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隅田川を遡って行きます。ここは隅田川テラスと呼ばれる、堤防を整備した水辺の散策道になっています。周辺に住む人たちの憩いの場にもなっています。そして、アオサギにも憩いの場になっているようです。また、このあたりは、松尾芭蕉が居を構えた場所でもあって、このように道沿いには松尾芭蕉の句碑も整備されています。芭蕉は、延宝8年(1680年)それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住みました。そして、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開し、多くの名句や『おくのほそ道』などの紀行文を残しています。この黄色い塔が印象的な斜張橋は新大橋(→→→こちら)です。隅田川の堤防を越えてこの緑の濃い庭の中に入って行きました。これが建物の玄関です。ここはどこかというと、江東区芭蕉記念館(→→→こちら)です。大正6年(1917年)9月の台風の高潮の後、常盤一丁目から「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が出土し、同10年に東京府は、この地を「芭蕉翁古池の跡」と指定しました。江東区は、このゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するため、昭和56年(1981年)4月19日に芭蕉記念館を建設しました。ここでは、芭蕉及び俳文学関係の資料を展示するとともに、子供俳句教室など文学活動の場も提供しています。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その16) 隅田川テラスと江東区芭蕉記念館
2023年07月06日
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今度は深川萬年橋(→→→こちら)の方にやって来ました。こちらの橋はよくドラマのロケなどにも使われているので、御存知の方も多いかと思います。東京都江東区の北部を東西に横断し、隅田川と旧中川を結ぶ運河である小名木川に架かる橋で、江戸時代から、この場所に萬年橋か架かっていたそうで、、葛飾北斎の浮世絵、富嶽三十六景でも「深川萬年橋下」として描かれています。関東大震災の直前には木橋で、震災時も被害はうけたものの耐え切ったが、老朽化とあわせて震災復興計画により、昭和5(1930)年に、タイドアーチ型の現在の橋に架け替えられたそうです。もう90歳近い長老の橋ですね。隅田川のすぐ南側にある清洲橋は萬年橋たもとからの眺めがもっとも美しく見える角度とされ、清洲橋のモデルとなったドイツ・ケルンのライン川に架かる吊橋を彷彿させることから「ケルンの眺め」と呼ばれているそうです。ということで、ケルンの眺めです。ドイツに行った気持ちになりますかね。隅田川のに建て込まれた杭の上にたたずむカワウも「ケルンの眺め」を味わっているようでした。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その15) 萬年橋とケルンの眺め
2023年07月05日
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清澄通りからこちらの深川資料館通りと呼ばれる道に入ります。こちらの建物が、通りの名前の由来になった江東区深川江戸資料館(→→→こちら)です。資料館は江戸時代末期(天保年間)の深川佐賀町の町並みを実物大で再現した資料館です。そのほかにも劇場、ホールを備えた文化施設が併設されています。これで観覧料金、大人400円はお手頃かな? ついでに同じ江東区内にある芭蕉記念館、中川船番所資料館の3館共通の入館券大人500円がもっとお得です。またこの3館共通入館券は最初の入館日から6ヶ月有効なので、それぞれの施設をじっくり見て回るのにいいかもしれません。そして、清洲橋通りに戻り隅田川に向かって戻って行きました。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その14) 深川江戸資料館
2023年07月04日
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本邦セメント工業発祥の地からこちらの清澄公園にやって来ました。清澄公園は都立清澄庭園に隣接する開放公園で、明治時代までは庭園の一部だった場所そうですが、現在は無料で利用できる都民の公園になっています。公園の中には、森林公園かのように緑の木々が多く植えられているエリアもあって、ちょっとしたキャンプぽい時間を楽しめます。公園の東側の入口にある和風の時計塔が公園のシンボルみたいですね。清澄公園の東隣にあるのが清澄庭園(→→→こちら)です。入場料は大人150円となっています。清澄庭園は、文化財保護法(第2条)により芸術上又は観賞上価値の高い日本庭園として、都指定名勝に指定されており、適切な文化財保護の観点からペット連れの入園はできません。そして、清澄庭園の東側、清澄通り沿いに並ぶ壁状の店舗兼住宅が立ち並びます。「旧東京市営 清澄店舗向住宅」(→→→こちら)と呼ばれる建物らしく、関東大震災直後の昭和3(1928)年に竣工したそうです。大震災で木造家屋が次々と延焼したことを教訓に壁状の長屋とすることで、防火壁の役割を果たすことを期待していたそうです。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その13) 清澄公園と清澄庭園
2023年07月03日
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清洲橋を渡り江東区清澄に来ると、某新聞社の関連施設の前に、石碑がありました。「平賀源内電気実験の地」(→→→こちら)です。江戸時代、多芸多才の人として知られる平賀源内は、安永5年(1776年)、この地で、長崎で手に入れたオランダ製の静電気発生装置エレキテルの構造を解明し、たびたび実験していたそうです。ただ、平賀源内がオームの法則を理解し、ホイートストンブリッジのような電気回路の問題が解けたかどうかはわかりません。更にその某新聞社関連施設の隣には生コンクリート工場がありました。工場の前には、ちょっと小太りのオジサンの銅像がありました。このオジサン、スーツ姿ですが足には長靴を履いています。とてもオシャレな装いです。浅野セメント(現太平洋セメント株式会社)の創設者 浅野総一郎氏(→→→こちら)です。その傍らには、太平洋セメント株式会社が設置した、江東区史跡セメント工業発祥の地の碑が建立されていました。さらにこちらの石碑は、本邦セメント工業発祥の地の石碑ではなくコンクリート碑がありました。明治5年(1872)、官営の深川セメント工場が建てられ、その後、明治16年(1883)に創業者の一人である浅野総一郎が払い下げを受け、民間初のセメント工場として発展してきたそうです。そのような経緯が創業者の浅野総一郎自身によってしたためられ、碑文として示されていました。しかも、このセメント工場の払い下げにも渋沢栄一さんも絡んでいたようですね。今や、道路、港湾、建物など私たちの生活に欠かせないコンクリートとその原料のセメント。ここが始まりの場所だったんですね。こちらのコンクリートの塊も置いてありました。表面のモルタルが剥がれて中の骨材の砂利も見えていますし、ひび割れから石灰分が溶出して白い筋となっており、かなりの古いコンクリートだと思われます。これは、明治27年(1889)の横浜築港工事で使用されたコンクリートブロックのようで、引き上げられてここに展示されているようです。確かにこのコンクリートブロックの表面に明治27年に製造されたと文字が刻まれていました。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その12) 本邦セメント工業発祥の地
2023年07月02日
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そして、隅田川に架かる清洲橋(→→→こちら)にやって来ました。「清州橋」という名前は、深川・清澄町と、日本橋・中州町を結ぶ橋であることから、それぞれの町名から1文字ずつとってつけられたそうです。2007年6月18日、清州橋は隅田川にかかる永代橋、勝鬨橋(かちどきばし)と共に、国の重要文化財に指定されています。関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋であり、「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、上に凸なるアーチ形状の永代橋に対して、放物線が上に開いて凹となる優美なデザインの吊り橋です。橋の下流側を見ると、首都高速の通る隅田川大橋にさえぎられて、永代橋のアーチがキレイに見えません。上流側を見れば、東京スカイツリーをほぼ正面に見ることができます。橋の細部を見ると、優美な景観と異なり、リベットが打ち込まれた武骨な主塔。橋桁を支えるメカニカルな雰囲気をのハンガーロープなどが、いかにも土木構造物という主張をしているみたいです。ちなみに、橋の呼び名は「きよすはし」と濁らずに読んで下さい。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その11) 清洲橋
