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臨済宗 禅寺では 特に龍がよくあしらわれます寺の名にもよく出て来ます法堂(はっとう)では 天井に龍の絵がその他襖絵にも 龍が画かれています龍は雲を呼び 雨をもたらすと言い伝えられます特に 龍は仏法の護持する護法神とも言われ仏の慈雨をもたらす意味でも大切にあつかわれるのでしょう それにしても 修行のためとはいえ 何処も掃除が徹底し清浄感の清々しい 禅寺の共通した 雰囲気に 心鎮まります本日より、平常に戻り、禅宗の枯山水庭園シリーズを掲載したいと思います。東福寺の塔頭で日頃は、非公開寺院ですが、昨年の秋に特別公開されました。【龍吟庵】 (りょうぎんあん) は、 東福寺第三世住持 大明国師の墓所が有り、室町時代 足利義満の揮毫の 龍吟庵の額縁を拝する 日本で最古の国宝の方丈が 遺されており 書院造り・寝殿造りとして 貴重な建物が拝観することが出来ました。足利義満の定めた禅宗寺院五山南禅寺 五山の上位一位 天龍寺 二位 相国寺 三位 建仁寺 四位 東福寺 五位万寿寺何の理由で順位を定めたかさだかではありません。大徳寺派そして妙心寺派は、誘いを断ったそうです。 通天橋と同じ渓谷洗玉澗(せんぎょくかん)に架けられた偃月橋(えんげつきょう) 方丈庭園 枯山水 竹垣は 龍を呼ぶ 稲妻模様 西側庭園 龍の庭龍が海中から黒雲を得て昇天する姿竹垣は稲妻模様唱和の作庭者 重森三玲 作庭龍の庭黒い雲を表現開山堂 東側の庭園 不離の庭長方形の赤砂はめずらしいです長石を臥せ その前後に白黒の二石を配し幼少のころ狼に襲われそうになられたとき国師の身を二頭の犬が守ったという故事により配されましたやはり竹垣には 稲妻模様国宝 寝殿造りの方丈額縁は正面から写すことは禁じられました方丈の額縁は五山設定の足利義満のが書いたとされます・ 熊笹 表門 重要文化財奥に寝殿造りの屋根がみえますもみじの美しさも少し見えました明日も東福寺の塔頭を巡ります。紅葉狩りは愉しまれますが本坊の庭園そして塔頭の素敵な庭園は殆ど訪れられません。勿体ないと思います。
2015.07.31
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少し涼しそうな情報を得ました 本日 老人健康施設でリハビリを受けましたスタフの方の情報で 「昨日休日で ヒグラシの鳴き声を聞いた」と「本当ですか 今どき 山のそばですか」「将軍塚で 妹と鳴き声を確かめました」猛暑夏半ば 自然は最早夏の終わりを知らせているようですGoogleで調べましたら 過去に7月中に然も場所も将軍塚と同じような内容の記事がありました将軍塚とは京の都の誕生日 794年10月22日 和気清麻呂が桓武天皇に狩りを理由にこの地に三方山に囲まれた盆地を眺め 中国の故事にも「君子南面する地は永久に栄える」ことを進言し此処を都と定められた由緒ある地で 都護持のため将軍の姿の人形を治め【将軍塚】と言われるようになりました新名所【青龍殿】と清水の舞台の4.6倍の広い舞台は新しい観光地となりそうです 比叡山を望む青龍殿広い舞台将軍塚
2015.07.30
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昨日は入院中お世話になったスタフからのコメント頂き有り難うございました観て戴いて嬉しいです 京都の禅宗には各派がありますが、今回は南禅寺を五山の上位とする第4位東福寺にまいります。 【東福寺】 臨済宗東福寺派総本山 開基 聖一国師 山号 慧日山「東福寺」をはじめ塔頭が、存在します。「紅葉」の時期には、京都駅にも近いことからか、立錐の余地も無いほどに、人出が殺到します。 足利義満の決めた、禅宗の五山の第四番目に当たります。大きさを誇張するように、寺名も奈良の東大寺と興福寺から、一字ずつ採って名付けられたそうです。【七堂伽藍】 (しちどうがらん)形式を採り、【伽藍面】(がらんづら)ともいわれています。 三門【三門】 【国宝】禅寺としては、日本一古く大きいとのことです。扁額には【名雲閣】(みょううんかく)と書かれ、足利義持公の筆跡です。三門の上に登りますと、正面に釈迦如来像・十六羅漢像は定朝作と云われています。特別拝観で内部は拝観出来ます。 法堂【法堂】 (はっとう)釈迦如来が祀られ、天井の龍の画は、【堂本印象】作です。時節(3月14日~16日)に【涅槃図】が、拝観できますが、此処も【猫】が神妙に構えて画かれている事で話題と成っています。何故なら「お釈迦さま」が亡くなる前に中毒の病で、空から「摩耶夫人」(まやふじん)母上が薬袋を投げられたところ【投薬の語源】【沙羅の小枝】(さら)に袋がひっかかり、【ねずみ】が木に登り取りに行こうとしたとき、猫が阻み、お釈迦さまのもとに間に合わなかったとのことで、十二支からも外され、功を得て、ねずみから始まる事に。 市松模様の庭園【本坊】方丈の西と北庭には、苔で 【市松模様】 で飾られ、芸術を感じさせられます。庭園は「重森三玲」(しげもりみれい)作です。塔頭寺院の【龍吟庵】も【霊雲院】の枯山水も同じ人の策定です。 方丈庭園 通天橋【通天橋】 (つうてんきょう)この周辺が、「紅葉」で最も楽しめるところです。渓谷「洗玉澗」(せんぎょくかん)のもみじは、最高に美しいです。【開山堂】【普門院】開基聖一国師の入定の地で、ちょっとした庭園が広がります。明日は塔頭庭園に参ります
2015.07.30
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朝の続きです哲学の道桜の葉は殆ど無し哲学の道子の右下に降りたところに光雲寺【光雲寺】 臨済宗南禅寺派東福門院の菩提寺 二代将軍 徳川秀忠の子に千姫 家光 和子(まさこ)徳川は皇室と縁戚を設ける為 後水尾天皇のお妃として和子を嫁がしました後の東福門院です 二条城では兄の家光か 後水尾天皇の行幸を仰ぐ際に妹の和子妃のためお城に特別の屋敷を用意したとあります特別公開は今回初じめて見ました 東山を背に表門本堂本尊 釈迦三尊と 東福門院の座像が祀られています玄関には菊の紋と葵の紋が飾られていました菊の花も清楚でした小川治兵衛の作庭瑪瑙(めのう)の手水鉢加藤清正が朝鮮より招来したもの徳川家の手に入り 東福門院かこの寺に寄贈庭園東山が借景もみじも見ごろでした京都紅葉の状況観て来ましたが12月初旬までは鑑賞されそうです明日は本来の記事に戻り 東福寺に参ります
2015.07.29
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【霊艦寺】 臨済宗南禅寺派後水尾天皇の皇女 宗澄尼(そうちょう)のために建てられ五代の皇女によって守られ 谷御所とも言われます天皇の好まれた椿寺としても有名で黒椿もあります日頃非公開で11月21日から12月7日まで特別公開されました表門玄関書院と本堂立石組と燈籠の枯山水庭園坂道を登りました本堂には如意輪観音さんが祀られていました快晴に映えました苔も映えています椿と紅葉の共演です説明が有りました 京洛の名木に指定された樹齢350年扇方に開く紅葉でしたお寺の建つたのが360年前で歴史を感じます降り路 振り返りつつ写真を右の人 苔を撮っていました其の苔庭です
2015.07.29
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列島酷暑 京都33.6度 たまたま昨日は安楽寺のかぼちゃ供養の催しがある日でした非公開寺院でも公開されました【霊艦寺】 此処も非公開寺院 このあと掲載します門跡尼寺で、谷御所とも云われています。特別拝観のときしか内部は観られません。本堂・書院・居間が佇み立石を多く使った石組みで、池泉回遊式庭園はこじんまりしても心和みます。【大豊神社】 哲学の道沿いにあります。神社は、此処「鹿ケ谷」(ししがだに)・南禅寺地区の産土神(うぶすな)として信仰されています。鼠の狛犬が珍しいです。 ねずみくんの狛犬阿吽の呼吸 片方は口を「あ」と開け、片方は「うん」と口を閉じています。 4月5日の桜結婚式の後哲学の道 哲学の道は、「道」として日本百選に選定されています。京都大学教授哲学者 西田幾多郎博士が 何時も考えもって散歩されたところから誰言うと無く その名が付けられたそうです。東天王町にある 【岡崎神社】 にも狛犬に変わり「兎」が居ました。 岡崎神社 狛犬の「うさぎ」 場所は京都御所の西側には、猪の狛犬が有ります。 護王神社 祭神 和気清麻呂九州大隅に流された時、野原の周囲から火攻めに会った時に、千頭の猪が火を踏みつけて消したとのいわれで、猪を狛犬として奉じています。続きが有ります
2015.07.29
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字数制限のため 2回に分けて更新しました哲学の道沿いに悲しい歴史が有ります昨今特別拝観の【霊鑑寺】の北側そばに其の場が有ります後鳥羽上皇の逆鱗は恐ろしく、兼ねてより意向に適わぬとして、住蓮・安楽上人は斬首。 法然上人は讃岐国(高松市)・親鸞上人は越後国(上越市)に流罪。【建永の法難】 (1107年) 仏道の僧でありながら罪とされました。心無い権勢は出来ません、それから14年後に 院政を執られた上皇【承久の変】(1221年)鎌倉幕府を打倒されるはずが失敗後鳥羽上皇は隠岐に順徳上皇は佐渡島へ天皇が配流され土御門上皇は自ら土佐で過ごされました。天皇が配流なんて、私の時代には教わりませでした。 松虫・鈴虫尼僧は、自分の行いが原因で、両上人が、殉教されたと知り、嘆き悲しみその後、瀬戸の生口島(いくのしま)(尾道市)で念仏を捧げ松虫35歳・鈴虫45歳で入寂。 後に、法然上人が戻られ、此処に両上人の菩提を弔う為、草庵を復興「住蓮山安楽寺」と名付けられました。 仏足石【鹿ケ谷かぼちゃ】(ししがだにかぼちゃ)無病息災のために、7月末の夏場の健康維持のためにも、寺院で炊き出し行事が行われます。帰路からみた表門明日は更にその周辺を散策しましょう 後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵【大原御陵】「実光院」の真向かいに位置します。「承久の乱」(じょうきゅうのらん)鎌倉幕府に破れ「武家政権」が際立つように成りました。82代後鳥羽上皇は、隠岐に、84代順徳上皇は佐渡に配流されました。大原の里で御陵は、静かに安らいで居られる様です。遠く歴史を偲びつつ礼拝。
2015.07.28
