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平成12年(2000)に閉鎖された松竹大船撮影所の名残がないかさがしてみました。今の撮影所の敷地のほとんどはこちらの、鎌倉女子大学(→→→こちら)の敷地になっているようです。その鎌倉女子大学の前の小道を北側に向かって歩き、大学の敷地の北側を流れる砂押川(→→→こちら)に出ると、桜並木があり、砂押川プロムナードとして整備されていました。また看板にある鎌倉芸術館(→→→こちら)というのは松竹大船撮影所の敷地の一角を借りて建設された施設だそうです。砂押川沿いには相当な桜の大木もあるようで、桜の季節の時に訪れてみたいものです。そして、この橋。親柱には、松竹第二号橋と刻まれていて、松竹大船撮影所に関連して建設された橋なのでしょうか。また、こちらの橋にも、親柱の文字を見てみると、松竹大通橋との名称が記されていました。【了】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(付録その2) 松竹大船撮影所の名残をさがして
2024年01月22日
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折角、大船までやってきたので、お昼ご飯でも食べようかと思い、すこし駅の東側を歩いてみました。東側はちょっと賑やかな商店街になっていました。駅の北側、戸塚方面に向かって歩いて行くと、笠間口という入口があることを発見。そして、こちらからは横浜市になっていました。つまり、大船駅って鎌倉市と横浜市の両方にまたがる駅だったんですね。こちらの通りを更に、東に向かって歩いて行くと、松竹前というバス停がありました。そして、その近くの交差点の名前が、松竹前という名称でした。昭和11年(1936)から平成12年(2000)まで、この大船にあった松竹大船撮影所(→→→こちら)があったことの名残りなんですね。【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(付録その1) 松竹前
2024年01月21日
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大船といえば、大船観音(→→→こちら)、全長約25メートルの巨大白衣観音像、が有名ですね。大船観音入口があったので、ちょっと立ち寄りました。ここが大船観音の大船観音寺(→→→こちら)の入口のようです。参拝料が必要なようなので、時間の都合もあり、またの機会に参拝させていただくことにします。ということで、この柏尾川を渡って、大船駅の構内に入りました。駅西口には、立派な高架型の歩道、ペデストリアンデッキがあります。このペデストリアンデッキから大船観音を拝んでおきました。観音様の優しいお顔がいいですね。ここでよく見ると、地上にあるのは半身像だけのようで、全身のある立像ではなかったんですね。大船駅のコンコースには商店が並んでいて、便利がよさそうです。こちらが南改札となっています。大船駅には、東海道線・横須賀線・湘南新宿ライン・根岸線(京浜東北線)が乗り入れており、鉄道の要衝となっています。そんなことから発着する列車も多いためでしょうか、駅の発車標がフルカラーLEDを用いて10本分の列車発車時刻を表示していました。大船駅からは、まだ乗ったことのない根岸線経由で帰ることにしました。根岸線を走っているのは、この京浜東北線E233系です。(戸塚から大船へ歩いたコース)【了】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その15) 大船観音と大船駅
2024年01月20日
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河川と東海道線を跨ぐ橋が見えてきました。柏尾川(→→→こちら)沿いに大船駅に向かって歩きます。並行して東海道線も走っています。大船駅周辺のマンション群も見えてきました。そして、ここで鎌倉市に入りました。振り返ると、横浜市でした。横浜市って結構広いですね。歩道を塞ぐように建っています。理由はあるのでしょうけど、なんとかならないんでしょうかね。やがて、ペデストリアンデッキ(→→→こちら)らしきものが見えてきました。どうやら駅のようですね。ようやく大船駅(→→→こちら)のようですね。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その14) 鎌倉市に入ります、そしてようやく大船駅
2024年01月19日
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大規模な道路工事を横目に見ながら、大船駅に向けて歩きます。横浜環状南線の工事だそうですが、このあたりインター・ジャンクションができるのでしょうか。いくつもの橋が交差して建設されているようです。この近くニコンの工場もあるようです。高速道路の下に広がる水田です。田谷・長尾台農業専用地区(→→→こちら)という看板がありました。都市農業の確立と都市環境を守ることを目的とした、横浜市独自の農業振興策だそうです。集団的な農地等を農業専用地区に指定し、農業振興策を実施することにより、農地の保全を図っている地域になります。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その13) 田谷・長尾第農業専用地区
2024年01月18日
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大きな水路がありました。結構、魚影がありました。鯉でしょうか。水田の中を道路工事が進んでいました。住宅のすぐ脇にも道路が造られているんですね。田谷の洞窟(→→→こちら)というのがあるようです。ちょっと立ち寄ってみました。田谷の洞窟とは、正式名は「田谷山瑜伽洞(ゆがどう)」といい、横浜市登録地域文化財の「地域史跡」に登録されているものだとか。真言宗大覚寺派田谷山定泉寺境内にある人工洞窟になるそうです。大変興味深いもののようですが、ここまで歩いてきたので、足も疲れてきたので、また改めて参拝させていただくことにしました。真言宗のお寺ということで、弘法大師の立像が建立されていました。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その12) 田谷の洞窟
2024年01月17日
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建設中の道路橋がありました。工事個所を迂回して、丘の上に登ると、建設現場が見えました。橋脚の工事ができて今度はその上に橋桁を載せるのですね。横浜環状南線道路(→→→こちら)の工事なんですね。知らなかったんですが、建設現場って週休2日ではなかったんですね。まあ、雨が降れば作業もできないから休みもあるので、梅雨時期なんかだと週休4日も夢じゃないかも。とはいえ、休みが増えると工事期間も長くなって、令和6年3月31日までには工事が終わらないかも。日曜日だったので、工事は休んでいましたね。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その11) 横浜環状南線道路工事中
2024年01月16日
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住宅街の中を歩いて、東海道線の次の駅、大船へ向かっています。ちなみに、この道を歩いていたのは2023年9月17日(日)です。まだまだ残暑の厳しい中を歩きました。そしてちょっと疲れたので住宅街の中の公園でひと休みです。公園の名前が「原宿公園」、横浜にも原宿(→→→こちら)があったんですね。ちなみに東京の原宿は江戸時代以前は鎌倉街道の宿場町があった(→→→こちら)そうですが、このあたりもそういう宿場町だった歴史があるんでしょうか?高齢者専用の押しボタン式信号機がありました。でも通学に使う子供たちも押しているかも?炎天下の下で、サッカーの練習をしている高校生のようです。途中の道端にあった廃止された公衆電話です。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その10) 横浜市の原宿、そして使われなくなった公衆電話
2024年01月15日