2023年06月30日
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浜町緑道を南東方面に歩き清洲橋近くに来ました。ここには、道路下を横断する地下道がありした。地下道の壁面には、タイルで花菖蒲が描かれていました。「あやめ橋地下道」という名称にふさわしいですね。この地下道は、地上部が首都高速の浜町インターチェンジの出入口にあたるため、歩行者用に設置されたようです。ちなみに、高速道路の真下には、東京オリンピック前まで箱崎川が流れていて、地下道のある位置に同川を渡る「菖蒲橋」が架かっていた歴史の名残ですね。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その10) あやめ橋地下道
2023年06月29日
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水天宮から人形町に向かって歩いていくと、ありました。人形町 からくり櫓。平成21年(2009)11月に完成した、人形町通りを挟んで建つ2基のシンボル時計台です。そして、甘酒横丁です。明治初期に、通りの入り口近くに「尾張屋」という甘酒屋があったことから名づけられたと言われています。甘酒横丁は、西向きの一方通行。商店や飲食店が建ち並ぶ通りです。このお店の二階、ちょっと変わった看板が。「久松料理飲食業組合書道教室」とありました。久松料理飲食業組合(→→→こちら)とは飲食業を営む方々の組合ですが、この組合の事務所を書道教室に貸しているんでしょうか。甘酒横丁が旧浜町川である浜町緑道と交差するところにある歌舞伎の演目『勧進帳』の弁慶像があります。このあたり人形町界隈には、中村座や市村座がかつて所在し、江戸歌舞伎発祥の地の一つとされていたことに由来して設置されているそうです。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その9) 人形町「甘酒横丁」
2023年06月28日
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日本橋小網町から新大橋通りを歩いて、人形町通りと交差する水天宮前交差点にやってきました。名前の通り水天宮が見えてきました。せっかく来たのですからお参りをさせてもらいました。安産子授けの神様ですから、赤ちゃんを連れた参拝客の方も多いです。しかも最近は出張カメラマンを同行して写真撮影を行う方が多いみたいですね。やっぱりSNSのインスタ映えを狙っているご夫婦も多いんでしょうか。こちらが本殿です。3年間の建て替え工事が行われ、平成28年に竣工し、免震構造を備えた安全な神社へと生まれ変わったそうです。この近辺にお住まいの方は、もし大地震の際はこちらに避難できるので安心かも。御存じの方も多いとおもいますが、水天宮の発祥は九州の久留米藩(現在の福岡県久留米市)です。9代目久留米藩主の有馬頼徳が、文政元年(1818)、自家で祀っていた水天宮を三田赤羽の上屋敷に分祀したのが、東京の水天宮の始まりです。そして、久留米藩有馬家上屋敷内に祀られていた水天宮は、人々の信仰が篤く、塀越しにお賽銭を投げる人が後を絶ちませんでした。時の藩主は毎月5日に限り、お屋敷の門を開き、人々のお参りを許しました。そのことから有馬家と「情け深い」ことを掛けて、「情けありまの水天宮」という洒落が江戸っ子たちの流行語となったそうです。ということで、こちらが久留米にある水天宮の本殿です。ちなみに、中央競馬の一年を締めくくるレース馬の「有馬記念」(→→→こちら)は、日本中央競馬会理事長で旧久留米藩主・有馬家の第15代当主で伯爵あった有馬頼寧氏を記念して開催されるものですが、有馬記念にも「情けありまの水天宮」として競馬ファンに情けをかけて年末のビッグプレゼントを出していただけるといいのですが。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その8) 情けありまの水天宮
2023年06月27日
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東京証券取引所のある日本橋兜町と日本橋小網町をつなぐ橋です。兜だけでは、昔の武士も戦えないので、やっぱり必要なのは鎧です。ということで、橋の名前が鎧橋(→→→こちら)です。この鎧橋、やっぱり「よろいはし」と濁音は使わないようですね。中央区が設置した説明板によると、どうやら、橋が架かる以前は、渡船「鎧の渡し」が両岸を結んでいたようですね。説明板の最後にある和朝亭国盛の狂歌(社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込んだ短歌)、「縁日に 買うてぞ帰る おもだかも 逆さにうつる 鎧のわたし」の意味は、近くの縁日で買った「おもだか(澤瀉・面高)」(クワイに似た水草ですが、おそらくここでは漢方薬の利尿剤にする薬草のオモダカだと思われます)が水面に写り、鎧の威(おどし)の沢瀉糸威(→→→こちら)のようだったという意味なのでしょうか。そして、こちらの鎧橋を渡ります。高速道路の高架下を流れる日本橋川です。日本橋小網町にあったトレーニングジム(→→→こちら)。手軽にトレーニングできるらしいので、日本橋で働く忙しいビジネスマンやOLの方には人気なのかな。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その7) 鎧(よろい)橋
2023年06月26日
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こちらの兜神社は、1878年(明治11年)に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるにあたり、取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として造営されたそうです。こちらが拝殿となっています。御祭神は、主が商業の守護神の「倉稲魂命(うかのみたまのみこと=御稲荷さんの別名)」で、合祀されている神様は、大国主命(大黒様)と事代主命(恵比寿様)です。境内に兜岩と呼ばれる岩があります。この岩には次のような幾つかの由来があるのですが、いずれも確たる裏付けがあるわけではないようです。後三年の役(西暦1080年代)にて、源義家が奥州から凱旋してきたとき、東夷鎮定の祈願を兼ねて記念のため、兜を楓川の辺の土中に埋めて塚を作ったそうです。これを当時の人達は兜塚と呼んだのですが、いつしか兜岩となったとのことです。前九年の役(西暦1050年代)にて、源義家が奥州征伐に向かう際、岩に兜をかけて戦勝を祈願したことから、この岩を兜岩と呼びようになったとのことです。承平の乱(西暦935~940年)にて、藤原秀郷が平将門の首を打って京都へ運ぶ際、その平将門の打首に兜を沿えていたのですが、この地で罪滅ぼしにと兜だけ土中に埋め塚を作って供養したそうです。この塚を当時は兜山と呼んだそうですが、そこに兜神社が建ち、いつしか兜岩だけが残ったとのことです。ちなみに、兜岩手前の「兜岩」と文字が刻まれた岩か、それとも奥の大きな岩かどちらかはよくわかりませんでした。この兜神社の近くにあるのはこの東京証券取引所(→→→こちら)です。東京証券取引所の前のこの通り。明治通り、昭和通りに比べると馴染みがないでしょうが「平成通り」という名称です。平成元年(1989)に中央区が愛称を定めたそうです。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その6) 兜神社と平成通り
2023年06月25日
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日本橋から昭和通りまで歩いてきました。右折したかったら側道の方を通らないといけないので、慣れないとこの昭和通り自動車では走りにくいです。この昭和通りに面して二つのビルがあります。右側が日本橋郵便局。そして左側が日本橋ダイヤビルディングです。日本橋郵便局の前にある郵便ポストです。多分、地球を意味していると思われる球体を多くの人が支えている装飾があって、なかなか面白いですね。この日本橋郵便局には、「郵便発祥の地」のプレートが埋め込まれていました。郵便発祥の地ここは、明治4年3月1日(1871年4月20日)わが国に新式郵便制度が発足したとき駅通司と東京の郵便役所が置かれたところですこちらのビルは、地上5階までの、石造りでいかにもクラシカルなデザインの部分の古いビルの中に新しい18階建ての高層ビルが建っているちょっと変わったビルです。このビルの重厚な鋼鉄製ドアの横には、銘板が埋め込まれています。日本橋ダイヤビルディング(→→→こちら)という三菱倉庫の持ち物です。こちらのビルは、日本橋ダイヤビルディング(旧三菱倉庫江戸橋ビル)として東京都選定歴史的建造物(→→→こちら)であると同時に経済産業省の近代化産業遺産にも選ばれています。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その5)日本橋郵便局と日本橋ダイヤビルディング