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800年前の出来事です 法然院の側にやはり念仏修行の安楽寺があります。(非公開)キリスト教への弾圧だけでなく、解かり易く一般民衆にも会得出来る法然上人・親鸞上人の説かれた宗教に法難の歴史がありました。安楽寺山門の前に掲げた「京都市の立札」です。 安楽寺住蓮山と号し、浄土宗の寺院である。鎌倉時代の初め、現在地より東一キロメートルばかりのところに法然上人の弟子住蓮坊、安楽坊二僧が、念仏場を建てて人々に念仏をすすめた。たまたま後鳥羽上皇官女松虫、鈴虫が教化をうけてひそかに出家する事件がおこり、上皇の立腹をうけ、「念仏停止」の宣下によって、二僧は死刑、法然上人は土佐へ親鸞上人は、越後へと配竜流された。これがいわゆる建永二年(一二0七)の法難であるが下って室町時代の末、天文年間(一五三二~一五五五)二僧の供養のため伽藍を之の地に再興したのが、当寺である。本尊阿弥陀尊像を安置し傍らは、住蓮、安楽両上人松虫、鈴虫両姫の座像、法然上人張子の像等をまつっている。また境内右手に住蓮、安楽両房の五輪石塔東方山林中に松虫、鈴虫両姫の五輪石塔がある 京都市 入口の門 本堂 本堂の背景庭園 千両 【安楽寺の縁起】「紫の庵の明け暮れに 心を澄ます谷水の流れを人の聞き伝え 人里まれなる鹿ケ谷(ししがだに)なお山深く分け入りて 紫の庵を結びつゝ」 「御門の寵愛浅からず 数多の官女の嫉妬よりとかく浮世を厭い捨て 菩提の道を求めんと一念心を傾けて 剃髪染衣を求めんと」 安楽寺和賛 住蓮上人・安楽上人お二人の念仏のお話に惹かれて、大勢集まり、精進の妨げと更に山深く庵を求められたとき、一匹の白い鹿に導かれ鹿ケ谷の山中で姿を消したので、仏の導きと、其処に紫の庵を設けられました。 一方、後鳥羽上皇の寵愛を一身に受けた 女官、松虫・鈴虫は、当初清水寺で法然上人のお話に救われ、後に 上皇の紀州へのみゆきの留守に、宮中を抜け出し、此処「紫の庵」に駆け込み、上人の宮中へ帰ることを進めるも、仏道への志高く、両姫は見識も高く美しい姿も投げ捨て、両上人によって、剃髪をされ、出家されました。松虫19歳・鈴虫17歳でした。 女官 鈴虫・松虫の五輪石塔 五輪石塔に至る 小さい門
2015.07.28
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法難の続く世の中に有って 大衆のための信仰への糧となられました此処暫く【法然上人さん】の威徳を偲んで、更新してみます。 銀閣寺から岡崎・円山そして清水寺に亘っての足跡が遺されています。特に清水寺では、釈迦堂と並んで阿弥陀堂があり、その場所で法然上人が念仏道場として初めて開かれたとされて上人像も祀られています。現在平成大修理中です。【法然院】 浄土宗 開基 万無 山号 善気山「安楽寺」を更に北へ歩きますと、茅葺(かやぶき)の優雅な門が見当たります。明日安楽寺ご紹介します。 参道 此処でも法然上人が住蓮・安楽坊と念仏を唱えた道場で、須弥壇(しゅみだん)には、四季折々の生花25組が飾られ、彩りしています。阿弥陀如来御来迎の三尊の外に、眷属25菩薩を表現しているそうです。 本堂には、恵心僧都(えしんそうず)作と伝えられる「阿弥陀如来坐像」と「法然上人」自作の木像が安置されています。 境内 境内 境内 萱葺の内から撮った門 椿の名所でもあり、墓地には「谷崎潤一郎」「河上肇」が眠っています。 かくして鹿ガ谷は、「法難の地」でもあり、「哲学の道」も西田幾多郎博士が、考えを深くして、歩まれた道で、歴史的にも過去を振り返る場所でもありました。 昨年の哲学の道の桜
2015.07.27
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猛暑の中 全国高校野球の 甲子園へと熱戦が続いています暑さ殊の外厳しいです 町内でも お年寄り宅への 見舞いと対処策を 婦人の方々の訪問と警告をされていました 【金戒光明寺】【黒谷さん】の朝の続きですブログ更新の字数に制限有り 2回に亘りました日本三文殊の三重塔知恵がさずかりますように 京都守護職 会津藩主 松平容保 (まつだいら・かたもり) 本陣の旧跡孝明天皇 崩御の直前 容保に守護職を全うするように頼むと仰せられ容保も感涙して、会津に帰ることを 思いとどまります 時の流れは 徳川家が 朝敵扱いで 会津藩もその立場に成りました 殉難された藩士また婦人の方が此処 くろ谷の 墓地で 埋葬されています会津藩墓地の守護の 【西雲院】 会津藩が鳥羽伏見の戦いで 賊軍の汚名を受け殉難した戦死者及び婦人の遺体が路上に放置されており容保に恩義を感じていた200余名が 迫害も恐れず収容し近くの寺院で荼毘に付し 回向供養したとあり黒谷会津藩殉死の墓地を弔い守ったとのことです会津藩墓地参道会津藩殉難者墓地鳥羽伏見の戦いの 殉難者墓地故郷 会津に帰れなくって京都で葬られた墓地会津藩墓地の由来がかかげてあります御霊の安らかにあれと 手を合わせるばかりです次回は、哲学の道沿いの寺社に参ります
2015.07.26
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【金戒光明寺】 浄土宗 通称 【くろ谷さん】法然上人さん43歳の年 比叡山の修行を終えて この地で 念仏をされた時紫雲が全山にたなびき 光明があたりを照らしたとありここを念仏道場の最初の地と定められました御影堂 少し前まで現存していた 熊谷直実の 鎧掛けの松名木も 松くい虫の被害で昨年10月枯れて撤去されたとのことです現在 三尊石だけで 跡形もなくなってしまいました残念です庭園の もみじは 僅かになってしまいました 阿弥陀堂 【阿弥陀堂】豊臣秀頼の再建で、この寺院で最も古い建物で、本尊の阿弥陀如来像は、 「恵心僧都」の最終の作で胎内に「のみ等器具」が納めてあり、「おとめの如来」または「ノミ納めの如来」とも云われています。 山門 【山門】額縁に「後小松天皇」(一休さんの父君)宸翰で何故か【浄土真宗最初門】勅額 が掲げてあります。それは、浄土真宗の意味でなく、法然上人が説かれた、浄土経の真の教え を始めた最初の門の意味だそうです。法然上人は、比叡山から降りて、最初に真如堂の阿弥陀如来にお参りされた後、此処黒谷に草庵を持たれたそうです。浄土真宗の開祖親鸞上人も「真如堂」の阿弥陀如来にお参りされたと云われています。【吉備観音】(きびかんのん) 中国から持ち帰ったもので、栴檀香木(せんだんこうぼく)で造られた観音像で、御影堂内に安置されているようです。徳川秀忠の妻 【江】 (ごう) の供養塔 初めてです春日局が家光を巡っての 確執がありましたが江 の遺髪を治めて弔ったと言われます春日局の思い遣りが伝わりそうです江 の墓地は東京に 仲良く 夫婦並んで ねむっています港区 芝公園 道上寺 浄土宗 東京タワーのそば
2015.07.26
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字に制限有 朝に続きます連日35度の猛暑となりました 体調管理にご留意願います涅槃の庭 ねはん背景大文字如意ケ嶽 涅槃の庭の別庭に近代感覚の石庭 重森美玲【涅槃の庭】 (ねはんのにわ)大文字「如意ケ嶽」東山を借景として、石組みで釈迦の横たわれた姿が見られます。別に【涅槃図】も掛け軸として存在し、珍しく猫くんが神妙に画かれています。何故ならお釈迦さまが中毒で、お母さんの摩耶(マヤ)夫人が天より、薬袋を投薬されましたが、周りに「沙羅双樹」が有り。その樹の枝に引っかかって届かず、(絵にもあります)ねずみくんが、登って取りに行こうとしたときに、猫くんが阻んで、お釈迦さまに届かなかった次第。猫くん「ご免なさいと反省しきり」借景の東山も、大文字山(如意ケ岳)がお釈迦さんの頭として寝て居られる姿が見えます。 春日局の桜【春日局の桜】 本堂の横に「春日局のお手植えの桜」家光の乳母で父上の「斉藤利三」の菩提を弔うために植えられました。其の側に「利三の墓地」が又恩人の絵師「海北友松」(かいほうゆうしょう)その外「落柿舎の住人」芭蕉門下十哲「向井去来」の墓も有り眠っています。奥には「三井家の墓」が広々と有りました。 境内に去来の寺がありました。わらべ唄にもうなづき阿弥陀さまの庶民の暮らしへの思い遣りが伺えるようです。 ああ 真如堂(しんど) めし黒谷さん(くったか) ここらで一ぷく永観堂(ええやろう) お茶漬さらさら南禅寺(何杯や)何れも、最近アップしました関連のお寺が当時から数え歌として民衆の人々に親しまれた寺院であることが、伺えそうです。次回はわらべうたに従い黒谷さん金戒光明寺へ向かいます
2015.07.25
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京都大学に最も近い観光寺院の【真如堂】です。旧三校の校歌 くれないもゆる に出てくる「吉田山」に位置します。金戒光明寺に隣接し、奥に存在する「会津藩の殉死の墓地」を通り抜けますと、「三井家の墓地」から真如堂に通じています。 法然上人さんが、比叡山からの辿られた寺院関係を続けています。 応仁の乱を免れた阿弥陀如来さんを祀る 三重塔【真如堂】 (しんにょどう)【眞正極楽寺】(しんしょうごくらくじ) 天台宗山門派 開基戒算山号 鈴声山(れいしょうざん) 銀閣寺庭園の小高き枯山水の滝組の道から望める前方に見えます「吉田山」 (旧三高の校歌で有名)を一名【神楽岡】(かぐらおか)とも言われます。即ち「山号」として「鈴声山」で「仏法有縁真正極楽の霊地とされていました。その岡の南の方に「真如堂」が建てられています。 本尊阿弥陀如来像は、 【頷ずき弥陀】 (うなづき)と呼ばれ、作者は、慈覚大師円仁(天台第三世座主)が比叡山で彫り終えられたとき、 「修行者の本尊に成って下さい」 と問いかけられると弥陀は頭を三回横に振られ否定されたそうで、「それでは都に降りて一切衆生、特に女性をお救い給え」 と念じられましたら、弥陀は三度うなずかれたそうです。比叡山常行堂に安置されていましたが、後に開山戒算上人が「真如堂」の本尊としてお招きされました。ひととき女性と言う事で「一条天皇の母君」「藤原詮子」離宮に安置されたともいわれています。「来迎の阿弥陀像としては、最古で、応仁の乱でも逃れておられます。 向井去来の歌碑法然上人・親鸞上人も比叡山から悟りを開いて先ず此処の阿弥陀さんに礼讃されたことで、向井去来も詩を残しています。 涼しさの 野山に満つる 念仏かな 去来そして、去来の大きい墓が境内・塔頭に有ります。嵯峨野落柿舎にも小さい墓がありましね。【日本三如来】 信濃善光寺の阿弥陀如来・嵯峨清涼寺の釈迦如来・真如堂の阿弥陀如来 左端が大文字です。8月16日送り火が灯されます。 涅槃の庭 ねはん背景大文字如意ケ嶽文字制限のため 続きがあります
2015.07.25
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文字制限のため朝に続きます祇園後祭 本日巡行 35度 10基の山と1基の大船鉾の出番でした 【永観堂の七不思議】. 抜け雀 火除け阿弥陀 念仏蛙 人影の無い「御影堂」で木魚の音が絶えなかった。ふと覗くと「蛙が木魚の側で念仏を唱えて居たとか。 三鈷の松(さんこのまつ)松の葉が三本ある木があり、其の葉を持ち帰ると「三つの幸せ」がもたらされるという。「臥龍の廊下」廊下は、龍涙を流される観音菩薩像。.本尊「見返り阿弥陀如来像」 境内の池楼閣への階段 一番奥に阿弥陀堂があります。 多宝塔 多宝塔からの京都の街 永観堂境内展望 【みかえり阿弥陀と永観律師】 広い寺院の境内で高所の奥に「阿弥陀堂」があり、そのみかえり阿弥陀像の前に、お寺さんの手書きで素晴しい,ことばが書かれていました。 このみかえり阿弥陀如来のお姿勢を現代に問うならば 「遅れる者たちを待つ姿勢」 「自らの位置をかえりみる姿勢」 「愛や情けをかける姿勢」 「思い遣り深く周囲をみつめる姿勢」 「衆生とともに正しく前へ進むリーダーの把握のふりむき 真正面から おびただしい人びとのことを案じて 横を みかえる事には しばられない姿勢」 これがこの仏さまの み心ではないでしょうか。と 春の陽気で水鳥が 境内にある永観堂幼稚園児のために思い遣り次回は真如堂に参ります
