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有楽町駅に到着しました。有楽町駅は駅の施設をすべて高架線の下におさめた高架下駅として1910年に開業しました。中央口の東側には、有楽町マルイや回転レストランがあった東京交通会館ビルがあります。東京交通会館の最上部にあった回転レストランも今では回転しなくなりましたが、レストランとして営業は続けています。銀座口からつながるショッピングアーケドです。MoMo太郎が銀座に行くのにはここを通って晴海通りに出るのに使っています。晴海通りをわたり駅の南の日比谷側の道です。このあたりの高架下にも飲食店が並んでいます。そして、帝国ホテルが見えてきました。(東京から高輪ゲートウェイコース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 東京→高輪ゲートウェイ(その2) 有楽町駅界隈
Feb 16, 2026
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高輪ゲートウェイ駅から始まった山手線一周の駅間歩き。いよいよ今回のJR東日本の駅からハイキング「山手線環状運転100周年記念!鉄道の今昔を歩く」のコースで最後のピースが完成します。ということで東京駅にやって来ました。スタートは東京駅丸の内南口からです。今までの山手線一周歩きでは、雨か曇天が続いたので、このように快晴の下で歩けるのは気持ちがいいですね。丸の内南口ははとバス乗り場になっています。東京には長い間住んでいますが、はとバスで東京観光したことがしたことがない。一度は東京観光してみたいです。JRの線路に沿って南へ歩くと東京国際フォーラム(→→→こちら)が見えてきました。旧東京都庁舎の跡地に建設された東京の国際コンベンションセンターの一つです。平成2年(1990年)には新宿に今の東京都庁ができたので、ここに東京都庁があったことを知っているのは、今の50歳台以上の人に限られるかもしれませんね。こちらは有楽町高架下。このように有楽町駅付近の高架下は店舗スペースとして使われています。JR東日本が所有している土地なんでしょうから、家賃収入もJRにとっては大切な収入源なんでしょうね。そして、有楽町駅前の家電量販店が見えてきました。このビルはこの家電量販店のものではなく、読売会館(→→→こちら)という読売新聞グループ本社傘下の株式会社読売不動産が所有しています。この家電量販店になる前は、「有楽町そごう」という百貨店がテナントでした。この百貨店のキャッチフレーズは「有楽町で逢いましょう」ということで、歌手のフランク永井(1932-2008)が歌った「有楽町で逢いましょう」はコマーシャルソングだったそうです。(東京から高輪ゲートウェイコース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 東京→高輪ゲートウェイ(その1) 東京駅から
Feb 15, 2026
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久しぶりに丸亀製麺で、ぶっかけうどん(440円税込み)といなり(160円税込み)を頂きました。薬味のネギ、天かす、そしてワカメをたっぷり過ぎるほど載せているので、下のうどんは見えませんが、ぶっかけうどんです。讃岐うどんはやっぱり美味しいですね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 丸亀製麺
Feb 14, 2026
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日本橋の南側、永代通りに向かいます。このあたり日本のビジネス街らしく、大きなビルが立ち並んでいますね。奥に見える高層ビルはオフィスビと商業施設が一体となった日本橋一丁目三井ビルディングです、どたらかと言うと商業施設のCOREDO日本橋(→→→こちら)といった方が馴染みがあるでしょうか。 この場所には、1999年まで 東急百貨店日本橋店(旧白木屋本店)がありました。日本橋の交差点を右折して永代通りにも高層ビルがどんどん建てられています。永代通りと外堀通りの交差点です。この交差点は呉服橋というのですが、外堀通りは江戸城の外濠に沿ってできた道なので、この近く外濠に呉服橋という橋が架けられていたんでしょうかね。吉野家のキッチンカーが停まっていました。近くで働くビジネスパーソンの皆さんが利用されるのでしょうね。JRの高架をくぐり抜けて丸の内側にやって来ました。ゴールの東京駅です。東京駅の開業は1914年、この赤レンガ造りの丸の内口駅舎は日本近代建築の父と呼ばれる辰野金吾(→→→こちら)らが設計した。しかし、この駅舎は、1945年の東京大空襲によって大きく焼けてしまい、戦後すぐに修復されたものの、資材不足から元通りとはいかず、特に損傷のひどかった3階部分が撤去されるなど、見た目も大きく変わっていたそうです。そして、2007年から2012年にかけて行われた東京駅の復元工事によって辰野金吾の設計した赤レンガの駅舎が本来の姿に復元されたそうです。東京駅にはステーションホテル(→→→こちら)があるんですが、用はないけど一度泊まってみたいです。(日暮里から東京コース)【了】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その18) 日本橋から東京駅へ
Feb 13, 2026
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さて、今の日本橋はは明治44年(1911年)に竣工した石造2連アーチ橋なのですが、当時は帝都東京を代表する橋を建設するということで、装飾にも力を入れたのでしょうね。日本橋には銅像もなかなか凝ったものが使われています。こちらは北詰西側にある親柱ですが、照明灯も凝っていますし。東京市章に足をかけた唐獅子も凛々しいですよね。口を結んだ吽形(うんぎょう)型。反対側の南詰西側の唐獅子は、口を開いた阿形(あぎょう)型と芸の細かいところがありますね。こちらは、橋の中央にある麒麟。左右対称になっています。日本橋の上には首都高速都心環状線の高架橋がありますが、この首都高速を地下ルートにする工事が始まっていて、日本橋の上には空が広がる予定です。南詰西側の親柱にある橋の銘板は、変体仮名で記されていますが、「にほんはし」と読めますね。この橋を架けた時の日本橋川の水は濁っていなかったんでしょう。日本橋の南詰西側の花の広場にある石碑。屋根瓦の乗っている碑は「日本橋由来記の碑」です。手前の小さなプレートのある碑は、平成11年(1999年)に日本橋が需要文化財に指定された時の説明板です。こちらが、説明板の写真です。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その17) 日本橋の麒麟
Feb 12, 2026
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日本橋の袂までやって来ました。こちらにあるのが日本橋の北西側袂にある「元標の広場」です。ここに展示されているのは道路元標で、道路元標とは、道路の起終点を示す標識のことです。この高い鉄塔は、東京市道路元標です。大正12年(1923年)の関東大震災後から復興後の昭和3年(1928年)のときに、日本橋の中央部、往復する市電の2本の線路間に建てられたものを移設したものだそうです。これは、日本国道路元標の複製です。日本橋の中央にあった東京市道路元標は東京都電本通線の架線柱として使用されていましたが、都電廃止後昭和47年(1972年)の道路改修に伴い日本橋の北西側袂に移設されたると、東京市道路元標があった場所には、50センチメートル四方の日本国道路元標が埋め込まれたそうです。元標の広場に展示されているのはレプリカですが、本物は日本橋の中央にあります。こちらが、本物の日本国道路元標です。日本橋は江戸時代から東海道など五街道の起点とされていたことから、明治時代に入っても道路法で日本橋の中央を国道の起点としているのだそうです。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その16) 日本橋は道路網の起点
Feb 11, 2026
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中央通りを南に向かってさらに歩きました。日本橋には地域の名産品を扱うアンテナショップも出店しています。こちらは、福島県のお店、「日本橋ふくしま館」(→→→こちら)です。やっぱり福島県といえば、この方ですね。こちらの軒先の日よけテントのお店は、千疋屋総本店(→→→こちら)です。千疋屋の本店って銀座だと思ってましたが、日本橋が本店だったんですね。Wikipediaで調べてみると、千疋屋といえば、東京・日本橋の千疋屋総本店、京橋の京橋千疋屋、銀座の銀座千疋屋の3社のことを指す。京橋と銀座の千疋屋は、総本店からのれん分けされた別の企業である。とありました。そんなこと初めて知りました。まだまだグルメ修業が足りないですね。そして、こちらの人が多いのは、やっぱり、日本橋三越本店です。言うまでもなく、三越伊勢丹の基幹店で、三越ブランドの本店。また、西洋古典様式に範をとった重厚・華麗な意匠の三越日本橋本店は、日本の百貨店建築の発展を象徴する貴重な歴史的建造物として国指定重要文化財になっています(→→→こちら)。やっぱり三越といえば、このライオン像。MoMo太郎の祖母は、「誰にも見られずに背にまたがると念願がかなう」と言っていたので、大阪に住んでいた高校生の頃、大阪北浜にあった三越大阪店のライオンにまたがろうと狙っていましたが、結局またがれず、第一志望の大学に合格することができませんでした。ライオン像の台座には、こんな碑文が着けられていたんですね。こちら南側にある三越本店の新館の入り口です。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その15) 日本橋には銘店が多い
