かつ「差別」という普遍的テーマを根底にすえて社会派的な意味合いをももたせた、非常に凝ったエンターテイメント作品。最近は女性をターゲット・オーディエンスにした、やや「甘い」映画があまりに増えてしまった。女性向けの甘さというのは、主に登場人物たちの性格づけにある。自分の行動に対して、他者(仲間)からの理解を求め、認められ、もたれ合おうとする相互依存性の強さ。エゴを否定し、他者のために生き、自己犠牲を美化する――それは現実の社会で、女性が暗に求められている生き方でもある。今年のNHKの大河ドラマ『天地人』などはその典型だろう。あれ、里中満智子原作かと思っちゃったもんね。戦国時代の武将を描いた物語としては、あまりに甘すぎるが、これまでの戦国時代劇にはない画期的な魅力があるのも確かだ。こうしたドラマがそれなりの視聴率を獲得するということは、たとえ男の世界を描いた作品でも、今ニッポンでは女性からの共感なしには、人気を勝ち得ないということかもしれない。『ガタカ』はある意味、そうした女性向けドラマの対極にある。『ガタカ』の登場人物たちの眼中にあるのは、自分の夢をかなえること。そのためには時に非合法的な手段に訴え出る。他者から自分の行為が理解されるかどうかは問題ではない。彼らは一様に自我のかたまり。「オレ」がどうあるか、「オレがオレとして」どうありたいか、だけなのだ。映画としての『ガタカ』の魅力は、ハラハラさせられるストーリー展開にもある。難解な映画には、話の筋を知ってから観たほうが深く楽しめるものもあるが、この作品はそのタイプではない。結末は知らずに観たほうが楽しめる。SUPERBIT(TM) ガタカ (中古DVD)映画は視覚に訴えるものだから、美術も大切だ。その意味でも、『ガタカ』は十分満足させてくれる。舞台は近未来なので、建物のインテリアなどは相当に冷たい無機的な質感だが、クルマが妙にレトロだったり、ジュード・ロウ演じるジェロームの邸宅に真に審美的な大きな螺旋階段があったり、さまざまな時代の様式が画面の中に入り混じってくる。また、巨大な火の玉になってロケットが打ち上げられるシーンは、宇宙への憧憬を掻き立てるに十分な美しさを備えている。そして、ヒロイン。『ガタカ』の主人公の恋人役を演じるのは、ファッションモデル出身のユマ・サーマン。マネキンのような完璧なスタイルにクールな美貌は、まさに、あらゆる男性が一度は手に入れたいと夢見る理想の恋人像にぴったり。髪を上げても下ろしても、前から見ても後ろから見ても、そのままグラビアになりそう。ラブシーンも過激でなく、ロマンチックにきれいに撮っている。露骨なお色気に走っていないのも、Mizumizuがこの作品が好きな理由だ。妙にレトロなクルマとユマ・サーマン。美女とクルマ――伝統的に男性が好む組み合わせしかし、ジュード・ロウが出るからには、それだけじゃなかろう… と思ったのだが、やはりこの映画、それだけじゃない。主人公のビンセントは両親が「自然にまかせて」できた子供で、遺伝子的には病気のリスクが高く、長生きもできない。したがって高度な専門性をもった職業には就けない「不適正」人間だった。一方のロウが演じるジェロームは、生前の遺伝子操作によってあらゆる面で優れた素質をもつ「適正」人間。だが今の彼は、車椅子の生活を送っている。ビンセントは遺伝子ブローカーを通じてジェロームと知り合い、ジェロームはビンセントの夢をかなえるために、自分の生体IDを提供することになる。ジェロームは自分の血や尿をビンセントに与え、ビンセントはそれを使って、遺伝子的に「不適正」な人間には決してチャンスのない、宇宙飛行士になるという子供のころからの夢をかなえようとする。ビンセントに高ピーな視線ビームを発射しまくるジェローム。出たっ! これぞジュード・ロウの対オトコ悩殺目線。