2015.07.24
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三門前のみかへり阿弥陀如来石塔 境内広場 観光堂内玄関 パックに多宝塔(開山の御廟所)【永観堂】 浄土宗西山禅林寺派本山 開基 弘法大師の弟子真紹僧都 法然上人八百回遠忌 内庭 勅使門の市松模様の砂紋 龍が巻き付く唐灯篭 四百年前のもの 臥龍廊下 多宝塔通路に繋がる。 仏像は撮影禁止のため、イメージとしてボスターで 【見返り阿弥陀】 全国でも珍しく、阿弥陀さんのお顔が後ろを振り向かれた形の仏像が安置されています。「永観律師(ようかんりっし)」が念仏を唱えつつ歩んで居られる時、本尊の阿弥陀さんが永観の先に立ち、共に念仏行道をされ始められましたので、その不思議さにたたずんでしまいました。そこで阿弥陀さんが永観の様子を温かく見られて「永観よ遅いよ」と見返られたという伝説があります。「先導する者(リーダー)・目上の者・強き者達は、時には、後ろに続く者に振り向いて、想い遣りの心で優しく手を差し伸べる事も大切なことを教えておられるようにも感じられます。
2015.07.24
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祇園祭後祭 宵宵山 昨夜の宵山には 雨上がりでいよいよ24日巡行です 船鉾そして南観音鉾が見ものです 南禅寺は、鎌倉中期に禅宗として、建てられましたが、 応仁の乱または火災で焼失してしまいました。庭園は有る程度遺されました。徳川時代に再興された南禅寺そして塔頭が現代のこされています。本日の金地院(こんちいん)は徳川家康と懇意にあった崇伝和尚が庭師、小堀遠州に庭園を造りました。 【金地院】 東照宮への道 鳥居が立っています。 南禅寺の塔頭の一つで、「三門」の前の「中門」の外に位置します。徳川家康に仕えた「崇伝」が京の地に【東照宮】を造営し、今に残っています。 苔庭 参道 本殿入口 東照宮本殿 本堂の前には、枯山水の「鶴・亀の庭」として大きい岩が横たわっています。東照宮に対して吉慶を象徴した【祝儀の庭】とされ、「小堀遠州」 作と云われています。二条城の庭園も同じくです。 鶴・亀の庭枯山水庭園 方丈庭園「八窓席の茶室」は遠州好み「三畳台目」の茶席で名席とされています。明日から哲学の道沿いに 先ず永観堂をご紹介します
2015.07.23
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【南禅寺3.】石川五右衛門で有名な「ああ絶景かな・絶景かな」のセリフをのこしたという南禅寺三門のすぐそばに天授庵の庭園が三門の上からも眺められます。 本日は、南禅寺開祖の【大明国師無関善門禅師】をお祀りする開山塔で枯山水と池泉回遊式庭園と東庭と南庭に分かれた趣の深い庭園で三門の上からも垣間見ることが出来ます。【天授庵】 南禅寺の塔頭庫裏の入口 南庭への入口石畳が菱形で龍の蛇腹正門からの道も苔に満ちた石畳 此処の見所 正面が正門 苔庭南庭に通ずる書院 竹林も見えます 池泉回遊式庭園作者不明でも、南北朝時代の様相が伺われます。本日は写真だけで観察してみてください。800年の 遺された 平和な景色が 私たちの時代に壊したくないです。明日も南禅寺の境内にある塔頭に参ります。一昨年秋の紅葉「行こう京都へ」の題材になった場所です。
2015.07.22
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関西も昨日梅雨がようやく明けました灼熱の夏がやって来ました 祇園祭後の祭りが24日巡行します【南禅寺2】 南禅寺境内にある塔頭 天龍寺の庭園を造られた 夢想国師の作庭従って歴史が古いです。【南禅院】開基 無関普門 寺でなく 院です 南禅寺の境内で、【水路閣】レンガ造りのアーチ形を潜り石段を少し登った所に有ります。 入ったところの 庭園同じく「水路閣」を更に登り詰めますと、疎水の勢い良く流れる水路を眺める事が出来ます。 水路閣の上 水路閣コノアーチの右際に南禅院が佇んています 奥の庭園 こじんまりした庭園ですが【夢窓疎石】の作庭で、庭の要素は、瀧を始め揃って存在しています。南禅寺の発祥の地で、徳川綱吉の母に当たる「桂昌院」の寄進により再建されました。奥の庭園 紅葉の時期も素晴しい景色を見せてくれます。次回も南禅寺の塔頭をご紹介します
2015.07.21
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足利義満の定めた、京都五山の上位は 【南禅寺】でした。 五山の上位 南禅寺第一位 天龍寺第二位 相国寺第三位 建仁寺第四位 東福寺第五位 万寿禅寺 三門 三門から参道 【南禅寺】 臨済宗南禅寺派大本山 開基 無関普門 山号 瑞龍山 。【三門】は義賊「石川五右衛門」の楼上よりの「ああ絶景かな絶景かな」と歌舞伎で有名に成った【楼門五三の桐】(さんもんごさんのきり)の一場面です。傾斜の急角度の梯子を伝って楼上に登りますと、その光景が体験できます 法堂三門より参道の正面に【法堂】(はっとう)が有り正面に「釈迦三尊」が天井には、龍が画かれています。 水路閣 【水路閣】 (すいろかく) 京都をイメージした明治の名所ですレンガ造りでヨーロッバ風のロマンチックな風情を感じます。 水路閣の上、疎水の流れ その上には「哲学の道」へと京都唯一の坂に逆らって北に向かって流されています【疎水】の分流が流れています。 田辺朔郎博士像 【琵琶湖疏水】 明治2年工部大学(東大)卒業論文に【田辺朔郎】(たなべさくろう)が運河により滋賀から京都への物資の運送に便を成し、そのうえ「蹴上の地」で傾斜を利用して「水力発電」を計画。日本で電車弟1号を発車させました。その論文を採り上げた京都府初代知事【北垣国道】 (きたがきくにみち)の英断で、苦難と財力の超過で完成。そのため知事を誹謗して「こんどきたがきは、ごくどうもの」と名前でなじったそうです。現代【水】に恵まれ、疎水の周りには、桜並木が何処も彩り、人の心の潤いに大いに寄与しています。銅像は「蹴上」に田辺工学博士が、平安神宮の西の方に「北垣知事」が今も見守ってくれています。 【本坊】履物を脱ぐ場所に、 【脚下照顧】(きゃくかしょうこ)禅宗の教えで、履物を揃えて置く様な心掛けで、禅寺を鑑賞するとよりよく、理解出来る意味で書かれていました。確かに以前も何回か記していますように、禅宗の寺院では、修行僧の行事か、「塵一つ落ちていません」 清浄感を味わうことが出来ます。 方丈庭園 【方丈庭園】「小堀遠州作」と言われる、枯山水の立派な白川砂で覆われた広い庭園に縁に坐って鑑賞、片隅の岩の配置は、【虎の子渡し】 を象徴するように、豪華なものです。襖絵は、狩野派の親子三代「狩野元信」「狩野永徳」そして「狩野探幽」の立派な絵が観られます。特に「探幽」絵の「水飲みの虎」は、有名です。何故か「三尊石」を象った石群があちこちの庭に見られます。明日は塔頭に参ります
2015.07.20
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朝から 近くの公園まで散歩してきました クマゼミの鳴き声を聞きました四季は早く過ぎようとしています朝からの続きです 平安神宮の社殿の裏に素晴らしい庭園が拡がります【小川治兵衛】明治の造園家で、【白虎池】から【蒼龍池】ここでは、有名な【三条大橋の石の橋桁】が池の中をよぎることが出来ます。 蒼龍池龍の蛇腹石白虎池白虎池 【栖鳳池】(すほういけ)には【橋殿】が架かり、中央屋根に【鳳凰】が模っており池に写す姿は素晴しいです。四季折々に咲く花を愛でることが出来ます。 【橋殿】鳳凰がかざられています 栖鳳池の水面 結婚式場の建物が見えます。「栖鳳池」の側に、神宮の結婚式場があり、和服姿の新婦の姿をよく見られます。あの有名な「石川さゆり」も此処で挙式されました。こうした、優雅な場所で皆様に祝福されて、幸せで満ち溢れることでしょう。桜・かきつばた・紅葉何れの時期も心和みます。 時代祭りは、毎年10月22日に京都三大祭りとして行なわれます。794年延暦13年10月22日は、「平安京」の誕生日でもあります。明日は 南禅寺に参ります
2015.07.19
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今年 オバマ大統領夫人も 清水寺と此処を訪問されました京都の都を定められた桓武天皇と終わりの孝明天皇をお祭りした平安神宮は意外と新しく、明治の文化黎明の、遷都1100年記念で建てられました。筑後120年程度です。そして、平安神宮の拝殿で拝まれてそのまま帰ってしまう方が殆どです。その側に素晴らしい庭園の存在をご存じなくて惜しまれます。 【平安神宮】 祭神 桓武天皇(京の都を制定された天皇)・ 孝明天皇(京の都の最後の天皇)【平安遷都1,100年を記念】として建てられました。 朱塗りの大鳥居が京都市美術館の前に立ち、小学生6人が手を繋いで繋がるほどです。 大鳥居 正面に【応天門】がカラフルな姿で建っています。中国の「長安」に模して造られた物のようです。 応天門 中に入りますと、正面に【大極殿】向かって右に【左近の桜】楼閣として【蒼龍楼】が向かって左に【右近の橘】楼閣として【白虎楼】がこれまた、カラフルに建てられています。紫宸殿を模した本殿左近の桜右近の橘白虎楼門を潜ったところに「手水」が有りますが、「手水鉢」にも同じく「蒼龍」「白虎」の姿が彫られています。四神相応として東・西・南・北は、青・白・赤・黒となり、夫々「蒼龍」「白虎」「朱雀」「玄武」からの配置と思われます。白砂を踏みつつ拝殿まで実に優雅で明るく広々として、雄大な気持ちに成れます。外国人の観光客もとても多いです。 社殿で礼拝した後、案外其のままでお帰りになる方が多いです。社殿の裏にとても素晴しい池を伴う大きな庭園が三部に分かれて、待って居ます。穴場的存在です。 拝殿の西側に【庭園入り口】があります。 入口から入ったところに、【チンチン電車2号】が置かれていました。琵琶湖疏水で日本で初の発電所が開発され、此処岡崎公園では万国博覧会が催しされ、電車が走りました。 日本初のチンチン電車前振れと言って、電車の前には車夫が「あぶない・あぶない電車が通る」手を振って走ったそうで、警告の「チンチン」は電車からでのどかでした【小川治兵衛】明治の造園家で、【白虎池】から【蒼龍池】ここでは、有名な【三条大橋の石の橋桁】が池の中をよぎることが出来ます。 続きが有ります
2015.07.19