Feb 10, 2026
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神田の駅前、飲食店も多くて賑やかですね。このあたりに職場があったら、毎晩、寄り道してしまいそう。神田外語学院(→→→こちら)、やっぱり神田にあったんですね。神田駅から中央通りに出ました。こちらの交差点は今川橋。でもこのあたり橋は見当たりませんが・・・。とにかく、中央通りを南に向かって日本橋方向へ歩いと行くと、ちょっと傷んで読みにくくなっていましたが、「今川橋由来碑」というのがありました。この由来碑によると、今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681~1683)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架けられたものでその名が残りました。この橋は日本橋から中山道に通ずる重要な橋でもありました。 神田掘は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。 昭和25年(1950)龍閑川は埋立てられ、三百年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。 下図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。 平成4年4月吉日なお、今川橋の付近で売られていたのが「今川焼」なんだそうです。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その14) 今川橋
Feb 9, 2026
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台東区上野と港区新橋とを結ぶ延長5kmの中央通りが通る万世橋を渡ります。アールデコ調の橋灯がある大きな親柱が、この橋を作った人のこだわりなんでしょうか。今の万世橋が架けられたのは、昭和5年(1930年)3月。そんな時代だから、橋の表記も「萬世橋」と旧字体になっています。明治6年(1873年)に初代の万世橋が出来た当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋と書いて「よろずよばし」と読ませるように命名したのが、定着せずに、「まんせいばし」と呼ぶようになったそうです。そんなわけですが、橋の銘板には「まんせいはし」と表記されています。濁音になったのは下を流れる神田川の濁り具合に応じてでしょうかね。神田川の上流側を見てみると、神田川に沿って、赤レンガ造りのアーチが整然と並ぶJR中央本線の高架橋が走っています。そして、こちらの高架橋の下もマーチエキュート神田万世橋(→→→こちら)という商業施設に利用されています。万世橋を渡り、この神田須田町の交差点を越え、中央通りを辿っていくと、神田駅に到着します。神田駅の開業は大正8年(1919年)。当初は中央本線の駅として開業しましたか、大正14年(1925年)の山手線環状運転が開始となって山手線・京浜東北線と中央本線の乗換駅となりました。令和5年(2023年)10月2日からはJR東日本の駅名称に「アース製薬本社前」の副駅名を追加することになりました。ちなみにこの副駅名の使用は令和10年(2028年)までとのことのようです。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その13) 万世橋から神田駅
Feb 8, 2026
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JR東日本って高架下に商業施設を作るのが好きなようで、秋葉原駅にほど近いこの場所にも商業施設がありました。こちらにも駅名標をイメージした看板があって「ちゃばら(CHABARA)」(→→→こちら)という名称の商業施設です。こちらでは、バイヤー選りすぐりの日本全国の逸品を集めた食品の専門店街のようです。そういえば、平成になるまで秋葉原の駅前には神田青果市場(→→→こちら)があったので、その名残を現在に伝えようとしているんですかね。そして、こちらの秋葉原駅に到着です。こちらはバス乗り場のある駅の東側の広場です。秋葉原駅は1890年開業で、当初は貨物駅として設置されましたが、1925年に山手線環状運転に合わせて人が乗降できる駅になりました。さて、この秋葉原駅前通りをガードを抜けて万世橋の方に向かいます。ところでこのガード、佐久間架道橋というのが正式名称だったんですね。はじめて知りました・(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その12) CHABARAと秋葉原駅
Feb 7, 2026
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丁度、このあたりが今回の駅からハイキング日暮里~東京の中間地点になるようです。丁度、このあたりで「2k540 AKI-OKA ARTISAN(ニーケーゴーヨンマル・アキオカ・アルテザン)」(→→→こちら)という看板が見えました。「2k540 AKI-OKA ARTISAN」はJR秋葉原駅~御徒町駅間の高架下にある商業施設です。この2k540とは、鉄道用語では東京駅を起点とした距離「キロ程」で場所を示しています。この東京駅から2k540m付近にあるため「2k540」というわけです。AKI-OKA は、言うまでもなく秋葉原駅と御徒町駅の中間にあるということです。そして、「ARTISAN」とは職人の意味で、モノづくりやをする工房やショップが約50店並んでいます。もちろんカフェやレストランもありますし、途中で休憩できるスペースもありました。「2k540 AKI-OKA ARTISAN」を過ぎて、蔵前橋通りを越えたところにあるこの建物は、東京消防庁 神田消防署でした。さらに秋葉原駅に向かって歩きます。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その11) 2k540 AKI-OKA ARTISAN
Feb 6, 2026
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御徒町駅が見えてきました。御徒町駅は1925年の開業です。御徒町という地名は、江戸時代、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来するそうです。御徒町駅南口の前にある「おかちまちパンダ広場」です。確かに、パンダが休んでいました。本物のパンダは中国に帰りますが、こちらには動かないから、ずっと日本にいる予定ですね。今度は高架橋に沿って秋葉原駅へ向かいます。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その10) 御徒町駅
Feb 5, 2026
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上野駅から御徒町駅に向かってアメヤ横丁(→→→こちら)を歩きました。アメヤ横丁は、JR上野駅とJR御徒町の間に位置する約500mの中に400店舗あまりが軒を連ねる日本有数の商店街です。正式には、アメ横商店街連合会という名称ですが、通称「アメ横」とも呼ばれています。「アメヤ横丁」という名前で呼ばれるようになった由来二つあるらしいです。(1) 第二次世界大戦直後、砂糖が手に入りにくかった時代に、マーケット周辺で露店を出した中国からの引揚者会が飴を販売し、大好評を博したからとも、「芋あめ」を売る店が並んだためともという説。(2) アメリカ進駐軍の放出物資を売る店も多かったので、アメリカ横丁からという説アメ横センタービルが上野仲通りとアメ横商店街を分けるように建つその前に、変なオブジェと共にあるこの石碑。「東北・上越新幹線上野駅誘致住民運動発祥の地 」という碑文がありました。読んでみると、当初の「新幹線鉄道整備法」では、 東北・上越新幹線の建設ルートは 東京駅始発で、北の玄関口の上野駅は通らないと発表された事で、上野の地元人々により上野駅誘致運動が発足したことを記念して建てられた碑だそうです。確かに東北・上越新幹線の上野駅はできましたが、最近は上野駅を素通りする新幹線もあるようですね。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その9) アメヤ横丁
Feb 4, 2026