『オスカー・ワイルド』でも、カバ系のおっさん文豪をこの目で挑発、陥落させましたのよ。ときに自分たちの大それた企みに弱気になるビンセントを、ジェロームは高ピーな態度で鼓舞し続け、罵倒しながら支え続ける。夢をかなえたいと願っているのはビンセントなのだが、どちらかというと首謀者はジェロームのようにも見える。2人の間に芽生える共犯者を越えた友情のような感情。いや、1つの目的で結ばれた同志的な感情なのかもしれない。車椅子になったのは、金メダルを獲るべくして生まれたはずの自分が銀メダルにとどまったことが受け入れられず、自殺を図ったのだとジェロームがビンセントに告白するシーンは、まるでラブシーンのよう(場所もなぜかベッドだし)。ロウも「必要性があれば脱ぎます」ってタイプだが、今回は車椅子の役でヌードはなし。なのだが、主人公であるビンセント役のイーサン・ホークが、なぜかそれほど必要性のない場所でやたらヌードになっている。???しかも、ジムに行ってビンビンに鍛えた肉体。ああいったいかにもアメリカ人が好きそうなわざとらしいマッチョは、Mizumizuの嗜好にはまったく合致しないのだが、カラダを作ろうという努力はたいしたものだと思う。イチオシ(???)は、ビンセントと弟との競泳シーン。いい大人になった兄弟が夜の海で素っ裸になり、どっちが長く泳げるかを競い合う。途中で弟が溺れかけ、兄が慌てて助けるという、見ていて恥ずかしいシーンもある。なんで恥ずかしいかって? だってフ●チ●ですよ、2人とも。ありがたいことに、真夜中なのであまり見えない(ホッ)。あそこで兄弟2人してフ●チ●で溺死したら、あまりに恥ずかしいよなぁ、と余計な心配をしてしまったシーン。一方でロウの見所は、ビンセントの素性がバレそうになったとき、それを隠す工作をすべく、必死の形相で螺旋階段を腕だけで上っていくシーンかもしれない。本当に下半身不随のように見えるところ、そして、こういった肉体的にも難しい役を好んで引き受けるところが、役者ロウの凄さ。話をマジに戻すと、遺伝子至上主義の社会という設定を通して、今の時代にも通じるいわれのない差別を告発した作品でもある。体制に従って生きる人々も実は内心、違和感を感じている。そうした市井の市民の反発心が、ビンセントの夢の実現に一役買っていたということも、最後になるとわかってくる。人の人生を決めるのは、生まれ持った素質だけではない、少なくともそう信じたいし、信じるべきだというメッセージが、この作品には込められている。そして、断固たるラストシーン。「あるべき」自分になれなかったジェロームを包み込む炎が、「こうありたかった」自分になったビンセントを宇宙へ送り出すロケットの推進力となる。ジェロームは最後まで、あるがままの自分を受け入れることを拒否する。そして、誰にも告げず、誰とも孤独を分かち合わず、ビンセントにも嘘をつき、自分1人でプライドに殉じることを選ぶ。ビンセントの物語でありながら、ジェロームの物語でもある。途中からそうなってしまうのは、ひとえに演技のカリスマ、ジュード・ロウのダイアモンドのような魅力ゆえ。センターポジションに置かれなくても、あまりに輝いてしまうので、主役だとか脇役だとかいった概念は、単に便宜上の区分に過ぎないと思えてくる。
2009.05.03