2023年06月24日
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こちらは、東京の日本橋の南側西方の袂にある日本橋の由来が記された「日本橋由来の碑」です。こちらは、中央区教育委員会の設置した国の重要文化財「日本橋」に関する説明板です。日本橋由来の碑には、かっての日本橋の風景が描かれた広重の絵、その下に由来が刻まれています。こちらはカタカナと漢字で日本橋の由来が記されています(→→→こちら)。日本橋については、Microsoft BingのAIに解説してもらいました。日本橋は、東京都中央区にある橋梁で、日本の国道1号の起点となっています。江戸時代には、五街道の起点として栄えた歴史ある橋で、現在の橋は1911年に完成した石造りのアーチ橋です。しかし、1964年に首都高速道路が上を通るようになり、その景観は大きく変わりました。現在では、首都高速道路の撤去や日本橋の再生などが議論されています。確かにAIの説明通り、石造りのアーチ橋になっています。主に使われているのは、地下深部で形成された深成岩の中の一種である花崗岩(→→→こちら)です。花崗岩は産地によって、色や材質が微妙に違うため、全国の花崗岩を橋のそれぞれの部分ごとに使い分けています。橋脚と橋台は山口県周南市にある黒髪島の花崗岩。橋の側面は茨城県桜川市にある加波山で採掘された真壁石。アーチ部分と道路の表面は同じ茨城県笠間市の稲田で産出された稲田石。高欄部は、岡山県笠岡市の北木島の花崗岩が使われています。また、内部は、最も荷重の掛かる両端がコンクリートで、さほど荷重の掛からない中央部分が煉瓦を中詰めに使用しています。また、戦前の道路法では、各市町村に道路の始点となる道路元標の設置を義務付けていました。東京市は江戸時代を踏襲して日本橋を道路元標として、橋の中央部に「日本国道路元標」が埋めこまれています。現行の道路法では道路元標に関する規定はありませんが、今も日本橋の中央帯には「道路元標」が埋め込まれています。下の写真が、「日本国道路元標」です。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その4)日本橋
2023年06月23日
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日本橋川に沿って、日本橋に向かって歩いて行きました。日本橋川には多くの橋が架かっていて、こちらは外堀通りと交差する日本橋川に架けられている一石橋です。一石橋の名前の由来としては、「北橋詰め近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けた」という話が伝わっているそうです。橋の袂に、一石橋の歴史についての説明板がありました。かいつまんで言うと、「この橋は、寛永年間(1624~1647)、又は、それ以前から存在したといわれているようです。また、木造だった一石橋は、大正11年(1922)に鉄骨コンクリート造(花崗岩張り)のモダンな橋に改架され、親柱四基をすえた白亜の橋へ。その後、関東大震災にも落橋せず、交通上の重要な橋として使われていました。さらに、一石橋の上流側の半分は昭和48年(1973)にスチール製の桁橋に架け替えられ、平成11年(1999)には下流側の半分の架け替えが行われ、現在に至っているそうです。」下流に向かって歩いて行くと、さらにもう一本の橋がありました。鋼製の橋桁で、結構、新しい感じです。この橋は、日本橋から一石橋までの日本橋川右岸地域が、西河岸町という地名であったことから”西河岸橋”と名付けられたものです。橋の袂に設置された説明板では、着工が大正13年(1924年)12月、竣工が大正14年(1925年)8月となっていて、平成2年度に一度修復されたようですが、結構ベテランの橋なんですね。西河岸橋から川沿いの路地を歩いて日本橋に向かう途中、訪れた時期がちょぅど神田祭の頃だったせいでしょうか、祭礼用の提灯を飾ったお店がありました。そして、日本(二ホン)橋に到着です。大阪にあるのは日本(ニッポン)橋と呼ぶんだそうですね。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その3)日本橋川に架かる橋結構
2023年06月22日
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「近代東京の街並みと江戸情緒を愉しむ」ということで、こちらの常盤橋門跡にやって来ました。常盤橋門跡は寛永6年(1629)に奥羽の大名によって築かれた江戸城外郭門で、石垣を方形にめぐらせた「枡形門」と呼ばれる江戸城防御のための門の一つです。この門は奥州道へと通じており、田安門(上州道)・神田橋門(芝崎口)・半蔵門(甲州道)・外桜田門(小田原口・旧東海道)などと共に江戸城と街道を結ぶ要衝として「江戸五口」に数えられます。将軍家や水戸徳川家も利用する重要な門だったそうです。こちらが常磐(ときわ)橋になります。この橋は、東日本大震災で大きな被害を受け、長い間、修復工事を行っていましたが、令和3年(2021)5月から通行できるようになりました。復元に当たっては、世絵、古写真、資料などを参考にしたそうです。ということで、八角形の大理石の親柱と、唐草意匠の手すり柵は往時のままということです。そして、路面には当時いち早く取り入れられた「歩車分離」(人は端、馬車と人力車は中央)が再現されているそうです。ちなみにこちらは橋を渡って行くと、日本橋川の下流にも常盤(ときわ)橋があります。こちらの常盤橋は、関東大震災後の復興計画で建設された道路橋になります。磐と盤の使い分け要注意ですね。常磐橋を渡ると見えてくるこの古い西洋式の建築物が、日本銀行(→→→こちら)本店です。江戸時代にはここに金貨を製造する「金座」があったそうです。こちらが常盤橋です。ちゃんと「常盤橋」と書かれていますが、反対側の親柱には「ときわはし」と記されていて、日本橋川の水は濁って見えるけど、橋の名前は濁らないようですね。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その2)常盤橋門跡と常盤橋
2023年06月21日
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JR東日本の駅からハイキング「近代東京の街並みと江戸情緒を愉しむ」のコースを5月20日に歩いてきた報告です。出発はここ東京駅の丸の内側からスタートです。永代橋通りを通って八重洲側に出ました。このあたりも高層ビルが新しく建っていますね。こんな大きなビルが必要と言うのは、東京ってオフィスが不足しているんですね。常盤橋(→→→こちら)と常盤橋公園の方へ回ってみました。ここにあるのは新一万円札の肖像になる渋沢栄一氏(→→→こちら)の銅像です。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その1)永代橋通り
2023年06月20日
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墨田区にあった鬼平情景の高札を巡ってきましたが、鬼平犯科帳というか、その作者の池波正太郎さんに関する付け足りの報告です。こちらは台東区浅草の近くにある待乳山聖天です。折角来たので、お参りさせてもらいました。さてこの待乳山聖天の南側には「池波正太郎生誕の地」(→→→こちら)があります。池波正太郎さんの生誕100周年を記念した幟がありました。池波正太郎さんの肖像と碑文が刻まれた石碑が平成19年に建立されたそうです。池波正太郎さんは1923年1月25日にこの地で生まれたそうです。生まれて間もなく、1923年9月1日に関東大震災が起こり両親とともに埼玉県浦和に避難し引越、6歳まで同地に居住し、1929年、両親と共に下谷に戻ってきました。というわけで、正太郎さんは生後間もなくの数ヶ月しか住んでいなかったわけです。しかしながら、「大川と待乳山聖天宮」というエッセイでは、「生家は跡形もないが、大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものだ」と記しているそうです。やっぱり大作家ともなると、赤ん坊の時の記憶もあるもんですね。(鬼平犯科帳ゆかりのコースです)【了】人気ブログランキング鬼平情景(補遺) 池波正太郎生誕の地
2023年04月09日
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墨田区役所にほど近いこのお寺、如意輪寺(→→→こちらです。如意輪寺は、太子自刻といわれる聖徳太子像を祀った堂があることから、牛島大師堂、中ノ郷大師堂とも呼ばれていました。鬼平犯科帳では、この寺の前の花屋が盗人宿となっています。鬼平犯科帳ゆかりの地を巡ってきましたが、いよいよゴールの都営浅草線の本所吾妻橋駅にやってきました。この駅では西馬込、京急線方面のホームと押上。京成線方面のホームは地下連絡通路でつながっているので、間違って反対ホームの階段から降りていくと、階段を昇り降りして反対側ホームに行かないといけませんので、注意しましょう。ということで、ここから地下鉄に乗って帰ります。(鬼平犯科帳ゆかりのコースです)まだ、続きがありますよ。【つづく】人気ブログランキング鬼平情景(その14) 如意輪寺と本所吾妻駅