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上野公園の京成上野駅脇の入り口、中央通りに面した階段の脇には、鏡面加工の金属台座に、柳樽に乗ったアヒル像を冠して立っていました。台座には、「川柳の原点 誹風柳多留発祥の地 五條天神社 宮司 始澤澄江 柳多留250年実行委員会」と記されています。樽には「羽のあるいいわけほどはあひる飛ぶ」という川柳が、刻まれていました。この川柳の意味は、「不器用な存在でも、羽があれば飛びたい…、夢があれば実現したい」という意味なんでしょうか。この脇にある説明版には、川柳についての説明がありました。川柳の原点 誹風柳多留発祥の地 川柳は、江戸時代に江戸で生まれた17音の庶民文芸として今日に伝わっています。川柳の名称は、宝暦7年(1957)に浅草新堀端にはじまりましたが、明和2年(1765)7月、呉陵軒可有という人が、初代川柳評の前句付万句合の勝句(入選句)から17音の付句のみで鑑賞でき、深い笑いのある句を選び、今日〈川柳の原点〉とも呼ばれる『誹風柳多留』を刊行しました。このことにより川柳は、〈17音独立文芸〉として確立され、後に全国へと広がっていきました。 この付近には、『誹風柳多留』の版元・星運堂(花谷久次郎)があり、俳諧書などを刊行するかたわら、3代にわたり、『誹風柳多留』を通じて〈川柳風〉の隆盛に貢献、川柳を「江戸文芸」の一つにまで育てました。「誹風柳多留発祥の地」は「文芸川柳発祥の地」でもあります。 記念碑の「羽のあるいいわけほどはあひる飛ぶ」の句は、「木綿」を号とした『誹風柳多留』の編者・呉陵軒可有の作です。平成27年8月 柳多留250年実行委員会 台東区教育委員会(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その8) 川柳の原点 誹風柳多留発祥の地
Feb 3, 2026
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こちらが上野駅の公園口。上野駅は1883年に日本鉄道の駅として開業しました。山手線の営業開始は1909年です。MoMo太郎の記憶では、この道路、今は行き止まりになっていますが、公園口の前を取り抜けて両大師橋、寛永寺の開山堂の方面に行くことができたのでは?そして、パンダ橋という愛称の「上野駅東西自由通路」を渡ります。そう言えば、もう上野動物園にはもうパンダがいなくなったんですね。2016年に上野動物園に行った時のパンダの写真もありましたので、見て下さい。わが国の優れた遺伝子工学の技術でクローンパンダとか産み出せなかったのですかね。そうすれば、かの国に大きな顔させることもなく、世界中のみんながパンダを見ることができたのにね。上野公園と入谷を自由に行き来できるこの上野駅東西自由通路ができたのは2000年でした。結構広い通路ですね。東西自由通路の上から昭和通りと首都高速を撮影してみました。ビルが立ち並んでいていかにも都会という雰囲気がしました。こちらは上野駅の広小路口から正面改札の風景です。昭和の時代には、お盆や年末年始の多客頃には、このコンコースに沢山の人が並んでいたような思い出があります。この中央改札の上には壁画あったのですが、幕で覆われていて見えなくなっていました。壁画どうなってるんでしょうか。思い出のある上野駅も段々と変わっていっているんですね。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その7) あ〃上野駅
Feb 2, 2026
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寒い時期なので、温まろうと思って、日高屋の「五目あんかけラーメン」(720円税込み)を頂きました。温まったのは良かったのですが、隣のテーブルに座っていた高校生2人組が、それぞれタンメンとチャーハンをペロリと平らげたのにはオッタマゲました。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 五目あんかけラーメン
Feb 1, 2026
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JR上野駅 公園改札の前にあるこの建物は、東京文化会館(→→→こちら)です。本格的なクラシック音楽のコンサートホールとして東京都開都500年祭の記念事業として1961年に建設されてました。以来、クラシック音楽の殿堂オペラの聖地として使われてきましたが、2026年5月から2028年度中まで大規模改修工事を行うため休館予定です。とりあえず、中に入ってみました。なかなか厳かな雰囲気がある内装のように思えました。クラッシック音楽は雑音にしか思えないMoMo太郎ですが、こういう文化的な施設がいくつもあるのが、東京の魅力なのかもしれませんね。この東京文化会館の建設を計画した方の胸像があります。この方は戦前・戦後にかけて活躍した官僚・政治家で、厚生事務次官や初代東京都知事を務められた安井誠一郎氏(→→→こちら)です。側面に、この方の碑文がありました。碑文には、正三位勲一等東京都名誉都民 安井誠一郎君 昭和乙酉の戦災に逢い灰燼に帰した東京 今や殷賑を極め無限に膨張発展してやまない東京 この東京を語る時 われわれは常に名を憶い出さずにはいられない 君は岡山県の生れ 東京帝国大学卒業後宮界に入り要職を歴任したが 終戦直後東京都長官に任ぜられ さらに昭和22年(1947)以来実に12年の長きにわたって 公選知事をつとめられた 首都圏構想の樹立 太平洋市長会議の実現 オリンピック東京大会の招致など君の業績は数えきれないが 就中 廃墟と化した首都東京を 敗戦後の想像を絶する苦難の中で 見事復興させた努力と才腕と誠意とは 永久に忘れることができない いま 君が生前最後の偉業となった東京文化会館の一隅に この像を建て君の偉業を偲び 永く記念するは都民の心である 昭和41年(1966)5月 東京都知事 東龍太郎撰並書こういうような方に都知事をしてもらいたいと思うのは、MoMo太郎だけでしょうか。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その6) 東京文化会館と安井誠一郎
Jan 31, 2026
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上野恩賜公園の中を歩きました。上野恩賜公園には、博物館・動物園などの多くの文化施設があります。和洋折衷の建築様式である東京国立博物館、上から見ると飛行機の形をしている国立科学博物館、ル・コルビュジェか設計した国立西洋美術館、前川國男が設計した東京文化会館などの建物などがあるのので、それらを見て回るだけでも面白いですが、今回は銅像に注目して公園の中を歩きました。まず最初は、国立科学博物館近くに立つ野口英世像です。この野口英世の立像は、お医者さんの定番アイテムの聴診器を首にかけておらず、右手に試験管を持っているのが、ああこの人は、細菌の研究していた医学者だということを伝えているんですね。銅像の前にあった案内板によれば、この銅像は福島県三春町出身の玉応不三雄氏が、英世の偉業を後世に伝えようと、昭和22年(1947)より募金活動を行ったが、当時の経済状況の中。志し半ばで病に倒れたそうです。その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和25年(1950)には東京都教育委員山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周施によて上野公園に造立されることが決定され、昭和26年(1951)3月に現在地に造立されたそうです。台石には、ラテン語で「PRO BOMB HUMANIGENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれていました。こちらの建物は国立西洋美術館(→→→こちら)。スイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家のル・コルビュジエが設計したこの建物は、「ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献」の構成資産として世界文化遺産に登録されています。ここの前庭は無料で入ることができ、オーギュスト・ロダンの「考える人」が展示されています。この銅像あっちこったで見かけるので、この銅像はレプリカではないかと思っていましたが、調べてみると、この銅像は、1902年から1904年にかけて、ロダンの良き協力者であったアンリ・ルボッセの手によって1880年の原型に基づいて拡大された銅像だったんですね(→→→こちら)。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その5) 野口英世の銅像と考える人
Jan 30, 2026
