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階段を登り切ると、芝生の広がる丘の上に出ました。ここにも歌碑が建立されていました。説明板によると、「晴れし日の砂山の上濡石はみづから濡れて膏(あぶら)のごとし」という歌で、昭和43年12月この地を訪れた歌人佐藤佐太郎(→→→こちら)が来県したおりに、四季を通じて、常に濡れていて、愛好者に「濡石(ぬれいし)」と呼ばれて親しまれていた村松晴嵐碑に深く興味を持ち詠んだ歌だそうです。この丘の上からの眺めが、村松晴嵐なのでしょう。水戸八景(→→→こちら)の説明板がありました。水戸八景とは、水戸藩第9代藩主徳川斉昭が水戸藩領内の景勝地を中国の「瀟湘八景(しょうしょう はっけい)」ならって8つを選んだ風景評価とそれを詠んだ詩になるそうです。その水戸八景の一つがここ村松晴嵐(むらまつせいらん)になるそうです。村松晴嵐とは、説明板にもありますが、「真砂地に雪の波かと見るまてに塩霧晴れて吹く嵐かな」と烈公(水戸斉昭)に詠まれた景勝地です。そして、この自然石に漢隷書体で書かれた「村松晴嵐」の文字は,徳川斉昭によるものです。石の表が常にぬれていたため「濡石」とも呼ばれていたそうです。ここから白砂青松の景色が見えるかと思っていたら、原発関連施設で海までは見ることができませんでした。この村松晴嵐の石碑の奥に隠れていた、この建物は、日本原子力研究開発機構の放射能のモニタリング施設のようでした。さて、奥之院のあった丘を降りてくると、村松虚空蔵尊の裏手にあるお堂に出ました。扁額には、「鍾馗霊神堂」と記されていました。説明板によると、お堂の中には鍾馗霊神の絵馬が祀られているそうです。延宝三年(1675)に伝染病が大流行した時、鍾馗霊神の絵を奉納したところ、大流行が治まったと伝えられているそうです。今も新型コロナウィルスをはじめ、様々な感染症があるので、神仏のご加護を求めて鍾馗霊神の絵を描いてこのお堂に奉納する価値はあるかもしれませんね。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その6) 村松晴嵐
2024年11月26日
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昔は馬だけではなく牛も運搬の手段として使われていたそうで、牛馬の息災を祈る牛頭(ごず)観音が祭られているそうです。こちらの小さな石仏が牛頭観音です。素朴な感じがする石仏ですが、それだけに当時の人たちの祈りの気持ちが伝わってくるようです。石積みの中に目立たないように祭られている石仏がありました。むし歯地蔵尊だそうです。この目立たない石仏が、「むし歯地蔵尊」だそうです。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その15) 牛頭観音とむし歯地蔵尊
2023年05月21日
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奥多摩むかし道にある川合玉堂(→→→こちら)の歌碑です。「山の上のはなれ 小むらの名を聞かむ やがてわが世を ここにへぬべく」明治36年夏奥多摩中山郷付近にて詠みし奮作を志とする 玉堂と記されていました。こちらの看板も解説文がありましたが、文字は判読できませんでした。川合玉堂は、1944年(昭和19年)にかねてより写生で頻繁に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市御岳)に疎開し、1957年(昭和32年)、89才で他界するまで、奥多摩を離れることなく山や村などを描きつづけたそうです。小河内ダムに向かって更に歩いて行くと、また吊り橋がありました。道所橋という橋です。この橋も同時に渡れるのは2人までとなっていました。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その16) 玉堂歌碑と道所橋
2023年05月22日
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JR池袋駅に入選してきた東武の特急電車「スペーシア」です。湘南新宿ラインで大宮に行こうとホームで電車を待っていた時に偶然、見かけたので撮影しました。かって、当時の国鉄と東武鉄道の間では日光戦争と呼ばれる熾烈な東京都内から日光への旅客争奪戦が繰り広げられていました。当時の国鉄は上野-日光間の直通の急行「日光」を運行し、かたや東武は浅草-東武日光・鬼怒川温泉間を特急「けごん」・「きぬ」を運行していました。しかし、東武が1960年にデラックスロマンスカー(DRC)と呼ばれる豪華特急列車を投入するなどのサービス向上に努めた結果、国鉄対東武の旅客争奪戦は、東武側が優勢になった結果、東北新幹線の開業とともに急行「日光」が廃止されてからは、国鉄分割民営化後のJRになっても日光への直通列車は復活することもなかったのです。その後、2006年(平成18年)3月18日のダイヤ改正により、栗橋駅構内に新設された東武日光線とJR東北本線(宇都宮線)間を結ぶ連絡線を介し、JR線と東武線を直通運転する特急「日光」・「きぬがわ」・「スペーシアきぬがわ」(新宿 - 東武日光・鬼怒川温泉)が運行されることになり、わざわざ浅草まで行かなくても日光へ行けるということになりました。しかし、このスペーシアも1990年(平成2年)の登場以降30年以上も経っていることから、後継の特急車両「リバティ」が投入され、またさらには2023年には新型の「スペーシアX」の導入も決まっていることから、池袋駅や新宿駅でこのタイプの「スペーシア」を見ることもなくなっていくのかもしれませんね。こちらが新型特急車両の「リバティ」です。浅草駅で撮影しました。人気ブログランキングJR池袋駅の東武特急「スペーシア」
2023年02月14日
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奥多摩むかし道に沿って、また神様がおられました。耳神様というそうです。確かに穴の開いた小石が置かれていました。奥多摩の山村の人々の暮らしがうかがえる貴重な遺産ですね。そしてこの耳神様の頭上には、新たに整備された青梅街道のトンネルと、さらにその上にはかっての東京都水道局小河内線(→→→こちら)の廃線跡の橋梁がありました。天高くそびえる橋脚と橋桁、ダムを造るための鉄道建設も、本体のダム並みに大変な難工事だったのではないかと思わせますね。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その10) 耳神様と廃線の橋梁
2023年05月15日
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佐賀県神埼市にある横武クリーク公園です。看板の文字がやや薄れているところが残念です。いい公園なのに。むかしはここにお城があったそうです。そしてクリーク、堀がこの公園の売りですね。ここのクリークは水路が崩れないように、木柵で保護しているんですね。なかなか、広々としていました。公園の広さは6ヘクタールだそうです。地盤が弱いのか、木柵が倒れている所もありました。園内のクリークでは釣りOKです。ヘラブナが放流されているそうですが、バスもライギョも釣れるかもしれませんね。横武クリーク公園の場所は、こちらです。【つづく】人気ブログランキングへ横武クリーク公園(その1) 魚釣りOK
2019年01月30日
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次に訪れたのは「象の鼻パーク」(→→→こちら)です。象の鼻パークとは、横浜港開港150周年となる平成21年(2009)に開園した公園で、横浜港発祥の地です。安政6年(1859)に 東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の2本の突堤が幕府によって建設され、横浜港が開港し、慶応3年(1867)には 東波止場が弓なりに湾曲した形に築造され、その形状から象の鼻と呼ばれるようになったものです。その後、西波止場に横浜新港ふ頭が築造され、西波止場の背面が埋め立てられました。そして、大正12年(1923)には 関東大震災により被災したため、。その後、象の鼻波止場(東波止場)は直線に近い形状で復旧されたのです。しかし、横浜開港150周年を記念して象の鼻波止場を明治中期の形状に復元したそうです。(→→→こちら)御影石で造られた開国博Y150マスコットキャラクター「たねまる」の記念碑です。「開港の丘」と名付けられた港や海を見渡すことができる草地広場です。青白色のドームがシンボルのクイーンの塔として親しまれている横浜税関(→→→こちら)の建物が近くにありました。ちなみに、ジャックの塔は横浜市開港記念会館(→→→こちら)、キングの塔は神奈川県庁舎(→→→こちら)ということだそうです。この高架橋は、かっての国鉄山下臨港線跡を流用して建造された山下臨港線プロムナードです。横浜税関付近から大さん橋入口を経て、山下公園西端を結ぶ500mほどの遊歩道になっています。この山下臨港線プロムナードの下にあるが、横浜市認定歴史的建造物の「鉄軌道と転車台」(→→→こちら)です。これは、横浜税関敷地内に設けられた手押し車両用の設備だったもので、象の鼻パーク整備中に発見された遺構です。築造されたのは、明治28年(1895)から翌年にかけてだそうです。このように強化ガラスの蓋を通して見学することが出来ますが、ガラスで覆われていると中の様子が見にくいです。こちらが、開港当初からある東波止場(象の鼻波止場)になります。(霧笛が俺を呼んでいるのコースです)【つづく】人気ブログランキング霧笛が俺を呼んでいる(その9) 象の鼻パークと転車台