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【青蓮院】 (しょうれんいん) 天台宗 開基 最澄 山号 なし天台宗五門跡寺の一つとして、【粟田御所】とも云われる、格式の高い寺院です。玉座「天明の大火」で御所も焼失した時に、「後桜町天皇」は此処を「仮御所」とされ、その玉座の間も残されています。 樹齢八百年目楠一昨年親鸞聖人八百回年忌が行われました。門前には樹齢800年の楠が、迎えてくれます。5本の筋塀を見ながら800年前とは、平清盛の時代とあわせ考えられます。 親鸞上人童形像 (9歳) 歌碑 「明日有りと 思う心の仇桜 夜半(よわ)に 嵐の 吹かぬものかわ」たまたま父上3歳時、母上5歳時に亡くし世の無情を感じられ、出家を覚悟されたとき、司式の和尚さんに「明日得度式をしょうか」と問われた時に、「本日お願いします」といって歌詞を手渡されたとか。美しく咲き誇る桜の花でも、明日のことは判らないとして、僅か9歳で得度式を決意されたようです。 宸殿前の左近(さこん)の梅・右近(うこん)の橘 100代後小松天皇後は左近の桜本堂の西部屋には、「浜松の襖絵」が、東部屋には、【青不動三尊】【国宝模写】の掛け軸が、掛けてありました。【日本三不動】園城寺(おんじょうじ)(滋賀・三井寺)黄不動・高野山明王院の赤不動が有ります。黄は、人間の皮膚の色、赤は動脈そして、青は静脈、を表わすとか。 「一文字の手水鉢」更に廊下伝いに、【一文字手水鉢】一の字が長く彫られた手水鉢が、目立ちました。そして 庭園昨年の紅葉です真っ赤なもみじに出逢いました明日は アメリカオバマ大統領のご婦人が訪れられた平安神宮に参ります
2015.07.18
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朝の続きです函谷鉾(かんこぼこ)放下鉾放下鉾(ほうかぼこ)日・月・星のみっつの光が下界を照らすイメージ船鉾 船鉾「日本書紀」神功皇后の新羅出船を題材。船鉾最終の引き手四条大通りを鉾の隊列が続きます。 夏祭りは、人の心を勇気づけてくれます。厄払いがこうして皆さんの力で吹き飛んでいきそうです。各地の夏祭りも盛んにおこなわれます
2015.07.17
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本日は祇園祭のクライマックスの山鉾巡業です。一昨年、ブログに祭りの雰囲気を知ってもらうため、京都人として初めて現場で鑑賞することができました。今年は生憎 台風11号の影響で 巡行が危ぶまれましたが 現在風雨の中予定通り行われています 9時から長刀鉾を先頭に、今年も一番山を籤でひいた 郭巨山(かくきょ)がそし三番手に蟷螂山(かまきり)が続きました。 写真を群がる歩道からで、とても難しく移動をしながら、辛うじて撮ってきました。八坂神社お旅所のちまき午前9時巡行開始長刀鉾お稚児さん和服は家族の方長刀鉾に皆さん注目青空に長刀が刃は、御所の方向を避けて回します。今年も一番籤の【郭巨山】貧困のあまり、母と子を養うことが出来ない、思いあまってわが子を山に埋めようとしたところ、黄金の斧を掘り当てる。人形が台座に。中国の二十四孝のひとつ蟷螂山屋根のかまきりが動きますとてもユーモラスな風景です。保昌山 木賊山(とくさ)伯芽山(はくが)外人さんも鑑賞後に続きが有ります
2015.07.17
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リハビリで前に入院中も同じく施設でも両足の裏を揉んでくださいますもったいないと感謝しましたら足の裏は第二の脳といわれ とても健康回復に大切な場所と教わりましたイチロー選手も幼少のころより続けていると Googleに書かれていました 日本一大きい三門 一度は観られると良い豪華な【三門】は日本一大きいとされています。その上層部には、建築の責任者寺社奉行【五味金右衛門夫婦】の【白木の棺】と像が置かれています。予算超過でその責めを採り自刃。三門は、徳川二代将軍秀忠公によって建てられ、楼上には、お釈迦さんが、祀られて居ます。お釈迦さんは両手の指を伸ばしておられます。(仏像の観方) 三門から御影堂まで、急な石段【男坂】となだらかな【女坂】があります。七不思議のひとつ【瓜生石】 二条城に通ずるミステリ地下道の出入り口される【瓜生石】この石の上に祇園の牛頭(ごず)天皇が降り大石から瓜が実った。 以上を【知恩院の七不思議】とされています。知恩院は、徳川のお城でも有ったようです。 御殿の東北には、東照宮があり、家康・秀忠を祀って居ます。庭薗も観られます。 知恩院境内の最も聖なる地法然上人御廟所石段を登りつめた場所 御影堂の東に急な石段を登り詰めますと、【勢至堂】(せいし)即ち法然上人のご幼名でありそして、【御廟】が有ります。その勢至堂の裏側即ち北側に、NHK大河ドラマ天地人で話題となった、徳川家康の孫、豊臣秀頼に嫁がされた【千姫の墓】 があり、後に【東福門院】京都の市街が、美しく見渡せます。千姫の墓千姫も。父秀忠公と静かに京都を見守ってくれていましょう。 東照宮への庭園 御影堂の東側から勢至堂・御廟への石段登り口次回はそのお隣にある青蓮院に参ります
2015.07.16
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昨夜祇園祭宵宵山は24万人の人出でした台風は本日接近です 法然上人が説かれた、 【浄土宗総本山】 です。 弟子の親鸞上人も同じく【浄土真宗】として、本願寺があります。全国から法要のため多くの信者さんたちが、お参りにこられます。 鐘楼-【知恩院の除夜の鐘】大晦日と言いますと、テレビでも表題のシーンが放映される事が多いですね。108つの煩悩を振り払う、僧侶十数人掛かりで、撞かれます。【重さ70トン】 御影堂(みえいどう)大瓦の頂上の真ん中に瓦が三枚ほどくくられてあります 何故?建物は未完成のままで永久に人も控えめにとの僧侶のお話しでした。 【知恩院】 (ちおいん)は、浄土宗の総本山とされ、法然上人が開祖で、一般大衆でも難しいお経を唱えなくっても、ただ 【南無阿弥陀仏】 と唱えるだけで阿弥陀さまの世界【西国極楽浄土】 に召されるということで、日本全国信者さんが大勢信仰を持って居られます。 御影堂(みえいどう)は法然上人が祀られ、大きい建物です。何でも、 【左甚五郎】 の作と言われています。 過日、疑問にずっと感じていましたが、信仰の対象と成るはずの【阿弥陀堂】が西側に小さくって、聖人とはいえ【御影堂】がとても大きいことに、和尚さんの説明では、阿弥陀堂は【礼拝堂】であり御影堂は、【説法堂】として広く多くの人達が法話を聞くお堂と。やっと納得できました。 長い竹の棒で位置を説明します。 有名な 【忘れ傘】 が正面向かって右側の軒下に見上げるとひなびて居ますが、見られます。実は忘れたのでなく、木製の建物として、最も恐ろしいのは、【火災】です。それに対応して、水に関係する【傘】を置いたのでしょうね。 屋根の頂上の中央に【瓦三枚】が縛られて置かれています。和尚さんのお話では、作者は半永久的に残したい意味で、「この建物はまだ未完成ですよ」の意図と考えられます。人間も慢心しないで未だまだ足らない事が多々あります謙虚さを説かれていました。寺社では、隠れた為になる教訓が気付かない所に有るようですね。 西側に阿弥陀如来の祀る阿弥陀堂があります。 更に奥に行きますと、廊下が【鴬張り】になっています。そして更に進みますと、大柄杓(ひしゃく)が手の届かない、梁(はり)に掛けられ、【シャクに触るな】につながります。又、柄杓は、多くの人を救いとるの意。 あまり上手に画けて、【抜け雀】【三方正面真向の猫】観る者が位置を変えても、親子の猫の目がこちらを見ている。字数制限のため後に続きます
2015.07.16
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朝の続きです祇園祭宵宵宵山 7万2千人の賑わい 【茶席・東洋坊】茶室の西側に有名な「建仁寺垣」が観られます。法堂天井に双龍が描かれ云います 天井・双龍絵ほかの寺院では めったと写せない天井龍です。【法堂】(はつとう) 釈迦如来と脇侍に迦葉(かしょう)・阿難(あなん)尊者が祀られ、天井に平成14年画かれた【双龍】小泉淳作筆が観られます。(あうん)の口をした2匹の龍が描かれ、阿形の手には玉を掴んでいます。禅寺では、龍を飾っていますが、龍は仏法守護として、また水の神として、雲を呼び、仏法の教えの慈法雨を降らせるとしています。【風神・雷神図】【国宝】(俵屋宗達絵)は、江戸時代。見事で有名です。現物は、京都博物館に保存。 十六羅漢像【陶製一六羅漢像】明治から大正にかけて作成 龍の襖絵【雲龍図】海北友松(かいほうゆうしょう)襖絵春日局の父君の友人 橋本関雪の襖絵 昭和15年大修理で60面描かれました。 祇園花見小路歌舞練場の側に、建仁寺が広い伽藍で、静寂の境内に臨みます。【両足院】【半夏生】塔頭のひとつで6月特別公開されます・建仁寺・塔頭【両足院】半夏生京都観光寺院として、堂内は全て、写真撮影禁止とされていますが、驚きと感動を覚えました【建仁寺】は全て写真撮影可ということでした。皆様にご紹介出来て嬉しいです。次回は 浄土宗総本山知恩院 八坂神社の隣にあります
2015.07.15
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八坂神社の境内を出ますと、【祇園】の街です。舞妓さんの踊る、祇園歌舞練場に隣接して、雰囲気は、一転して清楚に掃除の行き届いた、禅寺 臨済宗【建仁寺】に至ります。足利義満の決めた 京都五山の第三位に格付けされています。国宝・風神・雷神と天井の龍が有名で、そして庭園が美しいです。風神・雷神は観音さんに仕える二十八部衆の両側に位置して祀られることが多いです。 高台寺の本山でもあります風神・雷神図 国宝の模写 【建仁寺】 臨済宗建仁寺派大本山 開山 明庵栄西 開基 源頼家 山号 東山 京都最古の禅寺で、鎌倉時代建仁2年(1202) 二代将軍源頼家(よりいえ)の庇護のもとに建立。年号を採って【建仁寺】とされました。朝廷政治から、武家政治に変わったころでもあります。 栄西(ようさい)禅師は、中国より、お茶の種を持ち帰り、高山寺で初めて栽培、喫茶の茶祖です。【建仁寺の学問面】(がくもんづら)秀でた禅僧排出されたことから。 禅問答の掛け軸○ △ □ の字は 江戸中期に書かれたそうです。 唐子の襖絵中国では安産を願って描いたとされます。兎の襖絵 風神・雷神の襖絵 【方丈】「大雄苑」の名の枯山水庭園が広がります。花頭窓(かとうまど)からの方丈庭園 本尊は、十一面観音菩薩 【徳川秀忠・江】の娘 和子姫(まさこ) 後水尾天皇の中宮。【東福門院】寄贈三尊石の庭園【潮音庭】四方正面の三尊石 四季折々に苔も美しい。 字数制限で後に続きます
2015.07.15