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鶯谷駅に到着しました。鶯谷駅は1912年開業。鶯谷というのは、元禄年間に寛永寺の住職として京都からやってきた皇族出身の公弁法親王が、「江戸の鶯はなまっている」といって京都から鶯を運ばせて、この地域に鶯を放し、鶯の名所になったことに由来する地名です。また、この駅名にちなんでホームでは「ウグイス」の鳴き声が放送されています。駅の東側にはラブホテル街が多いのは、昔、東京に集団就職してくる東北の人達を泊めるための簡易宿泊所などがたくさんあって、それが時代と共にホテルに変わっていったそうです。駅南口からは上野公園に向かってこの坂道を登っていきます。この坂道は、明治時代に作られた坂なので新坂(しんざか)と呼ばれていますが、谷を通る坂だったので「鶯坂」ともいわれ坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もあるようです。坂の上には寛永寺の案内板が建てられています。開山堂は、両大師とは、東叡山寛永寺の開山である慈眼大師天海大僧正と、天海大僧正が尊崇していた慈恵大師良源大僧正をお祀りする開山堂があることに由来しています(→→→こちら)。さらに歩くと、この建物があります。東京国立博物館(→→→こちら)。通称「トーハク(東博)」です。このドーム型の屋根を持つ建物は、東京国立博物館の表慶館という建物で、大正天皇の御成婚(明治33年)を記念して計画された奉献美術館で、重要文化財に指定されています(→→→こちら)そして、こちらが上野公園の大噴水です。江戸時代はこの場所に寛永寺の本堂(根本中堂)があったのですね。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その4) 鶯谷駅からトーハクへ
Jan 29, 2026
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言問通りを渡って、寛永寺(→→→こちら)にやって来ました。寛永寺は徳川歴代将軍15人のうち6人が眠る、徳川将軍家の祈祷所・菩提寺です。江戸時代には、今の上野公園一帯が寛永寺で、本堂である根本中堂は今の東京国立博物館南側の大噴水広場にあったのですが、明治維新後は、朝敵であった徳川家の菩提寺ということもあったのでしょうか?境内も縮小され、現在の本堂は、 東京芸術大学上野キャンパス音楽学部の裏手にあるこの場所に移りました。こちらが本堂の根本中堂ですが、江戸時代にあった本堂は幕末の彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となったため焼失し、今の建物は川越喜多院の本地堂を移築したものだそうです。寛永寺に隣接してあるこの建物は、台東区立上野中学校です。略して言うと、「うえちゅう」、「じょうちゅう」あるいは「かみちゅう」。何と呼んでいるんでしょうかね。、さらに、こんな建物もありました。東京文化財研究所(→→→こちら)です。独立行政法人国立文化財機構(→→→こちら)の所属機関のようですね。まあ、こういう所ですから、一般的な事務職の人も働いているとは思いますが、やっぱり文化財について研究する職員の人も多いんでしょうね。でもどんな資格があると研究職員として雇ってもらえるのかな?(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その3) 寛永寺
Jan 28, 2026
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朝倉彫塑館から南向かって谷中の町を歩いて行くと、関東大震災や第二次世界大戦では被害が少なく、旧来の古い町並みの残る谷中らしく、昭和初期の雰囲気を残す家屋がありました。この建物の横には、台東区が設置している旧町名由来案内「下町みちしるべ」の看板がありました。このあたりの旧町名は谷中初音町二丁目、町名の由来は、この付近に鶯谷と呼ばれるところがあったことから、鶯の初音にちなんで付けられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことなんだそうですね。鶯谷のウグイスは、江戸時代に寛永寺の住職として、京都からやってきた皇族の公弁が、元禄年間に「江戸の鶯はなまっている」といって京都から鶯を運ばせて、この地域に鶯を放し、鶯の名所になったことに由来しているんだとか。さらに歩いて行くと「功徳林寺(くどくりんじ)」(→→→こちら)というお寺がありました。こういう仏教関係の建造物が多数残されているのも谷中の町の特徴なんですね。そして、この功徳林寺は、明治7年(1874年)に東京府が設置した公立の谷中霊園に葬られた被葬者の供養をするために創建された寺院だそうです。その功徳林寺ができる前にこの地にあったのが、天台宗の寺院「福泉院」があったそうですが、その境内に笠松稲荷というのがあって、その門前にあった水茶屋「鍵屋」には、看板娘・お仙さんというのが、江戸の三美人の1人としてもてはやさていたそうで、浮世絵のモデルになったそうで、その評判で、お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたというそうです(→→→こちら)。お仙さんのおかげで笠森稲荷のお賽銭も増えたことでしょう。ということで、元祖会いに行けるアイドル、お仙さんにゆかりの笠森稲荷にお参りしようと思いましたが、工事しているようで諦めました。谷中霊園を通り越して、上野桜木町あたりまでやっててくると、これもまた、昭和初期感を漂わせた「愛玉子(オーギョーチィ)」という甘味処があります。愛玉子とは、クワ科イチジク属のつる性植物アイギョクシ(愛玉子、学名:Ficus pumila var. awkeotsang)の果実から作られるゼリー状デザートのことで、愛玉子は植物の中でもとりわけペクチンの含有量が多いため、その種子を布袋に入れて水の中で揉むと寒天状の愛玉子ゼリー(オーギョーチィ)ができるんだとか、一度食べてみたいですね。そして、こちらは台東区の「したまちミュージアム付設展示場」になる旧吉田屋酒店(→→→こちら)です。ここについては、MoMo太郎日記の2025年10月29日の記事(→→→こちら)でも紹介させていただきました。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その2) 谷中を歩く
Jan 27, 2026
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JR東日本が催行する、駅からハイキング「山手線環状運転100周年記念!名建築が交錯するモダンゾーン」で日暮里駅から東京駅までを歩いた報告です。出発は、こちらの日暮里駅。1905年開業、今年で121周年を迎えた駅です。現在は上野駅から運行している常磐線の正式な起点は日暮里駅となっており、起点を示す[0キロポスト]が設置されています。[0キロポスト]は常磐線の三河島寄りにあり、こちらは3番線ホームから見える[0キロポスト]です。こちらは4番線ホームから見える[0キロポスト]です。駅から出発する時、駅の名称表示の漢字に猫耳と猫足がデザインされていました。通称「谷根千(やねせん)」と呼ばれる谷中、根津、千駄木は猫が多い猫の街として知られていたからでしょうかね。駅を出てしばらく歩いて十字路を左折しました。ちょっと渋い感じの商店が並んでい路地になりました。この道を進んでいくと「朝倉彫塑館」(→→→こちら)があります。こちらがその朝倉彫塑館の全景です。日本近代彫刻界の最高峰であり、彫刻家としてはじめて文化勲章を受章した朝倉文夫の住宅兼アトリエを公開する美術館です。建物が国の有形文化財に登録されていて、敷地全体が国の名勝に指定されています。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その1) 朝倉彫塑館
Jan 26, 2026
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いよいよ解散総選挙ですが、結果次第で「サナ活(→→→こちら)」を続けるかどうかを、我が家の女主人は決めるそうです。人気だけで政権を維持するのは難しいかもね。いずれにしても、サナちゃんがくれた折角の政権選択のチャンスだけに投票には必ず行きます。人気ブログランキングへ「サナ活」ムーブメント続くかな?
Jan 25, 2026
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大河ドラマ「豊臣兄弟」に因んで豊国神社などを巡ったあと、秀吉の運気にあやかって訪れる人も多いのではないかと思われる施設が中村公園に隣接してありました。名古屋競輪場(→→→こちら)です。さすがに競輪だけではよろしくないということでしょうか、競輪場に接して名古屋競輪場BMXレースコースが設置されていますので、お父さんは競輪、お母さんとお子様はBMX(バイシクルモトクロス)で楽しむのでしょうかね。こちらが名古屋競輪の北入場門。そういえば正門ってないみたいでした。なお入場料は無料なので、車券を購入しないで自転車レースを見物するのも面白いかもしれませんね。帰りは、賭け事が好きそうなおじさんさん達(時々おばさんも交じっています)と競輪場から出る無料バスで、地下鉄東山線の本陣駅まで行きました。そして、豊臣兄弟の故郷を訪問した締めは、冷えた体に沁みる「きしめん」を頂きました。競輪で冷え切った懐にも優しそう。そして、なぜか「ひつまぶし」、「味噌かつ」、「手羽先」、「エビフライ」等など色々と美味しい名古屋めしが数ある中で、なぜか全国に普及していない「きしめん」。その理由をMoMo太郎なりに考察してみると、トヨタ、ノリタケ、カゴメ、工具メーカーのマキタ、肉まん・あんまん・あずきバーで有名な井村屋などの世界的に有名な企業が多い名古屋。そういうことから金満家が多い街なので、どちらかというと地味で日常食ともいえる「きしめん」は冷遇されているのかもしれませんね。「きしめん」は麺を薄く平たく延ばしたうどんの一種です。乾麺は日本農林規格(JAS)で幅4.5mm以上、厚さ2mm未満と規定されていそうです。【了】人気ブログランキング豊臣兄弟の故郷を訪ねて(その8) 名古屋の〆は「きしめん」です
