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竹橋を渡り北の丸公園の方へ向かいます。竹橋の名は、竹を編んで渡した橋だったからとも、また後北条家の家臣・在竹四郎が近在に居住しており「在竹橋」と呼んだのが変じたものとも言われているそうです。橋の名称は「竹橋(たけはし)」(→→→こちら)と濁らないんですね。でも東京メトロ東西線の竹橋駅は「たけばしえき」と呼んでいます。竹橋をわてると見えてくるのがこの建物。東京国立近代美術館(→→→こちら)です。近代美術館なので、明治時代後半から現代までの近現代美術作品(絵画・彫刻・水彩画・素描・版画・写真など)を収集して展示する美術館です。またこの建物は、近代美術館評議員であったブリヂストン創業者の石橋正二郎個人が、工学博士谷口吉郎の設計による建物を新築し「寄贈」したんだそうです。そして、こちらの建物は国立公文書館(→→→こちら)です。日本政府の付属機関等から移管された歴史資料など重要公文書を一般公開している施設だそうです。その他にも、江戸城の紅葉山文庫や昌平坂学問所から引き継いだ古書・古文書をはじめ、太政官の公文書、政府が収集した古文書・洋書などを含む貴重な資料群や公文書ではないが個人や団体から寄贈された貴重な書類や書籍なども保管しているそうです。また、特別展や企画展などの展示もあるそうなので、例えば、令和6年春の特別展として「夢みる光源氏―公文書館で平安文学ナナメ読み!―」というのが開催されていて愛子様も見学されたとか。興味があれば見学にいくのもいいですね。ちなみに入場料は、MoMo太郎の好きな「無料」です。(千代田区散策コース)【つづく】人気ブログランキング千代田区を散策(その4) 竹橋、東京国立近代美術館そして国立公文書館
2025年03月06日
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「ハウンド・ドッグ(Hound Dog)」は、エルビス・プレスリー(Elvis Presley)が、1956年に「冷たくしないで (Don't Be Cruel)」のB面として発表した曲です。A面、B面ともにヒット曲となり。「ハウンド・ドッグ」は1956年8月18日に、ビルボードのポップ・チャートの1位を獲得。以後11週連続でその座に留まり、この年の年間ランキングで第1位となりました。しかし、この曲のオリジナルは、1953年にビッグ・ママ・ソーントン(Big Mama Thornton)が発表した曲で、ビルボードのR&Bチャートで7週連続1位となり、200万枚近くを売り上げた。ソーントンの最大のヒット曲だったそうです。ちなみに、「ハウンド・ドッグ」とは猟犬のことではなく、当時の黒人のスラングで安っぽいヒモ男の意味であり、ソーントンの歌詞では、You ain't nothing but a hound dogBeen snoopin' 'round my doorYou can wag your tailBut I ain't gon' feed you no moreあんたはただのヒモ男(ハウンド・ドッグ)よドアのあたりを嗅ぎまわっているばかりしっぽを振ってきたってエサはやらないわよとなっているますが、プレスリーは、ヒモ男のことを歌うわけにはいかないので、歌詞を変えて、You ain't nothin' but a hound dogCryin' all the timeWell, you ain't never caught no rabbitお前はただの猟犬いつも吠えまくっているでもウサギの一匹さえ捕まえたことがないよと歌っています。人気ブログランキングへ参考にMoMo太郎がDictationした歌詞を載せておきます。【Big Mama Thorntonの歌詞】You ain't nothing but a hound dogBeen snoopin' 'round my doorYou ain't nothing but a hound dogBeen snoopin' 'round my doorYou can wag your tailBut I ain't gon' feed you no moreTold me you were high classBut I could see through thatYeah, you told me you were high classBut I could see through thatAnd daddy, I knowYou ain't no real cool catYou ain't nothing but a hound dogBeen snoopin' 'round my doorYou ain't nothing but a hound dogBeen snoopin' 'round my doorYou can wag your tailBut I ain't gon' feed you no moreOh play it now, oh, shake it but don't breakOh, beauty, let her howlOh, it makes you feel so niceOh, get 'em, get 'em, get 'em, get 'em, get 'em, get 'emYour hound dogYou made me feel so blueYou made me weep and moanYou made me feel so blueHow you made me weep and moanYou ain't looking for a womanAll you're lookin' is for a homeYou ain't nothing but a hound dogBeen snoopin' 'round my doorYou ain't nothing but a hound dogBeen snoopin' 'round my doorYou can wag your tailBut I ain't gon' feed you no moreAnd bow-wow to you too【Elvis Presleyの歌詞】You ain't nothin' but a hound dogJust cryin' all the timeYou ain't nothin' but a hound dogCryin' all the timeWell, you ain't never caught no rabbitAnd you ain't no friend of mineWell, they said you was high-classedWell, that was just a lieYeah they said you was high-classedWell, that was just a lieYeah, you ain't never caught no rabbitAnd you ain't no friend of mineYou ain't nothin' but a hound dogCryin' all the timeYou ain't nothin' but a hound dogCryin' all the timeWell, you ain't never caught no rabbitAnd you ain't no friend of mineWell they said you was high-classedWell, that was just a lieYeah, they said you was high-classedWell, that was just a lieWell, you ain't never caught no rabbitAnd you ain't no friend of mineWell they said you was high-classedWell, that was just a lieYou know they said you was high-classedWell, that was just a lieYeah, you ain't never caught no rabbitAnd you ain't no friend of mineYou ain't nothin' but a hound dogCryin' all the timeYou ain't nothin' but a hound dogCryin' all the timeWell, you ain't never caught no rabbitYou ain't no friend of mine
2024年05月04日