2022年12月12日
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村松虚空損尊の奥之院に向かって歩くと、三重之塔が見えてきました。平成10年(1998年)に再建されたそうです。塔の高さが21メートル、大日如来が安置されています。三重之塔の手前にある階段を登ったところに奥之院がありました。その階段途中にあった板碑です。何が書いてあるのかわかりませんでしたが、由緒がありそうなのでとりあえず撮影してみました。この建物が奥之院で多宝塔とも呼ばれているそうです。この奥之院は、本尊大満虚空蔵菩薩が安置されています。50年に一回の開帳記念として、昭和9年(1934年)に建立されたそうです。再び三重之塔に戻って来て、その前にある歌碑を調べてみました。山村暮鳥(→→→こちら)の詩碑だそうです。おう土よ生けるものよその黒さに太古のかほりがただよってゐる録暮鳥詩犀星、昭和十四深秋と刻まれていました。調べてみると山村慕鳥と言う詩人、水戸や常陸太田、平(現 福島県いわき市)など各地で伝道活動を行いながら、創作活動を行っていたそうで、ここから近い大洗町で生涯を閉じたそうです。さてこの三重之塔から、さらに上に登る階段があったので、登ってみました。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その5) 村松虚空蔵尊奥之院
2024年11月25日
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。文化の京の文京区ですが、区内にはJRの駅が一つも存在していません。文京区役所の最寄り駅のこのJR中央線の水道橋駅も厳密には所在地は千代田区です。この駅のそばを流れる神田川です。川の清掃をする船が見えました。そしてこの神田川が千代田区と文京区の境になっていて、神田川を超えて東京ドームホテルなどのある方に来ると文京区になります。神田川に並行する外堀通りを歩いて行くと、小さな広場があります。このあたりは「市兵衛河岸(→→→こちら)」という地名だったそうです。この付近が神田川の水際に作られた物揚場(ものあげば)だったそうで、今の東京ドームシティのあたりに東京砲兵工廠のあったころは、工廠用の貨物が揚げ下ろしされた場所です。神田川市兵衛河岸防災船着場として今でも緊急時にはこの船着場が利用できるように整備されていました。ちなみに、この付近には「岩瀬市兵衛」のという人の屋敷があり、それが市兵衛河岸の地名の由来になったそうです。そして、岩瀬市兵衛は旗本だった家柄で、その中で岩瀬市兵衛の家を継いだ岩瀬 忠震(いわせ ただなり)(→→→こちら)は、嘉永8年(1853年)ペリーの来航後、アメリカとの交渉に当たり、特にアメリカ領事ハリスと交渉して日米修好通商条約に調印した人物だそうです。【つづく】文京区散策(その6) 水道橋駅近くの市兵衛河岸
2023年04月22日
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皇居の乾通りから靖国神社へやって来ました。靖国神社といえば、、明治維新以後の国家のために殉難した人の霊(英霊)246万6千余柱を祀る神社ですから、こういう「出征を見送る家族の像」というのが建立されているのも、納得ですね。花見客目当てのキッチンカーも出張ってきています。昔は露店が並んでいたように記憶していますが、これも時代の流れですかね。こちらの第二鳥居から、いよいよ神聖な場所に入るという感じになります。神門の前です。東京の開花宣言のあった翌日の土曜日ということもあって、かなり大勢の人が参拝に来られて混雑していました。こちらの桜の木が、東京の開花宣言を判断する標本木です。確かに、開花していました。気象庁が正しいことをMoMo太郎も確認しました。ということで、拝殿にお参りしました。この神社のご祭神は、幕末の志士に始まり、日本を守るために戦ってきた軍人、軍属等の戦没者、つまり英霊と呼ばれる方々、その他、台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王(→→→こちら)及び蒙疆神社(張家口)に祀られていた北白川宮永久王(→→→こちら)になります。ちなみに英霊の中には、太平洋戦争の結果、戦争犯罪犯罪人として裁かれた東条英機のような人も含まれているというが、色々と問題を生んでいるみたいですね。境内では野点の席なども開催されていて、気分はお花見というところでしたが、訪れた3月30日の時点では、桜もちらほら咲きといったところで、お花見にはちょっと寂しいところではありました。【了】人気ブログランキング皇居乾通り一般公開に行ってきました(その4) 靖国神社の桜
2024年04月04日
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後楽園駅界隈を歩いてみます。東京ドームシティアトラクションズのサンダードルフィンです。後楽園駅につながる高架橋。鮮やかなグローイング・スカーレットの2000系車両です。後楽園といえば、ジャイアンツのホームグラウンド「東京ドーム」ですね。ちなみに、ジャインアンツ、野球協約第38条に書かれている構成球団は「株式会社読売巨人軍」、球団呼称は「読売ジャイアンツ」となっているそうです。後楽園駅は、駅ビルのメトロエムになっています。色々なお店も入って、便利といえば便利な施設です。後楽園駅の改札口、南北線のホームは地下になります。【つづく】人気ブログランキング駅間歩き丸ノ内線(本郷三丁目~後楽園) (その10) 東京ドームとメトロエム
2020年08月04日
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MoMo太郎が調べたラジオ体操発祥の地紹介します。第四回は、浅草のかっぱ橋道具街通りの近くにある台東区松葉公園です。公園の中には竹林となまこ塀がありました。この日本風の庭園は近くには浅草の東本願寺をはじめとする寺院が多いことと関係しているのでしょうか。この広場でラジオ体操会が開かれているのでしょう。立派なステージも設置されいます。こちらが、「ラジオ体操中継放送再開発祥の地」の掲示板。「中継放送」の「再開」が「発祥」した というのはなんか判りにくいですね。碑文によれば、ラジオ体操は、昭和3年天皇陛下ご即位を記念し国民の健康増進を目的として郵政省(当時逓信省)簡易保険局が制定し、日本放送協会の電波にのせて全国に放送してから50年国民の愛好するところとなり体力づくりに大きな役割を果たしつつあったが、第2次世界大戦の影響を受け昭和22年8月31日で放送も一時中断の止むなきに至った。その後、戦後の復興とともに、昭和26年5月6日、3年8ヶ月ぶりにラジオ体操の放送が再開され、昭和27年6月28日中継放送再開の第一声が、ここ松葉公園から全国に放送された。これを機として台東区ラジオ体操連盟が発足し、次いで東京都ラジオ体操会連盟及び全国ラジオ体操連盟と発展し今や全国に20万人を突破する今日の隆盛を見るに至った。ここにラジオ体操制定50年と中継放送再開発祥の地を記念して長く後世に伝える。 昭和53年6月25日 東京都台東区とうことで、戦後の一時期、ラジオ体操は中断されていたんですね。郵政博物館のホームページ(→→→こちら)には次のように説明されていました。終戦となり、ラジオで全国一斉に実施するラジオ体操が軍国主義的であると連合郡総司令部から指摘され、昭和21年に放送を中止しました。その後、国民の中にスポーツに対する関心が高まり、誰もが行える気軽な運動として、ラジオ体操の復活を望む声が多くなってきました。そこで、簡易保険局では、ラジオ体操の復活を決定し、各方面に働きかけを行い、昭和26年に新ラジオ体操が完成し、NHKの全国放送によって放送が開始されました。楽しくラジオ体操ができるっていうのも、色々な歴史があったのですね。【了】人気ブログランキングラジオ体操発祥の地めぐり(その4) 松葉公園
2021年07月24日