Jan 24, 2026
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この中村公園は6.72ヘクタールの広さがあり、色々な施設があったので、さらに散策してみました。こちらは中村公園記念館(→→→こちら)です。利用するには管理事務所に申し込んで有料になるそうです。加藤清正没300年を記念して愛知県が明治43年(1910年)に迎賓館として建築し、当時皇太子だった大正天皇が御休憩された建物です。平成29年(2017年)には国の登録有形文化財に登録されています。園内にはよくわからないですが、風格のある石碑がありました。どのような石碑なのかわかりませんが、由緒ありそうなのでとりあえず撮影しました。こちらもとりあえず撮影した石碑です。園内には様々な池がありました。こちらは一番大きなひょうたん池です。「ひょうたん」といえば豊臣秀吉のトレードマークですね。この八幡社は、加藤清正が、出陣の際に必勝祈願をしたとされていますが、その一方で名古屋城築城の際に清正がこの社の大木を伐採したとも言い伝えられている。地元の人達にとっての地元出身のヒーローの豊臣秀吉と加藤清正。色んなところで伝承があるんですね。【つづく】人気ブログランキング豊臣兄弟の故郷を訪ねて(その7) 中村公園逍遥
Jan 23, 2026
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さらに中村公園を散策してみました。大正天皇御手植えの松の隣に、踊る姿の銅像があります。横の案内板によると、初代中村勘三郎生誕記念像だそうです。歌舞伎の初代中村勘三郎は中村の出身と言われている事から公園内に中村勘三郎の生誕記念碑の像が2017年(平成29年)に建立されたのだとか。歌舞伎の初代中村勘三郎は、寛永元年(1624年)に江戸で初の常設芝居小屋「猿若座(中村座)」を開き、江戸歌舞伎の創始者とも言われている役者で、初代勘三郎の出自については諸説あるものの江戸時代後期に平戸藩主・松浦静山が記した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」には「生国 尾州愛智郡中村」とあるそうです。平成24年(2012年)に他界した18代目中村勘三郎は、ルーツが名古屋だったことに強いこだわりを持っていたそうです。そんなわけで、肖像画等がない初代勘三郎の銅像は、18代目の姿や演技などを参考にイメージされて制作されているそうです。でも、厳密にいえば、初代の直系の系統は3代目で途絶え、以降は養子でつないだということで、初代の容貌が18代目と似ているかどうかは疑問ですね。【つづく】人気ブログランキング豊臣兄弟の故郷を訪ねて(その6) 初代中村勘三郎生誕記念像
Jan 22, 2026
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さて、豊国神社のある中村公園を散策してみました。豊国神社の背後に立派な松があります。この松は、「大正天皇御手植えの松」というもので、明治43年11月18日、当時皇太子だった大正天皇が、熱田神宮に参拝された際に中村公園に行啓された時のお手植えの松です。その横には詩碑が建立されています。石碑には、七言絶句の漢詩が刻まれていました。こちらの漢詩も大正天皇の詠まれた漢詩だそうで、大正天皇は生涯に1367首の漢詩をお作りになったそうです。【つづく】人気ブログランキング豊臣兄弟の故郷を訪ねて(その5) 大正天皇御手植えの松
Jan 21, 2026
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豊臣兄弟と縁のある豊臣家一門衆の石碑も見つけました。まずこちらは中村公園内にあった小出秀政(→→→こちら)邸址の石碑です。小出秀政は安土桃山時代から江戸時代初期の大名。正室が秀吉の母大政所の妹・栄松院だったことで豊臣家の一門衆になります。秀吉にとっては年下の叔父(叔母婿)で、秀吉の出世に伴って大名になった人物です。また、傳役或いは用人として片桐且元と共に豊臣秀頼に仕えたましたが、関ヶ原の合戦の4年後の慶長9年(1604年)に亡くなりました。こちらは常泉寺の横にあった木下長嘯子(きのした ちょうしょうし)邸址の石碑です。木下長嘯子は歌人としての名前で、大名としては木下勝俊(→→→こちら)という名前で知られています。木下勝俊の父である木下家定は豊臣秀吉の正室高台院(北政所、おね)の父である杉原定利の子であるため、勝俊は高台院の甥にあたります。幼少より豊臣秀吉に仕え、一門衆の1人として厚遇されていたそうです。関ヶ原の合戦の時、伏見城にいたにもかかわらず、徳川方の東軍として戦わず退去したことから、家康から除封の処分を受けたのですが、伯母である高台院の庇護を受けて父、木下家定の所領を相続することができました。しかし、この遺領を巡って弟の木下利房と争っため、また所領没収とされることになり、以後、京の東山に隠棲し長嘯子と号して和歌を詠んで暮らしたそうです。ご両人とも、豊臣秀吉の親戚となり色々と苦労した人生を送られたんですね。そして、ここ中村の地には有名な武将である加藤清正の生誕地でもあったようです。中村公園の東隣にあるこちらの妙行寺(→→→こちら)が清正の生誕地と伝えられています。清正の幼名を虎之助といい、永禄5年(1562年)この地に生まれたといわれています。天正(1573年~)のはじめ秀吉に仕え、数々の武功を建てた。とくに賤ヶ岳の七本槍は有名です。そして、のちに肥後国(熊本県)54万石の領主となりました。妙行寺の山号は正悦山。日蓮宗のお寺です。清正公は熱心な法華経の信者であったそうです。慶長15年(1610年)に名古屋城築城の際、その余材を使って妙行寺を自分の生誕地に移築・再建したと伝えられています。幟も大きく高くて、加藤清正の人望の高さに比例しているんでしょうか。【つづく】人気ブログランキング豊臣兄弟の故郷を訪ねて(その4) 豊臣家一門衆と加藤清正
Jan 20, 2026
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豊臣秀吉の生誕地といわれる所が中村公園の東隣にあるこちらの常泉寺(→→→こちら)です。この常泉寺は、秀吉公に遺命により、加藤清正公並びに開山である圓住院日誦上人とで創建されたそうです。また堂内で祀られている御神体の豊太閤像は、始め大阪城に祀られていたお像であり、清正公が秀頼公に願い出て、常泉寺に鎮座しているのだとか。この寺は、豊臣滅亡後、廟堂から出火し、ほとんどの建物が焼失したものの、二世日探上人が太閤像を背負い避難し、その後、徳川幕府の許しを得て再建したのだとか。 山号は太閤山。日蓮宗のお寺だそうです。こちらも豊臣秀吉生誕地と伝えられていて、秀吉手植えの柊と秀吉産湯の井戸があるそうです。こちらが太閤、豊臣秀吉の銅像です。そしてこちらが、「豊太閤産湯の井戸」この井戸は秀吉公生誕時に産湯で使われたものと伝わります。そして近郷に類のない清水の溢れる井戸であったことから、寺名の常泉寺の由来でもあるそうです。今は滾々と清水が湧き出していますが、昭和40年代に入り、市の発展に伴い地下水の変動で一度は枯れるに至りますが、年号改元を機に常泉寺の名のとおりの再現を試み清泉が甦ました。お手植えの柊(ひいらぎ)です。伝承によれば、秀吉公は(1590年)小田原城攻め凱陣の時、この地に立ち寄り一宿されました。その時に家臣である小早川隆景と加藤清正を呼び出され、常泉寺の建立を命じました。お寺を建立するにあたり秀吉公は「私が11才のときに植え置いた柊(1547年)がこんなにも繁茂しているではないか。柊は鬼神も恐れる吉祥の樹なり、これからも大切に致すべし」として、その手で竹を添えられました。 以来「幹」が衰えても下枝が育ちを繰り返しながら現在に至ります。ということです。常泉寺の本堂。昭和58年に放火により焼失したのですが、昭和62年に再建されたそうです。【つづく】人気ブログランキング豊臣兄弟の故郷を訪ねて(その3) 常泉寺
Jan 19, 2026
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中村公園は豊臣秀吉・秀長だけではなく、加藤清正の生誕地でもあるようで、園内には豊臣秀吉と加藤清正にかかわる史跡が残されているようですね。公園内にあるこの建物は、中村公園文化プラザ(→→→こちら)です。豊臣秀吉と加藤清正を顕彰する豊清二公顕彰館が改築されてこの建物になったそうです。一階が名古屋市立中村図書館、二階が秀吉清正記念館。三階が中村文化小劇場となっています。豊臣秀吉と加藤清正しか記念されてないということは、弟の秀長って、今回の大河ドラマになるまで、目立たない存在だったんですね。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の放送を契機に設置される「豊臣兄弟名古屋中村大河ドラマ館」。ここを訪れた1月9日には、まだ開館していませんでした。ドラマの評判が高まると多くの人が訪れるのかな。園内にあった「日吉丸と仲間たち」という銅像。日吉丸(秀吉の幼名)を中心とした5人の子供たちの銅像です。真ん中で腕を組んで立っているのが日吉丸だと思いますが、その他の子供たちの誰に相当するのでしょうか?そして、これが豊国神社の東側に立つ「豊公誕生之地碑」です。この場所は、秀吉の生まれた地と言われており、現在の碑は明治44年(1911年)に当時の知事の直筆を元にして建てられたものだそうです。ドラマでは秀吉と秀長は同父同母という設定ですが、こちらの解説では異父同母となっていました。まあ、豊臣兄弟が生きていた時代には、戸籍謄本とかなかったので、真実はわかりませんが、事実としては、兄弟が力を合わせて戦国時代を生き抜いたということですね。こちらにあった石碑。どんな内容の書いてある石碑かわかりませんでしたが、由緒ありそうだったので撮影してみました。これも豊公誕生之地碑の背後にあった石の彫刻のようなもの、おそらくここが秀吉が生まれた家の跡地なんでしょうかね?【つづく】人気ブログランキング豊臣兄弟の故郷を訪ねて(その2) 豊公誕生之地碑