2023年04月08日
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隅田川を運航する東京都観光汽船株式会社の水上バス、デザインは先ごろ亡くなった松本零士です。こちらは幕末に活躍した勝海舟(→→→こちら)。本所亀沢町生まれの幕府の旗本ですが、江戸幕府幕府陸軍最後の陸軍総裁であり。戊辰戦争において即時停戦と江戸城無血開城を主張し実現させた人物です。吾妻橋のたもとにも鬼平情景の高札がありました。墨田公園入口と刻まれた石柱です。隅田公園は隅田川左岸と右岸にまたがる公園で、春には桜が満開になり、夏には隅田川花火大会が行われることで有名ですが、関東大震災の復興事業の一環で公園として整備されました。吾妻橋は江戸時代、両国橋、新大橋、永代橋に次いで整備された四番目の橋ですが、最初は大川橋と呼ばれていました。向島にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことからっ、改名願いが出され1876年(明治9年)、正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名されたました。鬼平犯科帳でも度々登場しています。(鬼平犯科帳ゆかりのコースです)【つづく】人気ブログランキング鬼平情景(その13) 吾妻橋
2023年04月07日
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三囲神社から隅田川に出ました。ここにも鬼平情景の高札がありました。大川(隅田川)の土手のうち三囲神社の鳥居の貫から上が川面から見える辺りを指したようで、「大川の隠居」に登場する場所です。「大川の隠居」というのは巨大な鯉のことで、その鯉を船頭の友五郎と見たのですが、その友五郎がかっては盗賊だったという話だったと思います。隅田川の土手沿いに南に下って、浅草から東武鉄道の隅田川橋梁脇に作られた「すみだリバーウォーク」の入り口付近にも鬼平情景の高札がありました。枕橋とは、当時は堀留となっていた源森川(今の北十間川)に架かる橋で、作品の中では源森橋、源兵衛橋と名を変えて出ています。鬼平犯科帳では、その北詰にある蕎麦屋〔さなだや〕がいっしょに数多く登場します。今は、蕎麦屋はなく、東武鉄道の高架下に閉店したパン屋さんがあるだけですが、枕橋は残っています。橋の欄干には往時の枕橋の様子のレリーフが埋め込まれていました。そして枕橋からは、隅田川に接続する源森川水門が見えます。(鬼平犯科帳ゆかりのコースです)【つづく】人気ブログランキング鬼平情景(その12) みめぐりの土手と枕橋さなだや
2023年04月06日
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国道6号線を渡って、見番通りに入ります。見番通りを歩いてゆくと、三囲(みめぐり)神社(→→→こちら)にやって来ました。三井家(三越などの創業家)が江戸に進出して以来、三井家の守護神として崇敬されているそうです。特に、三囲神社の“囲”の文字に三井の“井”が入っているため、「三井を守る」と考えられたそうです(→→→こちら)。江戸時代から有名な神社だったようで、鬼平犯科帳をはじめ、剣客商売などでもおなじみの神社。鬼平「迷路」では、元盗賊の「玉村の弥吉」が鬼平の密偵となっていましたが、盗賊の「妙法寺の九十郎」はそのことを知らず、「玉村の弥吉」を盗みに誘う場面の舞台となっています。折角、来たので三囲神社に参拝しました。石造りの狛犬があり、さらにライオンの狛犬もあります。かつては池袋三越店頭に設置されていたもので、同店の閉店に伴い、2009年(平成21年)に三越から奉納されたそうです。ご祭神は宇迦御魂之命(うがのみたまのみこと)、つまり稲荷神なので、神様のお使いの「キツネ」もいます。(鬼平犯科帳ゆかりのコースです)【つづく】人気ブログランキング鬼平情景(その11) 三囲神社
2023年04月05日
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東京スカイツリーのふもとに東京ソラマチ(→→→こちら)に出てきました。スカイツリーの脇を流れる北十間川です。本所の「北」を流れる、川幅が「10間」の川であることに由来する名前だそうです。この川は業平橋駅(今のとうきょうスカイツリー駅)で鉄道貨物とも連携して船による物流に重要な役割を果たしていましたが、戦後舟運が衰退し、接続する大横川、曳舟川などは埋め立てられており、水運の役目はほとんど果たされていません。これは水を空気にさらし、液体に空気を供給する「ばっ気」により、水中の微生物有機物の分解を促進させ、水質の浄化を図っているんでしょうね。三っ目通りにむかって歩いて行くと、小ぶりなテニスコートらしきものがありました。スペイン発祥の人気ラケットスポーツ"パデル"(→→→こちら)のコートだそうです。テニスとスカッシュを合わせたようなスポーツだそうで、使っているラケットも板状の短いものでした。東武鉄道のスカイツリーラインを走る特急「リバティ」です。北十間川沿いには、東京ミズマチ(→→→こちら)という商業施設があります。「ソラマチ」と「ミズマチ」なかなかいい対比ですね。こちらは屋根のないオープントップの屋形船。観光舟運の活性化について墨田区が社会実験として取り組んでいる事業の一環のようです(→→→こちら)。(鬼平犯科帳ゆかりのコースです)【つづく】人気ブログランキング鬼平情景(その10) 東京ソラマチと東京ミズマチ
2023年04月04日
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東京スカイツリーを見上げながら、浅草通りを歩いて行けば、長養山春慶寺(しゅんけいじ)という日蓮宗の寺院があります。ビルになっているお寺で、こういうのを見ると都会のお寺だなと改めて思います。この春慶寺、「東海道四谷怪談」の作者として有名な、四世鶴屋南北の菩提寺として知られています。この春慶寺の納骨堂はビルの中にある室内廟形式になっているのですが、鶴屋南北の墓だけは墓石が残っています。真ん中のお花が供えられいるのが鶴屋南北の墓石です。「鶴屋南北之墓」と墓碑銘が刻まれています。右隣は「関東俳優之碑」と刻まれた石碑です。この石碑は、市村羽左衛門、中村芝翫、中村富十郎などの歌舞伎俳優の寄進によって建立されたようで、手前に並んだ標石にこの方々の名前が記されていました。劇作家宇野信夫(→→→こちら)の「なつかしや 本所押上春慶寺 鶴屋南北 おちつきところ」という歌碑です。(読み取るのに苦労しました)宇野は東京大空襲で焼け壊れたまま放置されていた鶴屋南北の墓を、1983年自ら墓を再建したそうです。もちろんこの春慶寺も、鬼平犯科帳の中では、平蔵の剣友、岸井左馬之助の寄宿先として多くの作品に登場します。なかでも「明神の次郎吉」は春慶寺が主な舞台になっており、寺域や押上周辺の当時の様子が描かれているそうです。そして、テレビドラマの鬼平犯科帳で、岸井左馬之助を演じていた俳優の江守徹さん揮毫の石碑も建てられていました。(鬼平犯科帳ゆかりのコースです)【つづく】人気ブログランキング鬼平情景(その9) 春慶寺
2023年04月01日
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業平橋から浅草通りを東に進むと、いかにも老舗という風情の、大正12年(1923)創業という煎餅屋さんがあります。キャッチフレーズは「腕っこきの煎餅屋 」(→→→こちら)。その店の横に目立たないように鬼平情景の高札が設置されています。煎餅屋さんの横なので「鬼平のお煎餅あります」と広告看板もついていました。鬼平犯科帳の中では、ここに遠江国横須賀藩3万5千石の西尾家下屋敷があり、周辺は穏やかな田園風景が広がる人気の行楽地。しかし、夜になると下屋敷は博奕場へと変わり、すねにきずを持つ者が身を隠す場所として登場します。今もスカイツリーで人気の行楽地、夜になったら江波杏子ばりの女賭博師(→→→こちら)が壺を振る賭場が開帳されていたりして。(鬼平犯科帳ゆかりのコースです)【つづく】人気ブログランキング鬼平情景(その8) 西尾隠岐守屋敷
2023年03月31日
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さらに大横川親水公園を北に向かって歩いてゆけば、この平川橋がありました。こちらのモニュメントは以前「東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その1) 平川橋落橋記念碑」(→→→こちら)で紹介した平川橋落橋記念碑で、以前の平川橋のトラスの一部を記念に展示しているものです。平川橋の傍には無料で楽しめる釣り堀があります。釣り堀に網が架かっているのは鳥が魚を獲らないようにするための防鳥ネットです。大横川親水公園北端の業平橋に到着です。ここにも鬼平情景の高札があり、この業平橋は、鬼平犯科帳の「敵」の中で、鬼平が雇っている元盗賊の密偵、大滝の五郎蔵が橋を渡ったところで尾行されていると感じ、すばやく西尾隠岐守下屋敷わきの木立に身を隠す場面で登場しています。業平橋の傍にあるちょっと変わったモニュメント。凸面鏡があり、鏡には東京スカイツリー全景が写り、ここに立てばスカイツリーとツーショットの写真が撮影できます。こちらの船を連想させる建物は、業平橋観光案内所という公共施設で屋上から長い滑り台がありって子供達には人気がありそうです。(鬼平犯科帳ゆかりのコースです)【つづく】人気ブログランキング鬼平情景(その7) 平川橋と業平橋