役者には、十八番の演技というものがある。たとえばジャン・マレーがイケメン俳優だったころは、「失神」と並んで、水戸黄門の印籠みたいな役回りのシーンが「ドアップの涙」。今は残っていないが、ジャン・マレーの映画での最初の大作は、『カルメン』のドン・ホセ役だった。このオーディションは映画のクライマックスで使われる予定の「ホセが涙を流すシーン」で、マレーの泣きの演技を見た『カルメン』のプロデューサーがベタ惚れして、「ホセ役は彼しかいない」とマレーを抜擢した。その後のコクトー作品でも、必ずマレーがドアップで涙を流す場面が入る。そんなにジャノを泣かせたいのか、ジャン・コクトー!と思っていたのだが、『ジャン・マレーへの手紙』を読むと、ある映画の脚本執筆時の手紙に、「君の好きな場面を用意した」とあり、それがどうやらドアップで泣くシーンらしい。つまり、コクトーの趣味というより、マレーの趣味だったらしいのだ。そんなにドアップで泣く自分が好きだったのか、ジャン・マレー!ジュード・ロウにも、同じような十八番の演技がある。それは「キレまくる」シーン。ロウは「知性」や「高貴さ」を表現するもの巧いが、同時に「狂気」や「獣性」といったエキセントリックな感情を爆発させるとき、近寄りがたいカリスマ性を発揮する。アンソニー・ミンゲラと組んだ『リプリー』でも、ロウはキレまくっている。その頂点がリプリーがディッキーを殺してしまうボートでのシーン。リプリーに殴られたあと、血を流しながらリプリーに襲い掛かる野獣のようなディッキーの怒りは、理解不能なくらいの狂気に彩られている。だが、ミンゲラはロウと組んだ『コールド・マウンテン』では、あえてそうした場面を用意せず、それまでのロウのイメージとはまったく違う無口で純なアメリカの田舎の青年を演じさせた。南北戦争を舞台にした『コールド・マウンテン』は、戦争、特に歩兵戦の凄惨さと、アメリカの山奥の寒村の牧歌的で平和な風景を交互に見せて、声高ではないが、明確な反戦のメッセージを映し出す。ロウの演じるインマンは、都会から引っ越してきた南部美人のエイダに最初から思いを寄せている。インマンの仕事はと言えば…エイダと会話をしているときも、別に愛想がいいわけでもない。だが、周りの男たちが、「あいつが口きているぞ」と笑っている。エイダに乞われると、何でもやってくれるインマン。畑も耕します。エイダのためならエイ~んや、こ~ら。どちらかというと細身で華奢なジュード・ロウだが、この役のためにだいぶ筋肉をつけたよう。時代は南北戦争直前。「戦争になれば、みんな戦うよ」と兵士になることに何の疑問ももたないインマン。あくまで彼は、ふつーの田舎の青年なのだ。そして、開戦。すぐに出征というせっぱつまった状況がシャイな2人の距離を急速に近づける。「一ヶ月で戻るよ」――戦場へ赴く血気盛んな男たちは、軽い気持ちでいる。だが、それは、4年にもおよぶ長い内戦の始まりだった。一度キスを交わしただけで男はあわただしく戦場に。見送るヒロインを見つめる眼は、愛を確認した喜びに輝いている。こうしたカットでロウがはっとするほど美しいのは、ミンゲラが細心の注意を払っているからだろうと思う。ロウはもともとイケメンだが、「素材」だけでは、これほど印象的なカットにはならない。戦争は、朴訥とした青年の明るい色の髪を黒い色に変えている。愛する人にもう一度会うため、脱走兵となって数々の修羅場をくぐりぬけて帰ってきた青年は、「自分は別人になってしまった」と感じている。長い懺悔のような魂の告白を、聖母のように受け止めるヒロイン。「話をするより、見つめ合ったほうがいい」と言っていた素朴でロマンチックな青年が、戦争という狂気を体験し、やり場のない、大きすぎる怒りと悲しみを抑えながら独白する。この長いモノローグは、ロウ演技の最大の見せ場。彼は…というつもりだった。だが、現実には、戦争は彼らの大切な土地を荒廃させてしまう。帰還への道中で出会った人は、次々に簡単に死んいく。この人も…あれっ、『リプリー』のフレディだ。ということは、好色で大食漢で最後は死ぬ役ですか?と思ったら、そのとおりだった(笑)。ジュード・ロウに、あえてそれまでのイメージとはまったく逆の役を与え、十八番の「キレて怒鳴りまくるシーン」も用意せず、俳優としてのロウの可能性を広げようとしたミンゲラの親心を強く感じる作品。ラブシーンもカット割りが非常に詩的で、たくましくなったロウの肉体美を四方八方から(苦笑)十分に魅力的に見せている。ロウは基本的には脱ぎまくりのヒトなのだが、『コールド・マウンテン』のラブシーンはその中でも、一ニを争う美しさ。もちろん女性の肉体美も。この完璧なヒップラインは、エイダ役のニコール・キッドマンその人なのでしょうか。それともここだけ代役?ロウの精悍な横顔の輪郭線と炎に照らされた肉感的な臀部がお互いの邪魔をしないで両立している、萌え萌えのカット。