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一昨日、紹介した海苔に続いて、浦安駅の近くには浦安の名産品を取扱うお店が残っいます。こちらのお店は「浦安名物」の焼蛤のお店です。更に浦安の町の中を歩いて行くと、ここにも焼蛤のお店がありました。浦安は、古くから採貝が行われてきた漁村地帯でした。そこで収穫されたアサリやハマグリなどの貝類は佃煮や缶詰などの加工業者によって製品化され、東京方面に出荷していたそうです。そのような、貝類加工業者は「むき身屋」、貝むき包丁を使って貝をむく人は「むき手」と呼ばれ、昭和30年代まで大勢の女性が活躍していたそうです。だから、このような焼蛤が名物になったのですね。そんな浦安も、高度経済成長によって東京湾沿岸の開発が進み、海水の汚染が進むと漁獲高は年々減少。漁業の将来に不安を抱き転職する住民も増え、昭和37年(1962)に漁業権の一部が放棄され、海面埋立事業が開始されました。その後、昭和46年(1971)には漁業権の全面放棄に至り、公有海面の埋め立てによりできた土地に大規模住宅などが建設され、都市化が進み、昭和44年(1969)に地下鉄東西線が開通すると、都心から近い住宅地に変貌していたそうです。東京郊外のベッドタウンだった浦安を全国的な町にしたのは、やはり、昭和58年(1983)に開業した「東京ディズニーランド」ですね。さらに、周辺には来場者を意識したホテルなども開業して、浦安はテーマパークの町として繁栄しているんですね。町の中に置かれた立て看板です。昼間は路上喫煙してもいいのかい。ここの地名が「猫実(ねこざね)」(→→→こちら)というのですね。今まで歩いてきた、浦安にある「海楽」、「堀江」、「当代島」といった地名は、その由来がなんとなく想像できるのですが、猫実というのはちょっと想像できなかったのですのが、その由来は、調べてみると以下のようでした。鎌倉時代に、大津波で大きな被害を受けた集落の人達が豊受神社付近に堤防を築き、その上に大きな松の木を植え、この松に根を波浪が越さないように願い、「根越さね」と言われた。それが「猫実」と称されるようになったと言われる。そして、街角にあったのが庚申塔。説明板には、こう記されていました。猫実の庚申塔 昭和五十七年(一九八二)市指定有形文化財 この庚申塔 は、正徳五年(一七一五)一月、猫実村の庚申講の信者によって建てられました。青面金剛菩薩を刻んだ庚申塔では、市内で最も古いものです。塔の正面には、邪鬼(たたりをする神)を踏みつけておさえている青面金剛菩薩、庚申の干支にちなんで「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿が刻まれています。庚申信仰は、もともと道教(中国の民間信仰から発達した宗教)の三尸(さんし)説に始まったものです。三尸説では、六十日に一度の庚申の夜に、人の体内にいる三尸の虫が抜け出し、天の神様にその人が犯してきた罪を告げるのだといわれています。これを聞いた天の神様は、その分だけその人の命を削りとり、早死にさせるので、この虫が抜け出ないよう、信者たちは夜どおし話や会食をして過ごしました。ただし、この地域では、庚申の晩に祭礼を行ったというような記録は残っていません。大正時代には、毎月二十五日が祭礼日とされ、現在でもこの日に病気の回復などが祈願されています。かつては、祭礼の日には、お堂の前の道に露店が立ち並び、多くの参拝者でたいへん賑わったといわれています。 今日でも、先人たちの信仰心が脈々と受け継がれ、この塔は「猫実の庚申様」として、地域の人々に大切されています。 平成十六年一月 浦安市教育委員会。こちらが、青面金剛菩薩です。庚申塔をガードする神猿像。口を閉じているのと、開いているのが、神猿の阿吽の呼吸ですね。庚申塔前の商店街です。毎月、25日には縁日が行われているのですね。縁日の日に賑わうのかな。庚申通りというの商店街なんですね。ここにも海苔店がありますね。(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その11) 猫実(ねこざね)の庚申塔
2022年03月13日
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中野区を歩いています。MoMo太郎は昔、中野区に住んでいました。中野消防署がありました。消防車待機中です。中野新橋入口の交差点です。この道を行くと中野新橋です。中野新橋に住んでいた頃、松村邦洋さんとかダンカンさんを町で見かけました。あの辺りにお住まいなんでしょうかね。貴乃花、若乃花のいた二子山部屋もありました。こちらが青梅街道です。高層ビルが見えるのが、中野坂上の方です。【つづく】人気ブログランキングへ駅間歩き 丸ノ内線(新中野~中野坂上)(その3) 中野新橋入口
2019年10月11日
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船圦緑道のそばに、この神社がありました。ここに参拝します。本殿へと続く狭い参道の両側には、民家が立ち並んでいました。ようやく本殿が見えてきました。社号碑にはシンプルに「稲荷神社」(→→→こちら)と記されていました。普通は「〇〇稲荷」とか「〇〇神社」という名前が入るはずですが、ここはシンプルに「稲荷神社」。つまり、ここは浦安稲荷でも当代島神社でもなく、稲荷神社というのが社号なんですね。こちらが拝殿、訪れた日が2021年11月14日だったので、七五三詣の幟やパネルがありました。御祭神に豊受大神、應神天皇そして春日大神とされているそうです。稲荷神社といえば、稲蒼魂命(宇加之御魂神)だと思っていましたが、豊受大神というパターンもあるのですね。境内には、やはり戦争に関する石碑もありました。「支那事変出征祈願」とあるので、いわゆる日中戦争に出征した方々の戦勝を願ったものなんでしょうね。稲荷神社のもう一つの目玉は、こちらの「大鯨の石碑」です。いわくありげな石柱が4基並んでいます。大鯨の石碑はこれらしいですね。大鯨の石碑の由来が記されていました。簡単に言うと、明治8年に当代島の住民であった高梨源八と西脇清吉の2人が、浦安の海で鯨をとり、意気揚々と当代島へと戻てくると、村中が大騒ぎとなり、村人がこぞって見学に集まったそうです。(確かに、東京湾で鯨を獲るなんて珍しいでしょう。)そして、大鯨は当時の価格で金弐百円もの高値で売れ、大金を手にした2人は有名人になりました。しかし、有名になりすぎて仕事も手につかなくなり、それを見かねた年配者に「大鯨の碑」を奉納して祀り、記録して称え、この騒動を終わらせた、ということです。境内には、更に見たものは、こちらの鳥居の奥にある。富士塚です。そして、富士山といえば、やっぱり浅間神社ですね。しかし、堀江にあった清龍神社にも富士塚があったし、浦安の人って富士山が好きなんですかね。ということでこの角度から稲荷神社の拝殿をカメラに収めて、次の目的地に移動しました。(浦安散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング浦安物語(その9) 当代島の稲荷神社
2022年03月10日
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。井草八幡宮のわきにあるこの道を抜けて、小学校の横を通ります。桃井第四小学校だそうです。このあたり善福寺という地名なのに「桃井」という校名なのはちょっと不思議です。近頃、みかけなくなっていた、二宮金次郎の石像がありました。善福寺公園前のバス停に到着です。善福寺公園は善福寺池を中心にした公園です。池は「上の池」と「下の池」に分かれています。まず西側の「上の池」の周りを歩くことにしました。ここは池のボート乗り場です。池の水は、かつては神田上水の補助水源として利用されたほど澄んでおり、湧水量も多かったそうです。井の頭池(井の頭恩賜公園)・三宝寺池(石神井公園)と並び武蔵野三大湧水池として知られ ていました。また善福寺池の名称は、昔、この湖畔付近にあった寺の名からとったと伝えられています。ここからすこし離れたところに善福寺というお寺がありますが、このお寺は昭和17年(1942)に善福寺に改称したそうです(→→→こちら)。さて、湖畔にあった、この建物は、善福寺公園サービスセンターです。公園の施設を使いたい時などに申し込みを受け付けてくれるようです。この足で漕ぐダイブのボート、サイクルボートというそうですね。広々とした池でのんびりとボートで遊ぶって楽しそうですね。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その15) 善福寺公園「上の池」
2020年11月22日