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深川、門前仲町の葛西橋通りに目立たないようにある石碑です。江戸時代の商人、天文学者・地理学者・測量家である伊能 忠敬(いのう ただたか)(1745-1818)の住居がここにあったそうです。地元などでは親しみと尊敬の念をこめて「いのうちゅうけい」とも呼ばれているそうですが、その地元とは門前仲町のことではなく、千葉県香取市の佐原です。伊能忠敬といえば、寛政12年(1800)55歳の時から、17年をかけて日本全国を測量して「大日本沿海輿地全図」を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。異色の能力、つまり異能な人ですね。そして石碑の各面には、忠敬の歴史が簡潔に刻まれていました。作成した「大日本沿海輿地全図」は非常に正確な地図で、明治17年(1884)には陸軍参謀本部測量部(国土地理院の前身の1つ)によって作成された「輯製(しゅうせい)20万分1図」の基本図としても利用されているそうです。このような正確な地図を作った秘訣は、やはり伊能忠敬の几帳面な性格が一因かもしれません。忠敬は最初、歩測で距離を測ったそうで、一歩が正確に69cmとなるように鍛錬してたことや、何人もが同時に歩いて平均値を採るなどの方法を用いていたかもしれません。距離がわかり、次の目的地までの角度がわかると地図を描けますが、人間がやることですから誤差もでてくるでしょう。その修正のために、たとえばある地点から見えた高い山を目印にして、その地点からこの距離と角度で進むと目印の高い山はこの方向に見えるはずとして、実測値との差を用いて補正したのでしょう。このやり方は現在の測量でも使われています。また、それが山ではなく北極星との角度を測定して測量結果の修正に利用していたとも思われます。しかし、50歳を過ぎたお爺さんの伊能忠敬が、日本地図を作るという大プロジェクトに挑んだのでしょうか。それは、地球の子午線の弧長、つまり地球一周の長さを求めたかったからだと言われています。当時は、18世紀後半に、フランス科学アカデミーによってダンケルク-バルセロナ間の子午線弧長の測量が行われました。また、ドイツの天文学者・数学者ベッセル(Bessel)は、1841年、ベッセルは当時世界中で測量された結果をもとに、地球の形がやや扁平な楕円体であることを導き出しました。この楕円体は日本でも2002年まで、測量の基本となる楕円体として利用していました。つまり伊能忠敬は、世界の先端科学に関する研究を手掛けていたわけです。また、伊能忠敬は三次元では楕円体である地球を二次元の平面に変換する手法、地図投影法、つまりちょっとは聞いたことのあるランベルト正積円筒図法、メルカトル図法という方法を知っていたわけですね。しかもこの投影法、テイラー展開等の数学の知識を要求されるのですから、本当に異能な人だと思います。人気ブログランキングへ伊能忠敬住居跡の石碑
2021年09月14日
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新宿駅の中央線快速が発着する11-12番線ホームの池袋寄りを13-14番線ホームから見ると、「殉難 殉職 供養・・・」と書かれた供養塔らしいものが建っています。またその後ろには祠らしきものもあります。おそらく、むかし、鉄道事故か駅の建設工事で亡くなった人たちの供養のためのものと思われますが、詳細を調べに行こうとしても、一般の人が立ち入ることのできないエリアになっています。しかし、こういう慰霊をするという気持ち大切なものだと思います。人気ブログランキング新宿駅11-12番線ホームにあるもの
2021年12月05日
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参議院議員選挙が始まっていますね。東京選挙区では、自民党から生稲(いくいな)晃子さんと朝日健太郎さんが立候補しています。センターで歌っている方が35年前のおニャン子クラブにいた生稲晃子さんです。生稲晃子さんって、今の若い人は知らないだろうなとフッと思って、同じ職場にいるMoMo太郎が推定年齢30代後半と思っている女性職員に「生稲晃子、って知っている。若いから知らないでしょう」と尋ねたら、その方は、「知っていますよおニャン子の生稲晃子でしょ、私、中3の林間学校のキャンプファイヤーのお楽しみ会で女子ばっかりで『セーラー服を脱がさないで』を踊ったんですよ」とお答えになった。ということはこの人、50歳だったんだ。相変わらず、女性を見る目がないMoMo太郎です。ということで、今回の選挙、女性を見る目のないMoMo太郎は女性候補には投票しない方がいいかもしれません。※もうすぐアクセス数5百万になりそうです。人気ブログランキング参議院議員選挙 女性を見る目がありません
2022年06月24日
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「徳之島にはお寺がない」というのが、徳之島に住み始めて2年近く経ったMoMo太郎の結論でしたが、実態は不明ながら、なんとなくお寺らしきものを確認したので紹介します。見つけた場所は、天城町瀬滝地区で、一応「大鳳寺(だいほうじ)」という看板まであります。しかし、どうみてもお寺という建物ではなく、普通の住宅風のつくりですね。でも、こんな法師の銅像があったりして、お寺の雰囲気もします。そして、敷地の全景はこんな感じです。どうも、鳥居がある神社の存在感が大きい。鳥居も立派です。でも、地蔵堂もあったりして仏教色も強い。実際、徳之島の人に聞いてみると、お寺はないけど、お葬式の時にはお坊さんが来てお経をあげてはくれるそうです。でも、檀家がいるわけでもなく、お坊さんも普段は別の仕事をしているらしいということです。また、教会というのはちゃんとあって、キリスト教徒もいるそうですが、明らかな仏教徒というのはいないみたいです。ただ、お墓は立派で祖先崇拝は強いみたいですから、もっと原初的な宗教観が島の人にはあるのかも。人気ブログランキングへ
2013年11月13日
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胡録トンネルを出て、 水神大橋を過ぎると、また、トンネルが見えてきました。 瑞光(ずいこう)トンネルという名称でした。 瑞光という縁起のいい名前は、南千住にある瑞光小学校(→→→こちら)にも使われていますが、もともとは、ここから西の方へ行った、国道4号線沿いにある素戔嗚神社(→→→こちら)の境内の、 神社創建の起源となったこの小塚の中にある。 この祠の中の この穴が掘られた跡の残る「神影面瑞光荊石(しんえいめんずいこうけいせき)という霊石で、通称「瑞光石(ずいこうせき)」と呼ばれている石に因むものです。 文政12年(1829)編纂の「江戸近郊道しるべ」には、千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現隅田川)まで延びていたため、橋脚が打ち込めなかったという伝承を紹介されています。 しかし、この表面にある小穴はがあいていますが、これは「房州石」と呼ばれる、千葉県鋸山の海岸で採取される凝灰質砂岩の表面に、貝が住み込むために穴を開けたもので、おそらくここが古墳で、その石室材として運ばれてきたものではないかとも言われています。 瑞光トンネルを抜けると、東京都立産業技術高等専門学校(→→→こちら)荒川キャンパスが見えてきます。こちらの荒川キャンパスは東京都立航空工業高等専門学校の流れを受けて、航空実習館「汐風」という施設があります。 (このあたりの地図です) 【つづく】 人気ブログランキング 「川の手通り」を歩いてみました(その4) 瑞光トンネル
2021年03月02日