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朝に続きます三十三間堂から東山街道は知恩院に至るまで平家物語から維新の時代までその遺跡を残しています【平清盛の出生悲話】 平家物語 【祇園女御の巻】NHK大河ドラマ【平清盛】完了しました。。その主人公の出生秘話が、此処京都八坂神社の境内にありますが、殆どの人がその存在と縁起を知らないままに燈籠が建っています。平忠盛は、一介の北面武士でしたが、冷静に思慮の深さで社僧の命を落とさずに救った手柄が、歴史を変えました。 平忠盛燈篭 位置が判り易い様に本殿の側燈篭の裏側から写して見ました。殆どの人は、関心なく、素通りされています。 【忠盛燈籠】 (ただもりとうろう) 八坂神社境内に、面白い伝説がありますので、ご紹介してみます。本殿の東の方に、「円山公園」から八坂神社の境内に入った場所に建っています。【白河法皇】が【平忠盛】を伴って【祇園女御】 (ぎおんにょうご)を尋ねて、祇園社に来られたときに、雨の中怪しげな光を伴う妖怪を目の当たりにされました。「白河法皇」は「忠盛」に命じて、「射止めよ」と次の忠盛の仕草が、歴史を作りました。生け捕りにして、正体を確かめたのです。やはり正体は、祇園の社僧が、燈籠に火を灯すために、蓑笠からもローソクの火で光っていました。沈着冷静な、忠盛により、尊い命は救われました。よってこの地に、忠盛を讃えて、八坂神社の境内に飾られています。お話に続きが有ります。白河法皇は、即命令に応じず、叱るべきところ、社僧を誤ってあやめる事がなくってすみ、その功を讃え、褒美をとらせようとして、既に、法皇により、腹ぐんだ祇園女御の子が男子であれば授けようと結果男の子でした。それが何と 【平清盛】 として、平家棟梁に成りました。祇園女御の妹の子との説もあります。今回のドラマでは、清盛の生母は、「もののけ」がついて呪われているとして、白河法皇と忠盛の面前で、お付きの者数人で槍に突かれて亡くなる悲惨な場面から始まり、心痛めます。権力者は、強がりのようで、妖怪変化、もののけには、弱かったようですね。清盛は、優しい生母には恵まれて居なかったようです。そして血を分けた父は忠盛では無かったようです。「祇園精舎の鐘の音 奢れる平家久しからず」何か因果がありそうです。【白河法皇】 は権力者で、この世で適わないものは、ひとつとして無い。その有名な言葉が京に残っています。白河法皇でも、思うようにならなかったもの。鴨川の水双六の賽の目比叡の山法師でした。それほど恐れられた権威者のようでした。そして権力者ほど、物の怪などに恐れをなし終始臆病で懐疑心が高まり、心の休まることが無かったのでしょう。白河天皇御陵は、京都南インターを降りて、城南宮の南当時、鳥羽離宮を建てられていた跡地に鳥羽天皇と隣接して眠って居られます。何時の世も権力者の横暴は、目に余るものを覚えます。次回は【建仁寺】に参ります
2015.07.14
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八坂神社円山公園の側に、八坂神社があります。 祇園にある八坂神社は、祇園祭で有名です。祭神は素戔鳴男尊 (スサノオノミコト)祇園の中心にある八坂神社疫神社 祭神 蘇民将来命(そみんしょうらいのみこと)門を潜った位置にあります。祇園祭の際、撒かれる「粽(ちまき)」に蘇民将来の護符が付いています。 【立札の説明】むかし、祖神(おやがみ)が諸国を巡って、日の暮れに宿を請うたところ巨旦将来(こたんしょうらい)は、富み栄えていたのに貸さず、蘇民将来は貧しかったけれど、粟穀で座をしいて、粟の粥で手厚くもてなしたので「われはハヤスサノヲの神なり」といい、後年疫病が流行しても茅の輪をつけて 「蘇民将来の子孫なり」 とえば災厄から免れると約束され、巨旦将来の子孫は皆堪えてしまいましたが蘇民将来の子孫は、今に栄えています。 本殿 字数制限で後に続きます
2015.07.14
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京都も35度 織田信長も知っている1000年の祇園祭引き初め式がありました 飾りの絵画の絨毯を観るだけでも動く美術館と言われています 京都の豪商たちが備蓄したという事です天明の大火で失った船鉾も菊水鉾も再現に足りましたねねさんも やっと落ち着かれました【円徳院】が有ります。襖絵は、長谷川等伯作とも云われています、小さな庭園が楽しめます。院内に「三面大黒天」という珍しい像が祀られて居ます。ねねさんも時折寝泊まりされたとか。円徳院庭園 高台から京都の街が見おろせます。霊山は「りょうぜん」と読んでいます。 ねねの道素人・舞妓姿に変身して楽しむ方も多いです。 石塀小路 大雲院・祇園閣 大雲院は、浄土宗で、本能寺の変でなくなった織田信長・長男信忠の天皇勅命による菩提寺で、墓地には、碑が立っています。そして盗賊「石川五右衛門」の墓があり、墓石があちこちあやかりたいとして欠けているそうです。因みに戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」 贈り名に 10字と多いこと 寺格の院を配するなど、従来高位の人、社会に著しく貢献した人に、贈られるもので、正に当時の義賊と賞賛されたことが伺えます。非公開寺院ですが、予め申し込まれると拝観可能のようです。円山公園、音楽堂の前に佇んでいます。 円山公園円山公園の再び坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像明日は、八坂神社から建仁寺へ参ります。
2015.07.13
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本日は、清水寺から三年坂維新の道ねねの道そして円山公園までの散策についてご紹介してみます。京都らしい風情の味わえる散策道でもあります。 法観寺【八坂の塔】五重塔 三年坂写真の手前を左に曲がったところから二年坂・一年坂 【台所坂】の長い石段を降りますと、 「ねねの道」に至ります。降りたところに、 【霊山観音像】 「高台寺」の南隣接して、大きい観音像がコンクリートで戦後造られました。 霊山観音 維新の道 維新の道「ねねの道」の南端から、東に掛けて「維新の道」が急な坂道として登りますと、 京都霊山護国神社北側に【京都霊山護国神社】があります。戦争で戦士された英霊が祀られて居ます。観音像は、更に目だって大きく、航空機でも存在が判るほどです。幕末の頃に「招魂社」として建てられ、維新の頃の亡くなった550柱の墓があり、 坂本龍馬・中岡慎太郎の墓特に「坂本龍馬・中岡慎太郎そして、木戸孝允」の墓は、有名です。 龍馬たちは京都の都を見守っているようです
2015.07.13
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【霊屋】 (たまや)の政所は、寛永元年(1624年)9月6日77歳で逝去。此処に眠っておられます。「おたまや」と愛称されるほどに、【蒔絵】(まきえ)が豪華で、「五七の桐」紋を交え、特に夫、秀吉が好んだ「朝露」を、「秋のすすきの葉に露の玉」を採り入れた「ねねさん」の気持ちが痛々しく伝わるようでした。 「花筏」「浄土の様楽器」の蒔絵には、ねねさんの思い遣り、希望の念じ方が伝わるようでした。霊屋の内陣に、秀吉・ねね夫人の坐像が飾られていました。 ねねさんの御廟【霊屋】 「大坂城の落城」で燃え盛る火炎を、どのような悲しみで、眺められた事でしょうか。更に高台に、【傘定】と【時雨亭】が昔のままに残されています。中には自由に入れます。 傘亭時雨亭【方丈】は、最近立派に建てられ、【書院】では「おうす茶」も楽しめます方丈庭園観月台から南東の山を眺めますと、【阿弥陀が峰】が見上げるように見えます。ねねさんはひとりどうにもわがままを通した秀吉の菩提を弔っていたのでしょう。 高台寺の石段を降りますと、市民から誰が名付けたか「ねねの道」があります。見下ろすと 【八坂の五重塔】 が見えます。 法観寺の八坂の塔 大雲院の祇園閣石川五右衛門の墓明日は維新の道 ねねの道を尋ねて円山公園に参ります
2015.07.12
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瑞泉寺の悲劇に比べ此処高台寺では、ねねさんに人気か゜あって尋ねる人が絶えません。 我が儘な夫を最後まで、ねねさんは支えてきました。 高台寺庫裏の入口 【高台寺】 臨済宗建仁寺派 開基 弓箴(きゅうしん) 山号 鷲峰山 豊臣秀吉の夫人「北の政所ねね」が秀吉没後9年後に建てたお寺で、後陽成天皇より下賜された「高台院」にちなんで名付けられました。秀吉並びに生母・養父母そして木下家の菩提を弔うべく建てられたようです。徳川家康もねねさんには敬意を表し、普請に要する費用も援助したとか。伏見城に有った【薬医門】【傘亭】【時雨亭】なども移築されて残っています 三門薬医門の「蟇又」には、「見返り狐」と「うさぎ」が飾られています。庫裏横の受付より庭園に入っていきますと三門【薬医門】蟇股の中に兎裏には狐 【臥龍池】(がりゅういけ)が「蓬莱形式庭園」として広がります。鶴島・亀島はおおきいです。 鶴島・亀島の庭園池を巡りながら【楼船廊】(ろうせんろう)の最中に屋根を一段高く「四方唐波風」で【観月台】が目立ちます。東山からの出る月の眺めは、侘びを感じます。 観月台【開山堂】北の政所の兄「木下家定夫妻」も祀られて居ます。格天井がみものです。 開山堂【臥龍廊】 「開山堂」から「霊屋」への渡り廊下です。龍の様に曲げられています。 臥龍廊
2015.07.12
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朝の続きです来年の大河ドラマは 真田幸村と決まりました歴史の一齣 どのように 秀吉像をえがくことでしょう 秀次公四十九の供養等四十九の供養等秀次の墓と四十九の供養塔 墓標 鐘の棒の漣のような響きは、悲しみを訴えているようでした。安らかに憩われるようにお祈りしました。 首塚の前に「南無阿弥陀仏」と記された鐘棒五個が鳴らすと、共鳴してカランコロンといとも悲しい音色が境内を奏でていました。 殉職した四十九柱絵図 秀次の首塚三條河原の刑場で四十九柱の遺体を地中に埋め,その上に高野山からの秀次の首を西向きに晒し、三條大橋を渡る人々に晒したという、寺伝が残されています。昨日の侵略による野蛮的「耳塚」と共に、一番に訴えたかった京の街の繁華街に近い,「酢屋」と【瑞泉寺】へ写真を撮りにいきました。殆ど人は、存在をご存知有りません。でも歴史で悲しい出来事は、太閤の栄華の蔭で歴然と残されていました。秀次の無念さを考え、四十九の御霊の菩提を祈ってまいりました。難を逃れた武将たちは、のちに関ヶ原の戦には、徳川方に就いたとも言われています。 布団着て寝たる姿や東山 服部 嵐雪七条大橋からの東山右がわ一段と高い山が阿弥陀が峰【頭の形】真ん中清水山【お腹を突き出したような形】左側の低い山は高台山【足元】明日はねねさんの高台寺へ、旦那が高いところなら私は地中深く低いところで、旦那をそっと見守りたいと
2015.07.11