2023年03月30日
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報恩寺から再び大横川親水公園に戻ります。まず、大横川に架かっていた紅葉橋から親水公園に入って行きます。親水公園に入っていく坂の途中に高札が出ていました。「出村の桜屋敷」平蔵とその旧友の岸井左馬之助は共に、本所の出村町に道場にある一刀流の高杉銀兵道場に通い、修行を重ねていました。しかし二人とも道場主の孫娘・おふさに恋心を抱き、「おふささんに手を出したら斬る」とお互いに誓い合っていました。のちに、おふさは豪商に嫁ぐことになり、船で去っていくおふさを見送った場所がここという設定だそうです。さらに親水公園の中を北に歩くと、かって大横川が流れていた時の堤防の壁面になにか描かれていました。「すみだむかしはなし」ということで、墨田区に伝わる昔話を紹介していました。「鬼平情景(その3) 弥勒寺門前の茶店笹や」で紹介した弥勒寺にある杉山検校(→→→こちら)や「鬼平情景(その1) 料亭「井筒」」で紹介した与兵衛すしの華屋与兵衛(→→→こちら)などが紹介されています。また、本所七不思議という、今の墨田区になる本所に江戸時代ころから伝承される奇談・怪談が紹介されていました。こちらはよく落語などで使われる「置いてけ堀」(→→→こちら)の話が紹介されていました。錦糸町あたりの堀で魚釣りをして非常によく釣れた町人が、夕暮れになり気を良くして帰ろうとすると、堀の中から「置いていけ」という恐ろしい声がしたので、恐怖に駆られて逃げ帰った。家に着いて恐る恐る魚籠を覗くと、あれほど釣れた魚が一匹も入っていなかったという話です。これは錦糸堀に住む河童かあるいはタヌキの仕業か・・・。(鬼平犯科帳ゆかりのコースです)【つづく】人気ブログランキング鬼平情景(その6) 出村の桜屋敷とすみだ昔話、本所七不思議
2023年03月29日
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しばらくは、この大横川親水公園の中を歩いて行きます。スカイツリーを眺めながらのウォーキングになります。親水公園にあるこの橋。平成23年(2011)に架け替えられた「清平橋」です。橋の横には、旧橋に使われていた鋼材が一部残されていました。清平橋の名前の由来は、昭和4年(1929)に関東大震災復興事業としてこの橋が建設された頃、橋の西側が清水町、そして東側が太平町だったことから、両町名から一文字づつ取って名付けたそうです。墨田区の東西に流れる川が竪川(縦)として南北に流れていた川が大横川というのは、今の地図の感覚からはズレていて面白いですね。この川は、周囲が地下水汲み上げによる地盤沈下のためゼロメートル地帯となったため、堰き止めポンプで常時排水することにより水位を下げるため、スカイツリーの横を流れる北十間川から竪川までの区間が埋め立てられ親水公園として整備されています。そして、蔵前通りから親水公園を離れ、ここ法恩寺の参道にやってきました。この法恩寺、「本所桜屋敷」では平蔵と岸井左馬之助(若い頃、共に剣術修行に励んだ親友)が門前の茶店「ひしや」で20余年ぶりに旧交を温める場面に登場し。「尻毛の長右衛門」では、この法恩寺から物語が始まります。山門の前にあった看板。実はこの法恩寺へは、以前訪れたことがあります(→→→BМWで楽しむゴールデンウィーク(その1) 太田道灌ゆかりのお寺)「ご自由に御参拝下さい」とあったので、自由に参拝させてもらいました。こちらが本堂です。古びた案内板ですが、このお寺のことが記されています。開山は本住院日住上人、開基は太田道灌公であります。太田道灌が江戸城築城の際、長禄2年(1458)≫に当たり丑寅の方に城内鎮護の祈願所として本住院を建立したそうです。山門近くにある、大きな石碑。この石碑には太田道灌の山吹の和歌の物語が記されています。太田道灌は鷹狩に出かけた。ところが急に雨に見舞われ、近くの粗末な小屋で蓑を借りようとしたところ、中から若い娘が出てきて、黙って山吹の花の一枝を道灌に差し出しました。道灌は花を求めたのではないのにと、娘の真意を理解せず怒って立ち去りました。しかしこれは、それは兼明親王の歌「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」に掛けて、蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを答えたのだというこを後に知り、和歌の勉強をして教養を高めたそうです。しかし、この粗末な小屋に住みながら、和歌を知っていた教養の高い若い娘、何者なんでしょうね。(鬼平犯科帳ゆかりのコースです)【つづく】人気ブログランキング鬼平情景(その5) 大横川親水公園と法恩寺
2023年03月28日
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いかにも銭湯という佇まい。両国、錦糸町あたりの下町ですね。唐破風の彫刻の装飾がすごいですね。両国駅から歩いてきましたが、こちらもう錦糸町駅に近い緑四丁目付近。ここに長谷川平蔵の旧邸があったことになったています。「鬼平」こと平蔵が27歳のときまで暮らしていた屋敷のあった場所になります。実父の宣雄が目黒行人坂の下手人を捕らえた手柄により京都町奉行に出世し、長谷川家はこの地を去りました。なお、若いころの平蔵は義母から「妾腹の子」と呼ばれて、グレていて本所・深川を根城に「本所の鬼」「入江町の銕さん」などと呼ばれて無頼の生活を送っていた設定になっています。(鬼平犯科帳ゆかりのコースです)【つづく】人気ブログランキング鬼平情景(その4) 長谷川平蔵の旧邸
2023年03月27日
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清澄通りを南に下って、森下の近くまでやって来ると、こちらにあったのが、「茶店 笹や」です。弥勒寺の門前にあり、平蔵が放蕩無類の日々を送り「本所の銕」と呼ばれていた頃をよく知るお熊婆さんのお店です。火盗改の長官になってからは出先のような役割を担い、多くの作品に登場しています。ところで、実際の弥勒寺(みろくじ)(→→→こちら)は、この高札のある場所からかなり離れた、墨田区立川にあるこちらのお寺です。弥勒寺は「万徳山聖宝院」という真言宗豊山派の寺院です。慶長15年(1610)僧宥鑁が小石川鷹匠町に創建し、元禄2年(1689)本所に移転したそうです。江戸時代には新義真言宗の触頭寺院であり寺領100石の朱印状を与えられ、安政大地震まで塔頭6ヶ寺、及び多数の末寺を擁した格の高いお寺だったそうです。境内には、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉に鍼灸師として仕え、その病を治したことで綱吉の信頼を得た杉山検校(→→→こちら)のお墓と鍼供養碑が建立されています。真ん中の五輪塔が杉山検校(本名:杉山和一)のお墓で、左側の石碑がはり供養塔です。説明板に杉山和一について記されていました。ちなみに杉山検校の「検校」というのは室町時代以降、盲官(盲人の役職)の最高位の名称のことで、平曲(平家物語を琵琶を弾きながら語ること)・地歌三弦(三味線)・箏曲等の演奏、作曲、あるいは鍼灸・按摩などに従事する男性盲人の自治的職能互助組織(「当道座」と呼ばれる)のトップのことになります。ちなみに、映画やテレビで有名な座頭市の「座頭」もその当道座の冠位の最下位のもので、座頭市も普段は按摩を生業としていました。こちらの観音像は、「戦災殉難慰霊観音尊像」として1967年(昭和42年)3月の建立されたもので、太平洋戦争による数多くの殉難者の慰霊のために建てられ、付近で亡くなった3500柱の遺骨が納められているそうです。初代林家三平さんの奥さんで、八代目林家正蔵さんや二代目林家三平さんのお母様である海老名 香葉子さんもこのあたりの出身です。ご本人は疎開していて無事でしたが、兄一人を除いてご家族を空襲で亡くされたそうです。戦後はその生き残った兄とも生き別れ、親戚の間をたらい回しにされていたそうですが、父親が有名な釣り竿職人だった縁で、父親の知人で釣り好きで知られた三代目三遊亭金馬に引き取られて、そして初代林家三平さんと知り合い結婚され現在に至っているそうです。(鬼平犯科帳ゆかりのコースです)【つづく】人気ブログランキングと鬼平情景(その3) 弥勒寺門前の茶店笹や
2023年03月26日
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隅田川と中川を東西につなぐ堅川(たてかわ)の上には首都高速7号小松川線が通っています。その竪川に沿って遊歩道が設置されています。自然を楽しみながら歩くという雰囲気はないですが、水辺を歩くのは気持ちがいいものですね。両国らしいモノといえば、この建物。相撲部屋です。清澄通りに出ると鬼平こと火付盗賊改方長官・長谷川平蔵が行きつけの軍鶏鍋屋で密偵の連絡場所。小説の設定では「二つ目橋の角地で南側は堅川」ということで、ここに高札が設置されているんですね。こちらが清澄通りの二之橋(にのはし)。その名前の示す通り、かつては隅田川から数えて二つ目の橋だったので、鬼平犯科帳では二つ目橋としてよく登場しています。ちなみに、今では一之橋とこの二之橋の間には、塩原橋と千歳橋のふたつの橋が架かっています。(鬼平犯科帳ゆかりのコースです)【つづく】人気ブログランキング鬼平情景(その2) 軍鶏なべ屋「五鉄」