Jan 18, 2026
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新春、名古屋への出張がありました。名古屋へ向かう途中、車窓から撮影した富士山です。山頂に雲がかかっているのが、なんとなく富士山の高さを感じさせました。仕事が順調に終わって、時間ができたので、今年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」(→→→こちら)で話題になっている豊臣秀吉・秀長兄弟の生誕地である名古屋市中村に行くことにしました。場所は名古屋市営地下鉄東山線の中村公園駅で下車しました。駅の構内にはこんな看板が設置されていました。なるほど、名古屋出身の戦国武将って多いですね。駅から地上に出てみると、立派な大鳥居が。この鳥居は、大正10年(1921年)に中村が名古屋市に編入されたのを記念して、住民らの寄付で建てられ、昭和4年(1929年)に完成したそうです。この大鳥居は、市道上にありますが、名古屋市の所有ではなく、豊国神社(→→→こちら)や民間のものでもなく、名古屋市緑政土木局の見解は、「所有者不明の物件」ということです。ここから豊国神社へ向かう豊国参道になります。この広い道が豊国参道です。豊国神社に到着しました。豊国神社(とよくにじんじゃ)は、豊臣秀吉公の生誕地の荒廃を嘆いた時の県令国定廉平氏の発令により明治18年(1885年)、地元の有志らによって創建された神社です。もちろん御祭神は豊臣秀吉です。同名の神社は秀吉の生涯に縁のある各地に存在すしていますが、生誕地にあるということで、御神徳は高そうですね。豊国神社は中村公園(→→→こちら)の中にあり、色々な施設や記念碑があるようです。厳密に言うと、中村公園は、豊國神社創建を計画した有志らによって境内地周辺の土地が愛知県に寄付され、県主導のもと整備された市内最古の公園ですが、昭和31年(1956年)に中村公園が都市公園とされた際、豊国神社は公園の敷地から除外され、独立した境内を持つことになっています。政教分離の原則からそういう扱いになっているんでしょうね。こちらが、豊国神社の社殿です。神社の敷地内は撮影禁止となっていたので、豊国神社の説明版だけ撮影しました。引き続いて、中村公園の中を見物していきます。【つづく】人気ブログランキング豊臣兄弟の故郷を訪ねて(その1) 豊国神社へ
Jan 17, 2026
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道灌山通りを不忍通りに向かって歩くと、「よみせ通り」という商店街(→→→こちら)があります。こちらの商店街を南に向かって、谷中の方へ歩いて行きます。夜店(よみせ)と言いながらも昼間からお店が営業している「よみせ通り」。「よみせ通り」は、明治時代以前は、藍染川という川が流れていました。この藍染川は大正時代に暗渠化されて、藍染川は通りとなりました。そこから人が集まり、八百屋さんや、生活必需品のお店、露店など、たくさんのお店が並ぶ買い物通りとなったそうです。毎月24日には縁日があるので、お参り行くといいことがありそうですね。この通りにある「延命地蔵」。谷中銀座商店街のシンボル的なお地蔵様です。もともとは長野県の南佐久郡切原村の古刹黄蘗宗(こさつおうばくしゅう)玉井山法城院に約370年前から伝わる、地元での評判のお地蔵さまを、昭和8年に地元出身で信仰の篤い方が、お寺にお願いして、お地蔵さまの分霊を現在の場所へ迎え、安置されたそうです。この「よみせ通り」に交わるのがこちらの「谷中銀座商店街」(→→→こちら)。言うまでもなく、台東区谷中と荒川区西日暮里にまたがる観光地化した商店街です。入口の店先の屋根にいた白い猫。野良猫珍しいな思っていら、作り物の猫さんでした。谷中銀座商店街は1945年頃に自然発生的に生まれ、現在の近隣型商店街へと発展して、今では東京の下町レトロを感じられる商店街として、地元の人が日常の買い物をするというより、観光地として人が集まるようで、土産物屋さんや食べ歩きできるような飲食店が目立ちます。商店街としては全長170mほどの短い通りで、ここが商店街が終わります。この先にある石段が、「夕やけだんだん」(→→→こちら)。夕やけだんだんの上から、振り返って西の方を見ましたが、果たして名前のとおり、この階段からは美しい夕焼けを眺めることができるんでしょうか?なんか、建物ばかりでキレイな夕日は見えないような・・・。「夕やけだんだん」から緩やかな坂道を下っていくと目的地の日暮里駅に到着しました。(池袋から日暮里コース)【了】人気ブログランキング山手線100周年 池袋→日暮里(その14) 下町情緒を味わいながら日暮里駅へ
Jan 16, 2026
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西日暮里駅に到着です。西日暮里駅は1971年開業。とーなりの日暮里駅までは約500メートルしか離れておらず、山手線で一番駅間の距離が短いのです。この駅は、地下鉄千代田線の建設に際し、当時の帝都高速度交通営団(現 東京メトロ)は日暮里付近へ駅を設置するのに合わせて、当時の国鉄への乗換駅を要望した結果、この西日暮里駅ができた経緯があるようです。そのため営団千代田線・大手町 - 霞ケ関間が開業した1971年に合わせて国鉄も西日暮里駅を設置したのです。西日暮里駅は道灌山通りとJR線が交差する地点にあるので、駅からすぐにこの道灌山通りに出ることができます。そして、道灌山通りに面して、東京大学合格者が多いことで有名な開成高校があります。(池袋から日暮里コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 池袋→日暮里(その13) 西日暮里駅と道灌山通り
Jan 15, 2026
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田端駅を過ぎると、西日暮里に向かって南に向かってあるくことになります。そして、ちょっと上り坂。坂の上に出ると、東北新幹線が走っていくのが撮影できました。そして、その下は何条も線路が。この線路は貨物線です。このまま常磐線に合流し、南千住にある貨物駅の隅田川駅(→→→こちら)につながるのですね。そして、こちらは東北本線の尾久支線。尾久駅を経由していく宇都宮線・高崎線列車が走る路線ですね。この区間は複々線で、尾久車両センター(→→→こちら)へ出入庫する列車も走ります。(池袋から日暮里コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 池袋→日暮里(その12) 線路が多いです
Jan 14, 2026
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こちらが田端駅北口です。田端駅は1896年開業で山手線ではなく東北本線の所属駅になっています。こちらは北口ですが南口もあり、南口は北口とは対照的に小さな駅舎ですが、新海誠監督による2019年公開の映画「天気の子」に登場していて、南口を出ると始まる上り坂は、映画の重要なシーンの舞台となっているそうです。と知ったかぶりのことを書きましたが、「天気の子」という映画を見たことはありません。田端駅北口から東北本線の線路を跨いで駅の東側に行くために、新幹線の高架橋の下を通る歩行者専用の陸橋(跨線橋)があります。田端ふれあい橋(→→→こちら)という名称の橋です。田端ふれあい橋の昔の名前は、昭和10年に竣工した「田端大橋」。この橋は架設当時の戦艦の造船技術を生かし全部溶接で建造されているゲルバー橋で土木技術史上、大変価値のあるものだそうです。しかし老朽化や増えてきた交通量に対応するため田端大橋に沿ってすぐ北側に、新田端大橋が昭和62年に架けられると、この橋は撤去される予定でした。しかし、歴史的にも学術的にも貴重な橋であり、また地域住民の方々から歩道橋として再生利用の強い要望があることを考え、田端ふれあい橋として生まれ変って今に至っています。橋の上には、金色に輝く裸婦像が。田端ふれあい橋が整備されたのは、平成4年(1992年)ですから、裸婦像もかなり経年劣化していますね。橋の上からは、見渡す限り、沢山の線路。右上の高架橋は東北・北陸・上越の新幹線の路線で、ここから車庫に向かう新幹線車両も撮影できるという、なかなかの撮影スポットですね。橋の東端から撮影してみました。こちらは旧田端大橋時代の銘板のある親柱とこちらには、旧田端大橋の生い立ちという銘板が設置されていました。銘板の碑文です。橋の由来旧田端大橋は、昭和10年に架設された突桁式下路桁三径間ゲルバー式全溶接橋です。当時、この橋は現場継手部も溶接した文字どおりの全溶接橋として東洋では最初で最大級の橋として注目を浴びました。この溶接技術は、その頃の造船技術(軍艦建造技術)を生かしたものであり、当時の技術者が遭遇した数々の苦労話が残されています。橋の概要 竣工年月日 昭和10年12月27日 形式 突桁式下路版桁三径間ゲルバー式 橋長 135m 橋梁幅 13.80m 道路幅員 11m(当時) 総鋼重量 約591t(当時)残存の経緯旧田端大橋は、近年経済発展に伴う自動車交通量の増加と年月の経過による老朽化が進んだため、東京都は、昭和62年(1987)に新田端大橋を架設しました。新田端大橋が開通したことにより、本橋の役目は終り、当初の計画では撤去する予定でありました。しかし歴史的にも学術的にも貴重な橋であり、また地域住民の方々から歩道橋として再生利用の強い要望があることを考え、田端ふれあい橋として生まれ変ることになりました。平成4年3月 東京都北区(池袋から日暮里コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 池袋→日暮里(その11) 田端駅と田端ふれあい橋