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豊臣家の短命と徳川家の長期維持は、身内子孫を邪魔だから排除したか、多く育んだかの形で歴史は変遷して行ったと思います。京都の佳いところばかりでなく、時には歴史上の弱者の悲哀を偲ぶことも、知っておくことが大切とも考えました。 【瑞泉寺】 (ずいせんじ) 山号 慈舟山 浄土宗禅林寺派 前関白豊臣秀次公御一族四十九宝塔菩提寺坂本龍馬の京都木屋町の寓居跡 坂本龍馬寓居の址【酢屋】(すや)と高瀬川を境にほんのそば三條通木屋町下がった位置に、人知れず菩提寺が有りました。太閤秀吉の姉「とも」の子、従弟にあたる 【秀次】 当初近江八幡43石の大名でしたが、秀吉の嫡男鶴松の幼くして死去に実子が恵まれず、秀次を養子に受け入れ後継者として、聚楽第まで建てて、関白の位まで授かってもらった処淀君との間にやや 【秀頼】 が産まれるや否や、難癖をつけて関白職を奪うばかりでなく、高野山に追放の上自刃に追い込まれました。聚楽第も焼失させるほどに、それだけでは気が済まず、何の罪も無い秀次に仕えた側室・侍女及びその若君4名・姫君1名も三條河原で斬首。その場に、切腹した秀次の首まで晒したという醜業は目にあるものを覚えます。天下人の用心は、肉親をも信頼出来ないで、世にも恐ろしい地獄絵を見せ付けました。後に高瀬川を開削した 【角倉了以】 が、刑場の址地とされる此処に菩提寺を建てたとあります。 記この堂の中央に安置された地蔵菩薩は、秀次公一族の処刑の際、刑場の一隅にその木像を運び込み、次々と打たれる子女達に引導を授けたと伝わる尊像です。 極楽浄土へ死者を導く 【引導地蔵尊】 として京洛の人々に今日なお崇敬されています。 寺伝では「定朝作」字数制限で2回に 分けました
2015.07.11
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朝の続きですアメリカのトラベル誌に 観光都市世界一にランキングが2年連続京都市と発表されました とても光栄です此処三十三間堂の界隈は歴史の足跡が偲ばれます 豊国神社(とよくにじんじゃ)伏見城から移築国宝唐門 豊国神社前 【豊国神社】 (とよくにじんじゃ) 太閤秀吉を祭神として祀られて居ます。徳川家康により焼き払われましたが、明治時代に再建され、拝殿は伏見城の遺構を持ってきています。徳川家康は秀吉なきあと支配し、豊臣秀頼に命じて財産を使わすため青銅の大仏さんを建てさせさせました。この大仏さんも寛永の大地震で倒壊、「寛永通宝」に化しました。落慶法要のときに、釣鐘の銘に家康は因縁を付けました。 方広寺の釣鐘 高校参考書に登用されました白塗りの部分に「国家安康・君臣豊楽」の銘が書かれています。 【方広寺】 釣鐘に有名な「国家安康・君臣豊楽」 の銘があり、徳川家康の曲解で「大阪城冬・夏の陣」と豊臣家は滅びてしまいました。 家康の名を安の字で分断・豊臣が栄えるの意。 方広寺の岩だけ当時のまま残っています。 耳塚供養塔 【耳塚】 「豊国神社」の前の道の側にあり、秀吉が韓国に野望を広げて攻め入り、韓国の罪無きひとびとの耳や鼻を船で日本に持ち帰り、その数で論功功賞を図った惨い仕打ちに、目を覆いたくなるのですが、その被害の霊に対して「供養塔」が建てられています。「瑞泉寺」での、豊臣秀次一党身内でも痕跡無くなるまでの自己防衛の仕打ちと重ね、歴史上真意は如何に。一方神にまで奉じられている現実、太閤贔屓の方も多いでしょうが、その蔭も京都には遺されて居ます。人間の神格化。野望に残忍な犠牲そして、釣鐘によっての大阪城の滅び。因果報応が、この一画に集められた異様な場所でもあります。文責もあり 京都市の立札を追記しました。明日は、その悲劇【瑞泉寺】(ずいせんじ)をご紹介します
2015.07.10
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昔から法住寺という広大なお寺が有りました元は天台宗のお寺の境内が、後白河上皇の院政に移り鎌倉幕府で武家政治と変わり、その後時代は変わり豊臣・徳川の支配下になりました。 秀吉が三十三間堂にも関わっていたことは、「通し矢の禁止令」の古文書で明らかで、方広寺には、権威誇張のため、奈良の大仏さんより大きいものを建てましたが地震で壊れました。再建しても火災にも会って今は存在しません。 京の童歌 「京の、京の大仏つぁんは天火で焼けてなあ。三十三間堂は焼け残った。ありゃどんどんどん、こりゃどんどんどん。うしろの正面にどなた。お猿きゃっ、きゃっ、きゃっ。」 そして秀吉の死後近くの阿弥陀が峰の高き場所に遺言で葬られました。 あの天下人でありながら、辛うじて、墓はあっても、秀吉独自の菩提寺がないことに、気付きます。 三十三間堂から「東山三十六峰」を眺めやりますと、頭を南に大きいお腹をつきだして、脚を伸ばす姿が、正に人が寝ている姿にも見えます。 「布団着て寝たる姿や東山」 服部嵐雪布団着て寝たる姿や東山右方が頭で左が伸ばした足にみえます 豊国廟の500段石段下正面この阿弥陀が峰頂上に豊臣秀吉が眠っているはず 頭が豊国廟のある太閤秀吉の墓で、「吾が屍を都の見下せる場所に葬れ」と言うことで「阿弥陀が峰」の頂上に置かれています。石段500余段有り、脚がわらってしまうほどです。石垣に包まれた五輪塔の石碑があるのみでした。 ねね夫人は、脚元の「高台寺峰」に、「旦那が高い所ならば、わたしは地中深く掘り下げたところに」と謙虚に高台寺に眠っています。お腹は、「清水峰」で、東山区では、代表的な【清水寺】が有ります。 豊国廟 京都市立札豊国廟豊臣秀吉のの廟所である。 慶長三年(1598)八月十八日秀吉は齢六十三歳を以って伏見城にて葬じた。遺体は遺命により阿弥陀ヶ峰中腹に葬れ、墳上には詞病、山麓には社殿が建立された。翌年四月十八日遷宮が行われ、後陽成天皇から 正一位豊国大明神の 神階と神号を賜り以後毎年盛大な祭礼(奉告祭)がとりおこなわれた。しかし、元和元年(1615)豊臣氏の滅亡と共に、廟は破壊され、墳墓に弔する人もなく、空しく風雨にさらされいた。明治三十年(1897)秀吉三百年忌に際し、廟宇が再建され、墳上には 巨大な五輪塔が建てられた。なお、社殿は 明治十三年(1880)旧方広寺大仏殿の地に豊国神社として再建されている。 京都市 京都市の公認の立札です 秀吉の逝去後 徳川家康は豊臣の領地内の全ての建物を方広寺を残して壊してしまいましたそのため 秀吉の墓も金銀宝物ありと 野党にあらされ破壊されたとあります百姓あがりと侮るであろうと次々に力になる側近を殺めてしまいました天下人と称する秀吉の墓は山上に建てても 無きに等しくなりました明治になって 出世頭として 神にまでなり現在豊国神社が祀られています 字数制限で次に続きます
2015.07.10
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朝の続きです豊臣秀吉は、一旦、その広大な法住寺の跡地を我がものとしましたが後に徳川家康によって採り上げられてしまいました。栄枯盛衰の歴史が感じられます。養源院門 【養源院】 浅井長政と徳川の菩提寺当初、淀君が秀吉に頼んで、父の菩提のため建てられました。秀吉亡きあと、豊臣に関係ある建物は壊されましたが、妹【江】(ごう)の願いで、長政の菩提寺は残され、徳川の菩提寺ともなりました。伏見城の【血天井】としても忠臣鳥居氏たちの供養もされています。参道徳川の三つ葉葵参道の現在の紅葉三十三間堂外側からこの向かいに養源院があります。修学旅行生がタクシーでそして外人の方も多く見かけます。殆どの方は、日本一細長いお堂の中を1001体の観音像に驚きそのまま退散される方が多いですが、往時火災で持ち出されたのは、観音さんの前に並んだ鎌倉時代の国宝二十八部衆と風神・雷神に観賞されるゆとりも無いようです。タクシー利用の修学旅行生時代は代わり、桃山時代には豊臣秀吉がこの周辺を広く確保し方広寺では高さ19mの木造大仏(奈良の大仏14.9m)を建てたとされています。秀吉死後、墓地を背後の阿弥陀が峰に葬り徳川家康によって、秀吉の所縁のものは、ねねさんの願いで太閤塀と南大門だけが、現代遺されています。南大門と築地塀 瓦に五七の桐紋歴史の流れを推し量りながら、明日から順次寺社の説明にはいりたいです。後白河上皇も、平清盛も、権力を持たれて三っつの事ができないと言われた(加茂川の水・賽の目・比叡の僧兵)72代白河天皇に縁があり、後白河天皇は、鳥羽天皇と待賢門院さんとの子で、平清盛は、父平忠盛だが、祇園八坂神社境内にある忠盛灯篭のゆわれで、白河天皇のご褒美として、白河院の女房祇園女御(妹の説?)与えられた母とも言われています。あれだけ歴史上の有名人物でも仔細が判然としていません。いずれにしても両者気性は激しかったようです。 平忠盛は、一介の北面武士でしたが、冷静に思慮の深さで社僧の命を落とさずに救った手柄が、歴史を変えました。 平忠盛燈篭 八坂神社の社殿の側明日は歴史上名高い方広寺に参ります。
2015.07.09
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三十三間堂は、仏像の設置の常識が解る、仏像鑑賞に役立つお寺でした。右 本尊 左(上位)雷神・帝釈天(太陽)・吽形仁王 風神・梵天(宇宙)・阿形仁王 NHK大河ドラマ平清盛がありましたが、後白河上皇の壮大な離宮【法住寺殿】の一角に上皇は勅命により清盛に三十三間堂を1164年創建したと伝えられています。柳と三十三間堂法住寺殿跡地三十三間堂外の向いに位置し、そのお隣に75代後白河天皇の御陵そして、養源院が並んでありました。恐らくどなとも知られずひっそりとしていました。 後白河天皇陵続きます
2015.07.09
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朝の続きです 三十三間堂の仏像は 観音菩薩のご主人阿弥陀如来さんが祀られず 1001体の観音立像も 重要文化財に過ぎません後白河上皇が平清盛に命じて1001体の数の多さで建てさせました仏さんも数の多さで 効き目が有ると思ったのでしょうかお堂の中央の 観音菩薩坐像と 立像前に飾られた風神・雷神そして観音さんのお供衆 28部衆が 玉眼も水晶で国宝に指定されています皆様、急がれるため殆ど見ておられません。 仏師「西村公朝和尚」さんの二十八部衆の面白い観方を一部披露します。 【神母天王像】は【鬼子母神】 (きしもじん)関東では信仰が厚いそうです。シンバルを両手で鳴らし、その音を目を真中に細め、静かに聴こうとしている彫刻。 我が子が500人も有りながら、他人の赤ちゃんを見ると全て食べてしまう鬼女でした。お釈迦さんが堪らず、彼女の子1人を隠されましたところ、彼女は気が狂ったように泣き叫び探したそうです。其処でお釈迦さんは「500人の内一人でも亡くした母親の悲しさ、喰われた他人の母親の嘆きや如何ばかりか」と諭されました。心を180度改め,幼児を護る安産の福の神に成りました。【阿修羅王像】 (あしゅら)喧嘩・闘争を好み、梵天・帝釈天とも闘いました。これも、お釈迦さんに諭され仏の味方と成りました。眉間にも目がある三つの顔を持ち合わせています。奈良・興福寺の【阿修羅像】は、東京でも大人気となりました。私個人としても、仏像で最も愛好しています。【迦楼羅王像】 (かるら)コブラ(蛇)を常食の巨鳥。鳥頭人身の形を採り、横笛を吹き、右足先で リズム・調子を採るユーモアな像に観られます。インドの神さまです。【帝釈天王像】 (たいしゃくてん)右手に太陽をあしらった鏡を持っています。【摩喉羅王像】 (まごら)眼が眉間も合わせ5個もありますよ。 こうして観ていきますと「仏像」にも興味が沸いて来るのではないでしょうか。二十八部衆は皆国宝でゆっくり観察してみたいです。【十一面千手千眼観音菩薩】 (じゅういちめん・せんじゅ・せんげん・かんのんぼさつ)形として両方に20の手しか有りませんが、一つの手に25の法力を持たれ40×25で1000とされ、実際千の手に近いのは、奈良・唐招提寺の観音菩薩。大阪葛井寺(ふじいでら)そして京都府京田辺の宝壽寺です。正面 次回は、三十三間堂の周辺のご案内をしてみます。