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第一京浜をさらに横浜方面に向かって歩いて行くと、京浜子安駅の表示がありました。とりあえず京急線の駅間歩きではないですが、ちょっと立ち寄ってみます。こちらが京浜子安駅。今は京急川崎駅というように京急〇〇駅のが多いですが、この駅だけは京浜子安駅?島式ホーム2面4線を有する地上駅でした。駅舎とホームは地下通路と跨線橋によって連絡しているみたいですが、改札口は京浜急行の線路を踏切を渡って向こう側に行かないとないみたいです。ということで、踏切を渡りました。よく見ると、駅名は「子安駅」。京浜も京急も付かないんですね。国道の標識間違えているのに誰も気がつかないのか、それとも駅名を変更したのに国道の標識を変える予算がないのかな。隣接するJR東海道線は、この地下道で越えていくのですね。東海道線の上にある高架橋は横浜線になります。ちなみにJRの方には子安駅はありません。(新子安から東神奈川へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(新子安~東神奈川)(その2) 京浜子安駅?いえ子安駅です
2023年09月26日
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さて、江戸時代、「みりん」の醸造で栄えた流山ですが、その開発者のひとりと言われる五代目秋元三左衛門の墓もここ光明院にありました。秋元 三左衛門(あきもと さんざえもん)は、天晴味醂(あっぱれみりん)の製造元として知られた流山の秋元家当主が襲名した名跡だそうです。この五代目秋元三左衛門(宝暦7年(1757)~文化9年(1812))は双樹と号し、俳人としても知られ小林一茶と親交があり、また経済的にも一茶を援助していたそうです。お墓の前には、この秋元双樹についての説明板がありました。ちなみにこちらの墓石が、双樹ものになります。そして、こちらが妻の墓石ということです。亡くなっても一緒のお墓ではなく夫婦別々の墓石があるのですね。きっと奥さんとしては、死んでからも一緒にいたくはなかったということですか。境内には、双樹の句碑が建立されていました。「庭掃て そして昼寝と時鳥」という句だそうです。夏井いつき(→→→こちら)の採点ではどうなんでしょうか。この大きな石碑は双樹と一茶の連句が記された句碑です。長月朔日(ついたち)豆引や跡は月夜に任す也 双樹烟らぬ家もうそ寒くして 一茶という句だそうです。夏井いつきさんに代りMoMo太郎が意味を解説すると、九月一日 うれしい取入の豆引だが、ああ疲れた。見れば一面の抜き跡。あとはお月さんにお任せして、さぁ引き揚げよう。 双樹 そうだね。夕飯の炊事の煙があちこちから棚引きだし、大気がひんやりしてきた。まだ煙が立っていない家までも、なんとなくうそ寒い感じだよ。 一茶という連句です。こちらにも句碑がありました。「松毬(まつかさ)のからからと秋気(しゅうき)澄(すみ)にけり」松本翠影(1891-1976)という流山出身の俳人の句だそうです。そんな光明院を出ると、流山の赤城山の全体の姿が見えました。(流山歴史探索のコースです)【つづく】人気ブログランキング流山の江戸回廊(その6) 光明院と秋元双樹と小林一茶
2022年11月08日
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福岡市博多区にある雑餉隈(ざっしょのくま)。この難読地名の町、興味があったので、再び訪れてみました。西鉄大牟田線の雑餉隈駅で降ります。こちらが雑餉隈駅の改札口。しかし、「雑餉隈」、不思議な名前ですね。雑餉隈どいうのはどういう由来の地名なのでしょうか、「雑餉」の「餉」というのは「夕餉(ゆうげ)」とか「朝餉(あさげ)」という食事を意味する漢字ですね。つまり「雑餉」とは、「饗応のための酒や食物」のことです。さて「隈」は、九州ではよく地名に使われています。例えば、福岡市内でも、月隈、金隈、七隈、干隈、隈元、隈副、田隈、尾の隈、大隈という地名があります。筑後地方では、隈、篠隈、小隈、乙隈、横隈、山隈、湯ノ隈、隈江、今隈という地名があるそうです。これらの土地、動物のクマが出るような山奥の地名ではなく、川の流れが曲がっている、あるいはまがった川に囲まれた、土地のすみの方、奥まったようなところです。つまり、雑餉隈というのは、「饗応のための酒や食物が提供される、すみの方の土地」という意味かもしれません。確かに、この場所、福岡から大宰府に向かう途中の旅人に、食物を提供する飲食店みたいなものがあったところかもしれませんね。久留米で職場の職場の人に聞くと、たいてい「雑餉隈には、飲み屋が多い」というのですが、行ってみると確かに、こんな飲食店なんかもありました。また、ちょっとピンク系のお色気が売り物の店もありました。フィリッピン系、今は珍しいような気もします。居酒屋の上には「麻雀大学」という教育機関(?)も。麻雀大学を卒業すれば、こちらの「重役室」を目指して、麻雀の腕を磨いて下さい。、と、色々ありましたが、でも、期待したほど、こういう飲食店や風俗店があるわけでもなく、この程度なら普通の郊外の町と大して変わりはないように思いました。【つづく】人気ブログランキング雑餉隈(ざっしょのくま)をブラブラ(その1)
2017年08月24日
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久留米市に津福という地区があります。そこにある水路、多分、水田に灌漑するための用水路、があります。周辺の土地よりも盛土されて高くなったところを流れているようです。今は冬なので水を流す必要が無いので、水路は空っぽです。水路の端はパイプでさらに流れるようになっていて、この斜面の下に向かって流れているようですが、しかし、゜この道路の下を流れているようで、これはいわゆる「伏せ越し」とか「逆サイフォン(→→→こちらです)」と呼ばれる形式になっているようです。この仕組みは「ベルヌーイの定理(→→→こちらです)の応用です。久大線のところまで続いています。水路は線路の下を逆サイフォンになって流れているようです。この水路、まだ続きます。ここからまたも逆サイフォン。家と家の間を流れ、まだ、このあたり水田がありますね。そして、またも逆サイフォン。さらに追いかけて行くと、こんなところに出てました。でも、まだ、♪水路は続くよどこまでも。道路の側溝みたいですが、用水路の続きです。ちょっと幅が広くなっています。そして、盛土の上をまた流れます。ここでさらに逆サイフォンになって、また続いているのでしょうか?この川は金丸川で、この先は住宅街です。対岸から見ると、ここで終わって、金丸川に流しているのでしょうかね。水色の線が、今回歩いた道筋です。人気ブログランキングへ逆サイフォン
2018年12月20日
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今では死語となりましたが、むかしは「心ブラ」(しんぶら)という言葉がありました。心ブラとは大正時代に東京で流行した『銀ブラ』にちなんで大阪で使われた言葉で、大阪の繁華街である心斎橋をブラブラすることを意味していました。ということで、皆さん心ブラされています。ちょっと古風な感じの標識です。大阪発祥の「元祖廻る元禄寿司」(→→→こちら)心斎橋筋にもありました。しかし、大阪に来たら食べたいものは、なんといっても「きつねうどん」。ということで、お昼はこれでした。心斎橋筋北商店街の南橋、長堀通側の入り口です。【つづく】人気ブログランキング追伸気がつくと、アクセス数が3百万を超えていました。ご訪問いただいた皆様ありがとうございます。神戸・大阪へ行ってきました2020(その5) 心ブラ
2020年02月17日
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千葉県の歌というのがあるそうです。「せがれ館山 毛は茂原 ちょいとそこらを佐原せて~ 本当にあなたは銚子よい 早く入れてよ千葉つけて~ちんちんぷらぷら まんまんぱくぱく佐原あたりは良いけれど 九十九里まわせば銚子よい 姉ケ崎から五井五井と 八街いけない ちょい松戸~ちんちんぷらぷらまんまんぱくぱく」という歌詞を以下のメロディーで歌うそうです。忘年会や新年会で、本気で歌うと、セクハラになるかもしれませんから、気をつけて下さいね。昨夜、間違って書きかけたままアップしてしまいましたので、削除して再度アップしました。コメントをいただいた皆さん大変申し訳ありませんでしたm(__)m。人気ブログランキングへ千葉の歌
2015年12月05日