2023年03月25日
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2023年2月23日の天皇誕生日の日に参加したJR東日本が開催する駅からハイキング「池波正太郎生誕100周年鬼平犯科帳ゆかりの地をめぐる」の報告です。出発はここJR総武線の両国駅です。ここから出発して一之橋通りを行き、途中を路地に入ると、こんな高札がります。詳しく見ると、江戸時代文政年間に小泉与兵衛という人が考案した「握りすし」をこの土地に開いた「華屋」という屋号の店で売り出したということです。だからそれにあやかって「華屋与兵衛」(→→→こちら)という和食のファミリーレストランチェーンがあるんですね。さらに路地の奥には、こんな高札が。「麻布ねずみ坂」に登場した料亭「井筒」があったとされる場所で、この料亭の経営者が鬼平を暗殺しようと企んでいたんですね。ということは、両国一丁目のこのあたり昔は相当な数の飲食店が軒をならべていたんでしょうか。一之橋通りにある、その名の通り竪川に架かる一之橋です。こちらの高札は忠臣蔵にゆかりの場所を紹介するもので、吉良邸討ち入りを果たした赤穂浪士一行が最初に渡った橋だそうです。こちらの竪川(たてかわ)を東に向かって歩いて行きます。(鬼平犯科帳ゆかりのコースです)【つづく】人気ブログランキング鬼平情景(その1) 料亭「井筒」
2023年03月24日
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こちらが、東武鉄道大師線(だいしせん)の大師前駅です。高架下には東武バスの営業所も併設されています。こちらが改札口になりますが、ICカードの使える自動改札はなく、さらには駅員さんもおらず、しかも、券売機もない駅です。なぜこんなことになっているかというと、元々、この東武大師線路線は、東武鉄道の伊勢崎線西新井駅と上本線上板橋駅間 11.6 を大師前・鹿浜・神谷・板橋上宿の駅を設置し結ぶ計画だった西板線のうち用地確保が完了した西新井駅と大師前駅間の一駅の区間のみ昭和6年(1931)開業したものです。その後、大正末期から昭和初期にかけて路線予定地が急速に市街地化されたため「建設費が高額となり、採算の見込みがない」との理由で、昭和7年(1932)に鹿浜 - 上板橋間の起業を廃止した。大師前 - 鹿浜間については「工事竣工期限延期願」を関係省庁に提出していたが、昭和12年(1937)に不認可とされ、免許が失効したことで、このような路線になっています。その結果、鉄道車両の点検などの際に東武東上線と本線・野田線との間で車両を輸送する場合は東上線終点の寄居駅から秩父鉄道秩父本線経由で熊谷を通り伊勢崎線羽生駅を経由する経路が使われています。こちらが、大師前駅のホームですが、構造上は1面2線の島式ホームとすることも可能なようですが、ホーム北側の1線分は蓋をしてホームと同一面の状態にしているので、駅の規模を考えるとホーム幅は広いですが、初詣客でごった返すような時には、いいのかもしれませんね。(西新井大師へのコースです)【了】人気ブログランキング西新井大師を目指して(その14) 東武大師線大師前駅
2023年03月21日
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西新井大師への参詣を終えて、次の目的地となるゴールの日暮里・舎人ライナーの西新井大師西駅に向かうため、環状7号線(環七通り)を西に向かって歩きます。尾久橋通りと環七通りの交差点です。一番上にあるのが日暮里・舎人ライナーの高架橋で、その下が環七通りの江北陸橋です。尾久橋通りを北に向かって歩きます。道路上の高架橋は日暮里・舎人ライナーです。この日暮里・舎人ライナーは、コンピュータ制御による自動運転を行う案内軌条式鉄道(AGT)で都営バスや都営地下鉄と同じく東京都交通局が経営しています。そして、西新井大師西駅に到着しました。駅からハイキングのゴールとなる西新井大師西駅の改札です。ちなみに、駅からハイキングでは大抵の場合、ゴールでの受付け手続きはありません。このまま日暮里・舎人ライナーに乗って日暮里駅に出ようかと思いましたが、、運賃が290円と意外と高かったのと、日暮里に出てもそこからJRに乗って家まで帰ることを考えると、乗り換えも多くなるので、東武鉄道の大師線の大師前駅から曳舟に出た方が乗り換えもなく便利だと思い、来た道を再び西新井大師まで戻ることにしました。(西新井大師へのコースです)【つづく】人気ブログランキング西新井大師を目指して(その13) 日暮里・舎人ライナー西新井大師西駅
2023年03月20日
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いよいよ西新井大師(→→→こちら)へ参詣します。西新井大師は五智山遍照院總持寺(ごちさん へんじょういん そうじじ)といいう名前の真言宗豊山派の寺院です。こちらが山門です。山門の両脇にまつられている金剛力士像です。力士像もこちらのように口を開けた阿形と口を閉じ吽形を一対とした「阿吽」になっているんですね。ちなみに「阿吽」とは宇宙の始まりから終わりまでを表す言葉だそうです。「あ」から「ん」ということですかね?この金剛力士像の役割は、仏敵が寺院に入ってこないようにその侵入を防ぐために安置されているそうですから、仏教のガードマンというところでしょうか。山門の脇にある寺号碑には、「厄除弘法大師」と刻まれています。厄災消除の祈願寺として創建されたのですね。江戸時代には女性の厄除け祈願所として名を馳せていたそうです。参詣した日は2023年2月5日で、2月最初の午の日でした。この日は、古来よりお稲荷様の縁日とされていてたので、お店が境内にでていました。ご本尊 の十一面観音と弘法大師をまつっている大本堂です。昭和47年(1972)に落慶したそうです。真言宗のマストアイテム、弘法大師の立像です。弘法大師が四国を行脚された時の姿といわれています。まだ2月5日でしたが、桜が咲いていました。説明板には、(珍樹)寒桜 当山の寒桜はカンヒザクラ系の雑種で桜の中では最も早く開花し、通常であれば2月上旬から3月上旬まで長期間楽しむことが出来る。このような寒桜は都内ではあまり見ることが出来ないと記されていました。この朱色の三重塔は三匝堂(さんそうどう)というそうで、一匝に八十八体大師像、二匝に十三佛、三匝に五智如来と二十五菩薩をまつっているそうですが、中に入ることはできないようです。天保11年(1840)の創建ですが、現存するのは明治17年再建されたそうで、東京都内に残る唯一の栄螺堂(さざえ堂)だそうです。このような庭園もありました。お稲荷様の縁日とされる2月最初の午の日だったので、境内にある出世稲荷明神にもお参りしました。稲荷明神の前にはこのようなお供え物が供えられていました。結構こちらもお参りされている方がいましたね。(西新井大師へのコースです)【つづく】人気ブログランキング西新井大師を目指して(その12) いよいよ西新井大師へ参詣
2023年03月19日
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環状7号線に出ました。西新井大師前の交差点です。防災対応型信号機(→→→こちら)になっています。これは環状7号線や環状8号線の主要な交差点にあるもので、大震災が発生した時の交通規制に対応して都心方向への一般車両の流入を禁止又は抑制する特殊な信号表示機能を備えた信号機です。環状7号線にあるものは、環状7号線から都心方向への車両の通行を禁止する信号表示を行うそうです。環状7号線から分かれたこの細い道に入って行きます。西新井大師につながるこの参道が西新井大師商栄会(→→→こちら)と呼ばれる商店街です。この門が西新井大師商栄会の中心になります。この商店街は、団子やせんべい、甘味などを提供している甘味処は参拝者や地元住民に人気があり、テレビなどでもよく取り上げられています。こちらのお店は草だんご・葛もちのお店ですね。こちらのお店は草だんごで有名なお店ですね。こちらのお店は強烈な昭和レトロ感がありますね。テレビドラマのロケ地としてもよく使われているようで、MoMo太郎も何度かテレビドラマで見たことがあります。(西新井大師へのコースです)【つづく】人気ブログランキング西新井大師を目指して(その11) 西新井大師商栄会
2023年03月18日
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本木氷川神社(→→→こちら)の前を通り、この小さな路地を抜けていくと、ちょっと広い道に出ました。この道は本木新道と言うそうです。このあたりは古くからの工場や住宅が多い地区です。この道沿いにある本木小学校の校門の前に石碑がありました。江戸時代の材木商冬木屋の別邸跡だそうです。冬木屋は材木置き場を幕府から買い取った場所が今も江東区冬木という町名に残っています。さらに進んで行くと、西新井小学校にやってきました。(西新井大師へのコースです)【つづく】人気ブログランキング西新井大師を目指して(その10) 足立区本木