2009.03.19
<きのうから続く>コクトーは自分の映画でマレーをやたら「失神」させている。『悲恋(永劫回帰)』では、マレー演じる主人公がヒロインと出会う乱闘シーンで失神、『双頭の鷲』では、女王の部屋に入ってきたところで失神、『ルイ・ブラス』でも女王に謁見した直後に失神、『恐るべき親たち』では何の脈略もなく一瞬気が遠くなって失神、『オルフェ』では鏡の前で失神。このように惚れ込んだ俳優に、同じイメージを繰り返し演じさせるというのは、ミンゲラにも共通している。ミンゲラ作品では、必ず「ロウが子供のように眠り込み」「それを誰かがじっと見つめる」というシーンが入る。『リプリー』では、電車で眠り込んだディッキー(ロウ)をリプリーがじっと窺い、すりよって胸のあたりに顔をうずめる。『コールド・マウンテン』では、ヒロインがインマン(ロウ)と結ばれたあと、眠りこむ彼をじっと見つめ、傷ついた体をいたわるようにそっと触れる。このシーンはわざわざ時系列を逆にして挿入するという凝りよう。『こわれゆく世界の中で』では、ウィル(ロウ)と移民の未亡人が関係をもったあと、ウィルが無防備に眠りこけるシーンがかなり長く続く。この間にウィルは情事の写真を撮られてしまうのだが、そんなこととは知らず目を覚ますと未亡人と一緒に彼女の女友達が彼を見つめ、「ベッドに男がいるなんていいわね」などと言う。『リプリー』と『コールド・マウンテン』では、ロウは死んでしまう役だが、観客は、死んだロウに彼を愛する人が寄り添うカットを真上から見ることになる。このイメージは2作ともそっくり、というよりまったく同じと言っていい。海の上か雪の上かという違いだけだ。「海」にしろ「雪」にしろ、ミンゲラは必ず、物言わぬロウと最後の時間を2人きりで過ごす、彼を愛する人のために、他人・日常・俗世間といった夾雑物が一切入り込まないロマンチックな舞台を用意している。リプリーは他に誰もいない海で、決して自分のものにならなかったディッキーを手にかけ、ついにつかの間、自分のものにする。エイダ(『コールド・マウンテン』のヒロイン)は、やっと戻ってきた愛しい男に、「もうどこにも行かないわね」と無言のままささやきかけているよう。どうよ、この死に顔の端整さ。コクトー作品でも、ジャン・マレーは最後に死んでしまう役がやたらと多い。そして、カメラはマレーの「彫刻のように」美しい死に顔を、舐めるようにアップで映し出す。こうしたミューズへの妄執は、ロウを繰り返し自作の映画に起用したミンゲラの視線にも共通する。ジャン・マレーにとってのジャン・コクトーがジュード・ロウにとっては、アンソニー・ミンゲラだったかもしれない。ミンゲラがまだ50代の若さで亡くなってしまったというのは、観客にとっても俳優ロウにとっても打撃だ。いや、映画監督としてもっとも脂の乗り切った時期に共に仕事をしたのだから、2人のコラボレーションは「次も見たい」という観客の欲求を満たさぬままに、その可能性だけを残した『こわれゆく世界の中で』で終わって、それでよかったのかもしれないが。ロウはThe Imaginarium of Doctor Parnassusでヒース・レジャーの代役の1人を演じるが、これについても不気味な符合がある。レジャーの急死で同作の撮影は一時頓挫する。