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2020年11月22日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して千葉県柏市を歩いた報告です。ちょっと古めかしいコンクリートの門柱と小屋。ここへ戦争中、柏市にあった高射砲第二連隊の営門と歩哨所が移設され、保存されています。実際、千葉県柏市は軍都の町でした。首都防備計画の一環として1938年に柏飛行場ができ、その防空を担当する高射砲部隊があったということです。考えてみれば、千葉県って今でも軍事関係の施設や部隊がありますね。この近くには海上自衛隊の下総航空基地(→→→こちら)や陸上自衛隊の習志野駐屯地(→→→こちら)などがありますね。また、今の新京成電鉄の路線も旧日本陸軍鉄道連隊が演習用に敷設した軌道敷を利用したものだそうですね。移設されたのはこの児童公園で、ここで遊ぶ子供たちが将来、戦争に巻き込まれないことを願います。富勢冨士見坂という道路を進んでいきます。むかしは、ここから富士山が見えたのかもしれませんね。この坂を下って、再びここに戻ってきました。「松ヶ崎城跡」(→→→こちら)です。やっぱり柏市って大昔から軍都だったんですね。松ヶ崎城跡のある丘陵をまた上ります。松ヶ崎湧水(→→→こちら)があります。環境省の千葉県の代表的な湧水としてホームページに紹介されている湧水です。わずかですが湧水があるようでした。その湧水の上にあった屋根付きのお地蔵様です。松ヶ崎湧水の後、今回の駅からハイキングのコースはこの北柏駅で終わりです。北柏駅、もともとは貨物駅として開業したようですが、周辺が宅地開発されたこともあって旅客駅も併設されたそうです。そのため無理矢理、駅を造ったせいかホームがカーブしていました。柏市、意外と興味深い町だとわかりました。【了】人気ブログランキング柏市の歴史を感じる(その6) 軍都だった柏市
2021年01月19日
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(この記事は平成29年7月5日から6日に九州北部地方で発生した九州北部豪雨災害の前に訪れた時のものです。被害に遭われたみなさまには心からお見舞いを申し上げます。)また、歩き出します。西鉄二日市駅のホームに停車中の「旅人(たびと)」(→→→こちらです)。西鉄二日市駅と大宰府駅を結ぶ定期列車で、愛称の「旅人」は万葉集の代表的な歌人・大伴旅人(おおとものたびと)に由来するそうです。ちなみに大伴旅人は 大宰帥(だざいのそち)、太宰府の最高責任者として大宰府に赴任したそうです。西鉄二日市駅の横にあった石碑と石灯篭。二日市、つまり毎月2の付く日に市がたったというこの町の歴史を感じさせますね。MoMo太郎が徳之島に住んでいた頃、お世話になった徳洲会病院が筑紫野市二日市にもありました。「命だけは平等だ」がモットーの徳洲会病院です。年中無休24時間オープンですから救急救命では安心できるかも。診療科も色々そろっているようです。醤油、味噌を作っているお店がありました。カラオケ店のオーナーがレコードを出したということでしょうか?豊島与志雄(→→→こちらです)という作家の作品が集められているようですね。天神という名前の交差点です。紫色ではないくすんだコンクリート製の紫橋です。紫駅に着きました。駅名の表示が紫色ですね。【つづく】人気ブログランキングへ駅間歩き 西鉄太宰府線(西鉄二日市~紫) 徳洲会病院
2017年08月08日
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逗子海岸にやって来ました。富士山が見えるなかなかの映えスポットです。訪れた時期は3月10日で、富士山はまだ雪に覆われていましたが、逗子からこんなに近くに富士山が見えるとは思ってもみなかったです。逗子海岸には「太陽の季節」文学記念碑がありました。作家であり政治家でもあった石原慎太郎(1932-2022)が昭和30年(1955年)に発表したデビュー作「太陽の季節」の芥川賞受賞50周年を記念して立てられたもので、岡本太郎制作の「若い太陽」のオブジェが付けられた碑には「太陽の季節ここに始まる」と刻まれています。「太陽の季節」(→→→こちら)は、昭和31年(1956年)には日活から映画化され、この逗子市や三浦市で撮影されていました。また作者の石原慎太郎も逗子に居住していたそうですね。逗子海岸(→→→こちら)は遠浅の海岸で逗子海水浴場としても知られていますが、まだここで泳ぐには早すぎるようでした。でも、多くの人がウインド・サーフィンを楽しんでいました。また、沖合にはヨットも出ていて、マリンスポーツのメッカなんですね。波も穏やかですね。細砂で、貝殻や砂利や泥が少ない砂浜の波打ち際は散歩にも最適ですね。ちなみに足腰を鍛えたい方は、乾いた砂浜を歩かれた方が、いいかも。足が砂にめり込んで、結構、脚にきますよ。大型犬を連れて散歩されている姿も、なんとなく優雅な感じがしますね。しかし、このワンちゃん達が砂浜でオシッコやウンチするとしたら、砂浜で海水浴して砂遊びというのもなんとなく衛生的には問題があるのかな?【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その3) 「太陽の季節」記念文学碑と逗子海岸
2024年04月08日
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土浦港にある銅像です。この銅像は、色川三郎兵衛(いろかわ-さぶろべえ 1841年~ 1905年(天保12年~ 明治38年))という人物を顕彰するために建立されたものです。今の千葉県にあたる下総(しもうさ)国武射(むさ)郡の出身ですが、土浦にある醤油醸造業色川家の養子となり、維新後,県会議員をへて、立憲改進党員として明治23年衆議院議員を2期務めました。その功績として、土浦の町を水害から守るために私財を投じて湖岸堤を建設したことや、霞ヶ浦から町への逆水流入を防ぐため,常磐線の路線を霞ヶ浦寄りに変更させ、線路の盛土で逆流を防ぐようにしたり、川口川と田町川の河口に水門を設置する事業に尽力したそうです。土浦市は醤油醸造において千葉県野田市・銚子市と並ぶ「関東三大銘柄地」と呼ばれていたそうで、大黒屋勘兵衛や色川三郎兵衛などの大きな醸造業者があったそうですが、た大黒屋勘兵衛は明治になると醤油醸造業を廃業し、現在の食品卸業者の国分株式会社を興したそうです。そして、銅像の人物、色川三郎兵衛は私財を投じて湖岸堤を建設したことから、廃業したそうです。現在、土浦では一社だけ醤油醸造会社が残っているそうです。【了】人気ブログランキングへ
2015年08月09日
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甲府を歴史的仮名つかいで「こふふ」と書いたそうで、それに由来して「かふふ来の鐘」というのがホームに展示されています。この釣鐘は、かつて甲府駅上りホーム東端のこ線橋下部に吊り下げられていたものだそうです。そしてその隣にあるのが、旧甲府駅煉瓦倉庫の一部を使用して作られたモニュメントです。そんなものを眺めながら、身延線に乗り換えようと、身延線のホームに行くと、なんと、「スイカ、パスモご利用いただけません」と書いてありました。新宿駅からスイカで入ってきたのに、スイカが使えないとは・・・・、仕方なく、駅員さんに聞くと、甲府でいったんスイカで改札を出て、身延線の目的まで切符を買って入場して下さいといわれたので、そうしました。そんな手間をとっていたのですが、身延線に停まっていた特急「ワイドビューふじかわ」を見て考えました。身延線はJR東海の路線なので、TOICAというJR東海のIC乗車券のみ使える、またはJR東日本とJR東海にまたがっては、Suicaスイカは使えない仕組みになっているのでしょうか。それとも、甲府から目的地まではワンマン運転の各停列車には、IC乗車券の読み取り装置がついていないのか、駅に自動改札がない。といった理由なんでしょうかね。【つづく】人気ブログランキングへ
2015年03月03日
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斜面を登っていくと、穴に入って、横穴墓の構造が見れる個所がありました。「棺座の工夫」と書いた説明板のある横穴です。元々は、穴墓の入口には石の蓋が立て掛けられていました。蓋を外せば再び石室内に入れる構造だったので、一般的な古墳と違い追葬が可能でした。というようなことが記されていました。中を覗いてみるとこんな感じで、横穴の中には「棺座(かんざ)」が二つ並んでいました。棺座というのは、遺体を埋葬する為の仕切りのことです。しかし、ここに葬られていた遺体はどこへ行ったんでしょうかね。しかし、宇宙人の基地だったという痕跡は、みつけられませんでした。こうやってみると、穴の並びは一見不規則のようで、よく見るとなんとなく規則的に並んでいるように思えますね。しかし、この岩の斜面に穴を掘ってお墓にするのはかなりの重労働だったのではと思われます。斜面を登り切って、吉見百穴の頂上からの眺望です。秩父の武甲山あたりまで見えています。天気が良ければ、富士山まで見えるようです。写真前方左手に見える森は、国指定の史跡「武州松山城跡」になります。頂上にはお店があるようで、「やさい直売所」の幟もありましたが、営業している雰囲気はなかったです。(吉見百穴の周辺)【つづく】人気ブログランキング吉見百穴(その5) 横穴の中をのぞいてみました。