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昔の公立高校で、ナンバースクールと呼ばれる伝統校は、男女別学でした。例えば、宮城県仙台市の場合、仙台第一高校、仙台第二高校、仙台第三高校は、男子校で、宮城第一女子高校、宮城第二女子高校、宮城第三女子高校は当然女子校でした。結構反対も強かったそうですが、平成19年度(2007)から平成22年度(2010)にかけて、男女共学になりました。ちなみに水戸第二高校は制度上共学だけど女子しかいません。多分、これは県立だけど東京の私立女子御三家(桜陰、女子学院、雙葉)のような東大に合格するような優秀な女子を教育するという学校の方針なのでしょうね。そして、埼玉県(群馬県、栃木県にも)では未だに男女別学の伝統を守る県立高校が存在しています。浦和高校、熊谷高校、川越高校、春日部高校、そして松山高校は男子校、浦和第一女子高校、川越女子高校、春日部女子高校、久喜高校、熊谷女子高校、鴻巣女子高校そして松山女子高校と県土全域に散らばっています。ちなみに浦和高校の2021年度東大合格者数は46名うち25名は現役合格です。多分、これは開成とか灘といった私立の有名進学校を別にすれば、公立でもナンバーワンの実績ではないかと思います。やっぱり、共学で女子にうつつを抜かさず、高校生男子はしっかり勉強しろということでしょうか。このような宅地開発されたような住宅街を歩いて行くと、公園の片隅に板碑を発見。反対側にまわってみると「揚水工事記念碑」と銘が彫られていました。もう一度、刻まれた文字を見ると、昭和23年にこのあたりの水田へのかんがい用水を供給するためのポンプ場の建設工事をしたことの記念だったんですね。今は住宅街のこの地も、むかしは水田だったという歴史を今に伝える記念碑だったんですね。また、橋を渡ります。元荒川(→→→こちら)です。元荒川に架かる。新荒川橋ということでした。バス停のチェックも忘れずに。ここは朝日バス(→→→こちら)が走っているのですね。朝日バスは東武鉄道系列でバスやタクシー事業を行っていて、東武伊勢崎線、日光線の沿線沿いに路線バスを走らせています。途中に鬱蒼とした林がありました。「上町ふれあいの森」という公園です。近くには図書館や幼稚園、小学校もあり子供達には面白い遊び場になるでしょうね。さらに近くには、また緑の濃い「堂山公園」という公園があります。こちらも近くの幼稚園や小学校の子供たちに言い遊び場かも。でも、浦和高校や春日部高校、そして東大を目指すなら、こんなところで遊んでないで塾へいくのかな。公園の中央には、なにやら銅像があります。飯野喜四郎(→→→こちら)という人の銅像でした。実は、この公園、彼の生家の跡地に作られたそうです。銅像の後ろ側に、飯野喜四郎氏(慶応4年(1868)-昭和15年(1940))の業績が細かく記載されていました。まとめると、武蔵国埼玉郡蓮田村(現・埼玉県蓮田市)出身の゜政治家・実業家。埼玉県会議員・埼玉県会議長を務め、元荒川、中川、古利根川などの河川改修や耕地整理にも取り組み、農業の発展に寄与したそうです。また、教育の普及にも尽力し、粕壁中学校(現在の春日部高校)や旧制浦和高校(現埼玉大学)の設置に力を注いだそうです。ということで、男女別学で勉学にいそしむ埼玉県の高校生の基礎を作ったともいえる人ですね。ちなみに、喜四郎の父、飯野吉之丞らは明治18年(1885)東北本線が開通の際、駅の敷地を寄附して蓮田駅を開設させ、蓮田のまちの基礎を作ったそうです。そして喜四郎は明治20年(1887)飯野運送店を開業、開通した東北本線で蓮田の特産物である甘藷(かんしょ)を東北地方に販売しまたそうです。(伊奈町から蓮田のコースです)【つづく】人気ブログランキング埼玉を知ろう(その11) 郷土の発展に尽くした飯野喜四郎
2022年01月05日
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今年の元日、東京は快晴でしたので、東京スカイツリーに登ってみました。スカイツリーに登る前には、手荷物検査があります。危険物を持ち込もうとする輩が多いのでしょうかね。エレベーターホールの天井は組木細工の模様です。エレベーター内の天井にも和風を感じさせる装飾が施されていました。天望階(展望とは言わず、あえて天望というそうです)には、新年だったのでお正月の挨拶が掲げられていました。両国の方を撮影してみました。ガラス越しなのでコンデジのピントは甘いみたいですね。ズームして、白い建物が「江戸東京博物館」です。そして緑の屋根は「両国国技館」です。こちらは、東京ゲートブリッヂです。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリーからの眺め(その1)
2018年01月04日
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JR東日本の房総地域を走る209系2000番台・2100番台。この電車に乗ってやってきたのは、ここ千葉県東金市。駅前通りにあったパチンコ店、「百万弗」という景気のいい名前ですが、閉店しているようですね。こういう地方都市の中心街って、バイパス沿いにお店が集まっていて、駅前ってなんとなくさびれているんですね。ガンバレ、駅前と言いたいところです。で、目的はこの町でパチンコをするのではなく、東金駅から徒歩10分のところにある、この「八鶴湖」を見物にやってきたのです。パノラマ合成した写真です。湖というよりも池という感じですが、説明書きによると徳川家康公ゆかりの池なんですね。八鶴湖の周囲には約1000本の桜が植えられていて、毎年4月上旬になると「東金さくらまつり」が開催され、大勢の花見客でにぎわうそうです。桜の季節に来るべきでしたね。よく見ると、まだ名残の桜がちょっぴり残っていました。【つづく】人気ブログランキングへ千葉県東金へ(その1) 桜の季節に来るべきでした
2016年04月25日
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背振山系にある蛤岳というところに「蛤水道」(→→→こちらです)という古い用水施設があるというので行ってみることにしました。蛤水道は蛤岳山頂北側の山腹から筑前(五ヶ山町大野)方面に流れていた水を肥前側へ通す人工の分水界水路であり、1626年に佐賀藩鍋島氏の家臣、成富茂安により築造されたものです。蛤水道へ行くには、国道385号線の旧道の坂本峠から九州自然歩道を辿って行くのが、登山ルートのようでしたが。あいにく、旧道から坂本峠に行く道は通行止めとなってました。仕方ないので、道の駅「吉野ヶ里」に車を止め、そこから林道を歩いて坂本峠へ向かうことにしました。道の駅「吉野ヶ里」からは筑後平野が一望できます。ここには、東背振トンネルからの湧水が引かれていて、その地下水を汲んでいくことができます。しかし、お坊ちゃん、そのまま飲んでも大丈夫なんでしょうか?あの山の方へ向かって歩いていきます。久しぶりの山行なので緊張します。まずは、道の駅からこのさざんか遊歩道を歩いていきます。サザンカの自生北限地帯だったのですね。そうするとここから北に咲いているサザンカは人為的に植えられたものなんですね。いかにも山を切り開いて建設された道という感じですね。ちなみにこの道は林道だそうです。道の駅から見えたループ橋です。坂本峠にはこのループ橋ではなく、その下の林道を進みます。通行止めですが、歩いていくので問題はないでしょう。杉林、国有林らしく、枝が払われていますね。左の永谷林道を行くと蛤岳への最短アクセスルートですが、ここは登山者らしく、この道を直進して、坂本峠から尾根伝いに蛤岳へアタックです。さすがにこんな状態だと、通行止めになりますね。途中に、背振山中宮霊仙(りょうせん)寺跡というのがありました。霊仙寺跡は、8世紀初頭の和銅年間から江戸時代にかけて存在した天台宗の寺院。山岳仏教の修験場として脊振山系千石山の中腹に開山し、中世期(平安 - 鎌倉時代)は付近一体の山地に広まり、脊振千坊と呼ばれ、肥前国のみならず北方の筑前国側にも及ぶほどるほど栄えたそうです。戦国時代の混乱で荒廃し半ば遺棄される。江戸年間には、鍋島家の支援を受け再興したものの、明治時代にぱ廃藩置県により鍋島家の支援が絶たれ、廃絶したそうです。ここからは、あっちこっちに行けるようですね。目指すは坂本峠、蛤水道、蛤岳の方面です。ここが坂本峠、福岡県側から撮影しました。道路標識です。そして、ここからこの山道、九州自然歩道を歩いていきます。イノシシとか出てきそうな道ですね。【つづく】人気ブログランキングへ山行「蛤水道」(その1)
2018年12月01日
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東洋経済のネット記事にあった「大量閉店「イトーヨーカドー」どこで間違えたのか」(→→→こちら)よると、GMS(General Merchandise Store(総合スーパー))大手の「イトーヨーカ堂」が、北海道と東北、信越にある「イトーヨーカドー」の全17店舗を、今春から順次閉店するそうです。イトーヨーカドーというとGMS(総合スーパー)というだけあって、食料品以外にも日用品や衣料品も置いてあって、MoMo太郎は結構、重宝させてもらっています。特に、下着なんかは大抵イトーヨーカドーで購入していました。まあ、今の時代、衣料品はユニクロやしまむらといったで買う人が多いかもしれませんから、GMSの経営って厳しいのかも。さて、言問橋西交差点と明治通りの泪橋交差点を結んでいる「吉野通り」と呼んでいる道路にある東浅草三丁目交差点の近くに、1920年に、イトーヨーカドーの前身である「羊華堂洋品店」が誕生したそうで、そのことを示す標識が建てられています。この羊華堂洋品店の創業者は吉川敏雄で、後にイトーヨーカドーを立ち上げた伊藤雅俊の叔父にあたる人物だそうです。太平洋戦争ののち、この洋品店を引き継ぐ形で、伊藤雅俊は足立区・北千住で羊華堂の事業を再開しました。