2015.07.08
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修学旅行には、欠かせない観光地のようです。でも時間を急ぐのか小走りに廊下を駆け巡るだけでどれだけの印象に残るものか惜しまれます。観音さん千一体の多さに驚きますがその前列の国宝の二十八部衆像に目を留めてほしいです。1体とは始まりを意味します。それにしても、仏様一体でもご利益は届くと思いますが、後白河上皇は、数の多さで臨まれたようです。世界文化遺産並みお堂と考えられます。 【蓮華王院】 【三十三間堂】 天台宗 開基 後白河上皇 山号 なし外人観光客・修学旅行には、人気の高い寺院です。明治の煉瓦風の建物「京都博物館」の南向いに有ります。受付を入りますと、長方形に三十三の間の扉で仕切られた、日本一長い建物に驚きます。観音さまは、人の願いに応じて、三十三身に変化される数に合わせているようです。更に堂内に入りますと、これまた観音さんの立ち姿の多いことに、感歎の声を発せられます。 何せ、真ん中に十一面千手千眼観音菩薩坐像【国宝】(仏師法印湛慶作)が蓮華坐に安置され其の両脇に五百体づつそして、その裏手に一体の十一面千手千眼観音菩薩立像が所狭しと整然と並んでいます。 そして観音菩薩の護身役として前列に二十八部衆と風神雷神【何れも国宝】が並んでいます。左右対称の場合は、本尊より左手が上位です。(私達より向かって右側)例えば。「雷神・風神」「仁王の阿・吽形像」「梵天(宇宙)・帝釈天(太陽)」この形式は、「清水寺」も観られましたし、外でも良く観られますので、参考にされるには、最も身近に大きいお姿で拝観出来ます。頭痛のお守り 何でも「後白河上皇」頭痛持ちだったそうで、今でいうストレスが激しかったのでしょうか。夢のお告げにより、紀州「熊野権現」の附近で、自分の頭蓋骨にすすきが生え、その穂が揺れる度に、ずきん・ずきん痛むと。そのことにより34回に及ぶ「熊野行幸」され参詣されると共に、「平清盛」に命じて、数の量の多い仏を祀り頭痛納めに努められたと言う伝説も有ります。お守りの中にも「頭痛封じ」が有るのは珍しいです。通し矢の場所 廊下を巡ると「通し矢」の歴代の名人の額が掛っています。現代でも伝統として、正月成人の日に、女性による「通し矢」の行事が行なわれています。何故?【お柳と棟木の由来】 「昔紀州の殿様が鷹狩りをしていました、すると大事な鷹が、柳の枝に絡みつき離れず、短気の殿様が家来に命じて、木を切ってしまえと、其の時弓の名人横曽根平太郎が名乗り出て、枝を払うことで無事、鷹が救われ、柳の精が喜んだ」後に弓の名人の許に「お柳」(おりゅう)と言う別世の美人が訪れ、お嫁にと二人の間に「緑丸」が産まれました。平和な家庭でしたが、ある時、お柳が悲しくも「私は実は貴方に助けられた柳の精です。京の都に狩り出されることに成りました」と実は此処三十三間堂の「棟木」に供出されることになったのです。でも誰の手でもびくとも動かなかった柳の木に、「緑丸」が優しくお母様と泣く泣く言って、手で優しく摩ると、動き出したと言います。廊下の壁に「三十三間堂と柳の棟木」と題して、掲示されています。字数の制限で後に続きます
2015.07.08
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仏像については、お寺さんで、殆どが撮影禁止で、許可なくしては撮れません。従って皆様方には、Google画像で検索していただくと観られますので、参考にして下さい。 東寺の講堂 正面 如来群 右 菩薩群 左 明王群【仏像の種類】 京都・奈良の観光も、景勝地・史跡を訪ねることも多くありますが、寺院が多く、従って【仏像の豆知識】は知って置かれると、観光の興味が倍加することでしょう。この知識は嵯峨野にある愛宕寺(おたぎじ)元住職仏師故西村公朝和尚の【祈りの造形】をずっと参照し教えて戴きましたとても優しく判りやすく説かれています仏像は、経典により考え出されたもので、釈尊入滅後200~300年後造りだされました。種類分けも、悟りの高い仏様から順次表現されています。判り易い様に、会社組織で表してみました。曼荼羅図 (まんだらず)が目で観てわかり易く描かれています。大日如来を中心にの周りの仏が悟りによって広がる図です。【如来】 (会長) 大日如来(真言密教の根本仏) 毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)奈良東大寺の大仏、唐招提寺の本尊 【如来】 (社長) 薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒(唐招提寺)阿しゅく(あしゅく)・宝生(ほうしょう)不空成就(ふくうじょうじゅ)(東寺密教) 【菩薩】 (専務・常務)日光・月光(がっこう) 文殊・普賢・観音・勢至 弥勒・虚空蔵・地蔵 金剛宝・金剛薩睡(こんごうさった)・金剛業・金剛宝(東寺密教)【六観音】 聖(しょう)観音・十一面・千手・准提(じゅんてい)・馬頭(ばとう) 如意輪(にょいりん) 天台宗以外 不空羂索(ふくうけんじゃく) 【明王】 (部長) 不動・愛染・孔雀・降三世(ごうさんぜ)・軍荼利(ぐんだり)大威徳(だいいとく)・金剛夜叉(こんごうやしゃ) 【天部】 (課長) 梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)金剛力士(仁王)・風神・雷神四天王(持国・増長・広目・多門)・十二神将・二十八部衆(観音を護る)吉祥天(毘沙門天と夫婦)・弁才天(梵天と夫婦)・聖天・鬼母神(きしもじん)技芸天(奈良秋篠寺)大黒天・韋駄天・毘沙門天・執金剛神(三月堂) 【羅漢】 (らかん)(係長)釈迦の十大弟子・十六羅漢・五百羅漢・維摩居士(ゆいまこじ)・無着・世親空也・聖徳太子・弘法大師・伝教大師・法然上人・親鸞上人・日蓮上人達磨大師・祖師・高僧 【一般の人間】 (平社員)【仏像のセット形式】 ゼスチアーで、【仏】を無言で表現するには、「右手」を上にかざし、「左手」は膝前に、手の平を開けた姿で、直ぐ解かりますね。奈良の大仏さんを想像して見て下さい。 【施無畏・与願】 (せむい・よがん)の形と称し、「右手」をかざして居られるのは、「不安・悩み等の畏れを取り除く、恵みを施しましょうの仏の意向と考えられ、一方「左手」は、お願いすれば、与えましょうの意向の姿と考えられます。 人間自由意志があり、「求めよさらば開かれん」とも言われ、寺社への参拝は、その現れにあるようです。ご家庭の仏壇の仏さんを見ていただくと殆どがその形のようです。 建仁寺寺院の三尊石 奈良の法隆寺の金堂に【三世三仏】の思想が有ります。南正面に本尊の釈迦如来三尊 遣送の如来(けんそう) 【現在】釈迦尼仏東に薬師如来三尊 遣送の如来(けんそう) 【過去】薬師瑠璃光仏西に阿弥陀如来三尊 来迎の如来(らいごう) 【未来】阿弥陀仏人は、太陽の出る東方浄瑠璃世界から送り出され、現在釈迦の教えに基づき、太陽の沈む、西方極楽浄土に迎えられる三世の思想の表現とされているようです。 ここでお釈迦さん・阿弥陀さんそしてお薬師さんの主だった仏像の見分けたが、興味あります。 皆様、両手の指を開いてみてください。その形がお釈迦さんです。そして親指と小指を交えて下さい。それが阿弥陀さんです。 次に左手薬指だけ曲げて下さい、それがお薬師さんのかたちで右手に薬壷を持っておられることが多いです。 但し、阿弥陀さんの場合は、親指と小指以外に他の指と交えた仏像がたまにあります。平等院のとき詳細を述べます。 次に仏像単独だけでなく、セットの法則のようなものを見受けます。【脇侍の教え】 (きょうじのおしえ)釈迦三尊の場合【慈悲智恵の文殊】(左)【知恵の普賢】(右) 禅寺では 【阿南尊者】(左) 【迦葉尊者】(右)(かしょう)阿弥陀三尊 【慈悲の観音】(左)【智恵の勢至】(右)薬師三尊 【暖かい光の慈悲の日光】(左)【冷たい冷静な智恵の月光】【釈迦如来の眷属】文殊菩薩・普賢菩薩 十大弟子 【涅槃図】(ねはんず)【阿弥陀如来の眷属】観音菩薩・勢至菩薩 二十五菩薩 【御来迎の図】(ごらいごうのず)【薬師如来の眷属】日光菩薩・月光菩薩(がっこう) 十二神将【観音菩薩の眷属】二十八部衆 東京博物館で一大人気になった【阿修羅像】(奈良・興福寺所蔵)も含まれます。既に、ご招介しました【清水寺】そして何れ記します、【三十三間堂】で観られます。次回三十三間堂の仏さんを
2015.07.07
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京都の西北嵯峨野方面から 京都駅周辺に帰って来ました朝の続きです弘法さんで親しまれる【大師堂】 弘法大師が祭られた大師堂【大師堂】 (だいしどう)建物【国宝】弘法大師の宿坊。「不動明王秘仏」が祀られ、弘法大師の命日に当たる21日に毎月「弘法さん」として庶民に親しまれ、市が立ち縁日として大勢の人で賑わっています。 京都並びに奈良の観光で、仏像のことを知って置かれると、とても観光の興味が倍化します。 宝物館宝物館内に、ミニ五重塔が飾られています。京都に併せて五箇所にあることになります。仁和寺・八坂・醍醐・東寺に二つ。次回仏像の種類について、少し,ご紹介したいです。「東寺」その意味で貴重な文化を知る機会と存じます。池にう映った五重の塔 かささぎ おしどり夫婦 金堂・講堂が池面に写る
2015.07.06
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1633年徳川家光が清水寺本堂と此処東寺の五重の塔を再建共に国宝となっています春に撮った写真です秋の写真 もみじが美しいです 【東寺】 【教王護国寺】真言宗東寺派 開基空海(弘法大師) 世界文化遺産登録 その土地で、1個の【国宝】が有れば、有名になり、誇りを持ちます。此処東寺だけで、建物・仏像・曼荼羅(まんだら)の絵画・書等50点余有り、何だか麻痺しそうで、有り難味が薄れる感じです。京都には、恵まれ過ぎかも知れません。 高さ57mは「日本一高い塔」といわれています。三代将軍徳川家光が再建しました。お坊さんに教えてもらったので、解かったのですが、塔の下層の軒四方に、 「邪鬼」 が軒を支えるように、踏ん張っていました。よく仏像で、 「邪鬼」 を踏みつけているように見られますが、実は仏を支えていると風にも採れる事が教えられました。訪問されたら是非よく見てやってください。 邪気が軒を踏ん張ってささえています。 修学旅行生が、「おじさん、ジャッキーの役目しているのですね。」とジョウクを飛ばしていました。 「平安京」が誕生した頃は、東寺の西に【羅城門】(らじょうもん)があり、都の中心【大内裏】(だいたいり)から「朱雀大路」の南端にありました、そして更に、「羅城門」を挟んで、西に「西寺」がありました。今は広い公園に、「西寺跡地」として石碑が建っています。だから京都の中心は、京都駅前の「烏丸通り」(からすまとおり)延長に京都御苑があります。ではなく東に移動しているようです。 薬師如来の祀られる金堂 【金堂】建物が【国宝】です。豊臣秀頼により落慶しました。堂内に入りますとわが国最大の薬師如来のセットが祀られて居ます。真ん中に【薬師如来像】そして仏側から見て「左」に【日光菩薩】(にっこう)「右」に【月光菩薩】(がっこう)そして薬師如来の周りに【十二神将】が観られます。「左の日光菩薩が上位」 多くの国宝の仏像が配置された講堂 【講堂】 建物は(重要文化財) 学僧の学問所で立体曼荼羅(密教浄土の世界)を学ばれる場所でもあります。 仏像が21体の内国宝が15体有り、実に壮観です。中央に【大日如来】を中心に【如来群】がそして、仏から見て「左」に【菩薩群】そして「右」に【明王群】が祀られて居ます。「菩薩が上位は確たるものです。【四天王】四隅に夫々、「邪鬼」が踏ん張っています。【明王】は、大日如来の化身と言われ、怖い形相は、世の中で、幾ら仏法を説いても頑固で聞き分けの無い衆生も居るので、そういう者を強化するためとも言われています。【梵天】(ぼんてん)(宇宙を司る)ガルダ鳥に跨り【帝釈天】(たいしゃくてん)(太陽を司る)象に乗っています 後に続きます