2023年06月02日
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こちらの横穴は、入り口が支保工で補強されていました。「この洞窟は地下軍需工場跡地です」の表示がありました。中にいることはできませんが、格子の間から内部を撮影してみました。こちらも、工場の入口だそうです。工場の名前は「中島飛行機大宮製作所 吉松地下軍需工場」といったそうです。この入口にあった説明板には、昭和18年(1943)に中島飛行機大宮製作所が新設。中島飛行機武蔵製作所(多摩製作所=海軍機)が製造していた海軍向けエンジン部品生産増産のために開設。昭和19年に中島飛行機武蔵製作所が空襲を受けたことにより、大宮製作所の生産能力確保のために疎開先の地下工場として吉見に地下工場が建設。通称の「吉松地下工場」とは、「吉見と松山」を意味しているという。といったようなことが書かれていました。こちらも中を撮影してみました。かなり大きなトンネルを掘っていたんですね。ここの岩盤は凝灰質砂岩というそうです。吉見百穴に併設されている「吉見町埋蔵文化財センター」にあった軍需工場の模式図です。縦と横の洞窟がそれぞれ交差し碁盤の目のようになっているのですね。(吉見百穴の周辺)【つづく】人気ブログランキング吉見百穴(その7) 戦争の痕跡「軍需工場跡」
2023年06月04日
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2025年2月11日、建国記念日、JR東日本の催行する「駅からハイキング 御茶ノ水駅開業120周年御茶ノ水駅の周辺の名所めぐり」に参加してきた報告です。出発はこちら御茶ノ水駅聖橋口。最近改装されて綺麗になりました。最初の目的地は、こちら東京復活大聖堂(ニコライ堂)(→→→こちら)です。国民の祝日だったせいか、それとも朝早かったのか、わかりませんが中に入ることはできませんでした。この協会は、日本ハリスト正教会教団の中心を担う聖堂で、この聖堂を建てたニコライ大主教の名をとり、ニコライ堂の愛称がつけられています。また、1962年には国の重要文化財に指定されています。生神女庇護(しょうしんじょひご)の壁画です。生神女は、日本正教会で最も頻繁に用いられる聖母マリアの称号だそうで、毎年10月14日には「至聖なる我が女宰生神女永貞童女マリヤの庇護祭」という祭が行われているそうです。(千代田区散策コース)【つづく】人気ブログランキング千代田区を散策(その1) 東京復活大聖堂(ニコライ堂)
2025年03月03日
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全国の市の中で最も面積が狭い(5.11km2)にもかかわらず、北隣のさいたま市、西隣の戸田市、東隣の川口市とも、合併もせず、「長い物には巻かれない」という姿勢には清々しさも覚える埼玉県蕨(ワラビ)市へ行ってきました。こちらは蕨駅東口側です。やや賑やかな感じのするところですが、地図のように駅は蕨市の東端にあり、この先は川口市です。ということで蕨駅の西口側、こちらが駅の西口です。東口側に比べると、賑やかさが足りないようですが、こちらに向かって歩いて行きました。ちなみに、このように駅舎の西口は立派です。【つづく】人気ブログランキングへ埼玉県蕨(ワラビ)市散策(その1) 京浜東北線蕨駅
2016年02月22日
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♪久しぶりに 手をひいて 親子で歩ける 嬉しさに 小さい頃が 浮かんで来ますよ おっ母さん ここが ここが二重橋 記念の写真を 撮りましょうね というわけで、島倉千代子の歌「東京だよおっお母さん」の歌のとおり。皇居にやってきました。二重橋しかし、やっぱりありましたね。写真屋さん。カメラだけでしたが。ここで、田舎から出てきた母親の手を引く娘さんが、自分でニコンの一眼レフを取り出してお母さんの写真を撮ったら興ざめですからね。やっぱり、こういう写真屋さんが観光地には不可欠ですところで、島倉千代子のこの歌、YOU TUBEの映像で確認するとセリフが入ってますね。【セリフ】おっ母さん ネェおっ母さん 久し振りに こうして手を繋いでおっ母さんと 一緒に東京見物できるなんて アァ とても嬉しいわホラ おっ母さん 見てご覧なさい ここが宮城(きゅうじょう) 二重橋よ森進一のセリフはダメで、島倉千代子の場合はオーケーだったんですかね(^0_0^)。映像はコチラ→http://jp.youtube.com/watch?v=HQeBIGcaEGI
2008年10月07日
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伊仙町にむかしあった徳之島農業高校です。このように残っているのですが、建物は伊仙町教育委員会に利用されています。人気ブログランキングへ
2013年07月17日
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上野駅を東西に跨ぐ「パンダ橋」です。人気ブログランキングへ
2015年04月02日
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50年前の10月10日に東京でオリンピックが開催されたそうです。そんなわけで、秋はスポーツの季節でもありますが、東京五輪、東洋の魔女、回転レシーブとか言われても、MoMo太郎の年齢では当時は幼すぎてちょっとピンときません。そんなわけで、上野の国立西洋美術館の前庭にある彫刻の紹介を続けます。これはプールデル・エミール・アントワーヌの作品、「弓をひくヘラクレス」です。股間のこういうこともしっかり作り込んでいます。写実は芸術の原点ですね。そして、この国立西洋美術館、オーギュスト・ロダンが相当好きなんでしょうね。この「地獄の門」という作品もロダンの作品です。そして、この門の上にいるこの人、やっぱり、「考える人」なんですね。よっぽど、ロダンという人は。この考える人というのがお気に入りだったんでしょうね。そして、「地獄の門」の前に立つ若いカップルです。余計なお世話ですが、この姿がお二人の将来を暗示していないことを祈ります。【つづく】人気ブログランキングへ
2014年10月10日
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つくばエキスプレス(正式な会社名は首都圏新都市鉄道株式会社)のキャラクターのスピーフィです。名前は一般公募で選ばれたそうです。キャラクター作者はハマダルコラさん。名付け親は茨城県つくば市にお住まいの福井淑美さんです。 本当にスピーディで未来(Future)を連想させるつくばエキスプレスです。写真は、つくばエキスプレスのホームページからダウンロードしました。
2010年06月24日
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エチオピアでの食事を紹介します。ある日のメニューです朝は炒り卵と肉を混ぜた物をインジャラで食べました。そして、お昼は、この肉屋さんで、焼いた肉をインジャラで食べました。写真のようにミンチにした肉を食べるのをクットフォーと呼びます。4人で行ったのですが、食べたのはこんなにあり、全部食べきれず残してしまいました。夜は当然彼女の作るビーフカレーでした。ちなみにエチオピアでは、水曜日と金曜日はファーステイングデイとして、肉は食べません。
2007年11月29日
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浅草から錦糸町に出ようと思い、暑いので歩くのもキツイかったし、タクシーというほどお金がある身分でもなく、墨田区役所前から墨田区内循環バス、すみまるくんに乗りました。料金は100円でICカード(SUICAやPASMO)も使えます。町の中の狭い道を走るので、近所へ買い物にいつたりするのには便利なバスかもしれません。それから、墨田区内の東京スカイツリーなんかの観光に行く人にも便利ですね。人気ブログランキングへ
2015年07月15日
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10月1日に無料で公開された上野動物園へ行った報告の続きです。動物園に行くと、必ず見たい動物、いわば必須動物ともいえるのは、まず、この百獣の王、「ライオン」上野動物園にいるのは、インドライオンということで、アフリカの草原に棲むアフリカライオンと違いインドの森の中に棲んでいるので、飼育環境もその雰囲気を出しているそうです。しかし、しっかりお昼寝中のライオンさんでした。そして、スマトラトラです。インドネシア国スマトラ島の熱帯モンスーン林に棲むトラで、トラの中で最小の亜種になります。このトラも絶滅の危機に瀕しているせいで、野生のトラをそのまま生け捕りにして持ってきたものではなく、この上野動物園や他の動物園で生まれたトラを持ってきているそうです。ひょっとしたら、動物園の使命とは絶滅する生き物たちを繁殖させて、その個体数を増やすということになるのかもしれませんね。ところで、トラといえば、MoMo太郎の世代では、これですね。【つづく】人気ブログランキングへ上野動物園(その8) 動物園の必須動物