Jan 13, 2026
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田端高台通りから田端駅に向かって下っている短い坂道を下っていくと田端文士村記念館(→→→こちら)という施設があります。田端は明治の中頃、雑木林や田畑の広がる閑静な農村でしたが、明治22年、上野に東京美術学校(現、芸大)が開校されると、若い芸術家が次第に集まるようになりました。芥川龍之介、菊池寛、小杉放庵、板谷波山など小説家や作家(=文士)が集まり住むようになり、互いに影響しあいながら文化活動を行っていた歴史を記念し、彼らの功績や素顔を紹介するとともに、北区区民などの文化活動の拠点を提供する施設として1993年11月に開館したそうです。入館料はMoMo太郎の大好きな無料です。内部は撮影できませんでしたが、田端に集まった作家・芸術家たちの作品を展示するとともに暮らしぶりも紹介されていました。(池袋から日暮里コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 池袋→日暮里(その10) 田端文士村記念館
Jan 12, 2026
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今度は山手線の南側の道を田端駅の方へ向かって歩きます。(有)給食普及会(→→→こちら)という会社がありました。この会社は学校給食用食材を専門に取り扱う販売会社だそうです。この会社の近くには、山手線を跨ぐ陸橋の工事が行われていました。工事の概要を説明する看板です。この陸橋が完成すると第二中里踏切は廃止になるそうです。そしてこの商店街の道を歩きます。田端高台通りという名称の通りです。(池袋から日暮里コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 池袋→日暮里(その9) 橋梁工事と田端高台通り
Jan 11, 2026
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今夜(1月9日)、東の空にこんな光の筋が見えました。何の光だったんでしょうか?人気ブログランキングこの光は何だったんでしょう
Jan 10, 2026
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さらに、田端駅方面に向かって山手線に沿って歩いて行くと、静岡名産のわさび漬けのお店での東京営業所がありました。さらに進んでいくと、住宅街の中にあるちょっと怪しげなお店が、いつも山手線の車窓から見て気になっていましたが、この年齢になると、ちょっと入店する気にはならないですね。ゴルフボールのオブジェ、これも車窓から見て気になっていました。このゴルフボールのオブジェの近くにあるのが、現存する山手線唯一の踏切である。第二中里踏切(→→→こちら)です。第二中里踏切というのであれば、第一中里踏切というのもあったんでしょうかね。踏切を一旦渡って、丁度通過する山手線を撮影しました。踏切になっているのは、山手線の部分だけで、南側の湘南新宿ラインや貨物列車などが走行する山手貨物線部分は、跨線橋となっています。跨線橋区間から駒込駅方面を撮影してみました。画面の下端に金網が写り込んでしまいましたが、ここもなかなかトレインビュースポットですね。こちらは、田端駅方面で撮影したもので、山手貨物線の先には山手貨物線が京浜東北線の上中里駅に出ていく中里トンネルの坑口が見えています。(池袋から日暮里コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 池袋→日暮里(その8) 第二中里踏切
Jan 9, 2026
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こちらが駒込駅の東口です。駒込駅は、地形が傾斜しており、西側が掘割、東側が盛土上にホームがある構造となっていて、こちらの東口は、架道橋タイプになっていました。東口は庶民的な雰囲気がある商店街が駅前から続いています。こちらはさつき通り商店街です。商店街ですが飲食店も多いですね。線路を潜って反対側にもアザレア通り商店街です。'Azalea'とはツツジの意味ですから、日本ではサツキとツツジは別物のようですが、両方とも植物学的にはツツジ属に属する植物です。山手線沿いに次の田端駅に向かいます。しばらく行くと、道幅の狭いガード(架道橋)がありました。谷田川通りと呼ばれている道で、かって流れていた谷田川を暗渠化してできた道です。谷田川(→→→こちら)は東京都中央卸売市場豊島市場より染井墓地内を通り、豊島区駒込と北区西ヶ原の区境を流れ不忍池に注いでいた川で、下流の文京区あたりでは藍染川とも呼ばれていました。歩行者は隣にあるこちらの専用の架道橋を利用するのですね。中里第一隧道ガードという名称でした。(池袋から日暮里コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 池袋→日暮里(その7) 駒込駅東口
Jan 8, 2026
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大國神社から本郷通りを挟んだ向かい側にあるのが駒込駅です。駒込駅は1910年開業の山手線の駅です。山手線内で初めて自動改札機が導入されたのは、この駒込駅と東京駅だったそうです。駒込駅の近くにある駒込駅前交番です。何故か屋根がピンク色でした。そして、駅前にあった郵便ポストもピンク色。こんなにピンク色が多いのは、この駒込がソメイヨシノ桜発祥の地だからですね(→→→こちら)。また駅前には染井吉野桜記念公園(→→→こちら)として整備されています。そして公園内には、この「染井吉野桜発祥之里 駒込」の石碑もあります。さらにこの古びた橋の親柱と欄干が設置されていました。これは、かっての旧駒込橋の遺構です。山手線の跨線橋である駒込橋は1991年、東京メトロ南北線開通工事に伴いた架け替えられ。その際、保存されることになった先代の「旧駒込橋」の親柱及び欄干の一部になります。(池袋から日暮里コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 池袋→日暮里(その6) ピンクが多い駒込駅
Jan 7, 2026
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巣鴨駅が見えてきました。巣鴨駅は、1903年開業。山手線の隣に湘南新宿ライン(山手貨物線)が走っています。この線路は1925年にはすでに複々線化されていました。巣鴨駅を過ぎて線路沿いの道を歩くと、闘道館(→→→こちら)というお店がありました。闘道館(とうどうかん)は、日本のプロレスおよび格闘技専門の買い取り販売店、古物商、イベントスペースであるとWikipediaで紹介されているくらいなので、その方面ではかなり有名なお店なんでしょうね。こちらの跨線橋は染井橋という名称です。染井とはこのあたりの地名で、このあたりに「染井」という泉があったからという説があります(→→→こちら)。そして、この染井という地名は、この地で栽培された桜が、ソメイヨシノの起源ともなっているそうです。この染井橋も撮り鉄の皆さんには知られたスポットかもしれませんね。線路沿いのこのあたりが、今回のJR東が催行する駅からハイキング「山手線環状運転100周年記念! 下町情緒を感じながら文学の足跡を追いかける」の中間地点のようです。下町情緒とありますが、このあたり結構大きな庭付き一戸建てのお屋敷がありますね。駒込駅前にある大圀(だいこく)神社(→→→こちら)です。この小さな神社は、古くは屋敷の邸内社として創建されており、氏子地域を有さないそうです。しかし、徳川第11代将軍・徳川家斉(→→→こちら)が将軍職に就く前に参詣したと伝わっており、後に家斉が将軍となった事から「出世大黒」とも称され崇敬を集めているそうです。さらに、この家斉は、少なくとも16人の妻妾を持ち、歴代徳川将軍の中で最多となる53人の子女(息子26人・娘27人)を儲けたと言われるそうですから、崇敬すれば子宝にも恵まれる可能性もあるかもね。(池袋から日暮里コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 池袋→日暮里(その5) 巣鴨駅
Jan 6, 2026