2015.07.06
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京都 栂尾(とがのお) 高山寺 恋に疲れた 女が一人 大島紬(つむぎ)に つづれの帯が 影を落とした 石畳 京都 栂尾 高山寺 恋に疲れた 女が一人【高山寺】 (栂尾高山寺) 真言宗 開基 明恵(みょうえ) 世界文化遺産に登録 急な坂道 高山寺 石水院の入口の門廊下伝いに暫し歩みますと、国宝【石水院】 (せきすいいん)があり、廊下には、影絵の様な形で 【蟇股】 (かえるまた)のシルエットがとても芸術的に美しいです。 国宝建物【石水院】此処が一番趣の深い写真と思います。観る人によって感動は違ってくるでしょうね。 たまたま思いに耽っておられる女性のかた身動きなしでした額には、 「日の出先ず高山寺を照らす」と漢文で書かれています。鎌倉時代、後鳥羽上皇の勅額で寺名ともなりました。 床の間には、国宝【明恵上人の樹の上で座禅姿】の屏風が飾られています。 国宝の掛け軸です。明恵和尚さんが樹の上で瞑想されているお姿です。又、本間の横に、 国宝【鳥獣人物戯画】 全4巻の写しが置かれ、蛙と猿が人物的表現で戯れている図で、愉快に成ってきます。鳥羽僧正覚猷(かくゆう)の筆と言うことです。ガラスケースでしたが、何とか写せました 又本間に運慶作の可愛い「子犬の像」が何とも微笑ましくお客様を迎えています。仏師 運慶が彫ったという子犬です可愛いですね 外に出ると、日本最古の茶園が狭いですが、存在し「明恵上人」が「栄西禅師」から、中国から持ち帰った茶の種を贈られ。馬の歩む足跡に従って植えることを教えられました。「日本最古の茶園」大杉の階段を登りつめました 開山堂(明恵上人)を祀っています一番奥に本堂【金堂】がひつそり建っていました。金堂前の急な石段石畳 高山寺の駐車場から更に国道を北に向かいますと清滝川にそって。北山杉の群れがずっと続きます。天皇陛下が皇太子の頃に妃殿下とご訪問された由緒ある林です。北山杉の群れ 国道に沿って続く
2015.07.05
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老人保健施設でも 七夕祭りの 飾りつけをしました 願い事の短冊飾りでした 隣席のおばあさんは左手一つで折鶴を機用に織り上げて居られました 1羽 プレゼントされました大切にしたいです高雄三尾 高雄 槇尾(まきのお) 栂尾(とがのお)矢張り最終は世界文化遺産にしたいです。高山寺に写真を撮ることを目的で、もみじももそこそこでした。 帰途、空車のタクシーも通らず、次のJRバス停前で、小さいうどん屋さんで昼食、二組6人のお客さんが外人さんでした。店の地元のおばさんの勧めで高雄方面の最も早く紅葉するといわれる西明寺が直ぐ側だから是非にということで、既に弱い脚を使い切っているので、そろりと訪問してきました。此処もタクシー観光では通過地点ですので、初めての訪問となりました。 西明寺参道 入り口に架かる清滝川の橋【槇尾山西明寺】 真言宗大覚寺派江戸時代の再建には、徳川綱吉公の母君 桂昌院が寄贈したとされています。門前やはり此処も石段を登り、山中にお堂が建っていました。でも神護寺ほどではなくホッとしました。門前のもみじ門前では手箒てで常に掃除しておられました。本堂前の戸灯篭釣鐘1回百円・撞いて来ました。静かさが山に響きました。手を合わせて、目をつぶり暫し思いに耽っていました。虎の絵の屏風もみじの庭門前のもみじ清滝川指月橋から清滝川を渡る重い足も、心癒されました。京都にはまだまだ良いところが有りました。高雄三尾 高雄神護寺 槇尾西明寺 そして このあと明日は、 世界文化遺産・栂尾高山寺 をご案内します
2015.07.04
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嵐山の保津川の支流清滝川の上流に此処たかお三尾があります。楼門を過ぎれば、平らな境内で、一安心しました。何といっても中心は、 【金堂】 で。 国宝の薬師如来像が祀られています。そして重要文化財の薬師さんのセット日光菩薩・月光菩薩(がっこう)十二神将そして四天王【持国・増長・広目・多門】天が揃ってみられます。金堂(本堂)国宝薬師如来像がまつられています。金堂前の石段は時代劇によく出て来ます。 金堂への石段紅葉が映えて居ました 登りつめた場所 石段の下時代劇でよくここのシーンが出てきます かわらけなげ2枚百円清滝川渓谷 清滝川渓谷かわらけ投げ みなさん楽しく試みておられます上手な人の場合は、長時間遠くへ飛行続けます下の川から此処まで登るのです。絶景 何れもかわらけなげ付近の情景ですかわらけ、買ってみるか記念にシャツター苔庭 たまたま 大師堂の特別公開 大師堂 長い石段を登りつめて、弘法大師さんの、護国のため建てられた聖域からの、渓谷に掛けての絶景は、みなさま満足気味でした。弘法大師さんは、神護寺より清滝川を下られて、化野の念仏寺を造り無縁さんを弔い、嵯峨大覚寺で嵯峨天皇と都造りを仏法精神で協力された足跡が伺えそうです。 清滝川 明日は槇尾西明寺(まきのをさいみょうじ)のもみじそして世界文化遺産高山寺で終わります。
2015.07.03
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嵯峨天皇の山上への御陵を偲びながら訪れ眼下に 清滝川も流れ その上流に神護寺が有ります 健脚の方は、高雄に来られれば、栂尾高山寺・槇尾西明寺そして高雄神護寺とセットでお参りされると意義が深いと思います。山岳仏教で山登りが厳しいです。本日は、将軍塚で、平安遷都を推挙した「和気清麻呂」の墓と京都の都の礎を「嵯峨天皇」と築きあげられ護国のために神護寺を建てられた弘法大師に偲び昨秋訪れたものを二回に亘って再録します。弘法大師は、山岳仏教として、北国・高雄にまで、布教の為寺院を創られました。 【神護寺】 【高尾山神護寺】高野山真言宗別格本山 開基 和気清麻呂 山号 高雄山 高雄は、京都では、「紅葉」の名所で、シーズンでは、自家用も身動き出来ない大渋滞と成るほどです。従って駐車場も何処も満杯となります。 山岳仏教の一つで、街道から一旦、清滝川の清流へと降り、再び石段を山へと登り詰めます。年老いた人には、険しい難所でも有ります。1.【仁王門】(両側に藤原時代の「持国天」「増長天」が護法神として構えています)に着いて、ひと息つき受け付けを通じて入門します。2.直ぐ右手に【和気清麻呂公霊廟】奥には墓が有ります。常に桓武天皇の側近として、「平安京」を進言された立役者でも有ります。現在でも「高雄山」から「京都」を見守り「京都御所」の西側では「護王神社」として、朝廷に仕えた形としても、祀られて居ます。3.【鐘楼】日本三名鐘の一つです。神護寺は、「銘文」として、宇治平等院は、「形」として、そして滋賀三井寺では、「音色」として讃えられています。4.【金堂】【国宝】の薬師如来(貞観時代)神護寺の本堂に当たり最も大切な場所です。脇侍に「日光菩薩」「月光菩薩」(がっこうぼさつ)(重要文化財)十二神将及び四天王が祀られ極めて落ち着いた感じで、薬師さんのお顔を拝するとき、荘厳な感じで何時までも眺めたい気持ちに成ります。ここも「時代劇」に広くって多い石段を背景にロケが採り上げられています。5.【多宝塔】【国宝】の【虚空蔵菩薩】が祀られて居ます。秘仏で観られません。6.【大師堂】本尊【弘法大師】京の都を隅から隅まで仏典に基づき護国のため奔走されて、その足跡は、至る所で、拝する事ができます。7.【かわらけ投げ】 壮大なパノラマが開ける眼下に断崖、緑の林があり、「清滝川」「錦雲峡」の景勝が美しく、茶店で「かわらけ」を買って水平に飛ばすと、上手にすると、「遠く」「長く」渓谷に吸い込まれて行き、周りの人の喝采を帯びます。自然界で和やかな雰囲気を味わう事が出来ます。 本坊には、【国宝】の【源頼朝の絵画】は有名です。 高雄橋・ もみじと高雄橋 参道途中の茶屋息が苦しく、足が痛み出し、勇気の撤退をしょうとしましたが、ままよと再発進 休み休みして漸く神護寺楼門に辿りつきました 平安京の立役者・和気清麻呂公の霊廟 明王堂その側に日本三名鐘の鐘衝き堂があります銘が有名宇治平等院・形 滋賀・三井寺の音明日神護寺の続きを更新します。
2015.07.03
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今回は、大覚寺に関係ある嵯峨天皇の御陵が嵯峨野の小高き山上にあり一昨年登ってきました。直指庵から100m西に位置します。平安遷都された 桓武天皇 の皇子様です。ブログで観て頂きたい一念で、過去一度も訪問出来なかった難所にも参りました。 【嵯峨天皇嵯峨山上御陵】 は山道を登ること、二百段、杖をついて登ってきました。再三申しあげますが、794年に桓武天皇によって、【平安遷都】が行われましたが、その皇子さん【嵯峨天皇】によっ過日て、大覚寺で弘法大師さんと共に、まことの都造りを成し遂げられました。今でも、小高き山上より、嵯峨野を通して、京の都を見守って居られるようです。嵯峨天皇御陵 参道入口 坂道坂道はまだ続きます 坂道振り返ると嵯峨野 まだまだ目的地が見えません。やっと見えてきました とても清々しい感じです。 嵯峨山上陵と書かれています 帰途は獣道から しだがはえています。 裏山には、小倉山そして愛宕山が見えました。この愛宕山の頂上には愛宕神社があります。鳥瞰図 は見事な物でした小倉山を見下ろす、別の風景です。 漸く嵯峨野の景色にもどってきました。 山道にこんな林も麓にありました。達成感は、清々しい感じでした。然し杖突き持っては冒険で疲れ切りました。腰椎骨折の身としては 高嶺の山となりました次回も神護寺と険しい山にあります
2015.07.02
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