2016年10月17日
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久しぶりに東京に帰って、言問橋のあたりを散歩していた時、「蟻の町」のことを思い出しました。多分、そんな名前の区域が、言問橋の台東区側にあったことなんて、覚えている人はほとんどいないと思いますし、MoMo太郎も、むかし、叔母に聞いた話でしか知りません。言問橋の台東区側です、このあたりが「蟻の町」だったと思います。蟻の町というのは、「バタ屋」を生業とする人々が住んでいたところです。バタ屋というのは、今でいう廃品回収業のことですが、屑屋というの呼び方もあったと思います。私の印象では、背中に大きな丸い竹駕籠を背負い、道端に落ちている廃品を拾って竹駕籠に入れていったのがバタ屋と呼ばれていて、リアカーを曳いて各家庭を回って古新聞や廃品の重さを竿秤で計って、それなりの代金を置いて、古新聞などを持っていっていた人が屑屋だったような気がする。そんな人たちが、今の墨田公園のあたりに住んでいたのです。当然ながら、貧しい暮らしだったと思いますが、それが、私の生まれる前に移転していったということです。むかしの浅草界隈というのはそんな場所もあったようなところだったのですね。今ではそんな面影もなくなってしまいましたが。人気ブログランキングへ
2013年06月10日
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上野の不忍池に行ってきました。「不忍池」の名は、諸説あるそうですが、かつて上野台地と本郷台地の間の地名が忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼ばれていたことに由来するそうです。また、ここに池があるのは、縄文時代の頃にはこの辺り一帯は東京湾の入り江であったものが、その後海岸線の後退とともに取り残されて、紀元数世紀頃に池になったと考えられているそうです。今では池へ流れ込んでいた川は埋め立てられて、今の池の水は京成電鉄上野地下駅構内に漏出する地下水やJR東北新幹線上野駅付近のトンネル内に漏出する地下水が水源となっているそうです。このようにハスの繁殖が多いのです。花が咲く6月頃はきれいだったでしょうね。弁天島とボート乗り場の間の橋の付近で撮影しました。鯉もこのように多いのですが、外来魚のティラピアなどもいるそうです。ティラピアは食べると結構おいしいので、インドネシアにいる時なんかはよく食べていました。不忍池のボート池です。ここは随分昔からあったそうですね。MoMo太郎の祖父もここでボートに乗ったことを生前話していました。【つづく】人気ブログランキングへ上野周辺(その3) 不忍池の水源は?
2015年10月17日
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街角で見かける自動販売機(vending machine)。結構便利で、時々利用しますが、こんな自動販売機もあるのですね。普通の自動販売機よりも温度が2度高く設定されているそうですね。冬の寒い時期には有り難いかも。でも、普通の自動販売機の缶コーヒーでも、飲む前にしっかり振ってあげると、結構温度が上がって熱いくらいなるのを知っていました。どうして、そうなるのか? 多分、温め方にムラがあって、熱い部分が広がるのかも。そして、さらにこれは自動販売機「災害救援ベンダー」なので、災害等で停電になった場合でも、専用キーによる人的操作で非常用電源に切替え、自販機庫内の飲料を提供することができます。こちらはWi-Fi機能をもった自動販売機。ジュースを買わなくても、スマホのWi-Fiがつながりました。街中にこの自販機が増えると、ちょっとうれしいですね。人気ブログランキングへ自動販売機
2015年12月29日
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山手線の各駅の中で、なかなか名前が出てこない方の駅、駒込(こまごめ)です。しかし、実際行ってみると面白いものがありますね。わさび漬けで有名な田丸屋本店さんの東京営業所があります。それから、ちょっと珍しい「ソープランド太閤」というものがありました。人気ブログランキングへ駒込(こまごめ)
2016年03月26日
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なぜか気になっている東北線の尾久駅で降りてみました。隣の駅は上野と赤羽、この駅を利用する人は近くの王子駅や日暮里駅へ行くときは、上野や赤羽で乗り換えない行けません。まあ、近いのでバスか何かで直接そちらに行くのでしょうけど。こちらが駅舎、こじんまりしていますね。でも駅前には北区の観光案内所がありました。駅から続く一本道、これが「尾久の細道」かも。駅がある方が北区です。そして道を挟んで、荒川区になります。荒川区の方が尾久だったんですね。でも読み方は「オグ」ですね。この道が北区と荒川区の境のようです。途中でこんな植え込みが。見事な木槿(ムクゲ)の花が咲いていました。こちらの道をさらに進んでいきます。いかにも住宅街ですね。【つづく】人気ブログランキングへ尾久の細道(その1)北区と荒川区
2016年07月27日
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時々、マクドナルドを食べたくなる時もあって、今日はなんとなくマクドナルドで、おてごろセット500円の「エグチ」を食べました。「エグチ」とは、エッグチーズバーガーの略称だそうです。同じように「チキチー」(チキンチーズバーガー)と「バベポ」(バーベキューポークバーガー)の3種類のセットがあります。このような「高カロリー、高塩分、または多量の砂糖を含んだ食品」をジャンクフードと呼ぶようですが、まあ、たまに食べるくらいならと思って食べてしまいました。そういえば、最近、マクドナルドのテレビコーマシャルで、あのピエロみたいな人、みかけなくなりましたね。以前は店頭にもあの人形も置いてあったけど、それも見ないですね。マクドナルドのハンバーガーを食べ過ぎて、糖尿病になって、入院しているのかな????人気ブログランキングへ孤独のグルメ ジャンクフード
2016年09月05日
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去る10月1日は「都民の日」でした。都民の日には都の施設が無料で公開されたたりします。ということで、上野へ。勿論、目的地は、世界文化遺産となった西洋美術博物館ではなく。こちらの上野動物園です。こうやってみると、都民の日以外にも、開園記念日の3月20日、みどり日の5月4日と年3回も無料公開しているとは、なんと太っ腹な上野動物園。やはり、上野動物園といえば、これでしょうね。ということでジャイアントパンダ舎へ。しかし、中にはいなくて、外の運動場に、でもこんな感じで観客に背中を向けてゴロ寝とは、サービス精神に欠ける奴ですね。ちょっと待っていると、ようやく立ち上がってくれました。そして、MoMo太郎が動物園から帰る頃には、チョウ愛嬌を振りまいていました。ちなみに、パンダはこんな動物です。目のまわりに黒いクマのある熊です。モノトーンっていうのがなんか地味ですかね。【つづく】人気ブログランキングへ上野動物園(その1) やっばりパンダ
2016年10月08日
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言問橋から見る東京スカイツリーです。この両国橋、橋の中間点にこのような継ぎ目があります。改めて、この橋を横から眺めてみると、やっぱり、橋の中間に切れ目があることがわかります。この言問橋は、ドイツのハインリッヒ・ゲルバーが径間を延ばすために考えたゲルバー橋の形式で設計されています。ゲルバー橋について詳しくは→→→こちら <a href="http://blog.with2.net/link.php?359644" target="_blank" title="人気ブログランキングへ"><img src="http://image.with2.net/img/banner/m04/br_banner_clover.gif" width="101" height="55" border="0" /></a><br /><a href="http://blog.with2.net/link.php?359644" target="_blank" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a>言問橋(その2)