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大坂松並木を過ぎてさらに国道一号沿いに歩みを進めると、このような石碑があります。石碑には「お軽勘平戸塚山中道行の場」(→→→こちら)と刻まれていました。人形浄瑠璃や歌舞伎の演目である「仮名手本忠臣蔵」の中で演じられる三段目・恋歌の意趣の中にある「道行旅路の花聟」に因むもので、「仮名手本忠臣蔵」の元々の内容ではないが、現行の歌舞伎の通し上演では一体化して上演されている。 清元節を使った所作事になるそうです。、話としては、腰元お軽と逢引していて殿中で刃傷沙汰を起こした主君の大事に居合わせることができなかった早野勘平が、お軽の実家のある山崎へと、お軽とともに落ちのびてゆくところに、鷺坂伴内が手下を連れやってきて両人にからむという筋立で、鎌倉から落ち行くふたりが桜と菜の花が咲き乱れる戸塚山中で見せる美しく華やかな所作事になるそうです。ちなみに仮名手本忠臣蔵の中では、お軽の故郷に逃げた勘平は猟師として暮らしていたところ、誤って義父与市兵衛を殺したと誤解し自害するが、死に際に潔白が証明され,討ち入りの連判状に加えられるといった内容でした。こちらの石碑は、お軽勘平戸塚山中道行の場の石碑が建立された由来が記されているようで、清元節に因んだことが記されているようでした(多分)。このレストランのあるところで左折して、住宅街のなかの道を歩いて行きます。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その9) お軽勘平戸塚山中道行の場の碑
2024年01月14日
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国道一号沿いに歩いて行くと、また旧東海道道しるべ(→→→こちら)が見つかりました。大坂松並木という道しるべてした。説明文では、大坂では天気の良い日に松並木から素晴しい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となりました。昭和七(一九三二)年に坂の改修工事が始まり、頂上を削り、下の方は十mほど土盛りをしてなだらかな長い坂にしました。現在の大坂になるまでは数回の改修がおこなわれたそうです。とありました。さらに進んでいくと、大きな歩道橋になっているところがありました。グーッと突き出したカーブした歩道橋になっています。歩道橋の下は環状3号線(→→→こちら)が通っていました。道がきれいで最近開通したような感じですね。歩道橋の上から望遠で撮影しましたが、港南台(→→→こちら)と呼んでいるニュータウンの方でしょうか。横浜も多くの人が済んでいるんだなと思いました。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その8) 大坂松並木と環状3号線
2024年01月13日
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旧東海道から離れて、国道一号の新道に向かいます。バイパスに面した戸塚警察署です。この道が国道一号の新道、バイパスになっています。そして、お正月の箱根駅伝のコースになっています。箱根駅伝の戸塚中継所近くなってきて、ちょっと渋滞。この広場、箱根駅伝往路2区→3区から中継所になります。飲食店などがあって、多くの車が駐車されていますが、駅伝当日は一般車両は駐車禁止になるんでしょう。こちらの自動車販売店は復路8区→9区の中継点です。店名が戸塚中継店になっていました。アピールできる店名ですね。駅伝のイラストもありました。しかし、いつも思うのですが、駅伝ってオリンピックの競技でもないのに、なんであんなに人気あるんですかね。と言ってもMoMo太郎も好きですが。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その7) 箱根駅伝戸塚中継所
2024年01月12日
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バス停の横に道標がありました。わざわざ植樹された木もあって、目立たたせようとしているのか。道標には「横浜市地域史跡東海道戸塚宿見附跡-上方見附-」とありました。ここが戸塚宿の上方(京都)側の入口にあたるのですね。戸塚区内の旧東海道は南北方向にまたがっており、全長約11.7kmあります。その中で戸塚宿は、江戸方見附跡と上方見附跡の2つの見附跡に挟まれた約2.3kmの範囲とされていたそうです(→→→こちら)。ここからは、長大な登り坂が始まるようです。坂道に差しかかるあたりに石碑が立ち並んでいました。この石碑は庚申塔のようですね。江戸時代庚申信仰(→→→こちら)が盛んだっんでしょうね。さらに坂道を登って行くと、またバス停の近くの植え込みに道標がありました。植え込みに隠れていますが、説明文には、かつては二つの坂から成り立っていたようで「新編相模国風土記稿」によれば、一番坂登り一町余(百m余)、二番坂登り三十間余(五十四m余)と書かれています。大坂では嘉永六(一八五三)年に仇討ちがあったという記録があります。とありました。ということで長い坂が続きます。その道しるべの先に石碑が植え込みの中に建っていました。東海道の史跡「大坂」を示す石碑、もっとわかりやすく設置し直して欲しいな。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その6) 戸塚宿上方見附と大坂
2024年01月11日
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しばらく歩くと、大きな交差点がありました。戸塚町とありましたから、ここが戸塚の中の戸塚なんですかね。その交差点の近くにあった旧東海道道しるべ、結構頼りにしています。説明文によれば、戸塚宿の総鎮守で祭神は誉田別命(応神天皇)と冨属彦命の二柱です。源頼義・義家父子がここに野営し夢で応神天皇の神託を受け戦に勝利した事に感謝し延久4(1072)年に社殿を造りその御霊を勧請したとのことです。山頂の古墳は冨属彦命の古墳とされており、「冨塚」と呼ばれ、これが「戸塚」の地名の起こりとも言われています。境内には松尾芭蕉の句碑もあります。とのことです。とりあえず、お参りさせてもらいました。こちらの石碑が松尾芭蕉の句碑です。句碑には、「鎌倉を 生きて出でけむ 初鰹(芭蕉翁)」と刻まれてました。鎌倉産の初鰹の活きのよさを詠んだ句なんでしょうね。江戸っ子に珍重された初鰹。当時は鎌倉に水揚げされて戸塚を通り江戸へ運ばれていたんですね。こちらには冨塚八幡宮の由緒が書かれていました。御祭神は誉田別命、富属彦命で、社殿後方の地は富属彦命の古墳になるそうです。また、これを富塚と称した事により戸塚の地名が発祥したと伝えられています。戸塚(富塚)一族は昔この地に住み、当神社を氏神として崇敬しておりました。現在全国に散らばる戸塚姓富塚姓の方々の守護神でもあるそうです。そして社殿は、この石段を登ったところに。登ってみました。こちらが社殿です。御幣束で扁額の文字が隠れてしまいましたが、冨塚八幡宮です。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その5) 冨塚八幡宮
2024年01月10日
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澤邉本陣跡から平坦な道が続く通りを300mほど進むと、この鳥居が見えてきました。鳥居の前にあった東海道道しるべによると、この神社は「八坂神社」(→→→こちら)だそうです。この説明文によれば通称「お天王さま」として親しまれている戸塚宿の鎮守です。元亀3(1572)年に。牛頭天王社を勧請したのが始まりと言われています。毎年7月14日行われる「お礼まき」は、無病息災を祈願して市の無形文化財になっています。神社脇の東海道と鎌倉道が交差するあたりに高札場がありました。と説明されていました。また鳥居のすぐそばに国土地理院の水準点が設けられています。八坂神社の境内には、明治天皇東幸史跡の石碑が建立されていました。ここにも明治元年の天皇が東京に移られた時に内侍所(三種の神器の一つである神鏡(八咫鏡やたのかがみ)を安置した所)が建てられたことによるものだそうです。この石碑の脇にあった、八坂神社の由緒を説明した看板です。これによると、創建は元亀参年六月郷の庄司内田兵庫源政親によるものだそうです。ちなみに「庄司」とは、江戸時代において村落の長。庄屋。名主(なぬし)。肝煎(きもいり)を意味していたそうです。横浜市の無形民俗文化財の「お札まき」についての説明板もありました。こちらが八坂神社の境内になります。風に舞う幣束が写り込んでいますが、社殿の扁額です。八坂神社とあります。ちなみに京都の八坂神社では、素戔嗚尊 (すさのをのみこと)がご祭神になりますが、こちらで祀られていた牛頭天王は起源不詳の習合神で祇園精舎を守護するとされ、日本では素戔嗚尊と同神とされていたことから、明治初年社号を八坂社と改めたのでしょうか。そして、神社脇の東海道と鎌倉道の交差点にあった古びた石碑です。読みにくいですが、「これよ里かまくら道」と刻まれていますが、建てられている場所が東海道の北側で、本来の、東海道の南側のかまくら道の入口でないのは、道路工事かなにかの関係でここに移設されたんでしょうかね。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その4) 八坂神社と「これよ里かまくら道」