さらに、1965年に株式会社・伊藤ヨーカ堂を設立し、店名もイトーヨーカドーとなり、事業を拡大してきたそうです。イトーヨーカドーの1号店として地域住民に愛さて、総合スーパー「イトーヨーカドー千住店」があった場所が下の写真のお店です。今では建物も取り壊されて建て替えられ、分譲マンションとなり、1・2階テナントとしてヨークフーズ千住店となっています。ちなみにこの店の一階と二階の間の階段の踊り場に、かっての「イトーヨーカドー千住店」の写真が展示されています。さらに、一号店の場所から国道4号を越えたところにある公園が、イトー児童遊園です。公園の入口にあった、この子供像の台座の説明によれば、「この児童遊園は、イトーヨーカドーの創立者の伊藤ゆきさん、 同じく令息譲氏夫人せきさんが、昭和34年から昭和57年まで住まわれた場所です。千住は、イトーヨーカドーグループ発祥の地であり、地域の皆様への感謝の気持ちをこめて、伊藤せきさんから足立区に寄贈されたものです。足立区は、このご厚好意を受けて「イトー児童公園」として開園いたしました。昭和63年3月 足立区」と記されていました。子供像の横に植えられていた桜の木です。この桜は、ワシントンからの里帰り桜というそうで、明治45年、当時の東京市長、尾崎行雄が日米友好の証として、桜苗をアメリカ合衆国の首都ワシントンに贈り、ワシントンのポットマック公園に植えられましたが、昭和56年ポットマック公園の桜から枝を採取し里帰りさせた桜の木だそうです。人気ブログランキングイトーヨーカドーの歴史
2024年03月11日
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渋谷駅の新南口から明治通りの方へ向かって歩くと、川沿いに開けた場所がありました。向こうに見えるのは、令和元年(2019年)に完成した47階建ての渋谷スクランブルスクエア(→→→こちら)がよく見えました。そして、ちょっと変わった赤いオブジェが目立つこの道は渋谷リバーストリート(→→→こちら)です。渋谷リバーストリートは、東急東横線渋谷駅〜代官山駅の地下化に伴い、渋谷川沿いの高架が撤去され、「鉄道の記憶」をテーマに整備された遊歩道のことです。こちらの赤いオブジェは、株式会社KISS TOKYOと、一般財団法人渋谷区観光協会、東急株式会社が共同で2020年12月に設置したベンチです。「鉄道の記憶」をテーマにしているということは、この日本の平行線は、かっての東急東横線の線路をイメージしているんでしょうね。黒澤明監督の映画「どですかでん」(→→→こちら)に出てくる六ちゃんなら喜んで、「どですかでん」と言いながら電車の運転手になりきって走るでしょうね。ちなみにこの映画の原作は山本周五郎の「季節のない街」(→→→こちら)です。渋谷リバーストリートというだけのことは、あって遊歩道の横には渋谷川(→→→こちら)が流れています。渋谷川は渋谷駅南方から天現寺橋までの2.4kmを流れる二級河川のことですか、その上流は代々木八幡宮や新宿御苑などから渋谷駅に向かって流れてくるいくつかの支川があり、下流は赤羽橋、芝公園の横を通って東京湾につながります。そんな都市の中の河川で、かっては「どぶ川」のようなものでしたが、現在では下水処理を行って再生水を利用してそこそこのきれいな水が流れる川になっています。、東横線の高架があった頃は、なんとなく薄暗いイメージでしたが、すっきりとして良くなったですね。その渋谷川を渡るこの橋。八幡橋を渡って明治通りに向かいます。【付録】映画「どですかでん」の映像です。黒澤明監督、初のカラー映画でした。(渋谷からお散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その3) 渋谷リバーストリート
2024年05月09日
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川崎大師に多くある建物の中でも目を惹いたのが、この八角五重塔です。八角五重塔は昭和59年(1984)の弘法大師1150年御遠忌並びに川崎大師吉例大開帳奉修の記念すべき年に落慶したそうです。寺院の五重塔といえば、普通は仏舎利と呼ばれるお釈迦様の遺骨及び棺、灰が納められているものですが、さすがに1984年ともなると仏舎利も尽きたのか、曼荼羅や釈迦如来尊像などが奉安されているそうです。その五重塔の横にあるのが、遍路大師尊像です。これは弘法大師ご誕生1200年記念事業として昭和48年(1973)に開眼法要が行われたものです。ここには尊像の回りを取り囲むように新四国八十八か所霊場がつくられ、四国霊場巡拝の際にいただいたお土砂が埋められてあり、各霊場のご本尊もお迎えされているということです。つまり、この周りをお参りすることで、四国霊場参拝したのと同じご利益があるということでしょうか。また、諸国を巡錫された大師の健脚にあやかるために、この尊像の下の草鞋に水をかける方が多いそうです。こちらは、弘法大師道標と呼ばれるもので、もともとはこの川崎大師への道案内のために、川崎宿の渡し場(現在の六郷橋のたもと)近くに、川崎大師に至る道の入り口に、寛文3年(1663)に建立されていたものです。「大師河原 従是弘法大師江之道 厄除消除」と彫られています。【つづく】人気ブログランキングへ大本山川崎大師平間寺(その5) 仏舎利なしの五重塔
2015年10月10日
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久留米のある筑後地方では歩くことを「さるく」と言います(→→→こちらです)。今日の、駅間さるき、なんとなく調子が乗ってきました。久留米市の観光案内図が駅前にありました。しかし、この「三潴(みずま)」って、読み方は難しいですね。景行天皇時代に皇位継承の男子以下は日本各地に散らばり、それぞれ統治していましが、その中の一人の「水沼の君」が統治していたので「水沼(みずぬま)」が「三瀦(みずま)」になったと言われています。そして「水沼の君」というのは、 筑後川下流域の後背湿地で沼沢が多かったこのあたりを統治していたからでしょうか。「杜の蔵」という看板がありました。「杜の蔵」は酒造メーカーで、日本酒や焼酎を製造しているようです(→→→こちらです)。こちらが工場のようですね。建物の敷地に「森永弥久太郎翁之碑」という立派な石碑が。森永弥久太郎氏は「杜の蔵」の創業者。初代の石碑を建立するとは、羽振りがいいみたいです。道沿いにあったお宅の横にありました。この踏切を渡ります。西鉄天神大牟田線、この区間は複線になっています。【つづく】人気ブログランキングへ駅間さるき 西鉄天神大牟田線(三潴~犬塚) (その1) 三潴の由来は?
2017年12月21日
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今日は、11月11日、1が4つも揃う、いい日ですね。ところで、むかしから気になっていた歌、「島田のブンブン」。この島田のブンブンってなんという意味なのか? わかりました。島田のブンブン 田口洋作詩 山田一平作曲夜のとばりが パラりと降りりゃ 祭りこころが騒ぎだす今日は祇園か 先斗町三味に、太鼓に 鳴り物ばやしぬる燗ふくんで ひと節ハァ誰が呼んだか 島田のブンブン 今夜もちょいと ご機嫌さん誰が名付けた 島田のブンブン ずいぶん いい気分時計の針がクルりと回りゃ 遊びこころが 疼きだす今頃 新地か、三ノ宮ピアノ、ギターに マイクを握りワイン片手に 得意のあの歌を誰が呼んだか 島田のブンブン 今夜もちょいと ご機嫌さん誰が名付けた 島田のブンブン ずいぶん いい気分女こころに しっぽり触れりゃ 帰したくない ああ、、帰れない誰が呼んだか 島田のブンブン 今夜もちょいと ご機嫌さん誰が名付けた 島田のブンブン ずいぶん いい気分誰が呼んだか 島田のブンブン 今夜もちょいと ご機嫌さん誰が名付けた 島田のブンブン ずいぶん いい調子。この島田のブンブンとは、神戸にあるシマブンコーポレーションという会社を創業した島田文六という人のことだそうです。ちなみに、シマブンコーポレーションの社長は代々島田文六を名乗っているそうだ。文六だから、ブンブンと仇名をつけられてたのでしょうが、それだけ夜遊びもしたお金持ちの歌、ということなんでしょうね。シマブンコーポレーションの紹介はこちらへ→ http://www.shimabun.co.jp/index.shtml人気ブログランキングへ
2014年11月11日
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JR東日本ウォータービジネス社がJR東日本にあるエキナカのコンビニで売っている。「FROM AQUA(フロムアクア)~谷川連峰の天然水~」です。特徴は、キャップを開けるとカチッと音がして固定される"落ちないキャップ"を採用したペットボトルということ。これが、キャップが落ちない仕掛けの秘密みたいです。たかがペットボトルのキャップにも創意工夫を凝らしているのは、日本人らしいということですか。ウォータービジネス(水商売)の売り上げ向上には、やっぱり工夫が大事ということですね。人気ブログランキングへ