2023年03月17日
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住宅街の中を歩いて行くと、「淵江山吉祥院星谷寺(ふちえさんきっしょういんせいこくじ)」(→→→こちら)にやってきました。立派な山門MoMo太郎が想像していた以上に大きなお寺でした。山門の脇には、由緒のありそうな石仏や石碑が建立されています。吉祥院についての案内板です。説明によれば、正応元年 (1288年) 、円真による開山だそうです。山門には山号の「渕江山」の扁額です。渕江というのはかってこのあたりが東京府南足立郡の渕江村と呼ばれたからでしょう。こちらが本堂です。本堂には、吉祥院という扁額がありました。真言宗豊山派の寺院なので、真言宗の必須アイテム、弘法大師の銅像です。もう一カ所、案内板が設置されていました。こちらによると、京都の仁和寺を本寺としつつ、吉祥院自らも33の末寺を抱える中本寺であったそうです。また、江戸時代、徳川家康を始めとする歴代の徳川将軍が鷹狩の御膳所とされ、寺紋に「三つ葉葵の御紋」を用いることが許されていたそうです。(西新井大師へのコースです)【つづく】人気ブログランキング西新井大師を目指して(その9) 真言宗豊山派 吉祥院
2023年03月16日
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しばらく河川敷を歩きます。右手には高く張られたネットが、なるほど、ゴルフの練習場だったんですね。ここは扇河川健康公園(→→→こちら)というそうです。公益財団法人河川財団(→→→こちら)という団体が管理しているようですが、実務的には一般社団法人河川健康公園機構(→→→こちら)という団体が仕切っているんですかね。河口から15kmの地点だそうです。こちらは野球のグランドですね。調べてみると、土日祝日のみの営業で利用料金は無料みたいでした(→→→こちら)。つい、投球フォームをチェックしてまうMoMo太郎のクセ。ここから東京スカイツリーも見えました。パークゴルフ場もあるんですね。初心者でも楽しめるサクラコース(9ホール)と起伏に富み上級者の方にも満足頂けるチューリップコース(9ホール)の全18ホールとなっていて、予約は不要でレンタルクラブやボールもあって、気軽に手ぶらで楽しんめるみたいです。料金は、1回18ホールで大人800円。ボールやクラブのレンタルもあるセット料金だと1,000円だそうです(→→→こちら)。スカイツリーを見ながらのゴルフも楽しそうですね。堤防の上から見たスカイツリーです。なかなかのビュースポットですね。首都高速中央環状線の下を通って、次の目的地に向かいます。(西新井大師へのコースです)【つづく】人気ブログランキング西新井大師を目指して(その8) 扇河川健康公園とスカイツリー
2023年03月15日
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さて、西新井大師を向かう途中で、荒川を渡りました。このあたりが今回の駅からハイキングの中間地点です。対岸の荒川区の方を見ました。観覧車が見えます。この観覧車は、東京23区内唯一の公営遊園地である荒川区立あらかわ遊園(→→→こちら)のものです。大正11年(1922)開園の老舗遊園地で、当初は民間の遊園地でしたが、あり、東京23区内唯一の公営遊園地である。昭和25年(1950)に 荒川区の区立遊園地となったそうです。(西新井大師へのコースです)【つづく】人気ブログランキング西新井大師を目指して(その7) あらかわ遊園
2023年03月14日
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新型コロナ対策としてのマスクの着用について、今日から屋内・屋外を問わず個人の判断に委ねることになったそうです。顔が半分くらい隠れる大きな肌色のマスクをして目深(まぶか)に帽子をかぶって目を隠しているような人を見て、「あっ!のっぽへらぼう」と見間違えることもなくなるでしょうね。ちなみにMoMo太郎は、花粉症のこともありマスクはしばらく着用することにしています。尾久橋通りに戻り、隅田川と荒川を渡ります。この道沿いにあった熊野前保育園の壁に沿って案内板が立っていました。「東京発空襲の地」(→→→こちら)とありました。昭和17年4月18日正午過ぎ、日本の本土が初めてアメリカ軍による空襲を受けた。昭和16年12月8日の日本軍の真珠湾攻撃から約4ヶ月後のことである。中でも、最初に被害があったのが、この付近の尾久町八、九丁目で、12時20分頃、ドーリットル隊(ドーリットル空襲)の2番機が爆弾3個と焼夷弾1個を投下した。 『荒川区史』所収の警視庁警備係の調査によれば、尾久では、死亡10人、重傷34人、軽傷14人、全焼43戸、全壊9戸、半焼1戸、半壊13戸の被害があったという。落下地点では、直径10メートル、深さ5メートルもの穴があき、家屋が倒壊し、上下水道やガス管も破壊された。また、焼夷弾による火災で全焼した家屋もあった。当時、干潮時で、消火に隅田川の水を利用することはできなかったが、地域の人々の尽力により、13時50分に鎮火した。 この空襲を契機に翌5月には、熊野土地区画整理組合が設立され、電化通りから北側の現尾久橋通りが整備された。 荒川区教育委員会ということでした。この階段を上ると、尾久橋になります。隅田川を渡ります。こちらは日暮里・舎人ライナーの足立小台駅です。もう足立区に入ったんですね。今度は荒川を渡ります。この橋は、荒川に架かる首都高速中央環状線の五色桜大橋(→→→こちら)です。二層構造になっていて、上層部が内回り(板橋方面)、下層部が外回り(江北方面)となっています。橋の名前になっている五色桜とは、荒川や隅田川の河畔堤防がサクラの景勝地と知られ、染井吉野のほか八重桜が混植され、白や黄色、淡紅色などに彩られ、荒川の五色桜と呼ばれていたことに因むそうです。荒川に架かるこちらの橋は、扇大橋(→→→こちら)という名称です。荒川の左岸側の堤防では、扇大橋と首都高速中央環状線、そして日暮里・舎人ライナーが三層で交わった構造になっています。(西新井大師へのコースです)【つづく】人気ブログランキング西新井大師を目指して(その6) 東京初空襲の地から隅田川、荒川を渡ります
2023年03月13日
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はっぴぃもーる熊野前商店街の中に石碑がありました。杉野中尉殉難碑(→→→こちら)という文字が刻まれていました。大正6年(1917)、陸軍工兵杉野治義中尉が陸軍野外飛行で下志津(千葉県)から所沢(埼玉県)へ帰航中、突風に襲われて尾久村の水田に墜落し、航空界初期の犠牲者となったことを追悼する石碑だったんですね。こちらは荒川社会保険事務所。事務所の前がちょっとちした公園になって休めるようになっていました。都電荒川線のある通りにでました。ここで熊野前商店街が終わりです。東京さくらトラム(都電荒川線)の軌道を渡ります。熊野前停留場に停車している都電の車両です。このラッピングは梅干しメーカーの岡畑農園(→→→こちら)のものです。(西新井大師へのコースです)【つづく】人気ブログランキング西新井大師を目指して(その5) 杉野中尉殉難の碑と熊野前停留場
2023年03月12日
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赤土(あかど)小学校前駅にやってきました。このあたり関東ローム層(→→→こちら)の赤土がでていたんでしょうかね。ここから安全横丁という看板が出ている脇道に入っていくと、「おぐぎんざ(尾久銀座)」(→→→こちら)という商店街にやってきました。ところで、「尾久」と書いて「おぐ」と読ませていますが、JR東日本の尾久駅は「おく」と表記しています(→→→こちら)。歴史的には、鎌倉時代から室町時代には武蔵国豊島郡小具郷(おぐのさと、おぐごう)と呼ばれていた地域が今の「荒川区東尾久、西尾久」に該当するので、「尾久(おぐ)」というのが正しいのかも(→→→こちら)。ちなみにJR尾久駅は荒川区ではなく北区にあります。大正から昭和にかけ、尾久温泉(ラジウム鉱泉)が湧き出たことにより、このあたりは遊興地として、相応の知名度を誇っていたので、昭和4年に開業した尾久駅は、この尾久温泉にあやかったんでしょうね。そんな遊興地だった尾久で、かの有名な阿部定事件(→→→こちら)は、起きています。食品店、洋品店、日用品店、雑貨店、レストランなど各種のお店が集まった、全長約300 メートルの、昭和の雰囲気の色濃い商店街です。「おぐぎんざ商店街」が終わったかと思ったら、引き続いて商店街がつながっています。「はっぴいもーる熊野前商店街」(→→→こちら)です。全長約480メートルに、レストランから、スーパー、お花屋さん、洋服やさんとバラエティ溢れる約80店舗のお店がそろった商店街です。もともとは、前述したように大正から昭和にかけ、尾久温泉(ラジウム鉱泉)が湧き出たことにより、このあたりは遊興地として発展し商店街が形成されましたが、戦後は付近の町工場で働く人やその家族のための商店街として発展を続けているんでしょうね。(西新井大師へのコースです)【つづく】人気ブログランキング西新井大師を目指して(その4) 尾久銀座と熊野前商店街i