2024年01月09日
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戸塚宿の澤邉本陣跡の横には羽黒神社があります。参道にある鬱蒼とした大木がこの神社の歴史を物語るようです。戸塚羽黒神社の由緒は、国府台の合戦(→→→こちら)で戦死した沢辺修理亮信直(天文7年1538年没)の長男沢辺河内守信友が弘治2年(1556)に創建したと伝えられています。江戸時代の初め、戸塚が宿場町になるよう幕府に働きかけていた澤邉宗三は、元和2年(1616)11月17日に(戸塚が宿場町となる)伝馬証文が下附された際、羽黒社に感謝して祭日を11月17日としたそうです。江戸期には戸塚宿内の鎮守とされ、明治6年村社に列格、明治14年戸塚町内神沢より当地へ遷座したと伝わっています。今の社殿は昭和34年8月17日の改築になっています。また祭礼の日も現在では8月17日だそうです。しかし、神奈川県の戸塚から遥かに遠い出羽の国、山形県にある羽黒山とつながりがあるのは、なんか不思議ですね。また、この神社を創建した沢辺河内守信友という方も、羽黒山とどういうつながりがあったんでしょうかね。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その3) 羽黒神社
2024年01月08日
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旧東海道に沿って歩いて行くと、旧東海道道しるべが設置されていました。ここに戸塚宿の脇本陣があったようですね。説明文によると、脇本陣は、本陣に差し支えが生じたときなどに利用されました。本陣とは異なり大名などの宿泊が無い時は一般旅客の宿泊に供することができました。規模は本陣よりも小さいですが、諸式はすべて本陣に準じ、上段の間などもあります。 戸塚宿には3軒の脇本陣がありました。だそうです。さらに南に下って、進んでいくと、「きじま本陣」(→→→こちら)がありました。江戸時代からの流れを汲む本陣が、飲食店になったのではと思いましたが、そうではなく普通の飲食店のようでした。こちらが正真正銘の戸塚宿 澤邊本陣跡だそうです。背後に建つお宅には澤邉本陣にゆかりのある方がすんでいたりして。説明文では澤邊本陣は戸塚宿に2つあった本陣のうちの1つです。本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって 幕府に強く働きかけた功労者です。明治天皇の東下の際には行在所になりました。敷地の一角に戸塚宿の鎮守の1つ 羽黒神社があります。弘治2(1556)年に澤邊河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりと言われています。と記されていました。大きな木製の標柱もあり、そして、明治天皇戸塚宿行在所址の石碑もありました。行在所(あんざいしょ)とは、天皇が行幸時に、臨時に滞在する場所のことで、わざわざ天皇滞在のための建物を建てると行宮(かりみや)となるのでしょうけど、臣下の邸宅・寺・官衙などを臨時に利用・転用した場合に行在所と呼ぶようです。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その2) 本陣と脇本陣
2024年01月07日
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新年早々、東海道線の駅間歩きをはじめます。さて、戸塚駅から出発します。戸塚駅に停車している東海道線の車両です。駅西口にある地図で行き先を確認します。駅前の広場には、なぜかハトがたむろしていました。西口には、横浜市の戸塚区役所がありました。駅西口から続く商店街です。駅前の国道1号にある戸塚郵便局です。旧東海道にあたる国道1号を南の方角に向かって歩いて行きます。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その1) 戸塚区役所
2024年01月06日
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駅の近くまでやってきました。この道沿いにも旧東海道の史跡がありました。矢部町問屋場跡です。標柱には矢部町問屋場について解説がありました。公用で旅する武士や旅人の宿泊や荷物の世話をするために設けられました。問屋役の下に年寄、帳付、人馬指などの役人が置かれ、馬や人足の手配、荷物の積み替え、帳付けなどを行いました。戸塚宿には三ヶ所の問屋場があり、交代で役目を勤め、矢部町問屋場は毎月一日から四日までを担当しました。戸塚宿には問屋場(→→→こちら)が三ヶ所あったとありましたが、この近くにも問屋場跡の標柱がありました。こちらは、吉田町問屋場跡です。標柱の説明文、最後の「吉田町問屋場は毎五日から十一日までを担当しました。」以外は、矢部町の標柱と同じでした。しかし、問屋場、当番制とはいえ、当番でない時に問屋場で働いていたお役人様たちは何をしていたんでしょうかね。駅前にやって来ると、路線バスが停車していました。路線バスで横浜駅まで行けるんですね。これなら太川陽介さんもテレ東のロケでも困らないかも。戸塚駅、横浜市営地下鉄も乗り入れているんですね。戸塚駅につながるペデストリアンデッキです。デッキの上にあるアンテナみたいなオブジェクト、どんな意味があるんですかね。こちらから戸塚駅に向かいます。戸塚駅東口です。こちらが改札口です。JR戸塚駅では、東海道線、横須賀線、そして湘南新宿ラインの3路線が利用できます。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その10) 問屋場と戸塚駅
2023年12月23日
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吉田一里塚跡を過ぎて、橋が見えてきました。これが大橋ですね。大橋の横には、稲荷社がありました。むかし東海道を往来する旅人も道中の無事を願ってお参りしたんでしょうか。親柱には、柏尾川(→→→こちら)と刻まれていました。この川が柏尾川(かしおがわ)です。橋の欄干には東海道五十三次の浮世絵が飾られていました。こちらは歌川広重の戸塚宿、元町別道という浮世絵です。橋のたもとには「左かまくら道」との道標が立っていて、ここが鎌倉へ向かう分岐点だったことがわかります。また「こめや」と書かれた大きな看板を掲げる旅籠が見える。軒先には「大山講中」や「月参講中」など様々な神仏参詣の団体の名前が掛けられています、ここがこれら講中の指定休憩所だったんでしょうか。また、旅人がまさに旅籠に到着て不器用そうに馬から台の上へ降りる様子も得かがれていて、なんかリアルです。こちらも広重の東海道ですが、佐野喜版と呼ばれる狂歌入りの浮世絵です。書かれている狂歌は、遊竹館一調の霞日(かすみび)をとつかの駅路(えきじ)とつかはといそぎて旅を双六(すごろく)のうですが、「とつかは」を、「戸塚」と、せかせかと急ぎあわてるさまを表す「とつかわ」のシャレになっているんですかね。大橋を過ぎると、道は東海道線をアンダーパスで越えているようですが、手前の交差点で左折して、柏尾川沿いの道を少し歩きます。川の向こうに見える建物は、日本を代表する総合電機メーカーの事業所のようでした。このあたり、企業の工場などの事業所が多いんですね。ようやく戸塚駅への標識が見えてきました。あと200mとなりました。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その9) 浮世絵のある橋
2023年12月22日