結局レジャーが鏡を通り抜けたところで、ジョニー・ディップやロウに変身するという設定で撮影が続行されることになったのだが、この話はジャン・マレーが最晩年に書いた『私のジャン・コクトー』に出てくるあるエピソードと奇妙に重なるのだ。メキシコでコクトーの『オルフェ』が上演されていたときのこと、地震が起きて、芝居が中断された。劇場が壊れてしまったのだ。劇場が修復され、『オルフェ』は再び上演されることになる。だが…「突然、演出家が、芝居はもう続けられないと告げた。オルフェ役を演じていた俳優が鏡からふたたび出てくるまえ、舞台裏で倒れ、死んでしまったのだ」(『私のジャン・コクトー』より)鏡通過はコクトーワールドでは「死」を意味する。ヒース・レジャーの映画での最後のシーンはまさに、レジャーが鏡を通過するところになった。続けられなくなった芝居を演出家(監督)は、代役を立てることで続けた。しかもその役を引き継ぐ役者のうちの1人が、コクトー作品でアメリカに進出したジュード・ロウとは。その次になるのか、次の次になるのかわからないが、ロウはシャーロック・ホームズを主人公にした映画で、ワトソン博士を演じるという。ロウがワトソン博士と聞いて、「ナニかある」と直感したのだが、案の定(?)この作品、ホームズとワトソンの間にはゲイ的な雰囲気があり、部屋で取っ組み合ったり、1つのベッドを分け合ったりする仲だとか。ホームズとワトソンがソッチ系!? ひと昔前なら「腐女子の妄想」で片付けられそうな設定だ。世の中どうなっているんでしょうか。このところ出演作も多すぎて、かつてのカリスマ性がやや薄らいだ感もあるロウだが、しかし、ロウのワトソン役は斬新なものになる予感がする。公開が楽しみだ。
2009.03.17
日本では圧倒的に小説『恐るべき子供たち』のほうが、戯曲『恐るべき親たち』よりも有名だが、フランスではむしろ『恐るべき親たち』のほうが認知度が高いかもしれない。ジャン・コクトーも晩年、自身の戯曲でもっとも成功したのは『恐るべき親たち』だと明言している。ルキーノ・ヴィスコンティもイタリアでこの戯曲を演出しているし、コクトーの存命中にフランスで再演話が持ち上がったときは、『太陽がいっぱい』に出る前のアラン・ドロンがコクトーに自ら「ぼくにミシェル役を」と売り込みに来ている。ただ『ジャン・マレーへの手紙』を読むと、コクトーはジェラール・フィリップは非常に評価しているが、アラン・ドロンはあまりお気に召さなかったようだ。ジャン・マレー自身も、晩年は父親役で『恐るべき親たち』を舞台にのせ、後進の指導に当たっている。もちろん、1938年に24歳のジャン・マレーがミシェル役を演じたときのような大評判を取ることはなかったが。だが、ジャン・マレー以外にたった一人だけ、『恐るべき親たち』の舞台をセンセーショナルなヒットに導いた俳優がいる。それも『恐るべき親たち』初演から半世紀以上たった1990年代になって。その俳優こそ、イギリス人のジュード・ロウ。ロウがロンドンで、『恐るべき親たち』のミシェル役を演じたのは21歳。しかも、ロウは同作をひっさげてアメリカはブロードウェイに進出して大ヒットさせ、ハリウッド進出の足がかりを築いた。ウィキペディアのジュード・ロウのエントリーには「1995年にブロードウェイで公演されたキャスリ-ン・ターナーやアイリーン・アトキンスと共演した『Indiscretions』でシアター・ワールド賞を受賞、トニー賞助演男優賞にもノミネートされた」とあるが、このIndiscretions(放蕩)というのが、『恐るべき親たち』なのだ。ちなみに、1948年にコクトー監督・マレー主演で映画化された『恐るべき親たち』の英語のタイトルはThe Storm Withinになっている。