2015年03月25日
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最近、ブログに手を抜いているMoMo太郎ですが、今日はちゃんと書きます。徳之島町にあるなごみの岬と呼ばれる場所の近くにある立派なお墓。猪瀬都知事に5千万円貸して上げたという徳田虎雄氏の建立したお墓だそうです。いや、徳田さんから5千万円借りたら、一生、スターン美千代さんにこき使われるかも。人気ブログランキングへ
2013年11月26日
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巣鴨庚申塚を、飛鳥山公園に向かって右に折れて進み、国道17号線、中山道を越えると「お岩通り商店会」というのがあります。商店街としては、こんな感じで、とくに賑わっている様子もありませんが、「お岩」という名前、あの、四谷怪談のお岩さんにちなんだ名前です。このお岩通りに並行して走る都電荒川線の線路を渡ると、この「長徳山 妙行寺(ちょうとくさん みょうぎょじ)」というお寺があります。そして、門のところにあるこの石柱に彫られた文字、「お岩様の寺 妙行寺」また、この脇には小さな石碑には、あの赤穂浪士で有名な、プッツン殿様の浅野内匠頭長矩の奥さんだった瑤泉院(阿久里)の供養塔もあるそうです。境内の中には、魚がし供養塔、魚を殺して食べていかないと生きていけない人間の原罪を償うものですかね。こちらはうなぎ供養塔とその奥にあるのは、妙行寺供養塔です。魚河岸供養塔の前にあった井戸ポンプです。珍しいので撮影しました。本堂にあった扁額、達筆なので、撮影しました。本堂の裏手に墓地があり、そこにお岩様のお墓がありますが、お寺にもかかわらず鳥居があります。お岩様、怨念が強いので神様として祀られているのでしょうか。由緒によると、世間に伝わる「四谷怪談」のようなものではなく、お岩様の死後、田宮家では災いが続いために供養のためにこの墓所が建立されたそうですね。みなみに四谷怪談とは→→→こちらこちらは、芸州三次藩の浅野家の縁者が奉られている墓所のようです。芸州三次藩というのは、江戸城内でプッツンして、吉良上野介に切りかかった、赤穂藩主、浅野内匠頭長矩の正室だった阿久里(内匠頭の死後は落飾して瑤泉院)の実家でした。その一角にあるのが、この供養塔。刻まれた文字には、「瑤泉院」とありますね。ちなみに、瑤泉院の墓は、浅野内匠頭長矩のお墓のある高輪の泉岳寺にあり、ここにあるのは供養塔ということになります。こちらが、お岩様の墓所です。人気者らしくお墓の回りには卒塔婆が沢山並んでいますね。お花も手向けられて、熱心に祈れば必ず願い事が成就すると多くの人に信仰されている様子がわかりますね。人気ブログランキングへ巣鴨散策(その5) お岩通り商店会と妙行寺
2016年11月06日
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常陸国分寺を出てしばらく歩くと、筑波山が見えてきました。標高877 mの筑波山、1000mにも満たないのに日本百名山の一つに入っている筑波山。万葉集にもその名が出ているのですから、標高とは関係なくやはり百名山ですね。こちらは石岡小学校の前にあった大木です。工事中で仮囲いに覆われていましたが、これは石岡の陣屋門(→→→こちら)で、昔は石岡小学校の校門となっていたそうです。江戸時代、石岡市には徳川光圀の弟である松平頼隆を藩祖とする府中藩が置かれていましたが、府中藩は御三家・水戸藩の御連枝として格式が高く、藩主は江戸に常駐していたそうです。そのため、地元で政務をとるために設置されいた役所が、「陣屋」と呼ばれていたそうです。(石岡市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県石岡市(その4) 筑波山と陣屋門
2024年01月27日
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村松虚空蔵尊(→→→こちら)の山門です。三重県伊勢の朝熊山金剛證寺、福島県柳津の霊厳山円蔵寺とともに日本三体虚空蔵尊の一つとして信仰集めているそうです。真言宗豊山派の寺院で、山号は村松山。寺号は日高寺というそうです。その歴史について説明板がありました。大同2年(807年)に空海(弘法大師)によって創建されたとされ、創建の際、平城天皇から「村松山神宮寺」の勅額を賜わったそうです。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて常陸国を治めた佐竹氏の庇護を受け隆盛を極めたが戦火により焼失し、長享元年(1488年)に白頭上人により再建され、名称を「村松山神宮寺」から「村松山日高寺」に改めらたそうです。さらに、江戸時代には、徳川家康から朱印50石を寄進され、また、水戸藩2代藩主・徳川光圀は寺を竜蔵院、竜光院の二院に分け、宗派を修験道に改め、虚空蔵菩薩を修飾しその台座に「日域三虚空蔵之一而霊応日新」と刻んだそうです。明治3年(1870年)の廃仏毀釈より「星の宮」と改称されたが、翌明治4年(1871年)には「虚空蔵」と称することが許可され再び「真言宗日高寺」となりました。明治33年(1900年)に堂塔伽藍すべてが消失しており、現在の建造物はすべて近代になって再建されたものになるそうです。こちらが本堂です。虚空蔵菩薩は丑年生まれと寅年生まれの守り本尊(→→→こちら)と言われるので、本堂の前には、牛と虎(多分)の石像がありました。本堂の扁額です。山号の村松山と本堂は大摩尼殿と呼ばれているのでその扁額もありました。本堂の裏に回ると、本堂裏についての説明書きがありました。白砂青松・村松の海岸この東に広がる村松海岸は白砂青松の景勝地で、天保4年(1833年)水戸第九代藩主徳川斉昭(烈公)は、水戸八景の一つに選び、自筆による「村松晴嵐」の名勝碑を建てさせた。この碑は村松晴嵐の碑と呼ばれ、この階段を上り。さらに80m程行ったところにある。また、この上の奥の院のわきには、俳聖芭蕉の「埜を横に 馬引きむけよ 時烏」の句碑と、詩人山村暮鳥の「おう土よ」の詩碑が建っている。砂浜には、ハマボウフウやハマヒルガオ、松林の中には茸などの植物が多く自生し、野ウサギやリスなどの動物も見られる。大神宮先の砂の高台からは、美しい白い砂・緑の松・青い海を一望することができる。とありました。そして、この階段を登って、本堂の裏も尋ねることにしました。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その4) 村松虚空蔵尊
2024年11月24日
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次は多摩川の河原に向かいました。駐車場のある広場に出ました。ここが、釜の淵公園の入口になるようです。釜の淵公園は、多摩川が蛇行して突き出た位置に設けられた公園です。入口にたつ銅像です。女性の人が泳いでいる(?)姿ですが、銅像の題は「若鮎の像」、若鮎のように泳ぎが達者な女性の像ということでしょうか。銅像の横に、この像について説明した石碑がありました。若鮎の像建設の由来大正2年(1913)6月東京帝国大学教授石川千代松博士はこの地先に琵琶湖小鮎数百尾を移植し遡上鮎のように大型鮎となるのかの画期的実験を試みそれに成功し現在の様に全国各河川に琵琶湖産稚鮎の放流をみるに至りました。 博士の功績をたゝえると共に日本最初の放流地奥多摩川大柳原を記念するため奥多摩漁業協同組合を中心として全国同好の者多数の浄財ににより若鮎の像を建てました。昭和四十八年二月二十日 若鮎の碑建設委員なるほどそういうことでしたか。多摩川に棲む鮎は琵琶湖出身の鮎だったんですね。このアーチの曲線部材から吊材を斜めに配置したニールセローゼ橋を渡ります。アーチの真ん中の横つなぎ材の部材長を短くするように設計されているんですね。橋梁の専門家的には「バスケットハンドル型ニールセンローゼ橋」と呼ぶそうです。橋の名称は「柳淵橋」。読み方は「りゅうえんばし」なんですね。橋の上から見る多摩川の景色です。河川の蛇行している様子がよくわかります。上流側です。川の流れが岩盤にぶつかって流れの向きを変えるとき、渦巻く流れによって川底が深く抉られ、いわゆる「淵」になっていくのですが、そういう景観を楽しめる場所です。(青梅の街を散策のコースです)【つづく】人気ブログランキング青梅の街を散策(その5) 柳淵橋を渡る
2022年10月17日