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箱根駅伝をモチーフにしたマンホール蓋がありました。動物病院がエキゾチックって、異国情緒のある診察室があるのかな。こちらは整骨院の前にあった骨格模型。こういう骨格模型もアマゾンでも売っていたりするみたいです(→→→こちら)ポツンと立っている案内標識。吉田一里塚跡とありました。説明文によると、吉田の一里塚は明治に入りずいぶん早い時期に取り壊されてしまったようです。江戸から10番目の一里塚で、 日本橋から約40kmになります。昔は、これだけの距離を一日で歩いており、旅籠のある戸塚の町まで、大橋を 渡ってあともう一息といった場所です。もう一息で戸塚宿なんですね。そういえば、十返舎一九 の東海道中膝栗毛でも弥次さん、喜多さんも江戸を発ってから最初の一泊は戸塚宿でした(→→→こちら)。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その8) 吉田一里塚跡
2023年12月21日
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道沿いに、また東海道の歴史を示すような石碑をまた発見しました。石碑に刻まれた文字は、「江戸方見附跡」でした。この標柱の説明によると、見付とは、宿場の出入り口のことです。ここは戸塚宿の江戸側の出入り口です。旧東海道の宿場に設けられた見付は、 宿場を見渡しやすいような施設となっていることが多いようです。参勤交代の大名らを、宿役人がここで出迎えました。とありました。さらにその近くには、「横浜旧東海道戸塚宿周辺散策案内図」という案内板があり、旧東海道沿いにある史蹟などの位置とその説明が書かれていました。これを頼りに歩くとより深く戸塚宿のことがわかりそうですね。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その7) 戸塚宿江戸方見附跡
2023年12月20日
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五太夫橋にやってきました。案内板には、この橋の名称の由来が書かれていました。石巻(康慶)五太夫は小田原北条氏の家臣で豊臣秀吉の小田原攻めのとき北条方の使者でした。北条氏滅亡後、鎌倉郡中田村で謹慎していた五太夫が、天正18(1590)年江戸に入る徳川家康をこの辺りで出迎えたことから、五太夫橋の名がついたといいます。泉区中田町には五太夫の墓があります。この橋が五太夫橋です。旧東海道ではありますが、この区間は、先ほど歩いた不動坂付近から国道1号のバイパスができたので、不動坂から戸塚駅前のバスセンターまでの区間は、神奈川県道22号横浜伊勢原線になっています。五太夫橋は「ごだゆうはし」と読むのですね。五太夫橋を過ぎると大きな建物が見えてきました。有名なタイヤメーカーの施設のようですね。ちなみに、日本語では「チ」に点々でブリヂストンと表記するのが正式のようですね。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その6) 五太夫橋とブリヂストン
2023年12月19日
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さらに旧東海道沿いを歩いて行くと、古めかしい雰囲気のある赤レンガの建物がありました。鎌倉ハム倉庫という施設だそうです。今はもう使われてはいないみたいですね。鎌倉ハムのホームページによると(→→→こちら)イギリス人ウィリアム・カーティスは明治七年、神奈川県鎌倉郡川上村(現在の横浜市戸塚区)でハムの製造を始めました。そして横浜で主に外国人相手に製品を売っていました。とありました。それがこの倉庫につながるのでしょうね。ただ、「鎌倉ハム」と呼ばれるブランドは、複数の業者が製造しているようです。名古屋に本社のある鎌倉ハム株式会社(→→→こちら)。鎌倉市に本社のある鎌倉ハム富岡商会(→→→こちら)そして横浜市瀬谷区に本社のある鎌倉ハム村井商会(→→→こちら)など何社かありました。そんなわけで、ハムの製造方法はイギリス人ウィリアム・カーティスから複数の日本人に伝えられ、それぞれハムを製造したのでしょうか。ちなみに、この倉庫から旧東海道沿いに少し南に行った元舞橋の付近には、肉屋さんがやっているハム製造のお店もありました。この店も鎌倉ハムの流れを汲むのかもしれませんね?またこのあたり、ちょっとした商店街らしきものになっていたようで、貴金属店や、本屋さん(代本屋(よもとや)と読むようです)などがありました。日曜日だったのでシャッターがおりていますが、今でも営業していると思われます。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その5) 鎌倉ハム倉庫
2023年12月18日
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国道1号線の道路改良工事が行われています。さして、その傍らに旧東海道を示す案内標識がありました。不動坂、地図で見てみるとこの近くに柏尾追分不動尊(→→→こちら)があることに由来するのでしょうか。旧東海道沿いに歩いて行くと「史蹟への小径」という石碑がありました。史蹟への小径、どこへ向かっているんでしょうか。石碑の裏側には、護良親王首洗井戸とありました。護良親王(→→→こちら)というのは、建武の新政で、大活躍した皇子で、足利直義の手によって殺害された方ですね。鎌倉で殺害されたと思っていましたが、ここで殺されたのでしょうかね。この小径を行くとその史蹟があるのでしょうね。その小径を少し歩くと、大きな木がありました。この木、神宮拝領の桧とありました。伊勢神宮式年遷宮の折、伊勢神社から賜わった檜だそうです。さて、肝心の目的だった首洗井戸へは、ちょっと遠そうだったので、訪れないで、戸塚駅に向けて歩みを進めていきます。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その4) 史蹟への小径
2023年12月17日
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東戸塚から戸塚に向かって、国道1号沿いを歩いています。道路沿いにあったお寺です。外壁が金属だとちょっと、お寺らしくないですね。そして、有名なパン屋さんの工場がありました。こちらもなにやら工場ですね。この会社(→→→こちら)、化粧品のメーカーのグループ会社のようです。よく見かけるロゴですね。こちらは、一見ガソリンスタンドのようですが、水素ステーション(→→→こちら)だそうです。「水素」と「酸素」を化学反応させて、直接「電気」を発電する燃料電池、カーボンニュートラルの実現に向けて普及が必要な施設でしょうね。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その3) 街道沿いの工場
2023年12月16日
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こちらの環状2号線を渡る歩道橋が旧東海道に相当するみたいです。ここからはしばらく旧東海道を歩きました。この品濃坂の坂道を下っていきます。旧東海道という案内板が所々に建てられていて、歩きやすいです。この川は、ブロック積の護岸などされて形状は変わっているかもしれませんが、昔から東海道に沿って流れていたんでしょうね。国道1号、今の東海道との交差点に出ました。旧東海道は、国道1号を横切っていくようですね。国道1号沿いにあった石材店です。店の前には、東海道を歩く人のための石碑が建てられていました。旧東海道は、左側のコミニュティ・バスが走っている道路でした。旧東海道を歩くと、また「提灯立場」と書かれた案内の標柱が建てられていました。説明書きによると、立場とは宿場間が遠い場合に、また峠などの難所に休憩施設として茶屋などが設けられた場所です。立場が反映すると宿場と混同され、間の宿と呼ばれました。この立場は上柏尾町地内提灯にあり、江戸から道程におい品濃坂の急坂を下りきったところで、戸塚宿まではあと一息の場所となります。しかし、地名が「提灯」というのはなぜなんでしょうね。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その2) 旧東海道を歩きました
2023年12月15日