2023年03月10日
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明治通りを西に進んで、すぐのところで再び高架橋を発見。こちらは京成電鉄本線の新三河島駅が見えてきました。京成電鉄の路線沿いは「藍染川西通り」という名前の道になっています。藍染川(→→→こちら)とは、王子にある飛鳥山の西側から南下して不忍池に流れ込んでいた谷田川(今は暗渠化されている)の洪水対策として道灌山のところで分岐させ隅田川へ導いた川のことです。この藍染川も暗渠化されて、このような道路として利用されています。また、かつては千駄木、谷中付近では藍染めが盛んであった事から「藍染川」とも呼ばれるようになったそうです。こちらが新三河島駅の改札口です。新三河島駅を過ぎると「冠新道商興会」という商店街があります。この冠新道は、新道と言いながら、歴史は古く 100 年余とも言われています。この通りは当時の地主さまが用地提供して建設されたことから、その地主様のお名前に因んで「冠」新道となったといわれているそうです。次は、道路標識にある尾久橋通りに入ります。尾久橋通りの上には新交通システムの日暮里・舎人ライナーの線路が高架橋となって通っています。日暮里・舎人ライナー(→→→こちら)の高架橋の下を歩きます。(西新井大師へのコースです)【つづく】人気ブログランキング西新井大師を目指して(その3) 冠新道と日暮里・舎人ライナー
2023年03月09日
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尾竹橋通りを歩いていくと、JR常磐線の高架橋が見えてきました。JRの三河島駅の前に来ました。今では三河島という地名は残っておらず、荒川区の荒川、町屋といった地名になります。三河島と呼ばれるになったのは、「三つの川(中川・古利根川・荒川)に囲まれた中洲状の土地であったため」というのが有力な説のようです(→→→こちら)。「徳川家康の関東入部の折、三河国から従ってきた人が知行したため」或いは、「三河国から従ってきた農民を住まわせたため」というのは、江戸時代に生まれた俗説のようです。三河島駅の北側には、「真土小思い出広場」(→→→こちら)という広々とした遊び場がありました。もちろん、名前の通り「真土(まつち)小学校」という小学校は以前あったのですが、廃校となり広場になったのですが、いずれここには再開発ビルが建つ予定だそうです(→→→こちら)再び尾竹橋通りを北上して、明治通りとの宮地(みやち)交差点に着きました。この交差点、明治通りと尾竹橋通りと道灌山通りなどが交差する6差路の大きな交差点です。ここからは明治通り沿いを歩きます。(西新井大師へのコースです)【つづく】人気ブログランキング西新井大師を目指して(その2) 三河島と真土小思い出広場
2023年03月08日
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2023年2月5日、稲荷神社で初午祭が行われた日、JR東日本主催の駅からハイキング「西新井大師を目指して、日暮里・舎人ライナー沿線の下町商店街巡り」に参加してきた報告です。出発は、ここ日暮里駅です。そして、駅前にある鷹狩り装束の太田道灌の騎馬像「回天一枝」とそして、鷹狩に出た太田道灌がにわか雨にあい、立ち寄った農家の娘に蓑を乞うたところ、娘は和歌(「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ悲しき」)とともに山吹の一枝を渡したのみで蓑を貸してくれなかった「山吹の里伝説」。その山吹の花を道灌に捧げた少女の姿をした「山吹の花一枝像」に見送られて、この商店街を歩いていきます。「日暮里繊維街」(→→→こちら)です。しかし、荒川区って銅像が好きなのか、繊維街の道沿いに、笛を吹く少女の銅像(響(echo)という題名です。)があったり。よくわからない形状の「豊穣の門」という石の彫刻もあったりします。この商店街は、プロ、アマチュア問わずファッション・手芸・ものづくりを楽しむ人たちが材料を探しに訪れる街として有名ですね。ここも布地屋さんのようです。近年は海外の人も多く訪れているそうで、このお店の店主もインド系の外国人風でした。通りの名前としては日暮里中央通りというのですね。そして尾竹橋通りに出ると、今度はこの尾竹橋通りを北へ向かって歩きます。(西新井大師へのコースです)【つづく】人気ブログランキング西新井大師を目指して(その1) 日暮里駅繊維街
2023年03月07日
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JR山手線御徒町駅近くにある銭湯「燕湯」(→→→こちら)です。開業時期は不明ですが、店主が新潟県の燕三条地方出身だったため「燕湯」という屋号になったとそうです。普通、銭湯は午後3時半くらいから営業ですが、ここは朝6時から営業しています。これは秋葉原駅の辺りにかつてあった野菜市場や上野駅まで出かけてきた行商など、夜中から早朝まで働く人々に向けて早朝営業をしていた名残だそうです。でもここで働いているとお昼休みは交代制ですかね。燕湯さん、登録有形文化財だそうです。というのは、浴場のなかにあるペンキ絵の横にある岩山が、実際に富士山の溶岩で造られており、現在では富士山が国立公園となって溶岩などの岩石を持ち出すことは当然できないため、大変貴重なものであるという理由だからとか。人気ブログランキング登録有形文化財の銭湯
2023年01月04日
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亀戸天神社の御鳳輦渡御祭 (ごほうれんとぎょさい)が8月27日に行われました。御鳳輦渡御祭は4年に一度の大祭の時に御鳳輦を初め平安朝絵巻を再現した華やかな長い行列で氏子町内を巡ります。行列の先頭は玉串を持った神主さんです。その後ろに続く行列です。獅子頭を乗せた山車が続きます。皆さんマスクをして感染対策には気を配っていますね。馬にまたがっているのは宮司(神社の代表者)なんでしょうか。天神様ということなので、牛は欠かせない行列ルンバーですね。牛に引かれている後ろの乗り物が御鳳輦(ごほうれん)、天子や高僧など乗り物といわれています。行列の最後は馬車です。お神輿を担いだ都内でも多くありますが、御鳳輦は都内でも亀戸天神社だけかもしれませんね。人気ブログランキング亀戸天神社御鳳輦渡御祭
2022年08月28日
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開業して10年を迎えた東京スカイツリー。その周辺にある、ちょっと目立たない、マイナーな場所を紹介しています。押上駅から北十間川沿いを東に向かって歩いたところにある十間橋から見た東京スカイツリーです。ここは逆さスカイツリーが楽しめる場所として、結構、知られたメジャースポットかもしれませんね。向こうに見える西十間橋からも水鏡に映るスカイツリーが見えますが、こちらから見たほうがスカイツリーの全体が水鏡に映っていいと思います。スカイツリーと水鏡に映る逆さスカイツリーを同時に撮影しようとしましたが、持っているレンズでは全部は写せませんでした。ということで、スカイツリー周辺にあるマイナースポットを中心に紹介してきました。今度スカイツリーに遊びに行かれることがあれば、参考にしていただければ幸いです。【了】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その17) 十間橋から見るスカイツリー
2022年07月21日
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押上駅たかくにある児童公園「わんぱく天国」(→→→こちら)です。敷地は広くないですが、「わんぱく砦」「わんぱく広場」「やすらぎ広場」の3ゾーンに分かれた園内で、ターザンロープ、畑、池、工作室等といった施設があって、楽しく遊べそうな施設です。ここで遊んで、ルールを守って、腕白でもいい逞しく育って欲しい。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その16) わんぱく天国
2022年07月20日
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本所高校の前の桜橋通りを、スカイツリーのある押上の方へ歩いていくと、東武鉄道の本社があります。スカイツリーが出来る前は、とうきょうスカイツリー駅(旧業平橋駅)の近く、今の東京ソラマチという商業施設のあたりに本社があったのですが、東京スカイツリーの開業にあわせて平成21年(2009)に押上のここに移転してきました。本社の前に「東武館」と刻まれた石碑がありました。これは「旧本社玄関に刻まれていた。初代根津嘉一郎(雅号 青山)書の碑銘」だそうで、「台石は旧本社受付に使用されていた大理石と御影石の一部」だそうです。会社の歴史を背負っているという感じがしますね。【つづく】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その15) 東武鉄道本社
2022年07月19日
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