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先週、職場の同僚の御尊父様が亡くなられたので、職場を代表して甲府であったお葬式に参列してきました。甲府へ行くと言うと、職場の女性職員が「♪8時、ちょうどのあずさ2号」でしょうと教えてくれました。年齢不詳のお姉さまだと思っていましたが、その歌、男性兄弟デュオ狩人の1977年のヒット曲「あずさ2号」を知っているとは、ひょっとして、アラフォーは確実に超えて、アラフィフくらいでは・・・。それはともかく、新宿発8時ちょうどのあずさ2号というのはありません。この歌が作られた1977年当時はわかりませんが、今は下りが奇数番号、上りが偶数番号になっていて、あずさ2号は松本発6時8分東京行になります。ということで、9時ちょうど発のあずさ9号の自由席に乗りました。在来線の特急自由席というのは、スイカでそのまま乗車できるというお手軽感がいいのですが、しかし、実はこれが後でとんでもないことになることは予想していませんでした。下の写真は甲府駅での電光掲示板です。でとりあえず、甲府までおおよそ1時間40分、123.8kmの鉄道の旅でした。平均時速はおおよそ74.3km/h。意外と遅いなという印象。まあ、考えてみれば、特急だろうが各停だろうが電車としての構造は似たようなもので、出せるスピードはそう変わらないのかな。特急が早いのは、単に駅を飛ばして走っているから、加速と減速をしなくていいことや、各停が駅に停車している間に追い越していくからということなんでしょうかね。【つづく】ご参考までに、狩人の「あずさ2号」の動画をご覧下さい。人気ブログランキングへ
2015年03月02日
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浅草かっぱ橋道具街の入り口にあたる。南端、浅草通りにある菊屋橋交差点から見えるコックさん。「ジャンボコック」という名前があるみたいですが、ランドマークってこういうものを言うのでしょうね。人気ブログランキングへ浅草かっぱ橋のランドマーク
2015年12月04日
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4月26日(日曜日)は東京都の区議会議員・区長選挙の投票日です。昨日から選挙運動が始まっています。これは墨田区の立候補者の選挙ポスター掲示板です。定数32に対して42名が立候補しています。以前、住んでいた鹿児島県徳之島とは違い、女性の立候補者が多いのは東京という都会だからなんでしょうか。おじ様の多い区議会で当選したら、セクハラを受けるんではないかと心配してしまう、ちょっと目をひいた候補者です。結構。健康的で若々しい雰囲気ですが、うちわで辞めた大臣も選挙のポスターで見る限りは、若々しい感じでしたから、ポスター写真は結構修正している可能性ありですね。日本人離れした容貌ですが、ボリビア生まれで帰化された方です。こちらは若い方ですね。健康的でいいですね。我が家ではセイノケイ疑惑で盛り上がっています。まあ、政策は人柄は別としてイメージだけで盛り上がっているセクハラまがいの記事ですが、MoMo太郎の経験では研修などで女性の研修生がいると男性の研修生も結構、まじめにやってくれるので、何事にもジェンダーバランスが必要だとは思います。そんなわけで女性候補者のみなさん是非とも全員当選して下さい。人気ブログランキングへ
2015年04月20日
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鮨屋萬助・阿倍野歩道橋から見えるのは、通天閣東京タワーとか東京スカイツリーは、電波塔という位置づけもあるのですが、通天閣は単純に展望台という目的だけのアミューズメント施設なんだそうです。、そして、通天閣のネオン広告は昔からこの会社のものですね。大阪発祥の電気メーカーでないのも不思議ですが。そして、通天閣といえば、子供の頃はこんな唄をよく歌っていました。♪お父ちゃんダイヤモンド買うてんか ダイヤモンド高い 高いは通天閣 通天閣こわい・・・ということで高い建物の代表選手の通天閣でしたが、いまはこのビル、あべのハルカス(地上60階建て、高さ300m)です。別の角度からもあべのハルカス撮影してみました。やっぱり、高いですね。そして阿倍野橋にある建物ので、MoMo太郎にとってなつかしいのは、このあべのアポロ小学生の時かな、おばさんに連れられて、はじめて映画を見に行ったところです。以来、時々映画を見に行ったり、ゲームセンターで遊んだりしたところです。【つづく】人気ブログランキングへ
2015年01月24日
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飯田橋にある「東京しごとセンター」です。ここは、東京都民の雇用・就業を支援するための施設だそうです。色々と就職の相談にのってくれるそうですが、できればこの立派なビルで働いてみたいものですね。下の写真は、少年向けのマンガ雑誌などを出版している秋田書店の本社です。人気のあった「ドカベン」、「ブラックジャック」といった漫画はこの出版社の発行する「少年チャンピオン」に連載していました。【つづく】人気ブログランキングへ
2015年02月05日
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山手線の各駅の中で、なかなか名前が出てこない方の駅、駒込(こまごめ)です。しかし、実際行ってみると面白いものがありますね。わさび漬けで有名な田丸屋本店さんの東京営業所があります。それから、ちょっと珍しい「ソープランド太閤」というものがありました。人気ブログランキングへ駒込(こまごめ)
2016年03月26日
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小山市にある道の駅「思川」日曜日に行くと、車を止めるところを探すのに苦労するぐらいの人出です。ここで、おススメなのは肉汁うどん(750円)です。コシの強いうどんと肉汁には、肉のほかにも、ネギ、油揚げ、など具だくさんの肉汁です。ちょっと麺が少なく感じるかもしれませんが、十分お腹に貯まります。人気ブログランキングへ
2016年10月04日
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10月1日に無料で公開された上野動物園へ行った報告の続きです。 まだまだ続きます。上野動物園は上野の山の上にある東園と不忍池側にある西園のふたつに別れています。こども動物園は西園にあり、ここでは子供たちが動物に直接触ってふれあうところです。こちらはブタ、一口にブタといっても色々種類があるのですが、沖縄のアグーブタでしょうか。こちらは、日本在来馬、むかしから日本にいるのウマです。木曽馬でしょうか。ヤギさんもいます。ヒツジさんもいます。こちらのウシも日本在来牛。山口県萩市の沖合にある見島という離島で飼育されてきた見島牛(みしまうし)。今我々が和牛として認識している松坂牛や前沢牛というのは、こういう日本在来牛に外国牛を交配させて改良してきたもので、この見島牛はそういう外国種との交配をしていない牛です。これでも一応、ネズミの仲間のカピバラです。伊豆シャボテン公園などでは温泉に入るカピバラで人気になってましたね。【つづく】人気ブログランキングへ
2016年10月20日
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(この記事は7月5日~6日にかけて福岡県・大分県に起こった豪雨災害の前に訪れた時のものです。被害に遭われたみなさまには心からお見舞いを申し上げます。)福岡県の地図を眺めていたら「筑前大分」という駅が、JR九州の篠栗線(福北ゆたか線)にあることを発見。福岡にある大分(おおいた)とはどんなところか興味があったので出かけてみました。駅はこんな感じ。確かに、筑前大分(ちくぜんおおいた)と書いてありますね。でもホームの駅名標には「ちくぜんだいぶ」。ちなみに隣のけいせんという駅名は桂川と書きます。「だいぶ」という地名は、この町にある大分八幡宮(だいぶはちまんぐう)に由来するのでしょう。ということで、大分八幡宮へ行ってみました。飯塚市の接地した観光案内板がありました。獅子舞の写真なぞあって、これが伝統的な民俗芸能なんでしょうか。なかなか格式のありそうな神社ですね。石柱に彫られた「本邦五所別宮第一」というタイトルはどういう意味でしょうか。本邦五所別宮とは、承平天慶の乱(平将門の乱と藤原純友の乱、10世紀前半)の平定を願い宇佐神宮、石清水八幡宮から勧請した九州の五つの八幡神のことをいいます。また、九州五社別宮、宇佐八幡宮五所別宮、石清水五所別宮、八幡五所別宮などとも呼ばれるそうです。五社とは、大分八幡宮(福岡県飯塚市)、千栗八幡宮(佐賀県三養基郡みやき町)、藤崎八旛宮(熊本県熊本市中央区)、鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)、新田神社(鹿児島県霧島市)の五社を言うそうです。ということで、やはりお参りしましょう。【つづく】人気ブログランキング筑前大分(その1) 福岡県にある大分とは?