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駅間歩き、東戸塚から戸塚に向けて続けます。横須賀線に乗って東戸塚駅にやって来ました。東戸塚駅から直接、ペデストリアンデッキで駅前のショッピングセンターに行けるようですが。やっぱり、地べたを歩こうと思い、下の道を歩きます。駅前から少し歩くと交差点があり、交差点には品濃町の表示がありました。東戸塚という住所はなく、このあたりは神奈川県 横浜市 戸塚区 品濃町 という住所になるんですね。この交差点から東に向かって環状2号線方へ行くと、神社がありました。品濃白旗神社(→→→こちら)というそうです。鳥居の横には、神社の御由緒がありました。康元元年(1256年)創建といわれている神社で、白旗神社の白旗は、源平争乱の際の源氏の白旗に由来するもので、源氏の武将等が祀られ神社だそうです。ちなみに、ここ品濃白旗神社の主祭神は源義経になるそうです。その他、白旗神社には、源頼朝、源義家などが祀られているところもあるそうです。かなりな石段を登りますが、駅間歩きが始まったばかりで、これくらいはなんなく登れました。こちらが社殿でした。これからの道中の無事を祈らせてもらいました。環状2号線の方に向けて、ダラダラとして坂道が続きます。環状2号線を跨ぐ歩道橋の上に来ました。環状2号線なので、この道を進むと磯子、日野と横浜市街地を一周することになるんですね。しばらく行って右折すれば、次の目的地の戸塚駅に行けそうです。歩道橋を渡ったところに「品濃坂」と刻まれた道標がありました。この道標の先には旧東海道と書かれた案内板がありました。むかしの人はこの道を歩いて旅したんですね。またその道端には旧東海道を説明する案内板がありました。品濃坂、江戸を旅立った人にはその日の宿泊先である次の戸塚宿までの最後の坂道だったということですね。そういえば、東海道中膝栗毛の弥次さん、喜多さんも最初の一泊目は戸塚宿でしたね。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その1) 白旗神社と品濃坂上
2023年12月14日
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東戸塚駅です。地域住民からの要望を受けて新設された請願駅であり、横須賀線のいわゆる「SM分離」(→→→こちら)に際して、昭和55年(1980)に開業したそうです。SM分離とは、東京駅 - 大船駅間で線路を共有していた横須賀線電車と湘南電車との系統別分離運転を指す呼称で、鶴見駅 - 東戸塚駅においては貨物列車専用の別線を新設して同区間の在来貨物線は旅客用に転用して、東戸塚駅 - 大船駅間に貨物専用線を在来線に併設線増したそうです。駅前には、東海道戸塚宿周辺散策案内図が設置されていました。駅前からは各方面にバスが出ているようです。東戸塚駅はこのエスカレーター、ないしはエレベーターを利用してビルの4階相当の高さまで登って行きます。駅舎の改札階まで登ったらこんな高いです。このベストリアンデッキを使って駅前の百貨店に行くことができます。ベストリアンデッキから地上のバスターミナルを見下ろしたところです。改札口です。乗降客は多くて混雑していました。ホームは盛土されて高くなったところにあるので改札階からは一階分降りるだけです。東戸塚駅に停車する系統は駅ナンバーリングのJO(横須賀線・総武線快速)とJS(湘南新宿ライン)のみで、東海道線の列車は停車しません。最初にやってきた、この湘南新宿ラインの列車に乗ると、新宿・大宮方面に行ってしまうので、これは見送って、次にやってきた、東京・千葉方面に行く横須賀線・総武線快速に乗って帰ります。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【了】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その15) 東戸塚駅
2023年12月05日
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品濃一里塚を越えて、旧東海道を外れ広い道に出ました。環状2号線(→→→こちら)というそうです。沿道には高層マンションが立ち並び、このあたりは横浜でも新興の住宅街なんでしょうかね。道路の案内標識を頼りに歩いていくと7、目的の東戸塚駅の標識が見えてきました。環状2号線から左折して、この緑濃い街路樹の坂道を下っていくと、東戸塚駅に出ました。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その14) 環状2号線
2023年12月04日
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坂道を登って行くと、またなにやら史跡を示す看板が建っていました。その手前に旧東海道、保土ヶ谷宿、戸塚宿と記された石碑もありました。こちらが説明板。「品濃一里塚」(→→→こちら)とありました。一里塚は、江戸の日本橋を目印として大きな道路(街道)の側に1里(約3.927キロメートル)毎に設置した塚(土盛り)である。多くは塚の上に榎や松を植えて、旅人の目印にしたものだそうです。説明文を書いてみました。江戸から数えて九番目の一里塚です。神奈川県内では、ほぼ完全な形で残る唯一の一里塚で、県の指定史跡となっています。旧東海道をはさんで道の両側に二つの塚があり、品濃側(西側)には昔大きな榎が植えられていたそうです。現在は品濃側(西側)平戸側(東側)共に、塚とその周辺が公園として整備されています。こちらの説明板にはもう少し詳しく色々と書かれていました。考えてみると、江戸日本橋から京都三条大橋までの距離は約492kmだそうです。それを一般的に、徒歩で13日から15日前後で歩いたそうですから、平均すると一日平均約33km歩くことになります。ということは、人の歩く速度は時速4kmくらいだそうですので、単純計算で1日に約8~10時間は歩くことになります。そうすると江戸から数えて九番目の一里塚になる品濃一里塚で江戸から約32kmの地点になるので、最初の一泊は保土ケ谷宿か次の戸塚宿のどちらかになるのでしょうかね。(→→→こちら)だから、江戸時代後期の戯作者、十返舎一九の代表作「東海道中膝栗毛」では、江戸を出発した弥次さん、喜多さんの一泊目は戸塚宿になっていたというわけですね(→→→こちら)。ちなみに江戸時代、手紙などを運んでいた飛脚は東海道を3~4日で結んでいたそうです。さて、道の両側に二つの塚があるということで、この説明板の向かい側も、なにやらありそうです。こちらも一里塚の痕跡のようですね。やはり説明する道標が建っていました。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その13) 品濃一里塚
2023年12月03日
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焼餅坂を下っていくと橋がありました。橋の名称は「品平橋(しなひらはし)」。かっての品濃村と平戸村(→→→こちら)の境にあったからこのような名称になったのでしょうか。川が流れているということは、ここが谷底。そして、この後はまた登り坂が続きます。細かいアップダウンの続く旧東海道です。途中に大きなアンテナのあるお宅がありました。諸外国の電波を傍受しているのでしょうか。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その12) 品平橋
2023年12月02日
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半分植込みの木に隠れて見えにくいですが、「右 環状二号、左 旧東海道」と刻まれている道標があり、とりあえず次の目的地の東戸塚駅に行くには、旧東海道がいいだろうということで、旧東海道を歩くことにします。この道が旧東海道になります。下り坂になっているのでやや歩き易いかな。途中にちょっとした公園があり、小さな石碑がありました。この坂道は、「焼餅坂(→→→こちら)」と呼ばれているそうです。旧東海道を戸塚方面に下るこの坂は「焼餅坂(別名:牡丹餅坂)」と呼ばれています。武蔵国と相模国の国境にあたる権太坂と焼餅坂は、昔の旅人にとって日本橋を出発してから最初の難所でした。このあたりには、一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり、坂の傍らで焼餅を売っていた事がこの坂の名の由来だと言われています。さすがに、今は焼餅を売っているところは見当たりませんね。さらに下って行くと、また説明板がありました。さらに向こう側には木板の標識もありました。木板の文字は掠れていましたが、辛うじて旧東海道(焼餅坂)と書いてあるのが読めました。こちらの説明板には、焼餅坂は当時の品濃村と平戸村の境にあり、一町半(約百六十m)の坂道でした。坂の傍らの茶店で、焼餅を商っていたので焼餅坂と名付けられたといいます。別名牡丹餅坂(ぼたもちざか)とも呼ばれています。戸塚を描いた浮世絵には山坂や焼餅の絵がしばしば登場します。との説明がありました。たしかに、こちらの浮世絵には、「名物やきもち」を売る茶店の様子と、さらに旅人や馬が行き交う街道の松並木ごしに、雪をいただいた富士山が見える風景が得かがれていました。江戸時代には、ここから富士山の眺望が楽しめたんですね。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その11) 焼餅坂