2017年04月07日
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(この記事は7月5日~6日にかけて福岡県・大分県に発生した豪雨災害の前に訪れた時のものです。被害に遭われたみなさまには心からお見舞いを申し上げます。)市役所の近くにあった「道の駅うすい」です。建物はこんな感じの多角形のデザイン。ここで嘉麻定食550円をいただきました。かけうどん、かしわおにぎり(鶏肉の炊き込みごはんをおにぎりにしたもの)、魚のフライ、刺身こんにゃく、そして漬物もついてこの値段はお得ですね。大坂冬の陣や夏の陣で活躍した後藤又兵衛ゆかりの地だったんですね。福岡藩黒田家の支城益富城がこの嘉麻市にあり、そこの城主を努めていたのが後藤又兵衛だったそうです。で二代目藩主の黒田長政とソリが合わなくて浪人したそうです。そして、大坂城の豊臣軍に参加したというそうです。そして、真田丸、昨年のNHKの大河ドラマだったですね。哀川翔が演じてましたね。その前は2014年のNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」では塚本高史が後藤又兵衛役でした。この嘉麻市出身者には、NHK第21代会長 籾井 勝人氏がいます。郷土の英雄、後藤又兵衛が活躍するドラマを作るということは、NHK職員のみなさん、会長への「忖度」でしょうか?その他にも、出身有名人には、将棋名人 加藤一二三劇作家 つかこうへい画家、二科会理事長 織田広喜俳優 瀬戸康史とそうそうたる顔ぶれではないでしょうか?そして、この人、おすぎさん???いえ!違います。出身というわけではなく「おかま」つながりで嘉麻市の観光大使となっているそうです。【つづく】人気ブログランキングOH!嘉麻市(その2) ゆかりの人物
2017年07月16日
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今日、NHKの人が家に来た。受信契約をして欲しいとのこと。「すみません、テレビ持っていないので(これは本当です、久留米に来る時、テレビを持ってこなかったのです、なくても職場のテレビでニュースくらいはチェックできますから不便ではありません)」と断ると、「携帯電話はお持ちですか」と聞かれた「携帯電話も持っていません」そうして、ようやく帰ってもらった。確かに、バカッと折りたためる懈怠電話はもう持っていません。それに携帯電話を持っていることと、NHKの受信料を払うことと関係するのでしょうか、わかりません。携帯電話ってテレビ見る機械じゃないですよね。さて、久留米市に江戸屋敷という地名があります。れっきとした住居表示です。さらにバス態にもあります。久留米にありながら、なぜ「江戸屋敷」なのか? 江戸時代、各藩が江戸に出張所として屋敷をもっていて、それを江戸屋敷と呼んでいたことは時代劇などでもご存知の方は多いはず。では、なぜ久留米に江戸屋敷があるのか。こんな立派な石碑まで建立しています。幕末になると、各藩の江戸屋敷が廃止され、それぞれ国許に戻ることになりました。そこで、久留米藩では、江戸に勤務していた家来で帰参してきた人たちを城下町に住まわせるような屋敷もなかったので、城下町より少し離れたこの地に屋敷地をつくることにしたそうで、ゆえに、この地は、江戸から帰ってきた人たちが住んでいる屋敷地という意味で江戸屋敷と呼ばれるようになったそうです。碑文には、こう記されているそうです。我が郷土の江戸屋敷は、明治元年二月、お国勝手と称して久留米藩主有馬頼咸公に従って、江戸より帰郷した江戸常住の藩士百余戸の住宅として創設された所である。その地域はこの碑を起点として南方5町、東方4町に渡る梯形の一廓で、上下新町と言われた。当時は黒門構えの邸宅であった。 其れから70年が経ちその間、人去り家移って概ね畠となってしまった。歳月が経てば将来又原野になる事を慮り、碑を建てようという事になった。後世の人々、関係の有無を問わず、永遠に保存される事を記して碑録に代う。 昭和11年 5月吉日 総代従七位勲八等 富沢 豊象 撰書この近く、久留米市の南部になりますが、拙と同じ名前の川を発見しました。こんな川でした。人気ブログランキングへ久留米市江戸屋敷、ついでに桃太郎川も発見
2017年08月22日
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熊本県玉名市にある「玉名天望館」に行ってみました。天望館といってもこんな塔みたいなものです。天望館についての解説です(→→→くわしくはこちらです)天望館の上から見ると、遠く島原半島にある雲仙岳が見えました。ズームしてみました。眼下には有明海に注ぐ菊池川の河口と玉名市の市街地が見えました。人気ブログランキング玉名天望館
2017年11月17日
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九州を流れる大河、筑後川を巡り歩いた記録です。黒川温泉からさらにやまなみハイウェイの方へ向かう途中から、右折して平野台高原展望所に向かいます。ここは、阿蘇五岳が一望出来る絶好のロケーションで、2009年4月1日に「恋人の聖地」として認定を受けたところですが、ここへ来るまで、道がわからず、MoMo太郎、かなり苦労しました。そして、ここにありました「筑後川源流の碑」。その隣には、例のごとく筑後川流域図。九重連山がすぐそこに見えます。このような木造の展望台があって登ることができました。展望台の上から見下ろすと、深い九州の山河一望できました。この山々が九州一の大河、筑後川の源流となるのですね。【つづく】筑後川流域をブラブラと歩き回った記録を気が向いた時にアップしています。人気ブログランキングへ黒川筑後川を行く(その30) 平野台高原展望所 筑後川源流の碑
2018年09月29日
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坂東市にある総合文化ホール「ベルフォーレ」です。このベルフォーレの前庭にあるのが、この騎馬像。もちろんモデルは、あの有名な平将門です。折立烏帽子を被り、狩衣姿に太刀を差し、黒鹿毛の駒に乗った勇姿という印象を受けます平将門は、坂東市に石井営所と呼ばれる本拠地をつくり、関東独立国歌建設を目指したそうです。こちらはベルフォーレの入り口にある壁面の装飾です。よく見ると、これも平将門の姿でした。「ベルフォーレ」があります。この施設は、音楽ホール・アトリウム・図書館からなる複合文化施設ということで、中に入るとこんな感じでした。豪華ですね。【つづく】人気ブログランキング茨城県坂東市に行ってみました(その3) 平将門
2019年10月21日
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新大塚にはもう少しですね。大塚公園にあった井戸です。昔懐かしい手押しポンプ(ガチャポン)です。こちらの山小屋風の建物、木立の中の白壁がいい雰囲気ですね。この建物は、大塚公園集会所で大塚公園みどりの図書室(→→→こちら)も兼ねているのですね。【つづく】人気ブログランキング駅間歩き丸ノ内線(茗荷谷~新大塚) (その7) 大塚公園集会所
2020年09月23日
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2020年11月22日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して千葉県柏市を歩いた報告です。この階段になった道を登って台地の上に行くと。木立の中に、柏市指定文化財「松ヶ崎城跡」(→→→こちら)があります。建設された時期は定かではありませんが、15世紀後半から16世紀前半の中世城跡です。平成14~15年度に遺跡の範囲や内容を確認する目的で発掘調査が実施され、遺構が当時のまま良い状態で残っていることがわかったそうです。こちらは城郭を守る、堀の跡です。こちらの盛り上がったところは、物見台だそうです。さらに城内にはこのようなこのような盛り土がありますが、これは古墳をそのまま利用していたようです。城跡からは北柏の街並みが見下ろせます。眼下の半円形の平場は、腰曲輪だそうです。17世紀の江戸時代初期までは手賀沼から香取まで内海が広がり、その水辺に位置していた松ヶ崎城は交通の要所を押さえる城だったようですが、どのような武将の城だったかはよくわからないようです。【つづく】人気ブログランキング柏市の歴史を感じる(その2) 松ヶ崎城跡
2021年01月15日