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大塚駅から巣鴨駅に向かって歩いて行くと、大きな都営アパートがありました。都営住宅に入居するのは、なかなか厳しい入居条件があります(→→→こちら)。しかし、その結果、生活が苦しくても住むところが確保できるのは有り難いことです。こちらは巣鴨警察署です。この方たちも都民の生活の安全を守ってくれるのですね。有り難いことです。巣鴨署から、この細い道を抜けていくと、道幅の広い橋に出ました。橋の名称が「江戸橋」でした。江戸橋というと中央区の昭和通りにある日本橋川に架かる橋(→→→こちら)が有名ですが、こちらの江戸橋は山手線開通時に架かった橋で、江戸市内の境界線付近にできたためこの名がついたという説があるそうです。この江戸橋もトレインビュースポットとしてもいい所だと思われます。(池袋から日暮里コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 池袋→日暮里(その4) 江戸橋
Jan 5, 2026
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都電荒川線の沿線にあった公園です。大塚台公園(→→→こちら)というそうです。この公園には蒸気機関車が展示されていました。C58 407号機です。昭和21年に製造された機関車で、昭和48年まで北海道で活躍していたようですが、その後こちらの公園で保存されているそうです。戦後間もない時にも機関車を作っていたことになんか感動しました。こちらにも車輪が置かれていました。大塚台公園から、都電の線路沿いに坂道を下ると、大塚駅に到着しました。大塚駅は1903年開業。山手線内で都電と乗り換えるできる唯一の駅です。山手線の下にある都電の駅、JRの駅の下にあるけど、停留場の名称は大塚駅前と言うのですね。(池袋から日暮里コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 池袋→日暮里(その3) 蒸気機関車のある公園から大塚駅
Jan 4, 2026
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中池袋公園から首都高速5号線の下を抜けてこちらの東池袋公園の前を通り抜けました。大都会の中にもかかわらず、なかなかの広さで緑の多い公園でした。そして、こちら春日通りを都電荒川線の向原停留場の方へ向かって歩きます。壁に馬の絵が描かれたビル。ちょっと面白いので撮影しました。東京さくらトラム(都電荒川線)の向原停留場です。今度は都電の線路沿いの道を歩いて行きます。東京さくらトラムの線路沿いにはバラの花が植えられていました。東京さくらトラムではなく、東京ローズトラムに改名しようする地域住民の企てなんでしょうか。(池袋から日暮里コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 池袋→日暮里(その2) 春日通り
Jan 3, 2026
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駅からハイキング「山手線環状運転100周年記念!下町情緒を感じながら文学の足跡を追いかける」に参加して、池袋駅から日暮里駅までを歩きました。出発点の池袋駅に到着です。西口にある駅たびコンシェルジュでコースマップをもらって、出発です。なんとなくはっきりしない空模様ですが、豊島区の清掃工場の煙突は、ある種の池袋の象徴ですね。池袋駅北側で東西を結ぶ地下通路を目指します。池袋駅北側東西を結ぶこの地下通路ができたのは大正14年だそうです。その当時の名称は「雑司が谷隧道」でした。昭和61年の改修時に「ウイロード」の愛称に変わりました。池袋東口に出ました。こちらは家電量販店などあって西口とは違った賑わいをみせています。こちらの建物は、豊島区役所庁舎跡地に建設された「Hareaz池袋」(→→→こちら)です。そのHareza池袋の整備に併せてできたのが、こちらの中池袋公園です。公園というよりは、各種のイベントが開催される場所のようで、この日もイベントが開催されて多くの人でにぎわっていました。アニメ&まんが聖地EXPOというイベントのようで、アニメやまんが好きの人が集まっていたようです。(池袋から日暮里コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 池袋→日暮里(その1) 池袋駅から中池袋公園へ
Jan 2, 2026
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あけましておめでとうございます。拙いブログですが、みなさまに今後とも楽しんでいただけるよう精進してまいりますので、本年もよろしくお願い申し上げます。人気ブログランキング新年おめでとうございます。
Jan 1, 2026
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いよいよ今年も押し迫って、大晦日です。最後に紹介するのは、隅田公園にあるこちらの神社。牛嶋神社(→→→こちら)です。隅田川に沿う旧本所一帯の土地を昔「牛嶋」と呼び、本所の総鎮守として牛嶋神社と称したされています。最近では東京スカイツリーの氏神としても知られています。社殿の前には、全国的にも珍しい三ツ鳥居。これは三輪鳥居とも呼ばれるそうで、代表的なものとしては、奈良県桜井市三輪にある大神神社(おおみわじんじゃ)の三ツ鳥居があります。そして、この三ツ鳥居は八の字を描くようにくぐると三倍の御利益があるそうです(→→→こちら)。また境内にある神楽殿では、珍しい映画が上映されていました。「黒の牛」(→→→こちら)が2026年2月28日まで上映されています。こちらが昭和七年(1932)に建設された社殿です。自分の体の悪い所と同じ部分を撫でると病気が治ると言い伝えられている「撫牛」も有名です。また、神社のある隅田公園(→→→こちら)は、水戸徳川家の下屋敷であったところだそうです。参拝した後は隅田公園を散策しながら、墨田区に関するちょっとした蘊蓄が設置されているのを勉強して、王貞治さんにゆかりの地を巡るのもいいですし、そのまま隅田川を渡って浅草の浅草寺にも参りするのもいいですね。というわけで、東京の下町のちょっと渋めの初詣にお薦めのスポットを紹介しました。みなさんよいお年をお迎え下さい。(おすすめ初詣コース)【了】人気ブログランキングお薦めの初詣スポット(その4) 牛嶋神社
Dec 31, 2025
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飛木稲荷神社から歩いてすぐ、それほど離れていないところにもお薦め初詣スポットがあります。こちらの高木神社(→→→こちら)です。応仁2年(1468年)、室町時代の創祀と伝えられており、旧寺島新田の鎮守として尊崇され、古くは「第六天社(だいろくてんしゃ)」と呼ばれていました。明治時代初期の「神仏分離の制度」で「高木神社」と改めたそうです。境内にあったちょっと変わった石碑です。石碑には「山玉向島講社」と刻まれていました。この説明板によると、山玉向島講社は、かつて向島地域にあった富士講(富士山を信仰する人々の団体)のひとつ、大正期には100人以上の講員がいた富士講でしたが、戦時中に活動は中止となったそうです。近代の墨田区における信仰と地域の結びつきの広がりがわかる文化財として、平成23年に「墨田区登録文化財」に指定されているそうです。境内に吊るされた絵馬には「おにぎり」の絵がと思ったら、「おむすび」だそうです。というのも、明治の神仏分離の際、に高木神社と名称を変えた時に合わせて、御祭神を高皇産靈神(タカミムスビノカミ)としたそうで、「むすびの神」として高皇産霊神と祀る事から、「人と人との繋がりを結びつけてくれる」という御神徳で信仰を集めているそうです。境内にあるこの石も、おむすび型で、結び石というのですね。こちらの手水舎。水鉢には立派な龍の口があるのですが、水が流れてこないので、アルコール消毒をして、お参りさせていただきました。(おすすめ初詣コース)【つづく】人気ブログランキングお薦めの初詣スポット(その3) 高木神社
Dec 30, 2025
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東京スカイツリー周辺のお薦め初詣スポットを第二弾です。前回の柳嶋妙見山法性寺からは、やや歩きますが、都営浅草線の押上駅と東武鉄道の曳舟駅の中間地点になる下町の住宅街の中にある飛木稲荷神社(→→→こちら)です。創建年代は不詳ですが、かつてこのあたりにあった旧請地村(うけじむら)の鎮守です。この大きなイチョウの木が目印のとなっています。御神木としてそびえる大イチョウは、樹令千年をこえると言われ、戦火(昭和二十年三月九日)により、損傷を受けましたが、ご覧のように今でも元気に繁茂しています。古老の言い伝えによれば、大昔のある時、暴風雨の際、どこからかイチョウの枝が飛んで来て、この地に刺さったとのことです。そしていつの間にか亭亭とそびえたので、時の人が、これは異状のことであるとして、稲荷神社をお祀りしたのが始めであると言われており、飛木稲荷の名もこれから起こったものとされています。こちらが社殿です。社務所もあり御朱印がいただけます。(おすすめ初詣コース)【つづく】人気ブログランキングお薦めの初詣スポット(その2) 飛木稲荷神社
Dec 29, 2025
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