2023年12月01日
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境木立場跡には、その他にも旧東海道に関連する史跡がありました。それがこちらの説明板にある境木地蔵尊(→→→こちら)です。こちらが境木地蔵尊へ登る石段です。この石碑には境木地蔵の由来が記されていました。ざっと、言えば、相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕にたち「俺は江戸の方へ行きたい運んでくれたらこの海を守ろう」と告たので漁師達が江戸へ運ぶ途中、この境木で動かなくなったため、村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、それからお参りに来る人も出て「ぼたもち」が名物のお茶屋さんもでき、たいへん村が繁盛したということです。ということで、この石段を登ってお参りに。寺号碑には、「一心山 良翁院 境木延命地蔵尊」とありました。ちなみに、良翁院は大正12年の関東大地震でなくなってしまったそうで、この地蔵尊だけでが残っているのでした。こちらの手水鉢、ちょっと変わっていますね。こちらが地蔵堂。MoMo太郎も昔の旅人に習って、道中の安全をお願いしました。地蔵堂の扁額には亡くなった良翁院の文字が記されていました。境木地蔵層の前の広場にあった「武相国境之木」というモニュメントです。文字が掠れて読めませんが、「相模国戸塚宿一里九丁」と記されています。一里九丁とは一里は約4km、一丁は約100mですから、戸塚宿までは約5kmはあるってことですね。そもそも、この土地が「境木」と呼ばれる由来が記されていました。ここが武蔵国と相模国の国境で、それを示した榜示杭と呼ばれる木杭があった。あるいはその境を示すケヤキの木があったことが地名の由来みたいですね。保土ケ谷は武蔵国になるわけですね。モニュメントの根元には、武蔵国と相模国の地図と、さらそれぞれの方角にある地名が表示されていました。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その10) 境木地蔵尊と武相国境モニュメント
2023年11月30日
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旧東海道の権太坂は、あまりの険しさに江戸から西へ旅行く最初の難所として知られ、東海道中、箱根につぐ難所とされていたそうです。その権太坂を登り切ったところにある地区が「境木(さかいぎ)」です。このあたりの中心街はちょっとした商店街になっていました。その中でもこの和菓子屋さん「境木おじぞうさんもなか」(→→→こちら)という商品を売っていました。「おじぞうさん」というのは、境木のシンボル的史跡、境木地蔵尊(→→→こちら)にちなんだ最中だそうです。さらに旧東海道を進みます。バスも通る道ですが、結構、道幅が狭いですね。大きな樹の下に説明板がふりました。境木立場跡とありました。この説明によると、「立場とは宿場間に設けられた馬子や人足の休憩場。ここまでの権太坂、そしてここからの焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、富士の眺望も良いこの立場は旅人の格好の休息地として牡丹餅を出す茶屋も出され、大層にぎわった。」と書かれていました。また「横浜旧東海道戸塚淑周辺散策案内図」という案内図もありこの先の戸塚宿までの旧跡が紹介されていました。このあたりの住宅街、かなり急な坂道がありますね。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その9) 境木(さかいぎ)立場跡
2023年11月29日
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権太坂陸橋を過ぎても、まだまだ権太坂は続きます。坂の途中に権太坂と刻まれた石碑と説明板がありました。権太坂の石碑です。側面にひらがなで「ごんたさか」と刻まれているので、子供にも優しい石碑です。横浜市教育委員会の設置した権太坂の説明です。権太坂の名前の由来は、「旅人が耳の遠い老人に坂の名を尋ねたところ、自分の名を聞かれたと思った老人が「権太」と答えた」のが由来であるとされています。その他にも、坂の改修工事を手がけた藤田権左衛門の名にちなんだ「権左坂」が「権太坂」になったという説もあるそうです。史実では、万治2年(1659)に代官藤原の指図により、藤田権左衛門がこの坂道の改修を行ったそうです。しかし、まだまだ坂道は続きます。やっとこのあたりが頂上かと思ったら、少し下り坂になって、油断したら、またちょっと登り坂になっています。しかし、このあたりに住んでいる人は、みんな電動自転車使っているのかな。ようやく、このバスの転回場があり。この標識で、ようやく権太坂が終わったと確信できました。折角、バスも停まっているので、ここからバスで帰ろうかと思いましたが、やっぱりまだ歩き続けることにしました。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その8) まだまだ続く権太坂です
2023年11月28日
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元町橋を過ぎると少し道が登り坂になってきました。そして、この町内会の掲示板の後ろに何か大きな穴がありました。何かしらと思って覗いてみると、これは一等水準点(→→→こちら)でした。国土地理院の管理する水準点は、全国の主要国道等に沿って約2キロメートル毎に設置しており、各地点の高さを測るための基準として利用されているそうですが、その中でも、これは基準水準点となるもので国土地理院のホームページによると、基準水準点は、特に地盤が強固な場所に設置されることが多く、柱石だけでなく、地中にも硬石標とクローム金属標があります。基準水準点は100~150キロメートル間隔に設置しており、全国に約80点あります。柱石の長さは1メートルになります。と記されていました。そして、いよいよ権太坂(→→→こちら)に差し掛かります。こちらが旧東海道の権太坂になります。権太坂といえば、箱根駅伝では各校のエースが顔をそろえる「花の2区」の中でも難所として知られていますが、駅伝で走るのはこちらの国道1号の方です。坂の途中に見えるのは自動車専用道路の保土ヶ谷バイパスの高架橋です。ということで、旧東海道の権太坂を登って行くと、坂の途中に小さな鳥居と祠がありますが、ここに、「旧東海道権太坂改修記念碑」が建立されていました。権太坂って道路の名前だけではなく、住所でもあったんですね。やがて、こんな橋に出ました。これは保土ヶ谷バイパスを跨ぐ陸橋です。名称も「権太坂陸橋」となっていました。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その7) いよいよ権太坂です
2023年11月27日
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旧東海道を外れて、今井川沿いの遊歩道を歩いてみました。写真の左側の川が今井川(→→→こちら)です。今井川が合流する下流の帷子川は、昭和33年の台風22号で床上浸水2,851戸、床下浸水1,803戸の大きな被害を受けたことを契機に、治水工事が進められてきました。その関連でしょうか、この区間も河川改修工事が行われ、整備されていました。治水のため今井川には、近接する国道1号の地下にトンネル式の地下調節池があるそうです。河底の脇にグレーチングがあるのは、ここからトンネル式の地下調節池に水が流れ込む仕掛けになっているんでしょうか。元町ガードという交差点にやってきました。今井川と旧東海道が交差する橋です。こちらが今の元町橋(もとまちはし)です。ここも「ばし」と濁らずに「はし」と読むのですね。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その6) 今井川の河川改修