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東武亀戸線を走る車両です。この路線では東武8000系(→→→こちら)の車両が走っています。デビューが昭和38年(1963)で昭和58年(1983)まで製造されていたそうです。昭和生まれまだまだ頑張っていますね。こちらの塗装は、東武の白とラインは青の標準的な塗装です。こちらの塗装は、ちょっと見たことがないです。古い塗装なんでしょうかね。こちらの塗装の車両も走っていました。黄色に赤い帯の塗装。新幹線のドクターイエローと同じでこの色の車両を見かけると幸運があるのでしょうかね。小村井駅からは線路沿いの道を歩いて行くことができます。隣の東あずま駅が見えてきました。ちなみに東あづま駅と小村井駅の間は600メートルしか離れていません。東あずま駅(→→→こちら)です。昭和3年(1928)に平井街道駅として開業したそうです。そして昭和20年(1945)5月20日に廃止となり、昭和31年(1956)5月20日に東あづま駅として再開業したそうです。駅が廃止になったのはおそらく戦災によるものなのでしょうか。ちなみに、亀戸線そのものが開業したのは明治37年(1904)4月5日です。その開業より遅れて昭和3年(1928)に平井街道駅が開業したのは、その年に亀戸線の電化が完成したことによるものだそうです。(参考→→→本線になれなかった残念な路線「東武亀戸線」10の秘話)その時は総武鉄道両国橋(現・JR総武本線両国)まで乗り入れていたそうです。また、その時点では東武伊勢崎線も今のとうきょうスカイツリー駅が始発駅で、今の浅草までは来ていなかったそうです。ということで、東武沿線の埼玉県人は東武鉄道で、都心により近い両国まで来ることができたわけです。また、その時は貨物輸送もやっていたそうで、東武亀戸線を通じて埼玉・栃木の産物が両国まで運ばれていたわけです。残念ながら、明治43年(1910)3月27日 総武本線への直通運転が廃止されています。東あづま駅にある構内踏切です。これもなんかローカル線っぽいですね。東あづま駅の東側にある商店街です。近くに団地があるので利用する人も多いのでしょうね。【つづく】人気ブログランキングへ駅間歩き東武亀戸線(小村井~東あずま) 駅間距離は600mです
2021年06月10日
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東あずま駅から丸八通り沿いを歩いて、亀戸水神駅(亀戸天神駅ではありません)に向かいます。丸八の名の由来は、明治時代、この通りのずっと先、小名木川を渡る橋の近くにあった丸八線香店だそうで、そこから小名木川を渡る橋が丸八橋となり、通りの名前となったそうです。といっても丸八線香店は今はありませんが。ここから北十間川を渡るための橋(新小原橋)となっています。【つづく】人気ブログランキングへ駅間歩き東武亀戸線(東あずま~亀戸水神)(その1) 丸八通り
2021年06月11日
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新宿駅の中央線快速が発着する11-12番線ホームの池袋寄りを13-14番線ホームから見ると、「殉難 殉職 供養・・・」と書かれた供養塔らしいものが建っています。またその後ろには祠らしきものもあります。おそらく、むかし、鉄道事故か駅の建設工事で亡くなった人たちの供養のためのものと思われますが、詳細を調べに行こうとしても、一般の人が立ち入ることのできないエリアになっています。しかし、こういう慰霊をするという気持ち大切なものだと思います。人気ブログランキング新宿駅11-12番線ホームにあるもの
2021年12月05日
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昨年の11月7日、駅から歩いてハイキング「~繋がる 人 まち アート~アートのまち取手を散策」に参加して、茨城県取手市を歩いてきました。そのご報告です。出発はこちらの取手駅東口からです。取手駅東口に展示されているのが、このパブリックアート「シュプリンゲン」。東京藝術大学前学長の宮田亮平氏の代表作のひとつだそうです。でも「シュプリンゲン」とは「飛翔」という意味で、イルカがモチーフなんだそうです。ここからイルカが想像できるなら、藝大の学長になれるってことですね。いや、芸術家の考えることってよくわからないです。この通路を抜けると西口に出られます。ここのを抜けて西口に回ります。地下通路の中には、市民の皆さんの絵画などの作品が展示されています。取手駅西口には、JR東日本の主要駅には欠かせないアトレというデパートがありました。そして駅前にあるこの「治助坂」の途中には、ストリートアートステージ「リング」というのがあります。道の反対側の歩道にも。この「リンク」は東京藝術大学の学生による作品だそうです。どうして、取手市に東京藝術大学関係者の作品が展示されているかというと、東京藝術大学の取手キャンパス(→→→こちら)があるからだそうです。しかし、東京で美術の勉強ができると思って地方から上京してきて、茨城県の取手市で勉強して下さいだと、ちょっとガッカリかもしれませんね。取手といえば甲子園に春夏合わせて6回出場し、前述のとおり1984年夏の大会で優勝した経験を持つ。取手二高が有名ですが、二高があれば、一高もあります。こちらはあまり知られていないかも知れませんが、アトランタオリンピック 1㎞タイムトライアル銅メダリストの十文字貴信さんなどの競輪選手を多く輩出しています。この跨線橋を渡ります。橋につけられている石碑には、取手ということで鳥が描がれているのでしょうかね。跨線橋の下にあるのは、JR常磐線と関東鉄道常総線(→→→こちら)が走っています。関東鉄道の常総線の方は電化されていません。そして、線路わきの擁壁にも壁画「letter"酔狂"ー生命り音ー」が描かれています。SUIKO氏の作品だそうです。落書きとしてもここまで描き込んでいるのは芸術ですかね。ということで、取手市内にあるアートを見ながらの駅からハイキングです。(アートのまち取手のコースです)【つづく】人気ブログランキング常磐線沿線物語 取手編(その1) アートのまちだった
2022年01月08日
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新宿駅から小田急に乗ったのですが、その時気がつきました。小田急の車両は、ドアの戸袋がガラス窓になっていました。全ての車両がそうなのかはわかりませんが、少なくともこの車両はそうでした。戸袋に窓が付いていると車内も明るく、景色もよく見えていいですね。こちらはJR東海道線を走るE233系車両こちらは戸袋に窓はついていません。窓がないので、景色も余り楽しめません。このようにクロスシートの脇のショートシート(?)に座ったら、後ろは壁で景色も見づらいし、なんか背後も横も壁に囲まれたようで、圧迫感があってなんかくつろげないですね。ということで、戸袋窓があると列車に乗っていても楽しいのですが、これからは減っていくでしょうね。戸袋窓にすると清掃の際、二重になった窓ガラスを車体から外す必要があるため手間がかかるそうです。さらに構造上、戸袋窓のための穴を車体に空けることで、腐食防止など車体そのものの補強が必要となり製造コストが増すほか、補強に伴い重量がかさむなどデメリットが目立つので、戸袋窓のある車両は製造されなくなっているそうです。人気ブログランキング戸袋窓のある電車
2022年02月27日
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新橋駅からほど近い汐留シオサイトにあるこの石張りの西洋建築風の建物。旧新橋停車場鉄道歴史展示室です。平成7年(1995)から始まった旧国鉄汐留駅跡地が再開発工事の際、旧停車場跡などが発掘された。発掘調査の後、風化を防ぐために埋め戻さて、平成15年(2003)、その遺構の上に開業当時の駅舎を再現した「旧新橋停車場」が建てられ、鉄道と汐留の歴史に関する「鉄道歴史展示室」も開設されたものです。建物の反対側には当時のホームが再現されています。汐留シオサイトの近代的な高層ビルの谷間にあるこの施設、なんとなく鉄道へのノスタルジーを感じますね。跡地は、元々、昭和40年(1965年)に「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として国の史跡に指定されおり、さらに指定区域の一部除外や追加などもされて、平成8年(1996)に「旧新橋停車場跡」へ名称変更したそうです。汐留駅として営業していた当時の昭和11年(1936)、鉄道建設時の測量起点となる最初の杭が打たれた位置に「0哩(マイル)標」と3メートルのレールがモニュメントとして設けられ、それが再整備されてこのように残っています。こちらが、「0哩(マイル)標」だそうです。人気ブログランキング旧新橋停車場
2022年03月27日
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