『恐るべき親たち』のミシェル役というのは、非常に難しい役だ。ミシェルは、客を笑わせ、呆れさせ、怒らせ、そして泣かせなければならない。単細胞のダメ息子だが、そこに愛らしさがなければいけない。マレーはコクトーにこの戯曲を書いてもらったとき、あまりの難しさに、「この役を演じる才能も力量も今の自分にはない。絶望的だ」と思った。「でも、ジャンの信頼を裏切りたくない」。コクトーのほうは、呆然としているマレーを見て、「気に入らなかったのかな?」と一瞬がっかりした。コクトーはコクトーで、最初の読者であるマレーが自分の作品を気に入ってくれるかどうかを常に心配していた。それは晩年まで一貫して変わらない。「おもしろくない?」と聞くコクトーに対して、「素晴らしいと思う」と答えたマレー。「じゃあ、なぜそんな顔をしているの?」「驚いているんだよ、ジャン。君が想像できないくらい、ぼくは感動してる。この作品はどこか幻想的だ。そこが素晴らしいと思う」素晴らしいとマレーが感動した『恐るべき親たち』は、2人の予想を超える成功をおさめた。『恐るべき親たち』は、舞台の初演から10年も遅れて映画化されるが、そのときコクトーはもともとの舞台にはなかったシーンを付け加えている。それがミシェルの入浴シーン。コクトーと仕事を始めたごく初期のころは、よく「脱がされて」いたマレーだが、すぐに自分の肉体美を売り物にするのを嫌がるようになる。映画『恐るべき親たち』での露出はマレーとしては珍しい。このころのジャン・マレーは筋骨隆々、まさにギリシア彫刻のよう。もともとの台本を読むと、このシーンはミシェルがお風呂に入っているのではなく、お風呂の水を入れているだけだ。映画化にあたって、やや視覚的に「セクシー」なシーンに変えたということだろう。ただセクシーなだけでなく、おっちょこちょいのミシェルの性格を表すコメディ風のシーンもある。そして、ミシェルは浴室からバスローブをはおって出てくる。窓枠の影が美しい。このシーンももともとの舞台劇にはない。ジュード・ロウ版舞台『恐るべき親たち』では、ロウはもっと大胆に、フルヌードで入浴し、お風呂から出てくるという設定になっている。悲喜劇両方の側面をもった『恐るべき親たち』のミシェル役は、そもそも難しい役だが、やはり客を集めるには、演技力だけではなく、俳優が若く、セクシーで、チャーミングである必要がある。その条件を完璧に満たしていたのが、1930年代のフランスに1人、1990年代のイギリスに1人だけいたということだ。ジャン・マレーは『恐るべき親たち』執筆前のコクトーに、「君はどんな役が演りたい?」と聞かれて、「極端で、活気があって、現代人の役。泣いたり笑ったりして美男でない役」と答えている。そうして生まれたのがミシェルというキャラクターなのだが、マレーにしろロウにしろ、結局とびきりの美男だ(笑)。1997年以降のジュード・ロウの映画界での活躍は多くの人が知るところだが、監督としてロウと相性がよかったのはやはり、アンソニー・ミンゲラだろう。ミンゲラはロウの魅力を最大限引き出した監督だ。まずは、1999年『リプリー』のディッキー・グリーンリーフ役。この映画、どう考えたってロウのための映画だ。『ダークナイト』がヒース・レジャーのジョーカーを見るための映画になってしまったのと同じ理屈で。そのくらい、『リプリー』のロウは強烈なオーラを放っている。『リプリー』は『太陽がいっぱい』のリメイクと紹介されるが、それは適切ではない。『太陽がいっぱい』より、原作のThe Talented Mr. Ripleyに忠実だとネットでは書かれていたりするが、それも当たっていないように思う。いや、もちろん『太陽がいっぱい』よりは忠実かもしれない。だが、『リプリー』もやはり、脚本を書いた監督のミンゲラが相当に原作を「翻案」している。