2023年11月26日
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東海道線を走る列車です。旧東海道をたどることが今回の散歩の目的ではなく、駅間歩きが目的なのことを改め思い出しました。旧東海道を走る箱根駅伝をイメージしたマンホール蓋がありました。始まった頃の箱根駅伝は旧東海道を走っていたんでしょうかね。三叉路に差し掛かりました。歴史の道「旧東海道」と書かれた案内板を頼りに、始まった頃の箱根駅伝にならい旧東海道を歩くことにします。この道が旧東海道になるようです。歩いて行くと、この地区の自治会の掲示板の横にあった標柱を発見。旧元町橋跡明治期に東海道線の鉄道が敷設されるまで、今井川がこの辺りで街道を横切っていたようです。また、ここを境に東側を「元保土ヶ谷」、西側を「元保土ヶ谷橋向こう」という字名だったということも書いてありました。今の今井川は国道一号に沿って流れているので、かなり大きな河川工事があったんでしょうね。多分この道路を横切る小さな排水路が昔の今井川の名残りなのかも知れません。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その5) 旧東海道の旧元町橋
2023年11月25日
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この今井川沿いの歩道を歩いていきます。盛土した上に松が植えられいて、その先に松並木が続く区間にやってきました。石垣と説明看板がありました。説明板には、一里塚跡と上方見附跡とありました。このあたりに一里塚があったようです、一里塚とは、この説明板によると、街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、 その上に遠くからでも目立つよう榎など木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は、江戸から8番目のものです。手前にあった盛土が一里塚の後なんでしょうね。また上方見附とは、この説明板によると、保土ケ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ケ谷区郷土史によれば、外川神社の前にあったとされています。 見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」とも呼ばれています。この上方見附から江戸方見附までは、 家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれています。この石垣が上方見附跡なんですね。こういう土塁を作って、町を守っていたんでしょうね。また、この説明板によると保土ケ谷区では、東海道保土ヶ谷宿の歴史を伝えるために、松並木と一里塚、上方見附の復元をしているようでした。こちらが復元された松並木なんですね。このように昔の街灯も復元されて、ちょっと東海道を旅する気持ちをちょっぴり味わえますね。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その4) 保土ヶ谷上方見附跡
2023年11月24日
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国道1号沿いにあったこのタイル張りの塀には、文字が掠れてしまって、よくわかりませんが「東海道五十三次保土ヶ谷宿碑」という金属板が設置されていました。こちらは「保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設」という説明板と「脇本陣(水屋)跡」の標柱がありました。この説明板によれば、「本陣・脇本陣は、明治3年の宿駅制度廃止まで続いていました。しかし、その格式と引き換えに制約や出費も多く、経営は必ずしも楽ではなかった」と記されていました。また、正式な本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋があったことや、旅籠屋のことも記されていました。保土ヶ谷宿では、天保13年(1842)には69軒の旅籠屋があったそうです。そして、この場所には脇本陣(水屋)があったのですね。こちらの標柱には、茶屋本陣跡とあり、解説文には「元治元年(1864)の茶屋本陣(九左衛門)の規模建坪六三坪(約二〇八㎡)間口一〇間半(約一九.一m)奥行六間(約一〇.九m)室数八 門構付」と記されていました。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その3) 保土ヶ谷宿の脇本陣(水屋)と茶屋本陣
2023年11月23日
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保土ケ谷橋を渡ります。この川は今井川、帷子川の支流で横浜港に向かって流れていきます。この橋に平行して東海道線が走っています。撮影した列車は横須賀線ですが、保土ケ谷橋を渡ると旧東海道を示す標柱が建てられていました。こういうものを辿っていけば旧東海道を歩いて行けますね。こちらが保土ヶ谷宿の本陣があったところです。かっての本陣の門が残っているみたいです。本陣跡について詳しい解説がありました(→→→こちら)。本陣とは、幕府の役人や参勤交代の大名が宿泊する宿で一般の人が泊まるようなものではなかったのでしょうね。保土ケ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめていたそうです。こちらは本陣跡に今も建つ住宅の門です。今も苅部家の所縁の人が済んでいるんでしょうかね。国道1号、交通量はおおいですね。昔も人の往来は多かったんでしょうね。また別の標柱がありました。本陣が混雑した際に、幕府の役人や参勤交代の大名が宿泊する脇本陣がありました。また保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の 脇本陣があったそうです。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その2) 保土ヶ谷宿の本陣と脇本陣
2023年11月22日
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保土ケ谷駅西口の駅前広場です。こちが駅舎の西口です。駅舎の西口側は旧東海道が通っていたせいか、なんとなく賑やかな感じがします。次の東戸塚へは保土ケ谷駅東口から国道一号沿いに歩いて行くことにします。国道一号沿いには商店街が続いています。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その1) 国道1号を歩きました
2023年11月21日
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標識を確認すると、この先500mで小田原方面と鎌倉方面の分岐があるんですね。といってもこのあたりの地理や道路に詳しくないので、よくわかりません。高層アパートとバスターミナルが見えてきました。バスターミナルがあるということは、駅も近いですね。保土ケ谷駅の看板が見えてきました。「保土ヶ谷」とは書かずに「保土ケ谷」と書くのが正しいのですが、この「ケ」の大きさ微妙ですね。細い道を入っていくと駅にたどり着けるようです。東海道線を跨ぐ橋上駅舎となってます。こちらが改札口。ちなみに保土ケ谷駅には横須賀線または湘南新宿ライン経由の列車しか止まりませんので、注意して下さい。(横浜から保土ケ谷へ歩いたコース)【了】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(横浜~保土ケ谷)(その9) 保土ヶ谷駅
2023年11月19日