2017年07月11日
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お土産でもらった山梨県名物の桔梗信玄餅。桔梗信玄餅は、きな粉をまぶした餅に蜜をかけて食べるお菓子ですが、正しくは容器を包んでいる風呂敷を広げて、その上に餅をときな粉を開けて、蜜をかけて食べましょう。もちろん、お皿の上に広げて食べてもいいのですが、お皿を洗う手間がかかるので、奥さんのためにも、このビニールの風呂敷を活用しましょう。ところで、山梨にはこの笛吹市の桔梗屋が製造・販売する「桔梗信玄餅」のほか、北杜市の金精軒が製造・販売する「信玄餅」もあります。また、福岡にも信玄餅に似た「筑紫もち」→→→ここをクリック というのがをあるそうです。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 桔梗信玄餅の正しい食べ方
2017年12月17日
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去る1月7日の夜、日本三大火祭りのひとつである大善寺の「鬼夜(おによ)」を見物に行ってきました。鬼夜とは、毎年1月7日の夜に大善寺玉垂宮で行われる鬼払い、つまり災難除けの祭事のことです(→→→くわしくはこちらです)こんな「のぼり」も飾られて雰囲気、盛り上げていますね。でも日本三大火祭りってあと何があるんでしょうか???「傘橋(からかさばし)」と呼ばれる、この赤い橋を渡って「鬼夜」が開催される大善寺玉垂宮(→→→こちらです)に向かいます。傘(からかさ)と呼ばれるのは、このように橋の真ん中にひとつだけ橋脚が建てられており、見た目が傘のようだからだそうです。川に入る階段のところに注連縄が置かれているのは、鬼夜の祭りが始まる時に「汐井かき」といって、この川からお清めの水を汲む神聖な場所であり、また奉りに参加する氏子若衆が禊をする場所という神聖なエリアという意味だそうです。こちらが玉垂宮の鳥居です。ややピンのボケた写真になってしまいました。鬼夜の神事が始まるのは、午後7時半なので、MoMo太郎が行った午後5時ごろでは、まだ参拝や見学の方はまばらでしたが、露店は営業開始していました。まずは、玉垂宮に参拝します。これもピンが甘い。玉垂宮の裏にある駐車場にも、もう車が一杯でした。こちらは、奉りに参加する氏子若衆のみなさんが松明の火をとったり暖まったりするためのたき火用の稲わらです。報道関係、それから写真愛好家のみなさんも脚立や三脚をスタンバイ完了ですね。こちらが鬼夜で燃やされる「大松明」です。全部で6本あります。全長13メートル、直径1メートル、重さは約1.2トンの大松明。後ろに結びつけられている太い縄は、尻引綱と呼ばれ松明を移動させる際に氏子が手にして引っ張るのに用いられます。大松明の芯は3本の孟宗竹で、その回りを真竹で包み縄で頑丈に巻かれています。松明上部は点火のために杉の枯葉を入れてあります。ちなみにこの大松明、下請け業者に作らせるのではなく、氏子のみなさんが自ら組み立てているそうです。また立てかけられている細い棒は、カリマタと呼ばれる3メートルほどの二叉の樫の棒で、この大松明を移動させる時に使います。正面の建物が鬼堂と呼ばれる建物で、この中に鬼が奉られているそうです。鬼堂の前には舞台が置かれ、この舞台の上で「鉾面神事」と呼ばれる、赤と青の天狗面をつけた演者が相対しつつ魔を祓う儀式が大松明に火が灯された時に行われます。こちらの桟敷は有料で2,000円を神社に払えば、ここに座って鬼夜の祭りが観覧てきます。陽も沈み始める頃に人も集まってきました。鐘楼にはスクリーンが張られ、鬼堂前の舞台の上に設置されたプロジェクターから、祭りが始まるまで、鬼夜について解説された記録映画が上映されています。神社なのに、なぜ鐘楼があるのかというと、明治2年(1869)に廃仏毀釈令がだされるまで、この玉垂宮には大善寺というお寺が神宮寺として併設されていたためです。【つづく】人気ブログランキング鬼夜(その1)
2018年01月10日
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中野区を歩いています。MoMo太郎は昔、中野区に住んでいました。中野消防署がありました。消防車待機中です。中野新橋入口の交差点です。この道を行くと中野新橋です。中野新橋に住んでいた頃、松村邦洋さんとかダンカンさんを町で見かけました。あの辺りにお住まいなんでしょうかね。貴乃花、若乃花のいた二子山部屋もありました。こちらが青梅街道です。高層ビルが見えるのが、中野坂上の方です。【つづく】人気ブログランキングへ駅間歩き 丸ノ内線(新中野~中野坂上)(その3) 中野新橋入口
2019年10月11日
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東京メトロ丸ノ内線銀座駅から東京駅に向かっています。侘しい感じのするJRの高架橋の側道を入っていくと、警視庁丸の内警察署がありました。これが警視庁丸の内警察署の建物ですが、なんか随分わかりにくいところにありますね。MoMo太郎の記憶で丸の内警察署というと、お濠端の日比谷通りに面して第一生命ビルとペニンシュラホテルの間にあったと思ったのですが、いつの間にかここに移転していたのかと思いましたが、実は、2020年(令和2年)完成予定で庁舎建替え計画が進行中であり、それに伴い、2017年(平成29年)3月21日より住友不動産丸の内ビル(旧・東京都庁第三庁舎)を仮庁舎としているそうでした。さらに東京にもこんなところがあったのかと思うような、JRの高架橋の下を抜けて、東京国際フォーラムの方へ出ました。そして馬場先通りのこの交差点。東京国際フォーラム東に出ました。【つづく】人気ブログランキング駅間歩き丸ノ内線(銀座~東京) (その5) 丸の内警察署(仮庁舎)
2020年06月02日
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いよいよ後楽園ですね。地下鉄丸ノ内線と講道館国際柔道センターの間の道を歩きます。文京シビックホールの裏口?楽屋口でした。ということはここで出待ちしているとシビックホールに出演した人に会えるのかな。そして、ここが東京メトロ丸ノ内線後楽園駅です。駅の入口には自転車が一杯。丸ノ内線と南北線の後楽園駅があるのですね。後楽園界隈、もうすこし歩いてむみます。【つづく】人気ブログランキング駅間歩き丸ノ内線(本郷三丁目~後楽園) (その9) 後楽園駅
2020年08月03日
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江東区深川、仙台堀川にかかる海辺橋のたもとにある「採荼庵跡(さいとあんあと)」です。立派な石柱も建っています。元禄2年(1689)に松尾芭蕉は、ここから『おくのほそ道』の旅へ出発したそうです。採茶庵は芭蕉の門人である杉山杉風の別荘だそうですが、正確な位置はわかっていないようで、おそらくこの辺りだろうということで、こういう施設があるようです。濡縁に腰掛けた芭蕉像は、これから旅に出るらしく旅装束でした。人気ブログランキングへ採荼庵跡の松尾芭蕉
2020年10月18日
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高田馬場ってずっと「たかたのばば」と思っていましたが、「たかだのばば」と濁るんですね。知りませんでした。JRの駅名標の表記も「たかだのばば」でした。西武鉄道の駅名もローマ字表記では「Takadanobaba」東京メトロ東西線も「Takadanobaba」でした。ところで、高田馬場という地名は、寛永13年(1636)、徳川三代将軍家光により旗本達の馬術の訓練や流鏑馬などのために造営された馬場のことだそうで、その馬場がどこにあったのかを探しに行くのが今回の目的です。ということで、高田馬場駅前に立つ平和の女神像に見送られて早稲田の方角へ歩き出しました。ちなみに、この像は東京藝術大学名誉教授の山本豊一氏の製作で、昭和49年に高田馬場再開発記念として建立されたのだそうです。【つづく】人気ブログランキング高田馬場を探して(その1) 「たかたのばば」と思っていました。
2021年10月21日
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白髭神社を過ぎて、少し行くと、ちょっと変わった岩がありました。この説明板によると、「弁慶の腕ぬき岩」というそうです。ごつごつとしたこの大きな岩の下側に、なるほど、大人の腕がちょうど入るほどの穴が巨石を貫いていました。先ほどの白亜の巨岩といい、大地の不思議な力を感じる奥多摩むかし道です。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その9)弁慶の腕ぬき岩
2023年05月14日
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6月17日(土)、JR東日本の駅からハイキング「両国~向島 文学散歩」に参加してきました。出発はJR総武線の両国駅です。駅からは、国技館通りを南に向かいます。国技館通り沿いには、土俵入りするお相撲さんの銅像がありました。これは両手を広げる不知火型(→→→こちら)ですね。こちらは右手のみを伸ばしている雲竜型の土俵入り。こちらの力士さんは人気があるのか、みんなに撫でられて、お腹の上の地金が見えていました。国技館通りが国道14号線(京葉道路)と交わるちころは丁字路になっていて、そこには回向院(→→→こちら)があります。京葉道路を東に少し歩くと、横綱横丁という飲食店などが立ち並ぶ通りがあります。その入口に「芥川龍之介成育の地」の地の説明板があります。芥川龍之介は明治25年(1892)3月1日、東京市京橋区入船町8-1(今の中央区明石町)に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれたそうです。辰年辰の日辰の刻の生まれたのでにより龍之介と命名されたと言います。しかし、生後7ヶ月で生母ふくの病のため、当時本所区小泉町15番地(今の墨田区両国三丁目)に住んでいたふくの長兄、芥川道章に引き取られ、後13歳の時、芥川家の養子となったということで、まさにこの地で芥川龍之介は育ったということです。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その1)芥川龍之介成育の地
2023年07月12日
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