映画『リプリー』と『太陽がいっぱい』、それに小説The Talented Mr. Ripleyはそれぞれ、まったく別の作品だと思ったほうがいい。たとえば、主人公のリプリーがディッキーを海上で殺すシーンは、原作とまるで違う。原作ではリプリーが最初から殺すつもりでディッキーをヨットで海に誘うのに対し、映画『リプリー』では、ディッキーに誘われて乗ったヨットで、ディッキーの女友達のことで2人が口論になり、狂気にかられたディッキーに恐怖を覚えてリプリーが偶発的に彼を殺してしまう。この海上でディッキーがリプリーを、「お前は退屈なんだよ」と罵るシーンは、明らかにロウの『オスカー・ワイルド』(1995年)でのボジー役を彷彿させる。というより、ほとんど台詞が同じなのだ。ミンゲラは『オスカー・ワイルド』で病気のワイルドを残してボジーが遊びに出かけてしまうシーンのロウの演技からヒントを得て、この海上での殺人シーンの脚本を書いたとしか思えない。そして、もう1つ。ディッキーとリプリーの間に微妙な空気が流れるのが、浴室でのシーン。ディッキーが入浴し、リプリーとチェスをしている(なんで、風呂入りながらチェスなんかすんのだ? そもそも)。映画『リプリー』では、非常に重要なシーンなのだが、こんなお風呂の場面も原作にはないのだ。バスタブに入っているディッキーに、リプリーが「入ってもいい?」と聞くシーン。このときロウ演じるディッキーは、露骨にバカにするような視線をすくい上げて、リプリーを凝視する。どうよ、この色悪ぶり。相手を上からあからさまに品定めするような、こうした侮蔑的目つきをさせたらジュード・ロウの右に出る人はいない。しかも、その相手はほとんど必ずオトコ。「ノー」と冷たく突き放されて、リプリーはあわてて、「一緒にじゃないよ」。すると、ディッキーは、「じゃ、オレは出るから入れよ」とバスタブを出て行く。このミンゲラのオリジナル・シーンのルーツは、やはりロウの出世作『恐るべき親たち』にあると思うのだ。そして、ディッキーのキャラクターづけは『オスカー・ワイルド』のボジーに相当影響を受けている。リプリーはディッキーに「気味が悪い」「やめろよ、そういうの」と侮辱されればされるほど、ますますディッキーにメロメロになっていく。2003年の大作『コールド・マウンテン』を経て、ロウとミンゲラは2006年に『こわれゆく世界の中で』で再びタッグを組むが、この最後のロウ+ミンゲラ作品でも、重要な場面にお風呂が出てくる。「もう嘘をつくのはやめよう」「いいえ、ずっと嘘をついていて」――男女の思惑の違いが、決定的になるシーン。このあと、自分の思い違いを知って、ロウ演じる主人公は無言でバスタブから出て行く。ミンゲラ作品3つのうちの2つに出てくる浴室。そのルーツは、だからジャン・コクトーが映画『恐るべき親たち』でマレーをお風呂に入れたときにさかのぼると思うのだ。ロウがジャン・マレーを意識しているかどうかは不明だが、彼の将来の夢は、「84歳でリア王を演じること」だと言っていた。84歳はマレーが亡くなった年。マレーはその前年まで舞台に立っている。リア王も当たり役の1つだった。シェークスピア劇をあげるということは、ロウの頭にあるのは、あるいはイギリス最高の俳優ローレンス・オリビエかもしれない。どちらにしろ、いくつになってもその年に応じた演技が楽しみな俳優、それがジュード・ロウだ。ミンゲラは明らかに、俳優としてのジュード・ロウの才能に最も惚れこんでいた監督だった。ミンゲラ作品でのロウは、1作ごとにまったく違う、そしてその年齢にぴったりの役を演じて、甲乙つけがたい極上のキャラクターに仕上げている。<も、文字制限… 続きは明日に>
2009.03.16
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