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国道1号を歩いてきて、ようやく、保土ケ谷区に入りました。小さい「ヶ」ではなく大きな「ケ」が正しい表記のようです。やがて見えてきた鳥居、切り立った斜面に造られた神社です。折角なので、お参りさせてもらいます。鳥居の扁額には「杉山社」鳥居の脇に立つ社号碑では「鎮守杉山神社」と記されていました。杉山神社(→→→こちら)というのは現在の神奈川県横浜市を中心に川崎市、東京都町田市、稲城市などに数十社存在するそうで、旧武蔵国における式内社とされている。式内社とは、延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳に記載されている神社で、当時、朝廷から「官社」として認められていた神社になるそうです。鳥居をくぐった先、左手には大きな石灯篭がありました。Googleマップでは、「怪力石灯籠」(→→→こちら)という表示がなされています。怪力石灯籠とは、「昔々、ある江戸の講中が、伊勢の大神宮へ石灯籠を献納しようと、牛車に積んで江戸を出発し、保土ヶ谷までやってきましたが、そこで牛が進まなくなり、牛は杉山神社の境内へ逃げ込んでしまったということで、これは石灯籠が伊勢へ行くのを嫌がり、この宮に納まりたいということになり、杉山神社へ奉納することになりったのだそうです。そのため、灯籠に「伊勢大神宮」、台座に江戸講中の名が記されているのだとか。しかし、この石灯籠、台座には講中の名前らしきものはありましたが、「伊勢大神宮」の文字はわかりませんでした。反対側の灯籠も調べましが、「伊勢大神宮」の文字をわかりませんでした。そのほか、境内には石碑もありました。逆光で文字も見えづらいですが、なにかの記念碑のようでした。こちらは杉山神社のご祭神のに五十猛神(イタケルノミコト)(→→→こちら)の文字が見えました。五十猛神はスサノオの子で林業の神として信仰されているそうなので、社名も杉山神社なんですかね。ということで、こちらの階段を登って、こちらの社殿にお参りさせてもらいました。(横浜から保土ケ谷へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(横浜~保土ケ谷)(その8) 杉山神社
2023年11月18日
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国道1号を西へ向かって歩きます。道路だけではなく国道に並行する東海道線も跨ぐ歩道橋がありました。文字が消えかかっていますが「さわやか歩道橋」と書いてありました。歩道橋にも名称があるんですね。これからは気を付けて見ておこうと思いました。歩道橋の下には「さわやか歩道橋」と書かれたモニュメントがあります。モニュメントまであるってこの歩道橋、変わってますね。並行する東海道線を走る列車です。ちょっと駅間歩きっぽくなってきましたね。(横浜から保土ケ谷へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(横浜~保土ケ谷)(その7) さわやか歩道橋
2023年11月17日
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国道1号を歩いてゆくと、浜松町がありました。この町名は、かつてこの地が塩田だった頃に磯馴松(そなれまつ)があった事に由来するそうです。浜松町交差点は国道1号と藤棚浦舟通り・国道16号が交差する交通の要衝になります。さらに国道1号を南西の方角に進むと「水道道」という名称の道がありました。この道が水道道です。横浜市は明治20(1887)年10月に日本初の近代水道として給水を始めた街です(→→→こちら)その時、津久井郡三井村(現在の相模原市)の相模川より浄水場のある野毛山まで送水するための水道管ルートがこの道になります(→→→こちら)。(横浜から保土ケ谷へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(横浜~保土ケ谷)(その6) 浜松町と水道道路
2023年11月16日
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この橋を渡ります。道路幅員が広い大きな道ですね。灯籠の形をした石造りの親柱が風格がありますね。西平沼橋という橋で、石崎川に架かっている橋です。この川が石崎川。帷子川から分かれて流れる派川ですが、下流では帷子川に合流しています。河床にはかなり土砂が堆積しているようで、川面に台船が設置されていて、浚渫工事を進めているみたいですね。橋を渡ると大きな交差点に出ました。交差点で右折してこちらの道を歩いて行きます。道路標識で確認します。国道1号を小田原方面に向かって進んでいきます。(横浜から保土ヶ谷へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(横浜~保土ケ谷)(その5) 国道1号です
2023年11月15日
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こちらの鉄道橋は、京浜急行電鉄のものです。ここで今まで並走してくれた京浜急行ともお別れになりますね。京浜急行の鉄道橋を撮影した地点の横に、「文身歴史資料館」(→→→こちら)という建物がありました。文身(ぶんしん)とは、「肌を傷つけ種々の文様を残す習俗。針の先でつけた傷あとに色素をすりこむ刺痕(しこん)文身は入墨(いれずみ)ともいう。」ということで、隣にある「ワンポイントから全身彫りまで承ります」ということですね。この建物が三代目彫よしさんのお店兼資料館ということでしょうね。タトゥーとか入れ墨とかって「や」で始まる自営業の人だけのものかと思っていましたが、最近は普通の人でもやっているようですが、「なんかちょっとね。」とMoMo太郎は思っています。だから、外国人のサッカー選手なんか腕に結構入れ墨があったりして、それでサッカーが、なんとなく好きになれないです。(横浜から保土ケ谷へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(横浜~保土ケ谷)(その4) 文身とは
2023年11月14日
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道路を跨ぐ鉄道橋がありました。これは横浜駅から桜木町を通って根岸、そして大船へ至る京浜東北線・根岸線の鉄道橋です。再び橋を渡ります。この川は帷子川の派川の石崎川です。写真の鉄橋は京浜急行電鉄のものです。ちょっと、濁った水ですが魚が泳いでいました。まだ京浜急行と並行して歩いています。商店街があるようです。平沼商店街(→→→こちら)です。このあたりは平沼(→→→こちら)という地区だそうです。平沼は、程ヶ谷宿の豪商であった平沼九兵衛が、数代にわたる辛苦の末に、埋め立てに成功し新田開発を行ったのでその名を冠したという町です。さらに幕末には横浜開港に伴い、東海道と横浜港を結ぶ「横浜道」が当時の海岸沿いに設けられ、その道が、この平沼商店街になったそうです。そして、大正期から昭和期にかけては、三菱重工横浜造船所で働く人たちの通勤経路にもなり、港町の商店街として栄えたそうです。この角にあるお店は、昭和25年創業の角平(→→→こちら)というお蕎麦屋さんで、つけ天そばで有名なお店らしいです。(横浜から保土ケ谷へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(横浜~保土ケ谷)(その3) 平沼商店街
2023年11月13日
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さてと、横浜駅東口から出発です。横浜駅、大きな駅ビルですね。大きな駅の傍には、たいてい大きな郵便局がありますね。駅を出て東南方向に向かって歩くと、川がありました。帷子川(かたびらがわ)(→→→こちら)です。帷子とは一重の着物なんかのことですが、名称の由来は着物とは関係なさそうで、この川が流れていた現在の保土ヶ谷区天王町一帯は昔、一方が山で他方が田野で平らな地形をしていたため、片平「かたひら」と呼ばれ、その中を流れていた川を「かたびらかわ」と呼んでいたことが由来だという説があるそうです。ちょっと写真では、親柱の銘板が詠みづらいですが万里橋(→→→こちら)というそうです。「まんりはし」または「ばんりばし」と読むそうで、一定ではないようです。明治5年、わが国初の鉄道が開通しました、現在の桜木町駅にあった「横浜」駅を出発した鉄道路は、海だった場所を埋め立て整備されました。そして、次の神奈川駅(今の横浜駅に近いため廃駅となったそうです)までに五つの橋が設けられたそうですが、その一つとして現在も残され、その歴史を物語っているのがこの万里橋だそうです。帷子川には東海道線と京浜急行線の橋梁が架かっていました。京浜急行の車両が丁度、橋を渡たるところです。(横浜から保土ケ谷へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(横浜~保土ケ谷)(その2) 帷子川と万里橋
2023年11月12日
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